伝統板・第二

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『般若心経』講義 - 夕刻版

2016/09/05 (Mon) 18:54:20

         *「真佛教の把握」谷口雅春著作集第7巻(P223~273)より

『般若心経』講義~その1(P223~224)

この経は「仏説般若波羅蜜多心経・観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空……」
という聖句ではじまっております。

この『般若心経』という御経は佛教ではどんな宗派でも
皆排斥しないで採用しているところの御経であります。

生長の家でもこの『般若心経』の神髄を実践的に説いているのでありまして、
観自在菩薩というのは観世音菩薩のことであります。

観世音菩薩というと、其の仏像を御覧になって、何かそういう荘厳な仏像として
そこに現れているのが観世音菩薩だと、こう思っている人もありますけれども、
これは御経の表面の意義でありまして、御経の内密の意義 ―― 密義ではありません。


仏教では顕教と言って経典の表面に顕れた意義を説く教えと、
密教といいまして、御経の内部にひそむ秘密の意義を説く教えとがあるのであります。

秘密というのは内緒にしてかくしてあるという意味ではないのでありまして、
表面に現れていないところの奥深いところの内部的な意義を知り、それを実践する
 ―― これが密教であります。

この観世音菩薩というのも、内部的の意義即ち密教的にみますと、
これはそういう仏像ではないのであって、皆さんご自身が観世音菩薩なんであります。
みんな観音様なんですね。

観世音というのは、世音(せおん)すなわち世の中の音を観ずるのです。
「世音」というと人々の心の響きです。
人々の心の響きを「観ずる」というのは、肉眼でみるのじゃなくて、心の眼でみるのですね。

心の眼で人々の心を観じて、その心の姿の儘の姿に顕れる菩薩(大士)というのが、
観世音菩薩であります。

この菩薩は『観音経』にあります通り、相手の心の姿にしたがって三十三身に身を変ずる
というわけで、どんな姿にも、心のままに顕われるのであります。

必ずしも三十三種の身には決っていないのであって、
あるとあらゆるどんな姿にでも顕れて、衆生を済度なさる、

これが観世音菩薩であります。

           <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その2 - 伝統

2016/09/06 (Tue) 19:19:33

『般若心経』講義~その2(P224~225)

衆生の中には「自分自身」も含まれていまして、
自分の前にあらわれる人々の姿を自分の心の姿だと観ずると
自分が済度されるのであります。

皆さんが観世音菩薩で観察自在であって、
なんでも観察しようと思えば自在に観察することが出来るでしょう。
自己観察をすることが必要です。

鏡に向かって自分が撲る姿をしたら鏡の中の人物は自分を撲(なぐ)ってくるでしょう。
其のように全ての人物があらわれる、ちゃんと観世音菩薩だ。
自分の撲(なぐ)る心がこっちへ向かって現れる。

そうでしょう。
その代わり相手の心の通りにこちらも先方には顕れて見える、
みんな観世音菩薩である。


それによって、“ああなるほど、私の心というものはこういう心をしておったんだ”
という事がわかるのであります。観察自在であってどんな姿にでも自由自在に顕れる、
観音様が皆さんであるわけであります。

           <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その3 - 伝統

2016/09/07 (Wed) 20:30:02

『般若心経』講義~その3(P225~226)

その観自在菩薩が「行深般若波羅蜜多時」というのは訓読みすれば、
「深般若波羅蜜多を行じ給える時には」と読むのですが、

「深」は深遠(じんおん)きわまりなき、「意義深甚の」というような形容で、
「波羅蜜多」というのは、「到彼岸」と訳されておって、六波羅蜜と言って、
彼岸即ち「実相世界」に到るためには六つの行があるのであります。

それの先ず第一が「布施」ですね。布施というと「施し」です。
お寺に何か献金するとか、坊さんに供養をするとか、貧しき人に物を与えるとか、
このように供養するのが布施であります。

その次には持戒です。
持戒というのは「戒律を保つ」と書かれておって、正しき行いをする事です。
殺さないとか、盗まないとか、嘘をつかないとか、夫婦以外の異性と性の交通をしないとか、
欲張らないとか、色々道徳上の禁制がありますが、
そういうような“いましめ”を保つのを持戒といいます。

その次には「忍辱」(にんにく)といって
 ―― 「忍」は「しのぶ」「辱」(にく)は「はずかしめ」という字です。
人の辱(はずか)しめに腹を立てないで、忍ぶのであります。

世間には何もこちらが悪い事をしないのに悪口を言うような人がある。

それをきくと、つい腹が立つ、
「生長の家は人を救っているのに、却って悪口をぬかしやがる」などと思うと、
つい腹が立つものですね。しかしそんなころに腹が立つのではいけないのです。

「忍辱」(にんにく)といって腹を立てずに屈辱を忍ぶ
というのが彼岸に達する一つの修行なのです。
その修行を卒業するまでは其の人の周囲にそんな修行がでて来るのです。

彼岸に達するというのは、実相の浄土なる状態に我々が達することを言うのです。

           <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その4 - 伝統

2016/09/08 (Thu) 18:03:42

『般若心経』講義~その4(P226~227)

我々が善いことをして居(お)って、ほめられたり、表彰されたりしたら、
嬉しいように思う人があるけれども、しかしそれは既に報いを受けたのですから、
善業の蓄積にはならないのです。

行動のエネルギーというものは既に形に顕われたら消えてしまうのは、
物理学上のエネルギーが「仕事」という形に顕われたら消えてしまうと同じです。

あの機関車が石炭をもやして汽車を走らす場合、石炭の燃焼エネルギーが
「汽車を動かすという仕事」という形に現れたならば、そのエネルギーは
消えてしまうのと同じであります。

私たちが善業を行ってそれが賞められるという形にあらわれないまでは、
その善業は潜在エネルギーとして天の倉にたくわえられているのです。

併し善き事をして何か表彰されたり、賃銀をもらったりして
形にあらわれたら、それだけ消えてしまうのです。


そうしたら、ほめられないでいて、かくれていい事をしている方が、
天の倉に貯えられたところの徳という事になるのであります。

更に善い事をしながら悪口を言われたならば、天の倉に貯えられたところの富が、
また更に利子がついたという事になります。

だから、辱(はずか)しめを受けた時には
「ああ有難うございます。天の倉に貯えられたところの陰徳に利子がつきました。
有難うございます」と感謝すれば好いのです。

そしてほめられた時には、「困ったなあ、折角天の倉に貯えておいたのに、
ちゃんと払いもどしがあって、貯えられた富が消えた」と思って
更に人に隠れて善業を積むようにすれば好いのですね。

           <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その5 - 伝統

2016/09/09 (Fri) 18:25:48

『般若心経』講義~その5(P228~229)


布施・持戒・忍辱の次には、『精進』というのがありますね。

精進というのは、「魚を喰わん」というだけの事じゃないのです。
精進というのは、毎日、日々、精魂をつめて進んでゆくという事ですね。
毎日、一歩でも我々が向上し進歩してゆくようにつとめるのが、本当の精進です。

例えば生長の家の誌友なら毎日曜日には本部道場とか教化部または誌友会に来て、
人々の体験をきいたり、聖典の疑義をただしたりして多少とも今迄よりも何か魂に得る
ところがあって進んでゆくという事を実際に実行しなければいけないのです。

古い誌友のなかには
“もう生長の家はわかった。人間神の子、環境も肉体も心の影。
縦の真理も横の真理も皆、分かっておる”斯う思って向上の努力をしない人がありますが、
いくらわかっておっても、それだけでは駄目であります。

「汽車は石炭を燃やして水を蒸気にしたら走るんだ。わかった」と思って、
唯そう思うだけで、石炭を燃やさず、汽車を走らす努力をしなかったら、
汽車は運転しないのであります。

汽車を前進させようと思ったら、毎日ボイラーをたいて、蒸気を拵えて、
その力によって汽車に人を乗せて前進させるということによって
善き行いが次々と重なってゆくということになるのであります。

汽車でも人間でも同じことで、実践することが大切で、それが精進であります。


それから禅定であります。
仏教では坐禅をくんで心静かに実相を観ずることを禅定というのです。
布施・持戒・忍辱・精進……禅定これで5つですね。

           <感謝合掌 平成28年9月9日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その6 - 伝統

2016/09/11 (Sun) 18:11:35

『般若心経』講義~その6(P229~231)

六波羅蜜といって、到彼岸の道の六つ目に「般若」があります。
般若というのは智慧であります。

智慧は知識じゃないんです。
英語でノ―レジ(Knowledge)という知識じゃないのであって、
ウィズダム(Wisdom)といわれている智慧であります。
叡智ともいいますね。「般若の智慧」です。

「知識」というものは、五官の感覚面になんでも感受して、
それを分析したり綜合したりして、色々の事を覚えるのが知識である。

けれども、「智慧」というのは、“中”から出てくる直観智である。
それは分析によって知る知識ではないのであって、
“全体を直観によってズバリと知る”智慧であります。

「智慧」がなかったら、いくら「知識」があっても、「芸術」もわからんし、
人間の「生命」もわからん、「宗教」もわからんという事になるのであります。


ここに美しい花瓶があるですね。(演壇の横に置かれてある花瓶を指して)
花瓶の美しさを知ろうと思ったら、花瓶全体をズバリと知って、
それを美しいと直観するのでなきちゃいかん。

それが智慧なんです。

ところが分析の知識というのは、“此の花瓶というものは何で出来ているのであるか”
と研究するために、それをこわして、粉微塵にして、なる程これは「鉱物」で出来ている、
何々と称する鉱物又は陶土の粉末が固まって出来ているのであるとわかって、

それから元のように其れを繋ぎ合わして、「なるほど分かった」と知りましても、
もうこれでは花瓶の美は元へ帰らない、美はころされてしまって本当に分らない
ということになるのであります。

知識というものの限界が其処にあり、宗教が科学と異なるところも其処にあります。


人間を知るのもそうですね。“人間とは如何なるものか”というわけで
解剖して腸(はらわた)を出したり、皮膚を薄片に削って顕微鏡でのぞいて見て
、血みどろの肉体をもう一遍縫い合わしてみて「人間とはこんなものだ」とわかっても、
人間の美しさというものも、人間の生命というものも判らないのであります。

「人間」というものを知ろうと思ったら、
人間そのものの全体をズバリと知らなければいかん!!


