伝統板・第二

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今・ここ② - 伝統

2016/06/26 (Sun) 03:50:24

      *伝統板・第二「今・ここ①」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458155

《天国は「今」を生かすにある》

         *「光明法語」(6月26日)より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。
”Every day is best day in the year ”(毎日毎日が1年中で最も良き日である)
とエマースンは言っている。

達人の言うところ古今東西を通じて同じである。

天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。
鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。
他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

・・・

<関連Web>

(1)「“本流宣言”掲示板」内スレッド「人生の時間銀行 」
   → http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1357 

(2)「光明掲示板第一」内スレッド「「今」を全力を出して戦いとれ」。
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=302

(3)「光明掲示板第二」内スレッド「“今”を生かせということ (28)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=16

(4)光明掲示板・第三「今を生きよ! (135)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=58

(5)光明掲示板・伝統・第一「今が時なり (54)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=35

          <感謝合掌 平成28年6月26日 頓首再拝>

時間を大切にせよ - 伝統

2016/06/29 (Wed) 03:19:30


          *「光明法語」(6月29日)より

「小人閑居して不善をなす」と云う諺あり。
徳足らざる者仕事なく閑(ひま)でいる事は誘惑に対して隙を与えることになる。

「何事をも為さず」と云うのも又「行為(おこない)」の一種であって、
「悪をなす行為(おこない)」よりも一層悪である。

忘れられたる知識は復習によって回復されるが、
働かずに忘れられたる時間は如何なる方法によっても回復の道がないのである。

時間は生命であり、生命は何ものよりも高価なるものである。
無駄に時間を捨てる者は金貨を捨てて歩くよりも尚悪いのである。

生命(いのち)は向上するか、然(しか)らざれば向下するかである。

        <感謝合掌 平成28年6月29日 頓首再拝>

今(いま)茲(ここ)にある天国を知る - 伝統

2016/06/30 (Thu) 04:43:40


         *「光明道中記」(P201)より

【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】

「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。

《それ》は《今》あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
《今》既に新天新地があるのである。

おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。

そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。

既に成就せる世界を知って、それを現象世界に実現するのが、吾々の正しい生活である。
証上(しょうじょう)の修(しゅう)である。

既に成就せる世界を知るが故に退転することがないのである。
既に健康なる自分を知って、その如く行ずるのである。

多くの病者は《これから》健康になろうとして、健康法を励行するが、
思うように効果が挙がらないのは、《これから》と思っているからである。

既に《今》健康なのである。
肉体は自分ではない。自分の殻(から)である。

殻何するものぞ。
捨て切れ、捨て切れ、捨て切ったとき永遠の生命と、
今(いま)茲(ここ)にある天国を知ることが出来るのである。

        <感謝合掌 平成28年6月30日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2016/07/01 (Fri) 04:01:24


           *「光明法語」(7月1日)より

人ひとたび決意したる以上は、決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。
1分間を争うなり。
今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

        <感謝合掌 平成28年7月1日 頓首再拝>

【いまやらずして、いつやる】 - 伝統

2016/07/16 (Sat) 03:22:35


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年07月06日)より

   (浜松医科大学名誉教授、高田明和氏の心に響く言葉より…)

   日本の曹洞宗の開祖である道元禅師は、中国に留学しました。

   そこで彼の人生に決定的な影響を与える事件に遭遇したのです。

   寺で食事の世話をする人を典座(てんぞ)といいます。

   道元禅師が天竜山で修行中、仏殿(本尊様を安置する堂)の前で
   一人の老僧がきのこを日に干しています。

   暑い陽ざしの下で笠もかぶらずきのこを並べている姿がいかにも苦しそうです。


   老僧の背は弓のように曲がり、眉は鶴の羽のように白い。

   道元禅師がその方に近づいて、「おいくつでございましょうか」と質問しますと、
   その僧は「六十八歳」と答えました。

   「なぜ行者(修行僧)や下働きの人を使わないのですか」と聞くと、老典座は

   「他は是れ吾にあらず」(自分が修行せずに他の人にしてもらったのでは、
   自分のしたことにならない)というのです。


   道元はさらに、「そのとおりでありましょう。しかし、今は暑いので、
   もう少し涼しくなってからされてはいかがでしょうか」と彼をいたわると、

   老典座は、

   「更に何れの時をか待たん(いまやらずに、いつするのだ)」と答えたのです。


   自分のことは自分ですることが修行なのだ、
   他人に修行をしてもらうことできないのだという意味です。

   毎日の生活に一生懸命になり、「全身全霊」をあげてやるべきことに取り組むというのが、
   心を磨き、徳を積むもっともよい方法なのです。

          <『困ったことは起こらない』きこ書房>

                ・・・

「誰もあなたの代わりに腕立て伏せをすることはできない」
              
という、ジム・ローン(思想家)の言葉がある。


自分に代わって誰かが体を鍛えてくれる、などということはない。

どんなに辛くとも、自分自身がやるしかないのだ。

修行も、勉強も、それにともなう行動も。

そして「行動」は、「いまやらずして、いつやる」と、先延ばしはできない。


「他の人にしてもらったのでは、自分のしたことにならない」

いくつになっても、人生は修行の連続だ。

           <感謝合掌 平成28年7月16日 頓首再拝>

《今日一日かぎりの生命(いのち)と思えよ》 - 伝統

2016/07/31 (Sun) 03:23:08


       *「生長の家」(昭和25年6月3日の法語)より

   毎朝起きた時に、
   今日一日きりの生命であると思いて生活せよ。

   明日はないのである。

   今日はまだ惰(なま)けていても好(よ)いとか、
   罪を犯しても好いとかいう様な甘い考えを
   捨てなければならないのである。

   今日一日善にすすむ道が
   如何(いか)に辛(つら)くとも
   今日一日と思えばそれですむのである。

   未来の長さを心に描いて
   重荷を感ずることはいらないのである。

   「 一日の労苦は 今日一日にてたれり 」 であるのである。

   どんなことでも 今日一日と思えば
   出来ないことはないのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

        <感謝合掌 平成28年7月31日 頓首再拝>

今を機会に飛躍せよ - 伝統

2016/08/13 (Sat) 03:57:35


         *「生命の實相」第15巻人生問答篇上(P18~19)より

諸君よ、今を機会に飛躍せよ、新生は刻々諸君に近づきつつあるのである。

今が時だ。

すべての柵を跳び越えよ、物質の柵を跳び越えよ、
およそ自己を有限に限るいっさいの物を飛び越えよ。

そして無限の生命(せいめい)の世界に出(い)でよ。
諸君が限る井戸の框(かまち)は外になくて自分の心のうちにあるのである。

されば、自分の心の柵を跳び越えよ。
一跳(ちょう)して如来地(にょらいじ)に躍入(やくにゅう)せよ。

自己の宿る「太陽の魂」をその十全の光において輝き出(いだ)さしめよ。
なんじに宿るキリストを磨き出(いだ)せよ。

イエスは常に「汝ら歓び勇(いさ)め」と言っていたのである。

すべての宗教はその核心において一致しているのだ。
憂鬱は諸君に宿る無限力を堰(せき)する閘門(こうもん)の最も大なるものである。
悲しみは諸君を暗黒の世界に押し込む天岩戸であったのだ。

諸君如、自分の心で牢獄を造ってわれとわが迷いで地獄へ堕ちるな。
地獄の英語(HELL)は「周囲に障壁をめぐらす」という意味からきた語(ご)である。
諸君は自分で障壁を築かねば地獄へ堕ちる気遣いはないのだ。


諸君はみんな神の子ではないか、神の子が朗らかに笑うほど自然な行事はないのである。
諸君が明るく笑う時、たちまち諸君の本性たる「神の子」に立ち帰るのである。

諸君が神の子たる本性に帰るとき、
明るく朗らかな朗らかな神の子の本来の面目に復帰する時、
諸君はもうそのままで自由自在なのである。

天之岩戸は外にはなく、心で築いたものであるから、
心が明るく朗らかなるその本来の面目に帰るとき、
もうそこには天岩戸は消えているのである。

何よりも明るく朗らかに笑うことが自己に宿る無限力を引き出す第一歩である。
「明るく朗らかな神の子が自分である。ああ自分が神の子であることがありがたい。」

今日から、就寝前の1分間と、朝目が覚めたときの1分間とに、
こう二十回ほど繰り返して丹田に力を籠めた低声で自分の心に言って聞かせよ。
そして機会あるごとに大笑(たいしょう)せよ。

