伝統板・第二

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神を憶う、呼ぶ - 伝統

2016/08/04 (Thu) 04:16:35

《常に神を憶う》


         *「光明道中記」(8月4日 常に神を憶う日)より

【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
                      (『生命の實相』第十一巻)】

神の”いのち”なるわが”たましい”は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを
知らねばならぬ。恐れることはひとつもあり得ないのである。

われは神と偕であるからである。

神はすべてのところにましますが故に
その癒しもすべてのところにましますのである。

癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、
これはただ病気をみとめている人々に対してのみ言うところの
方便的語(ことば)に過ぎないのである。

癒しと云うのは神の創造の顕現であり、神の完徳(まったきとく)が現象世界面に
あらわれて来ることに過ぎないのである。

だから吾等が神の完き創造の”ちから”と”めぐみ”と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。

不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。
神は無限の智慧、無限の愛、無限の生命(いのち)であり、世の終わりまで
”常に”吾等と偕に在り、吾等を愛し、吾等を護りつづけていられるのである。

此の不思議なる神または仏の護りを受けようと思う者は
常に神または仏を憶(おも)うことである。

仏典に「衆生仏を憶念すれば、仏衆生を憶念す」とある。

神を、仏を、憶おうとするには常にそれを思い起こさしめる書物を携帯して
少時間を利用してそれを読むことである。

          <感謝合掌 平成28年8月4日 頓首再拝>

わが内の神よ、目覚めよ - 伝統

2016/08/16 (Tue) 03:24:10


         *「幸福を招く365章」(P189~190)より

わが内なる神よ、目覚めよ。
われは今日(きょう)ひねもすわが内なる神を呼ぶ。

わが内なる神よ、目覚めよ。
大いなる智慧の眼をひらけ。
愛の手を伸ばせよ。

わが父よ、わが母よ、永遠に父性にして母性なる神よ。
常よりも一層目覚めよ。

われはひたすらにあなたを呼び、あなたの智慧を求め、愛を求む。

われは神の導きのままに行動せんことを求め、神の愛を我を通して実現せんことを求め、
わが行いが神の栄光をあらわさんことを希(こいねが)う。

わが内なる神よ、わが手をとり給え、われを導きたまえ。

大いなる光をもて、われを照らしたまえ。

わが行く道があなたの示したもう道でありますように。

          <感謝合掌 平成28年8月16日 頓首再拝>

《神を憶(おも)えば、神は人を憶う》 - 伝統

2016/08/27 (Sat) 04:52:49


       *『 生長の家 』(昭和25年5月19日の法語)より

   如何なる現象の困難に面しようとも、
   それについて思い煩わないものは幸いなるかな。

   彼は神に祝福されたるものである。

   神を思い出せば
   神の光を受けるのである。

   すでに光は与えられているけれども
   思い出さないのは
   神に対して波長を合わさないのと同じことである。

   神が常に吾と共にあり、
   吾が内に宿って い給うこと
   ラジオの波が到(いた)る処(ところ)に存在するのと
   同じことである。

   然(しか)し波長を合わさなければ
   放送は きこえない。

   それと同じく神が常に内にとりまいているけれども、
   吾々が神を思いださない限りは
   その恵みを完全には受け取ることはできないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

          <感謝合掌 平成28年8月27日 頓首再拝>

本当の「南無阿弥陀仏」称名の意義 - 伝統

2016/08/29 (Mon) 03:35:22


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月29日>(P67)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」とイエスは言った。
蓄音機のレコードのように「南無阿弥陀仏」と機械的に称えるだけでは救われぬ。
阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。
わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。今本当に融け込んでいる
のです! だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の
称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

       <感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>

「わが神」と称(よ)びましょう - 伝統

2016/09/11 (Sun) 03:14:24


          *「静思集」(P76~77)より

常に神を称(よ)びましょう。
仏教では念仏の申しました。

今までの仏の観念、仏の対する従来の考え方をもっていて仏を称(よ)びましても、
未来世は救われましても現世は幸福になるとはきまっていません。
それは今までは仏と云うものは未来世を救うものだと考えていたからです。

此の人間考えで仏の力を局限(かぎ)っていた観念をお捨てにならなければなりません。
仏と云えばどうしても未来のも救うと云う在来の観念から抜け出すことが
出来ないようでしたら、もう仏という名に執着なさらない方が好うございましょう。

やはり、「神」と言ってお称びなさいませ。
「わが神」と親しくお称びかけなさいませ。

親しい感じが一層深ければ深いほど、
神の恵みの中に飛び込むことが出来るのでございます。

「わが神」としずかに眼を瞑(つぶ)ってお呼びになるとき、
神が自分の周囲を満たし、また自分のうちにも満ちていらせられ、
「此処にいて爾(なんじ)を護っているぞ」と仰(おお)せられているような
お気持ちになるように練習なさいませ。

1日のうち度々(たびたび)練習なさいませ。

心が疲れて来たとき、また仕事の始めと終わりに。

   
   「わが神」と称(よ)べば我(わ)が身(み)にいと近く
        我が身の中(うち)に神いますなり

           <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>

神を百万遍呼ぶべし - 伝統

2016/10/08 (Sat) 03:29:54


        *『 生長の家 』(昭和23年9月26日の法語)より

   神は常に我と共にある。

   わが内にある。わが外にある。
   わが上にある。わが下にある。
   わが前にある。わが後(うしろ)にある。
   わが右にある。わが左にある。

   われらを取巻いて全く隙もなく充満してい給うのである。

   吾々は神から逃れるすべもないのである。

   何を恐れるか。

   神は到る処に汝の護りであり、凡ゆる善と幸福とを以って
   神は汝を取りまいていられるのである。

   今呼べば神は答えたまうのである。
   何事が起ろうとも、神を呼べばその救いは来るのである。

   神よ、神よ、神よ、神よ、神を百万遍呼ぶべし。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

《神に対して心を調律せよ》 - 伝統

2017/01/17 (Tue) 04:41:39


        *『幸福を招く365章』第11項(P228) より

何事が起ってきても恐怖の旋風の中に巻き込まれる必要はないのである。

神はわれらの父でありたまい、神は愛でありたもうから、
どんな時にも、神を呼べば神は必らず護っていたもうのである。

神は、どんな不調和な中にも調和を、争いの中にも平和を、
病気とみゆるものの中にも健康を打ち建てたもうことができるのである。

併しそれが現実にあらわれるには、
ラジオのように心の波長を合わすことが必要である。

常に、自分の心を神に向って調律せよ。

暇ある毎に5分間でも3分間でも利用して、眼をつぶり、

「自分は神と一体である。神は愛であるから、自分は常に神の愛に護られている」

と暫時思念することは、心の調律に大変よい。

           <感謝合掌 平成29年1月17日 頓首再拝>

《神にのみ頼れ》 - 伝統

2017/01/29 (Sun) 03:10:56


         *「光明法語」(1月29日)より

吾はもはや吾自身に頼らないのである。
凡(あら)ゆる条件にも境遇にも頼らないのである。
吾は思念の力にも又祈りの力にも頼らないのである。

吾はただ神にのみ頼るのである。
私が祈るのは祈りに頼るためではない。
神に頼る言葉にすぎないのである。

だからその祈りの言葉が如何にまずくともそんなことは問題ではないのである。
誠を以って祈れば神は必ずその祈りに答え給う。
神は求むるに先だちですでになくてはならぬものを知り給う。

唯われは神を愛するが故に、神の名をよばずにはおれないのである。

           <感謝合掌 平成29年1月29日 頓首再拝>

《神を招ぶことを忘れてはならない》 - 伝統

2017/04/23 (Sun) 04:10:52


          *『生長の家』(昭和41年12月8日の法語)より

   常に神の智慧の導きを受けよ。

   何事を始めるに当っても、「自分の力で念じたら顕れるのだ」
   と自力一辺倒で念じたのでは、自力に限りがあるから、
   力の足らぬことがあり、
   折角、念ずる言葉が実現しないことがあるのである。

