伝統板・第二

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七夕 - 夕刻版

2016/07/06 (Wed) 19:17:03

明日7月7日は七夕七夕(たなばた)の節句、

桃の節句や端午の節句と並ぶ五節句の一つです。
月遅れの8月7日に七夕祭りを行なうところも多い。


“たなばた”は奈良時代の万葉集では「棚幡」や「棚機」でしたが、
平安時代の新古今和歌集で初めて、七月七日の宵という意味の
「七夕(しちせき)」の字が使われています。

この七夕祭りも他の神事と同様に「夜明けの晩」、
つまり7日の朝が空ける前の暗いうちに行なうのが本来の様式です。

また、童謡「たなばたさま」にある五色の短冊の五色は、
五行説に由来する緑・紅・黄・白・黒の五色を指しています。

五色の短冊に様々な願いを書いて笹の葉に結びつけるという風習があります。

<参考:五色の短冊の意味
    → http://mekara.info/archives/4862.html >

         <感謝合掌 平成28年7月6日 頓首再拝>

天の川と七夕 - 伝統

2016/07/07 (Thu) 19:30:11

             *Web:日国.NET より

夏から秋へ季節が移る交叉(ゆきあい)の頃、澄みわたった夜空に
天の川(銀河、銀漢)を見ることができる。

数億以上の恒星が帯状に連なっているのだが、
これは地球が属す太陽系が銀河系の円板部にあるので、
円板面に沿った方向にたくさんの星が見えることによる。

北半球では1年中、空にかかっているが、春は低く、冬は高いが光が弱く、
ちょうど晩夏から初秋にかけてのこの頃、地平線と水平に天頂近くにくるので、特に鮮やかだ。

この天の川を挟んで、牽牛星(彦星)つまりわし座のα星アルタイルと
織女星(たなばたつめ)つまりこと座のα星ベガが、
年に1度だけ七月七日あるいは六日の夜に相合うという七夕伝説と強く結びつき、
連歌時代までは常に七夕と関連して天の川は歌などに詠まれていた。


天の川そのものが七夕との連想なしに詠まれるようになるのは俳諧時代になってからである。

しかし芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天の河」には、佐(たすけ)渡(わたす)という字が入り、
鵲(かささぎ)が翼を延べて橋とし、牽牛がこれを渡って織女のもとへ通ったという伝説を
響かせている。


七夕(星祭、星迎、星合、織女祭)は、中国伝来の行事、日本古来の伝承、
盆の行事などさまざまな要素が入り混じってできあがった行事である。


「たなばた」は「棚機」で、水辺の棚に設けた機屋(はたや)に処女(棚機つ女)がこもり、
来臨する神のために機を織ったという折口信夫説があるが、
これと宮中で行われていた中国伝来の乞巧奠(きこうでん)の行事が習合して
七夕の基本のかたちがつくられたようだ。

乞巧奠で祭る牽牛星はその字からわかるように農耕を、
織女星は機織や養蚕をつかさどる星とされていた。その星祭だったのである。
したがって晴天が祈られた。

ところが七夕には一粒でも雨が降ると豊作だ、
雨が降らないと牽牛と織女が出会って悪神が生まれ、
疫病が流行るとか不作になるとかいった伝承もある。

つまり中国では乾燥文化圏での星祭の側面が強く、
日本では湿潤文化圏での雨天を望む農神祭の側面が強いわけである。

折口説では、七夕の夜は禊を行うことになっていて、現在でもその習俗は各地に残る。

あるいは人も牛馬も水浴びをし、睡魔を川に流すという「眠り流し」を行う地方もある。
青森の「佞武多(ねぶた)」もその一つ。秋の収穫をひかえ、作業の妨げになる
睡魔や悪霊を追い払う行事だったのである。

このように七夕には中国と日本の伝承が混在しているのだが、最後にその例をもう一つ。

中国では女性が男性のもとに「嫁入り」する婚姻形態を反映して、
織女が天の川を渡って牽牛に会いに行くのが一般的だった。

しかし古代日本ではその逆だったので、「万葉集」の七夕を詠んだ歌では、
天の川を渡る主体が織女の場合と牽牛の場合とが混在してしまっている。

牽牛が渡って、織女がそれを待つという
日本的な逢瀬のかたちに定着するのは中世に入ってからである。


    (http://www.nikkoku.net/ezine/kotoba/ktb007.html

         <感謝合掌 平成28年7月7日 頓首再拝>

七夕のルーツ1~乞巧奠 - 伝統

2016/07/08 (Fri) 19:38:06


          *Web:七夕の話 より

七夕のルーツは、中国の乞巧奠(きっこうでん)という古い行事にあると言われています。

中国の6世紀の書物『荊楚歳時記』によると、七月七日を牽牛と織女が逢う晩とし、
この日、夕方になると女たちは五色の糸を七本の針に通したそうです。

この針は金や銀、真鍮で作られることもあります。
そして庭に机や敷物を出し、その上に酒や干し肉、瓜や菓子を並べ供えて、
裁縫の腕の上達を願いました。こ

の時、蜘蛛が供え物の瓜の上に網をかければ願いが聞き届けられたとしたそうです。

現在の私たちの行事とは全く違いますね。
笹竹も短冊も出てきませんし、願い事も何でも叶うと言うわけではなく、
縫いものが上達する、ということになっています。
(実際、行事の名前自体も”巧くなることを乞う祭”、ですね。)
織女に対して願う、女たちの祭りのようです。

ただし、中国のもっと古い時代の七月七日には、乞巧奠とは別に
現代の私たちのように子孫繁栄や富など、様々な願い事をしていたようです。

後漢の『四民月令』には「子の無き者が子を乞う」とあり、
『風土記』(A.D.280年頃)には「富と長寿と子の三つから一つだけを乞う」とあります。

この乞巧奠が日本に伝わり、宮中で貴族たちの行事として行われました。
伝えたのは、機織りや養蚕の技術を持ちこんだ渡来人達だとの説があります。
最初に行われたのは孝謙天皇の時ですが、年中行事として定着したのは平安時代以降のようです。


 平安時代の乞巧奠は、こうでした。

七月七日、御所の庭に敷物を東西に長く敷き、
朱塗りの高机を東西の敷物の端に南北二脚ずつ、全部で四脚置きます。

東南と西南の机の南側には梨・桃・ささげ・大豆・熟れた瓜・茄子・薄く切ったアワビを
盛った足付きの皿を並べ、北側にはお酒や青磁の壺、朱塗りの華盤など置きます。

西北と東北の机の西側には香炉を置き、東側には蓮の花五本か十本を飾った朱塗りの華盤を置きます。

そして、西北の机にだけ更に、金と銀の針七本ずつを刺した柏の葉を置きます。
この針には七つの孔があり、五色の糸をより合わせたものを通しています。

もっと昔は金と銀の針一本ずつを色紙一枚に刺していたそうです。

その他、筝一張、灯明九つなどを置き、粉五合を敷物や机の上に撒きます。

庭に椅子を置き、天皇が牽牛と織女の逢瀬をご覧になったそうです。
針と糸を置くのは裁縫の上達を、筝を置くのは技芸の上達を願って、だそうです。
他に和歌も詠んだようです。

 
江戸時代になると、御所の庭二間(約三・六メートル)四方に枝つきの竹
(高さ二~二・四メートル、太さ一回り十五センチ程度)を立て、
この上に小縄をめぐらしました。

現在、神主さんが地鎮祭の際に立てるものにそっくりですね。

縄の囲いの内には敷物を敷き、天皇側の縄には五色の絹糸をかけます。
御所の縁側には高机を置き、その上に針・糸・扇・笛を置きます。

また、瓜を皮ごと輪切りにしたものと塩あわびを切ったものをそれぞれ七つの皿に盛って
台に載せ、梶の葉・ひょうたんの葉を敷いた上に蓮の花をむしって置きます。
縁側には更に、角盥つのだらいに水をいっぱい張って置きます。
灯明を七つ灯し、懐紙を卓の上に置きます。

