伝統板・第二

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現象無しとは - 夕刻版

2016/09/04 (Sun) 19:02:16

損失や、犠牲や、負債は実相においてはないのです

      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P73<9月4日>)より

誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。

実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。

どこにも自分を害した者もないのである。

いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)はまず心の世界で克服しなければならないのである。

心の世界でそれを消滅するとき、損をかけた人も、損をかけられた状態もなくなるのである。

             <感謝合掌 平成28年9月4日 頓首再拝>

「負債」無し、神の無限供給の現われ - 伝統

2016/09/05 (Mon) 18:52:11


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P74<9月5日>)より

負債(おいめ)というものの観念の中には、「欠乏」の感じがしているのである。
債権者は、返してくれるはずのものが「欠乏」していると考える。

負債(おいめ)というものを考えるとき、どちらの側も「欠乏」という観念から
抜け出すことができないのである。

本当に繁栄を得ようと思うならば、この欠乏の感じを「お蔭」(神からの供給)の
考えに転回してしまうことが必要である。

債権者の方からは「あの人に貸し与えるほど豊かな供給を得てありがたい」と考え、
債務者の方からが、「あの人を通して無限の供給を恵みたまうてありがたい。神の無限の
供給が種子(たね)になっていよいよますます幸福がやって来る、ありがとうございます」
と考えるがよい。

             <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

現象なしの自覚について~その1 - 伝統

2016/09/06 (Tue) 19:18:02


          *『生命の實相』第24巻「質疑篇」(P88~91)より

(問)
―― 病は《ない》ことはない。病は現象としてあるので《ある》。
それはただ実在では《ない》のである。それを「病《なし》」と言いきるのは言いすぎである。
現象は無いことはない、現象を全否定してしまうのはまちがいである。
現象は本体的実在ではないことはもちろんであるが、本体展開して現象となるのであって、
現象なしと言いきってしまうのは奇矯だと言う人があります。(中根氏出題)


(答)
―― 生長の家では「現象は実在でない、病は実在でない」という言葉を
各所のページで説いておりますが、また時には、非実在と書いて
「あらず」とか「ない」とかふりがなをつけたところもあります。

が、近ごろはいっそう平易なわかり易い言葉で直截的簡明に
「病気は《ない》」「現象はあるように見えても《ない》」と
力強く言いきることにしているのであります。

わたしがなぜこう言うかは悟った人は知っていると思います。

われわれが平常使っている言葉は、現象界を言いあらわす言葉であって、
実相に直参する言葉ではありませんから、その言葉をそのまま利用して、
《至妙の実相》に《直参せしめる》ためには、普通とちょっと違う
「奇矯に見えるかもしれない」言葉を使うのであります。

言葉は月を指す指であって、言葉の表現にとらわれていては、
月を指す指の形が太いとか細いとか議論していると同じで、
いつも月が見えないことになるのであります。

「現象は《ない》」という言葉をわたしが使うようになるには
霊感的な導きはむろんありますが、わたしとしては
人間的にもよほど苦心したのであります。

第一、「実在」という言葉は哲学上の言葉でありまして、
普通の人には(少なくとも中学程度卒業くらいまでの哲学的素養なき人には)
理解しがたい言葉なのであります。

「実在」とは何を意味するかということになりますと、大変むずかしいことになりまして、
『生命の實相』のような大衆の光明化を目指している聖典には、
こんなむずかしい言葉はなるべく少なく使いたいと思いました。

ある信徒の方はわたしに
「生長の家は高遠の真理を驚くほどやさしく書いてありますが、
どうもまだ言葉がむずかしいと言う人が多いから、できるだけやさしく書いてくれ」
というような注文もせられたのであります。

いろいろ考えたすえ、この「実在」という哲学上のむずかしい言葉を、
わたしはたんに「アル」または「本当にある」という言葉に代えたのであります。

これを哲学的に理屈を捏ねて、実在で《ない》というのと単に「《ない》」とは
大いに意味が違うような言葉の穿鑿(せんさく)問題に浮き身をやつすのは
まちがっているのであります。


わたしの使っている言葉にはいろいろ平易化の上に苦心があるのですから、
言葉で引っかかって揚足をとらずにその真意を知って
実相に直参していただきたいのであります。

が、「実在」と「アル」とはそんなに問題にするほど違いません。
また、その逆、「実在でない」と単に「ナイ」とはそんなに違いません。

「実在」という言葉はむずかしそうな言葉でありますけれども、
英語では、“Being”すなわち「在ること」という字を使って「実在」と言うのであります。

わたしはこの英語の易しさに感心しました。
「実在」と言わずに「アルコト」とは平易で要をつくしています。
「実在」が「アルコト」であれば、「実在でない」ことを「ない」と平易に言ったら、
かえって平易でわかりやすいと思います。

むろん、英語の“Being”を「実在」と読ませるにはBを花文字にしてあります。
日本語には花文字がありませんから、花文字を使うわけにゆかないので、
前後の関係で「実在でない」という意味をわからすように苦心した上で
「ない」という言葉を使い、また時々、花文字の代わりに、その「《ない》」
という言葉の所に傍点を付したりして、それとなく解るようにしてあるのであります。

             <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

現象なしの自覚について~その2 - 伝統

2016/09/07 (Wed) 20:28:16


          *『生命の實相』第24巻「質疑篇」(P91~92)より

生長の家で、「現象は無い、肉体は無い」とハッキリ「無い」と
言いきることに反対する人に二種あります。

その一説は、色即是空の「空」という字は単に「ない」という言葉と異(ちが)う、
アルにはアルのであって何かアル、それは実在でないと言うだけだ、と言う人であり、

その二は「諸法実相」という仏教上の言葉を「現象即実相」と解する人であります。

ところが、仏典には「空」をハッキリ「無し」と断言してあるところもあります。
『般若心経』にも「五蘊皆空」と書いてあって、その「空」を説明するためには、
「色受想行識もまた無し」とか、「老死無し」とか、「老死の尽くることも無し」とか、
仏教でもやはり「無い」という言葉を持ってきて説明するほかに仕方がないのであります。

「老死」すなわち老いたり死んだりすることは現象でありますが、
『般若心経』には「老死というものは単に無いのではない、現象としてはあるのである。
実在でないだけである」というように、長たらしい緩慢な表現の仕方をしてないので、

端的に簡明直截的に「老死無し」と一喝し、始めから人間に老死は無いのだから、
これから悟って無くなるというようなものでないという意味をふくめて
「老死の尽くることも無し」と言っているのであります。

『般若心経』の用語などでも「空」とは単に無とはちがうというような批評を
せられる人から見たら、「老死無し」というのは言葉が奇矯である。


老死は実在に非ずと言わなければまちがっている。
もし「老死無し」というような奇矯なことを『般若心経』に書いたら
人心を惑わすものであると経文の結集(けつじゅう)者に
抗議を申し込まねばならぬでありましょうが、

その当時は言葉に引っかかる人がなく、用語がまずくても経文の神髄をつかむ人が多くて、
その経を読んでも気狂(きちがい)になる人もなく、かえって気狂が治るくらいで、
今に至るまで、この経文が改竄(かいざん)されたということを聴かないのであります。

 
実際に『生長の家』を読んで「不完全な現象はあるように見えてもないのだ」
また「ただ至妙の実相のみがあるのだ」と教えられても、
続々と病気が治る、環境が治る、経済状態がよくなる実例があらわれるのはなぜでしょうか。

はたして「現象はない」「病気はない」「不幸はない」等々……というふうに
「ない」という言葉を使うことが、不適当なのであれば、
そういうよい結果が起こることはありません。

             <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>

現象なしの自覚について~その3 - 伝統

2016/09/08 (Thu) 18:01:56


          *『生命の實相』第24巻「質疑篇」(P93~94)より


世間普通の人は、現象界の出来事は皆そのままあると思っているのです。
それで、現象の一種である病気もあると思っている。老死もあると思っている。


不幸も災難もあると思っている。
あると思うがゆえに捉われ、捉われるがゆえに病気にかかりやすく、
かかった病気が治りがたく、かえって老死を速め、不幸災厄の前に屈服してしまうのです。

しかしそれらの不完全な現象は、
「あるように見えてもないんだぞ」とわたしが掛け声をかけてあげると
病気に崩折(くずお)れていた人が妙に立ち上がり、
もう老衰していたと見える人が若返って白髪まで黒くなり、

不幸の前に勇気を失っていた人が勇気を回復して事業に邁進成功し、
意地悪の姑や、放蕩の良人(おっと)なども、あるように見えてもないんだぞと
掛け声をかけると、

そんな悪い姑や良人はない、神の子たる本当に深切な姑や良人ばかりがある
と思って姑や良人に隔意なく事(つか)えるようになって、
今まで地獄状態であった家庭が光明化した実例もたくさんあります。


「ない」という言葉と「実在でない」という言葉は哲学上の論議を交す場合には、
あるいは厳密に区別して使わなければならぬ時もあるかもしれませぬが、

生長の家でわたしが「ない」という言葉を現象に関して使う場合は、
哲学上の理屈をこねるためではなく、老病不幸等(現象)をあると思って執着していて、
かえって迷い苦しんでいる人に、その迷い苦しみを取り去るために、
応病与薬的に投げかける喝であって、

それが「言葉の薬」として実際的に迷いを去る上に効果を顕わして迷いが去り、
老病不幸が治っていれば、それでわたしの目的はとげられ、
信徒が『生長の家』や『生命の實相』を読む目的を達せられているのであります。

