伝統板・第二

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そのまま・法爾自然 - 伝統

2016/08/24 (Wed) 04:39:25

任運無作、法爾自然

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月24日>(P62)より

ひたすら道を求むるために釈迦時代の弟子は親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。
「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば吾が弟子となることを
得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。
捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

          <感謝合掌 平成28年8月24日 頓首再拝>

《そのままの心でおれ》 - 伝統

2016/09/04 (Sun) 04:32:01


         *『 生長の家 』(昭和26年7月16日の法語)より


   肩に力を入れないこと。
   力む心を捨てよ。
   構える心を捨てよ。

   急ぐ心を捨てよ。
   遮二無二(しゃにむに)する心を捨てよ。
   焦る心を捨てよ。

   負けまいと思うな。
   かたよるな。
   そんなに鯱鉾(しゃちほこ)ばるな。

   何一つ悪いことは 神の世界に存在しないのである。

   力むと可(い)かんぞ。あせると可かんぞ。

   心を弛(ゆる)めい。身体を弛めい。


   その儘(まま)だ。そのままの心になるのだ。
   神に委(まか)せ切りの心になるのだ。

   神の創造(つく)り給いし世界には 何一つ悪いものはないのだ。

   そのままでおれば 水は澄み切っているものを、
   そのままの心を失うがゆえに、
   その心の反映として 万事が波立って見えるのだ。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/6ca666545d0dbab2b4e16492e8a18459

          <感謝合掌 平成28年9月4日 頓首再拝>

そのままの心で愛を行ずる - 伝統

2016/09/15 (Thu) 04:44:03


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月15日)より

爪に火を点(とも)す式のケチな心を寛大な心に転ぜよ。
しかも金(かね)や物を与えるのに湯水を捨てるような気持ちで与えてはならない。

金(かね)は物を象徴(しるし)として神の「生命(せいめい)」と「愛」とを
心をこめておくるのだという愛と敬虔との心をもってしなければならぬ。

金(かね)や物を贈るのに、
憐れみの感じや、慈善の感じや、軽蔑の感じで贈ってはならない。
報酬を期待して贈ってはならない。

水がただ高きより低きに流れて、少しも高ぶらないごとき、
そのままの心で愛を行じなければならない。

神の愛を取り次(つ)がしていただいているのであって、
別に他(ひと)に高ぶる必要もないのである。

             <感謝合掌 平成28年9月15日 頓首再拝>

《人間も純化したとき実相が顕れる - 伝統

2016/09/27 (Tue) 04:22:41


         *『幸福を招く365章』第9項(P185~186) より

《そのまま》が好いと云っても、
神らしからざるそのままで好いというわけではないのである。

牛皮はそのままでは靴にも鞄にもならないのである。
それは適当に鞣(なめ)されなければならないのである。

人間もその性質が鍛えられ、鞣(なめ)され、淘(よな)げられなければならない。
鍛え、鞣し、淘げたときに、実相のそのままが出るのである。

金は金鉱のままでは光輝燦然と輝くことはできないのである。
それは搗(つ)き砕(くだ)いて不純物を分離するために
冶金(純化)の工程を経なければならない。

純化されると云うことは、金の実相 ―― 金の《そのまま》 ―― 
になると云うことである。

人間のそのままも純化の過程を経てのみ、そのままが顕われるのである。
現象のそのままを肯定してはならない。

             <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

《常にそのままであれ 》 - 伝統

2016/10/13 (Thu) 04:47:48


       *【生長の家』(昭和25年7月17日の法語)より

   常に単純であれ。
   常に“そのまま”であれ。

   構える心をおこすな。
   “そのまま”の心になれ。
   しかも行きとどくべし。

   常に精神統一を行じ
   心を激昂(げきこう)せしめてはならない。

   激情は心の波をさわぎたて、
   汝の実相の悟りを不可能にするものである。

   怒り憎みは、執着すべからざるものに
   執着するからおこるのである。

   何よりも常に魂のことを考えよ。
   肉体のことについて思い煩うな。
   肉体は今日一日の存在だと思うべし。

   魂は永遠の存在である。
   魂の喜びを求めよ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

             <感謝合掌 平成28年10月13日 頓首再拝>

「そのまま」 の生活 - 伝統

2016/10/25 (Tue) 04:22:58

 
            *『生長の家』(昭和24年11月号 巻頭言) より

「そのまま」 ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって、
魂の発達向上のために是非とも必要な所の条件なのである。

「そのまま」 とは工夫巧者を含まないという意味でもある。 
虚飾を用いないという意味もある。 

老子は樸(アラギ)という字を使っているが、そのまま素樸なることである。 
神社の建物のように、上面から色彩を塗らずそのままであるという意味である。 
贅沢や、虚栄を排して両舌綺語を用いないことでもある。 

吾々は實相という文字を書いて、
それに 「そのまま」 とふりがなをつけることがある。 

英語ではシンプリシティ (simplicity) という語を用いる。 
直訳すれば単純という意味になるが、それだけでは少し意味が浅いのである。

単純ということは、物が複雑に進化していないとうような意味があって、
深さが足りない感じがするのである。 

「そのまま」 という語はもっと深いのである。 
切り出した材木のそのままの切口に、そこの深い所から
そのまま美しい木目が脈々と見えるような深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなし得る人は聖者である。 
中々そのままの生活には普通の人はなりきれない。 
人がみている前では何か気まりが悪い思いがする。 

足がしびれても投げだすのが気せつない気がする。 
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。 
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に鍛錬を経た
作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。 
ある人は自分の学の足りないのを如何にも学者ぶろうとして
未熟な新語や、生硬な外来語を使ってみせたりする。 

ある人は容態ぶって如何にも豪傑らしく往来を闊歩する。 
ある人は若く見せようとして白毛を染める。 

どの行為にも余りぴったりしないものが感じられる。 

ぴったりするのが 「そのまま」 なのである。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19425636.html より転写)

             <感謝合掌 平成28年10月25日 頓首再拝>

《 「 そのまま 」 が一等好(よ)い結果を生む》 - 伝統

2016/11/07 (Mon) 03:41:44


         *『 生長の家 』(昭和24年12月18日の法語)より

   自己自身の運命を自分自身であまりひとり決めして、
   斯(こ)うでなければならぬと頑張ってはならないのである。

   植物に枝や葉が出るのに、無理にその枝や葉の出る方向を
   こちらから勝手に決めてはならないと同様である。

   そのままにまかせておいて、唯(ただ)、肥料と日光とを与え、
   吸収すべきものを吸収させてさえ置けば美しい花をひらき、
   美味しい実を結ぶことになるのである。

   柳に雪折れなしと其の儘に従って置けば
   屹度(きっと)よい結果を生むことになるのである。

   あまり深く枝を撓(たわ)めると運命の枝が折れる。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

             <感謝合掌 平成28年11月7日 頓首再拝>

そのまま日々好日 - 伝統

2016/11/13 (Sun) 03:23:35


          *「光明道中記」(11月13日)より

【周囲の人は自分の生活の鏡。(『生命の實相』第四巻)】

維摩が病気で寝ていたとき、文殊菩薩が病問の使者として来た。
維摩は文殊に対して、「衆生病むが故にわれ病む」と答えている。

生長の家ではあまりに病気が治りすぎるために、またあまりに現象的利益が得られるために、
現象的な利益に傲(おご)り驕(たかぶ)って、病気のないことを悟の証拠にしようと
思ったり、金の儲かることを悟の証拠にしようとするような危険がある。

これは厳重に避けなければならない錯誤である。

「従容録」第三十六則馬師不安の公案がある。
不安と云うのは病気と云う意味である。

馬師の話は七月二十一日の欄でも触れたことがあるが、馬大師が病気で寝ていた。
そこで寺の院主が「和尚(おしょう)近日(きんじつ)尊位(そんい)如何(いかん)? 」
とやった。 「近頃病気は如何(いかが)でございますか」と云う程度の問だ。

