伝統板・第二

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”善”のみ実在する② - 伝統

2016/07/04 (Mon) 04:45:40

    *伝統板・第二「”善”のみ実在する①」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6495764

《悪の存在を否定する祈り》

           *『真理の吟唱』(P132~135)より

私は今、〝神の子〟であるという自分の「実相」を悟ったのである。
また私はこの世界は〝神の国〟であるというこの世界の実相を悟ったのである。
もし不完全なありさまが見えるならば、それは単に幻に過ぎないのである。

〝不完全〟ではなく〝悪〟は本来存在しないのである。

想念は動力であり、善き事を想えば善き事があらわれて来、
悪しき事を想えば悪しき事が現われてくるというのは一応、心の法則として真理である。

しかし悪しきことがあらわれるのは幻のあらわれる法則に過ぎないのであって、
悪しき事を想えばとて、悪しきことが〝真実の存在〟としてあらわれてくるのではないのである。

悪しき事物は本来存在しないのであるから、どこどこまでも、それは非存在であって
あるかの如く見えているに過ぎないのである。

それは映画の画面に、人間が病み且つ死んだようにあらわれて見えようとも、
実際の映画俳優は元気溌剌として生きているのと同じように、

あなたが如何に不健康に見えようとも、この世界が如何に不完全に見えようとも、
その不健康も、その不完全も、実は存在しないのであって、
元気溌剌たる人間が完全円満な世界に生活しているのである。

悪しき想念は悪しき事を造る力があるなどと考えてはならないのである。
悪しき想念はただ悪しきものを幻にして見せるだけの事である。

その事を「法華経」の如来寿量品の自我偈には、
「衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此土は安穏にして天人常に充満せり
・・・・・我が浄土に毀れざるに、而も衆は焼け尽きて、憂怖諸々の苦悩是くの如く
悉く充満せりと見る」というふうに説いているのである。

大火に焼かれる悲惨な状態は見えているといえども、それは「無い」のであり、
単なる幻であって、実相の浄土の安穏な相のみが真に実在するのである。

善き想念は実在の世界に根を張っているから積極的な力であるが、
悪しき想念には悪しき事物をつくるような積極的な力は無いのである。

悪しき想念そのものが「無」であり、実在ではないのである。
実在でないところの〝悪しき想念〟が〝実在する悪〟をつくることができないのは
当然のことである。

夢の中に悪しき事を見るといえども、覚めて見れば、その「夢の中の事物」もなければ、
その「夢見ていた心」も存在しないのと同じように、「悪しき想念」も、
「悪しき想念があらわした悪しき事物」も覚めて見れば存在しないのである。

私は今、すべて「悪しき想念」も、「悪しき事物」もただ、夢中の夢幻的現象に
過ぎないと知るがゆえに、心、平和であり、調和であり、大安心のもとに生活するのである。

この深き真理を知らしめ給いし神に甚深の感謝をささげ奉る。

ありがとうございます。

・・・

<関連Web:光明掲示板・第一「”善”のみ実在する (6016)」
        → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1126 >

           <感謝合掌 平成28年7月4日 頓首再拝>

善なる神への信 - 伝統

2016/07/09 (Sat) 03:30:13


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月9日>(P13~15)より

困難を避けて遊惰(ゆうだ)を喜ぶようになったとき、その民族の衰退は始まる。

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、今が、そしてその状態が自己の魂の進歩
にとり最善の時であり、最高の機会なのである。われわれがわれわれ自身を見出すところの
今の環境が、その時と処においてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、事務所で働くこと、
病める隣人をまたは親類縁者を看護することなどは散文的な、あまり馨(かんば)しからぬ
ように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、神に対する義務の
ごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく忠実に行なうことは、その人の魂に与えられた
日課を果たすということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、また生活がわれらに齎(もたら)し
たるところのすべての位置において全力を尽して試みることは、
魂の向上の道に入るための日々の課業であるのである。

人から見て目覚しい仕事を為すということは、それはすでに報いを受けたのであるから、
それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。
されば、自分の善を誇ってはならないし、またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

無限者なる神に信頼さえすれば、すべての悩みよりわれわれは保護され、
あらゆる場合の危険よりわれわれは守護されるのである。

さらにまた、すべての供給は神より来たるのであるから御心を行じていてわれらは決して
乏しきことはありえないのである。神は唯一の本源であり、われらの求めるすべてのものを
豊かに与え給うているのである。

われわれがもしこの高き意識のうちに生活するならば、すべてはよくなり自己に来る
すべての事件は最初はいかに見えても好転するほかはないのである。

いさ、読者諸君よ、常に次のごとく念ぜよ。

「神は吾と偕(とも)なればわれは大いなる力とともにあり、
神はわが護りなれば、たれか吾に逆(さか)らうものあらんや。」

常にこの信念を把握して、神に対して任せるとき、荊棘(いばら<けいきょく>)は
切りひらかれ、道なき所に道を生じ、砂漠に花咲き、
豊かなる富の恵みは噴泉(ふんせん)を成して湧き出ずるであろう。

            <感謝合掌 平成28年7月9日 頓首再拝>

適時、適所、適人 - 伝統

2016/07/25 (Mon) 04:12:05


           *「光明法語」(7月25日)より

生長の家は毒物を食しながら、心で「これは毒物ではない、栄養食品である」と
思念しながら食べたら、毒が変じて栄養となると云うのではない。

心が完全に働けば、本来食物でない物(毒物と仮に称す)を食べなくなるのである。
そして食物の分量や質の配置なども適当となり、すべてが《ある》べきところに
《ある》ように適当におかれると云うのである。

神の創造には、一物も「悪い物」はないのであって、悪く見えるのは、
それを置く場所と時と人とが適当でないからにすぎない。

            <感謝合掌 平成28年7月25日 頓首再拝>

心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない - 伝統

2016/08/06 (Sat) 03:28:01


         *「光明道中記」(8月6日)より

【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】

「世界に非道が充ちていると云うことは、歴史と同じようにそれよりも更に古い文学さえも
同じように、否あらゆる文学中の最も古きものなる祭司の宗教と同じように古い嘆きである」
とカントは言っている。

けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。

それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも存在する限りは
それは「善」であり、それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように
見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」をあらわしているに
過ぎないとするのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)
から身体(しんたい)が健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、人間をその本性上から
精神的にも健全にして善なりと見做してはならない理由はない」と言っている。

すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。
釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。

凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。

           <感謝合掌 平成28年8月6日 頓首再拝>

善のみを視る - 伝統

2016/08/07 (Sun) 04:38:56


         *「光明道中記」(8月7日)より
         
 【環境と心とは合せ鏡のように互いに影響し合う。(『生命の實相』第一巻)】 

今日いちにち自分の前に立つ人を、必ず善人であると信ぜよ。如何なる不快なる
相(すがた)をもってあらわれようとも、その不快なる相は、現在又は過去に於て
自分のどこかに潜(ひそ)んでいた不快な心の反映であると信じて自己を省みよ。

そして相手の奥にある真実相を見て敬し、礼し、拝め。

自己には峻厳であり、他には寛大であれ。
自己に峻厳で、他に対して寛大なのは、自己は峻厳に耐え得る強さがあり、
他は峻厳に耐え得る強さがないと思い上がるからではない。

人は既に完全であるのに、その完全なる相が自分の眼(まなこ)に映じないのは、
自分の心の眼が曇っているのであるとして、責任を自己に帰し、
自己の現在の愚かさから自分自身を脱却せんがためである。

