伝統板・第二

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神への信 - 伝統

2016/07/17 (Sun) 03:47:19

《神と直通する道》

          *「光明法語」(7月17日)より

神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。

人間でも信じられたら、信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。

神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。
それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。

あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る。

           <感謝合掌 平成28年7月17日 頓首再拝>

《芥子種(からしだね)の如き信仰》 - 伝統

2016/08/01 (Mon) 04:25:09


          *『 生長の家 』(昭和46年10月28日の法語)より

   そこで どうしたら信仰の力を増し得るであろうか。

   『 ルカ伝 』 第十七章には 次の様に書かれている。

   『 使徒たち 主(しゅ)に言う 「 われらの信仰を増したまえ 」

   主いい給う

   「 もし芥種(からしだね)一粒ほどの信仰あらば、
   此の桑(くわ)の樹(き)に 「 抜けて、海に植(うわ)れ 」
   と言うとも汝らに従うべし 』 と

   あるのである。

   また、ある一節には、イエスは

   「 もし芥種ほどの信だにあらば、この山に動いて海に入(い)れ
   というと雖(いえど)も必ず成らん 」 と教えているのである。

   ここに、ナマクラの信仰は役に立たぬことを教えていられるのである。

   吾々の食慾がナマクラで、何を食べても美味(おい)しい感じが
   しない時に、カラシをつけてたべると、食物が新鮮な味をもって
   感じられ、食慾が進むことがある。

   常に信仰は 新鮮でなければならない。

   信仰が新鮮であって、まだ入信 間もない時分には、
   色々の奇蹟的功徳が実現したのに、
   近頃は一向、新鮮な体験が出て来ないという古い信者があるが、
   新鮮な体験というものは 新鮮な信仰から出て来るものである。

   それには、どんな古い信者で、
   もう何でも知っているというような先輩であっても、

   常に誌友会や講習会に出席して、
   新鮮な体験者の体験をきくことが必要である。

   最近(昭和四十六年当時)、日本教文社から、信仰体験を集成した
   「 体験集のシリーズ 」 が次のように既に六巻出ているから、
   これらを是非読んで新鮮な信仰の伝達・感応を
   それらの体験から得られるがよい。

   体験とは真理の生活化であり、
   体験なき信仰は、まだ本物の信仰になっていない証拠である。

   また講師として人を指導する役割をもつ人々は、
   それらの体験集をよく読んで、具体的実例として話してあげると、
   相手の信仰が増し、また本当に相手を救うことが出来るのである。

   体験談を集成した新書判の書籍は次の如くである。

   ① こうして私は救われた ② 苦しみを超えた人々 
   ③ 新生活を開いた人々  ④ 愛と憎しみを超えて 
   ⑤ 道ひとすじに     ⑥ 愛よ よみがえれ

  ( 現在は絶版。新シリーズとして 「 生長の家体験ドキュメント 」
    全十巻が出版されています)


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

           <感謝合掌 平成28年8月1日 頓首再拝>

《祈りの成否を支配する信仰の強弱》 - 伝統

2016/08/14 (Sun) 03:31:18


         *『 生長の家 』(昭和46年10月27日の法語)より

   祈りを成就せしめんが為には、
   既にその成就せる光景を
   強き “ 信 ” をもって 心に瞑視することが必要なのである。

   聖書の他の一節には、イエスがラザロを復活せしめた時に、
   イエスは 「 死せるに非ず 眠れるなり 」 といっているのである。

   「 死んでしまっている 」 という観念が伴えば
   「 生きる 」 という事実は出て来ないのである。

   すべての祈りの成否は 信仰の力の強弱によるのである。

   だからイエスは、弟子たちが治病伝道に出掛けて往(い)って
   失敗した時に

   「 その病気が重かったからだ 」 とは言わないで、
   「 汝ら信仰薄き者よ 」 と歎いていられるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32


           <感謝合掌 平成28年8月14日 頓首再拝>

神への信が、その無限供給を受ける - 伝統

2016/08/19 (Fri) 04:18:33


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月19日>(P57)より

赤ん坊が母親の乳房をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

         <感謝合掌 平成28年8月19日 頓首再拝>

《信じて待てば花が咲く》 - 伝統

2016/09/05 (Mon) 03:56:50


         *『 生長の家 』(昭和24年8月12日の法語)より

   「 待てば 海路(かいろ)の日和(ひより)が来る 」
   という諺(ことわざ)がある。

   好(よ)き運命を余り早急(さっきゅう)に得ようとして
   こづきまわしてはならない。

   折角 蒔(ま)いた種を、じれったがってほりかえしていては
   結局 何も得る所はない。

   下がった株式は 必ず上がる時期が来るのである。
   一つの会社がつぶれても外の会社が栄えるのである。

   急ぐことや“ あせる ”ことは、
   生命をすりへらしてしまう鑢(やすり)である。

   ゆっくり構えて 然(しか)も信じて努力している人は
   常に大成するのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12791809.html

         <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

神への信、神徳への報恩 - 伝統

2016/09/30 (Fri) 04:39:05


          *『幸福を招く365章』第9項(P195) より

神は常にあなたと倶にある。
憂えること勿れ。
何処におろうとも、何をしていようとも神はあなたを護ってい給うのである。

如何なる危急の場合にも、真に神の無限力を信じて、呼べば必ず答え給うのである。
併し、真に神の無限力を信じなければならぬ。
信じない祈りには派長が合わぬのである。

常に神の御救いに応ずることが出来るように、
深き「神の子」の自覚を呼び起こすようにつとめよ。

常に、「われ神の子なり、常に護り給う」と心のうちに唱えよ。
而(しか)して同時に、その常の譲りに感謝報恩するために、
神徳を人に伝えなければならぬ。

何か神様のお役にたつことをしなければならぬ。

         <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>

《神のみの世界を見よ》 - 伝統

2016/10/15 (Sat) 03:41:10


        *『 生長の家 』(昭和25年9月21日の法語)より

   問題を人間知慧で解決しようと云う努力を止めよ。
   神のみが全てであり、神は善であり、愛であり、生命であり、供給であり、
   それに既に抱かれていると信ぜよ。

