伝統板・第二

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ひかりの一日一言⑱~寿福への招待 - 伝統

2016/09/01 (Thu) 03:37:04

ひかりの一日一言《1日》

《1日 真の富者は「自由」を所有する》

本当の富者とは「自由」を完全に有っている者であって、
金銭や「所有品」を沢山もっている者ではない。

この事をまだ本当に悟らぬ人が多いために、
富めば富むほど自分の心がその富に縛られて、富を護るための奴隷となり、
屈従の生活を送りながら、自分を富者だと思っている人が多いのである。

「物を所有するために、心がひっかかって自由を失う不利益」によって
相殺され勝ちである。
「無所有」と云うことが仏教で尊ばれるのも其の為である。

しかし「無所有」と云うことは「貧乏」と云うことではない。
「貧乏」な者は、また「貧乏」を心に掴んで苦しむのだ。
「貧乏」を掴まず、富を掴まず、欲するに従って自ずから 自由に集まる
――― これが真に富者である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P178) より

・・・

<関連Web>

(1)ひかりの一日一言⑬~幸・不幸の岐れ道
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439 

(2)ひかりの一日一言⑭~意識を高く昇らせよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6866429

(3)ひかりの一日一言⑮~理想を高く掲げよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6898754

(4)ひかりの一日一言⑯~心霊への目覚め
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6929870

(5)ひかりの一日一言⑰~健康への招待
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6962847

           <感謝合掌 平成28年9月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2016/09/02 (Fri) 03:10:22


《2日 色即是空・持って持たぬということ》

イエスが「幸いなるかな貧しき者、天国はその人のものなり」と云ったとき、
其の心の貧しき者とは「無所有」の心境にある人のことであって、
貧乏である人のことではない。

「持つ」ものは「持たれる」のである。
若しその人が「妻」を持つならば、「妻」に持たれるだろう。
若しその人が「良人」をもつならば、「良人」に持たれるであろう. 

然らばその人が何にも持たないと頑張るならば、その人は「無」に持たれるであろう。

持って持たずの心境が大切なのである。

「持つ」のは物質をみとめることである。

「持たぬ」のは物質をみとめぬことである。

色即是空である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P179) より

           <感謝合掌 平成28年9月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2016/09/03 (Sat) 03:55:53

《3日 空よりして一切を生ず》

「空とは変化無常のことなり」と大谷光瑞師は解釈している。
小林一郎氏は「空とは変化しないこと、平等のことである」と解釈している。

仏教研究家は、こんな解釈をいろいろ読んでみても結局、どちらが本当かわからない。

『生命の實相』の中には、色即是空を解釈して、色即ち物質は是空である。
空は「無い」ことであるとハッキリ物質の「有(ゆう)」(実在)を断ち切ってある。

しかしこの「空」は一切のものを内に含む「空」であるとして、
空即是色を解釈して「空よりして一切を生ず」と断じてある。

一切を生ずる空なる実体であるから、
「変化無常の原理」だと云う光瑞氏の解釈にも当て嵌まるし、
「平等の原理」だという小林一郎氏の解釈にもあてはまる。

最近の原子物理学はそれを証明しつつある。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P179~180) より

           <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2016/09/04 (Sun) 04:24:23


《4日 富を実現するには》

「吾れは今富んでいるのである」と念ずれば
空(くう)よりして「富」が実現して来るのである。

次の瞬間「そんなことがあるものか」と念ずれば、
「そんなことはなくなる」のである。

多くの人々が、何を念じても、それが成就しないのは、その成就に信念がなく、
次の瞬間から「そんなことがあるものか」と念ずる
―― その念じ方の方が力強く、且つ長時間であるからである。

若し芥子種ほどの信仰があって「吾れは今富んでいるのである」と念じた信念が、
次の瞬間にも崩れることなく、力強く、且つ長時間その想念をつづけることが出来れば
必ず富は実現するのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P180) より

           <感謝合掌 平成28年9月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2016/09/05 (Mon) 03:51:25


