伝統板・第二
神はすべてのすべて - 伝統
2016/07/02 (Sat) 04:46:19
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月2日>(P5)より
本当の平和はわか心が神に結ばれたときのみに得られるのである。
神さえあれば何も要らない。
心に神を持つことは「すべて」を持つことである。
神は「すべてのすべて」であるからである。
<感謝合掌 平成28年7月2日 頓首再拝>
神がすべてなりと観ぜよ - 伝統
2016/07/18 (Mon) 04:49:37
*「光明法語」(P65)より
毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、神と、神の創造せられたる世界と人間との
完全にして美しく妙なることを念想せよ。
その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、
一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、反感、災難などは
存在しないものであると云う確信が自分の潜在意識の奥底までも湧き起って来るのである。
その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、
健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。
<感謝合掌 平成28年7月18日 頓首再拝>
神はすべてであり、いっさいである - 伝統
2016/07/22 (Fri) 03:15:00
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月22日>(P26)より
「神はすべてのすべて・・・」
眼を瞑ってかく念ぜよ。
繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分のうちに、
あらゆるいっさいのうちに、神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。
ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。
神はすべてであり、いっさいであるからである。
ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。
<感謝合掌 平成28年7月22日 頓首再拝>
普遍意識に没入するとき、万事が都合よくゆく - 伝統
2016/07/24 (Sun) 04:45:08
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月24日>(P27)より
瞑目精神を統一して、「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身の
うちにも、神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。
神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、その智慧の中に
没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。
現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された普遍意識(すべてに満ちて
行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる反射光にすぎない。
反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、自分のうちに宿り給う
普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、われらはこの普遍意識の中に没入し、
普遍の智慧と一つになるとき、知らず知らず万事が都合よくゆくのである。
「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。
普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。
<感謝合掌 平成28年7月24日 頓首再拝>
あらゆるところに神を見出す - 伝統
2016/07/26 (Tue) 04:07:11
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月26日>(P29~30)より
神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。
わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。
―― 光はわたしの内にある
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。
わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。
わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。
神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。
生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。
すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。
かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。
<感謝合掌 平成28年7月26日 頓首再拝>
神がすべての日 - 伝統
2016/08/05 (Fri) 03:23:11
*「光明道中記」(8月5日)より
【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
(『生命の實相』第十一巻)】
神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、一切のところに、
一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、そんな固い鉱石の中にでも
神が充満したまうこと。
従って、自分の肉体の中にも、骨の中にも、髪の毛の中にも神が満ちて在ますこと、
自分の中に斯く満ちて在ます神と、宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。
このことを今日の神想観のときには眼を瞑ると直(ただち)に繰返し念じて、
神のほかに何も無い、神のみが在(ましま)すのだと云う深い信念が湧き出るまで
念じつづけること。
このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。
神は”すべて”である。先ずその”すべて”にましますところの神を心の中に深く知る
ことは”すべて”を心の中に得ることである。
「心」の中に三千世界は蔵(ぞう)されているが故に、
「心」の中に”すべて”を把めば、全てのものはすでに吾がものである。
欲張っては可(い)けない。欲張るのは、なお自分の中に”すべて”が存在することを
悟らない近視眼者であるからである。
”すべて”が自分のものと云うのは全部が自分の肩にかかってくると云うことではない。
必要に応じて現われ、用足りて姿を消す極楽の境涯である。
<感謝合掌 平成28年8月5日 頓首再拝>
《神からのがれる処(ところ)はない》 - 伝統
