伝統板・第二

2515791
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

審判(さば)く心なかれ - 夕刻版

2016/08/11 (Thu) 18:08:30

《排斥する心は毛虫のような心》

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月11日>(P47)より

人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのが
わたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、
愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを知っていながら、
それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。
それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、ある人を排斥するのはまちがっている。
「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。

ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために
人の不快がる装いをして平気なことである。

自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

      <感謝合掌 平成28年8月11日 頓首再拝>

《人を審判(さば)く心なかれ》 - 伝統

2016/08/19 (Fri) 19:27:29


        *『 生長の家 』(昭和26年5月15日の法語)より

   外見にあらわれている悪(病気、悪意、不調和等)を
   存在すると思ってはならないのである。

   それは実在するのではなく、「あらわれ」ているに過ぎないのである。
   「あらわれ」と云うものは相対的関係で、
   そう見えるに過ぎないのである。

   こちらの心が変われば「あらわれ」は変化して見えるのである。

   あらゆる病気、不調和、悪意などは、神が創造らないのであるから、
   真に存在するものではないのである。

   現象(あらわれ)を見て心がひっかかってはならない。

   人を審判く心は、痛みや、狭窄(きょうさく)や、胃潰瘍や、
   出血性の病気や、高血圧病の原因である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

      <感謝合掌 平成28年8月19日 頓首再拝>

《一面の立場から人を批評してはならぬ》 - 伝統

2016/08/24 (Wed) 19:41:08


        *「光明法語」(P88~89<4月21日の法語>)より

若し彼が聖フランシスがしたように、また光明皇后がなし給うたように、
癩(らい)病患者の膿血に接吻する事が出来なかったならば、
彼の愛は乏しいのであるだろうか。

人間には生れつき、又は或る習慣的な後天的な影響から、
迚(とて)もそれに触れることが出来ないところの、
見るだけでも慴気(おぞけ)を顫(ふる)うような相手があるものである。

或る人は蚯蚓(みみず)が恐ろしくて触れることが出来ない。
或る人は蜘蛛(くも)が恐ろしくて触れることができない。
そのように或る人は到底癩(らい)病患者に触れることが出来ないのである。

      <感謝合掌 平成28年8月24日 頓首再拝>

《他人を責めることなかれ》 - 伝統

2016/09/02 (Fri) 19:10:19


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P72<9月2日>)より

すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと責める想念を
起こしてはならないのである。

この真理を、キリストは「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」と祈るように教えたのである。

だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。
なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが心の法則であるからである。

「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)何者かがあらわれて来るのである。

             <感謝合掌 平成28年9月2日 頓首再拝>

裁きの心を、すべて感謝に変える - 伝統

2016/09/03 (Sat) 17:39:15

      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P73<9月3日>)より

人を審判(さば)く者は、また自分も審判(さば)かれるのである。

聖書に「人の負債(おいめ)を赦せ」とあるのは、人に金を貸してあるのに
その借金証文を全部焼いてそれを帳消しにせよという意味ではないのである。
そんなことをしたら商取引は成り立たないのである。

「あいつはわしに損かけている」という感じを捨てて、
「あの人のお陰で商売(その他なんでも)が成り立っているのだ。ありがとうございます」
という気持ちになることなのである。

憎しみや、呪いや、腹立ちの感じを感謝に変化してしまうことである。

できるならば、憎んでいた人の名前をいちいちとなえて
「わたしはあなたを赦しました。わたしはあなたに感謝しています。ありがとうございます」
と毎朝夕20分くらいずつ思念するがよい。

             <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

《人を冷酷に審いてはならない》 - 伝統

2016/10/13 (Thu) 14:02:28


       *『幸福を招く365章』第10項(P205~206) より

愛情のない批評をされた時ほど、不快になるものはありません。

自分がそうされた時、不快になるのですから
あなたも人に対して冷たい批評をしてはなりません。

では、人を冷酷に批評しそうに自分がなってきた時には、
よほど警戒しなければなりません。

その時こそ神想観をし、(または神想観の気持ちになって)
「あの人は決して悪い人ではないのだ。あの人は神の子であり、立派な人であり、
あれで善意を一所懸命にやっているのだ。ありがとうございます」と

相手の実相を心の中で拝んでいればきっと、
相手は善意に満ちたよい人になってくれるのである。

           <感謝合掌 平成28年10月13日 頓首再拝>

人を審判(さば)かぬ日 - 伝統

2016/11/12 (Sat) 17:30:55


          *「光明道中記」(11月12日)より

【自分を標準にして人を審判く限り、人の心に平和は来ない。(『生命の實相』第十一巻)】

キリストが磔刑(はりつけ)になったときに「他(ひと)を救いて己を救い得ざる者よ」と
言って嘲笑したユダヤ人があった。

キリストは受難の前、ゲッセマネの園で血の汗を流した程苦しんだと云うことであるし、
十字架の上にあっても「神よ、神、我を捨て給うか」と悲鳴を挙げた。

五官で観る者は、その血の汗を観、その悲鳴を聴き、
キリストは悟っていなかったと言って嘲笑するであろう。

悟るとは何であるか。
そこに神が顕れることではないか。

では悲鳴は神であるか、血の汗は神であるか。
悲鳴は神ではない。血の汗は神ではない。
無論それは悟ではない。

それはキリスト自身が言ったように、人類の罪の代贖(みがわり)である。
人類の罪がそこに血の汗となり、悲鳴となって、音を立てつつ壊(くず)れ落ちたのである。

悲鳴は神ではなく、血の汗も神ではないが、挺身して人類の代贖者(みがわりもの)に
なろうと決意したイエスの《愛が神なのである》。
然(しか)り、愛が神なのである。

従容(しょうよう)として、莞爾(かんじ)として微笑して死に就(つ)き得ようとも、
愛なくば其処に神はいないから、悟もなく、仏もいないのである。

苦しんでも好い、泣き叫んでも好い、
愛を晦まさないこと、閻魔の心にならないことが大切である。

「神よ、彼らを赦したまえ、彼らは為すべきことを知らざるなり」
落涙霏々(らくるいひひ)たり。

          <感謝合掌 平成28年11月12日 頓首再拝>

《如何なる場合も相手の仏性をみよ》 - 伝統

2016/11/28 (Mon) 18:09:28


          *『幸福を招く365章』第11項(P230) より
   
人の表面の言葉や、行いで、其の人の愛を疑ってはならない。
現象をみて人を審判(さば)いてはならないのである。

どんな人にも仏性が宿っており、キリストが宿っているのである。

たとい誰かがあなたの感情を害することを云おうとも、また行おうとも、
相手に対して憤りの感情を起すよりも、

「あの人が幸福になりますように」とか
「あの人の“神の子”さんがあらわれますように」とか

祈ってやる気持ちになる方が、自分の心に平和と幸福とが訪れて来るのである。

そして終(つい)には相手を感化して、
真に相手を深切な人に化することができるのである。

特に自分に病気のある場合は人を憎んではならないのである。


(初出~「生長の家(昭和26年5月14日)の法語」)

