伝統板・第二

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ひかりの一日一言⑰~健康への招待 - 伝統

2016/08/01 (Mon) 04:08:49

ひかりの一日一言《1日》

《1日 神の啓示をわれ受けて》

無限の智慧なる神を信じ、その神より啓示来たることを信じ、
それに従うことによって、神のみ心を地上に実践し得るものなることを信じ、
神のみ心を地上に表現することによって、地上の人類が等しく幸福となり、
同時に個人も幸福になり寿福おのずから兼ね備わるのである。

この信念の中核を成すものは「われ神の子なり」の自覚である。

「われ神の子なり」の自覚を中心として、無限の神智は流れ来り、
神との一体感によって、神の智慧と一円融によって行動することが出来るのである。

「われは神の子であるが故に、神の智慧はわれに流れ入りて、わが一挙手一投足を
導きたまうのである。われは事毎に成功し、無限の繁栄は必ず流れ入り来るのである」
神想観中に斯くの如く念ぜよ。

神想観中「なまくら」である勿れ。
真剣であり誠(まこと)であれ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P152~153) より

・・・

<関連Web>

(1)ひかりの一日一言⑬~幸・不幸の岐れ道
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439 

(2)ひかりの一日一言⑭~意識を高く昇らせよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6866429

(3)ひかりの一日一言⑮~理想を高く掲げよ
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6898754

(4)ひかりの一日一言⑯~心霊への目覚め
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6929870

           <感謝合掌 平成28年8月1日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《2日》 - 伝統

2016/08/02 (Tue) 03:39:43


《2日 心配は想像力を暗く駆使して起る》
   

多くの病気は取越苦労や心配から起るのである。
戦争中カナダの精鋭部隊がイギリスで数年間待機しなければ
ならなくなったときのことである。

激しい戦闘に従事しているときには取越苦労や心配の念を起す暇もないが、
かえってこういう暇なときには取越苦労や心配が起こりがちなものである。

この待機中、頑健部隊で知られていたこのカナダ部隊にも
無数の胃潰瘍の患者が発生したのであった。

メーヨー療養所のW・C・アールヴァレズ博士の説によれば、
胃潰瘍というものは感情の起伏によって症状が起伏するというのである。

同博士は、或る毛皮販売業者がその共同経営者である多数の婦人が脱退して、
ほとんどすべての毛皮を持ち去ると云い出した時、
胃潰瘍が急に悪化したと云う実例を挙げている。


胃潰瘍の集団発生ということは、伝染病の病気ではないのだから、
黴菌感染を以ては説明することは出来ないのである。

それはその団体全体の精神状態から起ったのだと説明するほかはない。


ところで取越苦労や心配の念をなくするにはどうしたら好いだろうか。

それは、ありもしない出来事が起って来るかも知れぬと
想像するところから起るのである。
それは想像の力の過剰から来るのだともいえるのである。

或る人は心配は「橋に来ない前から橋を渡ろうとするから起る」
と《いみじく》も云っている。

その時、その場で、「今」を有りがたく受け、「今」に全力を注いでいたら、
決して取越苦労は起らないのである。

「今」を生きず、未来の「栄光」にも「勝利」にも生きず、
唯、未来の「失敗」や「不幸」に生きるところに心配が起るのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P153~154) より

           <感謝合掌 平成28年8月2日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《3日》 - 伝統

2016/08/03 (Wed) 03:41:31

《3日 不安をなくするには》

心配の原因は「不安定」からも起る。
つまり神に対する確乎とした信頼の念がないのである。

現象は無常であり不可知の原因が総合した結果として、起って来るのだから
現象に頼っている限り決して安定感など得られるものではないのである。

そこで現象はいかに移り易(かわ)ってもその奥に愛深き神の摂理が、
結局必ずより一層幸福の世界にわれわれを導いて下さるのだと云う
根本的な信頼を持たない限り不安は去らないのである。

而(しか)も、「未来に不幸が来るであろう」と云う想念は
本当に「不幸」を具象化する力があり、

「必ず一層よくなる」という信念は、その状態を必ず一層よくする力がある
のであるから、決して取越苦労などをせず、「未来は必ず一層よくなる」と
不安が来る毎(ごと)に念ずるがよいのである。


不安や取越苦労が起るのは、ひとつひとつの出来事を自分に与えられたる
「決定的な運命の宣告だ」と考えるからである。

現象無常と云うことは、現象界は常に変易(かわ)ると云うことである。
どんな出来事でも「決定的な宣言」などと云うものはあり得ないのである。

敗戦でさえも、無条件降伏でさえも決して「決定的な運命の宣言」ではあり得ない。
敗戦の中にも無条件降伏の中にも、将来の驚くべき復興と再建と
隆々たる繁栄が約束されていたのである。