             <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

現象なしの自覚について~その4 - 伝統

2016/09/09 (Fri) 18:23:12


          *『生命の實相』第24巻「質疑篇」(P94~95)より

たとえば、薬というものはたいてい毒性をもったものですが、
病気に応じて、適当に調合して適量に用いると効くことがあります。

現象界をあると思いすぎて執着し、苦しんでいる人に対しては、
「ない」という端的直截な言葉が一等よくきくのであって、

「ない、ない」と幾度繰り返しても、五官の方では常にあるように見えていて、
「ある、ある」と主張してくれているのですから五官の方での「ある」という主張と、
生長の家での薬語「ない」とが適当に中和して、迷いや執着を去る上に効果を奏し、
事実上、実効上、病気が治り、不幸その他がいちじるしく癒やされているのですから、

生長の家で、「現象は無い」という言葉を使うのは、
その用法がまちがっていると言われないのであります。

およそ薬というものは、薬それ自身に毒性があるから使ってならない
というわけのものではないのであります。

モルヒネは毒薬であっても、本当にそれがよく効いたら
人間に適するようにしてそれを使えば、かえって胃腸病が治ったり
神経衰弱が治ったりすることがあります。

そうすると、モルヒネのような毒薬でも、本来毒であるか薬であるかは
容易に分かるものではない、使いようによって毒ともなれば薬ともなるのであります。

それと同じく、「無」という言葉も下手に使えば、人を気狂にするかもしれない、
今まで哲学にかぶれて厭世自殺をしたり、仏教の「空」をさとったと思って
隠遁生活をする人が出たりして、

仏教は厭世思想だという悪評を受けたのも無を説き「空」を語る言葉の薬剤が、
効きすぎたり、効かなすぎたりしたからであります。

上手にこれを使えば、現に、生長の家のように病を治し、運命をよくするのであります。

同じヨードでも、ヨードは普通なら細胞を破壊する激毒性がありますが、
ある操作をこれに加えておくと強壮剤となります。


「無」の言葉は今まで「ある」と思っていた現象を「ない」と言いきるのですから、
ヨード以上に峻効をもっている。

それを適当の効果を持たすように、文章の中にいわばコロイド状に組み込んであるのが
『生長の家』であり、『生命の實相』であります。

だから『生長の家』を読んで効くか効かぬか、薬になるか毒になるかは、
読んだ多数実験者の実際例によって証明せられているのです。

             <感謝合掌 平成28年9月9日 頓首再拝>

現象なしの自覚について~その5 - 伝統

2016/09/11 (Sun) 18:10:06


          *『生命の實相』第24巻「質疑篇」(P95~97)より

かくのごとく「無」の字は峻効を有するので、
生長の家では、それが人間に働きかけて、生命を生かすので、
有効無害の働きをするように、文章中に巧みに他の言葉と混ぜて調合してあるのであります。

《「無」の字、「ない」という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません。
釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは、
「無」の字、「ない」という言葉を、文章全体の中に織り込んである
その織り込み方にあるのであります》。

この織り込み方はわたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって
書いてゆくので、誰にも真似はできないのであります。
思想は真似はできても、言葉の調合は真似ができないのであります。

だから、今までお経を読んでも聖書を読んでも治らなかった病気でも、
その同じ真理が説いてある生長の家では、
聖典を読んだり話を聴いただけで病気が治るのであります。

「現象はない」とか「病気はない」とかいう言葉は、
語法が不穏当であるとかいって注意して下さるのはありがたいが、
毒性峻烈なヨードでもヨード剤として特殊の分子構造のうちに結合せしめて
ヨードを安定せしめたときには無害有効となるがごとく、

「無」の字の効果は峻烈であっても、わたしの書きまたは話す特殊の
文章組織の中に結合せしめたときに効力が最も卓絶した薬物となるのであります。

それで、『生命の實相』を読む人にはその人の心の中に、
こちらで処方した「無」の字の一定刺激を連続的に与える方が効果がよいのであります。

それで、生長の家で説いている「無」の字や、
「《現象はない》」という語だけを抽出して
その「無」の内容や効能を理屈でいろいろ詮議しても

「無」の字の効果は、わたしの執筆全体にひろがっていて、
はじめてヨード剤のように効果を現わしますのですから、
単に「無」の字や「現象は《ない》」の語句だけを抽出して
語句の適否を非難することは見当外れです。

ヨード剤でもその成分中のヨードだけを抽出して激毒性であると言って批評してみても、
ヨード剤全体が効果を現わせばその薬は優良であるではありませんか。

薬剤に併用禁忌の薬があります。
たとえば鉄剤を飲んでから、タンニンを含有するものを飲むと、
鉄とタンニンとが結合して、吸収不能のタンニン鉄になるのであります。

生長の家で「病気は《ない》、老死は《ない》、不幸は《ない》、
あるように見えても現象は《ない》」と言いきるところに飲み易い
(無学者にも解り易いの意)美妙(びみょう)な言葉の鉄剤となるのですが、

その「《ない》」という言葉に茶々を入れる批評を読むときには、
その「茶々」の中にはタンニンが含まれていますので、

そのタンニンがせっかくの「《ない》」という言葉の鉄剤と結合して
吸収不能のタンニン鉄となり、読者の心に「無」の字の吸収を不完全ならしめ、
心の鉄剤の効果を薄めますので、わたしはこれを避けたいと思っているのであります。

             <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

現象なしの自覚について~その6 - 伝統

2016/09/12 (Mon) 18:41:42


          *『生命の實相』第24巻「質疑篇」(P97~99)より

近ごろ、生長の家思想の有名なると効果の顕著なるにつれて、
その全体の思想を踏襲して、包装や名称だけを加えて、一旗あげてみようとし、
かつあまり同じことを書いても受売りであると一見わかるので、
同じ意味を異なる文章で書き表わし、

「何々会」等という別異の名称で雑誌などを出される方がありますが、
そういう雑誌の文章は「無」の字の言葉の調合法がちがうので、
わたしの処方した「言葉の鉄剤」に「茶々」を入れることになります。

茶々を入れられるとその人の心のうちで、「無」字のバランスがこわれるので
『生長の家』を読んで万事好転していた人が、その種の雑誌を併用したために
「無」字の鉄剤の吸収率が鈍って《ふらつく》人があります。


そうしてその種の、雑誌の現象は《ある》とか《ない》とか論じてある文章を読んだ日には、
心のバランスが破れてなんとなく不安で、会社にいても思うように仕事が運ばなかったり、
集金が集まらなかったり、ついぞ起こらなかった歯痛が起こってきた人などもあります。

「無」を説くのは仏教でも、一燈園でも説いている。
キリスト教でも解釈の仕様によれば「無」を説いているのです。

生長の家と、それらの宗教とどこがちがうかと言いますと、
「無」字の扱い方が「ない」と易しく言いきって、
その「ない」がわたしの文章全体の流れの上に巧みに効果的に織り混ぜられていて、

古今に多く類例を見ないような、読む人のこころに端的に作用して、
病を即座になおすほどに心の解放を与え、「無」を説くとも隠遁的にならず、
厭世的にならず、かえって積極的な活動力を与える点にあるのであります。

むつかしい複雑な「無」の理論をお読みになりたければ
仏典にはいくらでも複雑なものがありますから、
『大乗起信論』でも、『大般若経』でもお読みになるとよいと思います。

この問題については「善き樹はよき果実を結ぶ、果実を見てその樹の良否を知れ」という
キリストの言葉でお答えしたいと思います。


理屈でその樹は悪い果を結ぶはずだという理論が通りましても、
実際その樹が善き果を結ぶ場合には理論の方にまだ気づかれない欠陥があるのです。

理論で宗教で病気が治るはずがないと結論されても、
実際に治る以上はその理論の気のつかないところに真理があるのです。

真理というものは多数決の理屈で定まるものではありません。
そういう論議を読むのに費やす時間がありますならば、言葉をよく調合せしめたる
――「無」字を巧みに調剤してある聖典『生命の實相』を幾度でも繰り返し読んで、
少しでもいっそう深く悟りに入られるよう希望致します。

・・・

(以上で、『生命の實相』第24巻「質疑篇」現象なしの自覚について の
 謹写を終えます)

             <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>

《如何にして現象界に不調和があらわれるか》 - 伝統

2016/09/14 (Wed) 19:33:29


         *『 生長の家 』(昭和40年3月25日の法語)より

   「 霊の世界 」に於ける「 神の想念 」による創造は、
   純粋無雑に、ただ神によって創造せられているが故に、
   それは至美(しび)至善(しぜん)妙楽(みょうらく)完全円満の世界である。

   その完全の世界が「実相世界」である。

   イエスが「 御心(みこころ)の天に成るが如く地にもならせ給え 」と祈ったときの
   「 既に天に成る完全世界 」(神の国)である。

   しかし、それは「天国」であり、「霊の世界」であるがゆえに、
   肉眼には見えないので、恰(あたか)もテレビ装置に於いて肉眼に視(み)えない
   放送電波をブラウン管という「認識のための形式」の面に於いて、
   肉眼に視える形にあらわすのと同じように、

   私たちの生命は時間空間という「 認識の形式 」を“ 心でつくって ”、
   その形式面上に具象化して見るのである。

   そのような「 認識の形式 」を通して見る其(そ)の途上に於いて、
   あらわれる形に歪(ゆが)みがでて来たのが、色々の現象界にあらわれる
   擾乱(じょうらん)であり、混乱であり、病気であり、災害である。

   それは恰もテレビに故障を生ずると、画像が歪んで崩れてくるのと同じである。

   心でつくった「認識の形式」であるから、
   その画像(現象界の出来事)の歪みを直すには、
   心を直して、神からの放送電波に波長を合わすほかはないのである。

   受像のチャンネルを直さないで歪んだ画像を正しくしようと、
   いくらテレビ・セットに祈ってみても、何の効果もないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