          <感謝合掌 平成28年11月29日 頓首再拝>

真理で裁くなかれ、真理は自己を完うせんがためのもの - 伝統

2016/12/02 (Fri) 19:06:00


           *「光明道中記」(12月2日)より

  【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。

諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。
人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。

そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。

多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。

剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、自己を完うせんがために学ぶのである。

では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのであると云うことを知らなければならない。

他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。

時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。

欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。

          <感謝合掌 平成28年12月2日 頓首再拝>

真理は裁きの材料ではない、真理はそれ自身で尊い - 伝統

2016/12/03 (Sat) 17:55:56


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月3日)より

どんな善いことが書いてあっても、それが自分の魂を養う糧だとして受け取ることが
できない人は気の毒な人である。

甲は曰く、「これは乙を誡(いまし)めるために書いてあるのだ。乙の野郎奴(やろうめ)、
先生に誌上でやっつけられている、よい気味だ。」

乙は曰く、「これは甲を戒(いまし)めるために書いてあるのだ。甲の野郎奴(やろうめ)、
この文章を見て反省するがよい。」

こんな心境で読んだら、どんなよい教えでも人を争わす種になるばかりである。
わたしはただ真理を書くのみであって、何人(なんぴと)をやっつけるために書いている
のではない。

真理はそれ自身で尊いのである。

            <感謝合掌 平成28年12月3日 頓首再拝>

《人を審判(さば)く心なかれ》 - 伝統

2016/12/13 (Tue) 18:18:24


外見にあらわれている悪(病気、悪意、不調和等)を
存在すると思ってはならないのである。

それは実在するのではなく、「あらわれ」ているに過ぎないのである。

「あらわれ」と云うものは相対的関係で、そう見えるに過ぎないのである。

こちらの心が変われば「あらわれ」は変化して見えるのである。

あらゆる病気、不調和、悪意などは、神が創造らないのであるから、
真に存在するものではないのである。

現象(あらわれ)を見て心がひっかかってはならない。

人を審判(さば)く心は、痛みや、狭窄(きょうさく)や、胃潰瘍や、
出血性の病気や、高血圧病の原因である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第11項(P230~231) より
初出~「生長の家(昭和26年5月15日)」

            <感謝合掌 平成28年12月13日 頓首再拝>

《みずから作る運命》 - 伝統

2016/12/24 (Sat) 19:21:31


        *「光明法語」(12月14日)より

イエスは審判いたから、とうとうその反対論者や審判かれた祭司や
パリサイ人などの謀略にかかって磔刑(はりつけ)にせられたのである。

イエスは「モーゼ蛇を挙げしが如く人の子も挙げらるべし」とみずから預言して
其の預言の通りになるように行動したのである。

イエスには磔(はりつけ)に架(かか)かることが
自己の切なる魂の奥底の願いだったのである。
魂の奥底の切なる願いは必ず成就する。

彼の生涯は若し彼があんなに神経的に他を審判かなかったならば十字架に
かからなかっただろう点が多々ある。

            <感謝合掌 平成28年12月24日 頓首再拝>

【裁く者は裁かれる】 - 伝統

2016/12/29 (Thu) 20:14:45


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年12月28日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   《裁く者は裁かれる  裁かない者は裁かれない  
    許す者は許される  許さない者は許されない》 (キリストのことば)


   私は49歳のときにこんなことばを思いついて、
   31日カレンダーのとある1日の中に書いています。

   「投げかけたものが返ってくる。 投げかけないものは返らない。 
    愛すれば愛される。 愛されなければ愛されない。 
    嫌えば嫌われる。 嫌わなければ嫌われない」


   (参照:伝統板・第二「うたしごよみ」<小林正観うたしごよみ22日 >
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6651658 )


   投げかけたものが返ってくるというのが、宇宙の大法則であるということに、
   私は49年かけてやっと気がつきました。

   笑顔をずっと周りの人に投げかけていれば、
   いつの間にか自分の未来が笑顔に囲まれるのです。

   そして、不機嫌をずっと投げかけていれば、
   いつの間にか不機嫌に囲まれるのです。


   投げかけたものが返ってくる。
   投げかけないものは返らない。

   そういう事実に気がついたのでした。

   キリストはなんと20何歳の若さでこのことに気がついていたようです。


   「裁く者は裁かれる。 裁かない者は裁かれない。 
   許す者は許される。 許さない者は許されない」

   このことがわかれば、自分の損得勘定として、
   人を裁かないほうがよさそうだということに気がつきます。

   人を許したほうが得策であるということにも気がつきます。

   そして、思いやりのある言動をとること、笑うこと、感謝することを、
   試してみたくなるでしょう。

   こんな短いことばで、人生の非常に重要な部分を、
   すでに2000年も前にキリストは言い当てていたのです。

        <『心に響いた珠玉のことば』KKベストセラーズ>

             ・・・

投げかけたものが返ってくる…

人にイジワルをすれば、人からイジワルされる。

人の悪口を言えば、人から悪口を言われる。

いつも非難したり怒ったりしていれば、非難したり怒ったりする人たちに囲まれる。

いつもニコニコしていれば、ニコニコする人たちに囲まれる。

まわりに「ありがとう」といつも言っていれば、「ありがとう」という人たちに囲まれる。

いつもまわりに感謝していれば、感謝多き人たちに囲まれる。


「裁く者は裁かれる」


聖書の中にこんなエピソードがある。

罪を犯して民衆から石打ちの刑にされそうになっていた女性を助ける場面だ。

イエスは民衆に向かって、

「あなたがの中で、ただの一度も罪を犯したことのない者がいたら、
順番にこの女に石を投るがいい」

すると、民衆は、年長者から順に、一人去り、二人去り、
やがてイエスを残して全員がその場を去った。

一人残ったイエスも、「もう決して罪を犯してはならない」と言い残してたち去ったという。


「投げかけたものが返ってくる」

いつもニコニコと笑顔で、機嫌よく毎日を暮らしたい。

            <感謝合掌 平成28年12月29日 頓首再拝>

今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたい - 伝統

2017/01/15 (Sun) 19:03:43


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月15日)より

いいかげんな聴きようをして、物事を批評してはならぬ。
紙1枚の差が霄壤(しょうじょう)の差である。

今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたいものである。

ものの善し悪しは、よくその結果の良否を見て判断しなければならぬ。
この点において「果実を見てその樹(き)の善悪(よしあし)を知れ」
と言ったキリストは正しい。

「この畳のありてこそ、やぶれたるかやぶれざるかのいうことはあれ、
本来無(な)からん畳をば何とか論ずべき、持戒もなく破戒もなし。」

                     (伝教大師『末法燈明記』)

