伝統板・第二

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二宮翁夜話残篇 - 夕刻版

2016/07/07 (Thu) 19:37:56

二宮翁夜話残篇~その1

尊徳先生がおっしゃった。


天道は自然に行われる道であり、人道は人が立てるところの道である。
もともと区別が判然としているのを混同ずるのは間違いである。

人道は努力して人力をもって保持して、
自然に流動する天道のために押し流されないようにすることにある。

天道にまかせる時には堤防は崩れ、川は埋まり、橋は朽ちて、家は立ち腐れとなる。

人道はこれに反して、堤防を築き川をさらい、橋を修理し、
屋根を葺いて雨がもらないようにすることにある。


身の行いもまたこのようである。

天道は寝たければ寝、遊びたければ遊び、食いたければ食い、飲みたければ飲むの類である。

これに対して、人道は眠たいのを勤めて働き、遊びたいを励まして戒め、
食いたい美食をたえて、飲みたい酒をひかえて明日のために物を貯える、これが人道である。

よく考えるがいい。



・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「二宮尊徳(二宮金次郎) (72)
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=45

(2)伝統板・第二「二宮尊徳(二宮金次郎)①
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6457816 

(3)伝統板・第二「二宮尊徳(二宮金次郎)②
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6511555 

(4)伝統板・第二「二宮尊徳(二宮金次郎)③
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6543350

(5)伝統板・第二「二宮尊徳(二宮金次郎)④
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6592962

              ・・・

<参考Web:光明掲示板・第三「傳記 二宮尊徳」>

 <傳記 二宮尊徳 ①>
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=264

 <傳記 二宮尊徳 ②>
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=341

 <傳記 二宮尊徳 ③>
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=483

 <傳記 二宮尊徳 あとがき>
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=546

              ・・・

<参考Web:>

 <二宮翁夜話 巻 ①>
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6457816

 <二宮翁夜話 巻 ②>
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6511555

 <二宮翁夜話 巻 ③>
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6543350

 <二宮翁夜話 巻 ④>
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6592962

 <二宮翁夜話 巻 ⑤>
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6754248

          <感謝合掌 平成28年7月7日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その2 - 伝統

2016/07/09 (Sat) 20:47:18


尊徳先生がおっしゃった。

定九郎(歌舞伎の仮名手本忠臣蔵5段目の斧定九郎)が言っている。

地獄の道は八方にあり、と。


実に八方にあるであろう。
すべてひとり地獄の道だけでなく、極楽の道もまた八方にあるであろう。

どうして念仏の一道だけが極楽の道であろうか。
どの道から入っても、その到るところは必ず同じ極楽である。

八方にある極楽の道には平坦の道もある。
険しい道もある。
遠い道も、近い道もあるであろう。

私が教える所は平坦であって近い。
無学の者や無気力の者はこの報徳の道から入るがよい。

          <感謝合掌 平成28年7月9日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その3 - 伝統

2016/07/11 (Mon) 19:36:37


身体で一箇所悩む所があれば、体全体このために悩むのは人が知っているところである。
頭であっても胃であっても肺であっても皆同じだ。
甚しき時には死に至ってしまう、これは一体であるためである。

国家もまた同じだ。
一家に負債があればこのために悩み、
国が凶作であればこのために悩む、皆人の知るところである。

だから身も家も国も悩むところが無いように欲することを衛生といい、勤勉・倹約といい、
また泰平を祈るという。

そして家に負債が多ければ、
人身に影響して神経を悩ますようになることも皆人が知るところである。

昨今の世の中は、贅沢が行われるためにこの悩みが多い。
この悩みがはなはだしいと家を失い身を失ってしまう、憐れむべきの至りである。

これを自業自得といえばそれまでであるが、自業自得は戸主にあって、
年寄り幼子や婦女はそれに相伴するだけである、痛ましいことではないか。

これを救う道を考えるに、私が立てた報徳金貸付の道を第一とする。
なぜかといえばこの報徳金の貸付はお日様の神徳と同じだからである。

この功徳の広大である事は私が数年心を尽して考え、
数年自ら取扱って経験した法であるからである。

天地の万物を生育し、恵まないところはない天地の徳にのっとった法だからである。


          <感謝合掌 平成28年7月11日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その4 - 伝統

2016/07/14 (Thu) 21:29:41


尊徳先生がおっしゃった。

官禄・家格があって世に知られ人に用いられるのは、官禄・家格があるためである。

官禄・家格がなくて世に知られ人に用いられる者は、賎しい職業の者であっても侮ってはならない。
これは生れつき優れた者だからである。
奉行所お抱えの手廻りの頭とか、雲助(籠かきや人足)の頭などがこれである。

ある日火事があった。

私が火の見に上って見ていると、当時江戸で名高い、人に知られた男伊達と聞えた者が
湯から上がってぶらぶらと来る時に、火消し達が大勢どやどやと来かかった中に、
その一人が水溜りに飛び入って、男伊達に泥をあびせて通り過ぎたことがあった。

彼はにっこりと微笑んで、「このような日だ、そうするがよい」と言って、
少しも怒る気色がなく、かたわらの天水桶で泥を洗って、静々と通り過ぎた。

その様態の立派さ、威が有って猛からず、恭しくして安らかというべきさまは表現のしようがない。
誠に感服した。


論語に君子に三変あり、之に望むに厳然たり、
之に即(つ)くに温なり、其の言を聞くやはげしと、
子夏氏が言ったとおりである。

このような賎しい職業にある民でも変に対応してすばらしい場合がある。
賎しい職業についている者といって侮ってはいけない、
賎しい職業とて賎しんではならない。

          <感謝合掌 平成28年7月14日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その5 - 伝統

2016/07/16 (Sat) 19:43:28


尊徳先生がおっしゃった。


一村千石の高で戸数が百戸あれば、一戸十石に当る、これがその村に住む者の天命である。
これより多い者は富者といえるであろう。

富者の勤めは譲ることにあると。


門人の中の一人が進み出て言った。

私は村内で天命に当ります。
私は足ることを知って、この天命に安んじて、勤勉・倹約を守って、
年々不足もなく暮しを立て、足れりとして金を積んで、田畑を買う事をしておりません。

これは譲道にあたるのではないでしょうかと。


尊徳先生はおっしゃった。

それは不貧というものだ、どうして譲るということができよう。

このような論は、老子や仏教の僧侶等に多い。
悪いとはいえないが、今一段上らなければ国家の用をなさない。


そうでなければどうして天恩や四恩

(『正法念処経』では、母の恩・父の恩・如来の恩・説法法師の恩、
『大乗本生心地観経』では、父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩、
『大乗本生心地観経』では、父母の恩・師長の恩・国王の恩・施主の恩)

