伝統板・第二

2535265
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

神は無限 - 夕刻版

2016/08/08 (Mon) 17:44:10

今日は、平成28年8月8日。
8(無限∞)が3つ続く、好(よ)き日。

このスレッドでは、「神は無限」に関する情報を集めてまいります。

・・・

《神は無限の表現である》

       *『 生長の家 』(昭和25年4月16日の法語)より

   吾々は 常に変化する環境の中に住んでいるのである。

   その変化に最も適する様に対応することができるためには
   自分の心に 「 こりかたまり 」 が あってはならないのである。

   自分に 「 こりかたまり 」 があっては
   自由自在に変化することができないから
   適応性を失ってしまうのである。

   善に捉(とら)われれば 善も悪となるのである。
   悪に捉われて悪から はなれることのできないものは
   滅びるしか仕方がないのである。

   神は無限であり、吾(わ)が内に宿って、
   無限の表現を欲しておられるのであるから、
   いつも同じ様なことばかりは出て来ないのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13817900.html

           <感謝合掌 平成28年8月8日 頓首再拝>

自己を通して、神の無限性が顕現することを信ぜよ - 伝統

2016/08/09 (Tue) 19:21:16


       *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月9日>(P45)より

もし、自分が利益を獲得することが利己的目的でないならば、
もし自分が利益を獲得することが一切衆生を利益する目的に適うならば、
もし自分が利益を獲得することが他の人に光を与える手段を供しうるならば、

その利益の獲得を神に求めてもさしつかえないのである。
神は必ずその利益を与え給うに相違ないのである。

金銭、財貨そのものは浄でもなければ不浄でもない。
それを一切衆生を扱うために集めるならば多々ますます集めることも善である。

神の無限供給を得るにはまず神の無限性を信じなければならぬ。
われわれに宿る神が、常にわれわれを導き給うと信じなければならぬ。
われわれが神にいかほど求めても、求めすぎるということはないのである。

神は太平洋を自己の箱庭の池として造り、富士山をその築山とし、
ナイヤガラ瀑布を盆景の滝としたまうほど豊富な神である。

神はけっしてケチな神ではないのである。
神はけっして、空気を人間が吸ったら、ちょうど一バイで少しも余りがないように、
ギリギリ一パイに製造し給うたごときケチな存在ではないのである。

空気のみならず、日光でも、地下水でも、植物でも、海水でも、
使っても使っても無限に余るほどに製造し給うているのである。

だから神に求めすぎるということはけっしてないのである。
むしろ、われわれは神に求めることがあまりにも少なすぎるということをこそ
かえって恥ずるがよいのである。

われわれは、何よりも、わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
われに宿り給う神が為し給うのだと信じなければならぬ。

この大信念が切々たる実感として溢れてくるまで、幾度(いくたび)でも繰り返し、
「わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、われに宿り給う天の父これを為し給う」
ということを念ぜよ。

しかして神に依り頼れ。
希望を持て。
心を平静に持て。

神の愛を信ぜよ。
無限性を信ぜよ。

神がその聖なるみ業(わざ)を自己を通して為し給うのだと信じて、
それを繰り返し念じて、自己の心を一変せよ。

              <感謝合掌 平成28年8月9日 頓首再拝>

力は必ず出る - 伝統

2016/08/20 (Sat) 18:07:55


        *谷口清超先生【著】:『創造的人生のために』より

あなたがこの世に生まれて来たのは、この世に光を与えるためである。
あなたでなければ出来ない仕事をなしとげ、
あなたがあって初めて悦べる人々の希望を叶えるために。

「そんな人は、どこにもいない」と言うだろうか。

あなたの父母は、あなたが生まれて来るだけで悦んだ。
あなたの安らかな寝顔を見るだけで、生きる力を得て下さったではないか。

そして又あなたの夫又は妻や子は、あなたが仕事から帰って来るだけで安心し、
悦んでくれるではないか。

もしあなたがいないと、あなたの上役も、友人や同僚も、皆、心配するだろう。
あなたはやはり、「なくてはならない人」なのである。

時計の歯車やカメラの部品でも、その中の一つが欠けると、
全体の動きが止まってしまうか、どこかがギクシャクして不完全になる。

そのように、どんな小さな力の人間と思っても、その力は全体を支える力だ。
小さく見えるのは、ただそう見えているだけである。

あなたの中には、その全体を知り、それを思いやる心があるから、
それは全体の心、即ち神と同じものである。
あなたが「神の子」であるといわれるのは、そのような意味である。

昔、釈迦やキリストはこのことを悟られたが、多くの人々はそれを知らなかった。
そして特別の人のみが神の子や仏だと思いちがえたが、決してそうではない。

どんなすばらしい本質があっても、その事実を認めることができない時には、
神の子らしい力が出て来ないのである。出ないというより、出さないのである。

多くの病人は、本当の力を出していない。それは自分を病人だと認めて、
内部にかくれている癒す力を出さないからである。

しかし癒す力は誰にでもある。
それをナイと思って認めようとしないから、出て来ない。
丁度ポケットにお金があっても、ナイと思っている人は、
それを使うことが出来ないようなものである。

人は全て、無限に生きる力を持っている。
それ故、死をいとい、無限の生を求める。

この無限力は、心が認める時、その程度に応じて現れて来る。
丁度水道の蛇口をヒネルと、ヒネル程度に応じて水が出るように。

あなたはヒネらなくても出て来ればよい・・・と思うだろうか?

それでは水道の水は出っぱなしに出続けて、生活にも不便だろう。
そのように我々の力も、勝手に出放題に出るのではない。

少なくとも、それがアルとわかって出そうとする時、出てくるのだ。

しかも現象世界での神の子の力は、
練習をし訓練をすると、いくらでも出て創造力を発揮する。

そして又その訓練も、無限に多くの来世で、限りなく行われ続けるのである。

    (http://michie-h.jugem.jp/?cid=80 より転写)

              <感謝合掌 平成28年8月9日 頓首再拝>

人生の達人が悟った人間無限力 - 伝統

2016/08/24 (Wed) 19:39:35


          *Web:mixiユーザーの日記(2015年05月14)より


いわゆる名僧といわれる人、とくに禅僧の中には、
その考え方のスケールの大きさにおいて、私たちを感動させたり、
勇気を与えてくれるエピソードが多いようです。

根本において、孔子や松下幸之助さんと軌を一にするようです。


《案山和尚の場合》

「禅門逸話集成」からです。

今から300年前に案山和尚という人がいました。 (江戸時代初期)

案山和尚がある時、木曽路、今の長野県のあたりを旅していると、
途中で山賊に出会ってしまいました。

すると、案山和尚はすぐに着ているものを脱いで、
「さあ、これでいいんじゃろ」と山賊に手渡すと、
ふんどし一丁ですたすた歩いていってしまいました。

こうして、しばらく歩いていた案山和尚、途中でふと気が付きました。

「あっ、ふんどしにお金を入れていたのを忘れておった。」

なんと、お金はふんどしに入れていて、無事だったのです。

 
しかし、何を思ったのか案山和尚、来た道を戻っていきます。

そしてまた、先程の山賊を見つけると、
「いや、すまん、すまん。ここにもまだあったわい。」とお金を渡したのです。

山賊は驚いて、手にお金を押し付けられたまま、
口をあんぐり開けて和尚の顔を見ています。

すこしたって、山賊は地面にひれ伏して、涙を流しながら言いました。

「私は凶暴な性格で、今まで人をおどして金や着物を奪ってきましたが、
今、生き仏のようなあなたを見て、自分の罪深さを知りました。
どうか罪ほろぼしに弟子にして下さい。」

案山和尚、これを聞いて山賊の改心を大いに喜び、
それからは常にそばに従えて仏の道を説き、
山賊もその後立派な僧侶として生涯を全うしたといいます。



《ある禅寺の和尚》

その昔幕末のころ、盛んに廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)をやった水戸の殿様に、
ある禅寺の和尚さんが、

「君は僅か是れ35万石、我れは是れ即ち三界無庵(むあん)の人」

と言ったといいます。

殿さまはたった35万石じゃないか。

それにくらべて私は、「全世界無庵の人」、
すなわち形の上では世間に家とか財産を持っていないが、
実際は、「三界有庵の人」、すなわち全世界すべてが私の家であり、私の所有である
と言い切ったのです。

自己の本体をしっかりと見定めることなく、このちっぽけな肉体、
そして80から90歳になったら死んで灰になる、
この体が、人間の本当の姿であるという見方をしていたら、
こういう大自覚は絶対に生まれてこないと思います。


《原坦山》

公方俊良さんの「般若心経」(三笠書房)に次のように書いています。

曹洞宗大学林総監で学士会員でもあった原坦山(1819~1892)が
仏仙社に住していたとき、悪い男に騙されて、仏仙社の土地がほかに売られてしまいました。

それを知った門徒たちが、あわてて坦山のところへやって来て、
早く策を講じるように訴えました。

すると、坦山は笑って言いました。
「騙しとられたといっても、日本から持ち出されたわけではあるまい」

日本の土地全部が自分のものなんです。
取っても取られても、地球の上には変わりない。
このくらいの大きな心でいれば、どんなことにも心を動じさせられることなく、
人生を悠々と生きていくことができます。


《松下幸之助さん》

これらの和尚さんの逸話を知るにつれ、思い出すのは松下幸之助さんのことです。

松下電器産業(現:パナソニック電器産業)の経営方針発表会は
毎年1月10日に行われます。
私も何年か前に出席して、当時相談役であった幸之助さんが
このようなことを話されたのを記憶しています。

