伝統板・第二

2537675
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

実相を観よ(Look into the reality) - 伝統

2016/06/24 (Fri) 04:53:45

《実相を諦観せよ! 》

        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。

「自分の内に摂取する」とは同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、未だかつて憤ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、本来円満完全なる仏身なり」
                               (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。



<関連Web>

光明掲示板・第二「実相は最大の力」
 → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=403


           <感謝合掌 平成28年6月24日 頓首再拝>

罪・病・死は浮雲の陰影、実相は円満完全 - 伝統

2016/07/06 (Wed) 04:28:06



     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月6日>(P8~10)より

罪と病と死とは、畢竟存在せざるものを夢中に描ける妄想にすぎないのである。

われわれが実際に金殿玉楼に錦秋の褥(しとね)を布(し)いて寝ていても、
夢の中で地獄で病気に苦しむ相(すがた)を描こうと思えば描ける。
そして、それを実在の如く感じて苦しむのである。

しかし、夢中にいかに苦しもうとも、それは実在ではないのであって、やはり金殿玉楼に
錦秋を纏うて眠っているということの事実を否定することはできないのである。

それと同じく、罪と病と死とはいかに”ある”かのごとく見えても、
実はここが蓮華蔵国であり、極楽浄土であり、このままここが天国であって、万(よろず)の
よきものが充満している世界であるのだということにまちがいはないのである。

人類よ眼の蔽いを除(と)れ。
なんじらがこの世界に不幸、病気、憂苦充満せりと見るのは肉体の眼をもって見るからである。

『法華経』の如来寿量品の自我掲に「衆生、劫尽きてこの世の焼くると見る時も、わが浄土は
安穏にして天人常に充満せり。諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり・・・わが浄土は壊せざるに、
衆は焼け尽きて諸々の憂怖充満せりと見る」とあるのを、

たいていの仏教者は、「この世界が焼けつきるような時が来ても、心さえ動じなかったら、
心の中には天人が充満しているのもおなじことであり、立派な堂塔伽籃がそびえ立って立派な宝
がいっぱい飾ってあるのも同じようなものだ。

この身は殺されても、心の中に確立された浄土は壊(くだ)くことができない。
釈尊は、衆生たちが焼けつきて阿鼻叫喚の状態を演じていても、いつも花降るような心境に
いられるのだ」というような意味に解釈しているのであるが、これはすこぶる浅い解釈だと
言わなければならないのである。

快川禅師の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」などと言って実際に焼け死んだのも、
「心頭」の浅いところに「火の涼しさ」を弄んでいるからである。

浄土が今ここに厳存しているという事実は、
心頭や心境や、思いつきや、感じなどの浅い問題ではないのである。

厳として今ここに、実相の浄土が存在するのであって、その実相円満完全の表面に、
心頭を滅却したり、心境を一変したり、向下したり、向上したり、劫火が燃えていたり、
原子爆弾が爆発したり、衆生が阿鼻叫喚につつまれていても、
それは玲瓏円月上の浮雲(ふうん)が描く陰影にすぎないのである。

病気もまた、一片の浮雲(ふうん)にすぎない。
三省して自己の実相の円満完全さを見よだ。

         <感謝合掌 平成28年7月6日 頓首再拝>

実相を感ずる - 伝統

2016/07/11 (Mon) 03:14:01

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月11日>(P16~17)より

まのあたり、今、ここに、この身のうちに、神の”いのち”宿りいますを感じ、
神の智慧宿りいますを感じ、神の愛に取り巻かれてあることを感ずる者は幸いである。

しかしそれを感じえない者はどうしたらよいか?

 ―― なぜ彼は感じないのであるか?
 ―― 彼自身が感じないからである。

 ―― どうしたら感じるようになるか?
 ―― 彼自身が感ずるようにすればよいのである。

 ―― 感ずるようにするにはどうしたらよいか?
 ―― 感ずるということは、一つの認識作用であるから、感ずる対象と同じ波を
    こちらが起さねばならぬ。神を感ずるには、神は愛あるから、
    愛の波を自分の内に動かさねばならぬ。

静かに眼を瞑って、
「われはすべてを愛し
すべてはわれを愛す」

と「実相を観ずる歌」の一節を繰り返し念ずるがよい
―― その心のリズムのうちにわれわれは神を感ずることができるのである。

また神は「生命(いのち)」である。
すべてを生かしているのは神の生命(せいめい)であるから、われらが神を自分のうちに感ずる
ためには、すべてを生かす心を起したときに、その心のリズムの中に、その心の波長の上に、
霊感的に感応するところの神を感ずることができるのである。

だから神を心に感じようと思うならば、時々、寸暇を利用して瞑目心を静め、
「実相を観ずる歌」の一節 ――  

  「神は生命(いのち)にして
   我は神の子なれば
   我はすべてを生かし、
   すべては我を生かす」

と心の中に繰り返し繰り返し念ずるならば、「個(ひとり)」と「全体」との
つながりの意識が蘇生(よみがえ)ってきて、神を更に感ずることができるのである。

         <感謝合掌 平成28年7月11日 頓首再拝>

《環境に振廻(ふりまわ)されず 実相を観(み)よ》 - 伝統

2016/07/27 (Wed) 04:41:33


           *『 生長の家 』(昭和26年1月23日の法語)より

   環境や境遇や現象界の諸事情は 常に変転きわまり無きものであって、
   それらの変化する毎(ごと)に心を動揺させていては、
   吾々は心の平和を得ることは出来ないのである。