   肉体の眼をとじて、五官の世界に起っている問題を思わず、
   問題を解決しようと思わず、
   ただ神の愛につつまれて既に善であり幸福である世界を想念せよ。―

   こう想念して問題を解決しようと考えてはならないのである。


   イエスは何か問題に面しても、
   その不完全のところを突止めようとしなかった。

   ただ 「 病いなき 」 を見たのである。
   そして 「 起ちて歩め 」 と云ったのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

         <感謝合掌 平成28年10月15日 頓首再拝>

不安なき生活はただ神を信ずることからのみ生ずる - 伝統

2016/10/27 (Thu) 04:04:57


         *「真理」第9巻生活篇(P276~277)より


生活の前途に不安があるのは神を本当には信じないからである。
神を本当に信じたならば生活の前途に不安などありようがないのである。

いくら金を積み上げて見ても、持ち物が多くなれば不安がなくなるであろうと思っても、
財産があればあるで、また別の不安がでてて来る。 

生長の家で謂(い)う「無限供給」と云うものは
其のように不安のある「物量の大いさ」を云うのではないのである。

物量を超えて、如何に乏しくとも「生活に必要なものは神から
既に与えられているのであるから必ず出て来るに相違ない」と云う
神を信ずる上での安心感のある豊かな心境であるのである。 

何が生活の本当の「支え」であるかと云っても、
物質的な支えは決して恒久的な支えでは有り得ないのである。

本当の「生活の支え」は唯、神のみである。

神を信じ、神と一体になって神に導かれるとき
生活になくてならぬものは必ず与えられるのである。

         <感謝合掌 平成28年10月27日 頓首再拝>

《神の力が不足なのではない》 - 伝統

2016/11/09 (Wed) 03:37:31


       *『 生長の家 』(昭和23年9月27日の法語)より

   神は全能である。

   神を呼んで何事でもなすとき、
   それが如何に大なる希望であっても、
   それが一見不可能な夢であっても

   必ずそれは成就するのである。

   ただ神を信ずる力なきことを警戒せよ。
 
   如何なる大事でも如何なる難事でもそれが成就しないのは、
   神の力が不足な為ではなく、
   神を信ずるこちらの力が不足なのである。

   人間に能(あた)わないことでも神には能うのである。
   人間の智慧の尽きたところに神は無数の手段を有ち給う。

   一歩一歩神を信じて前進せよ。
   道遠きを嘆ずるな。

   一歩毎に目的に近づくのだ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

         <感謝合掌 平成28年11月9日 頓首再拝>

芥子だねほどの信あらば、 - 伝統

2016/11/24 (Thu) 04:30:42


          *「幸福を招く365章」(P17)より

信仰は山をも動かす。

自信力が個人的なものである限りは、
まだその信念の力は完全に発揮されないのである。

信念が神と云う絶大なものと結びついて信仰になるとき、
それは山をも動かす力となるのである。

「若し、芥子だねほどの信あらば、この山に動いて海に入れといえども、必ず成らん」と
イエスが云ったのは真実である。

絶対不敗の信念こそ、神の成功を得る最高の途(みち)である。

人は自分の心の中に「成功」又は「失敗」を携えて歩むのである。
それが外部からくるのだと思って、外部に依存している限りは
着眼点が間違っているから、失敗があいついで起こるのである。

外の世界は内なる世界の反映だと解って、
人間ははじめて自分自身の主人公となるのである。

自己の内界に無限力なる神を見出し、
その力によって進むものには、失敗はあり得ないのである。

              <感謝合掌 平成28年11月24日 頓首再拝>

《無きものを無きとせよ》 - 伝統

2016/12/09 (Fri) 04:17:21


         *『 生長の家 』(昭和25年10月5日の法語)より

   君は神を肯定するか。病いを肯定するか。
   これが先ず諸君の運命を決定するのである。

   目に見えざる神を信ずるか。
   目に見ゆる五官的存在を信ずるか。

   二者択一の問題である。

   神のみが実在であり、神の世界のみが実在であるから、
   そして神は善であるから、実在の世界に悪は存在しないのである。

   実在の世界に於いては苦痛は存在しないのである。
   病気は存在しないのである。

   迷いの心も存在しないし、苦病を感ずる感覚も存在しない。

   般若心経(はんにゃしんぎょう)の 「 五蘊皆空(ごうんかいくう) 」
   であり、眼耳鼻舌身意無(げんにびぜっしんいなし)である。

   唯(ただ)あるものは実相のみ、彼岸のみ、極楽のみである。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

              <感謝合掌 平成28年12月9日 頓首再拝>

《汝は何者であるか》 - 伝統

2016/12/19 (Mon) 03:49:39


        *「光明法語」(12月19日)より

汝は汝の自己が「汝自身が何者であるか」と信じている通りになるのである。

汝は弱小であると信じている限り弱小になる。
汝はすでに偉大であると信じておればその信ずるとおり偉大となるのである。

信念は山をも動かす。

信とは人偏に言(コトバ)であり、コトバは本質である。

人間の本質に対する自覚が信である。
人間の本質が神の子であることを信じたときに、その神の子の完全さが現われる。
自己の本質を自覚するまでに、ニセモノの自覚を捨てなければならなぬ。

それが悔改(くいあらた)めである。

              <感謝合掌 平成28年12月19日 頓首再拝>

《 「 若(も)し・・・ならば 」 と云うな》 - 伝統

2017/01/05 (Thu) 04:09:52


         *『生長の家』(昭和25年7月26日の法語)より

   イエスいい給う 「 為(な)し得ばというか。信ずるものには
   凡(すべ)てのこと成し得らるるなり。」
                    ( マルコ伝第九章二十三節 )

   もしも、ならば、だけどもなどというものは
   信仰なきものであるのである。

   信ずるものにはすべての事をなし得られないということはないのである。

   「 出来たらいたしましょう 」 などというものは、

   信仰なきものであるか、
   することを好まざるものであるか、
   恐怖心にみたされているものであるか であるのである。

   すべての失敗や、思う様に行かぬ状態は
   悉くかくの如き消極的潜在意識のなす業(わざ)であるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

