伝統板・第二

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真理の生活 - 伝統

2016/08/10 (Wed) 03:16:05

「道は邇(ちか)きにあり」

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月10日>(P47)より

世界を天国にする最も迅速な方法は、自分の最も手近な務めを、
熱心に喜んで十分尽くすことである。
自分に手近にある事物が、自分にとって神より与えられたる事物なのである。

食物も自分の手近に生産されるものが一等自分を活かしてくれるのである。
その日、その時、自分の食膳に上ったものが
自分にとって最も消化しやすい栄養であるのである。


手近にあるものを感謝して受けるのが素直な生活であり、聖者の生活である。

古人も「道は邇(ちか)きにあり」と言った。

神の国も邇(ちか)くにあり、天国浄土も邇(ちか)くにある。
邇(ちか)くを忽諸(ゆるがせ)にするものは
ついに天国に到ることができないのである。

「道」は ――小なりといえども「道」に背かずんば、それは偉大なる生活であり、
大規模の生活なりとも、「道」にそむけば、矮小なる生活である。

何か歴史的な英雄じみたことをしなければ生き甲斐が感じられないのは、
野心の生活であり、真理の生活ではないのである。

真理は平凡であり、
太陽は毎朝東から差しのぼってなんの変哲もないがゆえに偉大なのである。

           <感謝合掌 平成28年8月10日 頓首再拝>

《神の国を迷いで汚すな》 - 伝統

2016/08/20 (Sat) 03:40:36


        *『生長の家』(昭和25年7月12日の法語)より

   この世界は神の造った世界である。
   だから実相に於いては完全であるのである。

   それは恰(あたか)も親が子供のために
   立派な邸宅を造ってくれた様なものである。

   その邸宅は 檜(ひのき)造りで
   畳はあたらしく どこにも塵(ちり)一つ存在しないのである。

   けれどもその邸宅をもらった子供は
   そこで 「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 などと云う
   色々の玩具(おもちゃ)をだして、

   その邸宅を “ ごみ ” だらけに汚してしまうのである。


   「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 などの玩具をとりのけて
   その邸宅を清掃した時にのみ
   実相の清らかな邸宅を見ることができるのである。


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           <感謝合掌 平成28年8月20日 頓首再拝>

伸びるしかない - 伝統

2016/08/23 (Tue) 03:28:39


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月23日>(P61)より

不満足さえも、またまことにありがたいことではある。
不満足があるので、われわれは信仰に志し、真理に到達し、救われることができたのである。

不満足に対してさえもわれらが感謝するとき、どこに真の「不満足」があるか、
「不満足」と見えたのは「満足」の偽装であり仮面にすぎない。

陰極陽転の理は昭々として明らかである。
資源不足して人造の代用品いたるところに満ち、人知の進歩かえって増大する。
不足は増大の本である。

窮せずんば伸び、窮すればさらに伸びる。
人はまことに伸びるしか知らぬ偉大なる存在である。

       <感謝合掌 平成28年8月23日 頓首再拝>

《地上の欲望を超えた者は高級霊である》 - 伝統

2016/09/03 (Sat) 04:05:31


         *『生長の家』(昭和25年7月13日の法語)より

   「 五官の快楽 」 や 「 浮世の欲望 」 は玩具にすぎない、
   吾々がまだ玩具を好んでいるのは
   吾々の魂がまだ未発達で
   まだ幼児(おさなご)であるからである。

   吾々の魂が成長し、その様な玩具がいらなくなった程度に従って
   その人の生命は成長し、進化し、向上しているのである。

   されば煩悩の脳熱を消去せよ。
   五官の快楽を捨てて 浮世の欲望を放ち去れ、
   それが汝の魂の向上する道である。

   神の国へ行く道は 「 せまい 」 のである。

   徒(いたずら)に楽行道だと称して、五官の喜びに まどわされるのは、
   サタンに跪(ひざまず)いて礼拝するものである。


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       <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

《肉体の快楽に精力を浪費してはならない》 - 伝統

2016/09/15 (Thu) 04:45:58


        *『生長の家』(昭和25年7月8日の法語)より

   肉体の快楽に精力を浪費すれば
   霊的能力はそれだけ減少するのである。

   霊的能力は本当は無限であり減少することはないのであるけれども
   五官に対してのみ 心を奪われている時には、
   千手観世音菩薩に千本の手があっても
   尚(なお)且(か)つ一本の手に心を奪われていれば
   九百九十九本の手が何の役にもたたないのと同じことである。

   心そこに非(あら)ざれば
   見れども見えず聞けども聞こえずである。

   心が五官に奪われて、心が 「 霊 」 に向かわなければ
   霊的力は発揮しないのである。


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       <感謝合掌 平成28年9月15日 頓首再拝>

《影を追いて実を求めぬ者は愚かなり》 - 伝統

2016/09/27 (Tue) 04:20:49


        *『生長の家』(昭和25年7月14日の法語)より

   肉体も 現象世界も 影であることを知れ。

   汝ら影であるもののみを追いて、
   実なるものを何故(なぜ)かえりみぬか。

   本当の喜びは 「 実 」 なるものからのみ得られるのである。

   影であるものは空(むな)しいのであるから、
   それを得たら幸福であろうかと思って“つかんで”みると、
   それは本来 存在しないのであるから
   その喜びは消えてしまうのである。

   だから肉体の快楽は追求してつかんだ後には
   辛き疲労が淋しさが残るだけである。

   しかも本当のものをつかんでいないから
   益々(ますます)飢えかわいて飽くことを知らないのである。


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       <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

神と共に静かに語れ - 伝統

2016/10/08 (Sat) 03:25:47


        *「光明法語(10月8日)」より

人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、親子が静かに語る時間を持つと云う事
であって是非とも必要なる当然の行事である。

祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。

神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。

また神から与えられた供給は、その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。

            <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

《 己に克つことが実相を顕現する》 - 伝統

2016/10/21 (Fri) 04:46:56


         *『生長の家』(昭和25年7月7日の法語)より

   己に克つことが実相を顕現する唯(ただ)一の道である。
   「 己 」 とはニセモノのことである。
   ニセモノを否定しないで本物が得られると思うな。

   五官の快楽にひきつけられている間は
   まだ蛇の智慧にだまされているアダムであり、イヴである。
   彼は 結局 楽園から追放されねばならないのである。

   蛇とは 「 地 」 ( 物質 ) に這(は)うもの、物質についた五官智である。
   五官の誘惑は 自分を 「 肉体的存在 」 とみる所からおこるのである。

   自分を 「 肉体的存在 」 と思わぬならば、
   肉体の快楽にひきつけられることはないのである。


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            <感謝合掌 平成28年10月21日 頓首再拝>