馬大師答えて曰く、「日面仏(にちめんぶつ)、月面仏(げつめんぶつ)だ」
これは「仏名経」に載せられている仏の名前であるが、
日面仏は昼を照らし、月面仏は夜を照らす。

昼は健康を表し、夜は病気を表している。
馬大師は「昼あり、夜あり、それが自然の健(すこや)かさ」と言ったのだ。
下痢あり、嘔吐あり、そのまま健康なのである。

晴天あり、雨天あり、そのまま日々好日である。
凡夫の晴天はそれに執(とら)われて慢心し、凡夫の雨天はそれに執われて悲しむ。

聖人にも雨は降るが、青空のように雨の染(しみ)を残さぬのである。

          <感謝合掌 平成28年11月13日 頓首再拝>

自然の彫刻にまかせよ - 伝統

2016/11/14 (Mon) 04:14:36


       *「光明法語」(11月14日の法語)より

常に自然であれ。
そのままであれ。
神にまかせよ。

力んではならない。
自分で無限に人生を彫刻しようと思ってはならない。
自然の彫刻は人間の我(が)のこころの彫刻よりも美しいのである。

この根本真理に従って、事件が起った時、その事件の処理を行うべし。
我(が)を出したら頭を打つのである。
急いだり、焦ったりしては躓(つまず)くのである。

雪の一片一片の結晶が決して同一デザインのものがない様に
吾等の生活の設計も同一なものはない。
然も自然の彫刻はそれ自身で完全である。

          <感謝合掌 平成28年11月14日 頓首再拝>

そのままに、光を見る - 伝統

2016/11/16 (Wed) 03:43:08


          *「光明道中記」(11月16日)より

【見えないものだけが本当の存在である。(『生命の實相』第二巻)】

秋野孝道師は自分の先輩西有禅師が赤痢に罹ったときの心境と生活態度を時々話して
感嘆せられてものであった。

「西有禅師が赤痢をやった時に私は感心した事がある。看護婦が来て便器を持って尻の処へ当てて
居る。それに眼鏡を掛けて『元字脚(げんじきゃく)』という本の下見をして居った。
目が凹(くぼ)んで了って、日に何十回と下痢をするので声なども嗄(か)れて居る位。

私は見舞いに行って見ると、巡査は向うの縁側に腰を掛けて居る。私が、こんな大患で貴僧
本を見ては身体に障(さわ)るでしょう。と云うと、『ナニ見る方は見る方放(ひ)る方は放る方で
やるさ』と小さい声で言って居った。

ナカナカそんな本など見て居れる時ではないは、
其の時の老師の狂歌があったけれども忘れて了った。
老師の境涯は実に病不病を離れて了っているのであります・・・」


秋野孝道師は西有禅師の善いところへ目を向けた。
それが悟と云うものである。

見る相手方が光って見えたとき此方(こちら)が光っているのである。
見る相手が曇って見えたとき此方(こちら)が曇っているのである。

若(も)し秋野孝道師が西有禅師を評して、
「西有禅師ともあろうものが赤痢にかかるなんて何の《ざま》だ」
などと考えたとしたら秋野氏は地獄の鬼の心になったのであろうに。

          <感謝合掌 平成28年11月16日 頓首再拝>

《そのままの美しさ》 - 伝統

2016/12/03 (Sat) 04:44:01


          *「光明法語」(12月3日)より

そのままの美しさを知らねばならない。
そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は
美しいようでも真の美しさに欠けている。

どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、
その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。

どんな人間の顔もそのままが全体として
調和した美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが
全体の顔の道具と調和しているのである。

若し隆鼻術でも施して、その鼻を人工的に高くしたら、
その顔は全体の調和を失って了う。

          <感謝合掌 平成28年12月3日 頓首再拝>

《逆らえば順潮も逆潮》 - 伝統

2016/12/07 (Wed) 03:50:52


         *「光明法語」(12月7日)より

一直線の運河には美は乏しく、
自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。

自分がカラッポになるとき、自然が穿つのである。
波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。

本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。

波に乗って泳げば疲れることを知らずに、
其の目的地に達することが出来るけれども、

波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、
泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。

人生の行路もそのようなものである。

          <感謝合掌 平成28年12月7日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2016/12/11 (Sun) 03:30:54


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より

「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。

「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。
老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているがそのまま素樸(そぼく)なることである。

神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らずそのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を用いないことでもある。

われわれは実相という文字を書いてそれに「そのまま」とふりがなをつけることがある。

英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。
単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって深さが足りない感じがする
のである。

「そのまま」という語はもっと深いのである。
切り出した材木のそのままの切り口にそこの深い所からそのまま美しい木目が脈々と
見えるような深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。

人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。
足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。
坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に鍛錬を経た作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。
ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。
ある人は若く見せようとして白髪を染める。

どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。
ぴったりするのがそのままなのである。

            <感謝合掌 平成28年12月11日 頓首再拝>

そのまま受ける - 伝統

2016/12/19 (Mon) 03:51:30


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月19日)より

避けようと思えば思うほど苦痛が来る。
そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。

そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、
これによってもわかるのである。

進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、
自分も保護され、自分の子も保護されるのである。

            <感謝合掌 平成25年12月19日 頓首再拝>

そのまま素直な日 - 伝統

2017/01/03 (Tue) 04:40:38


           *「光明道中記」(1月3日)より

 【当り前のことに天地の恵みを自覚して有難いと判るのが悟りである。
                    (「生命の實相」第十二巻)】

一杯の味噌汁、一椀の朝食、天地の恵み茲に凝って吾々を生かしてくれていると知るのが
悟りである。斯く喜べるところに胃腸の病は存在しないのである。

料理人の調味の酸鹹(すいからい)を言うなかれ。
料理の酸鹹を言う前にかく批評する吾が心が如何に鹹(から)く、
如何に酸(す)っぱきかを思え。

既に空気ありて吾れを生かせり、有りがたきかな。

既に屋(おく)ありて吾れのために雨露(うろ)を防ぐ、有難きかな。

犬に生まれずして人に生まれたり、
外国人に生まれずして日本人と生まれたり、
有難きかな。

足ありて歩む、有難きかな。
手ありて物を執(と)る、有難きかな。


到るところに神の恵み満ちてあり。
心の眼覚むれば、娑婆は即ち寂光土ならずや。

到るところに大自然の恵満ちたり。

霜の白きも、木の葉の落ちたるも、霜の上に小鳥の足の印したるも、
日のさし上るも、晴れたるも、曇りたるも、霧深きも、百鳥(ひゃくちょう)啼くも、
白鳩飛ぶも、犬走るも、眼覚めて見れば恵みならざるなし。

心の眼(まなこ)ひらくが新年なり。
歴日が新しくなるに非ず、生命の新生なり。

            <感謝合掌 平成28年1月3日 頓首再拝>

天地の法輪を聴く日 - 伝統

2017/01/11 (Wed) 03:47:45


           *「光明道中記」(1月11日)より

【全世界は如来の転ずる法輪である。大法輪が実在の宇宙である。(『驀進日本の心と刀』)】

生命は無空間の世界にあって、その大いさはない。

恰(あたか)も点のようなものであるが、点と言えば「小さい」と云うことを予想せしめるし、
また小さいにせよ微粒子的小体が予想せられるが、空間的広がりがないのであるからその
微粒子的小体も《ない》のであるから、其の「小ささ」と云うものもない、大もなく小もない。

