伝統板・第二

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「喜びの種をまく」 - 夕刻版

2016/09/03 (Sat) 17:34:21

このスレッドでは、先代の掲示板(既に記事消滅)で若干投稿した情報と
関連した情報をもとに改めて紹介して参ります。


「喜びの種をまく」

         *日本経済新聞(2011年09月05日)より

仏法に「無財の七施」という教えがある。
財産が無くても誰でも七つの施しができる、
喜びの種をまくことができるという教えである。

財産が無くて、どうして施しができるのか。何を施せるのか。

『雑宝藏経』は、
「仏説きたもうに七種施あり。 財物を損せずして大果報を得ん」

として、七つの方法を示している。



 一は「眼施」──やさしいまなざし。

 二は「和顔悦色施」──慈愛に溢れた笑顔で人に接する。

 三は「言辞施」──あたたかい言葉。

 四は「身施」──自分の身体を使って人のために奉仕する。

 五は「心施」──思いやりの心を持つ。

 六は「床坐施」──自分の席を譲る。

 七は「房舎施」──宿を貸す。


大きなことでなくともいい。
人は日常のささやかな行ないによって喜びの種をまき、
花を咲かせることができると釈迦は教えている。

自らのあり方を調えよ、という教えでもあろう。

「無財の施」の教えで思い出すことがある。
生涯を小中学生の教育に捧げた 東井義雄先生からうかがった話である。

ある高校で夏休みに水泳大会が開かれた。
種目にクラス対抗リレーがあり、各クラスから選ばれた代表が出場した。

その中に小児マヒで足が不自由なA子さんの姿があった。
からかい半分で選ばれたのである。

だが、A子さんはクラス代表の役を降りず、
水泳大会に出場し、懸命に自分のコースを泳いだ。

その泳ぎ方がぎこちないと、プールサイドの生徒たちは笑い、野次った。

その時、背広姿のままプールに飛び込んだ人がいた。
校長先生である。

校長先生は懸命に泳ぐA子さんのそばで、

「頑張れ」「頑張れ」と声援を送った。

その姿にいつしか、生徒たちも粛然となった。

             ・・・

こういう話もある。

そのおばあさんは寝たきりで、すべて人の手を借りる暮らしだった。

そんな自分が不甲斐ないのか、世話を受けながらいつも不機嫌だった。

ある時一人のお坊さんから「無財の七施」の話を聞いたが、
「でも、私はこんな体で人に与えられるものなんかない」 と言った。

お坊さんは言った。

「あなたにも与えられるものがある。
人にしてもらったら、手を合わせて、ありがとうと言えばよい。
言われた人はきっと喜ぶ。感謝のひと言で喜びの種をまくことができる」。


おばあさんは涙を流して喜んだという。


「喜べば喜びが、喜びながら喜び事を集めて喜びに来る。
悲しめば悲しみが、悲しみながら悲しみ事を集めて悲しみに来る」


 ──若い頃、ある覚者から教わった言葉である。
喜びの種をまく人生を送りたいものである。


最後に、東井先生からいただいた詩を紹介したい。


《雨の日には 雨の日の
 悲しみの日には悲しみをとおさないと見えてこない

 喜びにであわせてもらおう

 そして
 喜びの種をまこう
 喜びの花を咲かせよう

 ご縁のあるところ いっぱいに……》
 
           <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

東井義雄さんについて - 伝統

2016/09/04 (Sun) 18:59:03


「喜びの種をまく」 で紹介されている東井義雄さんについて

(1)東井義雄さんは「いのちの教育」を信念とした教育者でした。
   詳細については、次のWebを参照願います。

  ①東井義雄さんの略歴(東井義雄さんの部屋)
   http://www.geocities.jp/choumyouji/touiyoshio.html 

  ②東井義雄の記念館
   http://toui-yoshio.org/


(2)A子さんのお話の詳細 <東井義雄(著)、「こころの教え」より>


   広島県のある高等学校の話です。
   水泳大会のプログラムの中に、学級対抗のリレーが組まれました。

   ある学級で、4人の選手の中、3人はすぐ決まりましたが、4人目で もめました。
   その時、いじめグループの番長が「Aにでてもらおう」と叫びました。
   「そうだ、そうだ」と取り巻き連中が賛成してしまいました。

   Aさんは小児麻痺の女生徒で、とても泳げる体ではなかったのです。
   でも、彼らの恐ろしさを知っているみんなは、
   それに抗議することができませんでした。

   いよいよ大会の日、Aさんが泳ぐ番になりました。
   1メートル進むのに2分もかかりました。
   まわり中からバカにした笑いとののしりの声が浴びせかけられました。

   その時、背広のままプールに飛込んだ人がありました。
   そして「つらいだろうが、がんばっておくれ。つらいだろうが、がんばっておくれ」と、
   泣きながらいっしょに進み始めました。校長先生でした。

   冷たい笑いとののしり声がピタリとやんで、涙の声援に変わりました。

   Aさんが長い時間をかけて25メートルを泳ぎぬき、
   プールサイドに立ち上がったとき、

   先生も生徒も、いじめグループのみんなも、
   一人残らず立ち上がって、涙の拍手をおくり、
   Aさんをたたえました。

   その学校のいじめは、そのときからピタリと姿を消しました。
   校長先生が、Aさんの輝きをみんなに気づかせ、目覚めさせてくださったのです。

           <感謝合掌 平成28年9月4日 頓首再拝>

「無財の七施」 - 伝統

2016/09/05 (Mon) 18:47:33


(1)「眼施」(慈眼施) 

  ①自分に接する人に対して、優しい眼差しをする。優しい眼差しで相手に接することです。
   相手をいたわりと優しさを持って見つめるまなざしです。

  ②慈しみに満ちた優しいまなざし、温かい心は、目を通して相手に伝わります。
   にらみつける怒りの顔や眼、羨む心の眼は避けたいものです。

  ③目は心の窓と昔から言います。
   自分の心中に怒りや憎しみ、やっかみの心が起こったり、
   もっと酷いのは、殺意が起こった時は、必ず直ぐ目つきに表れます。

   「目尻を吊り上げる」とか「三白眼をする」と言うのは、意地悪の表現です。
   どんなに美しい人でも、こういう目つきをすると、人に嫌われますから、
   避けたいものです。

  ④目尻は下げて、優しい目つきをすれば、何とも言えない微笑に変わるものです。


(2)和顔施(和顔悦色施) 

  ①穏やかな顔つきで人に接すること。
   いつもなごやかで穏やかな顔つきで人や物に接することです。

  ②相手を思いやる柔和な笑顔で人々に接することです。
   感情むき出しの怒り顔は慎むべきでしょう。

  ③和やかな顔つきで悦びの色をほどこすという意味です。
   人と向き合った時、自然に和やかな顔つきでニコニコ出来るか?
   という事が大切なのです。

   もしも、心に何かわだかまりの様なものがあると、顔がこわばり、引きつってしまい、
   とても顔をほころばす事は出来ません。心と体は繋がっておりますから。
   常日頃の心のトレーニングが大事です。

  ④日頃から平静、不動な心でいると、何時だってニコニコ出来るのですが、
   日本人は、どうも苦手のようです。

   その点、外国人はホテルのエレベーターの中で顔を見合わせた時など、
   実に上手にニッコリ微笑んで下さいます。

  ⑤ニッコリの素敵な人ほど、良縁に恵まれるようです。


(3)愛語施(言辞施)

  ①優しい言葉、思いやりのある言葉で人に接すること。
   優しい言葉、思いやりのある態度で言葉を交わすこと。

  ②相手を尊敬する心で、やさしい言葉で語りかけることです。
   命令や卑下する言葉は、人間の尊厳から逸脱することになります。

  ③丸い玉子も切りようで四角、ものも言いようで角が立つ。とは良く言ったもので、
   鋭い言葉は、「舌刀」と言って、時には人を殺すことだってあるのです。

  ④言葉は「言霊(言動・思想・行動)」として生きております。
   人の口から出る言葉には、その人の霊魂が宿っているのです。

  ⑤マイナスの心を抱いて喋った時、マイナスの言霊によって、
   自分自身が不幸を招くことに繋がります。

   マイナスの言霊、それはどんな言葉かと申しますと、憎悪の言葉は勿論ですが、
   「不平・不満」「言い訳」「愚痴」これらの言葉が出る時は、
   その心に悪魔が棲みついた時です。

