伝統板・第二

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神と人 - 伝統

2016/08/20 (Sat) 03:36:16

《人間は神の自己実現》

             *「光明法語」(8月20日)より

人間が神の自己実現であることは、直覚認識によって知ることが出来るのである。

『法華経』にある「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。

天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、われ神の自己実現なりとわかるのである。

これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。

           <感謝合掌 平成28年8月20日 頓首再拝>

《人間は神の自己顕現である》 - 伝統

2016/08/31 (Wed) 04:11:51

         *『 生長の家 』(昭和24年3月1日の法語)より

   大自然は人間を神の自己顕現として、
   肉体の上からも、精神の上からも、能力の上からも、
   最高完全の神的標準に到達することを望んでいるのである。

   そして、それは各人にとって決して不可能なことではないのである。
   
   大自然が望むという事は、神が望むということであり、
   神が望むということは 全能なる者が吾々をして、
   斯く為らしむべくバックしているということである。

   ただ不幸にして吾々がその完全の標準に到達することができないのは、
   吾々が法則を守らないで、法則を破るからである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ea6279982ab50e1bf49551141362d738


           <感謝合掌 平成28年8月31日 頓首再拝>

普遍の神が、個別化したのが人間 - 伝統

2016/09/03 (Sat) 03:58:25


        *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜)より

九月二日の法語 普遍とその個體化

普遍にして無限なる「一」の生命は如何にして自己内在の智慧と愛と美とを表現するかと
云えば、普遍にして無限に行きわたるのは自己そのままでは表現することは出来ない。
普遍なるもの、無限なるものは見えないからである。

表現は何らかの意味に於いて形象化しなければならない。
形象化するためには無限が有限にならなければならない。

普遍者が個別となり、無限者が有限者となるのは自己限定である。
自己限定を通じて神は自己を表現したのである。

・・・

九月三日の法語 有限にして無限

人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したものです。
それは形に於いては有限であり、個別であるけれども、
本質に於いては普遍であり、無限である。

果たして然らば吾らは形に於いては有限であっても、
その有限の中に無限を表現し得ないことはない。

人間を地球に生えたカビの様に思って其の弱小を嘆くなかれ、
人間は地球に生えたカビ以上のものである。
また「考える葦(あし)」でもない。

人間は無限である。
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたものである。

           <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

神が人として表現される意義 - 伝統

2016/09/04 (Sun) 04:27:18


       *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜)より

九月四日の法語 個は如何にして表現されるか

普遍が個別によって表現される場合、個別が個別たり得ることは、
彼が他と区別されることによってである。
他と区別されることなければ、何物も表現されないのである。

牡丹の花が美しく見えるのは、周囲の空気に対して区別されているからである。
若し牡丹の花が空気色していて他と全然区別されないようであるならば、
そこには牡丹の花は存在しないのである。

普遍は個別によって表現され、
個別は他と区別することによって表現を完(まっとう)する。
此処に個性の意義がある。

           <感謝合掌 平成28年9月4日 頓首再拝>

神が人として表現され、人と人との間の相互関係 - 伝統

2016/09/05 (Mon) 03:54:39


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜)より

九月五日の法語 個別者の相互関係

個別は他と区別される事によって表現されるのであるが、
ただ区別されるだけでは表現されるものではない。

個別されたる者と、他の個別されたるものとの相互関係がなければ
それは他から認められ様がないから、折角、個別化されたものも表現を完うする事が出来ない。

個別者と他の個別者との相互関係は如何にして可能であるか。
全然彼と是とが別物である場合は、相互関係はあり得ない。

個別者が互いに相互関係があるのは個別者は本来互いに一体であるからである。

           <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

神の人間創造の目的 - 伝統

2016/09/16 (Fri) 03:30:50


         *「光明法語」(9月16日)より

神は何の為に人間を創造したか。
神は自己を表現する為に人間を創造した。

外から創造したのではなく、神は「内在の生命」として内から創造したのである。

演奏中のヴァイオリンの弓を硝子板に触れると、硝子上にある一定大いさの砂粒が、
その音楽のリズムに従って或いは美しき花模様を、或は美しき波模様をなして
自然に配列されるが如く、

女性の子宮内で細胞分裂をなして行く多数の細胞を、
一定の人間的構造に配するのは生命の律動(リズム)の力である。

           <感謝合掌 平成28年9月16日 頓首再拝>

人間は神の創造の中心 - 伝統

2016/09/25 (Sun) 03:24:07


           *「光明法語」(9月25日)より

人間が神の創造の中心である事がわかるならば、
人間は大いに自己を尊敬し、又大いに自重すべきである。

神の無限力が、自己の「個性」を通じてあらわれようとしているのである。
そこには「個性」と云うパイプと其処を貫き流れている大生命の力とがある。

パイプの小なることを見て、そこを貫流する生命が小さいと思ってはならないのである。
そこには大生命が滔々乎と流れているのである。

大生命がみわざをなし給うのである。
”大生命は自分の生命そのものである”。

           <感謝合掌 平成28年9月25日 頓首再拝>

《人間は神から生れた》 - 伝統

2016/10/12 (Wed) 04:42:30


          *『 生長の家 』(昭和25年9月15日の法語)より

   物質はただエネルギーが想念の影響を受けて凝縮し、
   それが形をあらわしたものであるから、
   本来の相(すがた)はないのである。

   本来ない姿が仮にあらわれているのであるから、
   それは無常なるものであり、常に間断なく
   変化するものなのである。

   かかる無常なるものから 「 神の子 」 たる人間は生れて来る
   と云うことはないのである。

   だから 『 生命の實相 』 の実相篇には
    「 未だ曾(かつ)て人間は女の子宮から生れて出たことがない 」
    と明瞭に断言してある。

   人間は神聖受胎であって神から生れたものである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年10月12日 頓首再拝>

自己を通して神を展開することが人間の理想的生活 - 伝統

2016/10/24 (Mon) 03:55:49


       *「生活と人間の再建」第5章 人間如何に生くべきか(P67~68)より

凡(あら)ゆる生きているものには自己の内部より何かを実現し、
何かを完成し、何かを表現戦とする「押し出す力」(urge)
というものが宿っているのである。

これは単細胞動物のモネラから人間に到る迄同じことであってより一層
完全なるものへと自己表現を遂げ行かずには居(お)れないのである。

そのすべてのものに宿っている所の深く植えつけられてたる力こそ、
すべてのものに宿っている所の「一つの力」即ち「神」であるのです。

人間は神の最高の自己表現として、神は人間に於いてもっとも高きものを
表現すべく要求して居られるのである。

神には、その自己表現のために人間が必要なのであって、
人間は自分をもっとも完全に表現せんがためには神が必要なのである。

人間は自分自身を表現せんがためには
自分の中に宿る所の神そのものを表現する外(ほか)はないのである。

自己を通して神を展開することが人間の理想的生活であるのである。

神が人間に宿って最高の自己表現を遂げんとするのであるということが
本当にわかるならば、吾々はこの世界に処して、互いに戦い、争わなければ
ならないという様な感じはなくなってしまうのである。