一々(ひとつひとつ)の出来事は、結論ではなく、
それはやがて来る「一層よきもの」の過程であるのである。

現象は如何にともあれ、その奥には光があるからあらわれる。

映画はどんなに暗黒な悲劇をあらわしていようとも、
それが映写幕(現象界)にあらわれるのはフィルムの奥に光があるからである。


取越苦労も愚かなることであるが持越苦労もまた愚かなることである。
無駄に費やした過去や失敗に終った過去をいくら歎いてみても何の甲斐もないことである。

それは既に過ぎ去ったのである。
過去を持越してそれを歎くことは自己憐憫の一形式である。
自己憐憫は一種の自己劣等感であり、過去の自分の欠陥を反芻して楽しむのである。

それは繰返し「自分は劣等である。自分は劣等である」と念じつづけることになる。
それがどんな結果をひき起すか知らないで、ご本人は過去の失敗を歎くのであるが、

それは繰返し、自分の潜在意識に劣等感、不幸感をたたみ込んで、
その劣等、その不幸を将来に具象化することになるのである。

不幸な人ほど潜在意識に「自分は幸福だ」という念をたたみ込まねばならないのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P154~156) より

           <感謝合掌 平成28年8月3日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《4日》 - 伝統

2016/08/04 (Thu) 04:18:34


《4日 心が原因として起こる病気》

多くの病気は、家庭の紛争がおさまると治る。
自分のいたくない室(へや)から移転すると治る。
対人関係や事務処理が旨く行かない仕事を辞めると治る。
誰にも打ち開けられない不幸や悲歎や 憤りを完全に打開けてしまったら治る。

―― これは単に生長の家の宗教的説教だとのみ思ってはならない。

サンフラシスコのドワイト・L・イルバ―博士の
カンサス市の最南臨床協会に於ける研究発表会にもあるのである。

これらの種類の病気は、自分の心のうちに幽閉して置いた、
悲しみや、不平、憤りや・・・その他色々の悩みが、
ある「形」をもって排泄せられつつあるのである。

想念と云うものはそれが「形」に表現されたら、
その内部に蓄積せられているエネルギ-が消えるのである。

すべての「心の悩み」は強烈なる内部圧力によって
「形」の世界に噴出しようとしつつあるのである。

煙草(たばこ)を吸って煙草をふかす習慣の如きも、
噴出したいある感情が喫煙の煙となって具象して消えつつあるのである。

だから煙をフ-と吹かす毎に心が落ち着くのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P156) より

           <感謝合掌 平成28年8月4日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《5日》 - 伝統

2016/08/05 (Fri) 03:18:30


《5日 喫煙癖を治すには》

喫煙癖が治った実例はたくさんあるが、結局は、心の憂うつや焦燥感が隠蔽
されていたのが、何らかの事情で解除されたために治ったのである。

今迄で家庭が面白くなく、夫婦互いに争って感情の爆発を抑え抑えして来ていたのに、
教えにふれて完全に夫婦が調和する状態になった場合に、
突如としてたばこの味が変ってしまった実例の如きもある。

今まで喫煙をやめようと努力し、それがどうしてもやめられないので感情が
イライラしていたのが、「神は決して喫煙などを造りたまわないのだ」と信じて、
自力で「何とかしよう」と力んでいた心を、委せ切りの心に一転したために
喫煙がやまってしまった実例もある。

煙草を止めよう止めようと嫌悪しながらそれが止まなかったのを、
煙草に感謝することによって喫煙の止まった例もある。

焦燥感の解除による原因は同様である。


新たに生れた人とおなりなさい。
過去を捨てなさい。
自分が肉体であるという観念から脱却して、
霊的実在であるという観念に生まれかわりなさい。

自己に宿っている「神」を見なさい。
自己に宿っている「仏性」を見なさい。

そして自分を肉体であると見ず、健康そのものの「神仏」であると見なさい。

そこから本当の幸福が出発するのです。
其処から本当の健康が出発するのです。

人間は「霊的実在」であり、「精神」や「肉体」はその道具であります。
そしてそれが自己の霊妙性を自覚した程度に「精神」も「肉体」も
優秀になってあらわれて来るのであります。

身体に故障が起って来るのも経済状態に問題が起って来るのも、
神のみ心(宇宙の法則―自然界の法則と心の法則とがある)に
調和しないところがあるからです。

真直(まっすぐ)に生命(せいめい)の道を歩きなさい。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P157~158) より

           <感謝合掌 平成28年8月5日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《6日》 - 伝統

2016/08/06 (Sat) 03:29:52


《6日 神の道を歩む人生は滑らかである》

人間は神の子ですから、人の歩く道は神の歩く道であります。

だから神の道を真直ぐに歩かないでは、
自動車に撥ねとばされたり、崖から墜落したりいたします。

人に対して悪意をもったり、嫌悪の情を感じたり、素直でなく剛情であったり、
人を憎んで赦すことをしなかったりいたしますと、
それは神の道から離れて歩いていることになるのであります。

