伝統板・第二

2929265
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「青年法語」~青年よ悪習慣の鏈(くさり)を断ち切れ - 伝統

2016/07/25 (Mon) 04:02:11

(”道産子 さま” への秘かなお願いです。)

”道産子 さま” ありがとうございます。

いつも、貴重な神誌からの真理の言葉の数々を紹介していただき、
まことにありがとうございます。

お忙しい中、申し訳ないのですが、ひとつお願いがあります。

それは、7月11日から7月23日の間に紹介していただいた
谷口雅春先生の法語についてでございます。

(昭和四十二年?)「理想世界」7/1号 輪読のための青年法語の中で、
まだ紹介されていない日々の法語について、もし、お手元にあるのであれば、
残りの法語についても、別の機会にでも紹介していただければと願っております。


三日のことば

六日~九日のことば

十一日のことば

十三日~十四日のことば

二十二日~三十一日のことば


以上、ご検討をお願い申し上げます。

(合掌! )

Re: ”道産子 さま” への秘かなお願いです。 - 道産子

2016/07/25 (Mon) 08:12:33


  伝統様、なかなかのご難題、ありがとうございます(^^♪

 早速本日よりご要望の日々の御話を謹写させて頂きたいと一

瞬思いましたが、輝子先生の御講話、始めたばかりですので、それがを終わりましてからというのがよいかと考え直して、そうさせていただきます<m(__)m>。

 だいたい、大聖師のお言葉を選別して紹介するなどということは誠に不遜そのものでありますので、身の縮む思いであります。

感謝申し上げます。 - 伝統

2016/07/26 (Tue) 03:47:50

”道産子 さま” いつもありがとうございます。

小生からの勝手な願いを、温かく受け止めていただき、
心より感謝申し上げます。

(合掌! 再拝 )

お礼! - 伝統

2016/08/18 (Thu) 17:37:50

”道産子 さま” この度は、まことにありがとうございます。

お蔭さまをもちまして、谷口雅春先生の貴重な
輪読のための「青年法語」を掲示板に残すことができました。

”道産子 さま”のご愛念に、心よりお礼申し上げます。

なお、勝手なふるまいで申し訳ないのですが、
明朝、このスレッドの名称を変更の上、”道産子 さま”ご投稿の「青年法語」を
日付順に並び替えて、再度掲載させていただく予定に致しております。

”道産子 さま”のお許しをお願い申し上げます。

(合掌! 再拝 )

「青年法語」~青年よ悪習慣の鏈(くさり)を断ち切れ - 伝統

2016/08/19 (Fri) 04:29:28

「青年よ悪習慣の鏈(くさり)を断ち切れ=最も大切な性格形成の問題について=

                   谷口雅春先生


【一日のことば】 ~ “粗暴”の種を蒔いてはならない

ある有名な哲人がいった言葉には、

「ある行為の種を蒔けば、吾らは習慣というものを穫りとるのである。
習慣の種を蒔けば自分の性格というものを収穫する。
自分の性格という種から自分の運命というものが実るのである」と。

一寸した行動が粗暴であること位は何の悪い影響もないかの如く考えられ勝ちで、
若い人たちは、一寸した日常の動作を粗暴にやってのけてそれで“元気溌剌”たる
若人の特権の如く考えていることが多いらしいが、

それは毎日”粗暴”の種子を蒔きつつあるのであり、それが習慣となって生長し、
ついには世界の平和を掻き乱す恐るべき果実をみのらす結果ともなることを考えるならば、
少年だからとて日常の行動を粗暴にしてはならないのである。元気と粗暴とは異る。

・・・

【二日のことば】~ 雑草からは良きものは実らない

プラトー(ギリシャの哲人)も言うのである。

「無限の善が、良き習慣から生まれて来るのである。
良き習慣というものは、良き行為の範例や、良き友との交わりや、
道徳的知識や、道徳的行為の体験を通して養われるのである」と。

 戦後のあまりにも過ぎた日本社会の如き自由主義的放漫の生活からは、
良き行為の範例や、良き友との交わりや、道徳的知識・・・・・などには
滅多に接することができないのである。

そして自由に伸びるものは雑草の如き無秩序性である。
雑草の中からは決して良きものは実らないのである。

良き果実を実らせようと思うならば、雑草を自由に伸ばしてはならないのである。
雑草を引き抜いて、良き種子を選択して播種しなければならないのである。

自由放漫の中からは稀にしか良きものを生じない。
行動の自由主義の効果には限界があるのである。

・・・

【三日のことば】~ ~ 習慣の“環”は早いうちに中断せよ

習慣は、一つ一つの行為の“環“の連続である。その一つ一つの”環“は
小さいけれどもそれがつながって長き鏈(くさり)となるとき、
強力に自分をしばる鉄の鎖となるのである。