「神は愛である」そして「神が私を生かしているのである」
「わが為すは神が為さしめ給うのである」
されば吾ら唯愛するより仕方がないのである。


諸君が人間の本当の生活を送ろうとするならば、自分自身の殻の中に
引き込んでしまってはならないのである。自分自身と云う「殻」から
神を迸(ほとばし)り出すということが必要であるのである。

肉眼で見るならば吾々は他の生物、物体、環境、及び凡ゆる人間と別々に
はなれたる存在の如くみえるのであるけれども、吾々は決して個々別々に、
はなればなれの存在ではないのである。

大抵の人は肉眼でのみ現象世界をみるために、個々別々に分離している
存在をみるのであるけれども、実は全体が一つの大生命体であって
凡ゆるものは生きているのである。

一つ一つの細胞が生きていながら1個の人間全体が生きている様に、
一人ひとりの人間が生きていながら人類全体が生きているのである。

           <感謝合掌 平成28年10月24日 頓首再拝>

人間と神との関係 - 伝統

2016/11/06 (Sun) 03:42:00


          *「生活と人間の再建」(P68~70)より

人間は、彼はこうして宇宙生命が自己実現せんがための器官であるのである。
ラテン語で人間という文字を persona というのであるが、
それは「俳優によって用いられる仮面」という意味であるのである。

その奥に「表現者」があって、肉体人間はそれを通して「表現者」が
芝居をする所の仮面であるのである。

per という字は「通して」という意味であり、
sonal という字は、「ひびく」という意味である。
彼を通して言葉がなり出(い)で響く所の機関であるのが人間であるのである。

日本語で「ヒト」というのは霊止(ヒト)、即ち「霊とどまる」という意味であって、
その奥に霊が宿っていることを表現しているという意味であるのである。

吾々は神の最高表現であるから、神のもっとも原始的な表現である鉱物的面も、
結晶体としての面も、単細胞としての面も、植物としての面も、
すべて潜在的にそなえているのであるけれども、

それらの凡ゆる段階に於ける生命(せいめい)を統合して尚一段高き人としての
「人格」が顕現しているのであり、その人としての人格は、
神が最高に実現するために現されている所のものである。

そして、神は絶対者であり、全体者であるから、吾々自身も「絶対者」であり、
「全体者」でなぇればならない。

されば吾々は、個々別々に現われている個々別々の差別の相(すがた)に
惑わされてはならないのである。

個々の人間の奥に、尚一層偉大なる人間があるのである。
それが神であり、それの表現が吾々に於いて「愛」 ―― 
「自他一体の実現」として現れるのである。


吾々が唯(ただ)宇宙に偏在する大生命の霊と異なるのは、吾々が、
それが実現する一つ一つの中心であるということである。

人間の肉体細胞の一つ一つは一ように平等たる細胞であるけれども、
それが各々の器官に配置された時には、その器官独特の使命を果たして
胃袋は消化を営み、腎臓は老廃物を選(よ)りわける。

その様に、吾々の生命(せいめい)も宇宙に遍満する生命(せいめい)が
今ここに生きているのであるけれども、宇宙の一細胞たる吾々に与えられたる
使命は異なるのである。

ここに人間は個であると同時に宇宙生命(せいめい)も生きており、
宇宙生命の実現であると同時に、個性である所以(ゆえん)である。

宇宙に存在する「絶対実在」が今ここに自分自身の中に生きながら、
絶対が相対として、無限が有限として現れている所以なのである。


宇宙生命が一つであり、同時に吾々は個別的存在であり、各々異なる特色と
異なる使命をもちながら、而も全体者たる「一つのもの」の表現であるから
互いに調和しており、互いに生かし合って争うという事はないのが
本当の相(すがた)である。

このことは人間の肉体的五官の智慧を以ってしては見ることは多少困難である。
なぜなら五官は個々別々に表現されている現象の世界を処置するために
発達したる器官にすぎないからである。

これを知るには「全体智」を以ってしなければならないのである。

           <感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>

人は「神の宮」 - 伝統

2016/11/07 (Mon) 03:29:37


       *「光明法語」(11月7日の法語)より

人間は神の身体である。
神の身体を害する何かが存在すると云うことはあり得ないのである。
神の身体の中に黴菌や寄生虫が蝕(むしく)うと云うことはあり得ない。

宇宙の一切の存在は、唯一の神の聖なる計画の中に
すべてが調和して造られているのである。
神の霊なる身体の中に互いに敵対する如何なる存在もあり得ない。

人間の身体は神の霊によって創造(つく)られたる「神の宮」である。
神の霊が「神の宮」である人体の到る処に満ちているのである。

―― 斯く念ぜよ。

           <感謝合掌 平成28年11月7日 頓首再拝>

吾らは神の生命の枝 - 伝統

2016/11/17 (Thu) 03:35:09


       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

           <感謝合掌 平成28年11月17日 頓首再拝>

《真に神のパイプとなるには》 - 伝統

2016/12/03 (Sat) 04:49:46


           *『幸福を招く365章』第11項(P224) より

自然現象のほかは、神は人間を通してその働きをあらわし給うのである。
人間が神のよきパイプとなり、よき道具となることが必要なのである。

自己をむなしくしての祈りは人間をして神のよきパイプとなることを可能ならしめ、
神の完全なる表現としての人間を完成することになるのである。

人間を通して神は自己実現したもうのであるから、
人間が働かないで、行動しないで
ただ祈るばかりでは役に立たないのは明らかである。

祈りによって神の御心と同調し、行動の方向が決定せられ、
その決定せられた方向に行動をとることによって、
その人は本当に神のパイプとなり、神の自己実現となるのである。

           <感謝合掌 平成28年12月3日 頓首再拝>

《天の使とは》 - 伝統

2016/12/10 (Sat) 04:34:29


         *「光明法語」(12月10日)より

「『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たりと言いしに因(よ)りて信ずるか、
汝これよりも更に大いなる事を見ん』また言い給う

『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに神の使たちの昇り降(くだ)りするを
汝らは見るべし』(「ヨハネ伝」第1章末節)。

預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。

それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。

「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。

           <感謝合掌 平成28年12月10日 頓首再拝>

《人体は神の宮である》 - 伝統

2016/12/26 (Mon) 04:54:46


           *『生長の家』(昭和25年8月1日の法語)より

   「 神が宮の中にいては氏子を守護することが出来ぬから
   神を拝みたければ外へ出て拝め 」 と金光教祖は云ったが、
   神を外にばかり求めていても本当ではないのである。