人の悪を指摘して改心せしめようとする場合には腹立った声、憎む表情
── そんなものを伴うならばこれを指摘しない方が好い。

相手のために倶(とも)に泣き得る底(てい)になったときのみ、
相手の悪を指摘してもそれは「咎められている」と云う感じを得ないで
相手を改心せしめ得るであろう。

人間は「咎められている」と云う感じを持ったとき、
魂を閉じて全く相手の忠告を受けないのである。

          <感謝合掌 平成28年8月7日 頓首再拝>

《適材適所が善である》 - 伝統

2016/08/16 (Tue) 03:40:46


      *「生長の家」(昭和25年6月18日の法語)より

   すべては よきものであるが
   神の智慧が

   その善きものが あるべき所に
   あるべき様に あらしめる様に、働かないから、
   そこから悪の姿がわきおこって来るのである。

   正しき所に適当なるものを正しき様に置きさえすれば
   今まで悪と見えていたものも善に変わってしまうのである。
   
   適材適所が善である。

   人間を殺す劇毒剤の砒素(ひそ)でさえも
   適当な分量で適当な方法でそれを使えば、
   強壮剤ともなり黴(ばい)毒の治療剤ともなるのである。

   適当なる智慧とは
   神の智慧である。

   神の智慧をよびだして来るためには
   神想観をすることが必要である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

          <感謝合掌 平成28年8月16日 頓首再拝>

《ただ美点のみ見る》 - 伝統

2016/08/28 (Sun) 03:56:41


           *『 生長の家 』(昭和26年6月11日の法語)より

   今日、自分は決して悪しき事を考えないのである。
   自分は唯(ただ)、善き事、快き事のみを考えるのである。
   決して人を非難することを考えないのである。

   人の美点のみを見るのである。
   美点を見る心は美点のみを引き寄せることを知るからである。

   神の智慧は、美点を見る心に引き寄せられて、
   吾が行く道を照らし給うのである。

   神の愛は、美点を見る心に引き寄せられて、
   すべての人々の感情に柔ぎと調和とを与えたまうのである。

   何物も神の智慧と愛との合奏するところに不可能はないのである。

   如何に現象的に行き詰っているかの如(ごと)く見えようとも、
   神の智慧と愛とは道を見出させて下さるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

          <感謝合掌 平成28年8月28日 頓首再拝>

《総ての体験は善である》 - 伝統

2016/09/09 (Fri) 03:57:02


          *「生活と人間の再建」第17章(P216~217)より

我々は人生の行路に於いて、時々は予想外の出来事にぶつかり、
失望や、困難や、見せかけの損失に出会うことがあるであろう。
併しながらこれは決してその人の魂の進歩にとって悪ではないのである。

何故ならば、唯一の善は、魂の進歩のみであるからである。

我々がそれらの体験する困難を困難として受けずに、それを祝福して感謝して受け、
それと協調して生活するならば、一見困難と見えるものが、極めて善なる結果をもたらし、
一層高く一層善きものに転ずる飛石(とびいし)となるのである。

斯くの如くして神に結ばれている限り、我々は人生には何ら悪は起こらないということを
見出し、唯(ただ)善のみを見ることが出来るのである。

併しこのためには常に神に祈り、神想観をし、神の智慧の導きを受け、
自己に来たる経験を神からの祝福として感謝して受けなければならない。

          <感謝合掌 平成28年9月9日 頓首再拝>

《想念の実現力を応用せよ》 - 伝統

2016/09/21 (Wed) 03:55:51


         *『生長の家』(昭和25年8月3日の法語)より

   散乱した想念は 実現力が少ないのである。

   不幸なことには、普通の人間は 何でも悪い事の方へは
   想念を集中して 繰り返し想うものである。

   「 悪いことは、起りはしないか 」 と繰り返し繰り返し一方的に
   その方に想念を集中する。

   恐ろしいものほど想い出すのである。
   だから悪いもの、恐ろしいものほど一所懸命に想われて
   それが実現するのである。

   「 善いことは起りはしないか 」 と心を集めて心配する人は少ない。

   恐ろしいものを想い出すのと同じほどに
   「 善い事 」 を始終 想い出すならば
   其の人は 屹度(きっと)善くなるばかりである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

          <感謝合掌 平成28年9月21日 頓首再拝>

《悪の存在を信ずるは神に対する不信である》 - 伝統

2016/10/06 (Thu) 04:44:28


        *『 生長の家 』(昭和23年9月16日の法語)より

   誰かが自分に危害を加えるかもしれぬと考える様なことでは
   神を信ずるものではないのである。

   この世界に悪が存在すると信ずるようでは
   神を信じていると云うことは出来ないのである。

   神のみが実在であると云うこと、
   そして神は全能であること、
   そして神は善であるから、

   善の力はその全能力によって宇宙に遍く遍満して
   悪の存在を不可能ならしめている筈である。

   それだのに悪の存在を、災禍の存在を信ずるのは、
   まことにも神の善と全能とを信じないものだと云わなければならぬ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

          <感謝合掌 平成28年10月6日 頓首再拝>

実相皆善 - 伝統

2016/10/22 (Sat) 04:46:26


     *『生命の實相』第27巻久遠仏性篇上(P127~P129)より


知れ、事実というは実相のみであるのである。

だから実相の実在のみを強調し
「弱きものは無し、完からぬもの無し」と、いっさいの悪を空(くう)じ去って、
しかして「一切皆善の実相的事実」のみを肯定するとき、

われらは現象的事実をも征服しえて、「われらは弱し、われらは完からず」と
現象的事実に征服された弱音を吐く必要がなくなるのである。

生長の家はかく「実相皆善」のみを強調して、
「現象は無なり」と現象的不幸一切を空じ去る。
さればこそ現実を征服する現実的威力を発揮するのである。

(中略)

われらは現象界無しと自覚するがゆえに、無きものは混同するの恐れなきがゆえに、
われらはただ常に本体界の完全性のみを主張するのである。

その結果、本体界の完全性がそのまま現象界に投影して、
現象界の不幸を征服することができるのである。

(中略)

生長の家の思想が、かく素晴しい現実人生の支配力を有しているのは、
主として「現象無し」とスカッと截(た)ち断り、

実相独在を明快に斬然(ざんぜん)と主張しているからであるのである。

            <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>

神は善であると信ずること - 伝統

2016/11/04 (Fri) 04:06:05


         *「苦難と恐怖の克服法」第8章(P380~381)より

世界の根源が神であり、神が善であるとわかりましたならば、
そして神のみがすべての渾(すべ)てであるとわかりましたならば、
世の中に悪意ある対立等はあり様がないのであります。

「敵がない」と云う人生観にならなければなりません。
「敵がある」と云う人生観に立っている限り、自分の妄想によって、
「敵」を描き、描くが故に

その「敵」が現実にあらわれ、
ついにその敵のために敗北せしめられると云うことになるのは、
太平洋戦争の実例によって明らかなことであります。

「敵」だと思えば、敵でないものが敵として現れてまいります。
すべての存在は「敵」ではない。
「善意」と「愛」とをもって吾々に何かを互いに貢献し協力すべく
与えられているところの存在であると信じ、

現実に「敵」とあらわれていましても、それは敵ではないとして
「実相」の善を信頼して厚遇していますと、
味方となってあらわれて来るのであります。

敵があると信じ、不調和が存在すると信じ、それに対して身構えすることは、
神の善とその無限力とを信じないところの神に対する不敬の罪だと
言わなければならないのです。

            <感謝合掌 平成28年11月4日 頓首再拝>

《ただ善事のみを数えよ》 - 伝統

2016/11/17 (Thu) 03:44:36


       *『幸福を招く365章』第10項(P220) より

人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。
小さな過ちを拡大鏡で見て増大するような事を避けよ。