真理を生きる - 伝統

2016/10/24 (Mon) 03:50:22

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月24日>(P107)より

真理は読むだけで、行じなければなんにもならぬ。

「汝ら天地一切のものと和解せよ」
―― 『生命の實相』のこの巻頭の一行さえも実行しないでいながら
『生命の實相』を読んだというのはおこがましいと思う。

勢力争いをするために張り合ってなんになるか。
争わねばならぬような”相手はない”と知ることが光明思想なのである。

人生の苦しみは嫉妬心から来るのである。
嫉妬は憎みを招(よ)び、争いを招(よ)び、あれは真理を知っているはずの人が、
感謝しなければならぬ人をさえ憎むようになるのである。

           <感謝合掌 平成28年10月24日 頓首再拝>

濁り水を捨て、真理の水を注げ! - 伝統

2016/11/03 (Thu) 03:39:46


       *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月3日)より

生命(せいめい)の清水(しみず)を注ぎ込むには
全部の濁り水を捨ててから、注ぎ込むことが必要である。

濁り水を残しておいて清水を注ぎ込んでも、われわれは依然として濁り水を見るのみである。

怒り、憎み、恐怖、利己心、冷酷・・・等、すべて愛に背く心を残しておいて
『生命の實相』を読んで真理を注ぎ込んでみてもなんにもならぬ。

せっかく清冽(せいれつ)な真理の水が濁るばかりである。

よき衣装をまとうには、古き弊(やぶ)れ衣を脱ぎ捨てねばならぬ。
襤褸(ぼろ)の上に美しい衣装をまとってみても不似合なばかりである。

心の襤褸の上に、真理を羽織ってみても効果はない。
真理をまとうくらいならば、今までのものを全部捨てて真理を着ねばならぬ。

         <感謝合掌 平成28年11月3日 頓首再拝>

《肉体を神の栄光のために捧げよ》 - 伝統

2016/11/16 (Wed) 03:45:15


          *『生長の家』(昭和25年7月11日の法語)より

   肉体の自己を否定し、肉体の欲望を否定し、ニセモノの自分を抹殺し、
   肉体を神の目的までささげることによってのみ
   人間の実相の完全さは現われて来るのである。

   百万の敵軍を殲滅(せんめつ)するよりも
   汝(なんじ)の内に宿る低卑なるものを征服する方が
   偉大であるのである。

   汝の内に宿る低きものを征服せよ。
   高きものを築きあげよ。
   汚れたるものを清めよ。

   崇高なるもの、偉大なるもの、価値あるもののみを求めよ。
   汝は 間もなく聖者となるであろう。

   人間とは 肉体に非ず、物質に非ず、肉体の奥に、
   物質の奥に 霊妙極まりなき存在がある、それが人間であるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

         <感謝合掌 平成28年11月16日 頓首再拝>

《責任を自己にもとめよ》 - 伝統

2016/12/02 (Fri) 04:40:31


         *『生長の家』(昭和25年8月6日の法語)より

   神の子とは 責任を最も多く自覚する者のことである。

   神が一切万事を造りたまう如(ごと)く、
   人間も一切万事を自分の身辺につくるのであるから、
   自分の運命も環境も 結局 自分の責任なのである。

   その責任の所在を明らかにしないで、
   人が悪いと思っている間は、

   原因を誤った点に求めているのであるから
   原因を正しくする事が出来ないで、
   いつまでも不幸や災難や病気が伴って来るのである。


   人生は 類は類を招(よ)ぶ法則によって支配されているのであるから、
   不幸を心に描いて呟(つぶや)いている様では、
   不幸は次から次へと出て来るのである。


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         <感謝合掌 平成28年12月2日 頓首再拝>

真の宗教家の生活 - 伝統

2016/12/04 (Sun) 04:36:49


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より抜粋

真の宗教は、生を明らめ、生きる道を明らかにし、
人間の生活をして真に幸福ならしめるところのものである。

真の宗教はけっして教会や寺院で勝手に定(さだ)めて、
それを信者に強制する教条や規則ではないのである。

その意味において、かえって職業宗教家よりも、自由思想家、
むしろ無宗教家と言われている人の側に真の宗教を体得した人々がある
ということができるのである。

真の宗教はいわゆる宗教家の独占ではないのである。

真の宗教家はみずから真理を実践し、
みずから真理の生活をいとなみ、自己の生活に真理を実現し、
神の智慧と愛と生活とを具象化するものでなければならない。

         <感謝合掌 平成28年12月4日 頓首再拝>

気高き生活の基礎 - 伝統

2016/12/05 (Mon) 03:21:20


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月5日)より

ただ真理のみを語れ。
多言なるべからず。
多言なれば調子にのりて虚偽を語ることあるべし。

ただ優しき言葉のみを語れ。
烈(はげ)しき語調の言葉は深切より出ずる場合にも、
憎悪をもって語らるる言葉なりと誤解せられることあり。

心のうちにでも言葉に現わしても、行ないにあらわしても、
人を傷つけてはならない。

誠実であれ。虚偽であってはならない。

素直に、直截に、かまえることなく、
そのままの心で生活し、行ない、言わねばならぬ。

値いなしに受けようとしてはならぬ。
肉体の汗か、心の汗か、金銭か、物質的な贈物か、
いずれにせよなんらかの値いを払って受けよ。
値いなしに受けたものは、いつかは奪い返されることがある。