   神は神を象徴として礼拝するもよいし、
   神は外にも内にも到(いた)る処(ところ)にましますのである。

   何よりも必要なのは
   自己の内に神がましますと云う自覚である。

   人間の身体は神の鎮座(ちんざ)まします 「 肉の宮 」 であるから、
   自分の内に神をみとめ

   「 わが魂の底の底なる神よ 無限の力 湧(わ)き出(い)でよ 」 と、
   時々瞑目して黙念する事は良き祈りである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

           <感謝合掌 平成28年12月26日 頓首再拝>

人生は何のためにあるか - 伝統

2017/01/01 (Sun) 04:52:41


      *「光明法語」(1月1日)より

人間が地上に生を受けたのは何故(なぜ)だろうか。
何のために人生はあるのだろうか。
人間は何のために生まれたのだろうか。

これこそは真面目な真剣な人々の切実な問(とい)である。

人間を神がつくったのは、神自身を享受せんがために、
神自身の生命を此の世に具体化したのである。

凡(およ)そ自己が存在するならば自己の存在を自己が知らなければならない。
知らなければ自己が存在するところの意義をなさないからである。

しかし自己が自己を知ると云うことは、
眼が自分の眼を見ることが出来ないと同様にそのままでは出来ないのである。

            <感謝合掌 平成29年1月1日 頓首再拝>

《神の人間創造の意義》 - 伝統

2017/01/02 (Mon) 04:53:57


          *「光明法語」(1月2日)より

自己が自己を知り、自己が自己を観るにはそれを客観化しなければならない。

換言すれば唯一の存在としての自己が、
「観るもの」と「観られるもの」との相対に分化しなければならないのである。
「働くもの」と「働きかけられるもの」と相対に分化しなければならないのである。

眼が眼を見るには、眼は鏡を媒介として仮りに自己の外に「自己の影」を
見なければならないようにである。

神が人間をつくったのは、神が自己自身の姿を観るために、
神が自己自身の姿を楽しむため、自己の外に自己の影を創造したのである。

            <感謝合掌 平成29年1月2日 頓首再拝>

《吾は日に日に完全円満である》 - 伝統

2017/01/08 (Sun) 04:19:35


            *「光明法語」(1月8日)より

神の完全なる実相が、
吾を通じて時々刻々尚(なお)一層完全に実現しつつあるのである。

われは神の子であり、神の智慧に導かれ、神の愛に護られているが故に、
日々に一層あらゆる点に於いて神の完全さを顕わし来(きた)るのである。

肉体に於いて健全であり、思想に於いて周到であり、言葉に於いて無礙であり、
交友に於いて愛にめぐまれ、ありとあらゆる点に於いて完全なのである。

若(も)し汝が何事か不調和な事を経験するなら
数分又は数時間又は数日前に何か不調和なことを心に念じた影である。

念を感謝に転ぜば一切は変化する。

            <感謝合掌 平成29年1月8日 頓首再拝>

《神は親であり吾は神の子である》 - 伝統

2017/01/12 (Thu) 04:15:58


            *「光明法語」(1月12日)より

神は親であり、自分は神の子であると信ぜよ。
神の智慧と計画とが自分と云うパイプを通して流れ入り、
流れ出でて実現するものであると信ぜよ。

神は悦びであり、豊かな生活であり、ケチなものではなく、
無限の調和であり、完全なる平和であり、無限の力であり、
それが自分に流入するのであり、

自分の自覚のパイプを大きくすればどれだけでも、
自分の悦びは大きくなり、豊かになり、
調和と平和とがその生活に得られるものであることを信ぜよ。

            <感謝合掌 平成29年1月12日 頓首再拝>

《人間には大宇宙の生命が宿る》 - 伝統

2017/01/27 (Fri) 03:40:05


            *『生長の家』(昭和25年8月9日の法語)より

   人間は宇宙大生命の一部である。
   宇宙大生命が人間に宿っているのである。

   単にその一滴が宿っているばかりでなく、
   宇宙大生命が貫流しているのである。

   それが三十ワットの光を放とうと百燭光、千燭光の光を放とうとは、
   自分自身のうちに流れる無限の力を
   どれだけ顕わし得るかの問題なのである。

   流れる力は無限であるが、
   顕わし得る力は 自分がそれを見出した程度によるのである。

   憎みや、争いや、暗い心や、悲観などによって、
   折角(せっかく)宇宙大生命から流入る生命の流れに
   堰(せき)をしてはならないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

            <感謝合掌 平成29年1月27日 頓首再拝>

人間の貴き使命を悟るための祈り - 伝統

2017/02/13 (Mon) 04:53:35


         *「光の泉」(昭和54年2月号・日々読誦毎月真理経)より

すべての人間の内部には、神の“無限の生命力”が宿っているのである。
その無限の生命力を吾々は“仏性”と称(よ)んだり“内在のキリスト”と名づけたり、
宗派によって呼び名は異なるけれども、

神の無限生命の内在によってわれわれは生かされているのである。

そのことを古代日本民族は自覚していたが故に、
自分自身のことを何某(なにがし)の“命(みこと)”と称して尊敬したのである。

そして天照大御神すなわち日の大神の生命(いのち)われに宿りて、
わが生命となっているという意味に於いて、

男性は“日子命(ひこのみこと)”と呼び、
女性は“日女命(ひめのみこと)”と称したのである。

そしてそれに夫々(それぞれ)の個性ある名を与えて
何某彦命、何某姫命と自己を尊敬して生活していたのである。

“命(みこと)”という字は、命(いのち)という字と同字であるが、
“みこと”とは漢字を当て嵌めれば“御言(みこと)”である。

神の“御言(みことば)”われに宿りて生きているのが私たち人間である。

キリスト教に於いても、「言(ことば)、肉体となりて、われらに宿り給ヘり」
という風に表現しているのである。(「ヨハネ伝」第一章)

“言(ことば)”とキリスト教でいうのは、肉体から出る発生音のことではないのである。
“言(ことば)”とは“神”の別名である。

「ヨハネ伝」の冒頭に「太初(はじめ)に“言(ことば)あり、
“言(ことば)”は神と偕に在り、“言(ことば)”は神なりき」と書かれているのは、
この事を指して言うのである。

“神”という象形文字が“示(しめす)”と“申(もうす)”との合字である如く、
“示(しめす)”は“表現”であり、“申(もうす)”は“言(ことば)”である。

“表現”とは“創造”を意味するのである。
すべて創造されたるものは“表現されたるもの”である。
そして創造されたるものには、必ずアイディアが内在するのである。

神の創造の生命波動に乗って生き生きと創化作用をいとなむ
生きたアイディアを称して“言(ことば)”というのである。

“言(ことば)”とは、
神の生命(いのち)の創造波動に乗って動き出したアイディアなのである。

かくしてアイディアは唯単なる“観念”ではなく、
生きて活動する神の創造力なのである。

如何なるアイディアが、人間となって表現されたかと言うと、
これを『創世記』によって見れば、神は“言(ことば)”にて万有万物をつくり給い、
最後の締めくくりの一切を総攬する神代表として人間を造り給うたのである。