この「般若の智慧」というのは、此の「其のものズバリの智慧」だ。
毀しも、分析もしないで、そのままをズバリと生命全体を掴んで知る、
というのが「般若の智慧」であります。

この“そのもの全体”を知る般若の智慧によって初めて
実相の世界に到る事が出来るのです。

すなわち全体をそのまま直観把握する智慧によってのみ、
実相の世界即ち彼岸に到る事が出来るので、
これを六波羅蜜の最後の真打(しんうち)のところに置いたのですね。

こうして般若波羅蜜というのは、
六波羅蜜の中でも一番深遠極まりなきものであるから深いという形容の字をつけて、
「深般若波羅蜜多」とこう書いてあるのです。


           <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その7 - 伝統

2016/09/12 (Mon) 18:44:25

『般若心経』講義~その7(P231)

観世音菩薩が深般若波羅蜜多を行じ給える時というのは
要するに、生長の家の皆さんが神想観をせられた時というのに当るのです。

神想観というのは禅定と般若とを一つにした修行であります。

「般若の智慧」によって「実相とは如何なるものか」と
実在の本当の姿を“そのものズバリ”と知って、
それを静かに坐禅して瞑想するのであります。

このように、神想観は、六波羅蜜の中で
智慧波羅蜜と禅定波羅蜜とを一つにしたものでありますから、
神想観を修する功徳は素晴らしいわけです。

           <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その8 - 伝統

2016/09/13 (Tue) 18:09:03

『般若心経』講義~その8(P231~232)

さて、「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」
すなわち観世音菩薩なる皆さんが此の神想観を行じ給うときには、
どのように念じられるかという事が次に書いてあるのです。

昔からこの『般若心経』をよんだら病気が癒るという。
病気の癒るのは新興宗教でなくても癒る事実がある。

ところがなおらん人もある。なおらん人もあるけれども、
「照見五蘊皆空」となるとなおるのが当り前なのであります。

『般若心経』の本当の意味を知らないで、五蘊皆空と知らなかったから、
癒らないでも不思議はない。それで佛教の本当の意味がわかったら、
『皆空』だから病気も空であるから消えるのが当り前だという事になるのです。


「蘊」というのは“かさなる”という意味の字ですね。
蘊蓄をかたむけるという熟語もあって、沢山かさなった智慧が、「蘊蓄」ですね。

また「蘊」には「波動」という意味もあるのであります。
五蘊というのは、この「波動」が重なって色、受、想、行、識の
モヤモヤの蘊(かさなり)ができているのを謂うのであります。

すべて皆さんが心で見たり聞いたり思ったりしている事物は
みんなこの五蘊の中に入るのです。

「色」というのは波によって或る象(かたち)が現れているのをいうのであります。
波によってある形象が現れているのは皆「色」であって、
必ずしも肉眼で見える物だけに限らない。

天人の體なども色身でありますが、肉眼には見えません。
肉眼に見える物質は、その「色」の一種であります。
だから大體今までの人は「色」とは物質であると、解釈しております。

           <感謝合掌 平成28年9月13日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その9 - 伝統

2016/09/14 (Wed) 19:35:15

『般若心経』講義~その9(P232~234)

すべての存在は「色法」と「心法」とにわけることができます。
「色法」とは物質というものですね。
「心法」というのは、受想行識の四つであります。

此の場合の「法」とは単に漠然と「もの」とか「存在」とかいう意味であります。
だから「色法」というのは「物質というもの」という位の意味であります。
色法即ち物質がある形をして現れておっても、それだけでは分からんので、
この「受」という受ける働きがなくちゃならん。

「受」というのは「感受器官」であります。
眼耳鼻舌皮膚というような五官ですね。
五官で「色」の波動を受取って心の面にうつし取るのです。


併し、ただうつっているだけでは何かわからんのです。
写真機のピントガラスに映像が映っていても、写真機自身には何の映像かわからんのです。

それは何であるかということは想う働きによって、
初めて“これはリンゴである、美味しいな”という事がわかるのであります。
これは「想」の働きですね。

リンゴはリンゴの如く、赤い色をしているのである。
蜜柑は橙(だいだい)色をして凸凹の(でこぼこ)の皮をしているとか、
いろいろわかるのが「想」のハタラキであります。

「想」がなければ赤い色も橙色もないんですね。


「いや私はたしかに赤い色を見たから赤い色はある」と
思っておる人があるかも知れませんけれども、
あれはエーテル波動であって、本来無色の波ですね。

その無色の波が一万分の八ミリ位の波長の振動をしている時に
我々が「想」即ち心の想いが赤い色を思い浮べるのであって、
エーテル波動そのものは、どこまでも無色であって、色もないし形もないのです。

ただ波ばかりが蘊(あつま)っているのです。
その波である物質(色)を受ける働きが「受」であって感覚器官であります。

しかしその受けて来たところの波の種類を立体的に心で寄せ集めて考えて、
“此れはどういう色のどういう形のものである”と思う働きが、
これが、「想」であります。


           <感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その10 - 伝統

2016/09/15 (Thu) 17:51:52

『般若心経』講義~その10(P234~236)


それから、例えば“これは美しい花である”という「想」が起こると、
その次には「行」という心のハタラキが起る。

“この水仙の花は美しいから一本手折って往って一輪挿しに活けましょう”
という意思する働き、行ずる働き、というものが起こってくる―これが「行」ですね。

こういう一連の心の働きが、別々で統一がなかったら精神分裂病みたいなもので、
どうにもならない。それでその奥に、此れらの心の働き全体を統一するところの、
「統一意識」というものがなければならない。

「我」という自覚によって統一せられております。
この統一意識を「識」というのであります。

それで受想行識のうち、色は「色法」、あとの四つは「心法」と言います。
「心法」というのはこの場合「心というもの」という意味にとれば好いのです。

これで五蘊の説明を終りましたかがこの五蘊が「ある」と見えているけれども、
「皆空」(かいくう)すなわち「皆空」(みなくう)であって本来無いものである
と般若の智慧に照らして、観世音菩薩実相を見たまうのであります。

これを「観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行じたまうときには、、五蘊を皆空と照見したまう」
というのであります。

では、心経の原訳を書いておいて説明いたしましょう。


観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、
照見五蘊皆空、度一切苦厄、舎利子、色不異空、
空不異色、色即是空、空即是色、受想行識亦復如是、
舎利子是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、
不増不減、是故空中、無色無受想行識、
無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、
無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明尽、
乃至無老死、亦無老死尽無苦集滅道、
無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、
依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、
無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、
究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、
得阿耨多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、
是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、
能除一切苦、真実不虚、故説般若波羅蜜多咒、
即説咒曰、掲諦、掲諦、波羅掲諦、 波羅僧掲諦、
菩提薩婆訶、 般若波羅蜜多心経。


           <感謝合掌 平成28年9月15日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その11 - 伝統

2016/09/16 (Fri) 18:43:23

『般若心経』講義~その11 (P236~237)

「観世音菩薩が深般若波羅蜜多を行じたまう時には、五蘊を皆空と照見したまうのだ」
と釈尊が説き給うたのです。

其の観世音菩薩とは諸君自身でありますから、皆さんが神想観をするときに、
“我れ今五官の世界を去って実相の世界に入る”というのは“五官の世界”
―― 五蘊によってみとめられる世界を去る―― 
すなわち“五官の世界”というのは《ない》のであると観ることです。

神想観をするときに肉眼をとじるのは“五官の世界”は《ない》とそれを見ないためです。
瞼をとじて、見えるのを防ぐのです。
五官の世界を去ることによってのみ、初めて実相の完全さを観ることができるのです。