 
江戸時代になってようやく、行事に笹竹が出てきました。
けれど、まだ”五色の糸、針”といった中国オリジナルの乞巧奠の名残を見ることが出来ます。
竹を立てるようになったのは、民間の七夕祭りを取り入れたからのようです。

しかし、一体いつから、何の意味で竹を立てるようになったのか、はっきりとはしていません。
文献に現れ始めるのは鎌倉から室町時代にかけてだそうですが。

四本立てて縄を張り巡らすところから見ると、単に聖域を作ったように見えますね。
(竹は常緑で殺菌作用を持つこともあり、日本では異界~冥界と関連する神聖な木。
張られた縄は境界を示す。) 


 なお、江戸時代、備後国の民間の”七夕祭り”は、こうでした。

七月六日の午後二時半頃から、新しい竹を切り、葉のついたままの枝に五色の短冊を付けて立てます。
短冊には、月初め頃から競い合って詩歌などを書きしたためます。
瓜・茄子・五色の糸などを供え、硯すずりを洗ったりすることもあります。

また、子供たちが短冊を付けた笹を寺子屋(学校)に持って行くと、
先生がご馳走してくれることもあったそうです。
翌七日になると、短冊・笹・供え物などはみな川に流します。
これらは、星合いのカササギの橋の材料になると言い伝えられていたそうです。

 
なんと、笹竹を飾るのは七日ではなく、前日の六日なのですね。
現在の私たちの七夕にかなり近い感じですが、まだ”五色の糸”が残っています。
短冊に書くのは願い事ではなく、一生懸命書いた詩歌だというのも違います。

芸・技能の上達を願う、という意味がまだ残っているようです。
とはいえ、子供が七夕の短冊で勉学の上達を願うという風習は、
実はごく最近まで普通にあったようなのですが、最近はすっかり忘れられている感じですね。

勉学の上達を願うのは最近は流行らないのでしょうか? 
なお、新潟では、七夕に女の子が苧おを績うんで夕顔棚に掛けておくと
苧績みの腕が上がると言われていたそうで、糸・針仕事の上達を願う乞巧奠的な習慣が
日本の民間にもある程度定着していたことはわかります。

(苧とはイラクサ科の植物で、その茎から糸を作る。
「績む」とは苧を細く裂いて、長く合わせて糸を縒ること。)

         <感謝合掌 平成28年7月8日 頓首再拝> 

七夕のルーツ2~棚機 - 伝統

2016/07/09 (Sat) 20:43:03


          *Web:七夕の話 より

日本には、中国から乞巧奠が伝えられるより以前から
”たなばた”に類する習慣が存在していました。

”たなばた”は”棚機”と書きます。

これは機織り機のことです。
機織り機は棚状の構造になっているのでこう呼ばれていました。

また、機を織る女、乙棚機(おとたなばた)
または棚機女(たなばたつめ)のことを略して棚機ということもあります。

棚機女は巫女でした。
つまり、神の妻です。

彼女は年ごとに村の中から選ばれ、一人、人里から隔離(聖別)された
建物の中で夫たる神をその衣を織りながら待ちます。
訪れた夫神は、彼女(村)に”豊穣”を授け、代わりに穢れを持って立ち去るのでした。


   足玉も手玉もゆらに織る機を 君が御衣みけしに縫いあへむかも(万葉集)

   (足のアクセサリー、手のアクセサリーをゆらゆらさせながら織った布を、
    あなたのお着物に縫い上げましょう)

一方、中国の伝説の織女も、その名の通り機を織る女でした。
天帝の娘とされる彼女は天女――女神です。神に関わる機織り女、ということで、
日本の棚機女と中国の織女の同一視が起こったのでしょうか。

 
《それにしても、どうして女神は機を織るのでしょう。》

ギリシア神話の運命の三女神(モイライ)は、人の人生を表す機を織ったといいます。
その人間の人生が終わる時、機の糸は断ち切られました。

糸紡ぎ・機織りと言った仕事は女性の普遍的な仕事でしたから、
当然、女神もその仕事を”より上等に”こなしていると考えられたでしょう。

そして、女神である故に、その仕事には特別な力・意味があると考えられたようです。
針と糸を使って”世界”を作り上げた女神もいました。

中国のヤオ族の神話では、世界は漂う大山より生まれた
女神・密洛陀(ミロト)という女神によって作られました。
彼女は天と地を作りましたが、天より地が大きかったので、糸で天地を縫い合わせました。
よって天は丸く隆起し、地にはスカートのように皺ギャザーが寄って山や川になったそうです。

 
民話や神話、伝説を見ていくと、女神(神女、妖精、天女)は
多くの場合、水と糸(機)に関わって現れてきます。
「水の側で長い髪を梳く女」もしばしば現れますが、これは機織りを表しているのだそうです。

 
日本の棚機女の座す機屋の側には必ず河か池か海か、水がありました。
これは、生命の水の根源的なイメージです。

あるいは、異界と現界を隔てる水――水の彼方から神が寄り来る、という信仰でもあったでしょうか。
古く女権性の社会では、家を構えて座しているのは女で、男はそこに訪ねてきて種を残す――
夜這い婚だったのですから、棚機女が機屋で夫たる神を待つ、というのは解りやすい考えのように
思います。

なお、機屋は多くの場合、水の上に板を掛け渡した懸造に作られていたとされ、
渡した板――”棚”の上で機を織る女、という意味で棚機女という、との説もあります。

棚は神棚や盆棚と同じく神霊への供物を載せるための台なのですが、
私は水(境界)に渡した板――すなわち棚橋(欄干のない板の橋)、
異界(神霊)と現界(人)の橋渡しをするもの、という意味もあるかと思っています。


   天の川 棚橋渡せ 織女たなばたのい渡らさむに 棚橋渡せ(万葉集)

 

         <感謝合掌 平成28年7月9日 頓首再拝> 

七孔針 - 伝統

2016/07/10 (Sun) 18:49:21


            *Web:七夕伝承雑記 より

今も、正倉院には、この乞巧奠に用いられたであろう七本の針が御物として残っている。
七孔針と名付けられているその御物は、七本の針のうち、三本は長く、四本は短い針である。

 
室町時代の一条兼良の著であろうと云われている「公事根源」には、
宮中において乞巧奠が初めて行われたのは、孝謙天皇の天平勝宝七年であると述べている。

彼は、いかなる文献に基づいて、そのように書いたのであろうか。
続日本紀の天平勝宝七年の条には、そのような記事はない。

私は、これは、天平勝宝三年の誤りではないかと思っている。
その三年の七月七日に次のような記事を見ることができるからである。

「秋七月丁亥(七日)天皇南院に御し、宴を、大臣以下、諸司主典以上に賜う」

そして、それに続けて、

「女嬬無位刑部(おさかべ)勝麻呂に外従五位下を授く」とある。

おそらく、これが宮中における乞巧奠の最初であろう。
そして、この時、刑部勝麻呂という女嬬が、最も美しい織物を披露したので、
これを賞したのではあるまいか。
(ちなみに、この女官は、女性でありながら男性のような名前であることが注目される)