その一点にして無限なるものが、「心の波」を起して空間的に展開したものが宇宙である。

「心の波」をコトバと言い、法と言う。
法の転ずる世界を法界(ほっかい)と言う。

大宇宙は「神の心」の展開なり。
肉体は「個の心」の展開である。

神の心の波さながらに生きることを法爾(ほうに)すなわち「法さながら」に生きると言い、
神随(かんなが)らに生きると言う。「個」の心が「神」の心に融合するなり。
「個」が「全体」を背負って立つなり、「永遠」を背負って立つなり、無窮を背負って立つなり。

茲に於て恐怖なし。

宗教とは「個」が「永遠」と「無窮」とにつながる意識なり。

具体的「永遠」と「皇位」なり、具体的無限とは日本国なり。
具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。

            <感謝合掌 平成29年1月11日 頓首再拝>

《法爾自然》 - 伝統

2017/01/28 (Sat) 04:31:52


         *『光の泉』(昭和34年4月号)より

   《法爾自然 ― 無我になったら天地ひろびろ》
 
   悪業の循環をたち切る方法は、一跳、躍入して仏と一体となるか、
   つぐないのための苦行をするとか、いろいろあるのですけれども、
   天理教では因縁を切るには 「我が身忘れて“ひのきしん”」 と言われていますね。 

   “ひのきしん” というのは、公けのために自己の損得を考えず毎日の勤労を寄進する、
   奉仕する、と云うことでありますが、寄進というのは捧げ物をすることで、
   「愛を与える」 「生命を与える」 そうして公けの為に尽すということでありまして、
   必ずしも天理教に入って労働奉仕せんならんということはない。

   どんな宗教でも、「救われる根本原理」 ― すなわち、自分を縛っていた悪業の鎖を
   断ち切って本来の自由自在の実相をあらわす原理は同じことなのであります。 

   我が身のことをわすれて日毎日毎に愛行をすることであります。 
   我が身を忘れて、すなわち 「無我」 になって愛行するのです。


   「自分」 というものが、“がん” と掴まれておって、
   それが原動力となって悪業というものを起こしているんです。 

   すなわち、好き、嫌い、惜しい、欲しい、口惜しい、残念、憎い、原が立つ ・・・・ 
   まあいろいろありますが、「我」 という仮りの本体があって、それが憎いとか、悲しいとか、
   嬉しいとか、欲張り根性とかいろいろの心の波をこうおこしているのですから、

   この 「我」 という本体を否定して、「無我」 だと悟れたら、
   業の本体が消えるから、業の循環も消えるのです。 もう業がないんです。 
   それで 「我が身忘れて」 ということが大切なのであります。 
   「わしが」 「わしが」 と云うその 「わし」 というものがなくならんといかんのです。


   世界の争いの因は 「わしが」 「わしが」 という自己中心の心であります。 
   アメリカでも、ソ連でも、「わしが」 「わしが」 と言っている。 
   わしの得になるように。 わしの領土がひろくなるように。 わしが儲かるように。 

   わしの権威を損じやがったから承知できぬ。 というようなことで、
   原水爆やミサイルをつくって、互に威脅し合っているのであります。

   「わし」 というものがなくなってしまったならば、天地はひろびろとしたものであって、
   何事も衝突するものもなければ摩擦するものもなくなる。 
   自分がなくなるのですから、天地宇宙と一体で、ふらっとしている ― 謂わば、風来坊ですね、
   それがその侭なんですよ。


   此の間も白鳩会で 「『法爾自然(ほうにじねん)』 の四字を
   先生がよく掛軸に書いて下さるが、一体どういう意味ですか話して下さい」 
   とたずねられたのでありますが、

   「法爾」 の “法” は 「宇宙に満つる真理」 ですね。 
   「宇宙の法則」 と言ってもよろしい。 「天地を貫く法則」 ですね。 
   これが神だというわけですが、「宇宙の大法そのままに」 と云う意味が 
   「法爾」 であります。

   「爾」 は 「そのまま」 「さながら」 と云うことです。 

   神は宇宙に満つる無限の智慧であり法則であって、一箇の人体を考えてみましても、
   四百兆もある細胞が集団している複雑な此の人体組織をひとつも矛盾せぬように、
   ちゃんと調和さしている所の “法” 即ち “則” というものが宇宙にみちているのです。 

   だからこの世界のことを法界と言う場合もあります。

   その宇宙の大法というものにね、自分がぴったりと一つになって、
   その 「思い」 や 「行為」 が自然に調う。 
   これが 『法爾自然』 であります。


   此の宇宙の大法と一つになろうと思ったならば、
   「自分」 という 「我」 の塊があったら決して一つにはなれません。 
   「自分」 という塊がとけてしまわなければならない。 

   ミキサーにかけるように、「自分」 と云う塊を完全に融かして壊いてしまった時に、
   宇宙の実相の円満な智慧と一つになることができるのです。

   宇宙の智慧というものが、どんなに円満なのかと言いますと、
   一個の人体をとって考えてみましても四百兆もある人体の細胞が複雑に組織されて
   オートメーション的に、少しも狂いなく運転している
    ― そういうすばらしい構造を編み出した智慧であります。

   その素晴しい智慧は、単に人体だけではない、宇宙の森羅万象、あらゆる物象の中に、
   そしてまた吾々の日常生活のいろいろの出来事の中に、網の目をひいたように法則が
   張りわたされて秩序が保たれてあるわけであります。

   世界における出来事は一見混沌としているようだけれども、
   原因結果の法則の下に、実に秩序整然と運行しているのであって、
   自分の播いた種は必ず穫り取らねばならぬようになっている。


   その宇宙の中に張りめぐらされた因果の法則の中に 
   「わしが」 という固まりが出来たら、それが衝突のもとになり、
   その衝突が連鎖反応を起こして、無限に原因結果が循環するのであります。

   だから 「原因結果の法則」 による 「悪業の循環」 から逃れようと思ったら、
   「わしが」 という固まりがなくなってしまって、天地に充ち満ちている完全な 「実相」 
   の智慧そのままの中に融けこんでしまって、その侭働くのです。 

   これが 『法爾自然』 の動きです。

   『法爾自然』 というのは、実相の完全な法さながら、真理そのままに、
   自然に動きでることであります。 動かないんじゃないのであります。 
   動かなければいけません。 しかし 「我」 で動いては駄目です。 
   天地の法そのままに、実相の智慧そのままに動くのであります。


   すべて我々が動いて失敗するのは、天地自然の智慧の中にとけこまないで 
   「我」 の塊で運動しておるから、うまくいかんのであります。 

   「祈り」 又は 「神想観」 によって天地の智慧の中に没入し 「我」 と云うものが無くなり、
   天地自然の智慧と一つになって動き出したら、何事でも調和した姿に現れてくることは
   間違いがないのであります。 

   併し祈ったり 「神想観」 すると言っても、
   動かないで祈っておったらいいというわけではありません。 

   祈り且つ神想観をすれば、心が整って、実相の智慧と一つになるのです。 
   実相の智慧と一つになって、そこから 自然法爾 (じねんほうに) に動き出そうという
   内からなる “催し” が自然と湧いてくるのです。

   その内からなる “催し” に素直に従って、その導きのままに行動するという所に
   信仰が行動化して運動化し、そこに実相の完全さが、その行動を通して実現して来る
   ということになるのであります。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19215269.html より転写)