2016/08/16 (Tue) 03:35:33
*「生長の家」(昭和25年6月7日の法語)より
神は到る処にいますのであるから、神はここに見よ、
彼処(かしこ)に見よ、というが如くには い給わないのである。
今ここに神がい給う。
今 自分は 神の生命に支えられ
神の生命を呼吸し
神に生かされているのである。
どんなに今の状態が辛くとも
それから逃れ出ようと思ってはならない。
「 逃げだそうと思うな。汝(なんじ)は神の子である 」 と
智慧の言葉にかかれているが、まことにその通りである。
わが内に神がましまして、
神の方へ振り向くのをまって い給うのに、
他(ほか)の助けの方へ振り向く必要はない。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
<感謝合掌 平成28年8月16日 頓首再拝>
《如何(いか)なる微生物も人間を侵(おか)さない》 - 伝統
2016/08/28 (Sun) 04:10:00
*『 生長の家 』(昭和26年6月5日の法語)より
神はすべてである。
すべては 霊的実在であると云う根本真理の次には、
霊は物質でないから限定がなく、区画がなく、
全体「 渾一(ひとつ)」であると云う
根本真理を知らなければならないのである。
愛とは「 自他一体 」の自覚であるから、
「 全体渾一(ひとつ)」であると云うことは、
すべては、「 絶対体 」そのものであると云うことである。
どんなに区画され、分割され、個々別々のように見えようとも、
それは全体が一つである。
即ち 全体は 神の絶対愛の自己表現であるから、
愛にそむくような不完全な相(すがた)、
生物が生物と相闘(あいたたか)うような不完全な相(すがた)、
従って 微生物病源体が人間を侵すような
不完全さはないと云うことである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
・・・
<関連:「光明法語」より>
八月十五日の法語 微生物と念の感応
近頃、柴田酵素や渡辺酵素で肥料を速成して、
その施肥効果により二倍増産三倍増産を得る事が可能であると説くものがある。
実際試みて何等効果がなかったと言うものもあり、効果著しかりしと言うものあり、
批評まちまちであって一定の結果を得ない。
農事試験場では実際上効果なしとして一旦否定したるも、
此の種民間の評判高き故、もう一度実験して見ると云うことである。
酵素は微生物の生産物である。
微生物は人間の念に感応し易い。
念によって効果を異(こと)にするは当然である。
・・・
八月十六日の法語 斯く心は病菌に作用す
嘗て、千葉大医科と、慶応大医科とで、チフス菌は鼠の腸内にて殺菌消化されて
形を止めなくなると言い、一方は然らずと言い、両大学にて各々実験を行い、両方とも自己の
主張する通りの実験の結果を得、孰(いず)れにも勝敗決せずして物別れになった事があった。
同一程度の重症の結核患者で、一方は暗く悲哀と絶望の精神をもち、
他方は明るく楽天的なる精神をもったとせよ。
明るき楽天的なる精神の者は快方に向かい、
悲哀と絶望に沈みたる者の結核菌は益々繁殖して病は増悪する。
<感謝合掌 平成28年8月28日 頓首再拝>
《神はすべてのすべてである事を知り、神の護りを完全に受けよ》 - 伝統
2016/10/03 (Mon) 04:07:29
*『幸福を招く365章』第9項(P194~195) より
あらゆる事物に対して恐るることなかれ、憂えることなかれ。
又、心をまどわすことなかれ。
神はすべてのすべてである事を知るとき、
一切の不安・恐怖・憂い・悩みはのぞかれるのである。
誰かの言行に信用がおけないときに、いかにすべきか。
一切万事神より出でて神に支配されているから、
悪しきことはありようがないのである。
その真理を知らないから、否、一通りは知っているはずであるけれども、心の奥底から、
一切万事神によって造られ、神によって支配されていると知らないから、
他(ひと)を疑ったりするのである。
静かに坐して、「一切は神の創造である。この世界には決して不調和はないのである。
彼は神の子であるから決して不信な行いをするはずはないのである」と念ぜよ。
<感謝合掌 平成28年10月3日 頓首再拝>
《神は渾ての渾てである》 - 伝統
2016/10/17 (Mon) 04:51:34
*『 生長の家 』(昭和25年9月25日の法語)より
神を渾ての渾てとみとめるよりほかに、
本当に人類の幸福は来ようがないのである。
互いに相戦い、相抵触する
二つ以上の無数の力の存在をみとめる限り、
人類は戦いの世界におかれなければならないのである。
その戦いは人類相互の戦いもあれば、
微生物と人間との戦いもあれば、
逆境に対する人間の戦いもある。
かかる戦いはいずれも人類の潜在意識の中に
暗示され印象されたる想念の具象化である。
かかる想念の具象化たる世界からのがれるには、
先ず、心の中に、神は渾ての渾てであって、
皆一つであるから相対立する何物も存在しないと
悟ることが必要である。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100
<感謝合掌 平成28年10月17日 頓首再拝>
ただ神の生活あるのみ - 伝統
2016/11/14 (Mon) 04:16:59
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月14日)より
「迷い」を去れば罪と病と死を超越せる「神の子」となることができるのである。
神から離れた心を「迷い」と言う。
しかし、神は《すべて》であるから離れることはできない。
では ―― ?
神から離れた心 ―― 迷い ―― は無いのである。
今日(きょう)から、ただ神の生活あるのみである。
<感謝合掌 平成28年11月14日 頓首再拝>
神に抱擁される詩 - 伝統
2016/11/15 (Tue) 04:01:26
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月15日)より
静かに朝の太陽に向かって、合掌礼拝瞑目して、
リズミカルに自分の耳に聞こえる程度の低声(こごえ)にて繰り返せよ。
第一節二十回、終わりて第二節二十回、それを終わりて第三節二十回を繰り返すのである。
心 恍(こう)たり惚(こつ)たり。
天地の中に抱擁されたる心境に入(い)りて止(や)む。
神はすべての渾(すべ)て
神はまたきいのち
神のいのち我(わ)れ
健(すこ)やかなるもの我(わ)れ
病(や)まざるもの我(わ)れ
死せざるもの我(わ)れ
無限力なるもの我(わ)れ。
神はすべてのすべて
すべてのものに神ましまして
我(わ)れを導きたまう
神は調和の叡智(みちえ)
神は栄えの叡智(みちえ)
調和の道に導きたまう
栄えの道に導きたまう。
神はすべてのすべて
すべてのもののうちに神ましまして
我(わ)れを護りたまう
神はまたき聖愛(みあい)
神 我(わ)れを護りたまえば
幸多き者われ、
恐怖なき者われ。
調和の道に導きたまう
栄えの道に導きたまう
<感謝合掌 平成28年11月15日 頓首再拝>
《天地に遍満する神の恩恵を知れ》 - 伝統
2017/01/24 (Tue) 04:54:30
*「光明法語」(1月24日)より
人間は神の子であり神より出ずる総てのよきものにとりまかれているのである。
神の恵みはあらゆるものに、空気に、日光に、水に、見渡す景色に、さえずる鳥に、
あらゆるものに現れて吾々を恵み、はぐくみ養い給う。
神の恵みは吾々をとりまいていて一分一厘の逃れる隙間もないのである。
昨日が如何にあろうとも、今日何事が起ころうとも、神は善と共にいますのである。
人間の力にて打ち勝ち難い困難が出て来たならば、心の中に次の言葉を繰り返して念ぜよ。
「之は私が解決するのではない、神が解決するのである」