「昨年、私は病気がちであったが、自分が主治医で医者は助手だと気がついたとき、
病気がよくなり、こんなに元気になった。
人間には自然治癒力がある。

この自然治癒力に気がつけば、病気だけではなく
松下電器の二つや、三つは片手間で作ることができる」。

私はこれを聞いて、ものすごい人間観だと思いました。
そして幸之助さんは人間の真の力、無限ともいうべき力を知っており、
また自覚されていたから、0(ゼロ)から出発して今日、
世界の松下電器を作られたのだと思いました。

体は有限、心は無限です。


《孔子の言葉です。》

「人間は宇宙の本質である無限が有限化し、地上に結晶化した存在だ。
その人間は努力して自分を無限なる存在にまで高めていかなければならない。
人それぞれに人生という時間が与えられているのはその意味だ。

人間は起きて半畳、寝て一畳のちっぽけな存在ではない」。

              <感謝合掌 平成28年8月24日 頓首再拝>

「進むほかに道なし」の覚悟 - 伝統

2016/08/29 (Mon) 19:43:16


        *「生命の實相」第7巻生活篇(P62)より

諸君よ、いったんわれこれをなそう」と決して起ら上がったならば、
「わが行くところ必ず勝利あるのみ」の覚悟が是非とも必要である。

逃げ路をあらかじめ準傭しておいて事にのぞむようなことでは、
何人も全力を発揮することはできないのだ。

歴史にこれ見るもジユリアス・シーザーの英国侵入軍が目的地に上陸したとき
彼は将卒に命じて海峡を越えて味方を運んでくれた愛すべき船

 ―― もし味方の戦いが不利に終ったならぱ、海峡を越えて逃げ帰るときの助け
となるであろうところの愛すべき船 ―― 

これらの船をことごとく火をつけて焼き捨てさせたのであった。

「進むほかに道なし」の覚悟は、われわれに平常の肉体以上の力を発現させるものである。

それは小さなる我を滅ぼして、「無限の生命」から力を汲む一つの方法であるのである。

              <感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>

全力を出し切るところに、無限の力が加えられる - 伝統

2016/08/31 (Wed) 19:20:51


        *「生命の實相」第7巻生活篇(P63)より

善き水泳教師は弟子を深みにつれて行って手を放つのである。
いつまでも足のとどく浅瀬にいて、イザという時には足を底につければよい
というような逃げ路を造っておいては、その人の水泳の上達はかなり遅いのである。

深みにつれ行かれて指導者に手を放たるれば、
彼は「自分で泳ぐか、然らずんば死」である。

この時たちまち彼は本当に水上に浮ぶコツを覚えるのである。
彼は自分の全カを出さずにはおれないからである。

自分の全カを出し切るところに、
そこには無限の力が「宇宙の大生命」から加えられる。

「神はみずから助くる者を助く」という
スマイルズの金言はまことにも真理である。

              <感謝合掌 平成28年8月31日 頓首再拝>

われに宿る無限の力 - 伝統

2016/09/06 (Tue) 19:16:20


         *『真理』第9巻生活篇(P257~258)より

「宇宙的な巨大な力」が人間に宿っていると言っても、
それは肉体的な物理的力ではありません。

原子力を発現させるのでも、原子は吾々の外界にいくらでもあるけれども、
それはそのままでは力となりません。吾々の「知性」がそれを適当に
処理するとき驚くべき力が発現するのです。

「宇宙的な巨大な力」が吾々に宿っていると云うのは、
吾々に「知性」がやどっている、と云うことなのです。

「知性」は心的な力です。
心の力なのです。

心の力が飛行機をつくり、原子発電所をつくり、汽車汽船をつくり、
ラジオ・テレビを作って2万哩(マイル)離れている人とまるで眼の前で
対談するかの如く親しく話すことができるのも、
心の力が空間を征服し、時間を征服し、重力を征服したのであります。

併し、あなたに宿る神の力は「知性」の段階から「愛」の段階へ、
更に「霊」の領域へと幾段階があるのです。

              <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

無限の生長と前進 - 伝統

2016/09/10 (Sat) 18:03:24


          *「光明法語」(9月10日)より

かくて大生命の創造は、大生命の歓喜の爆発であるとも言える。
大生命は内に無限を包蔵するが故に、その表現されるものは常に一層大きく、
一層豊かに、一層美しきものであるほかはない。

それは無限の生長であり、無限の前進である。
時として過去に見出すことが出来ないところの全然新しいものを創造するのである。
その新しき創造はつきることはないのである。

大生命は無限の新しきものを包蔵する。
その大生命が吾らのうちに流れ入って吾らの生命となっているのだ。

           <感謝合掌 平成28年9月10日 頓首再拝>

《人間は無限に伸びる素質がある》 - 伝統

2016/09/16 (Fri) 18:41:04


          *『生長の家』(昭和25年8月18日の法語)より

   日に日に伸びると云う自覚は
   人に幸福感を与えるのである。

   伸びないでいて幸福感を味わうことは出来ない。

   何故なら人間内在の善さは無限であり、
   その新しき善さが日に日に発揮されねば
   人間は幸福を感ずることは出来ないからである。

   人間は富においても、能力においても、位置においても、
   あらゆる点において伸びたがっているのである。

   その伸びんとする欲求を満たすことが出来ない人間は
   生き甲斐を感ずることは出来ないのである。

   然(しか)らば如何にして伸びるか、
   自己の内に宿る無限力(神)を悟り、
   それを今日 実践に移すことである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

           <感謝合掌 平成28年9月16日 頓首再拝>

《人間の能力は太陽の如きものである》 - 伝統

2016/09/25 (Sun) 18:25:04


        *『 生長の家 』(昭和24年7月26日の法語)より

   太陽の光によって誰も火傷(やけど)をしたものはない、
   それはその光熱が拡散しているからである。

   もしその光熱をレンズによって集中するならば、
   それは大理石をとかし、ダイヤモンドさえも
   燃やしてしまう力であるのである。

   人間の能力も凡庸のように見えていても
   もしその精神力を集中するならば
   如何(いか)なるものをも 成就する力があるのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/70f6887d21ea56dd44dc600a70c37eb6

           <感謝合掌 平成28年9月25日 頓首再拝>

《宇宙は唯、霊の海》 - 伝統

2016/10/20 (Thu) 19:15:25


         *『 生長の家 』(昭和25年9月28日の法語)より

   大宇宙は唯、霊の海である。
   物質を探ねても、そんな物は決して存在しないのである。

   霊は無限であり、無限であるから完全である。
   完全であるから病気はない。
   無限にして完全なる霊から不完全があらわれて来る筈はないのである。

   完全なる霊から生れて来たものは唯、調和せるもの、美しきもの、
   義(ただ)しきもの、妙(たえ)なるもの、清きもののみである。

   此の世界は霊と物質との混合ではないのである。
   ただ霊のみが存在するのである。
   霊のみがすべての運動の根元である。

   霊の動きは唯完全である。
   完全以外の業の働きなどは決して存在しないのである。

   業の働きをあまり重視してはならない。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年10月20日 頓首再拝>

《神は必要に従って与えたもう》 - 伝統

2016/10/30 (Sun) 18:54:52


       *『幸福を招く365章』第10項(P207) より

神は、自己の内に「無限」を蔵し給うのであるが、
一般的にいえば、(特殊の場合は別)神は、その「無限」を
全部一時にわれわれに開示し給う訳ではないのである。

必要に従って必要になる物を与え給うのが神の一般的な行き方であると云える。

だから必要でない場合に、それを一所懸命考えるというやり方は、
多くの場合、一種の取り越し苦労と同じことで、
エネルギーを無駄に浪費しながら効果が少ないのである。

実際問題にぶつかったとき真実の神の導きが出て来るのである。

諺(ことわざ)に云う「当って砕けろ」とは、それである。

           <感謝合掌 平成28年10月30日 頓首再拝>

内部の無限力を発掘しましょう  - 伝統

2016/12/07 (Wed) 22:15:19


          *「真理」第九巻生活篇(P4~5)より

ひとたび自覚のひらけた眼で見ますと、わたしたちの内部には無限の力が
宿っているのに、それを不適当に不充分に使っていたり、
吝(お)しみ惜しみ使っていたことに気がつくのです。

それは霊感によらずとも、最近では心理学や、物質科学や、能率の科学が、
わたしたちが霊感によって知ったところの「内在無限の力」を
証明してくれつつあるのです。

既にこの事は70年前ハーヴァード大学のウィリアム。ジェームズ教授が
その無数の心理学的実験にもとづく学説として発表したところのものであって、
今更新しく言うほどの事でないだけ、却って忘れ去られているのであります。

心理学者は、この見えざる力の貯蔵庫を潜在意識と呼びましたが、
最近ではその潜在意識の底に深く横たわる無限の生命力と無限の智慧の層
をば超在意識(スーパー・コンシャスネス)と謂う名で呼んだりしております。

           <感謝合掌 平成28年12月7日 頓首再拝>

人間の有限力と無限力 - 伝統

2017/01/01 (Sun) 19:41:19



       *「生命の實相」第24巻質疑篇(P82~83)より

常に、力強く「自己」の偉大なる方向を肯定せよ。
それが生長の家の生長主義の生活であります。

自己の塵に造られたるいと小さき物質であると見ず、
神の息にてつくられたる無限力の霊体であると信ずるのであります。

人間には有限力の方面と無限力の方面とがあります。

(中略)