  ⑥では、幸せが訪れる言霊はどんな言葉かと申しますと、
   「優しい言葉」「柔らかな言葉」「思いやり(愛)のある言葉」です。

   こんな言葉が無意識に出る時は、その人の心が仏性に目覚めた時です。


(4)身施 (捨身施) 

  ①自分の体をもって世のためになることをすること。
   自ら進んで他のために奉仕、尽くす気持ち。
   これは、他人に対して身をもって尊敬の態度を示すことです。

  ②無償で労働を提供する体の働きを施すことです。

   ごみ拾いもその一つでしょう。
   人がいやがる事を自らすすんで行なったり、トイレ掃除でも重労働作業でも
   自ら率先して行なう心です。

  ③誰かが水に溺れそうで命が危ない時、我を忘れて助けに行くことです。


(5)心施 (心慮施) 

  ①人の喜びを共に喜んであげたり、悲しみを一緒に悲しんであげることです。
   相手を十分思いやり、相手の立場をよく理解してあげ、行動する心です。

  ②他のための心くばり、共に喜び共として感じ取れる心持ち。
   善い心をもって他人と和らぎ、善いことをしようと努めることです。

  ③思いやり(愛)の心を施すことです。
   相手の心を思いやるとは、言うに易しで、なかなか出来る事ではございません。

   思いやると言うことは、相手の心や目の高さに自分を持って行くと、
   同じ考えや視線になれるのです。

   例えば、犬の気持ちを知ろうとすれば、腹ばいになって犬と同じ目の高さで物を見、
   キリンの気持ちを知りたいなら、はしごを架けてでも、キリンと同じの眼の高さで、
   物事を見なければ分かりません。

   本当の思いやりの心は、こういうところから湧いてくるのです。


(6)牀座施<しょうざせ>(床座施) 

  ①自分が疲れていても座らずに席を譲るような相手の身になることです。
   乗り物の中で、老人や身体の弱い方が目の前に立っていれば、
   「どうぞお座り下さい」と、席を譲って上げる心です。

  ②自分が座っている座席を、体の不自由な方とか、クタクタに疲れきっている人、
   今にも倒れそうな人の為に、立って譲ってあげることです。

   電車、バスの中は勿論、例え公園のベンチに居ても、
   自分より悪い条件の人を見かけたら、その席を空けて差し上げることです。

  ③喜んで自分の地位を譲って悔いなく過ごせることです。


(7)房舎施 

  ①雨が降っていたら自分の半身は雨に当たっても相手には傘を差し掛ける思いやりです。

  ②房とは、部屋の事です。舎は家の事です。

   ご自宅やお部屋に、ご縁があって訪れた人を、むやみに追い返したりしないで、
   気持ち良く応対して差し上げましょうという事です。

   疲れ果てて困っている人に「どうぞ家で一休みして下さい」と、
   心優しく語りかける意味です。

   しかし、悪い心を抱いてやってくる人達(押し売り・泥棒)は、
   その限りではございません。


・・・

<関連Web:光明掲示板・第一「無財の七施 (356)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=110 >

           <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

「喜びの種をまく」 - 伝統

2016/09/07 (Wed) 20:23:17


        *Web:「喜びの種をまく」(11月16日)より

今日は、 最近読んだ本で出会った心に沁みる言葉と、
ある講演会で教えてもらった詩を紹介したいと思います。
    
良い言葉は、 心を洗ってくれると実感しました。
心に栄養を与えてくれると思いました。
    
人というのは、 その人その人なりに十字架を背負って生きているなぁと思ってね、
十人いれば十人が皆幸せな人生を歩いているかというと、 決してそうじゃない。
そのことを、 しみじみと 『致知』 という月刊誌を見て感じました。
    
私達の周りには、 自分の置かれた環境の中で、
苦しさや辛さと戦って生きている人達がいるということ、
それは年齢と関係なく、 年若くしてもそれぞれの運命を背負って、
逆境と闘って生きている、 と感じました。

そういう事実を知ったときに、 人はどう生きていけばいいのか、 と真剣に考えさせられます。
そして、 自分が今できることは、 今をしっかりと精一杯生きていこう、
生かされ、 助けられ、 支えられて生きていることに、 感謝して生きていこう、
とつくづく思わされました。
    
また、 不遇な生活環境の中で生きている人達のために、
自分は一体何が出来るのだろうかと思ったり、 いろいろ複雑な思いで
ここ二、 三日を過ごしていました。  
    
というのは、 この度、 神渡良平先生という作家が青森へ来たので、
その方を囲んだ講演会を企画させてもらったのです。
年齢は私と同じです。 昭和二十三年一月生まれです。

九州大学の医学部を中退され、 その後、 新聞記者、 雑誌記者を経て、 作家となります。
三十八歳の時脳梗塞となり、 右半身不随となりました。

働き盛りの時でしたから、 自暴自棄の心境になったり、
人生のどん底に落ちた思いに駆られ、 俺の人生はこれでおしまいだと思った時に、
「人生はたった一度しかない」 と、 耳元で囁く声を聴いたそうです。

その時、 安岡正篤師の次の言葉が思い出され、 身に染みてきたというのです。

   どんな人にも一隅を照らす役目がある。 それに取り組めば、 それなりの男にな れる。

この言葉に奮起を促され、 結果のすべては見えざるものにお任せしようと心に期し、
懸命にリハビリに取り組んだそうです。 あと五年の命です、 と医師から言われながらです。

そして、 見えざるものに任せきった懸命なリハビリの結果、
医師もびっくりするほどの回復ぶりを見せ、 ついに作家として再起することが出来た
という体験をお持ちの方です。

最初の作品は、 『安岡正篤人間学』 です。
出版となっても、 なかなか運が開けてこなかったようですが、
やがてその著の心の深さが理解されるようになり、
人生の書として話題をさらうようになった。

そして、 作家の道が開かれていきました。
今では、 二十余冊の著書があり、 売れっ子作家として、
特に人生論、 人物伝を中心に高い評価を受けている方です。

今日は講演会 「人は何によって輝くのか」 で、
神渡先生が紹介してくれた詩を、皆さんに配布しました。
    「神のおもんばかり (慮)」 という詩です。

講演の最後にこの詩を紹介し、 終えました。
この詩は、 ニューヨークにある病院の病室の壁に書き残されていた詩だそうです。
作者はわかりません。 闘病生活をしていた人だと思います。


   大きなことを成し遂げるために
   力を与えて欲しいと、 神に求めたのに、
   謙遜を学ぶようにと、 弱さを授かった。

   より偉大なことができるようにと
   健康を求めたのに、
   よりよきことができるようにと
   病弱を与えられた。

   幸せになろうとして、 富を求めたのに、
   賢明であるようにと、 貧困を授かった。

   世の人々の称賛を得ようとして
   成功を求めたのに、
   得意にならないようにと
   失敗を授かった。

   人生を享楽しようと
   あらゆるものを求めたのに
   あらゆることを喜べるようにと
   いのちを授かった。

   求めたものは一つとして与えられなかったが
   願いはすべて聞き届けられた。

   神の意に添わぬ者であるにもかかわらず、
   心の中で言い表せないものは
   すべて叶えられた。
   私はあらゆる人の中で
   最も豊かに祝福されたのだ。

   
こういう詩です。 この詩から、 人生の有り様を各々で感じ取ってもらえればと思います。
   
神渡先生は、 自分の体験から、 こういう事もお話くださいました。
   
その人なりに、 これで自分は終わりかな、 と思うほどの苦しさに遭遇することは、
間々あるものです。 ただし、 その困難な時に自分の真の姿を発見した人は、
腹が据わるというのです。

