伝統板・第二

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神の智慧 - 伝統

2016/08/09 (Tue) 03:22:44

《造り主の智慧》

          *「光明法語」(8月9日)より

自働装置は誰が造ったか

植物の向日性や、同化作用や、呼吸作用はいすれも化学的法則に支配されている。

日光を受けて光の方向を向くのは日光に刺激されてアウクシンと云う物質が出来る為であって
それは物理化学的な反応で、精神などの働きによるものではないと唯物論者は言うけれども、

日光を受ければアウクシンと云う物質を生ずるような微妙な構造を作り、
その微少量の物質の作用によって光へ自働的に向く様な構造を造るのは中々偶然に出来る
ものではない。

造り主の智慧を必要とする。


           <感謝合掌 平成28年8月9日 頓首再拝>

此の微妙な構造は誰の働き - 伝統

2016/08/10 (Wed) 03:21:06


          *「光明法語」(8月10日)より

智慧ある造り主 ―― これを吾々は神と称するのである。

天体の運行にしても吾々の地球がもう半分の遅さで自転するならば、
地峡の半面は熱すぎ、他面は寒すぎて生物は生存し得ない。

地面の傾斜が無いとすれば現在の温帯地方に氷山が浮かんでいて
吾等は生存し得なくなると云うことである。

ほんの微妙な相違を寸分間違いなく構造した知性を吾々は「偶然」と称することは出来ない。
人間の神経組織、心臓のポンプ式構造が毛管血管につづいて栄養や排泄を行なう
微妙な構造は叡智ある設計者なしに構造せられる筈がない。


           <感謝合掌 平成28年8月10日 頓首再拝>

《神の智慧のままに生活する者は幸いなるかな》 - 伝統

2016/08/20 (Sat) 03:38:40


          *『 生長の家 』(昭和40年3月26日の法語)より

   率直な心で神の智慧を受ければ、
   自然に何時(いつ)、如何になすべきかが示されるのである。

   イエスは「 空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈(か)らず、倉に収めず、
   然るに 天の父はこれを養いたまう 」といっている。

   彼らは自然な心をもっているから、自然に「 内部の啓示 」を受けて、
   その時その場に適当な処置をとり得るという意味であって、
   小鳥は懶(なま)けているという意味ではないのである。

   渡り鳥のうちには 南米から北米へと驚くべき長距離を季節にしたがって
   移動する智慧をもっているのがあるという。

   或る海亀は 干潮(かんちょう)の夜 海浜(かいひん)の砂の中に産卵に来て、
   それから一定の日数を経ると、それが孵化(ふか)して海に帰る恰度(ちょうど)
   その日に大潮が満ちて来て、孵化した亀の幼児を海に搬んでくれるように、

   その海亀は天文学も気象学も学んだこともないのに、
   潮の満干(みちひ)の周期を知っているのである。

   蝶はその卵が孵化して幼虫になった時に食物となる樹(き)を選んで産卵する。

   驚くべき智慧が宇宙には満ちており、季節と自分、海水と自分、鉱物と自分、
   植物と自分の間にも相互関係があり、互いに相手の動きを知る智慧があるのである。

   これによっても宇宙の万物ことごとく「 一つの智慧 」によって支配されている
   ことが分かるのである。その「一つの智慧」が「神」である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

         <感謝合掌 平成28年8月20日 頓首再拝>

《執着なき「其の儘の心」に本当の智慧が湧きます》 - 伝統

2016/08/30 (Tue) 04:27:12

         *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P296)より

   ・・・

《或る西洋の寓話~ゴム・ホースの寓話》(P295)

或る日、父と子供とが花園の手入れをして草花に水をやっていました。
子供は水道の栓にゴム・ホースをつないでホースの先から出る水を
草花に濯(そそ)いでやるのが、楽しみでした。
ところが突然その水道の水が停(とま)ってしまったのです。

「お父さん、水が出なくなりました!! 」と其の子供は叫びました。
父は振り返ってゴム・ホースを見ました。
見ると、其の子供自身がゴム・ホースを右足で踏んでいるのです。

「お前がホースを踏んでいるではないか」と、父は子に言いました。
子供は気がついて右足を挙げますと、また元の通りゴム・ホースから
水が豊かに噴出しはじめました。

ところが暫くする子供はまた叫びました。
「お父さん、また水が停まりました。足は挙げているのに水が停まったのです。」
父がまた振返って見ますと、今度は子供の左足がゴム・ホースを踏んでいました。

親からの無限供給があなたの日常生活に杜絶(とだ)えるのは、
ちょうど此の譬え話の通りであります。


   ・・・

   ゴム・ホースの寓話は何を語るものでしょうか。

   水道の水は「神の無限供給」の喩(たと)えです。

   柔らかいゴム・ホースは、
   其の儘素直な柔(やわら)かな「受け入れる心」です。

   そのまま受ける柔(やわらか)い心である限りは
   自然法爾に供給が無限にやってくるのです。

   それに「自分の心」の執着の重荷がかかりますと、
   それが知らず識(し)らず人間的なハカライになって、
   無限供給のゴム・ホースの通路をふさいでしまうのです。

   「傍目八目(おかめはちもく)」と云う諺(ことわざ)があります。
   碁を打っている本人には「勝とう」と云う「執着の重荷」が
   「神の智慧の無限供給」のホースを時々踏み押(おさ)えてしまうから、
   神の智慧の流通を妨(さまた)げて、却(かえ)って
   ヘマな所へ石を打ったりするのですが、

   第三者たる観戦者は、自分が「勝とう」と云う執着の重荷がないから
   神の智慧が其の儘素直に流れ入(い)って来て、当事者その人よりも
   傍目(おかめ)で見ている人の方が良き智慧が湧いて来ると云う意味です。

         <感謝合掌 平成28年8月30日 頓首再拝>

《宇宙全体は一つの智慧で統一している》 - 伝統

2016/09/11 (Sun) 03:16:45


       *「生長の家」(昭和25年6月27日の法語)より

   神は吾々の生理作用を導き給うだけでなく、
   吾々の周囲におこるすべての事件をも
   その完全なる智慧によって導き給うて
   調和あらしめ給うのである。

   或る天文物理学者の唱える所によると、

   すべての恒星というものが存在せず、
   唯(ただ)吾らの太陽のみが地球に対して存在するならば、
   地球の引力のフィールドと原子核の凝集する電気フィールドの
   不調和から平衡が破れてすべての原子核は崩壊してしまって、
   吾々の生活せる世界はないのだということである。

   考えてみると何の関係もなく、大空に運行している星の一つ一つも
   人間の生活にかくも微妙に調和して存在しているということは
   宇宙が唯一の智慧に導かれている証拠であるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

         <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

《神とはどんな難問題をも解決したもう》 - 伝統

2016/09/28 (Wed) 04:26:13


        *『 生長の家 』(昭和26年7月9日の法語)より

   神は すべての渾てであるから、
   神は 外にも内にも到(いた)る処に いますのである。

   何事が起って来ようとも、
   問題が起るのは 解決があるから起るのであるから
   心配することは 要らないのである。

   解決が出来ないのは 智慧(ちえ)が足りないからである。
   神の智慧をもって来さえすれば どんな問題でも解決出来るのである。

   神の智慧をもって来るのはどうするか、
   神にその問題をわたしてしまえば好いのである。

   神に 「 自分 」 を明け渡すのである。


   「 神よ、この問題を貴方に全部ゆだねます。
   神よ、あなたは無限の愛であり、無限の智慧であられます。

   だから必ず此(こ)の問題をすべての人の幸福になるよう
   解決して下さいます 」

   このように祈るが好い。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4e611a8076c6ee4611c171ace03a28c2

         <感謝合掌 平成28年9月28日 頓首再拝>

<宇宙には驚くべき知性がある> - 伝統

2016/10/14 (Fri) 04:03:57


          *『善き人生の創造』第二章(P17~18)より
 
宇宙には、その背後に驚くべき知性が働いているのであります。
宇宙の知性を認めることは神を認める最初のものであります。

拙著『生命の謎』に於いて述べましたように、
物質も生きており、感覚があるのであります。

或る一定の元素と元素とが互に牽引し、又他の元素とは互に排斥し合うのは、
相手が何物であるかを見分ける力を持っている証拠であります。

殊に触媒と云う何らそれ自らは化合にあずからないものが出て来ると、
化合が促進されるような事実は、触媒の出場を知覚する力を
元素が持っていることの証拠と言わねばなりません。

物質の化合が一定の法則の下に行われて、出鱈目でないのは、
法則は知性の表現でありますから、物質の背後に知性が働いている証拠であります。 

木の葉の一片、草の葉の一片も、一定のその木又はその草特有の組織構造に
栄養分が分配されて組立てられて行く有様は、単なる物質の機械的化合以上
のものがあるのでありまして、一定の知性によって栄養分となるべき
物質分子が組立てられて行く事を認めることが出来るのであります。