<感謝合掌 平成29年1月24日 頓首再拝>
神がすべてなりと観ぜよ - 伝統
2017/03/15 (Wed) 04:26:20
*「光明法語」(3月15日)より
毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、
神と、神の創造せられたる世界と人間との
完全にして美しく妙なることを念想せよ。
その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、
一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、反感、災難などは
存在しないものであると云う確信が自分の潜在意識の奥底までも湧き起って来るのである。
その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、
健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。
<感謝合掌 平成29年3月15日 頓首再拝>
《神はすべてのすべて》 - 伝統
2017/04/05 (Wed) 03:33:25
*「光明法語」(4月5日)より
先ずいずこにも神が霊的存在にして一切のところに
充ち満ちてい給うことを知ることが大切である。
神はすべてのところに充ち満ちていますが故に、
何物も神の救いのそとに漏れることは出来ないのである。
神はすべてのものを取巻き、すべてのものの中に流れ入り充ちわたりて、
その智慧と愛と生命と歓喜とを実現していたまうのである。
これから実現するのではない。
既に神のいます処、それが実現しているのである。
今、此処に、而して、久遠に、神の完全なる国はあるのである。
<感謝合掌 平成29年4月5日 頓首再拝>
神は到る処に充ち満ちていられます - 伝統
2017/04/25 (Tue) 03:26:31
*『美と健康の創造』(P171~173)より
神は常に、あなたを護っていられるのです。
日光はふりそそぎ、空気はありあまるほどあります。
自分でしようと思わないでも心臓は鼓動し、肺臓は呼吸します。
みんなこれは神さまのお力です。
もしあなたが心の眼をひらいて御覧になるならば、
到る処、神の恵みならざるはありません。
神の恵みは一分間も止むことはないのです。
その事は肺臓の呼吸や、心臓の鼓動が1分間でも止んだことがないので判ります。
眼をひらいて御覧なさい。
貴方の食物、飲料水、衣料、みんな、もとは神から来たのです。
もとは神で、調理をしたり、紡績したり、裁縫したりしたのは、
そのもとに少しく「人間の力」を加えたにすぎません。
しかし、その加えた「人間の力」はどこから来たのですか。
自分で生れようと思って出て来た生命の力ではありません。
神が生命を与えてこの世に生み出したのです。
「人間の力」そのものが神の力です。
もとは神です。
そのもとに「人間の力」を加えても、神の恵みを加えたに過ぎません。
すべては神の恵みです。
神の恵みに眼をさましましょう。
自分の力で何でも出来ると思っていた間は、
「有りがたい」という心は起らないのです。
「有りがたい」という心、感謝の心が起ったとき、
人間は、はじめて幸福になれるのです。
「有りがたくない」とブツブツ不平をいっている間は
人間は幸福ではないのです。
幸福な感じというものは、「有りがたい」という感じです。
「あの人が私に深切にしてくれて有りがたい」と思ったときにその人は幸福です。
ところがもっと大きな幸福が、
もっと大きな「有りがたさ」があるのを見のがしてはなりません。
神の愛の深切さ、その行き届いた深切さは、
どんな人の深切さよりも、もっともっと深切です。
あなたの腹わたの中のどんなきたない中にも入って、
あなたに必要な養分と、きたない糞便になる部分とをより分けて、
あなたを生々とした美しい肉体につくっていて下さっているのが神様の愛であります。
太陽の輝きは、星々の煌きは、花の美しさは、
神様のあなたに対するやさしい微笑です。
あなたは神様がいつも休まず働いていて下さるその深切に、その微笑に、
お礼をいったことがありますか。
夜やすむときと、朝おきたときと、そして美しいものを見たとき、
御飯をたべるとき、うれしい事がある毎に神様に感謝いたしましょう。
そこから本当の幸福は生れるのです。
<感謝合掌 平成29年4月25日 頓首再拝>
実相を観ずる歌 - 伝統
2017/05/10 (Wed) 04:07:12
*「生命の實相」第8巻観行篇(P2)より
(一)
神はすべてのすべて、
神は完(また)き生命(いのち)、
神は完(また)き英知(みちえ)、
神は完(また)き聖愛(みあい)。
すべてのものの内に、
神の生命は生くる、
神の英知は生くる、
神の聖愛は生くる。
神はすべてにして、
すべて一体(ひとつ)なれば、
よろずもの皆(みな)共通(ひとつ)の
ちから是を生かせり。
天地(あめつち)の創造主(つくりぬし)は、
唯一つの神にませば、
天地はただ一つに、
いと妙に調和満つる。
吾れ座す妙々実相世界、
吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
万ず円満大調和、
光明遍照実相世界。
(二)
神は生命にして、
吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを生かし、
すべては吾れを生かす。
神は愛にして、
吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを愛し、
すべては吾れを愛す。
神は知恵にして、
吾れは神の子なれば、
吾れはすべてを知り、
全てのもの吾を知れり。
神はすべてにして、
吾れは神の子なれば、
吾れ祈れば天地(てんち)応え、
吾れ動けば宇宙動く。
吾れ座す妙々実相世界、
吾身(わがみ)は金剛実相神の子、
万ず円満大調和、
光明遍照実相世界。
<感謝合掌 平成29年5月10日 頓首再拝>
神はすべてのすべて - 伝統
2017/06/01 (Thu) 04:47:56
*「聖経 真理の吟唱」(P10)より抜粋
神はすべてのすべてであり給う。
天地一切のものは、神の愛と智慧と生命との顕現であり、
私たち人間も神の愛と智慧と生命との顕現であるから、
天地一切のものと、私たち人間とは、同根であり、兄弟姉妹であるのである。
それゆえに、天地間の一切のもの悉くみな私たちの味方であって、
私たちを害する者など何一つないのが実相であるのである。
もし私たちが何者かに害されたり傷ついたりすることがあるならば、
天地と同根であり一切の存在と兄弟姉妹である自分の実相をわすれて、
天地一切のものと自分の心とが不調和になったことの反映であるから、
神は「省みて和解せよ」と教えられているのである。
神はすべてのすべてであり給い、一切処に偏在し給うのである。
神は無限にして神聖、常に永遠に、そして今ここに、私を取り巻き、私の周囲に、
上にも下にも、左にも右にも、前にもうしろにも、天地、上下、四方、四維、
神の在(いま)さざる処は無いのである。
<感謝合掌 平成29年6月1日 頓首再拝>
神は全ての渾(すべ)て - 伝統
2017/06/18 (Sun) 04:59:51
*「光明道中記」(6月18日)より
【「敵は本来ないものだ」と判って初めて凡てと和解出来る。
(『生命の實相』第十三巻)】
「神は全ての渾(すべ)て」と繰返し心に唱えて、自分の周囲、心の眼を以って
自分の座せる座敷の隅々(すみずみ)隅々(くまぐま)を順次見詰めつつ、
「自分の坐っている座敷の隅々、隅々、神は充満している」と観ぜよ。
「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。
ついで「神は愛であり、神の愛は一切所に充つる」と観ぜよ。
