伝統板・第二

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三界唯心の理 - 伝統

2016/07/20 (Wed) 03:17:48

躓くごとに反省し、感謝せよ

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月20日>(P21)より

われわれはわれわれを躓かしてくれたものに怒ることなく、
かえってこれに感謝すべきである。

われわれは躓くごとに、自分の”内部の故障”に眼を向けて反省しさえすれば、
躓きはかえって内部を浄める指示機となり、
いっそうわれわれを高めあげてくれる動機となるのである。

三界唯心の理は、反省が内面に向かうとき向上の契機を与える。



<関連Web:伝統板・第二「運命の神秘」
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         <感謝合掌 平成28年7月20日 頓首再拝>

三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴う - 伝統

2016/08/10 (Wed) 03:23:04


         *「光明道中記」(8月10日)より

【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉通りになる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。

良人は「自分」が近づく以前からあんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。

凡そ三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。

即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは自分の心の反映であると
云うことが出来るのである。

良人から見た妻の場合も矢張りそうである。妻の性格がたとい自分と結婚する以前から
そのようであるにしても、そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。

かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、ただ「有りがたく受ける」ことである。

ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。

          <感謝合掌 平成28年8月10日 頓首再拝>

現象界は、「三界唯心」の世界 - 伝統

2016/09/27 (Tue) 04:16:57


        *「真理」第九巻(P59~60)より

《現象世界は心の持ち方でどのようにも変わります》(P59~60)

あなたの人生を幸福にするためには「三界唯心」の真理を知らねばなりません。

三界とは仏教の言葉で、人間が生まれ更(か)わって出てくるところの
欲界・色界・無色界の三つの世界で、
我々が生まれ更わる現象界引くるめて言った言葉であります。

それがただ心によって現されている世界だと云うことであります。

それは仏教の深い真理を現している言葉でありますが、それを今までは、
ただ高遠な印度哲学だぐらいに思って、実際生活の上に役立つものだと
知らなかったのでありますが、

生長の家があらわれて、心で思う通りに現象界(我々の住んでいる感覚で感じられる世界)
が変わると云うことを多くの人々に教えて実際それを応用させてみせることによって、
歎きの世界が歓びの世界に変わり苦痛の世界が愉しさの世界に変わることが
実証されるようになったのです。           


《心に他を呪ってはならない》P60

過去の自分の失敗をクヨクヨ歎いたところで何んになりましょう。
また過去の他人の過ちにいつまでも呪いを送り、憤激を続けていたとて何になりましょう。

失敗を心で描けば、次の失敗が自分の行動の内に現れて来るのです。
他の人の過ちに憤激すれば、憤激は攻撃精神であり破壊衝動でありますから、
何かと激突して事物が破壊するような結果を招くのです。

多くの不幸が、日常生活の些細な事柄から、自動車の衝突、墜落する飛行機への乗り合わせ、
工場における負傷、さては戦争にいたることごとく、人間の自己破壊衝動から起こるもの
であることが、最近の心理学では証明されるに至ったのです。

他人を攻撃する心を起こしますと、その攻撃衝動は動・反動の法則によりまして、
弾丸が飛ぶまでに薬きょう自身が破壊すると同じように自己を破壊するのです。

          <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

第四の神性隠蔽は、三界唯心の理(り)を隠蔽すること - 伝統

2016/12/16 (Fri) 04:54:06


        *『生命の實相』第13巻倫理篇・上巻
          第4章<自心の展開としての客観世界>(P111~113)より

前節までにおいて、わたしは「罪」とは神性隠蔽であり、

その第一は自己と神とが一体なる「神我一体」の実相の隠蔽であり、
第二は自己と他己とが一体なる「自他一体」の実相の隠蔽であり、
第三の隠蔽は隠蔽を生んで、自己弁解という第三の隠蔽を生ずるということを説いてきました。

「罪」とはじつは実相の隠蔽なのでありました。

なぜ「罪」というものができ上がるかと申しますと、
外界は一見自己の外にあるように見えますから、外界というものが内界の投影である
という事実を忘れて、外界そのものとして、自己とは独立した存在であると思い込んで
しまうところに、「罪」すなわち「実相隠蔽」ができ上がるのであります。

それはたとえば、活動写真というものは脚本(シナリオ)の作者と映画の監督との
合作であり、彼らの心が外界にあらわれたものにほかならない。
すなわち彼らの心の合作であります。

したがって活動写真というものは本来、作者と監督との「心内(こころのうち)の映像」
であり、作者と監督との内界(こころのうち)の産物なのでありますけれども、
《一見それは外界にあるように見える》。

スクリーンに映っている映画を見ていると、それが作者と映画との心内(こころのうち)
の存在だとも思えないで、自分とは独立しているように見える。

作者自身ですらも、映画の悲劇を見れば同悲の心を起こし、
喜劇を見れば同喜の心を起こすのであります。

それと同じように、われわれの日常生活において、いろいろの問題が
取っ換え引っ換え起こってくるごとに、われわれは感覚によってその事件を見るときは、
《外界》に起こる事件であるかのごとく見えますから、それを外界にある事物だと
思い違いをするのであります。

そしてそれに心が捉えられる、心がそれに引っかかって一喜一憂する。
一喜一憂するだけぐらいならよろしいが、しまいには神経衰弱にかかって
死んでしまうようなひとされ生ずるのであります。


仏教では「三界は唯心の所現であり、心外に別に存在無し」と申しますが、
それを徹底的に実生活の上でも実証せしめているのが「生長の家」であります。

キリスト教でも「口に入るものはなんじを汚さず、口より出(い)ずるものなんじを汚す」
とイエスがいっていますのは、外にあるように見えているものは、本当は外に独立性を
もっているものではないから、それ自身で穢(けが)す力はない、

外の物で穢されるとか穢されぬとかいうけれども、実は外は内界の投影であるから、
もし汚されるならば、内から出るものすなわち「心」によって、および心によって
発せられる「言葉」によって汚されるのだといっているのであります。

われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」
と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えること
によって、事件が変わっていき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって
外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。

それは理論ではなく、事実なのであります。

          <感謝合掌 平成28年12月16日 頓首再拝>

三界は唯心の所現 - 伝統

2017/01/18 (Wed) 04:45:28


           *「光明道中記」(1月18日)より

【御利益の真諦は「既にあるところの実在」である。(『生命の實相』第十七巻)】

高く騰(のぼ)る者、低く降る者、光栄に輝く者、屈辱を受ける者、
すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出すのである。

勝利する者は、勝利する角度から物事を見、
処世に失敗する者は、失敗する角度から物事を見、行動する。

商品の列(なら)べ方一つでも勝利する者はよく売れる角度から陳列し、
失敗する者は失敗する角度から陳列してよく売れない。

机の列べ方一つ、書棚の置き方一つ、いすれも勝利する人は勝利する角度から、
失敗する人は失敗する角度から配置する。

まことにも三界は唯心の所現である。

駆歩(かけあし)の競争をする時に、吾れ必ず勝つと念じて走り出せば、
力量に格段の相違がない限り必ず勝つ。
たとい力量に格段の相違があるにしても、
「吾れ必ず勝つ」と信じて回を重ねるならば勝つに至る。

現象界は時間空間の絵巻物の中に展開する反影(かげ)であるから、
たとい心の中で既に勝っていても形の世界に現れるには、ある回数を重ねる必要がある。

勝利者的態度は持続によって効果を現すのである。
堅忍持久(けんにんじきゅう)は勝利者の必須条件である。

            <感謝合掌 平成29年1月18日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2017/02/02 (Thu) 04:33:35


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、子に腹の立ったとき、
親に腹の立ったとき、そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。

            <感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>

すべてが自己の「心内の存在」 - 伝統

2017/02/17 (Fri) 04:30:59


        *『生命の實相』第13巻倫理篇・上巻
          第4章<自心の展開としての客観世界>(P117~118)より

すべてが自己の「心内の存在」だと云い得るのであります。
こういうようにしてすべてが自己の心内(こころのうち)の存在である
ということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。