善事はどんな小さな事でもこれを拡大して見、そしてそれを賞め語れ。

さらば他(た)の人々も諸君の過ちを見のがし、
諸君の善事を看過(みのが)さないであろう。

それが心の法則である。

他人に辛(つら)くするときには自分も亦辛くせられ、
他人に寛大である者は自分も亦寛大に取り扱われるのである。

人が自分の対して冷酷だと思う者よ。
他(ひと)を怨むまでに、自分が他に対して冷酷でなかったかを反省して見よ。

そして今まで非難していた人々を赦せよ。


(初出は「生長の家」昭和26年7月14日の法語)

            <感謝合掌 平成28年11月17日 頓首再拝>

悪いことは何一つ存在しない - 伝統

2016/12/03 (Sat) 04:46:17


         *『幸福を招く365章』第10項(P220~221) より

《月が円満な如く人間は円満である》

この世界は 愛の神の造りたまえる世界であるから、
そんなに争闘の満ちている世界ではないのである。

吾々は 決して外界の誰とも戦っているのではないのである。
吾々の戦っているのは 自分自身の心に対してである。

自分自身の心を克服することによって 外界が克服されるのである。
この世界は 神の創造し給(たま)える世界であるから
悪いことは何一つ存在しないのである。


それはたとえば円満なる満月の如くである。

それが曇って見えるのは、満月そのものが曇っているのではなく、
雲が曇っているのを 月が曇っていると間違えているようなものである。

実相は永遠に曇らないのに、
人間の心が曇って 実相が曇ったように見えるに過ぎないのである。


(初出は「生長の家」昭和26年7月15日の法語)

            <感謝合掌 平成28年12月3日 頓首再拝>

《無きものを無きものとせよ》 - 伝統

2016/12/17 (Sat) 04:03:34


          *『幸福を招く365章』第12項(P243) より

君は神を肯定するか。 病いを肯定するか。
これが先ず、諸君の運命を決定するのである。

目に見えざる神を信ずるか。
目に見ゆる五官的存在を信ずるか。
二者択一の問題である。

神のみが実在であり、神の世界のみが実在であるから
そして神は善であるから、実在の世界に悪は存在しないのである。

実在の世界に於ては苦痛は存在しないのである。
病気は存在しないのである。
迷いの心も存在しないし、苦痛を感ずる感覚も存在しない。

般若心経の「五蘊皆空」であり、眼耳鼻舌身意無(なし)である。

唯(ただ)あるものは実相のみ、彼岸のみ、極楽のみである。

(初出~「生長の家(昭和26年10月5日)」)

           <感謝合掌 平成28年12月17日 頓首再拝>

存在の実相は唯”善”のみである - 伝統

2017/01/04 (Wed) 05:00:15


        *「愛はかくして完成す」(P60~61)より

神は物質でもなく、肉体でもなく”霊”であり給う。

「”霊”とは”心”のエッセンスみたいなものだと思えば好い」と
『真理の吟唱』の中に書かれているのである。

”霊”より生まれた者は”霊的存在”であるから、
一切の存在は”霊的存在”であり、人間もまた”霊的存在”であるのである。

霊は神通無礙、融会(ゆうえ)無礙であるから、衝突したり、障礙(しょうがい)に
出会(でくわ)したりすることがないから、どこにも不調和は存在しないのである。

それ故に天地創造を描いた旧約聖書の「創世記」の第1章には、
「神、その創造(つく)りたるすべてのものを見給いけるに甚(はなは)だ善かりき」
と書かれているのである。

即ち神のつくり給える”霊的実在の世界”には”悪”は決して存在しないのである。
また神がその全能の力にて一度”善”に創造し給うたものは、その後、
何者の力をもってしても、それを”悪”に変ずることはできないのである。

それ故にこの世界には今も”善”のみが存在するのである。
それが存在の実相であるのである。

これを「善一元の世界」と呼ぶのである。


           <感謝合掌 平成29年1月4日 頓首再拝>

「悪はあるように見えても本来ない」 - 伝統

2017/01/20 (Fri) 03:16:28


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月20日)より

悪は《ある》ように見えても本来無い。
この真理が人間の魂に沁みこんでしまうまでは人間は本当には幸福にもなれないし、
本当に赦すこともできないものである。

本当に常にその人の生活が幸福であり、本当に赦すことのできる人は
「悪はあるように見えても本来ない 」と悟った人ばかりである。

言葉や筆でそのことを説くことができるだけではまだ足りない。
魂の底にそれを沁み入らせなければならぬ。

毎朝起きた時および、何事か起こったときには必ず
「悪はあるように見えても本来ない 」と10遍ずつ唱えるがよい。

これはどんな禁厭(まじない)の言葉よりも人間を光へ導く神呪(しんじゅ)である。

            <感謝合掌 平成29年1月20日 頓首再拝>

《在(あ)るものはただ神のみと思念せよ》 - 伝統

2017/01/23 (Mon) 04:59:44


           *「光明法語」(1月23日)より

人々よ、よき言葉を語れ。
悪しきことばに惑わされること勿れ。

悲観的なことばを発するな。
悲観的なことばに惑わされること勿れ。

ことばは種であるから悪しきことばは言わぬがいい。
悪しきことばを聞いたならば直ちに心の中でそれを打消すことである。

人もし悪しきことばを語るともその人を非難するな。
人の悪しきことばは吾が心の中にある隠れたる所の想念の影であると思いて
自ら明るくなるように反省せよ。

神のみが實在であるから悪しきものは存在しないものだと否定せよ。

            <感謝合掌 平成29年1月23日 頓首再拝>

吾々の生命の本性は善である - 伝統

2017/01/28 (Sat) 04:27:27


           *「光明道中記」(1月28日)より

【既に善があってそれが出て来る。その善と云うものが存在の本体であり、
                     自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。
若し善の内圧を拒むならば、吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、
その苦痛苦悩を表面にあらわして、それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。
生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、
善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

            <感謝合掌 平成29年1月28日 頓首再拝>

絶対善を悟る日 - 伝統

2017/01/31 (Tue) 04:48:17


           *「光明道中記」(1月31日)より

【善くしてやろうと云う想念は相手を害し、既に善いとの想念は相手をよくする。
                              (『生命の實相』第七巻)】

すべての魂の不安を去る信念は神の創造の世界に悪はないとの信念である。
神の造り給うた人間の子に悪はない。病気も無く、不成績もない。

病気があるかの如く見え、不成績があるかの如く見えるのはそれは五官が見るのであり、
五官は吾が信念の賦彩(ふさい)によって真相が歪められたる相(すがた)を見るに
過ぎない。

されば如何に五官に見える相が悪しかろうとも
吾々はその五官の惑(まどわ)しに心を顛倒せしめて了ってはならない。

吾が親または子を信ずること。
吾が夫または妻を信ずること。
兄弟姉妹の美しさを信ずること。
すべて人の善さを信ずること。

形の上で縛ろうとするとき、生命は自由を欲するものであるから、
反動的に反対の方向へ動いて行こうとするものである。
信じて善念を送りさえしたら其の人は必ずよく成る。

「信じていたのに騙(だま)されました」と言う人があるものだが、
その人は信じてはいたけれども、屹度(きっと)善念を送らなかった人に違いない。

阿弥陀仏を信ずるとは「南無阿弥陀仏」と称えることである。
子を信ずるとは放って置くことではない。
「善い子だ、有りがとう」と念じ称え、感謝の念を送ることである。

            <感謝合掌 平成29年1月31日 頓首再拝>

《自己自身を善たらしめよ》 - 伝統

2017/02/17 (Fri) 04:24:54


           *「光明法語」(2月17日)より

吾々が「善」を思えば、吾々自身が「善」そのものになるものである。
吾々が破壊を思えば破壊が発生し、戦争を思えば戦争が発生する。
戦争の最初の責任者は先ず想念である。