 
正倉院に残る七孔針も、多分、この時のものであろう。
この時、孝謙女帝みずからも乞巧奠に参加し、
自ら色糸を通した針が正倉院に残されたのではあるまいか。


         <感謝合掌 平成28年7月10日 頓首再拝> 

七夕の由来 - 伝統

2016/07/12 (Tue) 19:16:45


           *Web:いい日本再発見 より

《棚機津女(たなばたつめ)の伝説》

古来日本での七夕は、お盆を迎える前の禊ぎ(みそぎ)の日であり
棚機津女という行事が行われていました。

これは、旧暦7月6日~7日に行われていた行事で
町や村から選ばれた乙女が、この時期に訪れる神様を祀るために
水辺の機屋(はたや)に篭るというものです。

そして、その選ばれた乙女をも棚機津女と呼びました。

棚機津女は、神様が訪れる7月6日の夜に
水辺の機屋で神様にささげる布を織り棚に置きます。

神様が帰った翌7日の夕方、棚機津女が機屋から出てきた時に
笹竹やお供え物を海や川に流して罪やけがれを祓う
「七夕送り」という禊ぎを行ったといわれています。

水辺で禊ぎを行うことで
災難とのかかわりを断ってくれると信じられていました。

なんだか、流し雛の風習と似ているように感じます。


そもそも、棚機津女とは・・・

水辺にある棚造りの小屋に篭り、
神にささげる機(はた)を織りながら神の訪れを待ち
やがて、神に奉仕し、神の妻となる巫女のことです。

そして、この棚機津女も神として祀られました。



《織姫と彦星の物語》

物語のあらすじ

天を支配している天の神様には、
織姫といい、はたを織って神様たちの着物を作る仕事をする
とても働き者の娘がいました。

年頃の娘なのに、化粧ひとつせず
毎日はた織に精を出している娘を不憫に思った天帝は
天の川の西に住んでいる牽牛という
働き者の牛使いの青年と織姫を引き合わせます。

すると、二人はたちまち惹かれあい、結婚することになりました。


二人は、とても仲のいい夫婦でしたが
遊んでばかりいて、仕事をしなくなりました。

天の神様が注意をしても
返事ばかりで、全く言うことを聞きませんでした。

織姫が機織をしなくなったので
機械にはほこりがたまり、天の神様の服はボロボロに
牽牛の畑は草だらけで作物は枯れ
飼っていた牛はやせ細り、病気になってしまいました。

二人を見るに見かねた天帝は怒り
「もう二人を合わせるわけにはいかない」と
天の川の東と西に引き離します。天の川


それからというもの、織姫は
毎日毎日泣き暮らしていました。

牽牛も家に閉じこもってしまい
牛の病気はひどくなる一方でした。

困った天の神様は
「お前たちが、以前と同じように
 毎日まじめに働くのなら、年に一度だけ会うことを許そう」
と、二人にいいました。

その言葉を聴いた二人は
年に一度、会うことのできる日を楽しみにして
仕事に精を出しました。


年に一度会うことを許された7月7日の夜、
織姫は天の川を渡って彦星に会いに行きます。

ただ、雨が降ると川の水かさが増すので
織姫は川を渡ることができなくなってしまいます。


でも、そんな時は、
どこからともなくカササギの群れが飛んできて
広げた翼を連ねて橋をかけ、
織姫と牽牛を会わせてくれるのでした。



この物語は、旧暦7月7日に、織女星(織姫)と牽牛星(彦星)が
天の川を挟んで最も光り輝いて見えることから
この日を年に一度のめぐり合いの日と考えた中国で生まれて
日本に伝わってきたものです。



《乞巧奠(きこうでん・きっこうでん)》

奈良時代、織姫と彦星の物語と一緒に伝わってきたのが、
乞巧奠という中国の風習です。

織姫が機織に秀でていたことから、
その織姫にあやかって、機織や裁縫が上達するようにと
7月7日の夜、祭壇に針や糸などを供えて星に願いを掛けました。

これが乞巧奠の行事です。

時と共に、機織や裁縫だけでなく
書道や芸事などの上達も祈るようになったそうです。


乞巧奠が日本に伝わった奈良時代
孝謙天皇という女性天皇が
芸能や技巧の上達を願って乞巧奠を行ったと言われています。

その後、宮中の女性達が
7月7日の夜にお供え物をして、織物や裁縫がうまくなるように祈る。
という、女性の祭りとなりました。

暫く経つと、そこに、織姫と彦星伝説にちなんで
男女の良縁を祈るという意味が加わります。

さらに平安時代になると、宮殿では、
清涼殿(せいりょうでん)の前に祭壇が設けられ
二星(織姫と彦星)会合を祝い、
香をたいて楽を奏で詩歌を楽しむ宴が催されました。

この頃になると、
行事というよりは、祭りとしての要素が濃くなります。

室町時代には「織女祭」といわれ
宮中行事の一つになりました。


七夕の行事が、庶民の間に広まったのは江戸時代のことです。

乞巧奠、本来の姿は見受けられなくなりましたが
お供えや願い事の風習は浸透し、
現在の七夕祭りへと受け継がれてきたのです。

 (http://ii-nippon.net/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%A2%A8%E7%BF%92/1810.html

         <感謝合掌 平成28年7月12日 頓首再拝> 

七夕の歌(万葉集第八巻)~山上臣憶良 - 伝統

2016/07/13 (Wed) 19:26:18


(1)天の川相向き立ちて吾(あ)が恋ひし君来ますなり紐解き設(ま)けな(1518)

                 養老八年(725年)七月七日、令ニ応ヘテ作メリ。
   (養老は八年は二月四日までなので、それ以前に皇太子の命令があることを予想して、
    感興のままに、あらかじめ作った歌 と推測されております)


     意味:天の川、この川に向かい立ってお待ちしていました。
        いよいよ、愛しいあの方がお来しになるようです。
        さぁ、衣の紐を解いてお待ちしましょう。


(2)久かたの天の川瀬に船浮けて今夜か君が我許(あがり)来まさむ(1519)

                 神亀元年(725年)七月七日ノ夜、左大臣ノ宅ニテ作メリ。


(3)牽牛(ひこほし)は 織女(たなばたつめ)と
   天地の 別れし時ゆ いなむしろ 川に向き立ち 
   思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに 
   青波に 望みは絶えぬ 白雲に 涙は尽きぬ 
   かくのみや 息づき居らむ かくのみや 恋ひつつあらむ 
   さ丹(に)塗りの 小舟(をぶね)もがも 玉巻きの 真櫂もがも 
   朝凪に い掻き渡り 夕潮に い榜ぎ渡り 
   久かたの 天の川原に 天飛ぶや 領巾(ひれ)片敷き 
   真玉手の 玉手さし交(か)へ あまたたび いも寝てしかも
   秋にあらずとも(1520)

         大宰府の師、大伴旅人の屋敷で催された宴会の席での歌

(4)風雲(かぜくも)は二つの岸に通へども吾(あ)が遠妻の言ぞ通はぬ(1521)

     意味:風と雲は両岸の間を往き来するけれども
        遠くにいる妻の便りは私のもとに伝わらぬ


   礫(たぶて)にも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき(1522)

      天平元年(729年)七月七日ノ夜、憶良、天ノ河ヲ仰ギ観テ作メリ。
      一ニ云ク、帥ノ家ノ作。

     意味:つぶてで投げても向こう岸に届きそうな天の川なのに
        どうしても渡る術がない。


(5)秋風の吹きにし日よりいつしかと吾(あ)が待ち恋ひし君ぞ来ませる(1523)

     意味: 秋風(あきかぜ)が吹いた日から、いつかいつかと、
        私が待ち恋していたあなたがやってこられました。


   天の川いと川波は立たねども侍従(さもら)ひ難し近きこの瀬を(1524)

   袖振らば見も交(かは)しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(1525)

   玉蜻(かぎろひ)のほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは(1526)

      天平二年(730年)七月八日ノ夜、帥ノ家ニ集会フ。

(6)牽牛の妻迎へ船榜ぎ出(づ)らし天の川原に霧の立てるは(1527)

   霞立つ天の川原に君待つとい通ふ程(ほと)に裳の裾濡れぬ(1528)

   天の川浮津の波音(なみと)騒くなり吾が待つ君し舟出すらしも(1529)

   (http://manyo.hix05.com/okura/okura.tanabata.html

         <感謝合掌 平成28年7月13日 頓首再拝> 

七夕の歌(万葉集第八巻)~山上臣憶良 以外の歌 - 伝統

2016/07/15 (Fri) 18:48:32


(1)1544: 彦星の思ひますらむ心より見る我れ苦し夜の更けゆけば
     作者:湯原王(ゆはらのおおきみ)

   → http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu8_1544.html


(2)1545: 織女の袖継ぐ宵の暁は川瀬の鶴は鳴かずともよし
     作者:湯原王(ゆはらのおおきみ)

   → http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu8_1545.html

(3)1546: 妹がりと我が行く道の川しあればつくめ結ぶと夜ぞ更けにける
     作者:市原王(いちはらのおおきみ)