すべてが自己の心内(こころのうち)であるということが解ると、
本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。
 
言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、
「他(た)」は本来無い、「自(じ)」ばかりなのであります。
彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であります。

三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。

で、罪とは「自他一体」の実相を知らないことであるとともに、
「三界はただわが心の所現である」との真理を隠蔽して
知らないことをいうのであります。

《客観世界がただ自心の展開である》ことを悟らないために、
外界に見える事物を「内界(こころのうち)の存在」だと知らず、
外界に心を捉えられ、心をひっからすために、
ここに「五官的存在」に捉われる罪(隠蔽)が顕われてくるのであります。

「生長の家」では五官的存在を排斥するのではありません。
五感的存在を、ただ、「自心の展開」として自由自在に駆使しうる
境地になるのが理想なのであります。


            <感謝合掌 平成29年2月17日 頓首再拝>

三界唯心の理 - 伝統

2017/03/04 (Sat) 03:54:10


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。
むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、他の約束(空間的広がり)の上に起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。植物も動物も生まれない。
だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて適当の温度の中で
化合せしめても人体はむろんできないし、植物はもちろん、微生物すらもできない。

《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、偶然的なものではなく、
よほど叡智的なものであることは、人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでないと造ることのできない
ような、最高複雑な組織のものであることや、単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、
同様の程度に最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、心のエネルギーは物質を動かす。
心のエネルギーが物質を動かすのは心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、考え方によって、どちらとでも言いうる。
どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、宇宙の中に
無限と1円とがともにあるならば、宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、無限は先であり、
有限は無限の中に包摂せられる一部分であるという意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 平成29年3月4日 頓首再拝>

感覚世界の自主的征服 - 伝統

2017/03/24 (Fri) 03:25:19

         *「生命の實相」第13巻倫理篇上(P123~124)より

さて、この「三界はただ自心の展開である」との事実に眼が覚めてきますと、
すべての感覚的事物への自己の《奴隷的屈従》がなくなるのであります。

ほとんどすべての悪徳は、一切事物を「自己の心内(こころのうち)の存在だ」と気がつかず、
独立せる外界を構成せる事物であるとして、自己の内界(こころのうち)を調べないで、
外界をできるだけ多く、自己の所有としようとし、他を制して、他と争い(利己主義)、
あるいは《自己を忘れて》外界に隷属(感覚的耽溺)することになるのであります。

かくのごとくして、いっさいをただ「自心の展開」と見ないものには、
利己主義と「感覚的事物への隷属」とがこもごも生ずることになり、

争い、嫉妬、羨望、憤怒、憎悪、焦燥、貪欲、虚飾その他
あらゆる罪悪(真理隠蔽)が、「三界はただ自心の展開である」という
根幹的真理の隠蔽の枝葉として繁茂するのであります。


考えてみますのに、「争い」というものは、いっさいをただ自心の展開としてみないで、
幸福の源泉を「物」にありと観、あるいは自己の幸福を奪うものを他者にありとして、
他に犯されまじとして防ぎ、あるいは他者を侵して他者より「物」を奪うことによって、
自己の幸福を増大せしめようとして、互に侵し防ぐことによって生ずるのであります。

すべてが「自心の展開」である、ということが判明しますと、ただわれわれの幸福を得る
ための仕事は、互に争うことではなく、ただ自心をととのえれば自己が生きるとともに、
自他一体なるがゆえに他者もともに生きるという幸福なる環境が展開し、
いっさいの争いは滅尽(めつじん)してしまうのであります。

羨望、嫉妬、憤怒、憎悪などという対他的悪感情は、争いと同じくいっさいを「自心の展開だ」
とみないために起る第五、第六等々・・・の神性隠蔽として起るのでありますから、
羨望するな、嫉妬するな、憤怒するな、憎悪するな、などと一々その悪徳について従来の
「なかれ主義」の修養的倫理学によってこれを制しようとしましても、
なかなか制しきれるものではないのであります。

それにはどうしても「生長の家の倫理学」によって「いっさいは自心の展開である」との
真理をきわめ、それを実証的に自己自身の上に体験して初めて、対他的に争っても憤怒しても
嫉妬しても羨望しても憎悪してもなんにもならない。

ただ自心を豊かにすれば、物が豊かに集まる。
ただ自心を尖らせれば、自己を鋭く刺すがごとき尖った環境がやって来る。

《すべては自心のとおりのものが現れて集まって来る》ことを如実に悟ったとき、
自然にいっさいの対他的悪徳が消滅してしまうのであります。

            <感謝合掌 平成29年3月24日 頓首再拝>

悪しきものは、「三界は唯心の所現」として現われる - 伝統

2017/04/02 (Sun) 03:42:50


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より

偶然は一つもない。

もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が
どこかにあるということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。

偶然と考えられるもののうち、
善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。

神は悪しきものを与え給わないから、
悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。

神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。

それらは神から来るのではない。

審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)

われわれは神の子であるから、われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が
「心の法則」として、「三界は唯心の所現」として現われるのだ。

              <感謝合掌 平成26年4月2日 頓首再拝>

三界唯心~心に描くものだけが現象界に顕現する - 伝統

2017/04/13 (Thu) 04:12:36


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。

これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。
彼らは不幸を好まないでいながら、その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、

「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」

と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかもしれない
と反省するかもしれないけれども、現にただ今そのような不幸を製造しつつはいない
と思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、唯一の不幸の原因だと
思っているのだけれどもわれわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに
「心の法則」の胎(はら)の中に妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」

とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、虐遇を、
不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。


過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしている
その現在の心の悩み、肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、

かく「取越し苦労」をすることによって、
未来の創造力の沃地に「不幸」というものの心的種子を蒔いている
ことになっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。

未来に来たるべき運命を
われわれは美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しきお土産を与えて下さるのが
運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 平成29年4月13日 頓首再拝>

三界は唯心の所現 - 伝統

2017/05/01 (Mon) 04:55:58


         *「生命の實相」第21巻 経典篇(P12)より

三界は唯心の所現である。
すべてこの感覚に映ずる世界、ことごとくはこれ心の所現の世界である。

つまり(現象界は)、創造主(つくりぬし)というような神様が造り固めた
世界ではないのであって、われわれの「念」というものが造り固めた世界である。

念が創造主(つくりぬし)である、「三界は唯心の所現である」というのは、
つまり「念」が造り固めた世界である、という意味であります。

            <感謝合掌 平成29年5月1日 頓首再拝>

唯心所現~心が万事の本(もと) - 伝統

2017/05/02 (Tue) 04:00:29


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようともわれわれの実相(ほんとのすがた)は
すでに叶えられているのである。この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、幸福は来るものではない。
「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、
「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずにおれるものではありません」と
普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が形にあらわれて
「不平な事件」が突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。
今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、「不幸の機関車よ、運転するな」ということは
できないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」
「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が形にあらわれて消えてゆくのだ、
ありがたい」と思えばよいのである。

そして、「今眼の前にどう現われていようとも、それは唯心の所現であって
本当に《ある》のではない。本当には今自分が、自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 平成29年5月2日 頓首再拝>

唯心所現の世界に住みて - 伝統

2017/05/17 (Wed) 03:38:00


        *「愛はかくして完成す」(P62~63)より

ここに吾らは現実的には、一元の世界に生活するのではなく、
真・妄こもごも複合する世界に住むことになったのである。

そこに”真(実相)”が全然あらわれていないのではなく、
実相はあらわれていながら、それは「迷いの霧」がたちのぼって、
その実相が物質的に賦彩(ふさい)せられて、世界は”物質世界”に、
人間は「肉体」という姿にあらわれているのが現実の相である。