諸君の運命と健康とはこの言葉の力と笑いの力で日々にその前日よりも
いっそう明るく改善されたものとなるであろう。

        <感謝合掌 平成28年8月13日 頓首再拝>

《「 今 」 を完全に生きよ》 - 伝統

2016/08/25 (Thu) 03:30:35


        *『 生長の家 』(昭和26年7月10日の法語)より

   あなたの生命(いのち)の内には 神の霊が宿っているのである。
   神の霊は 唯(ただ)勝利するほかはないのである。

   過去に何があろうとも、それは今日の魂の前進の準備となったのである。
   過去の失敗に捉われるな。
   形の一進一退のうちに 魂は必ず前進して行くのである。

   今を生かせ。

   神を信じ、神に祈りつつ 今を全力を出して生きるのである。

   「 今 」 は実相世界に既にあるところの勝利が
   現実世界にあらわれて来るところの門であるのである。

   「 今 」 を支配するものは
   過去の失敗を勝利にかえ、魂の進歩にかえ、
   未来永劫に ただ悦(よろこ)びの生活を送ることが出来るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/776fdceb9039fb5d186d29d1946ce6ba

        <感謝合掌 平成28年8月25日 頓首再拝>

今、善き念を蒔(ま)け - 伝統

2016/09/06 (Tue) 04:07:24

《過去は過ぎ去る 未来はわがもの》

          *『生長の家』(昭和25年8月2日の法語)より

   現在の如何なる自分の状態も
   悉く自己の過去の想念の結果でないものはないのである。

   自分自身を 如何にみとめたか、
   他人を 如何にみとめたか、
   此(こ)の世界を 如何にみとめたか。

   その想念が種子となって生長し咲き出(い)でた花が
   現在の状態であるのである。

   現在を歎(なげ)いてはならないのである。
   
   現在は過去の想念の投影であり、
   過ぎ行きつつあるものなのである。

   未来は現在の想念の投影であり、
   これから造りつつあるものなのである。

   過去と現在とを歎かず、
   未来の幸福のために今善き念を蒔(ま)け。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

        <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

《常に好機会がある》 - 伝統

2016/09/17 (Sat) 03:33:18


        *『生長の家』(昭和25年8月17日の法語)より

   自信力のない者は、幸運が目の前にやって来ても
   その幸運をつかむ事は出来ないのである。

   自信力は自己の内に宿る神を自覚することによって得られるのであって、
   そのためには 「 生命の実相 」 を自覚することが必要なのである。

   自己の生命の実相は 「 神の生命 」 そのものであり完全であるけれども、
   自覚する程度に従ってあらわれて来るのである。

   自信力のある者にとっては、好機会は常にあるのである。
   日に日に伸びる機会が与えられているのである。

   どんな環境でも、それが困難であればあるほど
   内在の力を発揮させるのである。

   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

        <感謝合掌 平成28年9月17日 頓首再拝>

《未来は今日の想念の中にある》 - 伝統

2016/09/28 (Wed) 04:28:42


        *『生長の家』(昭和25年7月22日の法語)より

   今なすべきことを明日にのばすな。
   明日なすべきことの準備を今ととのえよ。
   昨日のことを思い煩うな。

   今時々刻々自己の完全なる生命を生ききれ。
   未来は今日の想念の影である。
   過去の暗黒は今光で照らせば光明に化するのである。

   今を生きないものは永遠に生きることはできないのである。

   肉体のことに思い煩うな。
   今生きよというのは今魂のことを生きよということである。

   イエスは神の国と神の国の義を求めよ、
   その余のものは汝らに加えらるべしと教えたのである。

   自分の生命を時々刻々神にささげたるものとしなければならない。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

        <感謝合掌 平成28年9月28日 頓首再拝>

今この瞬間を楽しむ - 伝統

2016/10/13 (Thu) 04:23:28

      *「お金と人を引き寄せる50の法則」千田琢也・著(P138~141)より

将来、楽をするために今を我慢するのではなく、今この瞬間を楽しむ。


意外に知られていないのが、
お金持ちには苦労に苦労を重ねて成功した人はとても少ないということだ。

雑誌やテレビのインタビューでは、
「苦節40年」「私のどん底時代」という企画が組まれることが多い。
なぜそうした企画がウケるのかというと、貧乏人が喜ぶからだ。

一時的に自分たちとお金持ちが、同じステージに立っているよう
錯覚させることによって、発行部数や視聴率が伸びるのだ。

中にでっち上げを真に受けて涙を浮かべながら心酔してくれる貧乏人もいる。
心酔した多くの貧乏人たちは成功者のファンになって、
なけなしのお金をはたいて成功者のサービスを受ける。

だからお金持ちはますます富み、貧乏人はますます貧しくなっていくのだ。
価値観は人それぞれだし、貧乏人のままでいいというのならそれで構わない。

もしあなたがお金持ちコースを歩みたいのであれば、
将来、楽をするために今我慢するという考えを捨てることだ。

今我慢し続けても、将来は楽にはならない。
今我慢し続けると、感覚が麻痺してきて我慢することに慣れてしまい、
棺桶に入るまで我慢の人生を歩まなければならなくなる。

その証拠に学生時代のあなたは、
毎日すし詰めの満員電車で通勤しているサラリーマンたちを見て、
「よくこんな人生にたえられるなぁ」と感心したはずだ。

ところがサラリーマンになった今はどうだろう。
あたりまえのように毎朝通勤電車に乗って、
あたりまえのように上司やお客さまにペコペコしているはずだ。


お金持ちコースを歩むなら、今この瞬間を楽しむことだ。

今この瞬間を楽しむことが、明日を楽しむことに繋がる。
たとえサラリーマンでも、今この瞬間を楽しむことは可能だ。

すべての仕事の中に人生を見つけて、自分で遣り甲斐を見出していくのだ。

今この瞬間を楽しんだ人が、明日も楽しむことができ、将来伸びていくのだ。
(出世、成功、富豪・・・)

  《苦労に苦労を重ねてお金持ちになれるわけではない。
   今この瞬間を楽しんで、人生の遣り甲斐を見つけ出せ! 》

             <感謝合掌 平成28年10月13日 頓首再拝>

今の一瞬に全生命をかける - 伝統

2016/10/25 (Tue) 04:20:25

《時間を精確に実行せよ》

         *『 生長の家 』(昭和24年8月21日の法語)より

   運命をよくする要素としての熟慮断行の次に来るものは、
   時間の正確さということである。

   今の一瞬に全生命をかけることが必要である。

   時間が不正確でのんべんだらりとしている生活は
   能率が上がらないし、従って又成果が得られないのである。

   5分間の遅刻が大勢を決することがある。
   5分間以前には無事に通れた踏切を
   5分後に通ると汽車に轢(ひ)かれることもある。

   今良いことも一分後には悪いこともあるのである。


   http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12832008.html

             <感謝合掌 平成28年10月25日 頓首再拝>

”いまこの瞬間”だけに集中しなさい - 伝統

2016/11/07 (Mon) 03:20:06

      *「「成功」のルール」オグ・マンディーノ・著(P157~159)より抜粋

(1)《心のなかからクモの巣を取り除きなさい。》

  ①心は特別な領域だ。
   そこでは、地獄から天国を創り出すことも、
   天国から地獄を創り出すこともできる。

  ②あなたはなぜ、不幸な記憶の断片(亡くした友人、失敗したこと、
   傷つけられた言葉、恨み、紛失したお金、悲しみ、不達だった目標、
   失敗した野心、裏切られた忠誠心・・・)を
   価値あるもののようにもちつづけているのか。

  ③長年心のなかに埋め込んできた、過去につながる悲劇の糸を一掃しなさい。
   そうでなければ、それがしだいに膨れあがり、やがてあなたを
   窒息させてしまうだろう。


