伝統板・第二

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(九月)の法語 - 伝統

2016/09/01 (Thu) 04:05:19

今日から九月。

旧暦九月を長月(ながつき)と呼び、現在では新暦9月の別名としても用いております。

長月の由来は、「夜長月(よながつき)」の略であるとする説が最も有力でありますが、
他に、「稲刈月(いねかりづき)」が「ねかづき」となり「ながつき」となったという説、
「稲熟月(いねあがりづき)」が略されたものという説があります。

その他の呼び名として、
「暮月」、「長雨月」、収穫時期を向かえて「稲刈り月」、
昔は暮れるのが早まれば寝るのも早くなり、それ故夜中に目を覚ますことが
多くなることから「寝覚月(ねざめづき)」と呼ばれます。

さらには、夏が過ぎて「季秋(きしゅう)」、
菊が見頃で「菊月・菊見月・菊開月」、
竹の新葉が青々と茂る「竹の春・竹春」「竹酔月」。
一月、五月と並び、斎(い)み慎む月と考えられたところから「祝月・斎月(いみづき)」。

山々が色づきはじめ「紅葉月」。
彩り豊かな木々の葉に加え、名残惜しむ夏の花、そして秋の花も咲き始める九月は
「色取月(いろどりづき)」とも呼ばれます。

古来から、日本人は旧暦の9月を趣き深い季節ととらえていたことがわかります。

                ・・・

今日、9月1日は「防災の日」です。

今年の台風の進路は例年と異なります。
ここに、摂理として天の意を感じ取り、防災対策を進めることが大切だよと、
日本人に課題として投げかけられております。


・・・

さて、このスレッドでは、他の掲示板から、次の4つの法語を紹介してまいります。



(1)『 生長の家 』 昭和二十三年 九月号法語

   *次のWeb「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

(2)『 生長の家 』 昭和二十四年 九月号法語

   *次のWeb「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

(3)『 生長の家 』 昭和二十五年 九月号法語

   *次のWeb「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱」からの転載です。
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100
       

(4)『 生長の家? 』 昭和33年9月の法語

   *次のWeb「本流宣言掲示板」からの転載です。       
    → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=944 (→ 既に消滅)
    なお、日付不明のため、順次の紹介となり、18日分で終了となります。


     (”明鏡 さま””童子 さま”のおゆるしをお願いいたします)

                ・・・



【常住戦死の心】~「光明道中記九月こころ極まる<はじめの言葉>」

          (初出は「生長の家」誌・昭和14年9月巻頭言)


宇宙には唯一(ただひとつ)、大御心のみがある。

天皇の大御心である。

「忠(ちゅう)」とは大御心に無我帰一する心である。
すなわち天之御中主大神の心に「中(ちゅう)」する心である。
「中(ちゅう)」とは的(まと)に中(あた)るであり、御本質に貫き徹するのである。

宇宙の實相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従うのである。
吾らが大御心を行ずるのは、それによつて幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。
そう云う第二次第三次の事物よりも、尚々(なおなお)すぐれて無上價値なるものが大御心である。

その大御心を実現することは無上価値であるが故に、そのような第二次、第三次のお蔭などは
心に微塵も止(とど)めないで、大御心を行ずるのが「忠」である。 

そしてそれがまた生長の家家族の心である。

大御心を行ずる爲に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。
戦場に於て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。

これを「死」と云う不吉な連想を伴い易き言葉を用いず、
「肉体なし、物質なし」と吾らは云う。

その死に切った心だけでは消極的否定の心である。

そこに「大御心《のみ》あり」の大肯定がなければならぬ。
生長の家ではこれを「神一元」と言う。天皇独在とも言う。

・・・

【一日の法語(9月1日)】

(1)《生命は智慧によって生命体となる》

   人間の本体は 生命である。
   生命は 生きているから動く。

   それは生きているから偶然出鱈目に動くのではなく、
   律をもって動くのである。
   律は秩序であり、秩序は智慧の働きである。

   生命は 智慧によって働き、
   智慧は 秩序をもって展開して 生命体になるのだと
   云うことが出来る。


   だから 知慧ある生活は 生命体を健康ならしめるのであるが、
   智慧のない生活は 生命体を不健康ならしめるのは当然である。

   智慧のない生活は 生命体の秩序を破壊するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


・・・

(2)《無限の宝庫は 今 此処 にある》

   昔々インダス河のほとりに一人のペルシャ人が住んでいた。
   その名前はアーリー・ハーフェッドと云った。

   河岸に立っている彼の小さい家からは美しい田舎の景色が
   海岸の方へずっと伸びて行っているのを見渡す事ができた。

   アーリー・ハーフェッドには妻との間に数人の子供があった。
   彼は豪農で広々とした穀物の畑や花畑や果樹園や数マイルもつづく森林を所有していた。
   彼は自分のほしいだけの金と、その外ありとあらゆるものをもっていたのである。

   それで彼は非常に満足で幸福であった。

   或る朝のこと 一人の仏教僧侶(そうりょ)が彼の家を訪問した。
   そして暖炉(だんろ)の前に腰かけながら、この世界の成り立ちから、
   太陽の最初の光がこの地球の上にさしこんで来て、それが如何に結晶して
   ダイヤモンドになったかというような話まで説明してくれるのであった。

   この老僧はこんな話をしてから、
   自分の拇指(おやゆび)をその豪農の主人公の前に突きだして、

   「 この拇指ほどの太陽の光でも広い広い金鉱、銀鉱、銅鉱などよりも
   まだまだ価値があるのである。このほんの僅(わず)かの日光でもこんな農園位
   いくらでも買えるだけの値打があるのだ。

   一にぎりの日光があればこの一国全体を買う値打がある。
   そのすばらしい日光が結晶したダイヤモンドの鉱山をもってしたら、
   この国全体を買って尚(なお)余りがあるほどだ 」 と説明したのであった。


   アーリー・ハーフェッドはその老僧のいうことをきいていた。
   すると今まで田地 田畑 果樹園 森林それから無尽の金銭をもっていて
   随分富めりと思っていたのが、それがただの一にぎりの日光の値打しかないのだと
   知らされると一ペンに貧乏になったような気がしたのである。

   彼は今まで満足していた心が不満足となり、堪えがたき寂しい感じにおそわれて、
   その夜はおちおち眠ることが出来なかった。

   翌朝になると、彼は不機嫌な顔をしておきて来た。
   そしてその不機嫌の原因であった老僧に心配そうに
   「 どこへ行ったらそのダイヤモンドの鉱山が見つかるのですか 」 ときいた。

   「 どうしてあなたはダイヤモンドがほしいのですか 」 と
   其の坊さんはおどろいてたずねた。するとその主人は

   「 私は富みたいのです。そして子孫に富を残しておいてやりたいのです 」 と答えた。

   老僧は答えていった。
   「 あんたのなすべきことは一所懸命そのダイヤモンドの鉱山が
   見つかるまで探しまわることですよ。」


   「 しかしどこへいって探したらいいのでしょう。」と哀れな主人はいった。

   「 東西南北どこへでも行って探しなさい。」と老僧はいいました。

   「 そんなに歩き廻って、やっとダイヤモンドの鉱山の所へ来たら、
   どうしたらそれがわかるのですか。」

   「 高い山脈の間に白い砂の河底の その白い砂の中に
   ダイヤモンドを見出(みいだ)すでしょう。」 と老僧は答えた。

   そこで主人公は自分のもっていた農園を売りとばして
   自分の家族をば隣の農家にあずけ、
   その売って得た金をもってダイヤモンド鉱山の探検に出掛けて行った。


   彼はアラビヤの山々を越え、パレスチナ及びエジプトを通って、何年も何年も、
   彼は困難な旅を続けて行ったが、ダイヤモンド鉱山は見つからなかった。

   彼は出発の時携帯した金を全部使いつくしてしまって、
   その後には飢え死にが ただ待っているのであった。
   彼は自分自身の愚かさと自分自身のやつれはてたみすぼらしさとを
   恥じて海にとびこんで自殺したのであった。


   話かわって彼から農園を買いとった人は 今もっている農園に満足し切っていた。

   そして自分の環境を出来るだけととのえ
   自分のすべての田地、畑をできるだけよきものにして、
   ダイヤモンドや あてにもならぬ富貴栄華を求めることなしに 
   ただ今を「ありがとうございます」と暮していたのであった。

   所が、彼が農業用に飼っていたラクダが、
   ある日 水を呑(の)んでいるのを見ていると、
   小川の白い砂の中からピカリと光る ある物が見えたのである。

   彼はその光る小石をとりあげて見た。

   余りに光輝燦然と光る石なので、めずらしい石だと思って家にもってかえり、
   暖炉の近くの棚の上にそれをおいたが
   何時(いつ)の間にか そのことも忘れてしまっていた。

   ある日 例の老僧がその農園の新しい持主である彼の所へ訪ねて来た。
   老僧は彼の部屋に足を踏みこんだとたんに、
   棚にあった‘光るもの’が目についたのである。

   「 ダイヤモンドだ。ダイヤモンドだ。
   アーリー・ハーフェッドが帰ってもって来たのかえ。」と
   老僧は興奮して叫び声をあげた。


   「いいえ」と百姓はいった。
   「あれはダイヤモンドでござんせんよ。あれはただの石でさあ。」


   兎(と)も角、この石を採取した現場を見ようと云うので、
   二人はその農園を流れる河の白い砂のところへ行って、
   指で砂をかきまわしてみると、驚いたことには、出てくる、出てくる。

   先のものよりも まだまだ大きい光輝燦然たる
   大粒のダイヤモンドが出てくるのであった。


   これが有名なゴルコンダーのダイヤモンド鉱の発見された歴史である
   ということが或る本に書いてあった。


   あの哀れなるアーリー・ハーフェッドが遠く さすらい歩かないで、
   ただ自分の家でじっとして今あるものに完全に感謝して 今に全力をつくしていたならば
   飢え死に一歩手前で身投げするどころか全世界第一の大富豪になっていたのであった。


   彼のもっていた農園地帯全部が
   無数の宝石を蔵しているダイヤモンド鉱であったのである。

   無限の富は すでに 今 ここに 与えられているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


・・・

(3)《人間は奴隷になってはならぬ》

   聖者たるものは言葉の手品に惑わされてはならないのである。
   聖者は言葉がただの空気の振動に過ぎないことを知っているのである。

   聖者は人の毀誉褒貶(きよほうへん)の上に超出しなければならない。
   なぜなら自己の生命の本質が「神そのもの」であることを
   知っているからである。

   俗世間の毀誉褒貶は、彼ら自身が、わが実相の完全円満なることを
   見る力がないことをみずから表明しているに過ぎないのである。

   他(ひと)によってうごかされるものは奴隷である。
   奴隷のみが世間的名誉を求めるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100


・・・

(4)《すべての物は神の賜物である》

   キリストが或る時、奇蹟を行った。
   五つのパンを五千人に分けたら食べ飽きて尚
   籠十二杯に山盛りのパンが残った。

   そんな馬鹿らしいことがあるものかと一見思われるのであるが、
   聖書を注意して読むと、
   イエス『一片のカケラも残らないやうに其のパンの屑を集めよ』
   と弟子に指令しているのである。