この観世音菩薩の「般若波羅蜜多の行を実行」する方法が
『新編 聖光録』の中に書いてある“蓮華日宝王地観”という観行であります。
これを行じていただくのが「五蘊皆空」を悟るための近道であります。

先ず「観世音菩薩五蘊皆空と照見す」と心に唱えまして、
「物質はない、物質はない、物質はない。肉体はない、肉体はない」と
繰返し心の中で唱えるのであります。

その中(うち)に、その物質も肉体も何にもない中心に
霊妙きわまりなき自己」が目覚めて来るのでありますが、
それは又のちのこととしまして、今度は『般若心経』の次の句であります。

           <感謝合掌 平成28年9月16日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その12 - 伝統

2016/09/17 (Sat) 18:31:34

『般若心経』講義~その12 (P237~239)

「五蘊皆空と照見して」それがどうなるかといいますと、「度一切苦厄」とあります。
五蘊皆空と照見すれば「一切の苦厄を度す」ことができるわけです。
一切即ちすべての苦しみや災難をみな度(たす)けることができるというわけであります。

そんなことで何故救(たす)かるかというと、
「物質がある」と思ったり「心がある」と思って居ったならば、
我々はそれにひっかかって、一切の苦厄からまぬがれることが出来ないからであります。

「物質はない、肉体はない」という大真理を直観の智慧によって照らして観たときに、
はじめて、一切の苦しみ悩みというものが、根拠のない妄想の上に築かれたものに過ぎない
ということがわかって、それから解放され、救われると、こういうことになるのであります。


皆さんが『生命の實相』を読んで“病気が治った”という人もあれば、
“治らぬ”という人もあるが、それよりも先ず「物質はない」ということを
自覚することが必要であります。

「物質はある」「五蘊はある」ということが病いの《もと》なんです。
病いの《もと》を断たないで、「治らぬ」などと苦情を言って見ても仕方がありません。

物質がないなんて、そんな馬鹿なことがあるか、あるじゃないか
―― なんていう人がありますけれども、だんだん物理学が進歩して参りまして、
「物質がない」ということが、精密な実験と測定とで分かって来たのであります。

物質を細かく割けると分子になる。
分子を細かく割けると原子になる、原子を又細かく割けると原子核と電子とになる。

此の原子は、もう此れ以上には分割できない最後の単位になる粒子だと思って、
“原(もと)の小体”という意味で「原子」と名付けられておったら、
原子が又くだけるということがわかってきて、原子爆弾というものが発明されて、
吾々はその最初の犠牲者になったのでありますが、

この原子の中核体は、以前には「陽電体」などと訳されて一つの陽電気を帯びた
塊(かたまり)だと思われていましたが、これは“陽子”と“中性子”と“中間子”とが
集まっているものであるということことがわかってきました。

これらの中性子、陽子、中間子・・・電子・・・などというものを総括して
素粒子と言っているのでありますが、そういう素粒子というものが集まって、
「物質」というものが出来ているものであるということが分かって来たのです。

           <感謝合掌 平成28年9月17日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その13 - 伝統

2016/09/18 (Sun) 18:45:25

『般若心経』講義~その13 (P239~240)

素粒子の「素」(そ)は「素」(もと)という字で、一番《もと》の
一番小さい「粒」の「小体」だという意味で「素粒子」と言われているのであります。

ところで湯川博士が「中間子」というのを発見してノーベル賞受賞者となり、
一遍に日本の物理学界に大いに気焔をはいたんであります。それ以来、
いろいろの中間子の仲間みたいな微粒子が続々発見されて来まして、

素粒子のグループで、いろいろのもの ―― 反陽子というようなものまで発見され、
まだまだ全部がわかり切っておらんのですけれども、その素粒子が集まって
物質はできているということがわかってきたのです。

しかも其の素粒子は一応は、《ある》というけれども、
それはホンの瞬間《ある》のであって、じきに消えてしまったり、
又突如として生れて来たりすることがわかったのです。

ある素粒子の如きものは、何億分の1秒の間しか存在しないですぐ消えてしまう。
また或る素粒子は何万分の1秒しか存在しないですぐ消えてしまう。

消えたと思うと又、「無」の世界から別の素粒子が“ひょっこり”出てくる
というような有様であって、結局、素粒子というものは、「無」にかえるものであり、
本来無いものであるということがわかったのです。

そして「無」の世界から《ひょっこり》出来て、又「無」にかえるのが素粒子であって、
その素粒子の多くのものは何億分の1秒しか存在しないような頼りない、
《はかない》存在であるのです。


そういうハカナイ存在の中で割合に長びいて存在しているやつが我々に「物質」として、
見えているだけであって、結局「物質」というものは「無」から生じて
「無」にかえるべきものであって、本来「《ある》」ように見えているけれども、
それは幽霊みたいなもので、《ある》かと見えつつ《無い》のであって、
ドロンと消えてしまうものであるということが分かったのであります。

           <感謝合掌 平成28年9月18日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その14 - 伝統

2016/09/19 (Mon) 18:24:38

『般若心経』講義~その14 (P240~242)

それでこの“色(物質)は空に異ならず”というわけで
「色不異空」と書いてあるのであります。

「空不異色、色不異空」 ―― 空は色に異ならず、色は空に異ならずでありまして、
「色」即ち物質というものは在るように見えているけれども、「空」と同じものなのです。

「無(む)」が現れて「物質」に出ているのであるから、
「物質」と言ったら「無」に異ならずということが分かって来たのであります。

それが本当に分かって来たら、平和の原理というものも自ずから分かるのであります。
物質が本来「無」だとわかれば、領土だとか、財産だとか、富だとか、侵略だとかいった
そんなものは、実につまらない、何の価値もないとうことが分かる筈であります。

物質を《ある》の如く思うからこそ喧嘩をしたり、殺し合いをして奪おうとするんです。


だから「色不異空」 ―― “色(即ち物質)は空に異ならず”空なる“何にもないもの”が
“物質”と同じなんだということがわかればいいのであります。そして更にそれを明らかに
するために、「色即是空」という言葉が書かれているのです。

“物質は即ち是れ空である”とね。
「即ち」というのは「そのままで」という意味であります。

例えば「即身成仏」という、「そのままの身」が「成仏」である
 ―― 既に成れる仏であるというのです。

これと同じで「色は即ち是れ空」というのは、色そのままに空なのだ。
物質がこわれてから「空」になるのじゃない。物質《そのまま》で空なんだ、
《ある》と見えている《そのまま》でないんだ。

次には「空即是色」で、「空無そのままに物質なんだ」と書かれているのであります。
肉体も物質も何もないのであります。其の《無いそのままに》私たちはここにいるのです。
それがわかるとすばらしい!


「物質も肉体もないそのままに此処に自分がおる」とわかったら、
ここに居る自分は物質じゃないということがわかる。

そこに「生命(せいめい)の新しき発見」ということが出来てくるのであります。
自分自身を見直すということなのです。
新しき「霊なる自分」を再発見することになるのです。

これを復活といい、新たに生れるともいうのです。

物質があると思っている間は、生命の発見などはあり得ないのです。

「此処に生きている自分は、空そのままに物質であり、空そのままの肉体であり、
肉体そのままに空だ」とすると、
ここに生きているものは一体なんじゃということになると、

「此処に生きているのは物質に非ず、肉体にあらず、仏である」と分かる。
そして一切の縛りがほどかれた状態があらわれるのであります。

仏というのは「ほどける」ということであります。


           <感謝合掌 平成28年9月19日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その15 - 伝統

2016/09/20 (Tue) 18:49:25

『般若心経』講義~その15 (P242~243)

それで、「色即是空、空即是色」の次に、
「受想行識も亦復(またまた)是(かく)の如し」と書いてあるのであります。

五蘊の説明のときに申しました色受想行識のうち「色」は既に説明しましたから
今度は「受想行識も亦復是の如し」と、受想行識もまたまた皆これ空であると
言い切ったのです。

色(物質)も空であるが、「受」すなわち感覚器官も、そのままで空無なんだというんです。
また「想」すなわち「あると思う想い」もそのままで空無なんだというんです。

更に「行」という意思行動も空無であり、「識」すなわち意識の主体たるところの
「わしがわしが」とがん張っとるところの「わし」がというそんなものは空無だ。
そんなものは《ある》が如く見えながら、そのままに《ない》のだというのです。

是で完全に物質我が否定せられてしまったのです。

それなら何があるかというと、天地にみちふさがるところの
大生命、宇宙大生命だけがあるんだということがわかるにです。

これで物質はない、肉体はない、
受想行識亦復是くの如く無いことには変りはないというのです。


           <感謝合掌 平成28年9月20日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その16 - 伝統

2016/09/21 (Wed) 18:03:05

『般若心経』講義~その16 (P243~244)

「舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減」 ―― 舎利子というのは、
釈尊の十大弟子のうち智慧第一と言われている舎利弗(しゃりほつ)のことです。

「舎利弗よ」と呼びかけて、「これが諸法の空相だ」と言われたのです。
諸法というのは「諸々(もろもろ)の現象存在」です。

「諸々の現象存在」は空そのままにあらわれている相(すがた)である。
あるが如く見えているけれども空の相(すがた)だ、
幻のようなものだから生じたように見えても生じていない。
滅するように見えても滅すべき何物もない。