すなわち『創世記』は次の如く書いているのである。

「神いひ給ひけるは我儕(われら)に象りて、我らの像(かたち)のごとくに
我儕(われら)人を造り之に海の魚と天空(そら)の鳥と家畜と、
全地と地に匍(は)ふ所の諸(すべて)の昆虫(はうもの)を治めしめんと。

……神、彼らを祝し、神彼らに言ひ給ひけるは生めよ繁殖(ふえ)よ地に盈(み)てよ
之を服従(したが)はしめよ……諸(すべて)の生き物を治めよ……」と。

かくの如く宣言し給いて神は人間に万物万生を総攬する使命を授け給うたのである。

この貴き使命をわれら今深く悟りて大神の御心に副(そ)い、
且つ従い奉らんことを茲(ここ)に誓い奉る。

ありがとうございます。



  (光明掲示板・第二より転写
    http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=280 )

         <感謝合掌 平成29年2月13日 頓首再拝>

人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られた - 伝統

2017/02/27 (Mon) 04:03:19


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より抜粋

啓示 ――

人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。

神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、
人間も言葉をもって万物を創造(つく)り出すのである。

人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。

第一の創造は神の「世界および人間創造」である。

神はすでに世界を創造し給うたのである。
それは常に現在完了である。

人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)

         <感謝合掌 平成29年2月27日 頓首再拝>

人はすべて神の子である。神性受胎である - 伝統

2017/03/01 (Wed) 04:41:09


           *「光明道中記」(3月1日)より

【われわれを神が造った。神と呼ぶのが嫌やな者は生命と言っても好い。
                           (『生命の實相』第七巻)】

人間の受胎はすべて神性受胎であると云うことである。

「斯(か)かる人は血脈(ちすじ)によらず、肉の欲(ねがい)によらず、
人の欲によらず、
ただ神により生まれしなり。言(ことば)は肉体となりて、我らの中に宿り給えり
我らその栄光を見たり」(『ヨハネ伝』第一章)

その《栄光を見る》ことが悟りである。
われを肉欲によりて生れたる者と観ず、われをただ神によりて生れたと観るのである。

単にわれのみならず、彼を、汝を、我が親を、子を、良人を、妻を、
すべての人々を神によりて生れしものなりとして観るのである。

そこに人生ならぬ「神生」が始まり、肉生(にくしょう)ならぬ
霊生(れいしょう)は始まり、
自分の周囲に住む人々は悉く「神より生れし人々」となる。
かくて自分の周囲は神の国となり、天国となり浄土となる。

観の転回である。
「観ること」が転回して見られる世界と、観られる人間との貌(すがた)が変る。
「菩薩心浄ければ浄土浄し」暗黒を見る心が一転して栄光を見る心になるのが
悔(くい)改めである。
 
「光は暗黒(くらき)に照る。而して暗黒は之を悟らざりき」(『ヨハネ伝』第一章)
栄光は照り輝いているのである。栄光のほかに何ものもない。
されど暗黒は之を悟らないのである。

人はすべて神の子である。神性受胎である。
吾れ今呱々(ここ)の声をあげてその栄光を見る。

         <感謝合掌 平成29年3月1日 頓首再拝>

【神さまと人の関係は親子関係に似ている】 - 伝統

2017/03/24 (Fri) 03:08:12


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年02月16日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   私たち人間の親子というのは、親が子供に対して何かをしてあげるときに、
   見返りや報酬がなくてもしてあげますね。

   それが親子というものですね。

   親は、見返りや報酬を一切期待しないで、
   自分の子供であったら、いくらでもしてあげます。

   でも、この子供が「なんでもしてもらうことが当たり前で当然なんだ」と
   ずーっと思い続けて、そうした態度を見せ続けていると、
   親はむなしさや悲しさ、疲れを感じるようになります。


   ところが、もしこの子供が「ありがとう」という言葉を一言でも言ってくれると、
   それまでの疲れが全部吹っ飛ぶだけではなくて、むなしさが全部吹っ飛ぶだけ
   ではなくて「もっとしてあげよう」と意欲が湧きますよね。

   仮にこの子供が「ありがとう」を言うに当たって、心がまったくこもっていなくて、
   とりあえず口先だけで「ありがとう」と言うだけでも、
   親はいい顔をして元気になります。

   「もっとやってくれる」と、たとえ下心、邪心、損得勘定で子供が言ったとしても、
   親はそれを全部わかっていて、口先だけで言われた「ありがとう」に対してさえも、
   「もっとやってあげよう」と気力がわいてきます。

   そのような親子関係が人間の中にはつくられています。


   なぜでしょう。

   人間の親子関係そのものが、神さまと人との関係なのではないでしょうか。

   人間の親子関係は、神さまと人との関係の見本として、
   私たち人間生活の中に組み込んで、神さまが示していたのではないでしょうか。

   神さまは人に対してシャワーの如く、好意や善意の雨を降らせています。

   見返りや報酬が返ってこなくてもかまわない。
   いくらやってあげてもいい。

   しかも、それが当たり前なのです。


   でも、全部自分の努力でやっている、自分の才能、自分の力によって
   人生が成り立っているんだ、と思っている人を神さまが上から見ているときには、
   神さまも疲れやむなしさ、悲しさを感じるかもしれません。

   実は、そのことを親子関係を通して見せてくれていたのではないだろうか。

   こういうことを事実として伝えるために、
   親子関係の中にそういうプログラムを組み込んでいたのではないか、と思うのです。


   では、私たちは神様に対してどうすればいいのか。

   心を込めなくてもいいから「ありがとう」を言っていればどうなりますか。

   「ありがとう」を言っていれば、神さまはそれで疲れをものともせず、
   むなしさも感じなくて、さらにやってあげようという気になるのではないでしょうか。

   私たちは、神さまに対して「ありがとう」と言っているだけで、
   ずっと神さまはやり続けてくれるということなのです。


   〈ハイ〉という日本語がありますが、そのもとは“拝(おが)む”という字です。

   ハイ(拝)と手を合わせることを言うのです。

   それと同じように〈イエス〉っていうのは、
   “イエス・キリストに誓って”という意味を含みます。

   ですから、肯定する言葉というのは、神さまとともに存在しています。


   もし、みなさんの中に、辛抱して、人の2倍、3倍の努力をして、
   その結果として周りの人に対して苛立ったり、トゲトゲしていたり…
   そういう投げかけをしている人がいるようでしたら、即刻やめたほうがいいです。