一番辛かった時、 苦しかった時、 厳しかった時に発見した真の自分を見出した人は、
真に自分の生きる道を発見した人は、 腹が据わってくるというのです。
確かにそうだと思いました。
 
皆さんも、 若いながらも全寮生活で集団生活をしていますから、
いろいろな体験があったかと思います。

そういう苦しさと葛藤の中から、 自分はこういう生き方をしていこう、
こういう人間になろう、 これが本当の自分の生きる道だと、 縷々思ったことが
あろうかと思います。

人には、 様々に降り掛かってくる試練があるものです。
その試練に振り回されずに、 それを淡々と受け止め、 それを乗り越え、
自分を見失なわないように生きていきましょう。

そうした艱難辛苦の中で、 人はだんだん鍛えられ、 腹が据わってくる。
そのことを説いてくださいました。 心に染みた言葉でした。
    

『知致』 の月刊誌には、 石川洋先生が対談で、 このように言っていました。
   
お釈迦様は、 私達にどういう言葉を残してくださったかということについて述べていました。

  この地上に生を受けた者として果たしていくべきことは、 よき種をまいていくこと。
  決して憎しみとか、 悲しみの種をまいてはならないということです。

  生かしていただいていることに感謝できる人生を築いていくこと、
  少しでも人様のお役に立つことをなして喜びの種をまかせていただくこと、
  これこそが人間として一番大切なことだ、

  と釈尊は説いておられるのではなかろうか。

   
こういう言葉です。

私はこの一文を見たとき、 果たして自分はどうだろうか。
日常生活の中で、 あの人はどうだ、 彼、 彼女はどうだとばかり言ってはいないだろうか。

例えば、 家族のことであれば、
妻がどうだとか批判がましいことばかり言っていないだろうかと、
反省を深くさせられました。
   
良き種をまいていないことの方が多い自分であることを知らされました。
   

お釈迦様は、 私達に、 決して憎しみとか、 悲しみの種をまいてはならない、
という事を残してくださったのだという。 この一文は、 非常に心に浸みてきました。
   
私達は、 人と一緒にしか生きていけません。
人と人との関わりの中でしか生きていくことが出来ません。
だからこそ憎しみとか、 悲しみとかを残してはならないのです。

大和山の教えの中には、
「疑ひと偽り怒りおごり欲憎み罵り怨み羨み」 という心の悪、 黒星を
残さないように生きていくことの大事を教えています。

この九つの黒い星を残さずに生きていくことは、 私達に与えられた課題です。

良き種を、 喜びの種をまいていくことが、 私達に与えられた生きる使命でもあります。
 
悪しき種としての憎しみと悲しみ、
良き種、 喜びの種としての感謝、 ほほえみの
いずれの種をまいていくべきかは、 言うべくもありません。

良き種、 喜びの種をまいて生きていくのが人として生きる意味です。
私自身深い反省と共にこの一文に目が止まりました。

共に、 日常生活の中で、 憎しみとか、 悲しみの種をまかないで、
感謝、 ほほえみの良き種、 喜びの種をまいていくように努めていきましょう

  (http://shofujuk.cside8.com/19sosin/033.html

           <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>

【その名も「国際救助隊」】 - 伝統

2016/09/08 (Thu) 17:54:48


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年01月28日)」より

  福島正伸氏の心に響く言葉より…


  誰でも簡単に幸せになれる、たった1つの法則をご存知ですか?

  その法則とは…
  社会に貢献すること。

  もっと簡単に言うと、人を幸せにすることです。

  大きな声では言えませんが、実はもう、世界を変えるために動きはじめた
  人たちがいるのです。

  彼らは秘密結社、その名も「国際救助隊」。

  人や社会に貢献することを喜びとし、いまできることから行動しています。


  ■人ごみでは最後尾につく (通りすがりの者 ?0873)

   ここしばらくは「譲ること」をテーマにしています。

  「エレベーターの乗降時」
   一番最後に乗って、いや、乗らずに笑顔で見送って次に乗る
  (いつまでも乗れないので、次に来たときには最後に乗る)。

  「電車の乗降時」
   一番最後に乗って、最後に降りる。

  「電車を降りた後の階段やエスカレーター」
   最後尾につき、みなさんの幸せをお祈りする。

  「歩行者優先の信号のない横断歩道」
   先を急ぐ車を優先し、笑顔で幸せを祈りながら見送る。


  ■捨てられる食べ物を救助する (通りすがりの者 ?0030)

   先日、閉店間際の回転寿司屋へ行きました。
   私はいつも、まわっている寿司を見ながら、新鮮な寿司が欲しいと、
   席にあるモニターでオーダーしていました。

   けれども妻は、毎回まわっている寿司しか手に取らない。
   あまり気にしてはいなかったのですが、少しくたびれたような
   はまちに手を出したので、「こっちでオーダーすると新しいのが来るよ」と言うと、
   「これ、このままにしたら捨てられるじゃん…」と。

   お…おまえ、まさかっ…隊員?

  
  ■無事を祈る (通りすがりの者 ?0556)

   テレビで、地震情報が流れました。
   “大阪 震度1 津波の危険性なし”

   5歳の子どもが、下を向いています。
   手を合わせて…、なんしてるんや?
   はよ食べや!

   「地震で、人が死にませんように、お祈りしてんねん」
   「父さんんも、一緒にお祈りさせて…」
   「うん、たくさんでお祈りしたほうが、きっといいよ!」

   5歳の子どもに教えられました。
   人の幸せを、願う大切さ。
   わが子。
   おまえの父さんで、よかった!

      <『まわりの人を幸せにする 55の物語』中経出版>

        ・・・・・

誰かを助けるとか、何かを救うというと、いかにも大袈裟(おおげさ)に考えてしまい、
自分とは遠いところの話、と思ってしまう。

「地球を救え」、「遭難した人を救い出す」といった話だ。

しかし、ほんの小さなこと、ささいな救助なら、誰でもできる。

道路に落ちている吸殻を1つ拾えば、道路や、掃除してくれる人を救助できる。

郊外のスーパーや飲食店で、たとえ駐車場がガラガラだとしても、
店から一番遠いところに停めれば、足の悪い人、お年寄りを救助できるかもしれない。

「国際救助隊」

小さなこと、ささいなことでも、真剣に救助活動に取り組む人たち…

勇気ある「国際救助隊」のみなさまに、心から感謝の拍手をおくりたい。

           <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

サーカス - 伝統

2016/09/11 (Sun) 18:08:36


   *こころのチキンスープより
    <ダン・クラーク氏>

    人の一生における最善のもの
    それは、誰の目にもふれない、誰の記憶にも残らない
    愛と思いやりのこもった、ささやかな行為


わたしがまだ10代の頃です。
サーカスの入場券を買うために、父と私は長い列に並んで順番を待っていました。
ようやく、私たちの前にいるのはあと一家族だけになりました。

私はその家族に強く心を引かれました。
とても印象的だったのです。
その家族には子供が8人もいて、一番年上の子供でも12歳くらいにしか見えません。

あまり裕福そうではなく、着ている服も上等とはいえませんが、きれいに洗濯されています。
そして行儀よく手をつないで両親の後ろにきちんと二列に並んでいました。

期待に胸をはずませた子供たちは、ピエロのこと、象のこと、
そして今から見るいろいろな演技のことを嬉しそうに話していました。

どうやら、サーカスを見るのはこれが初めてのようです。
子供たちにとって今日のサーカスは生涯残る素晴らしい思い出となるでしょう。

子供たちの前には両親がとても誇らしげに立っていました。
夫の手をしっかりと握った妻は「あなたは私の騎士よ」と言いたげに、見上げています。
夫も暖かい微笑みを浮かべて「ああ、もちろんさ」と言わんばかりに、
妻を見つめ返していました。

売り場の女性が、入場券の枚数を尋ねました
父親は胸を張って答えます
「子供8枚と大人2枚ください。これで家族にサーカスを見せてやれますよ」
入場券の合計金額が告げられました。