「愛は育てる力であり、育てる力が一切所に充ち、
自分も自分の家族も悉くその愛に育てられている」と観ぜよ。
「愛は調和の智慧であり、一切所に調和の智慧充つる」と観ぜよ。
如何なる他の力も、神の愛の力の前には存在しないのである。
愛のみが実在であり、育てる力のみが実在であり、調和の智慧のみが実在である。
この神の愛の力を吾々が認めるとき一切の悪しく見える力は
影を消して了(しま)うのである。
周囲が抗(さか)らい立ちて、一切の事物が暗黒に見えるとも
その暗黒が実在するのではないのである。
それは仮の相(すがた)である。
高く高く実相の炬火(たいまつ)を捧げよ。
神の愛の力のほかに何物もないこと、
神の愛が自分の周囲に充満していて自分を護って下さること
―― 此の実相を観る神想観の前には不幸の暗は消えるほかはない。
<感謝合掌 平成29年6月18日 頓首再拝>
神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する - 伝統
2017/06/30 (Fri) 02:55:21
*「光明道中記」(6月30日)より
問題解決・感謝の日
【天に地に感謝せよ。万物が皆有がたい。おのずから合掌される。
始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】
若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。
そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。
自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。
全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。
すべて神のものである。神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。
神がすべての渾(すべ)てであるが故に、
今、あなたは自分を空しくして神に一致するが故に、
神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。
あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、
すべての人間を慈愛深き父母兄弟と拝まなければならない。
衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。
<感謝合掌 平成29年6月30日 頓首再拝>
心に神を持つことは「すべて」を持つこと - 伝統
2017/07/02 (Sun) 03:59:16
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月2日>(P5)より
本当の平和はわか心が神に結ばれたときのみに得られるのである。
神さえあれば何も要らない。
心に神を持つことは「すべて」を持つことである。
神は「すべてのすべて」であるからである。
<感謝合掌 平成29年7月2日 頓首再拝>
すべては霊である - 伝統
2017/07/18 (Tue) 03:43:07
*「光明法語」(7月18日)の法語より
すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。
雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。
雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。
霊魂は「生命」の高い段階の現れである。
<感謝合掌 平成29年7月18日 頓首再拝>
神を心に満たせ! - 伝統
2017/07/22 (Sat) 04:16:50
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月22日>(P26)より
「神はすべてのすべて・・・」
眼を瞑ってかく念ぜよ。
繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分のうちに、
あらゆるいっさいのうちに、神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。
ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。
神はすべてであり、いっさいであるからである。
ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。
<感謝合掌 平成29年7月22日 頓首再拝>
普遍意識に没入するとき、万事が都合よくゆく - 伝統
2017/07/24 (Mon) 04:23:45
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月24日>(P27)より
瞑目精神を統一して、「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身の
うちにも、神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。
神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、その智慧の中に
没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。
現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された普遍意識(すべてに満ちて
行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる反射光にすぎない。
反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、自分のうちに宿り給う
普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、われらはこの普遍意識の中に没入し、
普遍の智慧と一つになるとき、知らず知らず万事が都合よくゆくのである。
「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。
普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。
<感謝合掌 平成29年7月24日 頓首再拝>
あらゆるところに神を見出す - 伝統
2017/07/26 (Wed) 04:03:35
*『生命の實相』第38巻幸福篇(下)<7月26日>(P29~30)より
神は光である。
わが室(へや)の窓の外に、
神の光は待っているのである。
倦(う)まず撓(たゆ)まず。
わたしはいつまで神がそこにいることに気がつかなかったろう。
神はわたしがその窓を開くのを待っているのだ。
神はいないのではない。
わたしが心も窓を開かなかったのだ。
―― 光はわたしの内にある
だれかが戸を叩いている。
神がわたしの家の門口(かどぐち)に来て戸を叩いているのだ。
わたしは神を求めなかったのに、
神はわたしを求めてい給うのだ。
わたしはなんという親不孝者だったのだろう。
わたしが神の膝に跳びつきさえすれば
すべてはすでに与えられているのだ。
神のないところに生命(せいめい)はない。
神のないところに美はない。
神のないところに智慧はない。
神のないところに愛はない。
生命(せいめい)があり、
美があり、
智慧があり、
愛があるということは、
そこに神が在(いま)すということだ。
すべてのものに、
自分の外(そと)に、
自分の内に。
