伝統板・第二

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祝福(Congratulations)② - 伝統

2016/07/20 (Wed) 03:45:00

    *伝統板・第二「祝福(Congratulations)①」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456467


《人類全体を祝福する祈り》

           *「真理の吟唱」(P262~265)より

神はすべての創造主(つくりぬし)であり給う。
神は全能であり給う。
神はコトバにて万物を造りたまうたのである。

その全能なる神のコトバわれにやどり給うてわが生命(いのち)と成り給えり。
されば我(わ)がコトバにて宣言することは必ずそれが具体化して
現象界に現われてくるのである。

われは神の大いなるコトバの力にて、
豊かなる富が人類に実現することを宣言するのである。
それゆえに、時間空間面に於ける秩序を通して
必ず豊かなる富は世界の人類に実現するほかはないのである。

われは今、神の大いなる”言葉の力”にて
人類全体の幸福を宣言するのである。
それゆえに人類全体は必ず幸福になるほかはないのである。

われは今、神の大いなる”言葉の力”にて
人類全体の平和を宣言するのである。
それゆえに人類全体は必ず平和になるほかはないのである。

われは今、神の大いなる”言葉の力”にて
人類全体の正しき方向への進歩を宣言するのである。
それゆえに人類は必ず正しき方向へ進歩するに相違ないのである。

われは今、神の大いなる”言葉の力”にて
人類全体の健康を宣言するのである。
それゆえに、人類全体は毎日層一層健康を
実現して行くことに間違いはないのである。


かくてわれは神の大いなる言葉の力にて人類全体の富裕と、幸福と、平和と、
健康との念を宇宙に放送するがゆえに、
それらは必ず実現するとともに、
その反響として人類の富も幸福も平和も健康もことごとく
自分に撥(は)ね返ってきて、私は全人類から祝福される人となるのである。


まことに私は、神が人類を祝福せんが為に遣わされたる天の使いとして
全人類を祝福するがゆえに、
われに還り来る祝福もまた無限であって限りを知らないのである。


無限の進歩向上が自分には約束されているのである。
今日もまた自分は進歩するのである。明日もまた自分は進歩するのである。
進歩し向上することは、まことに悦ばしきかな。


神は無限の内容をもちたまうがゆえに、
神の自己顕現である自分は、時間空間のスクリーンを通して
その無限を展開して行くのである。

内容が無限であるから、どれだけ進歩向上しても、
尚(なお)なお向上発展の余裕が残されているのである。


私は、今日(きょう)も生長し前進する。
私は、明日(あす)も進歩する。
私は、さらに明後日(あさって)も向上するのである。

生長、進歩、向上は、神の子たる者、
神の自己顕現である自分の使命であるのである。

自分は何物にもこの進歩向上を阻まれるということはないのである。
自分の前進を妨げる者は何処(どこ)にも存在しないのである。
進歩は神の御心であり、生長は神の意志である。

私は、常に善き方向に新しく進むのである。
私は、神とともに前進し、神とともに新しきアイディアを生み出し、
神とともに常に新しき生活に進み行く。

われは幸いなる者なるかな。
神に深き感謝を捧げます。

・・・

<関連Web:光明掲示板・第一「祝福 (9383)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1786 >

           <感謝合掌 平成28年7月20日 頓首再拝>

祝福すべきかな変化無常 - 伝統

2016/09/01 (Thu) 03:49:40


           *『生活の智慧365章』(P162~163)より

この世は無常の世界であり、変化の世界である。
その変化無常を、好転の方へ変化せしめるか、凶転の方に変化せしめるかの
鍵を握っているのはあなた自身なのである。

若し変化無常の世界でなかったならば、
吾々は日本の景色に春夏秋冬の異なる美を楽しむことができなかったであろうし、
幼児から少年少女への生長の悦び、そして青年期の元気溌剌とした活動と進展の悦び、
そして家族をつくって家族相和す悦び、老いて孫をいだく歓びなど色々異なる悦びなどの
境涯を体験することができなかったに相違ないのである。

 
朝を迎えて東天に太陽はさし昇る、
そして落日は黄金色に西海に沈むのだ。

何という荘厳! 

何という変化の美ぞ。

落日の反映を受けて、刻々、紫から淡紅(うすべに)に、淡紅から淡紫に変化し行く富士の嶺。
そして紅のような暈(くま)をもつ雲海によってその麓をかこまれている富士の嶺。
私は刻々その位置を変化する飛行機上からこの秀麗きわまりなき富士の山容を見て感嘆した。

若し富士にこの変化がなかったらそれは唯、死灰(しかい)の堆積。

ああ変化無常こそ神の生きた芸術である!

           <感謝合掌 平成28年9月1日 頓首再拝>

自分に損をかけた人を、心の中で祝福する - 伝統

2016/09/07 (Wed) 04:27:12


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P75<9月7日>)より

他(ひと)の借金を支払ってやるくらいでないと
本当に無限の富の源泉を捉えることはできぬのである。

といってそれは紙幣や小切手で支払ってやることではない。

貧しき者を心の中で祝福してやり、

「なんじは神の子であって神の無限供給によりいっさいの負債(おいめ)は支払われ、
今、なんじはすでに無限の供給を受けているのである」

という意味のことを思念してやることである。

特に自分に損をかけた人に対しては、なおいっそうこの思念を恵み与えてやることが、
かえって彼を富まして、その損失を償(つぐな)うだけの力を養ってやることになる
のである。

ところがたいていの人は自分に損をかけた人を祝福するどころか、
憎んで「不幸になれ」と念ずるから結果は反対となり損失は償われないことになる。

             <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>

《難問題も祝福すれば解決する》 - 伝統

2016/09/18 (Sun) 04:57:05


        *『生長の家』(昭和25年8月8日の法語)より

   すべての難問題を解決しようと思う時に、
   「 我 」 の考えを出してはならないのである。

   我の心が難問題を解決しようと思う時には、
   事物は却って もつれた糸のように紛糾してしまうのである。

   すべての難問題を解決する道は、
   その問題に引っかからず、その問題を悪と見ず、

   それに感謝し、それを祝福し、
   その問題に関係しているすべての人々に
   感謝の念を送ることなのである。

   そして神に祈って 神が無限の智慧を以て
   此の問題を解決し給うと念ずる事である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

             <感謝合掌 平成28年9月18日 頓首再拝>

《不調和を愛念で祝福せよ》 - 伝統

2016/10/02 (Sun) 06:29:25


         *『幸福を招く365章』第9項(P188~189) より

若しあなたの周囲に不調和が満ちているように感じられるならば、
それは貴方の心に不調和があって、それを感じているのである。
貴方の心の内にないものは決して感ずることは出来ないのである。
 
先ずあなたの心の内の不調和を除き去れば周囲の不調和も消えてしまうのである。

「神の愛、われに流れ入りて、光輝燦然と輝き給いて、わが周囲の人々に愛念を送りたもう」

と繰返し念じ祈るのがよいのである。

どんな人でも愛念に動かされない人はないのである。

愛はすべてのものを調和に導く最強力なる力である。

どんな不快な状態でも根気強く、

「この処を神の愛が祝福したもう、神の愛の充つる処はすでに光明輝いている」

と念ぜよ。 

また次の如く念ぜよ。

「わが内に神の愛は流れ入りたり。神の愛われに於いて燦然然と輝きたもう。
われは幸福である。最早 自分は不幸になることは出来ないのである。
自分は幸福のほかはない。われは祝福されたる者である。