   → 【通釈】恋人のもとへと私が行く道中には川があるものだから、
         付目を結んでいるうちに夜が更けてしまった。


         <感謝合掌 平成28年7月15日 頓首再拝> 

天人女房 (昔話 熊本県 天草) - 伝統

2016/07/28 (Thu) 18:38:42


昔のこと。

天女さんが何人か連れ立って天から降りてきて、
美しい着物を川のほとりに脱ぎ捨てて水浴びをしていなさった。
そうすると、通りがかった若者がこれを見て、一番美しい着物を、そろっと隠してしまった。

そしてその辺に隠れて様子を見ていると、天女さんは次々上がってきて、
めいめい自分の着物を着ては天に舞い上がっていった。
ところが、一番美しい天女さん一人、自分の着物がないと言って、座り込んで泣いていなさった。

若者が何も知らぬげに出て行って、親切そうに訊ねると、
天女さんは、着物がなければ天に帰れないと言って大声で泣き出してしまった。

若者は気の毒になって、もういっそ出してやろうかとも思ったが、
あんまり天女さんが美しいので知らんふりをしていた。
天女さんは仕方なく、若者に付いてその家に行って、お嫁さんになりなさった。

若者の家には、犬が一匹飼われていた。
二人は睦まじく暮らして、一年経ち二年経ち、三年経った。

そこで若者は、もう着物を見せても天に昇ろうとはすまいと思って、あの着物を出してやった。
ところが、天女さんは嬉しそうに着てみたかと思うと、
そのまま天へ飛んで行ってしまいなさった。

若者は、どうかして天まで追って行きたいとと考えて、夜も眠れなかった。
そのうちに顔も青ざめて、病人のようになってしまった。

そこへ訪ねて来た人が、若者の様子を見て驚いて訳を訊ねた。
そこで若者は、始めから終わりまで話して聞かせた。するとその人は、

「一日百足の草履を作って、一本のへちまのぐるりに埋めれば、
一晩のうちにそのへちまが伸びて天に届く。それを伝って天に昇れ」
と教えて、姿を消してしまった。

若者はもう喜ぶの喜ばないの、すぐに草履を作り始めた。
ところが、やっと九十九足まで作ったところで、もう日が暮れてしまった。
そこで仕方なく九十九足の草履をへちまのぐるりに埋めておいたら、
一晩のうちにそのへちまが、それはそれは高く伸びていた。

若者は喜んで、すぐにそれを登り始めた。
そうすると、飼っていた犬も後からするする付いて登ってきた。

ところが、天まであと一歩というところまで来たら、
へちまがそこでおしまいになっていて、もう登れない。
草履が一足 足りなかったからだ。

けれども付いてきた犬がぴょいと天に跳び上がって、若者の方へ尻尾を下ろしてやった。
それで若者はそれに掴まって、ようよう天に登ることが出来た。

 その天女さんが七夕星で、若者が犬飼星になったんだそうな。


参考文献
『いまは昔むかしは今(全五巻)』 網野善彦ほか著 福音館書店

         <感謝合掌 平成28年7月28日 頓首再拝> 

天稚彦の草 - 伝統

2016/07/30 (Sat) 18:46:12

天稚彦の草子  昔話 日本

昔、長者の家の前で女が洗濯していた。
大きな蛇が現れて「我の言うことをきけ。きかなければ、巻きつくぞ」と言うので、
女が「何でしょうか。できることならなんでもお聞きします」と言うと、
蛇は口から手紙を吐き出して、「長者にこの手紙を渡せ」と言う。

手紙を持って行き、長者が開けてみると、
「お前の三人の娘を私に差し出さなければ、父も母も取り殺す。
この話を受けるならば、どこそこの池の前に十七間の釣殿を作れ。
我が身にはそれでも小さいが」と書いてある。

これを長者夫婦は読んで、泣くこと限りなかった。

長女を呼んでこのことを言うと、「そんなことごめんです」と言う。
次女に言えば、同じ返事をする。

末娘は一番可愛がっている子だったが、泣く泣く呼んで言うと、
「お父様とお母様を取り殺させるくらいなら、私がどうにでもなったほうがいい。
私が行きます」と言った。

不憫でたまらず、泣きながら送り出した。

蛇の言った池の前に家を作り、末の姫ただ一人を置いて人々は帰った。
亥の刻(夜十時)頃になっただろうか、風がさぁっと吹いて、雨はしとしとと降り、
雷鳴、稲妻が閃いて、池の中に波が高く立ったように見えた。

姫が生きた心地も無く、気も遠くなっていると、
十七間の家に入りきれないほど大きな蛇が現れて、言った。

「我を恐れるな。もし刀を持っているなら、我が頭を切れ」

恐ろしかったが、爪切り刀(つめきり。化粧道具として持っていた)で簡単に切れた。

切れた頭の中から直衣のうし(貴人の服)を着た、本当に美しい男が走り出てきて、
蛇の皮をまとい、姫を小唐櫃からびつ(物を入れる大きな箱。今で言うなら収納ケース)の
中に誘った。二人は一緒に寝て楽しく語らい、姫は恐ろしさも忘れ、
夢のような一夜を過ごした。

かくして、夫婦は仲良く暮らすようになった。
家にはあらゆるものが沢山あり、足りないものは無く、楽しさは限りが無い。
家来や召使も大勢いる。

ある日、夫が言った。

「我は実は海龍王である。だが、天にも昇ることがある。
このほど用事ができたので、明日あさって辺りに天に昇ることになった。
七日過ぎたら帰る。もし思いがけず帰ってこれなければ、二の七日(二週間)待て。
それより遅ければ三の七日(三週間)待て。
そうなっても帰らなければ、帰らないと思ってくれ」

「そうなったら、どうしましょう」

「西の京に女がおり、一夜杓いちやひさごという物を持っている。
それを手にいれてそなたも天に昇って来なさい。
それはとても困難なことだが、もしも昇れたなら、
道で出会った者に『天稚彦のいらっしゃる所はどこですか』と尋ねて来ればいい」

夫はそう言って、また「この、物の入った唐櫃は、とても大切だ。
如何なることがあろうとも開けてはならぬ。開ければ、我は二度と帰って来れないだろう」
と言い残して天に昇って行った。

さて、姉たちが、妹の幸せな様子を見ようと訪ねてきた。

「あなたはこんなに楽しい暮らしをしているのに、私たちときたら、怖がって損したわ」
などと言いつつ、いろんなものを開けては見て回り、「これは開けてはなりません」と言う
例の唐櫃を、「開けてよ、見たいわ見たいわ」と言い合う。

「鍵がどこにあるか知らないもの」と言うと、
「鍵を出しなさいよ、何故隠すの」と二人で妹をくすぐった。

鍵は袴の腰に結わいつけてあったのだが、くすぐられた拍子に
几帳きちょうに当たって音を立てたので、「ほら、あるじゃないの」と言って、
その唐櫃をあっさりと開けてしまった。

唐櫃の中には何も入っておらず、ただ、煙が空に立ち昇った。

こうして、姉たちは帰って行った。

三の七日待ったが、夫の姿は見えなかった。
姫は夫に言われた通りに西の京に行き、女から一夜杓を譲り受けた。

それは、地面に埋めればあっという間につるが伸びて天まで人を運ぶ、
魔法のひょうたんなのである。

姫は、(これに乗って天に昇ったら、もう帰って来れないでしょう。
私が行方知れずになったと聞いたら、両親はどんなに悲しむことかしら)と思うと、
とても悲しかったが、その心を振りきって天に向かった。

天に昇って行くと、白い狩衣を着た見栄えのよい男に会ったので、
「天稚彦のいらっしゃる所はどこですか」と尋ねると、
「私は知りません。次に会った人にお訊きなさい」と言って去って行く。

「あなた様はどなたでしょう」

「夕づつ(宵の明星)です」

次に、ほうきを持った人が現れた。さっきのように尋ねると、
「私は知りません。後から来た人にお訊きなさい。私はほうき星(彗星)です」
と言って通り過ぎて行った。

次に、集団に会った。またさっきのように尋ねると、今度もさっきのように答えて、
「私たちはすばる星です」と言って通り過ぎて行った。

(こんなことでは、尋ねあてることはできないのではないかしら)