   それ故に何事を祈るにも、念ずるにも
   神を招ぶことを忘れてはならないのである。

   〃生長の家大神〃 又は 〃住吉大神〃 と
   神名をハッキリ呼ぶ方がよいのである。 

   〃生〃は〃時間〃をあらわす縦の線であり、
   〃長〃は〃空間〃をあらわす横の線である。

   家は時間・空間十字交叉の現実宇宙をあらわすのであって、
   生長の家大神とは宇宙の大神であり、
   黙示録第一章にあらわれたる 〃永遠のキリスト〃 である。

   神名を称えてから念ずるならば、
   それは〃自力の祈り〃とならないで、
   神と倶に祈ることになるのであるから、
   その祈りの実現力は非常に強力なのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

           <感謝合掌 平成29年4月23日 頓首再拝>

神へ手紙を書く - 伝統

2017/05/28 (Sun) 04:47:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月28日)」より

われわれの魂の底なる希望を実現する祈りを、紙に書いて神に訴えるようにする時、
その祈りの実現性がいっそう多くなるということは
グレン・クラーク教授の著書の中にも書かれている事実である。

生長の家の信徒の中にも欲する事物を紙に書いて壁面に掲げ置き、常にそれを眺めて、
そのすでに成就せる有様を心に描いて感謝する気持を起こしているとき、
その希望が成就せる実例はずいぶんたくさんあるのである。

ある婦人は一大難関に出会(でくわ)して、
人間力ではどうしてよいかわからない時、

突如として神に頼もうという感じが湧き起こり、
神に対して手紙を書きはじめたのである。

「神よ、あなたは無限智であります。無限愛であります。無限力量であります。
あなたは無限の愛をもってわたしを導いて下さいます。あなたは無限の智慧をもって
わたしがこの難関を切り抜ける道を教えて下さいます・・・」

それから具体的な問題をこまごまとその神様に送る手紙の中に書きはじめたのである。

すると、自分一人でどうしようかと思いまどう心の騒ぎがしだいに落ちついてきて、
神とともに、その事件について対処する道を考えているような安らかな気持に
なってきたのである。

そのうちに事件の全貌がハッキリしてきた。
何が問題の重要な部分であるか、何が問題とするに足りない部分であるかが
ハッキリしてきたのである。

その神への手紙を書いているうちにはまだ完全にその問題は解決せず、
解決の緒(いとぐち)が見えていただけであったが、
その3日後にはすべてのことが順調に進行して万事解決したのである。

病気の時に神にこれに類する手紙を書いて、
急に病気が快方に向かった実例があるのである。

神に手紙を書くことによるこれらの功徳が起こる原因は、
それを書いているうちに心が完全に神に向かうことになるからである。

そして「吾れ神と偕(とも)に在り」という自覚が起こってき、
そのために心の平和が回復し、神の叡智に波長が合うようになってき、
したがっていっさいの問題が順調に解決するようになるのである。

ただ、祈っているだけでもむろん効果があるのであるが、
15分間以上も雑念なしに完全に神に心を振り向けて祈ることは
やや困難な人が多いのである。

しかし手紙を書くとなれば、30分はおろか1時間以上も
神に対して心を集中することができる。
そのために神との一体感がいっそう起こりやすく、
効果もそれに従って多いのである。

            <感謝合掌 平成29年5月28日 頓首再拝>

全身全霊をもって神に呼びかけよ - 伝統

2017/06/09 (Fri) 03:34:13


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月9日)より

汝が困難に直面するとき常に神に振り向けよ。
汝が人間力を絶したる複雑困難なる問題に面した時、常に神に振り向くべし。
神はすべての解決である。

「神様」と呼びかけよ、全身全霊をもって神に呼びかけよ。
その間神の全能を信ずべし。
少々の疑いも、恐怖も持つべからず。疑いと恐怖とは神の救いの波に対する絶縁体である。

完全なる信のあるところ恐怖はないのである。
恐怖なくして神に振り向き、「神はすべての方法と手段とを有(も)ち給う。
如何なる複雑な問題も、すべて調和した姿に解決する方法を知り給う」と念ぜよ。

        <感謝合掌 平成29年6月9日 頓首再拝>

神を招き入れる扉 - 伝統

2017/06/28 (Wed) 04:09:40


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月28日)より

神は開いた心の扉からのみ入り来たり給うのである。

心を開いて待つことが神を招く方法である。

明るい心、歓喜の心、愛の心、智慧ある悟り、すべて神を招き入れる扉である。

           <感謝合掌 平成29年6月28日 頓首再拝>

《神を常に憶念すること》 - 伝統

2017/07/12 (Wed) 03:19:17


         *『 生長の家 』(昭和24年12月21日の法語)より

   「 衆生、ほとけを憶念すれば、ほとけ衆生を憶念したまう 」 と
   仏典にはある。

   しかし衆生がほとけを憶念しなくとも、
   仏は衆生を常に憶念したまうているのである。

   しかし衆生の心がほとけの方へ振向かねば、
   仏の心と衆生の心と波長が合わず、それを感ずることが出来ず、
   それを具体化することが出来ないのである。

   されば常に 「 南無阿弥陀仏 」 ととなえ仏をおもい出すべきである。

   或(あるい)は常に 「 生長の家の大神 」 ととなえ、
   神を憶念すべきである。


   「 生長の家の大神 」 と申したとて別に一宗一派の神ではない。

   「 生長の家 」 とは大宇宙のことである。
   大宇宙の神と云う意味である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

        <感謝合掌 平成29年7月12日 頓首再拝>

神を呼ぶことの重大さ - 伝統

2017/07/26 (Wed) 04:12:14


        *『神とともに生きる真理365章』(P95~96)より

名を呼ぶということが如何に重大なことであるかということは、
仏説無量寿経巻上にある法蔵菩薩の四十八願の中の第十七願に、

「設(たと)い我仏(ぶつ)を得んに、十方世界の無量の諸仏悉く
咨嗟(ししゃ)して我が名を称せずば、正覚を取らじ」

とあるのでも明らかであるのである。
咨嗟(ししゃ)とは声に出して讃嘆称揚することである。

「我仏を得んに・・・・」というのは、
法蔵菩薩が仏陀の悟りをひらいて阿弥陀如来になったときには

「十方世界のすべての仏さまが阿弥陀如来を讃嘆して
その名を呼ぶのでなければ、私は阿弥陀如来にはならない」

という願を立てて如来になったというのであるから、
如何に如来がその名を呼ばれることを悦び給うかがわかるのである。

ここに称名念仏の重大さ ── 
神の御名を称えることの必要さが暗示されているのである。

観音経にも「一心称名観世音菩薩・・・・」のとき、
無量の功徳が生ずることが録(しる)されているのである。

        <感謝合掌 平成29年7月26日 頓首再拝>

神の名を呼んで人類意識を超越する - 伝統

2017/08/11 (Fri) 03:57:55

       *『神とともに生きる生活365章』(P94~95)より

人類意識の”老・病・死”があるという潜在意識を超越しようと思っても、
個人の努力では、なかなかそれを完全に超越しがたいものなのである。

そこで神の力を喚び出して来る必要があるのである。
それには神の名を唱えるということによって、
神力を呼び出して来るのである。

聖書の「ヨハネ伝」第14章13節には
「汝らが我が名によりて願うことは、我みな之を為(な)さん」とあり、

また第16章23節には
「誠にまことに汝らに告ぐ、汝等のすべて父に求むる物をば、
我が名によりて賜(たま)うべし。なんじら今までは何をも我が名によりて
求めたることなし。求めよ、然(さ)らば受けん、
而(しか)して汝らの喜悦(よろこび)みたさるべし」