だから不生不滅であって、未だかつて生ぜず、滅せずです。
すなわち不生なんです。


人間は母の子宮からオギャアーと出てきたようだけれども、
実はそのオギャアーと一遍も出てきたことはないのである。

それはテレビ、或いは映画に映っている姿みたいなものであります。

あのスクリーンにうつっている人間の姿は、銀幕に出てきたように見えているけれども、
あれは一遍も銀幕に生れ出てきてはおらんのであって、あれは影がうつっているだけだ、
だから不生なんだ。

例えば、あの米国映画の西部劇で、ピストルに射たれてひっくりかえって
死んだと見えていましても、あの映画俳優は一度もピストルに射たれたことも
死んだこともないのであるから、不滅なんだ。だから不生不滅だ。

こう言うように諸法は、すべての現象は、
不生であって不滅である、というわけなのであります。

           <感謝合掌 平成28年9月21日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その17 - 伝統

2016/09/22 (Thu) 18:49:03

『般若心経』講義~その17 (P244~245)


それから又、「不垢不浄」というのは、「けがれず、きよからず」ですね。
吾々は現象界のものを、きれいとか、きたないとかいうているけれども
そんなものはありゃしない、空の空なるものなんです。

“ああ美人だ、あの人と結婚できなかったら死ぬ”などといったって、
何処(どこ)に永久の美人がある。

60年間も美人でつづく人は滅多にない。
皆《しわくちゃ》になってしまう。
その《しわくちゃ》はきたないといったって、そのきたないものもないのである。

あれは唯、映画のような影である。だからやがて消える。
そんなものはない、あれは単なる影なんですから《きたない》といっても
《きたない》ことはない、

《きれい》といっても《きれい》なものもない。
だから不垢不浄であって不生不滅である。

そういうふうに観世音菩薩が深般若の行をせられるときには観じられるのだと
釈尊が此処で説いていられるわけであります。


だから、実相人間は不生であり不滅であり不垢不浄だから
老衰したように見えても死んだように見えても、悲しいこともなにもない。
映画が切れたのと同じである。

映画が切れたら現象の最期である。
そのときには、映画館から出るんですよ。
映画館は「現しの世界」のたとえであります。

吾々は映画館の中でスクリーンに映った姿を見て本物だと思って、
いろいろやっているんですね。或いは宝くじに当って財産が増えたと思っている人も
あるんだけれども、これは不増であって増えた事もないのである。

“ああ、税金取られて減った”と思っておる人もあるけれども、
不減であって、減ったこともないのである。

だから不増不減というのです。

だから税務署から徴税令書が来ても恐ろしいこともないのです。
いくら税金をとられても何も減らないのです。
その代わりいくら月給を貰っても何も増えないのです。

何もクヨクヨ思うことはない、増えもしなければ減りもしない、まあそういうものなのです。

なかなか『般若心経』は気の利(き)いたことが書いてありますね。

           <感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その18 - 伝統

2016/09/23 (Fri) 18:14:46

『般若心経』講義~その18 (P245~247)

「是故空中、無色無受想行識、無眼耳鼻舌身意」
 ―― 是故というのは、「是の故に」ということです。

この故に空(くう)の中には色(しき)は無い
 ―― すべてのものが空であるから色(物質)はない。
受想行識というものもないのである。

更に「無眼耳鼻舌身意」と書いてある。中々徹底しております。
「眼」(げん)とは眼(め)です。「耳」(に)は耳(みみ)です。
眼も耳も鼻も《ある》ように見えていても無いというのです。

「舌」(ぜつ)は舌(した)、「身」(しん)は身(からだ)で、
皮膚の感覚や内臓の感覚の本体になるもの、そんなものは「無」だというのです。

そして「無眼耳鼻舌身意」の最後の「意」は「心」です。
わしがと思う「心もない」というわけです。

「心を観ずるに心なし」であります。


「無色声香味触法」 ―― 更に色声香味触法というものもないのであると
重ねて強調されているのであります。

「色」というのは、この場合は色(いろ)の感覚ですね。

目で感じられる「色」というものも耳で感じられる声というものも、
鼻で感じられる香(におい)というものも、或いは舌で感じられる味わいというものも、
身で触って見て感じられるビロードのような美しい肌の感触だなんて言っても、
そんなものもありゃしない。

そして意識の対象となる「法」即ち物質宇宙の一切の存在も本来無いのだというのです。


「無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明尽」」 ―― 大分難しいですね。
科学とは大分ちがいます。

「眼界」即ちこの眼で見る世界も、意識で感ずる世界も、
そんなものはことごとく皆無であると否定したのであります。

「眼界」乃至「無意識界」の乃至は「一乃至六」というように、
中間の二から五までを省略してあるので、目でみる世界、耳できく世界、
鼻でかぐ香(におい)の世界、舌で感ずる味の世界、身体(からだ)で感ずる触角の世界、
意識で感ずる「法(もの)」(存在)としての世界も、
ことごとく無であると綜括的に否定しているのであります。

こうして、『般若心経』は、物質にも、心にも感覚にも存在にも、
その頭に「無」をつけて否定し尽したのです。


生長の家は「ないものづくし」だと、誰か雑誌に悪口を書いておりましたが、
『般若心経』が「ないものづくし」なのです。

目も耳も鼻も舌も身体もない、ズンベラボウだ、そのズンベラボウもないんだと、
一切を否定し尽したのです。こうして何もないことになったら自由自在であります。

何か《ある》と思うから、心が、その「ある」と思うものに引っかかって、
自由自在を失うということになるのであります。

だから、この『般若心経』はすばらしいものであります。

           <感謝合掌 平成28年9月23日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その19 - 伝統

2016/09/24 (Sat) 18:55:52

『般若心経』講義~その19 (P248~250)

<迷いは無いということ>

さて、その次には、「無無明、無無明尽」とありますが、
「無無明」というのは無明(まよい)というものも無いということであります。

それにもう一つ「無無明尽」と続けて無明もなければ、無い無明(まよい)だから、
無いものは無いのであって、これから更(あらた)めて無明の尽くることもないと
徹底的に「迷い」の存在を否定したのであります。

「先生、私は心が迷うて仕方がございません」と言って悩んでいる人がありますね。

「病気は心が迷っておるのだ」と言いますと、「その迷いをどうしたらとれますか」と
言って悩むのでありますが、「迷い」なんてないんだということは、
この熟語の構成を見ても分かるのであります。

すなわち、「無明(むみょう)」というのは、「あかるさが無い」と書いてあるのであって、
「暗さがある」とは書いてないのであります。

「無明(むみょう)」即ち「迷い」とはあかるさがないというマイナスに過ぎないので、
プラス的な力ではない。だから無明は暗(やみ)みたいなものであります。


暗(やみ)も肉眼でみたらずっと空間一杯にひろがっているように見えるでしょう。
夕方になると、だんだん、だんだん暗が濃くなって、暗の体積がずっと増えて、
一杯に闇がひろがって見えるのですけれども、それは「光が《ない》」という
「無い状態に」にすぎないのであります。

だから暗(やみ)があるという人は、「そんならその暗をミカン箱につめて、
夏のあつい時分にその箱を開いて、暗を出して其処を日陰にすればさぞ涼しいだろう」
と思って、ミカン箱の中の暗を出そうと、日中に開いてみたら、暗はないのであります。

暗はいくら箱に詰めて保存したつもりになってみても、そんなもの“ない”のですから、
正体を暴露してみたら「無い」のであります。


「迷い」というのもそれと同じことで、無明(むみょう)即ち「明かなる智慧がない」
「智慧のマイナス」の状態」 ―― 「無い状態」を「迷い」というのであって、
それは「《ある》状態」ではないのであります。

「ある」ものなら、それをどうしたら尽きるとか色々考えて、
その「迷い」をどこかへ突き出して捨ててしまったらいいということになるのですけれども、
「《ない》迷い」なんだからどうしようもない。

無いものは無いのです。

それを「ある」と思って「無い迷い」と、独り相撲をとっているのが
悩んでいる人の状態なのであります。それはまったく夢を見ているのと同じことです。
夢ならさめなきゃ仕方がない。醒めるほかに解決の道がない。

「ない」ものを「ある」と思って、「ない」ものと独り相撲をとっても仕方がない。
無い迷いは《ない》んだと廓然(かくねん)と心の中にその迷いをつかまなくするほかに、
迷いがなくなるという道はない。

あるものなら、つかんで捨てたらなくなるけれども、《ない》ものだから、
無い迷いを捨てようと思ってもつかんでいる限りはなくなるということもないのであります。

           <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その20 - 伝統

2016/09/25 (Sun) 18:27:09

『般若心経』講義~その20 (P250~254)

慧可禅師という、後に達磨大師の第一番の弟子になった偉い坊さんがありますが、
その人が達磨大師の弟子にして貰おうと思って、寒い寒い冬の、雪が降りしきって
屋根の高さまでも雪がつもっているような時にやって来て、