             <感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>

《あなたは現象の不完全に心を捉われない》 - 伝統

2016/09/22 (Thu) 18:47:28


           *『 生長の家 』(昭和26年6月30日の法語)より

   あなたは決して現象の一時的な不快な出来事に
   「 心 」を腐らすことはないのである。

   どんなに金銭が失われようとも、職業が失われようとも、
   その他(た)如何なる外界の事物が都合よく行(い)かないにしても、
   自分の「 心 」は外界の如何なるものよりも
   大切なるものであることを知っているからである。

   心が腐って来そうな時には、眼を瞑(つぶ)って
   「 心 」を神の方向へ振り向けるのである。

   さすれば忽(たちま)ちにして神の栄光は
   自分の「 心 」の中に輝き渡り、
   現象に引っかかったために起った不快な思いは吹きとばされ、

   光風霽月(せいげつ)のように澄み切った心の中に
   神の智慧が輝き渡って来るのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

             <感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>

業を放ち、不完全な姿を否定せよ! - 伝統

2016/10/03 (Mon) 18:04:30


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月3日>(P93)より

業が業として人間を縛るのは、心で業をつかむからである。
もっともその「心」というのは現在意識ばかりではない。

人類意識の通念(共通の観念)の中にあって動かされている個人の心は、
無意識のうちに業をつかんでいるのであって、過去の波動をつかんで、
それを実在のごとく見るのは

ちょうど映画において過去にロケーションしてフィルムに描いた光の波動が、
ずっと後(あと)になって映画館で実在のごとく映写されて見えるのと同じことである。

かくしてありもしない存在、ただの映像にすぎないものを実在するがごとく見るのである。
かくして、貧乏や、病気や、いろいろの不孝災禍を見るのである。

われわれはそのような不完全な姿を非実在と否定しなければならない。

           <感謝合掌 平成28年10月3日 頓首再拝>

「認識の形式」の上に投影されたる影 - 伝統

2016/10/04 (Tue) 18:31:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月4日>(P94)より

多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて必ずしも実在(ほんとにある)ではない。

映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、それは実在(ほんとにある)では
なくてただ光の波にすぎないと同じように、病気も病菌も、それは多勢に見え、
光学的に見えるけれども実在ではないのである。

それは心の波が「時間・空間」という「認識の形式」の上に投影されたる影である。
「認識の形式」というのは、人間の心の中につくられている映写機のようなものである。

見えるということと、「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動をロケーションしなければそんな姿はあらわれない。

           <感謝合掌 平成28年10月4日 頓首再拝>

現象はただ足跡である - 伝統

2016/10/09 (Sun) 19:42:18


          *『白鳩』(昭和21年5月号)
            / 『新生の書』、『大和の国 日本』 より 
 
或るとき、或る女中が斯う云ったことがある。

『私は毎日同じ掃除などをし、同じ食事の支度などをしておっても
少しも進歩と云うことがありませぬ。 

生命の進歩があるので、生命の営みに値打ああるのでございますが、
こんな進歩のない仕事をするのは詰らないことでございますから、
私一人で生活していた時にはなるべくお掃除もお食事の支度も易々加減にして
懶(なま)けていたのでございます。』


結果を見ると云う心は、現象を見る心である。

進歩と云うこと、如何に尊いものに見えるが、物質科学や、科学技術の進歩が
人生に何を齎(もた)らしたかと云うと、戦争による大量殺人であったのである。

掃除の仕方にも食事の支度いも、工夫もあり進歩もないことはない。 
しかしそれは殆どみとめられない程の小さな工夫と進歩とである。 

そして其の掃除した家も畳もやがていつかは朽ち果て無くなるものであり、
工夫して食事をつくってみても咽喉元三寸の美味であり、栄養で養われた肉体も
やがて消えて行く  

―  考えて見れば掃除のみならず、食事のみならず、
現象の此の世界の一切のものは儚く消え行くものであって、
努力精進するほどの価値のあるものは何一つないのである。

このような物の考え方では、如何なる文化も、やがて此の地球という一天体が
絶滅すると同時に、一切が絶滅するのだから価値はない。 
絶滅するものにムキになって努力するのは愚かなことである。 

結局、灰身滅智(けしんめっち)の小乗仏教のように
山にのがれて死を待つより仕方がなくなる。


併し、何故吾々はそんなに、現象の結果のみを見なければならぬのであろうか。

現象は無常である。 
無常とは 『無い』 ことである。 
無常を見れば人生に価値は無い。 

無常なるものの奥にある 『常恒』 なるもの現象の一瞬一瞬の移り変りの奥にある 
『いのち』 そのもの、そのいとなみが尊いのである。

今・此処の一点に 『久遠の生命』 が生きている  ―  何事でもその一点に
一処に全生命をかけて生きるとき、一点・一処・今・此処そのままに 
『久遠の生命』 が行じているのである。 

生命は行である。 

現象の結果は、生命の足跡に過ぎない。 
足跡は消えても、生命はただ行ずるのである。 
生命は足跡を振り返って見はしないのである。 

生命は前進あるのみである。

太陽は‘ただ’照っている。 
植物は‘ただ’生うる。 
‘ただ’は生命の純粋の歩みである。 

報いをもとめるな。 
結果をもとめるな。 

それは生命の純粋行と云うことは出来ない。

  (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19647503.html より転写)

           <感謝合掌 平成28年10月9日 頓首再拝>

現象なし実相独在 - 伝統

2016/10/16 (Sun) 19:30:46


        *「生命の實相」第27卷久遠仏性篇(P28~29)より

生長の家は「物質なし」「肉体なし」の喝破によって、
他の教えのように生老病死の現実世界が《あると認めつつ》、
他方に生老病死のない世界を欣求(ごんぐ)したり建立(こんりゅう)したり
しようとする必要がなくなったのであります。

「生老病死の現実世界」はあるように見えても《無い》と喝破された。

ここに苦しい娑婆世界が《あるのに》それを解脱するというのではなく、
もう《すでに》そんな生老病死の世界は《無い》と喝破されたのであります。

はるかに彼方の世界に、未来の世界に、理想の世界に、極楽浄土を描いて、
その浄土をこれから欣求したり建立したりするのではなく、

《すでに今ここに極楽浄土があり、すでに今ここに極楽満ち備われる仏なる自分がある
ということを喝破したのであります。》

《すでに》、《ここが》、《この現実世界が》、(といっても五官に見える世界ではない)、
《この》、《この今なる世界が“実相浄土”》であり、
《この》、《この身》が(といっても五官に見えるこの身ではない)、

このここに在るこの身がすでに生老病死を超越した
仏身、金剛不壊身常楽身であることを喝破したのであります。

さればこそ生長の家のわれらは今、現実世界にも無限の健康が見いだされ
無限の能力が見いだされ、無限の供給が見いだされ、また常楽歓喜の現実浄土が
見いだされているのであります。

           <感謝合掌 平成28年10月16日 頓首再拝>

現象無しと完全に知る日 - 伝統

2016/10/22 (Sat) 19:04:57


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月22日)より

【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
                          (『生命の實相』第十一巻)】

二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。

仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。


却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。


一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、

「空とは単に無しと云う意味ではない。空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空であると観ずるのが”真空妙有の観である。
これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」
等と云われるのである。

非有非空と言えば中々偉そうだが、「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。

一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)でが食べる訳にも
行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。

           <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>  

現象無し、妙有のみ実在 - 伝統

2016/10/24 (Mon) 19:30:16


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月24日)より


「物質無し、肉体無し、心も無し、ただ妙有のみあり」
―― 此の「無し」と「有る」とを明瞭に裁断したところに生長の家の新しき真空妙有の
説き方があり、それが驚くべき奇蹟をあらわし、

キリストの言ったところの「吾れを信ぜずとも、わが業(わざ)を信ぜよ」と言った如き
業績が続々あらわれるようになったのである。

「真空」とは”現象が真空であり”、真無なのであって、
妙有が真空なのでもなく、真空が妙有なのでもない。
”現象が真空であり”、”実在が妙有なのである”。

妙有とは捉えどころのないエーテルの如き、風の如き、煙の如き頼りなき存在の意ではない。
妙有は妙なる具体的金剛不壊の存在である。
「妙有の人間」は清浄無垢健康そのものの具体的実在人間である。

妙有の人間は”肉体病むと見ゆるときにも、今だ嘗て病みしことなく”、
”又これからも病むことなき真人間(リーアル・マン)である”。

それは五官に触れ得ない故に非有(あるでもない)、非空(ないでもない)などと
古い仏教では形容したのであろうが、後世人をして人間の真実性を補足するに
くるしませる結果となったのである。

「人間は仏性である、仏性こそ人間である」と云うが如き表現法(いいかた)でも尚足りない。

「真の人間」は仏性と云うような抽象的存在でもない、
具体的な仏身であり、金剛不壊身である。

           <感謝合掌 平成28年10月24日 頓首再拝>

「妙有の世界」今此処にあり - 伝統

2016/10/25 (Tue) 18:45:13


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月25日))より


【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。(『生命の實相』第十二巻)】

(一)人空 ―― 曰く、

   物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。

   「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、現象肉体の人間よりも、尚一層具体的で
   あり、尚一層金剛不壊であり、真清浄真無垢真健康なるが故に、それを自覚するとき
   病気が頓(とみ)に癒えるのである。

(二)法空―― 曰く、

   物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
   空にして本来存在しないと否定せよ。而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。

   「妙有の世界」とは現象世界よりも一層具体的な金剛不壊の世界である。
   現象世界は具体的に見えていても崩れるが、「妙有の世界」は現象世界が破壊すると
   見ゆるときにも「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と釈迦が「法華経」に於て
   説いたところも金剛不壊の世界である。

   金剛不壊と云っても祖元禅師が「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」
   と言った如き、風の如きエーテルの如きものであるから、斬っても斬れないと云う
   ような頼りなき世界ではない。