何人も、あまりに長くつづいた“習慣の鏈”によって十重二十重に縛りつけられる
ならば、その鏈の縛りを切り放って自由になることは殆ど不可能となるのである。
それは“殆ど”であって“絶対”ではない。

その実例を、喫煙をやめたいと思って色々と工夫し努力して見ながら
どうしても喫煙がやめられない“喫煙癖”の奴隷の如き人間を見るがよい。
全く彼は気の毒な状態ではないか。

まだ一つ一つの行為の“環”が二つや三つや五つぐらい連続しているだけの
初期状態では、それは鏈という程でないから、途中でやめられるし、
自分の全身をしばる長い鉄鎖とならないのであるから、
「これは悪い習慣になりそうだ」と気がついたら、

それが習慣となる前にすぐその行為をやめるがよい。

・・・     

【四日のことば】~ 自分の蒔いた行為の種が芽を吹くとき

イタリアのトリノにある大学のボネリ教授の実験によるならば、
30年間葡萄酒の中に入れてアルコール漬けにされ、さらに16年間、
空中に乾し晒らされたガラガラ蛇の牙にまだ毒性が残っているかどうかを
試すために或る動物の皮膚をその牙で刺して実験してみたところ、驚くなかれ、
その1時間後にはその動物は蛇毒にあてられて死んだのだった。

行為の積み重ねによって生じた習慣というのも、
このように吾々の生命の奥深く眠っていて、ある機会が来たら、
それが活性化して吾々の行動を支配することがあるのである。

だから、吾々はガラガラ蛇のような、人を害する毒性のある想念や行為
を積みかさねてそれを潜在意識の底に眠らしておいてはならないのである。

一千年以上も以前に乾燥状態で埋もれていた蓮の実が,
播植してみたら発芽した実例もある。

人間は、現世一代の存在ではなく、幾度も生れ変って来ているのであるから、
今、種を播いておいた善行又は悪行が、数代もの生まれ変わりの後に報いられて
来ることもあるのであるから、人生をこの世一代の存在だと思って、生きてるうちに、
どんなズルイ事でもやって出来るだけ快楽を貪って置けというような考えから
悪行の種を播いておくと、数代後の生まれ変りに、困難な状態におかれる
ということもあるのである。

私たちは毎日よき種子を業の世界に播いておかなければならない。

・・・

【五日のことば】~肉体の快楽に誘惑されてはならない

どんな悪業を積んでおいても、それが報いられる筈はないという甘い考えで、
瞬間の快楽のために、誘惑の奴隷となって、ある人妻と姦通した青年がいた。

彼がその人妻を本当に恋愛しているのであったならば、
その行為に、ある情状酌量の点数がつけられるかも知れない。

併し、彼はその人妻のほかに、同じ期間に、別の人妻と姦通していたのであった。
だから彼は純粋に一人の女性を恋いしたっていたのでもなかった。

その青年は脚が立たなくなった。あの立派な青年(男)がどうして、
腰相部の脊髄神経麻痺にかかって脚が立たなくなったりしたのであろうと
私たちは不思議に思っていたのであった。

彼の病気の治療は私の毎日の祈りの中に加えられていたにもわらず、
既に六ヵ月を超えても腰部脊椎神経の麻痺は治らないのであった。

或る日、この青年から右の事実を告白した手紙が来た。それは前非を悔いた手紙
であって、姦通した二人の女性のうちの一人とは、その女の産んだ可愛い
赤ちゃんが側で二人の行為を見ている前で、「どうせ赤ん坊のことだから見ていても
何をしているか分らないだろう」と思って行為したという告白であった。

”その幼い子供の純粋な心を汚したことを思うと耐えがたい悔恨だ”
というような反省がその手紙にはあらわれていた。

腰部は色情帯であって其処に健康に故障が起こるのは
色情の過ちが具象化するのである。

・・・

【六日のことば】~ あなたの良心の審判から免れることはできない

赤ん坊は見ていないかも知れない。
又たとい見ても無関心で、何のことか行為の意味を解しなかったかも知れない。

本人以外誰もそのことは知らないかも知れない。
”天知る地知る”といっても部屋の中で、天も地も知らないかも知れない。

神もそれは看過すかも知れない。
神は見ていても直接には神罰を下すことはないであろう。

しかし本人の意識はそれを知っているのである。

肉体の全細胞はその行為について連関(かんれん)をもっていて、
その行為に対して反応を示すのである。
その反応の一つが「腰が立たぬ」ということであった。

それは同時に彼の意識の自己処罰であった。
「下腹部を立ててはならない」と彼の潜在意識の自己批判はこのように考えた
のであった。そして彼の下腹部から下方が全然不随になったのである。