   茲に真に無限供給の原理があるのである。
   一片のカケラもすべて神からの賜なのである。

   その賜を尊重する心のあるところに、そのカケラが増進して、
   ついに十二杯の籠に山盛りのパンともなったのである。

   神からの賜を尊重しないで、唯単にそれを物質的な塊だと、
   軽くあしらっているところに、人間が貧しくなる原因があるのである。

   物質はそのまま『神の愛の実現』である。

   百丈和尚は一枚の菜の葉が川へ流れて行ったのを駈足で追って行き、
   それを拾って『佛物』として頂いたと云うことである。

            <感謝合掌 平成28年9月1日 頓首再拝>

【二日の法語(9月2日)】 - 伝統

2016/09/02 (Fri) 03:43:13

(1)《智慧は秩序である》

   愚かなる智慧なき生活は 生命体の秩序を破る。
   従って、病気の原因となるのである。

   生命体の秩序を破るのに、物的方面と心的方面とがある。

   物的方面では 食物に使用すべからざる毒物を
   食用する如きは 秩序を破るのである。
   青酸加里や砒素剤の服用の如きは それである。

   生長の家は決して物的方面の秩序を軽んずるものではない。

   何故なら 物質的秩序も結局は 宇宙大生命の智慧の発現であり、
   結局心的なものであるからである。

   「 物は心の影 」 と云うのも 此の方面から理解出来る。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


・・・

(2)《人の捨てた処(ところ)に自分の 「 機会 」 がある》

   機会というものは始終吾々の周囲にあるのである。
   エヂソンもフォードもそれを手近な処から発見したのである。
   
   まずそれを発見するには、この世界には何が欠乏しているか、
   何が求められているかを知ることである。

   そしてその欠乏しており、求められているものを供給してやるようにしてやれば、
   富が出来るのである。

   多くの運のいい人は人が捨てたものを拾って自分の富とするのである。


   ミケランヂェロはフローレンスの町にごもくの中にすてられていた
   一片の型のくずれた大理石を見出してそれに彫刻し始めたのである。

   それは下手な未熟な彫刻家が鑿(のみ)で彫りそこなって傷つけて
   すててしまったものであった。

   多くの彫刻家はミケランヂェロよりもさきにそれを見たにちがいなかったが、
   品質は立派なものだが、さて残念なことには、形がどうにもならないように
   くずれているのであった。

   ミケランヂェロはすべての彫刻家がみすてたこの大理石をとりあげた。

   そしてそのすてられた大理石のこわれた形をした
   そのままの青年の姿をほりあげたのであった。
   それが彼の作品の中で有名な青年ダビデの彫刻である。

   人のすてたものの中に自分の機会があるのである。
   悪いと思っているものがよきものに変わるのである。

   時は待たねばならぬ。
   そして今あるものを愛しなければならぬのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


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(3)《実相を語らない言葉は只の振動である》

   人が自分を悪しざまに批評するときは、
   それは神のコトバで無いことを知れ。

   神のコトバは必ず善きことのみを語るのである。

   悪しき言葉は迷いによって引き起されたる
   只の空気の振動に過ぎないのである。

   悪しき言葉を聴くときには次の如く心に唱えるが好いのである。

   「彼は憐(あわ)れなる者である。彼は言葉を浪費することに
   よって自己のエネルギーを浪費し、自己の魂を汚しつつあるのである。

   自分は決して斯くの如き実相を語らない言葉によって
   動かされる事はないのである。
   実相を語らない言葉は単なる空気の振動に過ぎない。」


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100


・・・

(4)《すべての欠乏の原因は ― ?》

   『物質は物質に非ず、それは神の愛の具象化である。』 

   私たちが一片のパンの欠ケラをも神の愛として感謝する心になるとき、
   私たちは實相の世界にある無限供給の霊的波動を合わすことができ、
   必要に応じて、その欲するものを現実の世界に実現して来ることが
   できるのである。

 
   生活力の欠乏 ― 即ち虚弱や病気 ― それから、
   経済力の欠乏 ― すなわち貧乏や物資不足は、

   私たちが神の愛の具象化に波長を合わさなかったときに、
   テレビに放送が映って出ないように、
   受信力の欠陥としてあらわれて来るのである。

   この原理を知らないために、或る種の人は、物資の潤沢を
   確保するために、霊的世界に波長を合わすことを忘れて、
   逆に貪欲になって、貪り取ろうと云うような気持になるのである。

           <感謝合掌 平成28年9月2日 頓首再拝>

【三日の法語(9月3日)】 - 伝統

2016/09/03 (Sat) 04:08:31

(1)《心を調律すること》

   物質的秩序は 自然科学の方面から研究せられる。
   それは謂わば 神の智慧の物的方面への顕れの研究であるが、
   今は自然科学者の方面にまかせて置く。

   私は爰に 精神的秩序の方面を述べて見たいのである。

   生命体は秩序の顕現であるから
   秩序が破れたらそれだけ傷つくのである。


   先ず、次のような心を持たぬことである。

     一、腹立てやすい。

     二、いらいらする。

     三、気むずかしい。

     四、陰気くさい。

     五、自己軽蔑。

     六、受難礼賛。

     七、呟く心。自己憐憫。

     八、同情を求める心。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


・・・

(2)《物の熟するには時間がかかる》

   急がず収穫すれば、すっぱい蜜柑(みかん)も時期を待てば、
   甘味(あまみ)したたる果実となるのである。

   余りに急ぎすぎては物事を破壊する。
   
   人間の魂は鉱山にある大理石のようなものである。

   それをほり出して適当に磨き上げた時に、その大理石の美しい光沢や
   筋模様や雲模様が浮び上ってくるのである。

   人間は教育によって磨かれて 始めてその立派な本性が発揮されるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


・・・

(3)《唯、善き言葉のみを語れ》

   吾らは苟(いやしく)も言葉を語るならば、
   善き言葉を語らなければならない。

   苟も言葉を語るならば
   誰かを幸福にする言葉を語らなければならない。

   人を傷け、人を悲しませ、人を憤(いか)らしめる
   ような言葉を語ってはならない。

   人を軽蔑(けいべつ)する言葉を語ってはならない。
   怒気を含んだ言葉を語ってはならない。

   「世の中に軽蔑さるべきものは存在しないのである。
   唯、軽蔑すると云う心のほかには。」と
   知恵の言葉に書かれているのである。

   吾等が唯、優しき言葉、愛の言葉のみを語るとき、
   其処(そこ)に天国が実現するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100


・・・

(4)《實相世界にある富を現実にするには》

   人の富を、その外形的な数量的な物質や貨幣の量によって
   はかってはならないのである。

   真理を知ったところの人は、すべての富は物質の量ではなくて、
   天の倉に貯えられたる霊的なる『徳』であり、その眼に見えざる
   『徳』が必要に応じて物質的な富として形をかえて現象界に
   あらわれて来るものだと云うことを知っているのである。

   人間は神の最高の自己実現としてつくられたものであるから、
   神が人間を貧しくつくるようなことをしたまう筈はないのである。

   神は人間を自己の最高実現として、最高の『徳』を実現することを
   目的としていられるのであるから、『徳』を行じ『徳』を実現する
   とき、おのずから経済的にも豊に『其の實相の富』を此の世に実現
   することができるようになっているのである。

           <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

【四日の法語(9月4日)】 - 伝統

2016/09/04 (Sun) 04:34:34

(1)《人を呪わば穴二つ》

   また次のような 他を にくむ心を起こしてはならない。

     一、嫉妬心(しっとしん)( 人の成功ねたむ心 )。
    
     二、猜疑心(さいぎしん)
       ( 人が自分に悪意や軽蔑心をもっていないかと疑う心 )。
  
     三、悪意。

     四、憎悪。

     五、人の不幸を喜ぶ心。

     六、人の失敗をせせら笑う心。

   他に対して 憎悪、悪意、嫉妬、猜疑、人の不幸を喜ぶ心、
   人の失敗を痛快に思う心を起すことは、
   それは いずれも他を害する心であるから、
   一種の爆弾の如く 他に悪念波を送る。

   同時に 自分の内に 先ず自分を害する 「 悪念波 」 を発生して
   自分を害する。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


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(2)《伸びる時に伸びるのではない》

   或る機会をつかんですばらしく伸び得る所の人は、
   実はその機会に伸びたのではなくして、
   すでに蓄積されていた所の過去の訓練が一時に爆発したのである。

   如何なる成功も 過去に蓄積された
   自己訓練の賜(たまもの)ならざるものはないのである。

   あらゆる事物は、それを始める前に充分なる用意が要るのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


・・・

(3)《聖者は言葉の音楽で人生を飾る》


   言葉も動作も優美でなければならない。美は調和であり、音楽である。
   すべての人の言葉と動作が調和ある音楽を奏でるようになったとき、
   其処に天国浄土が実現するのである。

   実相に於いては人間はすべて完全であるのである。

   聖者は言葉を慎みて悪しき言葉を使わないが、
   世俗の人はみずからを高くせんとして相手を侮辱又は見下した言葉を使う。
   その結果却って自分自身が侮辱せられ、又、わざわいを招くのである。

   実相を表現するものも言葉であれば、実相をくらますのも言葉である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100


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(4)《現象の奥にある實相の富》

   人生の目的は富を得ることでもなければ、
   名声をかち得ることでもないのである。

   人生の目的は最高の神の自己実現として、
   人格を神格にまで高めることである。

   現象にあらわれている富をのみ求めることは
   却って『實相の無限の富』を忘却させて、
   自己に与えられている富を縮小することになるのである。

   神が与えたまう富は、霊的なものであって、
   物質的な富は、ただ其の影に過ぎないのである。

   神は霊であり給う。それゆえに神は霊の賜を与えたまう。
   即ち、愛を与えたまい、智慧を与えたまい、生命を与えたまうのである。

   それを感謝して受け且つ働かすとき、波長が合って、
   それがテレビの画面に映像があらわれるように、
   物質界の富としてあらわれて来るのである。

   現象の有限の富だけを握って、其のために
   現象の背後にある『實相の富』を見失ってはならない。

           <感謝合掌 平成28年9月4日 頓首再拝>

【五日の法語(9月5日)】 - 伝統

2016/09/05 (Mon) 04:01:45

(1)《人間は永遠に老いない》

   人間は老衰の感じを起こしてはならない。
   生命は永遠に老いないのであるから、
   何歳になったから もう自分は駄目だなどと考えてはならない。

   「 老い 」 は心によって刻まれるのであって、
   歳月によって刻まれるのではない。

   人生には老熟と云うことはあっても、老衰すると云うことはない。

   過去の悲しみや、失敗をいつまでもクヨクヨ思ってはならない。
   過去の栄華をいつまでも回想して、
   もう再びそのような機会は来ないなどと悲観してはならない。

   人生には時々刻々の 「 今 」 が 常に機会である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


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(2)《「 今 」 を使い切るようにせよ》

   大器晩成といわれる通り、多くの天才は必ずしも早く発現しないのである。

   樟(くす)の大木は 数千年かかって驚くべき巨樹となるが、
   その代り弱い葦(あし)のようには、
   一年の中(うち)に大人になってしまわないのである。

   人も同じように 今発達しないからといって
   歎(なげ)くにはあたらないのである。

   今もてる能力を最大限に使っておれば
   その次の能力が伸びてくるのである。

   今与えられたる境遇に於いて、最大のサービスを捧(ささ)げておれば、
   次に 尚(なお)一そう大いなる能力が発展し、
   尚一そう自分にとって希望を満足せしめる環境が開かれてくるのである。

   気が短いようなことでは駄目である。
   一つ知ったことを一つ行えば 次の智慧が又生れて来る。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