われはすでに高きレヴェルに住む。
悪意や、嘲笑や、非難や憤(いきどお)りのレヴェルよりも
既に一層高くのぼったのである。

われは彼の行い、彼の言葉によっては、もはや彼を批判しないのである。

われは表面によって人々を判断しない。
人々の内にやどる神性仏性によって判断し、そして全ての人々を拝むのである。

人々の言葉や行いが、自分にとって不快なものであろうとも、
それをわれは花びら降る美しさに感ずるのである。」

             <感謝合掌 平成28年10月2日 頓首再拝>

あなたの身体を言葉をもって祝福しなさい。 - 伝統

2016/10/16 (Sun) 03:23:45


        *「生長の家」(昭和43年2月19日の法語)より

あなたの身体は決して物質でできている肉体ではないのである。
それはたとえ肉体のように見えても、それは神の霊によってつくられた霊体である。

そして、それが創造られたそもそもの始めから完全につくられているのである。
だから、自分自身の身体に向かって次の如く
心の中で、”言葉”をもって祝福するのがよい。

「あなたは神の最高の自己顕現として最(い)と完全に作られた霊体であります。
霊体でありますから、温度や気象や微生物hによって決して傷つけられるよぅな事は
ありません。あなたは今も現に神につくられたままに完全な健康な身体であります。


http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2756

             <感謝合掌 平成28年10月16日 頓首再拝>

神の祝福は万人平等 - 伝統

2016/10/25 (Tue) 04:17:55


          *「光明法語(10月25日)」より

神の祝福の流れに乗ると云うことは、
神は或る人を祝福し、或る人を祝福しないと云うことではない。

神は善人にも悪人にも太陽が照らすが如く、
祝福の波を放送してい給うのである。

祝福の流れに乗らないとは、神の祝福の波長を感受するような
「神と同波長の心の波」を起さないと云うことである。
だから祝福の波があってもそれを感ずることが出来ないのである。

それは又たとえば、太陽はすべての人を照らしているが、
目を瞑っている人には見えぬ、
これを祝福の流れにのらぬと云うことである。

             <感謝合掌 平成28年10月25日 頓首再拝>

神の祝福の流れに乗るには - 伝統

2016/10/26 (Wed) 04:30:54

          *「光明法語(10月26日)」より

神の祝福の波長に、合わぬ心と云うのは、怒る心、憎む心、怨む心、悲しむ心、羨む心、
嫉妬する心、猜疑する心、悪を予想する心、取越苦労する心、持越苦労する心、
口惜しい残念な心、陰気な心、沈む心、審判(さば)く心、争う心、斬り合う心、
焦(いら)立つ心、不平の心、あせる心、ケチな心

など大同小異の種々の色合(いろあい)をもった心である。

之等(これら)の心は神の祝福の波長とは調子が合わない。
神の祝福の流れに乗って何事も都合よく行こうと思うものは
是らの心を去らねばならぬ。

            <感謝合掌 平成28年10月26日 頓首再拝>

《時々自己を祝福せよ》 - 伝統

2016/11/08 (Tue) 03:38:19


         *『幸福を招く365章』第10項(P210) より

「われは神の子である。神より祝福されたる者である。
神の愛はわがすべての過ちをゆるしたまいてわれを祝福したまい、愛したもうのである」

斯う仕事の合間合間に、30秒か1分間でよいから、
眼をつぶってこの言葉を心の中に黙念せよ。

疲れたとき、憂鬱になったとき、この黙念をつづけるならば
不思議に憂鬱は去ってしまい、疲労は回復するのである。

更に静かに深呼吸しながら、

「神の生命(せいめい)流れ入りてわが仕事を導きたまう」

と念ずるならば、仕事を遂行するよき知恵が湧き出て来て仕事が順調に運ぶのである。

煙草を吸う人ならば、その煙をふかぶかと喫(す)いこみながら同じように念ずるのもよい。

            <感謝合掌 平成28年11月8日 頓首再拝>

すべてを祝福することが、自己を富ます道 - 伝統

2016/11/24 (Thu) 04:28:46


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P76<9月8日>)より

神はいっさいの本源であり、いたるところに充ち満ちてい給い、
われわれに無限に健康なる生命(せいめい)と、
豊かなる供給を与えていられるのである。

しかし、それはラジオの波のように肉眼には見えないのであって、
ただわれわれがそれに対して適当な条件を与えることによって
可視的(めにみえる)世界にあらわれて来るのである。


富める者に嫉妬し、それを搾取であると呪うことは、
「富」そのものを呪い、「富をもつこと」そのことを排斥することになるから、
その人は大いに富むことはできないのである。


貧しき者、損をかけた者を、
「無限供給」の思念によって祝福してあげるとともに、
富める者にも祝福を与えることがかえって自己を富ます道である。

             <感謝合掌 平成28年11月24日 頓首再拝>

《明日は必ず祝福されたものである》 - 伝統

2016/12/09 (Fri) 04:08:47


           *『 生長の家 』(昭和24年11月12日)より

   自分は明日を祝福する。
   もう私は未来のことについて思い患ったりしないのである。
   何故なら未来は、今と等しく神のものであるからである。

   神は吾が内に生き、吾が周囲に生き、すべての事物の内に生き、
   ありとしあらゆるものは 善きことの外あり得ようがないからである。

   吾れ神を知りしより後、神は常に吾が護り手であり、
   無限の愛と、無限の智慧と、無限の供給とをもち導き給うのである。

   時々刻々に 神の愛にとりまかれ、
   神の智慧に導かれ 神の供給に溢(あふ)れているのが自分である。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

             <感謝合掌 平成28年12月9日 頓首再拝>

真のキリストの降誕を祝す! - 伝統

2016/12/25 (Sun) 03:55:11


”神の子”があなたに新たに降臨する

      *「神と偕に生きる真理365章」(P339)より

クリスマスに臨んで、私は諸君に宿る”神の子”を祝福し、
その健康と幸福の源泉に燃燈(ともしび)を点ぜんことを願うのである。

今日、この日”神の子”は新たにあなたの内に自覚され、あなたは新生したのである。

神はこの日あなたを祝福して
”神の子よ、われは汝に完全なる健康を送る。われは汝の健康の本源である”
と宣言したのである。

”神の子よ、われ汝に平安を送る。われは汝の平和の基(もと)である”
”神の子よ、われは汝に、なくてはならぬすべてのものを裕(ゆた)かに送る。
われは汝のあらゆる供給の本源である”

”神の子よ、われは汝のいだく希望の本源である。
それゆえにわれは汝を祝福して必ず希望を成就せしめるのである”

”神の子よ、われは汝の生活の光であり、生活を導く燈台である。
その燈台の光に照らされ汝は今より後迷うことも躓くこともなし”
と宣言したまうのである。

まさにこれこそ、真のキリストの降誕である。

しずかに坐して神想観してこれらの神の宣言のことばを、繰り返し、繰り返し、
心の内に深く強く念ずるならば、

この神が”神の子”祝福して宣言せられた言葉の通りに、

あなたは健康となり、魂は平安を得、生活は無限供給を得て裕(ゆた)かとなり、
希望は成就し、今より後迷うことも躓くこともなくなるのである。

既にキリストは諸君の中に降誕したまえり!!