            <感謝合掌 平成29年1月28日 頓首再拝>

《力みを捨てる日》 - 伝統

2017/02/13 (Mon) 04:51:12


            *「生長の家」(昭和16年10月9日の法語)より

   『尋常の兵法と云はるるは剣術を専らにす。
   今此の平法と云ふは、無敵の心術、工夫有るべき事専一也。
   平法は所作の心身直にして身体和直なるを本とす。

   何の諸芸能と云ふと雖も、是皆力身を嫌ひ、
   和身(なごみ)を好むことなり。
   然りと雖も事を用ふるの要あり。

   心得悪しくしては心身直を守らんとすれども体竦み、
   心固くなりて気屈す。
   亦身和を守らんとすれども神気を失って槁木の如し。

   是れ臂腰にまかせて無敵の体を知らざる者。
   心身和直の実を得る者稀なり』と山内蓮心翁平法を説く。


   何事にも力まぬ心が平法である。
   『‘ねばならぬ’に縛られたら可かぬ』と
   生長の家で云うのと全く同じである。

   一つの『‘こう’でなければならぬ』に捉われて了った
   ときには、その‘こう’以外のところは敵となり、
   ‘ひっかかり’となり、八方敵となってしまうのである。

   平法の『平』とは此の‘ひっかかり’が全然無くなることである。

   『平』は『中(ちゅう)』なりと山内翁は曰う。
   中庸に所謂る一切未発の『中』こそ『平法』の平であり、
   寂然として動かざる‘そのまま’の心である。

   ‘そのまま’の心を『直心』と云う。
   心が‘そのまま’になれば、心身がそのまま素直に動く。

   『心身直に守らんとすれども体竦み』と云うのは、
   ‘そのまま’の心が失われるからである。

   これは剣法のみではない。
   あらゆる病気も心が『平』を失い『中』を失いて
   体竦みたるものである。

   心が『平』を取戻せば身体おのづから健となるのである。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

            <感謝合掌 平成29年2月13日 頓首再拝>

《そのままの心に成る日》 - 伝統

2017/02/26 (Sun) 04:40:59

           *「生長の家」(昭和16年10月10日の法語)より

   ‘そのまま’の心とは、天地は本体『一』であるから、
   天地一切と調和したる心である。

   人は生れたるままの心 ―― 即ち『實相の心』 ―― 
   になることが必要である。

   ‘そのまま’が天衣無縫である。どこにも隙がないのである。
   天衣無縫が無敵であり、うまれたる侭さながらである。

   『無敵の用(はたらき)は生れながらにして其形像幼童の如し』ともあり、
   『平法は温和にして心広し。故に無敵にして其体豊か也』とも
   『無敵の体は広大也。天地の万物を包括せるが如し』ともある。

   ひろびろと‘そのまま’の心になる時、天地は‘わがもの’。
   ‘わがもの’となる時、もう何処にも敵がないのである。

   『敵と成る者山河を動かすとも、我が心体の裏にして、
   何ぞ外に向って敵として戦ふべきか』と云う
   山内翁の語(ことば)に至っては、実に、天地は‘わがもの’
    ―― の自覚あってのみ云い得ることである。

   この点、宮本武蔵の『五輪書』などに、敵に対する技巧について
   細々と書いてあるのに比較して、
   山内蓮心翁の『平法』の方が偉大であるとも云える。

   宮本武蔵は敵に勝つことに心逸った趣があったが、
   山内蓮心は敵無きことをその極致としたのである。

   敵は外部にあらわれて『山河大地を動かす』とも、
   その姿は外にあらずしてわが心内の姿の映像とせるところ、
   また先ず内の敵を斬ることを先にして、

   『何ぞ外に向って敵として戦ふべけんや』を後にせる
   素晴らしい心境である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

            <感謝合掌 平成29年2月26日 頓首再拝>

自然の《そのまま》に任す - 伝統

2017/03/15 (Wed) 04:29:09


《自然の智慧に順応せよ》

         *『幸福を招く365章』第3項(P50) より

日月星辰が常に衝突することなく、調和して運行しているのは、
その全体が一つの法則(又は智慧)によって、支配されているからである。

それと同じく人生に起(おこ)る一切の事物はこの「一つの智慧」に調和しておれば、
日月星辰が互いに衝突しないが如く不調和な状態は起りようがないのである。

すべての物は、自然の《そのまま》に任す時、完全円満であって悪はないのである。
人間は他の動物とちがって自由を与えられているから自主的に、
「自然の智慧」に逆らうことも、順応することも出来るのである。

しかし「自然の智慧」に逆らうことによって、病気や不幸は来たり、
これに順応することによって万事よくなるのである。

            <感謝合掌 平成29年3月15日 頓首再拝>

『気取るな、そのままが一等よい』 - 伝統

2017/03/27 (Mon) 04:48:35


          *『人生読本』能力の生かし方(P77~78)より

無邪気といったら、どんなことだといいますと、気取らぬことです。
自分のそのままを出すことです。

写真によく映りたいと思って固くなると変な顔に映るでしょう。
知らぬ間にパッと写されると、かえって柔らかい優しい顔に
映っているでしょう。

あの固くなるのが無邪気でないのです。
あの固くなるのが素直でないのです。
固くならないそのままが、無邪気で素直なのです。

人間は「神の子」ですから、そのままが一等好いのです。

無邪気で素直であれば、目の色から顔貌、動作、技芸、
もの憶えまでよくなるのです。

そのままをなんのこだわりもなく出すとき、
吾々の「内にある最も佳いもの」がスラスラ出るのです。

皆さん、そのままになりましょうね、
素直になりましょうね、こだわりの無い心になりましょうね。

            <感謝合掌 平成29年3月27日 頓首再拝>

本来、人間はそのまま神の子 - 伝統

2017/04/07 (Fri) 06:12:16


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月7日)」より

本来個有。そのまま金(きん)である。
冶金(やきん)しようと冶金しないとそんなことにはかかわらない。
冶金し精錬するのは、その金(きん)を利用厚生に使うためである。


本来個有。人間はそのまま神の子であり、仏である。

魂を磨くと磨かぬとにはかかわらないのである。

しかしそれを磨くのは、その神の子、仏性を人生に実現するためである。

本来神の子であるから、神の子らしく実現したとき喜びを感ずるのである。

            <感謝合掌 平成29年4月7日 頓首再拝>

《そのままの心が神に一致する》 - 伝統

2017/04/26 (Wed) 03:36:32


         *『 生長の家 』(昭和25年3月15日の法語)より

   心が型に捉(とら)われず、偏らず、かたくなにならず、
   すなおに、そのままに、のんびりとなっている時に
   神の智慧と本当に一致するのである。

   湯川秀樹博士が中間子理論を思いついたのも
   夕食後 何ら型にとらわれず、そのままの気持で、のんびりと
   自由にしていた時に よき考えが思い浮んで来たのである。

   力む事は 神の波長に対して不導体になるのである。

   そのままが最も善いのである。
   道元禅師の身心脱落、脱落身心の境涯である。

   「 我 」 という力みが すっかりなくなってしまった時、
   宇宙全体の智慧の波と波長が合うのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成29年4月26日 頓首再拝>

「法爾自然」の動き - 伝統

2017/05/05 (Fri) 03:36:45


        *『人間無病の原理』(P66~67)より

(『人間無病の原理』(P64~66)より続く)

宇宙の智慧というものが、

《宇宙の中に張りめぐらされた因果の法則の中に「わしが」という固まりが出来たら、
それが衝突のもとになり、その衝突が連鎖反応を起こして、
無限に原因結果が循環するのであります。

たから「原因結果の法則」による「悪業の循環」から逃れようと思ったら、
「わしが」という固まりがなくなってしまって、天地に充ち満ちている
完全な「實相」の智慧そのままの中に融けこんでしまって、その儘動くのです。

これが「法爾自然」の動きです。

「法爾自然」というのは、實相の完全な法さながら、真理そのままに、
自然に動きでることであります。

動かないんじゃないのであります。
動かなければいけません。

しかし「我」で動いて駄目です。

天地の法そのままに、實相の智慧そのままに動くのであります。

<関連:伝統板・第二「無我」
    http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6853330
    子記事「無我になったら天地ひろびろ 」(2017/04/19 )
      『人間無病の原理』(P64~66)>