このような植物は勿論のこと、ありと凡(あら)ゆる地下の生物の生理的構造は、
単なる物理現象や化合現象ではないのでありまして、

いずれも智慧のある設計者が煉瓦の建造物を積み上げて行く様に、
物質分子及び細胞を積み上げて行くのでありまして、吾々が指先を少々位い
切り落としましても、微妙な指紋の形までも再現して来るのであります。

そして指先などよりも尚々微妙な働きをする処の脳髄、神経細胞、諸種の腺
及び内臓の如きが、動物の種族に応じて、種族特有の構造を持って構造されて行く
のを見るとき、その形が造られて行く背後に驚くべき智慧が働いている
と云うことを認めずにはいられないのであります。

人間に一片の草を造れと云っても、どんな大学者を呼んで来ても造る事は出来ない
と云う事を考えますと、この宇宙の知性なるものは、人間の知性などの
到底及ばない知性を持っているものだと云うことが出来るのであります。

それは内臓も脳髄も何も無いところから、
新に、それを極めて巧妙なる設計に造ったのでありますから、
吾々の内臓その他の組織に欠陥が生じた場合に、それを一定のプランに従って
再組織し再構造し得る力があるのは当然と云わなければならないのであります。

・・・

<関連Web:『善き人生の創造』第二章
        → http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15388555 >

         <感謝合掌 平成28年10月14日 頓首再拝>

《智慧は秩序である》 - 伝統

2016/10/26 (Wed) 04:36:50


          *『 生長の家 』(昭和23年 9月2日の法語)より

   愚かなる智慧なき生活は 生命体の秩序を破る。
   従って、病気の原因となるのである。

   生命体の秩序を破るのに、物的方面と心的方面とがある。

   物的方面では 食物に使用すべからざる毒物を
   食用する如きは 秩序を破るのである。
   青酸加里や砒素剤の服用の如きは それである。

   生長の家は決して物的方面の秩序を軽んずるものではない。

   何故なら 物質的秩序も結局は 宇宙大生命の智慧の発現であり、
   結局心的なものであるからである。

   「 物は心の影 」 と云うのも 此の方面から理解出来る。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

         <感謝合掌 平成28年10月26日 頓首再拝>

智慧は学者でなくても得られる - 伝統

2016/11/08 (Tue) 03:36:02


         * 『真理』第九巻生活篇(P274~275)より

人生に問題が起って来るのは、人間が何か所有しているものが足らぬから
起って来るのではなく、所有しているものの「使い方」を間違えるから
起って来るのである。

人間の知識が足らぬから人間が不幸になるのではなく、
その知識の「使い方」を間違えるから人間は不幸になるのである。

この「使い方」を知るのは知識ではなく智慧である。

知識は分析や研究によって得られるが、智慧は祈りによって得られる。

大なる知識は大学者でないと得られないが、
大なる智慧は大学者でも必ずしも得られない。
むしろ心貧しく謙りたる者が祈りによって得られるのが智慧である。

キリストは大学者ではなく、科学的な知識はなかったが、大智慧者であった。

知識は必ずしも平和を齎さないが、智慧は必ず平和をもたらすのである。

         <感謝合掌 平成28年11月8日 頓首再拝>

《神はどんな難問をも解決したもう》 - 伝統

2016/11/23 (Wed) 03:47:48


         *『幸福を招く365章』第10項(P217) より

神はすべてのすべてであるから、神は外にも内にも到る処にいますのである。

何事が起って来ようとも、問題が起るのは解決があるから
心配することは要らないのである。

解決ができないのは智慧が足りないからである。
神の智慧をもって来さえすればどんな問題でも解決できるのである。

神の智慧をもって来るのはどうするか、
神にその問題をわたしてしまえば好(よ)いのである。
神に「自分」を明け渡すのである。

「神よ、この問題を貴方に全部ゆだねます。
神よ、あなたは無限の愛であり、無限の智慧あられます。
だから必ず此(こ)の問題をすべての人の幸福になるよう解決して下さいます」

このように祈るが好(よ)い。


(初出は「生長の家」昭和26年7月9日の法語)

         <感謝合掌 平成28年11月23日 頓首再拝>

心に “智慧の耳” ある者は聴け - 伝統

2017/01/06 (Fri) 03:48:25

          *『生長の家』(昭和48年2月号) より

“智慧” は天来のものであり、神来のものであるから、
それに従へば善なる結果をもたらすものであるけれども、

知識は迷いを含んだ “人間ごころ” を通して出て来るものであるから、
知識はその全部を受けて信ずれば、そしてその示唆するところに従って実行するならば、
それは色々の禍を惹き起す種子となり、また引金となることがあるのである。

だから知識を用うるときには、良心をもってその善悪を考慮して
それを実行に移さなければならないのである。 

知識は人と物とを審判し、よく斬るけれども、時には相手を傷つけ、
時には自分を傷つける双刃のつるぎとなる。

 
智慧なき者の百年の生活は、智慧ある者の一日に及ばないのである。 
智慧ある者の一日の説法は、智慧なき者が百年かかって集めたところの
知識よりもすぐれているのである。 

何故なら、そのような知識は幾百万人を殺すけれども、
智慧ある者の一日の説法は幾百万人を生かす事が出来るからである。

智慧なき者の知識によって堕胎は行なわれ、
毎年幾百万人の胎児の生命が殺されてるのである。 

併し 『堕胎が悪行である』 という智慧は、多くの国民の声ともならないし、
政府の要人の心の耳にも入らないのである。 

心に “智慧の耳” あるもののみ真理を聞くことができるのである。

“智慧ある者” も、時には “人間ごころ” に誘惑されて罪を犯すことがある。 
しかし “智慧ある者” はそれが “間違いの行為” であったことを、 
“智慧の鏡” に照らし出して反省し、再びその過ちを犯さないようにつとめるのである。

 
“智慧なき知識人” は、罪を犯しながら、それを “間違いの行為” であった
ということを自覚しないから、幾度びも罪を重ねるということになるのである。 
そしてその過ちが重なるに従って自分自身の魂の蒙る傷は深くなるのである。

だから釈尊は 『知らずに犯す罪は、知って犯す罪よりも重い。 
例えば焼火箸と知らずに握った時の火傷は、焼火箸と知りながら
用意して握った時の火傷よりもひどいのである』 と教えらえているのである。

堕胎を “悪い” と知りながら堕胎した婦人は、
その罪の歎きに、二度とそれを繰返すまいと心に誓うのである。 

しかし堕胎を “悪い” と知らないで堕胎した婦人は
、幾度びでもその罪悪を繰返すのである
 ―― だから知らずに犯す罪の方が深く重いのである。

現行の優生保護法が堕胎を公許しているために、
公許されているから 『悪事』 でないと思い違えている婦人が多くて、
毎年 “胎児殺害” の罪を繰返しながら、それが悪事であると知らないのである。 

優生保護法を改正する必要がある所以である。

http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24608240.html より複写)

         <感謝合掌 平成29年1月6日 頓首再拝>

《神の智慧 吾を導き給う》 - 伝統

2017/01/22 (Sun) 05:01:45


           *『生長の家』(昭和24年11月4日の法語)より

   吾は神の智慧に導かれて 常に安全の道を歩むのである。

   吾が人生の行路に如何なる障碍(しょうがい)物が
   横たわっていようとも、
   吾は 波長の共鳴の原則によって、困難には自然に触れず
   ただ善きもののみが集まって来るのである。

   神の智慧は 人々を導いて吾に幸福をもち来らしめ給い、
   吾は又 神の智慧に導かれて 人々に幸福をもち来すのである。

   幸福を人に与えるもののみ又 自分も亦幸福を与えられるのである。
   吾は その真理を知るが故に、
   常に人々に幸福を与えてやまないのである。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

         <感謝合掌 平成29年1月22日 頓首再拝>

神の智慧を受け、実践する - 伝統

2017/02/08 (Wed) 03:46:00


           *『 生長の家 』(昭和26年6月23日の法語)より

   吾々が神の無限供給に接触することが出来るのは、
   吾々内部に宿る神性を通してのみである。

   神性のみ神性に接触して、
   そこから無限を引き出して来ることが出来るのである。

   人を愛しないでいて神から愛されようと思っても無駄のことである。
   何故(なぜ)なら神は愛であるから愛によってのみ波長が合うからである。

   神の無限供給は 決して「 物質 」の形で来るものではないのである。
   何故なら 神は「 物質 」ではないからである。

   神は 智慧であるから、
   神の無限供給は 良き智慧の形をもって吾々を訪れる。

   愛念を起して良き智慧の流入を受け、
   その良き智慧を 愛念をもって実践することである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

