伝統板・第二

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神への全托② - 伝統

2016/07/15 (Fri) 03:14:53

      *伝統板・第二「神への全托①」からの継続です。
         → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6460526



神は遍満し給う

           *「光明法語」(7月15日)より

神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。

謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。

「タオルを手拭いかけに掛けるように、
私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたれかけました」

と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。
タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。

全托である。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「神に全托」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1562 

(2)光明掲示板・伝統・第一「神への全托 (81)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=50

           <感謝合掌 平成28年7月15日 頓首再拝>

神に対して戸を開け - 伝統

2016/07/16 (Sat) 03:28:35


           *「光明法語」(7月16日)より

神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。

与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。

神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。

神に与え切りにする人こそ癒されるのである。

           <感謝合掌 平成28年7月16日 頓首再拝>

《全身心、全存在の革命を目指して》 - 伝統

2016/08/01 (Mon) 04:16:06

        *『 生長の家 』(昭和32年5月23日の法語)より
         ~『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P306~307>)

   「真理」の全貌を全身心をもって捉えるとはどうするのでしょうか。

   あなたの全想念全感情が、神の全想念全感情と直通し、
   あらゆる場合に於いて、あらゆる行動をとる場合に、
   神をそのままに思考し、神をそのままに計画し、
   神をそのままに感情を動かし得ると云う状態になることであります。

   これは中々重大なあなたの全存在の革命です。
   この全存在の革命が成し遂げられていなければ、
   あなたは本当に救われているとは云えないのです。

   これはあなたの「存在」の春季大掃除どころではないのであります。
   それは、あなたの「全存在」と建造物の建替です。

   今までの「内についたる欲望(のぞみ)」
   「物質についたる願望(ねがい)」の
   一切を捨ててしまわなければならないのです。

   「病気を治してほしい」「金を儲けさせて欲しい」
   「自分の子供を入学させてほしい」と云うような一切の利己的ねがいを
   断ち切ることから出発するのです。
 
           <感謝合掌 平成28年8月1日 頓首再拝>

《神に対して汝(なんじ)の心を投げかけよ》 - 伝統

2016/08/14 (Sun) 03:33:24


         *『 生長の家 』(昭和25年5月29日の法語)より

   凡ゆる瞬間 凡ゆる所に於いて神がましますということは、
   凡ゆる時と場所とに於いて
   神が吾らを守って い給うということである。

   あなたの心を神に対して投げかけよ。
   神はあなたに与え給うであろう。

   常に神の助けのない世界はないのである。

   どこから如何にして
   神が吾々を助け給うかはわからないにしても、

   神の 目に見えぬ智慧の手が
   凡ゆるものの自然なる運行を導き給うて
   あなたを本当の幸福に導き給うのである。

   神は一切のものを
   調和と繁栄と幸福とに導き給う所の
   中心的統一者である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 平成28年8月14日 頓首再拝>

《遮二無二 頑張る心を捨てよ》 - 伝統

2016/08/26 (Fri) 03:41:01


          *「生長の家」(昭和25年6月6日の法語)より

   遮二無二 頑張る心を捨てよ。
   安らかに落ち着くべし。

   吾自身を静かに、静かに自分を落ちつかせることが
   まず神を自分に実現する方法の第一である。

   まず肉体をゆるめよ。
   凡ゆる筋肉の緊張をとれ。
   ふわりとそのままの状態になれ。

   力を抜き 唯(ただ)そのままに
   横たわるのである。

   そして 静かに 神の癒やす力 吾に流れ入りつつあると
   心に念じながら静かに呼吸せよ。

   鼻より静かに息を吸い
   臍下丹田(せいかたんでん)にいたらしめ
   胸をくつろげて 胸の全部に神の生命を流れ入らしめ、

   「 神の生命 今 吾に流れ入りて 吾がすべてを癒し給う 」 と念じて
   静かに迷いを吐きだす如く息を吐くのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 平成28年8月26日 頓首再拝>

《祈っても 「 結果 」 をつかんではならぬ》 - 伝統

2016/09/08 (Thu) 04:42:52


       *「生長の家」(昭和25年6月8日の法語)より

   静かに坐して実相を観ぜよ。

   「 吾は汝の父なる神である 」 と
   神は宣給(のたま)うているのである。

   困難の時、不幸の時、病気の時 まず第一に必要なのは
   内部の心が神の方へ振り向いて落ち着くということである。

   吾々が何か現象的な御利益を求めて
   それに対して祈る時には

   その 「 求める結果 」 を 「 結果、結果 」 と心につよくつかむが故に
   本当に心をゆるめて 神に全托することができないのである。

   吾々はまず求めなければならない、
   「 求めよ、さらば与えられん 」 である。

   然(しか)し求めた後には
   心を放って神に全托することが必要である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

《祈った後は 事柄を心から放って全托せよ》 - 伝統

2016/09/20 (Tue) 04:31:00


       *「生長の家」(昭和25年6月9日の法語)より

   自分の周囲を如何に暗黒が とりまこうとも、
   心を平和にし、静かに神に祈りて後 完全に全托すれば、
   よき結果が得られないということはないのである。

   恐怖と焦燥の観念を心よりとり去れ。
   
   吾々は唯(ただ)神に全托すればいいのであるが

   南無阿弥陀仏の一念によって救われるというのも、
   一念で好いのであって、繰り返されなければ頼りなく思うのは、
   阿弥陀仏の 「 救う力 」 が絶対無限であるということを
   知らないからである。

   口の動く回数で救われると思うものは、
   自分の口に頼るのであるから自力の行であって
   本当の信心に到達することはできないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 平成28年9月20日 頓首再拝>

《必ず解決の道はある》 - 伝統

2016/10/04 (Tue) 03:34:24


          *『 生長の家 』(昭和26年6月19日の法語)より

   問題が行き詰って来たときには、神の方へ振り向くべしである。

   人間にはどうしたら好(よ)いか判(わか)らなくても、
   神は必ず解決の道を知り給うのである。

   如何なる問題にせよ、それが問題である以上は
   解決の方法があるから問題なのである。

   神の造り給うた世界に、自分とそしてすべての人とに
   共々幸福になる解決が存在しないと云うことはないのである。

   多くの人々が常に不安に包まれ、恐怖に覆われているのは、
   神に全托することを知らないからである。

   不安と恐怖とから完全に離脱する道は、
   すべての問題の解決を愛深き神の み手に
   委(ゆだ)ねることを忘れているからである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