神は人間にただ「一(ひと)すじの生長の道」のみを与えていますが、
ことさらに反対の方向へ行けば、退歩するのであります。

もし生長の道のほかに行く道はないというようにして機械的に
一すじの道だけを生活するほかに途(みち)のないようにしてありますと、
人間は機械的生命を生きることになりまして道徳的生命をいきることは
できなくなるのでありますが、

幸いにしてわれわれは自由意志と選択の自由を与えられていますので、
はじめて機械ではない「生命(せいめい)」らしい自由選択の生活を
生きることができるのであります。

わて、われわれの生命(せいめい)は今申しましたように「有限力の方面」と
「無限力の方面」との両様を備えているのでありますが、

生長の家の生活は絶えずこの自己の「無限力の方面」のみを強く意識することによって、
ひたすら無限生長の道をのみ進もうとする生活でありますから、時々、
自己の「有限力の方面」に目をやって左顧右眄することは禁物であります。

           <感謝合掌 平成29年1月1日 頓首再拝>

万物皆霊を知る日 - 伝統

2017/01/05 (Thu) 18:58:38


           *「光明道中記」(1月5日)より

【エーテルとは「無」を「有(う)」として仮に名づけた別名である。
                            (「生命の實相」第十一巻)】

人は無限の力を有する。
有すれども自覚せざれば使うことが出来ないのである。
自覚によって展開するのが人間の無限力なのである。

それを展開して引き出すのが教育である。

凡(およ)そ力と云うものは「霊」より来る。
「物」には力と云うものはあり得ないのである。

エーテルの大海中に、換言すれば「無」の深海中に、ただの「無」ではなくして、
そこに動き始むる力があった。それが神の霊である。

「神の霊水の面(おもて)を蔽(おお)いたりき。神光あれと言い給いければ光ありき」である。

エーテルの大海中に「霊の振動」が起る ―― 即ちコトバ起れば、宇宙電気となり、大火焔
の渦巻(うずまき)を生じ、星雲を生じ、万物を生じ、万物を支配する者としての理念が形に
顕現して人間と成る。

エーテルの大海に、真空の海原に、「無」の深海に大動乱を起して、
万物を生じたものは霊である。霊のほかに力はない。凡そ力と云うものは霊より来る。

物質のエネルギーと云うものは要するに、
霊の力の第二次第三次の反影(リフレクション)である。

吾々は物質の力を使わないのではない。
物質と見えるものも霊の力であるが、より多く本源に汲む者は勝利する。

            <感謝合掌 平成28年1月5日 頓首再拝>

《『無限の力の源泉』に触れなければならない》 - 伝統

2017/01/10 (Tue) 18:38:35


          *「生長の家」(昭和16年10月17日の法語)より抜粋

   ‘ある’切りの力ではなく、有る以上の力を混々と
   喚び出して来なければならないのである。

   常に益々力の増大を内に感じ、
   それを外にあらわさなけれならないのである。

   そのためには『無限の力の源泉』に触れなければならないのである。

   その『無限の力の源泉』が、
   天之御中主神の『中』であり、『平』であり、そのままである。

   副島種臣氏伝うるところの
   日本古伝の鎮魂(たましずめ)の秘儀によれば、
   『感覚を蕩尽して天之御中主神と一体とならんことを期す』
   と云うのである。

   感覚を蕩尽するとは五官の世界を見ないことである。
   そして心騒がず、内外打成一片となりて
   心内にあらず、外にあらず、中間にあらず、『中』を得て、
   中の源泉より無限を汲み出さして来る事である。

   鎮魂(たましずめ)を伝うるもの世に数氏あれども、
   大抵は巫女の如く口寄せの如く、神おろしの如く行いて、
   迷信くさくなる。迷信は心が『中』を失うたのである。

   心が『中』を得るに最も達し易き方法は神想観なのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

            <感謝合掌 平成29年1月10日 頓首再拝>

人間は神の子なるがゆえに、無限能力者である - 伝統

2017/01/16 (Mon) 18:36:40


        *「生命の實相」第23巻常楽篇(P29~30)より

だから人間は神の子であり、《無限の力》を内に包蔵し、
外にまた《無限の力》につながることを知らねばならないのです。
無限健康無限精力の源泉はここにあります。

生長の家が諸君に伝えんとする真理はこれであります。
人間「神」を自己の内に包蔵し、自己の外もまた「神」につながるのです。

自己の内にある神を、仮に神の子と称し、
自己を包容して一切のところに充ち満る神を仮に称して
天地を貫きて生くる親神様と称し、または人格的に顕現しては
生長の家の神様と呼ぶのであります。

人間は神の子なるがゆえに、無限能力者である。
無限能力を内に包蔵し無限能力の大源泉につながり、
掘るに従って無限能力が清水のように滾々(こんこん)と湧き出でてくるのであります。

諸君よ、自己を弱いと思うな。
諸君を弱くするものは諸君自身の弱いという観念だけであるのです。

外(そと)のものは あなたを弱めることはできない。
神が あなたの内(うち)に生きている。

心の窓を開いてその神を認めよ。
あなたの内なる神そのものから力を得よ。

あちらこちらにフラフラして、誰か、何か、外のものが、
自分に力を与えてくれるなどと思うな。

それらのことはすべて傍径(わきみち)である。
遠路(とおみち)である。迂回路である。

ただまっしぐらに、自己を出せ、本物を出せ、
弱き者はあなたの本物ではない。

《あなたの本物は神そのもの》 ―― 無限に強きものがあなた自身であるのです。

            <感謝合掌 平成29年1月10日 頓首再拝>

《全力を尽す日》 - 伝統

2017/01/19 (Thu) 20:10:32


           *「生長の家」(昭和16年10月18日の法語)より

   明治天皇御製 ――

     身にはよしはかずなるとも剣太刀とぎな忘れそ大和心を


   毎日進歩する者は遂に偉大に到達する。
   油断をすればあとへもどるのである。

   勝ちて油断せぬことが極意なりと、
   ある長刀の極意の書に見えてある。

   進歩は累進的なよろこびであり、
   これだけ進歩して終りと云うことは無きものである。
   『点滴石を穿つ』と云う諺もある。

   人間は力が無いのではない、持続しないだけのことである。


    神は無限であるから、『これだけ切り』と云うことはない。
   『これだけ切り』と思う者は自らを晦す者である。
   神は吾々が力を出せば出す程、それを補い給うのである。

   力を出すことは神の子の特権である。
   力を出さない者は神の子たる特権を放棄する者である。
   神の子たる特権を放棄する者には神は力を与え給わないのである。

   力を出した時には悦びを感ずる。
   兄弟が力を出した時には賞賛したくなる。
   同胞が力を出した時には喝采せずにはいわれない。

   力を出すことは人類の願いであり、神が人間に与えた理想である。

   力を出し報いられない者は誰もいない。
   力を出した者には悦びが伴い、力が伴い、健康が伴い、光栄が伴う。
   何故なら、それは神が与えた理想を果すものであるからだ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

            <感謝合掌 平成29年1月19日 頓首再拝>

《精進努力の日 》 - 伝統

2017/01/29 (Sun) 19:17:04


           *「生長の家」(昭和16年10月28日の法語)より

   人間は神の子であると云うことは、自分のうちに出せば出る
   無限の力を包蔵していると云うことである。

   しかもその無限の力は神様の管理の下にあるのではなく、
   切符制度で出て来る訳でもなく、全然自分自身の管理の下に
   置かれているのであるから、自分の自覚と観念と努力とによって、
   それを自由に必要に応じて喚び出して来ることが出来るのである。


   まず自分に神の無限の力が宿っていると云う自覚がなければ、
   その無限力を引出して来ようと云う考えも思いも浮んで来ない
   であろう。

   しかしその無限力が宿っていることは知っていても、
   それを引出して来る手続きを知らなければ、預金はあるけれども
   通帳と実印とを持たない預金者みたいなものである。
   それでは宝の持ち腐れとなるほかはない。


   では神の子の無限力を自覚した者が、
   その無限力を引出すための通帳と実印なるものは何であるか。

   それは『われ神の子なり』と云う観念を『実印』として
   常に心の中に携えて置くと云うことである。

   そして『われ無限力なり』と云う観念を預金帳として
   常に携帯することである。


   『我れ神の子なり、我れ無限力なり』 ―― この観念を
   携行すれば実印と預金帳とは揃ったのである。
   しかしそれだけでは実際『無限力』は引出されはしないのである。

   無限力は、その実印と預金帳とを携えて銀行へ出かける ―― 
   即ち実際の出来事に努力すると云うことである。
   努力するのが手力男命のお働きである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

            <感謝合掌 平成29年1月29日 頓首再拝>

無限の力の源 - 伝統

2017/02/06 (Mon) 19:02:32


          *『人生読本』(P94~97)より

《なぜ疲れる人と疲れぬ人とができるのか》

心の力、肉体の力、そのほかどんな力でも之(これ)を強め、増し、大きくする秘訣があります。
それは難しいことではありません。それは今ある力を十分使うことです。

人間は、心の力でも、肉体の力でも、仕事をする力でも、勉強する力でも、
使えば使うほど強くなり、増してくるのです。
出せば出すほど出る力、使えば使うほど殖えてくるのが生命の力なのです。

しかし、出せば出すほど力が減り、使えば使うほど神経衰弱になる人もないこともありません。
或る人々は、働きすぎたので疲労して病気になったと言いますし、或る人々は、
心を使いすぎたので神経衰弱になったと言います。

では、なぜ、一方の人は出せば出すほど力が湧いて来、働けば働くほど元気になるのに、
なぜ、もう一方の人は出せば出すほど力が減り、働けば働くほど元気がなくなり、
病気になったりするのでしょうか。

