伝統板・第二

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人の上に立つ者に求められること⑥ - 夕刻版

2016/07/02 (Sat) 19:01:26

指導者の条件61(正しい信念)

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は何が正しいかを考えつつ信念を養い高めなくてはならない。


ケネディがアメリカの大統領だった時に、
ソビエトがキューバにミサイルの基地を造りかけたことがあって、
それが90%近く完成したところにアメリカの知るところとなった。

その時にケネディは、ソビエトの当時のフルシチョフに、
「アメリカの目と鼻の先にあるキューバに基地を造られては、アメリカ国民としては
非常に不安であり、困る。だからこれを撤去して貰いたい」と申し入れた。

さらに、「もし、あなたの方でいついつまでに撤去されないのであれば、
アメリカの手で自ら行います」ということを断固として伝えた。

その結果、色々のいきさつはあったのだろうが、結果としては、
フルシチョフも「自分の手で撤去しましょう」ということになったのである。

これがいわゆるキューバ危機であるが、
この折ケネディは、場合によっては一戦も辞せずという覚悟で、
艦隊を出動させ海上封鎖を行い、いわゆる臨戦態勢までとった。

しかし、結局、戦争にはならず、
アメリカは一兵も損せずしてミサイル基地の撤去に成功したのである。
これはやはり、ケネディ大統領の決意が極めて強かったからであろう。

そしてその決意は、何が正しいかということを考え、
それを信念を持って行うというところから来ているのだと思う。

「キューバにミサイル基地が出来れば、アメリカの国家と国民の安全は根本から脅かされる。
これは断じて許すことは出来ない」ということから、場合によっては
武力行使も辞せずという強い信念が生まれてきたのだろう。

その信念がフルシチョフをも動かし、基地撤去となったのだと思う。
もちろん、そうした信念の背景にはアメリカの巨大な軍事力があるのはいうまでもない。

それなくして、「撤去してくれ」と言っても、無視されるのが関の山だろう。
しかし、ソビエトもアメリカに劣らぬ強国である。
武力だけではおいそれとは譲らないであろう。

やはり、何が正しいかということに立った強い信念とあいまって、
初めて軍事力がものをいったのだと思う。

そういうものなしの武力が必ずしも真の力を発揮できないことは、
その同じアメリカがソビエトよりもはるかに弱小国と言える北ベトナム相手に、
大きな犠牲を払いながら、ついに勝利を得ることが出来なかったのを見ても明らかである。


指導者にとって正しい信念ということがいかに大切かが分かると思う。

・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・伝統・第一「人の上に立つ者に求められること」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=46

(2)スレッド「人の上に立つ者に求められること①」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6456974

(3)スレッド「人の上に立つ者に求められること②」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6518568

(4)スレッド「人の上に立つ者に求められること③」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6565311

(5)スレッド「人の上に立つ者に求められること④」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6611149

(6)スレッド「人の上に立つ者に求められること⑤」
   → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6747214


          <感謝合掌 平成28年7月2日 頓首再拝>

幕末の軍師・大村益次郎 - 伝統

2016/07/06 (Wed) 19:27:48

なぜ混成の新政府軍が幕府軍に勝ったのか?
時代が切り替わる今こそ学びたい幕末の組織変革

       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年4月18日)より


幕末の軍師・大村益次郎は、寄せ集めの混成軍を率いて軍事集団だった幕府軍に勝利する。
そこには自軍の核となる強みを見抜き、新時代に合わせた軍制につくり変えた
革新的な組織改革があった。


   【法則11】変革は「核となる強み」を見抜けるかどうかで決まる
    混成の新政府軍が、なぜ軍事集団の幕府軍に勝てたのか? 

    阿片戦争で清がイギリスに敗れたことは、日本に伝わり海防への危機感を高めた。
    日本最後の内戦である戊辰戦争で、徳川幕府と維新勢力の薩摩・長州が激突する。

    元医者の大村益次郎を参謀に、庶民との混成軍である維新側は、
    なぜ軍事集団の幕府軍に勝てたのか? 


《海外列強の脅威に直面した、徳川幕府と薩摩・長州の駆け引き》

1600年から続く徳川幕府は、鎖国政策で通商条約などの締結を拒絶していました。
しかし1853年に、アメリカ海軍のペリーが艦隊を率いて来航、流れが変わります。

幕府は各藩に陸・海上を警備させますが、
剣術修行で関東にいた若き日の坂本龍馬も召集に応じています
(翌年の再来航でアメリカと条約を結び、日本の鎖国が終わった)。

 
京都の治安が乱れて、幕府は1862年に会津藩を京都守護職に任命、浪人組織の新撰組と共に
治安維持を命じます(江戸には同様な“新徴組”という浪人組織があった)。

権威のゆらぐ幕府は、朝廷と結びつき権力を一本化して、
徳川家を存続させる「公武合体」を目指します。

有力藩だった薩摩藩は会津藩と同盟して公武合体派を強化、
倒幕派の長州藩はこれに危機を感じ、1864年に京都で会津藩と交戦します(禁門の変)。

会津・桑名・薩摩(西郷隆盛が指揮)・新撰組などの“幕府側”が長州軍を撃退する中、
長州側の弾丸が御所に入ったことで長州は朝敵となり、わずか2後に第1次長州征伐が行われ、
長州藩は戦わずして降伏します。

長州藩の劣勢を逆転させたのが坂本龍馬です。
イギリスの貿易商トーマス・グラバーの後ろ盾を得た龍馬は、遺恨のある薩摩と長州を結び付け、
1866年に薩長同盟が成立。龍馬の会社、亀山社中は軍艦や西洋の武器を両藩に調達します。

長州の不穏な動きに幕府が行った第2次長州征伐は、薩摩藩が参加せず、
さらには長州藩(高杉晋作が指揮)が龍馬の調達した洋式武器を装備したことによって失敗し、
幕府の権威が完全に失墜したことを示すことになりました。

1867年、ついに大政奉還が行われますが、薩長は旧幕府勢力を一掃するために挑発を重ねます。
挑発に耐えかねた旧幕府軍は薩摩藩邸を焼き討ちし、大坂の徳川慶喜を中心に京都への上洛を決定。

長州藩は朝廷から赦免を受け、旧幕府軍が上京すれば「朝敵」とするとの布告を得て、
今度は薩長が旧幕府軍を“朝敵”にする立場の逆転に成功します。


《村医の息子、大村益次郎が幕末維新を生み出す軍師となった理由》

第2次長州討伐を含め、長州軍の度重なる勝利に貢献したのが軍略家の大村益次郎です。

大村は医者を目指し当時有名だった広瀬淡窓や緒方洪庵に学びます(1846年)。
しかし洪庵の「上医は国の病を治す」との言葉から、帰藩後、西洋兵術の翻訳・研究に従事。
やがて彼は長州藩の軍制改革の指導者となっていきます。

大村を軍略家に押し上げたのは、西洋兵学の核心をつかんでいたことです。
大村の戦略の根幹には「最新式の銃・火砲の性能を最大限に活用する」という発想がありました。

最新の銃や大砲は命中精度が高く射程距離も長いので、
上野の彰義隊との戦いのアームストロング砲のように、
相手の攻撃が当たらない距離で敵に打撃を加えられたのです。

欧州では1800年代初頭のナポレオン戦争から火力を中心とした兵制の
三兵戦術(歩兵・騎兵・砲兵を統合して指揮)が研究され、大村もオランダ人クノープの兵学書を
翻訳して長州藩で講義に使いました(書籍名は『兵家須知戦闘術門』)。

 
大村は自らのつかんだ核心を元に、新時代の軍制をつくり戊辰戦争で勝利を重ねます。

(1)武士だけでなく農民も武装・訓練を施して戦力とした
(2)すべての兵士に銃を持たせ、年式を統一して弾薬の補給を効率化した
(3)新式銃を使い、うつ伏せの体勢で物陰に隠れて敵を攻撃
(4)敵の攻撃が届かない遠方から撃ち、優勢な火力で一方的に打倒する

 
京都の鳥羽・伏見の戦いの旧幕府側の指揮官は竹中重固でした。
彼は秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛を先祖に持ち、
桑名軍には12代目服部半蔵が率いる部隊もありました。 

幕府側は、当時最強の会津、桑名藩でも武装は刀や槍を重視しており、
一部に最新鋭の銃砲隊があるも、指揮官が古い戦闘法しか知らず、
合理主義の薩長に敗退します。

同時代に最新式の銃や大砲、西洋兵学に触れた者は何人もいましたが、
大村の軍事指揮と兵制改革は群を抜いて優れていました。

彼は勝利を左右する要素を正しく見抜いており、重火器の最大活用以外に目もくれず、
兵士が差した刀を無駄と断じていました。

長州討伐で幕府軍を迎え撃つとき
「大村の出で立ちは、草履ばきに浴衣姿、渋団扇を手にするという型破りのものだった」
とされています(NHK取材班・編『その時歴史が動いた〈18〉』より)。

これは西洋の武器に敗北を続けた新撰組の土方歳三などが、のちに洋風の服装に切り替えたことと、
ある意味で対極を成す姿ではないでしょうか。

オランダに軍事留学していた幕臣、榎本武揚も戊辰戦争では有名な人物です。
彼は最新の戦艦「開陽丸」をオランダから日本に運んでいます。
全長73メートルの巨大戦艦、開陽丸はオランダ軍にも同じ船はないと言わしめた
当時の最新鋭艦でした。

しかし開陽丸は、小さな海戦で圧倒的な威力を見せたものの、
最大限活用をすれば戦局を逆転するほどの威力がありながら、
最後は北海道の江差港で座礁して沈没。

阿片戦争でイギリス海軍がわずか数隻の戦艦で達成したことを考えると、
当時薩長軍にもない強力な開陽丸は鳴かず飛ばずだったといえるでしょう。

最新鋭艦という強力な武器も、相応しい運用方法がわからず宝の持ち腐れとなった一方、
最新の用兵術を学んだ大村は、ゲベール銃からアームストロング砲などの威力を存分に活用して、
古い軍事常識にしばられた旧幕府軍を瓦解させることに成功したのです。


《核となる強み、守るべき点と大変革をすべき点を見抜く》

大村は、戦略(ストラテジイ)と戦術(タクティクス)の違いを理解していました。

 「江戸湾の防禦として幕府が品川に台場を築いたことは知っておろう。
  あれはタクチックだけで、ストラトギイということを知らない人間がこしらえたものである」
              (木本至『大村益次郎の生涯』より)

この言葉は、自らの門下生に言ったものですが、大村は本質を理解したことで、
変革すべき点や無駄な点を見抜く力をもっていたのです。


スイス製の安価でファッショナブルな腕時計として有名なスウォッチは、
1985年にニコラス・ハイエクという技術コンサルタントの発案から始まりました。

彼はスイス製でありながら、日本の独占する低価格腕時計の市場を奪い返す新製品がつくれないか
と考えたのです(当時のスイス製のシェアは低価格0%、中級3%、高級品97%)。
(ゲイリー・ハメル、C・K・プラハラード『コア・コンピタンス経営』より)

彼はアジアの競合企業にマネできない、しかしヨーロピアン感覚と落ち着きをテーマにした
低価格の腕時計を企画し、一方で設計・製造・流通などは大変革に挑戦しました。
スイスの古い伝統を打破し、労務費を小売価格の1%程度まで削減したのです。

さらにスウォッチの成功による利益をスイス製高級腕時計のオメガ、ブレゲなどに投入して、
最新の生産管理と直営店舗を導入。高品質のイメージを維持しながら高収益を達成しています。

ハイエクは守るべきものと変革するものを正しく見抜き、良き伝統の中に大変革を内包させたのです。
前出『コア・コンピタンス経営』には、「市場は成熟するが、企業力は市場を超えて伸びる」
という言葉があります。

 
大村やハイエクは異業種から参入し、その本質を捉える能力を新たな舞台で発揮した一方で、
榎本武揚や旧幕府軍人は、徳川幕府という伝統と古い思考の枠に囚われており、
最新の武器を手にしても、その威力を引き出すことができなかったのです。

       (http://diamond.jp/articles/-/89620


          <感謝合掌 平成28年7月6日 頓首再拝>

『任せる覚悟』 - 伝統

2016/07/08 (Fri) 19:39:45


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


“このピンチは、お前に任せた”

ピンチに立ったマウンドの上のピッチャーに近寄ると、
監督はひと言こう言い放ち、あとはベンチに下がって黙って見守る。
そして、そのコトバに発奮したピッチャーはピンチをしのぐ……

こうなればしめたもので、監督とその投手の間では信頼関係が成り立ってくる。

だが、いつもそれで成功するわけではない。
危機を回避するという観点からいうと、
リリーフを準備しておくべきではないかとの反論も聞こえてきそうである。

リリーフ投手を準備するか、しないかは別問題として、ここで私は、
上役として部下に“このピンチは、お前に任せた”というからには、
覚悟を持つことの大切さを指摘しておきたい。


ある会社で、専務が同じ課の2人の係長を別々に呼び出し、同じ質問をした。
“君の部下のA君いついて、どう思うかね?”

それに対してX係長はこう答えた。
“そうですね。賭け事やお酒が好きなようで、時々遅刻もします。
正直、欠点のある人物と思います。

しかし、こと仕事にかけては優秀です。
悪い点は、私が 少しずつ注意します。これからも彼は私が育てたいと思います”


もうひとりのY係長はどう答えたか。
“A君は、確かに仕事はできます。
しかし私生活が乱れているようで、時々遅刻するなど、
課内の雰囲気にも悪影響を与えています。

実のところ手を焼いています。
前からお願いしようと思っていたのですが、A君を他の部署で引き取ってください”

日を経ずして人事異動が発表された。
課長に抜擢されたのはX係長で、Y係長は同じ係長に留まった。


後日、その専務と知り合いだった私は、ことのてん末を聞くとともに、
その人事の理由を質問したところ、
次のような返事が返ってきた。

“X係長は、あくまで仕事を中心にA君を評価していた。
素行の悪さは自分が責任を持って直すと、部下をかばった。

ところが、Y係長はA君をダメだと突き放した。
仕事ができる、と評価しているにもかかわらずだ。これでは管理職として失格。
だいいち、部下に愛情を持っていない”

これには後日談があって、いつのまにかこの人事の理由がA君の耳に入り、
それ以来、彼は私生活を改めて、強力な戦力になっ という。


“このピンチは、お前に任せた”

こう言うからには、部下に対して約束を守らなければならない。
そして、結果が失敗であれば、その責任は自分でカバーするぐらいの
覚悟を持つことも必要で ある。


「人を育てるための最も効果的な方法は任せることである」

というP.F.ドラッカーの言葉があるように、任せなければ人は伸 びない。

ときには失敗をしたり、間違いを犯したりする「チャンス」を与えないと部下は伸びない。

これをフォローするのが上役としての役割だ。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito61.html

          <感謝合掌 平成28年7月8日 頓首再拝>

指導者の条件62(ダム経営) - 伝統

2016/07/10 (Sun) 18:50:58


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者はあらゆる面にダム経営を心がけることが大切である。

上杉治憲、後の鷹山公が17歳で米沢15万石の家督を継いだ時、
藩の財政は窮乏のどん底にあった。

彼が相続する前の大飢饉に際しても、藩として領民救済のすべもなく、
多数の餓死者を出すという悲惨な事態になってしまっていた。

そこで治憲は自らも率先節約の範を示しつつ、家中に大倹約令を出すと共に、
有為の人材を抜擢して殖産興業をはかり、また不時に備えて、救荒米の備蓄に努めた。

その結果、10年ほど後には備荒倉に米が満ちるようになり、
天明3年、浅間山の噴火による奥羽地方の未曾有の大飢饉に際しても、
米沢藩では、先の悲惨な姿を繰り返すことなく切り抜け得たという。

この後殖産興業も次第に実り、かつては数百万両の借財にあえいでいたのが、
ゆとりある財政となり、治憲は江戸時代の代表的名君の一人として長くその名を讃えられている。


治憲のしたような、救荒米の備蓄というものは、
名君といわれるような領主は多くやっているようである。

これはいわば一つのダム経営というものではないかと思う。

河川の水を流しきりにせずに、ダムを建設して、水の多い時はこれを貯え、
乾期に放流して水量の調節をはかり、さらにはそれを発電とか灌漑に利用している。

そうした考え方は、国家の運営なり、企業の経営、その他社会、
人生の各面に応用できるものであり、そうすることによってその時々の情勢に
左右されない堅実にして安定的な発展を生み出すことが出来る。


だから、特に指導者はこうしたダム経営を心がけなくてはならないと思う。

ダム経営というのは、言い換えればある程度のゆとりをあらかじめ持つということである。
企業の経営であれば、百の資金が必要な場合は百十の資金を用意する。
これが資金のダムである。

あるいは設備は90%の稼働率で適正な採算が取れるようにして、
10%の余裕を持つことによって、需要が急に増えても支障なく供給できるような
設備の面でダムを作る。

さらには、常に適量の在庫を持って、製品のダムとするなどが考えられよう。

そういうことが、景気、不景気に左右されない安定経営を生むことになる。

それと同じようなことが、国家経営、自治体、各種団体の経営にも要求されてくると思う。
そしてそういうことをしていくためには、まず指導者が自分の心の内に、
いわば心のダムというものを築くことが肝心ではないかと思うのである。

          <感謝合掌 平成28年7月10日 頓首再拝>

「渋沢栄一」 - 伝統

2016/07/15 (Fri) 18:50:34


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

明治維新は経済的に言えば、
日本が自由主義経済国、あるいは資本主義の世界に入ったことを意味する。

徳川時代は町人の勢力が徐々に発展してきていたとは言え、政治権力にはなっていなかった。
このことを体験して討幕を志した青年が今の埼玉県の村に生まれた。
日本の経済を維新後に軌道に乗せたリーダーの渋沢栄一である。

彼の生まれたのは農業と共に養蚕や藍玉製造もやっている富裕な家であった。
ところが当時の領主が金に困って富裕な家に寄付金を強要する(冥加金と言った)。
ところがその金を献上する側が代官の前に跪いてペコペコしながら差し出すのだ。

こんな情景を見て少年栄一は「こんなバカな話があるものか」と憤慨する。

そして江戸に出て―金がある家だから学資に困ることはない―漢学を海保塾で学び、
剣術を千葉道場で学ぶ。そして文久三年(一八六三)―薩英戦争があった年―同志を集めて
攘夷を決行し、その手始めに高崎城を占領する計画を立てたが、親類にとめられて中止した。

ところが妙な縁でその翌年、平岡円四郎の推薦で一橋家の家臣になった。
そして財政的にすぐれた才能を発揮したのが認められ、勘定頭に抜擢され、
更に慶応三年(一八六七)には将軍徳川慶喜の弟の昭武が日本政府代表として
パリ万国博覧会に出席する時に、財布を預かる役目としてヨーロッパに渡った。

そしてフランスはじめヨーロッパの先進諸国を廻り、すぐれた工業技術や経済制度を
直接に見学して、将来の日本のあるべき姿をはっきり頭の中に焼き付けた。

途中で幕府は潰れたが、彼は当時の留学生たちの経済的配慮も落度なくやって帰国し、
一時、慶喜のいる静岡藩に仕えた。

しかしこのような有用な人材を、富国強兵を目指していた
―つまり欧米先進国に追いつき追い越すことを目指していた―
明治政府が放っておくわけはない。

新しい貨幣制度、租税制度、国立銀行制度など、彼が関与しないものはない。
しかし健全財政主義―入るを量って出づるを制す―を奉ずる彼の意見は政府に容れられず、
34歳の時に退官。

以後、死ぬまで民間人として日本の経済界に盡すことになる。

まず第一国立銀行を立て、更にその他の銀行の設立、手形交換所、製紙会社(王子製紙)、
主要紡績会社、日本郵船、民営鉄道、造船会社、肥料会社、電力会社、ガス会社、
東京株式取引所、帝国ホテル…など、
その後の日本の株式市場の重要銘柄になった多くの会社の設立の推進力となった。

しかし彼は三井、三菱、住友、安田のような財閥を作らなかった。
作ろうと思えば簡単であったろう。しかし私欲を捨てて、日本に株式会社という
資本主義の基本的制度を普及させ、根付かせようとしたのであった。

岩崎弥太郎が渋沢と手を組んで日本の経済を支配しようと申し出た時、
渋沢は、「それは日本のタメにならない」と言って断ったと伝えられる。

渋沢は自分が関係し設立した銀行や会社の株の一割以上は持とうとせず、
それを欲しがる関係者に渡したが、利益の上がらない株だけを手許に置いたとも言われる。

渋沢のこの清廉さは誰でも知っていたから、財界・経済界の大御所としてみんなに尊敬された。
大臣になるようにすすめられても一切ことわり、民間経済人の向上のみに心懸けた。

「論語と算盤」は両立すると唱え、自ら実践し、経済人の道徳心を覚醒しようとした。

また東京高商(今の一橋大学)はじめ多くの実務の学校を建て、
孤児院などの社会事業にも熱心であった。

特に民間による国際親善に努力し、彼の邸宅を訪ねた外国人要人は千人を超え、
また彼自身も老躯をかえりみずアメリカに渡って日米親善をすすめた。

しかし大正13年(1924)にアメリカが排日移民法を成立させた時は、
落胆、かつ憤慨して、次のような趣旨の演説を帝国ホテルでやっている。

「自分は日米の親和に努力してきた。日本が移民をアメリカに送り、日本がアメリカから
物資を購入するのは両国のために良いと思っていた。しかし今やアメリカは日本から移民を入れない、
土地を相続させない、というようなことをやりだした。これを見ると、私は青年時代に攘夷を
やろうしたが、あの時の志を捨てなければよかったと思うくらいだ」と。

温厚、無欲な85歳の渋沢がこれほど怒ったのだ。
昭和天皇も「日米戦争の遠因はアメリカの対日移民政策であり、近因は石油禁輸である」と言われた。
これが歴史の本当のところであろう。

渋沢はその7年後、92歳で病没した。民間人としては珍しく子爵も授けられている。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/26.html

          <感謝合掌 平成28年7月15日 頓首再拝>

『リーダーの条件』 - 伝統

2016/07/23 (Sat) 18:33:17


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

ビジネスリーダーとして求められる「人間的能力」は、
心構えひとつで高めていくことができるものだ。

私自身の経験からしても
“人間は後天的にものの考え方を改めたり努力したりすることで、
驚くほど自分を変えることができる”と自信を持って言える。

それでは、ビジネスマンとして成功するための必須条件=「人間的能力」とは、
いったいどういうもので、どうすれば高めること ができるのであろうか?