常に「善」を以って自己の心を満たすべし、然らば汝は健康とならん。
神は「善」であり、「美」であり、健康なる「生命」である。

しかもその「善」と「美」と健康なる「生命」とは
神の切り離された断片ではなく、神そのものの3つの面であるから、
「善」がそこに實現すれば、「美」も「健康」も實現するのである。

            <感謝合掌 平成29年2月17日 頓首再拝>

善とは無縛を言う - 伝統

2017/02/19 (Sun) 04:26:47


           *「光明道中記」(2月19日)より 


【善にでも引っかると悪になる。心が停滞すると心の影として血液循環が一箇所に停滞し
 病気を引起す。(『生命の實相』第三巻)】


善とは無縛を言う。無縛なるが故に人事処の三相応を得る。

善とは何ぞやと云う問題は、古来幾多の宗教家思想家によって考えられ、説明された問題である。
そして「善とはこれだ! 」と一つのものに執着したとき多くの人は躓いたのである。

「善」とは形ではない。

「執(しゅう)」を脱した状態こそ「善」であるから、
一物を指してコレだと執したとき「善」は消えて了っているのである。
「執」を脱したときおのずから「生命」は生きる。

「生命」が素直に生かされて行くのが「善」である。
斯う言えばすぐ「生命」を生かそうと「生命」に執する人が出来るであろうが、
「生命」に執したとき、その「生命」は既に生きなくなる。

だからキリストは警句して曰く、
「生命を獲んとするものは生命を失い、生命を損(す)つる者は生命を獲ん」と。

また諸聖は曰く

「生きようと思ったら○ね」   (○:死)

「《ままよ》と思う心にならなければお蔭は得られぬ」

「泳ごうと思ったら海の底から足を離せ」


私は曰く

「善とはなんぞや。生きることだ」。

「生きるとは何ぞや」曰く「無(む)」。

            <感謝合掌 平成29年2月19日 頓首再拝>

《悪と云うものはない》 - 伝統

2017/02/21 (Tue) 03:27:31


           *「光明法語」(2月21日)より

世の中に絶対悪と云うものはない。

悪い様に見えてもそれは必ず善くなるのもである。
首になったら、屹度なお一層よい位置があたえられるか、
尚一層よい儲けが得られるものである。

そう信じて、その与えられた立場、境遇による一切を悦び受けて、
感謝しながら全力を盡すときそうなるのである。

しかしそう信じない者が可哀相である。

私は盗難にかかって、貯蓄して資金をためてから光明思想を弘めようと
思っていた愚かさをさとって、今直ぐ光明思想をひろめ出したので
生長の家が大きくなったのである。

            <感謝合掌 平成29年2月21日 頓首再拝>

人時所三相応せるものが善である - 伝統

2017/02/24 (Fri) 04:14:25


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月24日)」より

善人ということは正しいばかりが善人ではない。
善悪の標準は生長の家の出現によって変化したのである。

正しくても暗い人は善人ではない、
その人は自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも捉われる人は善人ではない、
その人は自分を窮屈にし、他(ひと)と争い、自分を殺し、他(ひと)を殺すからである。

正しくとも力の弱い人は善人ではない、
彼は自分を殺し、他(ひと)を助けることができず、
同時に他(ひと)を見殺しにせねばならぬからである。

どんなに正しい胸せまき人たちが病気になったことであろう。
真っ直(すぐ)などということだけが善ではない。三角も四角も円も楕円も善である。

人時所三相応せるものが善である。
生かすことが真理である。

まっすぐなばかりが善だと思っているために腹が立てたり、
胸が塞がって死んだ人の数は欧州大戦で死んだ人の数よりおおいのである。

           <感謝合掌 平成29年2月24日 頓首再拝>

全てのものはなはだ善し - 伝統

2017/03/01 (Wed) 04:35:28


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月1日)」より

啓示 ――

人間は小宇宙である。
大宇宙の力すなわち神が万物を創造したがように、われわれも万物を創造する。

神が心をもって万物を創造し給うたように人間も心をもって万物を造りだす。
神が万物を言葉によって創造したように、
人間も言葉をもって万物を創造(つく)り出すのである。

人間もこの意味において創造主(つくりぬし)だ。

第一の創造は神の「世界および人間創造」である。

神はすでに世界を創造し給うたのである。それは常に現在完了である。
人間はすでに神の肖像(にすがた)に創造られたのである。(「創世記」第一章)

そしてすべてのもの善し(「創世記」第一章)である。
このことは否定できない。

「創世記」第一章の天地人間の創造はすでに完了しているのである。
すでに完全であり、過去も、今も、未来も常に現在完了である。

しかして常に善である。
病気の人間もおらぬ。貧乏の人間もおらぬ。苦しんでいる人間もおらぬ。

これは「全てのものはなはだ善しと宣(のたも)うた」
「創世記」第一章の神の宣言にあらわれている。

神の宣言は履(くつがえ)すことはできない。
すべてのものはなはだ善しである。

人間はその霊長である。
人間はすべての物を支配する権を与えられたとある。
黴菌も、気候も、衣食住もわれわれを支配することはできぬ。

人間に病気はない。

           <感謝合掌 平成29年3月1日 頓首再拝>

一切皆善の神の創造世界を心に描きなさい - 伝統

2017/03/18 (Sat) 04:43:51


        *「真理」第1巻入門篇(P369~371)より

この扉を外して神と直接対面するには、神は宇宙の創造者であり、
ただ善のみの創造者であり、如何なる悪も創造し給わないのであって、
如何なる「善」も神は吾々に与えることを拒み給うものでないことを知る
ことが第一であります。

すべての「善」ならざるもの、「不幸」なるもの、「病気」なるものは、
如何に存在するが如く見えても、存在しないものであることを知り、
それを無視してしまうことが必要なのであります。

吾々が現在不幸に直面しているのは、現象の出来事に時々心を捉えられて、
常に実相円満の相(すがた)を心で見つめなかったために、善悪混淆の有様が
現在あらわれているに過ぎないのであります。

神は決して不幸の状態を創造(つく)り給わなぁったのであって、既に
「我が欲する円満完全な状態」は与えられているのだと云うことを
常に心に描くことが大切であります。

すべての「善ならざるもの」「悲しみを齎(もたら)すもの」「苦しみを齎すもの」
が此の世の中に現れて来るのは、自分の心の向け方、心の照準の仕方を
過ったに過ぎないのであります。

そういう時には次のように祈るのがよいのであります。

「神よ、あなたの静かなる魂の平和をわれに与えたまいて、
 すべての心の悩みより我を解放しまたえ。」

苦しみのあらわれているとき、悩みのあらわれているとき、
すべての善ならざるものがあらわれているとき、最も必要なのは、
その苦しみ、悩み、不幸を拒まないことであります。

それらは神の静かなる魂の平和が流れ入って来たならば
自然に解消してしまうものなのであります。

しかし神の静かなる平和が流れ入るためには、
すべての「不善」を《あり》として把(つか)んでいる心の垢(あか)を
きれい薩張(さっぱり)流してしまわなければならぬのであります。