かくてわたしはあらゆるところに神を見出すのだ。
<感謝合掌 平成29年7月26日 頓首再拝>
神はすべてにあり - 伝統
2017/08/02 (Wed) 03:57:13
*「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)(8月2日完徳成就の日)より
【汝らは初めから如来であり、成仏している。(生命の實相第一巻)】
神を外にのみ求むる時代は人類にとって過ぎ去ったのである。
神は外にあらず、内にあらず、中間にあらず、
そして外にあり、内にあり、中間にある。
それは現象を超えた外であり、内であり、中間であり、
その本源であり、それを左右し、支配し、修正する力である。
嘗て、京都の講習会に往ったときに三高の英文学教授深瀬基寛氏から
『現代英文学の課題』と題する本を頂いた。此の書はその前年同教授夫人が
叡山の生長の家講習会に受講して山上から帰られると神徠(しんらい)のように
書きたくなって書かれた書であると言う。その中に曰く――
「『完徳の観念』(Ider of perfection)はアーノルドに於いても
根本的な地位を占めているが、アーノルドは『教養』(Culture)の方法によって
専らこの観念を実現せんとし、
エリオットは『個性の脱却』(Depersonalisation)によって
個人以上の『他社の権威』(Outside Authority)
に合致することを以て完成の内容としている。
・・・個人の『内心の声』(Inner Voice)を
最後の拠り処とする傾向が浪漫主義の本質であって、
エリオットは此の傾向を『近代の異端』として排撃する」と。
此の「外の権威」と「内心の声」は
内外(しげ)打成(だじょう)一片の生長の家に於いては
完全に一致する。
<感謝合掌 平成29年8月2日 頓首再拝>
神がすべて - 伝統
2017/08/05 (Sat) 04:20:10
*「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)(八月五日 神がすべての日)より
【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
(『生命の實相』第十一巻)】
神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、一切のところに、
一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、そんな固い鉱石の中にでも
神が充満したまうこと。
従って、自分の肉体の中にも、骨の中にも、髪の毛の中にも神が満ちて在ますこと、
自分の中に斯く満ちて在ます神と、宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。
このことを今日の神想観のときには眼を瞑ると直(ただち)に繰返し念じて、
神のほかに何も無い、神のみが在(ましま)すのだと云う深い信念が湧き出るまで
念じつづけること。
このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。
神は”すべて”である。先ずその”すべて”にましますところの神を心の中に深く知る
ことは”すべて”を心の中に得ることである。
「心」の中に三千世界は蔵(ぞう)されているが故に、
「心」の中に”すべて”を把めば、全てのものはすでに吾がものである。
欲張っては可(い)けない。欲張るのは、なお自分の中に”すべて”が存在することを
悟らない近視眼者であるからである。
”すべて”が自分のものと云うのは全部が自分の肩にかかってくると云うことではない。
必要に応じて現われ、用足りて姿を消す極楽の境涯である。
<感謝合掌 平成29年8月5日 頓首再拝>
《悪しき現象に心を乱すな》 - 伝統
2017/08/20 (Sun) 04:51:00
*『 生長の家 』(昭和26年1月5日の法語)より
人間の幸福 と 健康 とを持ち来たす真理の中心となるものは
「 神がすべての渾(すべ)て である 」 という真理である。
そして
「 神は 無限の智慧であり、無限の力であり、無限の愛であるから、
神の創造せられた世界には 不幸や病気は 決して存在しない 」
と云う真理である。
この真理に 完全に目覚めるとき
一切の不幸と病気とは 消えるのである。
若(も)し吾々が 現象にあらわれたる不幸と病気とを実在であると信じ、
それに心が捉(とら)えられ、それと心が格闘して心 乱れるときは、
乱れたる心の表現にしか過ぎない病気や不幸は 却(かえ)って
増大するのである。
悪しき現象は 乱れたる心の反影であり、影であるから
心が平かになれば消える。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51
<感謝合掌 平成29年8月20日 頓首再拝>
神はすべてであり給う - 伝統
2017/09/04 (Mon) 03:28:13
*『人生は心で支配せよ』(P182)より
吾れは恐れない。
神はすべてであり給う。
神以外のものは何物も存在しないのである。
神は善なるが故に悪は決して存在しないのである。
神は護り給う。
神は養いたまう。
神は吾れを持ちたまう。
神は吾れを愛したまう。
如何なる禍も吾れには来たらず、
如何なる疫病(やまい)も吾が家には見舞わない。
神は吾が行くところに常にその天使をつかわしたまいて
吾れを看まもり給うのである。
吾れは真理を自覚したるがゆえに自由である。
吾れは父と偕(とも)に人生の行路を歩む。
吾れは「善」と「真理」とのみを見る。
吾れはそのほかの何物をも見ないのである。
神は凡てでありたまう。
吾れは終日吾がたましいの内にかく叫ぶのを聞くのである ――
吾れは心のうちに病も貧しさも恐怖も考えない。
吾れはただ真理と愛と生命とのみ考える
―― と。
一切のものは神のものである。
一切のものは吾がものである。
神の力のみが実在する力である。
父の持ち給う一切のものは吾がものである。
吾れ一切のものを父より承(う)けたる故に、吾は全てである。
吾が父に感謝します。
<感謝合掌 平成29年9月4日 頓首再拝>
神はすべてのすべて (その1) - 伝統
2017/09/25 (Mon) 03:27:44
*「生長の家」(昭和13年7月号)より
『神は全ての全て・・・・・・』
眼を瞑ってかく念ぜよ。
繰返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙に、そして自分のうちに、
あらゆる一切のもののうちに、神は満ちていますと云う思いをもって心を満たせよ。
他に何物をも思念の中に求めるには及ばない。
神はすべてであり、一切であるからである。
まず神を把握せよ。
その人は一切を把握するであろう。
『神は全ての全て・・・・・・神は全き生命』と瞑目して繰返し繰返し念ぜよ。
かく念じつつ、神の生命が、宇宙全体に、すべてのものの内に、一切のものの内に、
そして『自分の内にも充ち満ち、その〈全き神のいのち〉にすっかり包み込まれ、
それに生かされている』との深い実感のうちに、三十分間を浸り切ることは
極めて尊き神想観である。
病ある者は速やかに癒されるであろう。
観中、『病を癒す』などの念を起す必要はない。
神の生命の中に没入している限りに於いて、そこに病は無いのであるから。
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/20073348.html?type=folderlist)
<感謝合掌 平成29年9月25日 頓首再拝>
神はすべてのすべて (その2) - 伝統
2017/10/11 (Wed) 03:17:50
*「生長の家」(昭和13年7月号)より
瞑目精神を統一して、
『神は全ての全て・・・・神は全き叡智』と繰返し繰返し念ぜよ。