(2)《忘れる能力は、悪ではなく美徳である。》

  ①過去のものは、これ以上あなたを傷つけることなないことを知ることが必要だ。

  ②明日についても、太陽がふたたび東から昇るまでは
   何も手の打ちようがないと信じる必要がある。


(3)《あなたの手元にあって、あなたが好きなようにできるのは、
   ”いまこの瞬間”だけなのである。》

  ①明日について心配することが、今日という日を曇らせるのを
   許してはならない。まだ起こってもいない悪しきことを心配するほど、
   愚かなことはない。

  ②起こらないかもしれないことを心配して、
   時間を無駄にしてはならない。

   ”いまこの瞬間”だけに集中しなさい。

   不幸なことが起こるかもしれないと心配する人は、
   実際にそうなったときには、二度苦しむことになる。

  ③過去を忘れ、未来を神にゆだねなさい。

   神はあなたよりはるかに有能なのだから。

             <感謝合掌 平成28年11月7日 頓首再拝>

人生は時々刻々の 「 今 」 が 常に機会である - 伝統

2016/11/20 (Sun) 03:27:27


         *『 生長の家 』(昭和23年9月5日の法語)より

   人間は老衰の感じを起こしてはならない。
   生命は永遠に老いないのであるから、
   何歳になったから もう自分は駄目だなどと考えてはならない。

   「 老い 」 は心によって刻まれるのであって、
   歳月によって刻まれるのではない。

   人生には老熟と云うことはあっても、老衰すると云うことはない。

   過去の悲しみや、失敗をいつまでもクヨクヨ思ってはならない。
   過去の栄華をいつまでも回想して、
   もう再びそのような機会は来ないなどと悲観してはならない。

   人生には時々刻々の 「 今 」 が 常に機会である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

             <感謝合掌 平成28年11月20日 頓首再拝>

「いま、ここ」はすべてがかなう交差点 - 伝統

2016/12/06 (Tue) 04:13:02


        *「こうすれば、夢はあっさりかないます!」はせくら みゆき・著
            (P90~96) より

自分をとりまく世界は、過去や現在に関係なく、いつでも変えられるのです。
次のどの世界を選ぶか、どの世界が立ち現れるかは、つねに自分が決めています。

そして、その世界をもっとも変えやすいのが(新しい世界を選びやすいのが)、
「いま、ここ」です。

「いま、ここ」はあらゆる可能性が開放系になります。
「いま、ここ」は360度の可能性が手に入る「ゼロポイント地点」、
《どんな世界も選び放題の可能性の交差点が、「いま、ここ」なのです》。

過去でも未来でもない「いま、ここ」を意識すると
いったん、自分がゼロ化され、過去にも未来にもこだわらない
新しい世界を選べるのです。


このときの脳内の動きを少しイメージしてみましょう。

脳内の大脳皮質には140億個の神経細胞があるといわれています。
その神経細胞間を電気信号が駆け巡ることで、
からだに指令を出したり、モノを考えたりしています。

ところで、この神経細胞間には、わずかな隙間が空いていて、
電気信号はその隙間をジャンプしながら伝わっていきます。

「油っぽいものを食べると太る」「小さな運を使ってしまうと、
大きな運を逃す」など、人それぞれ思考回路の癖をもっています。
「ああなると、こうなる」「ああすれば、こうなる」などのように。

でも「いま、ここ」に戻るとそれがゼロ化されます。
神経細胞間のいつもの電気信号の流れがいったん止まるのです。
そして、情報伝達物質がいつもと違う神経細胞につながる可能性があります。
すると、新しい現実がパッと見えるのです。

(中略~ストレスを例にして)


かんたんすぎる、「いま、ここ」に戻るための方法

(1)(著者がやっている方法として)
   「いま、ここ」から心が離れているときというのは、目が三角になって、
   眉間に皺が寄って、呼吸が浅くなっているときが多い。

   そんなとき、「唇には微笑みを、まなざしには愛を」と
   言って、「いま、ここ」を意識する。
   すると、次の瞬間見える世界が変わります。

(2)もっとかんたんにできる方法としては、
   心のなかでふと「いま、ここ」と思うだけです。

   このとき、気持ちがざわめいてしまうときには、
   次の呼吸法を試してみてください。

  ①息を全部吐き切ってからゆっくり息を吸います。
   このとき「いま」と心で唱え、いまこの瞬間を意識します。

   イメージとしては、いまに集中しながら、
   自分のなかに中心軸を立てるような感じです。

  ②次に息を吐きながら「ここ」と言い、中心軸をもとに、
   自分のからだとまわりの環境を意識して、
   空間のなかにいる「われ」を意識します。

  ③再び息をゆっくり吸って「われ」と言い、
   自分のからだのぬくもりを意識します。

   両腕を交差したり、手を重ねてぬくもりを感じてみてもいいでしょう。

  ④最後に息を吐きながら「光」と言い、身体感覚の内側にある
   内部的自己の光が、外に向かってさんさんと輝き溢れる
   イメージをします。


   このワークをやった後に静かに目を開けると、目の前に
   繰り広げられているすべてのものが愛(いと)おしく感じられて
   くると思います。

(3)3つ目の方法として、笑うことです。

  ①純粋に笑うことはいまを生きていないとできないですね。
   子どもは1日平均400回笑うそうです。
   子どもがいかにいまを生きているかがわかります。

   それに比べて、大人が1日に笑う回数は平均6回なのだそう。
   平均なので、1日に1回も笑わない人もおそらく多いでしょう。

  ②おすすめしたいのが、
   「これを見れば思わず笑ってしまう」というコンテンツを
   見つけておくこと。

   お笑いの映像でも、コメディ映画でも、マンガでも何でもよい。

   そして気持ちが落ち込んだときや、どうしてよいかわからないときに
   それを見て思いきり笑う。

   笑ったあとには、それまでと違う現象が見えるでしょう。

             <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>

永遠の今を生きる日 - 伝統

2016/12/08 (Thu) 03:24:31


           *「光明道中記」(12月8日)より

 【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。
太陽の前の星のようなものである。

《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、ただ権力の増大や、名誉の高揚や、
自己の勢力範囲の拡大のために目指されたる成功は、その成功の範囲が如何に
大きかろうとも、宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。

では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。
外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のためにその仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、それは随伴現象に過ぎない。

             <感謝合掌 平成28年12月8日 頓首再拝>

「今」の瞬刻を生きる日 - 伝統

2016/12/18 (Sun) 04:47:44


           *「光明道中記」(12月18日)より

【尊敬されたい者は、ひとを尊敬せよ。世界は正札(しょうふだ)であって掛引きはない。
 支払っただけのものが自分に返って来る。(『生命の實相』第七巻)】
 
過ぎ去った花やかさを追うこと勿れ、
未来はそれよりも一層華やかなる運命が待っているであろう。

過ぎ去った悲しみを喞(かこ)つこと勿れ、それは既に無きものなのである。

犬は良人に分かれても、もうそんな良人を懐かしがらないし、自分の生んだ子を、
一匹、一匹と他の人に与えられても、もう明日は別離の悲しみを忘れてしまった
如くに見えるのである。

しかしこれは犬が諦(あきら)めが好いからでもなく、
犬が過去の好さをいつまでも追うことの愚かさを悟ったからでもない。
また過去は「既に《ない》」と達観したからでもない。
犬はその心の感じが人間ほどに発達せず、人間ほどに鋭感(デリケート)で
ないからである。

私が、人間に対して、過去を追うなと教えるのは、
人間に対して犬の如き低位の感覚度になれと言うのではないのである。

人間は過去も懐(おも)い、未来も想いめぐらし、痛みも感じ、苦しさも感ずるだけの
デリケ-トな心の琴線を有(も)ちながら、それを《感じ得ない》のではなく、
感じ得るにも拘(かかわ)らず、意識的努力によって、感ずべき波と、
感じてはならない波とを区別して、それを避け得る。

鈍感なのではなく、鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する。

             <感謝合掌 平成28年12月18日 頓首再拝>

【さっさとスタート位置について走り出す】 - 伝統

2017/01/03 (Tue) 04:29:56


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年11月28日)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   長い人生の中には、無から始めたほうがいい場合が何度かあります。

   たとえば、サラリーマンの人ならば、左遷されることもあるでしょう。
   左遷されて喜ぶ人間はいません。
   思い悩むのが普通です。

   そんなときは、無から始めて、
   「今日、この会社に入ったんだ」と思えばいいのです。

   でも、そう思っても、実際は知識もあるし、経験もある。
   「今日、この会社に入ったんだ」という気持ちで、
   その知識と経験を活用すれば、その問題は何とか乗り越えていけるものです。