《5日 不幸を握っていては幸福にならぬ》

「われは今幸福で健康である」と念ずれば、
必ず自分は今幸福に健康になるのである。

もしその思念が成就しないならば、
次の瞬間に「われは今不幸で病気である」と
念じかえるからである。

「不幸」を握っていて幸福になれると思ってはならぬ。

幸福になるためには、幸福の心を出して来なければならぬ。
「わたしは今幸福である」と云う風にである。

幸福の心を出して来れば、表情も態度も言葉の調子も幸福そうになり、
周囲に集まって来る人も幸福そうな表情で呼びかけて呉れ、
幸福な愛にみちた言葉が花降るようにその人を飾ってくれるのである。

「私は今、幸福で健康である」と暇があったら心のうちで唱えようではないか。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P180) より

           <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2016/09/06 (Tue) 03:52:06


《6日 ただ幸福のみが貴方を訪れる》

何が過去にあったにせよ、あなたは過去を心の世界から放すのである。
過去は「今の心」が捉えるからこそ悩みのもとになってくるけれども、
「今の心」が捉えない限りは、あなたを捉えて悩ますことが出来ないのである。

何が未来に起るにしても、未来は未だ来たらざるものであって、
「今の心」がそれを捉えない限りは自分を悩ますことは出来ないのである。

だからあなたは、もう決して、過去のことを思い煩わず、
未来のことに取り越し苦労することはないのである。

悲しみよ、あなたの心から去れ。
恐怖よ、あなたの心から去れ。
悲しみも恐怖も、最早あなたを訪れることはないのである。

唯幸福のみがあなたを訪れる。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P181) より

           <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2016/09/07 (Wed) 04:22:27


《7日 健康の念をつかめば健康となる》

「今私は完(まった)き健康である」と念ずるとき、その時既にあなたは健康なのである。
健康とか不健康とか云うのは心的体験であって、心が無くなったり、
死骸になったりすると、もうそれは健康でも病気でもない。

あなたが若し「今私は完(まった)き健康である」と念じつづけることが出来るならば、
あなたの心的体験としては既にあなたは健康なのである。

そして理念は物質に先立ち、精神は肉体的組織を変化するから、結局、肉体までも
本当に健康になってしまうのである。

「病気」を心につかんでいて、病気をなくしようと思うのは、
火をつかんでいて火傷をしまいと思うのと同じである。
病気を心から放ち、健康をつかむことだ。

完全なる健康は、完全なる心の平和から来るのである。
完全なる心の平和は、神を信じ、神の愛と護りとを信ずることのみによって得られるのである。

吾々が神経過敏に反応し少しの出来事にビクビクし、不安や恐怖に襲われるのは、
神の愛と護りを本当に信じていないからである。

そして不安や恐怖でビクビクしながら物事に反応していたのでは
適当に物事を処置すべき、よき智慧は湧いて来ないのである。
従って恐れた通りに良くない事件が発生して来るのである。

若し何かの出来事で心が動揺しそうになって来たら、
「われは神の子である。常に神に護られているから何事も私を害する事は出来ない」
と念ぜよ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P182) より

           <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2016/09/08 (Thu) 04:24:52


《8日 人を憎めば自分の人格が低くなる》

どんなに熱心に、神想観しようとも、神に祈ろうとも、もし誰かを憎んだり、
恨んだり、呪ったりしている限りは、それは無効に帰するのである。

人は自分が誰かを憎んでいる限り、
その憎んでいる相手の高さ以上に昇ることはできないのである。

憎んだり怨んだりしているのは、その人に執着を持っているのであるから、
執着のある所までその人の心は降りて来るほかはないのである。

人を憎めば、憎んでる相手と同じ低さまで自分の人格が降りたのであるから、
もう自分は、その相手を憎んだり、軽蔑したりする資格はなくなったのである。

どんな相手に対してでも其人に宿る神性を拝むことにするならば、
自分の人格も亦その神性の高さまで昇るのである。


人に何か、欠点があらわれた場合に、欠点をみるな、「神らしくない所」に
眼をつけるなと云われても、どうも、見えるものは仕方がないのであって、
悪い人は悪いと見えるほかはないと云う人がある。