それゆえに、私たちが住んでいる世界、感覚で見ている世界は、
”唯心所現”の世界であって、心によって色々に変化する世界なので、
必ずそこに相対立する「善悪の現象」があるのである。

”生”に対して”死”があり、健康に対して病気があり、
富に対して貧があり、聖に対して罪があり、純潔に対して汚濁があり、
利益に対して損失があり、愛に対して憎しみがあり、

私たちが「神一元」の悟りの世界に超入しない限り、それら対立の
両者の間に惑わされて煩労を重ねるほかはないのである。

この事を「創世記」にはアダムとイブが蛇の知恵(感覚智)にだまされて
「善悪を知る樹の果」を食してエデンの園から追放されたという風に
書いているのである。

            <感謝合掌 平成29年5月17日 頓首再拝>

《蒔かぬ種子は生えぬ》 - 伝統

2017/05/30 (Tue) 04:46:34


    *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P90~91) より

この原因結果の法則は、人間が人間の定めた法律の網の目をくぐるように、
原因結果の法則をくぐり抜けて、「悪い事」を想念しながら「善い結果」を
得ようとしても、決してそのような狡い事は許されないのである。

これを仏教では「因果不昧(いんがくらまさず)」と謂うのである。

日本の諺に「蒔かぬ種子(たね)は生えぬ。蒔いた種子は生える」というのはこれである。
そして茄子を蒔いたら、その茄子の種子からは茄子が生え、茄子の実を結ぶのであり、
瓜を蒔いたら、その瓜の種子からは瓜が生え、瓜の実を結ぶのである。

「瓜の蔓(つる)には茄子は生えぬ」という諺がある所以である。

キリストはこの真理を「汝の信ずる如くなれ」という語(ことば)や、
「汝の信仰汝を癒せり」という言葉や「もし芥子種(からしだね)ほどの信だにあらば、
この山に動いて海に入れというとも必ず成らん」という訓(おし)えをもって
示しているのであり、

仏教ではこれを「三界唯心」の語(ことば)で 表現しているのである。

            <感謝合掌 平成29年5月30日 頓首再拝>

「三界は唯心所現」(横の心理) - 伝統

2017/06/15 (Thu) 03:49:27


        *「生長の家とは如何なるものか」(P40)より

   《われらは『類は類を招ぶ』の心の法則を知るをもって
    いやしくも自己の欲せざることを心に思わざらんことを期す。》


「類は類を招ぶ」というのは生長の家の横の真理であります。
仏教でいえば「三界は唯心所現」である。
これは、現象界が展開して来る、業の流転してくる法則を現わしたものであります。

業はいかにして流転するかというと、
この「類は類を招ぶ」という法則によって流転しているのであります。

ここへ集まっておられる方はそれぞれまた
「類は類を招ぶ」という法則によって集まっておられるのでありますから、
ここにおられる皆さんの心はよく調和している、

そして仲のわるい人は一人もない、みんな生長の家の家族であるという懐かしい
感じがする。根本の思想というものがちょうど相牽引する類似の人ばかりが
集まっていられるからであります。

よく嫁に行かれた御婦人が嫁いだ先の姑さんはひどい姑さんであったと、
こういって自分のことを棚に上げておいて姑ばかりひどいひどいと思っている
ようなお嫁さんが往々にしてありますけれども、

「類は類を招ぶ」という心の法則をもし知ったならば、自分自身が姑と類似の心を
もっていたということに気がついて、自然と懺悔の心が起こってきて、

ああわたしがわるかった、これは自分の心の鏡であった、
本当に申しわけなかったということに気がつくのであります。

            <感謝合掌 平成29年6月15日 頓首再拝>

《汝の信ずる如く汝になれ》 - 伝統

2017/07/05 (Wed) 04:49:33


     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P169~170) より

心に描くものが形にあらわれ、心に信ずる如くその人は成るのでる。

これが釈尊のお説きになった“三界唯心”の真理であり、
キリストがお説きになった「汝の信ずる如く汝になれ」の真理である。

若し面白くない事件が過去の暗い想念の具象化として
あなたの周囲に起こったとしても、その時、自分の心を暗黒の方向に
下降せしめて暗い失望落胆の境地に陥れてはならないのである。

若し暗い失望落胆の谷底にあなたの心が堕ちるならば、
折角、暗黒の後に光明が訪れて来ようとしている時に
その光の流れを堰き止めてしまう事になるのである。

暗黒が現象世界にあらわれて来るのは、過去の暗黒な想念の貯蓄が、
窓口から現象界に払い戻されて、
「暗黒の貯蓄」の残額が少なくなりつつあるのだということを充分知って、

もう「暗黒の貯蓄」は払い戻されたのだから、
今後は決して「暗黒」なことは出て来ないということを知り、
心を一転して光明面に転ずる習慣をつけましょう。

習慣は第二の天性となり、今後は常に幸福が訪れましょう。 

            <感謝合掌 平成29年7月5日 頓首再拝>

「念(ねん)」が造り固めた世界 - 伝統

2017/07/20 (Thu) 03:31:46


         *『生命の實相』第21巻経典篇(P11~12)より

生長の家においてはまず 「 物質は ない 」 という
一つの大いなる真理の前提があるのであります。

「 物質は 無(む)である 」 こういう真理の前提があるがために、
「 この世 」 とか、 「 この世の創造主(つくりぬし) 」 とかいう場合の
「 この世 」 なる この世は、決して この物質の この世でない、
ということを まず知っておかなければならないのであります。

釈迦はこの物質の世と、その創造主(つくりぬし)を完全に否定してしまった後(あと)に、
この世を造り固めた力というものはどういう力であるかというと、「無明(むみょう)」
である「迷い」である。

この世というものは忽然と現れた無明を起源として因縁によっていっさいのものが
こういう具合にできてきたのである、こういうようにお説きになったのであります。

それで、この不完全な憂苦充ち満ちたる物質世界というものは結局は迷いが
現わしているのである、こういうのであります。

これは単純なる創造主(そうぞうしゅ)論よりもいっそう合理的であります。

生長の家ではこれをどういうふうに言いますかというと、三界は唯心の所現である。
すべてこの感覚に映ずる世界、ことごとくはこれ心の所現の世界である。
こういう具合に言うのであります。

つまり創造主(つくりぬし)というような神様が造り固めた世界ではないのであって、
われわれの「念(ねん)」というものが造り固めた世界である。
念(ねん)が創造主(つくりぬし)である。

「三界は唯心の所現である」というのは、
つまり「念(ねん)」が造り固めた世界である、という意味であります。

            <感謝合掌 平成29年7月20日 頓首再拝>

「三界は唯心の所現」(「肉体も環境も心の影」) - 伝統

2017/08/07 (Mon) 04:48:49


       「生命の實相」第30巻聖典講義篇(P220~221)より

では心の持ち方がわるければどうして病気になったり、
不幸災難が起ったりするかと申しますと、
これは自分が自分に神罰を与えているのです。

自分が勝手に太陽の御光のまっただ中に坐っていながら、
眼をつぶっていて、「暗い暗い」と言っている状態、
これが神罰なのであります。

眼をつぶって眼瞼(まぶた)の裏で何やら、
むらむらぶつぶつと変な想念(おもい)を心に描くと、
心に描いたとおりのものがあたかも実際存在するかのごとく、
形に描かれて眼の中に見えるのでありましょう。