ここに人間成功の秘密の鍵があります。
皆さんはこの秘密の鍵が何であるか、考え当てることができますか。

懸賞問題です。百円や千円や1万円の端金(はしたがね)が賞金に出るのではありません。
この問題が解けた方には「一生涯の成功」という懸賞がつくのです。


《二人の答えはどちらが正しい?》

Aさん、あなたにはもうこの問題は解けたでしょうね。
解けるのは当たり前です。
あなたは、毎号『生長の家』という雑誌を読んでいらっしゃるのですもの。

Bさん、もうあなたにはこの「秘密の鍵」は見つかったでしょうね。
あなたは、先日『生命の實相』を一所懸命読んでいらっしゃいましたから。

この「秘密の鍵」を見出す道は、『生命の實相』や「生長の家」の本の
どのページにも書いてあるのです。

では、Aさん答えて下さい。

Aさんは答えます。

「後の人が、出せば出すほど力が減ったり、神経衰弱になったのは、
人間を物質であると思っていたからなのです。

前の人が出せば出すほど力が増して強くなったのは、
人間を神の子だと思い、硯の上で磨る墨のように、
磨れば磨るほど減ると思っていなかったからなのです。」


「Aさんの答は満点です。ではBさん答えてください。」

Bさんは答えます。

「人間は働けば働くほど力が出るのは、人間は、目に見えないが『無限の力の源』に
つながっているからなのです。この『無限の力の源』を神さまというのです。
人間は神様から力の泉をいただいているのです。

このことを前の人は知っていたのです。
ところが後の人が働けば働くほど疲れて病気になったのは、
恐れながら働いたか、不平に思いながら働いたからです。

その働きに感謝しながら『無限の力の泉』が宿っていることを信じながら働くものには、
疲れるということも、病気になるということもありません。」


Bさん、あなたの答えも満点です。
常に暇あるごとに、私達は次のように吾がたましいに呼び掛けようではありませんか。


「たましいの底の底なる神よ、無限の力よ、湧きいでよ。」

常に、かく心に口ずさんで、自己に宿る無限の力に呼びかけるものには、
力が無限に湧きでるのです。
疲れたときなど、2、3分間こう心で唱えて無限の力を呼出せば元気がでます。

           <感謝合掌 平成29年2月6日 頓首再拝>

あなたの〝内在無限力〟を信ぜよ  - 伝統

2017/02/09 (Thu) 19:45:14


          *「如意自在の生活365章」(P201~202)より

人は自己を信じた通りのところのものとなるのである。

劣等感をもっているものは劣等の程度にしか発達しないし、
「自分はまアまア世間なみだ」と考えている者には
世間並みにしか発達しないのである。

自己を”神の子”だと自覚し、自己の内に「内在無限の力」が蔵(かく)されていると
信じて、その「内在無限の力」を掘り出すために常に怠らず努力する者のみが
「世間なみ」以上に進歩し、人類の恩師となり、将来の人類の文化の発達の責任を
担(にな)うものとなるのである。

されば、充分完全に、自己が”神の子”であり、
自己の内に”無限の力”が宿っていることを自覚せよ。

「われ能(あた)う」の自覚があって、
はじめてそれを実現する行動が可能となるのである。

           <感謝合掌 平成29年2月9日 頓首再拝>

人間は《神の子》なるがゆえに、無限能力者である - 伝統

2017/02/19 (Sun) 18:57:24

         *「生命の實相」第23巻常楽篇(P29~30)より

だから人間は神の子であり、《無限の力》を内に包蔵し、
外にまた《無限の力》につながることを知らねばならないのです。
無限健康無限精力の源泉はここにあります。

生長の家が諸君に伝えんとする真理はこれであります。
人間「神」を自己の内に包蔵し、自己の外もまた「神」につながるのです。

自己の内にある神を、仮に《神の子》と称し、
自己を包容して一切のところに充ち満る神を仮に称して
天地を貫きて生くる親神様と称し、または人格的に顕現しては
生長の家の神様と呼ぶのであります。

人間は《神の子》なるがゆえに、無限能力者である。

無限能力を内に包蔵し無限能力の大源泉につながり、
掘るに従って無限能力が清水のように滾々(こんこん)と
湧き出でてくるのであります。

諸君よ、自己を弱いと思うな。
諸君を弱くするものは諸君自身の弱いという観念だけであるのです。

外(そと)のものは あなたを弱めることはできない。
神が あなたの内(うち)に生きている。

心の窓を開いてその神を認めよ。
あなたの内なる神そのものから力を得よ。

あちらこちらにフラフラして、誰か、何か、外のものが、
自分に力を与えてくれるなどと思うな。

それらのことはすべて傍径(わきみち)である。
遠路(とおみち)である。迂回路である。

ただ驀直(まっしぐ)らに、自己を出せ、本物を出せ、
弱き者はあなたの本物ではない。

《あなたの本物は神そのもの》 ―― 無限に強きものがあなた自身であるのです。

           <感謝合掌 平成29年2月19日 頓首再拝>

人間は無限力、神の子に疲れなし - 伝統

2017/03/18 (Sat) 18:35:52


           *「光明法語」(3月17日~18日の法語)より

人間は無限力であるから疲れることはないのである。
こう信じておれば疲労は少なくて済む。

大抵の人間は本当は疲れてもいないのに疲れたと信じ、働き過ぎたと信じ、
その信念によって、普通よりも一層疲れているのである。

人間は物質面から見れば有限であるから、
その有限面に無限力の内容から精力が補給される間中、
一時働く力が減退したように現われる事もあるが、それは一時的である。

井戸の水をかえれば一時水量が減ったように見えるが
一層清らかな水が湧き出るようなものだ。

・・・

《人間が疲れないためには》

自己催眠、自己暗示で自分を疲労せしめて自分を病気にするのは愚かな事である。

疲れたと思ったときには、しばらく眼を瞑(と)じ、

「神は無限力であり、自分は神の子である。
今神の無限力が滾々(こんこん)と流れ入って、自分は無限の精力を回復しつつある」

と数回念ずれば、その疲労は須臾(しばらく)のうちに回復するものである。

また仕事をする場合、自分の力で仕事をすると思わないで、
「神が自分を通して仕事をしたまうのであるから決して疲れることはない」と
数回念じてから仕事をすれば疲れない。

           <感謝合掌 平成29年3月18日 頓首再拝>

《 神と偕に無畏無憂(むいむゆう)の生活を送れ》 - 伝統

2017/03/21 (Tue) 17:59:01


        *「生長の家とは如何なるものか」(P56~59)より
         「生命の實相」第28巻(P31~34)より

   《われらは常に無限力と偕に生くることを信じ、神に背くことのほか、
    何ものをも恐れず、取越し苦労をせざらんことを期す。》


われらの心の明朗の極点は「神の無限力」と一体で生きているという自覚であります。
他のいろいろの方法によって心の明朗さを得ようとも、
それはたいてい一時的の明朗さであります。

また次なる重大なる事件が起って来るとともに、
その明朗さ破壊せられずにはいないのであります。

どんな重大なる事件が起こって来ようとも、我(わ)が味方は「神」であり
「神」がその事件をわれらの真の幸福にまで導き給うものであると自覚さえありさえ
すれば、われわれはその重大なる事件を静かに支配することができるのであります。

かかる重大事の起こっている時に際して、最も恐るべきは「重大なる事件」そのもの
ではなく、重大なる事件に驚愕し周章狼狽して「神吾と偕に在り」との自覚を失って
しまうことであります。

この自覚さえあれば「重大事」はいつの間にか方向転換して幸福の曙光が見えはじめ
ます。しかし「神と偕なる」自覚を失ってしまったが最後、事件は層一層危険の度を
加え、その人は加速度をもって危殆(きたい)の世界に押しやられて行くのであります。

 
ですから、われわれは何事が起ころうとも事件そのものは恐ろしくない。
どんな成功者といえども必ずや幾度も失敗と見える経験を繰り返したのです。

しかし彼が成功したのは普通ならば「失敗」として悲願し退嬰(たいえい)して
しまうような時にも、それを「失敗」とは見ないでその「失敗」を次なる成功の足場
としたのであります。

ヘンリー・フォードは言っています。

「自分はいまだかって事業に一度も失敗したことはない。われらの事業はたとえば
化学の実験のようなものである。予定の結果が出て来る時も、また別の結果が出て
来る時も、共に化学の実験としては成果を収めているのである」と。

まったく常住「楽観病」と評さるるヘンリー・フォードが言いそうなことであります。
この常住「楽観病」こそ事業を成功にまで導き来す大原動力であって、
その背後には「神と一体」の自覚があって可能なのであります。


取越し苦労病患者は、常住楽観者の反対であります。
常住楽観者は失敗の中にでも成功を見て心を明るくするに反して、
取越し苦労病患者は成功の中にでも失敗を見るのであります。

こんな人は幸福の真最中にいてすらも、「こんなに幸福であったらもったない」とか、
「幸福が続けば必ず不幸が来るのだ」とか、「悪」を心に描いて恐怖します。

そして実際不幸が来ればいよいよますます恐怖し、悲観し、周章狼狽して
手を束(つか)ねて策の施すところを知らないのであります。

 
およそこのような取越し苦労、不安、恐怖は精神力の適用でありますから、
精神エネルギーを消耗することおびただしく、

明るい希望に満ちた心で考えれば疲労せずに名案が浮かぶものを、いたずらに憂苦し
懊悩するために、頭脳は疲労し、よき考えは逃げてしまい、時局を好転するに
必要なる縦横な機略は姿を潜(ひそ)めて出て来なくなるのであります。