私たちは、何人も知らぬと思い、神の罰もないと思っても、自分自身の良心が
与える判決の前には、人は何の抵抗もなくそれに随わねばならないのである。

・・・

【七日のことば】~ “過去の業”が目を醒ます時

ツーロンの港に伝染経路不明のコレラ(激しい白色下痢を起こして水分が欠乏して
死する病気、法定伝染病)が発生したことがあった。
最初の発病者はフランス政府の輸送船モンテベロ号の二人の船員であった。

この船は長期間使われずに港の入口にもやってあった老朽船で,嘗ては不要の軍の
装備の廃品の倉庫がわりに使われていたことがありフランスの兵隊でコレラに
かかってセバストボールで病死した兵員の装備もそこに、ほり込まれていたことがある
ことがだんだんわかって来たのであった。

この二人の新たにコレラに罹った船員は、最近この船に乗って、船艙の底に
使われずに棄てられていた兵隊の持物の残骸を引っぱり出して船艙を掃除したことが
判明したのであった。

そのときモンテベロ号の船艙に眠っていたコレラ菌が目を醒まして活性となり、
この二人の船員を捉えたのであった。

私がこの話を引合に出したのは病菌の伝染経路を語るためではないのである。

或る”行為の業”は、種となって、此のコレラ菌の如く、見えざる世界に眠っていて、
或る機会が来ると、その”行為の業”が目を醒まして活性となり、その業の報いを
穫りとらせることになるのであるから、

吾々は日常生活中に、ちょっとでも、”悪い行為”を種蒔いておかないように
注意しなければならないということが言いたかったのである。

・・・

【八日のことば】~ 無意識の完成について

剣の修行も、英語の修行も同じことである。

毎日の修練が一つ一つの鎖の“環”を形造って、潜在意識の底にそれが蓄積され、
敵が襲って来るとか何事かが起こったとき、或いは何かを英語で喋らなければ
ならなくなったとき、潜在意識の底に積み重ねられていた”業の蓄積”が
(この場合は)自動的に動き出して、適当に敵の刃を払いのけ、敵を一撃の間に
斬り仆す動作となったり、自動的に英語が喋れるようになったりするのである。

そのためには修練を重ねなければならないのである。

いちいち現在意識考えながら剣を揮っているようなことでは敵の急襲に反撃する
ことはできないし、相手が早口にしゃべって来るのに、一々現在意識で単語を
文法に合うように置きならべてから応答しているようなことでは日常会話の
役に立たないのである。

たんに剣の打ち込み方を型で習っても修練を重ねなければ
やり方はわかっていてもその通りに剣が動かないのである。

このように舌を曲げ、唇をこのようにして発音するのだと知っていても修練を
重ねねば、咄嗟の場合にその通りに口が動いて発声できないのである。

良き事の”行為の業”をたびたび重ねることによってのみ、
無意識の良き行動が完成する。それが良き性格の形成である。

それと同じく悪しき事の“行為の業”を重ねることによって、
“悪しき行為をやめよう”と思っても、潜在意識が“悪しき行為”を
無意識のうちにやらせてしまう。

だから日常生活中の小事にも、
悪しき事を習慣とするような生活は慎まなければならない。

・・・

【九日のことば】~ 超越意識の自己審判について

私たちの潜在意識の奥には、
自分自身の行為を自己審判する超越意識が存在する。

それは“良心”とも通俗的に呼ばれるものであって、
良心は人類共通に同一の審判の規準となるものをもっている。

随ってそれは、普遍的な意識であって”殺生”に対しては誰でも、
“それは善くない”という審判を下すように、
共通的判断の規準を備えているのである。

しかし、吾々は実際生活に於いて時々、その規準を犯して行動するのである。

そのようなとき、吾々の超越意識はそれに対して、“自己懲罰”の判決を与える――
すると潜在意識が、その刑の執行係となって、無意識行為によって自分に対して
苦痛や病気や不幸や災難を与える方向に動き出すのである。

その時、その人は自分の潜在意識を“敵”又は“処刑係”に廻すのであり、
現在意識が如何に幸福を求めても不幸が来たり、富を求めて行動すればするほど
失敗して損になったり、健康を如何に求めても病気が治らなかったりするのである。

こんな時、心がクラリと転向して前非を悔いて、生活の方向を一変するとき、
特赦の恩典に浴するかの如く、病気が突然にして消え、
運命が突如として好転することが起こったりするのである。

・・・

【十日のことば】~ “最初の一回が大切である”