吾々の歩む人生の行路が滑らかでないのは、神の道を歩いていないからであります。

神の道は愛の道、サ-ビスの道、赦しの道、包容の道、円い道、角のたたない道、
人を助ける道、やさしい言葉の道、利己主義でない道、霊と法悦の道であります。

あなたの生活がこれらの道に乗っているか反省して見て下さい。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P158) より

           <感謝合掌 平成28年8月6日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《7日》 - 伝統

2016/08/07 (Sun) 04:40:51


《7日 自己内在の神を生かせ》

人間の真の悦びは肉体をくすぐる快感ではない。
人間の真の悦びは自己に宿る「神」を生かしたときの悦びである。
それは静かであるが深い悦びであり、肉体的快感のようにあとから
劣等感や頽廃感を伴うと云うことはない。

自己の内に宿りたもう神をほめたたえよ。
自己の内に宿りたもう神を尊ぶことによって
自己の神性は愈々高く発揮されることになるのである。

健康と幸福とは、自己に内在する「神性」を悦ばさない限り、本当には得られない。

神は吾々の外にあって、われわれを罰したもうような存在ではないけれども、
若し吾々が神の道にそむいたならば、「内在の神性」が
「そんなことではいかんではないか」という風に責罰を加えるのである。

神の道を歩いていて生活に悔いなしというような人は、
心が常に落ち着いており健康である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P159) より

           <感謝合掌 平成28年8月7日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《8日》 - 伝統

2016/08/08 (Mon) 03:48:16


《8日 心が一転すれば健康度が一転する》

その人の健康は、ものの考え方が急激に一変した結果、急によくなることがある。

今までコセコセ人々のアラ探していた人が急にすべての人々の欠点を見なくなり、
美点のみをみとめて感謝するようになったり、いつも不平等でブツブツ言っていた人が、
凡ゆることに有難く感謝するように変ったり、いつもイライラしていた人が、

心が平和に何でも「ありがとうございます」と感謝するようになった時に、
その人の健康が更新しはじめるのである。

このような心の更新は「生命の實相」というような修養書を読んでも得られるのであるが、
宗教的な集団生活によって精神が一変した場合に、最も多く効果をあらわすのである。

練成道場における成果はそれである。
宗教的な愛の感情は、肉体のあらゆる器官の活力を増進する。

憎しみはその反対である。

若しあなたが健康を欲するならば、
あなた自身の過去と現在との心の中の思いを反省してごらんになるがよいのである。

あまりに多く思い煩いや、急ぎや、焦りや、腹立ちや、取越苦労が
多かったということを発見なさるでありましょう。

そして今は? 病気から治りたい――と
「病気病気」という観念に心を集中しているのである。

病気を治すためには、心を一切の「思い煩い」と「病気」とから
外してしまわなければならないのである。

そして普段の生活中に「明るい事」「希望に満ちた喜び」「うれしい感激」をのみ
思い浮かべることにして、神想観中に、ただ、
「神の豊富な健康な生命の流れがとうとうと自分の全身を流れている」
有様のみを凝視するようにすればよいのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P159~160) より

           <感謝合掌 平成28年8月8日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《9日》 - 伝統

2016/08/09 (Tue) 03:17:12


《9日 自分の罪を赦しなさい》

すべての不安は、神と離れた感じから起こるのである。
だから「神と一体である」という自覚を呼び起こすあらゆる方法はすべて、
不安を解消し、健康を増進する目的に適うのである。

神と離れていると云う感じは、「罪がある」という自覚からくるのであるから、
「罪がゆるされた」と云う感じを与える方法は
不安を解消し健康を増進する目的に敵うのである。

だからイエスは「汝の罪赦されたり」と云う語(ことば)で人々の病気を治しているのある。

病気の人は自分が自分の罪を赦せばよいのである。
イエスは「審判(さばき)は子(人間)にゆだねられたり」云っている。
自分を罰するのも自分であれば、自分の罪を宥(ゆる)すのも実は自分であるのである。

「神がわが罪を赦したまいて、その愛の慈手(みて)をもて抱きたまう、我はすでに癒されたり」
と念ずるのは、自己責罰を自分で赦すよき方法である。

メニンジャー博士はその著「おのれに背くもの」(日本教文社発行、下巻の(焦点的自殺)の項)
の中で咳が他を憎んで毛嫌いする心から起こると云うことを書いているのであるが

1951年1月21日発行のウイ-クリ-・ユニティ誌に於いてもスティヴンス・ハットフィ-ルド氏が
「正しく思え、正しくあれ」(Think right Be right)の中で同じような実例を挙げている
――或る婦人が自分の甥を貰って実子のように育てていたのである。