            <感謝合掌 平成29年1月15日 頓首再拝>

人はそのことばや行ないによってさばいてはならない - 伝統

2017/01/28 (Sat) 18:33:24


《常に己の心を清むべし》

          *「光明法語」(1月28日)より

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならばその人はよき人と現れるのである。
もしその人がよき人と現れなかったならば、それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、すべての人間が神の子であり、
佛の子であることを自覚する時どこにも悪しき人はいないのである。

            <感謝合掌 平成29年1月28日 頓首再拝>

《非難の心は実相の実現を妨げる叢雲(そううん)である》 - 伝統

2017/04/22 (Sat) 17:25:32


          *『 生長の家 』(昭和25年12月8日の法語)より

   自分が周囲の人々に対して抱いている念の投影が
   自分の周囲の状態なのである。

   周囲を 「 悪い、悪い 」 と心で非難している間は、
   周囲の悪は去らないのである。

   他(ひと)を 「 悪い、悪い 」 と叢雲のように非難している
   念波のあるところへは、
   実相円満完全の相は実現して来ないのである。

   それは恰も叢雲のあるところには太陽はあれども
   日光は射して来ないようなものである。

   他を非難するばかりでなく、
   自分自身を非難する心さえも同じように
   神の国の円満な実相を投影するための妨げとなるのである。

   すべての人を赦すとは、自分を赦すことも引っくるめてである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12295315.html

            <感謝合掌 平成29年4月22日 頓首再拝>

《人の心の傷を突衝(つつ)くな》 - 伝統

2017/05/05 (Fri) 19:15:26


        *光明法語(P89)より

スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、膽(きも)の据わった泥棒であった。

併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。

生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが演壇が恐ろしいのは
臆病のせいであろうか。
時として人には到底克服出来ない嫌悪や不快や恐怖をいだく心の傷があるものである。
そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。

            <感謝合掌 平成29年5月5日 頓首再拝>

審判(さば)き心を捨つる日 - 伝統

2017/06/28 (Wed) 20:15:06


          *「光明道中記」(6月28日)より

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

人を観るには常に絶対価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスは絶対価値なり。

            <感謝合掌 平成29年6月28日 頓首再拝>

《人を嫉妬し審判(さば)いてはならぬ》 - 伝統

2017/07/02 (Sun) 20:04:34


           *『 生長の家 』(昭和25年12月24日の法語)より

   愛は富を引きつけ、憎みは富を排斥する。
   富を持っている者を嫉妬してはならぬ。

   富者を嫉妬する心は「富むことを憎む心」であるから、
   「自分自身の富むこと」をも排斥することになるのである。

   「どうして彼奴(あいつ)は金を儲(もう)けたのだろう。
   屹度(きっと)不正なことをしやがったのだろう」などと
   批評する心を起してはならないのである。

   人を審判く心は自分自身をも審判くことになるのである。
   人の富を攻撃する心は、自分の富をも攻撃し排斥することになる。

   攻撃したり、排斥したり、審判いたりする心は
   愛にそむく心なのである。

   諸君は他(ひと)の富を嫉妬するよりも、
   自分の富を受け取れば好(よ)いのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12352896.html

            <感謝合掌 平成29年7月2日 頓首再拝>

他には寛大であれ - 伝統

2017/08/07 (Mon) 21:21:57


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる、八月七日 善のみを視(み)る日)より抜粋
         
 【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

          <感謝合掌 平成29年8月7日 頓首再拝>

《排斥する心は毛虫のような心》 - 伝統

2017/08/11 (Fri) 18:46:13


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月11日>(P47)より

人間たちが互いに憎み合い、互いに悪口を言い合うのが
わたしには不思議でたまらないのである。

憎みや悪口の中には地獄があり、
愛と讃め言葉の中には天国浄土があるということを知っていながら、
それらの人々は憎み、かつ悪口を言い合っているのである。

互いに排斥し合う者は「生長の家」の誌友ではないのである。
いわんや「生長の家」の講師ではない。
それは地獄の役員であり、閻魔の庁の衛丁(えいてい)ぐらいのところだろう。

「生長の家」のためにならないからといって、ある人を排斥するのはまちがっている。
「生長の家」はそんな小さなものではない。
生長の家のためにならない人間などは世の中にないのである。

毛虫でさえも世の中に何か貢献している。
いわんや毛虫に幾億倍優っている人間においておやである。

ある人間を毛虫のように思って排斥する人は、
その排斥する方の人自身が毛虫のような心をもっているのである。

毛虫が人に嫌われるのは、自分を衛(まも)るために
人の不快がる装いをして平気なことである。

自分を衛るために、人の迷惑になる悪口を言う人は毛虫の心である。

         <感謝合掌 平成29年8月11日 頓首再拝>

人を裁くな - 伝統

2017/10/14 (Sat) 20:14:52


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2012.7.4)」より

   (D・カーネギー氏の心に響く言葉より…)

   1865年4月15日の朝のこと、フォード劇場で凶弾にたおれた
   エーブラハム・リンカーンは、劇場のすぐ向いのある安宿のベッドに
   寝かされて死を待っていた。

   この痛ましい光景を見守っていたスタントン陸軍長官は、

   「ここに横たわっている人ほど完全に人間の心を支配できた者は、
   世に二人といないだろう」と、

   つぶやいた。


   それほど巧みに人間の心をとらえたリンカーンの秘訣は何か?
   リンカーンは人を非難することに興味を持ったことがあるかというと、
   それが、おおありなのである。

   彼がまだ若くてインディアナ州の田舎町に住んでいたころ、
   人のあら捜しをしただけでなく、相手をあざ笑った詩や手紙を書き、
   それをわざわざ人目につくように道ばたに落としておいたりした。

   その手紙の一つがもとになって、
   一生涯彼に反感を持つようになった者も現れた。

   その後、弁護士を開業してからも、彼は、反対者をやっつける手紙を、
   新聞紙上に公開したりなどしていたが、とうとうやりすぎて、
   最後にとんでもない目にあわされることになった。