自己の生活が気高き基礎に立つかどうか省みよ。

なんじの生活を、愛と赦しと忍耐との上に築きて、怒りと憎みとを常に支配せよ。
怒りと憎みととは神と汝とを隔てる最も大なる敵である。

常に朗らかであれ。

不快なこと、争いのこと、憎むべきこと、人の悪しきことを忘れ去れ。
忘れ上手が光明生活の第一歩である。

         <感謝合掌 平成28年12月5日 頓首再拝>

《『自己に忠実であれ』と云う事の意味》 - 伝統

2016/12/20 (Tue) 04:11:49


         *『 生長の家 』(昭和33年9月9日の法語)より

   人間は自己に忠実でなければならない。
   併しその『自己』と云うのは如何なる自己であろうか。

   美味なる食物を欲し、美しき服装をし、異性と戯れ遊びたいような
   煩悩が本当の自分の『自己』であろうか。

   『自己に忠実でなければならない』と云う語(ことば)で
   多くの人々は利己的本能に身を投じて、
   魂の節操を失ってしまったのである。

   『自己に忠実であれ』と云う場合の『自己』とは、
   肉体の本能的自己のことではないのである。

   肉体は、魂が地上に於いて仕事をなすための乗物又は作業服として、
   その自己修復と自己保存のオートメーション作用としての
   食慾や性慾を発動するのであるが、それらの欲望は飽くまでも
   『魂』の使命を果さしめるための基礎工事としての欲望であって、
   『魂』そのものの願望ではないのである。

   『自己に忠実であれ』と云うのは『魂』そのものの願望に
   忠実でなければならないと云うことである。

         <感謝合掌 平成28年12月20日 頓首再拝>

《人間はすべからく偉大なれ》 - 伝統

2016/12/26 (Mon) 04:51:16


         *「光明法語」(12月26日)より)

神は無限の富者であり、宇宙に満つる偉大者である。

神は決して神の子たる人間に最低限度の生活などを強要してはいられないのである。
人間はただ大根や馬鈴薯を辛(かろ)うじて食べるために生きているものではない。

神の偉大さを実現せんがために生まれて来たのが人間である。
須(すべから)く偉大なる事に着眼し、偉大なる生活を送らなければならぬ。

夜、人の知らぬ間に降りて大地や草木を霑す夜露の様な隠れたる生活も尊いが、
ナイヤガラの瀑布やグランド・キャニオンの峡谷も美しく尊いのである。

         <感謝合掌 平成28年12月26日 頓首再拝>

善き話題を - 伝統

2016/12/27 (Tue) 03:54:34


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月27日)より

善き話題 ――
彼はこんな深切なことをした。
彼はこんなに向上した。

自分はこんなに楽しいのだ。
自分は近頃大変健康だ。(まだ現象的には健康になりきっていなくともよい、こう話すのだ。)
自分の従事する事業はますます栄えてゆきつつある。

そのほか何でも、進歩、繁栄、向上、元気、光明、健康の雰囲気を伴うことが
話題として最もよいのである。

しかし顧(かえり)みよ、いかに人が相寄れば他人の悪口や不幸ばかりを口にしていたかを。
これでは人生に不幸な人が多かったのも不思議はない。

欠点を見出して責めるのが今までの教育法であった。
生長の家が出現してまったく教育がその全貌を変化したのである。

ただ児童を、社員を、店員を、賞(ほ)めることだけによって、児童が、社員が、店員が、
改善されてゆくという不思議な事実を ――
われらの同志はすでに不思議でもなく実行しつつあるのである。

しかしそれをまだ対他的教育法だとのみ思っていて、自分自身の健康法だと思っていない人の
多いことは事実である。それは教育法であるばかりではなく、実に健康法なのである。

他(ひと)を赦さぬことは、「自分の心」を赦さぬことである。
他(ひと)の欠点を見つけることは、「自分の心」を不快で塗りつぶすことである。

「峻厳なる寛容」こそその人の魂の進歩を物語るものである。
断ち切るべきは断ち切り、棄てるべきは棄てきり、しかして青天白日のごとくカラリと明瞭に
心の中に一点の雲もないようでなければならない。

いつまでも他(ひと)の欠点を見ながら、それを言い現わすこともできないで、
常にグジグジ心の中で思い煩っている者は、自分自身を切り虐(さいな)んでいる者である
とともに、相手からも見くびられて尊厳を失墜するものである。

            <感謝合掌 平成28年12月27日 頓首再拝>

難癖をつける習慣をやめよう - 伝統

2016/12/29 (Thu) 04:19:58


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月28日)より

「勝てる」という自信はよいが、「負けまい」という焦燥は自分自身を殺すものである。
「勝てる」という自信はその人を寛大にし、「負けまい」という焦燥は人に難癖をつけて
不条理に蹂躙(ふみにじ)ろうとする。

難癖をつける心は、一方に相手の立派さを認めながら、それを強いて逆に蹂躙(ふみにじ)ろうと
するのであるから、その人の心中は自己葛藤に満たされる。

自己葛藤は自己自身を粉砕し、自己の人格を低卑にし、自己の健康を傷つける。
この場合、人格の低卑と健康と不良とは同意義である。

・・・

        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月29日)より

人々よ、今日(きょう)から他(ひと)に難癖をつける習慣をやめようではないか。

あなたがもし他(ひと)に難癖をつける習慣を改めるならば、
あなたの周囲がきっと前よりもいっそう輝き出すだろう。

世界が明るくなるであろう。
人々もあなたにまた難癖をつけることをやめるであろう。
世界が広々とした海闊明朗な世界になるであろう。
全体があなたを祝福し、あなたは今よりも幸福になるであろう。

呟く歌や悲しむ歌を雑誌などに書いている人を見るごとに、
わたしはその人をかわいそうと思わずにはいられないのである。

いたるところに眼を開けば光が充ち満ちているではないか。


   観終わり東(ひんがし)の空を見てありき燃ゆるがごとく雲流れけり

   太陽も大空も樹(き)も空も鳥もすべて生きてあり生かされてあり

            <感謝合掌 平成28年12月29日 頓首再拝>

家族を愛せよ - 伝統

2017/01/04 (Wed) 04:51:32


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月4日)より

何よりも大切なのは、まず自分の家庭を天国とする術(すべ)である。
それができなければ人間生活の土台が完成したとは言えぬ。

まず手近にある家族を愛せよ。
そこから天国が生まれてくるのである。

われわれは天国とはどこか遠い国にあるように思い、
幸福とはどこか外のところにあるように思っていたが、脚下(あしもと)になるのである。

まず、朝起きたとき、すべての家族たちに優しい言葉を、
朗らかな韻(ひびき)のある語調で投げかけよ。
これが第一家庭を幸福な天国にする秘訣である。

気がついたら今日(きょう)からそれを始めよう。

         <感謝合掌 平成28年1月4日 頓首再拝>

善事をなす習慣 - 伝統

2017/01/05 (Thu) 04:05:46


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月5日)より

一日だけで、やりかけた善事を止めてしまうような者は、何事も成功から墜落する。
つまらないことのようでも小さき善事を継続することによって、
その人の魂は進歩し、環境は天国化するのである。