とあるのであって、”名”というものが如何に神力を喚び出す力があるものかと
いうことがこれによって明らかなのである。

生長の家は万教帰一であるから、キリスト教の人が生長の家に改宗して
キリストの名を称えなくなる必要はないのである。

生長の家は、ユダヤ人で33歳で死んだ人間キリストではなく、
「われ往(ゆ)きて《汝ら》に来るなり」(「ヨハネ伝」第14章28節)と仰せられた
汝ら人類の全てに宿る複数のキリスト ―― 換言すれば“普遍のキリスト” ―― 
“永遠のキリスト”の名を唱えるのである。

この“永遠のキリスト”が「黙示録」第一章に白髪久遠の姿をもって
あらわれたる住吉大神であらせられるのである。

“一神即多神”“多神即一神”であり、“一仏一切仏”であるのである。

キリスト教の人はキリストの名を呼ぶべし、
仏教の人は各々の宗旨に従って仏教の本尊仏の名を呼ぶべし、
神道の人は、天照大神・水火土(しおつち)の大神・住吉大神と呼ぶべし。

これが観世音菩薩成就の御教えであるのである。

           <感謝合掌 平成29年8月11日 頓首再拝>

如来の名号の中に融け込む - 伝統

2017/08/29 (Tue) 04:49:52


         *「光明道中記」(8月29日)より抜粋

【信じないのが最大の罪である。(『生命の實相』第十巻)】

聖書の『ヨハネ伝』には

「その名を信ぜし者には神の子となる種を与えたまえり」

と書かれている。

名号は実相であり、如来の名号の中に融け込むことは、
如来の実相の中に融け込むことである。

理窟があっては融け込むことは出来ない。
理窟を抜き、わたくしの考計(かんがえ)を脱(のが)れさって
ひたすら名号の中に融け込むことを要するのである。

           <感謝合掌 平成29年8月29日 頓首再拝>

強者とは神を随時に呼びうる人である。 - 伝統

2017/09/25 (Mon) 03:25:57


        *「生命の實相」第23巻常楽篇(P10~11)より

絶望、失意、落胆の極みにおいても、自己よりいっそう偉大なるもの ――
「なんらかの形における神」を呼び続けることのできる者は、
やがてはその困難を切り開き、その絶望から起き上がることができる人です。

神を呼ぶことができない人が絶望したときは、それこそ本当に絶望です。
なぜならその人は「いっそう大なる力」より汲むことを知らないからです。

いかに平常強き者も、自己に限られたる力以上の力に
汲むことを知らない人は弱き人であります。


しかし、われわれは失意の時、危急の時、困難の時ばかりに神を呼ぶのでは、
それは危急を逃れるに役立つばかりで、常に偉大に生長する道ではありません。

常に偉大に生長するためには、常にわれらは神を呼ばねばなりません。
その人がいかに大きく生長するかは、その人の神を呼ぶ度合いで定まるのです。

神を呼ぶのも「外にある神」を呼ぶのでは、それはかえって
依頼心を増長せしめることになります。
それは偶像崇拝になります。

神を呼ぶのは常に《自分》に向かって呼びかけねばなりません。
自分の内に「無限者(かみ)」がある。その無限者、――
無限能力者、全能者に対(むか)って呼びかけねばなりません。

これに呼びかける時、天地に満つる無限の親様の力が自己自身の内に
出口を開いて、滾々(こんこん)と、必要な力を自分自身の内に
湧き出させてくれるのであります。

           <感謝合掌 平成29年9月25日 頓首再拝>

静かに坐して、神を呼ぶがよい - 伝統

2017/11/17 (Fri) 04:42:49


         *『愛はかくして完成す』(P281~282) より

どんな悩みがあっても、静かに坐して、神を呼ぶがよい。

神はあなたの周囲に、あなたの内に、そしてあなたの前にも後にも、
右にも左にもいましてあなたを護っていたまい、
あなたに必要な事を囁きかけていられるのです。

今あなたは何を為すべきか、何処に何を求むべきかを
神はあなたに静かに語り給うているのです。

その《み声》が聞える形であらわれて来る人もありますが、
み声が聴覚に聞えなくともよろしい。

祈ってさえおれば、自己の自然の動きのうちに、
また人々の自然の動きのうちに神の導きがあらわれます。

心配することはありません。

自然に起こる人々の動きに対して感謝して素直にそれを受取るがよろしい。

自然に問題は好転することになるのであります。

           <感謝合掌 平成29年11月17日 頓首再拝>

神の名を呼ぶことの重大さ - 伝統

2017/12/07 (Thu) 04:37:55


          *『生長の家』(昭和42年11月号)より

人類意識の“老・病・死”があるという潜在意識を超越しようと思っても、
個人の努力では、なかなかそれを完全に超越しがたいものなのである。 

そこで神の力を喚び出して来る必要があるのである。 
それには神の名を唱えるということによって、神力を呼び出して来るのである。

聖書のヨハネ伝第14章13節には 
「汝らが我が名によりて願うことは我これをなすべし」 とあり、

またその第16章23節には 
「誠にまことに汝らに告ぐ、汝等のすべて父に求むる物をば、我が名によりて賜うべし。 
なんじら今までは何をも我が名によりて求めたることなし。 求めよ。 然らば受けん、
而して汝らの喜悦みたさるべし」 

とあるのであって “名” というものが
如何に神力を喚び出す力があるものかということがこれによって明かなのである。

 
生長の家は萬教帰一であるから、
キリスト教の人が生長の家に改宗してキリストの名を称えなくなる必要はないのである。 

生長の家は、ユダヤ人で33歳で死んだ人間キリストではなく、
「われ行きて汝らに来るなり」 〈ヨハネ伝第14章28節〉 で仰せられた
汝ら人類の全てに宿る複数のキリスト  ―  換言すれば“普遍のキリスト” ― 
“永遠のキリスト”の名を唱えるのである。

この “永遠のキリスト” が黙示録第1章に白髪久遠の姿をもってあらわれたる
住吉大神であらせられるのである。 
”一神即多神” “多神即一神”であり、“一仏一切仏” であるのである。

 
キリスト教の人はキリストの名を呼ぶべし、
仏教の人は各々の宗旨に従って仏教の本尊仏の名を呼ぶべし、
神道の人は、天照大御神・水火土の大神・住吉大神と呼ぶべし。

これが 観世音普門成就 の御教えであるのである。

名を呼ぶということが如何に重大なことであるかということは、
仏説無量寿経巻上にある法蔵菩薩の48願の中の第17願に、 

「設い我仏を得んに、十方世界の無量の諸仏悉く咨嗟して
我が名を称せずば、正覚を取らじ」 

とあるので明かであるのである。

咨嗟とは声に出して讃嘆賞揚することである。 
「我仏を得んに ・・・ 」 というのは、法蔵菩薩が仏陀の悟りをひらいて
阿弥陀如来になったときには 

「十方世界のすべての仏さまが阿弥陀如来を讃嘆してその名を呼ぶのでなければ、
私は阿弥陀如来にはならない」 という願を立てて如来になったというのであるから、
如何に如来がその名を呼ばれることを悦び給うかがわかるのである。

ここに称名念仏の重大さ
  ―  神の御名を称えることの必要さが暗示されているのである。 

観音経にも 「一心称名観世音菩薩 ・・・ 」このとき、
無量の功徳が生ずることが録されているのである。

  (http://blog.goo.ne.jp/vannon32/e/8f582f65ee3910f33be59a9e5ceccd61

           <感謝合掌 平成29年12月7日 頓首再拝>

《心を神に振り向ける》 - 伝統

2018/01/13 (Sat) 04:23:14


      *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P281~282)より

若し病があるならば、常に神に心を振り向けよ。
神は常にあなたの全身に新しき活力を流れ入らしめ給いつつあるのである。

その事を憶(おも)い出して念ぜよ。
憶い出して念ずることは、それに対して波長を合わせることになるのである。

人間を物質として取り扱う健康の法則は、時として「知恵の樹の果」を食して
“エデンの楽園”を追い出されたアダムのように、健康の世界から人間を追い出す
ことになるのである。