   また、会社にいると、会社の方針が急に変わることもあります。

   そんなとき、ほとんどの人は、
   「この前言っていたことと違うじゃないか」
   と思い悩むでしょう。

   でも、そんなことに悩んだり、不満を言う時間はないのです。

   自分は今日からこの会社に入ったんだと思って、
   さっさとスタート位置について走り出せば、何のことはありません。

   昔のことを引きずって、アーダ、コーダと言っても、
   過ぎた時間は戻ってくることはありません。

   思い切って、無から始めてごらんなさい。

        <『変な人が書いた成功法則』講談社+α文庫>

               ・・・

多くの人は、何か問題があったとき、それに悩み、苦しみ、考え込んでしまい、
時間がどんどん過ぎ、次のスタートが遅れてしまう。

会社の赤字部門においても、あるところまでいって「もう、これまで」と思ったら、
潔くその部門を切り、損を出し、新たなスタートをきる。

人生においてもそれは同じ。


「昔はこうだったのに」、「こんなはずじゃなかった」、
「なぜ自分だけがこんな目にあわなければならないんだ」、
「あいつの部下になるなんて」…

などと、文句を言っているひまはない。


困難なことも、失敗も、すべては神様からの試験。

どう動くが問われている。

次のスタートが早ければ早いほど、立ち直りも早くなる。

それとも、ウジウジと過去の不幸や不運を嘆き悲しんで、残りの人生を生きるのか。


「さっさとスタート位置について走り出す」

前を向いて、新たなスタートをきりたい。

            <感謝合掌 平成29年1月3日 頓首再拝>

《熱意を以て事に臨む日》 - 伝統

2017/01/15 (Sun) 04:12:53


          *「生長の家」(昭和16年10月22日の法語)より

   ドーヴァー海峡を越える弾丸を飛ばす長距離砲には、
   それだけ優秀な爆発力ある火薬を必要とするのである。
   形の弾丸は、火薬に眼に見えない爆発力に支えられて
   長距離を飛ぶのである。

   吾等は偉大な仕事をするには、
   内部に偉大なる爆発力を必要とするのである。

   吾々は燃えなければならない。
   先ず内に燃える力乏しきことを恥じよ。

   而して何事にも燃える熱意を持て。
   熱意なき者は人を惹きつける力乏しきのである。

   太陽は大きく燃えているから、周囲の流星を惹き着けて、
   更に大きく燃えて冷めることがないのである。

   自分ひとりでは、熱は冷めやすいのである。
   熱意を以て多くの同志と倶に燃えよ。
   次第次第に石炭は放り込まれる機関の窯のように燃えよ。

   燃えるのは力である。
   燃えるものは動く。
   燃えるものは走る。

   燃える動力で多くの列車を引摺って走るのである。
   燃えよ、燃えよ、燃えること少なきを恥よ。
   燃えるところに人を引摺って行く力が出るのである。

   人のことを羨む時間に、自分の成すべきことを成せ。
   機会は常にあるのである。
   自分の成すべきことを成しつつある『今』が機会なのである。

   『今』が久遠につながっている。
   『今』の他に『久遠』はない。
   『今』生きることが『久遠』を生きることになる。

   諸君は『今』燃えよ。国家の為に今燃えよ。


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            <感謝合掌 平成29年1月15日 頓首再拝>

今を楽しむ力とは、即行動の力 - 伝統

2017/01/28 (Sat) 04:11:17


         *『笑う人には福来たる 「幸せ」が集まってくる5つの習慣』
           高橋恵・著(P30~31)より

未来は未来、どれだけ考えたって、この世では何が起きるかわかりませんし、
過去は過去。起きてしまった事実は変えることができません。

けれど、「今日」という日だけは、自分自身で作り出せる時間です。

「今、何をすべきか」

今しかない時間を全力で生きることが何よりも大切です。

頭ばかり使っていると、あれこれ心配になってきて、判断や決断が鈍ります。

考えるよりも、「言ってみる、行ってみる、やってみる」

やりたいことは「やりたい」と言ってみる。
行きたいところがあれば実際に足を運んで行ってみる。

やるかどうか迷っていることは、とりあえずやってみる。

この前向きなアクションが、結果的に福を呼びことにつながってきます。

停滞感を感じるときは、明るく、考えすぎず、前を見て、自分の人生を
じっくりと楽しむことを思い出してみてほしいのです。

             <感謝合掌 平成29年1月28日 頓首再拝>

《「 今 」 を使い切るようにせよ》 - 伝統

2017/02/12 (Sun) 04:32:12


          *『 生長の家 』(昭和24年9月5日の法語)より

   大器晩成といわれる通り、多くの天才は必ずしも早く発現しないのである。

   樟(くす)の大木は 数千年かかって驚くべき巨樹となるが、
   その代り弱い葦(あし)のようには、
   一年の中(うち)に大人になってしまわないのである。

   人も同じように 今発達しないからといって
   歎(なげ)くにはあたらないのである。

   今もてる能力を最大限に使っておれば
   その次の能力が伸びてくるのである。

   今与えられたる境遇に於いて、最大のサービスを捧(ささ)げておれば、
   次に 尚(なお)一そう大いなる能力が発展し、
   尚一そう自分にとって希望を満足せしめる環境が開かれてくるのである。

   気が短いようなことでは駄目である。
   一つ知ったことを一つ行えば 次の智慧が又生れて来る。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31

             <感謝合掌 平成29年2月12日 頓首再拝>

”ぐずぐず”するな、今、行動せよ! - 伝統

2017/02/19 (Sun) 04:22:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月19日)」より


時間を大切にするということは、《いのち》を大切にするということである。

現象界の《いのち》は時間の流れに展開する。
時間の流れにしたがって《いのち》も過ぎ行く。
時間を大切にしないものは酔生夢死する。

しかしわたしたちは時間を本当に大切にしているだろうか。

時間は眼に見えないものであるから、
そして使わずに置いても消えてゆくものであるから、
ともすれば浪費しがちである。

「使わないことが浪費であって、使えば使うほど増える」という
生長の家の経済学は時間に関してはいっそう真実である。

時間は箱詰にしておいても、瓶詰にしておいても、それは蒸発して消えてしまう。
時間を大切にしようと思って時間時間と考えてもイライラして心が忙しいだけである。

時間を大切にする最も有効なる秘訣は何事もすぐ実行に取りかかるということである。
《せねばならぬ》ことを次に延ばさぬことである。

《せねばならぬ》ことを次へ延ばすことは、行ないの負担を避けるために、
その避けている間中、それは心の負担となっている。
行ないは苦しみでなく、心の負担は苦しみである。

ぐずぐずの習慣ほど愚かしきものはない。

今を行かす生活、その時その場をすぐ生かす生活、具象的今を生かすことが
超時の生命(せいめい)を今生きることになるのである。

「超時の今」を生きる者は常に生きるものである。
ぐずぐずの生活を生きる者は常に死につつあるものである。

               <感謝合掌 平成29年2月19日 頓首再拝>

《過去に低回する心を捨てよ》 - 伝統

2017/03/03 (Fri) 04:51:21


           *『 生長の家 』(昭和23年9月8日の法語)より

   「 昔はあんな事があった、こんな事があった 」 と
   過去の善や繁栄を誇る心は 老衰の徴候である。

   心が過去に執着するようになれば前進が止る。

   過去の善や繁栄を誇るのは
   過去の悪や失敗に いつまでも引っかかって
   嘆いている心よりもましであるが、

   「 今 」 を生きない点に於いて五十歩百歩だ。

   今を生きよ、屹度(きっと)諸君は前進するであろう。

   「 今 」 を生きよと云っても
   「 今 」 の悩みや行き詰りを 人に訴えてはならぬ。

   他の同情を求める心は 失敗に快感を感ずる心であるから失敗を招く。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

               <感謝合掌 平成29年3月3日 頓首再拝>

《『 今 』 は神が生きる唯一の機会である》 - 伝統

2017/03/18 (Sat) 04:51:31


           *『 生長の家 』(昭和24年11月11日の法語)より

   「 今 」は過去と未来とを一点に現在ならしむる所の瞬間である。
   永遠が 今の一点に 流出口(ぐち)を
   見出(みいだ)しつつあるのである。


   今 神が生きる唯一の機会である。

   過去は現在に生き 未来は現在によって生きる。
   どんな過去も無駄なものは一つもなかったのである。

   自分はもう過去のことについて決して悔いない。
   自分はもう過去の事について思い患らわない。

   過去にありしすべてのことよ、
   過去にありしすべての人々よ、
   私は諸君に今お礼をいうのである。

   もう今争いもなく、憎みもなく、
   唯(ただ)感謝と喜(よろこび)と祝福とのみがあるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