              <感謝合掌 平成29年1月5日 頓首再拝>

《信仰を深くするには》 - 伝統

2017/01/16 (Mon) 04:58:33


       *「生長の家」(昭和25年6月24日の法語)より

   毎朝毎朝が新生である。
   自己の生活に神が実現する機会であるのである。

   吾が如何に不幸な環境にいようとも、又信仰が浅くとも、
   目がさめた時、吾が心ぼんやりしている時、

   「 吾は神の子である、神が吾を幸福にし給うのである。吾神を信ず。 」

   と二十回ずつ静かなる声にて自分自身にささやきかけよ。

   言葉の力によって自から信仰が深まって来るのである。

   又 眠りしなにも その通り念じながら眠るのである。

   おこたらずこの行事をはげめば
   やがて信仰が深まり幸福が訪れるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

              <感謝合掌 平成29年1月16日 頓首再拝>

《吾れ祈れば天地こたう》 - 伝統

2017/02/02 (Thu) 04:58:52


         *『 生長の家 』(昭和24年11月14日の法語)より

   神の霊は宇宙一ぱいにみちみちているのである。
   自分の上にも、下にも、右にも、左にも、前にも、後ろにも、
   あらゆる所にみちみちている。

   私は ただそれに対して呼びかければいいのである。
   その呼びかけが言葉の力であるのである。

   吾祈れば 天地応(こた)え、吾動けば 宇宙動くのである。
   自分の祈りは今 神の御意志と完全に調和しているのである。

   だから 神の祝福の波は、自分の祈りに波長が合うが故に、
   神は 常に自分にとって一番よきものを実現させて下さるのである。

   自分はそれに対して今 深い深い信仰をもっているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102


              <感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>

《病気や不幸を信じてはならぬ》 - 伝統

2017/02/16 (Thu) 04:55:13


         *『 生長の家 』(昭和26年4月27日の法語)より

   あなたは「 神 」 を信ずるか、「 現象 」 を信ずるかです。
   現象にあらわれている「 病気 」を実在であると信ずるのも信仰です。

   自分は信仰がないと云う人も、実は何かを信じているのです。
   恐らく「病気」を信じているか、「不幸」を信じているのでしょう。
   だからこそ「病気」になり「不幸」になっているのです。

   それよりも、「神」を信じなさい。
   神がすべての創造主であり、神は「善」であるから、
   「善」なる神が病気や不幸を決して創造(つく)らないと信じなさい。

   しからば、今あなたに現れている病気は、不幸は、一体何ですか。
   それは貴方の信仰の反映です。

   映画の如く、あなたの信仰の波があらわれているのです。
   信仰をかえなさい。幸福になり、健康になれます。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12251301.html

              <感謝合掌 平成29年2月16日 頓首再拝>

《芥子種(からしだね)の如き信仰》 - 伝統

2017/02/28 (Tue) 03:44:03


         *『 生長の家 』(昭和46年10月28日の法語)より

   そこで どうしたら信仰の力を増し得るであろうか。

   『 ルカ伝 』 第十七章には 次の様に書かれている。

   『 使徒たち 主(しゅ)に言う 「 われらの信仰を増したまえ 」

   主いい給う

   「 もし芥種(からしだね)一粒ほどの信仰あらば、
   此の桑(くわ)の樹(き)に 「 抜けて、海に植(うわ)れ 」
   と言うとも汝らに従うべし 』 と

   あるのである。

   また、ある一節には、イエスは

   「 もし芥種ほどの信だにあらば、この山に動いて海に入(い)れ
   というと雖(いえど)も必ず成らん 」 と教えているのである。

   ここに、ナマクラの信仰は役に立たぬことを教えていられるのである。

   吾々の食慾がナマクラで、何を食べても美味(おい)しい感じが
   しない時に、カラシをつけてたべると、食物が新鮮な味をもって
   感じられ、食慾が進むことがある。

   常に信仰は 新鮮でなければならない。

   信仰が新鮮であって、まだ入信 間もない時分には、
   色々の奇蹟的功徳が実現したのに、
   近頃は一向、新鮮な体験が出て来ないという古い信者があるが、
   新鮮な体験というものは 新鮮な信仰から出て来るものである。

   それには、どんな古い信者で、
   もう何でも知っているというような先輩であっても、

   常に誌友会や講習会に出席して、
   新鮮な体験者の体験をきくことが必要である。

   最近(昭和四十六年当時)、日本教文社から、信仰体験を集成した
   「 体験集のシリーズ 」 が次のように既に六巻出ているから、
   これらを是非読んで新鮮な信仰の伝達・感応を
   それらの体験から得られるがよい。

   体験とは真理の生活化であり、
   体験なき信仰は、まだ本物の信仰になっていない証拠である。

   また講師として人を指導する役割をもつ人々は、
   それらの体験集をよく読んで、具体的実例として話してあげると、
   相手の信仰が増し、また本当に相手を救うことが出来るのである。

   体験談を集成した新書判の書籍は次の如くである。

   ① こうして私は救われた ② 苦しみを超えた人々 
   ③ 新生活を開いた人々  ④ 愛と憎しみを超えて 
   ⑤ 道ひとすじに     ⑥ 愛よ よみがえれ

  ( 現在は絶版。新シリーズとして 「 生長の家体験ドキュメント 」
    全十巻が出版されています)