   ある政治家のことを、新聞に匿名で風刺文を書いたのがもとで、
   決闘を申し込まれ、危うく死にかけたのだ。

   おかげで、彼は、人の扱い方について、この上ない教訓を得たのである。

   二度と人を馬鹿にした手紙を書かず、人をあざけることをやめ、
   どんな事があっても、人を非難するようなことは、ほとんどしなくなった。


   それからずっと後のことだが、南北戦争のとき、
   ポトマック河地区の戦闘が思わしくないので、
   リンカーンは、司令官をつぎつぎと取り替えねばならなかった。

   国民の大半は、この無能な将軍たちを痛烈に非難したが、リンカーンは

   “悪意をすてて、愛をとれ”

   と自分にいい聞かせて、心の平静を失わなかった。


   “人を裁くな…人の裁きを受けるのがいやなら”

   というのが、彼の好んだ座右銘であった。

   リンカーンは、妻や側近の者が、南部の人たちをののしると、こう答えた…

   「あまり悪くいうのはよしなさい。われわれだって、立場をかえれば、
   きっと南部の人たちのようになるんだから」

   死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえおればよろしい。
   その批評が当っておればおるほど、効果はてきめんだ。

           <『人を動かす』創元社>

           ・・・

誰かが失敗をして、その間違いを指摘し、非難したとしても、
その人は、「そうするより他に仕方がなかった」というだろう。

人から責められれば責められるほど、人はガードを固くして、
自己正当化を計り、間違いは決して認めない。

「盗人にも三分の理」のことわざのように、
どんなに筋の通らないことでも、それなりの理屈はつけられるものだ。

誰かを非難しても、決して、自ら反省したり、行動を改めたりすることはない。

人は感情の動物であって、論理で動くことは決してない。

「人を裁くな…人の裁きを受けるのがいやなら」

人を非難したくなったら、リンカーンのこの言葉を思いだしたい。

         <感謝合掌 平成29年10月14日 頓首再拝>

《神との接点となるべき 「 愛 」 の場所をつくれ》 - 伝統

2017/11/08 (Wed) 20:12:30


       *『 生長の家 』(昭和26年2月23日の法語)より

   他の人が、自己の掲ぐる道徳的又は宗教的標準にかなわないからとて、
   始終 それを非難する心をもっている限りは、

   自分自身が神と接触すべき最も肝心の場所に
   「 非難 」 と云う絶縁体を置いているのと同じである。

   だから、自分の標準をもって
   他の人を審判(さば)いてはならないのである。

   人を審判いたり、人を怒ったりする前に、自分自身の心の中に
   「 神と接触する完全清浄の場所 」 ( 愛の場所 )
   をつくることが大切である。

   人を責めることによって
   自分の心が汚れることを 慎まねばならないのである。

   人を責める心を起した程度に、
   自分自身の受け得る神の愛を遮っているのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/67366e1596e08b49949e692d8883b8c0

         <感謝合掌 平成29年11月8日 頓首再拝>

心鋭くなるなかれ! - 伝統

2017/11/10 (Fri) 19:02:25


          *「光明道中記」(11月10日)より
            ~人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。
道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、
「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。

人々よ
肉体の病気よりも人は自分の心が他(ひと)を咎(とが)めたくなる
心病に罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。

その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。

高慢は禁物である。

          <感謝合掌 平成29年11月10日 頓首再拝>

《罪を他に転嫁すれば一層苦しくなる》 - 伝統

2017/11/23 (Thu) 19:24:01


       *『 生長の家 』(昭和26年2月25日の法語)より

   自己を呪い、また他を憎み怨むすべての意識と別れを告げよ。

   「 自己及びすべてのわが知れる人々の罪は既に消えたのである。
   自分は自分を審判(さば)かないが如く
   他の人々をも審判かないのである。」 と

   繰返し繰返し神想観中に念ぜよ。

   自分に後ろ暗い感じがあると、他を責めたくなるものである。
   自己嫌悪感が他に向けられて、他の人の罪をさばきたくなるのである。

   それは罪悪感の転嫁であるが、
   他に罪を転嫁したとて自分の罪悪感は減らないのである。

   他を責める心が二重三重の罪悪感となって
   自分に返って来るものであるから、

   その人の内心の苦(くるし)みは減らないで増す許(ばか)りである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ca9c691583d9df780f02e7d536eee34e

          <感謝合掌 平成29年11月23日 頓首再拝>

真理は裁きの材料ではない - 伝統

2017/12/03 (Sun) 20:30:52


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月3日)より

どんな善いことが書いてあっても、それが自分の魂を養う糧だとして受け取ることが
できない人は気の毒な人である。

甲は曰く、「これは乙を誡(いまし)めるために書いてあるのだ。
乙の野郎奴(やろうめ)、先生に誌上でやっつけられている、よい気味だ。」

乙は曰く、「これは甲を戒(いまし)めるために書いてあるのだ。
甲の野郎奴(やろうめ)、この文章を見て反省するがよい。」

こんな心境で読んだら、どんなよい教えでも人を争わす種になるばかりである。
わたしはただ真理を書くのみであって、
何人(なんぴと)をやっつけるために書いているのではない。

真理はそれ自身で尊いのである。

            <感謝合掌 平成29年12月3日 頓首再拝>

あなたは裁判官ではない - 伝統

2017/12/17 (Sun) 18:52:08


         *「白鳩」昭和37年3月号 より

あなたは 裁判官 として生まれたのではない。

“神の子”として生まれたのである。 
従って、人々をその言行によって裁いてはならない。

相手の表面の不完全さを見ず、万人の実相であるところの“神の子”を見、
それを瞑想し、礼拝し、その“神の子”なる実相を呼び出し引き出すように
しなければならない。

若し、現象的に良くない人、不調和の人が眼についたならば、
その現象的な不良の面、不調和な面を語ってはならない。

現象の不良や不調和に眼を閉じて、その人の内部の実相たる“神の子”に呼びかけて、

「あなたは神の子である。 善い人である。 人に深切である。 
悪い考えや、人に迷惑をかけるような考えは決してもっていないのである」

と一心に念ずるがよい。 
念ずる通りにあらわれるのである。

人間は誰も皆、“神の子”であって悪い人はいないのである。

“悪い人”としてあらわれて見えるのは相互の“理解”が足りないからである。

本当に腹の中を割って話し合って見れば、相互の理解に到達し、
その人の“善人”の面があらわれて来るものである。


  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/e26071c9a41874cd6c22ed1b4d762d84 )