   「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生の遊楽するところなり、諸天天鼓を打ち
   伎楽を奏し、曼陀羅華を雨ふらして大衆(だいしゅ)に散ず」と「法華経」の自我偈
   にあるが如き具体的妙(たえ)なる世界である。

           <感謝合掌 平成28年10月25日 頓首再拝>

《不完全の状態はただ迷いの影である》 - 伝統

2016/12/03 (Sat) 17:54:02


        *『 生長の家 』(昭和25年10月2日の法語)より

   迷いの心は、実相完全円満の状態とは全然異る状態を
   空想してつくり上げる。

   人間が肉体であると見えることは時間空間面に投影して
   描いたところの自己欺瞞(ぎまん)的映画に過ぎないのである。

   時間空間は 「 認識の形式 」 謂(い)わば
   映画の銀幕(スクリーン)のようなものである。

   吾々の迷いの心は 「 時間空間 」 の銀幕上に、
   始終感覚にて暗示され連想される妄想を描いて
   それをあらわすのである。

   ただ神のみが創造者であるのである。

   それにも拘(かかわ)らず、
   この世界に「悪」が「病気」が現れて出ているのは、
   それは真に実在するのではなく、唯、迷いの心の反映である。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

   (*『幸福を招く365章』第12項(P242)に収載)

           <感謝合掌 平成28年12月3日 頓首再拝>

現象に捉われない - 伝統

2016/12/10 (Sat) 18:38:52

          *「光明道中記」(11月9日)より

【人生の悩み苦しみは病気の痛みと同じ、神の子たる真性を顕す働きである。
                             (『生命の實相』第二巻)】

或る講師が地方で講演した。
講演の最中にその講師は嘔吐をし、下痢を催した。
それでもその講師はその講演をつづけたし、その夜の大講演会にも出て講演したのであった。

生長の家の講師ともある者がどうしてあんなに肉体に不調和を顕すのだろう。
それで生長の家も権威はないではないかと云う投書が来た。

成る程、講師の権威と云うものは嘔吐(へど)を吐いたら無くなるし、
嘔吐を吐かなければ権威があるらしく見えるし、
それでは、そう批判する人もまるで現象に振り廻されているのではなかろうか。

そう批評して来た投書家も心で「痰唾(つば)を吐きかけて」いればこその批評である。
肉体に何か間違ったものを食べて嘔吐するのは治す作用(はたらき)であるが、
心に不快なものを見て、言葉の痰唾(つば)を吐く者は何と批評せらるべきものか。

すると又、弘法大師は即身成仏と悟った高僧だと『生命の實相』に書いてあるのに、
何故(なぜ)大患に罹ったか、返答して欲しいと云うような投書も来ている。

そうして現象でそんなに点数がつけたいのであろうか。
点数をつける代りに嘔吐はきながらでも講演を続けて下さるその心を
もっと拝めるように私はなりたい。

          <感謝合掌 平成29年12月10日 頓首再拝>

《心に悩みを抱いてはならぬ》 - 伝統

2016/12/22 (Thu) 19:15:38


          *『生長の家』(昭和25年7月29日の法語)より

   アルコールを飲用してその習慣からぬけだしたいと
   現在意識で考えながら、それから抜けだすことのできないのは、
   潜在意識にアルコールの麻酔力によってごまかさなければならない
   ような心の悩みがあるからである。

   しかも飲酒の悪癖を禁止しようと思いながらも、
   それを止め得ない意志の弱き自責の感情のいらいらしさが、
   更にそれをごまかすために
   アルコールの飲用をすすめることにもなるのである。

   酒をやめたいと思うものは
   家庭全体に感謝するようにならなければならない。

   そして 「 悪癖がある 」 などと思わずに
   「 酒をのむ自分も無い 」 と知ることである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

          <感謝合掌 平成28年12月22日 頓首再拝>

不完全な世界は無い - 伝統

2017/03/02 (Thu) 18:52:52


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月2日)」より

啓示の第二 ――

人間は完全である。人間に病気はない。
これは第一の創造である。エロヒム神の創造である。
「創世記」の第一章にある創造神の名は、エロヒム神である。

人間には病気がある。神は土の塵にて造られたるゆえに土の塵に還らん ―― 
これは第二の創造であり、エホバ神の創造、「創世記」第二章以後の創造である。

エホバ神の創造した人間は本質において「土の塵」であるがゆえに、
本質においてエロヒム神の創造したものを神へと背反させた。
換言すればすべての被造物をエデンの楽園から追い出したのである。

かくして「エデンの楽園」から追放せられたる人間は苦しみて食を得、
苦しみて子を生むことになったのである。

しかし、エデンの楽園の世界のほかに国土があるだろうか。

神 ―― 全智にして、全能、無限愛にして救いの行きとどいている神が
「その造りたる全てのものを視(み)たまいけるに甚(はなは)だ善かりき」
とある以上は、すなわち、すべての国土はエデンの楽園であったのだ。

エデンの楽園のほかに国土はない。

このエデンの楽園なる国土を実在の国土または実相の国土という。

実在の国土のみが《ある》。実相の国土のみがある。エデンの楽園のみがある。
エデンの楽園から人間を逐い出しても人間が行くべき国土は造られていない。
だから人間は常に今エデンの楽園に住んでいるのだ。

そこでこういうことがわかる。
《真実の人間》はどうしてもエデンの楽園から追放され難きものである。

もし神の造り給いし実在の国土に、エデンの楽園以外のごとき不完全な世界があると
予想するならば神を冒涜するものである。神を涜(けが)すものである。

では、真実の人間はエデンの楽園を決して逐い出されてはいない
 ―― この実相(ほんとのすがた)に目覚めよ。

そしたら「誰が?」エデンの楽園から
エデンの楽園以外の「どこへ?」逐い出されたのであるか。

誰が? どこへ? 
答えて曰く ―― 「無い人間」が、「無い世界へ」逐い出されたのである。

神は決して、罪を犯すような悪の人間をこの世界に造っておかなかったし、
そんな人間をとじ込めておく牢獄的世界を造ってもおかなかったのある。

            <感謝合掌 平成29年3月2日 頓首再拝>

現象を否定し、実相を肯定せよ - 伝統

2017/03/03 (Fri) 18:16:14



          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より

しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。

人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を
苦しんでいるごとく今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。

否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。

いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。

《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。

おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。

これが否定の妙用である。

慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。

苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。

かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。

無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。

            <感謝合掌 平成29年3月3日 頓首再拝>

物質はない!、現象もなし!、心もなし! - 伝統

2017/03/24 (Fri) 19:30:53


          *「生命の實相」第20巻自伝篇(P134~138)より 


ある日、わたしは静座合掌瞑目して真理の啓示を受けるべく念じていた。

わたしはその時、偶然であろうか、神の導きであろうか、
仏典の中の「色即是空」という言葉を思い浮かべた。

と、どこからともなく声が、大濤(おおなみ)のような低いが
幅の広い柔らかで威圧するような声が聞こえてきた。

「物質はない! 」とその声は言った。

で、わたしは「空即是色」という言葉をつづいて思い浮かべた。


と、突然その大濤のような声が答えた。

「無よりいっさいを生ず。
一切現象は念の所現もして本来無。
本来無なるがゆえに、無よりいっさいを生ず。

有よりいっさいを生ずと迷うがゆえに、有に執して苦しむのだ。
有に執せざれれば自由自在だ。

供給無限、五つのパンを五千人にわかつてなお余り、
『無』より百千億万を引き出してなお余る。

現象界は念のレンズによって転現せる化城にすぎない。
かしこに転現するとみゆれどもかしこに無し。
ここに転現すると見ゆれどもここに無し。

知れ、一切現象無し。
なんじの肉体も無し。」

では、心はあるであろうかと思うと、その瞬間、
「心もない!」とその声は言うのだった。

今まで、わたしは「心」という得体の知れない悍馬があって、
それを乗りこなすのに骨が折れると思っていたのだ。

ところが「心もない!」という宣言によって、
わたしは、その「心」の悍馬から実相の大地に降りたのであった。

「心もなければ何も無いのか」とわたしは再びその声の主にたずねた。

「実相がある! 」とその声はハッキリ答えた。

「無のスガタが実相であるか。皆空が実相であるか。」とわたしは尋ねた。

「無のスガタが実相ではない。皆空が実相ではない。皆空なのは現象である。
五蘊が皆空であるのだ。色受想行識ことごとく空である! 」

「空と無は異なるとは思うな。
五蘊皆空であるのに空とは無ではないと思うから躓く。

空と無とは異なると思い、『無ではない』と思うからまた
『五蘊は無いではない』と引っかかるのだ。

『五蘊は無い』とハッキリ断ち切ったところに、実相が出て来るのだ。
無いものを無いとしたところに、本当にアルモノが出て来るのだ。」

「では、実相とはなんであるか」とわたしは訊いた。

「実相とは神である。あるものはただ神のみである。
神の心の顕現のみである。これが実相だ」

ここに神というのはむろん「仏」という意味も含んでいた。

「心も無いのが本当ではないか。」

「無い心は受想行識の心だけだ。
そういう意味でなら仏もない、衆生もない。
心、仏、衆生三無差別と説く場合には、心もない、仏もない、衆生もない。

衆生を抹殺(ころ)し、仏を抹殺し、心を抹殺し、いっさい無いと
いっさい抹殺したときに、実相の神、久遠実成の仏が出て来るのだ。」

「それが、キリスト教ならイエスを十字架にかけることになるのですか。」

「そうだ。肉体イエスを抹殺した時、実相のキリスト、
アブラハムの生まれぬ前から生き通しの久遠のキリストが生きているのだ。
イエスの十字架は現象を抹殺せば実相が生きて来るという象徴である!