不消化な食物を食べたから胃が痛むとか、不眠が続くから頭痛がするとか言う人がある
けれども、物質としての胃も、頭脳も、それが単なる物質である限りに於て、
物質は家具什器と同じようなものであるから、それが痛いと云う感覚を起こす筈は
ないのである。


「痛む」と云うのは心が痛むのである。
“心が痛む”限りに於て、不消化とか不眠とか云う肉体的物質的原因そのものが
「痛み」の原因ではなくて、不消化とか不眠とか云うものに引っかかっていて
恐怖する心が「痛む」のである。

だから寧ろ病気の原因と認められるようなものを心で認めない方が、
心が《それ》に引っかかって痛むことなく痛みが早く治るのである。

病気の物資的原因を探(たず)ねるひまがあったら、心を神に振り向けよ、
そして神から新しき活力が間断なく流れ入るつつあると云うことを心に念ぜよ。

           <感謝合掌 平成30年1月13日 頓首再拝>

《内在の神は呼びかけを待ち給う》 - 伝統

2018/01/28 (Sun) 04:15:25

    *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P309~310) より

神は常にあなたと偕(とも)にあるのである。
なぜなら、あなたの「内在の生命(せいめい)」は神であるからである。

併し、「内在の神」はそれに対して呼びかけないとき、ただ黙々として
”生理的いとなみ”をつづけているだけで、その他(た)のことを
示そうとはしないのである。

何故(なぜ)なら「内在の神」は専制君主ではなく、圧政的に自己主張を
したまうことはなく、肉体の自我が、内部に対して呼びかけるのを
唯(ただ)待っていられるだけであるからである。


しかし若し私たちが、善なる目的をもって「内在の神」に呼びかけ、
その神の教えたまうところに”唯(ただ)まかす”ときには、
神は必ず道を示したまうのである。

但(ただ)し神に呼びかけるには必ず、「善なる目的」のために
でなければならない。

利己的目的のために、神に呼びかけることがあれば、利己的目的のために
その辺を浮浪しているつまらない幽霊が「神」の仮面をかぶって来て
あなたを迷わすばかりである。

           <感謝合掌 平成30年1月28日 頓首再拝>

《神にのみ頼れ》 - 伝統

2018/01/29 (Mon) 03:51:04


       *「光明法語」(1月29日)より

吾はもはや吾自身に頼らないのである。
凡(あら)ゆる条件にも境遇にも頼らないのである。
吾は思念の力にも又祈りの力にも頼らないのである。

吾はただ神にのみ頼るのである。
私が祈るのは祈りに頼るためではない。
神に頼る言葉にすぎないのである。

だからその祈りの言葉が如何にまずくともそんなことは問題ではないのである。
誠を以って祈れば神は必ずその祈りに答え給う。
神は求むるに先だちですでになくてはならぬものを知り給う。

唯われは神を愛するが故に、神の名をよばずにはおれないのである。

           <感謝合掌 平成30年1月29日 頓首再拝>

神に波長を合わす - 伝統

2018/02/08 (Thu) 04:00:45


           *「光明法語」(2月8日《神が此処にいる》)より

神が此処にいる。
そしてそれは全能であり、吾々の父であり、永遠に吾々の味方である。

この事を銘記せよ。

人間に能わぬことも神は成し給うのである。
太陽を創造し、星を彼方にちりばめ、無数の空の鳥を飢えることなく養いたもう
神が此処にい給うのである。

何も恐るることはない。
神を思い出さなかったことを恐れよ。

神を思い出すことは神が流れ入り給う通路を作ることになるのである。
衆生、ほとけを憶念すれば、佛、衆生を憶念したまう。

神は吾らを忘れ給わないが、こちらが波長を合わす事が必要である。

           <感謝合掌 平成30年2月8日 頓首再拝>

《神を呼ぶ習慣》 - 伝統

2018/02/24 (Sat) 04:08:07


      *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P17~18) より

問題がない時にも常に神を呼べ。
問題がある時にも常に神を呼べ。

神は呼ばなくとも常にあなたを取り巻き、あなたの内にあり、
あなたを導こうとしていられるのだけれども、あなたが、
神を呼ぶ習慣をつけていないと、イザというとき神の声がきこえないのである。

神は霊であるから、その御声は”霊の声”であるから、
肉の耳ではきこえないのは当然である。

常に神想観して、神を呼び神の霊的囁きを直観によって聞くことができる
練習を積んでおくことが必要なのである。

何事があっても現象は単に「結果」にすぎないのである。

「結果」ばかりをいくらいじくり廻しても「原因」を解決しておかなければ、
結果の処理によって、一時的に現象が解決しても、また「原因」の
自然的順序として同じような結果があらわれて来るようになるのである。

その「原因」解決の道は、
心を神に振向けて、神の導きにより心を解決するほかなないのである。

           <感謝合掌 平成30年2月24日 頓首再拝>

神を憶(おも)い出すと、神の護りがあらわれる - 伝統

2018/03/12 (Mon) 04:56:46


     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇( P55~56) より

《心のテレビ 》 

あなたはどんな職業につこうとも、何処の任地に赴(おもむ)こうとも、
また誰と結婚することになろうとも、取越し苦労も心配も要らぬのである。

何故(なぜ)なら何処へあなたが行こうとも其処はやはり神の領土であり、
神の在(い)まさないところはなく、常に神が護っていられるからである。

汽車にのっても、自動車にのっても、船で旅しても、飛行機で旅をしても、
常に神はあなたと共にあるのである。

それを自覚するがよい。
それを憶(おも)い出すがよい。

神を自覚すること、神を憶(おも)い出すことは、
”心のテレビ”のチャンネルを神の方へ振り向けることになるのである。
其処に神の護りがあらわれ、何時、何処へ行っても安全なのである。

           <感謝合掌 平成30年3月12日 頓首再拝>

自己の無力を痛感する時こそ神を呼べ - 伝統

2018/03/30 (Fri) 03:27:29

       *「あなたは自分で治せる」(P172~173)より

この世の中に最も強力な善なる力は神の力であります。

神を瞑想すること、神に祈ることにもまさって、
潜在意識中の自己破壊性を無力になし得る方法はありません。

神を瞑想し、神に祈ることは神との一体感を増加するからであります。

あなたが自己の無力を痛感する時こそ、振り返って神を呼ぶべき時であります。

まだ自分に何らかの力があると力んでいる限りは、
神への全面的廻向と云うことは不可能になるのです。

併し、如何にその人が能力すぐれたる人であろうと、
その人の地力に頼っている限りにおいて、
何か「足りないもの」を軈(やが)て感ずる時が来るに違いないのであります。

それは、何故かと云うと、神との結合をみずから断ち切って
彷徨(さまよ)いあるいているからであります。

           <感謝合掌 平成30年3月30日 頓首再拝>

《「スミヨシノオホミカミ」》 - 伝統

2018/04/18 (Wed) 03:37:13


    *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第3篇( P76~77) より

創造の神は悦びの神、生みの神、龍宮の神、無限供給の神、住吉世界の住吉の神、
極楽世界の無量寿仏、それに連絡するとき不老となる神、浦島太郎の神である。

神想観によって此の神との一体感を得ることが必要である。
此の神と一体となる時如何なる不幸も解消して幸福となること恰(あたか)も、
龍宮海に伴われた浦島太郎の如くである。


常に「スミヨシノオホミカミ」と念じて、この神と一体となり、
「住吉の世界」を現象の世界に持ち来たして、
此処を住吉の極楽世界と化すべきである。

「スミヨシノオホミカミ」と念ずるとき、あなた全存在に、
生命(せいめい)を新生させ賦活する新しき神のいのち流れ入(い)って
あなたの全存在が新しく健康に甦る、無理な緊張がなくなり、