           <感謝合掌 平成28年10月4日 頓首再拝>

《神に全托する者は悩まない》 - 伝統

2016/10/18 (Tue) 03:56:01


         *『 生長の家 』(昭和26年6月20日の法語)より

   若し何事かが起って貴方の心を悩ますならば、
   その問題の解決は その問題に就いて悩む
   と云うことではないのである。

   問題の解決法は、第一、問題から「 悩む心 」を放つことである。

   第二、その問題を神に委ねることである。

   如何なる条件が起ろうとも「 神の愛の御手(みて)が護っており、
   すべての人々に最もよいようにこの問題が解決せられるに相異ない 」
   と思念して、

   その思念の通りになることを信ずるが好いのである。

   愛する子供や、愛する良人(おっと)や、愛する妻について、
   その病気や、その素行について疑うな。

   すべての人々の内には神が宿っていて
   それみずからを健全の方向へ導いているのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

           <感謝合掌 平成28年10月18日 頓首再拝>

《神に計画をゆだねる方法》 - 伝統

2016/10/31 (Mon) 03:22:48


          *『 生長の家 』(昭和23年9月22日の法語)より

   何を心に描いて好いか不明な時には、
   描くべき事物をも神に委ねよ。

   神は無限の智慧であるから
   必ず何を心に描くべきかを教え給うのである。

   「 神よ、出来るだけ多くの人々を幸福にする為に、
   私が何を為すべきかを教えたまえ。」

   かく幾回も繰返して、心を神に集中して、自分の願いを神にゆだね、
   そして暫時何も考えず神からの啓示を受け入れる
   素直な無我の心境(こころもち)でいたならば、
   何か好い考えを与えられる。

   何も心にその時思い浮かばなくとも、
   あとから或る機会に与えられることもあります。

   
   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 平成28年10月31日 頓首再拝>

《神にわが仕事を委ねよ》 - 伝統

2016/11/16 (Wed) 03:51:27


         *『幸福を招く365章』第9項(P190) より
 
われは今、すべての疑いと、不安と、不信と恐怖をなげ捨てて、
ひたすら神に心を振り向ける。

光に向えば暗(やみ)が消えるが如く、わが心ひとたび神に振り向きたる瞬間に、
すべての疑いも、不安も、不信も、恐怖も、消え失せたのである。

神の光に照らされて、われは行動するがゆえに、われはわが仕事がすべて都合よく
神の智慧に導かれているとこを眼(ま)の当たり見るのである。

われは全き信頼の念をもって神にわが仕事をゆだねるのである。

わが内なる神よ、なお一層われを道9引きたまえ。
われは内なる神の催しのままに、全ての事を行ないて安心して、
余裕綽綽としているのである。

神はわれを通してわが仕事を管理したまうのである。

           <感謝合掌 平成28年11月16日 頓首再拝>

《難問題は神様に委ねること》 - 伝統

2016/12/02 (Fri) 04:38:50


          *『幸福を招く365章』第9項(P191~192) より

事態が紛糾して来て解決がつかなくなったと思われるような時に直面したならば、
その時に必要なのは、取越苦労でもなければ、とつおいつの思案でもない。

あらゆる人間智を捨ててしまって、神の智慧を呼び出すのが解決の早道である。

心が転倒したり、腹が立ったり、恐怖したりした瞬間に、
カッとなって物事を断行してはならないのである。

そんな時に必要なことは唯一つ、心を平和にして、
難問題を神様の肩の上に委ねることである。

それには

(一)先ず取越苦労をやめる。

(二)必ず良き解決の道があることを信ずる。

そして「わが内に宿りたまう神、無限の智慧をもって
すべての人に最もよいように問題を解決し給う」

と繰返して念ずることである。

           <感謝合掌 平成28年12月2日 頓首再拝>

「光明」と「全托」 - 伝統

2016/12/10 (Sat) 04:36:17


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より

「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。

「光明」に転向せずして、「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも与えられないであろう。

            <感謝合掌 平成28年12月10日 頓首再拝>

「神にお委せする」の本当の意味 - 伝統

2016/12/15 (Thu) 04:53:11


        *『神の真義とその理解』(第一篇・ 第三章 神は何処にあるか)より

神を意識面に喚び出して活動せしめる――と私が説きましたのは、
神とは或る形をもった物質的塊ではなく、「心」(又は意識)であるからであります。

それは「普遍の心」であり、超越しながら到る処に充ち満ちているのでありますが、
単に充ち満ちているだけでは何の働きもしないのであります。

それは空中には電磁波が充ち満ちていますけれども、
ただそれだけでは何の働きもあらわさないのと同じであります。

その電磁波(ラジオなみ)を形にあらわすラジオ・セットやテレビ・セットのような
「個体」がなければなりません。

超越的普遍神に対して、あなたはその普遍神の御意(みこころ)を
形にあらわすための「個体」であり、

ラジオの真空管に電波を宿しており、その内在の電波が空中のラジオ波と同調するときに、
空中にbroadcast(ブロードカスト)(放送)されている電波が、形にあらわれるのと同じように、

あなたが「内在の神」を自覚して、それを喚び出したとき、
普遍の神の無限の力が、あなたの内に鳴り響くようになるのであります。

だから「神にお委せする」とは、何もせずに自分は手を拱(こまぬ)いていて、
外在の神にお委せするというような意味ではありません。

「自分」というラジオ・セットにやどっている内在の電波を、
自己の「心」という真空管に発動させて、その発動の波を
宇宙にひろがっている「神の力」に同調させることなのであります。

その時にこそ、宇宙無限の力があなたにおいて発揮されるのであります。

キリストは「汝は真理を知らざるべからず。真理は汝を自由ならしめん」と説きました。
真理は宇宙に満ち、且(か)つあなたに満つる神です。

しかし単に「真理」があなたを自由ならしめるのではなく、
あなたが「真理を知る」とき、“生命的体験”として真理を具体的に把握する時、
あなたに無限力が自由に解放されるのであります。