            <感謝合掌 平成29年5月5日 頓首再拝>

《『自己に忠実であれ』と云う事の意味》 - 伝統

2017/05/18 (Thu) 03:41:06


         *『 生長の家 』(昭和33年9月9日の法語)より

   人間は自己に忠実でなければならない。
   併しその『自己』と云うのは如何なる自己であろうか。

   美味なる食物を欲し、美しき服装をし、異性と戯れ遊びたいような
   煩悩が本当の自分の『自己』であろうか。

   『自己に忠実でなければならない』と云う語(ことば)で
   多くの人々は利己的本能に身を投じて、
   魂の節操を失ってしまったのである。

   『自己に忠実であれ』と云う場合の『自己』とは、
   肉体の本能的自己のことではないのである。

   肉体は、魂が地上に於いて仕事をなすための乗物又は作業服として、
   その自己修復と自己保存のオートメーション作用としての
   食慾や性慾を発動するのであるが、それらの欲望は飽くまでも
   『魂』の使命を果さしめるための基礎工事としての欲望であって、
   『魂』そのものの願望ではないのである。

   『自己に忠実であれ』と云うのは『魂』そのものの願望に
   忠実でなければならないと云うことである。

            <感謝合掌 平成29年5月18日 頓首再拝>

そのままに帰ること - 伝統

2017/05/31 (Wed) 04:53:29


         *「善と福との実現」(P181~183)より

「汝がHeartに於いて信ずる如く汝にまで成る」のである。

ハート即ち潜在意識の後脚が、現在意識の前脚の踏むところを、
ピッタリとその通り信じて行けば、何事と雖も、山に登ることも、
山をして海に入らしむることも不可能なことではないのである。

・・・(中略)・・・

また白髪の老人は云った。

「牝鹿の後脚がどう歩むかと云うことは神様が、
そのままに教えて下さっているのです」と。

そうだ!

そのままに帰ること、そのままに神の生命をわがものとし、
神の智慧をわがものとし、神の叡智をそのままに
一挙手一投足をまかせ切れば好いのである。

そのままになるにはそのままの世界と、
人間のそのままの生命とが既に完全なることを知らねばならない。

それには白髪の老人の言った「主の祈り」が、
「みこころの天になるが如く地にもならせ給え」
の祈りが最も力をあらわすのである。

            <感謝合掌 平成29年5月31日 頓首再拝>

《 「 そのまま 」 が一等好(よ)い結果を生む》 - 伝統

2017/06/15 (Thu) 03:51:13


         *『 生長の家 』(昭和24年12月18日の法語)より

   自己自身の運命を自分自身であまりひとり決めして、
   斯(こ)うでなければならぬと頑張ってはならないのである。

   植物に枝や葉が出るのに、無理にその枝や葉の出る方向を
   こちらから勝手に決めてはならないと同様である。

   そのままにまかせておいて、唯(ただ)、肥料と日光とを与え、
   吸収すべきものを吸収させてさえ置けば美しい花をひらき、
   美味しい実を結ぶことになるのである。

   柳に雪折れなしと其の儘に従って置けば
   屹度(きっと)よい結果を生むことになるのである。

   あまり深く枝を撓(たわ)めると運命の枝が折れる。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

            <感謝合掌 平成29年6月15日 頓首再拝>

行ずるところ、そのまま「仏」である - 伝統

2017/06/16 (Fri) 05:25:32


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月16日)より

生きていることが「仏」に成っていることである。
これから修行して後に「仏」になるのではない。
《修行していること》が「仏」の《すがた》である。

そのまま「仏」である。

行じないところには何もない。
生活のないところには仏はない。
行ずるところ、ことごとく仏である。

            <感謝合掌 平成29年6月16日 頓首再拝>

そのままの心 - 伝統

2017/07/04 (Tue) 04:01:07


        *谷口清超先生・著「伸びゆく日々の言葉」(P148)より

人は誰でも生まれた時は神の電源に直結している。
それ故「幼な児の心」で生きるのである。

そころが次第にその素直さを欲望にすりかえてしまう。
そのまま全托することを忘れ、人の思惑を気にしたり、席次を気にしたり、
友達のコトバに引っかかったり、噂に動かされたり、見えをかざったり、
嘘をついたりして胡麻かそうとする。

こうして神から離れ去るので次第に精根つき果て、
しなびた風船玉のように生気(せいき)がなくなる。

このような時は、神の電源に直結せよ。
そのままの心で、神に全托するのだ。

その心を持続するには、日々神想観をし、聖典を読み、聖経読誦を行なえ。

そのままであれ、そのままであれ。

            <感謝合掌 平成29年7月4日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)に動く - 伝統

2017/07/13 (Thu) 04:18:39


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月13日>(P19)より

神はすべてのすべてだとわかったら、罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。
法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に自然(じねん)に動き出してくる
ごとく素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 平成29年7月13日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の動きは、「無限供給」の扉を開く - 伝統

2017/07/14 (Fri) 03:29:59


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月14日>(P19)より

何かが自分にとって欠乏しているならば、
その「何かが」自分の内に欠乏しているのである。

自分の見出し方が欠乏しているか、法爾(ほうさながら)の動きが欠乏しているかである。

「無限供給」は”今”ある ―― すでにある ―― ここにある。
法爾(ほうさながら)の動きは、それをただ開くのである。

         <感謝合掌 平成29年7月14日 頓首再拝>

『法爾自然』 - 伝統

2017/07/28 (Fri) 03:24:07


        *『人間無病の原理』(P65) より

此の間も白鳩会で 「『法爾自然(ほうにじねん)』 の四字を
先生がよく掛軸に書いて下さるが、一体どういう意味ですか話して下さい」 
とたずねられたのでありますが、

「法爾」 の “法” は 「宇宙に満つる真理」 ですね。 
「宇宙の法則」 と言ってもよろしい。 「天地を貫く法則」 ですね。 
これが神だというわけですが、「宇宙の大法そのままに」 と云う意味が 
「法爾」 であります。

「爾」 は 「そのまま」 「さながら」 と云うことです。 

神は宇宙に満つる無限の智慧であり法則であって、一箇の人体を考えてみましても、
四百兆もある細胞が集団している複雑な此の人体組織をひとつも矛盾せぬように、
ちゃんと調和さしている所の “法” 即ち “則” というものが宇宙にみちているのです。 

だからこの世界のことを法界と言う場合もあります。

その宇宙の大法というものにね、自分がぴったりと一つになって、
その 「思い」 や 「行為」 が自然に調う。 
これが 『法爾自然』 であります。

・・・

*「光の泉」昭和33年4月 初出

         <感謝合掌 平成29年7月28日 頓首再拝>

惟神の道 - 伝統

2017/08/12 (Sat) 04:02:01


       *谷口清超先生・著「いのちを引きだす練成会」より

『そのままの心』こそ人生の一大事である。
ここでいう『そのままの心』とは、いいかげんに現状を固定する心ではない。

『そのままの心』とは一切の向上心をすて去った
虚無主義でもなく、常識に妥協する心でもないのである。

ただあたり前の生活がそのまま素直に出来、
その中に輝くばかりの神のお恵みを感得するところの『法爾自然の心』である。

そしてその心は、かならずそれに最もふさわしい行動をともなう。
幼な児を見ればすぐわかるように『そのままの心』はただちに行動となってあらわれる。

行動のない『そのままの心』などは、ニセモノである。
『ああ有難い』という気持は、本当はそれがそのまま感謝行にあらわれ、
菩薩行に展開して行くものである。

そこに、練成の真義がある。
それによって練成が成果をうる。
練成や受講の真実の部分は、会が終ったときにはじまるといっても過言ではない。

http://kotohime-iwami.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-e1e5.html より複写)