自分が心に描いたとおりの形にあらわれる。

これが、ある治病宗教でいえば、「み知らせ」で、
自分自身が「今のお前の心はこんなことを描いているぞ」と
御知らせしているのであります。

仏教でいえば、そのことは
「三界は唯心の所現」という言葉で言いあらわされております。

どの宗教でも、根本原理は同じことで、
それを、別の言葉で言い現わしているにすぎないのです。

生長の家では「肉体も環境も心の影」と申しております。

すべて現象界にあらわれるいっさいは、
自己が関するかぎりにおいては自己の心の影であります。

神の光は何億燭光といっていいかそれでも言い足りないくらいの、
無限の明るさをもって照っているのであります。

けれども自分の心のフィルムに従ってそこに影が現われてくる。

光の中には影が全然ない。

神様の恵み、神の造り給うた実在の中には
どんな影もどんな悪しきものも存在しないのでありますけれども、
われわれが心のフィルムの前にいろいろの影を描くと、
背後の光の作用でそこにその影のとおりに形の世界が現われてくるのです。

そのためにわれわれの住む世界が不幸なものとなり、
あるいは肉体が病気のような状態となって現われましても、
これは神罰ではないのであります。

            <感謝合掌 平成29年8月7日 頓首再拝>

自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開する - 伝統

2017/08/10 (Thu) 03:22:56


      *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる、八月十日 善き言葉のみ使う日)より

【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉通りになる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。

良人は「自分」が近づく以前からあんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。

凡そ三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。

即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは自分の心の反映であると
云うことが出来るのである。

良人から見た妻の場合も矢張りそうである。妻の性格がたとい自分と結婚する以前から
そのようであるにしても、そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。

かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、ただ「有りがたく受ける」ことである。

ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。

          <感謝合掌 平成29年8月10日 頓首再拝>

仏教で言う因果の法則 - 伝統

2017/08/25 (Fri) 03:53:10


       「生命の實相」第30巻聖典講義篇(P223~224)より

ここに「目には目を、歯には歯を」償うという言葉がありますが、
これはユダヤ教の掟でありまして、悪いことをしたら悪いことをしただけの
報(むく)いを受けなければ、赦されないような当時の掟を引用されたのでありますが、
これは、心に描いただけの形が現象界に映る現象顕現の「心の法則」
仏教で言う因果の法則だと見ることができるのであります。


われわれが悪い心を起こしたら、その悪い心だけのことを償わなければ、
その悪い心の罪というものは消えない。

百の悪しき心を起こしたなら、百の償いをしなければ、それは消えない。

播かぬ種は生えない。

播いた種は生える。

生えた時にはじめの種は崩壊(くず)れてしまっている。

「果」が出たときにはじめて「因」が崩壊する。

これは因果の法則であって、人の頭を踏みつけるような心持でやっていると、
それは、いつかは自分の頭が痛くなったり、脳溢血を起こしたり、
子供の頭に瘡腫(かさぶた)ができたりするというような塩梅に、
自分の心に「因」を起こせば「果」を顕わすまでにはその「因」は消えない。

心相応のことが顕われて出るまでは償われないというのが因果の法則なんであります。


この因果の法則は生長の家でいう「横の真理」でありまして、
三界は唯心の所現として心相応のものが形の世界に顕われてくるのであります。

          <感謝合掌 平成29年8月25日 頓首再拝>

三界は唯心の所現、心が変われば形が変わる - 伝統

2017/09/24 (Sun) 04:58:26


        *「生命の實相」第16巻人生問答篇(P108~110)より

高津―― 猫が鼠を食わなければ何をたべて生きるのです。

谷口―― 猫と鼠は一緒に草原に寝転んで草を食って
     相戯れているような状態が「実相の世界」なのです。

     生命(せいめい)は互いに奪い合い食い合わなければ生長進化できない
     というのは実相を知らぬ「迷い」です。

     その「迷い」が客観化(かたちにか)されたのが、
     互に食い合う生命(せいめい)なのです。

     「迷い」がなくなれば「迷い」の具象化である
     現象生命の「食い合い」もなくなるのです。

     『生長の家』誌友には心一つで鼠と猫を調和させた実例がたくさんあります。


高津―― そんなことは信じられません。
     仮に猫が鼠を食わず、あらゆる動物が食い合いをしなくなっても、
     人間の痛みや苦しみはなくならない。

     たとえば地震とか津浪とかいう天変はなくなりはしない。
     そういう苦しみに出遭っても悩まないように悟らせるのが宗教家の役目です。

谷口―― わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、
     地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。

     あなたのおっしゃる救いは、苦しみは苦しみのままで諦めて
     その苦しみから解脱する救いですが、

     わたしの説くのは現実の苦難そのもの
     諸共(もろとも)に救われるのです。
     悟りと同時に病気が治り、境遇も環境もよくなるのです。


高津―― たとい現実に地震も起らなくなるとしても、
     それは幾十億劫後の世界のことでしょう。
     それはありうるかもしれない、無いかもしれない。

     そういう世界を空想して現実の苦しみを救うことはできない。
     現実の苦しみを救うには、現実の苦しみに突き入って、
     苦しみは苦しみのままでそこに生命(せいめい)が生きているという
     真理を悟らせるようにするしか仕方ないでしょう。

谷口―― 地上に地震や、津波がなくなるのは地上全体の
     生物の心が清まらなくてはならないから、
     その遅速は、地上全体の心の清まる遅速に関するのです。

     しかし、一個の人の環境がよくなるのは、
     その人一人の心がよくなればよいのです。

     地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人を
     その天災は害することはできない。
     この事実は『生長の家』誌友自信が多くの実例た体験を作っています。

     また夫婦でできている家庭ならば夫婦だけの心が清まれば
     その家庭は現実的にもよくなってくるのです。
     夫婦が仲好く、家族に病気がなくなり、収入も適当にできてくるのです。

     「生長の家」の救いは悟りと共に現実も救われるので、
     あなたのおっしゃるように病気があり、家庭が不仲で、経済難で、
     それでいて心だけ悩まないような諦めではないのです。


高津―― どういう原理によって現実界も共に救われるのです?

谷口―― 現実界は、自分の肉体も、境遇も、すべて自分の心の影だからです。
     心が変われば形が変わる ―― これが原理なのです。

          <感謝合掌 平成29年9月24日 頓首再拝>

あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る - 伝統

2018/01/17 (Wed) 04:04:48


           *「光明道中記」(1月17日環境浄まる日)より

【菩薩心浄ければ、その土また浄し。(『維摩経』『生命の實相』第十二巻)】

我が住む世界はわが心の反影である。
この真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理である。

自分が若し他に憎まれているならば、それは他が自分を憎んでいるのではなく、
自分の心が自分を憎んでいるのである。
其の人の表面の心が許していることを潜在意識が憎んでいるのである。

他に責められる間はまだ自分に責められるべき要素があるのである。
それは業の自壊であり、自己の念の流転力が相手に反影しつつ消えて行くのである。

あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る ――
これは三界は唯心の所現なる原理からおのずから引き出されるところの結論である。
自分自身が罰しないのに他が自分を罰することはあり得ないのである。

苦難が魂の浄化だと思っている間は、その人にとって苦難が来るであろう。
それは自己処罰の一形式であるからである。

何か落着かぬ心のある日には、小さい事であっても失策が続出する。
言わないで好いことを言って見たり、覆(かえ)さないで好い鍋を覆して見たり、
皆な自己処罰である。

            <感謝合掌 平成30年1月17日 頓首再拝>

自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出す - 伝統

2018/01/18 (Thu) 04:52:12


           *「光明道中記」(1月18日高く騰(のぼ)る日)より抜粋

【御利益の真諦は「既にあるところの実在」である。(『生命の實相』第十七巻)】

高く騰(のぼ)る者、低く降る者、光栄に輝く者、屈辱を受ける者、
すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出すのである。