             <感謝合掌 平成28年12月25日 頓首再拝>

祝福されたる日として、朝をスタートせよ - 伝統

2017/01/11 (Wed) 03:44:04


        *「光明法語」(1月10日~11日)より


《目覚めてはかく念ぜよ》(1月10日)

朝眼が覚めたときが一日の出発である。
一日の出発を祝福されたるものにしなければならない。

一日の出発を祝福されたるものとするには、
既に与えられている祝福を数え上げることによって
それを感謝することから始めねばならない。

目が覚めると唇に「ありがとうございます」と感謝の言葉から
その日の生活を始めるのである。

眠っている間じゅう心臓を鼓動せしめ、肺臓を呼吸せしめ、胃腸をして消化せしめ、
色々の臓器をして各々の役目を完全に果たしことを神に感謝するのである。

              ・・・

《常に神吾を導き給うと信ぜよ》(1月11日)

朝目覚めたとき、不快の思いを起こすな。
今日その日が、いままでありし日のどの日よりも祝福されたる日であると信ぜよ。

而(しか)して「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」と
言葉に出して20回ずつ唱えよ。
然らば、毎日毎日が、その日までの凡(あら)ゆる日よりも
幸福な日となることが出来るであろう。

また汝ら仕事にかかるとき又は出勤するとき、
「神様、この日一日を神様の完全な御智慧(みちえ)にて導き給いて
過ちなからしめ給え」と祈れ。

しかして神が必ず導き給うと信ぜよ。然らばその日一日じゅう過ちはないであろう。

             <感謝合掌 平成29年1月11日 頓首再拝>

全世界を祝福する祈りを - 伝統

2017/01/25 (Wed) 03:26:09


        *谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱「存在と認識」 より
         (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=76

不平や憤怒に反して愛語、讃嘆、祝福の言葉は、
人々の心に快い感触を与え、悦びと満足の感情を増幅して、
それが更に類をもって集って雲の如く群がり、

憤怒や不平の心の波動の暗雲を調和し、中和し、それを無力化し、
更に積極的には、第7次元の実相世界にある円満具足の状態に、
心の波長を合わすことによって新しきエルサレム 〈神の国〉 を
地上に天降す力となるのである。

吾々が誌友会場及び教化部道場に於いて、集団の “平和の祈り” を行うことは、
肉眼では直接どんな効果も持ち来せないように見えても、
それはやがて空を蔽う雲のように平和の想念の雲が全世界を蔽って、
やがて遂に、世界に永久平和をもち来す具体的条件を整えつつあるのだ
ということができるのである。

各教化部道場や誌友会場にては常に近隣の誌友又は信徒一同集って 
“平和の祈り” を実行せられることを希望するのである。

             <感謝合掌 平成29年1月25日 頓首再拝>

《吾は祝福されたるものである》 - 伝統

2017/02/09 (Thu) 04:51:12


            *『 生長の家 』(昭和24年11月13日の法語)より

   吾が念ずる言葉は、常に吾が祈りである。

   神に於いては凡ゆる事は可能であり、
   すべてのことはすでに潜在的に与えられているのである。

   吾が祈りは、神がすでに潜在的に与え給いしものを
   よびだす力となるのである。

   吾が祈りの言葉は、無限に噴出する井戸の水を汲(く)み出す所の
   釣瓶(つるべ)のようなものであるのである。

   その釣瓶が大きければ大きい程、
   多量の恵の水を汲み出すことができるのである。

   自分は今日から小さいことを考えないのである。
   自分は自分の釣瓶を出来るだけ大きくして
   神の無限の供給を汲み出すのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

             <感謝合掌 平成29年2月9日 頓首再拝>

《神の祝福は又別の処から入(い)り来(きた)る 》 - 伝統

2017/02/23 (Thu) 04:35:59


           *「光明法語」(2月23日)より

他に恩恵を施しても、その相手その人から恩返しを期待してはならぬ。

恩を受けねばならぬような人は、
福田がまだ乏しいから人の世話にならねばならぬのであるから、
そう急に恩返しの出来る訳でなない。

しかし宇宙は一体であるから、与えた相手から直接返還が来なくとも、
他から必ず返還が来るのである。

必ずしも出したところから、入れなければならぬと云うことがないのは、
人間の肛門と同じことである。

出すところで出してさえ置けば、
入るところから却って美味しいものが入って来るのである。

             <感謝合掌 平成29年2月23日>

神を正しく理解して祝福しましょう - 伝統

2017/03/11 (Sat) 04:53:45


          *『白鳩』(昭和39年7月号)より

『祝福する者が祝福せられる』 のです。

あなたは 『あの人は嫌いだ』 と思ったことはありませんか?  

『あります』 と仰言るのですか。 
『あの人は嫌いだ』 と思ったとき、あなたは、あの人を呪ったのです。 
祝福の反対をしたのです。 

あの人が、あなたにとって、不愉快に感じられるように
現われて来るのは当然のことなのです。 

 
其の人を祝福しなさい。

『あの人は神の子で、善い人だ。 善くない人だと思ったのは私の心の間違いだった』 
と深く心の中で懺悔してお詫びして御覧なさい。 

今まであんなに不快な事をしていた彼が、
あなたにとって快いことをしてくれる人に変ります。

嘘ではありません。 必ず、そうなります。 
暫く忍耐づよく、神想観中に、心の中で今まで間違った思いを懺悔し、
相手を “神の子” として祝福することを続けて御覧なさい。 

あなたの周囲が祝福に満たされた天国のように現われてまいります。


あなたは神を正しく理解しなければなりません。 
神は雲の上にいて、吾々を罰しようと思って、
吾々を監視しておるような人物ではないのであります。 

神は宇宙到る処に、普遍的な愛として智慧として生命として存在ましましのであり、
同時に吾々の中(うち)に生命として智慧として愛として宿っていられるのであります。 

そして神の意志は必ず善であり幸福でありますから、
自分自身の 『誤れる想念』 によって、そのおのずからなる顕現を妨げない限りは、
必ず善と幸福とがあらわれて来るのであります。 

あなたは今その 『誤れる想念』 を悉く棄てて心を神の完全さの方向に振り向けます。 
そして神の祝福を今満喫するのであります。


あなたは感度の鋭い霊的ラジオセットにならなければなりません。 
人から挨拶されても面倒くさそうに返事をする人は
感度の鈍い安物のラジオセットであります。 

すべてあなたの周囲にあらわれて来る人々は、
神様の摂理で何らかの祝福か教訓かを与えるためにあらわれて来る人々でありますから、
感謝と悦びの態度及び表情で受け取らねばなりません。

『神に口なし、人をして言わしむ』 でありますから、
人の言う言葉のうちに真理があり、 『導き』 があり、
自分の心の鏡があり、反省の資料がありますから、

聴くのに耳がいたい事があっても感謝して受取るとき、
すべての言葉があなたの魂を生長さす栄養となるのであります。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24574620.html

             <感謝合掌 平成29年3月11日>

《神に祝福されるには》 - 伝統

2017/03/26 (Sun) 03:34:50


          *『幸福を招く365章』第1項(P11) より

若し、貴方が人のために尽そう。
人に献げたいと云う方向に、あなたの行動が、又は職業が働いていますならば、
必ず貴方は神に祝福されるのであります。

若し貴方が、愛されたいと思うならば、
それは自分に「愛」を奪いとろうとする考えでありますから、
「愛」が得られないことになるかも知れないのです。

しかし「愛してあげよう」と云う心になれば、あなたは屹度その人から、
(でなければ、他の人から)愛されることになるのであります。

「愛されたいから愛しよう」と云うのでは、
まだ利己が先に立っていますから効果が少ないのであります。

毛筋ほども利己の考えを取去り、
純粋に愛したときに何が起こるかやって見ましょう。

             <感謝合掌 平成29年3月26日 頓首再拝>

《過去は 『 今 』 祝福に変貌する》 - 伝統

2017/04/13 (Thu) 04:17:50


           *『 生長の家 』(昭和24年11月10日の法語)より

   吾は今日を祝福するのである。
   過去を祝福し 未来を祝福し、すべての日を祝福するのである。

   何故ならすべての日は神様に護られているからである。

   吾は凡(あら)ゆる所に、凡ゆる事物に、一切の経験に、
   神様の驚くべき愛が、導きが みたされていることを知るのである。

   私の過去の生活が如何に辛きものなりとも
   私はそれを祝福するのである。

   過去は 「 今 」 の一点に於いて生きた姿に変貌するのである。

   すべての過去は今生きていて吾をして、
   神の祝福を知らしめ給うたのであるから

   過去あっての 「 今 」 であり、
   「 今 」 過去は生きているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

             <感謝合掌 平成29年4月13日 頓首再拝>

予祝(よしゅく)のススメ - 伝統

2017/05/02 (Tue) 03:50:22


      *メルマガ「名言セラピー(2016年12月07日)」より


なぜ日本人はお花見をするのか?