に報いることができよう。

勤勉・倹約で財を積んで、田畑を買い求め、家産を増やして、
天命のあることを知ることなく、道に志すこともなく、あくまで自分の財産のみを増やすことを欲し、
また自分のためにのみ費やすのは、言うに足りない小人であり、その心は志を奪うものである。


勤勉と倹約によって財を積んで、田畑を買い求め、家産を増やすまでは同じでも、
ここにおいて天命があることをよく知り、道に志して譲道を行い、土地を改良し、土地を開き、
国民を助ける、このようにしてこそ国家の用ともなり、報徳ともなるのだ。

どうして、前にのべた不貧者を譲者ということができようか。

          <感謝合掌 平成28年7月16日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その6 - 伝統

2016/07/20 (Wed) 19:02:56


尊徳先生がおっしゃった。

私の道は譲道を貴ぶ。
譲道は富貴を永遠に保持する道であって、富貴の者は怠ってはならない道である。

そうであれば私の道は富貴を永遠に維持する道であるといってもよいであろう。

だから富貴者は必ず私の道に入って真心をもって勤めて、永遠に富貴を祈るがよい。

          <感謝合掌 平成28年7月20日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その7 - 伝統

2016/07/22 (Fri) 19:19:27


尊徳先生がおっしゃった。

若い者は、よく家道(かどう)を研究すべきだ。
家道というのは、その身分収入に応じて自分の家を持つ方法の事である。
家の持ち方は簡単であるようだが、結構難しい。

まず早起きからり始めて、勤勉と倹約に身を馴らすがよい。
それから農業なり、商業なり、家業の仕方を能く学ばないで
その家を相続するのは、将棋にたとえれば、駒の並べ方をよく知らないで、
指そうとするようなものだ。

指すごとに打ちまけてしまい、つまりは失敗することは眼前である。

もし余儀なくこの修業ができないで相続したのならば、
親類や後見などよく人を師として、一々差図してもらって、それに随うがよい。
これは将棋を一手指すごとに教えを受けて指すのと同じであり、そうすれば間違いはない。

それを慢心して人にも相談せず、気ままに金銀を使うならば、
たちまち金銀を相手に取られるであろう。

たとえば父がこしらえた家を相続するのは、将棋の駒を人に並べてもらうようなものだ。
すべて将棋の道を知らないで、自分が思うままに指すならば、失敗は知れた事である。

中庸に
愚にして自用を好み、賎にして自専(じせん)を好み、今の世に生まれて
古(いにしえ)の道にそむく、このごとくなれば禍い必ずその身に及ぶ とある。

今の世に生れて古(いにしえ)の道にそむくというのは、
子孫と生れて、先祖数代の家を不足に思い、伝来の家具を不足に思い、
先祖のことをくさしたり、勤勉・倹約の道に背いて贅沢にふけることをいう。

古人はこのように丁寧に戒めておかれたのだ、慎しまなくてはならない。

          <感謝合掌 平成28年7月22日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その8 - 伝統

2016/07/24 (Sun) 18:56:38


尊徳先生がおっしゃった。


毫厘(ごうりん)の差が千里の違いとなるということがある。

みんな人はこれをたとえだと思っている。
私が利倍帳を調査した時、2か年目の利で、永一文の違いがあれば、
180年目になると、141万9,895両永294文9分(ぶ)5厘(りん)の差
となってしまう。

実際に毫厘(ごうりん)の差は千里の違いとなってしまうのである。

たとえではなく、実際の事実である。恐るべきことではないか。

          <感謝合掌 平成28年7月24日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その9 - 伝統

2016/07/27 (Wed) 19:57:05


尊徳先生はおっしゃった。


肉眼で見ても見えない所があるが、
心眼で見れば見えない所はない。

肉耳(にくじ)で聞けば聞こえない所があるが、
心耳(しんじ)で聞けば聞こえない所はない。

これは禅宗などで主張する所である。

世を治めるのも、人を治めるのも、
徳をもってするのと法をもってするとの違いもまたこのようである。

          <感謝合掌 平成28年7月27日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その10 - 伝統

2016/07/30 (Sat) 18:50:56


尊徳先生がおっしゃった。


財産を惜む者は、どれほど憐れむような状態の者を見ても救う事ができない。
命を惜む者は、主君のよくない行いを見て強く諫言することができない。
また主君の馬前で死ぬ事もできない。

このような者は農業でも十分にする事はできないであろう。
農業というものは、天変や凶歳、風や雨を恐れては
十分に肥料を用い、力を尽す事はできない。

損害は天に任せて、天下の農民は農業をするのである。
そうであれば仕官して主君に仕える者は力を尽くすべきで、
まして先祖代々仕官している者はなおさらである。

          <感謝合掌 平成28年7月30日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その11 - 伝統

2016/08/04 (Thu) 18:46:51


尊徳先生がおっしゃった。


主君を諌めて用いられないのを憤るのは、諫争ではなく憤争である。

真の忠諫というものはいったん主君の意に違い退けられたとしても、
諫言の目的が達せられなければ、これを自分の身に求めるという金言を師として、
主君を不明と言うことなく、自分の忠義の真心が足らないことを責めて、
敬を起し忠を起し憤ることなく怨むことなく、慎んでいるならば用いられない事があろうか。

そうであるのに主君を諌める者が、用いられなければ主君を怨んで憤りを含んで、
主君が愚かだと言うに至る。
どうしてこれを忠臣ということができようか。

          <感謝合掌 平成28年8月4日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その12 - 伝統

2016/08/07 (Sun) 19:23:15


尊徳先生の家に出入する者が言った。

私は今日真岡(まおか)でこんなことを聞きました。
真岡町と久下田町(くげたまち)との間の道は敷地とのはばが十一間(けん)である。
道は公共の土地であるから久下田町に米を運送しての帰り路に、
道ばたの草を刈りとって戻ろうかと考えましたと。


尊徳先生はおっしゃった。

おまえの屋敷は本歩(ほんぶ)は五畝歩(せぶ)である。
しかるに一反余りあるであろう。
もし人が来ておまえの屋敷の竹や木を切り取っていけばどうか、おまえは黙っておられるか。
よく考えるがよい。

たとえ道路や敷地であっても自村と他村との区別がある。
そのような事は言うべき事ではない。

隣りの家の者の屋敷は広いから、余分の土地の竹や木で自分が必要であればは
遠慮なくきり取ろうと言うならば無道である。

自ら私の屋敷は余分な土地が多い、竹や木で入用でしたら
遠慮なく切り取られてもいいですよと言うのは大変よいことだ。

道ばたの草であっても、久下田の町のほうで、屋敷との間が十一間(けん)もあるから、
他村の人であっても馬を引いて空しく帰るは損でしょう、
草を刈って付けて行ったらよいでしょう言うならば大変よろしいことである。