併し、こんな場合に「悪」の存在を否定しようと思うから難しいのであって、
「悪」はそのままにして置いて、其の人の中に宿る善なる神性のみをみつめる
ようにしておれば、その人の善なる神性はあらわれて、
「悪」はおのずから影のように消えてしまうのである。

すべて「悪」と見えるものは本来存在しないのであって、
それを認めている間だけ現れているのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P183~184) より

           <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2016/09/09 (Fri) 03:47:13


《9日 問題は自分を高めてくれる》

すべての問題を恐れてはならない。
それが問題である限り解決の道はあるのである。

すべて解きほぐし難い問題ほど興味が深いのであって、
それを解くことによって、われわれの心の力は鍛錬されるのである。

「二十の扉」や「頓知教室」や「クロスワード・パズル」の面白さも、
それが難問であればあるほど興味が増すのである。

頭脳で解き難き問題が起ってくれば「自己に宿る神」に呼びかければよいのである。

「わが魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」この言葉を数回となえて、
神の中へやすらい込み、融け込み、神にまかせる気持ちでおればよいのである。

しからば適当な時に適当な知恵が湧き出て来るのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P184) より

           <感謝合掌 平成28年9月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2016/09/10 (Sat) 04:13:09


《10日 寛大に他に与えよ》

「与えよ、さらば与えられん」が法則であることを知るならば、
今、現在自分が何を与えられているかに就いて不足の考えを起す必要はないのである。

自分が何を人に、又は社会に、国家に、与えられているかを考えて見、
与えることが少なければ、与えることを多くするように心掛ければ好いのである。

若し自分が与えること少なければ、与えることも少ないのである。
自分が与えること多ければ、また自分の与えられること多いのである。
すべて此の世界は法則によって動いているのである。

どんなに能力があっても、愛と寛大との精神の欠乏せる者は、
自分も寛大に与えられることは無いのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P184) より

           <感謝合掌 平成28年9月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2016/09/11 (Sun) 03:07:09


《11日 人間も純化したとき実相が顕れる》

《そのまま》が好いと云っても、
神らしからざるそのままで好いというわけではないのである。

牛皮はそのままでは靴にも鞄にもならないのである。
それは適当に鞣(なめ)されなければならないのである。

人間もその性質が鍛えられ、鞣(なめ)され、淘(よな)げられなければならない。
鍛え、鞣し、淘げたときに、実相のそのままが出るのである。

金は金鉱のままでは光輝燦然と輝くことはできないのである。
それは搗(つ)き砕(くだ)いて不純物を分離するために
冶金(純化)の工程を経なければならない。

純化されると云うことは、金の実相 ―― 金の《そのまま》 ―― 
になると云うことである。

人間のそのままも純化の過程を経てのみ、そのままが顕われるのである。
現象のそのままを肯定してはならない。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P185~186) より

           <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2016/09/12 (Mon) 04:01:51


《12日 神は暗黒を照す光》

神は人間が暗黒なる状態を通過する時に、是非なくてはならない光である。

悲しみに泣き濡れた人々よ、眼を挙げて神の光を見よ。
暗黒に道を見失った人々よ、眼を挙げて神の光を見よ。

汝は必ず悦びを見出して慰められん。
汝は必ず道を見出して再び進み行く勇気を見出すであろう。

神は遠いところにましますのでなく、極めて近く自己の内にましますのである。

次の如く念ぜよ。

「我は神の子である。神の光が自分の内に宿っていて自分を導き給うのである。
神の光は智慧の光である。智慧の光の射すところ決して暗きことはないのである。
神の智慧の導きに感謝します。」  


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P186) より

           <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝> 

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2016/09/13 (Tue) 04:50:40


《13日 祈りが成就するには》

祈りの成就する契機となる一点がある。
それは、神われとともにあるとの確信を得たる瞬間である。

しかし祈ってばかりいるのでは役に立たぬのである。
「主よ、主よという者必ずしも天国に入るに非ず」とイエスも教えている。

神の御心を行ずる者のみが天国に入るのである。

どんなに小さな事であっても
今与えられている幸福(一杯の水でも、空気でも、食物でも)に感謝せよ。

そして今あなたのいる立場においてできるだけの力をつくして隣人に奉仕するのである。
その奉仕する仕事が自分の求める仕事に何の関係がなくとも、そんなことは問題ないのである。