そして宇宙全体に、すべてのもののうち、更に自分自身のうちにも、
神の智慧充満せりと観じ、神の智慧の中に溶け込んで了うのである。
神は全てであり、全てに行亙って存在する智慧であるならば、
その智慧の中に没入するとき、吾等は知らないものは一つもないのである。
現在意識が何も知らなくとも、吾等は恐れることな要らないのである。
現在意識は『脳髄』と云う個別的反射鏡の上に投光された普遍意識
(すべてに満ちて行き亙れる智慧)の一部が反射し出されたる反射光に過ぎない。
反射光が何を知っていようとも、又、何を知らずにいようとも、
自分の中に宿り給う普遍意識はすべてを知っているのであるから、
吾等は此の普遍意識の中に没入し、普遍の智慧と一つになるとき、
知らず識らず萬事が都合よく行くのである。
『何でも都合よく行く』と云う人は、
普遍の智慧を知らず識らず我がものとしている人である。
普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他の中にも宿るが故に、
自分自身のみならず、他をも知らず識らずに動かしつつ、
萬事都合のよい配合にまで一切を動かして行くのである。
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/20100380.html?type=folderlist)
<感謝合掌 平成29年10月11日 頓首再拝>
神はすべてのすべて (その3) - 伝統
2017/10/26 (Thu) 04:30:44
*「生長の家」(昭和13年7月号)より
神は光である。
わが室の窓の外に、
神の光は待つてゐるのである、
倦まず撓まず。
私はいつまで神が其処に居ることに気がつかなかつたらう。
神は私が窓を開くのを待つてゐるのだ。
神はゐないのではない。
私が心の窓を開かなかつたのだ。
― 光は私の内にある
誰かが戸を叩いてゐる。
神が私の家の門口に来て戸を叩いてゐるのだ。
私は神を求めなかつたのに、
神は私を求めてゐ給うたのだ。
私は何と云ふ親不孝者だつたのだらう。
私が神の膝に跳び付きさへすれば全ては与へられてゐるのだ。
神のないところに生命はない、
神のないところに美はない、
神のないところに智慧はない、
神のないところに愛はない、
其処に生命があり、美があり、智慧があり、愛があると云ふことは、
其処に神が在すと云ふことである。
斯くて私は凡ゆるところに神を見出す。
すべてのものに、自分の外に、自分の内に。
まことにも神詰ります世界である。
神のない快楽は、根を切つた切花のやうなものである。
やがてそれは打萎れ、
どす黒い苦い苦しみに変つて行くものである。
(https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/20126952.html?type=folderlist)
<感謝合掌 平成29年10月26日 頓首再拝>
ただ神《のみ》がましますのである - 伝統
2017/10/30 (Mon) 04:31:07
*「光明道中記(その身まったし)」
(10月30日求むるに先立ちて財宝集る日)より抜粋
【結果を求めた愛は必ず不幸に終わる。よき果を結ぶのは結果を求めない愛ばかりである。
(『生命の實相』第一巻)】
ただ神《のみ》がましますのである。
神は大慈である。
ただ大慈《のみ》がましますのである。
今更何を求めよう。
ただ、神の中へ溶け込むことのみをこそ求めなければならないのである。
溶け込むとは固まりがなくなることである。
「我」の求めがなくなることである。
偉くなり、富を得たい、光栄を得たい、すべての野心、野心がとげられない悲しみ。
一切の怒り、不安、恐怖、呪詛(のろい)、之(これ)らすべてのものを放下せよ。
真に神の神意でありますようにと祈れ。
おお! その中にこそ全てがあるものを。
神を、聾(つんぼ)扱いしてはならぬ。
大声で怒鳴らなければ聞こえない者だと思ってはならない。
注文をして置かなければ、神はこの問題を忘れ給うかも知れぬと思うな。
<感謝合掌 平成29年10月30日 頓首再拝>
神はすべてのすべて~神に抱擁される詩 - 伝統
2017/11/15 (Wed) 04:51:35
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月15日)より
静かに朝の太陽に向かって、合掌礼拝瞑目して、
リズミカルに自分の耳に聞こえる程度の低声(こごえ)にて繰り返せよ。
第一節二十回、終わりて第二節二十回、それを終わりて第三節二十回を繰り返すのである。
心 恍(こう)たり惚(こつ)たり。
天地の中に抱擁されたる心境に入(い)りて止(や)む。
神はすべての渾(すべ)て
神はまたきいのち
神のいのち我(わ)れ
健(すこ)やかなるもの我(わ)れ
病(や)まざるもの我(わ)れ
死せざるもの我(わ)れ
無限力なるもの我(わ)れ。
神はすべてのすべて
すべてのものに神ましまして
我(わ)れを導きたまう
神は調和の叡智(みちえ)
神は栄えの叡智(みちえ)
調和の道に導きたまう
栄えの道に導きたまう。
神はすべてのすべて
すべてのもののうちに神ましまして
我(わ)れを護りたまう
神はまたき聖愛(みあい)
神 我(わ)れを護りたまえば
幸多き者われ、
恐怖なき者われ。
調和の道に導きたまう
栄えの道に導きたまう
<感謝合掌 平成29年11月15日 頓首再拝>
《天地に遍満する神の恩恵を知れ》 - 伝統
2018/01/24 (Wed) 03:28:20
*「光明法語」(1月24日)より
人間は神の子であり神より出ずる総てのよきものにとりまかれているのである。
神の恵みはあらゆるものに、空気に、日光に、水に、見渡す景色に、さえずる鳥に、
あらゆるものに現れて吾々を恵み、はぐくみ養い給う。
神の恵みは吾々をとりまいていて一分一厘の逃れる隙間もないのである。
昨日が如何にあろうとも、今日何事が起ころうとも、神は善と共にいますのである。
人間の力にて打ち勝ち難い困難が出て来たならば、心の中に次の言葉を繰り返して念ぜよ。
「之は私が解決するのではない、神が解決するのである」
<感謝合掌 平成30年1月24日 頓首再拝>
神がすべてなりと観ぜよ - 伝統
2018/03/15 (Thu) 03:44:41
*「光明法語」(3月15日)より
毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、神と、神の創造せられたる世界と人間との
完全にして美しく妙なることを念想せよ。
その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、
一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、反感、災難などは
存在しないものであると云う確信が自分の潜在意識の奥底までも湧き起って来るのである。
その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、
健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。
<感謝合掌 平成30年3月15日 頓首再拝>
《神はすべてのすべて》 - 伝統
2018/04/05 (Thu) 04:05:16
*「光明法語」(4月5日)より
先ずいずこにも神が霊的存在にして一切のところに
充ち満ちてい給うことを知ることが大切である。
神はすべてのところに充ち満ちていますが故に、
何物も神の救いのそとに漏れることは出来ないのである。
神はすべてのものを取巻き、すべてのものの中に流れ入り充ちわたりて、
その智慧と愛と生命と歓喜とを実現していたまうのである。
これから実現するのではない。
既に神のいます処、それが実現しているのである。