               <感謝合掌 平成29年3月18日 頓首再拝>

《「 今 」 の一点に久遠を生きよ》 - 伝統

2017/04/02 (Sun) 03:49:39


          *『 生長の家 』(昭和25年11月1日の法語)より

   年齢のことを思い煩ってはならない。
   年齢は 吾々の生命(いのち)を切り刻む
   歯輪(はぐるま)ではないのである。

   年齢は 自分の心のうちにある。
   吾々が地球上に出現してから何年たったかは、
   外界の問題に過ぎないのである。

   吾々は その外界を毎日新たに自己に摂取し、
   毎日 自己を外界に投影して、新しき生活をいとなむのである。

   常に回転する心棒は 錆びることはないが、
   回転しない心棒は 錆びるのである。

   吾々の生命は常に 「 今 」 の一点に
   「 神の子 」 の無限生命を自覚しつつ 新生するのである。

   かかる人間は 老いることを知らないのである。
   「 今 」 の一点に久遠を生きよ。

               <感謝合掌 平成29年4月2日 頓首再拝>

《精神を『今』に集中する日》 - 伝統

2017/04/22 (Sat) 04:23:11


           *「生長の家」(昭和16年10月20日の法語)より

   善と波長を合わし、心の律(リズム)が本当に清まったならば
   病気と云うものは大抵禦ぎ得るのである。

   大抵の人は今出している力の数倍もの力を内に蔵している
   のであるが、一心不乱になり切らないから、
   折角持ち合わせている偉大の力も出て来ないのである。

   関東大震災のとき、今迄躄のようになって動けなかった
   リョーマチスの患者が、慌てて逃げ出そうとして気がついて見ると、
   既に自分が起って走っていたと云うような実例もある。

   関西の風水害のときには、留守居の足腰の立たない中風患者が、
   滔々と流れ込んだ山海瀟(やまつなみ)の水が床にのぼるのを
   見ると、急に足腰が起って、重い行李をセッセと二階へ担ぎ上げた
   ような実例もある。

   絶体絶命のときになると、今迄よりも数倍の力が出る。
   出るのは、その力が内部にあった証拠であって、吾々が普段にでも
   その力を出そうと‘真に決心すれば’出る筈なのである。

   その力は真に決心すれば出るのであるが、
   普段は真に決心しないのである。

   絶体絶命の時に無限の力は出るのは、
   傍目も振らずに目的物とただ一体になるからである。

   平常(ふだん)の時は余りに吾々は傍目を振り過ぎるのである。
   左顧右眄が多すぎる。あれにも心ひかされ、これにも心惹かされて
   生命力を一処に集中する事が出来ないのである。

   生命力が無いのではない。
   一処に集中しさえすれば力は出るのである。
   ヒットラーが強いのは、国事の他に何も考えていない
   精神集中の力である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

               <感謝合掌 平成29年4月22日 頓首再拝>

《『 今 』 は神が生きる唯一の機会である》 - 伝統

2017/05/08 (Mon) 04:40:08


           *『生長の家』(昭和24年11月11日の法語)より

   「 今 」は過去と未来とを一点に現在ならしむる所の瞬間である。
   永遠が 今の一点に 流出口(ぐち)を
   見出(みいだ)しつつあるのである。


   今 神が生きる唯一の機会である。

   過去は現在に生き 未来は現在によって生きる。
   どんな過去も無駄なものは一つもなかったのである。

   自分はもう過去のことについて決して悔いない。
   自分はもう過去の事について思い患らわない。

   過去にありしすべてのことよ、
   過去にありしすべての人々よ、
   私は諸君に今お礼をいうのである。

   もう今争いもなく、憎みもなく、
   唯(ただ)感謝と喜(よろこび)と祝福とのみがあるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

               <感謝合掌 平成29年5月8日 頓首再拝>

「今」を充分に生きる - 伝統

2017/05/22 (Mon) 03:28:57


         *「生活の智慧365章」(P54)より

家族と倶にあるときには、充分その愛情を表現し交換し愉快に談笑するがよい。

その「今」の生活を、過去や未来の妄想予想などで汚してはならないのである。

「今」を充分に生き、「今」を充分に愉(たの)しく生活し、
その愉(たの)しさの来(きた)る根元なる神に対して感謝するがよい。

仕事をするときには、其の「今」を純一無雑に仕事に集中して、
神が「今」この仕事を為さしめ給うのであると観じ、

「われ今神と偕(とも)にこそ仕事を為す」 と信じ、

その如く念じながら感謝して、仕事を為すがよい。

過ぎ去りたるものを嘆くことなく、来たらんとするものを憂えることなく
「今」をよろこび感謝して生きるとき、その人の生活は幸福であるのである。

               <感謝合掌 平成29年5月22日 頓首再拝>

いまを生きる - 伝統

2017/06/08 (Thu) 04:09:12


          *「Q・次の2つから生きたい人生を選びなさい」 
            ~ハーバードの人生を変える授業 2 (P135~137)より抜粋

     永遠とは、「いま」を織りなしたものである。

              詩人 エミリー・ディキンソン


人生は短いというのに、私たちは「いま」を楽しむより、
「もしも」の状況にとらわれています。

目の前にある穏やかな現実ではなく、
まだ起きていない「仮想未来」のことを考えてしまうのです。

もしもテストができなかったらどうしよう。
もしも昇進できなかったらどうなるだろう。

私たちは「いまここ」を十分に味わうことなく、
詩人のゴールウェイ・キネルの言葉のように
「経験に予想というく暗闘をぬりつけている」のです。

私たちは満足できなかった過去の出来事を繰り返し考えて、
時間を無駄にすることもあります。

たとえば、うまくいかなかった人間関係や計画どおりに進まなかった
プロジェクトをいつまでもくよくよと悩んだりしてしまいます。

しかし過去や未来にとらわれることをやめて「いま」を選び、
充実感にあふれた人生を選択することもできるのです。

(中略~身の回りのものに「いま」と書き、いつもいまを意識できるようにする)

「いま」に集中することで、「いまという一瞬一瞬に可能性と選択肢が
宿っていることに気づける」のです。

「いまここ」に集中してください。

               <感謝合掌 平成29年6月8日 頓首再拝>

今此処が天国 - 伝統

2017/06/24 (Sat) 03:46:37


          *「光明法語」(6月24日)より

誰にでも自己の天国があるのである。
自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受しこれを生かし働かすとき
其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 平成29年6月24日 頓首再拝>

「今」を有難く受け生かす - 伝統

2017/06/25 (Sun) 05:00:46


天国は満ちたる杯(さかずき)の如し

           *「光明法語」(6月25日)より

天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。
静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 平成29年6月25日 頓首再拝>

天国は「今」を生かすにある - 伝統

2017/06/26 (Mon) 03:14:23


           *「光明法語」(6月26日)より

「日々是好日」と云うのは趙州和尚の垂示である。
”Every day is best day in the year ”(毎日毎日が1年中で最も良き日である)
とエマースンは言っている。

達人の言うところ古今東西を通じて同じである。
天国は「今」を生かすとき其処に現前する。

真の幸福は高価な貨幣を支払わずとも得られる。
鳥にとっては樹の枝と空中とが天国であり、魚にとっては海中と藻の間が天国である。
生物それぞれに天国が異なる。

海魚おどって鳥の天国に到らんとして木に昇れば即ち死す。
他(ひと)の華(はな)を美しいと羨んではならぬ。

        <感謝合掌 平成29年6月26日 頓首再拝>

今始める人だけが本当に事物を始めうる - 伝統

2017/06/29 (Thu) 04:49:19


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月29日)より

日記をつけかけてからすでに6カ月間たった。
振り返ってみると、ずいぶんいろいろなことが書いてある。
一度にこれだけのことを書けといっても書けるものではない。

零細の時間を利用して日記つけていると、いつの間にか纏まった感想集ができているのである。
気がついたときに今始める人だけが本当に事物を始めうるのである。
明日から、または来年正月から始めようと思っているような人は結局始めない人であるであろう。

老年で恩給退職になって、経済的にも時間的にも余裕ができるようになったら
『生長の家』を発行しようと思っている間は、『生長の家』は発行できなかったのである。

今、このまま、ここに生命的にも経済的にも無限力があるのだ! 
との自覚で、現象的には余裕のない中から、気がついて即刻始めたのが『生長の家』である。
日記一つつけることが億劫でできないようなことでは、何一つ大事ができないであろう。