           <感謝合掌 平成29年3月18日 頓首再拝>

本来無い”悪”の出現する原因 - 伝統

2017/03/30 (Thu) 03:48:53


        *「愛はかくして完成す」(P61~62)より

「善一元の世界」であるべきこの世界に
何故「悪」と見える現象がつくられたのであるか。

答えて曰く、

悪と見える現象がつくられたのではなく、「創世記」の第二章以下にある
如く、「迷いの霧」が立ち騰(のぼ)って、
実相を完全に見ることができなくなったのである。

「迷いの霧」はどこから生じたのであるかというと、
眼耳鼻舌身の五官の認識作用が、日常生活の便利のために、

「霊的実在の世界」の事物を固定化して「物質」という相(すがた)に
翻訳して見せたのである。

(それは電磁の世界のものを固定化してテレビ受像機のブラウン管上に
画像としてみせたようなものである)

そうして想念の表現によって出現した「唯心所現の世界」を固定化して、
物質構造の世界に、物質構造の人間が生きているように感ぜしめたのである。

こうして人間は意識の自覚の上では、「霊的存在」の高所から
「物質的存在」の谷間に墜落したのである。

これを人間(アダム)の”楽園追放”というのである。

人間自身を物質的存在と誤信したために神通自在の意識が失われて、
迷いによって縛された不自由の存在にまで墜落したのである。

           <感謝合掌 平成29年3月30日 頓首再拝>

《本当にあるもの》は善のみ - 伝統

2017/04/14 (Fri) 03:08:18


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月14日)」より

そんなことは、なんでもないじゃないか。
悪しく見えるものはそう見えるだけ。
神は悪しき物を作らないのだ。

《本当にあるもの》は善いものばかりであるのだ。

わが前に、すべてのものは美しくかつ善である。

            <感謝合掌 平成29年4月14日 頓首再拝>

《総ゆる善は神より来ると知ること》 - 伝統

2017/05/02 (Tue) 04:12:27

         *「善と福との実現」(P6~7)より

神が善であり、一切創造の本源であると云うことを知るならば、
「敵」も「悪」も存在しないものであり、かく見えることは
唯、仮相に過ぎないことが解るのである。

が、それと同時に、我々は、
「自分」と云う自我(自力、肉体我、分別我)の力によって
「善」なるものを創造出来ると考えることは間違である。

「自分」と云うものは無く、ただ「神」のみ実在し給うのであるから、
皐月の鯉の吹き流しのように、自分と云うものが空っぽになり、
そこに大生命の生きる力を吹き流し入れるならば、あたかも空中を翩翻として
ひるがえる吹き流しの鯉の如くに生々として来るのである。

「自分」と云うものを、「神」に対する別物として対立せしめ、
自分の力で何事かを成そうとすることは、「神」を信じているとは云いながら、
いつか二元論におちているのである。

尤も「自分」と見えるものは本来ないのであるから、
その「自分」の力でやることも結局、神の力でやることではないか
と云うような議論も成立ち得るのであるが、

それは議論であって、実際上、自分の心の中では、「自分」と云うものを立て、
全体我(大生命)としての神をわすれて生活し、計画し、行動しているのである。

だから、そのような「我」の行動、計画、生活によって、一時、一見
「幸福」や善や繁栄が持ち来たされたかのように見えようとも、
それはやがて果敢(はか)なく消ゆる陽炎(かげろう)の様な「幸福」であり、
「善」であり繁栄に過ぎないのである。

ハンブリン氏は云っている、
「神が植えないところの凡ての植物は根のない植物であり、
神の築かないところの凡ての建物は、礎なき建物である」と。

まことに偉大なる業績は、イエスの所謂る
「われ、みずからにては成し得ず、天の父我にいまして成さしめ給うのである」
との自覚よりして得られるのである。

            <感謝合掌 平成29年5月2日 頓首再拝>

すべての人、物から善を呼び出すこと - 伝統

2017/05/17 (Wed) 03:42:10


          *『幸福を招く365章』第3項(P56~57) より

《悪に対して悪を以てしてはならない》

あらゆる物は神の創造であるから、
すべてその実相(ほんとのすがた)は善である。

もしそこに善があらわれていないならば、それは其の物から
われわれ自身が善を呼び出さないからである。

若し吾々がすべての物から善を呼び出すことに成功するならば、
すべての物は「善」に姿をかえてしまうのである。

善を呼び出す秘密の法は、

「あなたは善である。あなたは神の子であるから、悪であるはずはない。
悪に見えるのは私が心の中に悪を描いて見るからで、誠に申し訳ございません」

と、人に対してでも、物に対してでも、心の中で強く呼びかけることである。

悪に対して、暴力や言葉や威かくで対抗したり、
徒(いたず)らに嘆いてみても何にもならない。



《悪に抗することなかれ》

今の事を有難く受けよ。
今のことを素直に受けよ。

この世の中に無駄なことは何一つないのである。

悪しく見える事は、過去の悪しき想念の力が
形にあらわれて消えて行きつつあるのである。

「悪に抗する心」を起すとき、
吾々は「悪」を実在として身構えするのである。

「悪」を実在として観る心を起すとき、「悪」の外見的存在は、
それを実在と観る心の力によって支えられて、
かえって消えない事になるのである。

相手の「悪」を見ないで、
その悪と見える仮相の奥に存在する「善」を見よ。

「悪」を見て瞞(だま)されないよりも瞞(だま)されてもなお
相手の善を信ずる者は幸福である。

           <感謝合掌 平成29年5月17日 頓首再拝>

皆善いことばかりである - 伝統

2017/05/20 (Sat) 04:16:29


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月20日)」より

すべての準備は眼に視えぬ世界に神がすでに調えていて下さるのである。
それが必要にしたがって現象界に浮かび出でるのである。

自分にとって不利なことは何一つ顕われない。
皆善いことばかりである。それを信ぜよ。

損というものは一つもない。
恐怖すべき何物もない。
ただわれわれには獲得のみがあるのである。

            <感謝合掌 平成29年5月20日 頓首再拝>

《善の肯定を悪の否定に優先せしめよ》 - 伝統

2017/06/03 (Sat) 04:51:39


        *『 生長の家 』(昭和25年12月12日の法語)より

   「 悪は非存在である 」 と悪を否定することと、
   「 善のみ実在である 」 と善を全面的に肯定することによって、

   悪は消え、善のみ現象界にあらわれて来るのである。


   併(しか)し悪の否定にあまり時間を費やしてはならないのである。

   「 悪は無い 」 「 病気は無い 」 と思念する毎(ごと)に、
   「 悪 」と云う語、 「 病気 」 と云う語を
   思い浮かべざるを得ないがゆえに、

   否定のみによっては 決して根本的に 「 悪 」 と 「 病気 」 を
   剿滅(そうめつ)することは出来ないのである。

   だから、 「 悪 」 の否定の次に
   是非とも善の肯定が必要になって来るのである。

   ただ善のみ、豊富のみ存在する世界を心に凝視せよ。

   ただ完全と健康とのみ存在する身体を凝視せよ。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12312795.html

            <感謝合掌 平成29年6月3日 頓首再拝>

《何事が起ろうとも唯(ただ) 「 善 」 のみが前途にある》 - 伝統

2017/06/19 (Mon) 04:25:43


         *『 生長の家 』(昭和24年12月15日の法語)より

   二百十日や二百二十日があろうとも、それは却って
   風媒花(ふうばいか)の稲にとり豊作をもたらすところの
   天の恵みであると感謝するならば、

   その通りに豊作にめぐまれるのである。


   人生にも色々の暴風や台風やあらしがあろうとも、
   そんなことで失望落胆してしまってはならないのである。

   私は関東大震災に会わなかったら、
   屹度(きっと)単なる著述家としてつづいていたであろう。


   関東大震災が動機で神戸へ移転したのが導きになって
   「 生長の家 」 の偉大なる教えがはじまり
   多くの人が救われることになったのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