僕はこのことを、ある神社の神官の方に教わったのですが、
実は、お花見こそ、古代日本人が実践していた、
夢(願い)を叶えるための引き寄せの法則だったというのです。

古代日本人の一番の願いは、稲がたわわに実り、お米がしっかりとれることです。
その願いの実現を引き寄せるためにやっていたのが、お花見だというのです。


どういうことか?


春に満開に咲く桜を、秋のお米の実りに見立てて、
仲間とワイワイお酒を飲みながら先に喜び、
お祝いすることで願いを引き寄せる。

これを「予祝(よしゅく)」というのだそうで、
ちゃんと辞書にも載っています。


古代日本人がやっていた、夢の引き寄せの法則、
それが「お花見」だったのです。


祝福を予め予定するのです。
先に喜び、先に祝うことで、その現実を引き寄せるというのが
日本人がやっていた夢の叶え方なんだそうです。




お酒を飲みながら、お米がたわわに実ることを想像し、
仲間とワイワイ先に喜んでしまう「前祝い」。
それが夢の引き寄せであり、お花見の由来だったのです。




先に祝福してしまう、するとその夢は現実化しやすいのです。





「予祝」は、偉人たちも当たり前のように使っています。
たとえば、長嶋茂雄。


1959年、天皇・皇后両陛下を迎えて行われた天覧試合。
読売ジャイアンツVS阪神タイガース。9回裏で4対4の同点。
両陛下が警備の都合、野球観戦できる時間は21時15分までだったため、
延長戦に入った場合は両陛下は途中退席になるという状況でした。


9回裏、この大事な場面に先頭バッターとして回ってきたのが長嶋茂雄です。
天皇陛下が退席されるタイムリミットまであと3分という21時12分。
なんと、ここで、長嶋はサヨナラホームランをかっ飛ばしたのです。
プロ野球が国民的スポーツになった瞬間でした。


実は天覧試合前、長嶋はスランプのドン底にいました。
だからこそ、本能的に「予祝」をやってのぞんでいたのです。


長嶋さんは、最寄りの駅でありったけのスポーツ新聞を買ってきて
自分で見出しを書き込んでいったのです。


用意した赤、青、黄色、緑のマジックで、新聞一紙ごとに
「長嶋サヨナラ本塁打」
「天覧試合でサヨナラ打」
などと大きく書き込んでいったのです。

「長嶋の一発に尽きる。さすがにゴールデンルーキー。歴史に残る一発だ」

そんなふうに監督談話まで勝手にマジックで書き上げ、
先に喜び、祝杯をあげていたのです(笑)。





その予祝は、すべて現実となりました。




ソフトバンクの孫正義さんも、プロジェクトを立ち上げる際は、先に部屋のなかで
ガッツポーズをして、そのプロジェクトが成功したときのことをイメージし、
先に喜んじゃうそうです。
まさに前祝い、予祝です。


 発明王エジソンも、発明する前に、「それをすでに発明しました」
と発表することがよくありました。
もう先に記者発表して、できたことをお祝いしちゃうのです(笑)。


この「予祝」で倒産寸前の居酒屋を救った友人たちもいます。

当時、彼らは20代なかばで、居酒屋のオーナーに雇われて働いていました。
ある日、オーナーから呼び出され、
「ずっと赤字だから店をたたむことにした」と告げられてしまいます。

しかし彼らは、このお店が大好きだったのです。
でも、立地が悪くて、お客さんがなかなか入らない。
そこで、当時のスタッフ5人で温泉に出かけ、
その旅館で、こんな「遊び」を始めたのです。

「僕らの居酒屋はいま倒産寸前だけど、そこから一発逆転、大人気の居酒屋になって、
本も出版されて、1000名の前で講演しているという設定で講演しよう。
まずは、この旅館の部屋が、1000名のお客さんのいる大ホールだと想像して、
なんで成功したのか講演してみよう」


そしてこの講演会にテレビ局の取材も来ているという設定で、
ホームカメラを回してインタビューし合ったのです。
「なんで倒産寸前のお店が大人気の居酒屋に復活できたんですか?」
現実は、倒産寸前なのに、そんなふうに聞いていくのです。
 
そして、聞かれたら、即座に答えなければいけないというのがルール。
この質問に、1人のスタッフがこう答えました。


「『俺たちみんな家族だろ!』のひと言にみんなのハートに火が点いたんです。
それで、いままでお店に来て名刺交換してくださったお客様に、手紙を書いたんです。
いかに僕たちがこのお店を大好きかって気持ちとお感謝の気持ちを」


彼らは倒産寸前の状況で、史上最高の未来を想像し、
それをすでに実現したという設定で演技して喜び合ったのです。
彼らは「予祝」という概念を知っていたわけではないんですが、
先に、前祝いをしたのです。


この日、浮かんだアイデアはノートにメモしておいて、
お店に戻ってからすべて実行に移しました。
すると、なんと1ヵ月で1年分の利益が上がったのだそう。


そしてほんとうに超人気の居酒屋になり、1000人のホールで話すことになり、
『20代の働く君に贈る大切なこと』(松本望太郎著、学習研究社)
という本のなかでも取り上げられ、
テレビ局まで取材に来たのです。

前祝いしたことが、全部、怖いくらいそのとおりに実現したのです。

これが「予祝」の威力です。


このことで、彼らも前祝いの効果を実感し、
お客様と「前祝い飲み会」、「前祝い乾杯」が広がったのだそうです。
お客様の夢が叶ったことにして、前祝い乾杯をするのです。

それで、本当に夢を叶えられたお客様もたくさいるそうです。

例えば、客室乗務員になりたくて、でも10年間トライし続けていても
なかなか夢が叶わない女性がいました。
そこで試験前に前祝いプレートをつくって先にお祝いしてあげたのだそう。
すると、その年、見事に試験に合格し客室乗務員になれたそうです。

彼らの居酒屋の名前は、「魚串炙縁」。
東京の池袋から、細い路地を15分ほど行く、
とてもわかりにくい立地ながら、
現在、大繁盛で週に7回も通う熱烈なお客さんもいるほどです。

立地と売上は関係ないことがわかり、
いまはさらにわかりにくい場所に2店舗目をオープンしました(笑)。
そちらのお店の名前は『さーどぷれいす 和ビストロ ほたる』です。

あなたも、仲間や会社で、ぜひ予祝ゲームをやってみてくださいね。


セカフザ定例会で、4人で、それぞれの夢がすべて叶った前提で話し合うのも楽しいです。
予祝ゲーム、たとえば、作家になりたい人にはこんなふうに振ってあげます。


「おおお。作家になりたい夢が叶ったそうじゃん。おめでとう! 
で、どうしてデビューできたの? 本のタイトルは?」
聞かれたら、即座にでっちあげで答えるのが予祝のルールです(笑)。
とっさのひらめきに、思いがけないヒントがあったりするからです。


作家になりたいなら先に友達を呼んで出版記念パーテイをやるのもいいし、
ドンドン「予祝」(前祝い)をやっちゃってくださいね。



夢が叶うコツは面白がることです。


夢って「深刻さ」を嫌うんです。
深刻になってると夢は自分から離れていくんです。


「夢なんか叶わなくても、この仲間と過ごす時間が楽しいよね」
とワイワイ楽しみ、おもしろがっていると、
夢は子犬のようにあなたについてくるんです。


セカフザは夢が叶わなくたって、楽しいもん。
そういう状況になると、奇跡は向こうからやってくるんです。


             <感謝合掌 平成29年5月2日 頓首再拝>

《明日は必ず祝福されたものである》 - 伝統

2017/05/15 (Mon) 03:35:08


          *『生長の家』(昭和24年11月12日の法語)より

   自分は明日を祝福する。
   もう私は未来のことについて思い患ったりしないのである。
   何故なら未来は、今と等しく神のものであるからである。

   神は吾が内に生き、吾が周囲に生き、すべての事物の内に生き、
   ありとしあらゆるものは 善きことの外あり得ようがないからである。

   吾れ神を知りしより後、神は常に吾が護り手であり、
   無限の愛と、無限の智慧と、無限の供給とをもち導き給うのである。

   時々刻々に 神の愛にとりまかれ、
   神の智慧に導かれ 神の供給に溢(あふ)れているのが自分である。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