甥は戦争のため入隊したが或る日休暇で一人の友人と共に帰って来た。
海軍の服装をつけているためにその年齢では出入出来ない遊び場に出入するようになった。
酒場で出入りして酒を飲む、パチンコをやる、ダンス、賭博とある限りの歓楽を尽くすのである。

養母がどんなに説得してもきかなかった。
その時20年間影をひそめていた気管支炎が再発して重体に陥った・・・・・・。

この種の家庭に於ける精神的葛藤が病気を起こすことは数知れずである。
殆ど病気の大部分がそれであると云うことが出来る。

吾々の肉体は、吾々の抱懐する想念感情と同じような種類の形につくられる。
家族の誰かに対していだいている怒りをゆるすことは、
自分の心を縛っていた縛りをほどいてしまうことになるのである。

身体が硬直したり、不自由になったりする病気は
人を赦さないことから起こっている場合が多いのである。

だから人を審判(さば)いてはならないのである。

たとい相手が悪くとも、相手が悪いからとて、こちらが心を硬(こわ)ばらせば、
自分の肉体の組織が硬ばることになるのである。

狭心症や血管の硬化や、喘息や、組織を狭窄(きょうさく)せしめる病気は
人をゆるさない心から起こることが多いのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P160~162) より

           <感謝合掌 平成28年8月9日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《10日》 - 伝統

2016/08/10 (Wed) 03:17:53


《10日 自己の内に神を見出せ》

あらゆる心の悩みは、あなたの心が神に向かった時に癒されるのである。
暗(やみ)は光に向かえば消えるのと同じように。

病気や不幸を心につかんでいて、「神様これを癒したまえ」と願うことは、
言葉は神の方へ向いているけれども、心は病気や不幸の方へ向いているのであるから、
心が光に向かったとは云い難いのである。

自己の内に「病気」を見出さないで
「神を見出し、生命を見出す」のが最もよいのである。

神を信じても、神を自分の外に見出したのでは、
暗は依然として自分の内に残るのである。

病気だとか不幸だとか、面白くないとか、自分はとてもだめだとか、
そんな消極的な言葉をあなたの心の圏外に放逐せよ。

そして「吾れ神と偕(とも)にあり」と云う光の言葉を常に自己の内に照り輝かせ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P162~163) より

           <感謝合掌 平成28年8月10日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《11日》 - 伝統

2016/08/11 (Thu) 04:17:36


《11日 今日より私は一切の悪を認めない》

自分の身辺に起こる如何なる悪も、真にそれは実在する人生ではなくて
わが心の創作であることを知るとき、

吾々は現象世界に、もう何が起こって来ようとも、
悪の存在をみとめないのである。

認めないから、心のうちから一切の悪を、欠乏の感じを、病気の感じを、
すべての恐怖を拭い去ってしまうのである。

演劇は作者が作品をつくらなかったならば無いのである。

若し吾々が、一切の悪の存在をみとめず、
一切の悪を、欠乏を、恐怖を、病気を、心から駆逐してしまったならば、

心は一切の悪の脚本を創作せず、悲劇や不幸をロケーションしないがゆえに、
舞台にも、映写幕(スクリーン)にも、どんな不幸も演ぜられることなく、

ただあるものは本来の人生、神の世界に神の子人間が幸福生活を送っている
 ―― ただそれだけが存在するのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P163~164) より

           <感謝合掌 平成28年8月11日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《12日》 - 伝統

2016/08/12 (Fri) 03:59:41


《12日 神に祈る心が神である》

自分の心で、自分のイライラする心を放逐しようと思っても駄目の皮だ。

イライラしている自分の心でイライラしている自分の心を放逐しようとすることは、
火のついた巻き煙草を握っている手で、煙草の煙を払うようなもので、
益々激しく煙草の煙が渦巻くだけである。

イライラする心を無くするには、
本来イライラしない心を出して来なければならないのである。
それでは本来イライラしない心をどうしたら出して来ることが出来るか。

それは自分の中の「仏性」を出して来ることであり、
自分の「神性」を出して来ることである。

その自分の中の「仏性」「神性」を出して来るには、仏を念ずるか、
神に祈るかするのが好いのである。

「神に祈る心」そのものが神があらわれているのであり、
「念仏する心」そのものが仏があらわれているのである。

そして神があらわれ、仏があらわればあなたは自然に健康になるのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P164) より

           <感謝合掌 平成28年8月12日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《13日》 - 伝統

2016/08/13 (Sat) 03:31:44


《13日 老衰を避けるには》

人間は物質的肉体だと云う信念から人間は老衰するのである。
この観念は人類一般に共通的に懐かれている考えであり、
それが集まって「人類意識」と云う大いなる意識の海原をなしているのである。