自己が奉仕するとき、奉仕は愛であるから、神の道が開かれるのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P186~187) より

           <感謝合掌 平成28年9月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2016/09/14 (Wed) 04:19:22


《14日 すべての兄弟を礼賛しよう》

眼を挙げて光を見よ。
空高く輝ける神の光を。
それは君を導く真理の光だ。

君がその光を見たのは、君のうちにもその光が宿っているからだ。
そうだ、あなたの内にも神が宿っている。
私のうちにも神が宿っている。

すべての人々に神が宿っているのだ。

悪い人はひとりもいないのである。

神は野にも、山にも、丘にも、海にも、お空にも充ち満ちていて、
われらを照らしたもうのである。

光の世界に生きている光の子供があなたであり、私であり、
すべての人々であり、すべての存在である。

まばゆいばかりに光が燦爛とかがやいている。

 すべての人々を祝福しよう。
 
 すべての人々を礼賛しよう。
 
 すべての人々に感謝しよう。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P187) より

           <感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2016/09/15 (Thu) 04:40:40


《15日 神の供給を大きく受けよ》

神より来(きた)る資源は無限である。
しかしその無限は只存在するだけであって、
具体的に人間のものになっていないのである。

具体的には人間のものとなるには、
それをみずから進んで受取らねばならぬのである。

神は光のようなものである。
地上に充ち満ちていても、みずから眼をひらかぬ者には、
神が眼瞼を押しあげて、光を押し込み給うことはないのである。

神は海原の水のようなものである。
大きな容器をもって行って汲めば、いくらでも多く満たしてくれて、
しかも其の資源は尽きないのである。

しかし小さな杯をもって汲めば小さな杯の分量しか与えられないのである。

心をひろく持つことである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P187~188) より

           <感謝合掌 平成28年9月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2016/09/16 (Fri) 03:28:00


《16日 不調和を愛念で祝福せよ》

若しあなたの周囲に不調和が満ちているように感じられるならば、
それは貴方の心に不調和があって、それを感じているのである。
貴方の心の内にないものは決して感ずることは出来ないのである。
 
先ずあなたの心の内の不調和を除き去れば周囲の不調和も消えてしまうのである。

「神の愛、われに流れ入りて、光輝燦然と輝き給いて、わが周囲の人々に愛念を送りたもう」

と繰返し念じ祈るのがよいのである。

どんな人でも愛念に動かされない人はないのである。

愛はすべてのものを調和に導く最強力なる力である。

どんな不快な状態でも根気強く、

「この処を神の愛が祝福したもう、神の愛の充つる処はすでに光明輝いている」

と念ぜよ。 

また次の如く念ぜよ。

「わが内に神の愛は流れ入りたり。神の愛われに於いて燦然然と輝きたもう。
われは幸福である。最早 自分は不幸になることは出来ないのである。
自分は幸福のほかはない。われは祝福されたる者である。

われはすでに高きレヴェルに住む。
悪意や、嘲笑や、非難や憤(いきどお)りのレヴェルよりも
既に一層高くのぼったのである。

われは彼の行い、彼の言葉によっては、もはや彼を批判しないのである。

われは表面によって人々を判断しない。
人々の内にやどる神性仏性によって判断し、そして全ての人々を拝むのである。

人々の言葉や行いが、自分にとって不快なものであろうとも、
それをわれは花びら降る美しさに感ずるのである。」


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P188~189) より

           <感謝合掌 平成28年9月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2016/09/17 (Sat) 03:28:08