すると、妻は夫の手を離し、黙ってうつむいてしまいました。
夫の唇も震えています。
売り場の窓口に身を乗り出し、彼はまた聞き返しました。
「いくらですって?」
売り場の女性は、もう一度答えました。
その父親には、それだけのお金がなかったのです。

サーカスを見るにはお金が足りないということを、
後ろにいる8人の子供たちに、どうやって告げようというのでしょう。

ことのなりゆきを見ていた私の父は、ズボンのポケットに手を入れました。
そして、20ドル札を取り出し、何気なく落としました。

父は腰をかがめてそのお札を拾い上げ、その男の肩を軽くたたきました。
「失礼ですが、ポケットからこれが落ちましたよ」。
その男は、私の父が何をしようとしているのかすぐに察しました。

彼は人から施しを受けるような人ではありませんでした。
でも、そのときは恥ずかしさと落胆から、途方に暮れていたのでしょう。
その助けを心から感謝して受け取ったのです。

20ドル札を差し出す父の手を両手でかたく握りしめ、その目をじっと見つめました。
唇は震え、ほおには涙が伝わり落ちています。
「ありがとう、ありがとうございます。これでたすかります」。
 
父と私は車に戻ると、そのまま家に帰りました。
その晩、私たちはサーカスを見ることはできませんでした。
でも、それでよかったのです。

           <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

「喜びの種まき」は、若返りにもつながる - 伝統

2016/09/14 (Wed) 19:25:41


若返りホルモンが出る方法!?

    *メルマガ「トリビック通信(2012年04月03日)」より

 先日、面白い話を聞きました。

 なんでも、あまり聞きなれない「オキシトシン」 という体内分泌物質、
 別名「若返りホルモン」なるものが存在するらしく、
 コイツが体内からバンバン分泌されると、名前どおり、若返ってくるのだとか!

 けれども・・

 コレ、今まで、お母さんが赤ちゃんに
 おっぱいを飲ませる時にだけ出てくる特別なホルモンだと考えられていたんです。

 (赤ちゃんがおっぱいを吸うとお母さんの脳内ホルモン、
  オキシトシンがたくさん分泌される。するとたくさん
  おっぱいが出て、体力も回復してくるというメカニズム)

 でも・・・
 最近の研究で、なんと、男性! そして中高年の男女にも、
 「ある条件」で分泌される事がわかってきたんです!

 その条件とは・・・

 「相手の身になって考え行動した時」

 「他の誰かに何かをしてあげた時」

 なんだとか!!

 誰かを想って、あーしてこーして、
 どうしたら喜んでくれるかな♪ とか考えて行動してると
 どんどん、オキシトシンが出て、若返ってくる というのです!!

 いぃーっ♪

 相手を幸せにして、自分も気分良く
 若返って幸せ♪  なんて、素晴らしすぎでしょ!・・



・・・・・以下は、若返りホルモン「オキシトシン」についての紹介です。

(1)オキシトシンは、視床下部で生合成され、脳下垂体後葉から分泌されるホルモンです。
   9個のアミノ酸からできたペプチド(小さなタンパク質分子)で、信号を伝える
   神経伝達物質として働いています。

(2)オキシトシンは出産時の子宮収縮作用や乳の分泌促進作用など女性に関与し、
   親子の絆を深める物質と知られていますが、社会的な人間関係を築く上でも関与
   していることがわかってきました。

(3)オキシトシンの愛称として

   ・幸せホルモン
   ・愛情ホルモン
   ・信頼ホルモン
   ・恋愛ホルモン
   ・母性ホルモン
   ・抱擁ホルモン
   ・安らぎホルモン etc  とも称されています。

(4)オキシントンの作用と特徴

  ①催眠
  ②コミュニケーション能力や社交性向上
   ⇒人見知り、自閉症、認知症 などの改善が期待される

  ③ストレス緩和
  ④愛情・親近感・信頼感を喚起
  ⑤穏やかさ&寛容さ↑

  ⑥気分の落ち込みを防ぐ
  ⑦心臓の機能↑
  ⑧血圧↓

  ⑨胃腸の働き活性化
  ⑩体の痛みや炎症↓
  ⑪母体回復 etc

(5)オキシトシン分泌を促すには

  ①他人に親切な行ないをする。
  ②感動、感謝する。
   「きれい!」「かわいい!」「素敵!」など感じて、言葉にする。

  ③肌触りの良いものを身につける。
  ④好奇心を持つ。
   新しいことに挑戦する、興味を持つ、恋をする、おしゃれをすることは
   神経伝達物質を刺激します。

  ⑤他者にふれる。
   軽いタッチでの体の接触(握手やハグ、マッサージなど)。

  ⑥ペットなど動物を優しく、愛しくなでる。
   優しくなでると人間からもペットからもオキシトシンの血中濃度が高くなります。

  ⑦アミノ酸組成の良い食材を摂る。
   肉類、魚介類、鶏卵、大豆製品など。
   また、アミノ酸をより効果的に作用させるためには、ビタミン、ミネラルなどを
   摂取することが大切です。

   たとえば、タンパク質の一種であるコラーゲンの合成には、
   カルシウムやビタミンCが欠かせません。

           <感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>

機内での忘れられない「ありがとう」体験 - 伝統

2016/09/18 (Sun) 18:39:04


      *「ファーストクラスに乗る人のシンプルな習慣コミュニケーション編」
        美月あきこ・著(P145~146)より

ハワイに向かう機内で、年配の男性客がぽつりとつぶやきました。
「亡くなった妻を一度でもいいからハワイに連れていってやりたかった・・・」

そのお客様は、こんな話をしてくれました。

「美月さんは、さだまさしの『関白宣言』って曲、ご存じですか?
その曲に『俺より早く逝ってはいけない』という歌詞があるんです。
逝くときは、最期に妻の手を握り、『お前のお陰でいい人生だった』とつぶやくんです。
おまえ、ちゃんと俺を看取ってくれよ、という夫の願いでもあるわけです・・・」


お客様の隣の席には、花束と写真が置かれていました。
そのお客様にまるで寄り添っているように見えました。

「・・・予定では、いや、私の勝手な予定ですが、私が先に逝くはずだったんですが、
私の定年を待つように、家内がガンになりましてね・・・。告知から3ヵ月後に・・・
あっけなかったですね・・・ですから、妻が好きだった『関白宣言』の歌詞のようには
なれなかったんです」

私はこのお話を聞きながら、どのような言葉をおかけするのがよいのか考えあぐね、
結局「・・・そうでしたか」とつぶやいたまあ、エプロンに着替えました。


そして、ドリンクをおもちする際に、
「奥様とご一緒に召し上がってください」
と、余分に1個ジュースをお渡ししました。

その瞬間に、こらえていた気持ちがあふれたのでしょうか、
お客様は「ありがとう」とひと言、いえ、正確には「とう」あたりで鼻声になり、
すぐさま窓側に顔を向け、毛布に顔を覆われました。その後、号泣する声がもれました。


そのお客様は飛行機を降りる際、何度も何度も、私に向かっておじぎをされました。
目は真っ赤でした。おそらく私の目も、同じような状況だったでしょう。


そのお客様からは後日、丁寧なお手紙が会社あてに届きました。

「妻と一緒に楽しいハワイ旅行ができました。機内ではおかげで、妻との新しい、
そして最後の『思い出』ができました。本当にありがとうございました。
あなたのお心遣いを私は忘れません」

私はこのお手紙を拝読して、大げさでなく、生きていて本当によかったと思いました。

人の役に立てた、気持ちにより添えたと実感できた瞬間は、無条件にうれしいものです。

           <感謝合掌 平成28年9月18日 頓首再拝>

親切な行為は、健康と幸福へとつながる - 伝統

2016/09/22 (Thu) 18:41:20


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2012年06月26日)」より

  デイビッド・ハミルトン氏の心に響く言葉より…


  『あなたの健康と幸福は、「お先にどうぞ」と言った回数で決まります』

  「親切な人」であることの重要性は、あなたが思っている以上です。
  たとえば、噂話に関する心理学の研究では、私たちが友人や同僚のことを話すときに
  もっとも話題にしやすいのが「その人が親切かどうか」だとわかっています。