            <感謝合掌 平成29年12月17日 頓首再拝>

今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたいものである - 伝統

2018/01/15 (Mon) 18:33:59



          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月15日)より

いいかげんな聴きようをして、物事を批評してはならぬ。
紙1枚の差が霄壤(しょうじょう)の差である。
今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたいものである。

ものの善し悪しは、よくその結果の良否を見て判断しなければならぬ。
この点において「果実を見てその樹(き)の善悪(よしあし)を知れ」
と言ったキリストは正しい。

「この畳のありてこそ、やぶれたるかやぶれざるかのいうことはあれ、
本来無(な)からん畳をば何とか論ずべき、持戒もなく破戒もなし。」
(伝教大師『末法燈明記』)

            <感謝合掌 平成30年1月15日 頓首再拝>

心を清め、人をさばくこと勿れ。 - 伝統

2018/01/28 (Sun) 19:48:46


         *「光明法語」(1月28日)より

《常に己の心を清むべし》

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。

もしその人がよき人と現れなかったならば、それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、
すべての人間が神の子であり、佛の子であることを自覚する時
どこにも悪しき人はいないのである。

            <感謝合掌 平成30年1月28日 頓首再拝>

《一面の立場から人を批評してはならぬ》 - 伝統

2018/04/21 (Sat) 19:02:25


       *「光明法語」(4月21日)より

若し彼が聖フランシスがしたように、また光明皇后がなし給うたように、
癩(らい)病患者の膿血に接吻する事が出来なかったならば、
彼の愛は乏しいのであるだろうか。

人間には生れつき、又は或る習慣的な後天的な影響から、
迚(とて)もそれに触れることが出来ないところの、
見るだけでも慴気(おぞけ)を顫(ふる)うような相手があるものである。

或る人は蚯蚓(みみず)が恐ろしくて触れることが出来ない。
或る人は蜘蛛(くも)が恐ろしくて触れることができない。
そのように或る人は到底癩(らい)病患者に触れることが出来ないのである。

            <感謝合掌 平成30年4月21日 頓首再拝>

《人の心の傷を突衝(つつ)くな》 - 伝統

2018/04/22 (Sun) 19:36:55


       *「光明法語」(4月22日)より

スター・デーリーはどんな強盗の首魁(しゅかい)でも
彼の名前を聞けば顫(ふる)え上がる程に、
膽(きも)の据わった泥棒であった。

併し獄舎の中で大衆を相手に説教しようと演壇にたった時には、
その膽の据わりはどこへやら、ボーッとして周囲が見えなくなり、
一語も発する事が出来ない程に恐怖心を感じたのであった。

生命(いのち)の奪い合いでは恐れないデーリーが演壇が恐ろしいのは
臆病のせいであろうか。

時として人には到底克服出来ない
嫌悪や不快や恐怖をいだく心の傷があるものである。

そう云う心の傷は労ってやるべきで攻撃すべきではない。

            <感謝合掌 平成30年4月22日 頓首再拝>

裁くなかれ! 人を観るには常に絶対価値を以てせよ。 - 伝統

2018/06/28 (Thu) 19:47:01


      *「光明道中記」(6月28日 審判(さば)き心を捨つる日)より

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

人を観るには常に絶対価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスは絶対価値なり。

            <感謝合掌 平成30年6月28日 頓首再拝>

人を責める心は、神の愛を遮る - 伝統

2018/07/16 (Mon) 19:48:07


       *『 生長の家 』(昭和26年2月23日の法語)より

《神との接点となるべき 「 愛 」 の場所をつくれ》

他の人が、自己の掲ぐる道徳的又は宗教的標準にかなわないからとて、
始終 それを非難する心をもっている限りは、

自分自身が神と接触すべき最も肝心の場所に
「 非難 」 と云う絶縁体を置いているのと同じである。

だから、自分の標準をもって 他の人を審判(さば)いてはならないのである。

人を審判いたり、人を怒ったりする前に、自分自身の心の中に

「 神と接触する完全清浄の場所 」 ( 愛の場所 )をつくることが大切である。


人を責めることによって自分の心が汚れることを 慎まねばならないのである。

人を責める心を起した程度に、自分自身の受け得る神の愛を遮っているのである。

https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/67366e1596e08b49949e692d8883b8c0

            <感謝合掌 平成30年7月16日 頓首再拝>

【不平を言う者を雇いたがる人はいない】 - 伝統

2018/09/01 (Sat) 18:27:51


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年08月23日)より

   (レス・ギブリン氏の心に響く言葉より…)

   人々はあなたをあなた自身の自己評価をもとに判断するだけでなく、
   あなたが自分の仕事や同業者に対して
   どういう評価をしているかをもとに判断する。

   聖書に「裁かれたくなければ、裁いてはいけない」という教えがある。

   これは人間関係に関する名言である。

   私たちは何かを裁くたびに、自分を裁くきっかけを他人に与えてしまうのだ。


   多くの離婚訴訟を扱う弁護士が、こんなことを言った。

   「夫や妻が配偶者のいやな部分について話すたびに、その配偶者より
   その人自身の本性があらわになっているように感じる」

   つまり、他人についてネガティブな発言をすると、
   自分について悪い印象を相手に与える結果になるのである。


   ニューヨークで職業安定所を営むウォルター・ローウェン所長は、
   高給が得られる仕事を相談者に紹介することで知られている。

   彼は30年以上にわたって実績を上げてきたベテランである。

   彼が相談者にアドバイスしていることのひとつは、
   「新しい雇い主と面談しているときに前の雇い主に対する不満を
   ぶちまけてはいけない」ということだ。

   前の雇い主を批判して新しい雇い主に取り入りたくなるのはわからないでもない。

   前の職場で不当な扱いを受けたことを愚痴りたくなるのも理解できる。

   だが、ローウェン所長は「それは絶対にしてはいけない。
   不平を言う者を雇いたがる人はいないことを肝に銘じるべきだ」
   とクギを刺している。


   不平を言う人と一緒にいたとき、あなたは不快な気分になったに違いない。

   実際、不平不満を並べる人の人望のなさは、誰も知っているとおりだ。

   あなたは自分の仕事や職場をどう評価しているだろうか。

   仕事先と職場内容を尋ねられたとき、申し訳なさそうに
   「ええまあ、〇〇銀行で〇〇係として仕方なく働いています」と答えるか、

   誇らしげに「はい、〇〇銀行という素晴らしい職場で〇〇係として
   一生懸命働かせてもらっています」と答えるか。

   後者の方なら、相手はあなたに好印象を抱くだろう。


   出身地を尋ねられたとき、
   恥ずかしそうに「つまらない田舎の出身です」と答えるか、
   「〇〇という素晴らしい地域の出身です」と答えるか。

   後者の答え方なら、相手はあなたに好印象を抱くだろう。

   「上司はダメな人だ」とか「自分のしている仕事はつまらない」などと言うと、
   聞いている人は「あなたがダメな人だから、ダメな上司の下でつまらない仕事を
   しているのだ」と思うに違いない。