今、ここに、久遠生き通しの生命が復活する。

今だ、今だ! 
久遠の今だ! 
今が復活だ! 
今を活きよ。」


わたしの眼の前に輝く日の出のような光が燦爛と満ち漲った。
何者か声の主が天空に白く立っているように思われたが、それはハッキリ見えなかった。
しばらくするとその燦爛たる光は消えてしまった。

わたしはポッカリ眼をひらくと、合掌したまま坐っている自分をそこに見出したのであった。

            <感謝合掌 平成29年3月24日 頓首再拝>

罪・病・死は浮雲の陰影、実相は円満完全 - 伝統

2017/07/06 (Thu) 19:05:05


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月6日>(P8~10)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、やはり金殿玉楼に
錦秋を纏うて眠っているということの事実を否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、万(よろず)の
よきものが充満している世界であるのだということにまちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり・・・わが浄土は壊せざるに、
衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」とあるのを、

たいていの仏教者は、「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝
がいっぱい飾ってあるのも同じようなものだ。

この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、いつも花降るような心境に
いられるのだ」というような意味に解釈しているのであるが、これはすこぶる浅い解釈だと
言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、その実相円満完全の表面に、
心頭を滅却したり、心境を一変したり、向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。
三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 平成29年7月6日 頓首再拝>

病気・不幸・災禍はすべて夢である - 伝統

2017/07/20 (Thu) 02:08:59


         *『真理』第4巻 青年篇(P306~307)より

既に述べました通り、宇宙は物質でなく、
真空の内に満ちている普遍的な意識によって作られたものであります。
材料も作働力も設計力も全て宇宙意識から得られた処のものであります。

宇宙意識はすべての生命・智慧・愛・供給・美・調和の本源なのであります。
それは本源であるばかりでなく、一切の事物そのものであります。
それ以外には何物も存在しないのであります。

だから凡らゆるものは、それが存在する限り宇宙意識のあらわれなのであります。 

しかし存在するという事と、視えていると云う事とは異なるのであります。
病気は視えているけど存在しない。
不幸は視えているけど存在しない。
死は視えているけど存在しない。

それは利鎌(とがま)のような月は如何に見えていようとも、
実際存在するのは円月ばかりでありますように、
人間はどんなに病気に見えていましょうとも健康のみが存在する。

月が山の端に隠れて非存在に見える時にも、月は依然として存在するように、
人間も死んだように見えた時にも依然として存在するのであります。

だから病気や死は単なる夢に過ぎないのであります。

         <感謝合掌 平成29年7月19日 頓首再拝>

《ニセモノ(悪いもの)は本来ナイ》 - 伝統

2017/08/05 (Sat) 19:08:09


         *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P198) より

あなた自身を神の創給(つく)りたまうた
其の儘の完全な相(すがた)であるとみとめましょう。

創世記には「神その造りたる全てのものを見給いけるに甚(はなは)だ善かりき」
と書かれているのである。

神の創造(そうぞう)せられた一切のものは
「甚だよし」即ち完全円満であって悪いものは本来無いのである。
悪いものは本来無い以上、悪なる病気や貧乏や戦争などは存在しないのである。

これが事物の実相である。

実相は実のスガタであって、実のスガタ以外のものはニセモノだ。
ニセモノは実のスガタの如く「見せかけ」ているだけであるから
アルかの如く見えても本来《無い》のである。

 
ではナイものが何故《アル》かと如くあらわれているかと言えば、
それは三界唯心であって、心のあらわす所であるのである。

心で病気をつかんでいる間は病気は消えないし、
ソ連とアメリカとが心で戦争をつかんで準備している間は
戦争の危険は消えないのである。

         <感謝合掌 平成29年8月5日 頓首再拝>

「認識の形式」の上に投影されたる影 - 伝統

2017/10/04 (Wed) 18:13:05


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月4日>(P94)より

多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて必ずしも実在(ほんとにある)ではない。

映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、それは実在(ほんとにある)では
なくてただ光の波にすぎないと同じように、病気も病菌も、それは多勢に見え、
光学的に見えるけれども実在ではないのである。

それは心の波が「時間・空間」という「認識の形式」の上に投影されたる影である。
「認識の形式」というのは、人間の心の中につくられている映写機のようなものである。

見えるということと、「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動をロケーションしなければそんな姿はあらわれない。

           <感謝合掌 平成29年10月4日 頓首再拝>

現象無しと完全に知る日 - 伝統

2017/10/22 (Sun) 20:46:56


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月22日)より

【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。

仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。


却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。


一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、

「空とは単に無しと云う意味ではない。
空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空であると観ずるのが”
真空妙有の観である。
これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」
等と云われるのである。

非有非空と言えば中々偉そうだが、
「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。

一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)では食べる訳にも
行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。

           <感謝合掌 平成29年10月22日 頓首再拝>  

現象は無常である - 伝統

2017/12/12 (Tue) 19:04:34


         *「第二青年の書」第4章 より

現象の事物は、丁度カメレオンの皮膚みたいなものであります。

カメレオンという蛙みたいな小動物がありますね。
虫を捕捉するのに舌の長いのを腸を吐き出すみたいにシュッと発射して、
それで虫を取って食う動物でありますが、
の動物の皮膚の色が保護色で始終変わる。

黄色い色がカメレオンの色であるかと思っていると、そうじゃないので、
すぐ周囲の色に応じて土色をしている。

或る時には木の葉の緑の色をしているというふうに、始終色が変わる。
これが現象であります。

現象というものは始終変わっている。
現象はこのカメレオンの皮膚みたいに始終変わっているのですけれども、
“カメレオンそのもの〟は変わらない。

それと同じ事です。
始終変わっているのは本来無いからです。

生長の家では「現象は無い」と教えています。
“遷(うつ)り変わるもの〟は「本来無い」のであります。

それは、カメレオンが黄色い色をしている時に天然色写真を撮ったら、黄色く写る。
或は赤い色をしている時に撮ったら赤い色をして写るかも知れんけれども、
その赤い色も黄色い色も、本来無いのです。

無いからこそ、それは消えて又別の色になってしまうのです。
カメレオンそのものはあるけれども、黄色い色のカメレオンは無い。
そういう色を見せているだけの事です。

そのような訳でありまして、
現れて見えるのは、只現れて見えているだけであって、無いのである。

本当にあるのは「霊的實在」だけであるというのが眞理であります。

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/mode=res&log=1943 より転写)

           <感謝合掌 平成29年12月12日 頓首再拝>  

現象を否定し、実相を肯定せよ - 伝統

2018/03/03 (Sat) 19:13:11


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より

しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。

人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を
苦しんでいるごとく今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。

否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。

いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。

《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。

おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。

これが否定の妙用である。

慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。

苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。

かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。

無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。

            <感謝合掌 平成30年3月3日 頓首再拝>

《覆土(ふくど)を排除することによって新芽は伸びる》 - 伝統

2018/03/19 (Mon) 19:17:39


          *『 生長の家 』(昭和40年3月12日の法語)より

   神は時間、空間を超越し、唯一の実在者であることを知るとき、
   一切の悪は非存在であるという自覚に目醒(めざ)めてくるのである。

   現象の世界を見るならば、
   色々の“悪の力”が存在するかのように見えるのである。

   しかし現象は“仮存在”であり、実相は“ 実在 ”であるから、
   実相を自覚したとき、
   現象界の“悪の力”は、その自覚者を害することはできないのである。


   それでは、神想観ばかり修して座っておれば、“現象悪”に対して
   何ら対処することなくして“現象悪”が消えてしまうかといえば、
   必ずしもそうではないのである。

   土に埋(うず)もれている種子(たね)が太陽の光熱を適当に受けるとき、
   土を排除して芽を吹き出す働きが起こるように、
   自然に“悪の力”(実相の顕現を覆うて妨礙(ぼうがい)する力)を
   排除する働きが起って来るのである。

   実相を観じていさえすれば、安保条約や軍備がなくてもよいではないか、
   憲法改正などしないでもよいではないか。ソ連からでも中共からでも、
   日本へ来たい者は自由に入国させてやればよいではないか ー などという議論は、

   「 実相の芽 」が顕われるために「覆土(ふくど)」を排除しないでもよい
   ではないかという議論に似ていて、実相の完全さと現象処理の問題とを
   混同した議論である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

           <感謝合掌 平成30年3月19日 頓首再拝>  

《「夢」を打ち消せ》 - 伝統

2018/05/01 (Tue) 19:55:38


       *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第10篇(P275)より

すべては霊である。
何故(なぜ)ならすべて実在するものは、
「神」とその「表現」とであるからである。

神は完全であり調和であるから、完全であり調和であるものから
不完全または不調和が表現されると云うことはあり得ないのである。

それゆえ、神の最高の自己実現である人間が不完全になり不健康になっている
と云うことはあり得ないのである。

それが不完全になり不健康にあらわれているのは、
「妄心(もうしん)」が夢を見ているのである。


あなたが不健康だったらそれは夢です。
あなたの子供が不良だったらそれは夢です。
あなたに職業がなかったら、それは夢です。

あらゆる不完全なものを心の中で「思念」によって「夢だ」「夢だ」と打ち消しなさい。
そしてあなたの「実相」である完全さを《既に》「実在」であると、
心の中で繰返し繰返し肯定なさい。