姫は不安になり、心細くなった。
それでも行かねば、となおも進んで行くと、立派な玉の輿に乗った人に出会った。

これまでと同じように尋ねると、
「これより奥に行くと、瑠璃の大地に宝石の御殿が建っています。
そこに行って、天稚彦を訪ねなさい」と教えてくれた。

言われた通りに行って、姫は夫をたずねあてた。

あてどなく探し回った心の内などを聞いて天稚彦も心打たれ、

「我も辛く、そなたがきっと来てくれるに違いないと心を慰めていたが、
そなたも同じように感じていたのだな」

と、改めてお互いを確かめ合い、語らった。まことに浅からぬ縁である。

そして、天稚彦は言った。

「さても困ったことだ、どうしたものか。我の父は鬼なのだ。
そなたがここにいると聞けば、どうなることか」

「とても驚きましたが、あなたとはこんなにも心を尽くした仲なのです。
ここが嫌でも帰る所も無い身ですし、あるがままに受け入れましょう」

それから日にちが過ぎて、この親がやってきた。
天稚彦は、姫を脇息きょうそく(肘掛け)に変えて寄りかかった。
父鬼は本当に恐ろしい形相だ。

「娑婆しゃば(現世)の人間の匂いがする。臭いぞ」と暫くうろうろしてから帰った。
それからも度々来るようになったが、その度に天稚彦は姫を扇や枕にしつつ、
ごまかしていた。

父鬼はそれに感づいて、足音を忍ばせて、ふいにやってきた。
この時は天稚彦は昼寝をしていたので、姫を隠す暇がなかった。

「これは誰だ」と言うので、今となっては隠しても仕方がない。
ありのままに説明すると、父鬼は言った。

「わしの嫁にしよう。家の世話をする者に事欠いていたところだ。もらっていくぞ」

天稚彦は、(ああ、恐れていた通りだ)と思って悲しんだが、
父に逆らうことはできないので、姫を父鬼にやった。

父鬼が姫を連れて行って言うには、

「野に飼っている牛が千頭いる。それを朝夕世話しろ。
昼には外へ出し、夜には牛小屋に入れるのだ」

姫が天稚彦に「どうしましょう」と相談すると、自分の袖を解いて与えて、
「『天稚彦の袖、天稚彦の袖』と言って振れ」と教えた。
言われた通りに振ると、千頭の牛は勝手に朝には野に出て、夜には牛小屋に入る。

「これは不思議だ」と父鬼は言った。

次に、父鬼は「わしの蔵にある米千石を、すぐに別の蔵へ移せ。一粒も落とすな」と言った。
また袖を振って唱えると、アリが沢山出てきて、すぐに運んでしまった。
父鬼は算木で米を数え、「一粒足りない」と怖い顔をして、「絶対に探し出せ」と言う。

「探してまいります」と見て回ると、腰の折れたアリがヨロヨロと運んでいるのを見つけて、
喜んで持って行った。

次に、「百足の倉に入れてやれ」と言って、中に鉄の張られた倉に閉じ込められた。
百足といっても普通のものではない。一尺を超えるようなものが四、五千も群れ集って、
口を開けて食い付こうとしてくる。

目もくらむ心地ながら、また例の袖を振って「天稚彦の袖、天稚彦の袖」と唱えると、
百足は倉の隅に寄って近付いてこなかった。父鬼が七日過ぎて蔵を開けてみると、
姫はなんともない様子でいた。

今度は、蛇の城に閉じ込められた。
その時も前と同じようにすると、蛇は一匹も寄って来ない。
父鬼がまた七日過ぎて開けてみると、前と同じように無事に生きている。

どうしたものかと、姫を扱いかねてしまった。

「仕方がない。だが、天稚彦と元のように逢うのは、月に一度だけだぞ」と言ったのを、
姫は聞き間違えて「年に一度と仰いますか」と言ったので、父鬼は「ならば年に一度だ」と、
瓜を持って投げつけた。

瓜が割れると、そこから水が溢れ出して天の川となり、夫婦を隔てた。
それで、二人は七夕(織姫星)と彦星(牽牛星)となって、
年に一度、七月七日に逢うのである。


参考文献
『いまは昔むかしは今1 瓜と竜蛇』 網野善彦ほか著 福音館書店

         <感謝合掌 平成28年7月30日 頓首再拝> 

「七夕の歌」で知る万葉集、古今和歌集、新古今和歌集の違い - 伝統

2016/08/05 (Fri) 18:16:33


           *Web:古今和歌集のすごい秘密 より


まずは「万葉集」です。
万葉集は謎の多く残る歌集です。
編纂を命じた人物も分かっておらず、聖武天皇勅撰説や大伴家持の私選説もあったりします。

成立は西暦750年頃と言われ、少し前(といっても2~30年前)
日本最古の歴史書「古事記」「日本書記」が編纂されていますから、
日本という国家の基礎づくりに合わせて作られたことが分かります。

ただ、まだまだ中国文化の影響は大きく、万葉集の歌にもその傾向が大きく見て取れます。


2000「天の川 安の渡りに 舟浮けて 秋立つ待つと 妹に告げこそ」

   船を浮かべて君を待っていると、彼女(織女)に伝えておくれ


2007「ひさかたの 天つしるしと 水無し川 隔てて置きし 神代し恨めし」

   水のない天の川で私たちを隔てるという神代の決まりが恨めしい


2016「ま日(け)長く 恋ふる心ゆ 秋風に 妹が音聞こゆ 紐解き行かな」

   長く待ちわびたが、秋風に乗ってついて織女の声が聞こえたぜ~。
   さあ、紐をほどいてで行くぜ!


2022「相見らく 飽き足らねども いなのめの 明けさりにけり 舟出せむ妻」

   もっと長く逢っていたいけれども夜が明けてしまった。
   もう帰らなければならん(涙…


このように、中国伝来の七夕伝説のストーリーを忠実に、
牽牛、織女になりきって詠んだ歌が多いです。

そして我(男)は妹(女)にまっすぐな恋心を表しています。
前回お話しした「益荒男ぶり」ですね。

注目は2016「紐解き行かな」です。紐を解くつまり、服を脱いで素っ裸で行っちゃるぜ!
 ってな感じでしょうか。
このような露骨な表現は、古今和歌集などには決してみられません。

ちなみに万葉集の第10巻秋雑歌は全242首あり、そのなんと98首が七夕の歌です。
七夕伝説への関心が異様に高かったことが伺えます。

               ・・・

次は「古今和歌集」。
醍醐天皇によって905年に編纂されました。


173「秋風の 吹きにし日より 久方の 天の河原に たたぬ日はなし」(よみ人しらず)

  立秋の日から、天の川に風が立たない日はない


177「天の川 浅瀬しら浪 たどりつつ 渡りはてねば あけぞしにける」(紀友則)

  天の川の浅瀬を知らなかったので、渡ることが出来なかったら夜が明けちゃったよ~


181「今宵こむ 人にはあはじ 七夕の ひさしきほどに 待ちもこそすれ」(素性法師)

  今夜来る人には逢わない、だって織女のように長く待つようになるのはやだからね


このように古今和歌集の時代になると七夕伝説は消化しきっていて、
素直に詠むというより「とんち」を効かせた歌が主流になります。
つまり「技巧的」であり「理知的」であるのです。

また173では「秋風」に半ば強引に「天の川」が歌われていますが、
これは七夕の話より古今和歌集のルール(四季の配列の妙技)を優先した結果です。

ちなみに古今和歌集になると、秋上80首のうち七夕の歌は僅かに10首見えるのみです。
すでに中国文化への憧れは薄れていたのでしょう。

               ・・・

最後に「新古今和歌集」です。
新古今和歌集は後鳥羽院によって13世紀初頭に編纂されました。
時代は鎌倉時代ですが、平安文化が最後の大輪を咲かせた時代です。


316「袖ひぢて 我が手にむすぶ 水のおもに 天つ星合の 空をみるかな」(長能)

  私がすくった水に、天の二つの星が見えるよ


321「眺がむれば 衣手涼し ひさかたの 天の河原の 秋の夕暮れ」(式子内親王)