「どうぞ先生、私をあなたの弟子にして下さい」

と言ったのであります。

すると達磨は、

「お前なんか弟子にしてやる資格がない。出て行け」

と言って、入れてやらなかった。

随分、昔は宗教家に権威があったし弟子にして貰おうと思ったら、
その位だったのであります。
それ位の真剣さがあって、受け取る真理も深いものが受けられるのです。

現代では教えを受けるのに、道場を暖房装置で暖めて置いて貰って、先生の方から、
「どうぞ来て下さいませ。ただで聞かしてあげますから」なんて、
夜店の香具師(やし)みたいなことを言っているから、教える方も受ける方も真剣さがない。

「与えただけのものを受取る」というのが心の法則ですから、
真剣な心を出さねば真剣な真理の深いところは受けられない。

道を求めるというのは、「朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり」
という古言(こげん)があるように、道を聞くためには、生命(いのち)を投げ出して、
肉体なんて本来ないんだから、その肉体の生命を投げ出して、

今此の一瞬に「真理」を知らしていただいたなら、一切のものを抛(なげう)ってもいい、
というほどに全生命を賭(か)けなければならない。


慧可は雪の山道を苦労艱難してやっと辿りついて、
「どうぞお弟子にして下さい」というと、
「お前なんか弟子にしてやる資格がない。出ていけ」と言われた。

そこで慧可禅師は、「慧可の断臂(だんぴ)」と云って有名な話でありますが、
自分の臂(ひじ)を切って血みどろの片腕をもぎとってその覚悟の程を示した。

「私はこんな肉体が救われようと思ってそれで弟子になりに来たのではございません。
真理を知れば此んな肉体などどうなっても好いのです」というわけで、
腕を切って血みどろの腕を達磨大師の前に差出した。

それで初めて弟子として入室することが許されたのです。


ところが生長の家に来ますと

「先生、この肉体をなおしてください。治ったらもうきません」という。
心懸けが大分違いますね。

昔の人は腕を一本切り取ってでも真理を知りたいと言った。
ところが今の人は、「肉体さえなおしてもらったら治ったときに真理をやめます」
 ―― まあ、そういうように時代が変って来たのですけれども、

しかし昔の人の行履(あんり)
 ―― というのは、行いの履(ふ)み行った“あと”ですね ―― 

その昔の人の行履というものをよく知って、そのような真剣な気持ちになって
真理を求めなければ、いくら真理を与えられても受取る者の心懸けで、
ごくわずかの真理きり受取れないということになるのであります。


どんなに物が沢山あっても、すべてこちらの受けとる力量に相当するものしか
受取ることは出来ないのが法則であります。

どんなに海の水がたくさんあっても、小さいさかずきを出して汲んだら、
一杯もらったって《ちょっと》しか貰えないでしょう。

四斗樽のような大きな容物(いれもの)をもって来たら四斗貰える、

その人の心境によって同じものを与えられても、みな貰いようが
ことごとく違うということになるのであります。

ここが大切なところでありますね。


まあ、そういうわけで、慧可は自分の譬(ひじ)を切って達磨に差出して、
やっと弟子にしてもらうことができた。

そして禅について勉強しておったのですけれども、
人間が迷うというのがどうしてもわからない。

大体この「迷い」というのはどこから来たのだろう? と思うのです。

本来本法性(ほんらいもとほっしょう=本来、もとから仏の生命<いのち>)で
あるところの人間が、どうして迷うのだろう。

仏なら迷うはずが無いのではないか。
道元禅師もその問題にぶつかって悩まれた。

生長の家の入信者でも時にそう思って悩むのです。

「人間は神の子なのに何故迷うのであるか」 というような疑問が
引っ切りなしに心に浮かんで来て、「人間神の子完全円満」が
最初はわかったつもりだったのが何だか怪(あや)しくなってくるのです。

併しそれを疑問にするようになると大分その人の魂が進歩しておる証拠ですけれども、
そう思わないで落伍してしまう人がある。


ところが慧可禅師もそれが疑問になったのです。
それである日、お師匠さん即ち達磨太子のところへ行ってたずねた。

「先生、私は心が迷うて仕方がございません。
この迷いはどこから来たんですか、どうしたらなくなるんですか。」

「ほう、それは迷いをつかんどるからじゃ。そんなら、そのつかんどる迷いを
此処に出して見い。わしが悟らしてやる」と言われた。

さあ慧可は困っちゃった。

「つかんどる、出して見い」と言われるから、
その無明(まよい)を出して見ようと思って探し廻った。
探し廻ったけれども、とうとう迷いというものはみつからなかったのであります。

そこで慧可は、「求むれども遂に得ず」と答えているのですね。
(探し廻ったけれども、遂に迷いはどこにもございません)という意味です。

「それ見ろ。我、汝の心を安んじ了(おわ)りぬ。」
(もう迷いはないだろう。もうそれでお前悟った。迷いが“ない”と分かればそれが悟りだよ)

まあ、そういうわけで、「迷いは無い」と掴んでいた手をはなして、
カラリとした心になったとき、既に迷いはないのであります。

無い迷いだから今更なくなるということもないということが、
『般若心経』には徹底的に書かれているのです。


           <感謝合掌 平成28年9月25日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その21 - 伝統

2016/09/26 (Mon) 19:00:45

『般若心経』講義~その21 (P254~256)

<老病死が無いということ>

その次には、「無老死、亦無老死尽」と書かれております。
「無老死」というのは、老いて死ぬことはない、というのであります。
そこでまた、「亦無老死尽」と、老いて死することもなければ、
老いて死すことも《なくなるということもない》と書かれているのであります。

「老死」というものは神の造りたまうた実在の世界には、
始めから無いものなのですから、無いものが今更なくなるということはないのです。

譬えばですね、私は「○(ゼロ)」を盗まれたと言っても、
「○」というものは始めから「無い」のだから盗まれようがない。

警察に行って、「今ちょっとスリにすられたんです。
ポケットに入れておいたんですけど《ない》んです。」

「何を盗まれたんだね。」

「あの○というのを入れておいたのですよ。」

「○(ゼロ)なら何も入れておらんのじゃないか。そんな入れておらないものが
盗まれるということはないじゃないか」ということになる。

老死というものは始めから無いのであるから、なくなるということもないのである
と『般若心経』は喝破したのであります。これが本当の真理であります。
だから本当の人間は、老衰して死ぬなんてことはない。

人間が死ぬというのは「感覚」という嘘告きにだまされているのです。
老死という中へは、もう一つ「病」(やまい)も入っているのです。

「老病死無し」というところを略して「老死無し」というふうに書かれているのです。

本当の人間は病むということも本来無いのである。
人間は本来仏の子だから病気はない。


生長の家に来たら病気をなおして貰えると思って来て、治る人もあるので、
生長の家を治病宗教だと思っている人もありますけれども、生長の家は治病宗教じゃない、
『般若心経』と同じであって、無病宗教無老死宗教なのであります。

だから私も若いでしょう。
現象の年齢で言うと数え年はもう65歳ですけれども、65歳ということもないのである、
そのまた無しということもないのである。

まあそういうように否定の否定をしたのが『般若心経』で、
「老死もなければ」「老死の尽くるということもない」ということであります。


           <感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その22 - 伝統

2016/09/27 (Tue) 18:43:39

『般若心経』講義~その22 (P256~258)


次に「無苦集滅道」とあります。
「苦集滅道」ということもないのであるという訳であります。

「苦集滅道」というのは、仏教で「四諦(たい)」と言われているのであって、
「諦」は言扁(ことばへん)に帝(みかど)と書いてある。

言(ことば)は「道」である。
「道」のうちの帝王即ち最もすぐれたる真理であります。
四つの最もすぐれたる悟りの真理が「苦集滅道」であります。

まずお釈迦様はこの現象世界を御覧になって、これは「苦娑婆」である。
苦しい娑婆であるとこう御覧になった。
これが「苦」の真理であります。

「諦」は日本語では「あきらめる」と読む。
「あきらめ」というのは、「もうだめだからやめとこう」という
「あきらめ」じゃないのであって、

この娑婆世界は「苦」の世界であるという真理を
あきらかに知るということであります。

此の世界をあきらかに観ずると、
まことに現象世界は苦しみが充満している
という真実を先ず見つめる。

「諦」はまた「見詰める」とも読みますね。

其の現象世界が「苦」であるという真実を見詰めまして、
「この苦しみは如何にして生ずるか」ということを釈尊があきらかにされたとき、
それは「集」即ち「集まる」ということによって、
苦が生ずるということがわかったのであります。

十二因縁というような、いろいろの原因や縁がグジャグジャと集まって来て、
逢いたくない人に逢って苦しまねばならぬ。

集まることがなければ恋慕することもなかったのに、
集まったために恋慕して其の逢いたい人に離れなけれならんとか、
金を持っていたいのに税務官吏がそれをとりに集まって来るとか、