             <感謝合掌 平成29年5月15日 頓首再拝>

《天地一切のものを祝福せよ》 - 伝統

2017/05/29 (Mon) 04:10:49


          *『幸福を招く365章』第3項(P59) より

朝めざめたならば、神想観を行い、
「神の生命われに流れ入りて、わが生命を健かならしめ給う」と念じつつ呼吸を整え、
更に「神の愛われに流れ入りて、光明燦然と輝き給い、
われを通して天地一切のものを祝福したまう」と云う思念を繰返すことは、
天地一切のものと和解することを如実に実践する上にきわめて善き方法である。

一切の不幸と病いは、自己が天地一切のものと和解していないで、
或る程度又は或る意味に於て敵対状態にあるから生ずるのである。

然るに上記のような思念を行うときには心の中に、
こちらから積極的に天地一切のものと和解する以上に、
天地一切のものを祝福することになるのである。

             <感謝合掌 平成29年5月29日 頓首再拝>

《万物に神の祝福の声をきけ》 - 伝統

2017/06/11 (Sun) 04:01:10

        *『幸福を招く365章』第3項(P60) より

何時、いかなる場合、
何が自分を呼びかけて来ても、電話が呼びかけて来ても、
訪問者があらわれて来ても、それに対談する場合には、

「神はこの電話(又は人名)を通して私を祝福したまうのである。
そして神の愛われに流れ入って私を通して此の人を祝福したまうのである」

と念じつつ対話するが好い。

見るのも、聞くのも、それが花であろうとも、音楽であろうとも、

「神はこの花を通して(又は音楽を通して)私を祝福したまうのである。
有りがとうございます」

と念じつつ、その花を見、音楽を聴くがよいのである。

そして「神の愛われを通してこの花を、この音楽を祝福したまう」

と更に念ずるのである。

             <感謝合掌 平成29年6月11日 頓首再拝>

祝福せよ! - 伝統

2017/06/21 (Wed) 03:52:39


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月21日)より

他(た)を呪うかわりに 祝福せよ。
祝福とは福(さいわい)を祈ることである。

すべての人間を祝福したとき、すべての人間から拝まれる者となるであろう。

「もし我れ仏とならんに、
国中のすべての天、人、安楽世界に生ぜずんば正覚をとらじ」

こう願った法蔵菩薩は
すべて人間天人の福(さいわい)を祝(いの)る者であったのである。

だから今はすべての人間から阿弥陀仏として尊崇せられるのである。

みんな自分が周囲へ与えたものだけを刈り取るのである。

           <感謝合掌 平成29年6月21日 頓首再拝>

汝を呪う者を祝福せよ - 伝統

2017/07/05 (Wed) 04:47:44


         *「光明法語」(7月5日)より

「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎めと言いし教えを汝ら聞きしことあらん。
されど吾れ汝等に告ぐ、汝の敵を愛せよ。汝を呪う者を祝福せよ。
併(しか)して汝をなやめ苦しむる者のために祈れ」。


或る日私が聖書を読んでいる時に此の語から霊感を得た。

その頃私は私を裏切って私の為に出世してい乍(なが)ら、
私の悪口を言い廻っている或る人に不快な気持をもっていた。

併しこのキリストの聖句を読んだとき胸がスーッとしたのである。

私は彼を愛しようと決心した。

彼が吾が前にそのような姿をあらわすのは
自分の心を鍛えて下さる神の愛である。

           <感謝合掌 平成29年7月5日 頓首再拝>

生まれてきてくれて「ありがとう」 - 伝統

2017/07/20 (Thu) 03:21:17


      *「『ありがとう』で運は開ける」中井俊巳・著(P128~129)より


     だれでも誕生日は

     1年に1度

     その人にとっては

     歴史的大事件


誕生日は、
生まれてきてよかったねと喜び祝う日です。

いくつになっても祝うことができます。

「もう年だ」と言っている人人も、
この世に生を受けて、生きていることを喜んでもらえる日です。

あなたの家族の誕生日。

あなたの友達の誕生日。

「おめでとう、生まれてきてくれて ありがとう」

そう言える人がいれば、あなたもその人もハッピーです。

            <感謝合掌 平成29年7月20日 頓首再拝>

《愛念で相手を祝福せよ》 - 伝統

2017/08/07 (Mon) 04:53:11


        *『 生長の家 』(昭和25年11月30日の法語)より

   実際、其処(そこ)へ行って何か 愛行を実践してやりたくとも、
   それが出来ない距離にあったり、
   それが出来ない事情があったりするならば、

   吾々は相手の人を「愛念」で愛することが出来るのである。

   「愛念」は距離を超え、事情を超える。
   「愛念」は最も強い浸透力をもっているのである。

   先ず相手を心のうちに思い浮べ、
   名前をとなえ 言葉の力によって、
   心の中で相手を祝福するのである。

   「 汝は神の子である。完全である。誠意に満たされている。
   善き人であり、深切である。
   私は汝に信頼し、汝に好意を持っているのである。

   汝と私とは神の子の兄弟として 互に愛し愛されているのである。
   幸福であれ、汝、神の子よ 」 と云う風にである。

            <感謝合掌 平成29年8月7日 頓首再拝>

《祝福を与える者はまた祝福せられる》 - 伝統

2017/08/24 (Thu) 04:54:26


       *『 生長の家 』(昭和44年12月6日の法語)より

   何事によらず、何物であろうとも、
   一切の事と物とを祝福することは、
   事態を好転するための驚くべき不思議な力となるのである。

   「 祝福する 」とは「 詛(のろ)う 」ことの反対である。

   相手の前途に対して、必ず良き事が来ると祈ってあげ、
   且つそれを信ずることである。

   “ 希望の光 ”をもって相手を鼓舞してあげることである。

   「 与えよ、さらば与えられん 」の法則に従って、
   あなたが、他の人々を祝福して“ 希望の光 ”を
   与えてあげるならば、

   あなたは神から、又は何かのルートを通して
   一層“ 希望の光 ” を与えられるに
   相異ないのである。

 
   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/edceaabd05d4073ac16ddff0f64835fc

            <感謝合掌 平成29年8月24日 頓首再拝>

自分に損をかけた人を、心の中で祝福する - 伝統

2017/09/07 (Thu) 04:54:46


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P75<9月7日>)より

他(ひと)の借金を支払ってやるくらいでないと
本当に無限の富の源泉を捉えることはできぬのである。

といってそれは紙幣や小切手で支払ってやることではない。

貧しき者を心の中で祝福してやり、

「なんじは神の子であって神の無限供給によりいっさいの負債(おいめ)は支払われ、
今、なんじはすでに無限の供給を受けているのである」

という意味のことを思念してやることである。

特に自分に損をかけた人に対しては、なおいっそうこの思念を恵み与えてやることが、
かえって彼を富まして、その損失を償(つぐな)うだけの力を養ってやることになる
のである。

ところがたいていの人は自分に損をかけた人を祝福するどころか、
憎んで「不幸になれ」と念ずるから結果は反対となり損失は償われないことになる。

             <感謝合掌 平成29年9月7日 頓首再拝>

すべてを祝福することが、自己を富ます道 - 伝統

2017/09/08 (Fri) 04:59:00


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P76<9月8日>)より

神はいっさいの本源であり、いたるところに充ち満ちてい給い、
われわれに無限に健康なる生命(せいめい)と、豊かなる供給を与えていられるのである。

しかし、それはラジオの波のように肉眼には見えないのであって、
ただわれわれがそれに対して適当な条件を与えることによって
可視的(めにみえる)世界にあらわれて来るのである。

富める者に嫉妬し、それを搾取であると呪うことは、
「富」そのものを呪い、「富をもつこと」そのことを排斥することになるから、
その人は大いに富むことはできないのである。