まず、「人間的能力」は具体的にどういった能力を指すのか、
ということについて考えてみたい。

人の上に立つものとして、まずは、常に部下一人ひとりの性格をよく見極め、
“この問題は、あの部下の性格と立場だったらどう 解決するだろうか”
と思いやることが肝要だ。

それこそが、文字通り、コミュニケーションの原則である
「相手の立場に立つ」ことであり、基本的には、部下を一人の人間として認め尊重する、
もっとつきつめて云、部下に対して限りない愛情を持つということである。


それも、部下に対する愛情や配慮はワンパターンではなく、
常に疎に一人ひとりの個性やニーズに見合った、
いわばテイラーメイドした各論を注がなくてはダメだ、ということである。

しょせん、ビジネスも「人間対人間の問題」である。

要は、リーダーとして、上司として、同僚として、部下として、また一人の 人間として、
心のそこで温かい愛情を注げるかどうか、と云うひとことに尽きるような気がする。

すなわち、これが「人間的能力」である。


どうすれば「人間的能力」を高めることができるか、
ということについては、これは自分の可能性を信じて、
ただひたむきに努力し、様々な局面で自分を磨いていく以外にない。

ただし“これは”と思える人格者には、共通した6つの特性・特長がある。
それを参考にすればいい。

  (1)考え方・態度が肯定的であること

  (2)謙虚さの持ち主であること

  (3)常に吸収しようとする態度を持っていること

  (4)明確な価値観を持っていること

  (5)感動する人間であること

  (6)健全な肉体の持ち主であること


いずれにせよ、「人間的能力」の無い人の下には、心ある人間は集まらない。
“あなたのために仕事がしたい”という人材が駆けつけることも無い。

結果、あなたの仕事もたいした発展はしないのである。

自分の中の部分を開発しようと努めれば、可能性は拡がるのだ。
努力は報いられるものである。

いつでも「人間的能力」を磨く心を構え忘れたくないものだ。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito63.html

          <感謝合掌 平成28年7月23日 頓首再拝>

指導者の条件63(調和共栄) - 伝統

2016/07/26 (Tue) 18:16:50


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は人間みな兄弟の思いを持たなくてはならない。

   よもの海みなはらからと思う世になど波風のたちさわぐらむ

明治天皇の有名な御製である。

天皇がこれを詠まれたのが明治37年のことであるから、ちょうど日露戦争の年になる。
つまり、ロシアとは戦いはしたが、明治天皇のお気持ちとしては、
いささかも相手憎しというようなものはないのである。

不幸にして、やむにやまれぬ理由からお互いに敵味方と分かれて
一戦を交えることになってしまったが、本当はお互いに同じ人間として
兄弟の如きものであり、調和共栄していくべきものであるということが
お心の内にあったのだと思う。

そして、これはひとり明治天皇のお心であるだけでなく、
いわば日本の伝統の精神だと思うし、さらに広く考えれば、
人間共通の思いであり、願いであると思う。

しかし、翻って今日の社会なり世界というものを見る時、
こうした日本の伝統精神なり、人間共通の願いに反した姿の何と多いことだろうか。

それはまさに、”四方の海みなはらから”であることを忘れた姿だと言わなくてはならない。

だから、世の指導者の人々は、今こそ
この”みなはらから”という思いに立ち返る必要があると思う。
そして、兄弟としてどうあるべきかということを考えなくてはならない。

全ての指導者がそういう思いに徹し、そのように行動していったら、
この世の中の争いはほとんどなくなっていくであろう。

経済界の過当競争もなくなるし、労使が角突き合わせて相争うということもなくなるだろう。

政党同士もいたずらに対立に終始することなく、
国家国民のために協調していくことになるだろう。

そして何よりも、非常に大きな不幸の原因である紛争というものが、
この世界から次第に姿を消していくのではないだろうか。

          <感謝合掌 平成28年7月26日 頓首再拝>

「フリードリッヒ大王」 - 伝統

2016/07/29 (Fri) 20:12:47


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


大王とか大帝とか言われる人―――名前の後に英語でthe Greatがつく人―――は
近世・近代には3人ぐらいしかいない。

ロシアのピョートル大帝と、我が明治大帝とフリードリッヒ大王ぐらいである。

満洲国を作る中心者であった石原莞爾にもフリードリッヒ大王についての書物がある。

フリードリッヒが生まれたのはプロイセン(英語ではプロシヤ)である。
プロイセンはベルリンを中心とする東ドイツ領あたりの小国である。

彼が生まれた頃、つまり1712年(徳川六代将軍から七代将軍家継に変わる頃)
のプロイセンは、三十カ国以上もあるドイツ諸侯国の一つに過ぎなかった。

もっとも南ドイツのバイエルン(英語ではババリア)と並んでその中では
最も大きい国の一つであったが、イギリスやフランスやオーストリア(当時は大国)や
ロシアなどにくらべれば、一つの諸侯国の一つであって、格が一段下なのである。
ドイツはまだ一つの国として統一されていなかった。

フリードリッヒは父親のフリードリッヒ・ヴィルヘルム一世によって
厳格な軍事訓練とその教育を受けた。
しかしフリードリッヒはそれが嫌でたまらず、青年時代いろいろ問題を起こしている。

彼が青少年時代に好きだったのは音楽とフランス文学であった。
この文学青年が後にヨーロッパ切っての戦争の名人になるのだから不思議である。

ナポレオンも驚くべき読書家であったし、
後にドイツの大参謀長になったモルトケも文学好き、音楽好きであった。

おそらく文学は想像力と関係があるので、フリードリッヒも想像力が豊かな青年であり、
その欲求を満たすためにフランス文学を好んだのであろう。
王位につくとその想像力が実務と結びつき、大王を作り上げたものと思われる。

 
当時のオーストリアはハンガリーやその他の東欧諸国を含む大帝国であった。
そのオーストリアがシュレージェン地方(英語でシレジア)に野心を伸ばした時に
フリードリッヒは反撃して先ず軍事指揮者としての名声を得た。

当時は三十年戦争(1618~1648)という残酷な宗教戦争に対する反省から、
あまり殺し合いをやらずに、軍隊の運用の上手下手で勝負が決まったことにし、
また勝った方も敗者に過重な要求をしないのが普通になっていた。

しかしフリードリッヒは実戦を忌避しないで戦ったのである。
オーストリア軍と二度も大きな戦い(1741、1742年)をして勝ち、
シュレージェンを占領した。

そして第二次シュレージェン戦争(1744~1745)でも大きな土地を手に入れた。

その後、オーストリアはロシア、スウェーデン、ザクセン、フランスと一緒になって
フリードリッヒの小さなプロセインと戦うことになる。

フリードリッヒはイギリスから財政援助などを得て
――イギリスが大陸でフランスが強大になることを抑止するのはその伝統的政策であった――
実によく戦った。

しかし勝つ見込みはまるでない。
戦場でも勝ってばかりいたわけでない。
これが7年も続いた。
これが有名な7年戦争である(1756~63)。

そのうちロシアでフリードリッヒに好意を持つ皇帝が出てきたおかげで、
フリードリッヒは敗戦国にならずに済み、シュレージェン地方も維持し、
領土を拡大したままで終戦となった。

この例のためか、昭和20年頃、
日本政府はソ連(ロシア)に頼んで大東亜戦争の幕を引こうとしていた。

私は中学生だったが、その頃のラジオで、フリードリッヒ大王の7年戦争のことが、
日本人を勇気付けようという意図で放送する番組を聞いたことを覚えている。

 
フリードリッヒは後に、第一次ポーランド分割に参加したりするが、
晩年の約30年間は戦争しなかった。またする必要もなかった。
どの国もフリードリッヒと戦争するのを嫌がったからである。領土は倍になっていた。

彼は青年時代以来の文学と音楽を愛好し続けた。
彼のベルリン郊外のサン・スーシー宮殿は文学と音楽の中心となった。
フランスからはボルテールが客として滞在した。

大王自身が大バッハを驚かせるほどの作曲もした。

彼のシンフォニーを朝早くレコードで大きくかけると、
私の子供達がみな寝床から起き出してきたことを憶い出す。
それほど晴れやかな、元気のつく曲なのである。

大王は特にフルートを好み、楽団の一員として宮廷で演奏もした。
かの作曲家ヨハン・ヨハヒム・クワンツが1本ないし2本の
フルートのための協奏曲約三百曲のほか、
フルートのための厖大な数の曲を残したのは主としてフリードリッヒのためである。

74歳になった大王は自分の愛する軍隊が軍楽隊と共に行進するのを、
椅子にすわって眺めつつ、静かに息を引き取った。

ナポレオンはフリードリッヒを尊敬し、青年時代にその肖像画を部屋に飾っていたという。

ナポレオンは後に大王のプロシア軍を粉砕して満足したのであったが、
後にプロシア参謀本部の軍隊によって最終的な敗者にされ孤島セント・へレナに流されて死んだ。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/24.html

            <感謝合掌 平成28年7月29日 頓首再拝>

『権力に頼るな』 - 伝統

2016/08/01 (Mon) 21:28:36


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

リーダーであるためにはと云うより、
リーダーとなるととりあえず「権力」が 与えられる。

このことで、部下の昇進・昇格、ボーナスの査定、配置換え・転勤などに
影響力を発揮することが可能となる。

逆に、部下からすれば、生殺与奪権が握られていることになり、
とりあえず、ついていこう、ついていくフリをしなければ、
ということになる。


アメリカには、

「あなたが社長職についた途端に起こることは、
あなたの中・高校時代からの知り合い全員が
“自分があなたの ベストフレンド”だったと記憶しているということである」

といった警句がある。

これは、人は権力におもね、権力にへつらうということに結びつく。


つまり、権力の座についた人が心すべきなのは、
自分のところにもみ手をして擦り寄ってくる人たちの95%は、
自分の権力や立場につきまとう利益が目当てなのであって、
ひとたび権力の座からはずれたらハナもひっかけない、
という冷厳な事実を知るということである。

ここのところを取り違え、他人が自分をチヤホヤするのは、
自分の個人的魅力によるのだろうなどと思い込むのは、
おかしくも悲しい幻想であり、錯覚であ る。


では、納得ずくで部下を率いるためには何が必要か。
いわゆる「心服」させるための基本条件は何かということになる。

まず、実績(結果)が欠かせない。
どういう仕事をしてどういう結果を出してきたか、
その人に他のどんな条件が備わっていたとしても、
実績をあげていない人は、他人を納得させたりリードしたりすることはできない。

そしてもうひとつ、人を納得ずくでリードするための、もっとも基本的で、
かつ重要な能力は「権威」である。

権力に頼らず 「心服」させるものは権威なのである。


権威というものは、その気になりさえすれば高めていくことは可能だ。
ゆえに私は、リーダーシップは生まれつきのものではなく、
後天的に誰でも身につけ ることができると、再三強調しているのである。


権力があれば、部下に対して指示や命令を下すことができる。
部下はクビになるのが恐ろしいから、従わざるを得ない。
したがって上の立場についた者は、それなりにリーダーシップを発揮しやすい。

だが、この場合、部下は納得してついてきているわけではない。
強制ないし恐怖で従っているだけである。
心服させたかったら権力に頼ることなかれと自戒 したい。


強制でなく納得ずくで率いてこそ、本当のリーダーなのである。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito68.html

            <感謝合掌 平成28年8月1日 頓首再拝>

指導者の条件64(使われる) - 伝統

2016/08/06 (Sat) 18:08:42


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は一面部下に使われるという心持ちを持たねばならない。

北条氏康は、早雲の孫に当たる戦国の武将だが、
父祖の業績を継いで、ついに関八州を平定した。

彼はよく民を治めるとともに、戦って百戦百勝という、
いわゆる文武両道に秀でた名将であった。

その彼が隠居して息子の氏政に家督を譲った後、ある時氏政に、
「お前は国を譲られて、今何を楽しみとしているか」と尋ねた。

それに対して氏政が「部下を選び、その能力を判断することを楽しみとしています」と
答えたところ、氏康は、「それはけっこうだ」と言った後、「が、しかし」と言って
次のようなことを付け加えたという。

「大将として部下を選ぶのは普通のことだ。けれども、部下が大将を選ぶ時もある。
日頃部下を愛し、民を慈しまないと、一朝事あった場合は、他に名君良将を求めて
去っていってしまう。

だから大将たる者は常にその事を心がけなくてはいけない。
富貴の家に生まれ、不自由なく育つと、そういうことが分からなくなるから、
お前も十分心しなくてはいけない」

不幸にして氏政はせっかくの父の教えを十分には生かせず、
またその子氏直もいわゆる小田原評定といったようにいささか優柔不断なところがあって、
ついに秀吉の軍門に降るに至るのである。

しかしながら、秀吉の大軍相手に半年の籠城に耐え、
しかもその間よくありがちな裏切り者は少なく、そして氏直が許されて高野山に赴いた時も、
命を捨ててもこれに従おうという者が極めて多かったという。

それだけ人材が育っていたわけで、それはやはり早雲以来、
特に氏康の代に培われたものが大きかったのであろう。

と同時に、そうしたせっかくの人材も大将に人を得なくては、
十分に生かされないということでもあると思う。

実際のところ、形の上では一般に指導者が人を使って仕事をしているように見えるが、
見方によっては指導者の方が使われているのだとも言える。

だから、口では「ああせい、こうせい」と命令しても、
心の奥底では、「頼みます」「お願いします」さらには「祈ります」と
いった気持ちを持つことが大事だと思う。

そういうものを持たずして、
ただ命令しさえすれば人は動くと思ったら大変な間違いである。

こうした心境があって、初めて部下に選ばれる大将になりうるのである。

特に大きな組織、集団の指導者ほど、この心構えに徹することが必要だと言えよう。

            <感謝合掌 平成28年8月6日 頓首再拝>

天才ハンニバルは、なぜ失敗したのか? - 伝統

2016/08/10 (Wed) 18:55:02


       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年7月13日)より

天才ハンニバルは、なぜ失敗したのか?
勝敗は○○の「数」で決まる


イタリア半島で勢力を拡大した強力なローマと、海運国カルタゴが衝突したポエニ戦争。
カルタゴのハンニバルは連戦連勝でローマを驚愕させるも、最後は総力戦で敗れてしまう。

なぜ天才軍略家と呼ばれたハンニバルは、ローマに負けてしまったのか?
ハンニバルの敗北から、戦略の絶対ルールが見えてくる。


《わずか25歳で、スペインの最高指揮官となる》

戦略の天才として有名なハンニバル・バルカ。
彼の父ハミルカル・バルカは、第一次ポエニ戦争で、
カルタゴ軍の勇将としてシチリア島で戦います。

しかし補給を担当する海軍がローマに敗れたため、
カルタゴは膨大な賠償金を支払い休戦します
(これでカルタゴは200年近く保持した、重要拠点のシチリア島領土を失った)。


父ハミルカルは、敗戦後にカルタゴの勢力を拡大するため、スペインに進出。
9歳だったハンニバルは父と一緒にスペインに行くことを願い、
出発を前に「けっしてローマの友にはならない」と誓うことで同行を許されます。

ハミルカルとバルカ家のスペイン侵略は順調に進みますが、
前228年にヘリケーという都市を攻略中、敵の偽計にだまされて敗走。
ハミルカルは二人の息子を助けるため、敵をひきつけて騎馬で川を渡り、そこで戦死します。


その後はハミルカルの娘婿がスペインの侵略を継続し、前221年の彼の死のあと、
青年ハンニバルが兵士全員によって最高指揮官に選ばれます。
そのときわずか25歳。ハンニバルがスペインの最高指揮官となった瞬間でした。


《ハンニバル、カンネー(カンナエ)でローマ軍7万人を全滅させる》

父の遺志を継いだハンニバルは、最高指揮官となりすぐに軍事侵攻を開始します。
最初の3年間は、主にスペインの領土を拡大、盤石なものにする戦争でした。

前218年、37頭の戦闘象と約5万の兵力でスペインを出発して、
北イタリアからローマ領土に侵入。次の3つの戦いで勝利を収めたのちは、
彼は南イタリアのカンパニア地方を目指します。

(1)ティキヌスの戦い(紀元前218年)
(2)トレビア川の戦闘(紀元前218年)
(3)トラジメーノ湖の戦い(紀元前217年)

南方の穀倉地帯は食糧が豊富で、本国カルタゴとの連絡が可能な港があったからです。

カンネー(カンナエ)はローマが物資を貯蔵していた地区であり、
ハンニバルはカンネーを奪取して食糧を奪い、その地でローマ軍と対峙します。

決定的な戦いは、前216年に起こりました。
カンネー(カンナエ)でローマ軍8万人と、ハンニバルのカルタゴ軍5万人が激突。
ハンニバルの巧みな用兵でローマ軍は包囲されてほぼ全滅。

8万の大軍のうち、7万人が戦死。
元老院議員も80名以上が戦死し、
一方のカルタゴ軍は5700名の戦死と圧倒的な勝利を収めたのです。


《勝利したら、必ずその果実を刈り取るべきである》

カンネーの決定的な勝利のあと。
ハンニバル軍内では、指揮官たちが口々に言ったことがありました。

「いますぐローマに進軍すべきだ」です。

ローマの大軍を壊滅させた戦果を利用し、敵の中心地を急襲すべきというのです。

「前216年のこの夏の何日かの間、カルタゴ軍は全能の力を手に入れていた。
一気にローマ市を衝けば何が起こったかわからない。
カンナエからローマまでわずか数日の距離であり、しかもこの時点でイタリア半島には、
ローマの外港オスティアの艦隊と、新たに徴兵した急ごしらえの二軍団以外、
いかなるローマ軍もいなかった」(『通商国家カルタゴ』より)

しかしハンニバルは結局、この奇襲作戦を否定します。
進軍を強く主張した騎兵隊長マハルバルは、有名な言葉をハンニバルに叩きつけます。

「ハンニバルよ、貴方は勝つすべは知っている。
だが、勝利の果実を刈り取ることはできないのだ」(『ハンニバル』長谷川博隆)


別の説では後半部分が「勝利を活かす方法を知らないのだ」ともされていますが、
マハルバルや幕僚からは、カンネーの大勝利で目の前に見えたローマへの道を、
ハンニバルがなぜ進まないのか、強い苛立ちを感じたのでしょう。

ハンニバルはカンネーの劇的勝利のあと、ローマの属領を分断させて味方にする
「持久戦」を仕掛けることになりますが、結局ローマの属州は彼の意図ほどには分裂せず、
強大なローマ帝国の団結力は、ハンニバルの期待ほど揺るぎませんでした。


カンネーで敗北した指揮官のヴァロは「祖国に絶望しなかった」としてローマに迎えられ、
ローマでは泣き悲しむことは禁じられました。誰も町を去ることも許されず、
ローマは不屈の闘志を見せながら、冷静に反撃の機会を伺ったのです。

ハンニバルは、有利な和平を望んで使者をローマに送りますが、冷たくあしらわれます。
ローマはその後、強敵ハンニバルを避けて戦闘を継続し、
次第に周辺地域のカルタゴ勢力を撃滅して、ハンニバル軍を窮地に陥らせて
戦局の逆転に成功します。



《1990年代、アメリカの名門IBMは分割の危機にあった》

勝利と、その勝利の果実を享受することが異なるように、失敗と完全敗北とは異なります。
一連の劇的な勝利によって、ハンニバルの前には千載一遇の新たなチャンスが出現していた
にもかかわらず、彼はそれを手にする機会を失いました。

逆にローマは、大敗北に絶望・混乱せず、失敗を完全敗北にしませんでした。
かえって新たな勝利の原動力にさえしたのです。


ベンチャー企業が一連の新製品、センセーショナルなアイデアやサービスで
大きな話題を創り上げることがあります。しかしその後、多くの企業は最初の成功に満足して、
まるで大企業のように振る舞い始め、時間と共に静かに消えていきます。

注目を浴び、話題の企業になった最初の大勝利を活かすことなく、
次の勝利を得ることにつなげなかったことが敗因です。

一つのイノベーションに依存して歴史の長い大企業のように振る舞い、
一つの優位点だけを守ろうとする、その保守的な姿勢が破滅を生み出すのです。


一方で、失敗を完全敗北にしないためには、
冷静で勇気ある判断ができるリーダーが不可欠です。


1990年代、大型コンピューターの巨人だった名門企業IBMは、
小型のPCが広く普及し始めて、一時は倒産寸前まで追い詰められます。

「IBMは倒産か分社化しか道はない」と盛んにメディアが報道する中で、
巨大企業の立場を活かし、世界的なネットワーク構築力を全面に出して
奇跡の復活を成し遂げたのは、新CEOに抜擢されたルイス・ガースナーの冷静な分析でした。


ハンニバルは、数度の敗戦でローマが混乱と意気消沈に陥ることを期待しました。
しかし、ローマの勇気と冷静なリーダーシップは健在であり、失敗を完全敗北とせず、
新たな勝利に結びつけてみせたのです。


イノベーションは、連続させなければ大勝利に結びつかない


世界的に著名なビジネス戦略家のゲイリー・ハメルは
『経営の未来』で、次のように述べています。

「イノベーションはいつだって数の勝負であり、イノベーションをたくさん行えば行うほど、
大きな見返りが得られる公算は高くなるのである」

「経営管理のブレークスルーは、どれほど大胆なものだろうと、
どれほどうまく実行されようと、単独では長期にわたって
競走上の配当をもたらしたりはしない」


イノベーションは、成功した企業のライバルたちを、一時的に機能不全に陥らせます。
古い方法が効果を発揮しなくなるからです。

ハンニバルは独創的な戦闘法で、
ローマ軍の方が軍勢は多かったにもかかわらず何度も勝利しました。
ハンニバルは敵の意表を突き、ローマ軍を機能不全に陥らせたのです。


一方でカンネーの劇的な大勝利のあと、ハンニバルは急にローマの分裂を待つ、
持久的な作戦に切り替えています。

多くの歴史家は、ローマを急襲してもカルタゴ軍は補給が続かなかったと指摘しています。
しかし、ハンニバルが自ら手にした勝利を継続するためには、
カンネーの勝利で得たポジションを活かしてローマを急襲し、
敵を混乱と絶望に陥れ続けることが、やはり不可欠だったのです。

http://diamond.jp/articles/-/94938


            <感謝合掌 平成28年8月10日 頓首再拝>

『人育て』 - 伝統

2016/08/13 (Sat) 18:02:10


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


およそ役員と名のついたビジネスマンにとって、
絶対妥協を許すことのできない条件とは、「人を育てる」ということである。

中国・春秋時代の名宰相といわれた管仲の言葉に、

「一年の計は穀を樹(う)うるに如かず、
十年の計は水を樹(う)うるに如かず、
終身の計は人を樹(う)うるに如かず」

とある。


すぐれた企業の条件が、従業員や株主、消費者など、自分の会社と直接・間接に
利害を共有するすべての関係者(ステーク・ホル ダー)に対する責任を連続的に、
すなわち終身はたすことであるとするならば、およそ取締役の冠をかぶる者としては、
つねに次代を託すにふさわしい後継者の 育成に心をくだく必要がある。


それをするためには、ものの順番として、
まず自らがリーダーとしての資格を身につけておかねばならない。

「すぐれた経営者の最大の共通的特徴は、日々の自己啓発を怠らないということである」

という、ドラッカー博士の言葉がある。

一 見平凡だが、ナルホドとうなずける。


部下育てを行う際のキーワードは、次の6つに絞られてくる。

(1)聴く……

   部下の意見に十分に耳を傾けること。
   動機づけの原点は、まず聴くことである。

(2)知らせる……

   これも動機づけの要因。
   会社や仕事の現状や将来の方向性を知らせる。

(3)決める……

   管理者とは意思決定者なり。
   部下の目標を優先順位を明確にしたうえで決定することも、決めるうちに入る。

(4)任せる……

   人は任せられれば、やる気が出る。したがって、実力もつく。

(5)チェックする……

   方針はどこまで徹底し、具体化し、正しく表現されているか、
   チェックなしには是正措置は取り得ない。

(6)ほめる……

   バランスとしては、八褒め二叱りが適当。
   「大声で褒め、小さい声で叱れ」という言葉もある。

   (http://www.jmca.jp/column/hito/hito69.html

            <感謝合掌 平成28年8月13日 頓首再拝>

【リーダー意識のある人】 - 伝統

2016/08/15 (Mon) 18:33:48


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年08月13日)より

   (中谷彰宏氏の心に響く言葉より…)

   リーダーになるのは、1人です。

   でも、「リーダー意識」は、全員が持つことができます。
   リーダー意識を持つと、仕事はがぜん、面白くなります。

   リーダーでなくても、リーダー意識のある人は、仕事を楽しめます。
   リーダーであっても、リーダー意識のない人は、仕事が面白くなくなります。

   リーダー意識というのは、他人のせいにできないことです。


   たとえば、店長はリーダーです。

   店長が、何か問題があると「社長が古いので」と、人のせいにする。
   この店長は、この時点で、リーダー意識を放棄(ほうき)してしまっています。

   リーダー意識は伝染(でんせん)します。
   リーダー意識がないことも、伝染します。

   店長にリーダー意識がなくなると、現場のスタッフも
   「店長さんが言っているから」と言って逃げるようになります。

   新入社員も「上の人がみんな言っているから」と言うようになります。

   新入社員であっても、
   アルバイトを引き連れていくリーダーにならなければいけないのです。

   誰かのせいにしているうちは、リーダー意識があるとは言えません。
   誰かのせいにすると、一見、楽なようですが、同時に、楽しさがなくなります。

   誰かのせいにしないで、結果を自分で引き受ける時、仕事は楽しくなります。

   誰かに責任転嫁した時点で、その人はリーダー失格です。

   そういう会社は当然つぶれます。

   細かい問題以前に、
   「自分はリーダーだ。最終責任者だ。すべての問題は自分が引き受ける。
   ここがデッドエンドだ。オレがここで踏ん張る」となると、仕事は面白くなるのです。

         <『仕事は、最高に楽しい。』第三文明社>

                 ・・・

ドラッカーはリーダーシップについてこう言っている。

「リーダーに関する唯一の定義は、つき従う者がいるということである」


どんなに役職や地位が高かろうが、
その人について行く人がいなければ、ただの裸の王様だ。

つまり、影響力があるかどうか。

それは、高圧的な命令や、お金によるものではなく、
たとえば、サーバントリーダーシップのような形。

サーバントリーダーシップとは、ロバート・グリーンリーフ氏が提唱した、
「まず相手に奉仕し、その後相手を導く」というリーダーシップ哲学のことを言う。

「気がついたら、つき従う者がいた」、というのが理想のスタイルだ。

例えば、挨拶に一つにしても、自分が上だからと先に部下に要求するより、
自ら先に与える(上司から挨拶する)方が、人間関係をよくする。

相手に要求するより、「まず自分が先に変われ」ということ。


リーダーシップのシップには、「気概」や「魂」といった意味があるが、
「意識」と置き換えてもいい。

リーダー意識のあるなしは、当事者意識があるかどうかでもわかる。

目の前に起こるいいことも悪いことも、わが事と受け止めることができるかどうか。

当事者意識のない人は、悪いことは人のせいにする。


今現在どのような立場にいようと…

リーダー意識のある人でありたい。

            <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝>

指導者の条件65(適材適所) - 伝統

2016/08/18 (Thu) 17:46:17


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者はそれぞれの人の持ち味を知って用いることが大切である。

徳川八代将軍吉宗は、いわゆる享保の改革によって、乱れかけていた社会を正し、
家康の再来とも、徳川幕府中興の祖とも言われた名君である。
吉宗は、非常に思い切って人材を抜擢した。

有名な江戸町奉行大岡越前守もその一人で、彼が伊勢山田奉行だった時、
その裁きがまことに公明正大だったのを、当時紀州藩主だった吉宗が見ており、
将軍就任と同時に登用したということである。