一日ぐらい懶(なま)けてもいいだろうというような考えから、善事をなす習慣を
たった一日廃絶したことによって堕落した人は世間にたくさんある。

昨日(きのう)きめた、朝起きた時に家族一同に優しい言葉を朗らかな調子で投げかける
ことを今日も続けなければならない。そしてさらに進んでいっそうの善事をつけ加える
ことをしたい。

食膳で感謝することである。
食物の本源である神の生かす力に、それを造ってくれた百姓の労苦に、
それを調理してくれた妻・娘または召使にである。

食物はまずくとも決して小言を言わぬことである。
食物の小言を言ったために終日その家庭が不快になったような経験は、
人類の誰でもが持っていることである。

食物そのものよりも、心の愉快さと、空腹とが食物の味を増すのである。
遠足に行って食べる梅干と握り飯の美味しさを思えば、このとこの真理は解る。

心が愉快でないときどんな食物もまずい、まずいのは自分自身の心の罪であり、
料理をしてくれる他(た)の家族や召使の罪ではない。

空腹でないために、美味しくないのは、
習慣に捉えられて空腹でないのに食事をするためである。

精神的に進歩したい人は、朝食を廃して、
出勤前の2時間を善き読書に費やすがよい。
毎朝2時間の読書の習慣は、その人をかなり向上もさせれば、博学多識にもする。

時間がないという者は、時間を造らない人のことである。
時間は、他の多くの道具などと同じく、人間によって製造せられるものである。

         <感謝合掌 平成28年1月5日 頓首再拝>

八面玲瓏の日 - 伝統

2017/01/13 (Fri) 03:36:21


           *「光明道中記」(1月13日)より

【心が柳の枝に雪折れなしの様な状態になったら神経衰弱が治りました。
                              (『生命の實相』第三巻)】

すべての人の立場を認めるとき、吾々は八方正面の心境に到達するのである。
八方正面とは隙がないことである。
凡ゆる立場に於ける相手の位置が、その儘に自分の心の中に映り来るのである。

すべての立場を認めることが出来ず、一つの立場のみを正しいと思い、その立場にのみ心を
執しているとき、その他の方面は全然隙だらけになって打ち込まれてしまうのである。
あのことに熱中していましたので、つい忘れていましたと言うのは、弁解にはならないのである。

剣も碁も兵法も商道も、すべての方面見て行き届かねば名人ではない。

如何に鋭くとも折れ易い刃は役に立たない。
人間は剃刀(かみそり)の如く鋭い一面も必要ではあるが、
柳の枝のような強靭性も必要である。

世の中は「硬(かと)う柔(やわら)こう、柔こう硬う、円(まる)う四角う、四角う円う」
自由自在に生きなければならないのである。

仏教に通達するには無字の門関を透過しなければならぬ。
無字を透過するは、柳の枝の如く無抵抗に、そして「我れ地に穏かを出さんが為に来れるに非ず、
剣を投ぜん為に来れるなり」と言った基督のように鋭くならん為である。

            <感謝合掌 平成29年1月13日 頓首再拝>

《その所に於いて生き切れ》 - 伝統

2017/01/15 (Sun) 04:00:48


          *「光明法語」(1月15日)より

すべての人は神の子であるから、
必ず何か特殊のその人でなければならない才能が宿っているのである。

その才能を伸ばしさえすれば必ず自己は幸福となり、世界も亦、
それによって幸福を得るのである。

その才能とは何であるか、自己に与えられている才能が何であるかが
自分に解らないときには、現在の仕事と環境に於いて、
自分の出来るだけの力を尽くして精出せばよいのである。

全て既に与えられている所のものを充分感謝してそれを生かせば、
必ずそれは真の自己の才能を伸ばす所の踏み台となり、第一歩となるのである。

            <感謝合掌 平成29年1月15日 頓首再拝>

日々、自分は本当に生きているか、と問いかけよ! - 伝統

2017/01/16 (Mon) 04:53:01


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月16日)より

今日(きょう)いちにち自分の生命(せいめい)を生かさないことは自殺である。

「今日(きょう)自分は本当によく生きたか」
とわれわれは毎日自分自身の心に対して問いかけねばならぬ。

自殺はすべての罪悪のうちで最大の罪悪である。

            <感謝合掌 平成29年1月16日 頓首再拝>

心清き人になる - 伝統

2017/01/19 (Thu) 03:57:01


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月19日)より

心が清くなることを心がけよ。
衣裳や白粉(おしろい)で飾っても、心の清さには及ばない。

心を清くするには悪を思ってはならない。
特に他人(ひと)の悪を思ってはならない。
他人(ひと)の悪を思ったら、他人(ひと)の悪が入って来る。

これは「自分に深切でない」ことである。
心を汚(けが)すのが唯一の罪であり、唯一の穢(きた)ないことである。

それでも他人(ひと)の悪が自分の心の中へ毒薬のように入って来たならば、
その毒薬の害毒を避ける道は、赦すことである。

腹を立てたり、興奮してはならない。
その人が善に立ち戻ることができるように静かに祈り、
かつその人のために考えてやらねばならぬ。

            <感謝合掌 平成29年1月19日 頓首再拝>

何事にも引っかからぬのが「生長の家の生活」 - 伝統

2017/01/29 (Sun) 03:09:29


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月29日)より

悪はないのである。
引っかかるのが悪である。

柳は緑。花は紅(くれない)。
あるがままにして美しく、あるがままにしてそのままよいのである。

緑でなければならぬと定(き)めたときに、紅が来たときにはわれらの心は引っかかる。
紅でなければならぬと定(き)めたときに、緑が来ればわれらの心は引っかかる。
引っかかるを悪と言う、そのままを善と言う。

天気明朗よし、降雨霪々(こうういんいん)もまたよし、風凪(な)ぐもよし、暴風もよし。
《よし》と言いて、《よし》に捉われて対応策を講ぜぬのも引っかかったのである。
そのまま《よく》、そのままそれに対応して、自然法爾の作(はたら)きができるのが
引っかかっていないのである。

雨の降るのを嘆くことはない。雨にはまた風情のあるものを。
風情があると言って、強(し)いて雨浸(あまざら)しになって、
身体(からだ)を害(そこ)うこともいらぬ。