貧しき者、損をかけた者を、「無限供給」の思念によって祝福してあげるとともに、
富める者にも祝福を与えることがかえって自己を富ます道である。

             <感謝合掌 平成29年9月8日 頓首再拝>

《自分を祝福する》 - 伝統

2017/09/28 (Thu) 04:18:06


     *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P108~109) より

自他を祝福するとは、
自他の内にやどる「神なるもの」を認めて礼拝することである。

自分も彼もみな神の素晴らしい自己顕現であることをみとめ、
心で讚(ほ)め、喚び出し、その真理を引き出すことである。

先ず自分自身を祝福することなしに、他の人々を本当に祝福することはできない。
吾々は先ず自分自身を祝福し、讚嘆し、
自分自身の神性を引き出さなければならないのである。
その行事が神想観である。

神想観によって自分の実相が”神の子”であり、完全円満であることを観じて、
実相の完全さを祝福し、讚歎した後に、現象的にも自分の生活に一寸でも
善い事をしたことがあれば、それを一々想い出して自分自身を
「お前はこんな善い事をした善い人間である」と讚めてやるのが
よいのである。

それは恰も学童の成績を挙げるために、
その答案の中に一寸でもある「正しい回答」に◎を
つけて讚めて、その内部の能力を引き出してやるが如くである。

「お前はあの人の罪を赦した。お前は神の子で愛ふかく寛大である」
という風に讚めるのである。

             <感謝合掌 平成29年9月28日 頓首再拝>

《「今」を祝福しよう》 - 伝統

2017/10/16 (Mon) 03:47:02


     *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第7篇(P200~201) より

あなたは今日(きょう)より決して取越苦労も、
持越苦労もしないように決意したのである。

あなたは全力を“今”に集中して心を動揺せしめることは決してないのである。
また起こらないところの不幸を、「多分起こるかも知れぬ」と
取越苦労をしてみても何の甲斐もないことである。

恐怖のうちに心に描いた状態は最も現実し易いのであるから、
恐怖し取越苦労することは決してあなたの運命を好転せしめる原因とはならないのである。

だから、あなたは「今」あなたの働きの中に、
神が働きていたまうことをみなければならないのである。

 
あなたは「今」を祝福すべきである。

過去はそれが如何に良かったにせよ。
また如何に悪かったにせよ、
それは何らかの体験をプラスにして過ぎ去ったのである。

だからそれを歎くことは不合理であり、ただ感謝して別れればよいのである。

             <感謝合掌 平成29年10月16日 頓首再拝>

神の祝福の流れに乗るには - 伝統

2017/10/26 (Thu) 04:26:39


          *「光明法語(10月25日~26日)」より

神の祝福は万人平等

神の祝福の流れに乗ると云うことは、
神は或る人を祝福し、或る人を祝福しないと云うことではない。
神は善人にも悪人にも太陽が照らすが如く、祝福の波を放送してい給うのである。

祝福の流れに乗らないとは、神の祝福の波長を感受するような
「神と同波長の心の波」を起さないと云うことである。
だから祝福の波があってもそれを感ずることが出来ないのである。

それは又たとえば、太陽はすべての人を照らしているが、目を瞑っている人には見えぬ、
これを祝福の流れにのらぬと云うことである。

・・・

神の祝福の流れに乗るには

神の祝福の波長に、合わぬ心と云うのは、怒る心、憎む心、怨む心、悲しむ心、羨む心、
嫉妬する心、猜疑する心、悪を予想する心、取越苦労する心、持越苦労する心、
口惜しい残念な心、陰気な心、沈む心、審判(さば)く心、争う心、斬り合う心、
焦(いら)立つ心、不平の心、あせる心、ケチな心

など大同小異の種々の色合(いろあい)をもった心である。

之等(これら)の心は神の祝福の波長とは調子が合わない。
神の祝福の流れに乗って何事も都合よく行こうと思うものは
是らの心を去らねばならぬ。

            <感謝合掌 平成29年10月26日 頓首再拝>>

《環境はこのように念じて祝福しなさい》 - 伝統

2017/11/12 (Sun) 03:53:30


          *『 生長の家 』(昭和44年12月28日の法語)より

   人間を拝むと同時に環境をも祝福するがよい。

   あなたの住む環境が如何に苛辣(からつ)な状態であろうとも、
   その現象的状態を見て恐れたり腹立てたりしたならば、
   環境は愈々苛辣な状態となり、

   人々はあなたに対して一層攻撃的になって来て、
   収拾(しゅうしゅう)がつかなくなるかもしれないのである。

   そんな苛辣な環境に対したときには、
   あなたはその環境と、そこに集まっている人々、
   又はそれに関連のある人々を
   “神の愛”をもって祝福しなければならないのである。


   次の如く、心を静めて繰り返し念ずるがよい。

   “ 此処は神様の愛の支配するところである。
   神の愛が今此処に充ち満ちているのである。

   神の愛が、ここに集まっている人々、
   この問題に関係あるすべての人々を引き包んで、
   それらの人たちの心を平和ならしめ、

   愛と調和の精神をもって充たし給い、
   神の智慧をもって、すべての人々が調和して
   満足できる解決を与え給うのである。”

   この種の思念をつづけていると、
   はじめに争いの念をもって人々が集まっていた会場は
   次第に平静となり、争いの心は鎮(しずま)り、

   人々は互いに協調の精神を起して、
   大調和の状態を呈するに至るのである。
   (ホルナディ博士著、谷口雅春訳『今日如何に生きるか』参照)


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/041fbf9e7e44a064a5b4bda19365c731

            <感謝合掌 平成29年11月12日 頓首再拝>

《神を祝福せよ、神から祝福される》 - 伝統

2017/11/30 (Thu) 04:35:10


        *『 生長の家 』(昭和25年2月26日の法語)より

   神を祝福せよ。
   神の み業を祝福せよ。
   神の み業を讃歎(さんたん)せよ。

   神から受けることばかり考えないで
   まず神に与えることから考えよ。

   毎日 朝に一回 夕方に一回、
   神を祝福し 神をほめたたえ、神に感謝することは、
   神の恵みを拡大するよき方法である。

   すべての恵みを神に帰せよ。

   神は無限に吾らに祝福を与え給うのであって
   それをほめたたえず 感謝しないことは、
   それに波長を合わさないことになるのである。

   波長をぴったり合わす時
   神の恵みが はっきりと現われて来るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

            <感謝合掌 平成29年11月30日 頓首再拝>

祝福されたるあなたの人生よ - 伝統

2017/12/17 (Sun) 03:53:36


         *『如意自在の生活365章』(P92)より

《あなたの運命は今、根を張りつつあるのだ》

祝福されたるあなたの人生よ。
あなたは神の最高の自己実現である。

神の最高の自己実現であるあなたは無限の智慧と愛と能力とを具えているのである。

弱いことを言うな。
呟くな。
不幸が来るなんて予想するな。

あなたの運命が、地下にもぐって沈潜しているように見えるときには、
あなたの運命は今、視えないところに根を張ってやがて大きく伸びる
準備を整えつつあるのだと考えるがよい。

あなたが信じて思う通りにあなたの人生はなるのである。
なぜなら、あなたは“神の子”であり、神から“創造的活動の霊”を
受けついでいるからである。

            <感謝合掌 平成29年12月17日 頓首再拝>

神を正しく理解して祝福しましょう - 伝統

2018/01/04 (Thu) 04:35:23


            *『白鳩(昭和39年7月号)より

『祝福する者が祝福せられる』 のです。

あなたは 『あの人は嫌いだ』 と思ったことはありませんか?  