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(3)《奴隷にならぬ方法》

   位置を欲するものは位置の奴隷となり、
   女を欲する者は女の奴隷となる。

   食を欲する者は食の奴隷となり、
   金を欲する者は金の奴隷となる。

   名誉を欲するものは名誉の奴隷となり、
   酒を欲する者は酒の奴隷となる。

   奴隷は自由を得ることは出来ないのである。

   吾らは如何なる者に対しても
   其の奴隷的状態から超出しなければならぬのである。

   人間が如何に民主主義の世界を求めても、
   自分自身が奴隷である限りは、
   制度はいくら変っても奴隷であるのである。

   制度のことは政治的天才にまかせて置け。

   人間が奴隷的心境を脱したとき
   彼はどんな制度の下にも自分が自分の主人公となる。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100


・・・

(4)《『徳』を失った『富』は必ず消える》

   愛行をもって『實相無限の富』の宝庫の扉をひらくための鍵とせよ。
   利己心をもって『現象有限の富』を得ようとするならば、
   それは『有限』を互いに取分多く分配しようとするのであるから、
   其処に必ず無理が出て来て争いや戦いを生ずるのである。

   誰がどんなに使っても減らないところの富
   と云うものが實相世界にはあるのである。

   實相の富は無限であるから、其処から幾ら富を引き出して来ても、
   其処には尚、無限の富が残っているのである。

   徳を積まないでいて、現象の富のみを積もうと考えてはならない。
   背後の『徳』を失っている現象の富は吾々に生活の豊かさと安全とを
   保証するように見えながら実は色々の心労を齎すのである。

   それは権力を保証するように見えながら嫉妬羨望と勢力争いとを生ずる。
   それは幸福を保証するように見えながら不幸を招来し、
   永遠を約束しながら須臾にして消えるのである。

           <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

【六日の法語(9月6日)】 - 伝統

2016/09/06 (Tue) 04:09:22

(1)《人の噂話をするな》

   釈迦は十一悪のうち、綺語、妄語、両舌、悪口等を入れたが、
   人の悪口を云うことは自分の心を汚すことなのである。

   生長の家の誌友会で道の話が尽きて来ると
   世間話をはじめる人が往々にしてある。

   メンタル・サイエンスでは
    「 噂話(ゴシップ)」 と云うものを十悪の中に数えている。

   噂話は往々にして人の悪を指摘して、
   皆でせせら笑うような気持になり勝ちである。

   そのため、一地方に 二派の生長の家誌友会が出来て、
   互いに対立して 他の悪口を云うようなこともある。

   慎むべきことである。


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・・・

(2)《急がず 撓(たゆ)まず 聡明(そうめい)に》

   余り急ぎすぎれば 却って結果は遅れることになる。
   ゆっくり たゆまずに一歩一歩前進するものは
   最後の勝利を得るのである。

   走ってつまずくよりも 着々と歩いてつまずかないのものは
   却って目的地に早く到達する。

   急ぐとあせるとは 事を失敗せしめる基である。
   ゆっくりと、然(しか)し なまけずに 聡明に。


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・・・

(3)《事物の真相を知れば恐怖はない》

   人生の問題は若(も)しその因って起るところの
   原因が明瞭になるならば、
   それは容易に解決することが出来るのである。

   問題を未解決にし、取越苦労や恐怖心にみたされるのは
   真相がわからないからである。

   真相がわかれば恐怖すべきものは何物も存在しないのである。

   第一に吾等が知らなければならない真相は、
   吾々の想念と云うものが自分自身の心の快不快を
   変化すると同時に、

   自分を取りまいている環境、人間、供給、境遇、位置などを
   変化すると云うことである。これが真相である。


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(4)《富は實相を現実化するために使うべきである》

   現象の富は、神の国なる實相の富の現象界への延長
   であることを知らなければならない。

   それであるからその富は、ただ貪って蓄積するだけに
   使ってはならないし、浪費するために使ってもならないのである。

   それは實相世界の素晴らしさを現実世界にあらわすための
   聖なる目的のために使わなければならない。

   換言すれば建設的な目的にのみ使わなければならないのである。

   ただ蓄積のためのみに使ってはならないし、
   ただ消費するためのみに使ってはならないのである。

   無論、聖なる目的のために使うためには、
   半端な資金ではどうにもならない事であるから、
   ある金額に達するまでそれを蓄積したり、
   協同貯蓄することも必要である。

           <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

【七日の法語(9月7日)】 - 伝統

2016/09/07 (Wed) 04:32:58

(1)《人の善を讃える会》

   生長の家の集りは、
   人の善を見出してそれを讃える会でなければならぬ。

   そして教理の研究は
   学術的に正確な理性をもって行わなければならない。

   感情に走って 他を批難する様なことがあってはならない。


   メンタル・サイエンスでは次の事を悪徳の中に数えている。


     一、人の悪を見つけること。

     二、陰口をきくこと。

     三、ゴシップをすること。

     四、皮肉や嫌味を云うこと。

     五、人の悪を批議する事。即ち切りさばく心を起すこと。


   以上のようなことを誌友会でやってはならぬ。


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・・・

(2)《他の批判を恐れては何も出来ぬ》

   どんな立派なものも人に認められぬ時期があるものである。
   最初の創作や発明が人から認められないからといって失望するにあたらない。

   ワシントン・アービングの著作が認められて、
   生活を支えるだけの収入が得られたのは、
   彼が70歳に達した時であった。

   カーライルの「サーター・リザータス」(衣装哲学)は
   今こそ全世界にその名を知られている有名な著作であるが、
   1851年カーライルがその原稿をもってロンドンに出て来た時に、
   ロンドン一流の出版会社は三社とも殆(ほとん)ど侮辱に等しい言葉をもって
   その出版を拒絶した。

   彼がやっと「フレーザー・マガジーン」にそれを掲載することが出来た時に
   その雑誌の編集長は「あの論文はすばらしい非難をうけていますよ」といって
   笑いながら話したということである。


   ヘンリー・ビーチャーが六篇の論文を或る宗教新聞の発行所へ送って
   それを掲載してくれと依頼した時に、それは見事に拒絶されたということである。


   エマーソンの著述も、彼の生前は非常に不評判であって、
   唯(ただ)その中の一冊だけが相当の売行きを見せたにすぎなかった。


   人間の批評はまちまちである。
   人々の批評にふりまわされているようでは
   如何なる大事をも成しとげることは出来ないのである。


   自ら信ずるもののみが偉大なる仕事を完成し得るのである。


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(3)《先ず心を幸福にせよ》

   吾々の想念感情が先ず幸福にならなければ
   吾々の住む世界は幸福にならないのである。

   貝類は自分の分泌する液によって、
   自分の肉体の棲(す)む貝殻を造るかのように、

   吾々は自分の分泌する想念感情によって
   自分の住む環境をつくるのである。

   吾々は旅行するにも、その旅行を最も楽しきものにするには、
   旅行案内書を見て、どの行路をとるのが最も良き景色であるか
   を知らなければならないのである。

   そして、旅行地のどの点に心を注いで鑑賞しなければならぬか
   と云うことを知らねばならぬ。


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(4)《不幸を予想して貯蓄してはならない》

   必要な建設的目的に使うために蓄積されたる富は、
   實相の投影であるけれども、未来に起るであろう何か不祥事を
   予想して貯える富は恐怖の投影であるから、その予想する心が、
   予想する不幸を呼び寄せることになるのである。

   心に予想することが実現すると云うのが心の法則であるから、
   不幸を予想して貯えた富は、将来必ず予想した不幸が来て、
   それを消耗してしまうことになるものである。

   病気したときの治療費として金を貯える人は、丁度、入院費用
   だけが貯まったときに、本当に病気に罹って、その貯金を
   治療費に使ってしまい、丁度その治療費の貯えが
   なくなったときに病気が治ったりするのである。

   真の富と云うものは、一切のものが其処から生み出されて来る
   『エデンの園』(龍宮海)即ち實相界から供給されて来るので
   あって、常に實相に波長の合う心をもっておれば必要に応じて、
   それが現象界の富となって供給されるのである。

           <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>

【八日の法語(9月8日)】 - 伝統

2016/09/08 (Thu) 04:48:34

(1)《過去に低回する心を捨てよ》

   「 昔はあんな事があった、こんな事があった 」 と
   過去の善や繁栄を誇る心は 老衰の徴候である。

   心が過去に執着するようになれば前進が止る。

   過去の善や繁栄を誇るのは
   過去の悪や失敗に いつまでも引っかかって
   嘆いている心よりもましであるが、

   「 今 」 を生きない点に於いて五十歩百歩だ。

   今を生きよ、屹度(きっと)諸君は前進するであろう。

   「 今 」 を生きよと云っても
   「 今 」 の悩みや行き詰りを 人に訴えてはならぬ。

   他の同情を求める心は 失敗に快感を感ずる心であるから失敗を招く。


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・・・

(2)《人は妻のヒントに左右されるものである》

   ヘンリー・ベッセマーといえば、特殊鋼の最初の発明家として有名であるが、
   彼は18歳の時ロンドンへ 一人の知己もなしに出て来たが
   間もなく名刺のような厚紙に「浮き出し印刷」をする工程を発明した。

   その方法は極めて簡単なものであって、
   1ペニーの費用でそのやり方を十分間で習うことが出来るようなものであった。

   彼は英国政府の公文書に押すスタンプを彫りあげる仕事をひきうけていたが、
   その記録から一度押したらその判を抹殺することができないように
   穴を穿(うが)つ捺印(なついん)機械を発明したのである。

   彼の発明の動機は一ぺん官用に貼用(ちょうよう)された収入印紙が、
   それをはがして再用されるために政府の損失は1年に10万ポンドの損失である
   ということをその主税局長から聞いたのが因であった。

   主税局長はベッセマーの発明を大いに礼讃(らいさん)して
   その発明を一定の金額で買収するかそれとも生涯1年800ポンドの年俸をもらって
   主税局に招聘(しょうへい)したいと申し出たのであった。

   ベッセマーは後の方を選んだ。

   ベッセマーはもう うれしくて うれしくて たまらないので、
   それを自分の許嫁(いいなずけ)の娘に話した。
   「こうして穴のあいた収入印紙を貼用することにしたら、
   二度とそれが再用できないので政府は十万ポンドの収入増加になるのだ」と説明した。


   するとその許嫁の娘は、「えー、よくわかりましたわ。だけど穴をあける
   スタンプなど使わなくとも、押捺(おうなつ)するスタンプに日付を入れる
   ようにしておいたらその印紙を再用される恐れなんてないですわ。」

   それは小さいヒントであった。
   ベッセマーの穴あけ式捺印機械はその僅(わず)かの言葉によって
   不要になってしまったのである。

   すなおに自分の許嫁の言葉を受け入れて
   彼は自ら自分がその椅子(いす)を占めていた主税局に
   一大改革を暗示したのであった。

   折角 発明した穴あけ式捺印機械は廃止せられ、
   前途有望の自分の椅子をすててしまった。

   英国政府は何らの報償も与えずしてただこの無邪気な娘のいった方法を
   採用することによって年々歳々数十万ポンドに上る脱税を防ぐことができたのである。


   当時のベッセマーの経済状態はそのために頗(すこぶ)る不利な立場に陥ったのである。
   併(しか)し彼は失望しなかった。


   彼はこの賢明なる娘と結婚した。
   凡(およ)そよき妻を得ることは偉大なる資本を得るのにも勝るのである。

   丁度意気 相投合した互の智能(ちのう)が協力し得る所の協力者を彼は得たのであった。
   その結果 彼は特殊鋼を製造するのに新しい方法を発明したのであった。

   その方法は全世界の製鉄工業に一大革命をひきおこした。
   即(すなわ)ち熔融(ようゆう)せる数トンの銑鉄(せんてつ)に
   下方より熱空気を吹きこんで燃焼力を強力化し 然(しか)る後
   マンガン鉄とカーボンの含有量の多い原鉱とを投入して
   その全体を鋼鉄に変化する方法である。