   努力そのものをやめたほうがいいみたいです。

   それよりも、周りの人に対して、ひたすら感謝をすることのほうが、
   神さまにとって望ましいみたいだ、という結論になったのです。

      <『なぜ、神さまを信じる人は幸せなのか?』イースト・プレス>

                ・・・

心を込めなくてもいいから「ありがとう」と言った方がいい、と小林正観さんはよくいう。

しかし、なかなかこの意味はわかりにくい。

心がこもっていない「ありがとう」は言ってはいけないのではないか、とツイ思ってしまう。


自分の言った言葉、宇宙に投げかけた言葉は、必ず自分に返ってくる。

多く言えば言った分だけ、その回数分だけ返ってくる。

つまり、「ありがとう」と言えば言うほど、
ありがとうと言いたくなる現象が宇宙から降ってくるからだ。

逆に、愚痴や悪口、イヤミ、文句や泣き言を言えば言うほど、そういう現象がまた起こる。


「神さまと人と関係は親子関係に似ている」

生きてるだけでありがたい…

ありがとうと感謝の気持ちで毎日を過ごしたい。

         <感謝合掌 平成29年3月24日 頓首再拝>

《神の自己実現としての生き甲斐》 - 伝統

2017/04/11 (Tue) 04:35:48


           *『 生長の家 』(昭和46年3月19日の法語)より

   私たちは、神想観を毎日怠らず実修して、潜在意識を浄化し、それを微調整して
   “ 神の国 ”に心の波長を合わすことにしているのである。

   それゆえに毎日毎日私たちは新しきアイディアを受信し、それを実行して、
   毎日向上するのである。

   「 人間は病むべきもの、死すべきもの 」などという肉体の習慣的想念を、
   神想観による神との一体感を通して毎日一層多くそれから脱却するがよいのである。

   人間は神の自己実現であるから、「 人間知恵 」 の迷いのレンズを通して、
   神からの自己実現の映像を曇らせてしまわない限りは、

   自然に自分の意欲するところが“ 神からの催し ” であり、
   自然に自分の環境にあらわれて来る人間関係や経済事情が、
   神さまから与えられた「 人生学校 」 となり、

   色々の教訓をそこから学びとり、学びとるに従って魂が向上し、
   魂が向上するに従って、物質的次元以上のよろこびを魂が味わうことが出来、
   生き甲斐が増して来るのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12692749.html

         <感謝合掌 平成29年4月11日 頓首再拝>

《吾は神の最高実現である》 - 伝統

2017/04/30 (Sun) 04:59:02


         *『生長の家』(昭和24年11月25日の法語)より

   吾は神の子として
   宇宙の一切のものを支配する権利をもっているのである。
   宇宙の一切のものは皆自分の支配下にあるのである。

   なぜなら自分は神の子であり、
   神の最高の具体的顕現であるからである。

   吾が内に宿る所の神性は、神そのものと同体なのである。

   だから神のもちたまう すべての智慧と力とをもっているのである。

   吾が力は肉体の力に非(あら)ずして
   吾に宿り給う所の神の力であるのである。

   吾が内に宿る神は吾をしていと豊かならしめ給い、
   いと健やかならしめ給い、凡(あら)ゆる問題に
   快刀乱麻をたつような知慧を与え給うのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

         <感謝合掌 平成29年4月30日 頓首再拝>

《人間は神的実現》 - 伝統

2017/05/10 (Wed) 04:02:32


          *「光明法語」(5月10日)より

人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。

最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。

肉欲食欲のみに快感を求めるものは、
人間でありながら動物の状態に退歩することである。

仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。

その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。

         <感謝合掌 平成29年5月10日 頓首再拝>

《神演出の人生劇に出演して》 - 伝統

2017/05/25 (Thu) 03:29:18


           *『生長の家』(昭和41年12月3日の法語)より

   あなたが〃神の子〃であることを信ぜよ。
   尊貴なる自己の実相を信ぜよ。

   現象の姿がどのようにあろうとも、
   あなたの職業又は社会的地位が如何にあろうとも、
   あなたの実相が〃神の子〃であり尊貴なる存在であることには
   変りはないのである。

   どんな地位にあろうとも、どんな職業であろうとも、
   人生という「神様演出の人生劇の舞台」に於いて、
   あなたが何らかの神授の役割を、その時、その場に於いて
   あなたが果しつつあることは否定できないのである。

   それ故あなたは、神にとっても、人生にとっても、
   必須必需の役割を果しつつあるのである。

   この自覚をもって一日一日の仕事を遂行するとき、
   その仕事そのものに神授の光が輝きはじめ、
   仕事に〃神の悦び〃を反照して、

   その仕事を遂行することがあなたの悦びとなって来、
   仕事の成績はあがり、生活の向上がおのずから結果するのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

         <感謝合掌 平成29年5月25日 頓首再拝>

先ず神を認めよ - 伝統

2017/06/05 (Mon) 04:18:39


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月5日)より

神が吾々神の子に求めていられる処のものは先ず「吾を認めよ」と云うことである。
人間でも親が子に求めているところのものは、先ず「親をみとめよ」と云うことである。

親の無視が即ち親不孝であり、親を忘れて放浪(さまよ)い歩いたところに、
親の遺産をつぐことが出来ないことが生ずるのである。

だから先ず何よりも吾らは自分の生命(いのち)の親を、神を、
認めなければならないのである。

先ず神と直結し、神の持ち給えるすべての物と直結すべきである。
其処から無限の富が湧き出て来るのである。

         <感謝合掌 平成29年6月5日 頓首再拝>

天の父われに在(い)まして成さしめ給う - 伝統

2017/06/15 (Thu) 03:45:43


       *「光明法語」(6月15日)より

自分の力では何物も出来る事ではないと知った時、神の力が動きは始めるのである。
神と対立して自分の力を主張している間はまだ駄目である。

「われみずからにては何事もなし得ず」の自覚の次に、
イエスは「天の父われに在まして成さしめ給うのである」と云う自覚が生まれた。

「小慈小慈もなき身にて、心は蛇蝎の如くなり」との罪悪深重感の次に
「超世の悲願ききしより、吾らは生死(しょうじ)の凡夫かは」の仏と一体の自覚が
親鸞に出来たのである。

自己折伏の完了していない信仰は我慢心に陥りやすい。

        <感謝合掌 平成29年6月15日 頓首再拝>

《神の寶はあなたに譲渡済みである》 - 伝統

2017/07/03 (Mon) 04:02:36


        *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P120) より

吾々の幸福は決して、自己以外の外界の存在によって規制せられたり、
支配せられたりするものではないのである。
自己の許さない不幸も悪も吾らに入り来ることはできないのである。

神は常にあなたと偕にあり、神の有(も)ち給えるあらゆる善きもの、
美しきもの、裕(ゆた)かなるもの、好ましきものは、
悉くあなたに譲られているのである。

神の登記所に於ては、既に神の有(も)ち給えるあらゆる“善きもの”の、
あなたへの譲渡手続きが完了しているのである。

譲渡手続きが完了していても、それを譲り受ける者が、
譲り渡されたことを自覚しなかったら、それは現実にならないのである。

 
多くの人は、自分が神の子であり、神の有(も)ちたまえる凡(あら)ゆる
“善きもの”が譲り渡されて、既に“自己のもの”となっていることを知らないから、
それを利用することができないのである。