  眺めていると服の袖が涼しい、天の川の秋の夕暮れよ


327「七夕は 今や分かるる 天の川は 川霧たちて 千鳥なくなり」(紀貫之)

  七夕の星は今別れるのだろうか? 天の川に霧が立って千鳥が鳴いている


もはや天才的です。美しい象徴詩にため息しかでません。
そこに牽牛や織女の姿は全く見えませんが、
本歌や天の川、七夕という言葉から想起するイメージを背景に、
現実を超越した幻想的な情景を描いています。

これが新古今和歌集が「絵画的」といわれるゆえんです。

ちなみに327の作者である紀貫之はもちろん古今和歌集時代の歌人ですが、
新古今和歌集に採られる際には、新古今風の歌風が採られています。

         <感謝合掌 平成28年8月5日 頓首再拝> 

伝統的七夕 - 伝統

2016/08/07 (Sun) 19:21:11


                *Webより

<「伝統的七夕」の日>

太陰太陽暦にもとづく七夕を「伝統的七夕」と呼んでいます。

もともと七夕の行事は、7月7日といっても現在使われている暦ではなく、
旧暦など太陰太陽暦の7月7日に行われていました。
これは、月齢およそ6の月が南西の空に輝く夏の夜になります。

現在の暦での7月7日は、たいてい梅雨のさなかで、なかなか星も見られません。
そこで国立天文台では2001年から「伝統的七夕」の日を広く報じていくことにしました。

太陰太陽暦は、明治6年に現在の暦が採用されるよりも前の暦で、現在は公には使われていません。
このため、伝統的七夕の日は、太陰太陽暦による7月7日に近い日として、
以下のように定義します。

二十四節気の処暑(しょしょ=太陽黄経が150度になる瞬間)を含む日かそれよりも前で、
処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目が「伝統的七夕」の日です。

今年(2016年)の「伝統的七夕」の日は、8月9日。

伝統的七夕の日は梅雨明け後で晴天率は高く、月は夜半前には沈み、
その後は天の川がくっきりと見える観察条件となります。

国立天文台は、伝統的七夕の日にちなんで、
多くの人が暗い夜空に光る星と天の川を楽しめるよう、明かりを消して星空に目を向けよう、
と呼びかけています。

http://www.nao.ac.jp/faq/a0310.html


<伝統的七夕(旧暦による七夕)>

 → http://homepage2.nifty.com/turupura/month/08kyuureki/menu.html


<旧暦・月遅れに行う七夕を行う地域 >

秋田県湯沢市(七夕絵どうろうまつり)
宮城県仙台市(仙台七夕)
福島県いわき市(平七夕祭)旧平市地域
茨城県水戸市(黄門祭)
茨城県土浦市(キララ祭)
群馬県桐生市(桐生八木節まつり)
埼玉県狭山市(入間川七夕祭)
埼玉県小川町(小川町七夕まつり)
埼玉県ふじみ野市(上福岡七夕まつり)旧上福岡市地域。
千葉県茂原市(茂原七夕まつり)
東京都杉並区(阿佐谷七夕まつり)阿佐谷地域
東京都福生市(福生七夕まつり)
富山県高岡市(高岡七夕まつり)
石川県珠洲市(宝立七夕キリコ祭り)
岐阜県大垣市(七夕まつり)
愛知県安城市(安城七夕まつり)
愛知県一宮市(おりもの感謝祭一宮七夕まつり)
愛知県名古屋市(円頓寺七夕まつり)
三重県松阪市(松阪七夕まつり)
山口県山口市(山口七夕ちょうちんまつり)
香川県木田郡三木町(三木町いけのべ七夕まつり)
大分県大分市(大分七夕まつり)
神奈川県藤沢市慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(七夕祭)

   (http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6021503.html

七夕を8月7日にする地域

http://irotori-dori.net/636.html


         <感謝合掌 平成28年8月7日 頓首再拝> 

『秋天姫』 - 伝統

2016/08/08 (Mon) 17:39:11

『秋天姫』(あきそらひめ)

        *メルマガ「幸せを呼ぶ~夢の言の葉」(2016年08月08日)より

 ☆----------------------織女星の異名----------------------
 
 
 
 琴座のベガといえば、織女星(しょくじょせい)のこと。
 
 日本では、「織姫星」という名で親しまれてきました。
 
 
 
 じつは、ほかにも、さまざまな異名を持っています。
 
 
 その中でも、代表的な名前を七つ集めたのが、「七夕の七姫」です。
 
 
 「朝顔姫」
 「梶葉(かじのは)姫」

 「糸織(いとおり)姫」
 「蜘蛛(ささがに)姫」

 「秋去姫(あきさりひめ)」
 「百子(ももこ)姫」

 「薫(たきもの)姫」

 の七つ。
 
 ですが、「朝顔姫」「梶葉姫」「糸織姫」「蜘蛛姫」の次は、
 『秋天(あきそら)姫』
 「琴寄(ことより)姫」
 「灯(ともしび)姫」

 となっている書物もあります。
 
 
 
 旧暦七月七日といえば、立秋のころ。
 
 本来は、秋の行事でした。
 
 
 この時期は、暗くなると、織女星が天頂の中心近くで輝きます。
 
 
 そう思うと、『秋天姫』という異名が、ぴったりです。
 
 
 
 暦の上では秋とはいえ、まだまだ、熱気の残る、この時期の空。
 
 昔の人は、織姫の熱い想いのせいだと思って、見上げていたのかもしれません。
 
         <感謝合掌 平成28年8月8日 頓首再拝> 

七夕さま - 伝統

2017/07/06 (Thu) 18:57:18

明日は、七夕ですね。

七夕さま
 → https://www.youtube.com/watch?v=cke3Enf-r3o


作詞/権藤はなよ 補作詞/林柳波 作曲/下総皖一

笹の葉さらさら
のぎばにゆれる
お星さまきらきら
きんぎん砂子

五しきのたんざく
わたしがかいた
お星さまきらきら
空からみてる


<参考>
歌詞の意味
 → http://komimibanashi.com/403.html

         <感謝合掌 平成29年7月6日 頓首再拝> 

明日8月28日は、「伝統的七夕の日」 - 伝統

2017/08/27 (Sun) 19:42:08

明日は、平成29年の「伝統的七夕の日」

明日8月28日は、平成29年の「伝統的七夕の日」です。

現在使われている暦では伝統的七夕の日付は毎年変わりますが、
今年は8月28日です。

伝統的七夕とは、太陰太陽暦(いわゆる旧暦)の7月7日にちなんだ、
かつての七夕のことです。

この日の宵空には、七夕の星々が空高く昇り、上弦前の月が南西の空に輝きます。
日が沈んで空が暗くなったら、織姫星(おりひめぼし、こと座の1等星ベガ)と
彦星(ひこぼし、わし座の1等星アルタイル)、そして、夜空の暗い場所でしたら、
天の川を見ることができるかも知れません。

   (伝統的七夕 https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2017/08-topics01.html )

            ・・・

以下は、メルマガ「大和しうるわし」(2017年08月26日)からの紹介です。


28日は、旧暦の7月7日。
つまり、「伝統的七夕」です。新暦での七夕は梅雨時ですので、曇りが多いのですが、
旧暦の七夕は、星空がきれいに見える確率が高いのです。

宵の東の空に、織女星ベガと牽牛星アルタイル、はくちょう座のデネブを結んでできる
夏の大三角が見えるでしょう。
運が良ければ、ベガとアルタイルの間には天の川が見えるかもしれません。

一年に一度の再会を許された、織姫と彦星の話は、中国やギリシャ神話にもあります。
道案内はカササギです。

二人だけの力では、出会うことができません。
第三の力・はくちょう座のデネブの存在が必要なのです。
3つの力が結ばれた時、きっと大きなエネルギーになっていくのでしょう。