今、此処に、而して、久遠に、神の完全なる国はあるのである。
<感謝合掌 平成30年4月5日 頓首再拝>
神は到る処に充ち満ちていられます - 伝統
2018/04/20 (Fri) 04:49:44
*『美と健康の創造』(P171~173)より
神は常に、あなたを護っていられるのです。
日光はふりそそぎ、空気はありあまるほどあります。
自分でしようと思わないでも心臓は鼓動し、肺臓は呼吸します。
みんなこれは神さまのお力です。
もしあなたが心の眼をひらいて御覧になるならば、
到る処、神の恵みならざるはありません。
神の恵みは1分間も止むことはないのです。
その事は肺臓の呼吸や、心臓の鼓動が1分間でも止んだことがないので判ります。
眼をひらいて御覧なさい。
貴方の食物、飲料水、衣料、みんな、もとは神から来たのです。
もとは神で、調理をしたり、紡績したり、裁縫したりしたのは、
そのもとに少しく「人間の力」を加えたにすぎません。
しかし、その加えた「人間の力」はどこから来たのですか。
自分で生れようと思って出て来た生命の力ではありません。
神が生命を与えてこの世に生み出したのです。
「人間の力」そのものが神の力です。
もとは神です。
そのもとに「人間の力」を加えても、神の恵みを加えたに過ぎません。
すべては神の恵みです。
神の恵みに眼をさましましょう。
自分の力で何でも出来ると思っていた間は、
「有りがたい」という心は起らないのです。
「有りがたい」という心、感謝の心が起ったとき、人間は、はじめて幸福になれるのです。
「有りがたくない」とブツブツ不平をいっている間は人間は幸福ではないのです。
幸福な感じというものは、「有りがたい」という感じです。
「あの人が私に深切にしてくれて有りがたい」と思ったときにその人は幸福です。
ところがもっと大きな幸福が、もっと大きな「有りがたさ」があるのを
見のがしてはなりません。
神の愛の深切さ、その行き届いた深切さは、
どんな人の深切さよりも、もっともっと深切です。
あなたの腹わたの中のどんなきたない中にも入って、
あなたに必要な養分と、きたない糞便になる部分とをより分けて、
あなたを生々とした美しい肉体につくっていて下さっているのが神様の愛であります。
太陽の輝きは、星々の煌きは、花の美しさは、神様のあなたに対するやさしい微笑です。
あなたは神様がいつも休まず働いていて下さるその深切に、
その微笑に、お礼をいったことがありますか。
夜やすむときと、朝おきたときと、そして美しいものを見たとき、
御飯をたべるとき、うれしい事がある毎に神様に感謝いたしましょう。
そこから本当の幸福は生れるのです。
(https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/19 より転写)
<感謝合掌 平成30年4月20日 頓首再拝>
「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。 - 伝統
2018/06/18 (Mon) 04:06:32
*「光明道中記」(6月18日 心に炬火(たいまつ)を点ずる日)より
【「敵は本来ないものだ」と判って初めて凡てと和解出来る。
(『生命の實相』第十三巻)】
「神は全ての渾(すべ)て」と繰返し心に唱えて、自分の周囲、心の眼を以って
自分の座せる座敷の隅々(すみずみ)隅々(くまぐま)を順次見詰めつつ、
「自分の坐っている座敷の隅々、隅々、神は充満している」と観ぜよ。
「神のみが渾てであり、その他に何物もなし」と観ぜよ。
ついで「神は愛であり、神の愛は一切所に充つる」と観ぜよ。
「愛は育てる力であり、育てる力が一切所に充ち、
自分も自分の家族も悉くその愛に育てられている」と観ぜよ。
「愛は調和の智慧であり、一切所に調和の智慧充つる」と観ぜよ。
如何なる他の力も、神の愛の力の前には存在しないのである。
愛のみが実在であり、育てる力のみが実在であり、調和の智慧のみが実在である。
この神の愛の力を吾々が認めるとき一切の悪しく見える力は
影を消して了(しま)うのである。
周囲が抗(さか)らい立ちて、一切の事物が暗黒に見えるとも
その暗黒が実在するのではないのである。
それは仮の相(すがた)である。
高く高く実相の炬火(たいまつ)を捧げよ。
神の愛の力のほかに何物もないこと、
神の愛が自分の周囲に充満していて自分を護って下さること
―― 此の実相を観る神想観の前には不幸の暗は消えるほかはない。
<感謝合掌 平成30年6月18日 頓首再拝>
すべて神のものであることを知るとき世界が一変する。 - 伝統
2018/06/30 (Sat) 04:11:19
*「光明道中記」(6月30日 問題解決・感謝の日)より
【天に地に感謝せよ。万物が皆有がたい。おのずから合掌される。
始終この心持でおれ。(『生命の實相』第十一巻)】
若しあなたが自分を空しくするならば、もうあなたは自分ではないのである。
そのとき世界はあなたのものである。
世界は神のものであるからであり、あなたは神のものであるからである。
そのときあなたは行くところ可ならざるはないと云う状態に到達するであろう。
自分自身を「自分の《もの》」であると観たのが最初の無明(まよい)であり、
アダムの食った智慧の樹(こ)の実であったのである。それは形に於ける自分を見て、
自分を全体のものと引離されたるものと見た「観」の錯誤である。
全体を離れた自分と云うものもなければ、神から離れた自分と云うものもない。
すべて神のものである。神以外に何ものもないのだと知るとき世界が一変する。
神がすべての渾(すべ)てであるが故に、今、あなたは自分を空しくして神に一致する
が故に、神の叡智に導かれて失敗すると云うことはあり得ないのである。
あなたは、此の世界を「我が家(や)」と呼び、すべての人間を慈愛深き父母兄弟と
拝まなければならない。衝突は自分を空しくしない処より起こり、
他を父母兄弟として拝まない処より起る。
<感謝合掌 平成30年6月30日 頓首再拝>
心に神を持つことは「すべて」を持つことである - 伝統
2018/07/02 (Mon) 04:44:42
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月2日)より
本当の平和はわか心が神に結ばれたときのみに得られるのである。
神さえあれば何も要らない。
心に神を持つことは「すべて」を持つことである。
神は「すべてのすべて」であるからである。
<感謝合掌 平成30年7月2日 頓首再拝>
すべては「生命」の現れ - 伝統
2018/07/18 (Wed) 03:57:38
*「光明法語」(7月18日 すべては霊である)より
すべては生命(いのち)である。
それは「活力」と言っても好い。全ては「活力」である。
エネルギーである。それはただ盲目的なエネルギーではない。
雪の結晶が六角の美しい花模様をしながら、
その一つ一つを悉く異なる図案に造っている如き智慧ある活力である。
智慧ある活力を称して「生命」と云う。
雪と云う無機物さえ「生命」は造ったのである。
それは「生命」の現れである。
物質及び肉体は「生命」の低い段階の現れである。
霊魂は「生命」の高い段階の現れである。
<感謝合掌 平成30年7月18日 頓首再拝>
神を心に満たせ! - 伝統
2018/07/22 (Sun) 04:51:07
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月22日)より
「神はすべてのすべて・・・」
眼を瞑ってかく念ぜよ。
繰り返し念じつつ自分の周囲に、そして宇宙いっぱいに、そして自分のうちに、
あらゆるいっさいのうちに、神満ちていますという思いをもって心を満たせよ。
ほかに何物をも思念のうちに求めるにはおよばない。
神はすべてであり、いっさいであるからである。
ます神を把握せよ。その人はいっさいを把握するであろう。