 
取越し苦労や心配が心の底から湧き起こるときには、ただちに心を一転して

「われ神の子である、われ神と偕に生く、われ神と偕に歩む、わが砦は神である
から恐るるところのものはない」

と断々乎として心の中に唱えて自分自身に言って聞かすようにする習慣を
つけるがよい。

またヘンリー・フォードが考えたように、人生の体験はどんな体験でも失敗はない、
どんな体験も次なる成功に達する一階段であると喜んで勇んで、その現在の地点
を足場として明朗な心境で新たに出発するものは必ず最後に成功するのであります。

柔道という武術は自分の不利の地点をそのまま自分の利用すべき足場として相手を
投げるのです。

すなわち向こうから衝(つ)いてくるとか、引っ張り込むとかしてくる。
衝かれるとか、引かれるとかいうことは自分が重心を失う危殆の時なのです。

それをそのまま利用して引っぱられれば敵の懐に飛び込み、
突かれればその力を利用して敵の姿勢を引き落とす。
柔道の試合には、相手が技をかけてくれる時が勝利の好機会なのであります。

われわれの事業においても運命がわれわれを危殆に引き摺り込もうとする時こそ、
その運命の懐に飛び込んでその「不幸」に背負投げを食わすべき好機なのであります。

逆運を幸運の足場になしうる人にしてはじめて
人生の常勝者なることができるのであります。

           <感謝合掌 平成29年3月21日 頓首再拝>

人間の有限力と無限力 - 伝統

2017/03/26 (Sun) 18:20:42


       *「生命の實相」第24巻質疑篇(P82~83)より

常に、力強く「自己」の偉大なる方向を肯定せよ。
それが生長の家の生長主義の生活であります。

自己の塵に造られたるいと小さき物質であると見ず、
神の息にてつくられたる無限力の霊体であると信ずるのであります。

人間には有限力の方面と無限力の方面とがあります。

つまり裸であると同時に、エデンの無限供給の楽園におるのでありますし、
塵にて造られたるごとき肉体であると同時に、神の息にてつくられたる霊体
であるのであります。

そのうちのいずれを強く認めるかのよって、自己が偉大に生長するか、
矮小に委縮するかがきまるのであります。

自己の心が、自己の無限力の方向をのみ強く認めるようにすれば、
自己はしだいに偉大に生長してくるのでありますが、

自己の有限力の方面ばかり認めてそれに捉われるようになると
自己はしだいに委縮してくるのであります。

つまり、これが「心の力」であります。

神は人間にただ「一(ひと)すじの生長の道」のみを与えていますが、
ことさらに反対の方向へ行けば、退歩するのであります。

もし生長の道のほかに行く道はないというようにして機械的に
一すじの道だけを生活するほかに途(みち)のないようにしてありますと、
人間は機械的生命を生きることになりまして道徳的生命をいきることは
できなくなるのでありますが、

幸いにしてわれわれは自由意志と選択の自由を与えられていますので、
はじめて機械ではない「生命(せいめい)」らしい自由選択の生活を
生きることができるのであります。

わて、われわれの生命(せいめい)は今申しましたように「有限力の方面」と
「無限力の方面」との両様を備えているのでありますが、

生長の家の生活は絶えずこの自己の「無限力の方面」のみを強く意識することによって、
ひたすら無限生長の道をのみ進もうとする生活でありますから、時々、
自己の「有限力の方面」に目をやって左顧右眄することは禁物であります。

           <感謝合掌 平成29年3月26日 頓首再拝>

自己限定を止めよ - 伝統

2017/04/10 (Mon) 19:26:21



         *「生活の智慧365章」(P24~25)より

あなたのすべての生活力も能力も悉く神から来たものなのである。
それを知ったとき、本当の自信力が涌いてくるのである。

五尺数寸、十幾貫に過ぎない物質的肉塊から出て来る生活力や能力が
自分のものであるならば、それはどんなに素晴らしいにしても
高が知れているのである。


神から来たところの無限力だと知ったとき、必要に応じていくらでも、
自分の生活力も滾々として涌き出てくるものだという安心感が得られるのである。

その安心感があなたの心のパイプを開いて、
滔々と神の力を流れ入らせることになるのである。

人間を単なる物質的肉塊だと思って、その自己限定によって、
神の無限力の流れ入る通路を狭窄させてはならないのである。

           <感謝合掌 平成29年4月10日 頓首再拝>

《内在無限の力を出すには》 - 伝統

2017/04/13 (Thu) 20:30:12


        *『 生長の家 』(昭和25年11月28日の法語)より

   人間の内には「神」が宿っている。
   否、自分の生命の本質が 神そのものなのである。

   されば、善事(よきこと)であるならば
   一切の事を成就し得る力を
   吾らは内に包蔵しているのである。

   その内蔵する力を引出す秘訣は、
   人に対して悪意を抱かず、憤(いか)らず、憎まず、

   ただ 善意のみをもってし、心を明るく、
   而(しか)して、自己に宿る力をハッキリ自覚し、
   そして目前にある事物の第一歩から人類に奉仕することである。

   自己の力を自覚しなければ 力は出て来ないが、
   たとい内在無限の力を自覚しても、他と不調和だったり、
   奉仕の実践がなかったりしては、また其の力は出て来ない。

   又、他から憐(あわれ)まれたり、
   同情せられたい心があっては自己の力を縮少する。

           <感謝合掌 平成29年4月13日 頓首再拝>

無限の力と一つになる - 伝統

2017/04/21 (Fri) 18:08:14


        *「生長の家」(昭和16年10月19日の法語)より

 
しづかに坐して自己の中(うち)なる『中(ちゅう)』に触れよ。
‘そのまま’の心になるのである。偏らぬ心になるのである。
天之御中主神なる宇宙本源の大神の生命の『中(みなか)』とひとつになるのである。

ひとつになっただけのものが其処に現れて来る。
無限の力と一つになる者には無限の力が現れて来るのである。

偏らぬ心になるとき、宇宙の偏らぬ神の生命と一つになる。
そのとき力の浪費なくして最も効果多く力が使われるのである。

力は出すから疲れるのではなく、
偏った心、『中(ちゅう)』を失った乱れた心で力を使うから、
天之御中主神から無限の力の流入に妨害が出来るのである。

活力さえ旺盛であれば病気にかからない。
活力が弱ければ薬剤を浴びるほど服んでも効くものではない。
活力が第一である。

その活力は神から来るのである。
神と波長を合わすこと。

それには人を憎まぬこと、憤らぬこと、争わぬこと、
人の悪を思わぬこと、嫉妬せぬこと、羨ましいと思わぬこと、
今自分に与えられたものを、唯有難いと素直に受けること。

『今』を生かすこと。
すべての人を、物を、拝むことである。


 明治天皇御製 ――

     われもまたさらにみがかむ曇なき人の心を鏡にして

 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

           <感謝合掌 平成29年4月21日 頓首再拝>

無限の可能性 - 伝統

2017/09/23 (Sat) 17:39:19


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年07月19日)」より


【遺伝子は全体の2パーセントしか働いていない】

   (筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…)

   定年で会社を辞めたとき、
   「自分がいままで苦手で手を出せなかったものに挑戦する」と宣言して、
   絵とカラオケを習い始めた人がいました。

   何しろ、自他ともに認める音痴で、
   絵の宿題は、全部絵のうまい兄弟に頼んでいた人です。

   そのことを知る友人たちは、からかい半分で、その姿を見ていました。

   「まあ、やってごらんなさい」といったところだったのでしょう。


   ところが1年後、彼は、歌でも絵でも、決して上手とは言えないまでも、
   驚くほどの進歩を遂げ、周囲をびっくりさせたのでした。

   こういうとき、人は「人の可能性は無限のもの」と思うのかもしれません。


   しかし一方では、「カエルの子はカエル」で、
   それ以外のものにはなれないという事実もあります。

   つまり、人の能力や可能性は無限ではないという考え方です。


   確かに、遺伝子にかかれている情報には限りがありますから、
   そこに書かれている以上のことはできません。

   こんなことを言うと、自分の気に食わないところを、
   親からの遺伝のせいにする人がいるかもしれません。

   実際、「頭が悪いのは、お母さんのせいだ」
   「走るのが速いお父さんに似ればよかったのに、
   運動神経は、お母さんの遺伝子を受け継いでしまった」
   などと言った覚えのある人は、意外と多いのではないでしょうか。