         <感謝合掌 平成29年8月12日 頓首再拝>

いっさいをそのまま受ける - 伝統

2017/08/18 (Fri) 03:56:02


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月18日>(P57)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。
鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、眼の白い部分は老衰の結果どんより
曇ってしまって、永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼にはなれないものだと
思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる
心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活をそのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

          <感謝合掌 平成29年8月18日 頓首再拝>

任運無作、法爾自然 - 伝統

2017/08/24 (Thu) 04:50:19


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月24日>(P62)より

ひたすら道を求むるために釈迦時代の弟子は親を捨て、妻を捨て、子を捨てて出家したのである。
「汝の父母、妻子、姉妹(きょうだい)に反(そむ)くものに非ずんば吾が弟子となることを
得ず」(ルカ伝14の26)とキリストは言った。いずれも大した覚悟である。

大事の前にはいっさいを捨てねばならぬ。
捨てることさえも捨て去って、去来するものをそのまま素直に受けるとき、
去るべきものは去り、来るべきものは来たりて、ただ自分はありがたく受けるのである。

任運無作、法爾(ほうさながら)自然(じねん)、いのちさながら、それが法悦の境地である。

冬のうちに春は準備されている。
くわしく言えば「春」は「冬」のうちにあるのである。

平和は戦いのうちにあり、幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
幸福は不幸と見えるもののうちにある。

法さながら受ける者には「冬」のうちに「春」のあることが分かり、
戦いのうちに「寂光土」があることがわかるのであるが、
現象に捉えられて、焦る者には、ただ心の描く地獄が見えるばかりである。

      <感謝合掌 平成29年8月24日 頓首再拝>

法爾(ほうさながら)の境地 - 伝統

2017/08/25 (Fri) 03:44:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月25日>(P63)より

執着の愛は憎悪と裏表である。

憎み、嫉(ねた)み、憤(いか)り、苛立ち、惜しみ、悲しみ、嘆きは
すべて病気の因(もと)である。

法爾(ほうさながら)になる時病気が治るのは、
法爾(ほうさながら)の境地は執着を断った境地であるからである。

天理教で、「病気が治りたいなら、すべてのものを神様にあげてしまえ」と言うのも、
法爾(ほうさながら)の心境にならせるためであって、
必ずしも搾取の手段ではないのである。

搾取は教会の制度から来るのであって、教祖の教えから来るのではないのである。

      <感謝合掌 平成29年8月25日 頓首再拝>

気取るな、そのままが一等よい - 伝統

2017/09/09 (Sat) 04:54:18


          *「人生読本」第5章能力の生かし方(P77~78)より

無邪気といったら、どんなことだといいますと、気どらぬことです。
自分のそのままを出すことです。

写真によく映りたいと思って固くなると変な顔に映るでしょう。
知らぬ間にパッと写されると、かえって柔らかい優しい顔に映っているでしょう。
あの固くなるのが無邪気でないのです。

あの固くなるのが素直でないのです。
固くならないそのままが、無邪気で素直なのです。

人間は「神の子」ですから、そのままが一等好いのです。

無邪気で素直であれば、
目の色から顔貌、動作、技芸、もの憶えまでよくなるのです。

そのままをなんのこだわりもなく出すとき、
吾々の「内にある最も佳いもの」がスラスラ出るのです。

皆さん、そのままになりましょうね、
素直になりましょうね、
こだわりの無い心になりましょうね。

          <感謝合掌 平成29年9月9日 頓首再拝>

そのまま、私のはからいをせず、まかせる心になる - 伝統

2017/09/23 (Sat) 04:57:57


         *「光明道中記」(9月23日)より抜粋

信心する人は、自然腹を立てたり、悪いことを犯したり、
念仏の同信者たち互いに口論することがあったりしたら
よく廻心(くいあらため)して二度とそんな罪を犯さないようにしなければ
救われないと言う人があるが、

それは自力で悪を断じ善を修して、救われの原因とするのであるから
本当の他力信心ではないのである。

本当の廻心とは心が三百六十度転回して、自力を捨てて、仏の本願にたのみ切って、
そのまま私のはからいをせず、まかせる心になることなのである。

          <感謝合掌 平成29年9月23日 頓首再拝>

白百合と牡丹の花 - 伝統

2017/10/08 (Sun) 04:29:27


          *「人生読本」第5章能力の生かし方(P78~79)より

或る時、白百合の花が、牡丹の花に、

「あなたは美しい花をつけていますねえ。
私もあなたのように色のついた花になりたい」

と申しました。

白百合の花はだんだん赤くなって、ちょっと見ると
美しい鬼百合のような色にかわって来ましたが、
それは前のような尚(けだか)さを失ってしまいました。
そして前よりも人に可愛がられなくなりました。

白百合は白百合で好い所があるのです。

自分自身が持っている「そのまま」を素直に出すのが一等よいのです。

そのまま、吾々は「神の子」だからです。

          <感謝合掌 平成29年10月8日 頓首再拝>

「生き生きしさ」を出せ - 伝統

2017/10/23 (Mon) 06:07:01


          *「人生読本」第5章能力の生かし方(P79~80)より

大発明家で、人の真似をした人はありません。
真似をしたものはもう発明ということはできません。

大芸術家で人真似をした者もありません。
人真似はもう芸術ではありません。

お手本や先生の絵を見ても、その形ばかりを真似してはなりません。

どんなに伸び伸びと思うままに、あるがままに、そのままに、
自分のうちにある「生き生きしさ」をその手本は出しているか、
その先生の絵が出しているか、

その「生き生きしさ」を出すのには、
どんな心になるか、その手本を書いた人の、先生の、心になって、
自分自身の「生き生きしさ」をそのまま出すようにしなければなりません。

          <感謝合掌 平成29年10月23日 頓首再拝>

そのまま、清明(さわやか)に - 伝統

2017/11/03 (Fri) 03:35:47


          *「光明道中記」(11月3日明治節、清明心の日)より

【至上の愛は神と偕なる時おのずから出来る愛だ。(『生命の實相』第十一巻)】


   さしのぼる朝日のごとくさわやかにもたまほしきは心なりけり


明治天皇とこの御製を拝誦し奉る毎に朝日の如き無我の心境が思われるのである。

何故(なにゆえ)朝日はあんなにさわやかなのだろうか。

それは新たに生まれたからである。
手垢がついていないからである。

心に手垢がついていないと云うことが、
こんなにも清明(さわやか)な姿を顕わしめるのである。

太陽には我はない。そのままである。従順である。
さしのぼる時がきたとき差しのぼり、沈むときには沈んで悲しむと云うことがない。
落日を悲しいと見る者は見る人の心の反影に過ぎない。

烈々と照っても功を誇らず、常に跡をのこすことを求めず、来って驕(おご)らず、
去って悲しむと云うことがないのである。

而も一切衆生として、一物(もつ)として、その恩恵を受けないものはない。

まことに広大無辺なる姿である。

吾々の《いのち》は太陽より来る。
吾等太陽の如く生きんかな。
吾等は太陽の子だ。清明心の子だ。

どんな時にも光のみを見るのが日本人である。

よろこべ、勇み、楽しみ、潔(きよ)く前進せよ。

          <感謝合掌 平成29年11月3日 頓首再拝>

生命(せいめい)とは「生き生きしさ」 - 伝統

2017/11/18 (Sat) 03:18:26


          *「人生読本」第5章能力の生かし方(P80~81)より

「自分自身の生き生きしさ」――これを自分の「生命」というのです。
「生き生きしさ」が無いものとは、どんなよい恰好をしていても生命はないのです。

人間の死ぬ前と、死んでからと、1分間の違いでどんなに異(ちが)いますか。
生きている時には「生き生きしさ」があったのです。
だから「生命がある」というのです。

それが1分間後には「生き生きしさ」が無くなった ―― それで、生命が無い ――
死んでいるというのです。

絵でも字でも、仕事でも、「生き生きしさ」がなくなっては死んでいるのです。
人間も生きていても、「生き生きしさ」がなくなったら死んだも同然です。

          <感謝合掌 平成29年11月18日 頓首再拝>

《無理にたくむな》 - 伝統

2017/12/06 (Wed) 04:23:06


         *「光明法語」(12月6日)より

人生の行路も樹木の枝の曲りのように迂余曲折しているものである。
迂余曲折しているままで美しいのであり、その儘その自然のゆがみにまかせて行けば
美しく豊富な結果が得られるのである。