  親切は、私たちが気持ちよく暮らすための潤滑油。

  親切な態度はその人の人間的魅力につながるだけでなく、
  心身の健康にも大きく関わっていることが、
  近年のさまざまな研究で明らかになってきたのです。

  119人の日本人女性を対象にした実験では、
  親切行為を数えるだけで幸福感が増すことがわかったのです。

  対象者のうち71人に、他者への親切行為を毎日ノートに記録して、
  回数と内容を把握する作業を1週間行なってもらいました
  (残りの48人は比較のためのグループで、何も指示しません)。

  そして、その前後で自分の幸福度を数字に表してもらい、比較しました。
  すると、指示を受けなかった48人には目だった変化がなかった一方で、
  親切行為を数えたグループでは、71人全員の幸福度が高まっていたのです。

  米国で行なわれた別の調査では、3296人の対象者のうち、
  じつに95%もの人が「人助けをすることで気分がよくなった」と答えています。

  そのほか、「温かい気持になった」「高揚感に包まれた」「元気が湧いてきた」
  などと、具体的な効果をあげる返答も多数ありました。

  それだけではありません。

  53%の人が、そのおかげで「ものの見方が楽観的に変わった」とまで
  答えているのです。

  ほとんどの人は、それらの感情が何時間も持続し、
  人によっては数日間も続いたと報告しました。

  つまり、親切を身につけることで、一時的な気分の変化だけでなく、
  「心を変える」こともできるのです。

  人に親切にすると、オキシトシンやセロトニンなどの脳内物質が放出されます。
  これらの物質は気分の改善に役立ち、前向きで楽観的な心理状態をもたらします。

  親切を続けるだけで、「気分よく毎日を過ごせる頭」ができていくのです。

  特に、オキシトシンには親近感を強めるはたらきがあり、
  他者との絆(きずな)を強めてくれます。

  人に親切にすることで抑うつ感情が軽減したり、幸福感が増大するのは、
  脳内でこれらの物質がつくられ、科学的な作用が起きる結果なのです。

  親切の習慣を長く続けると、脳内の神経の道筋が変化して、
  いい気分がより長く維持されるようになります。

  セロトニン、オキシトシンの濃度が高く保たれ、脳がその状態に慣れてくるのです。

      <『「親切」は驚くほど体にいい!』飛鳥新社>

  ・・・

人に親切にしたり、人の役に立つような活動は、うつなどの精神疾患の治療に役立つという。
あるいは、ペットなどの世話をすることも、「何かの役に立っている」という気持がおこり、
同様の効果があるという。

人の役に立ったり、人に親切にするには、人の気持が分からなければできない。

どうしたらもっと人が喜ぶだろう、相手の気持や身体が楽になるだろう、
と考える「利他の心」だ。
利他の心とは、自分の損得より、人の喜びを優先させること。

健康と幸福は、「お先にどうぞ」と言った回数で決まる、という。

小さな親切を積み重ね、健康で幸せな人生をおくりたい。

           <感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>

深切な語(ことば)を使う - 伝統

2016/11/10 (Thu) 18:29:40

人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日

          *「光明道中記」(11月10日)より

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                             (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。
道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。

人々よ肉体の病気よりも人は自分の心が他(ひと)を咎(とが)めたくなる心病に
罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。

高慢は禁物である。

          <感謝合掌 平成28年11月10日 頓首再拝>

愛は善き種子(たね) - 伝統

2016/11/19 (Sat) 19:39:33


        *「女性の幸福365章(P61)」より

神の祝福はあなたの愛他的行為の中に宿り、
悪魔の誘惑はあなたの利己的行為の中に宿る。

ひとたび利己心によって汚されるならば、本当の魂の喜びは消えてしまう。
正しく見える行為の中にも利己心の悪魔はひそみがちである。

愛は純粋に無我でなければならぬ。


この世界は法則の世界である。
物理的な法則もあれば、精神的な法則もある。

善き種子を蒔けば善き樹が生長し、
悪しき種子を蒔けば悪しき樹木が生長する。

親切や愛ふかき善行はよき種子であり、
冷酷な利己的な所行は悪しき種子である。

神は吾々をその意志を以て罰したまわないけれども、
法則が自働して吾々に報いを与えるのである。


“魂の生活”とか“宗教的生活”とかいうものは
必ずしも静坐して祈るばかりの生活ではないのである。

一切のものを祝福し、一切のものを讃歎し、一切のものに感謝し、
その感謝を具象化するために「動き出す」生活である。

           <感謝合掌 平成28年11月19日 頓首再拝>

《他(ひと)を助けよう、》 - 伝統

2016/12/01 (Thu) 19:09:05


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月1日)より

もっともっと気尚(けだか)く生きよう。
最も気尚(けだか)いことのほか何事も考えまい、
最も気尚(けだか)いことのほか何事も為すまい。

他(ひと)を助けよう、
他(ひと)のためになろう。
他(ひと)に愛を注ごう。
愛を注げば
愛が自分に還(かえ)って来る。

悪い人というのは本来一人もない、
地獄というものも決してない。
悪いことがそこに語られるとき
そこが地獄であり、
それを語る人が悪い人である。

汝の世界に天国浄土を実現せんと欲するならば
決して人の悪を語るな、
決して人の悪を思うな、
天国を目指しつつ人の悪を語るものは
必ずや穽(おとしあな)に陥(おちい)って地獄へと墜落せん。

            <感謝合掌 平成28年12月1日 頓首再拝>

【まいたタネは必ず生える 】 - 伝統

2016/12/05 (Mon) 20:08:21


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年11月19日)」より

   (岡本一志氏の心に響く言葉より…)

   お釈迦さまは、

   「まいたタネは必ず生えるのだよ。
   だから、無駄になる苦労は一つもないのだよ。
   人によって早く咲くか、遅く咲くかの違いがあるだけだよ」

   と教えられています。


   世の中で成功したと言われる人でも、遅咲きの苦労人はたくさんいます。

   「潜伏(せんぷく)期間30年」として知られる
   漫談家の綾小路(あやのこうじ)きみまろさんは、
   18歳の頃に鹿児島から上京し、28歳で漫談家としてデビューしました。

   しかし、バーやキャバレーの司会者を務める長い下積み生活が続きます。

   デビューからブレイクするまでの間、一人でも多くの人に自分の話を聞いてもらいたいと、
   奥さんと一緒に自分の漫談をカセットテープに吹き込んで、
   高速道路のサービスエリアで中高年層にひたすら配りまくったそうです。

   その数は数千本ともいわれます。

   サービスエリアの係員から「勝手に商売しないでください」と注意を受けると、
   「商売ではありません。タダで配っているんです」と言って配り続けたそうです。

   必ず芽が出て花が咲くことを信じてのタネまきでした。

   そのうち、無料で配られたテープをバスガイドさんが観光バスの中で流すと
   大爆笑になり、それが50歳過ぎでの大ブレイクにつながったのです。

   潜伏期間30年のタネまきが花開いて、
   「中高年のアイドル」といわれるほどの人気を誇っています。


   春になると、満開の花を咲かせる桜も、冬は枯れ木のように花一つ、つけていません。
   春の陽気という「縁」がまだ来ていないからです。
   ところが枯れ木のようだった木も、温かい日差しに触れると一斉に花を咲かせます。

   世の中には遅咲きであっても、見事な花を咲かせる人がたくさんいます。
   遅咲き早咲きの違いはあっても、まいたタネは必ず生えるからです。

   一生懸命、頑張ってきたことは、その人に必ずタネとなって蓄えられています。

   頑張っているのに、なかなか結果が出ない時は、
   まだ発芽させる春の日差しがやってきていないのです。

   焦らず、慌てず、花を咲かせる暖かい日が差すのを待てばいいのです。

      <『幸せのタネをまくと、幸せの花が咲く』1万年堂出版>p123 126抜粋

               ・・・

「何も咲かない冬の日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」

マラソンの高橋尚子選手が、
恩師から贈られた言葉として、座右の銘にしていたものだ。


「努力は裏切らない」という言葉があるが、間違った努力だったらそれは成就しない。

京セラの稲盛和夫氏はそれを、「人生の方程式」と言っている。
人生の方程式とは、「人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力」で表されるという。