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

              <感謝合掌 平成29年2月28日 頓首再拝>

意志の力で、汝の心に神を確立せよ - 伝統

2017/03/14 (Tue) 04:51:30


智慧は愛に先行する

           *「光明法語」(3月14日)より

完全なる神、その創造の完全さ、その創造されたる人間の完全さ、
その創造されたる世界の完全さ、それを先ず信ぜよ。

現象の世界が、人間が、如何に醜くあらわれていようとも、現象なしとたち切れ。
先ず汝の心のうちに「完全なる世界」と「完全なる人間」とを確立せよ。

それは智慧の働きである。
この場合、智慧は愛に先行する。
智慧が真に相手の「完全さ」を確認し得たときにのみ、
感情としての愛が湧き出てくるのである。

それまでは意志の努力によって嫌悪を克服しながら
唯(ただ)愛行を努力するだけである。

              <感謝合掌 平成29年3月14日 頓首再拝>

「神われと偕にあり、わが欲する、神これを欲し給うなり」 - 伝統

2017/03/27 (Mon) 04:57:08


         *「生命の實相」第24巻質疑篇(P81~82)より

  【 われはこれを為すべく神より約束されたものなり。(リンカーン) 】

西暦1862年9月22日、アブラハム・リンカーンが、奴隷解放の宣言を
発表して立ったとき、彼が日記の1ページにおごそかに書き下した言葉は

「われはこれを為すべく神より約束されたものなり」

という言葉であったとのことであります。

われわれは欲する事物を実現せんと祈るときのリンカーンのように
確信に満ちた態度でなければなりません。

ひとたび決意して起(た)つとき

「わが為すはわがなすにあらず、神が為さしめ給うのだ」

という信念をもたねばなりません。

自分の為さんと欲する以外に、神意というものがあって、
自分の行為は神の目から見れば善だか悪だかわからないなどという
アヤフヤな態度ではなりません。

信仰ふかき人々は「《みこころ》ならばこれを実現せしめたまえ」と祈ります。
これは実に一見信仰深くして信念のない祈りであります。

われらは自分に与えられた力、自分に与えられた希望を信ぜねばなりません。
われわれは神の子であり、神は父でありますから、
神の希望は常にわが希望となって現れるのであります。

自己を信じないのは神を信じないからであります。

「神われと偕(とも)にあり、わが欲する、神これを欲し給うなり」

この信念を強くするとき、われわれは確信に満ちた態度で
いかなる難事にも突進していくことができるのであります。

              <感謝合掌 平成29年3月27日 頓首再拝>

《信仰を深めるには》 - 伝統

2017/04/14 (Fri) 03:14:19


          *『生長の家』(昭和24年11月20日の法語)より

   祈りの成就するための最も重大なる要素は 「 信仰 」 である。

   キリストも 「 もし芥子(からし)種ほどの信あらば
   この山に動いて海に入れと云うとも必ずならん 」 と云っている。

   又 「 汝の信仰 汝を癒せり 」 ともいっている。

   かくの如(ごと)く信仰は、自分の事業が成功するために
   必要なる唯一の重大なる要素であるから、
   その人の成功と否とは 信仰の多寡(たか)によるのである。

   されば 信仰は 如何(いか)にして得られるか。
   
   信念を得た人の話をきくこと。
   信仰を得た人の書物をよむこと。
   そして神を切に求むることである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

              <感謝合掌 平成29年4月14日 頓首再拝>

思いとして出た神の計らいを信頼せよ - 伝統

2017/04/27 (Thu) 05:00:29


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月27日)」より

なんじの求むるものをまず考えよ。
考えることはそれが得られる初めである。
考えた相(すがた)が《すでに》あるとしてその実現にまで努力せよ。

供給無限の世界において、ある事物を得ようと思う「思い」が
自分の内に起こったことがすでに「自分ならぬ」はからわれである。

それを計(はか)らわせ給いしものに信頼せよ。

            <感謝合掌 平成29年4月27日 頓首再拝>

《信仰の本質は「知る」にある》 - 伝統

2017/04/28 (Fri) 04:56:25



           *「光明法語」(4月28日)より

神に対する信仰を深めるためには、神は法則であると云うことを先ず知ることである。

種子を植えるにしても、それが必ず生えるという信仰がないと
種子を途中で掘り返して結局芽が出ないであろう。

それと同じく、神を信ずると云うことは、
法則が先ず此の世界を支配していると云うことを「知り」、
法則にまかせると云うことである。

即ち「知り」て「まかせる」のが信仰であって、
信ずるとは「知らないから、出鱈目に信ずる」と云うような
アヤフヤなものではないのである。

信ずるとは「真に知る」ことである。

            <感謝合掌 平成29年4月28日 頓首再拝>

《自己の内に神を見出せ》 - 伝統

2017/05/12 (Fri) 04:08:38


        *『幸福を招く365章』第1項(P17) より

信仰は山をも動かす。

自信力が個人的なものである限りは、
まだその信念の力は完全に発揮されないのである。

信念が神と云う絶大なものと結びついて信仰になるとき、
それは山をも動かす力となるのである。

「若し、芥子だねほどの信あらば、この山に動いて海に入れといえども、必ず成らん」と
イエスが云ったのは真実である。

絶対不敗の信念こそ、神の成功を得る最高の途(みち)である。

人は自分の心の中に「成功」又は「失敗」を携えて歩むのである。
それが外部からくるのだと思って、外部に依存している限りは着眼点が間違っているから、
失敗が相ついで起こるのである。

外の世界は内なる世界の反映だとわかって、
はじめて人間は自分自身の主人公となるのである。

自己の内界に無限力なる神を見出し、
その力によって進むものには、失敗はあり得ないのである。

            <感謝合掌 平成29年5月12日 頓首再拝>

人間・神の子という信念を持つ - 伝統

2017/05/25 (Thu) 03:19:46


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月25日)」より

肉体に再生力があるのは、フィルムが厳然として存在して、
適当な条件を与えれば、フィルムの現画と同様に再現すると同様である。

食物や空気や日光はその「適当な条件」と見ることができるであろう。
薬物さえもこの「適当な条件」の一種だと見なすことができるのである。
だから特効薬などという効力確定の薬物に生長の家は反対するのではない。

しかしすべては、理念(コトバ)が創造したのであるから、「適当な条件」さえも、
その条件が他から与えられない場合には、理念自身が内部から創造しうるのである。

生長の家が反対するのは、人間は外来の条件にのみ左右せられるというような
「自己無力」の《信念の足りなさ》と、特効薬でもないのに特効薬のごとく信じて
倚(よ)り頼ろうとする愚かなる人間の弱点とである。