如実に「今、爰(ここ)に神あり」と自己の内に「内在する神」をハッキリ自覚することが、
あなたが真に解放されるために要請される、第一条件であるのであります。

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1155 より転写)

            <感謝合掌 平成28年12月15日 頓首再拝>

《神の管理に一切を委ねよ》 - 伝統

2016/12/30 (Fri) 04:50:31


         *『幸福を招く365章』第10項(P208) より

何よりも、「神はすべてのすべて」と云う真理をみとめることが先である。

「神はすべてのすべて」であり、一切の創造者であり、一切の主(しゅ)にまします
のであるから、人間自身が高慢僭上(こうまんせんじょう)にも「俺のもの」
「儂(わし)のもの」「僕のもの」などと云い得る何物も存在しないのである。

だから、自分自身と、自分の有(も)てるものと、自分の仕事と、その一切を
神に明け渡して、先ず神に無条件降伏をすることが大切である。

かく決心が出来たのちに、万物は外見から見れば同様に見えているかも知れぬけれども、
内容から云えば、神の管理の下(もと)に、神の導きの下(もと)に一切が置かれた
ことになるのである。

神の管理の下(もと)に神の導きの下(もと)に一切が置かれたとき
万事は必ず調和して運ぶのである。

            <感謝合掌 平成28年12月30日 頓首再拝>

神に全托するための祈り - 伝統

2017/01/01 (Sun) 05:03:41


         *「光の泉」(昭和54年5月号・日々読誦毎月真理経)より

人間の力の極限に神があらわれるのである。

神は、“神の子”たる人間に、彼自身に内在する無限の能力を
彼みずからの努力と忍耐と持続によって引き出す道を自得せしめ
人間の自覚を高めんがために、人間の力の極限が来るまでは、
容易に“神の力”をもって干渉しようとはせられないのである。

獅子はその愛児の力を引き出し自信を深めるために、
その子を一度千仭の谷底に墜すと伝えられている。

子供が歩行中、何かに躓いて仆(たお)れたとき、
賢明なる母親は、すぐその仆れたる子供を抱き上げて起してやろうとはしないのである。

「あなたには起きる力が自分自身にあるのだから、自分ひとりで起きなさい」
と命ずるのである。これが子供を愛する母親の正しい態度であり、
神が“神の子”を導く時の正しき導き方であるのである。

人間の内部には神が宿っているのであるから、
出せば出し得る“敵二倍力”とでも言う「神力無限」が
自己のうちにあることを自覚せしめることが愛の道にかなう導き方である。


歴史の伝える所によれば、アブラハム・リンカーンは、
自分の計画が思いにまかせず、もう八方手を尽くしたが、
そのほかに尽くすべき道もない“人間力の極限”に達した。

彼はその時、2階の自分の部屋を清掃した。
そしてその静寂なる部屋で神に祈ろうと思ったからである。
彼は跪いて次のように祈った。

「神さま、わたしは自分の力で為し得るすべてのことを試みました。
自分の心で考え得るすべての計画を実行しました。
しかし、どの試みも、どの計画もすべて行き詰って今や為すべき方法はございません。

神さま、あなたが、此の国を救ってやろうと思召すならば、
今度は、あなたが為し給うべき順序です。
わたしは此の国の運命を、あなたの大いなる叡智と愛とに全託いたします」

リンカーンは大体前記のような意味の祈りをして、
自分の肩に重くのしかかっている救国の使命を、
神さまの肩に、その重荷を全托したのであった。

彼は祈り終って2階から降りて来たとき、自分の肩にかかっていた重荷が、
自分よりも偉大なる“救いの力”に――“神の力”にゆだねられて、
これから先は、神が為し給うのだ」という安心感が自分の全身に漲って来るのを感じた。

それは、イエスが言ったところの
「我れみずからにては何事も為し得ず、神の力われに宿りて御業を成さしめ給うのである」
という自覚であった。

国家の運命を司る政治家で、このリンカーンのように
神に祈りをして国会に臨んでいる人々が日本には幾人あるであろうか。

神なき国会で、自己の党派の主張が通って、党勢が拡大すれば、それでよい、
日本の国の運命よりも自分の派閥の力の増大こそ大切である。

そのために他党の欠点ばかりを国会の諍論の場にのせて、
その言論が海外諸国に「日本国不信」の念を抱かせていることなど考えてみた
議員が幾人あるであろうか。

此の問題を私は神に祈らずにはいられないのである。


  (光明掲示板・第二より転写
    http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=280 )

         <感謝合掌 平成29年1月1日 頓首再拝>

《神と一体となりて仕事をするには》 - 伝統

2017/01/14 (Sat) 04:39:30


         *『生長の家』(昭和26年4月9日の法語)より
 
   神にすべての仕事をゆだねよ。

   神にすべての仕事をゆだねると云っても
   自分が何事もなさないと云うことではないのである。

   自分が神の力の流れ出(い)ずる
   パイプとなり出口となると云うことである。

   何事をする前にも 「 神はわれを通して此の仕事を為(な)さしめ給う 」 と
   数回念じてからその仕事を、吾れに宿る神にまかせて行うような気持になれば、
   疲れることなくすべての仕事が順潮に運ぶのである。

   すべての仕事を課せられ強制されたる仕事であると考えてはならないのである。

   すべての仕事を神に導かれ為すところの
   自己向上の途(みち)であると思ってなせば
   楽しく好成績に順潮に運ぶのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12217093.html

         <感謝合掌 平成29年1月14日 頓首再拝>

《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統

2017/01/19 (Thu) 03:59:56


         *「光明法語」(1月19日)より

吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。

神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。

されば最も弱きものは最も強く、謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。

吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。

         <感謝合掌 平成29年1月19日 頓首再拝>

《一切を神ゆだねよ》 - 伝統

2017/01/25 (Wed) 03:21:46


         *「光明法語」(1月25日)より

あなたの描く理想が如何に不可能な単なる夢に見えようとも、
何をあなたが心の中に描こうとも、それは必ず実現するのである。
それが実現する為にはある時間経過を要するかもしれない。