《17日 わが内の神よ、目覚めよ》

わが内なる神よ、目覚めよ。
われは今日(きょう)ひねもすわが内なる神を呼ぶ。

わが内なる神よ、目覚めよ。
大いなる智慧の眼をひらけ。
愛の手を伸ばせよ。

わが父よ、わが母よ、永遠に父性にして母性なる神よ。
常よりも一層目覚めよ。

われはひたすらにあなたを呼び、あなたの智慧を求め、愛を求む。

われは神の導きのままに行動せんことを求め、神の愛を我を通して実現せんことを求め、
わが行いが神の栄光をあらわさんことを希(こいねが)う。

わが内なる神よ、わが手をとり給え、われを導きたまえ。

大いなる光をもて、われを照らしたまえ。

わが行く道があなたの示したもう道でありますように。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P189~190) より

           <感謝合掌 平成28年9月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2016/09/18 (Sun) 04:45:37


《18日 神にわが仕事を委ねよ》
 
われは今、すべての疑いと、不安と、不信と恐怖をなげ捨てて、
ひたすら神に心を振り向ける。

光に向えば暗(やみ)が消えるが如く、わが心ひとたび神に振り向きたる瞬間に、
すべての疑いも、不安も、不信も、恐怖も、消え失せたのである。

神の光に照らされて、われは行動するがゆえに、われはわが仕事がすべて都合よく
神の智慧に導かれているとこを眼(ま)の当たり見るのである。

われは全き信頼の念をもって神にわが仕事をゆだねるのである。

わが内なる神よ、なお一層われを道9引きたまえ。
われは内なる神の催しのままに、全ての事を行ないて安心して、
余裕綽綽としているのである。

神はわれを通してわが仕事を管理したまうのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P190) より

           <感謝合掌 平成28年9月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2016/09/19 (Mon) 04:26:20


《19日 何が神の導きであるか》

心に催して来るところの何(ど)の考えが神の導きであるのだろうか。

唯一つしか催して来ないならば問題ではないが、ああもしたい、こうもしたい、
どちらが神の導きだろうかと迷う場合に、自分の我の迷いと、神の導きとを
区別する示標は何処にあるのだろうかと尋ねられることが往々ある。

それを見分ける示標となるのは斯うである ――

神は全ての全てであるから、全ての幸福のためにとて発案されるものは神の導きであり、
自分だけの利益のために発案されるものは、 我の導きである。
愛の導きは神の導きであり、我欲の導きは迷いの導きである。

自分が計画しても故障が起こって面白く行かないものは
神がそれを引止めるものと知れ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P190~191) より

           <感謝合掌 平成28年9月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2016/09/20 (Tue) 04:28:29


《20日 難問題は神様に委ねること》

事態が紛糾して来て解決がつかなくなったと思われるような時に直面したならば、
その時に必要なのは、取越苦労でもなければ、とつおいつの思案でもない。

あらゆる人間智を捨ててしまって、神の智慧を呼び出すのが解決の早道である。

心が転倒したり、腹が立ったり、恐怖したりした瞬間に、
カッとなって物事を断行してはならないのである。

そんな時に必要なことは唯一つ、心を平和にして、
難問題を神様の肩の上に委ねることである。

それには

(一)先ず取越苦労をやめる。

(二)必ず良き解決の道があることを信ずる。

そして「わが内に宿りたまう神、無限の智慧をもって
すべての人に最もよいように問題を解決し給う」

と繰返して念ずることである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P191~192) より

           <感謝合掌 平成28年9月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2016/09/21 (Wed) 03:38:33


《21日 神の子の実相を悟れば罪はない》

悪癖がどうしても治らないのは、魂が、愛に飢えているからである。

食に飢えているものが代用食を買い求めるが如く、
魂が愛に飢えている者は、五感の快美感によって、
魂の愛の法悦の代用食とするのである。

それは、飢えたる人が代用食を求めても大した罪悪でないかの如く、
魂が愛に飢えている者が、五官の誘惑に一時陥っても
大した罪悪ではないのである。

それは人間は「肉体」ではないのに
「肉体」の悦びだけを求めたと云う点で、
実相を包み(罪)ていた程度において罪であるに違いない。

罪はツツミであるから、人間を「肉体でない」と包みをひらいて
真実を暴露して「神の子」の実相をさとったら罪は《ない》のである。

イエス曰く「再び罪を犯すな」と。

一度自分を「神の子」と悟ったら再びそれを包み覆わないことである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P192) より