   セールスにたずさわっている人に注意しておこう。

   ライバルをおとしめると顧客に嫌われることを知らないセールスマンが多すぎる。

   相手に好印象を与えたいなら、
   ライバル社やライバル社の商品をけなしてはいけない。

   そんなことをするのではなく、自社の商品を称賛しよう。


   人々はネガティブな話し方を嫌うだけではない。

   あなたはネガティブな舞台を設定し、ネガティブな雰囲気をつくっている。

   だから見込み客が買ってくれないのだ。

   しかも、見込み客は心の中で「ライバル社の商品のほうがいいのではないか。
   そうでなければ、この人がそれを恐れてこき下ろすはずがない」と勘繰る。

         <『人望が集まる人の考え方』ディスカヴァー>

             ・・・

誰かが、人の悪口を言っているのを聞いて、気分が良くなる人はいない。

それは、脳が主語を理解できないからだ。

「(あの人)大嫌い」と言うのを聞くと、
(あの人)という主語が抜けて、「大嫌い」だけが脳に残る。

つまり、まるで自分の悪口を言われているように感じてしまう。

実際、悪口を言う人は、その人だけでなく、他の人の悪口も言う人だから、
まわりまわって、いつかは自分も言われるハメになる。


人は、不平や悪口を言う人には、本能的に良い印象を持たない。

その逆に、人から良い印象を持たれるためには、どんなときも、
人の心を「あたたくする言葉」、「気持ちよくする言葉」、「幸せにする言葉」、
「楽しくなる言葉」を言うことだ。

そして、嫌なことがあったとしても、
その中からいいことだけを見つけて、人をほっこりさせることを言う。


「不平を言う者を雇いたがる人はいない」を肝に銘じたい。

            <感謝合掌 平成30年9月1日 頓首再拝>

《他人を責めることなかれ》 - 伝統

2018/09/02 (Sun) 17:57:03


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月2日)より

すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと責める想念を
起こしてはならないのである。

この真理を、キリストは「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる
ごとく、我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」と祈るように教えたのである。

だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。
なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが心の法則であるからである。

「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)何者かがあらわれて来るのである。

             <感謝合掌 平成30年9月2日 頓首再拝>

人の隙を見つけようとしない - 伝統

2018/11/10 (Sat) 18:25:41


          *「光明道中記」
           (11月10日 人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日)より

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                             (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。
道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。

人々よ肉体の病気よりも人は自分の心が他(ひと)を咎(とが)めたくなる
心病に罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。

その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。

高慢は禁物である。

          <感謝合掌 平成30年11月10日 頓首再拝>

《みずから作る運命》 - 伝統

2018/12/14 (Fri) 18:08:26


         *「光明法語」(12月14日)より

イエスは審判いたから、とうとうその反対論者や審判かれた祭司や
パリサイ人などの謀略にかかって磔刑(はりつけ)にせられたのである。

イエスは「モーゼ蛇を挙げしが如く人の子も挙げらるべし」とみずから預言して
其の預言の通りになるように行動したのである。

イエスには磔(はりつけ)に架(かか)かることが
自己の切なる魂の奥底の願いだったのである。
魂の奥底の切なる願いは必ず成就する。

彼の生涯は若し彼があんなに神経的に他を審判かなかったならば十字架に
かからなかっただろう点が多々ある。

          <感謝合掌 平成30年12月14日 頓首再拝>

今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたいものである。 - 伝統

2019/01/15 (Tue) 17:18:51


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月15日)より

いいかげんな聴きようをして、物事を批評してはならぬ。
紙1枚の差が霄壤(しょうじょう)の差である。
今日一日ひとを審判(さば)かないようにしたいものである。

ものの善し悪しは、よくその結果の良否を見て判断しなければならぬ。

この点において「果実を見てその樹(き)の善悪(よしあし)を知れ」
と言ったキリストは正しい。

「この畳のありてこそ、やぶれたるかやぶれざるかのいうことはあれ、
本来無(な)からん畳をば何とか論ずべき、持戒もなく破戒もなし。」
                   (伝教大師『末法燈明記』)

            <感謝合掌 平成31年1月15日 頓首再拝>

罪を他に転嫁すれば一層苦しくなる - 伝統

2019/01/23 (Wed) 18:07:11


        *『 生長の家 』(昭和26年2月25日の法語)より


自己を呪い、また他を憎み怨むすべての意識と別れを告げよ。

「 自己及びすべてのわが知れる人々の罪は既に消えたのである。
自分は自分を審判(さば)かないが如く他の人々をも審判かないのである。」 と

繰返し繰返し神想観中に念ぜよ。

自分に後ろ暗い感じがあると、他を責めたくなるものである。
自己嫌悪感が他に向けられて、他の人の罪をさばきたくなるのである。

それは罪悪感の転嫁であるが、
他に罪を転嫁したとて自分の罪悪感は減らないのである。

他を責める心が二重三重の罪悪感となって自分に返って来るものであるから、
その人の内心の苦(くるし)みは減らないで増す許(ばか)りである。

  (https://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ca9c691583d9df780f02e7d536eee34e


<参考>『 生長の家 』 昭和二十六年二月号の法語
    「谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yuyu6/mode=res&log=60

          <感謝合掌 平成31年1月23日 頓首再拝>

《常に己の心を清むべし》 - 伝統

2019/01/28 (Mon) 19:44:50


          *「光明法語」(1月28日)

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。

もしその人がよき人と現れなかったならば、それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、
すべての人間が神の子であり、佛の子であることを自覚する時
どこにも悪しき人はいないのである。

          <感謝合掌 平成31年1月28日 頓首再拝>

《攻撃精神は同時に自己破壊精神です》 - 伝統

2019/06/12 (Wed) 20:54:46


           *「真理」第九巻生活篇(P98~99)より

他(ひと)に復讐の心をもっていれば、
あなたみずからが苦しまなければなりません。

あなたが復讐の心を背負って歩いているならば、
それは茨の枝を背負って歩いているようなものです。

歩いているうちは、歩行に気をとられて茨の棘(とげ)に気がつかない
かもしれませんけれども、さてその茨の枝を背負ったまま
仰臥(ぎょうが)しますと、今更ながら、その背負ったものが
自分自身を傷つける痛みに気がつくのです。