もっとも、吉宗以前の将軍も、例えば五代綱吉における柳沢吉保のように、
人材を取り立てていないわけではない。

しかし、それはどちらかというと、ごく一部の人を”籠臣”という形で重用した傾向がある
ようで、その点吉宗の場合は、大岡越前守に限らず多くの人材をすべて人物本位、能力本位に
登用しているところに非常な違いがあると言われている。

いわゆる適材適所を心がけたわけで、それが吉宗の政治を封建時代の中にあって
非常に新鮮なものにし、また成果も多いものにしているのだと思う。

人間は一人一人精神的にも肉体的にも皆違っている。
それぞれに違った才能、異なった持ち味を持っている。

だから、そのそれぞれに適したところにつけることによって、
その人の持ち味が生かされ、その力が一番よく発揮されることになる。

そういう意味で、適材適所は、
その人を生かし、幸せにすることになるわけだが、それだけではない。

適材が適所につくことによって、その職責が最もよく果たされるから、
それは他の人々、ひいては全体としてもプラスになるのである。

いってみれば、大岡越前守が江戸町奉行になったことにより、彼自身も生かされ、
また江戸の人々も非常な恩恵を受けたわけである。

だから、適材適所によって、自他共の幸せが生まれてくるとも言えよう。

従って、指導者は人を用いるにあたっては、
それぞれの人の持ち味というものを十分に考え、
適材適所を常に心がけなくてはならない。

それとともにまた、指導者自らが果たして適材であるかどうか、
自分より以上の適材はないかということもたえず自問自答しなくてはならない。

一兵卒が適材適所を欠いたとしても影響するところは小さいが、
大将が適材でなかったら、これは全軍の敗戦ということになってしまう。

そのような意味において、
指導者は常に自他共の適材適所ということを考えることが大切だと言えよう。


            <感謝合掌 平成28年8月18日 頓首再拝>

リーダーに絶対必要な一つのこと - 伝統

2016/08/20 (Sat) 18:00:58


       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年7月20日)より

40代の劉邦が20代の項羽に勝てた理由
リーダーに絶対必要な一つのこと


始皇帝の死後、急速に国家が崩壊していった秦。
反乱軍の中で、二人の英雄が台頭する。

楚の将軍家の血筋である若き項羽と、
任侠のような生活をして下級の官職についていた中年の劉邦だ。

40代のしがない中年官僚と20代のエリート将軍、正反対の二人の対決は、
誰もが想像し得ない劇的な結末を迎えることに。

しかしこの結末にこそ、リーダーシップの本質が表れる。


《20代の覇気あふれる猛将項羽と、40代の無頼、劉邦》

6つの国々を次々と滅ぼし、前221年に秦王の政は中国大陸を統一します。
政は始皇帝となり、前210年に病没。始皇帝の死後、秦の権力は宦官の趙高らに奪われ、
過酷な刑罰と重税や、滅ぼされた6国の人たちにより恨みが蓄積します。

やがて各地で反乱が頻発する中で、台頭してきたのが項羽と劉邦の二人です。

項羽は紀元前232年生まれ、劉邦は前256年(もしくは前247年)生まれ。
生まれに2つの説があるとしても、劉邦が24歳か19歳も年上だったことになります。

項羽は秦に滅ぼされた楚の将軍家の血筋で、名将と言われた項燕の孫にあたります。
一方の劉邦はもともと庶民であり、反秦帝国の反乱が起こるまでは、
一時期は任侠のような生活を送り、地方でごく低い官職について生活をしていました。

項羽は武勇にも優れ、反乱を起こした際には地方領主を斬り殺し、
その部下十数名をたった1人で倒しています。

劉邦はそのような武勇の逸話は残っておらず、戦でも何度も負けて逃げています。

あらゆる面で正反対な二人の英雄ですが、
最後に天下を獲ったのは、鬼神の強さを持つ項羽ではなく、なんと劉邦でした。

なぜ、劉邦は項羽を押しのけて天下人になれたのでしょうか。


《功績評価が上司のえこひいきで決まる、だから組織は崩壊する》

若く血気盛んな項羽は戦争にも強く、秦の名将章邯(しょうかん)の
約30万とも言われた軍勢を、敵より少ない軍勢で散々に打ち破り降服させます。

秦の将軍である章邯は、反秦の反乱軍だった陳勝・呉広を滅ぼしており、
章邯の活躍が長引けば、反秦の反乱軍は壊滅していた可能性もあるほどの
手腕の持ち主でした。

その意味で、章邯を倒した項羽は秦軍の崩壊を決定的なものにしたと言えます。
前206年、項羽は咸陽に火をつけて廃墟とし、秦はわずか15年で滅亡します。

項羽は秦を滅ぼしたあと18国の統治体制を作ります。
戦功のあった者に恩賞を与えますが、
奮戦しながらもなにも与えられなかった猛将の彭越がまず項羽軍から離れます。

以下、最初は項羽陣営に属しながら離れ、劉邦軍で大活躍した人物を挙げます。

【項羽陣営から離れた武将・参謀】

・彭越:元盗賊で、ゲリラ戦を得意とした猛将
・英布:刑罰で刺青を入れられ黥布とも呼ばれた猛将
・陳平:謀略に優れた参謀・軍師
・韓信:劉邦の天下を決定した軍事指揮に優れた武将

のちに「国士無双」と言われた軍事の天才韓信は、項羽陣営ではまったく評価されず、
劉邦陣営に移動します。
劉邦の前で、韓信は項羽を「匹夫の勇」「婦人の仁」だと指摘しました。
思慮の浅い猛勇であり、感情に流されすぎて不公平を生むという意味です
(優れた女性管理職が多い現代では、このような指摘は当てはまらないですが)。

この4名はいずれも、劉邦が天下を獲るためには欠くことができない活躍をしました。
逆に言えば、項羽が部下の功績、人事評価を正しく行っていれば
劉邦軍を圧倒できたことを意味します。

天下を我がモノにする偉才たちは、自陣営の中にいたのですから。


《人望ゼロの者をリーダーにして、部下たちの不満を爆発させる》

項羽のもう一つの大きな失敗は、人望のまったくない者をリーダーにしたことです。

秦の名将章邯が、項羽の猛攻撃の前に降服したことは述べましたが、
彼が率いていた20万人近い秦軍兵士も投降をしています。

しかし、総数で項羽の軍より多い秦軍を不安視して、反乱を怖れた項羽は
夜襲で秦軍兵士を全滅させ、穴埋めにしてしまいます。

生き残った秦の武将である章邯・司馬欣・董翳は、20万人の秦人を見殺しにした者として、
秦の人々から強く恨まることになります。

ところが項羽は18国を作るとき、秦人の多い国を章邯・司馬欣・董翳の降服した
秦の武将3人に統治させます。

韓信は、3名を王にした項羽の失策を劉邦に指摘しました。
穴埋めされた20万人の遺族の恨みと不信感は、極めて大きかったからです。

この3人の武将は、劉邦に抜擢されて大将軍となった
韓信の指揮する軍勢にあっけなく敗れます。
名将だったはずの章邯は籠城でしばらく生き残るも、最後は自決。

治める民や兵士からの人望ゼロの者たちを、
トップの思惑だけでリーダーにした項羽陣営の大失策でした。

人事の妙をわきまえていないトップを持つ組織の、典型的な崩壊例とも言えるでしょう。


《優れた者を、その気にさせる天才だった劉邦》

「自ら功伐に矜り、その私智を奮いて、古を師とせず、覇王の業と謂い、
力征をもって天下を経営せんと欲すること五年、ついにその国を滅ぼし、身は東城に死せり」
(書籍『一勝百敗の皇帝』より司馬遷の記述)

『史記』の著者である司馬遷は、項羽の上司としての不適格さを手厳しく批判しています。
「功伐に矜り(こうばつにおごり)」とは、自分の功績ばかりを誇ることです。

先の4人が項羽陣営を抜けたあとも、
范増(はんぞう)、鍾離?(しょうりばつ)、龍且(りゅうしょ)、季布(きふ)など、
名軍師、猛将たちが項羽軍にはいましたが、
陳平の離間策などで分裂を加速され、次第に形勢が不利となり、最後に項羽は滅びます。


一方で劉邦は、人の言葉に耳を傾け、資質があるとわかると
大げさすぎるくらいに相手を高く評価する度量がありました。

劉邦の最大の知恵袋となった軍師・参謀の張良は、仕える武将を自ら探していました。
劉邦が、自分の話を熱心に聞いてくれ、素直に献策を実行してくれることに感激して、
彼は劉邦を天下人にするために全力を尽くします。

人は、自らの才能を認めてくれる人、自分を尊重してくれる人の為に
全力を尽くしたいと思うものなのです。


《他人に「期待して注目する」。ホーソン効果で部下を戦力にせよ》

1924年、シカゴ郊外のホーソン工場である実験が行なわれました。
当初は労働者の生産性と照明の明るさの関連性を裏付けることを目的にしていましたが、
調査を進めると驚くべきことがわかってきます。

最初に工場の照明を明るくしたところ、作業能率の向上が計測できました。
しかし次に、照明を暗くしても、作業能率が向上してしまったのです。

「研究者が自分たちの能率を計測している」という作業者側の意識、
自分たちが関心を持たれて注目を集めているという感覚が、
能率向上の原動力だったのです。

この心理的な効果は、工場の名前から「ホーソン効果」と呼ばれています。

つまり人は期待されている度合、注目されている度合、信頼されている度合によって、
「自らの労働量を調整している」のです。

部下は、上司によってその仕事量もパフォーマンスも大きな差をつけている
と考えることもできるでしょう。

身近な人の才能、献身、成果への努力を引き出せない上司ほど、
「いい人材がいない」と嘆きます。

しかし上司がなにもしなくとも、
すべてを成し遂げてくれるような部下はめったに存在しません。

どのような部下も、あなたの前で本気になるか、適当に手を抜いて仕事をするか、
言葉にせずとも調整しているのですから。

項羽が天下を獲るために必要な人材は、まさに彼の身の回り、ごく身近なところにいました。
彼と同様に、私たちも仕事、家庭、プライベートですでに周囲にいる人たちの才能や努力を、
100%引き出せているかを考える必要があるのではないでしょうか。


私たちは、周囲の大切な人の言葉や想いに、真摯に耳を傾けているでしょうか。
自分の優秀さを誇るだけで精いっぱいの人間からは、静かに人が離れていきます。

歴史の教訓から学ばない者は、自分の功績だけを誇り、
最後には敗北者として取り残されることになりかねないのです。

http://diamond.jp/articles/-/95908

            <感謝合掌 平成28年8月20日 頓首再拝>

『「聞く」技術』 - 伝統

2016/08/22 (Mon) 18:57:58


          *人と組織を動かす
          (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より


通信機器メーカーでグループ・リーダーを命じられ、
8人のメンバーの長になったDさんが最初に決意したのは、
「部下の話をちゃんと聞こう」ということだった。

かつて自分が上司にもっていた最大の不満は、
満足に自分の話を聞いてくれないことだったからだ。

忙しいのはわかるが、話しの途中でたいてい時間切れになる。
“あとで聞くから”といってはくれるのだが、話にもタイミングがある。

いったん途切れてしまうと、なんだか話しが広がらなくなってしまうのだ。


ところが、実際に8人ものリーダーになってみると、
部下の話をいちいちまともに聞いていたら、
それだけで一日の時間の半分は潰れてしまうだろうと気がついた。

だが、話は十分聞いているという印象を与えなければならない。

そこで、Dさんは、部下が報告や相談にくると、
制限時間を相手にきっちり伝えることにした。

“今日は10時から会議が入っている。5分前までに切り上げてほしい”とか
“2時には出かけるからな”…と云うようにだ。

こうすれば、部下も、それまでに自分の伝えたいことを話そうとする。
時間内に効率良く話しができるようになる。
時間切れになってしまった場合も、はじめからわかっていたことなので、
案外、不満は残らない。


同時に、Dさんが心掛けたことが3つある。

ひとつめは、部下が話を始めたら、重要なポイントはメモをとることだ。
記憶の誤りを避けることができるうえ、相手に誠実さが伝わる。

二つめは、途中で相手の話をさえぎらないこと。
そのためにも、制限時間を最初に伝えることは有効だ。

三つめは、“なるほど”“うん、いいな”など、
相づちや軽い驚き、賛辞などを、適当なタイミングではさむ。

以上のことを自分に課しただけで、Dさんに対する部下の信頼はグンと高まった。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito71.html

            <感謝合掌 平成28年8月22日 頓首再拝>

「神様」からの電話 - 伝統

2016/08/24 (Wed) 19:33:40


         Web:mixiユーザーの日記(2015年05月13日)より

「経営の神様」と称賛され、周囲から神格化されるようになっても、
松下幸之助さんの生き方は変らなかった。

1964年初夏、住友銀行五反田支店長・樋口廣太郎(当時38歳)のもとに、
1本の電話がかかってきた。

「樋口さんですか。松下です」

「・・・失礼ですが、どちらの松下さんですか」

「会長の松下です」

会長?・・・・樋口は絶句した。

住友とは創業当時からつきあいのある松下グループの総師が、
一支店長に直接、電話をかけてきている。

失礼を詫びる間もなく、幸之助が続けた。

「ええこと教えてくれはったな。おおきに」

トップ自ら、お礼の電話をかけてきたのである。


樋口は、支店長に就任早々、取引先を一軒一軒歩いて回った。
そして、取引先の電気問屋、小売店の顔色が悪いことに気づいた。

彼らは一様に松下電器から、いわゆる「押し込み販売」を受け、
過剰な在庫に苦しんでいたのである。


「これはまずいのではないか」

事態を重く見た樋口は、当時の松下電器財務担当取締役に、その情報を伝えた。
報告を受けた幸之助は、すぐにその行動に対して感謝の意を表したのである。

そしてこのやりとりのあと、かの有名な「熱海会談」が開催され、
幸之助は販売店サイドと徹底的な討論を試みることになる。

樋口はまず、トップでありながら、自らお礼の電話をかける気さくで率直な姿勢と、
マイナス情報に「おおきに」と言える経営者の正しい資質に深い感銘を受け、
以来、幸之助を師と仰ぐようになる。


後に、樋口が経営不振のアサヒビール再建に着手したとき、
最初にやったことといえば、ライバル会社の会長を訪ね、こう教えを請うことだった。

「わたしは銀行からやってきて、この世界のことが正直なところ分かりません。
恥を承知でうかがいますが、アサヒビールのどこがいけないでしょうか」

自分の分からないことには素直に耳を傾け、意見に感謝する。
それはまさに幸之助の姿そのものであった。
こうして「アサヒビールの奇跡」は成し遂げられた。

樋口はこのように言う。

「経営者でも、管理職でも、人の上に立つ人間は、
本人が意識するしないに関わらず、どんどん雲の上に祭り上げられてしまうものです。
だからこそ、相談役さんは自分から下りていく努力をされて、
大経営者になられたのだと思っています」。

            <感謝合掌 平成28年8月24日 頓首再拝>

指導者の条件66(敵に学ぶ) - 伝統

2016/08/27 (Sat) 18:35:04

            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は自分の競争相手にも学ぶ心構えが大切である

徳川家康は”海道一の弓取り”と言われたように、戦の名手で、
ほとんど戦って負けを知らない人である。

秀吉でさえも、小牧・長久手の合戦では、局地戦において一敗地にまみれている。
が、その家康にして完敗を喫したのが武田信玄であった。

三方原の合戦がそれで、彼我の軍勢にも差があったとはいえ、
名人芸とも言える信玄の戦いぶりの前に、善戦むなしく家康自身が九死に一生を得る
といった姿で打ち破られたのである。

ところが、それから間もなくして、信玄は陣中に没してしまった。

それを聞いた家康は家臣にこう言ったという。

「まことに惜しい人を亡くしたものだ。信玄は古今の名将で、自分は若い時から
その兵法を見習ってきた。いわば私の師とも言える。その上、隣国に強敵があれば、
政治でも軍事でも、それに負けないようにと心がけるから、自分の国もよくなる。

そういう相手がいないと、つい安易に流れ、励むことを怠って弱体化してしまう。
だから、敵ではあっても信玄のような名将の死は、まことに残念であり、
少しも喜ぶべき事ではない」

さすがに家康という人は、天下を取るだけあって、ものの見方が卓越している。

非常に強力な敵が隣国にいて、つい先頃その相手に散々に負かされたばかりである。
その強敵が突然に死んだのだから、手を打って喜びたいところである。

しかし家康は、そんな目先のことだけでなく、もっと大きな観点から、
信玄を自分の師とも、励みとも受け取り、だから信玄のような相手がいてくれることが、
自国の長久の基礎を作るのにプラスになると考えたわけである。

今日、例えば企業などにおいて、非常に力もあり、立派な経営をしている相手と
競争していくというような場合、ともすれば、困った、大変だと考えがちではないだろうか。

しかしこれを家康のような見方に立てば

「相手の経営の良いところは大いに取り入れてやろう。
また、こういう相手と競争していくのは一面大変だけれども、同時に非常な励みにもなる。
結局自分のところの発展にプラスになるのだ」

と考えられるのではないだろうか。


そうなれば、相手の良さも素直に吸収でき、さらに心ものびのびとして、
相手に負けないような知恵も出てくるかもしれない。

家康という人は素質ももちろん立派だったのだろうが、
そういう、敵からも学ぶといったところに
大を成した一つの要因があるのではないかと思う。

            <感謝合掌 平成28年8月27日 頓首再拝>

多彩な才能が集まり続ける仕組み - 伝統

2016/08/29 (Mon) 19:39:14


       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年7月22日)より

グーグルとモンゴル帝国に共通する
多彩な才能が集まり続ける仕組み


ヨーロッパで十字軍とイスラム勢力が激突した12世紀から13世紀。
アジアの中央にあるモンゴル高原では、歴史を塗り替える1人のリーダーと
史上最大の帝国が出現する。

歴史上、類を見ないほど強い組織はどのようにして生まれたのか?


《プレスター・ジョン王の伝説と、モンゴル来襲》

11世紀はじめに、東ローマはトルコ系遊牧民のセルジューク朝と戦争を続け、
一時は領土が半減するほどの敗北を重ねます。
苦境の東ローマが教皇ウルバヌス2世に救援を求め、これが十字軍の発端になります。

イスラムの英雄サラディンの出現もあり、十字軍は激しい戦いを続けますが、
1220年頃にまったく予期しない出来事のため、イスラム世界も大混乱に陥ります。
モンゴル軍の来襲です。

1218年にホラズム・シャー朝がチンギス・ハンの派遣した商業使節を虐殺し、
所持品を奪うと、チンギス・ハンは自ら遠征軍を率いて侵略を開始。

軍団を複数にして分進して、ホラズム朝の防衛線を一隊が攻撃して、
相手が防戦するあいだに別働隊が背後に回るなどの巧みな攻撃でつぎつぎと撃破。

第7代のスルタンは、モンゴル軍から逃れるため西方に移動し、
1220年の末にカスピ海西岸の小島で死去。


ヨーロッパには、12世紀頃から「プレスター・ジョン王の伝説」があったことが
多くの歴史書に残されています。

イスラム勢力の背後、インド周辺にキリスト教を信奉する王の巨大帝国があると
信じられていたのです。由来は、アレクサンダー大王の東方遠征など様々でしたが、
モンゴル軍のイスラム勢力への進軍は、一時期は伝説のジョン王の孫である新たな王による、
十字軍への援軍だと考えられていました。

しかし現実のモンゴル軍は、ホラズム朝を打倒したあと、1223年には南ロシアまで侵略。
1237年の再度の侵略と併せて、ヨーロッパ諸国を恐怖のどん底に陥れました。


《20世紀最高の軍事評論家も驚いた、モンゴル軍の巧みさ》

20世紀の著名な軍事評論家、リデル・ハート(英国)は、
書籍『世界史の名将たち』の中で、チンギス・ハンと2人の将軍について分析しています。

リデル・ハートは先のホラズム朝を滅ぼした戦いを、極めて緻密な軍事計画による成果、
特に「背後攻撃」を完璧な形で実施したことよる勝利としています。

チンギス・ハンは、チェペの1隊、ジュチとチャガタイの2隊、
そして主力のチンギス軍の3つに分けます。

チェペの軍が正面攻撃をしているあいだに、
ジュチとチャガタイの軍は北のアククーム砂漠を越え、
敵の防衛線の一番左に奇襲攻撃をかけます。

ジュチとチャガタイの軍を迎え撃つために、ホラズム側が予備兵力を出したあと、
チンギスの主力はさらに北を迂回して、ホラズム朝の大都市ブハラの背後に突如出現、
敵を大混乱に陥れます。

モンゴル軍は、猪突猛進の軍隊ではなく、知略に富む侵略軍だったのです。

中国側の王朝である金との戦いで攻城技術を学び、
強力な騎兵と弓を雨のように降らせる射撃力、抜群の機動力を持つモンゴル軍は、
知略でも敵を圧倒していたのです。

「モンゴル軍の実施した数々の戦いは、われわれに対して、アジアもまた、
その戦略的才能において歴史上に覇を競う完成した軍事的指揮者たちを生み出したことを
明らかにした」(書籍『世界史の名将たち』より)


しかし、チンギス・ハンとモンゴル軍は、
なぜこれほど戦略・戦術に優れた軍隊となれたのでしょうか。
突出した強さの秘密は、何から導かれたのでしょうか。


《もう一つの側面、あらゆる人種の枢機顧問官から見えるもの》

リデル・ハートは軍事的な側面以外に、チンギス・ハンが組織の人材登用や
能力の高い者を導入する方針に、優れた柔軟性を持っていたことを指摘しています。

「この帝国の驚くべき特色は、完全な宗教的寛容であった。
チンギス・カンの枢機顧問官には、キリスト教徒や各種の異教徒、回教徒、
及び仏教徒たちがいた」(書籍『世界史の名将たち』より)


チンギス・ハンは、幼少期に父を亡くしています。
有力部族だった自分の配下の遊牧民がほとんど離れ、落ちぶれたときは
最も親しい親族からも見捨てられ、彼の成長を危険視する他部族に誘拐された
こともありました。

その局面を打開するため、青年期の彼は父の古い同盟者だった
トゥグリル・カンや幼なじみのジャムカの力を借りています。

その後、チンギス(青年期はテムジン)のリーダーとして優れた資質に多くの人が集まり、
一大勢力となっていきます。

1206年に彼は全部族を集めて大ハンへの即位を宣言しますが、
その過程で彼が何よりも熱望して完成させたいと思ったのは、
「優れた者たちが離れず、忠誠を自ら誓う組織」だったのではないでしょうか。

テムジンは、次第に多くの人望を集めてカリスマ的なリーダーとなり、
盟友だったジャムカはテムジンのあまりの人望の高さに嫉妬して敵となり、
やがて敗北します。

彼の戦闘部隊には、四駿四狗の勇猛な武将たち、
十功臣や八十八功臣などの功績を挙げて高い評価をチンギスから得た者たちがいました。

文官の登用者で有名な者は、金王朝の矢律楚材などですが、
シルクロードで東西の交易をしていた商人たちも、宗教そのほかに寛容な
モンゴル軍を受け入れていたと言われています。

チンギス・ハンの交易商人優遇策は、彼が帝国の版図を広げるとき、
商人たちが貴重な情報網の役割を果たして、謀略や戦略を組み上げる基礎となりました。


幼少期から青年期、父の早すぎる死去で人が自分から離れて惨めな想いをしたテムジン。
それ故に「優れた者たちが離れず、忠誠を自ら誓う組織」への渇望は、
誰よりも強かったのではないでしょうか。

彼は「世界の支配者となる天啓を受けた」と言われていますが、
世界帝国を創り上げる目標さえ、多くの者が自らの元を離れないための
道具だった可能性があるのではないでしょうか。




《才能ある者に魅力が溢れる職場で、世界を変革する仕事を目指す》

書籍『How Google Works』は、グーグルという世界的な最先端企業が、
スマート・クリエイティブと呼ぶ多面的な才能を持つ人材を、いかに引き寄せて、
活躍させることに心を砕いているかを描いていました。

もちろん、ただ優秀な人材を採用し、繋ぎ止めるだけではダメで、
才能ある者を飛び抜けて高い目標に挑戦させ続けることが必要です。

「私はいま、非常にシンプルな指標を使っています。
それは『いま取り組んでいる仕事は、世界を変えるだろうか?』というものです」
(書籍『シンギュラリティ大学が教える飛躍する方法』より、
グーグルCEOのラリー・ペイジの言葉)


アップルの創業者であるスティーブジョブズも、
当時有名な清涼飲料水の企業の社長だったジョン・スカリーをスカウトするとき
「このまま一生砂糖水を売り続けたいか?それとも世界を変えたいか?」
という有名な質問をしています。



チンギス・ハンは宗教や人種による偏見なく、優れた者や技術を
「世界の支配者となるモンゴル軍」の勝利のために役立てる部族文化を
創り上げたとも言えます。

チンギス・ハンは1204年にウイグル文字と出会い、モンゴルに初めて文字を導入。
大ハンに即位した時には、千戸制、ケシク制、オルド制、大ジャサ(法典)を定めています。
彼は勇猛な戦士であるだけでなくモンゴルの結束を高めるさまざまな制度を創り上げたのです。


モンゴル軍は徹底した実力主義であり、勇名を馳せたチュペやスブタイは、
25歳にもならないうちに高級司令官の立場となりました。

優れた者が功績を挙げれば誇りある地位を与え、
才能ある者には全権を与えて存分に戦わせる。

目標は「世界を支配する勝利」であり、
そのためにはどんなところからも役立つことを吸収する。

「優れた者たちが離れず、忠誠を自ら誓う組織」文化の構築と、
「最高峰の目標」そして「人を惹きつける老練なカリスマ」が組み合わされたとき、
世界史の1ページを塗り替える最強の帝国が出現したのです。


http://diamond.jp/articles/-/96227

           <感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>

『おカネとヤル気の法則』 - 伝統

2016/08/31 (Wed) 19:17:00

 
        *人と組織を動かす
        (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

外資系企業を渡り歩いたというと、それまでを上回る報酬をヘッドハンターに提示されて、
気持ちが動いた…と、とらえられることも少なくない。

だが、私の場合で云えば、提示された経済的条件を第一に、
転職を考えたことは一度もなかった。

それまでの仕事でもそれなりの報酬をいただいていたということもあるが、
それよりも、気持ちよく仕事ができる環境にあることや、働きがいがある仕事、
私なりに人生の目標にしっかり向かっていると実感できる仕事を手にする方が、
より、大切に思えたからだ。

 
経営者としての立場で、おカネの問題で大きな教訓を得たことがある。

25年以上も前の話だが、当時、私は、サンフランシスコに本社のある
コカ・コーラ・カンパニー・オブ・カルフォルニアに勤務していた。
 
ある経営会議の席上で、社員のモチベーションをどう高めるかという議論になったとき、
幹部社員の中から、「我社にも、インセンティブ・システムの導入を検討しては」
という声があがった。
 
インセンティブ・システムとは、
≪よい仕事をして業績を上げた社員には、特別ボーナス(おカネ)で報いる≫ということだ。

 
デール・アレクサンダー社長の答えは、
「Your incentive is in your pay-check.