雨が降れば傘をさせばよいのである。
傘がなければ買えばよいのである。
買う金がなければ借りればよいのである。

借りる処がなければ、濡れながら次の処置を考えればよいのである。
そこから生命(せいめい)はいろいろのことを教えられ、いろいろのことを鍛えられる。

そのままでその人の生活は屈託はない。
ただありがたいばかりである。
恐れもせねば呟きもせぬのである。

雨のことばかりではない。
人生、この雨に対応するごとく生きよ。
これが生長の家の生活である。

淀まぬ生活である。
悩まぬ生活である。
病まぬ生活である。

            <感謝合掌 平成29年1月29日 頓首再拝>

美点を見る - 伝統

2017/01/30 (Mon) 04:51:56


           *「光明道中記」(1月30日)より

【憂欝になって来た時哄笑(こうしょう)を爆発させよ、
 之(これ)が健康と若さを保つ秘法である。(『生命の實相』第十一巻)】

心朗かになる道は、世の中に悪と云うものが決して存在せぬことを根本に知ることである。
一局部だけを見ずに大局を見る。短かい眼を以て見ずに長い眼を以て見ることである。

冬のうちに春の兆(きざ)していることを知ることである。
陰極は必ず陽転することを知ることである。

心朗かになる道はすべての人を赦すことである。
憎しみを放ち去ること、憤(いきどお)りを含まぬこと。
すべての人の美点を見ること。

相手の立場に自分を置いて考えること。
気にくわぬことは忘れること。
呟(つぶや)かぬこと。罵(ののし)らぬこと。

みずから立ちて我れに無限力ありと思い返すこと。
他と協力するのは好いが、こちらが弱者的角度から同情を請わぬこと。

人生の戦いはその人の執(と)る生活の角度で最初にきまるのである。

負ける人は常に負ける角度から出発し、既に負けているかの如く呟き、
既に負けているかの如く左顧右眄(さこ うべん)し、
既に負けているかの如く人に依頼し、依頼心を裏切られたと言って嘆き悲しみ呪い呟く。

呟くひまに、呪うひまに、悲しむひまに、嘆くひまに、
日に日に進歩する者はついに勝利するものである。

            <感謝合掌 平成29年1月30日 頓首再拝>

時処相応の真善美の生活 - 伝統

2017/01/31 (Tue) 04:42:53


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月31日)より

事件に巻き込まれてはならない。
また時処(じしょ)に超然としてもならない。
生命(せいめい)は時処を超越しながら時処の中に美しき華を開く。

「真(しん)」は時空の外に超越している存在であるが、
「善」と「美」とは真(しん)が時処(じしょ)相応(そうおう)を得たときにあらわれる。

「二二ンガ四」は「真(しん)」であるが、「三三ンガ九」が必要な時処(ときところ)に
「二二ンガ四」が出て来たのでは時処相応でないということでそれは悪である。

数理の「真(しん)」の世界には無限の数の組合せがあるが、
そのうちで時処相応はただ一つである。

生命(せいめい)の「真」の世界においても無数の生命(せいめい)の行き方があるが、
その中で、ただ一つだけ「時処相応」がある。

常に「時処相応」の生活をしている人は生活の名人である。
われわれはこの生活の名人になるべく常に心がけたいものである。

常に神の叡智の導きに耳を傾けよ。
そこから本当の時処相応の真善美の生活が顕われてくるのであろう。

            <感謝合掌 平成29年1月31日 頓首再拝>

《気が短いのでは可(い)かぬ》 - 伝統

2017/02/03 (Fri) 04:51:21


           *「光明法語」(2月3日)より

「与えれば与えられる」と云う法則は直ぐ覿面(てきめん)にあらわれて来るものもあるが、
必ずしも直ぐ結果が現れないこともある。

電燈はスイッチを捻ればすぐつくが、水力電気や火力電気の設備を構築するのは
一夜に出来た事ではない。

電燈がスイッチ一つでつくようになったのは、それらの発電設備や配電設備が、
多くの与えられた労力の蓄積として「天の倉」に蓄えられているからである。

麦は一夜にしては実らない。卵も一夜にしては孵化しない。
すべての形の世界に現れるのは時間を通して現れる。
気が短いようなことでは可(い)かぬ。

            <感謝合掌 平成29年2月3日 頓首再拝>

《自分の立場を捨てること》 - 伝統

2017/02/05 (Sun) 04:10:44


           *「光明法語」(2月5日)より

自分の立場だけを考えては可かぬ。
人には色々の立場があり、その立場に立って思い、考え、
感じ、悲しみ、苦しみ、喜んでいるのである。

彼の立場に立って同喜同悲してやるのでなければ本当に愛深いという事は出来ぬ。
愛とは自分の立場に立たず、彼の立場に立って、彼のために考えてやることである。

「汝みずからの如く汝の隣人を愛せよ」とのイエスの聖訓はまさにこの事に他ならない。

『甘露の法雨』を読んでも神想観をしても治らぬ病人で
「自分の立場を捨てよ、頑固に自分を主張する心を捨てよ」と
教えられて治った人もある。

            <感謝合掌 平成29年2月5日 頓首再拝>

責任を喜ぶ - 伝統

2017/02/11 (Sat) 04:43:51


           *「光明道中記」(2月11日)より

【罪を他に帰するは、自分を土偶(でく)人形にすることである。(『生命の實相』第二巻)】

責任回避は生長の家の生き方とは大凡(おおよそ)反対のものである。
宗教的生活とは、すべての結果に対して
其の原因を自分に反照して自分自身を浄(きよ)める生活である。

自分が若し他から害を受けたことを承認するならば、それは既に自己が弱者であることを
自己確認したのである。そして自己が弱者であることを自己確認する位ならば、
他から害を受けたことに就いて呟くことなかれ。

弱き者は結局他から害を受けるほかはないのであるからである。
若し汝が弱者であるならば、原因を他動的なものに帰してはならない。
若し自身が不幸であるならば、自己を傷つけたものは自分のほかにないと自分自身に語れ。

いずれにしても他を恨み、他を憤(おこ)るべき理由は一つもないのである。
最大の優強者は自己を以て宇宙の一切の事物に責任ある者だと自覚を持つ聖者である。

世の中の人々が、まだ全部、光明思想によって救われ切らないのは、自分の罪だと私は言いたい。

            <感謝合掌 平成29年2月11日 頓首再拝>

卑怯を捨てる日 - 伝統

2017/02/15 (Wed) 04:27:47


           *「光明道中記」(2月15日)より

【自己弁護したい心は卑怯なる潜在意識の作用であって、多くの人を病気にしている。
                               (『生命の實相』第四巻)】