   もし彼が目先の経済的利益をもって主税局の椅子にかじりついていたならば、
   この様な大発明は完成しなかったに相異ないのである。

   小さい助言にすなおに従うことが、
   その人の運命を大きく育てる種々なるものである。

   自分の周囲にやってくるすべてのものを、
   神の与え給(たも)うた賜(たまもの)であると信じて待つ者は
   それが本当によき賜に変化するのである。


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(3)《人間の霊的解放》

   先ず吾々の知らなければならない事は、
   「 自分とは何であるか 」 と云うことである。

   自分を「物質」だと知る限りに於いてその人は
   「物質的存在」としての制約を受けるのである。

   そして自分を霊的存在として自覚し得た程度に
   随(したが)ってその人は解放され、
   自由を得るのである。

   「人は自己の信ずる通りのところのものとなる」のである。

   宗教は病気治しでも家運隆昌術でもないが、
   「 自己とは如何なるものか 」 を知らしめる結果、

   人間が霊的に解放され、その随伴的効果として
   家運隆昌も起れば肉体の健康をも得られるのである。


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(4)《神の智慧より富の導きを受けること》
  
   すべての欠乏は、自分の心の産物であるのである。

   自分の心がケチであり、もっと力を出さなければならない時に
   力を出すことを吝んだり、『實相』に智慧を仰げば、
   もっとよい智慧があらわれて来るのに、現象の智慧によって
   實相の智慧を蔽い隠してしまった結果なのである。

   その道の専門家の指導で株に投資して一時大いに儲けたように
   見えていても、それが實相の智慧に導かれた富でない限りは、
   一朝経済界の破綻が来た際に、株券がただ一枚の紙片に
   化してしまうのである。


   よろしくもっと全智なる神の智慧の導きに随うべきである。
   全智なる神が吾々自身の内に宿ってゐたまうのである。

   よろしく吾等は神想観して深く自己の内なる神を内観し、
   其処から如何に富を処置すべきかを判断すべきである。
   すべての人間の内部には無限の智慧が宿っているのである。

   その智慧を引出す道が神想観である。

           <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

【九日の法語・言葉(9月9日)】 - 伝統

2016/09/09 (Fri) 03:59:13

(1)《謀は密なるを要す》

   人が失敗するのは、あまり計画の内容を
   早期に自分で暴露するためであることがある。

   蒔いた種は発芽してその芽が丈夫になる迄は、
   それを包んで霜や冷たい風や乾燥の害を防いでやらねばならぬ。

   その謀が善であるからと云って、善を無暗に主張するために
   悪の反撃に遭って折角、善なる計画がくずれてしまうことは
   往々あり勝のことである。

   正直は善徳であるが、
   蔽うべき時に蔽うて置くことは一層の美徳である。

   馬鹿正直ではよくないのである。

   蔽うべきは蔽い、あらわすべきは露(あらわ)すのが智慧である。


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(2)《充分芽の出るまで あせってはならぬ》

   すなおに受けて その与えられた賜(たまもの)が
   充分 芽を出して育つまで待つ心が必要である。

   余りに早期の天才は 夭折(わかじに)し易(やす)いものである。

   何でも自己の中(うち)に本当に蓄積したものが
   発芽して形を現わすのであるから、
   蓄積しないまでに、外に大きく伸びようとあせってはならない。


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(3)《人生の目的は何であるか》

   宇宙の一切、随(したが)ってまた人間の生命も
   神より生じたるものであるから、
   自分自身の生命を見詰めると云うことは結局、
   神を知ることになるのである。

   兎(と)も角(かく)人として生れた以上は、
   「 何が 」 「 何のために 」 「 如何なる理由で 」 「 如何にして 」
   地上に生れ出たのであるかを知らなければならないのである。

   それを探求することは結局、
   「 人生の目的は何ぞや 」 の問題に触れるのである。

   しかしそれを研究するには
    「 心 」 とは何ぞやの問題を解決しなければならぬ。

   人生の研究も結局、心によって行われるからである。


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(4)《『自己に忠実であれ』と云う事の意味》

   人間は自己に忠実でなければならない。
   併しその『自己』と云うのは如何なる自己であろうか。

   美味なる食物を欲し、美しき服装をし、異性と戯れ遊びたいような
   煩悩が本当の自分の『自己』であろうか。

   『自己に忠実でなければならない』と云う語(ことば)で
   多くの人々は利己的本能に身を投じて、
   魂の節操を失ってしまったのである。

   『自己に忠実であれ』と云う場合の『自己』とは、
   肉体の本能的自己のことではないのである。

   肉体は、魂が地上に於いて仕事をなすための乗物又は作業服として、
   その自己修復と自己保存のオートメーション作用としての
   食慾や性慾を発動するのであるが、それらの欲望は飽くまでも
   『魂』の使命を果さしめるための基礎工事としての欲望であって、
   『魂』そのものの願望ではないのである。

   『自己に忠実であれ』と云うのは『魂』そのものの願望に
   忠実でなければならないと云うことである。

           <感謝合掌 平成28年9月9日 頓首再拝>

【十日の法語・言葉(9月10日)】 - 伝統

2016/09/10 (Sat) 04:24:22

(1)《愛を実践して見たか》

   あらゆる手段を尽しては見ましたが 駄目でしたと云う人がある。
   しかし其のあらゆる手段のなかに
    「 愛を実践して見たか 」 否かが問題である。

   愛の思いを起して見たか、愛の言葉を出して見たか、
   愛の行いを実践して見たかと云うことである。

   人から顧みられないのは
   自分が人に深切を実践したことがなかったからである、

   深切な言葉をかけてやったことがなかったからである。
   深切な思いを起して見たことがなかったからである。

   行き詰るのは結局、今迄利己主義であったからである。


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(2)《内に力を蓄える者は やがて大成する》

   青年の時には大いに勉強すべきである。
   
   充分の学力も 素養も 訓練も なくして
   すみやかに立身出世したいなどと思ってはならない。

   芍薬(しゃくやく)やダリヤの花は
   その根の大きいものほど立派な花が咲くのである。

   根を大きくせずして、
   大きい花を咲かせようと思ってはならない。

   根から切った花は 一時美しく咲いているように見えても、
   毎年変らずに続いて咲く力は ないのである。

   中に能力を蓄えておくことが必要である。


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(3)《「心」とは何であるか》

   「 心 」 とはこれを 「 意識 」 とも云い、
   ものを感ずるところの働きである。

   それは自分の存在することを知り、
   自分の環境を知るところの働きである。

   「 意 」 は欲する働きであり、
   自己の存在を自證(じしょう)するのである。

   「 識(しき)」 は外界を知る働きである。


   「 意思する自分 」 があることは自明の事実であって
   それは証明を要しないのである。

   その 「 意思する自分 」 が何がゆえに
   外界を識(し)ることが出来るのであろうか。

   それは内界と外界とが 「 本来一つ 」 のものであり、
   その波動を一つにするものであるからである。


   然(しか)らばその 「 本来一つ 」 のものとは何であろうか。

   それは物質か、心か?

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(4)《『魂の自我』の願いに耳傾けよ》

   『霊肉の闘い』と云う語句があるが、
   その語句のなかにはハッキリと魂の要求と、肉体の本能とが
   別であると云う直観が含まれているのである。

   肉体の本能的自我を『低き自我』と云う語であらわせば、
   魂の自我は『より高き自我』又は『高次の自我』とでも
   言い表わすべきものである。

   吾らは『高次の自我』に忠実ならんことを欲(おも)うならば、
   『肉体の自我』の要求をしばらく退けて、ひたすら『魂の自我』
   の囁きに心の耳を傾ける修練をしなければならない。

   多くの宗教教祖が、(釈尊やキリストをも含めて)
   断食や水行を行って、肉体的自我の要求たる食欲や色欲や
   所有欲や名誉欲や睡眠欲すらも退けて、『魂の自我』の要求に
   耳を傾ける修行を積まれたことは伝記の記述するところである。

           <感謝合掌 平成28年9月10日 頓首再拝>

【十一日の法語(9月11日)】 - 伝統

2016/09/11 (Sun) 03:19:19

(1)《自分は一切の不幸を戸外に閉め出す》

   チャルス・ラムミスは人が行き詰った時には
   こう云うように思念せよと教えている。

   「 何事が起ろうとも自分はそのすべてのものより偉大なるものである。
   悲しみや、不幸や、苦しみが、どんなに自分に押し迫って来ても、
   それは自分の家の外にいるのである。
   自分は家の中にいてそれを入れない。
   私は鍵をもっているのである 」 と。

   其れは 確に明るい心に導く思念法である。

   更に 「 自分は神の子である。如何なる悪しき事も自分には起らない。
   悪く見ゆる何物も自分の家へ来れば善に変貌するのである 」 と
   思念すれば一層よい。


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(2)《機会は 常の素養にある》

   好機会が到来した時に、
   その機会をとらえ得るものは
   内に蓄えた能力あるもののみである。

   やってくる所の機会をどの程度生かすかは
   その人の素養如何(いかん)によるのである。

   人間よろしく、自己の時間を惜しんで自己教養につくすべし。

   くだらぬゴシップや低い享楽や、つまらない遊びで、
   もっとも発達期にある自分の知能を発達せしめないでおくものは、
   いざという好機会が来た時に 空しくそれを見逃してしまう外はないのである。


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(3)《物質より心が先である》

   物心一如(いちにょ)的立場から云うならば、
   事物の根元は 「 物質 」 であると云うのも、
   事物の根元は 「 心 」 であると云うのも
   一如(ひとつ)であると云うことになる。

   しかし、「 物質 」 と云うものの概念は、
   「 知性も感情もないものを物質と云う 」 意味に於いて
   考えられているのであるから、

   物心一如と云うことは 「 知性も感情もない物質 」 と
   「 知性も感性もある心 」 とは一如と云うことになる。

   こうして物と心とが一つであれば、どちらが先なのであろうか。

   「 知性も感性もある心 」 を高位とし、
   「 知性も感性もない物 」 を低位としなければならない。

   高位のものは内に低位のものを含み得るが
   低位のものから高位のものは生れ得ない、

   従って、心は物質に先立つのである。


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(4)《現実生活に實相の天国を実現するには》

   肉体は個々別々の存在であり、自他分離の存在であるが、
   魂から言えば、『個人の霊』は神なる『普遍霊』の一部分が
   人間に宿っているのである。

   だから自己の『内に宿る魂』の叫びに耳傾けると云うことは、
   同時に『普遍霊』の導きに対して耳傾けると云うことになるのである。
   そこから無限の智慧の導きが湧き出て来るのである。

   この『内部の霊』の呼び掛けが私たちの道徳生活に対して
   あらわれて来る場合には、これを『良心の叫び』と言い、
   日常生活での導きや、発明発見等の場合の導きとしてあらわれて来る
   場合には、これを直感とか直覚とか呼ぶのである。

   それは普遍霊の導きが、普遍霊の分霊なる『魂の自我』を通して
   あらわれて来るのである。

   私たちがこの『魂の自我』の導きに心の耳を傾け、
   その導きの通りに実践するならば、現実生活が健康と愛と繁栄とを
   実現せる『實相そのまま』の天国となるのである。