(そもそもヤル気とは、日常の仕事の中に組み込まれているべきものだ。
カネをちらつかせてあおるものではない)」というものだった。

まさに、正論である。

おカネは人生において、無視できない。
そして無視すべきではない重要なファクターだが、人の心まで買うことはできない。
という限界つきのものであることを意識したい。

私自身は、ジョンソン・エンド・ジョンソンや、サラ・リー・コーポレーション、
あるいは、ホールマークなどで社長職をしている間、少なからぬ給料に加えて、
ストックオプションやパフォーマンス・インセンティブなど、
数々の金銭的ご褒美をいただいた。
 
それ自体はけっこうで、ありがたかった。
だが、「にこんなものなくとも、自分は全力投球するのに」と何度となく、
胸の中でつぶやいたものだった。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito73.html

           <感謝合掌 平成28年8月31日 頓首再拝>

「オリヴァー・クロムウェル」 - 伝統

2016/09/03 (Sat) 17:32:06


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

主要な共和国はいつ、どこでローマ時代以降に発生したか、という質問が出たら、
普通に出てくるのはアメリカの独立(一七七五年)、フランス革命(一七八九年)、
ロシア革命(一九一七年)などをあげるのが通例であろう。

ところがフランス革命より百四十年も前に、イギリスでは王様の首を斬り(一六四九年)、
共和国が出現しているのである。

立憲君主制のはじまりと言われる大憲章(マグナ・カルタ)を作ったのも
イギリス(一二一五年)、近世最初の共和制大国を作ったのもイギリス。
イギリスは政治制度実験の本場だなあという感じがする。

ところで、このイギリス共和制を作った男がクロムウェル(一五九九~一六五八)である。
国王チャールズ一世は王権神授説の悪しき信奉者であった。
臣民とどんな約束を誓ってもそれを守る必要は国王にはない、と信じていた。

それで議会との約束も次から次へと破る。
そしてついに王党派と議会派の戦争になる。

議会側はロンドンはじめ主要都市、海軍、首都周辺の諸州を抑えており、
軍資金も、したがって兵隊も豊富である。王党側は資金も何も不足している。
しかし両者の戦いになると、たいてい王党側が勝つのである。

というのは王党派はキャヴァリアと呼ばれていたがこれは元来、「騎士」という意味である。
王様が無茶でも忠義な人たちで、元来が戦士の家の者が多い。

これに対して議会側はエセックス伯を司令官としたが、
兵士の多くは貧民やホームレスのような人たちから集められた。

戦場では数ばかり多くても駄目である。
また議会側は司令官も将校も戦争が下手だった。
これを何度か戦争に参加して見抜いたのはクロムウェルであった。

戦争に勝てなければ何をやってもダメだと悟った。
彼は小地主の家に生まれ、ケンブリッジで学び、法律家を志した男であり、
軍事の経歴はそれまでなかった。

しかしイギリスが生んだ最高の軍事的天才であることが間もなく分かった。

クロムウェルはまず地元に帰ってピューリタン的信仰の厚い自由人を集め、
厳格な規律と、騎士をも死をも怖れぬ軍団を作った。
後にクロムウェルの鉄騎隊(アイアンサイド)といわれるものの始まりである。

彼は自分の作った連隊や騎兵隊は「神意による教会」と考えた。
まさに神軍である。

クロムウェルが登場してからは議会側は連戦連勝である。
王様は捕虜になった。議会は安心して軍隊の解体を要求する。

ごたごたしているうちに王は逃げ出し、スコットランドと協定し、
再びイングランドやウェールズの王党派を集結しようする。
アイルランドはすでに叛乱を起こしている。

結局、クロムウェルがすべてをやるより仕方がなくなった。
ウェールズや南イングランドの王党派を全滅させ、王様を再び捕らえて死刑にし、
アイルランドを徹底的に征服し、降参しない兵士を大量虐殺した。

クロムウェル達の使った聖書は旧約聖書が主である。
そこにはイスラエルの民に敵対する諸民族を大虐殺したり、
悪しき王を処刑することは神意であることが示されている。

アイルランド人はカトリックだからクロムウェル軍から見ればイスラエル人に対抗した
カナン人みたいなものだから大虐殺してその国を奪っても一向に差し支えない。

斬首された国王の子チャールズ二世はスコットランドに逃げてそこで兵を挙げる。
クロムウェルはこれをイングランドに誘い出して殲滅する。
ローマ軍も征服できなかったスコットランド人も震え上がる。

かくしてイギリスはスコットランド、アイルランド、ウェールズを
初めて完全に統一したのである。
これはそれまでのどんなイギリス王もできなかったことであった。

当然クロムウェルを王(キング)にしようという動きが出る。
新しい王朝ができるならば、旧王党派の人も少なからずそれにつく。

しかし、「軍事聖徒」と呼ばれた兵士たちは骨の髄まで共和主義者で
国王の存在を認める気はない。

クロムウェルも王になる気はなかった。
そして護国卿(ロード・プロテクター)―アメリカなら大統領、ソ連なら書記長、
共産中国なら首席―になった。

そしてイギリスの国威は史上最高になった。

海上貿易の競争相手だったオランダを屈服させ、デンマークやスウェーデンに対しても
イギリスに有利な貿易条件を押しつけ、フランスと組んでスペインを抑えて
ダンケルクや地中海の海上権を手に入れ、ジャマイカなどの植民地も奪い取った。

プロテスタントをいじめているポーランド貴族にそれをやめさせるようローマ教皇に要求し、
それを聞き入れないなら教皇の居城を海軍に砲撃させるぞ、とおどすことに成功した、
などなど数え上げればきりがない。

軍事では即断・徹底的だったが、クロムウェルはそのほかのことでは慎重で寛容であった。
十三世紀以来はじめてユダヤ人がロンドンにシナゴーグを作ることを許された。
カトリック、アングリカン、クェーカー、ユニテリアンに対しても寛容な政策を取った。

彼の兵士たちは戦争中も婦女暴行、家財略奪の行為はなかったし、
軍が解体されてからも、一人として犯罪を犯したものはなく、
みな正直で勤勉な市民としてイギリスの背骨のような階級になって行ったのである。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/25.html

           <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

指導者の条件67(天下の物) - 伝統

2016/09/05 (Mon) 18:49:56


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は物事を公の立場で考えなくてはならない。

明智左馬之助光春が、坂本城で秀吉の軍勢に囲まれていよいよ最期という時に、
城内にあった数々の秘蔵の名器を滅ぼすに忍びないと言って、
城外に吊り下ろし、寄せ手にことづけた。

吉川英治氏の『新書太閤記』には、光春が寄せ手の大将、堀監物に、

「それがしの思う所、かかる重器は、命あって持つべき人が持つ間こそその人の物なれ、
決して私人の物でなく、天下の物、世の宝と信じ申す。
人一代に持つ間は短く、名器名宝の命は世にかけて長くあれかしと祈るのでござる。

これが火中に滅するは国の損失。
武門の者の心なき業と後の世に嘆ぜらるるも口惜しと、
かくはお託し申す次第」

と伝えている光景が描かれている。

こうした光春の態度には、秀吉も、

「かつて松永弾正が志貴山の城滅亡の日、秘蔵の平蜘蛛の茶釜を
他人の手に渡すのは惜しいと砕いたのとは天地の違い、心の中の涼しさ、天晴れというか、
惜しい侍であった」

と賛嘆を惜しまなかったという。

今日、もろもろの財貨にはすべて持ち主がある。
これは誰々の所有であるということが決まっており、それは法律でも保証されている。

しかし考えてみれば、それらは形の上では個人の物であっても、
本質的には光春の言葉にあるようにすべて、世の物、天下の物ではないだろうか。

たとえば企業というものを考えてみれば、一定の資本を集め、土地を占有し、
物資を使い、人を使って事業を営んでいる。
それらは形の上、法律の上では、個人のものであり、企業のものであるかもしれない。

しかし、資本にしろ、土地にしろ、物資にしろ、人にしろ、
本来は私のものでなく、天下のものである。

ただ、それをよりよく活用することにより社会にプラスをもたらすために、
便宜的に形の上で私有ということが許されているわけである。

これは何も企業に限らず、全てのことについて言えるであろう。

指導者はそのことをよく知らなくてはいけないと思う。

何事も天下の物、公の物なのであり、従って自分の成す所は本質的にはいわば公事である。
この自覚が大切だと思う。

昔の聖人堯が聖人の舜に国を譲ったといわれているが、
孟子はこのことについて、
「これは堯が舜に与えたのではなく、天が舜をして天下を治めしめたのだ」と言っている。

指導者として味わうべき言葉ではないだろうか。

           <感謝合掌 平成28年9月5日 頓首再拝>

オスマン帝国のメフメト2世~「常識を超える思考法」 - 伝統

2016/09/10 (Sat) 17:59:01


       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年7月25日)より


難攻不落の都市を、どう攻略したのか?
歴史が教える「常識を超える思考法」


ローマ帝国は東西に分裂し、その後西ローマは消滅。
一方、東ローマは十字軍やモンゴル来襲も乗り越え、
首都コンスタンティノーブルは海に囲まれた難攻不落の要塞と化す。

オスマン帝国は、この要塞都市をどのように攻略したのだろうか。


《十字軍による大混乱と、モンゴル軍の影響》

ローマは395年にテオドシウス帝の遺言で東西に分割され、
西はイタリア半島のミラノを、東は黒海の出口にある
コンスタンティノーブルを首都に定めます。

西ローマはゲルマン民族の侵入で戦闘がたえず、常に侵略の危機にさらされていましたが、
476年にゲルマン人の傭兵隊長により帝位を簒奪されて滅亡します。


東ローマもゲルマン人などの対策のため、
首都コンスタンティノーブルを高い城壁で囲み要塞化。

東欧地域で繁栄を続けながらも、イスラム世界とヨーロッパの接点として
1400年代までさまざまな歴史の変化に翻弄されていきます。

11世紀、東ローマはトルコ系遊牧民のセルジューク朝と戦争を続け、
一時は領土が半減するほどの敗北を重ねます。
苦境の東ローマが教皇ウルバヌス2世に救援を求めたことが、十字軍の発端になります。

1096年には第一回十字軍が進軍を開始、1099年にはエルサレムを占領。
当初は十字軍側が快進撃を続けるも、英雄サラディンの登場で
イスラム側が1187年にエルサレムを奪還。

欧州から遠く離れている十字軍は次第に疲弊していきます。

1204年の第4回十字軍は、東ローマ帝国内で強い影響力のあった
ヴェネツィア商人と地元民の抗争に加担し、ヴェネツィア商人に渡航費用を
肩代わりさせる代わりに、首都コンスタンティノーブルを攻撃して略奪の限りを尽くします。

1220年代からモンゴル軍が中東・東欧に侵略してイスラム世界は大混乱に陥り、
イスラム勢力と対峙する十字軍は短い平穏を得ます。
しかし、モンゴルの衰退後はイスラムの攻撃も再開。

1291年にはテンプル騎士団の守る城塞が陥落、十字軍は消滅します。
第4回十字軍の攻撃で滅亡した東ローマ帝国ですが、亡命政権が1261年に
コンスタンティノーブルの奪還に成功。帝国の復活を果たしました。


《鉄壁の要塞コンスタンティノーブルと、オスマン帝国のメフメト2世》

東ローマ帝国は復活を果たすも、現在のトルコ周辺から台頭した
オスマン帝国が急速に勢いを増し、1326年から100年以上にわたる戦争を繰り広げます。

オスマン帝国の第7代メフメト2世は、帝国の国力をさらに充実させて
コンスタンティノーブルの完全占領を目指します。
1453年、10万の軍勢で首都を包囲、さらに150隻近い戦艦で海上を封鎖します。

対する東ローマは、今回はヴェネツィアやジェノバも協力させて、
彼らの海軍力も活用できる好条件にありました。


【コンスタンティノーブルの防御力】
・北、東、南を海に囲まれた天然の要害
・西側のテオドシウスの壁などの強固な城壁(周囲約26キロ)
・ヴェツィア海軍と金角湾の対岸にある植民都市ガラタの協力
・入り江の金角湾を鎖で封鎖して進入海路を防衛

テオドシウスの壁は、幅20メートルの水を引いた外堀の中にさらに3段階の壁があり、
最も強固な壁は厚さ5メートル、高さ17メートルもの偉容を誇りました。

首都のすぐ北を囲む金角湾の入り口は狭く、強固な鎖で防衛線が引かれました。
東ローマ側の海軍力は、海洋貿易で活躍するヴェネツィアやジェノバの協力で
操船に優れており、たった26隻の艦隊にもかかわらず、敵の侵入を許しませんでした。

陸海を包囲しても攻略できない要塞都市に苛立ち、メフメト2世はある決断をします。


《陸の丘を、70隻の戦艦が越えて金角湾に侵入した》

メフメト2世は、金角湾へ侵入するために、戦艦を陸上に運び丘を超えます。
コンスタンティノーブルの対岸にあるヴェネツィア植民都市の裏側の丘を登り、
強固な鎖で防衛された金角湾に、戦艦70隻をなんと陸地から侵入させてしまったのです。

コンスタンティノーブルの防衛側は、戦艦が突然湾内に出現したことに驚愕します。
兵力がわずか7000人で持ちこたえていた首都は、金角湾の内側に侵入した
70隻の戦艦への対策のため、テオドシウスの壁など西側の防衛から人員を割く必要に迫られます。

やがて西側の城壁の一角が破られて、オスマン軍の兵士が大挙して首都に侵入。
破滅的な状況の中、東ローマのコンスタンティヌス11世は剣を持ち戦闘に参加、
彼は乱戦で行方不明となり、東ローマ帝国は1000年の歴史に幕を閉じます。


メフメト2世は幼少期からギリシャ・ローマの偉人伝を熱心に読んだ人物で、
古代の英雄たちと同じイノベーション思考を発揮したと言えます。
東ローマの滅亡は、ローマの叡知を学んだ異国人が、ローマの末裔に勝った出来事だったのです。


《制約条件を外す「挑発的思考」4つの質問》


メフメト2世は金角湾に侵入するため、ある種の制約条件を飛び越えてみせたのですが、
このような発想を容易に生み出すことは可能でしょうか。

書籍『発想を事業化するイノベーション・ツールキット』は、
思考を妨げる障害を打破するための「挑発的思考(Provocative Thinking)」という
概念を紹介しています。

この思考法は、現在の制約条件に4つの仮定を付け加えることで飛躍を引き出します。


個人宅向けに大型プールの設計・建設を行なう仮想企業の事例で考えてみましょう。
画期的な方法を発見するため「個人宅用プールを設置するには、広い野外エリアが必要である」
という今の現実を表現するフレーズを設定して、
次の4つの仮定を行ない、発想を飛躍させてみるのです。

(1)「否定」……今の現実を否定するステートメントで対抗する。
         個人宅用プールには、広い屋外スペースが必要ではない。

(2)「逆転」……今の現実ステートメントの条件を逆にする。
         広い屋外スペースには、個人宅用プールが必要である。

(3)「誇張」……今の現実ステートメントを極端な状態まで持っていく。
         個人宅用プールは、バスタブほどのスペースしか必要としない。

(4)「夢」……もし○○だったら今の現実はどう違ったものになるか。
         アメリカのすべての家に個人用プールがあれば?


仮定に沿って発想をすることで、
大きなプールと同じ機能を備えた小さなプールを開発する、
水が入った泳ぐためのチューブを作る、
プールに冬にはスケートリンクに転換できるキットをつける、
屋上プールを設計するなどの答えが浮かびます。

制約条件を飛び越えるため、4つの仮定は思考を挑発するきっかけになるのです。


近年話題の電動スクーターは、充電時間が利用者拡大の妨げの一つと言われています。
台湾のHTC社は、2015年の夏にこの制約条件を飛躍する製品を発表しました。
スマートスクーターと呼ばれる製品は、バッテリーを2基搭載しており、
弱ったら一基を都市に設置されたステーションで丸ごと交換、
すぐ走り始めることができるのです。

試作モデルなら自動車でも制約条件を飛び越える製品がすでに発表されています。
米フォード社は、2014年に屋根全体を太陽光発電パネルで覆ったハイブリッド車を
披露しており、1日30キロ前後の使用なら、充電ステーションに接続しなくとも、
太陽光からの充電で十分に機能が活用できる製品となっています。

技術知識のある専門家しか使えない、という制約条件を外した製品が
過去大ヒットをしていることは皆さんもご存知でしょう。
家庭用ビデオカメラやパソコンのマウスとポインターなどは、
「専門知識と技術は必要ではない」という挑発思考とも言えるのです。


オスマン帝国のメフメト2世は
「湾内に侵入するのに、金角湾の海上防衛線を突破する必要はない」という、
否定形の挑発思考をしたのではないでしょうか。

日常の思考から制約条件を飛び越えるのは難しく、
メフメト2世がギリシャ・ローマの英雄伝を熟読したように、
飛躍を誘う思考の型に親しむことが勝利を呼び込むのです。

http://diamond.jp/articles/-/96093

           <感謝合掌 平成28年9月10日 頓首再拝>

「岸信介」 - 伝統

2016/09/14 (Wed) 19:27:22



            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


ヒトラーの閣僚だった人が戦後のドイツの首相になる、ということは考えられない。
 
ところが日本では対アメリカ・イギリス戦争をはじめた東條内閣の商工大臣、
次いで国務大臣・軍需次官(軍需大臣は東條首相が兼務したので実質上の軍需大臣)という
重要なポストを占めていた人物が、敗戦後わずか十二年後に―――A級戦犯容疑として
入れられていた巣鴨プリズンから釈放されて八年後―――日本の首相になった。

その人物こそ岸信介である。安倍晋三幹事長の母方の祖父である。

このこと自体がナチス・ドイツと戦前の日本の本質的違いを示す良い例なのであるが、
ここでは戦前・戦中の花形役者でありながら戦後も最も重要な政治家になった人物を
語ることによってそれを示してみよう。

 
第一次世界大戦こそはシュペングラーのことばを借りて言えば
「西欧の没落」を示した超重大事件であった。
この大戦争は全体戦(トータルウォー)という概念を産んだ。
この戦争によって、国民の人的・物的全資源を徹底的に動員する体制を作ることが
絶対に必要であることがわかったのである。

一番早く実行したのはスターリンのソ連であり、ヒトラーのドイツであった。
日本でも軍部はそれに気付き、部内では計画案を作っていたが、
日本全体としては平和で民主主義傾向の強い大正デモクラシーであり、
陸軍も四個師団、つまり全体の五分の一を削減し、
海軍も作りかけの軍艦を沈めるというような国際協調・平和主義のよい時代を楽しんでいた。

しかしアメリカの排日移民法成立(一九二四)、ホリー・スムート法による
超高関税障壁という貿易阻害で引き起こされた大不況(一九三〇)、
更にイギリスのオツタワ会議(一九三二)による自由貿易廃棄などで、
日本の近代工業国家としての存立は危うくなった。

一方、満洲の外にはソ連が軍備を強化し、
共産主義を浸透させ大陸での反日運動を煽動する。

このようなときに商工省にいた岸信介は、今までのような日本の自由主義経済体制では、
アメリカ・イギリスによって自由貿易が否定された世界で日本はやっていけないと洞察し、
国家社会主義的な制度を考える。

これは第一次大戦後、軍部がずっと欲していた体制で、岸は軍部の受けがよくなる。
そして満洲国が建国されると「二キ三スケ」
(東條英機、星野直樹、松岡洋右、鮎川義介、岸信介)の一人として活躍し、
短期間に満州国が日本以外のアジアでは最も輝かしい発展の地とするのに貢献する。

新しい国を造るという体験を持っている人は少ないだろうが、
岸はその稀なる体験の所有者になった。
戦後の日本の建て直しに特別に有能であった理由の一つもここにあると言えよう。

その能力を見込まれて東條内閣に商工大臣として入閣する。
次いで戦時の物資動員のすべてを扱う軍需省をまかされる。
この間、総選挙があったが、立候補して当選する。

大臣は官僚でないから、直接に国民の信任を受けるべきだと考えて立候補したのである。
今なら堺屋太一経済企画庁長官や竹中平蔵金融経済大臣や川口順子外務大臣が
立候補して選挙の洗礼を受けたようなものである。

岸の立憲的性格は戦時中にも示されたことになるだろう。

サイパン島が陥落すると、岸は軍需物資の面から戦争続行は不可能だといって
東條内閣を倒す(明治憲法には首相は規定されておらず大臣一人がゴネると
内閣は辞職しなければならない)。

この時に日本が講和交渉に入っておれば、
という仮説も成り立つが、それは難しかったであろう。

戦後はA級戦犯容疑者とされ米軍に投獄され、最後に釈放される。
入獄中の手記を見ても日本が一方的な侵略国だったというような発想はない。

だから出獄後、公職追放解除となるや、直ちに堂々と政治活動にのり出し、
昭和三〇年(一九五五)に自民党結成の時の幹事長、二年後に首相となる。

戦後は西ドイツのアデナウワーと会い、その急速な復興の秘訣を悟る。
つまり外交的には対米関係第一、内政的には徹底的に反共産主義、
自由貿易立国を自民党の根幹とする。

憲法改正も党の基本方針とする。
アイゼンハウワー大統領とゴルフをする姿は、敗戦日本がアメリカと
イコール・パートナーになったことを世界に印象づけた。

日本をアメリカの占領状態から解放するために、安保条約の改訂を計る。

これは東側(ソ連や中国共産党)に不利なものであったから、
その方面の使嗾を受けていたと思われる日本の左翼勢力の猛反対に会い、
国会周辺には連日空前絶後の大デモの浪が押し寄せたが、
岸の信念は動かず、強行採決をして安保条約は改訂され、
その基盤の上に今日までの日本がある。

強大なソ連軍が日本付近に配備されていた時代も、
日本の平和が保たれていたのはこのためである。

また岸は、小選挙区による二大政党制を説いていたが、
ようやくこの頃、その方向に進んでいる感じが出てきた。

もう一つの主張であった憲法改正は依然として日本の政治の咽喉に刺さった骨になっている。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/27.html

           <感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>

『笑顔の効果』 - 伝統

2016/09/17 (Sat) 18:16:30

 
        *人と組織を動かす
        (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

幅広い人脈の持ち主というと、すぐに脳裏に浮かぶ知人がいる。
イタリア生活から帰国して企画制作会社に入社し、
たちまち大手クライアントを引きつけて活躍しているGさんだ。

彼女が商談を進めているテーブルはすぐにわかる。いつも笑顔に満ちているからだ。
ほかのテーブルがどんより曇った雰囲気だったり、
どことなくジトッと湿っているのとは対照的だ。

彼女がイタリアに行ったのは、決して前向きの動機からではなかった。
進学校から芸大受験を志したために、何度チャレンジしても実技試験が通らなかった。
結局、4度目で断念したが、どうしても絵を描いて生きていきたいと願う彼女は、
気持ちをスイッチできなかった。

長年不和だった両親が離婚に踏み切ったことも重なり、
逃げ出すようにイタリアに流れていったのだ。


イタリアでもバラ色の生活が待っていたわけではない。
言葉もろくにできない。学生ビザで入国していたため、公然とは働けない。
当然、かなりの貧乏暮らしだ。絵も思うようには描けない。

だが、出会った人々は誰もが、まず、にっこりと笑顔を向けてくれる。
その笑顔に何度となく励まされ、力を得ることができたという。

明るい顔つき、心の底からの笑顔の持ち主は、
周りの人にも元気を与えることができるのだ。

そんな人のもとには、黙っていても人が集まる。


福沢諭吉の『学問のすすめ』は、
明治4年から9年の間に400万部も発行された大ベストセラーだ。

その第17篇「人望論」には、"顔つきを明るくすること"と書かれている。

いわく、"人の顔色は、いわば家の門口のようなものだ。
広く人に交わって自由に客を招き寄せるには、まず、門口を開放して、玄関を掃除し、
ともかくも人を来やすくさせることが肝要だろう…"

前にも述べたが、「タイム・マネージメント・コース」というセミナーを受講した時、
スマイルカードというものを手渡された。
鏡にもなる銀色のカードで、端にはスマイルの絵が書いてある。

人に会う前には、このカードで笑顔をつくり、それから会うようにすべきだというのだ。

それまでの経験からも、笑顔でコトにあたった方が、
しかめっ面の時よりも事態はうまくいく、
ということを感じていた。

私は決して暗い方だと思っているわけではないが、
いつもニコニコしているかといわれれば、いささか自信がない。

そこで毎朝、会社に着くとトイレに入り、大きな鏡に向かって、
数回、笑顔をつくる練習をし、それから部下に接するようにした。

誰にも寝不足や二日酔いなど、ついついしかめっ面をしてしまう朝がある。

そんなときも、このトイレの笑顔練習が、しかめっ面を笑顔に変えてくれた。

夫婦げんかの翌朝の効果はさらなり、である。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito87.html

           <感謝合掌 平成28年9月17日 頓首再拝>

豊臣秀吉から学ぶ「調略法」 - 伝統

2016/09/20 (Tue) 18:45:04

「日本一出世した男」豊臣秀吉から学ぶ
その他大勢から抜け出す調略法


       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年8月8日)より

百姓から天下人になった豊臣秀吉。
秀吉は、純粋な武力で勝利をつかむより、味方をどれだけ増やすか、
全体の趨勢を左右する重要な人物を、どう自陣営に引き込むことができるかの
調略に秀でていた。

技術だけでは勝てない時代にこそ、
いかに戦わずに勝つかを考えた秀吉の戦略が役に立つ!