種を蒔けば発芽を待たねばならないのである。
幼弱な芽はその発育が遅いのである。
伸びないのをもどかしく思ってはならない。

やがて大いに伸びる時が来るのである。
それまではその芽をいたわれ。
芽をかきとってしまうようなことをしてはならない。

人の蒔く夢は人に宿る神の蒔く夢である。
神は必ずその夢の実現するように助け給う。

         <感謝合掌 平成29年1月25日 頓首再拝>

《難問題の解決は神にゆだねよ》 - 伝統

2017/02/10 (Fri) 03:45:19


         *『 生長の家 』(昭和25年5月17日の法語)より

   右すべきか左すべきか決定することの
   できないような難問題に面した時には、
   直ちに神にふりむく事が必要である。

   神の智慧は曲れるを直くし、
   くだけたるを完全ならしめ、
   傷つきたるを癒やすべき道を知り給うのである。

   かかる際には
   「 わが魂の底の底なる神よ 無限の力湧き出でよ 」
   と念ずることが必要である。

   この言葉を数回念じて 心を平静にしていると
   自然に適当な智慧が 自分の中(うち)に湧き出て来て、
   如何なる難問題も解決されることになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

         <感謝合掌 平成29年2月10日 頓首再拝>

わが全存在を神にゆだねる - 伝統

2017/02/23 (Thu) 04:42:44

《完全に自己が救われたとき》

        *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P313~314)より

   「わが全存在を神にゆだねる」これがあなたの全存在の革命です。

   今まで物質的な欲望をもった肉体的なニセモノが
   あなたの全存在を占領していたのが、神にまで無条件降伏して、
   その全存在を「肉体的ならざるもの」「神なるもの」
    「真(しん)に無我の愛なるもの」に明け渡すのです。

   「神よ、わが城に入り給え」 と
   無条件に 「わが存在」 という城を明け渡すのです。

   その時あなたの肉体の外観は元のままであるかも知れないけれども、
   その肉体の中に生きている主人公が一変(いっぺん)したのです。

   今迄の主人公は肉体に属する色々の因襲や、業因や、習慣を
   背負っていた欲望であるけれども、
   過去の主人公が降伏してそれを明け渡したとき、
   もう肉体と云う城に住む主人公は 「神」 御自身となったのです。

   その人は新たに生れ更(かわ)ったのです。

   さればあなたは 神そのままに 完全に世界を観、
   神そのままに完全なる人間を観、
   神そのままに 完全なる悦びを感じ、

   神そのままに 立所(たちどころ)に病いを消し、
   神そのままに 罪人を清浄(しょうじょう)ならしめ、

   その行くところに、平和と豊かさとを来らしめ、
   神がなし得る凡(あら)ゆる神聖にして
   偉大なる御業(みわざ)を成すことを得るのです。

         <感謝合掌 平成29年2月23日 頓首再拝>

行き詰った時にはこうせよ  - 伝統

2017/03/08 (Wed) 04:51:58


           *「光明法語」(3月8日)より

何事でも行き詰まったならば、
その仕事を行き詰まったときの焦燥の感じで続けてはならないのである。

しずかに眼をつぶって、「宇宙の本源」に帰ることである。

言い換えれば、

「神はすべてであり、神は調和であり、完全であるから、
不調和な出来事は決して存在しないのである。
この見せかけの不調和は太陽の前の雲霧のように、
もう間もなく晴れるのである。心配はいらぬ」

と数回思念し心を整えてから仕事を始めるのが好いのである。

紛失物をさがす時にも心を整えてから探すが好い。

         <感謝合掌 平成29年3月8日 頓首再拝>

《心の重荷を神におまかせなさい》 - 伝統

2017/03/23 (Thu) 03:35:00


           *『幸福を招く365章』第1項(P11~12) より

高い山に登るには、荷を軽くしなければなりません。
そうでないと脚がくたびれます。
心臓がつかれます。

吾々の魂が向上するためには、心の重荷を取去らねばなりません。
憎しみや、怒りや、心配や、貪(むさぼ)りの心を捨てなければなりません。
そんな重荷を取り去ったとき、魂は軽々と上に昇ること出来るのです。

併し世間には色々問題があります。
その問題の重荷をどうして取去ることが出来ましょうか。
其処が難しいと云われます。

その重荷を神に預ければ好いのです。
「重荷を負える者よ、我れに来れ。我れ汝らを休ません」 
と神は被仰(おっしゃ)っているのであります。

眠りしなに祈ることです。そして

「神様この問題を貴方の智慧と愛とにまかせて眠らせて頂きます。
眠っている間に解決して下さいませ」

と念じながら眠りに入(はい)ることです。

快い安らかな眠りがおとづれます。
そして、翌日になれば新しい事件の展望がひらけます。
よい考えが湧いて来ます。

         <感謝合掌 平成29年3月23日 頓首再拝>

内在の神性に委せ切れ - 伝統

2017/03/28 (Tue) 04:51:09


           *「光明法語」(3月28日)より

イエスは凡ゆるものを、自己の健康も、供給も、ただ神に全面的にまかせ切ったとき
完全になると云うことを説いたのである。

「明日のことを思い煩(わずら)うな、明日は明日みずから思い煩わん。
一日の苦労は一日にて足れり」。「野の百合は如何にして育つかを思え」。

ここに内在の神性に対する完全な信頼がある。
内在の神にまかせ切るとき、労せず、思い煩わずして自然の導きが、
「内」と「外」とから起るのである。

この「導き」に従うとき、自然に健康はよくなり、運命は好転する。

         <感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>

《神の完全通路となれ》 - 伝統

2017/04/15 (Sat) 04:30:07


          *『 生長の家 』(昭和25年11月13日の法語)より

   「 ままよと云う心にならねばお陰は得られぬ 」
   と金光教組は喝破された。

   それが焼け糞(くそ)の 「 どうなとなれ 」 では、
   此の世に悪が存在すると云う前提の下での 「 ままよ 」 であるから、
   それは寧(むし)ろ破壊的に働くのである。

   「 神の み心に全託しましょう。悪いように見えても、
   神の み心の中には悪は無いのであるから、
   神の みこころのままよ 」 と云う全託、自己抛棄(ほうき)のカ
   ラッポの気持になったとき、