           <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

【十二日の法語(9月12日)】 - 伝統

2016/09/12 (Mon) 04:25:35

(1)《祈りは斯く行え》

   祈りの法則。

   まず神の智慧と愛と生命と供給と調和とが
   宇宙全体に満ち渡っていることを心に深く思念することである。

   かくて完全円満なる神へ心を集中したのち、
   自分の求むるものを心に念じて
   「 何々を斯くならしめ給え 」 と祈るのである。

   それを繰返し祈るのである。

   その祈りの果に、「 既にそれは与えられている 」 と云う様な
   深い信念の境地に到達する。

   そして 「既に与えられまして有り難うございます。」 と念じて、
   あと数分間は ただ黙して神の啓示を聴く気持になって、
   もう一度感謝してその祈りを終わるのである。


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(2)《自然は必ず価いを要求する》

   長生きをするためには、気が短いようではいかぬ。
   ゆっくり‘のんびり’として着々と生きることである。

   青年期にその生活を無駄なことに使ったものは
   中年期以後 速かに老いるのである。

   文化はリビドーの昇華せるものであるから
   青年期にリビドーを余りつまらない方面に使いすぎると
   能力が速に衰退する。

   自然は青年期に享楽した者の代価を
   老年期が近づいて来た時、急に支払請求をするものである。
   速なる老衰は青年期の享楽の強制支払である。

   健康は値なしには継続しないのである。
   自然は常に値いを要求するのである。

   肥料なしに毎年立派な果実を
   その樹から得ようと思ってはならない。


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・・・

(3)《形よりも理念が先立つ》

   ダリヤの花はその球根から生ずるが、「 花そのものの形 」 は
   球根と云う物質にあるのではなく、球根の奥にある霊的世界にある
    「 ダリヤの花の理念 」 から生ずるのである。

   理念又は霊は、物質の形に先立つのである。

   イエスの理念は、肉体イエスに先立って存在したのである。
   だからイエスは 「 アブラハムの生れぬ前(さき)より我はあるなり 」
   と云っているのである。

   物質より前に理念があるのである。

   素粒子が如何に排列して或る種の物質になるかは、法則によるのである。

   そして、法則は知性(心性)である。


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・・・

(4)《無限の供給は何処に汲むべきか》

   一時的な快感や一時的の豊富さは人間的工夫によって
   操作して得られることがあるけれども永遠の魂の悦びや、
   永遠の豊なる流れは人間的工夫によっては得られぬものである。

   自己の魂の底にある霊を通して神につながることによってのみ、
   私達は永遠の魂の悦びと供給の豊なる流れとを受けることが
   できるのである。

   私たちは何としても、現象だけに頼らずに、
   この内なる霊の鍵を通して無限の供給の流れと
   結びつかなければならないのである。

   外のものに頼るよりも『内なる鍵』を通して
   無限の宝庫の扉をひらくのである。

   私たちの内には霊感とも云うべき内部の能力が宿っており、
   その燈火(ともしび)が私たちを導いて下さるのである。

   『わが魂の底の底なる神よ、無限の力わき出でよ』
   暇あるごとに常にこの言葉を黙念して、
   内部の無限の力より汲むべきである。

           <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>

【十三日の法語(9月13日)】 - 伝統

2016/09/13 (Tue) 05:01:04

(1)《与えた物のみが真の富》

   吾々は世界から何を得たかを誇りにしてはならないのである。
   それは欲ばる心のあらわれであり、奪う心のあらわれであり得る。

   それよりも吾等は世界に何を与えたかを誇りにしなければならない。
   与える者のみが与えられるのであり、
   与えたその福田のみが真の富だということである。

   奪って得たものは一時、自分の所有が殖えて行くように見えるけれども、
   それは神の世界に於いては 唯 負債が殖えただけである。

   その負債はいつかは、時には近き将来に、時には来世に
   支払わなければならないのである。


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・・・

(2)《出しただけが与えられる》

   自然は吾々の一言一行に対して
   その値打だけのものを支払ってくれるのである。

   自然の法則を無視したものは
   必ずその報いをうけるのである。


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・・・

(3)《肉体は人間ではない》

   普通の人間は肉体の脳髄がものを考え、感ずるのであると
   考えがちであるけれども、
   肉体はただ意識のラジオ・セットにすぎないのである。

   脳髄にどんな打撃が加えられようとも、
   肉体のどの部分に故障が起ろうとも、

   意識の主体たる人間そのものは 「 神の子 」 だから
   何ら破壊せられることなく、故障が起ることなく、

   ただ毀(こわ)れたラジオ・セットに音波が起らなくなるように、
   その肉体は音無しくなるだけである。

   眼が傷(きずつ)いたら、人間はその眼を通して見なくなる。
   脳髄が傷いたら人間はその脳髄を通して考えなくなるだけである。


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(4)《自己解脱によって祈りを成就せよ》

   どんなに神に祈っても、問題が好転しない事があるならば、
   それはあなたが其の問題をつかみすぎているからである。

   祈りは既に成就して、それは現実化しようとして其の途上にある
   のだけれども、あなたが余りに問題を心でつかみ過ぎているために、
   その現実化の通路がふさがれているだけである。

   そんなときには、あなたの心を
   その問題から完全に放してしまうがよいのである。 

   『この問題を神様あなたにおまかせします。
   わが意を成さんとするには非ず。神の御心のままにならしめ給え』 

   と祈ることによって、自己解放をとげ、
   自分の心を自由にするがよいのである。

   『祈り』と云うものも、執着をもって遮二無二祈るときには、
   自己の祈りの念力によって何物かを成就しようと自力的に力むこと
   によって却って其の祈りの成就を妨げるのである。

           <感謝合掌 平成28年9月13日 頓首再拝>

【十四日の法語(9月14日)】 - 伝統

2016/09/14 (Wed) 04:29:27

(1)《杖は人を楽にするが強くしない》

   愛するとは放つことである。
   放つとは自分の責任をして自分で負わしめることである。

   倒れた子供を起してやるのは放つのではない。
   倒れた子供は、子供自身その責任を自分に帰し、
   自分で起上がるようにしてやることが放つことである。

   子供の失敗の尻ぬぐいをしてやることが
   愛することではないのである。

   いつも子供の尻ぬぐいをしてやることを
   愛することだと考えているようなことでは
   其の子供は自主独立性を失ってしまう。

   民主主義の生活は 責任を自己に帰す生活である。


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(2)《自然の賜(たまもの)を大切にせよ》

   無知は最大の罪悪である。
   吾々は健康の法則を知ることが必要である。

   人間は 自己の中に 鉱物性なるもの、植物性なるもの、動物性なるもの、
   及び人間的なるもの、及び神的なるものを包容しているのであるから、
   その各々の法則を無視してはならないのである。

   自然界の法則を厳重に守ることは
   吾々が自然に対して値を払うことである。

   まず食物はもっとも自然に近いものが
   保健上有用なる成分を含有するのである。

   余り調理しすぎたものは 自然の与えた養分を
   概(おおむ)ね 捨て去っているから健康のためによくないのである。

   人間が短命であるのは 余り味覚にとらわれて
   自然のままの賜(たまもの)を破壊してしまうからである。


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(3)《苦痛は人間が苦しむのではない》

   眼鏡(めがね)が毀れたので、
   人がその眼鏡を使わなくなったらもうその人間は
   死んだのだと考えたら間違である。

   眼鏡が毀れた後も人間は生きている。

   その如く肉体が傷ついた場合に痛みを感ずるのは、
   「 人間 」 の道具である肉体の故障を告知して、
   その修繕作業を内部からも外部からも
   営(いとな)ましめるための信号なのである。

   人間そのものが苦しんでいるのでも何でもないのである。

   若(も)し、この故障を告知する 「 苦痛 」 の感じが
   なかったならば、吾にはどんなに出血していても
   手当を加えることなしに全身の機構が壊滅に
   帰してしまうのである。


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(4)《神の智慧の導きを受ける祈り》

   『今日一日の仕事を神の智慧によって導きたまへ』 

   毎朝ささげられるこの祈りは、其の日の最初から
   自分のなすべき仕事を神にあずけて、
   自己解放を遂げるために適当な祈りである。

   そしてその祈りにつづいて 

   『神はわが内に宿り給うて、
   今日わが為すべき事を教えたまふのである』 

   とその祈り成就の黙念をするのである。

   そして仕事に出かけて、夜眠るとき又は、夜の神想観の時に、 

   『今日一日の仕事を神様の智慧によって導きたまうて
   有りがとうございます。今夜の眠りをやすらかに護りたまいて、
   明日また神の仕事をさせて頂く力を内に快復せしめ給え』 

   と祈ってから眠るのである。

   この祈りを続けるとき、自分で力むことがなくなり、
   神からの智慧と力とが流れ入る心のパイプが解放される結果、
   事業も順潮に行くようになるのである。

           <感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>

【十五日の法語(9月15日)】 - 伝統

2016/09/15 (Thu) 04:47:54

(1)《報い求めざる愛と無限の赦し》

   祈りが成功するためには、神に波長が合うことが必要である。

  
   神は無限に与えて決して求めると云うことがない。
   「 報い求めざる愛 」 が 神である。

   それゆえ、我等が 「 報いもとめざる愛 」 を実践してこそ
   神の波長を自己に受けることが出来るのである。


   又、神は 「 無限の赦し 」 である。
   だから神に波長を合わすためには、
   「 無限の赦し 」 を実践しなければならぬ。

   「 無限の赦し 」 を自分が実践しないでいて、
   自己が祈ることを神にきかれようと思うのは
   波長を合わさずにいてラジオを聴取しようと思うようなものである。


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・・・

(2)《刻苦精励は生命を鍛える》

   人は生命を働かしただけ、それだけ自分のおかげは 増えるのである。

   ビスマルクは 真の生命に対する唯一の安全なる守りは、
   刻苦精励にあるといっている。

   刻苦精励は 機会のない処に(ところ)に 機会を作り、
   成功のない処に 成功を作る。

   刻苦精励こそは 自己の生命を鍛えあげ、
   その不純物をとりさり、自分の魂を愈々(いよいよ)
   光輝燦然(こうきさんぜん)たらしむべき
   唯一の方法であるのである。

   仕事がなくして ただ寝ころんで生活することができるとするならば、
   それこそ人生は無用であり、空虚であり、だらけてしまって
   何らの幸福感もあり得ないのである。

   ビスマルクの青年に告げんとする言葉は、
   「 働け、働け、働け 」 という三語であったといわれている。


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・・・

(3)《人間は神から生れた》

   物質はただエネルギーが想念の影響を受けて凝縮し、
   それが形をあらわしたものであるから、
   本来の相(すがた)はないのである。

   本来ない姿が仮にあらわれているのであるから、
   それは無常なるものであり、常に間断なく
   変化するものなのである。

   かかる無常なるものから 「 神の子 」 たる人間は生れて来る
   と云うことはないのである。

   だから 『 生命の實相 』 の実相篇には
    「 未だ曾(かつ)て人間は女の子宮から生れて出たことがない 」
    と明瞭に断言してある。

   人間は神聖受胎であって神から生れたものである。


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・・・

(4)《毎日必ず何か人のためになる事をしませう》

   あなたが生きていると云うことは、神が、そして此の世界が、
   そして人類が、あなたの貢献を何事か希望している証拠である。

   随ってあなたの方から言えば、あなたが生きている限りは、
   神に対して、そして此の世界に対して、世界のため、人類に対して、
   何か貢献をしなければならないのである。

   あなたが何事かをするとき、この仕事は神のため、世界のため、
   人類のため、と思って 『この仕事をさせて頂きます事を感謝致します』 
   と念じてすれば疲れることも少なく、生き甲斐が感じられ、
   精神も身体も一層すこやかになるのである。