われわれは太陽のない国に置かれてさえも、
心で太陽を創造して自己の住む世界を明るくしてみせる
というほどの自信をもたねばならぬ。

人間は信念だけの値打である。

            <感謝合掌 平成29年5月25日 頓首再拝>

信仰と人生 - 伝統

2017/06/10 (Sat) 04:23:30


          *『生長の家』(昭和24年7月号 巻頭言) より

信仰の生活は安易なイージーないい加減なものではない。

併し信仰によって神につながる時、我らは神の愛の慈手によって導かれ、
ついに困難をのり切るのである。 

レースに於ける競争者は殆どまけそうになる所でテストされると云われている。 
競争中、彼は何回も、何回ももう抜かれるかも知れない。
負けるかも知れないというキワドイ瞬間を経験する。 

然も彼は走り続ける。 
もうこれ以上耐えることの出来ない限度が幾度も来たと思いながらも
不思議な力に支えられてそれを突き抜けて行くのである。 

斯くの如くして彼は、信仰につながる忍耐のゆえに、
ついにレースの優勝者となるのである。

 
信仰の開拓にも同じことが言えるのである。 
吾々はもう続けることが出来ないと感ずるような苛烈な人生体験に面するのである。 

もう事業の根拠は失われ、生活の地盤は崩れ、
わがたよりたる城は落ちてしまったと云うような
苦しき苦い体験に出喰わすることがある。 

このような時に信仰なき者は 『神も仏もなくなった』 と考える。 
しかし吾々が神の善意を信じて最後まで持続するならば、
またどんな高価な価を払おとも最後まで行きつこうと決心するならば、
やがて吾々は筆紙に尽すことの出来ない信仰の悦びを得ることが出来るのである。 

その時、労しただけのお蔭があるとわかるのである。

信仰への途は、最初は安易な御利益信心から出発する。 
そして有頂天となり、やがて中途で光を失って大いに悩む。 
それは最初に見せられた光であり、自分が見出した光ではなかったからである。 

しかし一度見た光を見失うまいと勇気を鼓して進むときついにその目標に到達する。 
其の時始めて彼は自分の蒔いた光の種を刈り取るのである。


            <感謝合掌 平成29年6月10日 頓首再拝>

神の真が自分の中に生きている - 伝統

2017/06/12 (Mon) 04:19:51


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より

信心とは《自分が》こう信ずるということではない。

神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。

            <感謝合掌 平成29年6月12日 頓首再拝>

《天国に入る心境》 - 伝統

2017/06/29 (Thu) 04:55:29


     *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P123~124) より

神は愛深き吾等の父であり、吾等が幸福であるために必要なもの、
また、吾等が使命遂行に必要なものは必ず与え給うに
吝(やぶさ)かではないと云う事を深く信じて

常に心を平和に、常に神に感謝することが、
あなたの幸福生活には是非必要なのである。

幼児(おさなご)が
「母は必ず私の生活に必要な“充分な母乳”を与え給うにちがいない」
と信じて安心し切っているのと同じような心境になることが、

イエスの教えた
「凡(およ)そ天国に入(い)る者は幼児の如きものである」と云う
“天国に入(い)る心境”なのである。

この場合の「天国に入(い)る」とはエデンの楽園のような
欲する事物が悉く自由になる環境に入(はい)ることである。

            <感謝合掌 平成29年6月29日 頓首再拝>

無限者なる神を信頼する - 伝統

2017/07/09 (Sun) 04:52:45


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月9日>より抜粋

無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。

さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから
御心を行じていてわれらは決して乏しきことはありえないのである。

神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。

われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、
すべてはよくなり、自己に来るすべての事件は最初はいかに見えても
好転するほかはないのである。

いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。

「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」

常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、
荊棘(いばら<けいきょく>)は切りひらかれ、
道なき所に道を生じ、砂漠に花咲き、
豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して湧き出ずるであろう。

         <感謝合掌 平成29年7月9日 頓首再拝>

神と直通する道 - 伝統

2017/07/17 (Mon) 03:50:12


          *「光明法語」(7月17日)より

神と人間とが直通する道は「信」である。
「信」ずることなくして神をまかせることは出来ない。

人間でも信じられたら、
信じた人を裏切るようなことは滅多に出来るものではない。

神におのが生命(いのち)を信じてまかせよ。
それが、病気を癒すのみならず、すべて人間の運命をいやすのである。
自然に内から導くところの順序をもって運命にいやされて来るであろう。

あるときは冬枯れのように見えることもあろう。
しかし冬枯れの中に一陽来復の鬱勃(うつぼつ)たる新芽が宿る

         <感謝合掌 平成29年7月17日 頓首再拝>

《芥子種ほどの信だにあらば・・・・》 - 伝統

2017/07/29 (Sat) 04:15:18


          *『白鳩』(昭和42年12月15日の法語)より

   あなたは自己の容貌に自信をもたなければならないのである。
   自分のように不器用な女は貰い手がないだろうと自己暗示をして、
   自己縮少し、自分の運命を自縄自縛してしまうことになるのである。

   戦時中に、あの当時二十歳前後で戦場で仆おれた男子が多かったために、
   その頃の同年齢の婦人は、魂の半身が死んでしまっているから、
   配偶となる年齢の相手がないなどと考える必要はないのである。

   オールドミス連盟とかハイミス連盟とかを作って男子に挑戦してみた
   ところが、却って男性はそのような女性に恐れをなして、
   縁談は益々稀少になるばかりである。

   併し皆さん、運命は数を超える。

   何百万人が結婚する相手がなくて絶望している時にも、
   若し〃芥子種ほどの信〃だにあらば、何百万人のうち信あるひとりが
   栄冠をかち得るのである。

   そのような人にあなたも成れるのである。
   そしてそれが神の御心であり、種族の意志であり、
   決して利己主義者ではないのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