実相世界の完全さに波長が合うまで
その肯定が高調したとき実相の完全さが現実化します。

           <感謝合掌 平成30年5月1日 頓首再拝>  

現象は無い、無いものは無い - 伝統

2018/05/13 (Sun) 17:34:50


        *「希望を叶える365章」(P212)より

現象に功徳を求めている間はまだその人の信仰は浅いのである。
奇蹟は「神との一体の自覚」によって自然に起こるのであって、
求めるから起こるのではないのである。

求める心の反面は「欠乏」の自覚であるから、
「神との一体の自覚」とは凡(およ)そ裏はらである。

「神はすべての善」であり、その神との一体感が深まったら
何物も求める必要は無くなる筈なのである。


如何なる功徳も求める必要はなく既に一切の善を兼ね備えているのが
「神の子」の自覚である。

現象の欠乏と見えるものに齷齪(あくせく)するな。
現象の病気見えるものに恐怖するな。

既にあなたは無限の富者であり、既にあなたは無限の健康なのである。

           <感謝合掌 平成30年5月13日 頓首再拝>

現象なしの自覚について ~その1 - 伝統

2018/05/30 (Wed) 20:29:32


      *「生命の實相」第24巻質疑篇(P88~91)より

(問)―― 病は《ない》ということはない。病は現象としてあるので《ある》。
それはただ実在ではないのである。それを「病《なし》」と言いきるのは言いすぎである。
現象は無いことはない、現象を全否定してしまうのはまちがいである。
現象は本体的実在ではないことはもちろんであるが、本体展開して現象となるのであって、
現象なしと言いきってしまうのは奇矯だと言う人があります。(中根氏出題)


(答)―― 

生長の家では「現象は実在ではない、病は実在ではない」という言葉を
各所のページで説いておりますが、また時には、非実在(ひじつざい)と書いて
「あらず」とか「ない」とふりがなをつけたところもあります。

が、近ごろはいっそう平易なわかり易い言葉で、直截的(ちょくせつてき)簡明に
『病気は《ない》』『現象はあるようにみえても《ない》』と
力強く言いきることにしているのであります。

わたしがなぜこう言うかは悟った人は知っていると思います。

われわれが平常使っている言葉は、現象界を言いあらわす言葉であって、
実相に直参する言葉ではありませんから、その言葉をそのまま利用して、
《至妙の実相に直参せしめる》ためには、普通とちょっと違う
「奇妙に見えるかもしれない」言葉を使うのであります。

言葉は月を指す指であって、言葉の表現にとらわれていては、
月を指す指の形が太いとか細いとか議論していると同じで、
いつも月が見えないことになるのであります。


「現象は《ない》」という言葉をわたしが使うようになるには
霊感的な導きはむろんありますが、わたしとしては人間的にも
よほど苦心したのであります。

第一、「実在」という言葉は哲学上の言葉でありまして、
普通の人には(少なくとも中学程度卒業くらいまでの哲学的素養なき人には)
理解しがたい言葉なのであります。
 
「実在」とは何を意味するかということになりますと、
大変むずかしいことになりまして、『生命の實相』のような
大衆の光明化を目指している聖典には、こんなむずかしい言葉は
なるべく少なく使いたいと思いました。

ある信徒の方はわたしに「生長の家は高遠の真理を驚くほどやさしく書いてありますが、
どうもまだ言葉がむずかしいと言う人が多いから、できるだけやさしく書いてくれ」
というような注文もせられたのであります。

いろいろ考えたすえ、この「実在」という哲学上のむずかしい言葉を、
わたしはたんに「アル」または「本当にある」という言葉に代えたのであります。

これを哲学的に理屈を捏ねて、実在で《ない》というのと
単に「《ない》」とは大いに意味が違うような言葉の穿鑿問題に
浮き身をやつすのはまちがっているのであります。

わたしの使っている言葉にはいろいろ平易化の上に苦心があるのですから、
言葉で引っかかって揚足をとらずにその真意を知って
実相に直参していただきたいのであります。

が、「実在」と「アル」とはそんなに問題にするほど違いません。
また、その逆、「実在でない」と単に「ナイ」とはそんなに違いません。

「実在」という言葉はむずかしそうな言葉でありますけれども、
英語では、“Being”すなわち「在ること」という字を使って
「実在」と言うのであります。

わたしはこの英語の易しさに感心しました。

「実在」と言わずに「アルコト」とは平易で要をつくしています。
「実在」が「アルコト」であれば、「実在でない」ことを「ない」と平易に言ったら、
かえって平易でわかりやすいと思います。

 
むろん、英語の“Being”を「実在」と読ませるにはBを花文字にしてあります。
日本語には花文字がありませんから、花文字を使うわけにゆかないので、
前後の関係で「実在でない」という意味をわからすように苦心した上で
「ない」という言葉を使い、また時々、花文字の代わりに、その「《ない》」という
言葉の所に傍点を付したりして、それとなく解るようにしてあるのであります。

           <感謝合掌 平成30年5月30日 頓首再拝>  

現象なしの自覚について ~その2 - 伝統

2018/07/04 (Wed) 17:44:49


      *「生命の實相」第24巻質疑篇(P91~94)より

生長の家で、「現象は無い、肉体は無い」とハッキリ「無い」と言いきることに
反対する人に二種あります。

その一説は、色即是空の「空」という字は単に「ない」という言葉と異(ちが)う、
アルにはアルのであって何かアル、それは実在でないと言うだけだ、と言う人であり、

その二は「諸法実相」という仏教上の言葉を「現象即実相」と解する人であります。

ところが、仏典には「空」をハッキリ「無し」と断言してあるところもあります。

『般若心経』にも「五蘊皆《空》」と書いてあって、
その「空」を説明するためには、「色受想行識もまた《無し》」とか、
「老死《無し》」とか、「老死の尽くることも《無し》」とか、
仏教でもやはり「無い」という言葉を持ってきて説明するほかに
仕方がないのであります。

「老死」すなわち老いたり死んだりすることは現象でありますが、
『般若心経』には「老死というものは単に無いのではない、現象としてはあるのである。
実在でないだけである」というように、長たらしい緩慢な表現の仕方をしてないので、
端的に簡明直截的に「老死《無し》」と一喝し、

始めから人間に老死は《無い》のだから、これから悟って無くなる
というようなものでないという意味をふくめて「《老死の尽くることも無し》」
と言っているのであります。

『般若心経』の用語などでも「空」とは単に無とはちがうというような
批評をせられる人から見たら、「老死無し」というのは言葉が奇矯である。
老死は《実在に非ず》と言わなければまちがっている。

もし「老死無し」というような奇矯なことを『般若心経』に書いたら
人心を惑わすものであると経文の結集者に抗議を申し込まねばならぬでありましょうが、

その当時は言葉に引っかかる人がなく、
用語がまずくても経文の神髄をつかむ人が多くて、その経を読んでも気狂になる人もなく、
かえって気狂が治るくらいで、今に至るまで、この経文が改竄された
ということを聴かないのであります。

 
実際に『生長の家』を読んで「不完全な現象はあるように見えても《ない》のだ」
また「ただ至妙の実相のみが《ある》のだ」と教えられても、
続々と病気が治る、環境が治る、経済状態がよくなる実例があらわれるのは
なぜでしょうか。

はたして「現象は《ない》」「病気は《ない》」「不幸は《ない》」等々……
というふうに「《ない》」という言葉を使うことが、不適当なのであれば、
そういうよい結果が起こることはありません。

 
世間普通の人は、現象界の出来事は皆そのまま《ある》と思っているのです。
それで、現象の一種である病気も《ある》と思っている。老死も《ある》と思っている。
不幸も災難も《ある》と思っている。

《ある》と思うがゆえに捉われ、捉われるがゆえに病気にかかりやすく、
かかった病気が治りがたく、かえって老死を速め、不幸災厄の前に屈服してしまうのです。
 
しかしそれらの不完全な現象は、「あるように見えても《ない》んだぞ」と
わたしが掛け声をかけてあげると病気に崩折れていた人が妙に立ち上がり、
もう老衰していたと見える人が若返って白髪まで黒くなり、

不幸の前に勇気を失っていた人が勇気を回復して事業に邁進成功し、

意地悪の姑や、放蕩の良人なども、あるように見えても《ない》んだぞと掛け声をかけると、
そんな悪い姑や良人はない、神の子たる本当に深切な姑や良人ばかりがあると思って
姑や良人に隔意(かくい)なく事えるようになって、
今まで地獄状態であった家庭が光明化した実例もたくさんあります。

「ない」という言葉と「実在でない」という言葉は哲学上の論議を交す場合には、
あるいは厳密に区別して使わなければならぬ時もあるかもしれませぬが、

生長の家でわたしが「ない」という言葉を現象に関して使う場合は、
哲学上の理屈をこねるためではなく、老病不幸等(現象)を《ある》と思って
執着していて、かえって迷い苦しんでいる人に、

その迷い苦しみを取り去るために、応病与薬的に投げかける喝であって、
それが「言葉の薬」として実際的に迷いを去る上に効果を顕わして迷いが去り、
老病不幸が治っていれば、それでわたしの目的はとげられ、
信徒が『生長の家』や『生命の實相』を読む目的を達せられているのであります。

           <感謝合掌 平成30年7月4日 頓首再拝>  

罪・病・死は浮雲の陰影、実相は円満完全 - 伝統

2018/07/06 (Fri) 18:53:01


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月6日)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、
やはり金殿玉楼に錦秋を纏うて眠っているということの
事実を否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、
万(よろず)のよきものが充満している世界であるのだということに
まちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは
肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に

「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり
・・・わが浄土は壊せざるに、衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」

とあるのを、

たいていの仏教者は、

「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、立派な堂塔伽籃が
そびえ立って立派な宝がいっぱい飾ってあるのも同じようなものだ。

この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、
いつも花降るような心境にいられるのだ」

というような意味に解釈しているのであるが、
これはすこぶる浅い解釈だと言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、
その実相円満完全の表面に、心頭を滅却したり、心境を一変したり、
向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。