   しかし、そういうふうに考えるのは、とんだお門(かど)違いです。

   人間の全DNAで常にたんぱく質をつくるために働いているのは、
   じつは2パーセント、多くても10パーセントにすぎません。

   つまり、細胞の中の全DNAは、30億もの膨大な遺伝情報を持ちながら、
   そのほとんどはオンになっていないのです。


   一方、大腸菌などの下等生物の場合は、オフ部分はきわめて少なく、
   ほとんど全開状態で活動しています。

   一般的に、高等動物になるほど、オフ部分が増えます。

   そういう意味で、人はもっともオフの部分が多い生物と言えます。


   これは、言い換えるならば、
   それだけ未知なる可能性を秘めているということです。

   これから、どんな可能性が花開くかわからないのですから、
   あることができなくても、けっして親のせいにして諦めてしまわないことです。


   遺伝子は全体の2パーセント程度しか働いていないのですから、
   私たちが「こうだったらいいな」と思うことは、
   ほぼ可能性の範囲にあるはずなのです。

   ということは、逆に言えば、思わなければ可能性は広がらないということです。


   ライト兄弟が飛行機を発明できたのは、「空を飛びたいな」と思ったからです。

   エジソンが電気をはじめ、いろいろな画期的な発明をしたのは、
   すべて「こいうものがあったらな」「こういうことができたらな」
   と思ったからです。

        <『そうだ!絶対うまくいく!』PHP文庫>

               ・・・

「私たちの最大の弱点は諦めることにある。
成功するのに最も確実な方法は、常にもう一回だけ試してみることだ」

というトーマス・エジソンの言葉がある。


「絶対に無理」、「もうダメだ」と思ったらそこで全ては終わってしまう。

「できない、無理」と思ったそのときが「スタートのとき」。

そこからもう一回試してみる。


頭を柔らかくして、何か打つ手はあるはずだ、何か方法はあるに違いない、
ともう一度チャレンジする。

「遺伝子は全体の2パーセントしか働いていない」


我々は無限の可能性を持っている。

           <感謝合掌 平成29年9月23日 頓首再拝>

【遺伝子のスイッチをONにするには】 - 伝統

2017/09/24 (Sun) 19:55:22


     *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年09月20日)」より


   (筑波大学名誉教授、村上和雄氏の心に響く言葉より…)

   人間の能力は遺伝子でみるかぎり、だれもが似たようなものです。

   遺伝子というのはいろいろなデザインが可能な素材のようなもので、
   それをどう組み合わせていくかは、その人の自由にまかされている。

   肝心なことは遺伝子のON/OFFということ。

   能力や才能について考えるとき、こういう考え方をしたらよいと思います。

   人間は非常に多くの可能性をもっていますが、
   その可能性の扉を開くカギの一つが潜在意識だと思います。

   その証(あかし)として潜在能力というものが想定されています。

   潜在能力は潜在意識によって導き出される。

   その能力は限界が容易に見極められないくらい大きい。


   問題はそれをどうやって導き出すかです。

   従来の潜在意識論ではそれを引っ張り出す方法として、
   大きく2つの場合を想定しました。

   一つは心の持ち方です。

   あることの実現を願ってひたすら心に念じると潜在意識に刻印され、
   自然にその目的に近づく行動をとるようになる。

   自然にその目的に近づく行動をとるようになる、
   その力はとてつもなく大きい、ということです。



   もう一つは外界の変化。

   たとえば火事になれば人は思いもよらない力を出す。
   これは環境の変化に対する瞬間の適応行動で、
   実は人はだれでもこうした適応能力を秘めている、というものです。


   だが潜在意識論では能力(エネルギー)の所在がはっきりせず、
   観念論として受け取らざるをえなかった。

   また潜在能力というものに疑いの目を向ける人もいましたが、
   それは従来の潜在意識論がこの疑問に
   科学的にきちんと答えられなかったからです。


   だがこれに遺伝子のON/OFFを当てはめると、
   才能や能力の所在が非常にはっきりしてきます。

   「潜在意識にはたらきかける」とは、
   実は遺伝子にはたらきかけることであり、
   心をコントロールすることによって眠れる遺伝子を起こす、
   あるいは起きている困った遺伝子を眠らせることができるということです。


   伸びる人と伸びない人の問題も、この観点からみるとよくわかってきます。

   要するに伸びる人とは眠れるよい遺伝子を呼び起こすことがうまく、
   それが下手な人は能力や才能をもちながらも伸び切れないということです。


   では具体的にどんなタイプが伸びるタイプなのか。

   次にいくつかの条件をあげてみましょう。


   伸びるタイプの条件の第一は「物事に熱中できる」ということです。

   何かに取り組んだら脇目もふらずに熱中する。
   まわりがどうあれおかまいなしで、自分のしていることしか考えない。
   そういひたむきさのある人間は伸びられる人です。


   それから持続性のある人。

   いくら熱中しても、それが続かないとなかなか成就までは行き着かない。
   寝ても覚めても、そのことを思い続ける持続性のある人が
   伸びられるタイプです。

   天才はパッとひらめいたというエピソードがよくありますが、
   「寝ても覚めても」が前提にあってはじめてひらめきが起こる。

   これが第二の条件になります。


   第三は、常識にしばられない自由闊達(かったつ)さをもつこと。

   この点に関しては江崎玲於奈先生が大変興味深い指摘をしておられます。
   江崎先生はご承知のようにエサキダイオードでノーベル物理学賞を
   受賞されていますが、独創的な研究開発を進めるカギとして
   「自由闊達さ」ということをあげておられる。

   これは「素人発想」と一脈通じるものがあります。

   端的にいってしまえば、何ものにも規制されない自由な発想ということで、
   それは子供の感覚に似ているといってもよいかもしれません。

   私たちは大人になるにつれて、さまざまな知識を身につけますが、
   それはほとんど常識と呼ばれる範囲にとどまるもので、
   それでは遺伝子は目覚めない。

              <『人生の暗号』サンマーク出版>

               ・・・

村上氏は、同書の中でこう語る。

『マズローという心理学者が人間の可能性を阻害する要因として、

(1) いたずらに安定を求める気持ち

(2) つらいことを避けようとする態度

(3) 現状維持の気持ち

(4) 勇気の欠如

(5) 本能的欲求の抑制

(6) 成長への意欲の欠如

の6つをあげています。

この6つの項目は、遺伝子ONを阻害する条件と考えてもさしつかえないでしょう』


遺伝子にスイッチが入らない状態というのは、
要するに、感性が眠っている状態といってもいい。

感性が眠っていたり、摩耗したりしていると、
発奮したり、感動したり、熱く燃えたり、熱中したりすることはなくなる。

ワクワクドキドキや、喜怒哀楽がなくなり、
分別くさくなって、頭だけで考えて、結局、行動しなくなる。


自在に、遺伝子のスイッチをONにできる人でありたい。

           <感謝合掌 平成29年9月24日 頓首再拝>

《無限の力は肉体の内にはない》 - 伝統

2017/09/28 (Thu) 18:40:14


    *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P164~165) より

吾々は自分の持っていない力をあらわすことはできない、
と同時に自分の持っている力でも、
それを自覚しない時にはそれを自由に使うことはできないのである。

他(た)の人の持っている金を自分が自由に使うことができないのと同様、
その力を他の人がもっているのでは自分の自由にならないのである。

自分の“内”に“無限の力”が宿っていると自覚することができる者のみが
その力を自由に使うことが出来るのである。

その自己内在の“無限の力”を自覚するには、自分自身を単なる肉体だと思う
観念(かんがえ)を打ち破らなければならないのである。


有限矮小なる一個の肉塊、かくの如きものの内(うち)に、
何ぞ“無限の力”が内在する道理があろうや。

そこで肉体を単なる人間の外皮と見、人間の実相が、虚空に満つる霊体であり、
神の生命(せいめい)につながる者、神と一体であるとの自覚を得なければ
“無限の力”が自己の内に内在するということは到底自覚することはできないのである。

           <感謝合掌 平成29年9月28日 頓首再拝>

《神の贈りもの》 - 伝統

2018/02/14 (Wed) 17:53:25


      *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P20) より
 
神は無限であり給う。
あなたがチャンネルを広くひらけばいくらでも神の無限供給が広く
這入って来ることは間違いないのです。

ケチな考えを起さないようにしなさい。
ケチはチャンネルを狭くすることになります。

心はその想念の通りの形をつくるのです。

先ず自己の有(も)てる能力でも、金銭でも、それを自分のものと思わず、
神からの”贈り物”をあずからせて頂いているのだと思い、
それを最も神様の悦び給うであろう方面に使わして頂くことなのです。

すべて吾々はそのもてるものを出したときに次なるものが与えられるのです。

空気は無限に与えられているけれども、それを吸い込むばかりで、
吐いて出すことをしなければ、次に吸い込むことができないで窒息するばかりである。

吐いたら一時(いちじ)損になるように思えるかも知れないけれども、
新たに酸素を供給されることになり、其処に新陳代謝が行なわれ、
成長期にある人間(ひと)は吐いて出しながら却(かえ)って肥えて来るのである。

今あるものを与えれば次のものが与えられるのである。

この世は新陳代謝と循環との世界であり、新陳代謝と循環とが
行なわれている間だけ人間(にんげん)は生きているのである。
それが止まったら人間(にんげん)は「死」である。

           <感謝合掌 平成30年2月14日 頓首再拝>

人間は無限力 - 伝統

2018/03/17 (Sat) 19:00:37


           *「光明法語」(3月17日)より

人間は無限力であるから疲れることはないのである。
こう信じておれば疲労は少なくて済む。

大抵の人間は本当は疲れてもいないのに疲れたと信じ、働き過ぎたと信じ、
その信念によって、普通よりも一層疲れているのである。

人間は物質面から見れば有限であるから、
その有限面に無限力の内容から精力が補給される間中、
一時働く力が減退したように現われる事もあるが、それは一時的である。

井戸の水をかえれば一時水量が減ったように見えるが
一層清らかな水が湧き出るようなものだ。

           <感謝合掌 平成30年3月17日 頓首再拝>

人間が疲れないためには - 伝統

2018/03/18 (Sun) 18:35:21


           *「光明法語」(3月18日)より

自己催眠、自己暗示で自分を疲労せしめて自分を病気にするのは愚かな事である。

疲れたと思ったときには、しばらく眼を瞑(と)じ、

「神は無限力であり、自分は神の子である。
今神の無限力が滾々(こんこん)と流れ入って、自分は無限の精力を回復しつつある」

と数回念ずれば、その疲労は須臾(しばらく)のうちに回復するものである。

また仕事をする場合、自分の力で仕事をすると思わないで、
「神が自分を通して仕事をしたまうのであるから決して疲れることはない」と
数回念じてから仕事をすれば疲れない。