こちらから刈り取っても何の支障があろうと言うならば悪い、考えなくてはならない。

          <感謝合掌 平成28年8月7日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その13 - 伝統

2016/08/09 (Tue) 19:19:26


尊徳先生がおっしゃった。


芭蕉の句に
「古池や蛙(かはづ)飛込む水のおと」という句がある。

この音はただの音と聞いてはならない。
有の世界から無の世界に入る時の音と観じて聞くべきである。

木が折れる時の音、鳥獣が死ぬ時の声と同じである。

これを通常の水の音とする時には、褒め称えるところはない。

          <感謝合掌 平成28年8月9日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その14 - 伝統

2016/08/11 (Thu) 17:58:57


ある人が言った。
私は借金も千円で、貸している金も千円です、どのようにすればよいのでしょうか。


尊徳先生はおっしゃった。

それは大変面白い事だ。
あなたが借金している相手に向かって言う心で貸した人に言い、
あなたが貸した相手に向っていう心で借りた相手に向つて交渉するのがよかろう。

そうすれば両全といえよう。

          <感謝合掌 平成28年8月11日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その15 - 伝統

2016/08/14 (Sun) 18:29:38


宇都氏の馬が、厩(うまや)を離れて邸内を馳せ回った。

人々は大変騒ぎあった時、厩の管理人が出で来て静かにしろと言って、
飼葉桶をたたいて小声で呼びかけると、
さすがに激しくはねまわっていた馬が急に静まって飼葉桶のところにもどった。


尊徳先生がおっしゃった。

あなた達も心得なさい。
世の中は何も難しい事は決してない。

犬もこっちへ来い来いと言うばかりでは来ない、時々食事で呼ぶ時はすぐに来る。

ナスもなれなれと言ってなるのではない。
肥料を与えれば必ずなる。

猫の背中も順に撫でれば知らんふりして眠り、逆に撫でると一撫で爪を出す。

私が桜町を治めたのもこの理を法として、勤めて怠らなかっただけである。

          <感謝合掌 平成28年8月14日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その16 - 伝統

2016/08/17 (Wed) 18:04:48


尊徳先生がおっしゃった。


人々の紛争を解決することは道徳の一つで、世を救うことの一つではあるが、
これについてはまた一つ心得なければならない事がある。

訴訟を内済(内々に解決したりすること)したり示談することである。
これはお互いに実に両全の道ではあるが、また弊害も少くない。

私が桜町にいた頃、近郷でこの扱いが盛んに行われて、訴訟は大変多かった。
法を厳しくしてその内済や示談を制限すれば、最近の訴訟はだいぶ減ずるであろう。

なぜかといえばこの辺で内済の事を扱う者を観察すると、
必ず智力もあり、弁才もあつて、白を黒にし、黒を白になす腹黒い悪人である。

表を飾ってこの事を職業のようにする者がある。
この者はよく弱い者を助け、強き者を折(くじ)いて訴訟を内々に解決して、
衆の難を救うように見えるけれども、ひそかにその内情を聞いて、
よくよく観察する時は、この紛議の原因はこの者によって起こる事が多い。


村里に争いが起るや、ある時は激しく言い立て争そわせ、
またある時はやさしい言葉でこれを止め、始終その間をとりもって
自分の利益と名誉を取る悪人がある。

それであるのに世の中はよくわからずこれを尊び、これを用いる。

かって桜町にこうした悪人がいた。
私はまずこの者を退けたならば、訴訟の事はぴったり止んで、
人柄の善い者が庄屋となることができた。

そのような善い庄屋がいると、それまでの貧乏人や老人、寡婦、孤児に至るまで、
みんな利益をこうむったのであった。

およそ国家を治める者は、前に言う所のような悪人を退けて、
良民を養うことを勤めとするべきである。

人道はもともと作為の道であるために、農夫が勤めて草を抜き取るように、
悪民を抜き取って良民を養わなければ、良民は立つ事ができない。

良民が立つ事ができなければ、国や家の衰廃をきたすであろう。

悪人はたとえば稲の間に生える雑草のようなもので
雑草を抜き取って稲を助けるのが農業である。

悪民を退けて良民を養うのが政治である。

農業を勤めるは下の職業であり、政治を勤めるのは上の職業である。
下がその職業に怠らなければ、国は豊かになる。
上がその職業を勤めるならば国の財政にゆとりが生ずる。
上下各々がその職業に勤めれば、天下は平らかとなるであろう。

だから古人も政治を行うのは農民が田を作るようなものだと言ったのだ。

農業は雑草を抜き除いて稲を育てることにある。
上の職業は悪人を退けて良民を育てることにある。
そして農民は雑草がはびこるのを憎んでこれを抜き去ることを勤めとする。

この悪民を信用しこれを重んずるのは過ちである。
彼の悪人は才力や弁舌が衆に越えており、さらによく世事に馴れ上下に通じていて
始終これをあやつって、事を起し、事をしずめ、その中間に立って利益を自分に占める。

それを人が知らないで、これを尊びこれを用いるのは過ちである。

このような雑草を善とし、美とし、
これを養うならば、国や家は衰えることであろう。


          <感謝合掌 平成28年8月17日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その17 - 伝統

2016/08/19 (Fri) 19:21:36


尊徳先生がおっしゃった。

真菰(まこも:真菰は沼や川、あるいは田んぼの水路などの水際のいたるところに自生する
イネ科の大型多年草。しめ縄や盆ござ、ムシロなどの材料として使われる)を俵に作ると、
虫が食わないものである。

木綿を入れるに用いるがよい。

塵が付かないでよろしい。


          <感謝合掌 平成28年8月19日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その18 - 伝統

2016/08/21 (Sun) 18:29:59


尊徳先生がおっしゃった。


ある村のある者は強欲で蓄財に勤め、隣りに艱難があっても救わず、
貧窮に陥いる者があっても憐れむことがなく、金を貸すとひどく高利を貪って、
恨みを村中からかっても気にせず、その行いは大変憎むべきものであった。

しかしその力を農事に尽すところを観察すると近郷でも比類ない丹精ぶりだった。
耕やし種を蒔き培養し、よくその時節にあい、春は原野に草を刈り、秋は山林に落葉をかき、
夏は炎暑を厭わず、冬は雪や霜をおかし、朝早く起き夜更けに寝て、力を農事に尽した。

その勤農ぶりは実に模範となるといってよかった。
聖賢が農業に勤めてもこれに及ばないほどであった。

その作物のために尽すことは、秋になれば自分に利益があることを知ることは、
釈尊であってもまたこれに過ぎることはできないほどであった。

もしこの理を人間の間でも用いて、自らよく勤める所の農術を
人に教え郷里のためにまごころを尽すならば、聖賢をほうふつさせた者であったが、
惜しいことであった。

          <感謝合掌 平成28年8月21日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その19 - 伝統

2016/08/24 (Wed) 19:35:19


尊徳先生がおっしゃった。


大雨の時に井戸の水が溢れるならば、洪水があると知るべきである。
洪水の時は天から降ってくるだけではない、地からも湧くかと思われるように、
井戸の水が溢れるものである。