   実際、人間は實相に於いては、神とは一体であり、全人類と一体であり、
   その實相から無限の力が流れ入って来るのであるけれども、
   力が不足するのは、その一体なる實相を自覚せず、
   自分だけで事を運ぼうとするからである。


           <感謝合掌 平成28年9月15日 頓首再拝>

【十六日の法語(9月16日)】 - 伝統

2016/09/16 (Fri) 03:39:41

(1)《悪の存在を信ずるは神に対する不信である》

   誰かが自分に危害を加えるかもしれぬと考える様なことでは
   神を信ずるものではないのである。

   この世界に悪が存在すると信ずるようでは
   神を信じていると云うことは出来ないのである。

   神のみが実在であると云うこと、
   そして神は全能であること、
   そして神は善であるから、

   善の力はその全能力によって宇宙に遍く遍満して
   悪の存在を不可能ならしめている筈である。

   それだのに悪の存在を、災禍の存在を信ずるのは、
   まことにも神の善と全能とを信じないものだと云わなければならぬ。


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(2)《蜜蜂(みつばち)を見て人生を学べ》

   昔ギリシャで、
   蜜蜂に はるばる遠くまで蜜を集めにやるのは可哀(かわい)そうであるから、

   蜜蜂の巣の近くへ いつでも花のあるようにしてやれば、
   蜜蜂は助かるであろうというので、
   その周囲に花園を造って始終 花をたやさないようにしたら、

   その蜂蜜は もう少しも蜜を集めなくなったということである。


   ある人が いつも花咲いている印度(いんど)の国に蜜蜂を移住せしめたら、
   きっとどっさり蜜が集ってよかろうと考えて蜜蜂を印度へ連れて行ってみたが、
   これ又 蜜を集めなくなったということである。


   ここに自然の法則があるのである。
   労しないものは獲得することができないのである。

   自分から敢(あ)えて とらないで、
   唯(ただ)与えられるだけでは、そこに機会はないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


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(2)《人間は全人類一体である》

   人間は神より生れ、神の中に住み、神の生命を食し、呼吸し、
   永遠に死なず病まざる霊的実体である。

   神は宇宙生命であり、「 渾(すべ)ての渾ての一体 」 であるから、
   人間もその実相に於いては
   すべての人間と共通の生命を有(も)つのである。

   すべてのすべてと一体である自覚を 「 愛 」 と云うのである。
   すべての人類は神に於いて兄弟姉妹であるのである。

   愛にそむいた思いや行為が病気を引き起すのは、
   自己の生命の本質を破壊する思いであるからである。

   渾てに一体である生命を自覚して愛を尽せば病いは治るのである。


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(3)《“I am” はあなたにとってアラヂンのランプである》

   あなたは素晴らしい特権をもっているのである。
   それはあなたの内に『I am』《私は・・・・である》が
   宿っているからである。

   あなたは『私は・・・・である』と念ずる処のものになるのである。
   『私は病気である』と念じたら、あなたは病気となることも出来るし、
   『私は神の子で健康である』と念じたら、健康になることもできるのである。

   あなたはこの特権を愚かなことを実現するために
   つかってはならないのである。

   この特権を利用して、『私は神と一体である』と常に念じて、
   『神と一体』ところの實相を日常生活に実現するようにしたいものである。

   神との一体感が深まれば、何を為すにも恐怖感がなくなり、
   自信力が湧いて来、時と処と人とに応じて適当な智慧が湧いて来て、
   失敗することがなくなるのである。

           <感謝合掌 平成28年9月16日 頓首再拝>

【十七日の法語(9月17日)】 - 伝統

2016/09/17 (Sat) 03:39:06

(1)《先ず幸福の心の波を起すこと》

   人間が幸福になる為には
   先ず第一に幸福の心の波を起す事である。

   幸福に実際なってから、
   幸福な心を起そうと思っても駄目である。

   「 幸福 」 を A K(編注:現在のNHK東京第一放送局)の
   放送に譬えて見れば好い。

   A K の放送を聴こうと思ったら、先ずラジオ・セットに
    A K の波長に合う波長を起して置かねばならぬ。

   A K の放送が聞えて来たら、
   その時に A K の波長に合わしたら好いと思って、
   常には A K の波長を起さぬようにしておれば
   永遠に A K の放送は聞えぬ。

   こちらが 「 幸福 」 の波長を起した時、
   いつでも幸福放送局の波長を受ける事が出来るのである。


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(2)《働く処(ところ)に人生の意義と機会がある》

   吾々が地上にこの生を享(う)けたのは、
   神の創造力の尖端(せんたん)として、
   創造の御業(みわざ)を完成せんがために出現したのである。

   ラスキンは 「 吾々がこの世に送られたのは、何らか自己の魂を打ちこんで
   なすべき仕事をなさんがために送られたのである。」 といっているのである。

   又 フィリップ・ブルックは 「 生とは何ぞや 」 という問に対して

   「 生の何たるかを知る人は 働く人である、
   そして働きのみが生きる事であると叫ぶであろう 」 といっているのである。


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(3)《本能は道具に過ぎない》

   人間は物質に支配されたときには、
   本当に健全なることは出来ないのである。

   物質は想念の反映であるから、反映を実在と思って、
   それに対して一喜一憂しているようなことは
   想念は、益々動揺するから、
   その想念の反影である現象の姿は益々悪くなるのである。

   人間は物質を支配したとき本当に、
   自分が主人公になることが出来るのである。

   それには物質を心の前に出しゃばらせず、
   心をもって物質を支配しうるよう心掛けなければならぬ。

   本能に支配されてはならない。本能を支配すべきである。

   食色の本能は霊の利用する道具であって、
   霊によって支配すべきである。


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(4)《果実は熟した時とるべきである》

   急いではならない。
   急ぐ心は老衰をはやめ、血圧を高くし、死期を早めるばかりである。

   物には時期の熟する機があるのである。
   物事が熟しないうちにもぎ取ろうと思ってはならない。

   熟しないうちにもぎ取った果物は、酸っぱいか、苦いか、
   渋いかして、衛生にもよくないのである。

   熟しないうちに物事を成就しようと思ったらならば、
   きっと無理が出来て自分か誰かが傷つくのである。

   十字路で『赤』の信号が出ているならば、
   『青』の信号が出るまで待っていることが必要である。

   『赤』は停止の符標であるから、どんなに急いでいても
   停止符標が出ている限りは停止していなければ
   却って危険を招くのである。

   時期の熟するのを待ちなさい。

   今は停止符標が出ていてもやがては必ず、
   行進符標の『青』が出て来る時が来ます。

   その時には機会を失わぬように行進なさい。

           <感謝合掌 平成28年9月17日 頓首再拝>

【十八日の法語(9月18日)】 - 伝統

2016/09/18 (Sun) 04:59:20

(1)《調和した世界を見よ》

   どんな見せかけの不調和の奥にも
   実際は 調和した善なる世界が存在するのである。

   それを如実に知ることを 「 悟る 」 と云うのである。

   不調和をいつまでも見つめておれば不調和は消えぬ。
   不調和を見つめるという云うことは
   不調和に波長を合わせていることであるからだ。

   不調和の中にいても、不調和を見ず、調和ある実相を見よ。
   不調和は消えてしまい調和ある実相が
   現象世界にあらわれてくるのである。

   すべて現象世界は心の波の世界であって、
   心の波がかわれば、現象世界も姿はかわるのである。


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(2)《働きは 生命の自己実現である》

   多くの人達は、働くことを軽蔑(けいべつ)して、
   自分の生命の切り売りの様に考え、
   働かないことが何か立派なことであるかのように妄想している。

   然(しか)しこれは大いなる間違である。
   人間が働くということは、決して金銭に対して
   自分の生命を切り売りすることではないのである。

   吾々は ともすれば、働きに対する金銭的報酬を考えて、
   それによって働きの価値如何(いかん)を定めようとするのであるけれども、
   これは大変な間違である。

   働きは、それ自身が生命の自己実現であるから尊いのである。


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(3)《人間は遍照金剛の霊的実体である》

   物質、肉体それ自身は、認識の形式の
   銀幕(スクリーン)上に映っている影である。

   映画にうつっている人物に生命はないが如(ごと)く、
   肉眼に見えている肉体人間そのものは
   実在でもなければ、生命もないのである。

   肉体は自分ではなく、
   その奥に本当の自分(霊的自分)があるのである。

   「 霊的自分 」 は 『 甘露の法雨 』 に書かれているように
   「 神より出でたる光なり 」 であって、
   光輝燦然(さんぜん)、遍照金剛(へんじょうこんごう)
   の存在である。

   その光の前に想念のフィルムを回転して
   表現されているのが肉体人間なのである。
   それは一種の映像であり、本当の自分自身ではないのである。


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(4)《個人の運命は固定してはいない》

   毎日私たちは、自分の運命を自分で造りつつあるのである。
   自分の生活にプラスをつけ加えるか、はたまたマイナスを
   附け加えるかと云うことによって、
   自分自身の未来の運命を自己決定しつつあるのである。

   人のためになることを行えば、自分の運命にプラスを加えたのである。
   人のためにならぬことを行えば、自分の運命にマイナスを加えたのである。

   このような行動によるプラス・マイナスのほかに、
   自分の心の明るさ暗さによって運命を左右する
   プラス・マイナスがあるのである。

   常に『明るい心』をもっておれば、
   『類をもって集る』と云う心の法則にしたがって、
   『明るい運命』が自分に集ってくるし、

   常に『暗い心』を持ちつづけておれば、
   『暗い運命』が自分に集って来るのである。

   常に私たちは『過去の成績《業》』の中から立上りつつあるのである。

           <感謝合掌 平成28年9月18日 頓首再拝>

【十九日の法語(9月19日)】 - 伝統

2016/09/19 (Mon) 04:52:44

(1)《この世界は心の波で変化する》

   多くの人達は、現象世界を物質の世界だと思っているけれども、
   物質は、ただ分子がその径の千倍も隔った空間に
   バラバラに浮いているに過ぎないのであるから、
   その形は決して固定したものではないのである。

   心に従ってその分子の離合集散はかわるのである。

   自己の健康でも、家庭でも、友人でも、仕事の状態でも、
   すべて自分の心の雰囲気の及ぶ範囲内の出来事は、
   如何にそれが物質で構成されているように見えようとも
   自分の心の中の信念の具象化に過ぎないのである。


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(2)《仕事を俗務とするのは自分の仕事の受け方である》

   働きがなければ生命は自己を実現することができない。
   
   多くの人達は働きを以(もっ)て 「 俗務(ぞくむ) 」 であると考えて
   その働きの尊さを見ないのである。

   諸君が自分の仕事を単なる 「 俗務 」 とするか 「 芸術 」 とするかは
   諸君が自分の仕事に対する態度によって異るのである。

   もし、吾々が、自分の仕事をただ賃金を得るための 「 俗務 」 であると考えれば、
   どんな価値ある仕事も自分自身を賃金という圧政力を以て縛る所の
   重苦しい縄(なわ)となって感じられる。


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(3)《人間の病気は幻である》

   肉体人間は単なる映像であるから、失うべき生命を持っていないし、
   実相人間は霊的実在であるから死ぬ事はないのである。

   従って肉体の方から云っても、霊的本体の方から云っても、
   人間は結局、病気になったり死んだりするものではないのである。
   だから人間の病気や死は結局 「 幻 」 に過ぎないのである。