           <感謝合掌 平成30年3月18日 頓首再拝>

自分の天分能力を遠慮するな - 伝統

2018/04/26 (Thu) 19:27:25


      *『幸福を招く365章』(P104~105)より

あなたは神の子であることを信じなさい。

神の子は無限の力が自己の内に蔵されているのですから、
それを打出の小槌を掉(ふ)るように、掉(ふ)り出しさえしたら
無限の力があらわれて来るものだということを信じなさい。

あなたに無限の力があらわれて出ないのは、
あなたが、迷いによって自分の力を悟ることを抑えているか、
それを掘り出すのに努力しないからであります。

神の子は「自由」でありますから、あなたが自分でその無限の力を
認めようとしない限り、その無限の力を認めさすように強制さす力は
他(た)にないのであります。

その代わりまた、あなたが無限の力をあらわそうと欲せられる限り、
それを抑えたり、止(と)めたりする者は何者もないのであります。

あなたに許されている無限の力をふんだんに自由におつかい下さい。

           <感謝合掌 平成30年4月26日 頓首再拝>

《自己限定を止めよ》 - 伝統

2018/05/19 (Sat) 19:09:34


       *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P24~25) より
    
あなたのすべての生活力も能力も悉く神から来たものなのである。
それを知ったとき、本当の自信力が涌いてくるのである。

五尺数寸、十幾貫に過ぎない物質的肉塊から出て来る生活力や能力が
自分のものであるならば、それはどんなに素晴らしいにしても
高(たか)が知れているのである。

神から来たところの無限力だと知ったとき、必要に応じていくらでも、
自分の生活力も滾々(こんこん)として涌き出てくるものだ
という安心感が得られるのである。

その安心感があなたの心のパイプを開いて、
滔々(とうとう)と神の力を流れ入らせることになるのである。

人間を単なる物質的肉塊だと思って、その自己限定によって、
神の無限力の流れ入る通路を狭窄(きょうさく)させてはならないのである。

           <感謝合掌 平成30年5月19日 頓首再拝>

魔法の言葉のシャワー「できる! できる! できる! 」 - 伝統

2018/07/18 (Wed) 20:13:56

涙の10段跳び  園児の頑張りに感動の嵐

魔法の言葉のシャワー「できる! できる! 」

ある幼稚園での、卒園式で、皆が跳び箱10段を飛ぶらしい。
そんな中で、飛べなかった子に対しての園児たちの魔法が凄い。


(感動の涙が溢れやすい方は、ハンカチ等をご用意の上、
 次の動画を堪能してください)

https://www.youtube.com/watch?v=KW0ahs49hWE&index=2&list=PLCfEjfhbz50Y77f3UP

           <感謝合掌 平成30年7月18日 頓首再拝>

自己を通して、神の無限性が顕現することを信ぜよ - 伝統

2018/08/09 (Thu) 18:33:08


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月9日)より

もし、自分が利益を獲得することが利己的目的でないならば、
もし自分が利益を獲得することが一切衆生を利益する目的に適うならば、
もし自分が利益を獲得することが他の人に光を与える手段を供しうるならば、

その利益の獲得を神に求めてもさしつかえないのである。
神は必ずその利益を与え給うに相違ないのである。

金銭、財貨そのものは浄でもなければ不浄でもない。
それを一切衆生を扱うために集めるならば多々ますます集めることも善である。

神の無限供給を得るにはまず神の無限性を信じなければならぬ。
われわれに宿る神が、常にわれわれを導き給うと信じなければならぬ。
われわれが神にいかほど求めても、求めすぎるということはないのである。

神は太平洋を自己の箱庭の池として造り、富士山をその築山とし、
ナイヤガラ瀑布を盆景の滝としたまうほど豊富な神である。

神はけっしてケチな神ではないのである。
神はけっして、空気を人間が吸ったら、ちょうど一バイで少しも余りがないように、
ギリギリ一パイに製造し給うたごときケチな存在ではないのである。

空気のみならず、日光でも、地下水でも、植物でも、海水でも、
使っても使っても無限に余るほどに製造し給うているのである。

だから神に求めすぎるということはけっしてないのである。
むしろ、われわれは神に求めることがあまりにも少なすぎるということをこそ
かえって恥ずるがよいのである。

われわれは、何よりも、わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
われに宿り給う神が為し給うのだと信じなければならぬ。

この大信念が切々たる実感として溢れてくるまで、幾度(いくたび)でも繰り返し、
「わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、われに宿り給う天の父これを為し給う」
ということを念ぜよ。

しかして神に依り頼れ。
希望を持て。
心を平静に持て。

神の愛を信ぜよ。
無限性を信ぜよ。

神がその聖なるみ業(わざ)を自己を通して為し給うのだと信じて、
それを繰り返し念じて、自己の心を一変せよ。

      <感謝合掌 平成30年8月9日 頓首再拝>

《あなたは常に進歩することができる》 - 伝統

2018/08/11 (Sat) 18:37:42


         *『 生長の家 』(昭和46年3月18日の法語)より

   私たちの潜在意識が “ 実相世界 ” に
   波長が合うように調整されているならば、

   “ 実相世界 ” には、無限に良きアイディアが
   充満しているのであるから、

   私たちは常に実相世界から放送されている新しきアイディアを
   次から次へと受信することが出来るのである。

   神は無限であり、神の国も無限であるから、
   “神の国”にあるアイディアも無限であり、

   古きアイディアを重複して再放送しなければ
   アイディアが足りなくなるような
   人間界の放送局とは異るのである。

   常に新しきアイディアを受信し、
   それを実践することによって人間は常に無限に進歩し向上し、
   文化も無限に発達することになるのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12688064.html

      <感謝合掌 平成30年8月11日 頓首再拝>

人間は無限力 - 伝統

2020/03/17 (Tue) 19:13:55


           *「光明法語」(3月17日)より

人間は無限力であるから疲れることはないのである。
こう信じておれば疲労は少なくて済む。

大抵の人間は本当は疲れてもいないのに疲れたと信じ、働き過ぎたと信じ、
その信念によって、普通よりも一層疲れているのである。

人間は物質面から見れば有限であるから、
その有限面に無限力の内容から精力が補給される間中、
一時働く力が減退したように現われる事もあるが、それは一時的である。

井戸の水をかえれば一時水量が減ったように見えるが
一層清らかな水が湧き出るようなものだ。

      <感謝合掌 令和2年3月17日 頓首再拝>

《危急の場合に発する力》 - 伝統

2020/03/18 (Wed) 22:45:51


       *『人生の秘訣365章』第10篇(P241~242) より

危急の場合には思いも寄らぬ大いなる力が出ると云うことがある。

阪神間に山津波が起り、大洪水で多くの人たちが
神戸の地下鉄その他で水死した時のことである。

当時、六甲山麓に近い本山村に住んでいられた星丘重一氏は、
滔々と山上から流れて来る水が、そのままの水の方向では自分の家が
流されるように見えたので、其の水流の方向を変じようとして、
其処に見つかった大きな岩を持ち上げて、
水流を眞ともに堰きとめるところへ投げおろした。


お陰でその水流の方向は家の方えは眞ともに来なくたったが、
水が治まってから星丘さんはその大きな岩を持ち上げようとしても、
どうしても持ち上がらなかった。

また其の時、井上喜久磨氏(元、不動産銀行重役)は中風で手脚不自由で
寝ておられたが、洪水が一階の畳まで浸しそうになると、手脚の不自由が治って、
家財道具を行李につめて2階へ自分一人で持ち上げたが、
それ切り手脚の不自由は治ってしまったのであった。

         <感謝合掌 令和2年3月18日 頓首再拝>

何の結果も求めない時に、真の力が発揮できる - 伝統

2020/03/21 (Sat) 12:31:48


      *「幸せなことしか起こらなくなる48の魔法」
           大木 ゆきの・著(P206~208) より

剣道の強者が、達人に「勝とう、勝とう」と思っていくら稽古しても勝てない。
ある時、完全に「勝利」という結果を忘れて、無心になったら、
あの達人の一瞬の隙を捉えられて、神業のような一本を取ることができた。
 
その時、彼は言うのです。
「一切の執着を離れて、無心になった時、真の力が出ました」
「勝とう、勝とうと思っているうちは勝てませんでした」と。

無心の極意は、道を極めた人だけのものになってしまっています。
本当はそういうことこそ、学校や家庭で教えてほしいんですけどね。
 
結果に囚われているうちは、恐れの中にあります。
「これが得られないとダメだ」
「それがなければ、自分は完成しない」
「そんなことがあっては困る」
 
そういう恐れは力を奪います。
力が奪われていては、本領が発揮できないのです。
 
皮肉な話ですが、結果に囚われれば囚われるほど、ほしい結果は得られません。
だから、それをやってどうなるかなんて、どうでもいいんです。
 
ただ、なぜか知らないけれど、
「今はコレだ!」そう思うものに毎瞬飛び込んでいったらいいのです。
 
生(ライブ)の醍醐味はそこに在る。
そこにこそあなたの真の美しさ、力強さ、極まった個性の発露(はつろ)があるのです。
 
私たちはそれを体験するために、人間をやっているようなところがあります。
 
何でもいいのです。
レストランで何を食べるか決める時でもいい。

これを食べたら、体にいいとか悪いは全部忘れて、
「何だか知らない聞いたこともないメニューだけど、オーダーする」
ことくらいなら、できるでしょう。
 
さて、どんな料理が出てくるのでしょうか? 