また、川の流れにしたがって風が吹く時は、大雨であっても洪水は少ない。

川の流れに逆って風が吹き上げる時は、必ず洪水がある、知らなくてはならない。

          <感謝合掌 平成28年8月24日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その20 - 伝統

2016/08/26 (Fri) 20:01:28


ある人が言った。

彼岸の文字はもとは儒書から出たと、
梧窓漫筆(ごそううまんぴつ:太田錦城著、1765(明和 2)~1825(文政 8. 4.23)
◇江戸中期の漢学者(折衷学派)。名は元貞、字は公軒、通称は才佐、号は錦城。
加賀大聖寺の医師・本草学者大田玄覚の子、母は樫田氏。
京都の皆川淇園(きえん)・江戸の山本北山に学ぶが意に満たず、
宋学に清朝の考証学を取り入れ一家をなし、江戸で教授。
三河国吉田藩に招かれる。晩年、加賀藩に仕え禄300石。)にありますと。


尊徳先生はおっしゃった。

文字の出所は知らないけれどもその言葉は仏意である。
なぜかといえば、この岸を離れて彼の岸に到るの意味だからである。
寒より暑に至るのを春の彼岸と云ひ、暑より寒に至るのを秋の彼岸という。

今一本の草でこれを示してみよう。
春の彼岸は種がこちらの岸を離れて草の岸に到るのである、
秋の彼岸は草がこちらの岸を離れて種の岸に到るのである。

およそこの岸を離れなければ、彼の岸に到る事はできない。
だから草から草が生ずる事がなく、種から種が生ずる事はない。
あるいは草となり、あるいは種となって、百草は相続するのである。

これがいわゆる循環の理である。
そうであるから彼岸は、仏意である事は明かである。
この季節に先祖を祭る事の起りは、儒教も仏教も同じであろう。

          <感謝合掌 平成28年8月26日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その21 - 伝統

2016/08/28 (Sun) 19:18:57


ある人が言った。

私は薄運というか神明の加護がないというか、
なす事がならず、思う事が食い違いますと。


尊徳先生は、さとされておっしゃった。

あなたは誤っている。
薄運なのではない、神明の加護がないのでもない、
これがすなわち神明の加護であり、すなわち厚運なのだ。

ただ願う所となす所が違うだけである。

あなたが願う所は瓜を植えてナスを欲し、麦を蒔いて米を欲するものだ。
願う事がならないのではない、成らない事を願うからである。

それでいて神明の加護がないといい、また薄運だという、過ちではないか。

瓜を蒔いて瓜がなり、米を蒔いて米が実ることは、天地日月の加護である。
そうであればすなわち悪を行って刑罰がきたり、善を行って福が来たることは、
天地神明の加護であり、米を蒔いて米を得るのと同じである。

それなのに神明の加護がないというのは過ちではないか。

          <感謝合掌 平成28年8月28日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その22 - 伝統

2016/08/30 (Tue) 19:59:34


尊徳先生は、天保3年桜町陣屋の下の畑の租税を免じ、
1町歩について2反歩ずつの割合で稗を蒔かせ、常備の備蓄とされたが、

翌4年には不作で積み置くまでもなく用に立ち、
また同6年に同じく稗を蒔かせたが、翌7年には大飢饉となった。

それ以来備蓄米の命令を下されなかったが、
弘化2年にまた急に食糧の用意と備蓄を命じ、稗を蒔かせられたが、
同年不作でまたまたこれを備蓄するまでもなく用を足した。

その先見の明は神のようであった。

          <感謝合掌 平成28年8月30日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その23 - 伝統

2016/09/02 (Fri) 19:05:27


尊徳先生がおっしゃった。

世の中の人は、家業と欲とを混同してそれの区別をはっきりと知らない者がある。
だから家業に精出す者を欲が深いと思うのだ。
これは大きな誤りというべきだ。

家業は精出して働かなければならないものだ、怠っては済まないものである。

欲はそれとは違って、押えなければならないものである。

人は皆家業がある。

役人が国家のために尽力するのは家業出精である。
教師が教育に勉め励むのも家業出精である。
僧侶が戒律をよく守るのも家業出精である。
医師が病人のために心力を尽すのも家業出精である。

農工商皆同じである、よく心得て家業と欲との思いを混同してはならない。

          <感謝合掌 平成28年9月2日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その24 - 伝統

2016/09/04 (Sun) 18:56:48


尊徳先生がおっしゃった。

私の生涯の事業は、すべて荒地を開くことを勤めとする。
田畑が荒れたり、また負債が多いのは、ともにこれは国家の生産の地でもあり、
その人のために荒地でもある。

また廃地や税金と村費だけの収穫があつて、利益のない田畑や、
また身体が強壮にもかかわらず怠惰に日を送る者は、ともに自他のために荒地である。

資産があり金力がありながら国家のためになることをなさないで、
いたずらに贅沢にふけり、財宝を費す者がいる、これは世の大きな荒地である。

また智慧もあり才能もあって遊芸に生涯を送る者がある、これも世の中の荒地である。


これらの数種の荒地はその原因は心田が荒地となっていることに原因があるから、
私の道はまず心田の荒地を開くことをを先にしなければならない。

心田の荒地を開いて後は田畑の荒地に及んで、
この数種の荒地を開いて熟田とするならば、
国の富強はてのひらをめぐらすようであろう。

          <感謝合掌 平成28年9月4日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その25 - 伝統

2016/09/07 (Wed) 20:26:01


尊徳先生がおっしゃった。

若い者は毎日よく勤めよ、これは自分の身に徳を積むことなのだ。
怠ってなまけることがトクだと思うのは大きな誤りである、
徳を積めば天から恵みがあることは眼の前の事実である。

今、人を雇ったことでたとえてみよう。
あの男はよく働いて真実である、来年は私の家で頼もうといわれ、
よく勤めるならば婿(むこ)にもらおうということにもなるものである。

これに反する者は本年は取り決めたから仕方がないが、
来年は断わろというようになることは、眼の前の事実だ。

知識がなく才能がなくても、
よく慎んで、よく顧み、身にあやまちがないようにするがよい。
過ちは、すなわち身のキズである。

古語に

「身体髪膚(しんたいぱっぷ)これを父母に受く、
あえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり」とある。

人が過ちをおこすことは、身のキズとなる事を知らず、
傷さえしなければよいと思うのは間違っている。

また過ちは身のキズだけでなく父母や兄弟の顔をも汚すものなのだ、
慎まなければならない。

          <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その26 - 伝統

2016/09/13 (Tue) 18:06:10


尊徳先生がおっしゃった。

平凡な者は、非常に多いことを記憶することはできないものだ。
たとえばこの茶碗の10や20は、誰でも数える事は容易だけれども、
これを400,500とする時はなかなか間違えないように数える事はできない。