         <感謝合掌 平成29年7月29日 頓首再拝>

神を信ぜぬ者は幸福でありえぬ - 伝統

2017/08/02 (Wed) 03:55:20


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月2日>(P40)より

神の愛を疑うものは神の創造を疑うものである。
神の創造を疑うものは天地一切を疑うものである。

疑うとは信ぜぬことである。
信ぜぬとは否定することである。

否定するとは、その存在の根本について争うことである。
争うことは調和せぬことである。
調和せぬとは和解せぬことである。

神を否定し、神と争い、神と調和せず、
天地一切のものと和解せぬ者が幸福でありえないのは当然のことである。

       <感謝合掌 平成29年8月2日 頓首再拝>

自己を通して、神の無限性が顕現することを信ぜよ - 伝統

2017/08/09 (Wed) 04:05:04


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月9日>(P45)より

もし、自分が利益を獲得することが利己的目的でないならば、
もし自分が利益を獲得することが一切衆生を利益する目的に適うならば、
もし自分が利益を獲得することが他の人に光を与える手段を供しうるならば、

その利益の獲得を神に求めてもさしつかえないのである。
神は必ずその利益を与え給うに相違ないのである。

金銭、財貨そのものは浄でもなければ不浄でもない。
それを一切衆生を扱うために集めるならば多々ますます集めることも善である。

神の無限供給を得るにはまず神の無限性を信じなければならぬ。
われわれに宿る神が、常にわれわれを導き給うと信じなければならぬ。
われわれが神にいかほど求めても、求めすぎるということはないのである。

神は太平洋を自己の箱庭の池として造り、富士山をその築山とし、
ナイヤガラ瀑布を盆景の滝としたまうほど豊富な神である。

神はけっしてケチな神ではないのである。
神はけっして、空気を人間が吸ったら、ちょうど一バイで少しも余りがないように、
ギリギリ一パイに製造し給うたごときケチな存在ではないのである。

空気のみならず、日光でも、地下水でも、植物でも、海水でも、
使っても使っても無限に余るほどに製造し給うているのである。

だから神に求めすぎるということはけっしてないのである。
むしろ、われわれは神に求めることがあまりにも少なすぎるということをこそ
かえって恥ずるがよいのである。

われわれは、何よりも、わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、
われに宿り給う神が為し給うのだと信じなければならぬ。

この大信念が切々たる実感として溢れてくるまで、幾度(いくたび)でも繰り返し、
「わが業(わざ)はわが為(な)すにあらず、われに宿り給う天の父これを為し給う」
ということを念ぜよ。

しかして神に依り頼れ。
希望を持て。
心を平静に持て。

神の愛を信ぜよ。
無限性を信ぜよ。

神がその聖なるみ業(わざ)を自己を通して為し給うのだと信じて、
それを繰り返し念じて、自己の心を一変せよ。

         <感謝合掌 平成29年8月9日 頓首再拝>

神様への信頼が無限供給をいただく方法 - 伝統

2017/08/19 (Sat) 03:57:34


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月19日>(P57)より

赤ん坊が母親の乳房をいただく方法はすこぶる簡単である。
母親の膝に縋って行き、まことにも信頼した心境で、
両手を持ってその懐を開くのである。

人間がもし神の子であれば、
その神の子が神様の無限供給をいただく方法はすこぶる簡単である。
それは神の膝の上にかき上がって、まことにも信頼した状態で、
両手でその懐を開けばよい。

信頼せぬ者、両手で開かぬ者、信じない者、働かない者は
与えられないのはしかたがない。

         <感謝合掌 平成29年8月19日 頓首再拝>

内なる神に、信じて求めよ - 伝統

2017/08/20 (Sun) 04:46:27


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月20日>(P59)より

求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。

しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。

あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。

そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。

宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。

      <感謝合掌 平成29年8月20日 頓首再拝>

ただ有りがたく救われている - 伝統

2017/09/01 (Fri) 04:57:02


        *「光明道中記」(9月1日)より抜粋

人間が救われると云うのは弥陀の誓願によるのである。

すなわち弥陀の誓願が廻り向いて来て、念仏もうすと云う信仰の心が起こり、
その信仰の心は自我の心で信心するのではなく、学問の力で信心の念が起こるのではなく、
経文やその注釈の力で信心の念が起こるのではなく、

「信心」と云うものは如来が廻施(えせ)する(如来の力が廻り施される)のであるから
学問がなかったら救われない、経文の解釈によくつうじていなかったら救われないと云う
ような議論は言うに足りない。

誌友会に出ても色々の真理の書の文章を批判し、此の書には斯う書いてある。
自分はこの方の方に共鳴するとか何とか、甲論乙駁する人たちがあるが、
そう云う人々は解釈によって救われよとする人であって、自力の行である。

他の色々の本に斯う書いてある、彼(ああ)書いてあると言って誇り顔に言う人は、
また別の新しい説き方をする人があったら直ぐ信仰が崩(くず)れて了うのである。

救われるのは「実相」により、念仏によるのであるから、
誌友会に臨んでは理窟を言うよりも、
ただ有りがたく救われている体験を謙遜に語り合い、互いに讃嘆すべきである。

          <感謝合掌 平成29年9月1日 頓首再拝>

神懐かしさの心 - 伝統

2017/09/02 (Sat) 04:25:52


        *「光明道中記」(9月2日)より抜粋

他力真宗と生長の家とは随分その救いの立て方が似ているのである。
真宗で「他力」と言うところを生長に家では「実相」と言う。
真宗で「念仏」と言うところを「『生命の實相』を読めと言う。

「他力」は「大信心」であり、
「大信心」は「仏性」であり、「仏性」は「実相」である。

「他力」に救われると云うことは
「念仏申す心」(実相)に救われていると云うことである。


『生命の實相』を読んで、その経釈が完全に出来るから救われると言うのではない。

盲目(めくら)の子でも母はそれに乳房を与えて救って下さっているのである。

どんな母であろうかと「知りたい心」は
経文を解釈するような誇った心ではなく、
母懐かしさの心にすぎない。

          <感謝合掌 平成29年9月2日 頓首再拝>

信仰は山をも動かす - 伝統

2017/09/19 (Tue) 04:42:38


      *『幸福を招く365章』第1項(P17) より

自己の内に神を見出せ

信仰は山をも動かす。

自信力が個人的なものである限りは、
まだその信念の力は完全に発揮されないのである。

信念が神と云う絶大なものと結びついて信仰になるとき、
それは山をも動かす力となるのである。

「若し、芥子だねほどの信あらば、この山に動いて海に入れといえども、必ず成らん」と
イエスが云ったのは真実である。

絶対不敗の信念こそ、神の成功を得る最高の途(みち)である。

人は自分の心の中に「成功」又は「失敗」を携えて歩むのである。
それが外部からくるのだと思って、外部に依存している限りは
着眼点が間違っているから、失敗が相ついで起こるのである。