復讐や慍(いか)りや憎しみは最初は自分を傷つけるものだと云うことに
気がつきませんが、やがては此の自分の背負っている茨の枝のように
自分を傷つけるようになるのであります。


神は決して私達に罰を与えません。

「審判(さばき)は子にゆだねたり」と云う言葉が聖書の中にありますが、
神の子たる人間が自己審判して自分を傷つけのです。

最近の精神分析の発達は、他(た)に対する攻撃精神と云うものが
如何に自己破壊の願望とつながっているかを教えているのであります。

            <感謝合掌 令和元年6月12日 頓首再拝>

審判くなかれ! 人を観るには常に絶対価値を以てせよ - 伝統

2019/06/28 (Fri) 22:07:09


       *「光明道中記」(6月28日《審判(さば)き心を捨つる日》)より

【わが教は審判く道ではないのだ。礼拝の道だ。包容の道だ。
                         (『生命の實相』第十一巻)】

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

人を観るには常に絶対価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスは絶対価値なり。

            <感謝合掌 令和元年6月28日 頓首再拝>

《他人を責めることなかれ》 - 伝統

2019/09/02 (Mon) 22:34:56


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月2日)より

すべての事物は、想念の具象化であるから、われわれ自身のうちに、
自己でも他人(ひと)でも、呪ったり、憎んだり、不完全だと
責める想念を起こしてはならないのである。

この真理を、キリストは

「我らに負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したるごとく、
我らの負債(おいめ)をも免(ゆる)し給え」

と祈るように教えたのである。

だいたいひとに罪を着せて、「あいつは悪い奴だ」と思っていて、
自己に幸福が来るはずはないのである。

なぜなら「類をもって集まる」「類は類を招く」のが
心の法則であるからである。

「人を呪わば穴二つ」という諺のとおり
「人を罪する心」をもっているかぎりは
「自分を罪する」(すなわち自分を不幸にする)
何者かがあらわれて来るのである。

          <感謝合掌 令和元年9月2日 頓首再拝>

拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない - 伝統

2019/11/10 (Sun) 22:37:52


       *「光明道中記」
       (11月10日《人の欠点を見ず、深切な語(ことば)を使う日》)より

【人生に傷つける人、疲れたる人に何よりも必要なのは光明を与える言葉である。
                        (『生命の實相』第四巻)】

完全に悟らなければ人に道を伝えることは出来ないと云うことは間違である。
道を伝えることはその人の「行(ぎょう)」であり、
「行」あってその人が浄(きよ)まり、
「行」あってその人の生命が生き進みつつあるのである。

完全に悟らなければ人に道を伝えたら可(い)けないと言ったら、
日本国中で道を伝える資格のある人は幾人あるであろうか。

また完全に悟らなければ、その人の生命は「行」をして可けない、
生命が生き進んでは可けないと言うべきものではない。

みんなを拝めるのが悟であり審判(さば)くのが悟ではない。
途中の鼻高は審判(さば)きたがるし、悟った人は拝むばかりである。

講師が来ても何か落ち度がないかと鵜の目、鷹の目で見詰めている人は
鵜のような人であり、鷹のような人である。

仏のような人は、どこからでも拝んで光を見出すが、
隙(すき)をねらっている人はどこからでも隙を見出すであろう。

心が鋭くなると云うことに自戒しなければならぬ。

人々よ肉体の病気よりも人は自分の心が他(ひと)を咎(とが)めたくなる
心病に罹(かか)っていやしないかを警戒せよ。

その人の心病は今形に出ないからとて
いつの日にか形に出ないことを保証し得るであろう。

高慢は禁物である。

          <感謝合掌 令和元年11月10日 頓首再拝>

他の欠点を斬り審判(さば)かない - 伝統

2019/12/02 (Mon) 18:37:32


   *「光明道中記」(12月2日《真理を諦(あきら)かにする日》)より

  【善業を積むとは私的でない利己的でない行いをすることである。
                       (『生命の實相』第二巻)】

宗教とは自分を諦(あきら)め行く真理である。

諦めるとは自分を思いあきらめてしまうことでもなければ、
自分を誤魔化すことでもない。
人間は時とすると、対向者が出て来る場合には、相手の欠点を探すために、
自分の手許がお留守になることが有り勝である。

そんな時に其の人は相手から打ち込まれて、お面(めん)をとられ、
お小手(こて)をとられても知らないで、まだ偉そうに構えている事がある。

多くの剣道の名人は、塚原卜伝もそうであったように、
敵を斬(き)るために剣を学ばず、
ただ自分を完(まっと)うせんがために学ぶように教えたのである。

剣でさえも、敵を斬るために学ぶのではなく、
自己を完うせんがために学ぶのである。

では真理は人を批(う)つために学ぶのではなく、
自己を完うし更に人をも完うせんがために学ぶのである
と云うことを知らなければならない。

他の欠点を斬り審判(さば)こうと思っている限りに於て
自分の欠点に気が着くものではない。

時々地方の支部から、近接地の支部のやり方の悪いことを指摘して、
「何とかして貰わないと、あれではあの行持(おこない)では、
羊頭(ようとう)を揚げて狗肉(くにく)を売るものです。
光明を揚げて暗黒を売るものです」と云う報(しら)せを頂く。

欠点と云うものは指摘して直るものなら簡単だが、
唯、私は泪(なみだ)を嚥(の)むほかない。

          <感謝合掌 令和元年12月2日 頓首再拝>

真理は裁きの材料ではない、真理はそれ自身で尊い - 伝統

2019/12/03 (Tue) 19:40:44


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月3日)より

どんな善いことが書いてあっても、
それが自分の魂を養う糧だとして受け取ることが
できない人は気の毒な人である。

甲は曰く、「これは乙を誡(いまし)めるために書いてあるのだ。
乙の野郎奴(やろうめ)、先生に誌上でやっつけられている、よい気味だ。」

乙は曰く、「これは甲を戒(いまし)めるために書いてあるのだ。
甲の野郎奴(やろうめ)、この文章を見て反省するがよい。」

こんな心境で読んだら、どんなよい教えでも人を争わす種になるばかりである。
わたしはただ真理を書くのみであって、
何人(なんぴと)をやっつけるために書いているのではない。

真理はそれ自身で尊いのである。

          <感謝合掌 令和元年12月3日 頓首再拝>

人をさばくこと勿れ。 - 伝統

2020/01/28 (Tue) 22:56:39


       *「光明法語」(1月28日《常に己の心を清むべし》)より

人をさばくこと勿れ。
人はそのことばや行ないによってさばいてはならないのである。
實相に於いて彼を見なければならないのである。

人を實相によってよき人であると見ることが出来たならば
その人はよき人と現れるのである。
もしその人がよき人と現れなかったならば、それは相手が悪いのではなく、
自分自身が實相を見る力の修練が足りなかったからなのである。