   そのカラッポを完全通路として、神の生かす力が働いて来るのである。

   無我全託(むがでそのまままかせきり)は
   神の創造には決して悪はないという
   神への「 絶対信 」 からのみ来るのである。

         <感謝合掌 平成29年4月15日 頓首再拝>

無量寿仏のいのちに帰一する - 伝統

2017/05/02 (Tue) 04:10:07


        *『幸福を招く365章』第3項(P65~66) より

《人間の生命は無量寿である》

日月星辰をつくり、それを適当に配置し、
地球の上に生きとし生ける者を生み出した不思議な知恵、
これを親鸞聖人は「不可思議光」と呼ばれたのである。

正信偈に「南無不可思議光」とあるのは、「南無」は「帰命」という意味であるから、
「わが命は、この不可思議な智慧より生る、私の命ではございません。
あなたの生命(いのち)に帰一いたします」という唱えごとである。        

帰命無量寿如来というのも、南無阿弥陀仏という意味も同じことである。
吾らの内には阿弥陀仏の生命(せいめい)が宿っているのである。

阿弥陀仏は無量寿仏であるから、
その生命の宿っている人間も無量寿であり、無限の健康が当然である。


《無量寿仏を生きる》

われは無量寿仏の生命(せいめい)を生き、
無量寿仏に生かされているのである。

南無阿弥陀仏と唱えるとき、死んでから極楽へ行く唱えごとだなどと、
阿弥陀仏のいのちを過小評価してはならないのである。

無量寿仏のいのちに帰一するとき、
今此処自分のうちに阿弥陀仏が生きているのである。
吾れ何をか恐れんやである。

真に仏(みほとけ)の寿(いのち)に乗托(まかせきる)して生きるとき、
何処にか不調和や不幸や病気があり得ようや。

全き委せ切りによる心の平和こそ、
難問題に面してそれを解決する正しき智慧をよび出して来る礎である。

真(しん)の心の平和こそ健康の源泉である。

心が平和にならないときは瞑目して「われは阿弥陀仏の生命(せいめい)
に取巻かれている」と繰返し想念せよ。

         <感謝合掌 平成29年5月2日 頓首再拝>

《神が汝をつかんでいる》 - 伝統

2017/05/12 (Fri) 03:55:36


          *「光明法語」(5月12日)より

神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。

神に手を握って貰おうと思ったならば、ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。

しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。

つかむも放つも人間の自由である。

しかし一切を神にその空手を差出さねば神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。

         <感謝合掌 平成29年5月12日 頓首再拝>

《難問題は神に委ねよ》 - 伝統

2017/05/20 (Sat) 04:13:40


            *「光明法語」(5月20日)より

人間で完全に解決しがたい問題に逢着したときには、神にこれをゆだねよ。

「吾・・・この問題を神の御手にゆだぬ。神は無限の智慧と愛とをもって、
平和と調和と幸福と豊かなる生活にまで導きたまう」 
と繰返し繰返しつつ精神統一状態に入れ、そして完全に神に委せ切った心境になれ。

また同じような言葉を就寝前、繰返し繰返しつつ、すべての問題の解決を神に委せ、
神が必ずよきように解決して下さるにちがいないと確信して安心して眠れ。
神は屹度最善に解決して下さるのである。

         <感謝合掌 平成29年5月20日 頓首再拝>

《全てを神の手に托せよ》 - 伝統

2017/05/21 (Sun) 04:58:23


         *「光明法語」(5月21日)より

如何なる問題にせよ、如何なる希望にせよ、それを祈りによって神にまかせよ。

それが真に魂の底から希望するものである限り、
またその成就が他の人に不幸を与えたり、他の人を犠牲にしたり、
また他から奪うことにならないものである限りそれは成就するのである。

それが成就しないかも知れないと云う恐怖を去れ。
又他に対する怒りや憎みや恨みや争いの念を去れ。

すでに全てのものは与えられているのである。
それに波長を合わせさえすれば好いのである。

神は必ず応(こた)えたまう。
神は時期を知り給う。
神の時期に委せよ。

         <感謝合掌 平成29年5月21日 頓首再拝>

問題を神にゆだねよ - 伝統

2017/06/06 (Tue) 04:50:22


         *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P140) より

如何なる問題が起こって来ても、
常に明るい心を以ってそれに立ち向かうことが必要である。

どんな問題でも、神なら解決できるのである。

自分の「我」の力で解決しようと思うから、解決の方法を失って
どうすることもできないような事になるのである。
問題を神に振向け、神に肩代わりしてもらうがよいのである。

そのためには「神は全智全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を神さまあなたに委ねます」と繰返し繰返し、
心に念じて祈り、その問題を神に委ねるがよい。

徹底的に神に問題を委ねたら、神は必ずその問題を解決に導き給うのである。

それは自分に好い考えが浮かんで来ることもあれば、誰か、
思いがけないところから、援助の手を差しのべる人が出て来ることもあるのである。

充分祈った後に、誰かがその問題解決について案を示してくれるならば
素直にそれに従うがよい。

         <感謝合掌 平成29年6月6日 頓首再拝>

一切を神に托し切れ - 伝統

2017/06/14 (Wed) 04:02:01


       *「光明法語」<6月14日>より

自己を空しくすること。
自己のみならず、時代の迷信、先入観念、心配、恐怖、
取越苦労、持越苦労などを捨てることである。

それらがあることそのことが神への無条件降伏が
完成していない証拠であるとも云える。

取越苦労し、持越苦労する権利を抛棄せよ。
恐怖する権利を抛棄せよ。
神の造りたまえる此の世界に悪が存在すると予想する権利を抛棄せよ。

神の造り給える此の世界に病気や不幸があると思う権利を抛棄せよ。

ただ神の全能力を信ぜよ。
神の善なる意図を信ぜよ。

これこそが真の自己抛棄であり、神への全托である。

         <感謝合掌 平成29年6月14日 頓首再拝>

神に全托する日  - 伝統

2017/06/25 (Sun) 05:04:41


          *「光明道中記」(6月25日)より

【一つに成ったところに「道」がある。(『生命の實相』第十一巻)】

自分の立っているところが正しいかどうか、
自分の生活が正しいかどうかと云うことはどうして判るかと言うと、
それは形を幾ら省みても判らないのである。

自分の立っている立場、自分の今の生活は、常に動きつつあるのである。
それは形の上では将来に展開して正しいか否かが定まるのであるが、
将来はまだ見えていないから、将来に連関してそれが正しいかどうかは
人間の五感で判断して判るものではない。