           <感謝合掌 平成28年9月21日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2016/09/22 (Thu) 03:10:36


《22日 愛と理解とを求める人に》

すべての人間は神の子であり、
神は愛であるからすべての人間は愛を求めているのである。

すべての人間は神の子であり、互いに兄弟であるから、
互いに理解されることを望んでいるのである。

愛されることと理解されることと、
この二つを失った人は真に孤独であり、
寂廖感におそわれずにはいないのである。

しからば愛と理解とを失って、
この世に生きる希望を失った人々は、いかにすべきであろうか。

愛と理解とを与えられることを求めるな。
まず愛と理解とを与えてあげることを試みる。

人々を愛せよ。
憎い人でも愛せよ。

愛すると云うことは必ずしも感情ではない。
その人のためになることを隠れて熱心にしてあげよ。
本当に愛が湧いて来るに違いない。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P192~193) より

           <感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2016/09/23 (Fri) 03:33:05


《23日 誰かに役に立つよう心掛けよ》

何か、誰かに対して役に立っていると云う想いが
自分の存在価値をみとめしめるのである。

誰かのためになることを一日に一度でもせよ。
それは貴方の生活を支えて行く力となるのであろう。

人のためになる行為は自分の生活の基礎を築いて行くのである。
自分のためになる仕事はその基礎の上にのみ築かれてのみ永続するのである。

一つとして人のためになる行為をしたことのない人は、
どんなにその人が成功しても、心の中には敗北があり、寂しいのである。

与える物がなければ、激励の言葉や、鼓舞する言葉や、誉める言葉や、
愛語や、微笑を与えるだけでも相手を生かすことが出来るのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P193) より

           <感謝合掌 平成28年9月23日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2016/09/24 (Sat) 04:10:17


《24日 一日少しでも人の為に尽せ》

人間の成功の程度は、その人が如何ほどの自分の事業を築き上げたかによって
測られるものではないのである。

人間の成功の程度は、その人が如何ほど人々を幸福にし、
人々の魂を高め上げたかによってのみ量られるのである

自分の事業や成功と云うものは、如何にそれが輝かしく見えようとも、
それは第二義のものであり、多少とも自己満足的なものであり、
多少とも利己的なものである。

我々は如何に自分の仕事に忙しくとも、
自分の全時間を自己発展のためにのみ使ってはならないのである。

少しは余裕をのこして置いて、他の人のために幸福を考えてやるようにすべきである。
人に深切を尽す少しの時間を必ず保存せよ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P194) より

           <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2016/09/25 (Sun) 03:21:03


《25日 神の護りを完全に受けよ》

あらゆる事物に対して恐るることなかれ、憂えることなかれ。
又、心をまどわすことなかれ。

神はすべてのすべてである事を知るとき、
一切の不安・恐怖・憂い・悩みはのぞかれるのである。

誰かの言行に信用がおけないときに、いかにすべきか。
一切万事神より出でて神に支配されているから、
悪しきことはありようがないのである。

その真理を知らないから、否、一通りは知っているはずであるけれども、心の奥底から、
一切万事神によって造られ、神によって支配されていると知らないから、
他(ひと)を疑ったりするのである。

静かに坐して、「一切は神の創造である。この世界には決して不調和はないのである。
彼は神の子であるから決して不信な行いをするはずはないのである」と念ぜよ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P194~195) より

           <感謝合掌 平成28年9月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2016/09/26 (Mon) 04:05:06


《26日 すべての人の善を信ぜよ》

神は常にあなたと倶にある。
憂えること勿れ。
何処におろうとも、何をしていようとも神はあなたを護ってい給うのである。

如何なる危急の場合にも、真に神の無限力を信じて、呼べば必ず答え給うのである。
併し、真に神の無限力を信じなければならぬ。
信じない祈りには派長が合わぬのである。

常に神の御救いに応ずることが出来るように、
深き「神の子」の自覚を呼び起こすようにつとめよ。

常に、「われ神の子なり、常に護り給う」と心のうちに唱えよ。
而(しか)して同時に、その常の譲りに感謝報恩するために、
神徳を人に伝えなければならぬ。

何か神様のお役にたつことをしなければならぬ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P195) より