結果が分かっているものではなく、どうなるか分からないけれど、
直感に従った時のあのときめくような感じは、
知ってる料理が出てくる時には味わえない「ライブ」な感覚です。
 
何だか知らないけれど、内から力があふれてきます。
 
人生をもっとライブに楽しみましょうよ。
結果なんてどうでもいい。
そんなものからとっとと自由になりましょうよ。
 
その時内からあふれくる、無限の力と一緒に生きていきましょう。

         <感謝合掌 令和2年3月21日 頓首再拝>

《肉体的観念を超えること》 - 伝統

2020/03/22 (Sun) 23:37:13


       *『人生の秘訣365章』第10篇(P242) より

人間は日常生活 ―― 普通の生活でいる場合は、
本来自己の内に包蔵する生活力の一部分しか発揮していないのである。

この内部に包蔵する力を、危急の時に揮(ふる)い起すことが出来るように、
通常の時にも発揮するようつとめるならば、不断の生活の二倍三倍の能率を
挙げることができるにちがいないのである。

危急の時に、普通以上の力が発揮できるのは何故であるかと言うと、
「自分の肉体の力はこれ位しかない」と常識で“自己限定”しているのに、

危急のときには、「肉体の力の限界」を心に留めている暇がなくなり、
今まで“自己限定”によって自縄自縛していた「内在の力」の縛りが
解かれて解放されるからである。

危急の時と同じように、“自己限定”を解くことが出来るならば、
吾らは予想外の力を発揮することができるようになるのである。

それには神想観して「人間は肉体ではない。霊である」と云う自覚を深めるがよい。

         <感謝合掌 令和2年3月22日 頓首再拝>

《無限の可能性を発揮するには》 - 伝統

2020/03/23 (Mon) 23:50:17


          *「真理」第9巻生活篇(P165~166)より

あなたに神が宿っていると云うことは、可能性に於いては、
あなたは無限の自由を持っていると云うことです。

その可能性を如何様の程度までこの地上に於いて実現し得るかと
云うことは、あなたがその程度に於いて、内在の神性を自覚しうるか、
また自覚した神性を如何に実生活に行動化するかと云うことによって
定まるのでです。

あなたに無限の可能性があると云うことは、あなたの自覚と努力とによって
如何なる制約をも超えて、力を発揮し得ると云うことであります。

併し唯、無限性を自覚すると云うだけでは足りません。

あなたがその無限性をどの方向へ使おうとせられえるかと
云うことが問題なのです。

若し利己的な方面に使おうとせられると、
無限の力の根源である神とのつながりが
絶縁されることになるのです。

だから其の可能性を愛の方向に使わなければなりません。

         <感謝合掌 令和2年3月23日 頓首再拝>

無限に巨大な「宇宙知性」(神)があなたに宿っている - 伝統

2020/03/24 (Tue) 22:55:14


        *『真理』第九巻生活篇(P256~257)より

《先ず汝みずからを知れ》

あなたはあなた自身のうちに、あなたの外部から迫って来る
どんな力よりも無限に強い力を持っていらっしゃるのです。

何故ならあなたは神の子であり、太陽をつくり、地球をつくり、
無数の天体をつくり出した、無限に巨大な「宇宙知性」(神)が
あなたに宿っているのですから。

この無限に巨大な「宇宙の力」を
何故あなたは使おうとせられないのですか。

先ず此の力をつかうためには、
此の力がやどっていることを知らなければなりません。

万年筆をもっていても、もっていると云う事を忘れていたら、
その万年筆をつかうことはできでしょう。

それと同じく、「宇宙的な巨大な知性」がやどっていても、
それに気がつかなければそれを使うことはできません。

先ず「人間は神の子で。宇宙的な巨大な力が宿っている」と
自覚することが第一です。

         <感謝合掌 令和2年3月24日 頓首再拝>

《われに宿る無限の力》 - 伝統

2020/03/25 (Wed) 20:40:29


        *『真理』第九巻生活篇(P257~258)より

「宇宙的な巨大な力」が人間に宿っていると言っても、
それは肉体的な物理的力ではありません。

原子力を発現させるのでも、原子は吾々の外界にいくらでもあるけれども、
それはそのままでは力となりません。吾々の「知性」がそれを適当に
処理するとき驚くべき力が発現するのです。

「宇宙的な巨大な力」が吾々に宿っていると云うのは、
吾々に「知性」がやどっている、と云うことなのです。

「知性」は心的な力です。
心の力なのです。

心の力が飛行機をつくり、原子発電所をつくり、汽車汽船をつくり、
ラジオ・テレビを作って2万哩(マイル)離れている人とまるで眼の前で
対談するかの如く親しく話すことができるのも、
心の力が空間を征服し、時間を征服し、重力を征服したのであります。

併し、あなたに宿る神の力は「知性」の段階から「愛」の段階へ、
更に「霊」の領域へと幾段階があるのです。

         <感謝合掌 令和2年3月25日 頓首再拝>

《内部の無限力を発掘しましょう》 - 伝統

2020/03/26 (Thu) 23:42:56


          *「真理」第9巻生活篇(P4~5)より

ひとたび自覚のひらけた眼で見ますと、わたしたちの内部には無限の力が
宿っているのに、それを不適当に不充分に使っていたり、
吝(お)しみ惜しみ使っていたことに気がつくのです。

それは霊感によらずとも、最近では心理学や、物質科学や、能率の科学が、
わたしたちが霊感によって知ったところの「内在無限の力」を
証明してくれつつあるのです。

既にこの事は70年前ハーヴァード大学のウィリアム。ジェームズ教授が
その無数の心理学的実験にもとづく学説として発表したところのものであって、
今更新しく言うほどの事でないだけ、却って忘れ去られているのであります。

心理学者は、この見えざる力の貯蔵庫を潜在意識と呼びましたが、
最近ではその潜在意識の底に深く横たわる無限の生命力と無限の智慧の層
をば超在意識(スーパー・コンシャスネス)と謂う名で呼んだりしております。

         <感謝合掌 令和2年3月26日 頓首再拝>

自分の天分能力を遠慮するな  - 伝統

2020/03/27 (Fri) 22:57:21


        *『幸福を招く365章』(P104~105)より

あなたは神の子であることを信じなさい。

神の子は無限の力が自己の内に蔵されているのですから、
それを打出の小槌を掉(ふ)るように、掉(ふ)り出しさえしたら
無限の力があらわれて来るものだということを信じなさい。

あなたに無限の力があらわれて出ないのは、
あなたが、迷いによって自分の力を悟ることを抑えているか、
それを掘り出すのに努力しないからであります。

神の子は「自由」でありますから、あなたが自分でその無限の力を
認めようとしない限り、その無限の力を認めさすように強制さす力は
他(た)にないのであります。

その代わりまた、あなたが無限の力をあらわそうと欲せられる限り、
それを抑えたり、止(と)めたりする者は何者もないのであります。

あなたに許されている無限の力をふんだんに自由におつかい下さい。

         <感謝合掌 令和2年3月27日 頓首再拝>

自己に宿る第ニの力  - 伝統

2020/03/29 (Sun) 23:53:35


        *『幸福を招く365章』(P108)より

全ての人間は自分が気が着いているいるよりも 
偉大なる力を予備的に備えているのである。 

執筆に疲れて、もう頭が朦朧として迚(とて)も 
執筆を継続する事が出来ない感じを無理に執筆していると、
いつの間にか頭が冴えて来て、もう眠くも何ともなくなり
徹夜して執筆出来る事がある。 

運転手が激しい運転を持続して行う時には、
ある処までやれると呼吸困難と心臓の苦痛とを感ずるが、
その運動を押し切ってやっている間に急にとり除かれて、
呼吸も心臓も楽になり、容易に運動を続けられるようになる。 

これはセカンド・ウィンドと専門家の称しているものである。 
私達は練習を続けていると
容易にセカンド・ウィンドを突破することが出来るようになる。 
これは肉体的な運動でも 精神労働でも同じことである。

         <感謝合掌 令和2年3月29日 頓首再拝>

宿っている「天才と天分」を掘り出し続けよ - 伝統

2020/03/30 (Mon) 23:30:31


        *『人生を前進する』(P53)より

すべての人間は神の子として素晴らしい天才と天分とを与えられているのである。

天才とは何か、人間は神の子であるという實相が天才なのである。
天賦の無限力が天分なのである。

天才とは、特殊の人間にのみ授けられた能力ではないのである。

何人にも夫々の天才が宿っていながら、それを掘り出す努力を
中途半端にしているから掘り出し得ないだけのことである。

何事も中途半端になすこと勿れ、
ひとたび「吾れ是を為さん」と決意した限りは、徹底的にそれをやりとげよ。

前途は無限であり、
遙かなる行方は茫漠としてハッキリしないかも知れないけれども、
諸君が勇気を鼓して、たゆみなき努力を続けて行くならば、
進むに随って途はひらかれて来、前途の霧はハッキリと晴れて来るのである。

         <感謝合掌 令和2年3月30日 頓首再拝>

Re: 神は無限 - rdhsprnqggMail URL

2020/08/29 (Sat) 16:09:21

伝統板・第二
<a href="http://www.gd8w46nogd5ta99gv153s8j143lh63j7s.org/">ardhsprnqgg</a>
[url=http://www.gd8w46nogd5ta99gv153s8j143lh63j7s.org/]urdhsprnqgg[/url]
rdhsprnqgg http://www.gd8w46nogd5ta99gv153s8j143lh63j7s.org/

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.