   それは人類の群衆意識中に存在する観念によって、
   共通に催眠状態にならしめている人々の心に
   描かれた 「 幻 」 に過ぎないのである。

    「 幻 」 を見て、病気を実在と思ってはならない。


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           <感謝合掌 平成28年9月19日 頓首再拝>

【二十日の法語(9月20日)】 - 伝統

2016/09/20 (Tue) 04:46:11

(1)《よき心の雛形を出すこと》

   「 類は類をもって集まる 」 と云う諺がある。

   病気を思い浮べないのに病気になったと思う人があるかもしれないが、
   ブツブツと心に不平を思えば病気のことを思わないでも
   皮膚にブツブツが出来るのは、
   「 類は類をもって集る 」 の心の法則によるのである。

   また 「 自分は物質的存在だ 」 と云う念をもっていると、
   病気のことを思わないでも、
   「 物質は使えば禿(ち)びる 」 「 物質は虫が食う 」 などの
   念を付随するから
   やはり老衰や疲労や寄生虫による病気にかかるのである。

   先ず善き心の雛形を出さねばならぬ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


・・・

(2)《仕事を芸術化せよ》

   自分の仕事を芸術であると考えてするならば、
   仕事場は まことに楽しい優美の世界となるのである。

   芸術とは何であるか。それは生命の表現である。

   従って もし諸君が仕事を生命の表現すべき好機会であると思って、
   それを熱心に行うならば、仕事はたちまち芸術的魅力を
   もってくるのである。


   何事をするにも、 「 面倒くさい仕事 」 と考えずに、

   「 自分は これらのことを美化せんがためにつかわされたのである 」
   と信じて、できるだけ巧みになるように練習するならば、

   自分の生命も仕事をする毎(ごと)に その能力が伸びて来て
   自己自身の偉大さがそれだけ多く現われて来ることになる。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


・・・

(3)《問題を掴(つか)んではならぬ》

   神は渾(すべ)ての渾てであり、
   神は善であり、随(したが)って、
   すべて悪は存在しないのであると知る。

   それを知ったとき歓喜勇躍し、あらゆる事物に
   光明が充満しているかの如く見えたのに、
   いつかそのインスピレーションは消え去り、
   現象が暗然として真暗がりの姿をあらわす。

   いくら真理の本を読んでも、
   神想観してもその暗い現象の影は消えない。

   それは何故であろうか。
   それは問題をつかまえていて、「 問題 」 の中へ
   神を押し込んで働かそうとするからである。

   問題を放して神のみを思うとき、
   はじめて光明の想念が力を発揮するのである。


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           <感謝合掌 平成28年9月20日 頓首再拝>

【二十一日の法語(9月21日)】 - 伝統

2016/09/21 (Wed) 03:58:03

(1)《事物を成就する秘訣》

   物事を成就する秘訣は、
   先ずその成就しようと欲する事物を心に深く、
   毎日毎日既にそれが成就しているものだとして描くことである。

   心に描いたものはやがて必ずあらわれるのである。

   先ず心に描かれた 「 原型 」 が磁石のようになって、
   その心の通りの形を実現するために必要な要素を、
   人間を、資材を、境遇を引き寄せるのである。

   大事を成すには長期間にわたって、
   心の中に同一の目的事物を描きつづけていることが必要である。

   常に心に描いた影を動揺せしめている者に成功はない。


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・・・

(2)《生命力は 働く人に湧(わ)き出(い)でる》

   生命力の根源は 働かない人に対しては とざされてしまうのである。

   この世界に生きて、生き甲斐(がい)を感じ、
   吾 何かをなす所の力があるとの自信ある喜びを見出(みいだ)そうと
   欲する人は 働かなければならないのである。

   出せば出すほど 湧き出るのが 生命力である。


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・・・

(3)《神のみの世界を見よ》

   問題を人間知慧で解決しようと云う努力を止めよ。
   神のみが全てであり、神は善であり、愛であり、生命であり、供給であり、
   それに既に抱かれていると信ぜよ。

   肉体の眼をとじて、五官の世界に起っている問題を思わず、
   問題を解決しようと思わず、
   ただ神の愛につつまれて既に善であり幸福である世界を想念せよ。―

   こう想念して問題を解決しようと考えてはならないのである。


   イエスは何か問題に面しても、
   その不完全のところを突止めようとしなかった。

   ただ 「 病いなき 」 を見たのである。
   そして 「 起ちて歩め 」 と云ったのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年9月21日 頓首再拝>

【二十二日の法語(9月22日)】 - 伝統

2016/09/22 (Thu) 03:36:26

(1)《神に計画をゆだねる方法》

   何を心に描いて好いか不明な時には、
   描くべき事物をも神に委ねよ。

   神は無限の智慧であるから
   必ず何を心に描くべきかを教え給うのである。

   「 神よ、出来るだけ多くの人々を幸福にする為に、
   私が何を為すべきかを教えたまえ。」

   かく幾回も繰返して、心を神に集中して、自分の願いを神にゆだね、
   そして暫時何も考えず神からの啓示を受け入れる
   素直な無我の心境(こころもち)でいたならば、
   何か好い考えを与えられる。

   何も心にその時思い浮かばなくとも、
   あとから或る機会に与えられることもあります。

   
   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


・・・

(2)《仕事の能力ある人は 常に機会を見出す》

   仕事の出来ない人は、如何にその生活が豊かであっても、
   どこかふらふらした脆弱(ぜいじゃく)な所があって、
   一朝(いっちょう)経済界の変動が来たような時には、
   もろくも倒れてしまって再び起き上ることができないようになるのである。

   もし不断に、仕事を以て鍛えられていた人ならば、
   経済的変動が如何に起ろうとも、
   自由にその環境に対応して縦横自在の才能を奮って、

   時代の押し流す力に溺(おぼ)れてしまうということはないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


・・・

(3)《現象の悪を追求してはならない》

   誰が悪いであるのか、何が悪いのであるか。
   悪の原因はどこにあるのか。
   こうして物質的に悪の原因を追求してはならない。

   物質的に悪の原因を追求すればするほど、悪を心に描くがゆえ、
   それが心的原因となって、悪が一層多く現象化して出て来るからである。

   悪を探求する心を捨て、問題と格闘する心を捨て、
   しずかに実相の完全な姿を観ずるようにしたとき、
   心の中にある「問題」が消えて行くから、
   現象の世界にある問題も次第に消えて行くのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>

【二十三日の法語(9月23日)】 - 伝統

2016/09/23 (Fri) 04:40:13


(1)《素直に啓示に従うこと》

   神俠(インスピレーション、啓示)と云うのは
   必ずしも外からのみ与えられるのではないのである。

   神は到る処にいられるのであるから、(これを遍在と云う)
   内から思いつくこともあれば、
   外から思いつくこともあるのである。

   外から思いつくと云うのは
   他の人から 「 斯うせよ 」 とお教えられたり導かれたり、
   自然の事情の動きでそうせねばならぬように
   仕向けられることである。


   神に計画をゆだねたならば 何が外から起って来ても、
   それが神の導きであると信じて完き従順もて起ってくることを
   感謝して其の儘受けるのが必要である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


・・・

(2)《仕事は精神力を増加する》

   筋肉的仕事が 吾々の筋肉を強健ならしめるのと同じように、
   吾々の精神的仕事は、吾々の精神力を強健ならしめ、
   何事に遭遇しても驚かない所の自信力を
   たくわえておくことができるのである。


   仕事は仕事それ自身が、 「 生命の活躍状態 」 であるのであって、
   丁度 野球が金銭的報酬のために行われるのではなく

   唯(ただ)野球ゲームそのものの面白さのために行われるのと同じように
   行われるようにならなければならない。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31



・・・

(3)《神の善と愛とを一層長く想念せよ》

   あなたの子供に何か起ったとせよ。
   それは屹度(きっと)あなたが子供について
   「心配」したことがあるに相違ないのである。

   その「心配」の時間や度数と、
   あなたが神に対して心を振向けた時間や度数とどちらが
   多かったかを考えて見ると好いのである。

   屹度、あなたは神を思ったよりも心配の方を
   度々又長時間思ったにちがいないのである。

   若(も)し子供についての心配の時間よりも、
   神のつくり給いしただ善のみの世界を
   想う時間の方が長くなるならば、

   善き現象はあらわれて来、
   病気や不幸は消えて来ることになるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

・・・

<参考>


(1)『 光明法語<道の巻> 』(九月の法語「「大生命の歓喜)」)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=235 
      (光明掲示板・第一)

(2)『 生命の實相 』第三十八巻幸福篇(九月「苦難すでになし」)
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=106 
      (光明掲示板・第二)                    

(3)『 光明道中記 』(九月「こころ極まる」)
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=27 
      (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)

           <感謝合掌 平成28年9月23日 頓首再拝>

【二十四日の法語(9月24日)】 - 伝統

2016/09/24 (Sat) 04:26:05

(1)《周囲に起ることは皆自分を高めるため》

   神に完全にゆだね切るとき一切の恐怖がなくなるのある。
   恐怖があるのはまだ完全に神にゆだねていない証拠である。

   吾々の周囲に起こって来ることは
   皆自分を高めるためにあるのである。
   どんな経験も受けようによっては必ず自分を高めるのである。

   今出て来た事件がつまらないことに感ぜられようとも、
   その一見つまらないことが、尚一層大なる善きことを
   成就するための踏石になるのである。

   踏石が目的とする山より低いとて嘆いてはならぬ。

   如何なる高さも第一歩から始まる。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


・・・

(2)《仕事によって生命は真の価値を獲得する》

   仕事の報酬として与えられた所の金銭は
   いつかはそれが消耗されてしまうに違いないけれども、

   仕事によって獲得した所の、
   自分の生命の強さ、深さ、複雑さというようなものは
   生命の続く限りなくなるものではないのである。

   だから これこそが真の価値であって、
   金銭の如(ごと)きは まことに一時的の仮の価値にすぎないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


・・・

(3)《実相の円満さを実現するには》

   実相世界の完全円満なる姿を此の世界に実現せんがためには、
   神をあらゆる存在の根源者とみとめなければならない。

   そして神とは無限の生命であり、無限の愛であり、無限の知慧であり、
   神の生命以外には生命はなく、神の生命は完全であるがゆえに、
   人に宿る生命も完全であると云うことを知らなければならないのである。

   如何なる人間の知慧も神の知慧ほど
   すぐれた知慧は存在しないのであるから、

   人間智の思い煩いを捨てて、神の智慧を瞑想し、
   神の智慧の催しに従って無我愛の生活を送るならば、
   実相世界の完全な相(すがた)があらわれて来るのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>

【二十五日の法語(9月25日)】 - 伝統

2016/09/25 (Sun) 03:30:07


(1)《神の愛は無限である》

   神の無限の愛を信ぜよ。
   その広大なる愛は、それから のがれ出ようとしても
   到底のがれることは出来ないのである。

   十重二十重(とえはたえ)に
   神の愛は私達をとりまいているのである。

   その真っただ中に眼をとじて 「 神の愛はない 」
   と云っているに過ぎない。

   如何に眼を閉じていても、
   お前の立っているその大地は神のお蔭であるのではないか。
   お前の吸っている空気は、神の愛のあらわれではないか。

   到底お前は神の愛からのがれることは出来ないのだ。


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・・・

(2)《毎夜みずから省みること》

   諸君は 夕方食事を終った後に自ら省みて今日の機会に、
   自分は人と生れて如何なる仕事をなしたのであるか
   反省してみなければならない。

   人の地上に生を享(う)けたるは、
   仕事によって自己表現を完成するためであるから、

   もしその晩 省みて今日は何事をも なさなかったと気がついたならば
   それを恥じて改めなければならないのである。


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・・・

(3)《神は渾ての渾てである》

   神を渾ての渾てとみとめるよりほかに、
   本当に人類の幸福は来ようがないのである。

   互いに相戦い、相抵触する
   二つ以上の無数の力の存在をみとめる限り、
   人類は戦いの世界におかれなければならないのである。

   その戦いは人類相互の戦いもあれば、
   微生物と人間との戦いもあれば、
   逆境に対する人間の戦いもある。

   かかる戦いはいずれも人類の潜在意識の中に
   暗示され印象されたる想念の具象化である。

   かかる想念の具象化たる世界からのがれるには、
   先ず、心の中に、神は渾ての渾てであって、
   皆一つであるから相対立する何物も存在しないと
   悟ることが必要である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年9月25日 頓首再拝>