心は明るさにやすらぎ、平和と安心感とが
あなたの全存在に行(ゆ)き亘(わた)る。

新しき智慧はインスピレーションとなって湧き出で、
行き詰まっていた問題は解決の道を見出すのである。

           <感謝合掌 平成30年4月18日 頓首再拝>

自分の内にある神様を呼べばいい - 伝統

2018/05/11 (Fri) 03:53:35


        *『神ひとに語り給う』
          (「新天新地の神示」講義篇)(P60~63)より


どうしたら神の智慧を受けて心の眼の蔽いが除(と)れるか、
神の無限の生命(せいめい)から汲むことができるかと言いますと、
神想観をすることが大切であるのです。

  ”吾に汲むものは常に新しき力に涸れないであろう”

と神はお示しになっておりますが、

此の神想観をする事が、神から無限の智慧を受け、
生命(いのち)の流れを汲むことになるので
「吾れに汲む」と仰せられているその「吾れ」というのは、
神のことでありますが、

神は超越内在神でありますから、同時に、「自己に宿るキリスト」であります。
時には「久遠のキリスト」という白髪白髯(ぜん)の久遠古仏の姿に
現れたりいたします。

この道場の入口の上に服部先生がお創作(つく)りになった彫像のような
―― まああれに肖(に)た像(すがた)をもって信徒の霊眼に
現れて見える事もあるのであって、このような姿は一人が見ただけではなく
大勢が同時同所で見たということもあるから、
決して単なる主観的幻覚ではないのであります。

しかしながら、こうして現れて見える神様というものは、
一つの化身(仮りに変化してあらわれられた身体)であって、
実相身ではないのであります。
 
法身そのもの真理そのものは肉眼に見えない。

その代りどこにでも充ち満ちておられて、皆さんの内にも
仏性、神性として宿っておられる訳なのであります。

だから皆さんのうちにキリストが宿っている。
これをキリスト教的に言えば、「内在のキリスト」である。

しかしそれに気が附かなかったり、
気が附いていても呼ばなかったら駄目なのであります。

呼ぶことが必要であります。

それが神想観です。

尤も簡単な神想観は、『人生読本』に書いてありますところの、

  「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」

という言葉を眼をつむって、
精神を統一しながらジーッと念ずるがよいのです。

  「我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」

と何遍も繰り返すのであります。

これを幼い生徒さんが教えてもらって、学校の試験問題が出たときに、
どうしてもその回答が思い出せない時に、ソーッと合掌して、

  ”我が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ”と、

5、6回心のうちで一心にとなえまして、
忘れていた回答を思い出したというような体験を
発表されたことも随分あります。


横浜で講習会があったときには、それは子供ではなかったけれども、
あれは横浜鶴見の日本鋼管に勤めていた大人の工員の方でありましたが、
それは戦争中のことでした。

何かクレーンの様なものを以って、
十数人かかってある鉄製品を引き揚げなければ動かないという様な
重い物体を動かす作業をしておったのですけれども、
そんな事じゃなかなか思うように能率が上がらない。

もっと簡単に少人数で引揚げる方法はなかろうか、とその人は考えられまして、
その時に、

  ”我(わ)が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ”

と心のうちで繰り返しながら、工場の隅で一心に祈られたのでした。

するとハッとインスピレーションが来たのでした。
その人の頭にいい考えが浮かんだのです。

一種の発明みたいなものが浮かんだのですが、それを上役の人に上申すると、
それが採用されまして、今まで十数人でなければ動かなかった重量品が、
一人で簡単に動かす事が出来る様になったというので、
大いに表彰されたという体験を発表されたことがありました。

これを、

  ”吾れを呼ぶ者は無限の力が内部から湧き出でる”

と神示に仰せられている。

その「吾れを呼ぶ」といっても、遠い処にいる神様じゃないのであって、

「吾が魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」

と自分に内在したまう神を呼べば、このような力が湧き出て来るのです。

遠くにいる神様を呼ぶのなら難しいが、
自分の内にある神様を呼べばいいのですから、
そんな難しい事はないのです。

招神歌(かみよびうた)と言いますから、
どこか天にでもいらっしゃる神様を呼んでくるのかと思っている人もあるけれども、
自分の中(うち)から内在の神を呼び出す歌が、招神歌であります。

だから、

  ”吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神(みおや)の生命”

というように称(とな)えてですね、
自分の生きているのは自分の力で生きているのではない、
ここに宇宙の大神、祖神の神がいるんだという事を自覚する歌を念ずることが、
神を招(よ)ぶことになっているのです。

また、

  ”吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能(ちから)”

と唱えまして、祖神(みおやがみ)の生命(いのち)がここに宿り、
祖神の力がここに宿っているという事を自覚する。

その自覚の程度に従って、
自己の中(うち)より無限力が出て来るようになるのであります。

だからこれが「新たに生れる」ということであり、
新天新地を見出すことになるのであります。

するとそこに地上天国は実現し、
常に一人でいても寂しいという事はない訳であります。
何時も神様と二人であり、いつも神様と手を繋いでいるわけであります。

肉体同士、手を繋いでいたら手が離れる事があるかもしれぬけれども、
神様が私たちの魂の中(なか)に宿っていられる、

すなわち ”魂の底の底なる神” と一体なのですから、
これはも離れようがないのであります。

唯(ただ)私たちが神を忘れていると、
心の世界では神を忘れたことになりますから、

常に思い出して呼ぶことが必要であります。

           <感謝合掌 平成30年5月11日 頓首再拝>

常に神を、仏を、憶う - 伝統

2018/08/04 (Sat) 04:29:26


      *「光明道中記」(8月4日 常に神を憶う日)より抜粋

神は無限の智慧、無限の愛、無限の生命(いのち)であり、世の終わりまで
”常に”吾等と偕に在り、吾等を愛し、吾等を護りつづけていられるのである。

此の不思議なる神または仏の護りを受けようと思う者は
常に神または仏を憶(おも)うことである。

仏典に「衆生仏を憶念すれば、仏衆生を憶念す」とある。
神を、仏を、憶おうとするには常にそれを思い起こさしめる書物を携帯して
少時間を利用してそれを読むことである。

       <感謝合掌 平成30年8月4日 頓首再拝>

本当の「南無阿弥陀仏」称名の意義 - 伝統

2018/08/29 (Wed) 04:04:41


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月29日)より

「吾れに対(むか)いて主よ主よと言う者必ずしも天国に入るにあらず」
とイエスは言った。

蓄音機のレコードのように「南無阿弥陀仏」と機械的に称えるだけでは救われぬ。
阿弥陀仏に南無(帰命)しなければならぬのである。

「阿弥陀様、阿弥陀様、阿弥陀仏様、
あなたの無量寿とわたしの”いのち”とは一体です。

わたしはあなたの無量寿の”いのち”の中に融け込んでいるのです。
今本当に融け込んでいるのです! だからわたしのいのちも無量寿なのです! 」
という意味が本当に「南無阿弥陀仏」の称名の意義である。