自分の立っている立場が正しいかどうかは、自分が公けな心を持っているか
どうかと云うことである。

公けな心を持って公けに捧げる心をもって、神に祈り、神の智慧に導かれて、
今自分の正しくあるべき位置を発見すべきである。

讃美歌第五十四番の
「わが行く道はいつ如何になり行くべきかはつゆ知らねども主はみこころを成し給わん」
である。

われみずから立つ位置ではない、われみずから行く道ではない。
神が置き給うた位置である。神が歩ませ給う道である。

みすからを捨てたとき大いなるものと一つに成る。

「主はみこころを必ず成し給わん」

         <感謝合掌 平成29年6月25日 頓首再拝>

《安心して大生命に委(まか)せること》 - 伝統

2017/07/12 (Wed) 03:15:35


         *『 生長の家 』(昭和24年12月25日の法語)より
 
   有森さんが安心して眠ってしまわないで、
   始終子供の側(そば)につき切りで、間断なく病気を心配して、
   その症状に覗(のぞ)き込んでいたならば、

   「 甘露の法雨 」 の読誦も無効になっただろうと思われるのである。


   心に描くことは形にあらわれるのであるから、
   病状に心を集中し、心配してそれを見詰めて心に描いておれば、
   次から次へと心が病気を創造するのであるから、
   病状の消えようがないのである。


   心から離して、それを神の愛の御手(みて)の中にまかせ切り、
   安心して眠ってしまうほどになるとき、その病状は消え去るのである。

   
   大生命の大海はどんな地上の芥(あくた)も浄化する。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

         <感謝合掌 平成29年7月12日 頓首再拝>

遍満し給う神に全托 - 伝統

2017/07/15 (Sat) 04:04:40


         *「光明法語」(7月15日)より

神の生命は海の水が海にみつるように宇宙に満ちており、
吾々の自分でつくった心の城壁がくずれるとき、懇々と流れ入るのである。

謙虚になれ、幼児の心になれ、我(が)を捨てよと云うのも、
心の城壁を取去って、神の愛と生命(いのち)をと流れ入らしめんがためである。

「タオルを手拭いかけに掛けるように、
私は私の生命(いのち)を神様にすっかりもたれかけました」

と云う心境になって胃癌の治った体験談をした人があった。

タオルは自分で空中に引っかかろうとしない。

全托である。

         <感謝合掌 平成29年7月15日 頓首再拝>

神に対して戸を開け - 伝統

2017/07/16 (Sun) 04:46:10


         *「光明法語」(7月16日)より

神への全托(すべてまかせる)は、神へ一切をささげることである。
神に生命をまかせることは、神に生命を与えたことである。

与えたものが自分でその生命を取返そうとするであろうか。
与えたら与え切りであるから、神に主権があるのであり、
随って神がいやし給うのである。

神は「我れ戸の外に立ちて叩く」と言いたまう。
自分で、神にまかせまいとして、戸を閉ざしている人はないか。
そして癒されないと呟いている人はないか。

神に与え切りにする人こそ癒されるのである。

         <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

《神は常に重荷を除きたまう》 - 伝統

2017/07/29 (Sat) 04:18:56


       *『 生長の家 』(昭和25年12月30日の法語)より

   すべての重荷を神にゆだねよ。
   「 吾れに来れ、われ汝等(なんじら)を休ましめん 」
   とイエスは教えているのである。

   「 神はわがすべての荷を軽からしめ給(たま)う。神は愛なればなり 」
   このような簡単な思念を眼をつぶって数分間となえることによって、
   吾々の心に平和が回復してくれ、
   新たなる知慧と勇気とが湧(わ)き出でて来るものなのである。

   問題で心が悩んで眠りにくいときなどには、
   このような思念を繰返しているときに眠ってしまうものである。

   「 神はその愛の慈手(みて)をもってわれを抱きたまう。
   われは神の愛にとりまかれているのである。
   この寝床は神の愛の具象化である 」

   こう念じながら自分の手を神の手と観じて胸に
   抱きながら眠るのも好い。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12372789.html

         <感謝合掌 平成29年7月29日 頓首再拝>

《問題を神にゆだねよ》 - 伝統

2017/08/13 (Sun) 04:56:26


       *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P140) より

如何なる問題が起こって来ても、
常に明るい心を以ってそれに立ち向かうことが必要である。
どんな問題でも、《神なら》解決できるのである。

自分の「我」の力で解決しようと思うから、
解決の方法を失ってどうすることもできないような事になるのである。
問題を神に振り向け、神に肩代わりしてもらうがよいのである。

そのためには、

「神は全知全能であるから、どんな問題でも必ず解決できるのである。
私はこの問題を神様あなたに委ねます」

と繰り返し繰り返し、心に念して祈り、その問題を神に委ねるがよい。
徹底的に神に解決をゆだねたら、神は必ずその問題を解決に導き給うのである。

それは自分に好い考えが思い浮かんで来ることもあれば、
誰か、思いがけないところから、
援助の手を差しのべる人が出てくることもあるのである。

充分祈った後に、誰かがその問題解決について案を示してくれるならば
素直にそれに従うがよい。

           <感謝合掌 平成29年8月13日 頓首再拝>

神に托して生きましょう - 伝統

2017/08/27 (Sun) 04:32:57


          *『女性の幸福365章』(P393)より

問題がこんがらがって来たら、
それは自分の“心の影”だと懺悔する謙遜な心になって、
神様に解決をお願いする心になるがよい。

神は、あらゆる問題を解決して下さる無限の智慧と能力とをもっていられるのである。


神は、私たちが求めるに先立ちて私たちのなくてならぬものを知り給うのである。
本当に神を信ずるならば、私たちは明日のことについて
思い煩う必要は決してないのである。