その譲渡が既に完了していることを悟らせる聖業をするのが
生長の家の信徒の使命であり仕事である。

併し譲渡が完了していることを知らされても、
実際に譲渡されたものを生活に応用しない限りは、
名儀だけのことであって、何の役にも立たないのである。

        <感謝合掌 平成29年7月3日 頓首再拝>

《全体としての生活を生きよ》 - 伝統

2017/07/24 (Mon) 04:32:12


        *「生活と人間の再建」(P73~75)より

されば人が地上に出現したる使命を最高完全に実現せんがためには、
「個」というものが「全」(神)の御心を知ってその通りに生きて行く
ことが必要なのです。

自分自身の生活をたんに自分自身のものとして生きないで、
全体の一部として生きることであるのである。

もし「個」が全体を無視して自分のみが自己拡大を続けて行くならば
それは恰度自分のみが増殖して他(た)の細胞の死滅をもかえりみない
癌細胞と同じことになるのである。

ウィリアム・ゼームズ教授はその論文の一つの中で次のように説いているのである。

「自己が神の前に無条件降伏しなければならないようになった如き危機が
常に宗教生活へ転回する生きた契機になると云うことは常に変わらない真理
である」と。

即ち個別的な利益のみを追求していると、何時(いつ)かは行き詰まりの
危機が来て全体(神)へ向かわなければならぬ時が来るという意味である。


それでは以下にすれば人間がもっとも完全に神から与えられた使命を
実現することができるであろうか。

吾々は別に刻苦努力して外からその材料をあつめなければならないと
いうことはないのである。

吾々は自己の中(うち)にある所のものを展開すればいいのである。
すでに宇宙大生命は自分の中(うち)に宿っているのである。
無限の智慧が、無限の力が自分の中(なか)に宿っているのである。

吾々はそれを表現するためのよき出口となったらよいのであって、
外(そと)からそれをつけ加える必要はないのである。

この世界は如何にしてできたのであろうか。
吾々が努力して太陽をこしらえ地球をこしらえたのではないのである。
又、刻苦して自分自身をこしらえたのでもないのである。

創世記には、

「神(かみ)光あれといひたまひければ光ありき」と書かれているのである。
その日本語訳は頗(すこぶ)るまずいために本当のことはわからないが、
英訳では”Let there be light・・・”と書かれているのである。

この Let というのは「放つ」ということであり
「解放する」ということであるのである。

すでに《内にある》ものを「ときはなつ」て
自由自在に発現せしめることであるのである。

この「《すで》にある」という意味が日本語にはどうしても現れていないのである。
「既にある光をして光の如くなしめよ」という様な意味であるのである。

それと同じく「人間をして人間の如くならしめ」ればそのまま人間は
完全人間となってその完全なる力と姿が現れるのである。

外から完全に人間を造るのはむずかしいかも知れないけれども
吾々は内部から押し出す所の大生命の流れを邪魔する所の
障礙をとり去りさえすれば好いのである。

内部から実現しようとする大生命の力を邪魔する所の障礙を
とり去るためにはどうしたらいいであろうか。

それはまず何部の自覚によることが必要なのである。

釈迦は六波羅蜜を説いて六つの到彼岸(実相実現)の道を教えたが、
その最高の道として般若波羅蜜(即ち全体智)をその主位に置いたのである。

本当の智慧 ―― 全体智 をもって自分の実相を悟ることを以って
第一とするのである。

吾々のもっとも力強き生活は宇宙大生命と人間とは
一体であるという自覚から流れ出る所の生活であるのである。

釈迦は法華経の中(なか)に於いて

「自分は五百塵点劫を過ぎるとなお無量無辺阿僧祇劫も以前から悟りを
開いている仏である」と自覚していることを説いているのである。

それを自覚せしめるのが仏教の中心課題なのである。

           <感謝合掌 平成29年7月24日 頓首再拝>

吾は「宇宙的生命」そのものである - 伝統

2017/08/10 (Thu) 03:29:51


        *「生活と人間の再建」(P80~82)より

《天国を地上に実現するには》

人間は神より、宇宙大生命の一個一個の顕現の中心として
この地上に出現せしめられたものであるから
決して豚を一つの檻の中においこむように強制力によって
「天国」という柵の中に押し込むものではないのである。

天国は一人一人の宗教的自覚によって現れてくるのである。
同じ金殿玉楼の中に生活していても、一人は極楽的生活を送っているが、
その同じ金殿玉楼で、もう一人は地獄の生活を送ることもできる。

同じ貧しい家庭生活をしながらも、
ある人は神の国の様に暖かい愛の生活を営むが、
ある人は餓鬼道や地獄の生活を営むのである。

真の救済は、世界とか、社会とか云う枠や輪郭や柵の形を変化したり
色を塗ることではないのである。

それは「心」の問題である。
「心」が変化すれば一瞬の中に、今ここに天国浄土が実現し、
又あるいは地獄が実現するのである。

英語の宗教’religion’という言葉は「復活する」という意味の言葉である。
人間の魂を目覚めせしめるのが宗教である。
吾々は自分の中(うち)に宿っている所の宇宙的に大なる生命を今まで眠らせていたのである。

目を覚ませば吾は「宇宙的生命」そのものであり、
そしてすべての人は互いに兄弟であるのである。

その真理を自覚する時、愛が自ずから魂の底からわきおこってくるのである。
「愛は神である」愛の実現する世界は結局神の国であり、そこが天国浄土となるのである。

真の平和は、神のみが唯一の力であると云うことを自覚することによってのみ来るのである。
イエスはこの秘密を知っていたのである。

だから、彼は「吾ら汝らに平安(やすき)を与えんがために来たれり」
「汝ら互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり。
吾等は先ず自分自身を神の前に死なしめることが必要なのである」

「一粒の麦もし地に落ちて死なば多くの実を結ばん」と云っているのである。

すべての人間は皆神の子であり、各々が「全実在」の顕現である。
唯特殊の中心として特別の使命を与えられてる点が「全体者」と異なるに過ぎないのである。

人間はその置かれたる位置に於いて今自分に与えられたる仕事を、
神への愛の念を以て、而して人類への奉仕の念を以て、それを実践する時、
そこに平安と、幸福と、健康と、力と、喜びと豊かなる富と、
あらゆるよきものとが実現しないと云うことは有り得ないのである。