私たち日本人の数の数え方は「ひ・ふ・み・よ・・・」と数えます。
日本に住んで日本語を覚えた日本人は、
このようにして数えることをいつの間にか身につけます。

無意識に身についているということは、潜在意識の中にそれがあるということです。

「ひ・ふ・み」と3つの見えない力を結ぶことで、形になります。
「よ・い・む」、「な・や・こ」と変化をしていきます。

「こ」はコリコリと固まるということです。
凝る、凍るなどの漢字が当てはまります。
そして、コリコリと固まったものが「こころ」です。

最後は「と」です。
留まる・止まるなどで、物事の完成を表し、万物の中に霊魂が宿る意味です。
さらに、溶ける、解けるとすれば、新たな「ひ」を産み出すもととなります。

ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・ここの・と
またまた戻って・・・ひ・ふ・み・よ・・・・
これは良寛さんが子供に歌っていたものです。

七夕の節句は、「な」の節句です。
鳴る、成るの意味があります。
万物が音を立てて、成り立っていくのです。

いよいよ雷が音を立て、激しく鳴ります。
そして、稲妻は走り、稲に穂を実らせます。
「ひ」で始めたことが、「な」で成り立つ時を迎えます。

無事に実りの秋を迎えられますように・・・

         <感謝合掌 平成29年8月27日 頓首再拝> 

5色の短冊 - 伝統

2018/07/05 (Thu) 19:09:34

明後日、今週土曜日の7月7日は七夕(たなばた)の節句。

桃の節句や端午の節句と並ぶ五節句の一つです。
月遅れの8月7日に七夕祭りを行なうところも多いようです。

           ・・・

        *メルマガ「星のしずく」(2018年07月02日)より

♪笹の葉さらさら…。

【童謡】七夕さま
https://www.youtube.com/watch?v=q9SnsfC4SBk


歌詞5色の短冊での5色とは、
「青、赤、黄、白、黒(紫)」のことを指します。

元々七夕の由来となる中国の「乞巧奠」という行事で、
裁縫の上達を願う女性が針に5色の糸を通したものを飾る風習があり、
この5色は、中国の陰陽五行思想に由来するものです。

これが日本に伝わり、日本の和歌の文化の影響で、
5色の糸が5色の短冊へと変容しました。


子どものころ、この童謡を歌いながら
願い事を書いた短冊を笹の葉につりさげたり、飾り付けをした
思い出のある人は多いと思います。

あるいは、お父さん・お母さんになってから
子どもと一緒に飾り付けを楽しんでいる人もいるでしょう。


夜には星空を見上げて

「織り姫」と「彦星」を探し

「ふたりは今年も無事逢えたのかナ…」

なんて思いを馳せる。

そんなロマンチックな七夕まであと2日。


そんな誰もが知る行事「七夕」ですが
笹にかざる5色短冊には、色にふさわしい願い事があります。


(1)赤色の短冊

   礼(礼節)を表すことから
   父母や祖先への感謝の気持ちを書くとよいと言われています。

   両親の健康や長寿を願うときには赤色の短冊を使います。

(2)白色の短冊

   義(義務や決まり事)を表すことから
   自分自身への誓いを書くとよいと言われています。

   禁煙やダイエット、ウォーキングなど
   三日坊主で終わらせないためには白色の短冊を使います。

(3)黄色の短冊

   信(信頼)を表すことから
   人間関係をよくするための願い事を書くとよいと言われています。

   「親友との仲がずっと続きますように」
   といった願い事を書くときには黄色の短冊を使います。

(4)緑色の短冊

   仁(仁徳)を表すことから
   自分自身の内面の成長を願う気持ちを書くとよいと言われています。

   「くよくよしてしまう性格がなおりますように」
   など、自分を改めたいときには緑色の短冊を使います。


(5)紫色の短冊

   智(智力)を表すことから
   学業の成就や知識の向上を願う気持ちを書くとよいと言われています。

   学校の成績アップや、試験合格を願うときには紫色の短冊を使います。


短冊は折り紙を使うと便利です。

今年の七夕は、願い事にふさわしい色の短冊に書いてみてはいかがでしょうか。


         <感謝合掌 平成30年7月5日 頓首再拝> 

七夕、朝顔市、「七夕そうめん」 - 伝統

2018/07/06 (Fri) 18:21:21


明日は「七夕」というこの時期、
東京の下町・入谷では恒例の朝顔市が行われています。
 (http://tomboykosodate.com/archives/2408.html

昔の中国では朝顔の種が漢方薬として使われ、
牽(ひ)いてきた牛との交換で取引されるほど高価なものでありましたので、
「牽牛子(けんごし)」と呼ばれていました。

七夕の彦星が、牛を牽く者(牛飼い)という意味の「牽牛(けんぎゅう)」
と呼ばれることや、時期も重なることから
七夕と同じ頃に朝顔市が開かれるそうです。


また、明日は「七夕」であると同時に「乾麺の日」でもあります。
その昔、七夕に素麺を食べると大病にかからないとの言い伝えから
素麺(そうめん)を天の川にみたてて食べる風習が「乾麺の日」の
由来となっています。


 正月十五日(上元・小正月) 七草粥

 三月 三日(上巳の節句)  桃花餅

 五月 五日(端午の節句)  五色粽(ちまき)

 七月 七日(七夕の節句)  索餅(さくべい、素麺の原型)


上記をもって歳時とされ「七夕そうめん」として今に伝わります。

 
七夕の行事は、織物などの女子の手習い事などに長けていた織姫にあやかり、
手習い事の願掛けとして広まった経緯があり、細く長い素麺を糸に見立て
裁縫の上達を願ったとも言われます。

 
ところで、明日は「小暑」で暑中入りとなり、暦の上では夏本番を迎えます。
時候のあいさつは、梅雨明けを待って「暑中御見舞」となります。

・・・

短冊に書かれた願い事


    *Web:TRiP EDiTOR (2018/07/04)
         → https://tripeditor.com/340984

     Web:MAG2NEWS(2017.06.29)
         みんな欲張りすぎ。七夕短冊の願いごとまとめ@大崎駅
         → https://www.mag2.com/p/news/254879/

         <感謝合掌 平成30年7月6日 頓首再拝> 

谷口雅春先生の和歌より - 伝統

2018/07/07 (Sat) 20:32:44

谷口雅春先生は、「星」と題して次のような和歌を詠んでおられます。


 牽牛は 淋しからずや 天の川

      へだてて徒に 織女星恋ふ

            (『生長の家五十年史』 昭和44年 星 )

         <感謝合掌 平成30年7月7日 頓首再拝> 

七夕の願い事は、短冊の色を変えるべし - 伝統

2019/07/07 (Sun) 19:24:59

 
       *Web:SPA(2019.07.07)より

日本の寺社仏閣にも、それぞれ違った「ご利益」がある。
同じように五行の木・火・土・金・水にも、それぞれに意味が配されている。

五行のうち、木を表す短冊は青(もしくは緑)で、
伸びるものや成長するものをあらわす。
そこで「子供の成長」や「昇進出世」の願いに最適だ。


火は赤で、情熱や活力をあらわしているので、
「恋愛成就」や「活躍の場が欲しい」といった願いに向いている。


土は黄色で、安定や維持をあらわし「家内安全」の願いにピッタリだ。

 
金は白で、勝負や洗練を表すので「金運アップ」や「勝利祈願」を願う人が書くと良い。

水は黒(もしくは紫)で、柔軟さや清純さを表す。
そこで「転職」「引っ越し」など変化した安寧の願いに適しているとされる。

つまり、これまで特に意識することなく好きな色の短冊に願い事を書いていた
という人も、見合った色の短冊に書けばその効果アップが期待できるというわけだ。

  (https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190707-01585987-sspa-soci&p=1 )

         <感謝合掌 令和元年7月7日 頓首再拝> 

七夕(たなばた) 意外に知らない「ニッポン入門」 - 伝統

2020/07/06 (Mon) 23:35:00


      *Web:nippon.com(2020.07.03)より抜粋

織り姫とひこ星が年に1度、天の川を渡って逢うことを許される7月7日の七夕。
例年であれば、この時期、各地でさまざまな七夕まつりが開催されるが、
今年は新型コロナウイルス感染症対策のため多くが中止に追い込まれている。