外の世界は内なる世界の反映だとわかって、
はじめて人間は自分自身の主人公となるのである。

自己の内界に無限力なる神を見出し、
その力によって進むものには、失敗はあり得ないのである。

          <感謝合掌 平成29年9月19日 頓首再拝>

《人間の善意を信頼せよ》 - 伝統

2017/10/05 (Thu) 04:42:51


         *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P212~213) より

神の万物を調和したまう愛が全世界、全存在の内部に動いているのである。
この事を私たちは、どんな混乱の中に於ても信じなければならない。

万物は混乱しているように見えても、その混乱を過程として、
永久の平和と調和との世界へと移行しつつあるのである。
もっと人間の善意を互いに信頼し合わなくてはならない。

平和への呼び掛けに対しても、「その裏に何があるか」と疑うまえに、
その奥には神の「万物調和」の摂理が働いていると云うことを信じなければならない。

この「信」がなければ常に冷戦は消えず、
熱戦の危険にいつも人類は戦いていなければならない。

神の愛と智慧とはすべての人間の内部に潜在的に動いており、
それを認め讃えることによって、それは顕在的にあらわれて来るのである。

          <感謝合掌 平成29年10月5日 頓首再拝>

《先ず一切の根元を神に求めよ》 - 伝統

2017/10/21 (Sat) 03:38:13


         *『 生長の家 』(昭和25年1月1日の法語)より

   凡(あら)ゆる完全の根元は 神であるのである。

   それが完全であるか不完全であるかは、
   そこに神が現れているか 現れていないか
   ということによってきまるのである。

   そこに完全が現れない限りは
   吾々は不安であるほかはないのである。

   だから人生の不安をとりさり、大安人の境涯に達するためには、
   完全の本源を神に求めるより仕方がないのである。

   現象界のものは、必ず移り変るのであるから、
   真の安心は、現象の富や、現象の地位や、現象の力に
   頼っていては得られないのである。

   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/c1ca629e4bee39b0e6ed4d4625e51841

          <感謝合掌 平成29年10月21日 頓首再拝>

《汝(なんじ)、これを信ずるや》 - 伝統

2017/11/07 (Tue) 03:59:35


         *『 生長の家 』(昭和26年1月31日の法語)より

   真理の霊、汝に来りて常に云い給う。
 
   「 汝わが言葉を信ずるや。過去の学説を信じて われを信ぜざるや。
   われ汝を 『 霊 』 にして物質に非ず、肉体に非ずと云う。
   汝それを信ずるや。

   信じる者は 永遠に痛まず 死せざる生命の泉 汝の内に湧(わ)き出でん。

   汝、わが言葉を信ずるや、汝は神の子にして絶対に自由なり。
   汝は神の子にして、われは 汝に無限に豊富なる生活を与えたり。
   汝は永遠に乏しきことなし。

   この言葉を信ずる者は 永遠に乏しからず、
   無限の供給 つねに汝につき纏(まと)うて、
   あらゆる場面に処して完全なる自由を得ん。」と。

   この啓示を一日 数度 繰返し読みて 深く信ずべし。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

          <感謝合掌 平成29年11月7日 頓首再拝>

《神を金融業者と間違えてはならない》 - 伝統

2017/11/22 (Wed) 04:59:06


        *『 生長の家 』(昭和40年3月1日の法語)より

   誤った信仰に向っている人たちのうちには、神の方向に振り向いて
   「祈り」という形の説得法によって、神を説き服(ふ)せれば、
   神が動かされて 神が何らかの功徳を与えて下さるかの如く
   錯覚している人があるけれども、

   神は高利貸でも、銀行屋でもないから、上手に説き服せたら
   金を貸して下さるというような方ではないのである。

   キリストが説いたように
   「 人は二人の主(しゅ)につかえることはできない 」のである。

   私たちは「 物質の幸福 」を求めている限りに於いて、
   霊的な主につかえることはできないのである。

   物質を愛していながら、神を愛することはできないのである。

   肉体の幸福に重点を置きながら、霊的に高まろうと思っても、
   それは出来ないのである。

   キリストは 「 わが国はこの世の国に非ず 」 と訓(おし)えておられ、
   悪魔サタンがあらわれて、「 世のもろもろの国と、栄華とを示して

   『 なんじ、若(も)し平伏して我を拝せば、此等を皆なんじに与えん 』
   といって
   誘惑したとき、イエスは

   『 サタンよ退け“ 主なる汝の神を拝し、ただ之(これ)にのみ
   事(つか)え奉るべし ” と録(しる)されたるなり』」
                      (『マタイ伝』第四章八節)

   と答えているのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

          <感謝合掌 平成29年11月22日 頓首再拝>

神の存在のみを全的に承認 - 伝統

2017/12/11 (Mon) 04:34:41


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(P90~91)より

祈りと思念は宇宙の大自療力に触れるところの道である。
しかし祈っても思念しても治らない人もあるのはなぜであろうか。

祈りはけっして口先だけの業(わざ)ではないのである。

それは精神を高揚したる状態であり、信仰の高調したる状態であり、
ハッキリと神の恵みを確認したる状態であり、健全なる想念の持続したる状態であり、
悪の存在を全的に否認して、神の存在のみを全的に承認したる状態であるからである。