この苦しみの因(もと)というものは「集まる」ということであると
その真実を諦(あきら)かにし、諦(みつめ)るときに、
その苦しみを滅ぼすには、どうしたらいいのであるかという真理が
明らかになって来るのです。

その苦しみを「滅ぼす」ことが、「滅」であります。

苦しみの原因と縁とを悉く滅して
遂に「道(さとり)」を得て仏となるのであります。

この苦・集・滅・道の真実を、しっかりとみつめ、
その因(よ)ってくる由来因縁を明らかにして、原因と縁とを滅ぼして、
遂に悟りに到るという四つの真理が、四諦というのであります。

斯く見詰めて脚下(きゃっか)を浄めて行くことによって、
吾々の魂は向上してゆくのですけれども、これは現象面から「苦」の存在を
「アリ」としてその原因を一つ一つ順序を追って滅ぼして行く方法でありますが、

『般若心経』に書かれているのはその「四諦」を超越して、
「苦集滅道」の上に「無」がつけてあって、「無苦集滅道」と書いてある。

『般若心経』は真理を現象面から見ないで、
実相面から実相を直視して「苦集滅道」なんて、
そんなことは実相に於いては、ないのであると喝破しているのであります。

ここが『般若心経』の素晴らしいところです。


この世界は苦しみのように見えているけれども、
それはスクリーンにうつっている影であるから、
そんなものは実在していないというわけで、

苦も集も滅も道も、そんなものは、みんな無いというのです。
そんなものは全く何もない。

絶対無いものが、あるかの如く影が映っているだけで、
もとより「無い」のであるから今更なくなるということもないのであると喝破する。

苦しんでいる人間が苦を見詰め、その原因を知り、
悟りを開いてついに仏になるという面倒くさいこともない、
そんなものないんだ、吾々は《はじめ》から仏なんだ。

苦しみの原因を放下して仏になるのかというと、そんなこともないのであって、
《はじめ》からみんな仏であるんだという大真理が説かれているのが、
『般若心経』であります。

           <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その23 - 伝統

2016/09/28 (Wed) 19:00:09

『般若心経』講義~その23 (P259~260)

その次には「無智亦無得、以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙」
と書いてあります。

「無智」は「智もない」ということ、
「亦無得」は「得るということも亦無い」ということであります。

「あの人はなかなか智慧がある」などと言っても、現象界の智慧なんてものは、
映画の中の人物の智慧だから智慧を得たと言っても得るところの智もなければ、
御利益を得たと言っても、夢の中で富籤(とみくじ)が当ったようなもので
得るところもないのである。

お蔭を得ました、なんて言って喜んでいる人もあるけれども、
お蔭は本当に影であって、実際は何もない。
得たと思っていても皆死ぬとき置いてゆくでしょう。

儲かったと思ってもみなやがて捨てねばならぬ。
今肉体が達者になったと思っても、いつの間にか肉体は死んでなくなる。

だから「智も無く、得も無く」というわけなのであって、
「無所得」即ち結局得るところ無しであります。


「以無所得故」というのは「無所得を以っての故に」であって、
実は少しも得たところのものはないのであって、
「それ故に菩提薩埵は」とつづくのであります。

「菩提薩埵」というのは、菩薩のことであります。
「菩提薩埵」を略して菩薩と言ったのであります。
自分のため、又人を済うために悟りを求めて修行する者が菩提薩埵であります。

菩提というのは悟りです。
薩埵というのは悟りを求めているところの大士のことであります。
菩薩というのは菩提薩埵の略であります。

そこでこの菩薩という者は此の般若波羅蜜多という「六波羅蜜」の一つである
「智慧般若波羅蜜」によって、無所得を悟って、心が無罣礙になったというのであります。

無罣礙というのはどんなサワリも引っかかりもない無いということです。

次に「無罣礙故、無恐怖」(むけいげこむくふ)と書いてあるのですね。
「苦集滅道」もない、智もない、所得もない、もう何もないということが
わかってしまったから心は何にも引っかからない。

心が何にも引っかからないから恐怖心が無いというのであります。

           <感謝合掌 平成28年9月28日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その24 - 伝統

2016/09/29 (Thu) 18:39:49

『般若心経』講義~その24 (P260~262)

私たちは何でも「ある」と思って、それをつかむから、
つかんだものに縛られて自由を失うのであります。

心が無罣礙になるためには、
何かこう御利益を欲するというようなことでは駄目であります。
御利益もそれに執着しますと自由を失います。

誌友の中には大いに金が儲かって「生長の家に来たら儲ったぞ」と言って
勇み立っている人が、たまたま損をすると、一遍に悲観してしまって、
「生長の家も効かん」と言って悄気(しょげ)きってしまうことがある。

これでは本当に自由自在を得とらん、何かにつかまっとる、
何かに縛られとると言わなければならんのです。

だから、「色即是空」と物質はあるがままにその儘無いのじゃ
と何も掴むところがなくなったら、心に「無罣礙」すなわち
《さわり》というものがなくなる。

心が無罣礙になって自由自在になると「無恐怖(むくふ)」になる、
即ち恐ろしいということがなくなる。


身体(からだ)があると思っているものは、
身体が病気になったり死んだりすると思ったら恐ろしいのです。

財産が《ある》と思っているものは財産があると無くなるのが恐ろしいのです。
何でも《ある》と思って?んでいるものは、それが、無くなることを恐怖するのです。

「そんなものはないんだ! 」と徹底的に分かったら恐ろしいことは無くなってしまう。
それで自分というものを縛っている妄想が消えて自由自在になる。

自由自在になれば病気もなおるんだけれども、
「此の病気なおりたい」と心に病気をつかむようなことでは
それは自由自在じゃないのであります。

肉体の病気がなおりたい人は肉体を?んどる。
治るためには肉体みたいなものは?まんようにならんといかんのであります。
肉体は本来無だから健康も病気もないんだ、これを知らねばなりません。


『般若心経』に「老死なし」と書かれているのは、
同時に病気も健康もなしということであります。

だから『甘露の法雨』にも、

「如何なる健康なる力士も、この自分の肉体をあると思って、
こんなにたくましい筋肉をしているからこそ健康だと思っているならば、
それは結局その力士も滅びるものであって、真の健康だというわけには行かない」

と書いてあるでしょう。

どんな力士でもみんなその肉体は死んでしまう。
併し肉体は人間ではないのであります。

それで、私たちは肉体というようなものを、「無し」として離してしまうのです。

そしたらたとい病気があらわれていても、
「この身体(からだ)は、もちっと安静にしとらんと危ないですぞ」なんて言われて、
恐怖心を起こすことなく使命に邁進することができるのであります。

           <感謝合掌 平成28年9月29日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その25  - 伝統

2016/09/30 (Fri) 18:27:43

『般若心経』講義~その25 (P262~265)

諸君が人類を救おうという使命感に燃え立って、
吾れ人類を救わずにはおかないというような大決心がおこりましたならば、
もう決して少々位病気だからと言って、じっとしていられないというのが、
本当であります。

だから生長の家では「病気なし」と宣言する。
病気をなおすんじゃないのであります。

肉体や健康や病気や、そんなものに対する執着を捨てさせるのですから、
病気で呻吟している最中にいる者の枕許(まくらもと)へ行っても
「病気ないぞ」とズバリと言う。

「この通りあるじゃないか。」

「そんなものは影じゃ。影をはかってみて何になるか」

というわけであります。


乱暴なようだけれども宗教というものは乱暴なもんだ。
肉体を治すのではなく肉体を超えさせるのが宗教だからです。

そこが医者と違う。
医者は病気を治そうと努力するが、宗教家は魂を救おうと努力する。
魂を救うために肉体を殺すことが必要ならば肉体を殺すことも敢て恐れない。

「汝の眼汝をつまずかせば、汝の眼を抉(くじ)り出して捨てよ」
とキリストは言っている。そうすると魂が生きる。
すると、肉体もひきずられてなおることがある。

キリストは「生命(いのち)を捨つる者は生命を得」と言っているのがそれです。
併し、必ずしもなおると決っておらんのです。
「なおる」と肉体を?んだら、自由を失う。

病気は本来無いのですから、病気がなおるということもないのです。
無いものはなおりようがない。
無い肉体がなおるということも無いのであると心経は喝破しているのです。

これが「老死なく、老死の尽くることもなし」という心経の意味であります。


そこまでゆきますと、肉体が病気しておろうと健康であろうと同じことだ。
「ああ影がちょっと今日薄いな」という位のとこだ。
影がうすいと言ったって、人間そのものは影じゃないんだから問題はない! 

わしは本物だ実相だ! と真理を知れば、影位どうでもいいのです。

みんな影にびくびくしとる。
そんなことでは可(い)かん。
影みたいなものは捨てちゃったらいいのだ! 