数が多い物に番号を付ける時、20や30は間違うことはないが、
300,400となると知らず知らず間違えるものである。


だから私はただ一理を明かにする事を尊ぶのである。

一理が誠に明らかであれば万理に通ずる、
天地の間で最も知ることが難かしい道理は、
言論が達者な雄弁の者の勝となるであろう、
だから孔子は「一以て之を貫く」と言われたのだ。

きみらもここに眼を付けてよく考えるならば、
世界万般の道理はおのづと知ることができよう。

私の歌に「古道につもる木の葉をかきわけて、天照(あまてら)す神の足跡を見ん」とある。

足跡を見る事を得るならば万理が一貫するであろう。

そうしないでいたずらに仁は何々、義は何々と言う時は、
これを聴くのもこれを講ずるのもともに無益である。

そのほかのことは言うに足らず、聞くに足らない。

          <感謝合掌 平成28年9月13日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その27 - 伝統

2016/09/15 (Thu) 17:44:56


門人のある者がふだんから悟道論を喜んで、
大悟は小節にこだわらないと言っていた。


尊徳先生がおっしゃった。

儒者は大行は細瑾(わずかな過ち)を気にしないといって勝手きままに振舞っている。
仏者は大悟は小さい節義にはかかわらないといって無法な行いをする。
これは道の罪人というべきである。

なぜかといえばいたずらにこのことを正当化するために論語など古言を持ち出して、
自分には大きな行いもなく、大悟を得ようなどと夢にも思わないで、
忠告を防ぐ垣根となし、道を飾る道具となして、
人に誇って大言を吐いてはばからないのは、大道の大罪人である。

あなた方は鼓を鳴らしてこれをせめてもかまわないと言ってもよい。

          <感謝合掌 平成28年9月15日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その28 - 伝統

2016/09/18 (Sun) 18:41:05


尊徳先生がおっしゃった。

季候が悪く、本年は凶歳にもなろうかというような模様があれば、
食料になるジヤガ芋を早く掘り出して、ただちに空いている畑に肥しをほどこして
植え付けるべきである。

次に大根やカブ、次にソバである。

このソバを蒔く時に、ソバの種の中へアブラナの種をまぜて蒔くがよい。
そうする時はソバが実って刈り取る時にはアブラナも大きくなる。
これを蕎麦とともに刈り取れば根も茎も残っているから、害は無い。

そばを刈り取ってただちに肥しをほどこして、手入れをすれば、
たちまち菜畑となって栄えるものである。
山畑などには必ずこの方法を用いるがよい。

          <感謝合掌 平成28年9月18日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その29 - 伝統

2016/09/21 (Wed) 17:59:45


尊徳先生がおっしゃった。

方位をもって禍福を論じ、月日をもって吉凶を説くことが古来から行われている。
世の中の人はこれを信じているが、この道理はあるはずがない。

禍福や吉凶は方位や日月などの関するところではない。

これを信ずるのは迷いである。
仏教では本来東西無しとさえ言う。

禍福や吉凶は自分の心と行いが招くところに来ることがあり、
また過去の因縁によって来ることもある。

ある禅僧が強盗に遭ったる時の歌に、

「前の世の借りを返すか今貸すか、いずれ報いは有るとしぞしれ」

と詠んだとおりであろう。

決して迷ってはならない。

盗賊は鬼門から入るのではない、日の悪いときにだけ来るのではない。
戸締りを忘れれば盗賊は入って来ると思え。
火の用心を怠れば火災が起こるであろう。

試しに戸を明けておいて見るがよい。
犬が入ってきて食べ物を求める。
これは目の前の事実である。

古語(易経)にいう、

積善の家に余慶(よけい)あり積不善の家に余殃(よおう)あり と

   (☆易経-坤「積善之家必有余慶、積不善之家必有余殃」)