“一ぺん位良いだろう。なんでも経験してみなければ分らない”などといって
煙草を喫んでみたのが抜きがたい喫煙壁の始まりであったり、

一ぺん競馬、競輪に賭けてみたとき、旨く大穴に当てて賞金がとれたのが病みつきで、
とうとう働かずに賭け事ばかりの熱中して財産も人格も滅茶苦茶にしてしまう人もある。

“一ぺんは赤線街を覗いてみないと話にならぬ”と遊里に足を踏み入れたのが因で、
商売女にひっかかって生涯を堕落に身をもち崩すことになる人もあるのである。

小事大切、最初の一回が大切だ。

トルストイの『復活』の女主人公カチューシャは、一回だけ、その雇主なる
公爵の息子ネフリュードフに貞操を犯されたのが因で、
その生涯を堕落せしめることになったのである。

”行為”は一回であっても”業”をそこに造るのであり、
“業”は“業”自身の力によって自動し始める。

そして人間は往々、この”業”の自動力に引きずり廻されることになるのである。
これを「業力によって転ぜらる」というのである。

・・・

【十一日のことば】~ 過去の”悪業“に負けるな”善業“を創造せよ

潜在意識の録音テープは、吾々のテープレコーダーよりも、もっともっと
精妙に一切の自分の想念・言葉・行為を記録して、どんな精細なことでも、
それを記録からはずしてしまうことはないのである。

そして録音テープをテープレコーダーにかけて音を再生せしめるならば、前と同じ音を
そのまま繰り返すのと同じように、一度我々が行った行為は、同じような環境条件が
再来したときに、同じような行為を繰り返すことになり勝なのである。
(意志の力によってそれに抵抗し、新たなる良き業を創造するときは別である。)

諸君は常に新しき”良き業”を創造して、”悪しき業”があらわれて
動き出す隙間を与えぬようにしなければならないのだ。

・・・

【十二日のことば】~ 幸いなるかな、安全の水路のみを航するもの

ある新しい船員が25年間、船長をしているベテランの海員に、

「船長となって船を安全に航海させるには、どこにどんな浅瀬があるか、
どこにどんな暗礁があるかを詳しく知って置かなければならないでしょうね」

といって訊いたら、

その船長は、

「そんな事はありません。どの水路がいちばん深いかを知っていればよいのです。
浅瀬や暗礁を探し廻っていたら自分の船は幾艘あっても足りません。
吾々は、唯ふかいところだけを知って、その水路ばかりを航しておれば
間違いないのです」

と答えたのだという。

つまらない経験を「一度は経験しておかなければならない」などとやっていると、
暗礁にぶつかって自分の運命の船が破壊して沈没してしまうのである。

・・・

【十三日のことば】~ 「一度だけ」が生涯を誤まる因になる

「一度だけ」「少しの期間だけ」「ちょっとの間だけ融通して貰っておこう」
このような一時的な”小悪“で、誰も知らぬ間に返済しておけばそれは誰にも
損をかけないじゃないか

―― などと甘い考えを起こしたのがもとになって、汚職が生じ、
一生涯の運命を台なしにしてしまった人々は随分たくさんあるのである。

一寸のことを、おろそかにしたために一切が駄目になることが随分ある。

「千丈の堤も蟻の一穴から崩れる」という古諺もある。

何事も行き届いて、小さい過ちでも、
それをただ一回でもやらないように心懸けなければならぬ。

一回ぐらい、もう一遍ぐらいと思って、自己を許しているうちに、
いつの間にかその行為が繰り返されて習慣の奴隷になってしまうのである。

・・・

【十四日のことば】~ すべての行為は記録させられている

すべての行為は記録せられ数えられ、
それを清算しなければならない時が来るのである。

それは宇宙の潜在意識に記録せられているのである。

自分が忘れてしまっていても、
宇宙の潜在意識は、個人の超越意識と融合していて、
或る時期が来たとき、審判して判決を下すのである。

不幸に逢ったとき、その不幸は、そのとき初めて発生したのではないのである。

それは過去の或る機会に自分が種を蒔いておいた行為(想念及び感情も心で行う
行為の一種である)から実ったものの収穫であるのである。

私たちは幸福になろうと思うならば、
“善き行為”の種を蒔かねばならぬのである。

・・・

【十五日のことば】~ あなたの表情を明るくする習慣を養え

私たちが常に養成しておかなければならない良き習慣は、
常に明るい心を持ち、明るい表情をする習慣である。

この世界には“類を以って集まる”という法則が存在するのであって、
明るい心をもっておれば明るいものが集まって来、
明るい運命が訪ずれて来るのである。

眉の間に皺をつくったり、鼻の上部に縦皺をつくって、
いつも険しい表情をしているような習慣は、その人に、やがて不幸を喚びよせる
霊波をもって世界に通信しているようなものである。