真に神を信ずる者には、取り越し苦労も心配もあり得ないのである。


神が地上に人を生み出し給うた以上は、その人の果すべき役割は必ずあるのである。
自分が行きたい学校に入学できなくとも、自分の入社したい会社に入ることが
できなくとも、その場合はその人にとってもっとも適当な場所が与えられているのである。

「この学校または会社へ入れて下さい」と祈るよりも、
「私にとって最も適当な人類への貢献の場所が与えられますように」
と祈る方がよいのである。

「我(が)の心」の祈りはかなえられないことがあっても、
神の御心にかないたいという祈りは、諾(き)かれないということはないのである。

              <感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝>

神に、surrender(無条件降伏) - 伝統

2017/09/13 (Wed) 04:53:07


        *「善と福との実現」(P257)より

宗教的感情の最も中心となるものはこの「全托」即ち任せきりの心境である。
我(が)の力で、こうしたら助かるか、ああしたら救われるかと
左顧右眄している間は救われない。

それはまだ、現象の苦しみの世界にいるのであって、
心がまだ完全に転回していないのである。

神への全托とは完全に「神に引き渡す」ことなのである。
米語では surrender(無条件降伏)の字を使ってある。

自我を完全に明け渡して神にまで無条件降伏することが必要なのである。

              <感謝合掌 平成29年9月13日 頓首再拝>

《神に全托(ぜんたく)すれば最も善いものが来る》 - 伝統

2017/10/01 (Sun) 04:36:21


          *『 生長の家 』(昭和25年1月20日の法語)より

   「 私の意志が 神様にきかれますように」と祈るよりも、
   「 神さまの意志が、み心の通りに私の中に行われますように 」 と
   祈る方が正しき祈りであるのである。

   自分の欲するものが その祈りの結果として実現して来なくとも、
   それは 却(かえ)っていいことなのである。

   自分の意志よりも、神さまの み心の方が、
   何が一そう善いかということをよりよく知り給うからである。

   神への無条件降伏は 宗教の極致であり、
   幸福の源泉であるのである。

   無条件降伏が無条件幸福である。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/04babba361b61c4710eb0611f64f4c45

              <感謝合掌 平成29年10月1日 頓首再拝>

《道が行詰るのは正路でないから》 - 伝統

2017/10/14 (Sat) 03:46:16


          *『 生長の家 』(昭和25年2月12日の法語)より

   汝(なんじ)の問題を神に任せよ。

   神は 如何(いか)なる困難の道をも
   平らかにし給う方法を知り給うのである。

   何事もなすにも
   我(が)を以(もっ)てしてはならないのである。
   我の道は けわしい難路である。


   神の道は 坦々(たんたん)として楽道である。

   もし諸君の目の前に難関が横たわって来、
   自分の進もうと思っていた道を妨害するものが出て来るならば、
   妨害するものを憎むな。

   きっと自分の歩む道が
   正しい道でなかったことの証拠である。

   やり方は正しいようにみえても、
   自分の心のどこかに利己的なものがあったのが
   それが 行きづまりの原因になったのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

              <感謝合掌 平成29年10月14日 頓首再拝>

神に相談して仕事をする - 伝統

2017/10/29 (Sun) 04:05:51


         *『希望を叶える365章』(P60)より

常に自分の行為又は仕事を、「自分だけ」でやることなしに、
神に相談し、神の智慧の導きを受け、神が人類に幸福を与え給う
神業の一環としてそれを為すのがよいのである。

「自分だけ」でやった行為は、どんなにそれが立派な仕事であっても
「我」の行為であり、広大なる意義への連関はないのである。

そして、それは如何にすぐれたる智慧で行っても、
我(が)の智慧ではどこかに見落としがあり、先が見えず、
やがて躓く時が来るのである。


何事を行うにも、その仕事が、神の人類救済の仕事
(又は人間に何らかの幸福を与える仕事)として、
神御自身の祈りと連関して、祈りの中に於いて計画し、遂行するならば、

神の智慧には誤算がないから行き詰まることがないのみならず、
自分の仕事が、単に個人的価値ではなく、「神の仕事」としての意義と価値とを
有つことになり、其処に本当に生き甲斐というものが感じられることになるのである。

また“「神」と称(い)う「無限価値」との連関に於いて我れ仕事を為す”
と云う自覚があるとき、仕事に対する深い悦びが涌(わ)いて来て、
仕事の“退屈さ”ということがなくなり、
精神的にくたびれる程度が少なくなるのである。

              <感謝合掌 平成29年10月29日 頓首再拝>

最後の決定は神に委(ゆだ)ねよ - 伝統

2017/11/13 (Mon) 04:03:19

        
       *「光明法語」(11月13日の法語)より

グレンクラーク氏は「鉱石式ラジオを与えたまえ」と祈ってその最後の決定を
神にゆだねられたのである。数日後全然予想しないところから2枚の小為替を
受け取った。

合計8ドル85セントであって、8ドル70セントのラジオを買うと
15セントあまったのである。

ところが3日後になってそのアンテナがこわれたので修理させると
丁度キッカリ15セントを要したのである。

その冬同氏は亡母の記念出版物を出そうと思った。
それも氏が神に委ねた時、同金額の小為替が来た。

              <感謝合掌 平成29年11月13日 頓首再拝>

《心を神に振り向ける》 - 伝統

2017/12/03 (Sun) 04:51:16


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P281~282)より

若し病があるならば、常に神に心を振り向けよ。
神は常にあなたの全身に新しき活力を流れ入らしめ給いつつあるのである。

その事を憶(おも)い出して念ぜよ。
憶い出して念ずることは、それに対して波長を合わせることになるのである。

人間を物質として取り扱う健康の法則は、時として「知恵の樹の果」を食して
“エデンの楽園”を追い出されたアダムのように、健康の世界から人間を追い出す
ことになるのである。

不消化な食物を食べたから胃が痛むとか、不眠が続くから頭痛がするとか言う人がある
けれども、物質としての胃も、頭脳も、それが単なる物質である限りに於て、
物質は家具什器と同じようなものであるから、それが痛いと云う感覚を起こす筈は
ないのである。