これは万古を貫いて動かない真理である。

決して疑ってはならない、これを疑うのを迷いという。

米を蒔いて米が実り、麦を蒔いて麦が実るは眼前の事実であって、年々歳々違わない。
天理であるためである。

世に不成日(ふじょうび)という、しかしこの日になす事はずいぶん成就している。
吉日だといって行った事が必ずしも成就するわけではない。

吉日を選んで行った婚姻も離縁になる事がある、
日を選ばないで結婚したのに夫婦ともに年を重ねて老いるものもある。

こうした禍福吉凶に関する事は決して信じてはならない。

信ずべきは「積善の家には余慶あり」という金言である。

しかし余慶も余殃(よおう)もすぐに回り来るものではない。
百日で実るソバがある、秋に蒔いて次の年の夏に実る麦がある、
ことわざに桃栗8年というようなものだ。

因果にも応報にも遅い速いという事があることを忘れてはならない。

          <感謝合掌 平成28年9月21日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その30 - 伝統

2016/09/24 (Sat) 18:50:09


尊徳先生がおっしゃった。


本来東西無し、また過不及無しなどというのは、水平な器を見ていう言葉である。
すなはち本来の天理である。

既に一つの器があるとする。
これに自己というものがあれば傾かざるを得ない、
傾くときはその器の中の水は必ず前後左右に増減する。

これを世間では、あの者は幸運だ、あの者は不運などというのだ。

これは何々という自己があるためである。

自己がないときは東西も無く、遠近も無く、過不及もない。
これが本来の天理である。


古語に

「天運循環して往(ゆ)いて復(かえ)らざるなし」と言っている。

これは傾いた器の水が増減することをいうのだ。

あの者は幸運だ、あの者は不運だなどというのも、すなはちこれである。

私の歌に

「増減は器(うつわ)傾く水と見よ、あちらにませばこちらへるなり」

皆このとおりである。

たとえ、ふたをしてもただ目に見えないだけで、水が増減することは疑いない。

今、ここにたきぎを取って自分でたかないで売る者は、いやしいようではあるが、
それだけの運を増すのだ。

この金銭で酒を飲めば、また直ちにそれだけの運を減らすのである。

田畑へ肥料を施す者は、眼の前には利益がないようだが、
秋にいたれば実りが多い、このときにすなわち運をますのである。

遊びなまけて田畑をいいかげんに耕作した者は秋になって収穫が少い。
ここになって運の減ずる事を知るであろう。

皆明白であって、愚かな男女であっても、この道理は知ることができよう。
この道理を知ってよく勤めれば、すなはち道を悟ったのと同じである。

このようにすれば何をなしても利益があるであろう。
これに反するならば何をなしても損失するであろう。

誠に明白の理ではないか。

          <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その31 - 伝統

2016/09/27 (Tue) 18:33:33

尊徳先生がおっしゃった。

世界は元々、吉凶や禍福や苦楽や生滅はない。
私が示した一円図のとおりである。

そしてこれ(吉凶、禍福等)があるのは、その半(なか)ばに
自己というものを置いて隔っているからである。


人は言う。
万物は土より生じて土に帰ると。

これはまだ尽くしていない、眼の前の論である。
これは江戸の人が旅客は品川から出るというようなものだ。
その京都に出るにはいろいろあるのだ。

草や木が春に生育して秋に枯れるのを見て、秋を無常というけれども、
農家では秋は実りを得て喜ぶときなのだ。

草のほうから見れば誠に無常であるけれども、種のほうから見るときは有常である。

そうであれば無常も無常ではなく、有常も有常ではないというべきである。

          <感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その32 - 伝統

2016/09/29 (Thu) 18:18:20


ある藩の重臣が、藩の財政の方法を尊徳先生に問うた。

尊徳先生はおっしゃった。

ここに10万石の諸侯があるとします。
これを木にたとえれば、百姓は土より下にある根のようなもので、
幹と枝葉は藩の武士のようなものです。

そうであれば10万石というときは、
その領中一円の神主や僧侶、乞食も皆この中のものです。

この10万石を4公6民とする時は、藩が4分、民が6分です。

それなのにどこの藩も私に相談に来られるときは、
皆、藩の財政だけを改革しようとされて、
領中の庶民の事に及ぶことがありません。

古語に「その元乱れ末治まる者はあらず」とあります。

その元を捨ておいて、その末だけを挙げようとしても、
順序が違えば、労しても効果は無いことでしょう。

本当に藩の疲弊しているのを救おうというのであれらば、
民政もともに改革されるべきです。

そうで無いときは、木の根を捨てておいて枝葉に肥料を施すようなものです。

これがあなたが最も心を用いらるべきところであって、あなたの職務です。
帰藩の上はよくよく考えてみてください、
重臣は大変感服いたしましたと言って帰っていった。

          <感謝合掌 平成28年9月29日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その33 - 伝統

2016/10/01 (Sat) 18:06:57


尊徳先生がおっしゃった。


内に実があれば外に顕われるのは、天理自然である。
内に実が有って外に顕われないという理は決してない。

たとえば日暮れにともし火を点ずるのを見るがよい。
つけ木に火がつくとすぐに障子に火の影が映って、
外から家の内にともし火のある事が知られる。

そのほか深山の花や木、泥の中のどじょうは、みずから知られないつもりでも、
人はすぐにあの山に花が咲いている、この泥の中にどじょうがいると知る。
このことを思わなければならない。

          <感謝合掌 平成28年10月1日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その34 - 伝統

2016/10/04 (Tue) 18:24:03


尊徳先生はおっしゃった。


商売が繁栄し、大家となるのは、高利を貪らず、安値で売るからである。
その高利を貪らないために、国中の買い手が集って来るは当然の事であるけれども、
売る物もまたここに集まるは不思議である。

買うと売るとの間に立って、高く買って安く売ることは行うことができない。
そうであれば安く売るのは買う方でも安くなければならない。
安く買うところに売る者が集まるというのは、実に不思議である。

これ売る者、買う者が皆双方とも高利を貪らないことによるものである。
高利を貪らないだけで、買う者も売る者もともに集って、次第に富を蓄積する。
これもまた不思議である。

商家で高利を貪らないだけでもこのとおりである。
ましてや私の方法は無利息で貸し付けている、尊ぶべき方法ではないか。

          <感謝合掌 平成28年10月4日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その35 - 伝統

2016/10/06 (Thu) 18:48:49


尊徳先生はおっしゃった。

「仏説はまことに妙なるものである。
太陽が朝、東に出る時の功徳を薬師如来と名づけ、
中天に照す時の功徳を大日如来といい、
夕日の功徳を阿弥陀如来という。

そうであれば薬師如来、大日如来、阿弥陀如来とは、
実際そのような仏があるのではなく、
皆、太陽の功徳をあらわしたものなのである。

また、大地の功徳を地蔵菩薩といい、
空中の功徳を虚空蔵菩薩といい、
世の音を観ずる功徳を観世音菩薩という。」


ある人が問うた。

「大地の功徳は大きいでしょう、虚空の功徳も大きいでしょう。
世の音を観ずる功徳はどうでしょうか。」

尊徳先生がおっしゃった。

「商法などの類は、すべて世の音信をよく考えて
利益を求めるのを観世音の力を念ずると言うのだ。

観というのは目で見る字ではない、心眼で見ることをいう字である、
よく考えてみなさい思ってみなさい。

          <感謝合掌 平成28年10月6日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その36 - 伝統

2016/10/08 (Sat) 19:51:26


尊徳先生がおっしゃった。


農家は作物のためにだけ勤めて、朝夕力を尽し、心を尽すときは、
自然に願わないでも穀物が蔵に満ちる。

穀物が蔵にあれば呼ばなくても魚を売りに来たり、
小間物屋も来て、何もかも安楽自在である。

また村里を見るに竹や柴で編んだ垣が丈夫で住居の掃除も行き届き、
藁などを積み重ねた堆肥(たいひ)がたくさん積み重なったのは、
何となく福々しいものだ。

その家の田畑はすみずみまで手が届き、できも平らで、
稲の穂先が揃って見事なるものである。


またこれに反してできが平らではなく穂先が揃わず、稗があり、草があり、
何となく見苦しい田畑の作り主の家は、竹や柴で編んだ垣も破れ、
住居は不潔なるものである。

また一種、不精者で困窮しながらも住居は清潔に住むものがある、
これは竹や柴で編んだ垣やそのほかも行き届いているけれども、
家に俵がなく、農具もなく、庭に堆肥もなく、何となくさみしいものである。

また人々の気持ちが調和していない村里は村の四方を囲む竹木も不揃いで、
道路も悪く堰用の水路に笹などが茂るなど見苦しいものである。

私のいうことはおおよそ違うことはなかろう。

          <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その37 - 伝統

2016/10/10 (Mon) 17:13:08


尊徳先生はおっしゃった。


因果の理をこの柿の木の上にて説いてみよう。

あの柿の実を見よ、
人が食べるか、鳥が食べるか。落ちて腐るか。

まだ、その将来は知れない前に、枝葉のかげにあるときの精力の運びによって
熟するに及んで、市場に出して売られる時、3厘になり、5厘になり、
1銭になるものがある。

その始めは同じ柿で熟するにしたがってこのようにまちまちに値段が異なるのは、
皆、過去に枝にある時の精力の運び方の因縁によるのである。


天地間の万物は皆同じである。
隠れて微かな中に生育して、そして人に得られて、その徳をあらわすのである。


人もまたこのとおりだ。
親の手もとにあるとき、身を修めて諸芸を学び、
よく勤めたその徳によって一生の業は立つのである。

およそ人は若い時、よく学べばよかったと後悔の心が出るのは、
柿が市場に出て後に、今少し精気を運んで、太く甘くなればよかったと思うのと同じである、
後悔は先に立たないものである。