『あります』 と仰言るのですか。 『あの人は嫌いだ』 と思ったとき、
あなたは、あの人を呪ったのです。 祝福の反対をしたのです。 

あの人が、あなたにとって、不愉快に感じられるように現われて来るのは
当然のことなのです。 

 
其の人を祝福しなさい。

『あの人は神の子で、善い人だ。 善くない人だと思ったのは私の心の間違いだった』 
と深く心の中で懺悔してお詫びして御覧なさい。 

今まであんなに不快な事をしていた彼が、
あなたにとって快いことをしてくれる人に変ります。

嘘ではありません。 必ず、そうなります。 
暫く忍耐づよく、神想観中に、心の中で今まで間違った思いを懺悔し、
相手を “神の子” として祝福することを続けて御覧なさい。 

あなたの周囲が祝福に満たされた天国のように現われてまいります。


あなたは神を正しく理解しなければなりません。 
神は雲の上にいて、吾々を罰しようと思って、
吾々を監視しておるような人物ではないのであります。 

神は宇宙到る処に、普遍的な愛として智慧として生命として存在ましましのであり、
同時に吾々の中(うち)に生命として智慧として愛として宿っていられるのであります。 

そして神の意志は必ず善であり幸福でありますから、
自分自身の 『誤れる想念』 によって、そのおのずからなる顕現を妨げない限りは、
必ず善と幸福とがあらわれて来るのであります。 

あなたは今その 『誤れる想念』 を悉く棄てて心を神の完全さの方向に振り向けます。 
そして神の祝福を今満喫するのであります。

あなたは感度の鋭い霊的ラジオセットにならなければなりません。 
人から挨拶されても面倒くさそうに返事をする人は
感度の鈍い安物のラジオセットであります。 

すべてあなたの周囲にあらわれて来る人々は、
神様の摂理で何らかの祝福か教訓かを与えるためにあらわれて来る人々でありますから、
感謝と悦びの態度及び表情で受け取らねばなりません。

『神に口なし、人をして言わしむ』 でありますから、
人の言う言葉のうちに真理があり、 『導き』 があり、
自分の心の鏡があり、反省の資料がありますから、

聴くのに耳がいたい事があっても感謝して受取るとき、
すべての言葉があなたの魂を生長さす栄養となるのであります。

     (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24574620.html )

            <感謝合掌 平成30年1月4日 頓首再拝>

《目覚めてはかく念ぜよ》 - 伝統

2018/01/10 (Wed) 04:17:54


         *「光明法語」(1月10日)

朝眼が覚めたときが一日の出発である。
一日の出発を祝福されたるものにしなければならない。

一日の出発を祝福されたるものとするには、
既に与えられている祝福を数え上げることによって
それを感謝することから始めねばならない。

目が覚めると唇に「ありがとうございます」と感謝の言葉から
その日の生活を始めるのである。

眠っている間じゅう心臓を鼓動せしめ、肺臓を呼吸せしめ、胃腸をして消化せしめ、
色々の臓器をして各々の役目を完全に果たしことを神に感謝するのである。

            <感謝合掌 平成30年1月10日 頓首再拝>

《祝福する者は祝福せられる》 - 伝統

2018/02/02 (Fri) 03:36:22


         *『栄える生活365章』(P94~95)より

神はすべての親様であり、
人間はみな神の子であり、
人類互いに兄弟であるのであるから、

あなたは、自分以外の人々の成功や出世や金儲けや諸々の幸福を
自分の得たる幸福の如く、それを悦んであげ、更に一層の幸福を
彼らが得(う)るように祈ってあげるのである。

これを”同喜の心”と称して、
この心を得た人は余程心境が高くなっているのである。


人の幸福を羨(うらや)んで、「彼がもっと不幸であればよいな」
などという「人の幸福を否定する心」がちょっとでも自分にあるとき、
その「幸福を否定する心」が自分自身から発するのであるから、

自分自身の幸福をも否定することになり、
やがて訪れようとしている自分の幸福に対して
門を閉ざしてしまうことになるのである。

或る例では、父がその妻を失って暫くの後(のち)に後妻をもらった。
その父の娘はその後妻を継母(ままはは)として厭(いと)わしく思い、
父の《結婚を否定する心》を起した。

その結果、自分に縁談が起こっても九分九厘のところで
成立しなくなるのであった。

その娘が父の結婚を祝福してあげるようになったとき、
間もなく良縁が得られて今は幸福な家庭を築いているということである。

すべて己より出ずるものは己に還るのである。

            <感謝合掌 平成30年2月2日 頓首再拝>

《人を祝福する者は祝福される》 - 伝統

2018/02/19 (Mon) 03:33:37


       *『女性の幸福365章』(P112)より

人々を祝福する者は神によって祝福される。
人々を憎み呪う者は、神の波長に合わないから、神の祝福の波から外れる。

神は罰を当て給わないが、憎む者、呪う者には、
それに類する者が集って来てみずからを傷つけることになるのである。

類は類を招ぶのである。

            <感謝合掌 平成30年2月19日 頓首再拝>

《神の祝福は又別の処から入(い)り来(きた)る 》 - 伝統

2018/02/23 (Fri) 04:14:35


           *「光明法語」(2月23日)より

他に恩恵を施しても、その相手その人から恩返しを期待してはならぬ。

恩を受けねばならぬような人は、
福田がまだ乏しいから人の世話にならねばならぬのであるから、
そう急に恩返しの出来る訳でなない。

しかし宇宙は一体であるから、与えた相手から直接返還が来なくとも、
他から必ず返還が来るのである。

必ずしも出したところから、入れなければならぬと云うことがないのは、
人間の肛門と同じことである。

出すところで出してさえ置けば、
入るところから却って美味しいものが入って来るのである。

            <感謝合掌 平成30年2月23日 頓首再拝>

祝福を蒔いて歩く - 伝統

2018/03/10 (Sat) 04:23:00


       *「希望を叶える365章」(P306~307)より


「智慧の言葉」に「道を歩いている時にも、ここに神の子が歩いていると思え」
と云う聖句がある。

何処へ行くときにも、神が自分に宿っていて、行く道を照らしつつ導きつつあるのだと黙念せよ。
これは大いなる祈りである。

更に、その「自分に宿る神」が自分の安全のために自分の行く道を照らしつつあるのみならず、
その「自分に宿る神」の光が自分の向いつつある方向のすべての人々に「祝福の霊波」を投げ、
「愛念」を投げ、すべての人々を幸福にしつつあるのであると思え。

これは尚一層大いなる祈りである。

更に自分が通行した後には、
「自分に宿る神」の「祝福の霊波」が雰囲気となって残って、
其処にいるすべての人々を必ず幸福にせずにはおかないのだと念ぜよ。

これ更に大いなる祈りである。

かかる祈りをなす人の前後左右には必ず「祝福の霊波」が漂うのである。 

            <感謝合掌 平成30年3月10日 頓首再拝>

永遠の祝福を得るには - 伝統

2018/04/11 (Wed) 03:51:30


         *「希望を叶える365章」(P112~113)より

神は人間を神の像(かたち)につくり給うて、
永遠の楽園なる”エデンの園”に置きたまうて、
一切のよきものを自己の用に供してもよいと云うことを
宣言し給うたのである。(「創世記」第1章)”

その宣言は、実相に於いて今もなお生きているのである。
如何なる幸福をも、貴方から遮る何物も存在しないのである。

現象世界に於いて人間がエデンの楽園から追放せられ、
幸福から遮断されるように見えたのは、智慧の樹(こ)の果(み)を
食べたからなのである。

すなわち神から与えられた神の智慧をもって生活せず、
”人間智慧”をもって工夫巧者を試み、利己的目的で、
全体者を忘れてしまったからなのである。


自己のためになることばかりを考えて行動しておれば、
決して人間は本当に幸福になることも出来ないし、
一時(じ)の成功はかち得ても、末永き永遠の勝利はあり得ないのである。

神はすべてのすべてであるから、全体者の祥福のために行動するとき、
神の祥福の波長にあなたは同調して永遠の繁栄を得(う)るのである。

            <感謝合掌 平成30年4月11日 頓首再拝>

遇う人々毎に、祝福を念ぜよ - 伝統

2018/04/25 (Wed) 03:35:32


          *『幸福を招く365章』(P58)より

《神の愛を貴方を通して放出せよ》

あなたを生かしているのは神の愛である。
心臓が動いているのも、食物が与えられているのも、
消化器がそれを吸収するのも、呼吸器が呼吸をいとなむのも
すべて神の愛である。