人間はこの人類の一員として人類意識の影響を受けることなしに生活することは難しい。
従って、「人間は老衰する」と云う観念から完全に超出することは極めて困難である。
従って真理を知ったと云う人でも多少は老衰して行きつつあるのである。

だからと云って「仕方がない」と人類意識の波のまにまに
沈没せしめられてしまってはならないのである。

老衰を避けるには、先ず人間は肉体的存在だと云う観念を「人間は霊的存在であり、
霊は老いず、傷つかず、病まざるものである」と云う観念に置き換えることが必要である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P164~165) より

           <感謝合掌 平成28年8月13日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《14日》 - 伝統

2016/08/14 (Sun) 03:28:09


《14日 冷酷な心を起してはならない》

他の人を扱うのに冷酷をもってしてはならない。
他に冷酷なものは、酷(きび)しく人を縛るがゆえに自分自身の組織を縛られて、
組織が硬くなり、血管が硬化して老衰するのである。

老衰しまいと思うならば、
柔らかな温かい愛深き心を常に保っていなければならない。

愛は潤滑油として、あらゆる部分の摩擦を和らげ、組織を柔軟にし、
生理作用を円満にするのである。

他(た)に対する心は直ちに自己に帰って来るものであるから、
人につめたければ自分の身体もつめたくなり
「冷え」に関連する病気を患うのである。

足が冷えるのは手足(部下とか家族とか)に冷たい証拠であり、
腰が冷えるのは夫婦関係がつめたい、
お腹が冷えるのは、人人との仲が悪いのである。

みんな自分の心の影である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P165~166) より

           <感謝合掌 平成28年8月14日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《15日》 - 伝統

2016/08/15 (Mon) 04:44:05

《15日 沸騰する心を止めましょう》

怒り、沸騰する心、不平の心、膨れる心、肉体を沸騰せしめるような状態を起こすのである。
沸騰すれば振動するから、常に怒りっぽい人は、震え中風や振顫麻痺(しんせんまひ)や
舞踏病(ぶとうびょう)に罹ったりする。 

膨れる心はその通りの形の腫物(はれもの)や、癌腫(がんしゅ)や、筋腫(きんしゅ)や、
扁桃腺炎(へんとうせんえん)や、静脈瘤(じょうみゃくりゅう)や、
動脈瘤(どうみゃくりゅう)や、色々の腫れたる形を表す病気に罹ったりする。

あなたは今日以後一切の怒る心腹立つ心、憎む心、呪う心、不平の心、膨れる心を
捨てようと決心なさい。 

それを捨てるためには、単に捨てようと決心するだけに止(とど)まらず、
愛する心、赦(ゆる)す心、感謝する心拝む心を積極的に起こすのが最も良いのである。 


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P166) より

           <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《16日》 - 伝統

2016/08/16 (Tue) 03:16:30


《16日 汝の霊の根元に感謝せよ》

骨が折れるのは、神と先祖と父母に対する尊敬と愛が足りないからである。
ホネは霊根である。自己の霊のそだつところの根元である。
吾らの霊は、神・先祖・父母と云う風に伝って来て今日あるを得たのである。

霊根をつちかわないから骨が折れる。
父母に反抗している場合に脊椎カリエスにかかっていて
医療では中々治らない場合がある。

北海道の札幌で幹部教修会があったときに○○修二と云う人が話した体験によると、
十四歳の時に家出してヤクザの群に入り、ついに刑務所で服役までしたのであるが、
出獄後脊椎カリエスにかかり3つの瘻口(ろうこう)から毎日多量の膿を排出し、
段々生命(いのち)旦夕に迫ると云う処まで来たが、

たまたま自分の父親が七十幾歳にて老衰した姿で枕元に来て
優しい言葉をかけてくれたとき、父がこんなに老衰させたのは私が済まなかった
と思っておわびの心をおこしたのである。

するとその重体が3カ月で癒え
炭坑で重労働をしても耐えられる健康さが恢復したのであった。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P167) より

           <感謝合掌 平成28年8月16日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《17日》 - 伝統

2016/08/17 (Wed) 03:13:17


《17日 物質は痛まない。心が痛むのだ。》

肉体は物質であるから、机や石塊(ころ)と同じく痛覚はないのである。
だから肉体が痛むのというはずはないのである。

また人間の霊は神より来ったのであり、
神の子であるがゆえに、また痛むということはないのである。

人間の肉も痛まず、霊も痛まないとしたならば、
その痛んでいるのは、肉体でもなく、霊でもないことは明らかである。

心が痛むのである。

心が痛んでいるのは、腹が立っているか、悲しんでいるか、
癇癪(かんしゃく)を起しているか、人を怨んだり憎んだりしているからである。

こんな心を捨ててしまえば、肉体の痛みは消えてしまうのである。

誰かと不和になっている時、まずその人と和解しなければならぬ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P168) より