            <感謝合掌 平成29年6月19日 頓首再拝>

六つの誓い - 伝統

2017/06/22 (Thu) 04:47:41


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月22日)より

六つの誓い ――

今後必ず自分の眼に封印して他(ひと)の悪を見まい。

今後必ず自分の耳に封印して他(ひと)の悪を聴くまい。

今後必ず自分の唇に封印して他(ひと)の悪を語るまい。

今後必ず自分の眼(まなこ)を開いて
他(た)の行いの中から善きところのみを見よう。

今後必ず自分の耳を傾けて
他(ひと)の言葉の奥にある善き意味のみを聴こう。

今後自分の唇を開けば必ず人の善を褒めよう。

           <感謝合掌 平成29年6月22日 頓首再拝>

神が絶対善であることに就いて - 伝統

2017/07/11 (Tue) 04:37:27


       *『真理』第4巻青年篇(P304~305)より

神は善であると申しますが、この場合の「善」とは「悪」に対立する
ところの善ではないのであります。

此の世の中に、「善」と「悪」とが対立し、「神」と「悪魔」とが対立し、
「人間」と人間を害する黴菌とが対立していると云うような考え方は、
渾一なる神一元の世界観を破壊してしまって、二元的又は多元的な混乱的
宇宙観に墜落せしめることになるのであります。

かくの如き世界観は、五官で見た混乱の世界をそのまま「《あり》」と肯定して
理論づけた哲学でありますから、五官智と云う顛倒夢想(ウソの想い)を
根拠とした立論でありまして、真実ではないのであります。

           <感謝合掌 平成29年7月11日 頓首再拝>

神の創造は皆完きものである。 - 伝統

2017/07/25 (Tue) 04:27:32


           *「静思集」(P143)より

「世界に非道が充ちているということは、歴史と同じようにそれよりも
更に古い文学さえも同じように、否あらゆる文学中の最も古きものなる
祭司の宗教と同じように古い嘆きである」

とカントは言っている。

けれども生長の家は世界には何ら非道なことは存在しないと云うのである。
それは存在するものは「道」ばかりであるから、それが少なくとも
存在する限りは、それは「善」であり、

それが「善」でない限りに於いて、それは如何に存在するように見えようと、
それは「非道」即ち「道(みち)の欠乏」「道の無」をあらわしているに
過ぎないのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも

「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から身体(からだ)が
健康なのが当たり前だと見做(な)さねばならぬ如く、人間をその本性上から
精神的にも健全にして善なりと見做してならない理由はない」 

と言っている。

即ち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。
釈迦はこれを「一切衆生悉有仏性」といい「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。

凡て心の眼を開いて見れば「悪」は存在しない。

是(これ)第一にして最後の真理である。

           <感謝合掌 平成29年7月25日 頓首再拝>

世界及び人間の本質はそれ自身「善」である - 伝統

2017/08/06 (Sun) 03:59:17


   *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる、8月6日娑婆即寂光土と悟る日)より

【神の創造は皆完(まった)きものである。(『生命の實相』第十一巻)】

「世界に非道が充ちていると云うことは、歴史と同じように
それよりも更に古い文学さえも同じように、否あらゆる文学中の最も古きものなる
祭司の宗教と同じように古い嘆きである」

とカントは言っている。

けれども生長の家は、世界には何ら非道なことは存在しないと言うのである。

それは存在するものは「道」ばかりであるから、
それが少なくとも存在する限りはそれは「善」であり、

それが「善」でない限りに於て、それは如何に存在するように
見えようとも、それは「非道」即ち「道の欠乏」「道の無」を
あらわしているに過ぎないとするのである。

カントも此の世界が如何に見えようとも

「人間を本性(即ち普通に生まれついている通りの)から
身体(しんたい)が健康なのが当り前だと見做さねばならぬ如く、
人間をその本性上から精神的にも健全にして善なり
と見做してはならない理由はない」

と言っている。

すなわち世界及び人間の本質はそれ自身「善」であると云うことである。

釈迦はこれを「一切衆生仏性あり」と言い、
「山川草木国土悉皆成仏」と言ったのである。

凡て心の眼を開いて見れば「悪」なるものは存在しない。
これ第一にして最後の真理である。

          <感謝合掌 平成29年8月6日 頓首再拝>

「善きこと語れば善きこときたる」 - 伝統

2017/08/22 (Tue) 05:02:58


        *『新版女性の幸福365章』(P104)より

人に愛されるためには、人を愛しなければならない。
自己中心的になってはならない。

人と対話するときには、自分の自慢話は避けて、自分をへりくだり、
相手の長所について、美点について、より多く語るようにしなければならない。


人との対話中に、誰かの悪評が出て来たときには、
決して其の悪評に同調して、一緒に悪口を言ってはならない。

話を転ずるか、その人についての美点を見出だし、
「だけども、あの人は、こんな良いところがありますよ」と
褒めるようにするがよい。

そのような愛念は必ずその人に通じて、その人を感激させ、
その人を立派な人にする力がある。


あなたの心の眼を、ただ「善」のみ「明るい出来事」のみに振り向けなさい。

病気や損失や脅喝などをあなたの視野から外しなさい。

人の欠点を見るかわりに、美点を見なさい。
悪口(あっこう)をささやくよりも、賞める言葉を話しなさい。

          <感謝合掌 平成29年8月22日 頓首再拝>

「常に神一元・善一元の世界を観る」 - 伝統

2017/09/05 (Tue) 04:55:43

         *『生長の家』(昭和40年8月31日の法語)より

神は常にあなたの側にい給うのである
 
どんなに事業が悪化するように見えても
どんなにすべてが壊けるように見えても
それは化膿した腫物が破裂するようなものだ
 
悪化づるような仮面をかぶりながら
究極は、ただ善の方向のみ延びて行く
 
恐れることはない
疑うことはない
神はあなたの父であり母である
 
あなたに必要なるすべてのことは
この世界に実在するものは
ただ善なる神と
神のつくりたまえる善なる生き物と
善なるすべての事物とだけだと知ることである
 

行け
勇敢にあなたに与えられた人生の行路を


そこに
花園が華麗な装いをつけて
あなたを待っているのである

https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/20949148.html

          <感謝合掌 平成29年9月5日 頓首再拝>

神は善であると信ずること - 伝統

2017/09/26 (Tue) 04:02:27


         *「人間救いの原理」第8章第4節 より

世界の根源が神であり、神が善であるとわかりましたならば、
そして神のみがすべての渾てであるとわかりましたならば、
世の中に悪意ある対立等はあり様がないのであります。

「敵がない」と云う人生観にならなければなりません。
「敵がある」と云う人生観に立っている限り、自分の妄想によって、
「敵」を描き、描くが故にその「敵」が現実にあらわれ、
遂にその敵のために敗北せしめられると云うことになるのは、
太平洋戦争の実例によって明らかなことであります。

「敵」だと思えば、敵でないものが敵として現れてまいります。
すべての存在は「敵」ではない。

「善意」と「愛」とをもって吾々に何かを互いに貢献し協力すべく
与えられているところの存在であると信じ、現実に「敵」とあらわれていましても、
それは敵ではないとして「實相」の善を信頼して厚遇していますと、
味方となって現れて来るのであります。

敵があると信じ、不調和が存在すると信じ、それに対して身構えすることは、
神の善とその無限力とを信じないところの神に対する不敬の罪だと
言わなければならないのです。


(谷口雅春先生に帰りましょう・第二
「(人間救いの原理)⑧日時:2017年09月16日 (土)名前:平賀玄米」
 →http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1785 より転写)