            <感謝合掌 平成29年2月8日 頓首再拝>

《問題を処理するまでに、神に心を振向けよ 》 - 伝統

2017/06/07 (Wed) 04:41:29


           *『生長の家』(昭和41年12月11日の法語)より

   自分にとって都合の悪い問題が起って来たときには、
   それと直ちに取組んで勝負を決することをしないで、
   先ずその問題を神にあづけて、

   自分の心の表面の動揺を取り除き、自己に宿る神の叡智を
   自分の心の深層から浮び上がらせてくるようにして、
   その叡智の判断によって事を処理すれば、
   最も適切な処置がほどこされることになるのである。

   時として『甘露の法雨』のような真理の詩を朗読することによって、
   自分の恐怖や動揺が消え去って、最もよき解決の方法が
   思い浮ぶことがあるものである。

   現象にあらわれた問題が悪化して行くのは、概ね、
   その問題に直面する人間自身の恐怖心や動揺の念が
   現象に反映した結果であることが多いのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783


            <感謝合掌 平成29年6月7日 頓首再拝>

神は全能の智慧、調和の智慧 - 伝統

2017/06/10 (Sat) 04:11:48


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月10日)より

「神の力、神の智慧、神の愛、今われに流れ入りて
われを救けたまい、導きたまい、われを祝福したまう。
神に於いて解決困難な問題など一つだとてあり得ないのである。

神は全能の智慧であり、調和の智慧である。

神は自分に宿りたまう智慧であるばかりでなく、
すべての人々に宿りたまう智慧であるから、
すべての人々が調和して動き出して問題は完全に調和した形に解決するのである。

神は今自分を神御自身の創造の尖端として新しき調和ある解決の道を見出し給う。
神よ、神の完全なる智慧によって調和ある解決の導きを示し給え」

            <感謝合掌 平成29年6月10日 頓首再拝>

《神の “ 新しき智慧 ” に波長を合わすこと》 - 伝統

2017/06/28 (Wed) 04:13:28


         *『 生長の家 』(昭和44年12月21日の法語)より

   過去の生活習慣にも善いものもあれば悪いものもある。

   過去の生活習慣を全部善いと思って
   それに泥(なず)むのもよくないが、

   過去の生活習慣を悉く“古くて駄目だ”と
   軽蔑して、棄(す)ててしまうのも問題である。

   棄てるべきは棄てなければならないし、
   温存すべきは温存しなければならない。

   それを正しく分別するのが“新しき智慧”である。


   その“新しき智慧”は神から来るのである。

   私たちは、常に神想観を怠ることなく、
   神の“新しき智慧”の導きに波長を合わすことを
   忘れてはならないのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/8caefbd0670806cc4c79f8577c48613e

            <感謝合掌 平成29年6月28日 頓首再拝>

わが内に無限の叡智が宿っている - 伝統

2017/07/10 (Mon) 04:13:47


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月10日>(P15)より

われを導くものは神である。
(これは私自身だけのことを言っているのではない)

すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、
われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。

万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。

そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

         <感謝合掌 平成29年7月10日 頓首再拝>

《不思議な無限の叡智》 - 伝統

2017/07/23 (Sun) 03:55:06


      *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P147~148) より

吾々は肉体からいうならば常に死につつあるのである。
吾々に肉体を構成する細胞、それは生れ、組織をつくり、
その割り当てられたる仕事をし、やがて死んでいく。

その死んで行った後の椅子を、新しく生れた細胞が埋め、
前の細胞が行って来た仕事の引き継ぎをして、
全体として統一ある仕事が行われるのである。

新たに生れた細胞は生きていて、仕事を引き継いで、
継続してその任務とする仕事に従事する“引き継ぎ”は
如何にして行われるであろうか。

引き継がおこなわれるためには“心”がなければならないのである。

細胞から細胞へとその事務引継ぎは行われるのだろうか。
それとも、中枢からの命令が無線伝導で行われるのだろうか。

直接その事務引き継ぎが行われるにしても、
中枢からの命令が無線伝導で行われるしても、いずれにせよ、
細胞が生きていて、それに“心”があるからこそ引き継ぎができたり、
中枢の命令が感受できるのだといわなければならないのである。

或いはそれは“心”によって感受するのではなく、
電子計算機のように自動的にその引継ぎや命令の伝達が行われるのかも知れない。

併し尚(なお)、問題は残るのである。
この極めて微小な、肉眼で見えないほどに小さな細胞に
電子計算機のような複雑な構造が組み込まれているだろうか。

若しそうだったら、そのような微小な中に複雑な構想を組み込んだところの
「創造者」は実に驚くべき叡智を備えた者でなければならない。

それは到底、吾々人間の脳髄の知恵でできることではないのである。

脳髄をも造ったところの不思議なる「無限の叡智」それを神というのである。
吾々はどうしても神の存在を認めなければならないのである。

         <感謝合掌 平成29年7月23日 頓首再拝>

《宇宙の本源には無限智がある》 - 伝統

2017/08/08 (Tue) 03:23:50


        *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P170~171) より

宇宙の最始元には、物質はまだ存在しなかった。
真空よりして物質が発生するその過程は今でも見ることができるのである。

宇宙最始元の其処は、星と星との間の空間のように真空であったのである。
その真空の中に極めて微量の水素がつくられつつあり、
それが、宇宙雲として観測せられるのである。

その水素は微量であるが、宇宙空間は広いのであるから総計すれば随分多量に上り、
それが集団して天体を形成したのだと天文物理学者は説明する。

 
そうして出来上がった天体上に無数の生物が生れたが、
その生物の微妙精緻な構造は、偶然に物質が集合して出来たというにしては
余りにも精巧複雑であり、人間の脳髄の知識などでは到底製造できない
極めて高度の知性の表現であるのである。

即ち宇宙は「真空」を素材として、
高度の知性によって一切を現したものだということができるのである。

鉱物の結晶から人体の組織に至るまで色々の形、構造、組織等悉く
人智の及ぶことのできない智慧によって設計されていることを思うとき、
どうしても宇宙の本源に無限智の神を認めずにはいられないのである。

         <感謝合掌 平成29年8月8日 頓首再拝>

叡智ある設計者 - 伝統

2017/08/10 (Thu) 03:18:53


          *「光明法語」(8月9日~10日)より

《八月九日の法語 自働装置は誰が造ったか》

植物の向日性や、同化作用や、呼吸作用はいすれも化学的法則に支配されている。

日光を受けて光の方向を向くのは日光に刺激されてアウクシンと云う物質が出来る為であって
それは物理化学的な反応で、精神などの働きによるものではないと唯物論者は言うけれども、

日光を受ければアウクシンと云う物質を生ずるような微妙な構造を作り、
その微少量の物質の作用によって光へ自働的に向く様な構造を造るのは中々偶然に出来る
ものではない。

造り主の智慧を必要とする。

・・・

《八月十日の法語 此の微妙な構造は誰の働き》

智慧ある造り主 ―― これを吾々は神と称するのである。

天体の運行にしても吾々の地球がもう半分の遅さで自転するならば、
地峡の半面は熱すぎ、他面は寒すぎて生物は生存し得ない。

地面の傾斜が無いとすれば現在の温帯地方に氷山が浮かんでいて
吾等は生存し得なくなると云うことである。

ほんの微妙な相違を寸分間違いなく構造した知性を吾々は「偶然」と称することは出来ない。

人間の神経組織、心臓のポンプ式構造が毛管血管につづいて栄養や排泄を行なう
微妙な構造は叡智ある設計者なしに構造せられる筈がない。

            <感謝合掌 平成29年8月10日 頓首再拝>

叡智を備えたエネルギー - 伝統

2017/08/25 (Fri) 03:48:26

《物理学は神を発見した 》

         *『 生長の家 』(昭和26年1月4日の法語)より

   最近の物質科学の進歩により、物質は 原子より成り立つが、
   原子は 若干の素粒子より成り立ち、
   その素粒子は 「 無 」 よりして突如として発生し、
   また 「 無 」 に帰することが発見されたのである。

   結局、 「 物質 」 は 「 無 」 の変形であることが発見されたのである。

   しかし単なる 「 無 」 は何もないから
   それが変形しようにも変形のしようがない。

   その 「 無物 」 の世界に ‘ あるエネルギー ’ が加わって
   原子のようなものが凝結し発生したのである。

   その 「 あるエネルギー 」 は高等数学的な秩序をもって
   素粒子、原子、分子の離合集散等その他の発展を支配している。

   従って それは 驚くべき叡智を備えたエネルギーだと云える。

   この叡智を備えたエネルギーを 吾々は神と称するのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

            <感謝合掌 平成29年8月25日 頓首再拝>

《先(ま)ず神の智慧を求めよ》 - 伝統

2017/09/10 (Sun) 04:31:12


        *『 生長の家 』(昭和25年1月11日の法語)より

   ソロモン王が王位についた時 
   神は、「汝(なんじ)何をもっとも求むるや」と
   きかれたということである。

   ソロモンは、自分の健康も求めなかったし、長命をも求めなかった。
   敵の首を取ることも求めなかったし 富をも求めなかった。

   彼はただ 「 智慧を与え給え 」 と祈ったのである。

   よき智慧は自から、健康をもたらし、長寿をもたらし、
   すべての人を打ち従え、富むことを得せしめるのである。

   智慧も、我欲も全うする悪智慧を求めてはならないのである。

   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/0270991794ce035485bc4db54100c6ca