           <感謝合掌 平成29年6月29日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2017/07/01 (Sat) 04:26:30


         *「光明法語」(7月1日)より

人ひとたび決意したる以上は、決して退くべからず、「今」すぐ着手すべし。
1分間を争うなり。
今、夏だと思っていても秋が来る。

「今」して宜しき事も1分間後には悪しきことあり。
今踏切を渡れば安全なるに、1分間のちには汽車にひかれることあり。

今日(きょう)すべき事を明日(あす)に延ばすな。
明日には明日の使命がある。

冬に樹の葉落ちるも冬の「今」を生かしているのであって、
決して懶(なま)けているのでも延ばしているのでもない。

着々として春咲くべき花の用意が整うているのである。

           <感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>

「今」の時間を生かせ! - 伝統

2017/07/17 (Mon) 03:56:32


      *『生命の實相』第7巻生活篇(P17より)

「今」の時間は利用しなければすみやかにすぎ去る。
しかしこれを生かして利用するとき無限の価値を生み出すのである。

諸君が朝の1、2時間を生かせば、諸君は数年にして
一つの専門的知識に通暁する大学者となってしまうであろう。

(略)

諸君よ、早朝1時間のとうとさを知れ。
早朝1時間を一つのことの研究または勉強に費やすならば、
遅くともその人は10年にしてその問題の押しも押されもしない
専門家になってしまうのである。

朝の明快な時間1時間があれば、ふつうの書物20ページを、
ゆうゆう味わいながら読むことができるのである。

1年間間には7千ページを読破しうる。
冊数に見積もれば17、8冊は大丈夫読破しうる。
かくして10年間一つの問題に関する所を百七、八十冊も読破しえたら、
その人はその問題の精通家になるまいと思ってもなってしまうのである。

           <感謝合掌 平成29年7月17日 頓首再拝>

今、一変する力がある - 伝統

2017/08/03 (Thu) 04:47:28


          *『希望を叶える365章』(P66)より

あなたが希望を実現し幸福に生活しようと欲せられるならば、
今、今から直ぐ始めることができるのです。

自分の生命(せいめい)が神の生命(せいめい)の自己実現であることを
今直ぐ自覚することなのです。
明日を待たないのです。

今は、一切の過去を背負って此処にあり、
一切の未来を孕んで此処にあるのです。

過去は変ずることができないと思うのは間違いです。
 
樹木は今、一切の過去の糞尿をそのまま一変して
万孕の華を咲かせるではありませんか、

あなたの過去がたとい糞尿のように汚れたものであろうとも
(そんな事はないでしょうが)、
今あなたはそれを美しい花に変化する力を持っているのです。

生命(せいめい)というものは、そのような自己創造の力をもっているのです。
そして今咲く花の中に未来の豊かなる果実を孕んでいるのです。

楽しいかな此の人生、喜ばしきかな此の人生。

           <感謝合掌 平成29年8月3日 頓首再拝>

贈られた「今」という重み - 伝統

2017/08/17 (Thu) 04:30:02


      *「笑って長生き 笑いと長寿の健康科学」昇幹夫・著(P45~47)より

英語でプレゼントという言葉があります。

2つの意味があり、1つは贈り物
もう1つは「今、現在」という意味があります。

神様はすべての人に今現在、
生きているという時間をプレゼントしている、そう解釈できるわけです。

確かなのは今だけ。
過去という字は「過ぎ去ったもの」と書きます。
未来という字は「未だ来たらず」そして、

現在という字は「現に在る」、それがプレゼントです。

(中略)

とてもいい銀行にあなたの口座があって、
毎日8万6400円振り込んでくれます。

当然それを使ってあなたは好きなことをやります。
夕方に2万円残ったとしても、次の日に持ち越すことはできません。
その日のうちにゼロになってしまいます。

でも、次の日にはまた8万6400円振り込んでくれます。

この8万6400という数字は何のことだと思いますか?

1日24時間を秒に直してください。

8万6400秒です。

でも一人ひとり重さが違いますね。

こんなふうにとらえてみましょう。

受験に失敗した子にとって、1年の重さがわかる。

早産して9カ月で赤ちゃんを産んだお母さんにとって、
最後の1カ月がどんなに大事だったかわかる。

1分の差で電車に乗り遅れた。
1秒の差で事故に遭わずにすんだ。
0.1秒の差で金メダルを取り損なった。

それぞれ、重さがちがいます。

それがプレゼントです。

           <感謝合掌 平成29年8月17日 頓首再拝>

「今」を生かせ - 伝統

2017/08/31 (Thu) 04:02:47


        *「青年の書」(P206~207)より

「生長の家」の兄弟よ。
今があなたの時なのだ。

今!
実に今だ!
今のほかに時はない!

兄弟よ。
今あなたに与えられているすべてのことを今断々乎として敢行(かんこう)せよ。
今あなたに可能であると見えることをなんのためらいもなしに今実行せよ。

これが「生長の家」の生き方だ。

そして生命の生長の法則にかなう道だ。


今できることは今できるのであって、ほかの時にできるかどうかはわからない。
今が懸命だ。

今の可能にぶっつかれ、「今」をあなたの思うままに占領せよ。
そこから未来の展望(ながめ)がひらけてくるのだ。

躊躇(ちゅうちょ)したり、グズグズしていてなんになろう。
躊躇逡巡(ちゅうちょしゅんじゅん)は時間を失うばかりだ。
時間を失うことは生命を失うことだ。

今よりもいっそう便宜(べんぎ)なときが来るかもしれぬと思うな。
今が、今与えられている可能に対しては一等便宜な時なのだ。

「機会」という神様は前額(ぜんがく)にだけ髪の毛があって、
後頭部には髪の毛がないと言われている。

「機会」の神様と正面衝突して、その神様の前額の髪をひっ掴(つか)め。
これが生長の秘訣であるのだ。


もっと便宜な機会が来るかもしれぬから、その時にしようなどと思うな。
実際またいっそう便宜な機会が来るかもしれぬ。

しかしいっそう便宜な機会ばかりを待ちのぞんでいる者は、
最善の機会をさえもっと待っていたら
最々善の機会が来るだろうと思って、のがしてしまう。

そんな人には永久に最善の機会は来ないのだ。
だから「今」を全力を出して戦いとれ。
「今」を十分自分のものとせよ。

           <感謝合掌 平成29年8月31日 頓首再拝>

「今」の時点に全過去を光転する鍵がある - 伝統

2017/09/15 (Fri) 04:39:51


        *「青年の書」(P207)より

吾(われ)らが今できる仕事に全力をあげてぶっつかって進むとき、
恐れることはない。
目先にかえって失敗があらわれて来ようとも、
それが何だ。
今が懸命だ。
今の可能にぶっつかれ、
「今」をあなたの思うままに占領せよ。
そこから未来の展望がひらけ、
すべての過去が光と化することが出来るのである。

           <感謝合掌 平成29年9月15日 頓首再拝>

【毎日が命がけ】 - 伝統

2017/10/04 (Wed) 04:31:19


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年09月28日)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   人は何度でも生まれ変われる…。
   私はそう、思っています。
   だから、今世でできないことがあったら、来世でやればいいんです。