心に深き意味の伴わない念仏は、唇念仏であり、蓄音機念仏であり、
唇だけが、蓄音機だけが極楽浄土へ行くであろう。

        <感謝合掌 平成30年8月29日 頓首再拝>

如来の名号の中に融け込む - 伝統

2018/08/30 (Thu) 03:07:11


   *「光明道中記」(8月29日 既に救われている日)より抜粋

【信じないのが最大の罪である。(『生命の實相』第十巻)】

聖書の『ヨハネ伝』には

「その名を信ぜし者には神の子となる種を与えたまえり」

と書かれている。

名号は実相であり、如来の名号の中に融け込むことは、
如来の実相の中に融け込むことである。

理窟があっては融け込むことは出来ない。
理窟を抜き、わたくしの考計(かんがえ)を脱(のが)れさって
ひたすら名号の中に融け込むことを要するのである。

念仏を称えたら何故救われるのか、そんな思いは雑念妄想である。
だから「念仏は無礙の一道なり」また「念仏は無礙を以て義とす」
と仰せられたのである。

       <感謝合掌 平成30年8月30日 頓首再拝>

《吾ら神を憶念すれば、神吾らを導き給う》 - 伝統

2018/10/17 (Wed) 04:43:45


         *『人生の秘訣365章』第8篇(P225~226) より

如何なる大問題にあなたが直面していようとも、
その問題をあなたが解決し得ないということは決してないのである。
常にあなたと偕にある偉大なる指導者があるのである。

その指導者はあなたを理解し、あなたの直面している問題をよく理解し、
その問題を解決する聡明な叡智を備えているのである。

その指導者とはあなたの内に宿り給う神であるのである。
その内在の神を思い出すがよい。
佛典に「衆生、佛を憶念すれば佛、衆生を憶念し給う」と示されているのである。

「自己に宿る神」も私たちが憶念(憶い出して念ずる)することがなければ、
別に強いて吾々の自由行動に干渉的導きを加え給うこともないのであるが、

憶念するとき、眠れる指導者が目を覚まして正しい指導を与えて下さる如く、
神からのインスピレーションを受取ることができるのである。

       <感謝合掌 平成30年10月17日 頓首再拝>

《神は常に吾らを憶念し給う》 - 伝統

2018/10/30 (Tue) 03:19:52


       *『人生の秘訣365章』第8篇(P226~227) より

吾ら人間が、神を憶念しなければ、神は吾らの自発的行動に干渉し給わない
というのは、神は人間に完全なる自由を与え給うて、その自主的体験を通して、
自己啓発が行われ、自己訓練を通して、自己の力によって魂が向上して行くことを
神が願っていられるからである。

神を「眠れる指導者」にたとえたのは、一種の比喩であって、
神は決して眠ってはいられないのであって
常に我らのインスピレーションとなる智慧を放送していられるのである。

吾々が「神を憶念する」ということは、
その神の放送に対してチャンネルを合わし、波長を合わすことである。

神の放送があっても、吾々がチャンネルを合わし波長を合わさない限りは、
その放送局は沈黙を守っているので、恰も眠っているのと同じ結果になる
という意味である。

しかし本当は神の放送局は沈黙しているのではなく、
吾々自身がその放送局を受取る状態になっていないだけのことである。

神想観や、心を籠めての祈りは、
神からの放送を受取り得る状態に、自分自身をならしめるのである。

神は常に衆生を憶念し給う。

人間が神を憶念しないだけである。

       <感謝合掌 平成30年10月30日 頓首再拝>

神を招ぶことを忘れてはならない - 伝統

2018/12/21 (Fri) 04:43:33


        *『生長の家』(昭和41年12月8日の法語)より

あなたの内在する〃天の父〃について

 
常に神の智慧の導きを受けよ。
何事を始めるに当っても、「自分の力で念じたら顕れるのだ」と
自力一辺倒で念じたのでは、自力に限りがあるから、力の足らぬことがあり、
折角、念ずる言葉が実現しないことがあるのである。

それ故に何事を祈るにも、念ずるにも神を招ぶことを忘れてはならないのである。

〃生長の家大神〃 又は 〃住吉大神〃 と神名をハッキリ呼ぶ方がよいのである。 

〃生〃は〃時間〃をあらわす縦の線であり、〃長〃は〃空間〃をあらわす横の線である。
家は時間・空間十字交叉の現実宇宙をあらわすのであって、
生長の家大神とは宇宙の大神であり、
黙示録第一章にあらわれたる 〃永遠のキリスト〃 である。

神名を称えてから念ずるならば、それは〃自力の祈り〃とならないで、
神と倶に祈ることになるのであるから、その祈りの実現力は非常に強力なのである。


キリストとは一人の人間の固有名詞ではないのである。
それは 〃宇宙本源の救世主〃 であり、
イエスに宿っていたところの 〃天の父〃 であり、

イエスが「我れみづからにては何事をも為し得ず、
天の父われに宿して御業を成さしめ給ふなり」といったところの
〃天の父〃 である。

それは 〃天の父〃 であるから、イエスのような若い姿ではなく、
また瘠せさらぼうた繊弱な姿でもない。

それは白髪の老翁なる 〃父〃 の姿であり、
永遠に強健なる体躯のイメージをもって顕現せられるのである。

使徒ヨハネは小亜細亜のパトモス島に流謫せられているとき、
祈りのうちにその姿を見て、黙示録の第一章にその姿を描いたのである。

この永遠のキリスト 〈永遠の救いの本源者〉 は常にあなたの内にあって、
あなたを護り導いておられるのであるが、
ある特殊の問題についてお伺いするならば、特にそれについての導きがあるのである。

       <感謝合掌 平成30年12月21日 頓首再拝>

先ず、神によびかける - 伝統

2019/01/20 (Sun) 04:05:45


     *『 真理 』第2巻基礎編第2章(P45 神の波長に合わす方法)より

神の祝福の放送に波長を合わすには、神は 無限の愛だと信ずることです。
神は 我らを既に 宥(ゆる)していたまうと信ずることです。

神は無限の智慧であって、
必ず吾々を善き方(ほう)に導き給うと信ずることです。

神は無限の力であるから、如何(いか)なる難事(なんじ)と見える
ようなことでも、いと易(やす)きことだと信ずることです。

そして先ず、神によびかけるのです。
「よびかける」ことは、心の波長を兎も角も、
神の方へ振り向けることになるのであります。

「神は無限の愛であり、無限の智慧であり、すべての人間が調和して
幸福になるように導きたまう。神の智慧流れ入りてわが行く道を照らしたまう」

と神想観中に念じて、神想観の後(のち)に内からの催(もよお)しで、
神の導きたまうままに行動を開始するか、人間に呼びかけるかすることです。

           <感謝合掌 平成31年1月20日 頓首再拝>

神の名をよばずにはおれない - 伝統

2019/01/29 (Tue) 03:44:37


         *「光明法語」(1月29日《神にのみ頼れ》)より

吾はもはや吾自身に頼らないのである。
凡(あら)ゆる条件にも境遇にも頼らないのである。
吾は思念の力にも又祈りの力にも頼らないのである。

吾はただ神にのみ頼るのである。
私が祈るのは祈りに頼るためではない。
神に頼る言葉にすぎないのである。

だからその祈りの言葉が如何にまずくともそんなことは問題ではないのである。
誠を以って祈れば神は必ずその祈りに答え給う。
神は求むるに先だちですでになくてはならぬものを知り給う。

唯われは神を愛するが故に、神の名をよばずにはおれないのである。

           <感謝合掌 平成31年1月29日 頓首再拝>

神を思い出すこと - 伝統

2019/02/08 (Fri) 04:15:28


           *「光明法語」(2月8日《神が此処にいる》)より

神が此処にいる。
そしてそれは全能であり、吾々の父であり、永遠に吾々の味方である。

この事を銘記せよ。

人間に能わぬことも神は成し給うのである。
太陽を創造し、星を彼方にちりばめ、無数の空の鳥を飢えることなく養いたもう
神が此処にい給うのである。

何も恐るることはない。
神を思い出さなかったことを恐れよ。

神を思い出すことは神が流れ入り給う通路を作ることになるのである。
衆生、ほとけを憶念すれば、佛、衆生を憶念したまう。

神は吾らを忘れ給わないが、こちらが波長を合わす事が必要である。

           <感謝合掌 平成31年2月8日 頓首再拝>

「神よ」と言うだけでも神の救いは今此処にあらわれる - 伝統

2019/05/06 (Mon) 03:19:35


          *「眞理」第9巻生活篇第4章(P89) より

《神は常に護りたまう、唯(ただ)心の不導体を取り除くことが必要》

危急の事態が生じたときに、何と祈ってよいかわからないときにも、
吾々が神に振り向くならば、祈りの言葉は整わずとも、
ただ「神よ」と言うだけでも神の救いは今此処にあらわれるのである。

イザヤ書六十五章には

「かれら呼ばざるさきにわれこたへ、かれらが語りをへざるに我きかん」

と神は言っていられるのである。

神は吾らの祈りの言葉が終わってからでないと活動を開始し給わないように、
そんな動作の鈍い方(かた)だと考えるのは間違いである。

神は至る処にましまし、今此処にあり。
必要と同時に神の救いは現前するのである。

神は常にましますのであり、祈りによって懇請しなければ
働きたまわない方(かた)ではないが、祈りは吾々人間の心を神に振り向け、
吾々自身の「心の不導体」を取り去りスイッチを入れる働きをするのである。