            <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>

《智慧は物質現象を左右す》 - 伝統

2017/09/29 (Fri) 03:34:45


         *『 生長の家 』(昭和26年1月8日の法語)より

   生命現象が可能であるのは、
   生命の中に含まれている智慧が、
   自分の目的意志のとおりに、
   原子、分子、細胞等を組立て 組合せて行く力をもっているからである。

   ある食物を試験管に入れたときと、
   生きている人間の胃袋に入れたときとは、
   異なる化学的変化が起り、
   更に化学的変化以上に、生物体を構造する働きが起るのである。

   智慧(心)は 物質の原子、分子の配列状態を変え、
   自分の目的とする肉体を築きあげるのである。

   若し、あなたの 「 智慧 」 が病気を心に描いて、
   それを常に見詰めているならば、
   あなたの 「 智慧 」 は食物から吸収した全ての物質成分を
   「 病気 」 の姿に配列するから治りようがないのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

            <感謝合掌 平成29年9月29日 頓首再拝>

無限の智慧に導かれるままに素直に行動 - 伝統

2017/10/17 (Tue) 03:21:23

私たちは、ただ無限の智慧に導かれるままに素直に行動するだけでよい

   *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P210~211) より

《目的地へ導く準備工作》

何事もまだ終焉ではないのである。
生命(せいめい)は永遠であるからである。

無限の善さが顕現しようと云う途上にあるのであるから、
悲観するにはまだ早いのである。

栗の実に棘(とげ)だった毬(いが)があるからとて、それは却って、
その実が完熟するための保護であるのである。

蜜柑の果実が酸っぱいからとて、それは決して不完全ではないのである。
それはやがて時来れば甘くなるための準備工作が行われつつあるのである。

私たちは、ただ自己の生命(せいめい)のうちにある無限の智慧に導かれて、
その智慧に信頼して、動揺しないで心を平和に保ち、導かれるままに
素直に行動するだけでよいのである。

その智慧は或る時は私たちにジグザグ・コースをとらせることもあれば、
或るときは迂回路をとらせることもあろうが、
それによって、やがて私たちを目的の地に導いて下さるのである。

            <感謝合掌 平成29年10月17日 頓首再拝>

《不思議な無限の叡智》 - 伝統

2017/10/31 (Tue) 03:30:41


     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P147~148) より

吾々は肉体からいうならば常に死につつあるのである。
吾々に肉体を構成する細胞、それは生れ、組織をつくり、
その割り当てられたる仕事をし、やがて死んでいく。

その死んで行った後の椅子を、新しく生れた細胞が埋め、
前の細胞が行って来た仕事の引き継ぎをして、
全体として統一ある仕事が行われるのである。

新たに生れた細胞は生きていて、仕事を引き継いで、
継続してその任務とする仕事に従事する“引き継ぎ”は
如何にして行われるであろうか。

引き継がおこなわれるためには“心”がなければならないのである。

細胞から細胞へとその事務引継ぎは行われるのだろうか。
それとも、中枢からの命令が無線伝導で行われるのだろうか。

直接その事務引き継ぎが行われるにしても、
中枢からの命令が無線伝導で行われるしても、いずれにせよ、
細胞が生きていて、それに“心”があるからこそ引き継ぎができたり、
中枢の命令が感受できるのだといわなければならないのである。

或いはそれは“心”によって感受するのではなく、
電子計算機のように自動的にその引継ぎや命令の伝達が行われるのかも知れない。

併し尚(なお)、問題は残るのである。
この極めて微小な、肉眼で見えないほどに小さな細胞に
電子計算機のような複雑な構造が組み込まれているだろうか。

若しそうだったら、そのような微小な中に複雑な構想を組み込んだところの
「創造者」は実に驚くべき叡智を備えた者でなければならない。

それは到底、吾々人間の脳髄の知恵でできることではないのである。

脳髄をも造ったところの不思議なる「無限の叡智」それを神というのである。
吾々はどうしても神の存在を認めなければならないのである。

            <感謝合掌 平成29年10月31日 頓首再拝>

《法則も智慧も神から来る》 - 伝統

2017/11/16 (Thu) 03:41:25


          *『 生長の家 』(昭和25年3月5日の法語)より

   法則を駆使する所の力は 吾々の智慧から出て来るのである。
   その智慧は 神から出て来るのである。

   神は 自分自身を 「 法則 」 という受動的なものとして
   吾々に提供せられるとともにそれを支配する所の智慧として
   吾々に宿って来ておられるのである。

   法則と智慧とは 本来 「 神 」 に於(お)いて一体であるが故に、
   智慧は 法則を理解することができるのである。

   だから心をすまして静かに神の声をきけば
   智慧が自(おのず)から湧(わ)き出て来、
   法則を利用してどんな立派な発明でもできるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成29年11月15日 頓首再拝>

《内部の霊なる智慧》 - 伝統

2018/01/12 (Fri) 04:09:29


    *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P307~308) より

内部の「霊」は「一層大なる自己」であると共に、「一層大なる智慧」である。
その智慧の啓示にしたがって生活する者は、流れに従って航(こう)するようなもので、
速やかに進むことができるが、その智慧の啓示に従わずして生活する者は流れに逆らって
航するもので、色々の困難を閲(けみ)しなければならないのである。

だから、私たちは「内部の霊なる智慧」を呼び出して来て、
その導きに素直に随うようにしなければならないのである。

ただ肉体脳髄の限られたる知識だけで、
不安定な道を遮二無二突き進んで行くだけでは、
肉体的力は消耗(しょうこう)してしまって、
ついに完全に物事を成就することは出来ないのである。

この「内部の霊なる智慧」を導き出すのが「心」の働きであって、
神想観を実修して「心」を調節することによって、内部の霊と波長が合い、
内部の智慧が肉体面に現実化してくることになるのである。

            <感謝合掌 平成30年1月12日 頓首再拝>

《実相から来る智慧》 - 伝統

2018/03/07 (Wed) 04:11:59

      *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇(P37~38) より

吾々の生命(せいめい)はその実相に於て「個」にして同時に「普遍」であって、
自他圓融一如であるから、眼耳鼻舌身より来る五感の声に耳をかさずに、
実相から来る智慧の声に耳を傾けるならば、そしてその導きに素直に従うならば、
必ず平和と調和と相互扶助との道を見出すことができるのである。

実相の導きに背反して、ただ頭脳智だけによって、自分の利益を得ようとすると、
必ず其処に摩擦や闘争を生ずることになるのである。

だから我々は常に重大なる事を行なうにあたっては、単に頭脳の智慧に従うことなく、
神想観を修して実相智の導きを受けるがよいのである。


必ずしも神想観を修しないでも、その人が、きわめて自然な
身心脱落・脱落身心のような、「そのまま」の心境である場合には、
自然に実相そのままの智慧があらわれ、現象に捉えられて
間違いをやることもないのであるけれども、

普通の場合、吾々は、眼耳鼻舌身の五官智にとらわれて、物事を判断し、
「個」の利益のみに執しようとするきらいがあるので、
色々の摩擦や争闘や不安恐怖があらわれて来るものであるから、
常に神想観を実修して、実相の智慧を呼び出すようにすることが大切である。

            <感謝合掌 平成30年3月7日 頓首再拝>

《問題解決の智慧》 - 伝統

2018/03/25 (Sun) 04:10:39


     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P16~17) より

誰だってみずから進んで気苦労したい者もないし、
心配や取越苦労したい者はないのであるが、

気苦労しまい、心配しまい、取越苦労しまいと思っても、
いつの間にか色々と心が苦労するのを止(や)めることができないのが普通である。

しかし心配したり、憤(おこ)ってみたり、イライラしたりしたところが
問題の解決には何の役にも立たないのである。
それは問題を益々解決困難に持込むだけの事である。

それよりも心を平和にして問題の核心をつかみ、
何処にその「問題」という現象があらわるところの精神原因があるかを明らかにし、
その精神的原因を除去すると共に、心を神に振向け、
神から問題解決の智慧の導きを受けるように、神想観して祈るがよいのである。