《18歳で信長に仕え、29歳で家臣の一人と認められる》

日本の天下人として知られる豊臣秀吉は、1537年生まれ。
(のちに秀吉が臣従する織田信長は1534年生誕)。

農民の出身ながら、一代で関白にまで登りつめた秀吉は
「日本一出世した男」と言われることもあります。

秀吉の出自はわかっていないことが多く、父は下級武士だったとも、
ただの百姓とする説もあります。

書籍『秀吉の天下統一戦争』では、同時代を生きた宣教師のルイス・フロイスによる
『日本史』の記述、(秀吉は)「貧しい百姓の倅として生まれた。若い頃には山で薪を刈り、
それを売って生計を立てていた」を紹介しています。

秀吉の名前が史料に出てくるのは、1565年、彼が29歳のときです。
信長が対立していた斉藤龍興の配下の武将、坪内利定を信長方に寝返らせることに
秀吉が成功したときのこと。

信長の副状(そえじょう)を出しており、署名は木下藤吉郎秀吉でした。

書籍『秀吉の天下統一戦争』には、秀吉の着用したことが確実な鎧などから
身長を154センチ、体つきも華奢だったとしています。

しかし、身長180センチ、「槍の又左」の異名をとった前田利家などより
出世をしている理由を次のように述べています。

「戦わないで敵を味方にしてしまう調略も立派な兵法として認識されていた。
  秀吉はこの調略を得意とし、その説得と誘惑の特技をもつともいうべき
  秀吉の才能に目をつけ、有効に活用したのが信長だったというわけである」
 (書籍『秀吉の天下統一戦争』)


《秀吉は勇猛な人物か、奸計に優れた策士か》

この「敵の重要人物を寝返らせる」ことは、以降の秀吉の活躍で欠かすことができない
重要な武器になっていきます。

信長の配下として活躍した時代も、本能寺の変から先の独立時代も、
この「敵の一部を寝返らせる」ことは、秀吉を勝ち続けさせた方法だと言えるのです。

しかし、秀吉が謀略だけが得意な、線の細い人物だったかと言えば、そんなことはありません。
本能寺の変(1582年)の2年後の1584年に、先の宣教師ルイス・フロイスが本
国に送った報告書には、次のように書かれています。

「信長の家臣中甚だ勇猛で、戦争に熟練な人・羽柴筑前殿」

「彼は畏怖せられ、また、一度決心したことは必ずこれを成し遂ぐるのが例である」

秀吉が、信長遺臣の1人、柴田勝家を滅ぼした
1586年頃の報告書には、次のように語られています。

「富みにおいては、日本の金銀及び貴重なる物は皆掌中にあり、彼は非常に畏敬せられ、
  諸侯の服従を受けている」(いずれも『豊臣秀吉のすべて』より)

フロイスは、秀吉を信長よりもさらに独善的な人物だと判断していました。
秀吉は権勢を極めて、やがて諸侯を見下すほどの地位を手に入れますが、
フロイスの報告書に描かれている秀吉は、小柄ながらも鋼の信念を持ち、
財力をも力にして戦争に精通した武将というイメージです。


《信長家臣時代から、一貫した秀吉の戦い方》

秀吉は、初期の斉藤氏との戦いで「敵を寝返らせることで」武勲を挙げましたが、
信長が苦戦をした浅井・朝倉の連合軍との戦いでも、敵である堀・樋口らの武将に
内通を約束させています。

このとき、秀吉の寝返り工作で活躍したのが軍師の竹中重治です。

のちに中国地方の毛利軍対策をする方面軍を秀吉が率いたときは、
播磨の大勢力だった小寺氏の家臣、黒田官兵衛にも声をかけ、
官兵衛を通じて小寺氏を信長の味方に付けることに成功しています。

秀吉の強さは、戦う前の寝返り工作にあるのですが、
同様に「戦わずに勝つ」ために兵糧攻めや水攻めも積極的に行っています。

三木の干し殺し、鳥取の渇殺し、備中高松城(岡山県)の水攻めなどが有名です。

信長死後、後継者争いで激突した柴田勝家(信長軍で北陸方面を担当)との戦いでは、
秀吉は勝家と対峙していた上杉景勝と同盟を結ぶことに成功し、
運命を決めた賤ヶ岳の戦いでは、柴田軍の主力の1つだった前田利家の部隊を
戦線離脱させています。

前田利家は秀吉とも通じていたとされ、利家が戦線離脱したことで、
柴田側の金森隊、不破隊も戦線離脱をおこない、
勝家軍の敗北を決定づけることになりました。

秀吉は、敵の内部分裂を誘う調略の力を信長から高く評価されていました。
得意の戦い方で若い頃から成功を収めた秀吉は、以降も自らの武器を最大限活かしたのです。


《本能寺の変から、明智光秀との戦いまで》

1582年、信長に運命の時が訪れます。
配下の武将である明智光秀により、本能寺で討たれて急死したのです。

秀吉の毛利遠征の支援軍として命を受けた光秀は、その進軍途中で京都の本能寺に進路を変更。
わずか100名程度の家臣しかいない信長を、1万人以上の軍勢で囲み、
炎に包まれた本能寺で信長はその野望と共に世を去ります。

光秀は1528年に生まれ、一度は父の城が落ちたことで浪人となり、諸国を流浪したのち、
朝倉氏、足利義昭に仕えて、織田四天王の1人に数えられるほどの活躍をしています
(織田四天王は、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人)。

信長が横死したのち、光秀は一番早く攻め入ってくるのは
北陸にいた柴田勝家だと考えていました。
そのため、最初は重臣を柴田軍の備えに当てたほどでした。

しかし勝家は、敵側の上杉の城を落とした直後で動けず、
関東方面軍の指揮をしていた滝川一益は、信長の死を知った北条軍の急襲に応戦して
敗北するなど、本能寺の変の直後には、動くに動けない状態でした。

一方の秀吉は、6月2日の本能寺の変を翌3日の夕方に知り、
毛利側に情報が漏れないよう封鎖体制を敷きながら、和平工作を加速させます。

4日の正午過ぎには、敵方の清水宗治が切腹して休戦が決定。
6日には敵軍の撤退を確認して、秀吉の軍勢も京都へ向かい始めます。

そのとき、ごく一部の兵を高松城に残すほかは、秀吉は全軍を率いて撤退します。

光秀は、謀略に優れた武将ではありましたが、
調略すなわち敵を味方に引き込む「人たらし」では、秀吉に遥かに及びませんでした。

光秀が京都周辺で右往左往しているあいだに、秀吉は京都に向かう途中で、
早くも敵側と思われた人物を味方に引き入れています。

光秀は、自分に味方してくれるはずと期待した者たちが、
中立を守って援軍にならなかったり、逆に敵に回る苦境に直面させられます。

(光秀が)「娘の玉(ガラシャ)を嫁がせていた細川忠興とその父藤孝は味方してこなかったし、
筒井順慶も味方してこなかった。中川清秀・高山右近は逆に秀吉方の先鋒となっているのである」
(書籍『秀吉の天下統一戦争』より)

13日には京都付近の山崎で秀吉、光秀の両軍が対峙。
数に勝る秀吉軍が勝ち、光秀は敗走する途中で農民の繰り出した竹やりで殺されました。


《ネットワーキング能力の有無が、勝者を決めた》

秀吉の調略の力は、現代でいえばネットワーキング能力と置き換えることができるでしょう。
戦うよりも、味方をどれだけ増やすか、特に全体の趨勢を左右する重要なカギを握る
人物や会社を、どうすれば自陣営に引き込むことができるかです。


秀吉は一貫して、調略の力で敵を引き込み、決
戦の前に重要拠点の敵将を味方に変えて勝ちました。
この秀吉の戦略・戦術が最大限発揮されたのが、書籍『戦略は歴史から学べ』で紹介した、
徳川家康との小牧・長久手の戦いです。

時代の転換点では、勝てる要素ががらりと変わることが多いものです。
武力が戦国の時代の出世を決めた時代から、秀吉が創り上げたネットワーキング能力が
勝者を決める時代が到来したのです。

日本企業もかつては「技術が会社を繁栄させる」と言われた時代がありました。
ところが、現在では技術を新規事業や高い付加価値に結びつける発想力がない企業は、
生き残ることさえ難しい新たな時代を迎えています。

秀吉の出現により、純粋な武力では勝利を手に出来なくなったように、
技術だけでは技術を付加価値に変える力を持つ者に、太刀打ちできなくなっているのです。

秀吉は、主君の信長にその才能を見出されましたが、
秀吉の才能は戦国の風景を様変わりさせました。

一社単独ですべてに勝ることができない規模の競争になり、
ネットワーキング能力こそが勝者を決める、新たな時代を生み出したのです。

  (http://diamond.jp/articles/-/97538

         <感謝合掌 平成28年9月20日 頓首再拝>

指導者の条件68(天地自然の理) - 伝統

2016/09/23 (Fri) 18:10:54


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は天地自然の理を知り、これに従うことが大切である。

老子の言葉に、

「侯王がよく道を守れば、全ての物事は自ずとうまくいくだろう」

という意味のものがあるという。

老子の言う”道”とは、いわゆる道義道徳ではなく、
もっと広い”自然の摂理”というか”天地自然の理”といったものだそうだから、

要するに、指導者が天地自然の理に従った行いをすれば、
全てがうまくいくという意味であろう。

これは全くその通りだと思う。

この宇宙には大きな天地自然の理というものが働いており、
万物はそれに従ってそれぞれの営みをしている。

人間もその例外ではない。

ただ人間は他の万物にはない知恵才覚に恵まれており、それによって、
優れた文明文化というものを築き上げてきている。

そうした文明文化というものは、ちょっと考えると
人間が自分の力だけで作り上げた物のようだが、実際はそうではない。

もともと大自然の中に仕組まれていたというか存在していたものを、
見つけ出し、活用したに過ぎないのである。

言い換えれば、天地自然の理に従い、これを人間の共同生活の上に具現したものが、
文明であり、文化なのである。

ところが、人間はそのことを忘れて、すべてを自分の力でやったように考えてしまう。

そこから、往々にして小さな人知だけにとらわれて、
天地自然の理に反するような考え方や行いをしがちである。

人間社会の不幸とか争いといったものは、
結局すべてそうした所から起こると言っていいだろう。

だからこそ、お互い人間、特に指導者は、天地自然の理というものを知って、
これに従うことが大切なのである。

天地自然の理に従うということは、平たく言えば、
当たり前のことを当たり前にやるということである。

卑近な例でいうと、”雨が降れば傘を差す”というようなものではないかと思う。
雨が降っても、傘があればぬれずにすむ。
極めて当たり前のことである。

その当たり前のことを怠りなくやっていけば、
失敗は少なくなり、成功、発展の道を歩むことが出来る。

事業経営であれば、良いものを開発し、安く売り、しかも適正な利潤を確保する。
さらに集金はきっちりやる。
それだけのことで、原則は別に難しいことでも何でもない。

しかし、これを実行していくことはなかなか難しい。

人間はとかく自分の意欲や感情にとらわれて、その当たり前のことを見忘れてしまう。

それだけに指導者たる者、天地自然の理に従うことを銘記しなくてはならないと思う。

         <感謝合掌 平成28年9月23日 頓首再拝>

「ヒンデンブルグ」 - 伝統

2016/09/28 (Wed) 18:50:01


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


一度は終わったかと思われる人生から、再び新しい活躍する人生に入った人として
岸信介をあげたが、人生を3回やったような人物がいる。

それはドイツのパウル・フォン・ヒンデンブルグ元帥(一八四七~一九三四)である。

ヒンデンブルグは日本で言えば源頼朝の頃から続いている
東ドイツの土地持ち貴族(ユンカー)の家に生まれた。
父ももちろんプロイセンの軍人である。

当然のことながら幼年学校(陸軍将校になるための少年の入るエリート学校)に入り、
普墺戦争(ドイツのプロイセンとオーストリアとの戦争)には、
その最終戦場であったケーニッヒグレーツでオーストリア砲兵隊を急襲して負傷し、
赤鷲勲章を受けた。

約5年後の普仏戦争(プロシアとフランスの戦争)でも
勇敢な戦いぶりを示し鉄十字勲章を受けた。
つまり彼は歴戦の勇士であった。

しかしその後約40年間は、ドイツが戦争に入ることもなかったし、
彼にもこれという功績もなかったが、大尉から大将にまで昇進した。
これは彼が律儀な軍人だったので、組織内で順調に昇進したということである。

そして64歳で隠退した。これまでが彼の第一の人生である。

 
ところがその3年後の1914年8月1日に第一次世界大戦が勃発した。
その3週間後の8月22日に67歳のヒンデンブルグを
東プロシア第八軍団の司令官に命じる電報がとどいた。

参謀長はルーデンドルフだった。
ロシアはすでに7月28日に総動員令を決定し、東ドイツに侵入していた。
そこはヒンデンブルグの郷里の地域であった。

ロシアの将軍サムソノフとレネンカンプの大軍は劣勢なドイツ軍を押しまくり、
東ドイツはパニック状況にあった。

ヒンデンブルグと参謀長ルーデンドルフは、作戦班長のマックス・ホフマン中佐の
立てた計画を採用することに決定した。
ホフマンは日露戦争の時の黒木大将の第一軍の観戦武官であり、
太子河作戦の成功に感銘し、それとそっくりの作戦をロシア軍相手に適用したのである。

途中で作戦に一寸した蹉跌があり、参謀長ルーデンドルフはあわてて
作戦の修正をしようとしたが、司令官のヒンデンブルグは冷静で揺るがず、
既定の通りの作戦を断行した。

そのためサムソノフのロシア軍は8月31日に十万人が戦死し、
十万人が捕虜となったが、ドイツ軍の損害は軽微であった。

翌週にはレネンカンプのロシア軍も木っ端微塵となって敗走し、
東プロシア全土からロシア兵の姿は完全に消えた。

この戦いをホフマンは「タンネンベルクの戦」と名付けた。

それまで無名であったヒンデンブルグの名は出征後10日にして雷の如く世界に響き渡り、
ドイツ人の間の人気も皇帝を圧するほどになり、元帥に昇進せしめられた。

しかし彼のその後の東方作戦は、
参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン将軍によってすべて採用されなかった。

全戦場を統括するファルケンハインにしてみれば、ヒンデンブルグの要求するように、
東部戦線にばかり増兵するわけに行かなかったのである。

歴史的イフ(仮定)が許されればヒンデンブルグの言うようにしたら
3年早くロシアと停戦しえたかもしれない。
すると西部戦線はどうなったかわからない。

ファルケンハインは逆にヒンデンブルグから数箇師団を取り上げて
西部戦線に投じたが戦況は好転しない。
一方、弱体化した東部戦線はオーストリア軍がロシア軍に破れて危うくなる。

ヒンデンブルグはバルチック海からウクライナ地方に至る
全東部方面の総司令官となり戦線を安定させた。
その後ファルケンハインは辞職し、ヒンデンブルグが参謀総長になり、
ルーデンドルフがその右腕役になった。

ヒンデンブルグは西部戦線を整理し、いわゆるヒンデンブルグ・ラインで戦況を安定させた。
一方、スイスにいたレーニンに汽車の便を与えてロシアに帰国させ
ロシア革命を成功させたのはルーデンドルフである。

これでドイツにとって極めて有利な条件でロシアとの講和が成立した。

西部戦線にはアメリカも参加したが、ドイツ軍は勝ってないまでも負けていなかった。
しかしドイツ国内で革命が起きた。皇帝は軍を率いて革命を潰そうとしたが、
ヒンデンブルグは拒絶した。そしてオランダに亡命することをすすめたのである。

ドイツは敗れた。ヒンデンブルグは二度目の隠退生活に入った。
そして『懐古録』を書いた。その中で「ドイツ軍は敗けていなかったが、
背後の革命によって裏切られたのである」と言っている。

隠退して7年後、戦後ドイツの大統領エーベルトが死んで大統領選挙が行われ、
ヒンデンブルグが選び出された。

第3回目の人生のはじまりである。
この選挙では2位のカトリック党・自由党・社会党推薦のヴィルヘルム・マルクスに
80万票の差をつけていた。

彼は君主制や伝統の尊重の精神を持っていたが、ホーエンツオルン家の復位の努力はせず、
戦後の共和制に同調した。2度目の大統領選挙では人気急上昇のヒトラーにも勝った。

彼はヒトラーを「ボヘミア生まれの伍長」と軽蔑し、首相に任命しようとしなかった。
しかしお気に入りの政治家や軍人たちに説得されて、選挙で大勝したヒトラーを遂に
1933年に首相に任命する。

ヒンデンブルグはその時86歳だった。
ヒトラーはヒンデンブルグに明らかな敬意を表し鄭重に応対した。

その後ヒンデンブルグは実質的には隠退した状態になり、翌年87歳でなくなった。

ヒトラーが後に続いたため、彼の戦後の評価は高くないが、
リーダーとしては傑出していたことを否定することはできない。


http://www.jmca.jp/column/watanabe/28.html

         <感謝合掌 平成28年9月28日 頓首再拝>

『口はひとつ、耳はふたつ』 - 伝統

2016/09/30 (Fri) 18:17:15


        *人と組織を動かす
        (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

こんなことがあった。

ある日彼は、ニューヨークの出版業者JWグリーンバーグ主催の晩餐会の席上で、
ある有名な植物学者に遭った。

それまで植物学者とは一度も話したことがなかった彼だったが、
植物学者の話が素晴らしくて魅せられてしまった。

回教徒が麻酔に用いるインドの大麻の話、
植物の新種をおびただしく作り出したルーサー・バーバンクの話、
その他、屋内庭園やジャガイモの話など、

聞いているうちに彼は、文字通りヒザを乗り出していた。

その晩餐会には、客は他にも12~3人あった。
だが彼は、非礼をも顧みず、
他の客を無視して何時間もその植物学者と話したのである。

夜も更けてきたので、彼は皆に別れを告げた。

その時、植物学者はその家の主人に向かって、彼のことをさんざん誉めあげた。
しまいには、彼は、“夜にも珍しい話し上手”だということになってしまった。

(D・カーネギー『人を動かす』創元社より)


彼とは誰であろう、名にし負うD・カーネギーである。彼は述べている。

  「話し上手とは恐れ入った。あの時、私はほとんど何も喋らなかったのである。

   喋ろうにも植物に関しては全くの無知で、話題を変えでもしない限り、
   私には話す材料がなかったのだ。

   もっとも、喋る代わりに聞くことだけは、確かに一心になって聞いてた。
   心から面白いと思って聞いていた。それが相手にわかったのだ。
   したがって、相手は嬉しくなったのである。

   こういう聞き方は、
   わたしたちが誰でもできる最高の賛辞なのである。

    ・・・だから実際は、私は単によき聞き手として、
   彼に話す張り合いを感じさせたにすぎなかったのだが、
   彼には、私が話し上手と思われたのである」


このエピソードを待つまでもなく、
世の中には話し上手は多いが、「聞き上手」は少ない。

もっと言い切ってしまえば、圧倒的大多数の人間は精神的・心理的難聴者である。

だが、人に感謝され好感を持たれ、しかも己の肥やしとなるのは、
話し上手ではなくて「聴き上手」である。

そしてまた、「聴く」ことの方が、神様の決めた自然の摂理に適っているのではないか?

口はひとつしかないが、耳はふたつあり、しかも口より上についているのである。

つまり、話すことよりは聴くことの方が上位にあり、少なくとも2倍は大切ですよ、
と、神様が決めているのである。

積極的に聴くことを心がけたいものだ。


また、「聴くこと」に慣れていない人は、テクニックとして、次の3つをお試しあれ。
だんだん「聴き上手」になること請け合いだ。

(1)メモをとる……こうすると、自分の記憶の誤りを避けることができるのと同時に、
   相手にこちらの誠実さが伝わる

(2)話の途中で、相手の話を遮らない

(3)「ええ」「なるほど」など、しかるべき合いづちを入れながら聴く。
   時には軽い驚きや賛嘆の間投詞をまじえながら。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito95.html

         <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>

「追い風」を重視して、敗北から学びを得る - 伝統

2016/10/03 (Mon) 17:55:20


       *Web:ダイヤモンド・オンライン(2016年8月18日)より


家康はホトトギスが泣くまで
ただ待っていたわけではなかった!
弱者が天下を獲るための攻守戦略とは?