少年時代から常に自分の表情を明るく、
人から懐かしがられる習慣をつくって置けば
将来必ずその人の運命は発展するのである。

・・・

【十六日のことば】~ 明朗な”ハイ“という返事を

返事をするのでも、明るい語調で返事をして、それを聞いている人に
気持ちの良い感じを与える者の運命は屹度伸びて、
幸運を迎えることができるのである。

“ハイ”という発音は文字に書けば同じようであるけれども、
「うるさい!!」というように聞こえる“ハイ”もあり、
面倒くさそうに聞こえる“ハイ”もある。

私たちは、明朗に素直に、魂の呼びかけに
魂が溌剌と答えるような“ハイ”という気持ちのよい返事をするよう、
少年少女時代から習慣をつけておくことが大切である。

嫁に往ってからや、大人になってから、つとめて、よい気持の“ハイ”という
返事をするようにしようと心掛けても、その反対の語調で返事をする習慣が
ついていたり、返事をせずに物ぐさく行動にうつる習慣のついている人には
“ハイ”という返事を気持ちよくすることは中々むつかしいのである。

・・・

【十七日のことば】~ 事物の光明面・内在の意義を見ること

明るい語調で返事をし、明るい語調で話をする習慣をつけると同時に、
常に明るい心をもつ習慣をつけて置くことは、
運命に対して不死身の性格を養うことになるのである。

明るい心は、どんな不幸も吹き飛ばしてしまって
幸福を呼び寄せる事になるのである。

どんな時にも、事物の明るい面を見、不快なことや不幸なことが起こって来ても、
それの奥にあるところの深い意義を考えて、思い直して見るようにするならば、
人生には到るところに良き教訓が漲っているのであり、

自分に対して辛く当る人も、自分を鍛えて下さる鉄槌であり、
観世音菩薩が夜叉の仮面をかぶって私を善導して下さるのだと思えば、
明るい感謝の心をもって、万事を迎えることができるのである。

これも常にそのように心懸けているならば、それが心の習慣となり、
すべての人に、事に、物に和解して、万事が円滑に搬んで、
何事も順調に行くことになるのである。

・・・

【十八日のことば】~ 現行憲法の不道徳性

現行の憲法は、人間の道徳性を破壊して、
善悪の基準を混乱せしめるようにつくられているのである。

数ヵ月前の出来事であるが、ある会社に入社のとき、一人の女性が、
妊娠して子供が出来たら職場から退くという契約書を入社時にその会社に入れて
就職したのであった。

ところが、彼女が子供を産んだので入社時に契約した通りに、
会社はその女性を解雇したのであった。

何年か経ってその女性は不当解雇であるから、解雇期間も就職中と認めて
賃金を支払えという訴訟をした。

すると裁判所では、憲法第十四条にはすべての国民は法の下に平等であると
規定されており、憲法第二十七条には「すべての国民は、勤労の権利を有し義務を負う」
とあるから、婦人にして子供が出来たから解雇するという約束は、憲法に
規定されたる法の下に平等の権利と勤労のとを犯すところの契約であるから、
そのような契約は本来為すべからざる契約であり無効である。

それゆえ、原告の要求通り、会社は解雇中の給料を支払うべし
という判決が下ったのであった。

これでは「人間はウソをついてもよい」という判決をしたわけである。

「相互の契約があっても、基本的人権と称するものを侵害する契約は無効である」

というのであり、「相互の信頼による契約」よりも、憲法の屁理屈的解釈の方が
優先するというのであれば、今後、人間は相互に約束を信頼できないことになり、
滅多に契約できないことになり、社会的秩序が混乱してしまうではないか。

しかも契約に従って解雇され、出勤していない期間の給料も会社側が支払わねば
ならぬというに至っては、会社の財産権というものは無視されているではないか。

・・・

【十九日のことば】~ 現行憲法はこのように悪用される

 現行憲法にもとづいて「ウソをついてもよい」という判決をした実例が
さらにもう一つ出たことが最近また一つあるのである。

それは横浜市港北区日吉東町一七七五小泉方、県誠而氏が東北大学経済学部を
卒業して三十六年四月一日富士通信機製造株式会社に入社したが、入社までの
経歴書には、学生時代共産党員であったことを書かずに経歴を胡麻化して入社した。

それは経歴を偽ってウソをついて入社したのであるからとて、
会社側は県氏を懲戒解雇したのであった。

それに対して県氏は解雇無効確認請求訴訟を提起した。

その訴えは東京地裁民事十一部で審理されていたが、駒田駿太郎裁判長は、

「共産党員であったことを理由として解雇することは憲法第十四条の「法の下に平等」
の原則に反し、憲法第十九条には”思想及び良心の自由“が保障されている
のであるから、自分の思想を隠すことも、思想及び良心の自由の権利に含まれている
のであるから、このウソをついたことは合憲性であって違憲性でないから、
これを理由とした解雇は無効であるから、解雇中の賃金九十四万四千六百五十五円を
原告に支払うよう会社側に申し渡した」