「痛む」と云うのは心が痛むのである。
“心が痛む”限りに於て、不消化とか不眠とか云う肉体的物質的原因そのものが
「痛み」の原因ではなくて、不消化とか不眠とか云うものに引っかかっていて
恐怖する心が「痛む」のである。

だから寧ろ病気の原因と認められるようなものを心で認めない方が、
心が《それ》に引っかかって痛むことなく痛みが早く治るのである。

病気の物資的原因を探(たず)ねるひまがあったら、心を神に振り向けよ、
そして神から新しき活力が間断なく流れ入るつつあると云うことを心に念ぜよ。

              <感謝合掌 平成29年12月3日 頓首再拝>

「光明」と「全托」 - 伝統

2017/12/10 (Sun) 03:56:46


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月10日)より

「神」より確かなものはない。
「神」からすべてのものが与えられないのは、「光明」に転向していないか、
その頼りかたが「全托」の境地に達していないからである。

「光明」に転向せずして、「神」にまかせている者も与えられないし、
光明に転向しても、自分でいろいろ小知才覚を弄(ろう)するものも
与えられないであろう。

            <感謝合掌 平成29年12月10日 頓首再拝>

《神の方に全回転せよ》 - 伝統

2017/12/28 (Thu) 03:32:30


       *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇
             (P283~284)より

神が生命(せいめい)の本源者であるから、
生命(せいめい)に不調和があらわれたときには、
心を神に振り向けて本源者より健全なる生命(せいめい)の
充分なる供給を受けなければならないのである。

神に対して心を振り向けよ。
病気のときほど、病気の症状に“心”を振り向けず、
神に対して心を振り向けよ。

完全に“心”が神に振り向けば、
滔々(とうとう)として癒す力があなたに流れ入るであろう。

              <感謝合掌 平成29年12月28日 頓首再拝>

《神への無条件降伏は無条件幸福》 - 伝統

2018/01/19 (Fri) 04:29:01


         *「光明法語」(1月19日)より

吾が強きは吾が強きにあらず、神強きが故に吾強きなり。
吾は神に吾が周囲に起るあらゆる事件をうち委(まか)すのである。
もはや人間の知恵で何事もしないのである。

神の智慧にのみすべての事物の解決をまかせるのである。
神は全能であるから神の前に解決し得ない如何なる難問題も存在しないのである。
神への無条件降伏は人間の無条件幸福となる。

されば最も弱きものは最も強く、謙(へりくだ)りたる者は高く上げられる。
吾常に心神に向かう。
神は吾が城であり吾が砦である。

吾全能の神の導きを信じて吾が弱きが故に最も強いのである。

              <感謝合掌 平成30年1月19日 頓首再拝>

《一切を神ゆだねよ》 - 伝統

2018/01/25 (Thu) 04:22:58


         *「光明法語」(1月25日)

あなたの描く理想が如何に不可能な単なる夢に見えようとも、
何をあなたが心の中に描こうとも、それは必ず実現するのである。
それが実現する為にはある時間経過を要するかもしれない。

種を蒔けば発芽を待たねばならないのである。
幼弱な芽はその発育が遅いのである。
伸びないのをもどかしく思ってはならない。

やがて大いに伸びる時が来るのである。
それまではその芽をいたわれ。
芽をかきとってしまうようなことをしてはならない。

人の蒔く夢は人に宿る神の蒔く夢である。
神は必ずその夢の実現するように助け給う。

              <感謝合掌 平成30年1月25日 頓首再拝>

神のみ人を養いうる - 伝統

2018/02/06 (Tue) 03:24:55


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月6日)」より

世界は孤立してはいない。
子供が生まれて来れば必ずその子供の衣食住を天が与えるのである。

わたしは関東震災のとき、生まれる子供の布団一かさねと産着とだけのほか
何物も持たないで避難したことがあった。
その布団は友禅模様の絢爛(けんらん)な縮緬(ちりめん)の夜具であった。

親は着のみ着のままでいるのに子供には絢爛な縮緬の布団が与えられている。
親はそのころ漬け物のほかなんの美味も食べないのに、
子供のための乳は二人分ほども出て母親の衣物(きもの)を濡らして
困ったというほどであった。

これを見ても、子供は親が養っているように見えても、
実は神が養っているのである。

親子でありながら一方は王侯の生活をし、
一方は着のみ着のままの生活をしていたのである。
しかも着のみ着のままの人の方が、王侯を扶養していたのである。


人は人を養うことはできない。
ただ神のみ人を養いうるのである。
人はただその媒介となるだけである。

このことがわかれば、店員も社員も解雇する必要はない。
働く者には食を与え、神のみ心を生きる者には豊かに
必需物(なくてはならぬもの)を与えたまうのが神であるからである。

ただ、働かぬもの、懶ける者、周囲と調和しない者、
神がこの世に生を与えた使命を生きようとしない者は神が解雇したまうであろう。

ただかかる者のみ、人は神と人との媒介者であるがゆえに、
人の手を通して解雇されるのである。

            <感謝合掌 平成30年2月6日 頓首再拝>

神に問題を全托すること - 伝統

2018/02/20 (Tue) 03:54:45


       *「真理」第9巻生活篇(P280~281)より

祈る時には神に任せよ。

自分の「我(が)」の考えを放棄して、
神が自由に何物にも束縛されないで、
働き得る機会を与えなければならない。

神は「扉(と)の外に来たりて」われらが心の扉を開くのを待ってい給うのである。
神は我らに完全なる自由を与えてい給うのであるから、
人間自身が扉(とびら)を開くことを好まない限りは
神は強制的に扉(とびら)の内に入り我らを指導し給うことはないのである。

祈りは我らが神に対して扉(とびら)をひらくことに当たるのである。
「神よ、我(わ)が問題に立ち入りてこれを解決したまえ」と祈るとき、
我らはその問題について扉(とびら)をひらいたのであり、
神は其の問題に招かれて立ち入り給うたのである。

その時、神に真心’まごころ)から感謝の辞(ことば)をのべなければならないし、
完全にその問題の処理を神にまで明け渡してしまわねばならないのである。

時々(ときどき)、我見(がけん)を加えて神の処置を修正しようと思ってはならない。

            <感謝合掌 平成30年2月20日 頓首再拝>

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