古人は前に悔やめと教えた。

若い者はよく思うがよい。
だから修行は入るか入らないか、用に立つか、用にたたないか
知れない前に、よく学ぶがよい。

そうでなければ用に立たないものである。

柿も枝葉の間にある時、太くならなければ市場に出ても仕方がないのと同じだ。

これがすなわち因果の道理である。

          <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その38 - 伝統

2016/10/14 (Fri) 18:59:57


尊徳先生はおっしゃった。

仏は諸行無常(この世の中のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと)と言われた。
世間でいろいろと行われているものは、みな常に無いものである。
そうであるのに有ると見るのは迷いである。

おまえたちの命も、おまえたちの体も皆そのとおりである。
長い短かい、遅い速いは有るといっても皆有るわけではない、有ると思うのは迷いである。
本来は長短もなく、遅速もなく、遠近もなく、生死もない、
かげろうの一時を短いと見、鶴亀の千年を長いと思うようなことは皆迷いである。

そうではあるが、この理は見えにくい。

凡人にこれを見せるは遠近が最もわかりやすい、

これは我が悟道の入門である。

「見渡せば遠き近きは無かりけり、己々が住処(すみか)にぞよる」

見渡せば善きも悪しきもなかりけり、
見渡せば憎いかはゆい無かりけり、
この歌を感ずる時はその道理がわかるであろう。

生といい死というも、ともに無常であって頼みにならないことは明白である。

氷と水とを見てみよ。
どちらを生といい、どちらを死といおうか。
水は寒気に感じて氷となり、氷は暖気に感じて水となる。

今朝は寒いといっても一朝暖気となればすぐに消える、これをどうしよう。
水か氷か、氷か水か、生か死か、死か生か、何を生といおうか、何を死といおうか。

諸行無常であることを知られるであろう。
そしてまた無常も無常ではなく、有常も有常ではない。

惜しい、欲しい、憎い、かわいい、彼も我も皆迷いである。
このように迷うために三界城(さんかいじょう:迷いの世界)という
堅固な物ができて人を恨み、人をねたみ、人をそねみ、人にいきどおり、
いろいろな悪果を結ぶのである。

これを諸行無常と悟る時は、十方空となって恨みのも、
ねたむのも、憎むのも、いきどおるのも馬鹿馬鹿しくなる。

このところに至るならば自然に怨念や死霊も退散する、これを悟りという。
悟るのを成仏というのだ。
よくよく味って悟りの門に入るがよい。


          <感謝合掌 平成28年10月14日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その39 - 伝統

2016/10/17 (Mon) 18:00:02


尊徳先生はおっしゃった。

「老子」第9に
「功を成しとげ名を世にあげて身を退くのは天の道である。」という。

天の道は誠にそのとおりだ。

しかしながらこれを人の道に行う時は智者といっても、
仁者とはいうことはできない。

なぜかといえば完全に尽しているというまで至っていないからだ。

          <感謝合掌 平成28年10月17日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その40 - 伝統

2016/10/21 (Fri) 18:09:50


齋藤高行が言った。

「儒者が仏者に質問しました。
『地獄の釜は誰が作ったのか』

仏者は答えました。
『かっこうが掘り出した黄金の釜と同じ作です。』

面白い話ではありませんか。」


尊徳先生はおっしゃった。

「面白い、しかしそれは智者の言葉であって仁者の言葉ではない、
称賛するに足りない。」

          <感謝合掌 平成28年10月21日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その41 - 伝統

2016/10/25 (Tue) 18:39:21


尊徳先生はおっしゃった。

論語に「《己にしかざる者を友とすることなかれ》」とあるのを、
世に取り違える人がある。

人は皆長所があり、短所があるのはおのおの免れがたいところだ。
そうであれば
《その人の長所を友として、短所を友とする事なかれという意味と心得るがよい。》

たとえばその人の短所を捨てて、その人の長所を友とするがよい。

多くの人には才能がなくても字が上手な人があるであろう。

世事にはうとくても学問があることもあろう、
無学でも世事には賢い人もあろう、
字は書けなくても農業に精通した人もあろう。

          <感謝合掌 平成28年10月25日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その42 - 伝統

2016/10/27 (Thu) 19:13:16


尊徳先生がおっしゃった。

心が狭く狭まっては、本当の道理を見る事はできないものだ。
世界は広い、だから心は広く持たなければならない。

しかしその広い世界も自分といい、我という「わたくし」を一つ中に置いて見る時には、
世界の道理はその自分に隔てられて、その見る所は皆なかばになってしまう。

自分というもので半分を見る時には、
借りたものは返さない方が都合がよく、
人の物を盗むのはもっとも都合がよいようであるけれども、

この隔てる自分というものを取り捨てて、広く見る時には、
借りた物は返さなければならないという道理が明らかに見え、
盗むという事は悪事である事も明らかに分る。

だからこの自分という「わたくし」を取り捨てる工夫がもっとも大事である。

儒道も仏道もこの自分を取り捨てる方法を教えることを専一としている。

論語に「己に克(か)ちて礼に復(かへ)れ」と教えているのも、
仏道で見性といい、悟道といい、転迷という。
皆この「わたくし」を取って捨てる修行である。

この「わたくし」を取って捨てる時には、万物は不生不滅であり、
不増不減である道理もまた明らかに見えるであろう。

このように明白である世界だが、この自分を中間に置いて、
かれとこれとを隔てる時は、すぐその座に得失や損益、増減、消滅等の
種々無量の境界が現出するのである。

恐るべきことではないか。

しかしこれもまた是非もない次第である。

それは豆が草になる時は、豆は実を見る事はできない。

豆が実になる時は、豆の草はできない世界であるために、
万物の霊である人間であっても、免れ難いところである。

この免れ難いところを免れることを悟りといい、免れないのを迷いという。

わたしがたわむれに詠んだ歌に
「穀物の夫食(ぶじき:食料)となるも味も香も、草より出でて草になるまで」

百草の根も葉も枝も花も実も種から出て、種になるまでこの理を見るの一つだけである。
はっはっは。

          <感謝合掌 平成28年10月27日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その43 - 伝統

2016/11/03 (Thu) 17:57:52

尊徳先生はおっしゃった。

私の道は勤・倹・譲の三つにある。

勤とは衣食住になる物品を勤めて産出することである。
倹とは産出した物品を費さないことをいう。
譲はこの三つを他に及ぼすことをいう。

さて譲は種々ある。
今年の物を来年のために貯えるのも譲である。
それから子孫に譲るのと、
親戚や朋友に譲るのと、
郷里に譲るのと、
国家に譲ることがある。

その人のそれぞれの身の分限によって勤め行うがよい。
たとえ一季半季の雇人であっても、今年の物を来年に譲ることと、
子孫に譲ることとの譲りは、必ず勤めなければならない。