愛によって行われる人類への奉仕のみが天国を造るのである。

           <感謝合掌 平成29年8月10日 頓首再拝>

宇宙の知性と人間との関係 - 伝統

2017/08/11 (Fri) 03:51:48


          *「光明法語」(8月11日)より

兎も角、宇宙すべての物の背後に宇宙の知性(法則)が存在する事が分った筈である。
この宇宙の知性を神と言う。

では、宇宙の知性と「人間」との関係や如何と云う問題になる。
この問題を解決すれば、人間の病気や不幸の問題も解決される事になるのである。

そんなにも微妙な構造の人体諸器官の組織を造った宇宙の知性が、何故、
現在吾々の肉体の諸器官の欠陥を治す事ができないか。そんな筈がない。

それが治らないのは、「宇宙の知性」に吾々が委ねないからではないか。

           <感謝合掌 平成29年8月11日 頓首再拝>

人間は神の自己実現 - 伝統

2017/08/20 (Sun) 04:44:28


         *「光明法語」(8月20日)より

人間が神の自己実現であることは、直覚認識によって知ることが出来るのである。

『法華経』にある「佛と佛とのみよく諸法実相を究盡(ぐうじん)したまえり」であり、
『正法眼蔵』にある「佛ほとけに伝えてよこしまなることなき」である。

天地普遍の佛の生命(いのち)と自己にやどる佛の生命(いのち)と、
カチカチ触れ合う底(てい)の直接覚によって、われ神の自己実現なりとわかるのである。

これによってキリストはみずから神の子なりと言い、
これによって釈迦牟尼佛は「天上天下唯我独尊」と説いたのである。

           <感謝合掌 平成29年8月20日 頓首再拝>

人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したもの - 伝統

2017/09/03 (Sun) 04:25:49


        *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月2日~3日)より

《普遍とその個體化》 

普遍にして無限なる「一」の生命は如何にして自己内在の智慧と愛と美とを表現するかと
云えば、普遍にして無限に行きわたるのは自己そのままでは表現することは出来ない。
普遍なるもの、無限なるものは見えないからである。

表現は何らかの意味に於いて形象化しなければならない。
形象化するためには無限が有限にならなければならない。

普遍者が個別となり、無限者が有限者となるのは自己限定である。
自己限定を通じて神は自己を表現したのである。


《有限にして無限》

人間は普遍なる生命が具象化し、個別化したものです。
それは形に於いては有限であり、個別であるけれども、
本質に於いては普遍であり、無限である。

果たして然らば吾らは形に於いては有限であっても、
その有限の中に無限を表現し得ないことはない。

人間を地球に生えたカビの様に思って其の弱小を嘆くなかれ、
人間は地球に生えたカビ以上のものである。
また「考える葦(あし)」でもない。

人間は無限である。
人間は普遍なる神の智慧と愛と美が最高に表現されたものである。

           <感謝合掌 平成29年9月3日 頓首再拝>

小生命は大生命の創造の中心 - 伝統

2017/09/11 (Mon) 04:21:45


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月11日)より

新しきものの創造

汝らの内に宿る生命は大生命の一部分であるが故に、
大生命と同じき本性をもっている。
それ故に絶えず新しきものを創造する事に生命の歓喜を感ずるのである。

大生命は、吾々の一々の小生命を、創造の各々の中心として、
その各々の中心に於いて新しきものを表現し、創造せしめる。

吾々は各々創造の中心として新しきものの表現に創造に歓喜を感ずる。
新しく伸びないもの、新しく創造しない小生命は、
大生命に歓ばれることは出来ない。
それは大生命のバックを受けられない。

           <感謝合掌 平成29年9月11日 頓首再拝>

神の人間創造の目的 - 伝統

2017/09/16 (Sat) 04:36:31


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月16日)より

神は何の為に人間を創造したか。
神は自己を表現する為に人間を創造した。

外から創造したのではなく、神は「内在の生命」として内から創造したのである。

演奏中のヴァイオリンの弓を硝子板に触れると、硝子上にある一定大いさの砂粒が、
その音楽のリズムに従って或いは美しき花模様を、或は美しき波模様をなして
自然に配列されるが如く、

女性の子宮内で細胞分裂をなして行く多数の細胞を、
一定の人間的構造に配するのは生命の律動(リズム)の力である。

           <感謝合掌 平成29年9月16日 頓首再拝

神は生命の歓喜によって人間を創造したのである - 伝統

2017/09/18 (Mon) 04:38:36


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月18日)より

神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。

美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、白百合の清楚なる、桜の爛漫たる、
梅花の孤峭(こしょう)なる・・・

数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。

万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、
「神の生命」そのものの発露であり表現であるのは「人間」である。

人間が喜べば神が喜ぶのである。

           <感謝合掌 平成29年9月18日 頓首再拝>

人間は神の創造の中心 - 伝統

2017/09/25 (Mon) 03:19:17


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月25日)より

人間が神の創造の中心である事がわかるならば、
人間は大いに自己を尊敬し、又大いに自重すべきである。

神の無限力が、自己の「個性」を通じてあらわれようとしているのである。
そこには「個性」と云うパイプと其処を貫き流れている大生命の力とがある。

パイプの小なることを見て、そこを貫流する生命が小さいと思ってはならないのである。
そこには大生命が滔々乎と流れているのである。

大生命がみわざをなし給うのである。
”大生命は自分の生命そのものである”。

           <感謝合掌 平成29年9月25日 頓首再拝>

神に一致する個性 - 伝統

2017/09/29 (Fri) 03:32:57


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月29日)より

神に一致する事は決して個性を没却する事ではない。
梅は純粋に梅の個性を発揮する事が神に一致する事なのだ。
桜は一層純粋にその個性ある美を発揮する事が神に一致する事なのである。

神は梅を通して自己の無限個性の一部を表現し、
桜と通して自己の無限個性の一部を表現し給う。

神は「無」にして「一切個性」であると言い得る。
一切個性が「無」の一つに統一せられてあるのが無相の神である。

七色が統一されて無色の太陽光線になっている如く、
神に於いては一切が内に包容されていて無なのである。

           <感謝合掌 平成29年9月29日 頓首再拝>

人間は神の子である - 伝統

2017/10/16 (Mon) 03:42:10


        *「生命の實相」第5巻聖霊篇(P23)より

《人間は神の子》

人間は神の子である ―― これが「生長の家」の主張する根本自覚で、
この自覚を中心自覚と申すのであります。

なぜこの自覚を「中心自覚」と申しますかといいますと、
この根本自覚は円の中心のようなものであって、
この中心から外的な一切の善きものが流れ出るからであります。

この根本自覚が完全であればあるほど、この根本自覚が強烈であればあるほど、
われわれに発現する知恵いっそう明らかとなり、愛はますます深くなり、
生きる力はいよいよいよいよ豊富となり、万事における能力は層一層旺(さか)ん
となるのであります。