<感謝合掌 平成30年7月22日 頓首再拝>
神はすべてのすべて、この普遍意識に没入するとき、万事が都合よくゆく - 伝統
2018/07/24 (Tue) 03:42:20
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月24日)より
瞑目精神を統一して、
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き叡智(みちえ)」と
繰り返し繰り返し念ぜよ。
そして宇宙全体に、すべてのもののうちに、さらに自分自身のうちにも、
神の智慧充満せりと観じ神の智慧の中に溶け込んでしまうのである。
神はすべてのすべて、全てに行きわたって存在する智慧であるならば、
その智慧の中に没入するとき、われらは知らないものは一つもないのである。
現在意識が何を知らなくともわれらは恐れることは要らないのである。
現在意識は「脳髄」という個別的反射鏡の上に投光された普遍意識(すべてに
満ちて行きわたる智慧)の一部が反射し出されたる反射光にすぎない。
反射光が何を知っていようとも、また、何を知らずにいようとも、
自分のうちに宿り給う普遍意識は”すべて”を知っているのであるから、
われらはこの普遍意識の中に没入し、普遍の智慧と一つになるとき、
知らず知らず万事が都合よくゆくのである。
「何でも都合よくゆく」という人は
普遍の智慧を知らず知らず”わがもの”としている人である。
普遍意識は自分のうちにも宿ると同時に、他のうちにも宿るが故に、
自分自身にみならず、他をを知らず知らずに動かしつつ、
万事都合のよい配合にまでいっさいを動かしてゆくのである。
<感謝合掌 平成30年7月24日 頓首再拝>
神が遍在し、神が充満したまう - 伝統
2018/08/05 (Sun) 04:13:44
*「光明道中記」(8月5日 神がすべての日)より
【神は汝の善き行ないの中にある。愛の中にある。善き生活の中にある。
(『生命の實相』第十一巻)】
神が遍在でましますこと、何処にでも在(い)ますこと、一切のところに、
一切の空間を貫いて、どんな密閉した部屋の中にでも、
そんな固い鉱石の中にでも神が充満したまうこと。
従って、自分の肉体の中にも、骨の中にも、髪の毛の中にも
神が満ちて在ますこと、自分の中に斯く満ちて在ます神と、
宇宙の何処にでも満ちて在ます遍在の神とは、
唯ひとつの神にましますこと。
このことを今日の神想観のときには眼を瞑ると直(ただち)に繰返し念じて、
神のほかに何も無い、神のみが在(ましま)すのだと云う深い信念が湧き出るまで
念じつづけること。
このほかには私にとって念ずべき何物もないのである。
神は”すべて”である。先ずその”すべて”にましますところの神を
心の中に深く知ることは”すべて”を心の中に得ることである。
「心」の中に三千世界は蔵(ぞう)されているが故に、
「心」の中に”すべて”を把めば、全てのものはすでに吾がものである。
欲張っては可(い)けない。
欲張るのは、なお自分の中に”すべて”が存在することを
悟らない近視眼者であるからである。
”すべて”が自分のものと云うのは
全部が自分の肩にかかってくると云うことではない。
必要に応じて現われ、用足りて姿を消す極楽の境涯である。
<感謝合掌 平成30年8月5日 頓首再拝>
《神は絶対者にして“霊”であること》 - 伝統
2018/08/27 (Mon) 03:55:21
*『人生の秘訣365章』第7篇(P165~166) より
神は絶対者であらせられるのである。
絶対者であるということは対立者がないということである。
神は一切包容の大実在であらせられるのであるから、
神の力の及ばないところは全然あり得ないと云うことである。
物質的宇宙が先にあって、其処に神が誕生したまうたというような唯物論では、
神は相対的存在となってしまうのである。
宇宙も、宇宙の中に浮かんでいる天体も、天体の上に発生している一切の生物も、
神という不可視の根元者から発生したのである。
日本語でカミと称するのは、語源的には「カクリ身の略であって、
「不可視の根元者」」という意味なのである。
不可視にして無限の智慧と神通力あるものを“霊”と称するのである。
神は絶対者であり、“霊”であるのである。
<感謝合掌 平成30年8月27日 頓首再拝>
神はすべての渾(すべ)て - 伝統
2018/11/15 (Thu) 03:03:02
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」
(11月15日 神に抱擁される詩)より
静かに朝の太陽に向かって、合掌礼拝瞑目して、
リズミカルに自分の耳に聞こえる程度の低声(こごえ)にて繰り返せよ。
第一節二十回、終わりて第二節二十回、それを終わりて第三節二十回を繰り返すのである。
心 恍(こう)たり惚(こつ)たり。
天地の中に抱擁されたる心境に入(い)りて止(や)む。
神はすべての渾(すべ)て
神はまたきいのち
神のいのち我(わ)れ
健(すこ)やかなるもの我(わ)れ
病(や)まざるもの我(わ)れ
死せざるもの我(わ)れ
無限力なるもの我(わ)れ。
神はすべてのすべて
すべてのものに神ましまして
我(わ)れを導きたまう
神は調和の叡智(みちえ)
神は栄えの叡智(みちえ)
調和の道に導きたまう
栄えの道に導きたまう。
神はすべてのすべて
すべてのもののうちに神ましまして
我(わ)れを護りたまう
神はまたき聖愛(みあい)
神 我(わ)れを護りたまえば
幸多き者われ、
恐怖なき者われ。
調和の道に導きたまう
栄えの道に導きたまう
<感謝合掌 平成30年11月15日 頓首再拝>
《天地に遍満する神の恩恵を知れ》 - 伝統
2019/01/24 (Thu) 04:31:49
*「光明法語」(1月24日)より
人間は神の子であり神より出ずる総てのよきものにとりまかれているのである。
神の恵みはあらゆるものに、空気に、日光に、水に、見渡す景色に、さえずる鳥に、
あらゆるものに現れて吾々を恵み、はぐくみ養い給う。
神の恵みは吾々をとりまいていて一分一厘の逃れる隙間もないのである。
昨日が如何にあろうとも、今日何事が起ころうとも、神は善と共にいますのである。
人間の力にて打ち勝ち難い困難が出て来たならば、
心の中に次の言葉を繰り返して念ぜよ。
「之は私が解決するのではない、神が解決するのである」
<感謝合掌 平成31年1月24日 頓首再拝>
神がすべてなりと観ぜよ - 伝統
2019/03/15 (Fri) 04:38:11
*「光明法語」(3月15日)より
毎日毎日神想観を行じ、神がすべてであり、
神と、神の創造せられたる世界と人間との
完全にして美しく妙なることを念想せよ。
その念想を継続しているうちに、真に「神がすべて」であり、
一切の不完全なるもの、不調和なるもの、醜きもの、病気、反感、災難などは
存在しないものであると云う確信が自分の潜在意識の奥底までも湧き起って来るのである。
その時次第に(時としては忽然)その人の周囲は光明が輝きはじめ、
健康は回復し、すべての人は自分に好意を示しはじめるのである。
<感謝合掌 平成31年3月15日 頓首再拝>
《神はすべてのすべて》 - 伝統
2019/04/05 (Fri) 04:11:29
*「光明法語」(4月5日)より
先ずいずこにも神が霊的存在にして一切のところに
充ち満ちてい給うことを知ることが大切である。
神はすべてのところに充ち満ちていますが故に、
何物も神の救いのそとに漏れることは出来ないのである。
神はすべてのものを取巻き、すべてのものの中に流れ入り充ちわたりて、
その智慧と愛と生命と歓喜とを実現していたまうのである。
これから実現するのではない。
既に神のいます処、それが実現しているのである。
今、此処に、而して、久遠に、神の完全なる国はあるのである。
<感謝合掌 平成31年4月5日 頓首再拝>