というのである。

・・・・・・尚その理由による解雇無効は継続しているのであって、
永遠に解雇できないとしたら会社側は永遠に出勤せざる県氏に給料を支払わされる
のであろうか。

ウソをつくのも、「思想及び良心の自由」の中に入る現行憲法は果たして
正しいのであろうか。

「思想及び良心の自由」といって全国民が平気で真実を語らずウソをつき出したら、
人間相互の信頼は失われ、社会の秩序は混乱してしまうではないか。
毎日毎日がエープリル・フールの状態になるのである。

こうなればまことに現行憲法は益々道徳無視の憲法であるという
馬脚を暴露したといわなければならないのである。

・・・

【二十日のことば】~ 果たして現行憲法は道徳的に正しいか

人生の最初の出発の方向が正しければ
その人の到着点もただしいということができるのである。

出発の最初に於いて、反対の方向に向かっているならば、、
努力して前進すればするほど、到着点から遠ざかってしまうものである。

単に目標から遠ざかって行くだけではほろびの道を歩むことになるのである。

「良心の自由」などというような事が現行憲法に定めてあるとするならば、
「泥棒するのは正しいと思う。貧しき者が富める者から奪うことを自分の良心は
善とみとめる」ということを国民がいい出して到る処に盗みが発生しても、
裁判長は、これは憲法第十九条で定められている「思想及び良心の自由」であるから、
何ら違法性はみとめられないという判決を下すであろうか。

こんな歪曲自由の憲法があってよいものであろうか。
                     
・・・

【二十一日のことば】~ 業は連鎖反応を起こしてついに性格破産に導く

諸君は現行憲法にどのように定められているにしても、
「憲法が許しているから、ウソをついてもよい」などと甘いことを
考えてはならないのである。

最初の一つのウソが暴れたら困るというので、
最初のウソを覆い隠すためにその人は次のウソを言う。
そのウソを胡麻化すために、また次のウソを言う。

こうしてその人はウソを告く業を重ねて、業の連(金偏の)の縛り
の中で、本当の「良心の自由」を失ってしまって「ウソも方便、
ウソをついても俺の良心はとがめない」などと空を嘯ぶく。

これは最初のウソの行為が循環的に連鎖反応を起こして、
ついに良心を麻痺せしめて、その人を性格破産に導く実例である。

「良心の自由」ということは、そのような「どんなことでも正しいと思う
自由がある」という意味ではないのである。

そんなことをいう人は「良心の麻痺した人、良心が麻痺して自由を失った人」
のことなのである。

・・・

【二十二日のことば】~ 「良心の自由」の本当に意味するもの

”良心”というものは人間に宿るところの“普遍的神性”の囁きであって、
万人共通の善悪の規準をもっているのである。

だから、「殺す勿れ」「盗む勿れ」という風に人類共通の判断を下すのである。

その判断を正確に実行することが、「良心の行使の自由」であって、
その良心の判断を色々に胡麻化して、「殺すこともよい、盗むこともよい、
ウソをつくのもよい、私の良心は、自由自在に時によって判断をかえる自由がある
のである。これが憲法に定められている良心の自由である」などというのは、
実は「良心の自由」を失って「良心の麻痺」である。

「良心の自由」と「良心の麻痺」とは全然異なるのであろう。

自由を確保した良心は、磁石が一定の方向を示すが如く、常に一定の行為の規準を示す。
しかし麻痺した良心は、常に一定した規準を示すことなく、磁性を失い、
磁性が麻痺した磁石の如く、常に一定の方向を示さず、出鱈目な方向を示すのである。

・・・

【二十三日のことば】~ 日本はこれでよいのか

最初の間違った実行が、それが連鎖反応を起こして重なるに従い、
それが習慣となり、習慣が第二の天性となり、本来の天性なる”神の子”たる
正しい良心の判断を麻痺せしめてしまうことになるのである。

一事が万事を惹き起こす。
類が類を招き寄せて、悪業がふくらんで行くことになるのである。

例えば「なまける」という悪徳の一つがその人の習慣となると、
職場や色々の会合への出席時間に遅刻することが起こり、
「なまけていまして遅れました」などと正直にいっては、相手の気持を害する

と思って、他にウソのアリバイを作って遅刻の理由を言い訳をする
・・・・・こうしてウソを覆い隠すためのウソを生じ、
更にそのウソの辻褄を合わせるためにウソをつかざるを得なくなり、

彼はついに「欺く勿かれ」「妄語する勿かれ」の戒律に対して不感症になり、
換言すれば「良心の麻痺症」に罹るのである。

そして、しまいに「ウソをつくのを正しいと思う思想の自由、良心の自由」を
強調してそれが当たり前にだと思うようになる。

そんな人間が、神聖なる裁判の法廷に裁判長となって、「ウソを言った人」の味方に
立ち、「これは憲法に定められている良心の自由」であって、「違法ではない」と
判決して、正しい人が馬鹿を見て、悪い人の行為が合憲法であるとせられる。

果たして、日本はこんなことでよいのだろうか?