             <感謝合掌 平成30年3月25日 頓首再拝>

《生命の本質 ―― 智慧》 - 伝統

2018/04/15 (Sun) 02:41:39


     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇( P47~48) より

生命の本質は”活力”であると同時に”智慧”である。
智慧のよって、混沌を支配し、それを或る目的に向かって
秩序立てて行くところに「生体」を生ずるのである。
(谷口雅春選集第三巻『生命の謎』参照)


智慧とは「或る秩序を想う力」ということである。
智慧の本質は想念である。

混沌の名前を、物理学ではエーテルと称し、エーテルそのままでは
混沌であって何ものをも生じないのである。

混沌が破れて陰陽の秩序が生じ、
秩序に従ってそれが結合するとき万物を生ずるのである。
秩序なしに物質の存在はあり得ないのである。

即ち物質は智慧のあらわれであって、心のない無機物としての物質は、
ただ概念としてのみ存在であって、そんなものは実はひとつもないのである。

本当の物質は「心のない無機物としての物質」ではなく、
「智慧のあらわれとしての秩序」である。

「智慧のあらわれとしての《秩序》」を吾々人間は最高度に発揮して
人類の文化を建設しているのである。

”自由”と称して”秩序”を破壊するものは、
人類文化の進歩に逆行するものであって、
逆に人類を野蛮状態に推し戻すものである。

             <感謝合掌 平成30年4月15日 頓首再拝>

「心を澄まして聴く」  - 伝統

2018/05/11 (Fri) 03:50:21

          *『白鳩』 昭和21年2月号 より

今朝神想観をして居りましたら、ふと私の頭に浮んだことは、
多くの人々は自分の為に神様を信じて居るのではないかと言う
反省だったのであります。

自分が健康になる為に、自分が幸福になる為に或は総てのことが
自分にとって都合よくなるように神様を信じているのじゃないか。 

こいつはいかんぞと云う反省の念が、
神様から天降って来たような気がしたのであります。

こんな信仰は全く利己主義でありまして、
神様を自分の道具に使っているに過ぎないと云うことは事実であると思うのです。 

神様どうぞ私の病気を癒して下さい。 
私の不幸を取除いて下さい。 
自分にとって何事も都合よく行きますように。 
自分の家が調和して参りますように

 ―― などと祈ることは、結局利己主義に過ぎない。

そう云う人は随分沢山 『生長の家』 の誌友の中にも
居るんじゃないかと思うのです。 

若しそうでなければ幸だと思いますが、
戦争で家も焼け失せ肉親の者も焼けて死んだ、
日本の国も負けてしまったから神様も効かない。 

世の中には神も仏もあるものかと思う人も大分あるようであります。

之は全く利己主義的信心であって、
自分の思い通りにならないから神様は効かないと云うのでは、
今まで 『何』 を信じて居ったのか、
これでは本当に神を信じていなかった我慾を信じていたことになる
と思うのであります。

吾々は本当の信仰をしようと思うのならば、神を信じなければならない。 
神様を第一にしなければならない。

『神様の御心の通りに生きさせて頂きます』 と云う気持ちにならなければ、 
『神がここに実現する』 と云うことになる筈がない。 

自分の利己主義や、我慾を満足せしめる為め、
一種の道具として神様を弄くり廻しているのでは、
本当の信仰ではないのであります。

尤もそう云う状態から信仰に入って来る人も随分沢山あります。 
しかしそれは入門の一段階としてのみ許されるのであります。 

『生長の家』 へ入ると病気が癒る、家庭の不和が癒る。 
或は貧乏が癒る。万事都合よく行く
 ― と云うので入って来る方がありますけれども、
之は法華経に書いてある三車火宅の譬えと同じことであります。


吾々が信仰生活に入った当時は、
吾々の心境が充分清まって居ないでもお陰は現れるのです。 

それは何故かと云うと、神様が吾々の魂の導きの為に、
神様の方へ心を転ぜしめんが為に、先刻申しましたように、
人生の一種の玩具として功徳を与え下さいまして、
『ああ神様は有難いんだな』 と云う気持を起さしめるように、
お計らい下さるのであります。

一切の功徳は神から来るのでありますのに、
それを何時の間にか 『俺が偉いからだ』 と、
増上慢の心を起すようになり、

俺が心の法則を使用すれば俺の思うようにならないものは何もないと、
神様を自分のメッセンジャーボーイのように思い、
いとも高ぶった傲慢な気持になってしまう。 

すると 『自分の力では何事も為し得ない』 と云うことを知らせんが為に、
神様は再び玩具を取去ってしまわれるのであります。

こうなると其の思念はきかなくなる。 
いくら心の法則を利用しても二進も三進も行かないように行き詰って参ります。

すると、それが動機に 『ああ自分は顛倒していた。自己慢心に陥っていた』 
と心の間違いに気付かせて頂くのであります。 

『総ての功徳は皆神様から来るものである。み恵みを有難うございます』 
と感謝して、総てを神に帰した時に、再び神の流れが流れ込んで来るのであります。 
(英米光明思想全集『祝福の流』の章参照』


それこそ本当の祝福、玩具でない所の祝福の流れなのであります。 
此の流と一つになった時、もう一時的の値打ちしかない玩具の功徳ではなく、
久遠に根の生えた永遠の源泉に汲むことになるのであります。 

ですから何か自分の周囲に又は身体に悪いことが起って来た場合には、
自分の心境に本物でないものがある。 
でなければもっと高い心境に導いて下さる為の神の摂理であるとして、
充分に反省すれば好いのであります。

自分が行き詰ったのは、自分が間違った道を歩いていたから行き詰ったのであります。
その時吾々はクルリと方向を転換して、神様の示し給う道に戻って行きますと、
そこに再びよき世界が自ら現れて来ます。

吾々は 『神様何々を与え給え』 と祈るよりも 
『神の御心を今、此所吾に実現し給え』 と念ずる方がよいのであります。 

又 『神よ、あなたの御心を以って私を満たしめ給え』 
と祈る事が好いのであります。

  
『吾々は全知全能であるから何でも出来ないものはない』 
と祈るのも一つの方法でありますが、ただそれだけでは 
『自分』 と云うものが 『本当の自分』 と置き代っていない。 
利己主義の自分が 『我』 を主張する心がまだ残っているのであります。

たとえば 『吾は全知全能で何でも出来る』 と念ずる人に、 
『あなたは一体どんなことを望んで、何でも出来ると考えて居るでしょうか』 
と尋ねて御覧なさい。 

その人は自分の食物のことを考えていたり、自分の地位のことを考えていたり、
自分の事業が旨く行く事を考えていたり、成るべく税金がかからぬことを
考えていたりするでしょう。

こう云う利己主義の為に念ずるのでは、ちっとも 『自己』 が
神の生命と置き換わっていないのであります。 
そこには偽者が跋扈しているだけで、
神の生命は覆われてしまっているのであります。 

本当に神の生命が此所に実現している人が、 
『俺は全知全能、何でも出来る』 と祈るのは間違いではないのでありますが、
利己主義の 『自分』 が消えずにいて 『自分は何でも出来る』 
と念ずることは、迷いの力を深くするだけの効果しかない。

迷いの心は捨てなければならない心であります。 
寧ろ 『神よ我をなくしならしめ給え』 と祈らなければならない。  

『神よ吾に御心を実現せしめ給え、我が慾望をすっかり捨てさせ給え。
そしてあなたの御心と置き換らしめ給え』 と念じなければならないのです。

『自分を無くならしめ給え、そして神の生命だけここに実現せしめ給え、
神の智慧のみを此処に実現せしめ給え』 と祈って、
その結果がどんな風に現れて来ようとも、それを喜んで受けるだけの
決心がなければならないのです。

十字架に掛れと云うのが神のキリストに対する思召しであるならば、
喜んで絞首台上に上ることが出来る決心がなければ本当ではないのであります。 
キリストはこうして十字架上によろこんで、磔殺され給うたのであります。

『汝等天地一切のものと和解せよ』 と云うのは人間許りに和解したらいい、
と云うのではない。 第一に神様と和解しなければならないのです。

和解すると云うのはどんなことを言われても、
ハイハイと言ってそれに感謝して従うことであります。  

『神様は俺に〇ねなんて言うのなら嫌だ。 そんなことでは神も仏もあるもんか』  
そんな考えでは、まだ神様と和解していない。

  (〇:死)

そう云う気持ではそのラジオセットに、神の波長が掛かって参りません。 
神様に逆らう所の何物もないと云う心境になることが、必要なのです。 
神様に 『我』 が無条件降伏する必要があるのであります。

斯う云った厳しい心境には初心者は到底耐えられないから、
神様は最初は現実的御利益の玩具を与えて下さるのであります。 

だから入信当時は沢山御利益がある。 
併し実際生活上の御利益だけで、人間の魂は進歩するのではないのであります。 
それは入信の最初に必要な一つの道具に過ぎない、玩具に過ぎないのであります。