神われに在し、われ神の内にあるがゆえに、
すべてのこと、われに不可能なるものはない。

これが「中心自覚」でありまして「不可能という言葉を取り去れ。」
これが生長の家の生き方の最初の第一であります。

人間は神の子である ―― 中心自覚である。

           <感謝合掌 平成29年10月16日 頓首再拝>

神を通じての目的実現 - 伝統

2017/10/19 (Thu) 04:41:59


          *「光明法語(10月19日)」より

精神波及はかくの如く効果をあらわすが、
それは、個別の精神と、個別の精神との間の感応であって、
神がそれを成し給うのではない。

最高の精神感応は、神は普遍者(どこにも在る)であらせられるから、
如何なるところにある人にでも、如何なるところにある物資でもそれは感応し、
それが切実なる願いであるならば、その人はいつの間にか自分のところに訪れ来り、
その物資は自分の処に呼び寄せられるのである。

それは上手下手はないのであって
神に波長の合う誠心(まごころ)の出た人なら誰でも出来る。

            <感謝合掌 平成29年10月19日 頓首再拝>

《人間は何を求めるが好(よ)いか知らぬ事がある》 - 伝統

2017/11/03 (Fri) 03:33:59


         *『 生長の家 』(昭和25年1月7日の法語)より

   人間は神の子であるけれども、神の智慧(ちえ)は まだ必ずしも
   神の完全なる智慧の全相が現れてはいないのである。

   だから吾々は必ずしも自分にとって適当なものを
   求めるには きまっていないのである。

   それはたとえば 赤ん坊は針を口に入れたがるかも知れないし、
   毒薬の瓶をおもちゃにしたがるかも知れないし、
   弾をこめたピストルを玩具(がんぐ)にくれというかも知れない
   のである。

   そういう場合子供がいくら泣きついて それを求めても
   親は それを与えないでお菓子や人形を与えるであろう。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/73a595c4d3de262532146e0bf998e379

            <感謝合掌 平成29年11月3日 頓首再拝>

人間の身体は「神の宮」 - 伝統

2017/11/07 (Tue) 03:45:11


       *「光明法語」(11月7日黴菌も寄生虫も無い)より

人間は神の身体である。
神の身体を害する何かが存在すると云うことはあり得ないのである。
神の身体の中に黴菌や寄生虫が蝕(むしく)うと云うことはあり得ない。

宇宙の一切の存在は、唯一の神の聖なる計画の中に
すべてが調和して造られているのである。
神の霊なる身体の中に互いに敵対する如何なる存在もあり得ない。

人間の身体は神の霊によって創造(つく)られたる「神の宮」である。
神の霊が「神の宮」である人体の到る処に満ちているのである。

―― 斯く念ぜよ。

            <感謝合掌 平成29年11月7日 頓首再拝>

キリストは、「人間は神の子である」と宣言したのである - 伝統

2017/11/08 (Wed) 03:47:28


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月8日)より

キリストに対するユダヤ人の呪いは

「彼は自分自身を神の子と称せり。彼は神を涜(けが)すものである」

ということであった。

ユダヤ人の思想には、人間は永遠にエデンの楽園から追放された「土の塵の人間」、
「汝は土より採(と)られたれば土に還るべきなり」とエホバの宣言したところの
物質人間でしかなかったのである。

キリストが出て、当時のユダヤ人の思想を覆して、
「人間は神の子である」 と宣言したのである。

そして 

「我(われ)は道であって、この道を通ればすべての人間は神の子なることを自覚しえて、
永遠に渇(かわ)かない生命(せいめい)を得る」 

と断言したのである。

キリストは道標(みちしるべ)であった。

キリストの指し示したところをわれらも自覚するとき、
われら自身もキリストと同じく神の子たるを得るのである。

         <感謝合掌 平成29年11月8日 頓首再拝>

吾らは神の生命の枝 - 伝統

2017/11/17 (Fri) 04:30:28


       *「光明法語」(11月17日の法語)より

「われは葡萄(ぶどう)の樹、汝らは枝なり」とイエスは言った。
そして又「われと父とは一体なり」とも言ったのである。

かくて吾らは 「天の父」の枝なのである。
われらの生命は天の父より来(きた)るのである。

更に「枝」と「枝」 とは互いに孤立することなしに、
葡萄の樹の生命によって互いに一体なのである。

「何人(なんぴと)も《われ》によらで父に来る者なし」とイエスが言ったのは、
「何人も《イエス》と同じき神の子の自覚によらずして天の父と一体になることなし」
と言い給うたのである。

         <感謝合掌 平成29年11月17日 頓首再拝>

《神を生きる自分》 - 伝統

2017/12/07 (Thu) 04:34:35


          *『 生長の家 』(昭和25年3月18日の法語)より

   吾が生活は 神の生活である。
   吾が身は 神の身である。

   吾が全身の細胞は 頭の先から足の爪先(つまさき)に到(いた)る迄(まで)、
   神の霊にみたされているのである。

   それ故に永遠に新生し、永遠に復活し、常に若く、常に愉快に、
   常に健かなる力が みちみちているのである。

   神の癒す力が 我が全身に みちみちているが故に、
   自分の全身の如何(いか)なる部分も老いるということはないのである。

   神の癒す力は 自分の中に宿ってい給うが故に わが話す言葉は人々の病を癒し、
   人々の運命を幸福にする力が宿っているのである。

   常に神は わが血液とともに全身をめぐる。
   わが全身は常に健やかであるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

         <感謝合掌 平成29年12月7日 頓首再拝>

《天の使とは》 - 伝統

2017/12/10 (Sun) 03:53:19

          *「光明法語」(12月10日)より

「『われ汝が無花果(いちじく)の樹の下におるを見たりと
言いしに因(よ)りて信ずるか、汝これよりも更に大いなる事を見ん』また言い給う

『まことに誠に汝らに告ぐ、天ひらけて人の子のうえに神の使たちの
昇り降(くだ)りするを汝らは見るべし』(「ヨハネ伝」第1章末節)。

預言が出来たり、透視が出来たりすることが尊いのではない。

それより尚尊いのは、人の子のうえに神の使たちの昇り降りすること
即ち人間が神霊の顕現であり、「神の霊波」が昇り降りすることである。

「神の霊波」を人格的に表現して、「天の使」と言ったのである。

         <感謝合掌 平成29年12月10日 頓首再拝>

神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間 - 伝統

2017/12/26 (Tue) 04:03:34


         *「光明法語」(12月26日《人間はすべからく偉大なれ》)より

神は無限の富者であり、宇宙に満つる偉大者である。

神は決して神の子たる人間に最低限度の生活などを強要してはいられないのである。
人間はただ大根や馬鈴薯を辛(かろ)うじて食べるために生きているものではない。

神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間である。
須(すべから)く偉大なる事に着眼し、偉大なる生活を送らなければならぬ。

夜、人の知らぬ間に降りて大地や草木を霑す夜露の様な隠れたる生活も尊いが、
ナイヤガラの瀑布やグランド・キャニオンの峡谷も美しく尊いのである。

         <感謝合掌 平成29年12月26日 頓首再拝>

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