考え方とは、方向性のことだ。

正しい方向なのか、間違った方向なのか。

それに熱意という努力が入ってくる。


寒い冬の日は、しっかりと下へ、下へと根をはる。

見えないところ、目立たないところで、コツコツと努力を重ねる。

まいたタネは必ず生える

           <感謝合掌 平成28年12月5日 頓首再拝>

【クリスマスの使者】 - 伝統

2016/12/24 (Sat) 19:15:55


      *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年12月23日)」より

   (ジャック・キャンフィールド氏の心に響く言葉より…)

   去年のクリスマスはとてもつらかった。
   家族も親友も、かるか遠い故郷のフロリダにいた。

   私は一人、寒いカリフォルニアで働き続け、体調も崩していた。

 
   私の職場は、航空会社のチケットカウンター。
   その日はクリスマス・イブ。

   私は昼夜のダブルシフトをぶっとおしで勤務していたが、
   夜も九時をまわり、内心みじめでならなかった。

   当番のスタッフは2,3人いたものの、乗客の姿はまばらだった。

   「次のお客様、どうぞ」カウンター越しに声をかけると、
   柔和な顔をした老人がつえをついて立っているのが見えた。

   老人がそろりそろりとカウンターまで歩いてくると、
   聞き取れないほどの小声でニューオリンズまで行きたいといった。

   「今夜は、もうそっちへ行く便がありません。
   明日までお待ちいただくことになりますが」と言うと
   その老人はとても不安げな顔になった。

   「予約はしてあるのですか」「いつ出発のご予定だったのですか」
   などと聞いてみたが、聞けば聞くほどいよいよ困った様子で、
   ひたすら「ニューオリンズに行けって言われたから」と繰り返すばかり。


   そのうち、いくつかのことがわかってきた。

   老人はクリスマス・イヴだというのに、
   義理の妹に「身内のいるニューオリンズに行きなさい」と車に乗せられ、
   この空港の前で下ろされたらしい。

   彼女は老人に現金をいくらか持たせ、
   「中へいってこれで切符を買いなさい」と行って立ち去ったのだ。

   私が「明日もう一度来ていただけますか」と聞くと、
   「妹はもう帰ってしまったし、今晩泊まるところもない。
   このまま、ここで待つことにします」と言った。

   これを聞いて、私は自分が恥ずかしくなった。

   私はクリスマスの夜にひとりぼっちのわが身を憐れんでいた。

   でも、クラレンス・マクドナルドという名の天の使者が、
   こうして私の元につかわされ、ひとりぼっちとはどういうことか、
   本当の孤独とはどんなものかを教えてくれている。

   私の胸は痛んだ。

   私はただちに「ご安心ください。万事うまくやってあげますからね」と彼に伝え、
   顧客サービス係に明朝一番の便を予約してもらった。

   航空運賃も年金受給者用の特別割引にし、
   差額は旅費の足しにしてあげることができた。

   一方、老人はくたびれ果てて立っているのも辛そうだ。

   「大丈夫ですか」とカウンターの向こうに回ってみると、片脚に包帯を巻いている。

   こんな脚で、衣類をぎっしり詰め込んだ買い物袋を下げて、
   ずっと立ちつくしていたのだ。

   私は車椅子を手配し、みんなで老人をその車椅子に座らせたが、
   見ると足の包帯に少し血がにじんでいる。

  「痛いですか」と聞くと、老人は「心臓のバイパス手術をしたばかりでね。
   そのために必要な動脈を脚から取ったんだよ。」

   なんということだ!
   老人は心臓のバイパス施術を受けたばかりのからだで、
   付き添いもなく、たった一人で!

   こんな状況に出くわしたのは初めてだった。
   なにをしてあげたらいいのだろう。

   私は上司の部屋に行き、どこかに老人を泊めてあげてほしいと相談した。

   上司はすぐさま、ホテル一泊の宿泊券と夕食と朝食の食事券を出してくれた。

   カウンターに戻った私は、ポーターにチップを渡して
   「この方を階下までお連れして、シャトルバスに乗せてあげて」とたのんだ。

   車椅子の彼の上に身をかがめて、ホテルのこと、食事のこと、
   旅の段取りをいまいちど説明しながら、彼の腕をとんとんと叩いて励ました。

   「すべてうまくいきますからね。」

   いざ出ていく段になると、老人は「ありがとう」と頭を下げて、泣き出した。

   私ももらい泣きしてしまった。

   あとになって、上司の部屋に礼を言いに戻ると、彼女はほほえんでいった。

   「いいわねえ、こういう話。その人は、あなたのためにやってきた
   クリスマスの使者だったのよ。」 


   《レイチェル・ダイヤー・モントロス》

       <『こころのチキンスープ 7』ダイヤモンド社>

               ・・・

お釈迦さまの、托鉢(たくはつ)の話がある。

托鉢とは、僧侶が修業のために、家をまわってお経を唱え、
お米やお金の施しを受けて回ることをいうが、お釈迦さまは弟子たちに、
あえて貧しい人たちの家に托鉢に行きなさいと言ったという。

その理由は、「豊かな人は、今まで人に与えることをしてきたから豊かなのだが、
貧しい人たちは、自分が貧しいゆえに人に与えるということをしてこなかったから、
さらに貧しくなっているのだ」と。

つまり、貧しい人たちに、「人に与えることの大切さを教えるため」。


人に親切にしたり、喜びを与えることができたときは、
相手も喜ぶが、実は自分が一番幸せな気持ちになることができる。

それが、「情けは人のためならず」。


「幸せは不幸の姿をしてやってくる」という言葉がある。

やっかいなことの中に、天使が隠れているかもしれない。

           <感謝合掌 平成28年12月24日 頓首再拝>

深切の生活を生きよ - 伝統

2017/01/17 (Tue) 19:30:23


  *谷口雅春先生・著『光明の生活法』
   (「生命の實相」第七巻<深切な生活を生きよ>)より


諸君はこういうお伽話を聞いたことがあるであろう。

昔あるところに一つの大きな富んだ国があった。
この国の王様に一人の賢い王子があった。
この王子の欲することにしてかなわないことは一つもなかった。

国中の一切の富はあげてこの王子の欲するままになった。
しかし王子は何が不足なのか幸福でなかった。
そしていつも王子の顔には浮かない不満足な色があらわれていた。

王様は何不足のないはずの愛する王子がどうして何時も気むつかしい顔をしているのか
解らなかった。

或る日、王様は王子を呼んで 『何でもお前の欲しいものとて、かなわないことは一つも
ないのにお前はなぜそんなに幸福でないのだろうね。
何か心に秘密な悩みでもあるのかね』 とやさしくたずねて見られるのであった。

王子は答えて 『わたしにしようと思って出来ないものはありませんから別に
秘密ななやみはある道理がございません。
それだのにわたしは人生にどうも輝くような喜びが感じられないのです。
それはどういう訳でそうなのか、自分にもわかりませぬ』 というのであった。

王様は国中に布令(ふれ)を出して、王子を幸福にしたものは褒美の金は望み次第だ
とて大懸賞つきで王子の幸福生活法を募集したのであった。

或る日一人の魔術師が王様のところへ来て
『王子様を幸福にして差上げられることのできるものは私です』 と申上げた。

王様は、
『もしお前が王子を幸福にすることができるなら何なりとお前の欲しいものはとらせるぞ。
だがその方必ず王子を幸福にできるであろうな』 と仰せられた。

魔術師は王様のゆるしを得て王子を別室に伴って白紙で白い絵の具で文字を書いた。

そして
『王子様、この紙を暗室に持っていって、蝋燭の灯を紙の下へかざして、
文字をあぶり出してお読みになり、その書いてある通りになさいませ。
きっとあなたは今日からすぐ幸福になられます』 と言うかと思うと魔法使いは消えてしまった。