同情を求めたい心は病気を招き、不幸を招び寄せる。

みずからを弁護したい心は弱者の心である。
それは既に弱き心であるが故に肉体も傷つき、病気に罹る。

それは既に病気の心であるが故に、そんな心の持ち主が病気に罹り易いのは当然である。
すべてを受けると云う心の中には、すべてに対抗するだけの強い自覚がある。

すべてを受ける心になったとき病気が治り易いのは、
すべてを受ける心は既に強い心であるからである。

「お前がこんなことをしたからこんな結果になった」とは、
家庭でも会社でもよくあり勝(がち)な争いの原因である。

そんなに罪を押しつけられたら、進んで罪を引き受けようと思っていてすらも
反抗的に「私にそんな責任はありません」と言いたくなる。

彼が「失敗(しま)った」と思っているとき、
尚追求するのは武士の情(なさけ)を知らぬものである。

彼が「失敗(しま)った」と思って悔恨の情にかられているとき、
「君が悪いのではない、私が悪いのだ」と他から言われたならば、
その人は何ぼう感激して善に復帰するだろう。

            <感謝合掌 平成29年2月15日 頓首再拝>

自己の尺度を捨てる日   - 伝統

2017/02/16 (Thu) 04:52:22


           *「光明道中記」(2月16日)より

【他(ひと)を自分の尺度で測って善ならしめようとすれば、相手を害(そこな)い、自分を害う。
                               (『生命の實相』第七巻)】
 
電車の中で人の顔を見ていると、実にいろいろの顔があり、色々の事を教えられる。

一つの顔を眺めても、見ている人の立場の位地の相違から、悉く異なって見えるものである。
争いは、見る立場は一つしかないと云う根本的な迷誤(まちがい)から発(おこ)るのである。

或る人には一つ顔の横顔が見え、或る人には正面が見え、或る人には斜めに見える。
もっと委(くわ)しく分けるならば、一つの顔でも全然同じように見えることは
あり得ないのである。

そこですべての人の意見は一致しないのが本当な位である。

そこで吾等が他と争うことを避けようと思うならば、
吾等は事物を考えてやるのに相手の立場に立って考えてやらなければならないのである。

「あの人の身になったらどうだろう」此の思いやりが本当の愛である。
愛は自他一体である。

昔は、「己(おのれ)の欲せざるところを他(ひと)に施(ほどこ)す勿れ」と言ったが、
今は己の欲せざる所も、彼は欲するかも知れないし、己の欲する所も、
彼は欲しないかも知れないことを知って、各々相手の立場に立って
相手を生かしてやらなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年2月16日 頓首再拝>

躓かざる日  - 伝統

2017/02/21 (Tue) 03:29:10


           *「光明道中記」(2月21日)より  

【他(ひと)が怒ったら、
 ことの善悪にかかわらず相手の心をかき乱して済まなかったと思え。
                       (生命の實相第十一巻)】 


真理は時処(じしょ)と人とによって相(すがた)が変る。
一つの水でも蒸気にも氷にもなるから役に立つ。

『生命の實相』は両方面から書いてある。

腹を立てるなと書いてあるところと、
自然に立つ腹なら腹を立てても好いと書いてあるところとある。

薬を廃(や)めよと書いてあるところもあれば、
薬も使ったって好いじゃないかと書いてあり、
薬の服み方まで書いてあるところがある。

だからそれを修養の糧にしようとする人には修行の糧になるが、
自己弁解の資料にしようとする人には自己弁解の絶好資料ともなる。

また相手を非難攻撃する資料にしようと思えば、
どちらからでも攻め得るようにもなっている。
それに躓かない者は幸いである。

自分が長上から叱られながら「腹を立てるなと書いてあるよ」と
長上に反抗することも出来るであろうが、

扠(さて)また自分の方が善であると思える場合にでも、
相手が腹を立てて来たら、
「相手の心を掻(か)き乱してすみませんでしたと思え」とも
書かれているのである。

人事処三相応である。凡(およ)そ吾がために躓かぬものは幸いである。

            <感謝合掌 平成29年2月21日 頓首再拝>

一事を見て万事を判断してはならぬ - 伝統

2017/03/06 (Mon) 04:31:09


           *「光明法語」(3月6日)より

霊的の事物は霊的に理解してのみ其の真実意を汲み取ることが出来るのである。

だから自分が霊的に発達した程度に随って、
聖書でも仏典でも本当に理解することが出来るのである。
生長の家の教えも同じことである。

郡盲象を評するような調子で、色々に理解したり批評したりしているけれども、
象には耳もあり、牙もあり、脚もあり、胴体もある。

牙に触れたものは猛獣だと思うかも知れないが、実は至極おとなしい動物であり、
その象牙も彫刻すれば素晴らしい価値が出て来る。

            <感謝合掌 平成29年3月6日 頓首再拝>

悪事を断ち切る道 - 伝統

2017/03/07 (Tue) 04:22:30


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月7)」より

悪事はさらに悪事を生む。
善事はさらに善事を生む。

幸福者とは悪事を未だ犯さなかった人のことではない。
悪事が次に悪事を招(よ)ぶのを断ち切ることのできた人だ。

悪事を断ち切る道は、この悪事をしているのは本当の「私」でないと知ること。
そして本当の「私」でない者に、今日かぎり断じて加勢しないと決心することにある。

            <感謝合掌 平成29年3月7日 頓首再拝>

自己弁護する自分は「本物の自己でない」 - 伝統

2017/03/08 (Wed) 04:49:59


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月8日)」より

自己弁護をする者は、まだ本当に真理を求めているものではない。

「本当の自己」は常に昭々として輝いており、弁護してかろうじて
その尊厳の保たれるようなさもしい存在ではない。

弁護しなければならぬような自己は、
ただその「弁護しなければ尊厳が保てぬ」という理由だけで
「本物の自己でない」ことを証明している。

            <感謝合掌 平成29年3月8日 頓首再拝>

時節に乗ることが大切 - 伝統

2017/03/14 (Tue) 04:48:33


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月14日)」より

現象界においては時節が事を成就する。
時節に乗ると乗らぬとは、成敗(せいはい)の基(もとい)である。

時節に乗る秘訣は神に一致すること。
神に一致するには、《今ある》状態をまずありがたいと享受して、そこで百%を行ずること。

急ぐはことを破壊し、急ぐ息はセク息である。

            <感謝合掌 平成29年3月14日 頓首再拝>

あたりまえのことができる者が大賢人 - 伝統

2017/03/15 (Wed) 04:24:27


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月15日)」より

心をしっかりと持つこと。

上の者を尊敬すること。
下の者をかわいがること。
夫婦仲良くすること。

腹を立てぬこと。
悲しまぬこと。
取越し苦労せぬこと。

あたりまえのことだと馬鹿にせぬこと。
あたりまえのことができるものが大賢人である。
これをあたりまえのことだと軽蔑する者よ。
お身(み)たちはこのあたりまえがどれほどの程度にできているか。