           <感謝合掌 平成28年8月17日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《18日》 - 伝統

2016/08/18 (Thu) 04:14:26


《18日 病気の真因の探求について》

吾々は、それが効果を生ずるものならば
決して如何なる治療法にも反対するものではないのである。

しかし効果不確かなる薬剤の使用や、
人間をモルモット代用に新薬の効果をテストするために、

或いは試験動物代わりに
「治るか治らぬかわからぬが、切って見るより仕方がないから切って見よう」
云うが如き治療法には全然反対するものである。

「現代にこの病気を治す薬がない」と医者が云っているのに、
それを治すと自称して広告する薬剤の使用には反対するのである。

医者も製薬者も、もっと謙遜に自己の力量を自己批判して、
人命をもっと尊重するようにし、医学で病原のわからないものは、
精神の世界に、霊の世界に病原を探求して真の病原を根絶するように努力すべきである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P168) より

           <感謝合掌 平成28年8月18日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《19日》 - 伝統

2016/08/19 (Fri) 04:15:52


《19日 真理は人に伝える実践でよく解る》

真理は、それを理解したようにみえても
真に完全に理解していない場合が多いのである。
真理はそれを実際に生活した場合に、本当に深く理解されて来るのである。

「人間本来病気なし」の真理も、
他人を真理によって導き病気を本当に治してみて、
初めて、その真理がわかるのである。

座上の水練では駄目である。

泳ぎ方をいかに書物で読んでみても、
実際に水の中へ跳び込んでみて泳げない人は、
真に泳ぎ方がわかっていないのである。

真理は人を救ける実践をしてみて、真に理解できるのである。

教えはわかったが商売に損をするというのでは、
何程その真理がわかっているかどうか怪しいものである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P169~170) より

           <感謝合掌 平成28年8月19日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《20日》 - 伝統

2016/08/20 (Sat) 03:31:20


《20日 色々の段階の治療について》

実相によって癒されるということは、
人間の実相(ほんとのすがた)は「神」であるから、
神との一体感によって癒されるということである。

人間は一時的にはいろいろの方法によって癒されるけれども、根本的には、
自己の実性を見出して、それが本来自性(そのまま)円満なことを自覚するほかに、
根本的な救われようはないのである。

人類の多くはまだ蕾のような状態であって、
十分に、それ自身の完全円満な自覚の華がひらいていないのである。

だから、それが開き切るまではいろいろの治療法も必要である。

数百燭光の電灯が発見されるまでは、ガスランプも、石油ランプも必要であり、
石油ランプすらまだ発明されない人間には、蝋燭(ろうそく)も提灯も必要である。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P170) より

           <感謝合掌 平成28年8月20日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《21日》 - 伝統

2016/08/21 (Sun) 04:04:19


《21日 観念と意志との分担》

意志の力よりも観念の力の方が強力であるのである。

「治りたい意志」があっても、「これはなかなか重病である」と云う観念の力が存する限り、
観念の創造力によって、重病が創造されて治らないことになるのである。

「入学したい意志」があっても、「私は成績が悪いから迚も駄目だ」と云う心が
あっては入学出来ないのである。

意志は一定の身体又は心の態度を持続する支え棒となるけれども、
真に創造する力を何処へ導くかは観念の力によるのである。

観念は、宇宙の創造の力を一定方向へ導くけれども、
その観念を持続するのは意志の力によるのである。

一つの観念を継続的に描いて、意志の力で同一観念を持続するならば、
それは必ず形の世界に実現するのである。

他の人に対して「健康」を観念すれば、それは一種の精神療法となるのである。 


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P170~171) より

           <感謝合掌 平成28年8月21日 頓首再拝>  

ひかりの一日一言《22日》 - 伝統

2016/08/22 (Mon) 04:40:23


《22日 創造の選択は人間に委されている》

宇宙は大自然の創造してやまない力が満ち満ちている。

人間は生まれるまでは、大自然は自己みずからの想念の形に、
大自然の姿を造講して来たのであるが、

人間が神の創造力の自覚的意識的発想の中心として出現して来て以来は、
聖書は「審判は子に委ねられたり」とイエスは云っているのであるが、

宇宙の創造力をどんな形にあらわすかは、
人間(神の子)が出現して以来は、人間にその「想念」(創造の模型)の選択力が
与えられていると云う意味である。

自己自身の想念の相に自分の身辺の事が作られ、
自己自身の想念が選んだ通りの形に宇宙の創造力は働いてくれるのである。
爰に於て人間は宇宙の創造力の主人公となったのである。