《今川と織田に挟まれた弱小勢力の松平氏》

日本の三英傑として知られる、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。
信長は1534年、秀吉は1537年、家康は1543年の生まれです。

彼らの性格を比較する有名な言葉に、つぎのようなものがあります。

  「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」(織田信長)

  「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」(豊臣秀吉)

  「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」(徳川家康)


家康を「待つことができる英雄」とたとえているのは、
彼が最後に生まれ、二人の英雄の業績を受け継ぐ形で
天下人になったことも理由でしょう。

家康は、三河(現在の愛知県岡崎市周辺)の松平家に生まれます。
しかし当時は、駿河の今川家と、尾張の織田家の勢力争いの真ん中に位置しており、
常に不安定な立場でした。

家康の父である広忠は、同族の松平信定に岡崎城を奪われており、
岡崎城に戻るために今川義元を頼ったことで、
今川には逆らうことができませんでした。

「広忠の叔父にあたる三木家の松平信孝が老臣衆に排除され、
やむなく織田信秀に通じたため追放されてしまった。

ついで、同年七月に於大の父水野忠政が死去し、
跡を継いだ子息の信元が織田方に走ったため、
広忠は翌天文十三年に於大を離別した」
(於大は、広忠の妻で家康の母。書籍『定本徳川家康』より)


家康の生まれた松平家が、今川と織田の勢力争いの境界線にあったことで、
両家で激しい綱引きが行なわれたことが伺えます。

家康の母は、その父方が織田勢力と通じたことで離縁されてしまい、
家康は3歳の時に実母と引き離される悲運を味わいます。


その後、松平家は織田勢力と戦うため、今川に援軍を求めますが、
そのときに人質として家康を差し出すことになります。

しかし、義母方の父の裏切りにより、織田側に連れ去られてしまい、
後年、織田の人質と交換することで今川の元に戻るなど、
弱小勢力のもとに生まれた故の、波瀾万丈の幼少期を体験します。


《今川勢として、初陣を飾った若き日の家康》

家康(当時は松平元康)は、その15歳の初陣を今川配下で戦っています。
今川側から寝返って、織田側についた鈴木重辰を討伐する命令を受けたのです。

1558年の初陣では、今川の庇護・加勢の元で戦い勝利を収めた家康ですが、
そのわずか2年後には劇的な運命の転換が待ち受けていました。

1560年、桶狭間で今川義元が織田信長の奇襲により討ち死にしたのです。

今川義元が死んだことで、岡崎城を支配していた今川勢も城を捨てて、駿河に去ります。
そのため、名古屋から岡崎近くに撤退してきた家康は、
10年半ぶりに岡崎城に入城することになります。

密かに独立を目指していた松平の家臣団と家康は、
今川勢が退去した西三河地方をすばやく攻略し、支配下に収めていきます。

今川の支配勢力が逃げたことで、空白地域に近いエリアを得て、
家康と家臣団は自主独立の大きなきっかけを得たのです。

2年後の1562年には今川家と断絶し、家康は織田信長と同盟を結びます。
この同盟は、東三河を攻略したい家康と、美濃の斉藤氏へ攻勢を強めたい
信長の思惑が一致したためと言われていますが、
これにより家康の今川勢力への攻撃はさらに激しさを増し、
領土拡大にも拍車がかかることになりました。


《武田信玄との戦いで、大敗する》

これまでの家康の戦いを見ると、彼が「ある種の追い風」を元に戦っていることがわかります。
初陣では今川勢力の配下で、桶狭間の戦いで今川義元が死去したあとは、
今川勢が撤退せざるを得ない状況で、戦いを始めているのです。

のちに今川家を滅亡させた戦いでも、1568年に武田信玄が今川氏真を攻めたことに
タイミングを合わせる形で、今川の領土攻略を開始しています。

家康は、自分に有利な追い風が吹いているときを狙って全力で戦い、
戦闘の効果を最大限高めることを常に狙っていたのではないでしょうか。

懸川城を攻めあぐんだ家康は、今川家臣に次のような提案を行い、
みごとに今川に城を明け渡させることに成功します。

「今川氏とのかつての縁を説き、遠江を家康が取らなければ必ず信玄が取ることになる、
それよりは家康に下され和談となれば、北条氏と申し合わせて信玄を追い払い、
氏真を駿府へ戻そうというものであった」(書籍『定本徳川家康』より)

自軍に有利な追い風が吹いているときだけを狙い、追い風を活用して勝利を拡大する。
そのような姿勢であれば、追い風が吹かないあいだを「待つ」ことになります。


ホトトギスが鳴くまで待つ、という家康の性格は
「有利な追い風が吹くときを狙って戦う」とすれば、
シンプルに理解することが可能になります。


このような家康も、生涯に一度だけ、自軍に有利な追い風がないときに戦ったことがあります。
それが武田信玄との三方ヶ原の戦いです。

今川家の領土侵略のときに、信玄と家康は小競り合いをしたことがあり、
その対立から信玄が家康の支配地域に攻め込んだのです。
1573年に、静岡県浜松市周辺で行なわれた戦いでは、二股城を落とした信玄が、
家康の立てこもる浜松城を攻めず、そのまま三河方面(家康の本拠)に進軍しようとします。

これを見て、1万ほどの家康軍は2万5000もの兵力を持つ武田軍を追撃することを決意。
この無謀な戦闘は、家康の家臣たちが止めるのを振り切って行なわれました。

家康は次のように言いました。

「我が国をふみきりて通るに、多勢なりというて、などか出てとがめざらん哉。
とかく、合戦をせずしてはおくまじき。陣は多勢・無勢にはよるべからず。天道次第」
(書籍『定本徳川家康』)

しかし結局この戦いで、兵力に勝る武田軍に待ち構えられた家康軍は大敗します。
多くの重臣を失った家康は、敗戦のときの苦い顔を絵師に書かせてのちに
いくども眺めたほどでした。

どれほど決意があっても、自軍に追い風が吹いていない時に戦えば、
大敗を喫することを家康は学んだのです。


《「追い風」を重視して、敗北から学びを得る、家康の強さ》

のちに小牧・長久手の戦いで秀吉と対峙したときも、家康は最後まで戦おうとせず、
不利な状況になったときには停戦を行ない、人質を差し出す形で戦いを止めています。

追い風が吹いていないときに無謀な戦いを続ければ、
大敗を喫して自軍が滅亡しかねないからです。

逆に、自らに有利な追い風が吹いているとき、戦端を開かないのも愚かな話しです。
千載一遇のチャンスに手を伸ばさなければ、自らが飛躍するときは永遠にやってこないでしょう。

家康は、配下だった今川義元、最重要の同盟者だった織田信長がともに敗死する
大混乱を生涯で2度も体験しています。

しかし、人生で多くを学んでいた彼は、
その空白と混乱を自らの飛躍の礎に転換できたのです。

多くの場合、守りに強い人は攻めることが苦手であり、
攻めることが得意な人は守りが苦手なものです。

しかし、時勢に合わせて攻守を巧みに切り替えなければ、
大きく飛躍できず、また生き残ることができません。

家康が、今川義元が討たれた桶狭間の戦いのあと、
自らの独立を達成するため果敢に戦わなければ、今川勢が去ったエリアは、
だれか別の支配者が手に入れていたことでしょう。

武田信玄が今川氏真を攻めた時、勇躍して今川の領土に攻め込まなければ、
のちの天下につながる勢力拡大はできなかったかもしれません。

弱小だから守り続ければよいというわけではないのです。

家康が生まれた松平家が、2つの勢力に挟まれて独自に判断ができないほどの
弱い存在だったことを思い出してください。

織田側に妻の父方が通じたことで、今川の支援を得ていた家康の父は、妻を離縁しました。
そのような小勢力に生まれた家康が、大名の頂点に立ち、天下を統一したのです。

機会に応じて攻守を使い分けたことが、偉業を成し遂げる力となったのです。

   (http://diamond.jp/articles/-/99015

         <感謝合掌 平成28年10月3日 頓首再拝>

指導者の条件69(天命を知る) - 伝統

2016/10/05 (Wed) 18:42:15


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は自分の力を超えた運命というものも考えてみたい。

孔子が諸国を旅して、匡という所へ来た時、
人違いから、そこの人々に取り囲まれ、危害を加えられそうになった。

その折に不安におびえる弟子達に、孔子はこう言っている。

「現在、古の聖人の道を受け継いでこれを世に広めようとしているのは私である。
そしてそれは天命である。天が私をして道を伝えしめているのであって、
天が道を滅ぼそうとしない以上、匡の人が私をどうこうできるものではない。
だから決して心配は要らない」

天命とか運命といったものがあるかないかというのは、まことに難しい問題である。
科学的に証明できるものではないから、そんなものはないという見方も出来るし、
そう考える人もいるだろう。

しかし、孔子はそういうものがあるとして、
自分は50歳にして天命を知ったとはっきり言っているのである。

つまり、孔子は古の聖人が説き、実践した正しい道というものを研究し、
それを現世に生かし、後世に伝えることを生涯の仕事としたが、
それは単に自分一個の意志や考えでやっているのではなく、
それを超えたもっと大きな力、すなわち天命によって、
いわばやらされているのだと考えたわけである。

そこに孔子の非常な強さがあるのだと思う。

人間は自分の考え、自分の意志だけで事を成していたのでは、
いかにそれが正しいことでも、周囲の情勢などによって動揺したり、迷ったりしがちである。

しかし、自分がこれをやっているのは、一面自分の意志でやったことだが、
それだけではない、大きな運命の巡り合わせによって、そうなったのだ、

だからこれはいわば自分の天命だと考えるならば、
そこに一つの安心感がわき、少々のことでは動じない
度胸といったものも生じてくるのではないかと思う。

考えてみれば、お互いが人間として生まれたことも、
この日本の国に生まれたことも、自分の意志ではない。
だからこれを一つの運命と考えても良いと思う。

そのような意味において、指導者としての立場に立ち、
ある種の責任を課せられるということの中にも、
自分の意志で進んだというほかに、

世の動き、時の動きといった、
運命的なものが働いているという見方も出来ると思う。

理屈で割り切れることではないが、
そうした天命とか運命といったものを考えることによって、
そこに指導者としての強い信念を養っていくことも大切ではないだろうか。

         <感謝合掌 平成28年10月5日 頓首再拝>

「ヘンリィ八世」 - 伝統

2016/10/07 (Fri) 19:09:02


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

イギリスの画商のスリーパー探しの番組を見た。
スリーパーというのはその価値がわからず、安い値段でオークションに
出てくるような絵画のことである。
 
スリーパーとは、つまり本当は重要な作品であると判明すれば
二百万円ぐらいのものが百億円以上の値がつくこともある作品のことである。

そのスリーパー探しの名人といわれるモールド氏が、
アーサー皇太子の肖像画を発見する話があって、大いに興味を牽かれた。

 
アーサー皇太子(一四八六~一五〇二)はイギリス国王ヘンリィ七世と、
ヨークのエリザベス(国王エドワード四世の長女)の間に生まれた長男である。

当然イギリスの次の国王になる人であり、
すでにプリンス・オブ・ウェールズ(英国皇太子)の称号も与えられていた。

彼より一歳年上のキャサリン・オブ・アラゴンとの結婚が国王同士の間ですすめられた。
キャサリンの母は有名なスペイン女王イザベラである。

花婿アーサーは十五歳、花嫁キャサリンは十六歳である。
しかし結婚の翌年、アーサー皇太子は病没し、その六年後に
キャサリンはアーサーの弟のヘンリィと結婚させられる。

キャサリンは二十三歳、ヘンリイは十八歳。
このヘンリィが後のイギリス国王ヘンリィ八世になる。

 
テレビの話はこのアーサーの肖像が一つも残っていないとされていたのに
スリーパーとして発見されたという話であった。

 
ここで興味があるのは、アーサー皇太子が結婚翌年に夭折したという偶然によって、
弟のヘンリィがイギリス国王となり、キャサリンがその王妃になったことである。

というのはこの偶然によってカトリック国イギリスが、
プロテスタント国イギリスになるという大事件が起るからである。

 
この頃は王家同士の結婚は、日本の大名同士の結婚の如く政略結婚である。
強大なスペインとの結婚はイギリス国王ヘンリィ七世の望むところであった。
しかし皇太子はすぐに病没した。

それでその未亡人を六歳も年下の次男のヘンリィの花嫁にしたのである。


そのうちイギリスとスペインの関係も面白くなくなった。

ヘンリィ八世は六歳も年上の兄の「お下がり」よりも、
十六歳も年下のアン・ブリンという女性に牽かれる。

アンは父がフランス大使であったこともあり、
フランス宮廷にも出入りし、洗練された美人であった。
しかもキャサリンより二十二歳も年下なのだ。

ヘンリィ八世がアンを愛妾とした時、アンは芳紀まさに二十歳、
キャサリンは四十二歳、つまり初老だ。

年齢は昔も今も、特に昔は、女性に残酷である。
二十二歳も年下の美人にはキャサリンも勝てない。

ヘンリィ八世は後にキャサリンを捨て、アンと正式に結婚しようとする。
(後のエリザベス一世は二人の間の娘)。

ヘンリィ八世の命令でカンタベリ大司教のクランマーは、
ヘンリィ八世とキャサリンとの結婚無効を宣言し、アンとの再婚を可能にする。

 
しかし当時はイギリスもスペインもカトリック国だ。
ヘンリィ八世とキャサリンの結婚はローマ教皇ユーリウス二世が承認したものである。
カトリックでは原則として離婚は認めない。

結婚が実質的に成立していなかったことが証明されれば離婚も認められるが、
ヘンリィ八世とキャサリンの間には子供も生まれている。
離婚の理由は成立しないのだ。

 
ヘンリィがアンを妾にするのを教皇はもちろん黙認し全く問題にならないが、
スペイン王の娘が正式に離婚されたのではローマ教皇としても面目が立たない。
教皇はヘンリィ八世を破門する。

 
ヘンリィ八世は自らがイギリスの首長となり、イギリス中の修道院の破壊と掠奪をやる。
信長は延暦寺を焼き、一向宗徒を殺したが、
ヘンリィはイギリス中に巨大な財産・土地などを持っていた大修道院を没収した。
それでイギリスには意外にも中世の写本が今日あまり残っていないのである。

離婚話からイギリスがカトリックでなくなった、という大事件が起きた。
その大変革が成功したのはヘンリィ八世はリーダーとしては断乎としていたからである。

ヨーロッパ大陸でも、またイギリスの島の中でも戦にはいつも勝っている。
尨大な教会財産を取り上げて気前よく部下にくれてやったので、
新貴族たちはヘンリィ八世に忠義であった。

信長が日本の中世に終止符を打ったように、
ヘンリィ八世はイギリスの中世に終止符を打ったのである。

 (http://www.jmca.jp/column/watanabe/30.html

         <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

人間的な魅力 - 伝統

2016/10/09 (Sun) 19:32:12


        *人と組織を動かす
        (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

はたしてビジネスマンに“人間的能力”、つまり人間的な魅力は本当に必要なのか?

それについて、私の経験をもとに考えてみたい。

私は永いビジネスマン生活の中で、一度だけふて寝をして会社をズル休みした経験がある。
たしか、仕事を始めて7、8年過ぎたころだったと記憶している。

そもそも当時の私は、“仕事ができる男”に魅かれていた。
そのため、専門的能力やマネジメント能力を高めることを自分に追い求めた。

それこそ、スキルの熟練に全力を傾注し、
極端にいえば、「自分の仕事さえうまくいけば」と
他人のことには無関心で、ゴーイング・マイウェイを決め込んだ。

それが、仕事ができる男である・・・と思っていた。


仕事に興味が尽きず、さらなる意欲を燃やしていた時期でもあり、
病気でも出社こそすれ、ズル休みをするなど、考えたことすらなかった。

それが出社拒否をしたのには、訳があった。

会社の中で大きなプロジェクトが進行していて、
それまでのいきさつから、当然に私もメンバーに入るものとばかり思っていたところ、
選にもれたばかりか、後輩が選ばれたからだ。

それで面白くなく、布団をかぶって家で悶々としながら寝ていた次第なのである。


おそらく、そのまま一日が過ぎていれば、その後の私は無かったのかもしれない。

夜、わざわざ部屋を訪問してくれた課長のひと言に、
私は自分に欠落していたものがあることに気がついたのだ。


「どうだ調子は?
 ところでプロジェクトの件、メンバー選定に講義もせず、黙認してくれてありがとうな。

 実はあのプロジェクトは、ある事業から撤退するためのものなんだ。
 そこに、お前みたいに積極的で攻撃的なタイプは向かないと思ったから選ばなかったんだ。

 そもそも、退くからには犠牲が伴うし、おまえをその渦中に巻き込みたくなかったんだ。
 とにかく、後輩が選ばれたことに文句を言わずにくれてありがとう…。」


課長が帰ったあと、私は何度自分の頭をゲンコツで殴ったことか。

心の中で、何度、
「課長のために仕事がしたい」
「そうか、あの人のために仕事をしたいと思わせてこそ、ビジネスマンとして一級なのだ」
と、繰り返したことか。


このことを契機に私は、
機能的・専門的やマネジメント能力だけでは、
ビジネスの世界で通用しないことに気がついた。

それらに加えて、“人間的能力”を磨いて仕事に対処しなければ、
しょせん、大きな仕事を成し遂げることはできないのだ、と強く心に刻み込むにいたった。

人間的能力(=魅力)に欠けたマネージャー・管理職・経営者は、失格である。

機能的・専門的能力+マネジメント能力+人間的能力の三位一体のバランスが取れてはじめて、
ビジネスリーダー、優れたビジネスマンになれるのだ。

「あの人のために」と思われてこそ、
ビジネスマンとして本当の意味で合格点をつけられるのである。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito105.html

         <感謝合掌 平成28年10月9日 頓首再拝>

松下幸之助は「部下からの情報」を重視した - 伝統

2016/10/12 (Wed) 18:47:53


        *Web:東洋経済オンライン(2016年10月7日)より

江口克彦氏の『経営秘伝――ある経営者から聞いた言葉』。
松下幸之助の語り口そのままに軽妙な大阪弁で経営の奥義について語った著書で、
1992年の刊行後、20万部を売り上げるヒットになった。

本連載は、この『経営秘伝』に加筆をしたもの。
「経営の神様」が問わず語りに語るキーワードは、
多くのビジネスパーソンにとって参考になるに違いない。

経営者にとって一番大切なことは、いばることではなく、
会社を発展させる道を見つけ出すことやな。
わしはできるだけ、部下の話に耳を傾けるということを、心がけてやってきた。

どうしてかと言うとやな、そりゃあ、聞けば、きみ、
いろいろな考えというか、知恵というか、いまの言葉でいえば、
情報やな、情報を集めることができるわな。

とくに今日のように情報を集めながら、仕事をせんならん時代は
、部下や多くの人から話を聞くということは、きわめて大切なことと言えるわな。


《人間ひとりの知恵には限度がある》

人の知恵は借りない、人の話は聞かないということで、
自分でなんでも考えて結論出して、それで成功すると。
まあ、そんな人は、普通はおらんね。正直なところ。

人間ひとりの知恵には、限度があるわな。
そんな限度ある知恵で無数の課題をもつ経営をしようとしたら、
うまくいかんのや、わしの経験から。

きみの知っておることと、わしの知っておることと同じではないわね。
わしの知っておることもきみは知らんと。
けど、きみの知っておることも、わしは知らんと。

まあ、そういうもんやろ。
知らんことを尋ねること、聞くことによって、
お互いに知識とか知恵とか身につけることが出来る。

そういうことで、部下の話を聞くということは、
ごく自然に、たくさんの知恵を集めることができる。
自分以上の、たくさんの知恵を集めることができる。なあ、便利やろ。


《部下の話を聞かないのは責任者として失格》

部下の話を聞くときに、心掛けんといかんことは、部下の話の内容を評価して、
いいとか悪いとか言うたらあかんということやな。
部下が責任者と話をする、提案をもってくる、その誠意と努力と勇気をほめんといかん。

まあ、部下からすれば、緊張の瞬間ということになるわね。

ところが見ておると、大抵が、部下のもってくる話とか知恵の内容を吟味して、
それで、「あんたの話はつまらん」とか、「そういうことは以前やってムダであった」とか、
「そんなことは、だれでも考えられる」とか、

時には「もう、そんな話なら、わかっておるから、聞かなくていい」とか、
そういうことで部下の話を聞かない。

そういうことを責任者がやるとすれば、責任者として失格や。


■部下の提案が圧倒的に良いものだけならば…

だいたいが責任者より部下のほうがいい提案を、いつもいつもするようならば、
一面、その責任者と部下と、立場を替えんといかん、ということになるわね。
部下のほうが優秀だということにもなるからな。

そうではない。

部下の話は、何回かに一回ぐらい、うん、ええ提案だと、ええ知恵やな、
ということになれば、それで十分なわけや。

それよりもなによりも、部下が責任者のところへ話をしにくる、提案をしてくる、
その行動をほめんといかんのや。

「あんた、ようわしのところへきてくれた」、「なかなか熱心な人や」、
と言うて、まずそれをほめんといかんわけや。

その部下が持ってきた話とか提案の内容は、二の次でいい、早く言えばな。

そうすると部下は、それからなお勉強して、
どんどん責任者のところへ話とか情報とか提案とか、
そういう知恵を持ってきてくれるようになるんや。

なんでもいいから、部下に知恵を持ってこさせる、
話を持ってこさせる、それが大事やね。

そやな、部下は話や提案の内容を、極端に言えば吟味する必要はない。
さっきも言ったように内容の吟味は上司の心のなかで、頭のなかでやればよろしい。

まあ、そう言っても、部下は部下なりに一生懸命考え、研究して提案したり、
話をしたりするもんやから、そうアホなものはないよ。

経営者は、たくさんの話や知恵のなかから、あるいは知恵を組み合わせ、
自分で考えて考えて考え抜いて、ひとつの決断をしていく。
そうすれば、大概は間違いなく経営を進めていくことができる。

わしは、よくテレビでまげもん(時代劇)を見るけどな
、銭形平次な、子分はなんやったかな、ガラッ八か。

あれがいつも「親分、たいへんだ、たいへんだ」といって、
親分のところへ駈け込んでくるわな。あれが大事なんや。

そういうときに親分が、おまえの持ってくる情報はつまらんとか、
あかんとか言っとったら、ガラッ八は、来なくなるわな。
もう、ああいう親分のところには行きたくない。

そう思うのが人情やで。


《きっと親分は熱心に聞いてくれる、と思うから》
 
そういうふうに思わせたらおしまいや。ところがそうではない。
いつもいつも、親分が「何だ、何だ」と熱心に聞いてやるから、
ガラッ八はいつでも喜んでとんでくる。

つまらん話や情報でも、なにはともあれ、持っていこう、
まず、とにかく親分に知らせよう、連絡しよう、報告しようということになる。

持っていけば、きっと親分は熱心に聞いてくれる。ガラッ八はそう考える。
そしてその情報の内容がいいとか、つまらんとかは、親分が心のなかで判断する。

よし、これはいい話だ。これはいい情報だ。
うん、これはそうでもないな。
そういう判断を、親分は心のなかでしとるわけやな。

銭形平次は、立派な責任者ということになるな。


■人を育てるというのは、時間がかかるもの

部下の話を聞いておると、また部下の人たちが成長もするね。
つねに上の人から、ものを尋ねられる、あるいは聞いてもらえるということになれば、
部下のほうでも、聞かれたとき、あるいは報告や提案をするとき、
多少は、ましな話をしようと思う。

きみかて、そやろ。ハハハ。

そう思えば聞かれるまえに、報告するまえに勉強しようか、調べておこうかということになる。

部下に勉強せよというのも大事なことではあるけれど、
もっと肝心なのは、部下自身が自分から勉強しようと、そういうふうにさせることやな。

そのためには、部下にものを尋ねること、話を聞くこと、部下にすすんで提案させることが、
一番ええやり方やな。

うん、それは根気がいるわね。そういう人の育て方というのは。
まあ、「指導せずして指導する」わけやからね。
けど、本来そういうやり方が人材の育て方やな。

もともと、人を育てるというのは、時間がかかるもんや。
木を植えるのは十年の計、人を育てるのは百年の計というやないか。
即席とはいかんね。

教育というのは、夏の芝生の雑草とりに似ておるわな。
いっぺん雑草をとったから、もうその芝生はひと夏、
雑草は生えてこないということはないな。

雑草をとってもとっても2、3日もすれば、また生えてくる。
それをまた抜いていく。取り除いていく。
その繰り返しによって、芝生はきれいな状態に維持されるわけや。

 
教育も同じことや。1回教えたら、もうそれで大丈夫だ、
もう教育しなくてもいいと考える人がいるとすれば、
教育というものがわかっておらんと言えるわな。

繰り返し繰り返し根気よく行っていく。
その“繰り返し”そのものが教育であり、その根気が人を育てるということになる。

部下の話を聞くということも、その根気がないとだめやな。

聞くということによって、責任者にはいろいろ得することが多いけど、
しかし同時に責任者は聞きながら、きっとこの部下を育ててやろう
という気分を持っておらんといかん。


http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161007-00138917-toyo-bus_all

         <感謝合掌 平成28年10月12日 頓首再拝>

「フランクリン・ルーズベルト」 - 伝統

2016/10/15 (Sat) 19:01:40


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

もし私が「一番憎い人は誰か」と聞かれたら、
「アメリカ第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルト」と答えるであろう。

彼が憎いのは、日本を敗戦国に追い込むほど偉大だったからである。
 
「敵ながら天晴れ」と言いたいところだが、
豊臣秀頼は徳川家康を「敵ながら天晴れ」とは言わないであろう。
いかに徳川家康が客観的に見て偉大な人物であったとしてもである。

私もその秀頼の気持ちに近い感情をこのアメリカの大政治家に対して抱いている。

ルーズベルトは明治十五年(一八八三)にアメリカの富豪でも名門でもある家に生まれた。
父は大地主で鉄道会社の副社長であり、母はニューヨークの金持ちの実業家である。

妻は二十六代大統領セオドー・ルーズベルトの姪であり、彼自身もこの大統領の遠縁である。
二人の結婚式には大統領自身も出席した。
家系といい、経済力といい、アメリカの代表的な名家である。

ルーズベルトはハーバード大学を出るとコロンビア大学のロー・スクールで学んだ。
学生時代はスポーツを好み、射撃、ポロ、猟犬を使った狩猟、テニス、ヨットなどを好んだ。
また仕事に、慈善事業に、社交に、世間の注目をひく若者であった。

こういう青年をアメリカの政界が放っておくわけはなく、
二十八歳で民主党のニューヨーク州上院議員、三十歳で再選し、
その間、進歩的な政策をふりかざして、目ざましい活躍をする。

ウィルソンの大統領選挙に功績が認められて海軍政務次官みたいなポストをもらう。
彼は子供の時から軍艦の絵を集めるのが好きだったし、
海軍には深い関心を持っていたのである。

また海軍省こそは、そこを土台にして遠縁のセオドー・ルーズベルトが
大統領になったところでもある。

この地位にいる間にルーズベルトはマハンの「制海権が歴史に及ぼした影響」
という本を徹底的に理解したらしい。

彼の在任中に第一次世界大戦が起こったが、そのときも海軍力増強の主唱者であった。
ドイツの潜水艦退治のため110フィート駆潜艇を四百隻も作らせたのは彼である。

その後女性秘書との関係がバレたり、小児麻痺になったりしたが、
いずれも乗り切ってニューヨーク州知事になり、一九二九年のニューヨーク株式暴落で
引き起こされた大不況のさなか、一九三三年に大統領に選出された。