吾々は尚一層高き真理を自覚しなければならない。 
尚一層高き魂の進歩を望み、それに到達しなければならないのであります。 
何時も同じ心境にいたのでは、お陰は出て来ない。

今までお陰だと思っていたのは物質的のお陰であって、
本当のお陰はもっと魂が進歩することである、
と云うことがだんだん判って来なければならないのであります。


吾々の生活に悪いように見えることが起って、
周囲と衝突したり、躓いたりするのは方向転換せよと云う神の導きなのであります。 
そんなものは御利益でないと思っていた、それが実は有難い神の導きだったのであります。

この様に神の恵みと云うものは、必ずしも物質的条件をよくして下さることではない。 
結局この物質の世界は捨てなければならない一段階である。 
お陰を受けて幾ら健康になった人でも、やがて死ぬ時が来るのです。 

キリストに復活させて貰ったラザロも死んだ。 
何時までも生きていると云う訳には行かない。 

どうせ又死ぬる者を何故生き返らせて、又何時か死なせるなんて
そんな面倒臭いこと神様はなさるのかと申しますと、
本来 『人間』 は生き通しであるから、健康であるとか病気であるとか
言うことは問題ではないのです。

そんなのは一つの玩具だったのです。 
魂を錬成する為の玩具だったのです。 
物質的利益や、無限供給があると云って喜んでいたのも、みんな玩具だった。

それはある魂の段階にある人々には必要なものなのですが、
総てそれらのものは捨てなければならない時が来る。 
何時までも玩具で遊んでいないで魂が進歩して大人になることを、
神様は望んで居られるのです。

即ち、何事にもとらわれない、
神の生命としての本当の自由を人間の魂が得られるようにと
神様は念願して居られる。 

物質の世界に何時までも縛られていることを、神様は望み給わないのであります。

  (http://blog.livedoor.jp/seimeinojissoh/archives/36822192.html より転写)

             <感謝合掌 平成30年5月11日 頓首再拝>

神は全能の智慧、調和の智慧 - 伝統

2018/06/10 (Sun) 04:36:06


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月10日)より

「神の力、神の智慧、神の愛、今われに流れ入りてわれを救けたまい、導きたまい、
われを祝福したまう。神に於いて解決困難な問題など一つだとてあり得ないのである。

神は全能の智慧であり、調和の智慧である。

神は自分に宿りたまう智慧であるばかりでなく、すべての人々に宿りたまう智慧であるから、
すべての人々が調和して動き出して問題は完全に調和した形に解決するのである。

神は今自分を神御自身の創造の尖端として新しき調和ある解決の道を見出し給う。
神よ、神の完全なる智慧によって調和ある解決の導きを示し給え」

             <感謝合掌 平成30年6月10日 頓首再拝>

造り主の智慧 - 伝統

2018/08/10 (Fri) 04:18:51


       *「光明法語」(8月9日~10日)より

自働装置は誰が造ったか

植物の向日性や、同化作用や、呼吸作用はいすれも化学的法則に支配されている。

日光を受けて光の方向を向くのは日光に刺激されて
アウクシンと云う物質が出来る為であってそれは物理化学的な反応で、
精神などの働きによるものではないと唯物論者は言うけれども、

日光を受ければアウクシンと云う物質を生ずるような微妙な構造を作り、
その微少量の物質の作用によって光へ自働的に向く様な構造を造るのは
中々偶然に出来るものではない。

造り主の智慧を必要とする。

・・・

此の微妙な構造は誰の働き

智慧ある造り主 ―― これを吾々は神と称するのである。

天体の運行にしても吾々の地球がもう半分の遅さで自転するならば、
地峡の半面は熱すぎ、他面は寒すぎて生物は生存し得ない。

地面の傾斜が無いとすれば現在の温帯地方に氷山が浮かんでいて
吾等は生存し得なくなると云うことである。

ほんの微妙な相違を寸分間違いなく構造した知性を
吾々は「偶然」と称することは出来ない。

人間の神経組織、心臓のポンプ式構造が
毛管血管につづいて栄養や排泄を行なう微妙な構造は
叡智ある設計者なしに構造せられる筈がない。

             <感謝合掌 平成30年8月10日 頓首再拝>

心に “智慧の耳” ある者は聴け - 伝統

2018/11/26 (Mon) 03:24:32


         *『生長の家』(昭和48年2月号)より

“智慧” は天来のものであり、神来のものであるから、
それに従へば善なる結果をもたらすものであるけれども、

知識は迷いを含んだ “人間ごころ” を通して出て来るものであるから、
知識はその全部を受けて信ずれば、そしてその示唆するところに従って実行するならば、
それは色々の禍を惹き起す種子となり、また引金となることがあるのである。

だから知識を用うるときには、良心をもってその善悪を考慮して
それを実行に移さなければならないのである。 

知識は人と物とを審判し、よく斬るけれども、時には相手を傷つけ、
時には自分を傷つける双刃のつるぎとなる。

 
智慧なき者の百年の生活は、智慧ある者の一日に及ばないのである。 
智慧ある者の一日の説法は、智慧なき者が百年かかって集めたところの知識よりも
すぐれているのである。 

何故なら、そのような知識は幾百万人を殺すけれども、
智慧ある者の一日の説法は幾百万人を生かす事が出来るからである。

智慧なき者の知識によって堕胎は行なわれ、
毎年幾百万人の胎児の生命が殺されてるのである。 

併し 『堕胎が悪行である』 という智慧は、多くの国民の声ともならないし、
政府の要人の心の耳にも入らないのである。 

心に “智慧の耳” あるもののみ真理を聞くことができるのである。

“智慧ある者” も、時には “人間ごころ” に誘惑されて罪を犯すことがある。 
しかし “智慧ある者” はそれが “間違いの行為” であったことを、 
“智慧の鏡” に照らし出して反省し、再びその過ちを犯さないようにつとめるのである。

 
“智慧なき知識人” は、罪を犯しながら、
それを “間違いの行為” であったということを自覚しないから、
幾度びも罪を重ねるということになるのである。 
そしてその過ちが重なるに従って自分自身の魂の蒙る傷は深くなるのである。

 
だから釈尊は 『知らずに犯す罪は、知って犯す罪よりも重い。 
例えば焼火箸と知らずに握った時の火傷は、焼火箸と知りながら
用意して握った時の火傷よりもひどいのである』 と教えらえているのである。

堕胎を “悪い” と知りながら堕胎した婦人は、
その罪の歎きに、二度とそれを繰返すまいと心に誓うのである。 

しかし堕胎を “悪い” と知らないで堕胎した婦人は、
幾度びでもその罪悪を繰返すのである
 ―― だから知らずに犯す罪の方が深く重いのである。

現行の優生保護法が堕胎を公許しているために、
公許されているから 『悪事』 でないと思い違えている婦人が多くて、
毎年 “胎児殺害” の罪を繰返しながら、それが悪事であると知らないのである。 

優生保護法を改正する必要がある所以である。

     (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24608240.html

             <感謝合掌 平成30年11月26日 頓首再拝>

《平等の心になれば神の智慧が万遍に働く》 - 伝統

2018/12/13 (Thu) 04:38:53


       *『人生の秘訣365章』第11篇(P279~280) より

本当に心に“偏った力み”がなくなり、
完全に調和した無恐怖の平和な心境になったとき、
所謂る“浮き身”という水中に仰臥して脚も腹も胸も顔も
平等に浮ぶことができるのだそうである。

心が偏っている時は体が平等に浮ばないで、
脚がさがったり、顔だけしか水面に浮ばなかったりする。

本当に平等の心になれて、平等の浮び方が出来る人は、
私の知る限り、今上天皇と小堀流の師範である某先生だけだったとは、
もとの侍従長である甘露寺受長さんの話である。
                (谷口輝子著『愛に灯ともす』271頁)

水が泳ぐ人を浮力によって支えるのは、神が「人生を泳ぎ渡る人」を
神の智慧によって支えるにも似ているのである。

その人の心が平静になり、好悪を超え、愛憎を超え、
不偏平等の《そのまま》の心になったとき、
完全にあらゆる点が平等に水面が浮くように、

あらゆる問題が調和した姿で解決し、
万事が好都合に搬(はこ)ぶようになるのである。

             <感謝合掌 平成30年12月13日 頓首再拝>

《神の光は全相を照らす智慧である》 - 伝統

2018/12/29 (Sat) 04:22:13


          *『人生の秘訣365章』第11篇(P279) より

神の智慧は太陽の光のようなものであって隈なくこの世界を平等に照らすのである。
人間の頭脳智は、恰も懐中電灯の光のようなものであって、
眼先の小部分だけに光を投げかける。