宇宙にはエネルギーが充ち満ちているのであって、
人間がエネルギーを創造するのではないのである。

人間はそのエネルギーを物質化して自己の想念する位置に配置するのである。

人間は自己の欲する位置に必ずしもそのエネルギーを配置することは出来ない。

それを欲する位置に配置するのは、心の方面では心の法則に従わねばならないし、
物質の方面では物質の法則に従わねばならない。

尤も物質の法則を探求し、それを利用するのも心の力によるのであるから、
人間は物質両面に於ても心によって運命の支配者となるのである。

善き想念を意志強く持続し、そこから自然に動く叡智を意志強く実践して行く者が
人生の勝利者となるのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P171~172) より

           <感謝合掌 平成28年8月22日 頓首再拝> 

ひかりの一日一言《23日》 - 伝統

2016/08/23 (Tue) 03:17:04


《23日 霊・精神・肉体・病気の関係》
          
吾々は物質の治療に反するものではないのである。
それは、人間の物質的面に於て或る作用を与えるのである。

「レンズ」が「霊」であるとし、「水蒸気」が「精神」であるとし、
レンズに出来た水蒸気の凝結によって出来た「曇り」が肉体の「病気」であると
考えれば其の関係はわかり易いのである。

レンズの曇りはそれを直接、物質によって拭えば消えるであろう
――これが物質的治療である。
たしかにこれは効果があるのである。

併し水蒸気が多いかぎりは又しばらくにしてそれがレンズ面に凝結して曇りを生ずる。

永久に曇りを生じないためには水蒸気を少くしなければならない。

即ち心の迷いを少くしなければならないのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P172~173) より

           <感謝合掌 平成28年8月23日 頓首再拝> 

ひかりの一日一言《24日》 - 伝統

2016/08/24 (Wed) 04:34:34


《24日 「迷い」はどうしたら消えるのか》

 心の「迷い」を無くするには、
「迷い」を捉えて破壊しようと力む事は要らないのである。
それは却って自分の心が「迷い」を掴むことになって
益々大いに「迷う」ばかりである。

「迷い」を無くする唯一の道は、心を「迷い」から一転せしめて、
「人間」の本来完全なる相を見詰めるようにすれば好いのである。

自分の病気を癒すには、自分の病気を見詰めないで、
自分の実相の完全さを見詰めれば好いのであるし、

他(た)の病気を治すには、彼の病気を治そうとか、病気をどうしようとか
思わないで、ただ彼の完全さを見詰めれば好いのである。

全世界の人々が、ただ、他の善のみを見詰めるようにすれば忽ち平和は来るのである。

《自分が》祈る力や、自分の思念力によって
不幸や病気を退散せしめようなどと思ってはならないのである。

われわれが善き言葉で祈り、善き想いを想念したならば、
あとは神が成就したまうのであると知らなければならないのである。
それは種を蒔くのと同じことである。

善き言葉又は善き想念を述べることは、
大宇宙の創化力の沃地に、善き種子を蒔くことになるのである。
その種子を育て生長せしめたまい実を結ばしめ給う力は神にあるのである。

吾々は自分の力で、
蒔いた種子から茎や葉を引張り出そうなどと考えてはならないのである。

「吾れはただ善き想念の種子を蒔く、これを育てたまうのは神の力である」と念じて、
静かに神に全托せよ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P173~174) より

           <感謝合掌 平成28年8月24日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《25日》 - 伝統

2016/08/25 (Thu) 03:18:38


《25日 「法則」が全てを成就する》

「私は健康である。私は健康である。私は健康である・・・・」
病人はこの言葉を暇のある毎に唱えよ。

但し、その回数多きによって自分の言葉の力で、健康になるのだと考えてはならないのである。
そう引っかかると、唱える回数や、思念の力の薄弱さなどを考えて、結局こんなことで
祈りがきかれるだろうかと云う不安と疑いとに導かれ、そのため効果がなくなってしまうのである。

吾々が善き言葉、健康の言葉を自分から出すことは、
ビルディングのルーフから手を突き出して風呂敷包を自分に手から放つと同じである。
あとは「法則」がその風呂敷を地上に必ず落下せしめる。

汝の言葉が汝を健康にするのではなく、汝の言葉が種となって、
後は法則がそれを成就するのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P174) より