そしていわゆるニュー・ディール政策を引っさげて大不況を乗り切ろうとした。

ニュー・ディールとはとりもなおさず「富の再配分」ということで、
社会主義的色彩の濃いものであった。
それで農家や労働者の人気は高かった(ヒトラーと同じことである)。

それで私有財産の保護を規定した憲法違反で訴えられ
連邦最高裁が彼の政策の一番の邪魔になった(ヒトラーのドイツと違うところ)。

そこで最高裁の裁判官を六名新任する権利を与えられることを求める法案を出したが、
議会は「これはヨーロッパで独裁者が権力を握ったのと同じやり方だ」といって否決された
(これがヒトラーと違っている点で共和党の意味がよく分かる)。

それでも彼の重視した社会主義的立法は、最高裁で五対四で勝ったので、
彼の政府は経済政策に関してほとんど無制限の権力を与えられたことになる。
「大きい政府」のはじまりである。

そしてこの権力を駆使して彼は大戦争に向けての軍備をととのえることになる。

彼は一九三三年(昭和八年)の最初の頃の閣議で、日本との戦争の可能性を論じ、
数ヵ月後にはすでに海軍増強の予算を発動している。

日米戦争勃発の八年前だ。

後に彼の敵となる東條英機は彼より一歳若いが、この頃は陸軍少将になったばかり、
しかも翌年には陸軍士官学校幹部、次いで歩兵第二十四旅団長に左遷されており、
国家の中心的権力からは遠い所にあった。

 
一方アメリカはこの頃から大統領が一貫した反日的対日政策を持っていたことが分かる。
日本はそれから内閣が十回も変わってようやく東條内閣になるのだから、
日本の政策は多分に泥縄式なのに、アメリカはリーダーが一貫している。
そう言えば、ドイツもソ連もリーダーは一貫していた。

ヨーロッパで戦争が始まると、中立国と称しながら、
アメリカは中立国とは言えないような武器援助をイギリスにやる。
そして世界大戦に備えて軍備大拡張の生産基盤をつくってゆく。

イギリスやフランスは第一次大戦の借金を返し終わっていなかったので、
アメリカの法律では武器を買う金を貸すことが禁じられていた。
それで武器そのもの、飛行機そのものを借す、という名案を思いついたのである。

原子爆弾の開発も早々と進める。
日本に対しては石油をはじめとする物資を「売らない、売らせない」という政策で締め上げる。

そして共産党員の作った外交文書(いわゆるハル・ノートだがハルは製作に関係していない)
を日本につきつける。これは実質上の国交断絶書であった。

かくして対米戦争が始まった。
ルーズベルトは左翼好きで、チャーチルよりスターリンを重んじ、
大西洋憲章にも反してソ連に極東侵略を許した。

アメリカ人にとって史上初の、そして最後の四選を果たした偉大な大統領だが、
日本人として私は憎む。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/31.html

         <感謝合掌 平成28年10月15日 頓首再拝>

『ノー!の返事にこそ、気配りを』 - 伝統

2016/10/20 (Thu) 18:56:17


        *人と組織を動かす
        (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

世の中、話し上手と称される人は多いが、
聞き上手というのはあまり聞いたことがない。


アメリカのビジネス・エグゼクティブは、
一日の総労働時間の約60%を「聞くこと」に使っている。

しかし、それほどの時間を費やしているわりには、内容の理解は薄く、
記憶となると、もっと心もとないという調査結果がある。

たとえば、4時間ばかり誰かの話を聞いていたとしよう。
そのうち聞き手がちゃんと聞いているのは、せいぜい1時間、
それが、どの程度覚えているかとなると、たったの8分ぶんという調査もある。

人はいかに聞くことが苦手であるか、わかろうというものだ。

といって、苦手なままにしておいて良いわけではない。
少しでも聞き上手になるような姿勢を、示すべきである。


私の友人に、国際関係の法律を専門にしている弁護士がいる。

いつ行っても、相談者が絶えないほど繁盛しており、
私が待たされることもしばしばだ。

そうした折、彼が実によくメモを取っていることに気がついた。

そこで、「ずいぶんメモを取るんだね」と何気なく聞いたところ、
彼はこう答えるではないか・・・

 「実は、ポイントさえメモすれば、それで済んでしまうんだ。
  でも、相談者にしてみれば、いろんなことを訊きたいんだろうね。
  同じようなことを繰返し質問してくることが多いよ。
  はっきりいって時間のムダなんだろうけど、一応、お客様だからね。
  それで、熱心に聞いているように振る舞うために、
  メモを取っているように見せているんだよ。なに、イタズラ書きさ・・・。」

たしかに、イタズラ書きといえども、そこに法文のひとつでも書かれてあれば、
法律のシロウトなら、熱心に聞いてもらえていると錯覚するものだ。

このメモ作戦、ある場面では参考にすることもできるだろう。
ただし、本質論ではありえない。


やはり、聞き上手になるためには、それなりの努力が要るものだ。


たとえば、部下の声にいかに耳を傾けるか。

気のない返事や、無視したような返事ばかりでは、
部下はそっぽを向いてしまうのはもちろんだが、

一番良くないのは、部下の意見に対して「ノー!」と言っておいて、
そのまま放っておくことだ。

 「君、私はあの時、ダメだという判断をしたが、
  いろいろ調べてからもう一度結論を出すよ。
  ほかの人間にも意見を聞いてみよう。」

といったフォローがポイントとなる。そのうえで、

 「やっぱり君の意見にはムリがある。
  違った角度から、もう一度考えてみなさい。」

とすればどうだろうか。

それをしないと、コミュニケーションが取れないばかりか、
その部下は二度と意見を具申してこなくなるだろう。 

その方が、怖い。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito107.html

         <感謝合掌 平成28年10月20日 頓首再拝>

スケールの大きい人 - 伝統

2016/10/23 (Sun) 18:19:08


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2011-05-20)より

   (松本順氏の心に響く言葉より…)

   晋の趙(簡主)王の近臣が

   「陽虎(ようこ)という人間は、巧みに国政を私するといわれています。
   そのような人物をどうして宰相に任じたのですか」

   と諫言した。


   すると、簡主は、

   「陽虎は国政を私しようと隙をうかがい、
   予の方はそうさせまいと油断なくこれを監視する。
   要は国政を奪われぬだけの力が予にありさえすれば、
   陽虎も私利を得ることはできぬ道理ではないか」

   といった。

   事実、簡主は明君たるにふさわしい術を駆使して、陽虎をうまく統御したので、
   陽虎はけっして悪いことをせず、誠意をもって主君に仕えたので、
   簡主の勢力はますますのびることができ、ついに天下の覇者の地位にまで
   登ることができたのである。

   善人は、悪いことをせず、まじめであるから安心して使えるという長所はあるが、
   これに対してアクの強い人間は監視をすることを怠ると悪いこともやりかねないが、
   その反面優れた能力を発揮するという長所もある。

   簡主は悪名高き陽虎の良い点を見抜いて、
   その良い点を大いに発揮させることができたからこそ
   大きな成果をあげることができたのである。

   ということは簡主の人を測るモノサシのスケールが
   たいへん大きかったということを物語るものにほかならない。

   ところが、人を測るモノサシの小さい人は、
   とかく小さな善人の良さだけしか見ることができず、
   せっかく有用な人間がいても、その良さを見抜き、これを発揮させることができない。

   ものには必ず両面性があって良い点ばかり悪い点ばかりということはない。
   すなおな人間はたいへん扱い易いという良い点があるが、
   あまりすなおでありすぎて他人からも影響されて
   考えがちょくちょく変わるということから、頼りにならないという欠点がある。

   強情な人間は、強情だからなかなかこちらのいうことを聞こうとしないと欠点はあるが、
   いったんこちらのいうことを受け入れてやってくれるということになると、
   いったことを守り通すということでたいへん頼りがいがあるという良い点がある。

   このように長所の反面が短所であったり、短所の反面が長所であるというふうに、
   ものには必ず両面があるから、そのどちらを見るかによって、
   人物の評価が大きく変わってくる。

   見る人のスケールが大きいと、相手の長所を見ることができるようになるものである。
   スケールが小さい人は、欠点を見てしまうものである。

           <『人を見抜く』PHP文庫>

           ・・・

坂本龍馬は西郷隆盛を評して、

「彼の人は、まことに茫漠(ぼうばく)としてとらえどころがない。
小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る釣り鐘のようだ」

と言ったという。

人は、自分のモノサシでしか他人を評価できない。
何の経験も知識もない小学生が大人を評価できないとの同じだ。

人も同じだが、物事にはいい面もあれば悪い面もある。

しかし往々にして、我々は目立つ方を見てしまう。
目立つ方は、多くが欠点であり、それは少数派だからこそ目立つ。

他人を見るとき、欠点しか目に付かない人は、スケールの小さい人。
欠点もあるが、長所も同じように見える人はスケールの大きな人。

自らの人間の幅を広げ、少しでもスケールの大きな人になりたい。


         <感謝合掌 平成28年10月23日 頓首再拝>

指導者の条件70(徳性を養う) - 伝統

2016/10/26 (Wed) 20:06:37


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者に徳があってこそ、はじめてもろもろの力が生きてくる

人間が人間を動かすことは、なかなか容易ではない。

力で、あるいは命令で、あるいは理論で動かすということも、
それはそれで出来ないことではない。

「これをやらなければ命を取るぞ」と言われれば、
大抵の人は命が惜しいから、不承不承でもやるということになるだろう。

しかし嫌々やるのでは、何をやっても大きな成果は収められない。
やはり、武力とか金力とか権力とか、あるいは知力
といったものだけに頼っていたのでは本当に人を動かすことは出来ない。

もちろんそれらの力はそれなりに有効に活用されるべきではあろうが、
何と言っても根本的に大事なのは徳をもって、いわゆる心服させるということだと思う。


お釈迦様は偉大な徳の持ち主で、その徳の前には凶暴な巨像まで跪いたといわれるが、
そこまでは行かなくても、指導者に人から慕われるような徳があって初めて、
指導者の持つ権力その他諸々の力も生きてくるのだと思う。

だから、指導者は努めて自らの徳性を高めなくてはならない。

指導者に反対する者、敵対する者もいるだろう。
それに対してある種の力を行使することは良いが、それだけに終わっては、
それがまた新たな反乱を生むことになってしまう。

力を行使しつつも、そうした者をも自らに同化せしめるような徳性を養うため、
常に相手の心情を汲み取ることに努め、
自分の心を磨き高めることを怠ってはならないと思う。

・・・

<参考Web:徳>

伝統板・第二「徳」
  → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6510446

         <感謝合掌 平成28年10月26日 頓首再拝>

「経営者は遊んではいけない」  - 伝統

2016/10/28 (Fri) 18:17:27


           *「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」
            ~”童子 さま”投稿記事より
            (http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=883

江口克彦『経営秘伝 ―― ある経営者から聞いた言葉』

(1)最高指導者くらいは、先憂後楽の心掛けで
  
  ①経営者はいったん経営者になったら、遊ぶようではあかんな。 
   本来、経営者が心を許して遊ぶというようなことをしてはだめや。 

   社員の人が遊んでおっても働いておるとか、たとえ遊んでいても、
   頭のなかでは仕事のことを考えておるとか、そういうことでないとな。

 
  ②そういうことでは身がもたん、という人もあるかもしれんが、
   たとえそれで命を落としたとしても、それは大将としての本望や。 

   そういうことが、かなわんかったら、経営者になるべきではない。


  ③ひとつの会社のなかで、全部が全部、みんながみんな、
   心を許して遊んではならんとは言わんけれど、少なくとも、
   会社の最高の指導者になった人たちは、そういう覚悟というものがいるわな。 

   それを、一般の従業員と同じように遊びに行きます、休みをとります、
   そんなことを言っとったら、どうもならんがな。


   せめて、ひとつの組織の最高指導者の人ぐらいは、先憂後楽の心掛けで、
   その会社の将来に命を懸けるほどの思いがなければ、経営はうまくいかんね。 

  ④みんながみんな、上から下まで遊びとか休みとか、そんなことを考えておって、
   なおかつうまくいく、経営が成功するなどということは、本来有り得ないことや。 

   経営というものは、そんな簡単なもんではないわ。


(2)経営者は心を許して遊ぶな

  ①まあ、個人的に、健康のために静かにやっておるというのなら、
   それはそれでええけどな。 

  ②仕事の最中に、自分のところの従業員が汗出して一生懸命仕事をしておる、
   そういうときに心許して遊ぶ、そういう社長では、きみ、発展するものでも発展せんで。

   それどころか、潰れてしまうわ。

         <感謝合掌 平成28年10月28日 頓首再拝>

「明治天皇」 - 伝統

2016/11/03 (Thu) 18:02:59


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)


ナポレオンとか織田信長とかの場合は、リーダーとしての偉さがよくわかる。
ところが、エリザベス一世とか、明治天皇とかの場合、
つまり世襲の君主で、偉大な時代を開いた人物の場合は、
リーダーとしての偉さを具体的に指摘することが甚だ難しい。

こういう場合の偉さを示す言葉としては、漢の高祖劉邦の偉さを説明した
韓信の言葉が一番説得力があるように思われる。

それは「将ニ将タル」人物ということである。

この話を『史記』によって簡単に紹介すれば次のようになる。

漢の高祖とその部下で武功第一の将軍である韓信が
いろいろな武将の能力について語り合ったことがあった。

その時、高祖が韓信に向って、
『私はどのぐらいの軍勢の将としてふさわしいだろうか」とたずねた。すると韓信は

「陛下は十万人ぐらいの軍勢の将としてふさわしいと思います」

と答えた。

すると高祖は韓信に向って「お前はどのぐらいの軍勢の将としてふさわしいか」と聞いた。
すると韓信は、いけしゃぁしゃぁとこう答えた。

「私の場合は、軍勢は多ければ多いほどよく使いこなせます」と。


すると高祖は、むっとして問い返した。

「それはおかしいではないか。それならなぜお前は私の捕虜になり、
そして今、私の家来として働いているのか」

その時の韓信の答えがすばらしい。

「陛下は兵士たちの将には向いておられません。
陛下は将たちの将に向いている方であります。
これはいわゆる天授というものであって人間の努力で
どうとなるわけのものではありません。」

これこそ千古の名返答である。
漢の高祖は智謀においては張良に及ばず、
ロジスティックスにおいては蕭何(しょうか)に及ばず、
実戦においては韓信に及ばなかった。

しかしこういう人たちが高祖を一生懸命に助けて漢という大帝国を作ったのであった。
このようにすぐれた人物たちを上手に使いこなすリーダーのことを、
韓信は「将二将タル」人物と言ったのである。

 
ではこういうリーダーシップはどのようにしたら身につくのであるか。

韓信は「それは天が与えてくれるもので、人の力では何ともできないものです」
と言っている。

天授にして人力でないリーダーシップとは、今の言葉で言えばカリスマである。
この単語は元来ギリシャ語で「神が与えてくれた恩寵」という意味であった。

この言葉をミュンヘン大学教授であったマックス・ウェーバーは
遺著『経済と社会』(1922)の中で、

「リーダーシップや権威を持つ恩寵、あるいは力量」という意味で初めて使った。

ここから「忠誠心や熱狂的感激を起こさせる能力」という意味で広く用いられるようになった。

つまりカリスマとは有能な部下を感激させて使いこなす天授の能力である。

西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視などの維新の大人物をはじめ、
大山巌、東郷平八郎、乃木希典などなどの軍人や、一般の兵士や国民全部を奮起させる
「ある何物か」を明治天皇は備えておられたと思う。

 
明治天皇の父帝である孝明天皇も極めて秀れたお方であったことが知られている。
しかし孝明維新ではなく、明治維新が起こったのである。

それは「時の運」というものもあるに違いない。
黒船来航の前にお生まれになっていたら、明治天皇にいかにカリスマがおありになっても、
明治維新は起こらなかったに違いない。

「時機が熟した時」に生まれ合わせるのもカリスマの一特徴であろう。

カリスマの原義はあくまでも「天授の恩寵」であって、
丁度よい時機というのも天授のものであって、人力ではどうすることもできないのである。

たとえば1867年(慶応3年)に孝明天皇が急になくなられて、
十五歳という年少の天皇として明治天皇が即位なさらなかったら、
徳川幕府をなくすことはできなかったであろう。

この年の12月9日の夜に小御所会議があって、
山内容堂などの唱える「徳川慶喜を加えての新政府」という意見に
みんなが賛成しそうになった。

その時、山内が調子に乗りすぎで
「この会議に徳川慶喜を加えていないのは悪質な陰謀であり、
天皇がお若いのをいいことにして権力を盗もうとしている」
という主旨のことを言ってしまったのだ。

この「天皇が若いのをいいことにして」という発言を岩倉にとがめられて、
山内はあやまってしまう。

ここから一挙に話は幕府を武力で討伐することに流れて明治維新になるのだ。

明治天皇が丁度そのときにまだ少年であったこと、
また周囲のものに熱烈な忠誠心を起こさせる性質をお持ちになっていたこと
・・・これが明治維新の成功、つまり近代日本の誕生、
ひいては白人絶対優越の世界的アパルトヘイト崩壊への出発になるのである。


つまり明治天皇のリーダーとしての偉さは、
マックス・ウェーバーのカリスマという概念、
あるいは韓信の言う「将二将タル天授の素質」という考え方以外では
説明のしようがないのである。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/9.html

         <感謝合掌 平成28年11月3日 頓首再拝>

『おまえに任せた!』 - 伝統

2016/11/06 (Sun) 18:50:37


        *人と組織を動かす
        (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

新任の部署で張り切っていたところ、
前任者時代はイキイキと仕事に取り組み実績を上げていた部下が、
あなたの就任以来、態度も投げやりになり、成績も次第に下がり始めた……。

こうした「過去実績社員」はもとより、その他の部下を前に、
新任上司としてまず心すべき最大テーマは、
いかに部下の心をつかむかということである。

その具体的な方策について考えてみたい。

 「用兵の道は、心を攻むるを上となし、城を攻むるを下となす。
  心戦を上となし、兵戦を下となす」

リーダーシップを論ずる本によく引用される言葉である。

南蛮征伐を前にして、諸葛孔明に戦の真のあり方を問われた馬謖(ばしょく)は、こう答えた。

意味するところは、

 「およそ戦というものは、城を攻めるは下策、心を攻めるのが上策だ。
  武器をもって制圧したところで、いつかはまた反乱がおこるに違いない。
  心を服せしめることを第一に考えるべきだ」

ということである。

諸葛孔明が描かれている『三国志』の時代といえば、漢王朝崩壊前後の紀元三世紀。
その時代から、人の心をつかむことが治世の要諦といわれているわけだが、
一方では、それだけ難しいということでもあろう。


諸葛孔明に関して、もうひとつ引用してみよう。

10万の兵をもって遠征に出かけた際に、
休息を与える意味で、十人に二人の割合で一時帰国させるシステムを採用したという。
つまり、二万人の兵には休暇を与え、八万人で戦う態勢を常時とした。

ところがある時、敵の大軍を前に不安をつのらせた部下が、
この制度をやめてはどうかと進言することになる。

これに対して、諸葛孔明はいかに答えたか。

 「武を統(す)べ師を行(や)るに、大信を以(も)って本となす」
  (部下に対していったん約束したことは守らなければならない)

と、ついぞ八万態勢を崩すことはなかったのである。


部下の心をつかむ第一は、この「約束を守る」ことにある。

例えば、ビジネスの世界では、「おまえに任せた」といった場面はよくあるものだ。
ところが、責任者としては失敗は絶対に回避したい。

そこで、「任せた」と言っておきながら、結果が出る前に次の手を準備する。
(そのこと自体は、危機管理面からは必要なことではあるが)

しかし、任せられた本人が、もしそのことに気づいたとしたら、どう思うであろうか。

野球でいえば、「このピンチはおまえに任せた」といいながら、これみよがしに
リリーフ投手にウォーミングアップの用意をさせるようなものだ。


部下は、そのあたりに実に敏感に反応する。
「新任のボスは、オレを信じていないのか…」との考えにいたっても仕方ない。


言葉とは反対の態度を示されると、心はあなたから離れていく。

あるいは、結果ばかりを気にして顔色を伺うようになるものだ。


いったん口から出したからには、約束を守ること。

これを実行していくことによって、部下は心を開いてくるものだ。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito109.html

         <感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>

指導者の条件71(独立心) - 伝統

2016/11/15 (Tue) 18:48:45


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は自他共の独立心の涵養を心がけねばならない

鉄鋼王と言われたカーネギーが成功の秘訣を聞かれた時に、
こういうことを言ったという。

「それは、まず貧しい家に生まれることである。
というのは、この社会の荒波に身を投ずるにあたっては、
やはり自分の力で泳ぎ切る覚悟がなくてはならない。

最初は一個の浮き袋、一個の救命具、一粒の食物といえども
携帯せずに進まなくてはいけない。
さもないと依頼心が起こってくる。

大切なのは独立心だが、貧しい家の子は、最初からそういう境遇にあるわけで、
むしろ金持ちの子は甚だ不幸だと言える」

貧困な移民の家庭の子として、小僧から身を起こし、
巨万の富を築き上げたカーネギーが自分の体験を通してつかんだことだと思う。

実際何事を成すに当たっても自主独立の心を持たず、
他をあてにし、他に依存していたのでは真の成功はおぼつかないだろう。

個人はもちろん、一個の会社でも、他の金をあてにし、他の技術をあてにして
自ら頼む所が少ないようでは堅実な発展はあり得ない。

一国にしても同様で、他国の金、他国の資源、他国の善意といったものに依存して
国家の存立をはかろうとすれば、その基盤は極めて脆弱なものになってしまうだろう。

いわゆる石油危機の時に、日本の国が政府も企業も一般国民も国を挙げて慌て狼狽え、
非常な混乱を招いたのも、お互いの間にいつの間にか自主独立の気風が薄れ、
依存心が高まってきたからにほかならない。

だから、指導者はまず自ら自主独立の精神を養い、しっかりと持たねばならない。
それと同時に、人々にもその独立心を植え付けていかなくてはならない。

いかに指導者一人が自主性を持っても、
人々がいたずらにその指導者に依存していたのではいけない。

明治の先覚者福沢諭吉は、
「独立の気力無き者は国を思うこと深切ならず」と喝破している。

独立心無き者が何千人、何万人集まったとて、
それは所詮いわゆる烏合の衆に他ならない。

国だけでない。
会社でも社員に独立心がなければ、同じ事である。

独立心の涵養こそ、その会社、その団体、その国家の盛衰を左右する
重大な鍵であることを指導者は知らなくてはならない。

         <感謝合掌 平成28年11月15日 頓首再拝>

「東條英機」 - 伝統

2016/11/17 (Thu) 18:41:54


            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「渡部昇一の日本の指導者たち」)

アメリカと戦端を開く日本の総理大臣となる運命を担うことになった東條英機は、
ルーズベルトより一年おくれて明治十六年、陸軍中将東條英教の長男として生まれた。
 
東條家は能楽の宝生家から出ているが、
英教は明治四年廃藩置県が行われた時に軍人になることを決心し、
明治十年の西南戦争に下士官として従軍、翌明治十一年歩兵少尉に任官、
後に新設された陸軍大学に入学、そこでプロシア(ドイツ)から指導にきていた
メッケルに認められ、後に中将になった。

日露戦争ではメッケルの教えに忠実で、無理な攻撃などしなかったため、
軍部内の評価は高くなかったという人もいるし、病気のため途中帰国したため、
戦場での手柄がなかったという人もいる。

 
いずれにせよ、自分の長男の英機を軍人にし、厳しく育てた。
そのため東條はこの父を怖れながら成長したという。
そのせいか反動的に、自分の子供には甘い父親になったらしい。

勝子夫人が「それでは子供の教育にならない」というほど子供を甘やかし、
男の子たちの進路にも一切干渉しなかった。

東條は頭は緻密しかも勤勉で入念で真面目であったから、
東京幼年学校を経て中央幼年学校を日露戦争勃発の年に繰り上げ卒業し、
陸軍士官学校に進学、翌年に卒業して22歳で歩兵少尉となり、
29歳の時に陸軍大学に入り、32歳の時に陸軍大学首席卒業し歩兵大尉になった。

その後スイスやドイツに出張、陸軍大学兵学教官を経て陸軍省の動員課長、
参謀本部課長など、陸軍の中央部にいて、カミソリ東條といわれた
明晰な頭脳の故に注目されていた。

東條が陸軍省内で頭角を現したのは陸軍の内規の集積である「成規類聚」を
完全にマスターしたからだという。
陸軍省内には属官が多くいて、元来は副官がやることをやっていた。

古い属官が元来は副官の仕事である軍務を握って、副官は頭が上がらなかった。
東條は細かい規約をマスターして―――元来頭がよいのだ―――その時以来
副官が本物の副官となった。これがかえって彼の出世のさまたげとなった。

昭和一ケタの頃、陸軍はいわゆる皇道派と統制派に分かれて権力争いをしていた。
皇道派は真崎甚三郎大将や荒木貞夫大将を中心とする改革派で過激な青年将校に支持され、
昭和維新を唱える連中が固まっていた。