そして、なかなか全体からの連繋が分からないのである。
全体からの連繋がわからないから人間の小智才覚でやったことは、
一時は旨く行くように見えるが、視野のとどかなかった所から、

予想もしなかった問題がでて来て、折角うまく行きつつあった行程が
途中からくずれ去ってしまうことがあるのである。

これに反して神の智慧はその光が全領域に行きわたり、
この一点を今、こうして置けば、今はよくないように見えていても、
やがて全体が動き出して、このような好結果があらわれるという事を知っていて
導き給うのであるから、終局的には失敗するということはないのである。

そのような智慧を得るには、やはり神想観を毎日怠らず実修して、
神との一体感を深めておくほかに仕方がないのである。
                        (拙著『詳説・神想観』参照)

            <感謝合掌 平成30年12月29日 頓首再拝>

驚くべき「智慧」が宇宙に充ちて宇宙を支配している - 伝統

2019/01/22 (Tue) 04:36:50


          *新講『甘露の法雨』解釈(P91~)より

《宇宙の知性と脳髄智との関係》

宇宙に秩序があるというのは、
驚くべき「智慧」が宇宙に充ちて宇宙を支配している
ということを表しているのであります。

そうして、あの無数の星はですね、
宇宙にみちみちているところの、驚くべき「智慧」の産物であります。

「智慧」は心の属性でありますから、
宇宙にみちみちているところの智慧ある「心」こそ宇宙に存在する
あらゆる天体の創造主であるのだということが言えるわけであります。

これがその聖経にある“「心」はすべての造り主”という意味であります。

しかも、「心」のほかに材料があって出来た宇宙ではありませんから
「心は宇宙に満つる実質」である訳であります。

そして、その“造り主”を、神様という名称をつけますと、
神は「宇宙を貫く心」であるというわけであります。

しかしこの「心」は先刻申しましたように
脳髄から出る“心”ではないのでありまして、
脳髄《をも》こしらえた「心」であります。

脳髄から出る“心”は、ちょうどラジオセットから出るスピーカーの声のようなものであって
再生音みたいなものだということは既に申し上げましたが、再生音というのは
「現生(げんなま)の声」ではなく、アナウンサーがじかに言っている声がラジオ受信機で
多少劣った音質になってあらわれる声であります。

それで脳髄から出て来る“心”は、
脳髄をもこしらえた宇宙の知性よりも能力が劣っているが、
この宇宙の知性は脳髄装置を創造して、

そこから[第二次的な心]を出して、それによって、
大自然力では支配しにくい地上の物質界のものを、
間接に支配しているということになっているのであります。

つまり“大自然力”としての神様のはたらきでは出来ない部分を、
神は人間の人体を作り、それに脳髄という精巧な装置を通して、
宇宙創造の細部を完成し給いつつあるのであります。

            <感謝合掌 平成31年1月22日 頓首再拝>

智慧は愛に先行する - 伝統

2019/03/14 (Thu) 04:46:56


           *「光明法語」(3月14日)より

完全なる神、その創造の完全さ、その創造されたる人間の完全さ、
その創造されたる世界の完全さ、それを先ず信ぜよ。

現象の世界が、人間が、如何に醜くあらわれていようとも、現象なしとたち切れ。
先ず汝の心のうちに「完全なる世界」と「完全なる人間」とを確立せよ。

それは智慧の働きである。
この場合、智慧は愛に先行する。
智慧が真に相手の「完全さ」を確認し得たときにのみ、
感情としての愛が湧き出てくるのである。

それまでは意志の努力によって嫌悪を克服しながら唯(ただ)愛行を努力するだけである。

            <感謝合掌 平成31年3月14日 頓首再拝>

《 われ神の叡智を満喫す 》 - 伝統

2019/04/07 (Sun) 04:11:36


        *『人生の秘訣365章』第3篇(P67~68) より

神は到るところに自己表現したまうのである。

神は無限の叡智であるから、無限の美しき設計、構図、アイディア等を
大自然の鉱物、植物、動物等にその叡智を表現したまう。

その種類の豊富なること、形態の千差万別、単純にして精緻(せいち)、
不整形の中に驚くべき調和と均衡を保った構図、
何を見ても唯々驚くばかりである。

ああ神の叡智の素晴しきかな。

われ神の叡智を讃嘆し奉る。

            <感謝合掌 平成31年4月7日 頓首再拝>

吾は 神より その時 その場に 適当な智慧を与えられる - 伝統

2019/04/27 (Sat) 03:42:40


        *『 生長の家 』(昭和25年3月23日の法語)より

   《不完全な姿は 本来ない》

   吾れは 吾が願いを 神の愛の み手の中に委(ゆだ)ねるのである。
   神の愛は 吾が希望の種子を保護し、あたため、
   ふくらませて下さるのである。

   神の智慧は 何時(いつ)形の世界に
   その希望が芽をふくのが適当であるかを
   知り給(たま)うのである。

   神は 常に吾を護(まも)って導いて い給うのである。

   吾は 神より その時 その場に 適当な智慧を与えられるのである。

   現象に尚 不完全なことが現われて見える時にも、
   不完全な姿は 本来ないのであって、
   神の善が現われて出ようとする前兆にすぎないのである。

   破水するのは出産の前徴である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成31年4月27日 頓首再拝>

《神の智慧のままに生活する者は幸いなるかな》 - 伝統

2019/05/17 (Fri) 04:30:26


        *『 生長の家 』(昭和40年3月26日の法語)より

   率直な心で神の智慧を受ければ、
   自然に何時(いつ)、如何になすべきかが示されるのである。

   イエスは「 空の鳥を見よ、播(ま)かず、刈(か)らず、倉に収めず、
   然るに 天の父はこれを養いたまう 」といっている。

   彼らは自然な心をもっているから、自然に「 内部の啓示 」を受けて、
   その時その場に適当な処置をとり得るという意味であって、
   小鳥は懶(なま)けているという意味ではないのである。

   渡り鳥のうちには 南米から北米へと驚くべき長距離を季節にしたがって
   移動する智慧をもっているのがあるという。

   或る海亀は 干潮(かんちょう)の夜 海浜(かいひん)の砂の中に産卵に来て、
   それから一定の日数を経ると、それが孵化(ふか)して海に帰る恰度(ちょうど)
   その日に大潮が満ちて来て、孵化した亀の幼児を海に搬んでくれるように、

   その海亀は天文学も気象学も学んだこともないのに、
   潮の満干(みちひ)の周期を知っているのである。

   蝶はその卵が孵化して幼虫になった時に食物となる樹(き)を選んで産卵する。

   驚くべき智慧が宇宙には満ちており、季節と自分、海水と自分、鉱物と自分、
   植物と自分の間にも相互関係があり、互いに相手の動きを知る智慧があるのである。

   これによっても宇宙の万物ことごとく「 一つの智慧 」によって支配されている
   ことが分かるのである。その「一つの智慧」が「神」である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

         <感謝合掌 令和元年5月17日 頓首再拝>

神は全能の智慧、調和の智慧 - 伝統

2019/06/10 (Mon) 04:01:46


            *『光明法語』(6月10日)より

「神の力、神の智慧、神の愛、今われに流れ入りてわれを救けたまい、導きたまい、
われを祝福したまう。神に於いて解決困難な問題など一つだとてあり得ないのである。

神は全能の智慧であり、調和の智慧である。

神は自分に宿りたまう智慧であるばかりでなく、すべての人々に宿りたまう智慧であるから、
すべての人々が調和して動き出して問題は完全に調和した形に解決するのである。

神は今自分を神御自身の創造の尖端として新しき調和ある解決の道を見出し給う。
神よ、神の完全なる智慧によって調和ある解決の導きを示し給え」

         <感謝合掌 令和元年6月10日 頓首再拝>

《自己内在の無限智に呼びかけること》 - 伝統

2019/07/04 (Thu) 04:51:59


         *「眞理」第9巻生活篇第13章(P348~349) より

「智(ち)」が「愛」と結合して働くとき、
本当に愛を完全に実現することができるのである。

「智(ち)」の欠乏したる「愛」は盲愛となり、溺愛となり、
執愛となって、相手を傷つける。

智慧によって法則を知り、それを順用することによってのみ、
完全な幸福を自分も得、他(た)にも与えることができるのである。

善か悪か知らないでやったとて、汽車(列車)の来るときに踏切を
横断したら傷つくし、毒薬を飲んだら死ぬのである。

私たちは「智(ち)」を磨かなければならない。
生長の家は科学に反対するのではないのである。
しかし、科学も、霊智的直感によって新しき理論や事実の発見が
行なわれるのである。

どんな科学者でも、一日一回は静坐して、自己の内に宿る
「不可視のもの」に呼びかけなければならない。

”吾が魂の底の底なる神よ。無限の力湧き出でよ”