三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 平成30年7月6日 頓首再拝>

現象が消えた次には一層よき現象が - 伝統

2018/07/27 (Fri) 20:25:33


        *「希望を叶える365章」(P208)より

神想観は、神の現前を自己に於いて体験し、自己が神にまで下向し、
神と自己とが不可分の一体であるとの自覚を養成するための行事だとも言い得る。

神との不可分の一体感を得ることは、一切の”善”と自己との一体感を得る
ことであり、”無限供給”との一体感を得ることであり、
無限の富との一体感を得ることであるのである。


現象の個々の「善き物」に心を捉えられて、それに執着していると、
現象は無常であるから、いつかは、捉(つか)まえているものが減少したり、
滅びたり、衰えたり、消えてしまったりするものである。

現象界は映画のような影であるからやがて「終(おわり)」が来る。
終(おわり)が来ても映画作者の創作力が衰えない限りは、
もっとよい映画が後(あと)に楽しめるように、消えた現象の「善き物」の
次には一層よき現象があらわれて来るから失望しないでよいのである。

         <感謝合掌 平成30年7月27日 頓首再拝>

現象なしの自覚について ~その3 - 伝統

2018/08/13 (Mon) 20:01:52


      *「生命の實相」第24巻質疑篇(P94~96)より

たとえば、薬というものはたいてい毒性をもったものですが、
病気に応じて、適当に調合して適量に用いると効くことがあります。

現象界を《ある》と思いすぎて執着し、苦しんでいる人に対しては、
「ない」という端的直截な言葉が一等よくきくのであって、
「ない、ない」と幾度繰り返しても、五官の方では常に《ある》ように見えていて、

「《ある》、《ある》」と主張してくれているのですから
五官の方での「《ある》」という主張と、生長の家での薬語「《ない》」とが
適当に中和して、迷いや執着を去る上に効果を奏し、
事実上、実効上、病気が治り、不幸その他がいちじるしく癒やされているのですから、
生長の家で、「現象は《無い》」という言葉を使うのは、
その用法がまちがっていると言われないのであります。

およそ薬というものは、薬それ自身に毒性があるから使ってならない
というわけのものではないのであります。モルヒネは毒薬であっても、
本当にそれがよく効いたら人間に適するようにしてそれを使えば、
かえって胃腸病が治ったり神経衰弱が治ったりすることがあります。

そうすると、モルヒネのような毒薬でも、
本来毒であるか薬であるかは容易に分かるものではない、
使いようによって毒ともなれば薬ともなるのであります。

それと同じく、「無」という言葉も下手に使えば、人を気狂にするかもしれない、
今まで哲学にかぶれて厭世自殺をしたり、仏教の「空」をさとったと思って
隠遁生活をする人が出たりして、仏教は厭世思想だという悪評を受けたのも
無を説き「空」を語る言葉の薬剤が、効きすぎたり、効かなすぎたりしたからであります。
 
上手にこれを使えば、現に、生長の家のように病を治し、運命をよくするのであります。

同じヨードでも、ヨードは普通なら細胞を破壊する激毒性がありますが、
ある操作をこれに加えておくと強壮剤となります。

「無」の言葉は今まで「ある」と思っていた現象を「ない」と言いきるのですから、
ヨード以上に峻効をもっている。

それを適当の効果を持たすように、文章の中にいわばコロイド状に組み込んである
のが『生長の家』であり、『生命の實相』であります。

だから『生長の家』を読んで効くか効かぬか、薬になるか毒になるかは、
読んだ多数実験者の実際例によって証明せられているのです。

かくのごとく「無」の字は峻効を有するので、
生長の家では、それが人間に働きかけて、生命を生かすので、
有効無害の働きをするように、文章中に巧みに他の言葉と混ぜて
調合してあるのであります。

「無」の字、「ない」という言葉は、生長の家の発明でも発見でもありません。
釈迦の昔からある言葉ですが、生長の家の独創的なところは、
《「無」の字、「ない」という言葉を、文章全体の中に織り込んであ
るその織り込み方にあるのであります》。

この織り込み方はわたし独特であって、わたし独特のインスピレーションによって
書いてゆくので、誰にも真似はできないのであります。
思想は真似はできても、言葉の調合は真似ができないのであります。

だから、今までお経を読んでも聖書を読んでも治らなかった病気でも、
その同じ真理が説いてある生長の家では、聖典を読んだり話を聴いただけで
病気が治るのであります。

         <感謝合掌 平成30年8月13日 頓首再拝> 

不幸、不調和は実相においてはありえないのである - 伝統

2018/09/04 (Tue) 19:47:38


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月4日)より

誰かが犠牲になるとか、損をかけられるとかいうのは、
実相永遠の秩序においてはけっしてありえないのである。

実相はただ一つの智慧(神)によって創造され、運行しているのであるから、
その間(あいだ)には調和した平衡(バランス)が得られているのであって、
だれが、だれに、損をかけたとか、たれがたれを不幸に陥れたとかいうのは
実相においてはありえないのである。

どこにも自分を害した者もないのである。

いっさいの不調和は心の世界にあるのであるから、
損失や、犠牲や、負債(おいめ)は
まず心の世界で克服しなければならないのである。

心の世界でそれを消滅するとき、
損をかけた人も、損をかけられた状態もなくなるのである。

             <感謝合掌 平成30年9月4日 頓首再拝>

「偽象」なし - 伝統

2018/10/20 (Sat) 18:46:26


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月20日>(P104)より

善き言葉は実在の中から出して来た言葉である。
いわば「神」の国策線に沿うコトバである。

悪しき言葉は本来虚のコトバである。
神策に沿わぬコトバである。

虚のコトバから発生したものは
本来が虚であるから”ある”ように見えても存在せぬ。

そういう現象を偽象または虚象と言う。

善き言葉であらわれた現象は、実在の延長であるから真象と言うのである。
真象は神御自身のコトバの延長であるから、神の嘉(よみ)したまうところである。
神は表現を求めていられるのである。

真象は神の表現であり、神の発展であり、
み心の天になるがごとく地に成ることである。

真象は神の御稜威の降臨である。
永遠の表現である。

現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断ち切る場合は「偽象」なしの意味である。

「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。

           <感謝合掌 平成30年10月20日 頓首再拝>

現象無しと完全に知る - 伝統

2018/10/22 (Mon) 18:45:09


        *「光明道中記」(10月22日 現象無しと完全に知る日)より

【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。

仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。


却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。


一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、

「空とは単に無しと云う意味ではない。空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空であると観ずるのが”真空妙有の観である。
これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」
等と云われるのである。

非有非空と言えば中々偉そうだが、「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。

一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)では食べる訳にも
行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。

           <感謝合掌 平成30年10月22日 頓首再拝>  

「現象なし」「光明のみがある」という「理論」で人生を戦う - 伝統

2019/02/27 (Wed) 19:11:10


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月27日)」より

合理性 ―― ということは現象を決定する大いなる要因となることがある。
この世は理で支配されている世界なのである。
理責めにすれば幽霊や病気でさえも消えることがある。

『般若心経』で幽霊が消えるのは、それは高遠な哲理の表現であるからである。

病患部に対し神想観をして、
「完全なる神の造り給いしこの世界には、本来病気は存在しえないのだ」と
理論を繰り返し繰り返し黙念することによって不治の病気が治るのは、
「ある」という病気の主張に対して「無し」という理責めの方が打ち勝つからである。
(治病のための施念法の詳細は拙著『健全の真理』生活応用篇を参照せられたい。)

通俗医書を読んで素人が病気にかかりやすくなるのは、
「病気が《ある》」という理論の方がその人の心の中で優勢になるからである。

理責めのこの世界において、われわれの戦う人生の武器は「理論」であるのである。
多少理論に飛躍はあっても、光明のみがこの世に存在すると理論体系「生命の実相」を
自分の心のうちに蓄積する者は、病気を征服し、艱苦を征服し、ついに自己の人生を
征服して光明の人生と化しうる。

           <感謝合掌 平成31年2月27日 頓首再拝>

現象を否定し、実相を肯定せよ - 伝統

2019/03/03 (Sun) 19:42:50


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月3日)」より

しかし人間が現に苦しんでいる事実をどうするか。

人間よ、もし、なんじが病であり、不幸であり、苦しみがあると思うならば、
眼を瞑(つむ)って、「そんなものは神が造らなかったのだ。《無い人間が無い苦しみ》を
苦しんでいるごとく今まで自分はまちがって空想していたのだ」と心に念じて、
現在のその病を、苦しみを、悩みを、否定してしまえ。

否定が完全の極に達したら肉体が変化を起こす。
境遇が変化を起こす。
周囲の人々の自分に対する冷淡が熱意に変ずる。

いかに《ある》かのごとく感覚に見えるとも、
感覚は実在の《ほんとのすがた》を見るものではない。
『甘露の法雨』にあるように、「感覚はただ信念の影を見るにすぎない」のだ。

《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたことの愚かなことよ。

おお! 《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいたのか、と思い直すだけでも、
この苦しみにちぢかまっていた《肉体の人間》が「本当の私」ではなかったのだと思うだけでも、
生きる力が内から湧き出て来るではないか。

これが否定の妙用である。

慈悲とは抜苦与楽すなわち「苦の否定」と「楽の肯定」である。
苦を否定したならば次には楽を肯定すべしである。

苦しみは《ある》かのごとく見えても、
《無い人間》が《無い苦しみ》を苦しんでいるのであるから
自分は今もうすでに完全である。病気もない。苦しみもない。

かく真に肯定して立ち上がるものには、
すでに病気は《なく》、苦しみは《なく》、不幸は《ない》。
アリと見たのは自分の信念の錯覚であったことがわかるだろう。

無いものは無いのだ。
この言葉を百篇心の中で唱え、いかに悪しきものがアルがごとく見えようとも
断乎として心の力で否定し去れ。

            <感謝合掌 平成31年3月3日 頓首再拝>

現象を見ず実相の完全を観よ - 伝統

2019/03/13 (Wed) 21:16:03


           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

            <感謝合掌 平成31年3月13日 頓首再拝>

罪・病・死は浮雲の陰影、実相は円満完全 - 伝統

2019/07/06 (Sat) 17:51:11


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月6日)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、
やはり金殿玉楼に錦秋を纏うて眠っているということの事実を
否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、
万(よろず)のよきものが充満している世界であるのだ
ということにまちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せり
と見るのは肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に