            <感謝合掌 平成29年3月15日 頓首再拝>

人生、値切るなかれ! - 伝統

2017/03/18 (Sat) 04:41:31


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月18日)」より

人生は値切ってはなりませぬ。

対手(あいて)を値切るものは自分自身をも値切られる。

            <感謝合掌 平成29年3月18日 頓首再拝>

人生を花をもって飾り、讃えましょう - 伝統

2017/03/19 (Sun) 04:23:26


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月19日)」より

人生を花をもって飾りましょう。
縮かんでしまってはなりません。

死人があるからとて、バラの花は咲くように神様から美を与えられているのです。
地上に悲惨があればこそ、われわれはいっそう地上を美しく飾らねばなりません。
委縮するものはついに国を滅ぼすのです。

元気にその日その日を生き、元気に人生を讃(たた)えましょう。

            <感謝合掌 平成29年3月19日 頓首再拝>

真理とともに立つ - 伝統

2017/03/27 (Mon) 04:44:24


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月27日)」より

ひとがなんとおん身を批評しようとも、
おん身は毅然として真理とともに立たねばならぬ。

おん身は真理がいっさいのよろこびの源泉であることを知らねばならぬ。

一等悪いことは眼先の他の批評に捉えられて、
真理の永遠の評価の前で無価値になってしまうことである。

            <感謝合掌 平成29年3月27日 頓首再拝>

大胆に勇敢に - 伝統

2017/03/28 (Tue) 04:48:54


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月28日)」より

人間が心配していることは、すべて小さな重要でないことについてである。
真に重要なことの前には人間はかえって大胆に勇敢になるものである。

戦場に出れば人間はもう心配などしている暇がない。

心配していることそのことが、おん身の考えている事柄が
じつに小さな採るに足らぬことであることの証拠である。

これを知ったらあらゆる心配が消えてしまうであろう。

            <感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>

人生と云う食膳に上り来る出来事をありがたく食する - 伝統

2017/03/31 (Fri) 03:58:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月31日)」より

必需物(なくてならのもの)はすべて与えられている。

必需物(なくてならのもの)は一つの事物ではない。
一つの事物にのみ執着する者は、自分の人生に流れ入って来る
「神の与えた必需物(なくてならのもの)」を拒むものである。

世に肥(こ)えることのできない児童に偏食者というのがある。
食膳に上がったものをそのままありがたく受け入れない。
アレかコレかの選択が多すぎる者である。

食膳の食物(しょくもつ)をすべてありがたく拝んで食べる者の
胃腸病は治って肉体が肥えてくるように、


自分の人生に流れ入(い)ってくるいっさいの事件を喜んで受け、
そのすべてから滋味を吸収し、去り行くコースには執着せず、

新たに人生の食膳に上(のぼ)り来るものをまた新たに合掌して受け、
食する者はついには人生の豊かなる肥満者となるのである。

            <感謝合掌 平成29年3月31日 頓首再拝>

「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」 - 伝統

2017/04/09 (Sun) 06:12:16


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月9日)」より

なんだか利用されているような気がするときに、
腹立つ人と、つまらなく感ずる人と、喜べる人とがある。

イエスは「わが来たれるは人に役(つか)われんがためなり」と言った。
彼は利用されることを喜びに感ずる人であったのである。

利用されること多きものほど尊ばれる。
利用する道のなくなったものを廃物という。

            <感謝合掌 平成29年4月9日 頓首再拝>

金銭は尊くなるように使う - 伝統

2017/04/20 (Thu) 04:04:25


           *「光明道中記」(4月20日)より

【皆の人々の喜びが此処に反射して帰って来てこそ事業は生長するんです。
                         (『百事如意』)】

世間にはただ投機的な活動や、自分が儲けたら他が損をするような職業を営んでいて
巨利を博している人たちがあるにはあるが、そう云う人たちは
精神的には実にみじめな生活をしている。

それは隙を見て奪うにも似たる生活であるから、
その先鋭的な精神状態は自分自身を傷(きずつ)けて、
自分自身が神経過敏状態になるか、身体の各所に病気を持っている。

更にその尖鋭な精神状態は家族を傷け、家族たちがヒステリーに陥るか、
身体の各所に病気を持っているであろう。

労(サービス)せずして得たる金銭は、その人の身につく資格なきものであるから、
それは必ずその人から飛び去ろうとする。

その飛び去る際に、その持主を肉体的快楽の賎奴(せんど)とするか、
執する物に離れる愛別の苦痛を与えて飛び去るのが普通である。
或る場合には金が溜(たま)れば必ず医者にとられる。

考えて見るならば金銭は何処(どこ)がそんなに尊いのであろう。
それは隣人を救う時に利用されるとき、自分を高め勉強さすように利用されるとき、
その時にのみ尊いのである。

隣人から奪ってこれを苦しめ、自分を肉体的快楽の奴隷にまでならしめるような
金銭は却って地獄の使者(つかい)である。

            <感謝合掌 平成29年4月20日 頓首再拝>

《肉体を霊的目的に使いましょう》 - 伝統

2017/05/05 (Fri) 03:34:40


          *『幸福を招く365章』第2項(P40~41) より

私たちの肉体は肉体そのものために存在するのでなく、
一層高き自我の一層高き目的のために奉仕するためにつくられているのである。

肉体を霊的目的に使用すればするほど肉体はそれに適するようになり、
霊の啓示に鋭敏に感応するようになるのである。

従って皮膚なども肌理(きめ)こまかくなり、清純な、繊細な感じがあらわれて来る
ようになり、体臭なども何となく、香を焚(た)きしめたような馥郁(ふくいく)とした
匂いをもつようになるものである。