あらゆる人間にキリストなるものが宿り、佛性が宿り、すべての人間が神の子であり、
佛の子であることを自覚する時どこにも悪しき人はいないのである。

          <感謝合掌 令和2年1月28日 頓首再拝>

《人を審(さば)く心を棄てるための祈り》 - 伝統

2020/04/07 (Tue) 23:36:21


       *『 生長の家 』(昭和49年4月7日の法語)より

   【 祈り 】

   【 神は“ 人を審くこと勿(なか)れ、
   人を秤(はか)りたる量目(はかり)にて
   また汝も審かれん ” と仰せられました。

   私は今後、決して人の善悪を現象の姿を見て
   判断しようとは思わないのである。

   すべての人間は “ 神の子 ” であり、
   悉く皆、神の善徳を、実相のうちに
   包蔵しているのである。

   私は常に人を観るに、その実相完全の姿のみを観て、
   感謝し礼拝し讚嘆するのである。

   それ故に、人もまた私を見るのに、実相の円満完全な姿のみを見て、
   私を賞め讚え礼拝してくれるのである。

   その結果、私には、常に一層実相の完全な相(すがた)があらわれ、
   一層よくなるほかはないのである。

   ありがとうございます。 】


   あなたが若(も)し人を見て、その欠点を見出し、
   それを批難し攻撃したい感情が起って来たならば、
   此の祈りを思い出しなさい。

   そして、“ 私は神の子 ” であるから、
   人を見るのに神の子なる実相のみを
   観ることが出来るのである。

   人の欠点を観て、それを攻撃批難しようという心が起って来たのは、
   これは私の“ 本当の心 ”(実相の心)ではない。

   それは“ ニセモノの心 ”であるから、
   そんな心の惑わしに引っかかる事なく、
   あの人の実相の完全を観る力を私は本来授けられているのである
   と思い返して

   あの法華経にある「 常不軽(じょうふきょう)菩薩 」のように、
   現象の姿を一時見ないために肉眼をとじて、
   心に相手の完全な相(すがた)を描いて
   心で礼拝し讚嘆するようにつとめなさい。

   屹度(きっと)相手たるその人の性格や行動に変化が起り、
   立派な人になって頂けます。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

          <感謝合掌 令和2年4月7日 頓首再拝>

正しく導く際の審きは、神の愛のあらわれなのである - 伝統

2020/04/14 (Tue) 19:04:47


       *『白鳩』昭和47年4月号 より

   《悪を否定し善を肯定する審判》

   聖典の読み違いがあってはいけない ― 悪を否定し善を肯定する審判
 
   ある誌友が肺結核をわずらっていたが、
   『生命の實相』 の “人間無病の哲学” に触れて癒された。 

   そこで歓喜し報恩のために、この人は地方講師の試験をうけて、人々を指導し、
   かれによって救われた人もたくさん出て来たのであるが、

   此の人はある日キリスト教の聖書の 
   『マタイ伝』 にある山上の垂訓を読んだのである。 

   それにはこのように書いてあった。

   「なんじら人を審くな。 審かれざらん為なり。 
   己がさばく審判きにて己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし。 
   何ゆえ兄弟の目にある塵を見て、おのが目にある梁木を認めぬか」

   これを読んだとき此の人は心が痛んだのであった。 

   この人は病人を指導する際に、「あなたの此の心の持ち方が悪い」 といって
   その心の欠点や感情の歪みを指摘し、それを是正させることによって
   多くの病人を癒して来たのであった。

   併し爰には、イエスは 「なんじ人を審くな」 と教えていられる。 

   「審く者は審かれるのだ。 私は神の審判をまぬがれることは出来ない」 
   かれは斯う思うと、もう人を指導することが出来なくなり、
   心が自責に満たされてどうすることも出来なくなった。 

   そしてその後は心が内向的になり陰気が内に篭るようになり、
   それが肉体に具象化してついに肺結核の虜となって死んでしまった。


   これは聖書の読みちがい、意味のとり間違いから来ているのである。 

   自分の立っている心の立場から見て、
   自分ひとり善しとして他を批難攻撃する場合は、
   その審きはよくないのである。

   それ故に 「何ゆえ兄弟の目にある塵を見て、
   おのが目 〈自分の見る立場〉 にある梁木を認めぬか」 
   とイエスは続いて説いていられるのである。

   「ここは正しい道ではありません」 と真理の立場から
   盲目の人の歩む道を正しく導いてやる審きは、神の愛のあらわれなのである。

 
   人を審判いてもよい場合があるのである。

   それは梁木が視界を曇らせている自分の心の目で見ないで、
   真理の輝く目で 〈真理の立場から〉 見て、

   これは真理、これは非真理と審判するのは、
   善と悪とを明瞭にし、実相と仮相とを区別し、

   悪が 「われ存在す」 と主張するのを、
   「悪を神はつくらないから、如何に悪があるかの如く姿を
   あらわすとも、汝は存在しないぞ」 

   と審判を下す。

   これこそ正しい審判であり、イエスは常にこの種の審判を為し給い、

   ラザロの 「死」 があると自己主張するときも、「死せるに非ず、眠れるなり」 と 
   “死” を否定する審判をすることによって、
   ラザロを復活せしめたりしていられるのである。

   そして最も正しき審判は 「キリストの再臨による最後の審判」 であるが、
   この 「最後の審判」 についての正しき解釈は  
   『秘められたる神示』 の本の中に詳しく書いたから参照せられたい。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18921530.html 消滅)

            <感謝合掌 令和2年4月14日 頓首再拝>

《一面の立場から人を批評してはならぬ》 - 伝統

2020/04/21 (Tue) 18:31:47


         「光明法語」(4月21日)より

若し彼が聖フランシスがしたように、また光明皇后がなし給うたように、
癩(らい)病患者の膿血に接吻する事が出来なかったならば、
彼の愛は乏しいのであるだろうか。

人間には生れつき、又は或る習慣的な後天的な影響から、
迚(とて)もそれに触れることが出来ないところの、
見るだけでも慴気(おぞけ)を顫(ふる)うような相手があるものである。

或る人は蚯蚓(みみず)が恐ろしくて触れることが出来ない。
或る人は蜘蛛(くも)が恐ろしくて触れることができない。
そのように或る人は到底癩(らい)病患者に触れることが出来ないのである。

            <感謝合掌 令和2年4月21日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.