影とおびえるから、影である肉体にその妄想の影として病気があらわれます。


本来「仏」であり「神の子」であるところの人間の生命そのものは、
肉眼には見えませんものですから、それを無いとサカサマなことを思う。

そして肉眼に見えるところの「本来無いところの肉体」を“ある”と想って
あべこべの思い、さかさまな思いをしておる
 ―― これを「顛倒夢想」というのですね。

「顛倒(さかさま)の夢の想い」であります。


心が無罣礙になって、さわりなく自由自在になって恐怖心がなくなって、
顛倒夢想を遠離するから、「究竟涅槃」
 ―― 涅槃の最後の境地をきわめることが出来るのであります。

しかし涅槃の最後の境地に於いては涅槃を想うということもないのであります。
「ああ涅槃の境地を究めたい」と想うということもない。
「悟りを開いて仏になりたい」と想う想いもないのである。

何もない。

これが道元禅師が「脱落身心、身心脱落」と言われたところの境地であるわけです。
脱落身心、身心脱落というのは、身も心も脱けて落ちた。

身体(からだ)もあるという想いがなくなり、心もあるという思いがなくなり、
その身も心も努力して悟りを開こうと力むような心もなくなってしまって、
何にも無くなってしまうと、本来清浄のもの、本来自由のものがあらわれて来る。

そこに本当の開放された本当の実相の自分というものが出てくるわけであります。

           <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その25 (P265~266) - 伝統

2016/10/01 (Sat) 18:13:25


次に「三世の諸仏、般若波羅蜜多によるが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得給えり」
とこう書かれているのであります。

そこで三世の諸仏は、今まで、過去、現在に於いて出て来られた、
又未来にこれから出てこられるところの、すべての仏も、この般若の智慧によって、

物質もない、肉体もない、老死もない、老死の尽くるということもない、
苦集滅道もない、迷うということも悟るということもないという、
素晴らしい智慧によって、仏の悟り即ち阿耨多羅三藐三菩提を得たのである。

だから般若波羅蜜多の智慧は、
是れ「大神呪(じんじゅ)」であり、「大明呪(みょうじゅ)」であり、
「無上呪」であると書かれているのです。

呪という字は「呪い」(のろい)であり、「呪い」(まじな)いであります。

「神(じん)」という字は「神秘不可思議な」という意味です。
般若の智慧というのは実に神秘不可思議なるまじないであり、
「大明呪」すなわちかがやかしい光輝くところの素晴らしいまじないの言葉である。

そして「能除一切苦」というので、すべての苦しみを「能く除く」ことが出来るのである。


すなわち私たちが無眼耳鼻舌身意、五蘊皆空と照見して、色受想行識も無し、
目も耳も鼻も舌も、身体も、意識もない、肉体もない、物質もない、何にもないから、
老いることもなければ、死することもない、

病気のなおることもなければ、病気にかかることもないのであると、
一切ないものづくしで、ない、ない、ない、ないになってしもうたら、
もう何も失いようがないものだから、もう自由自在である。

何ものにも縛られなくなるから、もう自由自在なのであります。
これが般若のすばらしい智慧であります。

それで「三世の諸仏は皆この般若波羅蜜多によるが故に、
阿耨多羅三藐三菩提を得られたのである」と書かれているのであります。

だから般若波羅蜜多は一大神呪であり、一大明呪であり、無上の呪であると、
いうわけであります。

           <感謝合掌 平成28年10月1日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その26 - 伝統

2016/10/06 (Thu) 18:53:58

『般若心経』講義~その26 (P266~269)

それで最後に此れは真実にして、虚にあらずというわけで、
「真実不虚」と証明して、般若波羅蜜多の呪を説いたのであります。


この呪は意味深遠であって翻訳不可能であるというので翻訳せずに
梵語の発音のままを漢字に当て嵌めてあるのです。

曰く「掲諦掲諦波羅掲諦、波羅僧掲諦、菩提薩婆訶」こういうように
意味深遠多義を含んで翻訳し得ない呪を仏教では陀羅尼といっています。

陀羅尼を訳して、総持といっておりますが、
教団本部における辻村総持みたいなものであります。

「あそこに総持さんがおらっしゃる」というと、別に辻村さんは何もせんとおっても、
ちゃんとそこに有難い総(すべ)てのものの締め括(くく)りが持(たも)っている
ということになっている。

そういう意味で、生長の家の主管者を「総持」と名づけたのです。

これは余談ですが、陀羅尼というのは、そういうように総(あら)ゆる深い意味が
中に保たれているから「総持」と訳されている。

言葉というものは、はっきり意味がわかってしまうと、
別の意味が出てこないことになる。

例えば、これは「赤」なら「赤」と言ってしまったら、もうその色が限定されて、
それに赤みたいな黄色がまじって、桃色や茜色になっていても、
もう「赤」と言ってしまったら、「赤」という感じになってしまって、
複雑な全部を包含する感じを現わすことが出来なくなります。

だからこれは訳さずにそのままおいておいたら一切の意味を含むというわけであります。
こんな言葉を「陀羅尼」というのであります。


しかし榊亮三郎という文学博士の方が、(もう亡くなられましたが、
この方は梵語の日本一の大家であった)この陀羅尼をお訳しになったのを
見たことがあります。

それによると、「掲諦」(ぎゃてい)というのは「往く」ということです。
「掲諦掲諦」というのは「往き往きて」であります。

「波羅掲諦」の「波羅」というのは、「般若波羅蜜多」の「波羅」です。
これは「高天原」の「原」も同じ意味で、「彼岸」ということです。
「掲諦掲諦波羅掲諦」だから「往き往きて彼岸に往きて」ということです。


次に「波羅僧掲諦」の「僧」は「総」と同じで「総(すべ)ての者」ということであります。
波羅が彼岸であり、タカアマ《ハラ》と同じであるということは
大変面白いことだと思うのです

。梵語にも日本語と同じ言葉が色々あります。
それで言葉の類似したものを並べますと、日本語は、インドの古い言葉と同じだから、
日本人の祖先はインド人だという結論が出て来ないとも限らないのであります。

だから安田徳太郎さんが、最近『万葉集の謎』という本を書いて、
ヒマラヤの奥地に住むレプチャ族の言語と日本語と並べまして、
こういう似た言葉があるから日本人の祖先はレプチャ人であるなんていうような
結論を出すことも出来るけれども、
また他国の言葉をとってきてもあの通りのことが出来る筈です。

最近に“万葉集の謎”は英語でも解けると言ってその類似を指摘した文章が
「文芸春秋」にのりましたのでありますが、世界の言語はすべて最初は
自然発生語だから類似の言葉を指摘すれば沢山あるので面白いと思います。


梵語の「僧」というのは「総」という意味で、「すべて」ということである。
そこで「波羅僧掲諦」というのは「すべての者彼岸に往きて」であります。
すべての者は既に「彼岸」即ち「実相の世界」にいるということなのです。

次に「菩提僧婆訶」(ぼじそわか)というのは「菩提」(ぼじ)はサトリ、
「僧婆嗣」(そわか)は讃嘆の言葉です。
「僧婆嗣」というのは日本語で言えば「さらば」というような言葉です。

「ソワカ」 ―― 「サラバ」これなども梵語と日本語とよく似ているでしょう。
それで最後の僧婆嗣(さらば)というわけで、
「これでおしまいです」「あなかしこ」とでもいうべき意味をもっているわけです。

           <感謝合掌 平成28年10月6日 頓首再拝>

『般若心経』講義~その26 - 伝統

2016/10/07 (Fri) 19:18:34

『般若心経』講義~その26 (P269~273)

それでこの心経の最後の陀羅尼は何を説いているかというと、
観世音菩薩は般若波羅蜜多の行をしたとき五蘊皆空と照見した。

そしてすべてのものは皆空であって、肉体もなければ、物質もない、心もないのであって、
目、耳、鼻、口、皮膚、これもないのである。従って老いることも死すこともない。
悟りを開くということも迷うということもない、何もないのである、一切ズンベラボウである、

そのズンベラボウもないのであると否定に否定を重ねて往ったら、
どこにも滞(とど)こおるところがなくなって、心に?礙(けいげ)が無く
一切のさわりというものが悉くなくなってしまって、

そして心の目が覚めたら、実は、「往き往きて」既に浄土に往っているのだ、
そのままで、殊更に往かないでも、もう浄土に今行っているということが
わかるというのであります。


そのまま其処に往き往きて、彼岸に既に到達しておるというのは自分だけではない、
すべてのものは彼岸に既に到達している、もうここが実相の世界である、
光明遍照の世界であるということがわかるのだと説いているわけであります。

これが『般若心経』であります。

「心」というのは、中心という意味です。
般若の智慧を一番詳しく説いた御経に『大般若経』という大部の経典があるのですが、
その『大般若経』の神髄が『般若心経』になっているのだというわけであります。

だからこの心経こそ是れ大明呪、大神呪、無上呪というわけであります。
「呪」すなわち「まじない」というのは、「魔事が無い」ということです。

「まじ」というのは「魔の事」「魔が事」「曲(ま)が事」である。
まがれる事は何もないというわけで「まじ《ない》」であります。


般若の空(くう)観と、空観を更に超えて「既に往き往きて今此処実相世界」
ということを観ずる神想観が『新編 聖光録』に示されている「蓮華日宝王地観」
という観法であります。