【二十六日の法語(9月26日)】 - 伝統

2016/09/26 (Mon) 04:25:22


(1)《神は常に我と共にある》

   神は常に我と共にある。

   わが内にある。わが外にある。
   わが上にある。わが下にある。
   わが前にある。わが後(うしろ)にある。
   わが右にある。わが左にある。

   われらを取巻いて全く隙もなく充満してい給うのである。

   吾々は神から逃れるすべもないのである。

   何を恐れるか。

   神は到る処に汝の護りであり、凡ゆる善と幸福とを以って
   神は汝を取りまいていられるのである。

   今呼べば神は答えたまうのである。
   何事が起ろうとも、神を呼べばその救いは来るのである。

   神よ、神よ、神よ、神よ、神を百万遍呼ぶべし。


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(2)《真に価値ある物は労なくして得られない》

   人は自ら労して獲得したるもののみが
   真の自分の力となるのである。

   大富豪の家庭に生まれ、数千万円の遺産をうけついでも、
   それは結局 諸君が労せずして 何ものかが得られるという間違った考えを
   受けつぐために役立ったにすぎないのである。

   労せずしては 真に価値ある何ものをも
   父祖からうけつぐことはできないのである。

   父祖のもちたりし忍耐力、勇気、意志の強さ、鍛錬し得ざる能力、
   事に対して誤まらざる判断力、精微なる観察力 ― 
   そのようなものは 労なくしては
   決して父祖より受けつぐことはできないのである。


   かくの如(ごと)き美質は 唯(ただ)仕事に対して

   真剣に取り組むことによってのみ得られるのである。


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(3)《すべては霊的実在である》

   すべては霊的実在である。
   霊的実在を物質として固定化して観るときにこそ
   迷いを生ずるのである。

   霊は神通自在のものであり、物質は不自由なものである。
   神通自在の霊的自己を、不自由きわまる物質と思い誤まることが
   最初の迷いであり、その最初の迷いから一切の悪が
   第二次の迷いとして生じたのである。


   物質は本来無いのである。それは心に描かれたる影である。
   霊的実在を悟る程度に従ってこの世界が物質であると云う観念が
   薄らいで来るのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>

【二十七日の法語(9月27日)】 - 伝統

2016/09/27 (Tue) 04:24:26


(1)《神の力が不足なのではない》

   神は全能である。

   神を呼んで何事でもなすとき、
   それが如何に大なる希望であっても、
   それが一見不可能な夢であっても

   必ずそれは成就するのである。

   ただ神を信ずる力なきことを警戒せよ。
 
   如何なる大事でも如何なる難事でもそれが成就しないのは、
   神の力が不足な為ではなく、
   神を信ずるこちらの力が不足なのである。

   人間に能(あた)わないことでも神には能うのである。
   人間の智慧の尽きたところに神は無数の手段を有ち給う。

   一歩一歩神を信じて前進せよ。
   道遠きを嘆ずるな。

   一歩毎に目的に近づくのだ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86


・・・

(2)《自分の力で上らねば 真の獲得はない》

   諸君が高き魂の王座に座(ざ)して、
   万人に対して 「 吾(われ)すぐれたり 」
   という自信をもち得るためには、
   人から押しあげてもらうようなことでは得られないのである。

   ケーブル・カーで山の頂上まで上る事ができるにしても、
   それはケーブル・カーが上ったのであって、
   自分が上ったのではないのである。

   それは 唯ケーブル・カーに随伴したというにすぎない。

   彼の体力も筋肉力もそれによっては少しも偉大にならないように、
   労せずして、高き位置にのぼったにしても
   その人の魂の力は 少しも高くなっていないのである。


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・・・

(3)《悪は幻であって存在しない》

   人間の病気は、霊的実在は不滅であり、
   金剛不壊であると云う真理と矛盾するものなのである。

   すべて病気のみならず、一切の悪は五官の心の迷いであり、
   幻であるのである。

   生長の家では一切の悪(神の属性である生命、智慧、愛、
   無限供給、調和に反するもの)は
   非実在であると云うのである。

   一切の悪は「本当にないもの」を「ある」と思い過った誤りなのである。

   唯善のみ、愛のみ、智慧のみ、調和のみ、豊かさのみが
   実在するのである。

   五官の眼を閉じよ、而(しか)して実相のみを見よ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

【二十八日の法語(9月28日)】 - 伝統

2016/09/28 (Wed) 04:30:50


(1)《大いに夢を描け》

   神の生命が吾等に宿っているのであるから、
   吾等の願いは、神御自身の願いである。

   (ただ他を害せず、他から奪わない希望である事を要する)

   神自身の願いであるから、
   それは必ず成就するのである。


   夢を描け、
   大いに、夢を描け。

   しかし今日甲の夢を描き、明日乙の夢を描き、
   明後日は丙の夢を描くと云う風に、
   定めなき動揺する心境では 物事は成就しないのである。

   心に描いたものを現象界に映し出すには、
   写真を移すと同じように 或る時間、同じ対象物に
   心のレンズを向けていなければならないのである。


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・・・

(2)《真の資産は精神的なものである》

   諸君の真の魂の資産は、
   諸君の生命によって体験し得たる所の喜び、忍耐力、判断力、
   観察力、勇気 その他色々の美徳を包有する所の人格の力である。

   どんなに諸君の地位が高くなろうとも、
   諸君の経済生活が豊かになろうとも、
   人格の内容が空疎であっては
   中はがらんどうの唯のブリキ缶にすぎないのである。

   外は輝いているが中には何ら価値あるものが存在しないのである。

   ただ親から譲られた財産によってのんびりと楽な生活をするが如きは、
   自分の人格を不活動な、なまけものの、
   意志薄弱な無力なる者にするにすぎないのである。


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・・・

(3)《宇宙は唯、霊の海》

   大宇宙は唯、霊の海である。
   物質を探ねても、そんな物は決して存在しないのである。

   霊は無限であり、無限であるから完全である。
   完全であるから病気はない。
   無限にして完全なる霊から不完全があらわれて来る筈はないのである。

   完全なる霊から生れて来たものは唯、調和せるもの、美しきもの、
   義(ただ)しきもの、妙(たえ)なるもの、清きもののみである。

   此の世界は霊と物質との混合ではないのである。
   ただ霊のみが存在するのである。
   霊のみがすべての運動の根元である。

   霊の動きは唯完全である。
   完全以外の業の働きなどは決して存在しないのである。

   業の働きをあまり重視してはならない。


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           <感謝合掌 平成28年9月28日 頓首再拝>

【二十九日の法語(9月29日)】 - 伝統

2016/09/29 (Thu) 03:53:14


(1)《実相の秩序を祈れ》

   吾々が如何になすべきかに杜(と)まどう時に、

   「 実相の秩序に於いて事物が “ ある ” ように
   どうぞ現象世界に於いてもあらしめ給え 」

   と吾々は祈るべきである。

   これはキリストの教え給うた
    「 み心の天に成るが如く地にも成らせ給え 」 と
   祈る祈りと同じ意味である。


   「 実相の秩序 」 と云うのは
   実相世界 ( 神の国 ) に於いて、
   すべての事物が互に調和して、
   相侵すことなき状態にある秩序である。

   現象の世界に於いては、時としては一人の幸福を得ようとすれば、
   他の者の幸福が侵害されるようなことがあったりする。

   それは 「 実相の秩序 」 が実現しないで、
   我(が)の秩序が顕れるからである。


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・・・

(2)《物質的遺産よりも尊いのは精神的遺産である》

   親から財産を譲られることによって、
   却(かえ)って自己訓練、自己発達、自己建設の
   尊き意志が砕けてしまうならば、

   親から譲られた資産の大いさは、
   却って諸君の人格の邪魔となるのである。

   向上の精神は消えてしまい、自己努力の意志力は失われ、
   仕事に対する興味は 雲散霧消して
   懦弱(だじゃく)な遊惰に流れた性格を得ることになるのである。

   その点、貧しき親をもつ子供よりも豊かなる親をもつ青年の方が
   尚(なお)一層危険が多いのである。

   されば、豊かなる家に生れた人達は自ら省みて、
   刻苦精励の努力を怠らぬようにしなければならないのである。


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・・・

(3)《死への願望を捨てよ》

   重態の病人が治ると治らないとは主として其の患者の
   切なる願いが「治ること」を希望していると否とにかかっている
   とは名医の指摘する真理である。

   人間が病気から治るためには
   「病気になりたい意思」を捨てなければならないのである。

   「この世が嫌になった」と仮初(かりそめ)に云う言葉の奥にも、
   死への願望や、病気への願望がひそんでいるのである。

   夫婦喧嘩や、事業の失敗や、
   現世で迚(とて)も遂げることの出来ない願望に
   絶望したのちに人間が病気にかかるなどはそれである。


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           <感謝合掌 平成28年9月29日 頓首再拝>

【三十日の法語(9月30日)】 - 伝統

2016/09/30 (Fri) 04:41:31


(1)《互に侵さざる生活を祈れ》

   互に侵さずして幸福なる生活を営むためには、
   常に神想観する毎に、

   「 吾等は一つの神の智慧によって支配されている世界に住んでいるのである。
   神の智慧は調和であり、秩序であり、平和であり、美であって、
   一切のものが一つの叡智によって適当に配列されているのであるから、
   不調和なことは存在し得ないのである 」 と思念することが必要である。

   若し現象界に何らか互に相おかすような出来事が起るならば、
   かかる出来事に心を捉えられることなしに、それを無視して

   「 唯、神の調和の智慧のみがこの事件を支配している 」

   と念ずれば、その事件が調和に解決するのである。


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・・・

(2)《最善の機会は 刻苦精励である》

   まことにも 刻苦精励こそは
   諸君の人格を鍛える所の 学校教師であり
   最善の機会である。

   如何なる官公私立の学校へ行かなくとも、
   真に諸君が 刻苦精励して自学自習するならば、

   きっと正規の学校教育を受けた人よりも
   尚一層大いなる、労力、精神力、人格力を
   獲得することができるに違いないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31


・・・

(3)《希望は切実に願うべし》

   商売の成功を望むにしても、販売の増加を望むにしても、
   良き交友を求めるにしても、自己の向上を望むにしても
   「 切に願う 」 と云うことがなければならないのである。

   潜在意識内の切実なる願望は、宇宙の潜在意識を媒介として、
   その願望を実現するに適当な人の潜在意識にその希望を伝達し、
   その人を動かして、希望を実現するに必要な要素を集めて
   ついにそれを実現するに到(いた)らしめるものなのである。

   先ず強く深く切に求むること。
   その決意に従って断乎として動くこと。

   既になれりの信念を以て動けば必要な要素は集って来るのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>

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