そのまま自然の、歪みに任せて行こうとしないで、我(が)を出して一直線に引こうとしたり、
また無理にたくんで美しい曲線に曲げて行こうとしたりするから、美しい結果が得られないで
苦しまなければならないのである。

行雲の如く流水の如く、その儘に流れるとき何事も美しく成就する。

         <感謝合掌 平成2912月6日 頓首再拝>

「そのまま」 - 伝統

2017/12/11 (Mon) 04:30:29


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月11日)より

「そのまま」ということは、宗教上最も深い意義をもっていることであって
魂の発達向上のためにぜひとも必要となるところの条件なのである。

「そのまま」とは工夫巧者を含まないという意味でもある。
虚飾を用いないという意味もある。

老子は樸(ぼく=アラギ)という字を使っているが
そのまま素樸(そぼく)なることである。

神社の建物のように、上面(うわづら)から色彩を塗らず
そのままであるという意味である。
贅沢や、虚栄を廃して両舌(りょうぜつ)綺語(きご)を用いないことでもある。

われわれは実相という文字を書いて
それに「そのまま」とふりがなをつけることがある。

英語ではシンプリシティ(simplicity)という語を用いる。
直訳すれば単純という意味になるがそれだけでは少し意味が浅いのである。
単純ということは、物が複雑に進化していないという意味があって
深さが足りない感じがするのである。

「そのまま」という語はもっと深いのである。
切り出した材木のそのままの切り口にそこの深い所から
そのまま美しい木目が脈々と見えるような深い味わいをもっているのである。

そのままの生活をなしうる人は聖者である。
なかなかそのままの生活には普通の人はなりきれない。

人がみている前では何かきまりが悪い想いがする。
足がしびれても投げだすのが気がねな気がする。
もっと行儀のよい自分であるとみせたくなる。

坐っていても足のくたびれがまことに常人以上に
鍛錬を経た作法上手に見せたいのである。

ある人は自分のもっている富よりももっと富んでいるように見せたがる。
ある人は自分の学の足りないのをいかにも学者ぶろうとして未熟な新語や、
生硬(せいこう)な外来語を使ってみせたりする。
ある人は若く見せようとして白髪を染める。

どの行為にもあまりぴったりしないものが感じられる。
ぴったりするのがそのままなのである。

            <感謝合掌 平成29年12月11日 頓首再拝>

そのまま受ける - 伝統

2017/12/19 (Tue) 02:45:05


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月19日)より

避けようと思えば思うほど苦痛が来る。
そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。
そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、
これによってもわかるのである。

進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、
自分も保護され、自分の子も保護されるのである。


            <感謝合掌 平成29年12月19日 頓首再拝>

実際の尊い体験 - 伝統

2017/12/21 (Thu) 03:11:52


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月21日)より

今日は群馬県群馬郡久留米村の誌友五十嵐伝太郎さんが
本部道場に来て話された実話を書き止めておく。

よい心境である。

そのまま素直に受けている。
拝んで受けている。

素直に受けているところに災害が災害でなくなり、
拝んで育てているところに、蚕が未曾有の成績を挙げた話である。


「私は昭和9年以来生長の家のお導きをいただきまして、
いろいろ奇跡のお蔭を受けております。

昨年以来しばらく御無沙汰しておりますが、
昨日(きのう)はどうも谷口先生にお礼を申さなければ
ならないような気がしまして、朝一番で参りまして、
昨日(きのう)お礼申し上げようと思いましたが、
他(ほか)の方のお礼の言葉がありましたので、
遠慮いたしましてつい今日に延びました。

実は私は一事(じ)中風といいますか、脳溢血をやりまして、
それから中耳炎と喘息はこれは親伝来の遺伝だというやつで、
いつもゼーゼー言って寒い時はほとんど自転車にも乗らず、
外出もしなかったのですが、

昭和9年、谷口先生のお山に伺って、いろいろお話をうけたまわりましてからは、
もうそのことは全然忘れてしもうて、冬でも、前橋で誌友会がありますので、
そこへ行く時はどんな寒中でもいつも自転車を飛ばします。
そうして帰りはどんなに遅くなっても必ず自転車で帰ります。

あるとき上毛(じょうもう)新聞社長の篠原さんが

『そんな乱暴なことをして、あんたはいいかもしれんけれども、
もしものことがあったら、あなたを当てにして喜んであつまる人を困らせはしないか。
そういうことにならぬよう自動車賃ぐらいはずむから、
誌友会の日は自動車で来たらどうか』

という忠告を受けたくらいでありますが、
それでもかつて怪我というものをしたことがありません。

ところがこの十五夜の晩に、夕方前橋に出ていい気持ちで帰って来て、
宅(たく)のつい近くまで来ますと、県道の岸が少し崖になっております。
そこに蚕を飼う桑がたくさん植えてあります。

そこの先の方に子供が大勢で遊んでおりましたから、
それを避けようと思って、避けようとした瞬間、どうしたものか、
《ずーん》とその川縁(かわぶち)から中へ飛び込んでしまったのです。
一丈ぐらいある所なんです。

ところがその刹那の心境が実に私はありがたいと思うのです。

普通ならば『ああしまった! 』と考えるところでしょうが、
その考えが『ああ神の子だ』というようなありがたい気がしまして、
ふあふあと何か神の力に支えられながら落ちて行くような気がした。

ちょうどそこは桑の切り株が竹槍を立てたように
ズラリと尖っておって実に怖いようなのです。
その中へ自転車でずっと落ち込んだ。

その刹那、こやって(両手を浮き身のように伸ばす)ふわふわと
『ああ神の子だ! 』という気がして別に何とも慌てないで落ちついていましたが、
子供が『おじさんが落ちた、おじさんが落ちた』と言うので、見ますと、
なるほど落ちています。

荷物も何もそのまま、どこも怪我もありません。
子供に引き上げられて、手伝ってもらってようやく上がって来ましたが、
どこを調べてみましても、どこもどうもなっていないのであります。

此の服を着ておりましたが、どこも洋服屋さんの
世話にならなければならないような所もなく帰ってきました。

実に尊い。
私は自分が怪我をしなかったというようなことが尊いんじゃない、

《その落ちる刹那に『しまった! 』とか『大変だ! 』という感じがなしに、
ただふわふわと『神の子だ! 』というような感じで、そこに落ちて行った。
これがありがたいのです》。

これは何であろうか、長く先生のお導きをいただいておりますことによって
こういう気持になることができたんだろう、帰りましてさっそく神想観をし、
私を最初に導いてくださいました福島博先生にお会いしまして、こういうわけで
今日こそ実にありがたい体験をしました、ありがたくてしかたがないと言って
私はお話をしたのであります。

すると福島さんは『この間からあなたはいろいろとお蔭を受けていられる。
早くから蚕をしても、人は外(はず)すというのに、あなたは安く桑を買って、
誰も豊作したという人はない今年に、いつもより1割以上も成績をあげていながら、