勝利する者は、勝利する角度から物事を見、
処世に失敗する者は、失敗する角度から物事を見、行動する。

商品の列(なら)べ方一つでも勝利する者はよく売れる角度から陳列し、
失敗する者は失敗する角度から陳列してよく売れない。

机の列べ方一つ、書棚の置き方一つ、いすれも勝利する人は勝利する角度から、
失敗する人は失敗する角度から配置する。

まことにも三界は唯心の所現である。

            <感謝合掌 平成30年1月18日 頓首再拝>

自分の心のとおりの世界 - 伝統

2018/02/02 (Fri) 03:24:09


          <「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月2日)」より>

あらゆるものを愛していたい。
愛する心のみが愛される心である。

草花を愛する心は草花に愛される。
草花を劬(いた)わる心は、草花に慰められる。

夫を愛する妻は、夫に愛され、妻を愛する夫は、妻に愛される。
子を愛する親は、子に愛され、親を愛する子は親から愛される。

この世界は自分の心のとおりの世界である。

腹の立ったとき、夫に腹の立ったとき、妻に腹の立ったとき、子に腹の立ったとき、
親に腹の立ったとき、そんな時には相手の顔が小面(こずら)憎く見えるであろう。

相手の顔はあなたを慰めないであろう。
相手の顔が不快なのは、こちらの腹の立っている心が移入しているのである。
相手の顔が悪いのではない。

慰められる心は慰める心のみが味わいうるのである。

相手は自分の心のとおりのものである。
これをリップスは感情の移入と言い、釈迦は三界は唯心の所現と言う。

            <感謝合掌 平成30年2月2日 頓首再拝>

三界はただ見る人自身の鏡である - 伝統

2018/02/25 (Sun) 04:00:40


           *「光明道中記」(2月25日 心美しき日)より   

【心の眼がひらかれなければ実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。
・・・ 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。 (『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、主観によって、観る者と
観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には此の世界は孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

            <感謝合掌 平成30年2月25日 頓首再拝>

三界唯心の理 - 伝統

2018/03/04 (Sun) 04:43:39


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。
むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、他の約束(空間的広がり)の上に起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。植物も動物も生まれない。
だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて適当の温度の中で
化合せしめても人体はむろんできないし、植物はもちろん、微生物すらもできない。

《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、偶然的なものではなく、
よほど叡智的なものであることは、人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでないと造ることのできない
ような、最高複雑な組織のものであることや、単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、
同様の程度に最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、心のエネルギーは物質を動かす。
心のエネルギーが物質を動かすのは心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、考え方によって、どちらとでも言いうる。
どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、宇宙の中に
無限と1円とがともにあるならば、宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、無限は先であり、
有限は無限の中に包摂せられる一部分であるという意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 平成30年3月4日 頓首再拝>

形の世界は象徴の世界である - 伝統

2018/03/22 (Thu) 03:30:14


         *『生命の實相』第17巻宗教生活篇(P106~108)より

「念が具象化する」ということは、仏教で言えば、
「三界は唯心の所現」ということであります。

なんの気なしに見ているとんでもないことでも、三界は唯心の所現で
ありますから、日常生活中に出現する時々物々ことごとく
自分の精神内容を外界に投影しているのであります。


心が変われば着物も変わり、靴も変わり、人相も変わり、肉体も変わる。
だから『生命の實相』を読んで心が変われば肉体が変わるのは
不思議ではないのであります。

(中略)

象徴としての客観世界は気をつけてみれば、
完全に精神内容を表わしているのであります。

(中略)

形の世界は象徴の世界である。
三界は唯心の所現である。

皆さんの生活の中にも、象徴があらわれているのでありますが、
なんの気なしに、ことごとくこれ自心の象徴なのであります。

            <感謝合掌 平成30年3月22日 頓首再拝>

悪しきものはない、「三界は唯心の所現」として現われる - 伝統

2018/04/02 (Mon) 03:18:05


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より

偶然は一つもない。
もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物がどこかにある
ということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。

偶然と考えられるもののうち、
善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。

神は悪しきものを与え給わないから、
悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。
神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。

それらは神から来るのではない。

審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)

われわれは神の子であるから、
われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。

              <感謝合掌 平成30年4月2日 頓首再拝>

三界唯心~心に描くものだけが現象界に顕現する - 伝統

2018/04/13 (Fri) 03:20:55


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。
これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。
彼らは不幸を好まないでいながら、その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかも
しれないと反省するかもしれないけれども、
現にただ今そのような不幸を製造しつつはいないと思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、唯一の不幸の原因だ
と思っているのだけれどもわれわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに「心の法則」の胎(はら)の中に
妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」
とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、虐遇を、
不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。

過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしている
その現在の心の悩み、肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、
かく「取越し苦労」をすることによって、未来の創造力の沃地に
「不幸」というものの心的種子を蒔いていることになっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。

未来に来たるべき運命を
われわれは美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しき
お土産を与えて下さるのが運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月13日 頓首再拝>

現象世界は心の持ち方でどのようにも変わります - 伝統

2018/04/28 (Sat) 03:33:34


       *「真理9巻」生活篇(P59~60)より

あなたの人生を幸福にするためには「三界唯心」の真理を知らねばなりません。

三界とは仏教の言葉で、人間が生まれ更(か)わって出てくるところの
欲界・色界・無色界の三つの世界で、
我々が生まれ更わる現象界引くるめて言った言葉であります。

それがただ心によって現されている世界だと云うことであります。

それは仏教の深い真理を現している言葉でありますが、それを今までは、
ただ高遠な印度哲学だぐらいに思って、実際生活の上に役立つものだと
知らなかったのでありますが、

生長の家があらわれて、心で思う通りに現象界(我々の住んでいる感覚で感じられる世界)
が変わると云うことを多くの人々に教えて実際それを応用させてみせることによって、
歎きの世界が歓びの世界に変わり、苦痛の世界が愉しさの世界に変わることが
実証されるようになったのです。    

            <感謝合掌 平成30年4月28日 頓首再拝>

三界は唯心の所現 - 伝統

2018/05/01 (Tue) 03:30:43


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月1日)」より

お山のつつじが真盛りである。
万物がわたしのために讃歌を歌っている。

讃歌の世界、花びらの降りそそぐ世界、この世界がそんな美しい世界だと知ったとき
わたしはこのお山へ招かれて来たのである。

「三界は唯心の所現である。」釈迦のこの哲学が真実であるならば、
心の法則を知ることは三界を自由に動かし、
運命を自由に支配することとならざるをえないのである。

「なんじの信ずるがごとくになんじにまでなれ」キリストのこの信仰が真実であるならば、
信念の法則を知ることは環境を自由に支配し、肉体を思うまま健康にし、心に思うまま
法悦と歓喜と平和を満たすところの唯一の鍵であるといわなければならない。

心の法則なるかな。信念の法則なるかな。

せっかく、光明真理に触れたのであるから、もう一度この問題を復習してみることは、
これからの自分の生活を確固とした基礎の上に置くことになるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月1日 頓首再拝>

唯心所現~心が万事の本(もと) - 伝統

2018/05/02 (Wed) 04:04:44


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようともわれわれの実相(ほんとのすがた)は
すでに叶えられているのである。この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、
「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、
幸福は来るものではない。

「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、

「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずにおれるものでは
ありません」と普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が形にあらわれて
「不平な事件」が突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。
今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、
「不幸の機関車よ、運転するな」ということはできないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」

「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が
形にあらわれて消えてゆくのだ、ありがたい」と思えばよいのである。

そして、

「今眼の前にどう現われていようとも、それは唯心の所現であって
本当に《ある》のではない。
本当には今自分が、自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」

と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 平成30年5月2日 頓首再拝>

三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴う - 伝統

2018/08/10 (Fri) 04:24:24


      *「光明道中記」(8月10日 善き言葉のみ使う日)より

【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉通りになる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。

良人は「自分」が近づく以前からあんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。

凡そ三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。

即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは自分の心の反映であると
云うことが出来るのである。

良人から見た妻の場合も矢張りそうである。妻の性格がたとい自分と結婚する以前から
そのようであるにしても、そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。

かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、ただ「有りがたく受ける」ことである。

ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。

          <感謝合掌 平成30年8月10日 頓首再拝>

すべては自分自身の「心」の中に原因がある - 伝統

2018/08/12 (Sun) 03:22:33


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(8月12日)より

列車に乗ってその列車が転覆したからといって、
その列車に乗せた駅員が悪いのではない。
転覆するような列車に乗るのは、乗ったその人自身に
その列車に乗るようになっている「心」があったからである。

「心」が万事に先行するとういうことを知る人は不幸に逢っても、
他を憎んだり恨んだりするものではない。
自分の「心」がそれを造ったということを知っているからだ。

列車に乗って不慮の災難に逢うことも、人の口車に乗って不幸に陥ったり
物事が失敗に終わるということも、「乗る」のは、自分がその乗物に
引きつけられて乗ったのだから、自分自身の「心」の中に原因があるのである。

他(ひと)が「悪い、悪い」と思っている人は、
要するに責任を他(た)に転嫁する卑怯者のことである。

人間は強くなるにしたがって、いっさいの原因を自分自身に帰するようになる。
そして聖者と言われるほどの人になると、衆生の一人でも
まだ苦しんでいる者があると自分自身の責任だと感ずるものである。

世界のすべての人類が「光明思想」を知らず、また知っても十分実践せず、
不幸に沈淪(ちんりん)している者があるのは、
わたしの宣伝が足りないからなのである。
皆わたしの罪なのである。

      <感謝合掌 平成30年8月12日 頓首再拝>

現象界は結果、描いた心の波が顕れている - 伝統

2018/10/05 (Fri) 04:47:24


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月5日>(P94)より

見える世界に不幸や病気が起こったからとて、それをそのまま実在だと思い、心に描けば
描くほど、その映画のフィルムの複製を幾本も新たにつくって映写することになるから、
その不孝や病気は治らないのである。

映画の世界(眼に見える世界)に不孝を映して見ることが嫌いならば、フィルムの世界
(心の波で作る映画の世界)における原画を訂正しなければならないのである。

現象界は結果であって、原因ではないのである。原因の表現が結果である。
だから結果であるところの不幸や病気を根絶しようと思うならば、
原因であるところの心の波で描く原画を変更しなければならない。

心の波で不幸や貧乏や病気を描くな。

           <感謝合掌 平成30年10月5日 頓首再拝>

外界は心の世界のあらわれ - 伝統

2018/10/06 (Sat) 04:47:49


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月6日>(P95)より

外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界に起こっているのである。

内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。

さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、
現象界はほっておいてもよいという意味ではない。

現象界の処理の仕方(外界)も、内界の心の持ち方で変わってくるのであるから、
まず心の持ち方を正しくして、その正しい心の持ち方から自然に催してくる
「現象界の処理の仕方」を実行することによって、正しい処置が自然ととれて、
不幸や、不完全や、病気がおのずから消えてしまうのである。

           <感謝合掌 平成30年10月6日 頓首再拝>

《すべては自分の心の展開である》 - 伝統

2018/10/20 (Sat) 04:33:12


         *『人生の秘訣365章』第6篇(P153~154) より

若し、あなたの境遇や運命に面白からぬことが起って来たならば、
それを改善する根本的な方法は自分自身の心の態度を改めることである。

口実を他(た)に求めて、
「環境が悪いから」とか「あの人が悪いから」とか考えて、
自分以外のものに責任を負わせれば負わせるほど
却って環境の改善がおくれるのである。

環境の改善がたしかに必要があるにしても、
それを改善するのは自分の心が発案し計画し実践し出さねばならないのであるから、
自分の心の態度が間違っていたら、却って水を求めて
樹(き)に攀(よ)ぢるようなことになるのである。

           <感謝合掌 平成30年10月20日 頓首再拝>

「三界は唯心の所現」 - 伝統

2018/11/08 (Thu) 02:38:44


           *「生命の實相」第21巻 経典篇(P12)より

三界は唯心の所現である。
すべてこの感覚に映ずる世界、ことごとくはこれ心の所現の世界である。

つまり(現象界は)、創造主(つくりぬし)というような神様が造り固めた
世界ではないのであって、われわれの「念」というものが造り固めた世界である。

念が創造主(つくりぬし)である、
「三界は唯心の所現である」というのは、
つまり「念」が造り固めた世界である、という意味であります。

           <感謝合掌 平成30年11月8日 頓首再拝>

「吾れ必ず勝つ」と信じて回を重ねるならば勝つに至る - 伝統

2019/01/18 (Fri) 04:26:41


         *「光明道中記」(1月18日 高く騰(のぼ)る日)より

【御利益の真諦は「既にあるところの実在」である。(『生命の實相』第十七巻)】

高く騰(のぼ)る者、低く降る者、光栄に輝く者、屈辱を受ける者、
すべて自分の心が見出せし通りのものを環境に見出し、運命に見出すのである。

勝利する者は、勝利する角度から物事を見、
処世に失敗する者は、失敗する角度から物事を見、行動する。

商品の列(なら)べ方一つでも勝利する者はよく売れる角度から陳列し、
失敗する者は失敗する角度から陳列してよく売れない。

机の列べ方一つ、書棚の置き方一つ、いすれも勝利する人は勝利する角度から、
失敗する人は失敗する角度から配置する。

まことにも三界は唯心の所現である。

駆歩(かけあし)の競争をする時に、吾れ必ず勝つと念じて走り出せば、
力量に格段の相違がない限り必ず勝つ。
たとい力量に格段の相違があるにしても、
「吾れ必ず勝つ」と信じて回を重ねるならば勝つに至る。

現象界は時間空間の絵巻物の中に展開する反影(かげ)であるから、
たとい心の中で既に勝っていても形の世界に現れるには、ある回数を重ねる必要がある。

勝利者的態度は持続によって効果を現すのである。
堅忍持久(けんにんじきゅう)は勝利者の必須条件である。

            <感謝合掌 平成31年1月18日 頓首再拝>

打つ心は打たれる心である - 伝統

2019/02/10 (Sun) 03:39:51


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月10日)」より
 
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。
同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あや)すような形で打ったら
子供はかえって喜ぶだろう。
痛さは心にあるからである。

かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。
禅家の道場破りを仕事にしているような物凄い格好の修行者が来た。
そしてたずねた。

「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」

「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。僕はこれから君を打ってやる!」

殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。
そのままいたら野村さんを殴りでもしかねるまじき姿勢である。

と、たちまち野村さんの方が起ち上がってその修行者の方へ近づいていったかと思うと、
ピシリとその修行者の頬を打った。
痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあったらしい。

やがて野村さんは元の座へ還って来て、何事もなかったように別の修行者と話していた。

野村さんが打たなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。
野村さんの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者が打たれたのあった。

打つ心は打たれる心である。

打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手を打つ。

相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つのである。


阿難が釈尊に対(むか)って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、
その憎んだ心はどこへ行きますかと尋ねたときに、

釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」と問い返された。

阿難は「それは贈った人に返ってきます」と答えた。
釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。


そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。
その同じ修行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。

「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「それでは先生の肉体を僕はこれから撲(なぐ)りますが、傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。

「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。
痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。

「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。
人を撲ろうとするお前の心には痛みがある。
『五官は心の影を見るに過ぎず』と
『甘露の法雨』にある。五官は心の痛みを映すものだ」

『ウーム、よし!』と言ったきり、
修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向いたまま動かなかった。
そしてわたしが他の修行者と話しているうちに
その修行者はどこかへ姿を消してしまった。


野村さんの捌(さば)き方と、
わたしの捌き方とどちらも個性が出ていておもしろいと思う。
野村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」
と修行者は噂する。

ときには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから
一日も早く道場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。

しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、
叱られて病気が治ったと感謝する人もたくさんあった。

相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りうるものでない、
損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。

「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と忠告する人があると、

「指導の最中には相手を指導することきり考えない。
修行者が増えるとか減るとか、損得のことを考えて指導する奴があるか」
と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきいたことがある。