『新編 聖光録』は常にポケットに携帯して時々お読みになるといいと思います。
蓮華日宝王地とは、これは『華厳経』に書いてある言葉でありまして、

釈尊の仰せられるには、
この世界即ち宇宙は蓮華蔵世界であって、内に蓮華の理念を増し、
それが展開する世界だというのであります。

蓮華の花を御覧になりますと、花弁があらゆる方角に展開し、その中心座に、
ハチスと言って蜂の「巣」のような子房があるのであります。

これは中心座に巣(統、スの言葉 ―― 五十音を統一すればスの一音となる)があって、
そこから現象のハナビラが八方に展開していることを象徴している。

その中心になるスの世界は金剛の日の宝地であって、
破壊し得ないという意味が「蓮華日宝王地」であります。
これが実相の世界であります。

その実相世界を観ずるのが「蓮華日宝王地観」であります。


先ず瞑目合掌して、

「吾れ今五官の世界を去って、吾が身を観ずるに、吾が身はこのまま観世音菩薩なり、
吾れ観世音菩薩、五蘊皆空と照見す」こういうふうに唱えて、そして、自分自身が
観世音菩薩であって、その自分が深般若波羅蜜多を行ずるつもりになり、
五蘊皆空 ―― 物質も心も、ありとあらゆるものが無いと観ずるのであります。

それには、「吾れ観世音菩薩、五蘊皆空と照見す、物質はない、物質は無い、
物質は無い、物質は無い、肉体は無い、肉体は無い」と、心に繰り返し唱えまして、
その次には「心もない、心もない」とずーっと心に念ずるのです。

そして物質も、肉体も、心も、なんにもなくなった実感を喚び起こして、
その次に虚空中に「宇宙大の大日輪」が浮んでいる光景を、
じーっと心に思い浮べるのです。


「宇宙大の大日輪」 ―― 日輪というのは太陽ですが、
肉眼で見る太陽は現象でありますが、
太陽の実相は虚空に満ちている「大生命体」であります。

それを観ずるのであります。

目の裡(うち)に、宇宙大の大日輪が満ち満ちておる光景を心に描き、
その中央部に千葉の(《せんよう》とは、千の花びら)蓮の花が浮んでおり、
それが蓮華の台座となって、その上に観世音菩薩が坐っている光景を
心に描いてじっと観ずるのであります。

蓮華の台座の上に坐したまう観世音菩薩を心の眼に思い浮べて、
そしてじっとそれをみつめまして、その観世音菩薩が、自分にじっと近付いてきて
自分と一体になった感じを起こすのです。

そして我れ観世音菩薩なり、とこう観ずるわけであります。

これを観ずる場合に、以上のような光景の観世音菩薩の画像を
一間半ばかり離れた位置に掛けてそれを眼を半眼にひらいて見詰めなから
精神統一に入り、やがて眼をとじてその観世音菩薩と一体になった感じを起こされる
のも宣しいのです。


宇治市の生長の家錬成道場の祈りの間には、有留弘泰氏の筆になる、
大日輪中の蓮華の台座に坐したまう観世音菩薩像が掛けてありますが、
あの前に正座して、しばらくジッと観世音菩薩像を眺め、眼を閉じてから
、観世音菩薩像が我れに入りて一体になると観ずるとよいのです。

眼をとじても心の眼でじっとみつめながら、その観世音菩薩は自分であって
、自分自身が観世音菩薩であると観ずるのです。

大日輪の霊気が自分に流れ入って、自分を生かしつつあるのであるとこう観じまして、
静かに息を吸いなから「大日輪に生かされている、生かされている」と繰返して、

「我れ大日輪の智慧なり、我れ大日輪の愛なり、我れ大日輪の生命(せいめい)なり、
一切のもの我れに備わり、意に従って集まり来り、用足りて自ずから去る」

と念ずるのであります。(『詳説神想観』中の神想観の行じ方を参照)

これはこの『般若心経』の観世音菩薩が深般若波羅蜜多の行法に於いて、
五蘊皆空と観ぜられたやり方を、近代化して、「蓮華日宝王地観」という神想観として
ここに説明してあるのであります。

(完)

・・・

「蓮華日宝王地観」

スレッド「実相を観ずる~「神想観」」
http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461369
子記事「蓮華日宝王地観」(2015/09/27、2015/10/06)参照。

           <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

『あなたは自分で治せる』 - 伝統

2016/10/08 (Sat) 19:55:34



この谷口雅春先生の『般若心経』講義は、最初は、

『あなたは自分で治せる』谷口雅春選集 第13章般若心経講義(P215~259)

に同じ内容で収載されております。


以下は、この著書『あなたは自分で治せる』のはしがき からの紹介です(抜粋)


           *『あなたは自分で治せる』(P4)より

最後の章に収録した「般若心経講義」は日曜日に私の道場での
聴講者のために口述したものの録音であるが、

それを或る雑誌にのせたとき、非常に好評を博して、是非別冊のパンフレットにして
広く頒布してほしいとの要求が諸方にあったものであったが、

結局「自己が自己自身の主人公となる」には、
この般若心経が指示する境地に自分の心を導いて行かなければならないので、

この講義は各章と相互に連絡あるものとして
本書の最後の章に加えて結びとしたのである。


              昭和四十一年三月一日     著者識(しる)す
・・・

<参考:『あなたは自分で治せる』目次>

第1章 心には幾重にも層がある
第2章 無意識層の更に奥には
第3章 精神波動の受信装置としての人間

第4章 神癒は斯くして行はれる
第5章 精神治療の實際
第6章 唯顴實相の哲學的立場

第7章 實際的な祈りの仕方
第8章 みずから招く不幸
第9章 罪悪感の克服

第10章 内部知性の治癒力をよび起すには
第11章 人類の潜在意識に打ち克つ道
第12章 生長の家と醫療問題

第13章 般若心經講義


           <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

安田氏の『般若心経』現代語訳 - 伝統

2017/06/14 (Wed) 20:03:59


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月14日)より

安田良忍氏は仏教僧侶であり、生長の家誌友であり、一ヵ寺の住職であり、
生長の家の誌友会をお開きになっている。

死骸にお経をあげるをもって能事足れりとせず、
生ける人間に説法してこれを教化するのを本職としていられる。

この安田氏から『般若心経』の現代語訳を送って来られた。その翻訳は次の通りである。
これで完璧だとは思わないが、せっかく送って来られたから
参考のため日記に写しておくことにする。


   無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇
   我今見聞得受持 願解如来真実蔵

「実相訳 摩訶般若波羅蜜多心経」

観自在菩薩  深般若の智を獲(え)たまい、人の真性は仏なるがゆえに無礙自在なり、
人々おのおの観自在菩薩なりとの悟りを行得したまいて、
その自覚により現象界は空なり無なりと照見し、いっさいの苦厄を済度したまうの時、
かくのごとく説きたまう―

汝仏の子よ、諦(あきら)かに聴け、色は空に異ならず、物質なし、
空は色に異ならず、無よりして一切を生ず、
色すなわちこれ空、有るように見えても実在せず、空すなわちこれ色、そのままに真空妙有なり。

感受するも、想うも、行なうも、識(こころ)の主体もまたまたかくのごとく、
有るがままにして空、無きままにして有(あ)るなり。


汝仏の子よ、この如来の法、実相は久遠の実在なれば生ぜず、滅せず、
無垢、清浄にして完全円満なれば、増せず、滅せず、
このゆえに実相には、色なく、受なく、想なく、行なく、識なし。

肉体なく、五官なく、五官に映ずる世界もなし。

光明世界なれば無明なく、無明の尽くることもなし。
久遠生き通しなれば老死もなく、また老死の尽くることもなし。

四諦(したい)によって悟るにあらず、そのまま安楽行なり。
智慧を磨きて悟るにあらず、つかむところの所得なくして、実相そのままに、円満具足せり。


神の子仏の子は実相智によるがゆえに、心にさし障(さわ)りなし。
さし障りなきがゆえに、吾れ仏の子の自覚にて恐怖あることなし。
恐怖なきがゆえに、いっさいの悩みをはなる、本来仏なれば涅槃を究竟(くきょう)す。


三世仏の子の兄弟は実相智によるがゆえに正しき悟りを得(う)。
まことに知んぬ。実相智はこれ神の御言葉なり。これ明智の御言葉なり。
これこの上なき言葉なり。これ等しきものなき無上言葉なり。

能くいっさいの苦しみを除く、真実にして虚(むな)しからず、ゆえに実相の御言葉を説く、
その言葉に曰く、羯締(ぎゃてい)みずから極楽にすでにあり。

羯締他(た)にもこれを覚らしめ、波羅羯締自他ともにこれを悟り、
波羅僧羯締皆ことごとく今ここ浄土にありて、
菩提僧婆訶覚りの道(みち)成就して歓喜に充ち満てり。


摩訶般若波羅蜜多心経。


願わくばこの功徳をもって普(あまね)く一切に及ぼし、
われらと衆生と皆ともに仏道を成ぜんことを ――。

            <感謝合掌 平成29年6月14日 頓首再拝>

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