ラジオ受信機はあり、既にラジオの放送がありとも
スイッチを入れることによってのみ聴取できると同じである。

            <感謝合掌 令和元年5月6日 頓首再拝>

神様へ手紙を書く - 伝統

2019/05/28 (Tue) 04:50:40

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月28日)」より

われわれの魂の底なる希望を実現する祈りを、紙に書いて神に訴えるようにする時、
その祈りの実現性がいっそう多くなるということはグレン・クラーク教授の著書の中にも
書かれている事実である。

生長の家の信徒の中にも欲する事物を紙に書いて壁面に掲げ置き、常にそれを眺めて、
そのすでに成就せる有様を心に描いて感謝する気持を起こしているとき、
その希望が成就せる実例はずいぶんたくさんあるのである。

ある婦人は一大難関に出会(でくわ)して、人間力ではどうしてよいかわからない時、
突如として神に頼もうという感じが湧き起こり、神に対して手紙を書きはじめたのである。

「神よ、あなたは無限智であります。無限愛であります。無限力量であります。
あなたは無限の愛をもってわたしを導いて下さいます。あなたは無限の智慧をもって
わたしがこの難関を切り抜ける道を教えて下さいます…」
それから具体的な問題をこまごまとその神様に送る手紙の中に書きはじめたのである。

すると、自分一人でどうしようかと思いまどう心の騒ぎがしだいに落ちついてきて、
神とともに、その事件について対処する道を考えているような安らかな気持になってきた
のである。

そのうちに事件の全貌がハッキリしてきた。
何が問題の重要な部分であるか、何が問題とするに足りない部分であるかが
ハッキリしてきたのである。

その神への手紙を書いているうちにはまだ完全にその問題は解決せず、
解決の緒(いとぐち)が見えていただけであったが、
その3日後にはすべてのことが順調に進行して万事解決したのである。

病気の時に神にこれに類する手紙を書いて、急に病気が快方に向かった実例があるのである。

神に手紙を書くことによるこれらの功徳が起こる原因は、
それを書いているうちに心が完全に神に向かうことになるからである。

そして「吾れ神と偕(とも)に在り」という自覚が起こってき、
そのために心の平和が回復し、神の叡智に波長が合うようになってき、
したがっていっさいの問題が順調に解決するようになるのである。

ただ、祈っているだけでもむろん効果があるのであるが、
15分間以上も雑念なしに完全に神に心を振り向けて祈ることはやや困難な人が多いのである。

しかし手紙を書くとなれば、30分はおろか1時間以上も神に対して心を集中することができる。
そのために神との一体感がいっそう起こりやすく、効果もそれに従って多いのである。

            <感謝合掌 令和元年5月28日 頓首再拝>

常に神を思うこと - 伝統

2019/06/01 (Sat) 04:00:42


        *「光明道中記」(6月【 自己は神の流出口 】)より

吾が力で何事でも成そうと思うものは躓く。
自分は神の流出口であると思わねばならぬ。

私は常に「谷神(こくしん)」を思い、自分は「谷神の流出口」
―― 谷口なることを考える。

「谷神」とは老子の中にある言葉で、谷は空しくして万物を生ずるが故に、
大生命のことを「谷神」と呼ぶのである。

どうぞ私自身が、大生命の出口であり得ますように。
神の智慧の流出口でありますように。

吾が祈りは常にこのほかには無いのである。


常に神を思うことは自分を豊富にする方法である。
神を忘れた日はどんなにか寂しいであろう。

神の無い人が厭世観に陥るのは無理もない。

神を忘れることは渾ての渾てを失うことである。

みずからを顧みよ、腹の立っているとき其の人は神を忘れている。
悲しんでいるとき其の人は神を忘れている。
呟いているとき其の人は神を忘れている。

他(ひと)を恨んでいるとき其の人は神を忘れている。
失意のいるとき其の人は神を忘れている。


愛深き神を想い出せ、
汝のすべての憤りも悲しみも、失意も、怨恨も
立所(たちどころ)に消えるであろう。

            <感謝合掌 令和元年6月1日 頓首再拝>

《神を常に憶念せよ》 - 伝統

2019/06/25 (Tue) 04:36:23


         *「眞理」第9巻生活篇第13章(P356~357) より

肉体の物質的力や、脳髄から出る精神的力などが迚(とて)も及ぶことが
できない不可知の不可思議の力が、「霊」的方面を開発することによって
現れて来るのである。

この霊的力を開発する道は、それに対して常に「精神」を振り向ける
ことによるのである。

「精神」が「霊」と「肉体」との媒介となるのである。
「衆生、仏を憶念すれば、仏衆生を憶念しまう」と云うのはそれである。

されば、心をもって、つとめて自己の生命(せいめい)の本質に喚(よ)びかけよ。
喚(よ)びかけなくとも常に神はその生命(せいめい)の流れをラジオの
電波のように、到るところに放送していられるのであるけれども、
波長が合わなければ、現実にには、それを受け取ることができないのである。

「喚(よ)びかけ」たり、「憶念する」ことは、大生命の本源に
波長を合わせることになるのである。

道を歩いている時にも神に呼びかけよ。
仕事に向かう時にも神に呼びかけよ。

            <感謝合掌 令和元年6月25日 頓首再拝>

《神を憶(おも)えば、神は人を憶う》 - 伝統

2019/07/18 (Thu) 04:35:20


         *『 生長の家 』(昭和25年5月19日)の法語)より

   如何なる現象の困難に面しようとも、
   それについて思い煩わないものは幸いなるかな。

   彼は神に祝福されたるものである。

   神を思い出せば
   神の光を受けるのである。

   すでに光は与えられているけれども
   思い出さないのは
   神に対して波長を合わさないのと同じことである。

   神が常に吾と共にあり、
   吾が内に宿って い給うこと
   ラジオの波が到(いた)る処(ところ)に存在するのと
   同じことである。

   然(しか)し波長を合わさなければ
   放送は きこえない。

   それと同じく神が常に内にとりまいているけれども、
   吾々が神を思いださない限りは
   その恵みを完全には受け取ることはできないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 令和元年7月18日 頓首再拝>

常に神または仏を憶(おも)うこと - 伝統

2019/08/04 (Sun) 04:36:54


        *「光明道中記」(8月4日《常に神を憶う日》)より抜粋

神は無限の智慧、無限の愛、無限の生命(いのち)であり、世の終わりまで
”常に”吾等と偕に在り、吾等を愛し、吾等を護りつづけていられるのである。

此の不思議なる神または仏の護りを受けようと思う者は
常に神または仏を憶(おも)うことである。

仏典に「衆生仏を憶念すれば、仏衆生を憶念す」とある。
神を、仏を、憶おうとするには常にそれを思い起こさしめる書物を携帯して
少時間を利用してそれを読むことである。

            <感謝合掌 令和元年8月4日 頓首再拝>

神の名を唱えることは、神に融け込むこと - 伝統

2019/08/29 (Thu) 04:42:32


   *「光明道中記」(8月29日《既に救われている日》)より

【信じないのが最大の罪である。(『生命の實相』第十巻)】

(歎異抄第十一条)

   一文不通のともがらの念仏まうすにあうて、
   なんぢは誓願不思議を信じて念仏まうすか、
   また名号不思議を信ずるかといひおどろかして、

   ふたつの不思議を子細をも分明にいひひらかずして、
   ひとの心をまどはすこと、この条返す返すも、
   心をとどめておもひわくべきことなり。


この一節は「誓名(せいみょう)別執(べつしゅう)の異形」と言って、
如来の誓願と名号とを別々に見立てて、
誓願こそ救いの本体であって、名号の不可思議力を否定せんとする
教派の人達に対する抗議である。