   でもやっぱり、今世は一度限りです。
   そんな一度限りの人生を生きる思いを表したのがこの詩です。


   『絶対なる肯定
   絶対なる積極
   いつでもどこでも命がけ』


   人間は生まれたら必ず死にます。

   ということは、生まれた瞬間から人は死というものにどんどん進んでいくんです。

   だから、この原稿を書いている今も、私は命がけで書いているんです。
   つまり、命がかかっているんです。


   温泉に入っているときは、命がけで温泉に入っています。
   勉強しているときでも、命をかけています。

   命というのは時間なんです。

   だから「いつでもどこでも命がけ」というのは、
   その時間をかけているという意味なんだよね。


   それで「絶対なる肯定、絶対なる積極」ってどういう意味ですかっていうと、
   私たちの命はつねに前へ前へと進んでいます。

   必ず一秒一秒前進しているんです。

   だから、ものごとを否定的に捉えようが、捉えまいが、時間は前にしか進みません。

   「肯定的に捉えたら時間が逆戻りしました」っていうのはないからね。

   私たちはつねに前に向かって進むしかありません。
   死に向かって前進しているんです。

   人は横を向きながらでも前進するし。後ろを向きながらでも前進しているわけだよ。


   私たちは、前へ前へと絶対的に進む生きものなんです。

   それが後ろ向いたり、横向いたり、あっち向いたり、下向いたりしている人がいるけど、
   みんなどこを向こうが、前にしか進めません。

   だから、どうせ進むなら
   肯定的に前を向いたほうが安全なんだと、私は思っているんです。

   そして、どんなときでも命がかかっているんだから、
   目の前の人にやさしくして、自分も楽しく生きる。

   それが私の思いであり、覚悟なんです。

    <『地球は「行動の星」だから、動かないと何も始まらないんだよ』サンマーク出版>

               ・・・

仏教では、免れない4つの苦があるという。

それが、「生・老・病・死」。

人は、この世に生まれた刹那(せつな)から、老と死へ向かう旅を始める。
いわば片道切符の列車に乗るようなものだ。

行く先は、老と死。


だから、この瞬間も、死へと向かっている。

つまり、命をかけて毎日を過ごしている。


不平不満、グチ、泣き言、文句を言っている間も、命がかかっている。

仕事をしているときも、食事をしているときも、一杯飲んでいるときも、
テレビをみているときも、だらだらしているときも、すべて命がかかっている。

つまり、毎日が「命がけ」。


しかしながら、ほとんどの人は、いつかこの命がなくなるということを忘れている。

余命を宣告されないと気がつかない。


「どんなときでも命がかかっているんだから、
目の前の人にやさしくして、自分も楽しく生きる」

毎日が命がけ、という気持ちをいつも忘れない人でありたい。

           <感謝合掌 平成29年10月4日 頓首再拝>

《神の生活を今生きよ》 - 伝統

2017/10/19 (Thu) 04:51:23


          *『 生長の家 』(昭和26年2月3日の法語)より

   色々の物質的なもの、肉体的なものを得たならば
   幸福が得られるであろうと思って、その一つを得て見ると、
   暫(しばら)くは喜ばしい気持になれるけれども、
   いつの間にか物足りなくなって他のものを求めたくなる。

   五官の欲望はついにその程度のものであって、
   根本的、十全的な幸福を得ることは出来ないのである。

   本当に完全な飽くことを知らぬ幸福は
   「 神 」 をわがものとすることによってのみ得られるのである。

   神をわがものとすることは、祈りによって神の叡智と一体となり、
   神の欲したまう如く生き、神の生活をわが生活として、

   神の愛をわが愛とすることである。

    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/4e804d73397f670280b52fcbbe354818

            <感謝合掌 平成29年10月19日 頓首再拝>

”今”を全力投球して生活せよ - 伝統

2017/11/04 (Sat) 03:37:57


         *「如意自在の生活365章」(P230~231)より

常に”今”の中に生きるがよい。
”今”の中には常に完成があるのである。

その時点において「実相」の完全さ現象化されて
”無限の美”を表現することになるのである。

「ここに神の無量寿の生命が実現しつつある。
それがわたしの生活である。

ここに神の無限の智慧が展開しつつある。
それがわたしの生活である。

ここに神の無限の愛が実現しつつある。
それがわたしの生活である」

 ―― かく念じて”今”を全力投球して生きるのである。

”今”の中に、そして”全力”の中に実相の美が噴出するのである。

            <感謝合掌 平成29年11月4日 頓首再拝>

【念を込める生き方】 - 伝統

2017/11/19 (Sun) 04:36:59


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年10月03日)」より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   「念」についての話をしました。
   「念」という漢字を分解すると、「今」と「心」に分かれます。

   私たちは、過ぎてしまって取り戻すことができない現象にクヨクヨし、
   まだ来てもいない未来に対して取り越し苦労をします。

   けれど、もっとも大事なのは「今」です。

   「今」、自分の目の前に存在するひとつひとつ、
   一人ひとりを大事にするのが「今」の「心」、
   すなわち「念をいれる」ということのようです。


   そんな話をした2ヵ月後、私のもとに1通の手紙が届きました。

   おおよそ、次のような趣旨でした。

   「結婚して数年経つが、夫の両親と意見や価値観が合わないと感じていました。
   そんなとき、『念』についての話を聞きました。

   そこで、夕食をつくるときに、『念』を入れてみることにしました。

   『このご飯を食べる人が健康で元気で幸せになりますように。
   やさしい笑顔になりますように』と、『念』を込めながら料理をつくりました。

   食事を終え、食器を洗っていると、ポンポンと肩を叩かれました。

   振り返ると姑(しゅうとめ)でした。

   怒られるのではないかと身構えると、
   『今日の夕食、おいしかったわよ』という言葉が耳に届きました。

   今までは一度も『おいしかった』と言われたことはなかったのです。

   その日を境に、3人の関係は信じられないほど好転しました。

   夫の両親のことを私は誤解していたのかもしれない。

   私が抱いていた『なんとなく嫌だ』『気が合わない』という気持ちが
   溝をつくっていたのかもしれないと思うようになりました。

   『念を入れる』という実験は、信じられないほどの結果を示しました。

   『念』や『気』の存在を確信すると同時に、
   今まで気を入れずに料理をしてきた自分を反省しました」


   「『気』なんて気のせいだ」「『気』なんて精神論だ」と言う人もいるでしょうが、
   今ここで、「気」の存在を「科学的」に「あるか、ないか」論じるつもりはありません。

   注目したいのは、「好ましい人間関係」でなかったものが、
   「気」あるいは「念」を入れたことで(そういう気持ちで料理をつくったことで)
   好ましい状態に変わったという「実例があった」ということです。

   「気」があるか、ないかを証明することよりも、
   「こうすると、こうなるようだ」という「方程式」を発見できたことのほうが
   重要だと思います。


   26年間アトピーで悩んでいた女性は、半年前からお茶を飲む前に、
   「私の細胞を正常にしてくださって、ありがとうございます」と
   声を出すようにしたそうです。

   すると2週間で湿疹が消え、1ヵ月で治ったと聞きました。

   ありとあらゆる治療をして、それでも治らなかったアトピーが、
   飲みものを飲むときに「お礼(感謝)」の気持ちを込めるようにした結果、
   治ったというのです。


   「気」や「念」はどうも存在するらしい。

   しかも、「気」や「念」は、「人の体に入るもの」(食べもの、飲みもの)に対して
   強く、顕著に効果を示すらしいのです。

   すべてが「気」や「念」で解決するわけではないでしょうが、
   やったことがないのであれば、実験してみると、
   とても楽しい結果が待っているかもしれません。

         <『ありがとうの魔法』ダイヤモンド社>

              ・・・

小林正観さんは『22世紀への伝言』(廣済堂出版)の中で、こんなことを書いている。

『ノートルダム清心学園の理事長をされていて、多くの素晴らしい本をお書きになった、
渡邉和子さんが修道会にいたときのことです。

食事の準備のために、食卓にお皿を配っていた渡辺和子さんに、
あるシスターが寄ってきて訊ねたそうです。

「あなたは今、何を考えながらお皿を配っていますか?」渡辺和子さんは戸惑いつつ、
「いえ、何も考えていません」と答えました。

そのときシスターは、
「あなたは時間を無駄にしています。
なぜ、このお皿を使う人の幸せを祈りながら配らないのですか。
この世に雑用という仕事はないのですよ」

そう教えてくれたというのです』


料理を作るだけではなく、料理を運ぶときも『念』を入れることはできる。

たとえば、車に乗る時も、
「今日もスムーズに運転できありがとう」と、車に『念』を入れる。

あるいは、会社に着いたら、
「今日も一日楽しく有意義な時間が過ごすことができ感謝します」と、
会社に『念』を入れる。

また、野球のイチロー選手のように、バットやグローブを大事に扱い、
「いつもありがとう」と、道具に『念』を入れる。


何かをするとき、誰かの幸せを祈ったり、感謝したり…

『念』を込める生き方をしてみたい。

            <感謝合掌 平成29年11月19日 頓首再拝>

今、時々刻々、心を練ること - 伝統

2017/11/29 (Wed) 03:15:44


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月29日)より

人間の一生涯の時間を平均35万時間だと計算した人がある。

フランクリンは

「君は自己の生命(せいめい)を愛するか。
然らば、けっして時間を浪費してはならない。
なぜなら時間こそ君の生命(せいめい)が造られている実質であるから」

と言ったということである。

時間の貴重さは、『生命の實相』の生活篇の第一章にも書かれていることであって、
空費されたる時間は再び取り返すことができないのである。

時間を空費する者は時間を殺しつつあるのであり、
時間を殺しつつある者は自分の生命を殺しつつあるのである。

無駄に過ごされる時間に、何が行なわれつつあるかといえば、その間(かん)に
人は健康を失いつつあり、若さを失いつつあり、人格がもっと輝き出るはずのものが
失われつつあり、学識経験からもっと広くなるはずのものが失われつつあり、
掴(つか)めばすばらしい幸運がひらけてくる機会を放棄しつつあるのである。