          <感謝合掌 平成29年9月26日 頓首再拝>

總(あら)ゆる善は神より来たると知ること - 伝統

2017/10/12 (Thu) 04:18:02


         *「人間救いの原理」第8章第5節 より

神が善であり、一切創造の本源であると云うことを知りますと、
「敵」も「悪」も存在しないものであり、かく見えることは唯、
仮相に過ぎないことが解るのであります。

が、それと同時に、我々は「自分」と云う自我(自力、肉体我、分別我)の
力によって「善」なるものを創造出来ると考えることは間違いなのであります。

「自分」と云うものは本来無く、唯「神」のみ実在し給うのでありますから、
皐月の鯉の吹き流しの様に、自分と云うものが空っぽになって、
そこに大生命の生きる力を吹き流し入れますと、かの空中を翩翻として
ひるがえる吹流しの鯉のように生命が生き生きとして来るのであります。

(中略)

神が何故「善」であるかと云うことがわかるかと言う人がありますが、
吾々は、「最高の善なるもの」を神と名称づけるのでありますから、
神が何故善であるか――の疑問の存在の余地はないのであります。

そして吾々は「善」なるものを求めずにいられない――それは事実であり、
何故吾々が心に「善」を思い浮かべ、それを追求せずにいられないかと云うと、
吾々の内に既に「善」が宿っているからであります。

「善」が吾々の内に宿っておらず、全然内的に体験したことがありませんでした
ならば、「善」の何物たるかを吾々は知らず、それを思い浮かべる事もなく
それを追求する事もない筈であります。

だから「善」は自己の内に既にあるのであります。

イエスは「神の国は汝らの内にあり」と言いましたが、
その内在の「善」こそ「神」であり、その内在の善なる世界こそ「神の国」であり
―― 既にあるのであります。

(谷口雅春先生に帰りましょう・第二
「(人間救いの原理)⑧日時:2017年09月16日~2017年09月18日名前:平賀玄米」
 →http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1785 より転写しました)

          <感謝合掌 平成29年10月12日 頓首再拝>

神は善であると信ずること - 伝統

2017/10/27 (Fri) 04:55:46


         *「苦難と恐怖の克服法」第8章より

世界の根源が神であり、神が善であるとわかりましたならば、
そして神のみがすべての渾てであるとわかりましたならば、
世の中に悪意ある対立等はあり様がないのであります。

「敵がない」と云う人生観にならなければなりません。

「敵がある」と云う人生観に立っている限り、自分の妄想によって、
「敵」を描き、描くが故にその「敵」が現実にあらわれ、
遂にその敵のために敗北せしめられると云うことになるのは、
太平洋戦争の実例によって明らかなことであります。

「敵」だと思えば、敵でないものが敵として現れてまいります。
すべての存在は「敵」ではない。
「善意」と「愛」とをもって吾々に何かを互いに貢献し協力すべく
与えられているところの存在であると信じ、

現実に「敵」とあらわれていましても、それは敵ではないとして
「實相」の善を信頼して厚遇していますと、味方となって現れて来るのであります。

敵があると信じ、不調和が存在すると信じ、
それに対して身構えすることは、神の善とその無限力とを信じないところの
神に対する不敬の罪だと言わなければならないのです。

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1785
   ~(7607)日時:2017年09月15日 (金)   より転写   )

          <感謝合掌 平成29年10月27日 頓首再拝>

総(あら)ゆる善は神より来ると知ること - 伝統

2017/11/12 (Sun) 03:56:18


         *「苦難と恐怖の克服法」第8章より

神が善であり、一切創造の本源であると云うことを知りますと、
「敵」も「悪」も存在しないものであり、かく見えることは唯、仮相に過ぎない
ことが解るのであります。

が、それと同時に、我々は「自分」と云う自我(自力、肉体我、分別我)の力
によって「善」なるものを創造出来ると考えることは間違いなのであります。

「自分」と云うものは本来無く、唯「神」のみ実在し給うのでありますから、
皐月の鯉の吹き流しの様に、自分と云うものが空っぽになって、
そこに大生命の生きる力を吹き流し入れますと、
かの空中を翩翻としてひるがえる吹流しの鯉のように
生命が生き生きとして来るのであります。

http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1785
   ~(7609)日時:2017年09月16日 (土)   より転写   )

          <感謝合掌 平成29年11月12日 頓首再拝>

「善」は自己の内に既にある - 伝統

2017/12/02 (Sat) 03:27:08


         *「苦難と恐怖の克服法」第8章より

神が何故「善」であるかと云うことがわかるかと言う人がありますが、
吾々は、「最高の善なるもの」を神と名称づけるのでありますから、
神が何故善であるか ―― の疑問の存在の余地はないのであります。

そして吾々は「善」なるものを求めずにいられない ―― それは事実であり、
何故吾々が心に「善」を思い浮かべ、それを追求せずにいられないかと云うと、
吾々の内に既に「善」が宿っているからであります。

「善」が吾々の内に宿っておらず、全然内的に体験したことが
ありませんでしたならば、「善」の何物たるかを吾々は知らず、
それを思い浮かべる事もなくそれを追求する事もない筈であります。

だから「善」は自己の内に既にあるのであります。


イエスは「神の国は汝らの内にあり」と言いましたが、
その内在の「善」こそ「神」であり、その内在の善なる世界こそ「神の国」であり
 ―― 既にあるのであります。

外在の不完全な国は、内在の神の国の不完全なる顕現に過ぎないのであります。
ですから、内在の神の国は、外在の世界に、それを押し出そうと云う
「内からなる衝動」を起こさずにはいられない。

それが吾等の「善と幸福に対する希求」としてあらわれて来るのであります。

「善と幸福に対する希求」が必然的に吾々に起こるのは、
既に内在の世界に神があり、善と幸福との世界が成就しているからであります。

ここに「善と幸福への吾等の希求」は、同時に
「神御自身の善と幸福とを実現せんとの御意(みこころ)」
に一致することを知るのであります。

だから吾々の、善と幸福への願いは、
決して無駄に捨て去らるべきものではないのであって、
吾々は全能の神の有ち給う「善と幸福の実現力」にお任せしておりさえすれば好い
と云う事が出来るのであります。


http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1785
   ~(7621)日時:2017年09月18日 (月)   より転写   )

          <感謝合掌 平成29年12月2日 頓首再拝>

”善を生きる”ということ - 伝統

2017/12/18 (Mon) 03:44:48


          *『第二青年の書』第六章より

『甘露の法雨』を読むと、神があらわるれば乃ち善となり、義となり、
慈悲となり、調和おのづから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく・・・」と示されておりますが、

善を生きるということは、神の智慧に従って”時”と”処”と”人”との
三相応を得た時にそれが善となるのであります。


この世界の一切のものは、神がお創造りになったものでありますから、
本来悪なるものはありません。

それが「悪」とあらわれているのは、”処”を得ない、”時”に相応しくない、
”人”に相応しくないからであります。
即ち、”人時所”の三相応を得ないからであります。

生長の家本部で、初めて赤坂道場に於いて指導者講習会を開いたことがありました。
その時、家内が一階の便所へ行きますと多勢の修行者が詰めかけていて
便所が満員でありましたので、家内がしばらく待っておりますと、
便所へ入っている人たちの声が聞こえてまいりました。

私の家内がいるとは気がつかないので、大声で遠慮なしに喋っているのです。

「こんなにキン隠しに引っかけては汚くて仕方がない。
ちっと気をつけてすればよいのに!」
「なぁに、汚いと思うから汚いんだ。
物質は本来無いと思えば、汚い事もありゃしない。
神の造り給うたものは何でも綺麗なのじゃ。」