(1)七夕は、中国から伝わり、古代から日本の宮廷で祝われた「五節句」の一つ。

(2)年に1度の逢瀬

   中国では古くから織女星(西洋の星座でこと座の1等星ベガ)は
   養蚕や針仕事をつかさどる星、
   牽牛(けんぎゅう)星(わし座の1等星アルタイル)は農業をつかさどる星とされ、
   天の川をはさんで輝く2つの星にまつわる伝承がいくつも生み出された。

(3)現在の七夕は、天の川に隔てられた2人の恋物語に、
   同じく中国から伝わってきた7月7日の「乞巧奠(きつこうでん)」の行事や、
   日本古来の棚機津女(たなばたつめ)の伝説が融合したと考えられている。

(4)新暦と旧暦の七夕祭り

   日本では、明治時代の1872年に太陽暦(西暦)を採用したが、
   今でも伝統行事を季節にあった旧暦(太陰太陽暦)に従って行う地域は多い。

   「日本三大七夕祭」といえば、「仙台七夕まつり(宮城県)」、
   「湘南ひらつか七夕まつり(神奈川県)」、「安城七夕まつり(愛知県)」だ。

   また、6日間で300万人が訪れるという「ねぶた祭り(8月初旬、青森県)」も、
   もともとは七夕の夜に海や川で穢(けが)れをはらうため、
   灯籠を流したのが始まりといわれている。

   新型コロナ感染症の収束が見通せない今年は、
   残念ながら日本三大七夕祭りやねぶた祭の他にも
   多くの七夕イベントが中止に追い込まれている。

   安全に祭りを楽しめる日が来るように、
   祈りをささげて7月7日の天の川を仰ぎたい。

   (https://news.yahoo.co.jp/articles/c1a8a64676993aa49906b8841cc52dd5c949e005

         <感謝合掌 令和2年7月6日 頓首再拝> 

「七夕伝説」の教訓とその後の誰も知らない物語 - 伝統

2020/07/07 (Tue) 23:08:40


         *Web:今日も良いことがあるように(2019/07/03)より

七夕の伝説(一般的な話)
昔々、天の川の東に、織物を織るのがとても上手で美しい織姫がいました。

しかし織姫は年頃になっても、化粧もせず遊びにも行かず、
織物ばかりをし続けるので、織姫の父である天帝(星の神様)は
かわいそうに思い、婿探しを始めます。


一方その頃、

天の川の西には真面目に働く牛飼いの青年、彦星(ひこぼし)がいました。

天帝は彦星に「ぜひ、娘と結婚してくれ」と願い出ました。

彦星はその話を有り難く受け、ふたりは結婚することになりました。


ところが、結婚してからというもの、あれだけ一生懸命に働いていたふたりは、
毎日天の川のほとりで話をするばかりで全く働かなくなってしまったのです。

怒った天帝はふたりを引き離し、

「前のようにしっかり働くのなら、年に一度、7月7日の夜だけは会ってもよい」

と告げたのです。

こうして、ふたりは別れ別れに・・・。

7月7日に会えるのを楽しみに、また一生懸命に働き始めました。

しかし、7月7日に雨が降ると川の水かさが増して川を渡ることができません。

すると、どこからかカササギという鳥の群れがやってきて
天の川の中に翼をつらねて橋となり、ふたりを会わせてくれるのです。



《七夕の伝説からの教訓》

この話を受けて、子どもには、
「仕事や勉強を怠けるのはよくないから、一生懸命やろうね」など、
という教訓を伝えることになっているそうです。

しかし、私は、子どもの頃に思ったものです。

「互いに好きなのに、年に1回しか会えないのは、かわいそう」

「神様、あまりにも厳しいんじゃないの?」

と、今でもそう思っています。

あなたも、そう思いませんか?

もし、私のように思う人がいたら、この伝説の続きの物語をご覧ください。


《七夕の伝説(その後の誰も知らない物語)》

織姫と彦星は、陰で泣いていました。

再び一生懸命に働き始めましたが、
愛する人と会えない悲しみと寂しさを忍びながらのことです。

そんな辛い日々が何年も続いたある年の7月7日、
織姫と彦星は意を決して、天帝に涙ながらに頼みました。

「お父さん、私たちは、あれから反省して、真面目に働くように心がけました。
もう新婚のときのように浮かれて、仕事を怠けるようなことは決してしません。
どうか、もう一度、ふたりで暮らせるように許してください。お願いします。」

天帝自身も、日々、やつれていく娘の様子に心を痛めていたので、
ふたりの願いを聞き入れることにしました。

こうして、ふたりはまた天の川のほとりで、
仲良く幸せに暮らし、可愛い子宝にも恵まれました。

以来、織姫と彦星は、年に1度、7月7日には、
特別にまばゆく輝き、天空いっぱいに感謝の気持ちを表しています。

めでたし、めでたし

・・・・・・・・・・・

この話は、伝説ではありません。

私の創作ですから。(笑)

7月7日を、願いのかなう感謝の日にしたいです。(^.^)

  (https://lucky.t-nakai.work/2019/07/03/story-85/ )

         <感謝合掌 令和2年7月7日 頓首再拝> 

星のちから - 伝統

2020/07/11 (Sat) 23:28:12


      *メルマガ「大和し」(2020.07.09)より

7月7日は七夕ですが、毎年梅雨時と重なるので、
織姫と彦星も確認することができません。

旧暦の七夕は梅雨が明けていますので、
本当は七夕を感じるのは旧暦の7月7日のほうです。


旧暦の七夕は8月25日です。

今年は東京オリンピックが開幕する日でした。

きっと空には満天の星が輝いていることでしょう。
夜空を見上げるのが楽しみです。

旧暦の七夕の頃、南の夜空には「夏の大三角形」が見えます。
一等星の3つの星は力強く輝いているので、肉眼でも確かめることができます。

天の川を挟んで、こと座のベガと、わし座のアルタイルが見えます。
ベガは織女で織姫の星です。一番大きく輝いているように見えます。
そして、アルタイルは牽牛で、彦星です。これも強く輝きます。

そして、天の川の中に光っているのが白鳥座のデネブ。
中国でカササギといわれている星です。
織姫と彦星をむすぶ役目をしています。

もしも、雨が降って天の川の水かさが増していれば、
49羽のカササギが天の川の両岸をつなぐ橋になって、
二人を会わせてくれるというのです。

49羽とは、7×7のことです。

七夕にはこのような物語があります。

夏の夜空に、大三角形を見つければ、この物語を思い出します。
もし、子供と一緒に夏の大三角形を見つけたならば、
この物語を伝えることも大切なことです。

今私たちが見ている星空は、2000年以上前の日本人も見ていました。

星を見ることで、物語が生まれ、星に自分の願い事を伝えることをしてきました。

願い事が叶うことはあまりないかもしれません。
しかし、自分の未来に対して期待することで、夢は膨らんでいきます。
わくわくした夢を見させてくれることで、何か力が湧いてきます。

星空を見ていると、現実を忘れます。
直面している問題が小さなことのように思えてきます。
「くよくよしても仕方がない」とスッと心が軽くなります。

そして、前に進む意欲も出てくるのです。


織姫と彦星は一年に一度だけ出会うことを許されています。
それが七夕の日です。
二人の間に何か大きな障害があっても、カササギは二人を会わせてくれます。

どうしてもこの日に会いたい、
そう強く願っていれば、このような奇跡は起こるのです。
諦めなければ、夢は叶うということを、夏の夜空は教えてくれます。


7月になると、明けの明星が見えます。
日の出前の東の空に、金星が明るくそして力強く輝いています。

宵の明星が日暮れの西空に見えているのに対して、
「明けの明星」は7月から冬にかけて東の空に出ます。

明けの明星は、どんどん昇っていきます。
日の出の勢いとともに、強く輝きながら昇っていきます。

梅雨の合間に明けの明星を見つけることができたら、きっと幸運が訪れます。
日の出の空が、晴れることを願っています。
星には見えない力が宿っています。

         <感謝合掌 令和2年7月11日 頓首再拝>

Re: 七夕 - zbkpkemldoMail URL

2020/08/29 (Sat) 22:00:33

伝統板・第二
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