王子の手には明るいところで読めないただの白紙が残っているだけであった。
王子は早速部屋を真っ暗にしめきって蝋燭をともして、魔法使いにもらった白紙を
その灯の上であぶりながらすかして見た。

白い絵の具で書かれた文字は青色にかわって次のようにあらわれた。

『毎日一度は誰かに深切にせよ。』

ああこれだ! これこそ幸福生活の秘密であったのだ!
王子は魔法使いの教えに従ってその日からすぐ幸福になったのであった。


諸君よ、本当の幸福は自分の幸福を追い求めているあいだは、
月を追いかけて走る子供のようなものなのだ。
走っても走っても結局はその幸福をつかむ日は来ないのである。

他(ひと)のために役に立ち、人からよろこばれ、人のよろこびを自分の心に反射して
輝くところの喜びを味わわない限りは、如何なる富豪でも―― 王様でも、王子様でも、
本当の幸福にはなれないのだ。

自己を与えることによってのみ自己は拡大する。
与えることによってのみ自分の持っている宝の価値は十倍二十倍になって還ってくるのだ。

           <感謝合掌 平成29年1月17日 頓首再拝>

深切の生活を生きよ(2) - 伝統

2017/02/03 (Fri) 19:35:20


     *『生命の實相』第7巻「(八)深切の生活を生きよ」より

まだまだ多くの深切を人に与えよ。

まだまだ多くの賞讃を人に与えよ。

まだまだ多くの生命を人に与えよ。


与えること多き者は刈りとること多き者だ。
その刈り入れは天から来るのだ。
与えること多ければ天の与え給う賜(たまもの)の通路も大きいのだ。

ある外国の本にこんな記事がのっている。

ある日一人のみすぼらしい服装(なり<ふくそう>)をした男が、ある良家の裏口へ来て、
履物が破れて困っているのだから古靴でもあれば恵んでほしいと言って
憐れみを乞うのであった。

で、主婦が出て見ると、寒い日に破れて半分も足の露出した靴をはいているのでらる。
主婦は靴箱をのぞいて見た。そして惜しげもなく新しい靴を一足出して、

「これを差し上げましょう。穿いておいでなさい」と言った。

「まあ、こんんあ新しい靴はもったいのうございます。もっと古いのがありましたら、
どうぞそれをくださいませ」と無宿者らしい男は言うのだった。

「なアにようござんすよ。はいてお帰りなさいましょ。お前さんがもし冷たいのが助かって
ありがたいとお思いだったら、なにね、雪でもどっさり降った日に、もしここを通りかかり
でもなさることがあったら、

この横道を往来の人が通るのをお困りにならないように、雪を掻きのけておいてくださりゃ
それが一番の恩返しですよ」と主婦は事もなげに答えたのだった。

男はしばらく合掌してやがて立ち去っていった。

それからっしばらくたったのちの日のある朝、主婦は、横道で雪を掻(か)くような物音が
するので目をさました。窓から見ると大変な雪の降りようである。

それにしてもこんなに朝早くから、誰が雪を掻いでいるのであろうかと思って覗いてみると、
先日靴を与えた男が、どこから拾って来たものか古いシャベルでせssと雪を掻いでいる
のであった。

とたんに、男は窓の方を振り向いて主婦と顔を見合わせた。
彼は先日の恵みを感謝するようすで、帽子をぬいでお辞儀をしたが、
またせっせと道の雪を掻きはじめた。

主婦はその男にお礼を言って、朝御飯でもたべてもらおうと思いながらちょっと身づくろい
して外に出て見ると、もうその男はそこにいないで、雪がスッポリ道の片側に積まれて、
往来の真ン中はきれいに通れるようになっていた。

こんな同じようなでき事が、その年の大雪ごとに起こったとその本に書いている。

どんな貧しい人でも、どんなみすぼらしい人でも、深切にしてあげればその人から神性が
発揮されるという「生長の家」の主張はウソではないのだ。

雪を掻く男には神性が光っている。その朝、誰よりも幸福になった人は、誰にも知られずに
報恩のためにとて、雪を掻いている男ではなかったろうか。

与える喜びは伝染する。
与えられた人はまた与える喜びを知る人になるのだ。

こうしてしだいに与える喜びを伝染させて行くとき、人生は血を見るような宿命なしに、
このままで光明化するに違いないと「生長の家」は信ずるのだ。

われらの人間にやどる神性を信ずるのだ。
われらは人間に宿る善良性を信ずるのだ。

しかし人間に宿る神性は強制によっては出て来ない。

人間を拝むこと、人間に深切をつくすこと、人間を貴ぶこと、
人間を愛することによってのみ出て来るのだ。

愛は愛を招(よ)び出し、憎しみは憎しみを招(よ)び出す―― これが心の法則だ。

           <感謝合掌 平成29年2月3日 頓首再拝>

深切を与える日 - 伝統

2017/02/07 (Tue) 20:53:59


           *「光明道中記」(2月7日)より

【常に他に与えたいと思っている者は他から愛され、常に他から与えられたいと
 思っているものは他から嫌われる。 (『生命の實相』第十一巻)】

「あの人から深切して欲しい」と思う心は兎(と)もすれば其の人を躓かせる。
深切が欲しければ自分が先ず深切を自分の生活から造り出すことである。

深切を他から求めるような人は屹度深切に飢えている人である。
深切に飢えている人は、自分自身が深切を身辺に造り出していない証拠である。

他が深切にしてくれないと思う人は、自分が他に深切をしているかどうかを省みるが好い。

蒔いた種は生えるし、蒔かぬ種は生えない。
自分が「深切」を製造する分量が少ないからとて、「深切」の少きを嘆いてはならない。
「深切」を沢山欲しい人は、自ら選んで自分の周囲にいる人々に深切を与えるが好い。

こちらが微笑すれば、周囲が微笑する。
こちらが渋面(じゅうめん)すれば、周囲が渋面する。
こちらが相手を審判(さば)けば、周囲が自分を審判くであろう。


 吾が住む世界は吾が与えし通りの世界である。人は自分の心に従って地獄を造り極楽を作る。

 自分だけの幸福を護り育てていたい者には、その人の周囲から深切な人々が立去るだろう。

           <感謝合掌 平成29年2月7日 頓首再拝>

よき「行為(おこない)」の種を蒔け - 伝統

2018/06/17 (Sun) 19:32:50


       *「光明法語」(6月17日)より

   「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、
   一つの「行為」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。
   それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。

   また「思い」の方ではそんなに深切な気持ちが起こっていないにしても、
   そこに思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、
   不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。

   そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、
   常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。

   又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。
   感謝は感謝の共鳴を喚(よ)び起こすのである。

        <感謝合掌 平成30年6月17日 頓首再拝>

「喜びの種をまく」 と自分も幸せになる - 伝統

2018/10/27 (Sat) 19:08:14


【「天使な消費者」になる】

        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年08月16日)より

   (福島正伸氏の心に響く言葉より…)

   誰でも簡単に幸せになれる、たった1つの法則をご存知ですか?

   ある人は、この法則を知って、
   嫌なことがあってもすぐに腹を立てなくなりました。

   またある人は、普通で単調な毎日が、
   ワクワクしたものに感じられるようになりました。


   その法則とは…

   社会に貢献すること。

   もっと簡単に言うと、人を幸せにすることです。


   「人を幸せにして、何で自分が幸せになるの? 」 と思うかもしれません。

   でも、ちょっと思い出してみてください。

   はじめて電車で席を譲った日。
   床に落ちているゴミを片付けた日。

   なんだか、すがすがしい気持ちになりませんでしたか?