併し、これは処を得ないから汚いのであります。

糞便でも、それが肥料として地下に埋められ、それが適当に植物に吸収されて、
分子配列が変わり、野菜となったり、お米となったりして、食膳に盛られると、
舌鼓を打って美味しく食べて少しも汚くない。

それが汚いのは”処”を得ないでキン隠しの縁にかけたり、
お茶碗にそれを盛って出したりするから汚いのであります。

糞便でもその分子組織を適当に処理し、各々分子に処を得せしめて、
化学的に精製し、純粋なアンモニア液にでもします
と私たちはそれで着物の衿垢などをふくために使ったりいたします。

馬の小便でもそのままでは汚いけれども、
その尿から純粋に女性ホルモンを抽出して、
その成分をあるべきところにあらしめると、

それは決して汚いことはない、注射に使ったり、
錠剤にして飲んだりするのであります。

このように綺麗とか、汚いとかいうのは、
すべてそのものが処を得ているか、処を得ていないかで決まるのであります。

処を得なければどんな善に見えるものも悪に変わります。

(谷口雅春先生に帰りましょう・第二「第二青年の書」日時:2017年12月08日
 http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1943 より転写)

          <感謝合掌 平成29年12月18日 頓首再拝>

「根本的なる善業とは?」 - 伝統

2018/01/04 (Thu) 04:27:54


         *『如意自在の生活365章』(59~60頁)より

善き業にもいろいろある。
他に金銭を恵むのも善き業であり、真理を伝えるのも善き業である。

もっと根本的な善業は、神の善意を信ずることである。

神を、神罰の本源や、災禍の本源であるかのごとく信ずるならば、
それは根本的な悪業を積むことになるのである。

神は健康の本源であり、力の本源であり、美の本源であり、
富の本源であり、繁栄の本源であるのである。

その本源を正しく認めて、その本源と融合して、
神の“み心”とともに生活するように心懸けるのが、
本当の根本的な善業である。

          <感謝合掌 平成30年1月4日 頓首再拝>

善事をなす習慣 - 伝統

2018/01/05 (Fri) 04:37:09


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月5日)より抜粋

一日だけで、やりかけた善事を止めてしまうような者は、何事も成功から墜落する。
つまらないことのようでも小さき善事を継続することによって、
その人の魂は進歩し、環境は天国化するのである。

一日ぐらい懶(なま)けてもいいだろうというような考えから、善事をなす習慣を
たった一日廃絶したことによって堕落した人は世間にたくさんある。

昨日(きのう)きめた、朝起きた時に家族一同に優しい言葉を朗らかな調子で投げかける
ことを今日も続けなければならない。そしてさらに進んでいっそうの善事をつけ加える
ことをしたい。

          <感謝合掌 平成30年1月5日 頓首再拝>

善以外ものに価値を見出そうとする迷信を捨てよ - 伝統

2018/01/24 (Wed) 03:33:02


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月24日)より

人々の苦しみをして避けるものが、神の前には尊きものであるという考え方が、
敬虔なる宗教人に唱えられたる時代があった。

貧乏は人々の苦しみを避けるものであるがゆえに尊い。
不幸は人々の苦しみとして避けるものであるがゆえに尊い。
病気は人々の苦しみとして避けるものであるがゆえに尊い。

かかる考え方は人類の潜在意識が有していたがゆえに、
人類の潜在意識に心の創化力を動員して、その尊いと思う「貧乏」を、
その尊いと思う「不幸」を、その尊いと思う「病気」を、
創作しつづけてきたのである。

潜在意識が欲する病気を創作することは、
世界大戦時における戦争麻痺症がこれを証明している。

病人においては「富」は罪への誘惑となりうることはある。
しかしそれが「富」そのものの罪でないのは、
白刃(はくじん)が殺人の用に供されようとも、
白刃そのものの罪でないと同様である。

罪は「使用方法を誤る」ということと、「処を得ない」ということにある。
白刃も富みも、処を得て正しく使用せられるとき、
天下を平定する剣となり富となる。

われわれの欲しないものを神が欲し給うかもしれぬという考えは、
神人分離の考えである。

われわれの欲せぬことを神が欲し給うかもしれぬというのであるならば、
あらゆる道徳の根拠は不確かなものとなってしまう。

われわれが善と思ったものが善でないかもしれず、
悪と思ったものが悪でないかもしれぬとしたら、
われわれは何を行なったらよいか分らぬことになり、
われわれは他人の貧乏を救うことも、
不幸を救うことも、病気を救うこともできぬことになる。

貧乏や不幸や病気が「善」であれば、それから人を救い出そうとする努力は、
人を「善」から追放する罪悪となるであろう。

しかし、何人(なんぴと)も、病気や不幸や貧乏から人々を救い出すことを
善事だと認めずにはいられない。そうしたならば、病気や不幸や貧乏は「悪」であり、
神の欲し給わないものであることにまちがいはない。

では、病気や、不幸や、貧乏は人々が苦しいとして避けるものであるがゆえに
尊いという誤れる迷信を捨てなければならぬ。

人類が、病気や、不幸や、貧乏を真に尊敬しなくなり、
それを口実にして同情を求めなくなり、
悲劇を深刻だというような迷信から醒めるようになったとき、
人類の病気、不幸、貧乏は今よりも半減するであろう。

            <感謝合掌 平成30年1月24日 頓首再拝>

吾々の生命の本性が善なのである - 伝統

2018/01/28 (Sun) 04:09:39


           *「光明道中記」(1月28日一切人間を礼拝する日)より

【既に善があってそれが出て来る。
その善と云うものが存在の本体であり、自分の本体なんです。(『驀進日本の心と力』)】

善とは外から縛る囹圄(れいご)ではない。
吾々の生命の本性が善なのである。

吾々の生命の本性が善であるが故に、
善は内から一種の否定すべからざる圧力を以て迫って来、
吾々をして善を為すように強制する。

この力を倫理学者は当為(Sollen)と名附けた。

若し善の内圧を拒むならば、
吾々の生命は苦痛を感じ、苦悩を感じ、その苦痛苦悩を表面にあらわして、
それは吾々の肉体に色々の具体的病気として表れる。

病気は抑圧されたる「善」への衝動の悩み苦しむ有様だとも、
「善」が実現せんとしてまだ空虚の状態であるとも言い得る。

従って、「善」を為すように勧めることによって病気が治った実例は沢山ある。
生長の家へ相談に来て病気が治って帰る人々の殆ど全ては善を為すように勧められ、
善を為さんと決心し、抑制せられていた「善」への衝動が解放される故に治るのである。

すべての善のうち最も大なるものは中心に帰一する心をもつことである。
子は親に対して、妻は夫に対して素直に随順感謝するとき病気が不思議に治るのである。

            <感謝合掌 平成30年1月28日 頓首再拝>

《常に善念を把持すべし》 - 伝統

2018/01/31 (Wed) 03:56:31


          *「光明法語」(1月31日)より

神は人間に完全なる自由を与えたのである。
幸福も不幸も健康も病気もその外(ほか)なにものでも
諸君は心に描くことが出来るのである。
そこに完全なる人間の心の自由があるのである。

心に描けば法則が自働して心に描いたものを形に現してくれるのである。
諸君は自分の運命の構図を書くことが出来る。
そして好きな所に花咲かせ鳥をうたわせることが出来れば
又すきな所に地震も津波も大暴風(あらし)もおこすことが出来るのである。

全ての人々に愛念を起こすべし。
すべての悪を否定せよ。
善のみ汝の心を集中せよ。善のみ来(きた)るであろう。

            <感謝合掌 平成30年1月31日 頓首再拝>

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