           <感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2016/09/27 (Tue) 04:14:40


《27日 神の供給は縦よりきたる》

神はあなたに必要なる一切のものを必ず準備し給うのである。
 
人口が殖えることは問題ではないのである。

人口が殖えるだけ、食物は神が何かを増産させて下さって
必要なだけは備えて下さるのである。

個人個人としていくら人口がふえても、生活に楽な人もあろうが、
全体からいえば、人口が増えて誰かが豊かな生活をしたならば、
その代わりに誰か貧しい生活をしなければならぬなどと考えるのは、
供給を有限と観ずる唯物論者のことである。

我々は決して横からの供給を求めなければならぬことはないのである。
縦に神の供給を受ければよいのである。

領土も横にのばそうと考えるから、侵略戦争が起るのである。
  
縦に伸びよ。

神からの供給を受けよ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P195~196) より

           <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2016/09/28 (Wed) 04:21:22


《28日 個人が善くなるのが民主主義生活》

アメリカにもソ連にも貧民はいるのである。
広大な地面と、無限の資源をもっていても、
貧民になる心をもっている者は貧民になるのである。

貧富は「全体としての資源」の問題ではなく、個人個人の心の問題なのである。

尤も政治のよし悪しは関係する。
しかしそれも政治を司る個人の心の問題である。

現代の議会政治は、人民みずからが代表を出して政治をするのだから、
政治家という個人の自由にならぬなどと、甘いことを考えていたら間違いである。

代議士に当選するまでは、選挙民の意思を伝えると宣伝しておきながら、
実際当選してみると、全然個人の利害関係で動いている代議士は無数にあり、
お手盛りで議員の歳費や退職金を増額して恬(てん)として恥じないのである。
 
個人がよくならない限り、この世界はよくなるはずはないのである。

個人に生長の家を宣伝しなければならぬ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P196~197) より

           <感謝合掌 平成28年9月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2016/09/29 (Thu) 03:34:22


《29日 善き原因を作れ》

何人も神から与えられたる善と福とを外から奪うことは出来ないのである。

奪われる者は奪われる心を持っているのである。

いかにあなたの環境が不調和な苛辣なものであろうとも、
そのような環境を呼び寄せるような「因(たね)」は
自分の心の内にあったのである。

原子爆弾の被害の下(もと)にいても助かる人と助からぬ人があるのは、
考えて見れば因縁不可思議である。

因縁の「因(いん)」は原因であり、それは「心」にある。
心の波長に合うものが集まって来るのである。

因縁の「縁(えん)」は触れ合いである。

「因(いん)」がなければ「縁(えん)」に触れても結果は生じない。
よき原因を作ることだ。
心を清らかに澄み切らすことだ。

人を多勢(おおぜい)助けて置くことだ。
それが皆、よい原因となる。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P197) より

           <感謝合掌 平成28年9月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2016/09/30 (Fri) 04:24:01


《30日 逆境に処して斯く祈れ》

若しあなたを不正にいじめる者があったり、不正に待遇する者があったり、
正しいあなたの収入を不正に少くしたり奪ったりするものがあったり、
あなたを誤解する者があったとしても、その相手を直接怨んだりしてはならないのである。

キリストは斯う云う場合「悪に抗する事勿れ」と教えている。

悪の存在を見てそれに抗したり、悪を認める心によって悪は消えることはないのである。
あなたの信仰を変えよ。

そして

「自己にとって相応しき善なる者は自己の心の波長によって引寄せられて来るのである。
自分は彼らを愛するが故に、彼らは決して私を害することはないのである。
今彼らが私に敵対しているように見えても、それは一層善なるよき物が来る過程である。」

かく思念することによって実際一層よき物が来るのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第9項(P197~198) より

           <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>

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