生長の家の説くように、声字即実相、名号即実相と云うことが
ハッキリ書かれているならば問題はないのである。

聖書の『ヨハネ伝』には

「その名を信ぜし者には神の子となる種を与えたまえり」と書かれている。

名号は実相であり、如来の名号の中に融け込むことは、
如来の実相の中に融け込むことである。

理窟があっては融け込むことは出来ない。
理窟を抜き、わたくしの考計(かんがえ)を脱(のが)れさって
ひたすら名号の中に融け込むことを要するのである。

念仏を称えたら何故救われるのか、そんな思いは雑念妄想である。
だから「念仏は無礙の一道なり」また「念仏は無礙を以て義とす」
と仰せられたのである。

       <感謝合掌 令和元年8月29日 頓首再拝>

「念仏」する故に、やがて弥陀の浄土に救いとられる - 伝統

2019/08/31 (Sat) 02:42:01


   *「光明道中記」(8月31日《不可思議光を見る日》)より

【成仏の種は「肉体の我」にはなく「仏性たる実相」にある。
                   (『生命の實相』第三巻)】

(歎異抄第十一条)

   つぎにみづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、
   往生のたすけさはり、二様(ふたよう)におもふは、
   誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、
   まうすところの念仏をも自行(じぎょう)になすなり。

   このひとは名号の不思議をもまた信ぜざるなり。
   信ぜざれども、辺地(へんじ)・懈慢(けまん)・疑城(ぎじょう)
   ・胎宮(たいぐう)にも往生して、果遂の願のゆへに、
   つひに報土に生ずるは名号不思議のちからなり。

   これすなはち、誓願不思議のゆへなれば、ただひとつなるべし。


肉体我のはからいにて「これが善」「これが悪」と区別し浄土に生まれる
原因に成るとか成らぬとか言い、善悪によって極楽浄土へまいらせて頂きようが
異(ちが)うと考えるのは如来の誓願の不可思議力をたのまずして、
自力で浄土に生まれる業(ごう)を積もうと思うものであって、

「念仏」するのでも「自行(じぎょう)」すなわち自分の”となえる力”で
救われると考えるのである。

こんな人は弥陀の名号”そのもの”の不可思議力を信じないのであるから、
直(ただち)に弥陀の浄土に転入する事はできないが、
浄土の辺地(ほとり)の懈慢(なまけ)の者、
疑いの者などの生まれる仮の浄土(自力の心の客観的世界)に生まれるが、

兎も角「念仏」する故に、やがて弥陀の浄土に救いとられるのは同じである。

       <感謝合掌 令和元年8月31日 頓首再拝>

常に神を呼びつつ進む - 伝統

2019/11/25 (Mon) 04:04:06


   *「光明道中記」(11月25日《一歩一歩撓(たゆ)まず歩く日》)より

【艱難の来る毎に吾らは生命の潜(かく)れていた力を発現する。
                        (『生命の實相』第四巻)】

私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。

痩我慢(やせがまん)か知らないが、
ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得るのだと思う。
然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。

大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。

人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、
事はなかなか成就するものではない。

神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。

功に誇る者が神智を失うのは、
山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。
功に誇ってはならない。

われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。

若し神がいなかったら、
また若し神が私を導いて下さらなかったら今日の私はないであろう。
今日の私があるのは、「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。

神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。

          <感謝合掌 令和元年11月25日 頓首再拝>

あなたの心の中に「神」を憶(おも)い出すようにせよ。 - 伝統

2019/12/11 (Wed) 04:46:33


      *「真理」第9巻生活篇(P269《暗黒を消す力》)より

自分を取り巻く面白からぬ暗黒な問題が続々起って、
中々解決の道が見出せないからとて、心配しても始まらないし、
不平を言って見ても仕方がないし、誰かを憎んでみても
却って結果は悪いばかりである。

面白からぬ事件や、暗黒な問題や、心配や、不平や、憎しみは
同じ波長のグループの中に入るものであるから、
その困難も暗黒も消える筈がないのである。

心配や不平や、憎悪の感情を起しても問題は解決しないばかりか、
そういう感情そのものが却ってあなた自身を傷つけることになるのである。

あなたの心の中に「神」を憶(おも)い出すようにせよ。

神は全能であり、勝利者であり、暗黒を消す光であり、問題の唯一の
根本的解決者であるのである。

あなたを取り巻く問題が如何に大きい難問題であったにしても、
神は尚(なお)それよりも一層大いなる力であるのである。

          <感謝合掌 令和元年12月11日 頓首再拝>

大神(おおかみ)の名(みな)を誦(ず)す - 伝統

2019/12/30 (Mon) 04:21:20


        *「静思集」(P69~70)より

神の国とは此処に見よ彼処に見よと云ってはないのである。
汝の心の中にあり と イエスキリストは被仰(おっしゃ)いました。

ではあなたの立っていらっしゃるところが、あなたの坐っていらっしゃるところが、
そのままで、あなたが天国を見出しなさったならば、其処が天国なのでございます。

神の国とは、神のいらっしゃるところでございます。
浄土とは仏のいらっしゃるところでございます。

ではあなたが今、神様を其処に見出されましたら、其処が神の国なのでございます。
あなたが今、仏様を其処に見出されましたら、其処が浄土なのでございます。

神ここに在(いま)す、仏此処にましますと、
どうぞあなたの心の中で誦(とな)えて下さいませ。

吾々は、眼をつぶっていえては光を見ることが出来ないでしょう。
まず心の眼を開いて下さいませ。
心の眼を開くには、言葉でとなえることでございます。

神道に於ける「大宇宙(たかあまはら)に神詰(かみつま)ります」という祝詞(のりと)、
仏教に於ける南無阿弥陀仏の称名念仏、基督(キリスト)教に於ける讃美歌・・・
まだ色々御座いましょう。

すべて此処に神在(いま)し、此処に仏ましますと云う念を深める言葉を常住
となえることは、天国浄土を地上に実現する基礎でございます。


    此の世をば浄土とぞ思う 
       大神(おおかみ)の名(みな)誦(ず)しをれば
            眼の裏(うち)あかるし

          <感謝合掌 令和元年12月30日 頓首再拝>

常に、神を憶う - 伝統

2020/02/08 (Sat) 02:34:59


        *「光明法語」(2月8日《神が此処にいる》)より

神が此処にいる。
そしてそれは全能であり、吾々の父であり、永遠に吾々の味方である。

この事を銘記せよ。

人間に能わぬことも神は成し給うのである。
太陽を創造し、星を彼方にちりばめ、無数の空の鳥を飢えることなく養いたもう
神が此処にい給うのである。

何も恐るることはない。
神を思い出さなかったことを恐れよ。

神を思い出すことは神が流れ入り給う通路を作ることになるのである。
衆生、ほとけを憶念すれば、佛、衆生を憶念したまう。

神は吾らを忘れ給わないが、こちらが波長を合わす事が必要である。

          <感謝合掌 令和2年2月8日 頓首再拝>

常に神に呼びかけよ - 伝統

2020/03/02 (Mon) 04:05:28


    *『 生長の家 』(昭和25年5月20日《赦(ゆる)してただ信ぜよ》)より

   唯(ただ)信じさえすればいいのである。
   信ずるとは 如実に神が今此処(ここ)、自分の内に
   働いていたまうことを知ることである。

   信念は 神に対して波長を合わす。
   「 神さま、神さま、神さま、神さま・・・」 と百遍千遍
   暇があれば神に対してよびかけよ。

   神は 常にあなたにこたえ給うであろう。
   
   神は決して罰をあてる恐しい地獄の鬼ではないのである。

   神は赦しの神である。
   愛の神である。

   唯、自分が人の罪を赦していないと、
   自分には「赦し」の波長が受けられない。

   困難の時に神によびかけるだけでなく、
   平和の時に神に対してよびかけよ。

   神は汝(なんじ)の愛深き父である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

          <感謝合掌 令和2年3月2日 頓首再拝>

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