今から見ると天皇をいただく過激社会主義軍人閥である。

これに対して軍の秩序を重んずる派を統制派といい、
永田鉄山中将や渡辺錠太郎大将などがその有力者だった。

しかし皇道派の青年将校の一人相沢中佐は永田中将を白昼その執務室で斬殺し、
渡辺大将は二・二六事件によって高橋是清らの重臣らと共に惨殺された。

テロあるいは革命を是とする皇道派から見れば、
東條は明らかに軍の統制を重んずる側であるから、
皇道派の盛んだった時代には参謀本部から左遷され、
陸軍士官学校幹事、歩兵第二十四旅団長という工合に中央からとばされて、
少将ぐらいで予備役に廻されそうになっていた。

東條の能力を惜しんだ士官学校同期でたまたま人事局長であった後宮惇が
東條を関東軍憲兵隊司令官に任じた。
するとその翌年に、二・二六事件が起こった。

この時の満洲における東條の迅速で断固たる処置は万人を感嘆せしめ、
二・二六事件後の林内閣の時には関東軍参謀長、
それに続く近衛内閣では陸軍次官として昭和十三年に中央に呼び戻される。

この頃の参謀総長は閑院宮という宮様であるが、この宮様は皇道派嫌いであった。
そして第二次近衛内閣では東條は陸軍大臣となる。
この頃私は小学校四年生であったが、奇妙に東條の姿を覚えている。

ニュース映画で見たのだと思うが、戦局が切迫しつつあった時、
陸軍を抑えることのできるのは東條という人だけだ、
という話を子供でも耳にしていたらしい。

「二・二六事件以降、日本政府は陸軍の言いなりだ」ということは
子供の間でも常識になっていたのではないか。

近衛内閣は行き詰って組閣の大命は東條に下される。
陸軍を抑えることのできる人でなければ外交も何も出来ないことが
重臣たちにも明らかだったのだろう。

首相になった途端に東條は日本の置かれた立場を広い視野から見ることができたし、
また昭和天皇の意志が日米和睦にあることを知ったので、
天皇に忠誠だった東條は平和のために全努力を傾ける。

しかし遅かった。石油が入らなくなった状況では、何でもアメリカの言うようになるか、
あるいは石油のあるうちに連合艦隊や航空機を使って戦争に突入するか、
どっちかの選択肢しかなくなっていたのだ。

東條は軍事官僚としては抜群であった。
戦場の司令官としてもチャハル・スイエン方面における東條兵団の成功は
めざましいもので彼が政治に引き込まれなかったら、
名将として名を残しただろうという人もいる。

首相になってみると日本の首相にはアメリカやイギリスやソ連やドイツなどのような
リーダーシップは取れない構造になっていることを発見した。

それで軍政と統帥を一手に握るため首相でありながら陸軍大臣と参謀総長を兼任したほか、
内務大臣、外務大臣、文部大臣、商工大臣、軍需大臣をも兼任したことがあった。

しかし、現役の陸軍大将である彼が海軍に干渉することはできない。
日米戦争の大部分は海の上で行われていたのに。

敵のルーズベルトがニューヨーク州上院議員の時、東條はまだ中尉で、
妻はたった二円の浴衣を買うのも実家からお金を出してもらうほど貧乏だった。

ルーズベルトが大統領になった時もまだ東條は士官学校の幹事である。
その後の出世は早いと言っても陸軍部内での軍事官僚としてである。

東條が五年早く陸軍大臣になっていたら二・二六事件は起こらなかったと思われるし、
その後の日本の運命も違っていたであろう。

チャーチル、ルーズベルト、スターリン、ヒトラーなどなど、すべて政治家であった。
東條は突如、政治を押しつけられた軍事官僚であり、
しかも日本の政治制度には陸海軍の上に立つ政治権力は消えていた。

名目上は天皇が陸海軍の上にあるのだが、
自らイニシアチブを取ることは憲法上できなかった。
戦前の日本のリーダーの悲劇が東條という軍人に凝固しているように思われる。

http://www.jmca.jp/column/watanabe/32.html

         <感謝合掌 平成28年11月17日 頓首再拝>

『目標実現への微調整』 - 伝統

2016/11/21 (Mon) 18:08:59


        *人と組織を動かす
        (日本経営合理化教会「国際ビジネスブレイン代表・新将命氏」コラム)より

目標を掲げるだけですべてがうまくいくなら、こんなに楽なことはない。

目標を立てたあとは、チェックとメンテナンスを行う。
これをしなければ、成功はおぼつかない。


これは、すべてのことにいえる。
経営についてもそうなら、人生計画についてもあてはまる。

企業では、会計年度ごとに収支決算する。
だから、イヤでも一年の歩みと実績を評価する。

だが、個人となると、ついダラダラと日を過ごしてしまいがちだ。

したがって、意識的に一年をひとつの期限として計画を設定し、
一年ごとにチェックと修正を行うとよいだろう。

チェックと修正を行うタイミングは、誕生日とか元旦のように、
毎年必ずめぐってくる日で、しかも忘れにくい日に決めておくといい。
チェックすることさえ「そのうちやろう」と、先延ばしすることがありうるからだ。


住宅リフォーム会社の勤務するYさんは、誕生日は家族と過ごすが、
その近辺の週末には、必ず、一人で山に登る。

子供はかわいいし、妻も愛している。
だが、それでも、ときには一人になって自分を静かに見つめる時間が必要だ・・・。
Yさんは、そう考えている。

学生時代から大好きだった乗鞍岳に登り、渓流に釣り糸をたれたり、
多くの登山者でにぎわうあたりを離れて、一人トレッキングを楽しんだりする。

夜になると、山頂近くの宿で1年を振り返り、
できなかったこと、足りなかったことをかえりみる。

そのうえで、翌日からの1年に向かって、計画を立て直す。

このチェックと修正のおかげだろうか。Yさんは、
以前から提案していた新規事業であるユニーバーサル・リフォーム部への配転がかない、
人生計画は予定以上に順調に進んでいる。


さらにいえば、もっと小刻みなチェックも必要だ。

企業では四半期ごとに業績をまとめ、チェックする。
個人でも年に4回程度の中間チェックを行えば、実行部分のブレを修正しやすいと思う。

偶然だが、Yさんの家族の誕生日は、四季に分かれている。
春と夏には子供の誕生日。秋には自分の、冬には妻の誕生日という具合だ。

その都度ファミリーイベントをして、至福の時を過ごす。
と同時に、その家族の幸せを底支えしていかなくては…という
どっしりとした責任感もかみしめる。

2人の子供はまだ幼い。
妻は、いずれは就業復帰を望んでいるが、今は子育てに専念している。

「この3人の幸せは、なんとしても自分が守っていくのだ」という決意と覚悟が、
必然的に、Yさんを、行動計画の中間チェックに向かわせるのだ。

http://www.jmca.jp/column/hito/hito111.html

         <感謝合掌 平成28年11月21日 頓首再拝>

「リーダーのリーダー」 - 伝統

2016/11/23 (Wed) 19:48:58


《皇帝の論功行賞》

          *「ビジネス寓話」博報堂ブランドデザイン・編(P200~203)より

ようやく念願の天下統一を果たした漢の国の初代皇帝、劉邦(りゅうほう)は、
手柄のあった武将たちに恩賞を与え、功績に応じて列侯(貴族)の位を与えようとしていた。

ところが、大きな功績のあった20人あまりを列侯に封じたまではよかったが、
その後は武将たちが自分の功績を主張し合うばかりで折り合いがつかず、
話がいっこうに進まなくなった。

そんななか、賢臣の張良(ちょうりょう)が劉邦に、
「ある武将は列侯の位が与えられないことを不満に思っていますし、
またある武将は自分は皇帝に恨まれていて殺されるのではないかと怖れています。
そのせいで武将たちのなかには反乱を企む者もいるようです」と知らせてくれた。

どうしたものかと頭を捻る劉邦に、
張良は「あなたがとくに恨んでいて、そのことが世に知られている者は誰ですか」
と訊ねる。

「雍歯(ようし)だな。あいつはかつて、この私を裏切ったことがある。
いまはまた仕えてくれてはいるが、それでも私が雍歯を憎んでいることは、
天下広しと言えども、おおよそ知らぬ者はいないだろう」

それを聞いた張良は、「まずその雍歯を列侯に封じるべきです」と進言した。

劉邦はすぐさま雍歯を什方侯という列侯の地位に封じた。

それを知った武将たちは、「あの雍歯でさえ封侯されるなら、我々は安泰だ。
もう心配することはない」と喜んだ。
君主が偏りなく恩賞を与えることが示されたからである。

(司馬遷『史記』の逸話をもとに編者にて構成)



シンボリックな「実例」をつくろう

劉邦は、多くの人材をうまく活かすことで、ライバルの武将であった項羽に競り勝ち、
中国で最初の長期統一政権である漢王朝を建国した人物です。

彼にはこんなエピソードも残されています。

劉邦が、韓信(かんしん)という将軍と武将たちの品定めをしていたときのこと。
劉邦が「わしはどのくらいの将であろうか」と訊くと、
韓信は「陛下はせいぜい10万人の兵士を率いる将です」と答えました。

劉邦が「ではお前はどうなんだ」と訊ねたところ、
「私は多ければ多いほどよいでしょう」と答えました。

韓信は、漢の天下統一に大きな功績のあった名将で、兵数が30万人でも100万人でも、
うまく統率することができると自負していたのです。

これに対して、劉邦が笑って「ではどうしてお前はわしの部下になったのだ」と訊ねると、
韓信は「陛下は兵士を率いることができなくても、兵士を率いる将の将であることが
できるからです」と答えたと言います。

優れたリーダーたちを束ねて彼らに活躍させる、
「リーダーのリーダー」であるという劉邦の力量を伝える逸話です。

このように人材の活用に秀でていたことで知られる劉邦ですが、
この「論功行賞」の話に出てくる、武将たちの動揺の鎮め方も
またアイディアにキレがあります(考えたのは張良ですが)。

凡百のトップであれば、「きちんと恩賞を与えます!
いま事務処理で時間がかかっているけれど、公平に評価するのでお待ちください!」などと、
言葉で納得を生もうとするでしょうが、

劉邦(と張良)は、行為を見せることで納得させています。

「いちばんキライなやつでもフェアに評価した」というシンボリックな実例を見せる。
この実例を目にした武将たちは、「あれだけ嫌われている雍歯ですら、
ちゃんと評価されているのだから、自分もきっと公平に評価されるに違いない」
と感じ取ったわけです。

これがムニャムニャと言葉で説得するだけだったら、
これほど鮮やかに人の心を動かすことができたでしょうか。

このように、実例でなにかを共有するという組織の動かし方は、
ビジネスではとくにインナーブランディングやインナーコミュニケーションの領域で
力を発揮します。

ブランドの理念や思想は、抽象的な言葉で語られることが多いものですが、
関係者全員がそれを頭だけでなく感覚も含めて理解し、思いをひとつにして
行動できるように仕向けていくためには、言葉だけではなく、ある種の範となる
「実例」を示すことが重要です。

そのために、理想と言えるような実例を過去の活動から探し出して掲げたり、
シンボリックなアクションを実施したりする必要があるわけです。

そう考えれば、いまの時代のリーダーシップは、
その「実例」の選び方、つくり方に表れてくるとも言えるかもしれません。

         <感謝合掌 平成28年11月23日 頓首再拝>

指導者の条件72(とらわれない) - 伝統

2016/11/30 (Wed) 18:18:31


            *「指導者の条件」松下幸之助・著より

指導者は何か一つの物事にとらわれてはならない

徳川の時代も末になると、指導階級である武士達も、長年の太平に慣れ、
かつてのような尚武の気風が薄れてきた。

長州藩でも、攘夷の旗印を掲げながら、ひとたび外国の攻撃を受けると、
「武士というものは、あのように弱くなり役に立たなくなってしまったのか」と
百姓、町人が嘆くような惨憺たる有様を露呈してしまった。

そういう時に、高杉晋作は、奇兵隊というものを創設し、
志有り力量ある者ならば身分を問わないということで隊員を募集した。
その結果、下層の藩士はもちろん、農民、町民、猟師などで入隊するものが相次いだ。

そして、その隊士達に厳重な規律を課し、厳しい訓練を行った結果、
第二次長州征伐において、この奇兵隊は武士ばかりからなる幕府軍を
各地で打ち破り非常な戦果をあげたのである。

いかに太平になれて武士が柔弱になっていたといっても、
戦は本来武士が行うものということは、
当時としてはいわば抜きがたい常識であったと思う。

現に明治に入って、初めて徴兵制が敷かれ、
一般庶民による軍隊が創られることになった時、
非常な危惧と反対があったと言われている。

明治に入ってからでさえそうだとすれば、それより十年近く以前、
まだ時代の行方も分からない時にあっては、思いもよらないことだったと思う。

それをあえてやったというのは、高杉晋作が、当時の世界の情勢、
外国の軍隊のあり方を見、また日本の姿を見て、これまでの固定観念にとらわれずに、
いかにあるべきかということを考えたからであろう。

そうしたとらわれない見方に立つと、もうこれからは今までのように
武士を中心にしていたのではやっていけない、
もっと広く有為の人材を集めなければならない、ということになったのだと思う。

人間というものは、ともすれば一つの考えにとらわれがちである。
特に過去の常識とか通念というものからなかなか離れられないものである。

しかし、時代は刻々と移り変わっていく。
昨日是とされたことが今日もそのまま通用するとは限らない。

だから、指導者は、過去の常識、固定観念、そのほか何ものにもとらわれることなく、
常に新しい目で物事を見ていくように心がけなければならない。

そして、そのとらわれない心で次々と新たな発想をしていく所に、
進歩も発展もあるのだと思う。

         <感謝合掌 平成28年11月30日 頓首再拝>

三国志の教訓・諸葛孔明、人選を誤る - 伝統

2016/12/06 (Tue) 18:29:30


万物流転する世を生き抜く(38) 三国志の教訓・諸葛孔明、人選を誤る

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

『三国志』は経営者に人気の書である。
天下取りに必須の教科書とも言われ、とりわけ
魏・呉・蜀三国の中でも小国だった蜀の名軍師として諸葛亮・孔明は
判官びいきもあって世の評価が高い。

しかし、その孔明も重要な局面で決定的な失策を犯した。
それによって劉備・玄徳から託された天下取りの夢が消えたといっても過言ではない。

中国西部の山国、蜀の丞相(じょうしょう=首相)だった孔明は、
建興5年(227年)春、勢威を誇る魏に向けて北伐の軍を起こす。

蜀の名君、劉備が死んで4年。
後事を託された孔明は、二代皇帝の劉禅に有名な
「出師の表」(すいしのひょう)をたてまつり、
決死の覚悟で大軍を率いて成都をあとにした。

漢中の地まで進出した孔明はここで最初の過ちを犯す。

進軍路をめぐり、将軍の一人と対立してしまうのだ。
将軍、魏延はこう献策した。

「それがしに兵5万と輜重兵5000をお貸しくだされ。
秦嶺山脈を越えて一気に長安を衝いてみせます。
いま長安を守るのは魏王の女婿の青二才。蜀の軍を見て逃げ出すでしょう」

長安を落とせば魏の本拠である洛陽は目と鼻の先。勝利も視野に入る。

しかも長安には豊富な軍糧がある。
兵站に不安のある蜀軍にとっては当然の作戦だ。

しかし、孔明は魏延の提案を斥けた。

策士の孔明は慎重な男である。
彼が選んだ進路は長安、洛陽とは逆の北西にある祁山(きざん)へと向かう迂回路であった。

「一気の長安攻めは危険な賭けだ。
平坦路を行き敵の手薄な地域で勝利を重ね圧迫するのがよい」と判断した。

どちらが正解であったかは、意見の別れるところである。

進路選択が失策だったというのではない。

「勇猛にかけては人後に落ちない」宿将の献策を
にべもなく斥け、恨みを残したことにある。

魏延は、この一事から孔明を後々まで「怯(きょう)」(臆病者)と罵り続けた。
劉備の健在時には専ら内政を任されていた孔明は、軍を率いる経験は浅い。

「孔明に軍が分かるのか」。彼は、蜀軍一の勇将の信を失ってしまった。

そして漢中を出発する。
だれを先発軍の指揮官に起用するかが関心の的になった。
だれもがベテランの魏延がその任にあたると見ていた。

ところが孔明は、実戦経験の乏しい39歳の参謀、馬謖(ばしょく)を抜擢する。

魏延は面子(メンツ)を完全に潰された。(この項、次回に続く)

http://www.jmca.jp/column/leader/leade%EF%BD%9288.html

         <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>

三国志の教訓・泣いて馬謖を斬る - 伝統

2016/12/07 (Wed) 22:08:41


万物流転する世を生き抜く(39) 三国志の教訓・泣いて馬謖を斬る

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

諸葛孔明から全幅の信頼を受けて蜀軍の北伐の先発隊を任された馬謖(ばしょく)は、
街亭(がいてい)という要衝で魏の大軍と遭遇する。

若いなりに兵法理論には通じていた馬謖は、あたりを見渡して、
ひときわ高みの山上に陣取ることを決断する。

副将の王平(おうへい)が諌めた。
「敵は多勢。籠城戦となれば、山上では水にこと欠きます」。

 
「お前は兵法を知らんな」と馬謖。
「『孫子』にもいう。高みに布陣するのが有利じゃ」。
警告を無視して押し切ってしまう。

魏軍は多勢による戦いの鉄則通り、四方をぐるりと囲む。
高所からの決戦を挑もうとする馬謖の挑発にも乗らず、気長に構えた。

水を汲みに沢筋に蜀の兵士たちが下ると待ち構える魏軍に斬り殺された。
早期結着を焦る馬謖が麓に向けて突撃したが、敵に包囲され軍は壊滅する。

王平の危惧の通りとなった。

 
街亭の敗戦を聞いて孔明は撤退を決断する。
漢中に戻り孔明は生き延びた馬謖を詰問する。

「なぜ山上に陣を構えた。敗軍の責任はすべてお前にある」。

孔明は馬謖を斬罪に処した。

馬謖は死に臨んで、
「この際は私情をはさまず決然と処断なさいませ」と促したという。

処刑に際し全軍が泣いた。孔明も泣いた。
「泣いて馬謖を斬る」の故事である。

孔明が馬謖を斬ったのは、このまま司令官の責任を問わなければ、全軍に示しがつかない、
との判断だったろう。孔明は丞相として規律を何よりも優先した。
軍を任されてからも軍規第一であった。そう言い続けてきた。引き下がれないとの思いだろう。

この孔明の決断は、「情をこらえて軍規を優先した勇断」とされるが、
後世の史家の間でも異論がある。

「規律の名のもとに、あたら人材を無駄にする孔明が天下を取るとは望むべくもない」
との批判だ。結果責任は、馬謖を重職に任命した孔明にこそあるのではないか、と。

関羽、張飛という名将なきあと、蜀は人材が枯渇していた。

漢中に駆けつけた重臣・蒋?(しょうえん)は、馬謖断罪を聞いて訴えた。
「天下動乱のさ中に智謀の士を殺すとは、あまりに惜しいのではありませんか」

この後、孔明は四度、北伐を敢行するがいずれも魏軍に撃退され、
五丈原(ごじょうげん)の陣中に死ぬ。

あなたが孔明なら、馬謖を斬ったか、生かしたか。さていかがか。 

(この項、次回に続く)

http://www.jmca.jp/column/leader/leade%EF%BD%9289.html

         <感謝合掌 平成28年12月7日 頓首再拝>

三国志の教訓・関羽と張飛の最期 - 伝統

2016/12/09 (Fri) 17:37:52


万物流転する世を生き抜く(40) 三国志の教訓・関羽と張飛の最期

            *指導者かくあるべし(歴史で学ぶリーダー論)より
              (日本経営合理化教会「宇恵一郎の経営コラム」)

さて、人材の話である。
いかなる組織も数(兵)が足りなければ募集すれば揃うが、
人材(将)というとそうはいかない。

平時ならば、時間をかけた人材育成も可能だが、
乱世となると悠長なことも言っておれない。

人材を探し見極める目が必要となる。

中原の覇をめぐり、ビジネスなら三社が激しいシェア争いをしていた三国時代、
華北の広大な地を占める魏は文官、武官あまたの人材を確保できた。
後発の「中小企業」である蜀は狭い後背地での人材の確保は厳しかった。

蜀を打ち立てる劉備はまず武の才を求めた。
三国志ファンに人気の高い関羽と張飛である。
ともに劉備が故郷の涿(たく)郡で挙兵した際に地元の荒らくれのボスとして参加した。

劉備の戦いの前半で目覚ましい働きをした二人とも悲劇的な最期を迎えることとなる。

 
関羽。

劉備が諸葛孔明、張飛を連れて北方の戦線に離れ、
関羽ひとり魏の出城の樊(はん)城の包囲戦に苦戦していた。
援軍を求めたが、諸将は言を左右にして来援と兵糧を送るのを渋った。
関羽は逃亡の末、呉軍に捕らえられ斬られてしまう。

正史『三国志』は、関羽について、
「下級兵士によくしたが、上司、同僚には横柄だった」と評している。

人気の秘密はこういう無頼で部下に情の厚い性格によるものだろうが、
肝心の場面で、それが裏目に出て仲間に見殺しにされた。

 
張飛の性分は逆である。
正史に「上司の受けはいいが、下の者には厳しかった」とある。
部下が逆らうとすぐに殺し、あるいは鞭打った。

劉備は張飛の部下いじめを常に諌めたが、張飛は改めなかった。そして……。

関羽の死から2年後、劉備は弔い合戦の兵を挙げた。
出発直前、張飛は、彼の仕打ちに恨みをもち
呉に寝返った配下の将軍二人に殺されてしまう。

蜀は、乏しい人材をあまりにも無駄にしている。
これでは大企業の魏を相手に勝てない。

孔明、関羽、張飛について、少し辛口過ぎたかもしれない。
だが一般に読んでわくわくする三国志のエピソードは、
ずっと後の明代に書かれた小説『三国志演義』に基づいている。

『三国志演義』は戦いの推移を『三国志』に基づきながら、
自由自在に人物像を創作して活躍させている。
蜀を正義、魏を悪党と割り切った講談調の勧善懲悪の“お話”なのだ。

小説から歴史を学ぶのは愚である。
歴史には、我々と同じ等身大の人間たちの悲劇と
それを招いた原因がシンプルに描かれている。

それを追体験して今に生かす。

でなければ、歴史に学ぶ意味はないのだ。

http://www.jmca.jp/column/leader/leade%EF%BD%9290.html

         <感謝合掌 平成28年12月9日 頓首再拝>

リーダーの言葉の数々 - 伝統

2016/12/15 (Thu) 18:51:46


      *「「ついていきたい」と思われるリーダーになる51の言葉」岩田松雄・著より

(1)「冷に耐え、苦に耐え、煩(はん)に耐え、閑(かん)に耐え、
   激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず、
   以(もっ)て大事を成すべし」(曽国藩)

(2)一 至誠(しせい)に悖(もと)るなかりしか
   一 言行に恥づるなかりしか
   一 気力に欠くるなかりしか
   一 努力に憾(うら)みなかりしか
   一 不精に亘(わた)るなかりしか
                    (海軍「五省」)

(3)「偉大なリーダーとは、自分の夢を皆の夢であるかのように
   言い換えられる人だ」(ニティン・ノーリア ハーバード・ビジネススクール学長)

(4)ノーが一番強力な言葉だと思っている人たちはわかっていない。
   イエスが一番強力な言葉だということを。

   イエスは自由と感動だ。
   イエスは許しだ。

   それは可能性だ。
   自分と他人に夢見るチャンスを与えることだ。

   イエスと言えば心が豊かになる。
       (ハワード・ビーハー 元スターバックス・インターナショナル社長)

(5)一日練習しなければ自分に分かる。
   二日練習しなければ批評家に分かる。
   三日練習しなければ聴衆に分かる。
      (アルフレッド・コルトー フランスのピアニスト)

(6)毎日、かならずひとつすごいことをやれ。
   それができない日は すごいことができるよう死力を尽くせ。
                     (トム・ピーターズ)

(7)成果をあげるための秘訣を一つだけ挙げるならば、それは集中である。
   成果をあげる人は最も重要なことから始め、
   しかも一度に一つのことしかしない。(ピーター・ドラッカー)

(8)雨に打たれると、傘を差し出してくれる人、痛みをわかってくれる人、
   本当に自分を支えてくれる人が誰なのかがわかります。

(9)「一日だけ幸せでいたいなら、床屋に行け。
   一週間だけ幸せでいたいなら、車を買え。
   一カ月だけ幸せでいたいなら、結婚しろ。
   一年だけ幸せでいたいなら、家を買え。

   だが、一生幸せでいたいなら、正直者でいろ」
                 (イギリスのことわざ)

(10)リーダーには、より高みを目指すことが求められる。

         <感謝合掌 平成28年12月15日 頓首再拝>

Re: 人の上に立つ者に求められること⑥ - txmbkmerpsMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:52:16

伝統板・第二
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