だからこの精神状態に達しえない祈りや思念においては、
必ずしも完全に効果を挙げることができないのである。

キリストが「もし芥子種ほどの信だにあればこの山に動いて海に入(い)れと言うと
いえども必ず成らん」といった所以である。

           <感謝合掌 平成29年12月11日 頓首再拝>

信念を伴った決意 - 伝統

2017/12/16 (Sat) 03:50:50


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月16日)より

決意だけではまだ本物ではない。
信念を伴った決意でなければならぬ。
「実相を観ずる歌」はわれらの決意と信仰を語るものだ。

「われ祈れば天地応(こた)え、
われ動けば宇宙動く。」

天地応え、宇宙動く決意こそわがものでなければならぬ。

            <感謝合掌 平成29年12月16日 頓首再拝>

神の完全を信じること - 伝統

2017/12/22 (Fri) 03:56:04


           *「光明道中記」(12月22日完全解放の日)より抜粋

【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。(『生命の實相』第八巻)】

本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。

神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。

不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。

            <感謝合掌 平成29年12月22日 頓首再拝>

智慧は愛に先行する - 伝統

2018/03/14 (Wed) 04:29:39


           *「光明法語」(3月14日)より

完全なる神、その創造の完全さ、その創造されたる人間の完全さ、
その創造されたる世界の完全さ、それを先ず信ぜよ。

現象の世界が、人間が、如何に醜くあらわれていようとも、現象なしとたち切れ。
先ず汝の心のうちに「完全なる世界」と「完全なる人間」とを確立せよ。

それは智慧の働きである。
この場合、智慧は愛に先行する。
智慧が真に相手の「完全さ」を確認し得たときにのみ、
感情としての愛が湧き出てくるのである。

それまでは意志の努力によって嫌悪を克服しながら唯(ただ)愛行を努力するだけである。

            <感謝合掌 平成30年3月14日 頓首再拝>

《信じて祈れ》 - 伝統

2018/04/04 (Wed) 03:46:02


    *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第3篇( P73~74) より

「汝らの中(うち)、もし智慧の説くる者あらば、また惜しむ事なく、
凡(すべ)の人に与うる神に求むべし、然(さ)らば与えられん。

但(ただ)し疑うことなく、信仰をもて求むべし。
疑う者は、風に動かされて翻(ひるが)える海の波のごときなり、
斯(かか)る人は、主(しゅ)より何物をも受くと思うな」と、
ヤコブ書第一章には書かれているのである。

吾々は神の子として、すべての善きものは与えられているのである。

しかし、時間空間で限られている現象界にすべてのものが、
一ぺんにあたわれて来たら却(かえ)って困るようになるので、
テレビと同じように自分の選ぶ番組をあらわすためにどのチャンネルに波長を
合わすか、選局の自由があたえられているのである。

そのチャンネルを合わす方法が信じて祈るということである。
信じて祈りて、「既にそれは与えられております。有りがとうございます」
と感謝するとき、放送局のスタジオで実演されていることが
テレビのブラウン管面にあらわれて来るように、

実相世界の善き番組のうち、求むる番組があなたの運命として
あらわれて来るようになるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月4日 頓首再拝>

堅信のコードで神につながる - 伝統

2018/04/25 (Wed) 03:37:09


        *「希望を叶える365章」(P61)より

神は、謂(い)わば無限大の 「光」 であるから、
神の「光」をもって照らしながら仕事をするとき
如何なる暗黒も吹き飛ばしてしまうことができるのである。

不可能と見えた難関が自然におのずから崩れ去ってしまったり、
先方の考えが一変したり、
時局が自然に好転したりして驚くべき好結果を見るのである。

しかし、そのためには堅い、くだけない、
途中で断じて切れない信仰の紐をもって、
自分自身が神とつながっている事が必要であるのである。

この”堅信”のコードをもってシッカリと神と繁っていないと、
風吹き雨ふり、雷鳴でも起ると、
停電したように真暗になってしまうおそれがあるのである。


発電所から直通の電線を適当につないで置けば、
いつでも必要な時にスイッチを入れれば光を得ることが出来るように、
「堅信」というしっかりした紐(コード)で神とつながって置けば、
いつ如何なる時にでも必要な導きの光を受けることができるのである。

吾々が解決に窮した問題に接したとき、神は吾々の光であり、
吾々がどうする事も出来ない難関にとじ込められたとき、
神は難関の扉をひらく、吾々の鍵であり力であるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月25日 頓首再拝>

《信仰の本質は「知る」にある》 - 伝統

2018/04/28 (Sat) 03:25:44


          *「光明法語」(4月28日)より

神に対する信仰を深めるためには、
神は法則であると云うことを先ず知ることである。

種子を植えるにしても、それが必ず生えるという信仰がないと
種子を途中で掘り返して結局芽が出ないであろう。

それと同じく、神を信ずると云うことは、
法則が先ず此の世界を支配していると云うことを「知り」、
法則にまかせると云うことである。

即ち「知り」て「まかせる」のが信仰であって、
信ずるとは「知らないから、出鱈目に信ずる」と云うような
アヤフヤなものではないのである。

信ずるとは「真に知る」ことである。

            <感謝合掌 平成30年4月28日 頓首再拝>

信ずるとは生命をもって直接に知ること - 伝統

2018/04/29 (Sun) 03:56:46


        *「光明法語」(4月29日)より抜粋

信ずるとは知ることである。
生命をもって直接に知ることである。

自己の生命は神より出でたるものであるから、
自己の生命は実相に於いては既に神を知っているのである。
だから危急のときに人間は神を呼ぶのである。

思わずとは「無意識」にと云うことである。
「無意識」とは意識がないと云う意味ではない。
「気がつかぬ意識」と云うことである。

自分の気がつかない心の奥底に神を信ずる心があるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月29日 頓首再拝>

片栗粉が透明になるまで - 伝統

2018/05/28 (Mon) 04:10:38


        *「希望を叶える365章」(P93~94)より抜粋

突如として深い信仰の境地に転入する「廻心」と云うような親交の深い状態は、
外面から観察して見ると、突然に起こったように見えるかも知れないけれど、
実際には、深い「心的修行」が潜在的な業(ごう)として蓄積されており、
その蓄積の業が或る程度の蓄積量にまで達したとき、

恰(あたか)も、片栗粉に湯をついていくとき、湯の温度が一定量にまで
蓄積したとき、突如として片栗粉が透明になるのと同じように、

一見、突如として深い信仰に入(い)ることができるのである。

その道程に於いては、毎日怠らず祈り、又は神想観を修する蓄積が必要である。

            <感謝合掌 平成30年5月28日 頓首再拝>

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