と繰り返し繰り返し念ずるのは簡単にしてよき方法である。

         <感謝合掌 令和元年7月4日 頓首再拝>

《神の智慧と調和が満ちている》 - 伝統

2019/07/22 (Mon) 03:35:00


       *『 生長の家 』(昭和25年4月11日の法語)より

   神の智慧は 到(いた)る処(ところ)にみちみちているのである。
   神の智慧は 調和であり、平和であり、智慧であり美であり、繁栄である。

   その同じ智慧が自分の内にも宿っているのである。
   その同じ調和と平和と秩序と美と繁栄とが自分の内に宿っているのである。

   外にあるそれらと 内にあるそれらとは、唯(ただ)一つの神から
   来たるものであるが故に、決して衝突するということはないのである。

   内外一環、吾は 富と健康と幸福との世界に押し進めらるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13798254.html

         <感謝合掌 令和元年7月22日 頓首再拝>

神の智慧に没入するとき、万事が都合よくゆく - 伝統

2019/07/24 (Wed) 04:02:17


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月24日)より

瞑目精神を統一して、「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身の
うちにも、神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。

神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、その智慧の中に
没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。

現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された普遍意識(すべてに満ちて
行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる反射光にすぎない。

反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、自分のうちに宿り給う
普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、われらはこの普遍意識の中に没入し、
普遍の智慧と一つになるとき、知らず知らず万事が都合よくゆくのである。

「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。

普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。

         <感謝合掌 令和元年7月24日 頓首再拝>

叡智を有する不可思議力を神と言う - 伝統

2019/08/07 (Wed) 04:26:15


          *「光明法語」(8月7日《神とは何ぞや》)より

物理学者や天文学者の研究が発見したところでは、
物理や天文の世界を支配しているのは数学的法則であって、
滅裂(めつれつ)出鱈目(でたらめ)のものではないと云う事である。

物質の世界や天体の世界が、
法則なき雑然とした滅多(めった)矢鱈(やたら)に成り立って
いるものならば、それは偶然の出鱈目の産物だと言い得るであろうが、

数学的法則でそれが成り立っている事を知るならば
物質や天体を構造せしむるに到った力は余程数学的知性を
もったエネルギーだと言わねばならないのである。

叡智を有する不可思議力を神と言う。

         <感謝合掌 令和元年8月7日 頓首再拝>

造り主の智慧 - 伝統

2019/08/10 (Sat) 04:36:31


        *「光明法語」(8月9日~10日)より

八月九日の法語 自働装置は誰が造ったか

植物の向日性や、同化作用や、呼吸作用はいすれも化学的法則に支配されている。

日光を受けて光の方向を向くのは日光に刺激されてアウクシンと云う物質が出来る為であって
それは物理化学的な反応で、精神などの働きによるものではないと唯物論者は言うけれども、

日光を受ければアウクシンと云う物質を生ずるような微妙な構造を作り、
その微少量の物質の作用によって光へ自働的に向く様な構造を造るのは中々偶然に出来る
ものではない。

造り主の智慧を必要とする。

・・・

八月十日の法語 此の微妙な構造は誰の働き

智慧ある造り主 ―― これを吾々は神と称するのである。

天体の運行にしても吾々の地球がもう半分の遅さで自転するならば、
地峡の半面は熱すぎ、他面は寒すぎて生物は生存し得ない。

地面の傾斜が無いとすれば現在の温帯地方に氷山が浮かんでいて
吾等は生存し得なくなると云うことである。

ほんの微妙な相違を寸分間違いなく構造した知性を吾々は「偶然」と称することは出来ない。
人間の神経組織、心臓のポンプ式構造が毛管血管につづいて栄養や排泄を行なう
微妙な構造は叡智ある設計者なしに構造せられる筈がない。

         <感謝合掌 令和元年8月10日 頓首再拝>

《人体及び生活諸問題の修復作用》 - 伝統

2019/10/27 (Sun) 04:43:13


          *『人生の秘訣365章』第3篇(P77) より

どんな科学者も人間の生きた皮膚の一部分も製造することができないのである。

“生命(せいめい)の智慧”の偉大さよ。

人間の脳髄の智慧は、それが最高の科学者の脳髄の智慧であっても
皮膚の傷を治すのに、どのように細胞を組立て直したらよいかを知らない。

しかし“生命(せいめい)の智慧”には、その傷の形や深さに従って、
どの方面からどのように新生細胞を積み重ねて行けば、
元のような皮膚の層をつくることができるかを知っており、
傷をした瞬間から、その修復に必要な工作にとりかかってくれるのである。


この事は単に肉体の生理的方面ばかりの修復作用だと考えてはならない。

私たちの生活万般の問題に、神の修正作用又は修復作用は行われるのであり、
私たちが何か失敗した事柄を起すと、恰も、肉体の傷を治して下さるのと同じように、
神の修復作用が八方から起って来るのである。

若し完全にその修復作用が行われないとしたならば、
私たちが「我(が)」のはからいで、
その修復作用を妨げる何事か為しつつあるからである。

神に祈りて、天地一切のものに感謝するとき完全にその修復作用が行われるのである。

         <感謝合掌 令和元年10月27日 頓首再拝>

神の智慧求めよ - 伝統

2019/11/12 (Tue) 04:54:02


         *『女性の幸福365章』(P19)より

智慧を求めよ。
すべての善きものは、智慧を媒介として
「実相・無限の世界」からあらわれて来るのである。

物質的富は必ずしも人間の幸福を約束しない。

それは薬剤を与えることはできても必ずしも健康を約束しない。

それは柔い寝床を与えるかもしれないけれども
必ずしも心安らかな眠りを約束しない。

それは高価な装飾品や衣装を与えることができるかもしれないけれども、
必ずしも人間の美しい容貌を約束しない。

本当の美と健康と、安らかな心の悦びとは、
正しい生活と智慧と愛とのみから得られるのである。

         <感謝合掌 令和元年11月12日 頓首再拝>

心に “智慧の耳” ある者は聴け - 伝統

2019/12/23 (Mon) 05:05:52

        *『生長の家』(昭和48年2月号)より

“智慧” は天来のものであり、神来のものであるから、
それに従へば善なる結果をもたらすものであるけれども、

知識は迷いを含んだ “人間ごころ” を通して出て来るものであるから、
知識はその全部を受けて信ずれば、そしてその示唆するところに従って実行するならば、
それは色々の禍を惹き起す種子となり、また引金となることがあるのである。

だから知識を用うるときには、良心をもってその善悪を考慮して
それを実行に移さなければならないのである。 

知識は人と物とを審判し、よく斬るけれども、
時には相手を傷つけ、時には自分を傷つける双刃のつるぎとなる。

 
智慧なき者の百年の生活は、智慧ある者の一日に及ばないのである。 
智慧ある者の一日の説法は、智慧なき者が百年かかって集めたところの知識よりも
すぐれているのである。 

何故なら、そのような知識は幾百万人を〇すけれども、
智慧ある者の一日の説法は幾百万人を生かす事が出来るからである。

  *〇:殺

智慧なき者の知識によって堕胎は行なわれ、
毎年幾百万人の胎児の生命が殺されてるのである。 

併し 『堕胎が悪行である』 という智慧は、
多くの国民の声ともならないし、政府の要人の心の耳にも入らないのである。 

心に “智慧の耳” あるもののみ真理を聞くことができるのである。

智慧ある者” も、時には “人間ごころ” に誘惑されて罪を△すことがある。 
しかし “智慧ある者” はそれが “間違いの行為” であったことを、 
“智慧の鏡” に照らし出して反省し、再びその過ちを犯さないようにつとめるのである。

“智慧なき知識人” は、罪を犯しながら、それを “間違いの行為” であった
ということを自覚しないから、幾度びも罪を重ねるということになるのである。 
そしてその過ちが重なるに従って自分自身の魂の蒙る傷は深くなるのである。

だから釈尊は 『知らずに△す罪は、知って△す罪よりも重い。 
例えば焼火箸と知らずに握った時の火傷は、焼火箸と知りながら
用意して握った時の火傷よりもひどいのである』 と教えらえているのである。

堕胎を “悪い” と知りながら堕胎した婦人は、
その罪の歎きに、二度とそれを繰返すまいと心に誓うのである。 

しかし堕胎を “悪い” と知らないで堕胎した婦人は、
幾度びでもその罪悪を繰返すのである ―― だから知らずに△す罪の方が深く重いのである。

現行の優生保護法が堕胎を公許しているために、公許されているから 
『悪事』 でないと思い違えている婦人が多くて、毎年 “胎児殺害” の罪を
繰返しながら、それが悪事であると知らないのである。 

優生保護法を改正する必要がある所以である。

    *△:犯

         <感謝合掌 令和元年12月23日 頓首再拝>

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