神の愛をそんなに与えられていながら、
自分が少しもそれに報いることなく、放出することがなかったならば、
愛は循環しないことになるのである。

あなた自身を通してすべての人々に「神の愛」を放出せよ。
「神の愛われに流れ入り給いて、われを通して此の人を祝福し給う」
と遇う人々毎に念ぜよ。

愛念を送れば、愛念が返って来るのである。

            <感謝合掌 平成30年4月25日 頓首再拝>

豊祝ぎ - 伝統

2018/05/09 (Wed) 04:06:51


         *メルマガ「夢の言の葉」(2018年5月7日)より


           『豊祝ぎ』(とよほぎ)

 ☆--------------------ほめたたえ、祝うこと--------------------
 
 
 
 「豊(とよ)」は、豊かなことをほめたたえる美称として、
 用いられてきました。
 
 
 「豊年(とよとし)」「豊の年」といえば、実り多い年のこと。
 
 「豊の雪」といえば、豊作の兆しとして降る雪。
 
 ほかにも、「豊酒(とよさけ)」「豊旗雲(とよはたぐも)」
 などのようにさまざまな言葉に冠して、使われました。
 
 
 「豊秋津洲(とよあきつしま)」「豊葦原(とよあしはら)」
 「豊津国(とよつくに)」などは、すべて、日本の美称。
 
 ほめたたえるというよりも、豊かであれとの祈りをこめて、
 そう呼んだのでしょう。
 
 
 
 「とよ」の語源は、「富世(とみよ)」ではないかといいます。
 
 
 そして、「富む」は、「積む」が変化したものだとか。
 
 「富む」というと、金銀財宝のイメージがしてしまいますが、
 きっと、収穫物を積み上げることをあらわしたのでしょう。
 
 
 「とよ」という言葉の響きが、おおらかに感じられるのは、
 大自然の恵みにつながるからなのかもしれません。
 
 
 
 『豊祝ぎ』は、祝福すること。
 
 「豊」が「富世」なら、積み上げてきた歳月や思いを、
 たたえて祝うことともいえます。
 
 
 豊かなことがめでたいのではなく、こつこつと
 積み上げていくことが尊いということではないでしょうか。
 
            <感謝合掌 平成30年5月9日 頓首再拝> 

神の恵みの「花束のような祝福」が渦巻いている - 伝統

2018/06/02 (Sat) 03:14:34


      *『人生の秘訣365章』第4篇(P91~92) より

《天国も地獄もあなたの心の儘》

あなたの周囲には、
天から降る神の恵みの「花束のような祝福」が渦巻いているのである。

それは今直ぐあなたの肉眼には見えないかも知れないけれども、
“霊の世界”に於いてはそうであり、實相に於いては其の通りなのである。

ただあなたがそれを認めるか認めないか、あなたの心がそれに波長を合わし、
チャンネルをその方向に向けるか向けないかによって、
現象界に、その“神の祝福”の光景が現れて来るのに、
遅いか速いかが別れるのである。

「法華経」の如来寿量品には

「天人が天の太鼓を撃ち、諸々の伎芸を競うて、
天から曼陀羅華の花びらを降りそそぎ、衆生及び佛を飾って
今現にこの美しき實相の浄国があるのに、衆生たちの眼には
“焼け尽きて憂怖諸々の苦悩が充満している”ように見えているのだ」

という真理が書かれているのである。

天国実現も地獄現前も、
ただ自分の心の波長を合わすか否かにあるのである。

            <感謝合掌 平成30年6月2日 頓首再拝> 

祝福せよ! - 伝統

2018/06/21 (Thu) 03:12:29


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月21日)より

他(た)を呪うかわりに祝福せよ。
祝福とは福(さいわい)を祈ることである。

すべての人間を祝福したとき、すべての人間から拝まれる者となるであろう。

「もし我れ仏とならんに、国中のすべての天、人、安楽世界に生ぜずんば正覚をとらじ」
こう願った法蔵菩薩はすべて人間天人の福(さいわい)を祝(いの)る者であったのである。
だから今はすべての人間から阿弥陀仏として尊崇せられるのである。

みんな自分が周囲へ与えたものだけを刈り取るのである。

           <感謝合掌 平成30年6月21日 頓首再拝>

汝を呪う者を祝福せよ - 伝統

2018/07/05 (Thu) 03:53:13


        *「光明法語」(7月5日)より

「汝の隣人を愛し、汝の敵を憎めと言いし教えを汝ら聞きしことあらん。
されど吾れ汝等に告ぐ、汝の敵を愛せよ。汝を呪う者を祝福せよ。
併(しか)して汝をなやめ苦しむる者のために祈れ」。

或る日私が聖書を読んでいる時に此の語から霊感を得た。

その頃私は私を裏切って私の為に出世してい乍(なが)ら、
私の悪口を言い廻っている或る人に不快な気持をもっていた。
併しこのキリストの聖句を読んだとき胸がスーッとしたのである。

私は彼を愛しようと決心した。
彼が吾が前にそのような姿をあらわすのは自分の心を鍛えて下さる神の愛である。

           <感謝合掌 平成30年7月5日 頓首再拝>

《“自分”の地上降誕を祝福せよ 》 - 伝統

2018/07/17 (Tue) 03:30:02


     *『人生の秘訣365章』第4篇(P108~109) より

以上のような体験を聴き、出来る限り、優しく柔かく温く、柔順に
女性の水徳を発揮しようとつとめていながら、どうしても子宝に
恵まれませんでした

―― と川崎静江さんは自分の大権をある講習会で談(はな)した。


彼女は、生長の家の教えの通りに夫唱婦髄の生活を一所懸命実践しているけれども、
どうしても妊娠しないのは、何か自分の心境に不調和な点があるのではないか
と反省してみた結果、こういうことを発見したというのである。

彼女は自分が生れて来て逆境に育ったものであるから、
少女時代から「私は此の世に生れて来なかったら好かったのに!!」
と度々思ったことがあった。

それは「生れる事を呪う心」であった。

今は幸福に生活しているけれども、まだ潜在意識の底に
「私は生れなかったらよかった」という念が残っているのである。

自分が生れた事を祝福する心がなく、それでいて、自分の胎内に、
“次の時代”を産むことを望むのは矛盾しているのではないか ――

この「生れなかったらよかった」という自分の「妊娠拒絶」の念が、
自分が妊娠することを妨げていたのだと彼女はさとった。

そして大いに懺悔の念を起し、神想観して、自分の両親に
「よく私を産んで下さいました。今、静江はこうして幸福でございます、
ありがとうございます」と感謝して、
“次の時代”を妊娠することを祈ったのであった。

すると彼女は間もなく妊娠したのであった。
やっぱり自分の人生は自分の心境の投影なのである。

           <感謝合掌 平成30年7月17日 頓首再拝>

祝福すべきかな、あなたの人生よ。 - 伝統

2018/07/30 (Mon) 04:37:41



         *『人生の秘訣365章』第6篇(P159) より

《神様ここに熟して発芽し果を結ぶ》

あなたが此の書を手にし、それを読む機会を与えられたということは、
深い神縁があってのことである。

“神の子”の種子(たね)が
あなたの生命(せいめい)の中に植えつけられていたのが、
日光に会って適当の温度を与えられ発芽の機会を得たようなものである。

あなたは本来“神の子”であったが、それは地中に埋められて、
寒中に芽を吹く機会もなく待機していたようなものである。

愈々“真理の光”の言葉に触れて、あなたの生命(せいめい)の中に
内在していた“神の子”の芽が吹き、光明思想の日光を吸収して、
ズンズン伸びる機会が来たのである。

祝福すべきかな、あなたの今後の人生よ。

           <感謝合掌 平成30年7月30日 頓首再拝>

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