それで谷口先生にお礼に行かないから、谷口先生にお礼に行くように
神様がそうさせたんじゃないか、早く行ってらっしゃい』と言うので、
実はこの度(たび)上京して来たような始末であります。

だいたい私は蚕のことはいくらか知っておりましたが、
今日(こんにち)まで50年間蚕に従事しておりますが、
お導きをいただきましてから4、5年この方、
蚕は必ずうまくゆくものであるという確信を持たせていただいております。

それは皆さんは見られたこともないような方が多いから簡単に申しますが、
いったい蚕(かいこ)というものは字で書いてみると、
天の虫とか、天の日の虫とか書いてあります。

それで呼び方にも『お蚕』といって必ず『お』の字をつけます。
あるいは《お蚕さん》と言い、桑を《あげる》とこう言います。

そう言うぐらいで何か神様との縁故があるように考えられています。
そうして蚕をよくするためにあちらのお寺、こちらの神様とお詣りしてあるきます。

それが本当の信心なら結構でありますが、
あちらこちらと諸方の神仏を渡り歩く心持の中にはつまり確信が無い、
確信を持っておらないからあちらの神様を拝みながらそれを信じきれず
こちらの仏様を拝む、そういうふうに少しもそこに固い信念がないから
常に動揺しておって、自分の『蚕は必ず豊作である』などという確信がございません。

その証拠に『蚕が当たる』などということを申します。
いったい『当たる』ということは『外れる』ということがその半面にあるので、
蚕がよくできるのは運であって確信がないのです。

ところで私が教えに入って蚕というものに信仰をもって、本当に『お蚕さん』として
『あなたは立派なお蚕さん』としてその仏性神性を拝むようにしていったところが、
当たり外れがなくなってしまった。

お蔭さまで、蚕の飼育については自分ほどの確信を持っている人は
他(ほか)にあるまいというくらいの信念をもって働かせていただくようになりました。
お蚕さんくらい、飼う人の精神波動を強く感受するものはありません。

疑えば疑うほどしかできないし、心配すれば心配するだけの結果になるし、
信ずれば信ずるだけの結果になるのです・・・」


五十嵐さんの場合は机上の空論ではなく、実際飼育上の成績であるから、
それが尊いことだと思う。

            <感謝合掌 平成29年12月21日 頓首再拝>

《そのままの心が神に一致する》 - 伝統

2018/01/07 (Sun) 04:06:54


          *『 生長の家 』(昭和25年3月15日の法語)より

   心が型に捉(とら)われず、偏らず、かたくなにならず、
   すなおに、そのままに、のんびりとなっている時に
   神の智慧と本当に一致するのである。

   湯川秀樹博士が中間子理論を思いついたのも
   夕食後 何ら型にとらわれず、そのままの気持で、のんびりと
   自由にしていた時に よき考えが思い浮んで来たのである。

   力む事は 神の波長に対して不導体になるのである。

   そのままが最も善いのである。
   道元禅師の身心脱落、脱落身心の境涯である。

   「 我 」 という力みが すっかりなくなってしまった時、
   宇宙全体の智慧の波と波長が合うのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成30年1月7日 頓首再拝>

神の心の波さながらに生きる - 伝統

2018/01/11 (Thu) 04:20:09


           *「光明道中記」(1月11日天地の法輪を聴く日)より抜粋

神の心の波さながらに生きることを
法爾(ほうに)すなわち「法さながら」に生きると言い、
神随(かんなが)らに生きると言う。

「個」の心が「神」の心に融合するなり。
「個」が「全体」を背負って立つなり、
「永遠」を背負って立つなり、無窮を背負って立つなり。

茲に於て恐怖なし。

宗教とは「個」が「永遠」と「無窮」とにつながる意識なり。

具体的「永遠」と「皇位」なり、具体的無限とは日本国なり。
具体的に神ながらに生きるとは日本国と共に生くる事なり。

            <感謝合掌 平成30年1月11日 頓首再拝>

《心を柔らかく「そのまま」に》 - 伝統

2018/01/27 (Sat) 04:11:07


      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P319) より

肉体は、潜在意識が建築主となって構築されつつある構造物であり、
その潜在意識が施工主(ぬし)として、どんなデザインでも吹き込むことができる
のであるから、現在意識に絶えず想うことが、その構築の原図となって
肉体がつくられることになる。

人体の老化現象は、心の原図に『老(おい)」が描かれているからであるが、
またそこには血管や筋肉や皮膚に硬化現象が起こりつつあるのは、
心の原図の中に「柔らかさ」が失われつつあることを証するものである。

人間が老いなくなるためには、心を柔軟にしなければならないのである。

鋼(はがね)のように硬い心をもって、「頑固一徹の老人」と言われるような
心の原図を作っておけば血管や皮膚や筋肉に硬化現象が起こるのも無理がないのである。

やはり爰にも、素直な、やわらかな、「そのままの心」と言うものが必要である。

            <感謝合掌 平成30年1月27日 頓首再拝>

自然法爾の生活から来る”調和生活”と、その後の”浄化の火” - 伝統

2018/02/13 (Tue) 03:27:42


      *『愛はかくして完成す』(P53~56) より

「内部神性の催しに素直に従う生活」を「自然法爾の生活」というのである。 

その生活になるとき利他を行じながら自利が自然に成就するのである。 
それは“欲張る意識”の集積として“富”がつくられるのではないのである。 
“無我”のはたらきそのままが“富”という形で報いられて来るのである。 

“何らかの得を獲よう”としての働きに、
多くの現代人は心を集注しているように見えるけれども、
それらの生活は“神の子”の霊的生活にとっては低次元別世界の出来事なのである。

それにしても不思議なことに“生長の家”の説く真理に触れて、
物質的世界観から霊的世界観に一転した当座の数年間は、
すること為す事、万事が都合よく往って、家庭は調和し、
家族は皆健康となり、事業は発展し、自然に富が生成せられるのである。 

富を求めずして自然に富が成就するのである。

それは何故かというと、物質的法則に縛られていた
過去の唯物論的人生観から来る相互断絶や相互衝突や、
利害の相反から来る反感や対立感情によって、
人間の行動がゆがめられていて調和が得られなかった状態が、

神一元の霊的人生観によって、あらゆる点に摩擦や、相反や、
矛盾が無くなり、大調和が得られる結果、
すべての行動が順調に棹さす帆船が、追風に吹かれて進むように、
何の障りもなく善き結果が得られるからである。

入信数年間の大調和生活が生涯つづいて行く人もあるが、
そういう長期の祝福を受けることが出来ないで、
入信数年間の「数年」の意味が、1、2年である人もあれば、
4,5年である人もあり、

そして、その頃から、或る人にとっては、何らかの不調和が
家庭生活や、経済生活や、健康状態に忍び入って、
「信仰もやはり駄目だ」と信仰を投げ出したい気持になることもある。

これがその人の魂にとってのテストの時であり、浄化の時期であり、
魂の鍛えの浄化をくぐりつつあるのである。

その人がそのような浄化の火をくぐらなければならなくなった原因は、
現象的な御利益があらわれて来たときに、その御利益というものは
“物質的”な形をもって顕れて来るものだから、

物質を得ることが楽しみとなり、いつの間にか、
霊的人生観に転向した筈であった“自分の心”が
物質的人生観に逆戻りしてしまっていて、

而もそれに気がつかないで、今では“霊”の本源を忘れてしまって、
物質が人生の目的の先に立って、“真理を知る”ということは
物質的利益を得るために「心の法則」を駆使することだ
という風な考え方に逆戻りしているのである。

入信後しばらくの間に得られた如き祝福が近頃あらわれて来なくなった
という人は、自己の心境を振り返り顧て、再び完全に霊的人生観に還る
ことが必要である。

            <感謝合掌 平成30年2月13日 頓首再拝>

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