・・・

【二十四日のことば】~ 一度でも良心を欺いてはならない

ギリシャの哲人プラトーは自分の部屋の扉に「幾何学を知らざる者はこの部屋に
入る勿かれ」と書いて貼っていたと伝えられている。

それは単に数学の一部門たる幾何学に重点を置いたというよりは、
「数学的に正確にものを考える者のみを歓迎す」という意味であると私は思うのである。

「こうすれば、こうなる」という精確な判断は“幾何”(現今は、“図形”
という名で学校で教えられている由)の勉強によってきたえられるからである。

一つの行為が次の行為が次の行為を引き起こして、
それが次第に強力な業となって自分を縛る綱となるというような推論は、
精確な幾何学的頭脳によって判るのであって、

「一ぺん位は煙火(たばこ)を吸ってもよいであろう」
「一ぺん位は赤線地帯で遊んで見た体験は自分の人生を豊富にするだろう」

などということを考えて、自分の良心の囁きを、色々の口実で、一ぺんでも胡魔化
したら行く行く自分の鋭角はどうなるか――精確な幾何学的推論で考えるがよい。

・・・

【二十五日のことば】~ 一つの行為が自分の性格形成に如何に影響するかを考える

業というものは、深く自分の潜在意識の海の底に、
自分の「良心の自由」の信仰を停止するための錨となって重く沈む。

既に出航の時間が来ているのに、そして出航の汽笛が吹奏され、
銅鑼が鳴り渡っているのに、その船は動かないのである。

それは何故であるか、卸していた錨が重く海底に沈んでいて
船の足をひっぱっているからである。

悪習慣 ―― なまけものの生き方 ――一 つが重い錨となって
その人の足をひきずり、全生涯を崩してしまうこともある。

出席日数不足で、2回も大学卒業を辷った青年もある。
それが不思議なことにもう1年その大学にいて今度こそは卒業証書を
もらいたいというのである。卒業証書という紙よりも重大なのは、自分の性格形成である。

日々の”なまけ”が如何なる性格を形成するか、
もう少し幾何学的に、数学的に計算してみるとよいのである。

三度も同じ大学に止まって、同じ先生から同じ学科の講義を聞くのは
中々退屈な修行だと思うので、今学年もまた出席日数不足で落第ということに
ならねばよいがと心配してあげている訳である。

・・・

【二十六日のことば】~ “良心の自由”について

有名な話であって、私たちの少年時代に教科書の採録されていた話であるが、
ジョージ・ワシントンは少年時代に日常生活に行うべき徳目を百十カ条書いて、

それを実行し得た時には、その徳目の上に〇を付け、その徳目に反いた場合には●を
つけて、自分の日常生活の習慣が善に傾いて行くための示標として、
よき習慣をつけるように工夫したということである。


ベンジャミン・フランクリンもそれに似たことをして
自分の性格形成に意を用いたということである。

「思想の自由、良心の自由」ということは決して、「どんな悪い思想をもってもよい、
自由だ」ということでもなければ、良心の判断を誤として、「他の人が悪だと思う
行為でも、僕には善だと思う自由がある」ということでもないのである。

良心の正しい批判を完全に行なわしめて、悪によって誘惑されず、
善を行なう自由を覆されないということである。

・・・・

【二十七日のことば】~ 実践理性の判断をくらましてはならない

凡そ、すべての人間は神の子であるから、
神性の自己批判――即ち道徳規範となるべき善悪の標準――は
共通的な判断を下すのである。

「他の人が悪だと思っても、自分には善に思える」などということは、
“良心”に関する限りあり得ないのである。

それは二を二倍したら四になるという理性的判断が一つの公理として、
あらゆる人間の理性の判断に於いて共通であると同じように、善悪の理性的判断は
共通であるのであって、この判断の主体となる理性を、カントは「実践理性」と
呼んだのである。