そして神想観のとき、又は眠りしなに、自分の知りたいことを教えてもらうように
内在の霊にむかって願って置けば、目覚めた瞬間又は、必要に応じたときに、
自分の知りたいことを知らせてくれる啓示に接することができるようになるものである。

目覚めた瞬間は、脳髄が自働的調整を終って元に復しているので
霊の啓示を印象しやすいのである。

            <感謝合掌 平成29年5月5日 頓首再拝>

霊感多きで、慢心するなかれ - 伝統

2017/05/13 (Sat) 03:14:06


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月13日)」より

『伝燈録』巻八、南泉普願の章に
「南泉いわく、『老僧修行のちからなくして、鬼神に覰見(ちょけん)せらる』」とある。

南泉和尚が修行の力なくして鬼神(霊界の諸霊たち)からまだ姿が見えたので、
鬼神からいろいろの霊力を授かっていたのを恥じるというのである。

人の病気を霊力で治しえたからとて、
その人の心境が、そしてまた修行がすばらしいというのではないという意味である。

道元禅師は『正法眼蔵』行持の巻、五祖の章に、このことを注釈して
「向来の仏祖のなかに、天の供養をうくるおおし。しかあれども、すでに得道のとき、
天眼およばず、鬼神たよりなし。そのむねあきらむべし」と悟しておられるのである。

今までの仏教の教祖のなかに、天人級の諸霊の供養をうけて、
いろいろ神通力を発揮した者もあるけれども、真実、仏道の悟りを得たならば、
天人の霊眼にも見えないし、鬼神すなわち諸霊の憑(かか)り来ることはない。

その深き意義を明らかに考究せよという意味である。

いろいろの予言ができたり、病気治しができたり、天眼通がひらけたりするのは、
ある階級の諸霊の感応によって得られるのであるから、まだ最高級の悟りに達していない
のだから注意せよと道元禅師は言われたのである。


そして道元禅師は、五祖の章の結末を
「しるべし、無修の鬼神に覰見せらるるは、修行のちからなきなり」と叱咤していられる。

本全集『生命の實相』第九巻の「霊界篇」にあるヴェッテリニの霊告によっても、
低級の霊は人間界の雰囲気の近くに生活しているから、現実界にあらわれる以前に
地上に渦巻く雰囲気を感知して、高級霊よりもいっそうよく予言などが的中するのだ
と示されている。

高級霊はおおむね地上の物事に執着しないから地上の人びとを訪れることなく、
おおむね低級霊が地上の人々を訪れるのである ―― もっともそれはそれぞれの
霊的因縁によることであり、それぞれの使命のあることであるが ―― 
したがって霊感などがあまり多くあることを慢心してはならないのである。

むしろ霊感多き人は南泉和尚のように
「老僧修行のちからなくして鬼神に?見せらる」と
修行の足らざるを反省すべきである。

道元禅師は、行持の巻第十五に伽藍の守護神が
「われきく覚和尚この山に住すること十余年なり。
つねに寝堂に到りて和尚を見んとするに能わず」と嘆いたと書いている。

*覰見(ちょけん)=うかがい見る

            <感謝合掌 平成29年5月13日 頓首再拝>

自分を「公な存在」に常に置き換えること - 伝統

2017/05/19 (Fri) 04:44:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月18日~19日)」より

神は自己自身を実現するために「我(われ)」を創造(つく)り給うたのであると信ぜよ。
しかしてわが欲することは神御自身が実現するために必要なことであると信ぜよ。

これが信念の世界において、神と自己とが一つになる道である。
わが欲することを神が嘉(よみ)し給うかどうかわからないなどとは思うな。

「我(われ)」が欲することは神の嘉し給うところのことであると信ずるために
第一に必要な条件は「個我(こが)」をいったん破壊してしまわなければならぬ。
自分がまず「公的な存在」になってしまっておくことが前提である。

「我(われ)」というものが「公的な存在」になっていないでいながら、
「我(わ)が欲するところのものは神が必ず成就し給うところだ」などと信じても、
ある程度までは信念の力で押し切れるが、
ナポレオンのように最後にウォーターローの戦いで敗れるだろう。

自分を「公(おおやけ)な存在」に常に置き換えること。
一度「公(おおやけ)な存在」に置き換えておいても、
いつの間にか「私的(してき)な存在」に置き換わっていることがあるから注意せよ。

                 ・・・

我が「公的なる存在」なるとき、なくてならぬものは必ず与えられるのである。

否、すでに与えられているものが、
「公的精神」すなわち「利己的ゆがみなきレンズ」となるがゆえに、
それがそのままそこに現われ出るのである。

            <感謝合掌 平成29年5月19日 頓首再拝>

《自分に属せぬものを得てはならぬ》 - 伝統

2017/06/02 (Fri) 04:50:12


        *『幸福を招く365章』第3項(P52) より

盗罪と云うのも姦淫と云うのも、いずれも所を得ないことである。
自分のものでないものを、自分のものの所に置くことがこれらの罪である。

処を得させれば、すべての悪は、消えてしまうのである。
自分に属さぬものを自分に属しめようと思ってはならぬ。

他人(ひと)があなたに属している者を浸した場合には、
浸したものと同等のレベルに降りて、腹を立てたり、恐怖心を起こしたり、
不快になったりしてはいけない。

本来の支配権を心の中に確認すれば、
自分に属する事物は、自ずから自分の中に帰って来るのである。

相手を憎むことなく、
「相手は決して彼自身に属せぬものを奪うような人ではない」と
強く強く思念せよ。

            <感謝合掌 平成29年6月2日 頓首再拝>

生活が本当になったとき心が落ちつく - 伝統

2017/06/06 (Tue) 04:42:06


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月6日)」より

生活が本当になったとき心が落ちつく。
心が落ちつかない間は、自分の生活が据わるべき処に据わっていないからである。

機械でも据わるべきところへ据わったら、震動も少ないし、摩擦も少ないし、
心棒が焼けつくということもないのである。

心を落ちつけるのも大切であるが、心の方からばかり抑えつけても不安が去らないのは、
生活が落ちつくべきところに落ちついていぬのである。
ごまかしの生活をしながら心ばかり落ちつかせようと焦ってもしかたがない。

正しい生活、悔いのない生活、いつ死んでもよい生活をしていたら、
どんなことがあっても落ちつけるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月6日 頓首再拝>

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