「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり
・・・わが浄土は壊せざるに、衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」

とあるのを、

たいていの仏教者は、

「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、
立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝がいっぱい飾ってあるのも
同じようなものだ。

この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、
いつも花降るような心境にいられるのだ」

というような意味に解釈しているのであるが、
これはすこぶる浅い解釈だと言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、
その実相円満完全の表面に、

心頭を滅却したり、心境を一変したり、向下したり、向上したり、
劫火が燃えていたり、原子爆弾が爆発したり、
衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、

それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。

三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 令和元年7月6日 頓首再拝>

【現象そのものには色はついていない】 - 伝統

2019/09/24 (Tue) 19:29:22


      *メルマガ「人の心に灯をともす」(2019年05月15日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   ある日あなたが、自転車に乗って転んで大怪我をしたとしましょう。

   全治1週間のケガを負ってしまって大変だと思うかもしれませんが、
   それはあなた自身がシナリオに書いてきたこと、
   すでに決まっていたことなので、特別なことではありません。

   その転んでしまったという現象に対して、
   落ち込むことも、笑って過ごすこともできますし、
   ただ何も感じず淡々と過ごすこともできます。

   その現象をどう受け止めるかは、自分次第ということです。


   ほとんどの人は、現象と自分の感情が一体だと思っているかもしれません。

   よく、「上司に怒られたので、とても落ち込んでいる」という人がいますが、
   上司が怒ったことと、自分が落ち込むことは別です。

   「上司が怒った」という現象と、
   悲しい、辛いという感情が別々に存在しています。

   
   もともと、現象そのものに、色はついていません。

   私たちが勝手にその現象に感想をつけて、
   「嬉しい」「悲しい」という色をつけているにすぎません。


   目の前の現象に一喜一憂せず、ニコニコと、淡々と、
   そうなりましたかと捉えていくと、自分が楽になります。

   一喜一憂する人には共通点があります。

   辛いことがあったからといって、すぐ落ち込んでしまう人がいますが、
   面白いことに、そのような人は誉められると、すぐに有頂天になるようです。

   すぐ落ち込む人は、すぐに有頂天になる。


   これはどういうことでしょう。

   それは自分自身を人と比べて、他人の評価に一喜一憂しているということ。

   つまり、自分自身の考え方や、思想を持っていないということです。


   これは幼児性の表れと言えます。

   自分自身の生き方や考え方をきちんと持っている人は、
   人の評価に左右されません。

   人と比べることに意味はありません。

   私たちは淡々と生きていけばいい。


   大事なことは、一喜一憂せずに、ただ受け入れていくということ。

   目の前の現象に、「嬉しい」「悲しい」という色をつけるのは自分なのです。

        <『無敵の生きかた』廣済堂出版>

           ・・・

目の前の現象を、「幸せだ」とか「不幸せだ」という色をつけるのも自分。

現象そのものに色がついているわけではない。

だからある人は、それがあったからこそ「幸せだ」と思い、
別のある人は「不幸せだ」と思う。

万人が「悲惨だ」、「辛い」と思うようなことでさえ、
「そのことがあったおかげで今の自分がある。幸せだ」と思う人もいる。


また、幼児性について小林正観さんは次のように語っている。
(楽しい人生を生きる宇宙法則)より

『家庭のことで言いますと、同じ言葉を他人から言われたときに、
怒らないで踏み留まることができるにもかかわらず、
同じ言葉を妻から言われるとものすごく腹を立てて爆発してしまう夫がいます。

また、同じ言葉を他人から言われても怒らないけれども、
夫から言われるとキレてしまう妻がいます。

それは、どういうことかと言うと、
外では踏み留まる能力があるにもかかわらず、
家庭では踏み留まらないということなんですね。

《踏み留まれない》のではなくて、《踏み留まらない》んです。

これを一言で言うと“幼児性”です。

実は、“幼児性の克服”のためにも結婚というものが存在します。

家庭を持って、妻に対して夫に対して、あるいは子供に対して、
「私」が気に入らなくて爆発する、その「私」の“幼児性”を是正するために
結婚というものがあり、家庭というものが存在します。

家庭というものは、ただ自分の思いを通すための甘える場所でも、
ストレスを発散させる場所でもありません。

幼児性を削っていって大人になっていく作業の場所として、
結婚があり、家庭が存在するということです。』


「幼児性を削っていって大人になっていく作業の場所として、
結婚があり、家庭が存在する」

日々、幼児性を削る努力を重ねたい。

           <感謝合掌 令和元年9月24日 頓首再拝>

「認識の形式」の上に投影されたる影 - 伝統

2019/10/04 (Fri) 19:20:55


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月4日)より

多勢(おおぜい)に同時に見えるからとて必ずしも実在(ほんとにある)ではない。

映画の中の人物は多勢の観客に同時に見えるからとて、それは実在(ほんとにある)では
なくてただ光の波にすぎないと同じように、病気も病菌も、それは多勢に見え、
光学的に見えるけれども実在ではないのである。

それは心の波が「時間・空間」という「認識の形式」の上に投影されたる影である。
「認識の形式」というのは、人間の心の中につくられている映写機のようなものである。

見えるということと、「実在する」(本当にある)ということは別である。
われわれが病気や貧乏の精神波動をロケーションしなければそんな姿はあらわれない。

           <感謝合掌 令和元年10月4日 頓首再拝>

「真象」と「偽象」 - 伝統

2019/10/20 (Sun) 19:17:53


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻(10月20日)より

善き言葉は実在の中から出して来た言葉である。
いわば「神」の国策線に沿うコトバである。

悪しき言葉は本来虚のコトバである。
神策に沿わぬコトバである。
虚のコトバから発生したものは
本来が虚であるから”ある”ように見えても存在せぬ。

そういう現象を偽象または虚象と言う。

善き言葉であらわれた現象は、
実在の延長であるから真象と言うのである。

真象は神御自身のコトバの延長であるから、
神の嘉(よみ)したまうところである。

神は表現を求めていられるのである。

真象は神の表現であり、神の発展であり、
み心の天になるがごとく地に成ることである。

真象は神の御稜威の降臨である。
永遠の表現である。

現象にも真象と偽象とがあることを知らねばならぬ。
「現象なし」と断ち切る場合は「偽象」なしの意味である。

「神の『心』動き出でてコトバとなれば一切の現象展開して万物成る」
という場合の「現象」は真象である。

           <感謝合掌 令和元年10月20日 頓首再拝>

現象無しと完全に知る - 伝統

2019/10/22 (Tue) 19:11:31


    *「光明道中記」(10月22日《現象無しと完全に知る日》)より 

【三界唯心の真理に於て仏教、基教、生長の家は一致す。神と仏とは一如。
                     (『生命の實相』第十一巻)】

二千五百年前に説いたと伝えられている仏教の説き方を標準にして、
その通りの説き方でないから間違っていると判断を下すのは間違いである。

仏教の次第に時処の展開に従って完成するのであるから、
生長の家の説く仏教が今迄の説き方と相違するからとて、
外道だとか間違いだとか言ってはならぬ。


却ってその説かれる真理の実生活に及ぼす力を見ねばならぬ。
樹(き)の善悪は果実を見て知れである。
一見高邁な真理のようであっても人間を本当によく救わぬような宗教は駄目だ。


一切皆空を生長の家のように物質もない、肉体もない、心もないと、
綺麗に「無し」と截ち切り得ない人が在来の仏教界にもあって、

「空とは単に無しと云う意味ではない。空の意義にはもっと玄妙の意義が存するのである。
物が全然無いのではなく、”物あるが儘に是れ空であると観ずるのが”真空妙有の観である。
これを非有非空(ひうひくうう)、亦有亦空(やくうやくくう)の理とも言う」
等と云われるのである。

非有非空と言えば中々偉そうだが、
「有るのでもない、無いのでもない」と云うことであり、
「亦有亦空」とは「有るのでもあり亦(また)無いのでもある」と云うことである。

一箇の牡丹餅を出されても非有非空(あるのでもないのでもない)では食べる訳にも
行かぬから、一生涯考えて神経衰弱になるであろう。

           <感謝合掌 令和元年10月22日 頓首再拝>  

現象無し、「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。 - 伝統

2019/10/25 (Fri) 18:38:25


    *「光明道中記」(10月25日《月一回の恩を返す日》)より抜粋 

【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。
                   (『生命の實相』第十二巻)】

(二)法空―― 曰く、

   物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
   空にして本来存在しないと否定せよ。

   而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。

   「妙有の世界」とは現象世界よりも一層具体的な金剛不壊の世界である。

   現象世界は具体的に見えていても崩れるが、

   「妙有の世界」は現象世界が破壊すると見ゆるときにも
   「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と釈迦が
   「法華経」に於て説いたところも金剛不壊の世界である。

   金剛不壊と云っても祖元禅師が
   「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」と言った如き、
   風の如きエーテルの如きものであるから、
   斬っても斬れないと云うような頼りなき世界ではない。

   「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生の遊楽するところなり、
   諸天天鼓を打ち伎楽を奏し、曼陀羅華を雨ふらして大衆(だいしゅ)に散ず」
   と「法華経」の自我偈にあるが如き具体的妙(たえ)なる世界である。

           <感謝合掌 令和元年10月25日 頓首再拝>

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