“殺す勿れ””盗むなかれ“”ウソを告げる勿れ“
それを犯した場合には、何人も共通に、内心のトガメを感ずる。

それが人類共通の“良心”即ち“実践理性”による批判なのである。

しかし或る人は二を二倍して五になると感ずるとするならば、
その人は精神錯乱か何かであって理性の混乱しているのである。

それと同じく「”殺す勿れ“などという良心の囁きなどはない」
という人があるならば、その人は道徳的には精神が錯乱していて
実践理性が麻痺状態に陥っているのである。

・・・

【二十八日のことば】~ 汝自身を清く純粋に

諸君は、自分自身の“良心”を麻痺せしめてはならないのである。

”良心”とは自己に宿る“神性”であり、あなたが“神の子”である本質
又は実相であるのである。

自己の生命の“本質”又は“実相”を麻痺せしめては、自己自身の死であるから、
どんな肉体の快楽や物質的利益を与えるからといって、迫って来ても、あなたの
良心の判断によって、”悪い”と感ずることは断じてしてはならないのである。

あなた自身の良心の囁きを、曇らせたり汚してはならないのである。
あなた自身を“純粋”に保たなければならない。

純粋とは、唯ひとすじに自己の本質たる”神性の指示“
――即ち”良心の判断“に忠実に従って、どんな誘惑が来ても、
純粋で”二た心“をもたないということである。

・・・・

【二十九日のことば】~ 最初の一回が大切である

“点滴、石を穿つ”という諺がある。

小さい悪習慣を「この位のことは、それほどの悪でない」と
易々加減な甘い考え方で、悪いと知りながら止めないでいると、
結局自分の性格を破壊してしまうことになるのである。

大きな釣鐘をただ一ぺん力を籠めて押しただけでは殆ど動かないのであるが、
その釣鐘の振り子の振動数に合わせて、繰り返し繰り返し押しているときには、
何百貫の大きな釣鐘も、ついにはブランコのように揺れてくるのである。

あなたがかりに、どんなに強い性格をもっていても、一ぺんや二へん位、
悪い友達に誘われて遊びに行っても、それで生活を持ち崩してしまうなどという
ことはないと思っていても、

一ぺん友達の誘いに乗れば、次の日の誘いに断り切れなくなり、
それを繰り返すうちに、釣鐘の揺れはじめるのと同じように、
あなたの盤石の性格も揺れ動いてしまうのである。

最初の一回を犯せば、その次は幾回でも犯されやすくなるのである。

女性の貞操でも同じことである。
最初の一回誘惑に乗ったために一生涯ヤクザにおどかし続けられて悪徳の世界から
抜け出すことのできない女性もたくさんあるのである。

・・・

【三十日のことば】~ あなたは賢者の道を歩め

どんな疫病よりも、悪癖というものはその人の性格を滅ぼしてしまうのである。
そして悪癖の習慣というものは、“最初の一回”の積み重ねであるのである。

何人も最初の一回を慎めば、生涯悪癖に苦しむことはないのである。

悪癖にまで誘惑する友達は、生活を蝕む道徳的ビールスの撒布者であるから、
そのような友達から遠ざかるのが賢者の道である。

あなたは賢者の道を歩め。

・・・・

【三十一日のことば】~ 悪癖を矯正するための思念

しかしすでに悪癖の習慣をもっていて、それから脱しようとしても脱することが
できず、常に良心の呵責に苦しめられている者は如何にすべきであろうか。

あなたには悪癖を心につかんでいて
それから逃れようと思うから逃れることができないのである。

“つかんでいるもの”は掴んでいる其の事によって、
それから離れることができないのは、“心の法則”であるのである。

それから離れるためには“つかみ”を放さなければならないのである。

「私はこのような悪癖になやまされている」と心で思うな。
心で思うことは心でつかんでいることなのである。

次のように、神想観中に念ずるのがよい。――

「私は“神の子“であり、神の生命を宿し生れているのである。
それゆえに私の日常生活は神の知恵に導かれているのであるから、
決して悪癖などは私の生活にはないのである。

私は“神の子“あり、ただ善のみを行うのである。


(例えばその人が喫煙癖の場合には)

“神の子”はすべてのものを支配する権能(ちから)を与えられているのである
から物質に支配されるということはないのである。支配される者は奴隷である。

煙草という物質に支配されて、煙草がなくては淋しいというのは煙草の奴隷である。

私は決して煙草の奴隷ではないから、煙草を吸わなくとも淋しくないのである。

私は“神の子”として“神の愛”に包まれているから唯このままで楽しいのである。」

Re: 「青年法語」~青年よ悪習慣の鏈(くさり)を断ち切れ - 道産子

2016/08/19 (Fri) 07:43:20



    伝統様、ありがとうございます<m(__)m>。

 かくなる青年が養成されれば、さぞや大聖師も御満足と思われます。

つまみ食いの習性は深く慎まなければならないとは自認しているのですが・・・、まだ未熟者です。

伝統様に諭されたような気分でおります。ただ、ありがとうございます。

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