   たぶんそのとき、すがすがしかったのはあなただけではありません。

   席をゆずられた人、きれいな床の部屋で過ごせた人、
   まわりでそれを見ていた人、みんなが幸せな気分になったはずなのです。


   日々、小さな幸せを感じられれば、
   あなたの毎日はいまよりもっと幸せになるのではないでしょうか。

   みんながささいな変化を起こし始めたら、
   世界はもっと幸せなところに変わるのではないでしょうか。

   大きな声では言えませんが、
   実はもう、世界を変えるために動きはじめた人たちがいるのです。


   彼らは秘密結社、その名も「国際救助隊」。

   人や社会に貢献することを喜びとし、いまできることから行動します。


   《国際救助隊とは》

   隊員は、人類の未来を担うという崇高な目的をもって行動するものであり、
   その行動が自らの知名度を上げるためのものであってはならない、
   たとえ命をかけるような場面に遭遇したとしても、何気なく行動し、
   活動終了後は、ただの「通りすがりの者」であるかのような
   態度をとることが求められる。

          <『まわりの人を幸せにする55の物語』中径出版>

             ・・・

国際救助隊の活動記録がある(本書より)。

《通りすがりの者 ナンバー0490》

『みどりの窓口で、駅員さんとやり取りしました。

そのときに、気が付きました。

自分は、相手によって態度が違うじゃないかっ!

お客さんに対する自分
セミナーで知り合う人に対しての自分
尊敬する人に対しているときの自分

こういうときと比べると、ギャップがあります。

これは、恥ずかしいことだと思ったのです…。


そこで、キャンペーンを張ります。

「天使な消費者」目指します!

お客さんは神様…という言葉がありますが、神様ならば、態度もにこやかなはず。

本日から、買い物が楽しみです』



『私たちは、大きいことはできません。
小さなことを 大きな愛をもって行うだけです』(マザー・テレサ )

人に幸せになってもらうというと、何か大きなことをしなければいけないと思う。

しかし、大きなことなどなかなか見つからないので、ついつい何もせずに終わる、
というのが大方の我々の日常だ。


だが、小さなことを大きな愛を持って行うことなら、誰でもできる。

しかも、誰にも告げず、宣伝もしない、ただの「通りすがりの者」として行う。

それが、「誰でも簡単に幸せになれる、たった1つの法則 」。


ただの「通りすがりの者」として…

「天使な消費者」を目指したい。

           <感謝合掌 平成30年10月27日 頓首再拝>

「和顔施(わげんせ)」。 - 伝統

2018/11/15 (Thu) 17:44:47


      *Web:青山俊董老尼 のご法話より

   あなたがそこに ただ いるだけで
   なんとなくその場の空気があかるくなる

   あなたがそこに ただ いるだけで
   みんなのこころがやすらぐ

   そんなあなたに わたしもなりたい


私の大好きな、足利の相田みつをさんの詩である。

偉そうになにかを語って聞かせるのでもない。
やって見せるのでもない。

ただただあなたがそこにいるというそれだけで、
その場の空気が明るくやわらぎ、みんなの心がやすらいでゆく。

そんな方に出会うと私はむしょうにうれしくなり、
ほれぼれとその方を眺め、私もそんな人になりたいと思う。


反対にその人がそこへ入って来ただけで、その場の空気が暗くなり、
その人の顔を見ただけでイライラしてくるという、そんな人に出会ったとき、
私の姿を見るような気がして悲しくなる。
私も行く先々に闇黒を、不安をばらまいて歩いているのじゃなかろうか、
と反省させられる。


ずいぶん遠い日のことになってしまったが、忘れられない話がある。
松井桃桜先生からお聞きした北原怜子さんのお話である。

戦火で灰燼に帰した東京の下町の一隅に、
アリの町と呼ばれるバタヤの集落が出来た。

大学教授の令嬢でクリスチャンの北原怜子さんが、
ある日このアリの町の住人になった。

怜子さんは、貧しくて小学校教育も受けることの出来ない
子供達を集めて学習したり、病人や孤独な老人の世話に、
寝る間も忘れて働いた。

何百人というバタヤさんが朝になるとガラカ゜ラと大八車をひいて出かける。
明るい笑顔で「いってらっしゃい」と送りだし、夜何時であろうと
帰って来た一人一人を必ず出迎えて、

「お帰りなさい。お疲れさまでした」

とやさしくほほえみかける怜子さん。

戦後のすさんだ社会の、そのまた吹きだまりのあらくれ男たちは、
この怜子さんのやさしい清らかな笑顔に迎えられることにより、
1日の疲れもすべてぬぐわれ、やすらかになることができ、

怜子さんは誰いうことなくアリの町のマリアと慕われるようになった。

やがて怜子さんは過労がもとで結核になり、
人々が実家へ帰って療養してくれとたのむのに対し
、"私をここで死なせてくれ" といってついに帰らず、

冷たい隙間風の入りこむあばら屋の片隅に、薬もなく栄養もとれないまま、
綿の出た破れ布団にくるまっての闘病生活の末、二十何歳かの若さで世を去った。

死後、枕の下から小さいノートが出てきた。
病床でときどきそっと開いていたノート。

なにか大切なことが書いてあるのかと、松井先生が開いてみると、
そこにはたった一言「あなたは今ほほえむことを忘れていませんか」
と書いてあった。

高熱にうかされた病床でも、つねにほほえみを失わなかった怜子さんであったが、
怜子さんとて人の子、どんなにか人恋しく、また病もつらく、
泣きたいときもあったことであろう。

そんなとき、そっとこのノートを出して、われと我が身を問いただす
という厳しい努力が為されての、あのほほえみであったことを知り、
胸えぐられる思いであったと語られる松井先生の眼は、涙にぬれていた。


いつもほほえんでいる。
これはなんでもないことのようだが大変なことである。

自分の都合のよいとき、わが心にかなうときは誰だって自然に笑みが浮かぶ。

どんなときでもほほえみを。
わが心にかなわぬときほどむしろ笑顔を。
これはなまやさしいことではない。

人はついに自分の"なま"の顔に出会うことは出来ない。
鏡を見るときは他所ゆきの顔になっているに決まっているのだから。

自分が今日気分が悪いからといって、今私が腹立つからといって、
その感情を顔に丸出しにすると、その顔によって不快な思いを
味わわねばならないのは第三者。

全くもって迷惑千万な話。

今日私はたとえどんな気分であろうと、それは人間だから仕方がないまでも、
第三者にまでとばっちりを及ぼさないよう、
自分で責任をもって自分のお守をちゃんとする、

感情のおもむくままの顔をさらけ出して公害をふりまかないようにする
ということは、少なくとも大人らしい大人として生きてゆくうえでの
大切な心がけではなかろうか。


地蔵菩薩のご真言の「オン カ カ カビサンマエイ ソワカ」の
「カカ」は呵呵大笑の「カカ」で、ハハハという笑い声に通じ、
「カビサンマエイ」は「莞爾(かんじ)」と訳されて、
ほほえむ姿をいうのであると聞いている。

すべてを包みはぐくみ育てる、母なる大地の願いを象徴化したと思われる
地蔵菩薩のご真言が、深く美しいほほえみのひと言で表現されているということは、
なんともうれしいことである。

母はつねに笑みたもえもの、わが心に違(たが)う、違(たが)わぬの境を越えて、
大手を広げてかき抱きたもうものであり、すべての人がつねにこの願いで生きよ
との思し召しが、

お釈迦様の「和顔施」という、
無財の七施の筆頭の一語になったのではなかろうかと思うことである。

・・・

北原怜子(さとこ)
  昭和期の社会奉仕家・蟻の町のマリア
  1929.8.22(昭和4)~ 1958.1.23(昭和33)
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kitahara_s.html

・・・

青山俊董老尼(老師)プロフィール
https://www.thosenji.com/2016/11/03/%E9%9D%92%E5%B1%B1%E4%BF%8A%E8%91%A3%E8%80%81%E5%B8%AB-%E8%91%97%E6%9B%B8/

           <感謝合掌 平成30年11月15日 頓首再拝>

Re: 「喜びの種をまく」 - lrmzehkfvzMail URL

2020/08/29 (Sat) 22:00:06

伝統板・第二
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