この三つは鼎(かなへ)の足のようなものだ。
一も欠いてはならない。
必ず勤労・倹約・推譲の3つ兼ねて行わなければならない。

          <感謝合掌 平成28年11月3日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その44 - 伝統

2016/11/06 (Sun) 18:54:58


ある人が質問した。

今日、「中庸」の講釈を聞きました。
まことに難しい講釈で、聞いても分りません。
「喜怒哀楽の未だ発せざる之を中と云ふ」とはどういう道理でしょうか。


尊徳先生はおっしゃった。

「これは最も難しい道理だ。
しかし、これを他の物に移して説明する時には了解できるものである。

これを草木に移せば、
根や幹や枝や葉がいまだ生じない種のことをいっていると見ればよい。

これを草木に移してその後に「中」というのは何物かを考えるのが近道である。
どうだ、分かったか。」

ある人は感激し拝んで帰っていった。

          <感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その45 - 伝統

2016/11/10 (Thu) 18:24:19


尊徳先生はおっしゃった。

世の中の人は、なにかと小事を厭って大事を欲するけれども、
本来、大は小の積ったものである。
そうであれば小を積んで大をなすより外に方法はない。

国中の田は広大であり無辺無数である。
そうではあるがその田畑は皆一鍬ずつ耕し、
一株ずつ植え、一株ずつ刈り取るものだ。

その田の一反(たん)を耕す鍬の数は3万以上である。
一反の稲の株の数は1万5千ほどであろう。
皆一株ずつ植えて一株ずつ刈るのである。

その田から実った米粒の一升の数は6万4千800余りである。
この米を白米にするには、一臼の杵の数は、1500ないし1600以上である。
その手数を思うがよい、小を勤めないではいけないことを知るべきである。

          <感謝合掌 平成28年11月10日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その46 - 伝統

2016/11/13 (Sun) 18:43:49


尊徳先生はおっしゃった。

儒学者は皆「大学」の三綱領というけれども、
至善に止まるの至善とはどのようなものか明らかではない。

私はひそかにその実は二綱領であろうと愚考している。

なぜかといえば明徳を明らかにするは道徳の究極である。
民を新(あら)たにするのは、国家を経営する究極である。。

その上に「至善に止まる」というけれども、
「明徳を明らかにす」と「民を新たにする」とのほかに
至善とさす物はあるまいと思うからである。

だから三綱領といっても実際には二綱領と心得てよい。

          <感謝合掌 平成28年11月13日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その47 - 伝統

2016/11/16 (Wed) 18:15:13


尊徳先生は日光ご神領の興復法の取調帳数十巻を指差しておっしゃった。


この興復仕法計算は、ひとり日光だけではなく、国家興復の計算である。
日光神領という文字は本当に素晴らしい。
この言葉は世界の事と見てもよい。

そうであればこの帳簿は計算帳と見てはならない。
これは皆一々悟りの道であり、天地自然の理である。
天地は昼夜に変じたり満ちたりして違うことがなく、偽りもない。

そして算術もまた同じである。
だから算術をかりて、世界が変じたり満ちたりするのはこのとおりの道理であるから
決して油断できないと示していましめたものである。

この帳面を開くときは神の一を何であろうとも定めてみるがよい。

善でも、悪でも、邪でも、正でも、直でも、曲でも、
何であろうとも定めて置いて見る時には、元によつて利を生み、
利が返ってまた元となり、その元に利が付いて繰返し繰返し
仏説にいう因果因果と引き続いて絶えない事、年々歳々このとおりである。

たとえば毎朝、自分が先に眼覚めて人を起こすか、また人に毎朝起されるか、
この一事でも知ることができる。

人の世は一刻勤めれば一刻だけ、ひととき働けばひとときだけ、半日励むならば半日だけ、
善悪邪正曲直皆この計算のとおり、1厘違えば1厘だけ、5厘違えば5厘だけ、
多ければ多いだけ、少なければ少ないだけ、このとおりと
皆180年間明細に調べ上げたものである。

朝早く起きた因縁によって麦が多く取れて、麦が取れた因縁によって田を多く作り、
田を多く作った因縁によって実が多く取れて、麦が取れた因縁によって田を多く作り、
田を多く作った因縁によって馬を買い、馬を買い求めた因縁によって田畑がよくできて、
田畑がよくできた因縁によって田がふえ、田がふえた因縁によって金を貸し、
金を貸した因縁によりて利が取れる。

年々このようになっているによって富裕者となるのである。
そして富裕者が貧困になってゆくもまたこの道理である。

原野の草、山林の木の生長もまた同じ理なり、
春に延びた力によって秋に根を張り、秋に根を張った力をもって、春に延び、
去年延びた力をもって今年太り、今年太った力をもって来年もまた太るのである。

天地間の万物は皆このとおりである

これを理論で言う時には、種々の異論があって面倒であるから、
私は算術をかりて示したのである。
算術で示す時には、どのような悟道者でも、
どのような論者でも一言も言うことができない。

天地が開けた昔、人も動物もまだ無い時から、違いがないこともって証拠として、
天地間の道理はこのとおりの物であると、知らしめたのである。

決してこの帳面を計算と見てはならない。
数はごまかすことができない。
この数理によって道理を悟るがよい。
これが悟道への近道である。

弁算和尚がかたわらにあって次のように言った。

これぞ本当の一切経である。仰ぐがよい尊ぶがよい。

          <感謝合掌 平成28年11月16日 頓首再拝>

二宮翁夜話残篇~その48 - 伝統

2016/11/20 (Sun) 19:06:48


尊徳先生はおっしゃった。

国に上・中・下がある。
上国の土にまた上・中・下があり、下国の土にもまた上・中・下がある。

このよに上いい、あるいは下といっても、
名前は同じでも、所が異なれば、その実はまた大きく異なる。

なぜかといえば下国のいわゆる上田は、上国の下田にも比べ物にもならない、
まして下国の中・下はなおさらである。

上国の下田は、下国の上田に比べればすぐれていることはるかに遠い、
ましてや上国の中・上はなおさらのことである。
そして下国の上田の租税は、上国の下田に比べれば、その半ばくらいで下田の租税に近い。

いろいろな公の出金や仕事などもまたこれに準ずる。

これが上国の民はますます豊かになり、
下国の人民は離散したり逃亡したりすることを免れない理由である。

野・常(栃木県・茨城県)の土は痩せていて利は少ない。
そこの上田は上国(たとえば新潟県)の下田のようなものだ。

そうであれば上国の下田の税金等をもって下国の上田の税金等とし、
中下もまたこれにしたがって、その租税の基準を定めるならば、
富み栄えること上国のようでなくても、どうして廃亡することこのようなことに到ろうか。

上に立つ為政者は最大限心を用いなければならないところである。

(以上で、二宮翁夜話残篇の紹介を終えます)

          <感謝合掌 平成28年11月20日 頓首再拝>

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