機会なしと言うことなかれ、心さとき人々にとっては時々刻々が機会であり、
時々刻々の機会に心の練(ね)れていないものは、画期的な大機会が来たときに、
それを迅速に掴むことができないで、あたら、見逃してしまうのである。

これを大音楽家ハイドンの例に見よ、彼は貧しき馭者(ぎょしゃ)の家に生まれ、
ある音楽教師の下(もと)に走り使いをする小僧として雇われたのである。
しかし彼はその間(あいだ)にも時間を無駄にしないで音楽の知識を吸収する
につとめたのである。

彼の外見的な不幸はなおつづいた。
彼はウィンナ(=ウィーン)で理髪小僧になったのであるが、
その間(あいだ)にも彼は音楽の勉強と、自己改造と機会を捉えることに
時間を空費することはなかった。

彼はある日店に来た市の有力者の靴が埃によごれているのを見て
その靴をただ深切の気持ちで磨いてあげたのが機会となって、
その人と知合いになり、そこに機会が掴まれたのである。

1798年この憐れなる少年の作曲「天地創造」が楽壇に紹介されるや、
永遠に沈まない太陽の光のような華やかな讃嘆の声にとりまかれたのである。

彼はかくて世界的音楽家となり、皇帝、皇后と食事をともにし、
王子たちに取り巻かれる貴族のごとき生活を送るにいたったのであるが、

この貧苦と貧乏のうちで時間を空費することなく作曲された
「天地創造」こそは彼の全生涯八百有余の作曲のうち最も大なるものだ
と言われているのは何を語るであろうか。

皇帝と食事をともにする栄誉も世界的大作曲家としての栄誉も
貧しき「無(な)き時間」のうちに自己訓練して得た成果であるということである。

ローマは一日にして成らず、
最大の栄誉は「無(な)き時間」を活かして
自己訓練するところから得られるのである。

         <感謝合掌 平成29年11月29日 頓首再拝>

永遠の今を生きる - 伝統

2017/12/08 (Fri) 03:52:26


           *「光明道中記」(12月8日永遠の今を生きる日)より

 【今日いちにち心乱さず神性の自覚に生きよ。(『生命の實相』第十二巻)】

人間の成功の程度は形の大きさではないのである。
「宇宙の《いのち》」を今生きているとき、
「今」の瞬刻に永遠無量の《いのち》を生きているのである。

永遠無量の《いのち》を生きることに比ぶれば、形や大いさによって計られる成功は、
どんな大なる成功であろうとも取るに足りない。
太陽の前の星のようなものである。

《今》の瞬間に永遠の《いのち》を生きようとせず、ただ権力の増大や、名誉の高揚や、
自己の勢力範囲の拡大のために目指されたる成功は、その成功の範囲が如何に
大きかろうとも、宇宙大にくらぶれば、いと小さきものである。

では今の瞬刻に永遠の《いのち》を生きるにはどうすべきか。
外面的働きから見れば同じ仕事をしているかも知れない。
併し、内容が更正(うまれかわ)らなければならないのである。

その仕事の動機が自己拡大のためではなく、何らか相対的な対抗気分によるからでなく、
自己の権力増大のためではなく、ただ神への献身のために、
人類相愛の無我奉仕のためにその仕事が遂行されねばならないのである。

かかる無我奉仕にはおのずから外的成功が伴うが、それは随伴現象に過ぎない。

         <感謝合掌 平成29年12月8日 頓首再拝>

過去を追うこと勿れとは - 伝統

2017/12/18 (Mon) 03:38:15


          *「光明道中記」(12月18日「今」の瞬刻を生きる日)より

【尊敬されたい者は、ひとを尊敬せよ。
 世界は正札(しょうふだ)であって掛引きはない。
 支払っただけのものが自分に返って来る。(『生命の實相』第七巻)】
 
過ぎ去った花やかさを追うこと勿れ、
未来はそれよりも一層華やかなる運命が待っているであろう。

過ぎ去った悲しみを喞(かこ)つこと勿れ、それは既に無きものなのである。

犬は良人に分かれても、もうそんな良人を懐かしがらないし、
自分の生んだ子を、一匹、一匹と他の人に与えられても、
もう明日は別離の悲しみを忘れてしまった如くに見えるのである。

しかしこれは犬が諦(あきら)めが好いからでもなく、
犬が過去の好さをいつまでも追うことの愚かさを悟ったからでもない。
また過去は「既に《ない》」と達観したからでもない。
犬はその心の感じが人間ほどに発達せず、人間ほどに鋭感(デリケート)で
ないからである。

私が、人間に対して、過去を追うなと教えるのは、
人間に対して犬の如き低位の感覚度になれと言うのではないのである。

人間は過去も懐(おも)い、未来も想いめぐらし、
痛みも感じ、苦しさも感ずるだけの
デリケ-トな心の琴線を有(も)ちながら、それを《感じ得ない》のではなく、
感じ得るにも拘(かかわ)らず、意識的努力によって、感ずべき波と、
感じてはならない波とを区別して、それを避け得る。

鈍感なのではなく、鋭感であって、鋭感に支配されず、鋭感を支配する。

         <感謝合掌 平成29年12月18日 頓首再拝>

「今」天地一新したのである - 伝統

2018/01/02 (Tue) 04:23:41


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月2日)より

すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。
「今」は常に生きている。「今」の中にはあらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。
「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き暴(さら)されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人生である。

         <感謝合掌 平成30年1月2日 頓首再拝>

今この時間を宝として生かす - 伝統

2018/01/17 (Wed) 03:50:44

      *「たった一度の人生を悔いなく生きるために大切なこと」
         青山 俊董・著(P144~145)より

参禅会に来ている2人の男性の話

A氏は現役で多忙の中をやりくりしては参禅にいらっしゃっている。
B氏は退職して暇をかこちながら、暇つぶしの一つのような具合に
参禅に来ておられる。

或る日、しみじみとB氏がA氏に向かっていった。

「仕事のあるうちが花ですよ。休みがうれしいのも仕事に追われているときの
ことで、私のように1年中休みの者にとっては、もう休みなどありませんよ。
どうやって今日一日を過ごすか、どうやって仕事を見つけるかを苦労してますよ」

人間というものは身勝手なもので、仕事に追われているときは、
暇だといいなと思い、暇になると仕事があるといいなと思う。

いつも他人を見てうらやましがり、どんな状態にあっても、
そこに落ちつくということがなかなかできない。

忙しく仕事ができるときは仕事ができてありがたい、
がんばらしてもらいましょうと思い、

仕事から解放されて百パーセント自分の時間になったら、よし この時間、
どう宝として生かして使うか、と はりきることができるとよいのだが。

         <感謝合掌 平成30年1月17日 頓首再拝>

今、神の自己実現であることを自覚すること - 伝統

2018/01/31 (Wed) 04:02:50


         *『希望を叶える365章』(P66)より

楽しきかな人生

あなたが希望を実現し幸福に生活しようと欲せられるならば、
今、今から直ぐ始めることができるのです。

自分の生命(せいめい)が神の生命(せいめい)の
自己実現であることを今直ぐ自覚することなのです。
明日を待たないのです。

今は、一切の過去を背負って此処にあり、
一切の未来を孕んで此処にあるのです。

過去は変ずることができないと思うのは間違いです。
 

樹木は今、一切の過去の糞尿をそのまま一変して
万孕の華を咲かせるではありませんか、
あなたの過去がたとい糞尿のように汚れたものであろうとも
(そんな事はないでしょうが)、
今あなたはそれを美しい花に変化する力を持っているのです。

生命(せいめい)というものは、
そのような自己創造の力をもっているのです。
そして今咲く花の中に未来の豊かなる果実を孕んでいるのです。

楽しいかな此の人生、喜ばしきかな此の人生。

         <感謝合掌 平成30年1月31日 頓首再拝>

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