            <感謝合掌 平成31年2月10日 頓首再拝>

美しき心が、美しき世界を観る  - 伝統

2019/02/25 (Mon) 04:47:35


         *「光明道中記」(2月25日 心美しき日)より   

【心の眼がひらかれなければ
実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。・・・
 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。  (『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。

浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、景色などのように
思っている人もあるかも知れぬが、「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、
主観によって、観る者と観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、
前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には
此の世界は孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

            <感謝合掌 平成31年2月25日 頓首再拝>

三界唯心 - 伝統

2019/03/04 (Mon) 04:23:50


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。
むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、
他の約束(空間的広がり)の上に起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。植物も動物も生まれない。
だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて適当の温度の中で
化合せしめても人体はむろんできないし、植物はもちろん、微生物すらもできない。

《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、偶然的なものではなく、
よほど叡智的なものであることは、人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでないと造ることのできない
ような、最高複雑な組織のものであることや、単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、
同様の程度に最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、心のエネルギーは物質を動かす。
心のエネルギーが物質を動かすのは心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、考え方によって、どちらとでも言いうる。
どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、宇宙の中に
無限と1円とがともにあるならば、宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、無限は先であり、
有限は無限の中に包摂せられる一部分であるという意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 平成26年3月4日 頓首再拝>

三界唯心~心に描くものだけが現象界に顕現する - 伝統

2019/04/13 (Sat) 04:33:06


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月13日)」より

三界唯心、ただわが心に描くものだけが現象界に顕現するのである。

これが根本真理である。

この根本原理に出発するときいかに多くの愚かなる人々が、
自分の欲しないところの不幸を心に描いていることであろう。

彼らは不幸を好まないでいながら、
その実、心の世界で不幸を製造しているのである。

不幸なる人に、「あなたの不幸はあなたが自分で製造したのですよ。
そして今も現に製造しつつあるのですよ」と言うならば、

過去の不幸はあるいは自分の過去の行為で自分が製造したのかも
しれないと反省するかもしれないけれども、現にただ今そのような不幸を
製造しつつはいないと思って不思議に思うであろう。

彼は自分の行為が、行為の上における失敗が、
唯一の不幸の原因だと思っているのだけれども
われわれの行為は結果であって原因ではないことを
知らなければならないのである。

失敗の行為が生み出される以前に、心の中に製造された失敗があるのである。

心の中に製造されない失敗が外に行為として顕われえないことは、
未だかつて妊娠しない胎児が出産することがないのと同じことである。

ではわれわれは「不幸」という好ましくない胎児をいつ妊娠するのであろうか。
それは常にわれわれが「不幸」を心に描くごとに
「心の法則」の胎(はら)の中に妊娠せしめるのである。

「われわれは『不幸よ来たれ』とは一度も心に描いたことはない」
とその人は抗弁するであろう。

しかり、彼らは「不幸よ来たれ」とは一度も心に描かないけれども、
彼らは、もうすでに過去になってしまった損害を、傷手を、迫害を、
虐遇を、不幸を、残念さを、怨恨を、憎みを、
常に心に描いて自分自身を苦しめるのである。

これらは心の世界に「不幸」を今現に製造しつつあるものであるから、
やがて現実の世界に「不幸」が産み出されて現われ出るのである。

過去はすでに過ぎ去ったのだ。
過去の「不幸」を現在の「心の世界」に妊娠せしむるな。
「持越し苦労」はただ損するほかの何物でもないのである。

「持越し苦労」の愚かさにも劣らず愚かなるものは「取越し苦労」である。
未来に起こるであろう損失を心に描いて恐れること、
未来に起こるかもしれぬ不幸を心に描いて恐れること

―― かく「取越し苦労」をすることは「取越し苦労」をしているその現在の心の悩み、
肉体の苦しみがはなはだしいばかりでなく、かく「取越し苦労」をすることによって、
未来の創造力の沃地に「不幸」というものの心的種子を蒔いていることに
なっているのである。

播いた種子は必ず生える

―― かくすることによってわれわれは現在を苦しいものとしながら、
未来の胎内に「不幸」を妊娠せしめつつあるのである。


過去にありしものをしてそのまま過ぎ行かしめよ。
未来に来たるべき運命をわれわれは
美しく着飾りて来たれる新婦(はなよめ)として迎えよう。

われらにとって「現在」というものは、
何でも自由に生み出す魔法袋のようなものである。

渋面(じゅうめん)してくる児童は横面(よこつら)をさらに叩かれ、
微笑みて迎える児童には、買物の包みを開いてその美しきお土産を与えて下さるのが
運命の女神であるのである。

            <感謝合掌 平成31年4月13日 頓首再拝>

唯心所現~心が万事の本(もと) - 伝統

2019/05/02 (Thu) 04:15:08


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようとも
われわれの実相(ほんとのすがた)はすでに叶えられているのである。

この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、
「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、
幸福は来るものではない。

「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、
「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずにおれるものではありません」と
普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が形にあらわれて
「不平な事件」が突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。
今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、
「不幸の機関車よ、運転するな」ということはできないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」
「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が
形にあらわれて消えてゆくのだ、ありがたい」

と思えばよいのである。

そして、

「今眼の前にどう現われていようとも、
それは唯心の所現であって本当に《ある》のではない。
本当には今自分が、自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」

と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 令和元年5月2日 頓首再拝>

自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開する - 伝統

2019/08/10 (Sat) 04:43:11


       *「光明道中記」(8月10日《善き言葉のみ使う日》)より

【現象世界を善くするには言葉を善くせよ。万物はその言葉通りになる。
                        (『生命の實相』第六巻)】

すべての人間の中には「自分」の念(おもい)が映っている。
彼が善であり、悪であるかは、皆「自分」の念(おもい)の鏡である。

良人は「自分」が近づく以前からあんな悪い癖のあった男であったのであるから、
良人の性格が悪いのは私の責任ではないなどと云うのは、
三界唯心の真理を撥無するものなのである。

凡そ三界唯心の真理は「類は類を招(よ)ぶ」の真理を伴うものなのである。

即ち自分の心と類似の姿が自分の周囲に展開するのであるから、
自分の周囲にそう云う良人が引き寄せられて来るのは自分の心の反映であると
云うことが出来るのである。

良人から見た妻の場合も矢張りそうである。
妻の性格がたとい自分と結婚する以前からそのようであるにしても、
そのような妻が自分の身辺に引き寄せられて来たことは
矢張り自分の業(ごう=念の集積)の展開であるのである。

かくの如くして自分の良人も、自分の妻も、自分の親も、自分の子も、
さては主人も、社長も、社員も、召使も悉く、
自己の念(おもい)の展開であるが故に、ただ「有りがたく受ける」ことである。

ただ有り難く受けたときには、業は形にあらわれるとき
蒸気の圧力がピストンの運動となって消えるのである。
そして本当に有りがたくならせて頂くのである。

明日から『歎異抄』の研究を始める。

       <感謝合掌 令和元年8月10日 頓首再拝>

現象世界は心の持ち方でどようにも変わります - 伝統

2019/12/01 (Sun) 04:07:05


          *「真理」第9巻生活篇(P59~60)より

あなたの人生を幸福にするためには、
「三界唯心」の真理を知らなければなりません。

三界とは仏教の言葉で、人間が生まれ更(かわ)ってでるところの
欲界、色界、無色界の3つの世界で、我々がうまれかわる現象世界を
引っくるめて言った言葉であります。

それがただ心によって現わされている世界だと云うことであります。

それは仏教の深い真理をあらわしている言葉でありますが、
それは今までは、ただ高遠な印度哲学だくらいに思って、
実際生活の上に役立つものだと知らなかったのでありますが、

生長の家があらわれて、心に思うとおりに現象界(我々の住んでいる
感覚で感じられる世界)が変わるということ多くの人々に教えて
実際にそれを応用させて見ることによって、
歎きの世界が歓びの世界に変じ、苦痛の世界が愉しき世界に変わることが
実証されるようになったのであります。