           <感謝合掌 平成28年8月25日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《26日》 - 伝統

2016/08/26 (Fri) 03:32:06


《26日 人間は不健康になる事は出来ない》

病気の状態があらわれてみえるのは、満月が曇ってみえるようなものである。
しかし曇りは満月のどこにもない。
地球が曇っているに過ぎない。 
 
実際の月は決して曇っていないように、実際の人間は決して病気ではないのである。

水蒸気が凝縮して雲になってみえるように、われわれの「誤れる想念」が凝縮して、
病気の不調和な姿にみえているに過ぎない。

神が人間を健康に造った以上は、一度だって人間は病気になどなれるものではないのである。

人間の健康を支えている力は「実在の力」である。

その他の力は、非実在の力であるから、
どんなにしても人間
を不健康になどできるものではないのである。

これを信ぜよ。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P174~175) より

           <感謝合掌 平成28年8月26日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《27日》 - 伝統

2016/08/27 (Sat) 04:34:43


《27日 人間そのものと不幸とを分離せよ》

不幸や病気があらわれてきたときに、何よりも大切なことは、その不幸や病気と、
人間そのもの(自分又は治療してあげる相手の人)とを分離して考えることである。

――― 恰度、月と雲とを分離して考えて、
「月に決して雲っていないのだ。曇っているのは『雲』自身だ」と考えるようにである。

そして人間そのものの完全さをじっと心に見詰めて、病気や不幸の方へは心を向けないで、
「私は(又は彼)は現に幸福だ、私は現に健康だ」と念ずるようにすることである。

そしてその念ずる言葉は、自分から放ったが最後、法則によってまっしぐらに現象の
世界へ向けて、あらわれて行きつつあると信ずるが好いのである。

病気や不幸は神の造った人間の問題ではない。
それは自分の想念の映画に過ぎない。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P175~176) より

           <感謝合掌 平成28年8月27日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《28日》 - 伝統

2016/08/28 (Sun) 04:00:19


《28日 真理は実践しなければならぬ》

「人間本来完全」の真理を教えられて知ったならば、如何なる問題でも起こって
来たときに、その問題が、自分の問題であろうと、家族の問題であろうと、
友人の問題であろうと、どんな小さな問題であろうと、大きな問題であろうと、

「あの人は完全だ、善い人だ、不親切な人ではない」と云う風に、相手を心の
うちで拝んで、その実相の完全さを常に念ずるようにすることです。

そうすると念じた通りにその完全さがあらわれて来るのです。

先ず小さな問題から始めることです。
そしてその効果を体験することによって、自信を増し、
更に段々ほかの大きな問題を念ずるようにするのも好い方法である。

併し、最初から「世界平和」を念ずるようにすることは、
結果はすぐあらわれないでも自己の魂の向上にだけでなく
健康増進のためにも大いに役にたつのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P176) より

           <感謝合掌 平成28年8月28日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《29日》 - 伝統

2016/08/29 (Mon) 03:37:11


《29日 汝自身を幸福な神の子と観ぜよ》

病気も不幸も何人にも属するものでないのである。

それは群衆の潜在意識の放送を、
個人の潜在意識が受信し易い状態になったときにあらわれた
スピーカーの声みたいなものである。

本人がその声を出していないのであるから、
本人は不幸でも病気でもないのである。

それを自分の本当の姿だと思って苦しんだり悩んだりするところに
錯覚があり、その錯覚を断ち切らないところに、
錯覚は錯覚を招んで苦しみを増大することになるのである。

汝自身を病人だと観る限りに於いて、汝自身は病人の姿をあらわし、
汝自身を不幸だと思う限りに於て、汝自身は不幸の姿をあらわすのである。

すべからく汝は現象を超越して実相に超入せざるべからず。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P176~177) より

           <感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《30日》 - 伝統

2016/08/30 (Tue) 04:18:41


《30日 心を柔らかく持ちましょう》

今日からこの覚悟を致しましょう。
心を柔らかくもちましょう。

すべての緊張をといて、柔らかく、ふうわりと、「そのまま」の心になりましょう。
仕事をするのに緊張しているのはよいですけれども、それが「我(が)」の緊張である
場合には、緊張し過ぎて物事に失敗することがあります。

感情が緊張しすぎると、血管や筋肉が緊張し肉体を硬化せしめます。

緊張を取り去ると云うことは、ボンヤリしていることではありません。
またなまけていると云うことでもありません。

神にまかせ切りの心になって、
「我(われ)なすに非ず、神がこれをなさしめ給うのである」
と云う心境になれば、力みなく、すらすらと、内からなる催しで、あせり無く
すべてのことが調和して行われるのである。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P166) より

           <感謝合掌 平成28年8月30日 頓首再拝>

ひかりの一日一言《31日》 - 伝統

2016/08/31 (Wed) 04:02:01


《31日 神にこうして導きをうけよ》


人間のなすべきことは空っぽになることである。
自分が空っぽになってその中に神の御心を入れ、自分は唯道具になって
神の御心通り動くと云うことである。

「借金なら支払ったら好い。お前には支払えないかも知れないが神なら払える。
今日からお前の商売を自分の商売だと思わず、神の商売だと思い、
お前は神の番頭となれ、そして神のお指図のままに動くのだ。」

このやり方が即ち自分が空っぽになって神の御心通りに動く生活である。

神は全智にして全能なるが故にその導きに間違はない。


谷口雅春著『幸福を招く365章』第8項(P177) より

           <感謝合掌 平成28年8月31日 頓首再拝>

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