       <感謝合掌 令和元年12月1日 頓首再拝>

三界唯心の理 - 伝統

2020/03/04 (Wed) 04:19:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月4日)」より

無いものがなぜアルかのごとく現れて見えるのであるか。
これは釈迦の説いた三界唯心の理による。
簡単にいえば「思うとおりに現われる」のである。

眼を瞑(つむ)って、心の中で「バラの花、バラの花」と幾回も念じ思いつつ
眼瞼(まぶた)の裏にバラの花の現れることを予想するならば、
明らかにバラの花は眼瞼の裏にあらわれる。

それは、幻のバラの花であって、本当のバラの花ではないという人があるかもしれない。
むろんこれは、《無い》ものでも《現われて見える》ということを説明するための喩えである。

しかし眼瞼の裏のバラの花は《一つの約束》(視神経)の上に起こった波であり、
土から萌え出でているバラの花は、他の約束(空間的広がり)の上に起こったところの波である。

物質が波であるということが判明するならば、視神経(物質)の上の波(幻のバラ)も、
空間的広がりをもつ土壌から萌え出(い)でた波(バラの花)も、程度の差こそあれ、
波であることにおいて同質のものであることがわかるであろう。

《生命の波》が物質に作用しなかったら有機体は生まれない。植物も動物も生まれない。
だから試験管の中で、いかに人体構成のすべての物質的要素を入れて適当の温度の中で
化合せしめても人体はむろんできないし、植物はもちろん、微生物すらもできない。

《生命の波》が物質を動かすとき、物質が生命体に変化し、
微生物となり、植物となり、高等動物となり、人体となる。

そしてその《生命の波》というものはただの機械的なものではなく、偶然的なものではなく、
よほど叡智的なものであることは、人間がすべて共通的に二個の眼(まなこ)をもっていることや、
(二眼構造が偶然であるならば、三眼構造もあっても不思議はない)

その眼の構造が最高の光学的知識と機構的知識とをもったものでないと造ることのできない
ような、最高複雑な組織のものであることや、単に眼のみならず、あらゆる他の器官が、
同様の程度に最高複雑な叡智的組立てをもっていることでわかるのである。

このように《生命の波》は叡智的なものであるが、
生命の波はどうして物質に作用しうるのであろうか。

まず物質の波が心の波に変ずる実例をあげる。

われわれが物質の波を感じて、
「ここにこういうものがある」とそれを心に描く力を表象作用という。
この心の作(はたら)きはただの物質的力ではない。

写真機はレンズの背面にある乾板に姿をあらわしうるが、表象作用はない。
表象作用は《物質の波》が《心の波》に転じたことを示す。
一方の物質の波が他方の心の波に転じたのである。

物質の波が心の波に転じうるのは、
物質の波が心の波と根底において同一のものであるからではないか。

熱が動力に変じ、動力が電気波に変じ、電気が質量に変じ、磁気に変じ、
光線に変じたりするには、その構成が根底において同じ《もの》の変形にすぎないからである。

そうすれば、《物質の波》がさらに《心の波》(表象作用)に変じうるのは、
物質と心とは根底において同じ《もの》であるからではないか。


またわれわれが心に手を挙げようと意志するとき手が挙がる。
手が挙がるのは明らかに物質に変化が起こったのであるが、
手を挙げるように神経を刺激し、筋肉を収縮せしめたのは心である。

かくのごとく蒸気のエネルギーが機関車を動かすごとく、心のエネルギーは物質を動かす。
心のエネルギーが物質を動かすのは心と物質とは本来同質の《もの》であるからではないか。

かくて物は心となり、心は物となる。
この点では物心一如論であり、唯心論も採用できれば、唯物論も採用しうる。

心とは精妙なる作能を備えた物質の《ある》高級段階だともいえるし、
物質とは精妙なるべき心の《ある》低き静止的段階だともいうことができる。

同一物のいっそう精妙なる段階を「心」といい、
同一物がいっそう精妙ならざる段階を「物質」というとすれば、
どちらが《より》本源的であるだろうか。

唯物論者は、低度の《もの》(物質)が本源的であって、
しだいに偶然の自然淘汰によってしだいに高度の《もの》(精神)に達すると論じたがる。

唯心論者は本来、精妙なる心が
その作用を低度に落としたものが「物質」であると論じたがるであろう。


無限を持つ者は、1円を積み重ねて無限になったともいいうるし、
1円をもつ者は無限を持っていたのがそのうち1円しか出さないのだともいいうるであろう。

前者は唯物論者であり、後者は唯心論者である。
1円とは物質的法則を意味し、無限万円とは叡智を意味す。

一人一人の人間について考えれば、1円を積み重ねて無限になったのが本当か、
すでに持てる無限のうち1円だけを発掘したのかは、考え方によって、どちらとでも言いうる。
どちらを考えるかということはその人自身の思考の形式または習慣性である。

しかし、これを宇宙的な包括的な立場から考えるならば、宇宙の中に
無限と1円とがともにあるならば、宇宙そのものは「無限」であるとしなければならぬ。

そしてその「有限」はその「無限」のうちから生まれ出たものである。
物質は有限であり、心は辺際がなく無限である。

物心本来一如にしても、心が先であり、物は心の変形であるのは、無限は先であり、
有限は無限の中に包摂せられる一部分であるという意味において当然のことである。

心が物を作る ―― 三界唯心である。

            <感謝合掌 令和2年3月4日 頓首再拝>

三界は唯心の所現だからと云って、「一切は善である」と云う信仰を捨ててはいけない - 伝統

2020/03/27 (Fri) 05:03:42


         *「幸福生活論」(P45~46)より抜粋

諸君は真実の存在を外見に依って判断しようとします。

そう云う判断を止めて下さい。

「生長の家」の聖経『甘露の法雨』には
「感覚は唯信念の影を見るに過ぎず」と書いてあります。

西田哲学では「観られる世界は観る人の心の影だ」と云い、
仏教では三界は唯心の所現であると云います。

神は善であり、真実に於いて「一切は善である」と云う信仰を
見える世界の外形に依って捨ててはならないのです。

五官の世界は心の姿の反映ですから
「悪」が存在するごとき五官の証明に依って、
神は善であり愛であると云う信仰を捨ててはなりません。

観えると云うことと「真実にある」(実在する)と云うこととは別なのです。

外形に依って判断すれば、人生はしばしば悪しきものが充満し、
災禍や、疫病が充ち満ちているように思われます。

しかし、神が完全であり善でありたまうと云う信仰によって実相を観れば、
真実の人生は決して悪ではないと云うことが判るのです。

そして却って人間自身が彼の悩みの原因であるのです。

何故人間自身が彼自身の悩みを造ったのでありましょうか。

それは彼に与えられたる自由の誤用からです。

            <感謝合掌 令和2年3月27日 頓首再拝>

悪しきものがあらわれるのは、「三界は唯心の所現」として現われるのだ - 伝統

2020/04/02 (Thu) 04:50:20


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月2日)」より

偶然は一つもない。

もし偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が
どこかにあるということを認めなければならぬ。
そしてこれは神の全智に対するはなはだしい冒涜となるであろう。

偶然と考えられるもののうち、
善き一半は神より来たり、悪しき一半は「心の法則」より来たる。

神は悪しきものを与え給わないから、
悪しきものは神の最初の創造の世界にはないのである。

神から悪しきものが、貧しさが、病気が、苦難が来るという考えを捨てよ。

それらは神から来るのではない。

審判(さばき)は子にゆだねられているのである。(「ヨハネ伝」)

われわれは神の子であるから、
われわれ自身の潜在意識の審判(さばき)が「心の法則」として、
「三界は唯心の所現」として現われるのだ。

            <感謝合掌 令和2年4月2日 頓首再拝>

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