   真に心の平和を得ようとするならば
   常に円満完全なる 「 実相 」にのみ
   心を振向けなければならないのである。

   そして現象は如何(いか)に移り変るとも、
   完全円満なる 「 実相 」 が 徐々に尚(なお)一層完全に
   表出され出ずる過程であるから、変化する毎に一層よくなる。


   一時は不結果のように見えても 必ずよくなると信じて
   心を動揺させずに、前途に 「 善き状態 」 を想念していれば、

   その想念の創化作用によって、
   悪く見えている事物も結局は よくなって来るのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51


         <感謝合掌 平成28年7月27日 頓首再拝>

《實相円満の相(すがた)を見よ》 - 伝統

2016/07/30 (Sat) 03:19:48


超個人的精神上の観念

           *「光明法語」(7月29日)より

バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。

併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。

そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。

                ・・・

實相円満の相(すがた)を見よ

           *「光明法語」(7月30日)より

この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。

神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。

併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。

一切の現象は、ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。

         <感謝合掌 平成28年7月30日 頓首再拝>

何故(なぜ)迷いが出来るか - 伝統

2016/07/31 (Sun) 03:12:46


           *「光明法語」(7月31日)より

何故、人間が實相の円満その儘の相(すがた)を見得ないのであるか。
それは人間がまだ幼いからである。

幼児は大人のすべての働きが出来ない如く、
神の子である人間も、神の創造の一部しか見る事が出来ない。
心一所(ひとところ)にとどまりて全相を把握する事が出来ない。

よってみだりに想像して、心に別の姿を描く、
その描かれたる観念が、實相(真象)の表面を蔽って、
丁度、満月に雲がかかったように、實相円満の相を晦ます。

これを迷いと言うのである。
軈(やが)て神の子人間の霊魂が向上した時、實相を見るのである。

         <感謝合掌 平成28年7月31日 頓首再拝>

《脚下にしっかりと実相を踏んまえて》 - 伝統

2016/08/12 (Fri) 04:16:05


          *『 生長の家 』(昭和40年3月15日の法語)より

   神想観中には、
   人を観るな。
   事件を観るな。
   外界の一切を見るな。

   現象を観るな。
   実相ばかりを観よ。

   実相を観ずることに徹底せよ。


   而して、観(かん)終りて
   現象界を見、
   人を見、
   事件を見、

   そして内部から催して来る智慧によって外界に向って行動せよ。

   問題があれば、それは自然に解決する行動がとれることになるのである。

   それが「 果実を見てその樹の善悪を知れ。
   その樹が善ければ必ず善き果(み)を結ぶ 」
   ということである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

         <感謝合掌 平成28年8月12日 頓首再拝>

実相十全の恵みを見よ - 伝統

2016/08/23 (Tue) 03:37:43


           *『生命の實相』第6巻聖霊篇下(P13~14)より

「実相」において本当に与えられている神の恵み ―― 「実相」において
本当はすでに受けているわがあらゆる善き物 ―― を認めえないで、現象界に
あらわれた個々の出来事に感謝しているのでは、蟻を探し出して、
象を見のがしているのと同じであります。

それは神様から見れば見当違いの感謝であります。

神様は「お前にはもっとよいものが与えてあるのに、それには感謝しないで、
人間はつまらないことに感謝するものだな」とおっしゃいましょう。

また実際それほどありがたいとも感じないのに、神様を讃美や感謝の言葉で
おだて上げれば、いっそうよき恵みを与え給うであろうと思って、讃美歌を歌ったり、
感謝の祈りを捧げている人もあるようですが、

何もかも知っていられる神様の目から見たら、人間の心情が見え透いて、
「偽善もいい加減にせよ」とおっしゃるでありましょう。

そうしますと、われわれは真に神から歓ばれる感謝を捧げるには、
どうしても神がすでにわれわれに与え給うている十全の実相を明らかに見て、
それに対してありがたさを感じなければならないのであります。

そうでない感謝は見当違いの感謝になるか、偽善者の感謝になるのであります。
 
すでに与えられている「実相」の十全の善さを知ることができない場合に、
われらはただ「神想観」をつとめ修して、実相の十全の善さを観ずるように
つとめることが必要なのであります。

         <感謝合掌 平成28年8月23日 頓首再拝>

《実相は金剛不壊完全である》 - 伝統

2016/09/03 (Sat) 04:12:52


          *『 生長の家 』(昭和26年5月5日の法語)より

   現象は遷(うつ)り変るが、実相は金剛不壊(ふえ)の存在である。
   実相は神によって造られ、
   神によってその存在が保たれているのであるから、

   それが決して肉眼に見えなくとも滅するものではないのである。

   遷り変る現象の不完全さに心を奪われて、
   その奥にある真実在( 実相 )の完全さを見失ってはならない。

   吾々は真実在の完全さを時々見つめるために神想観をするのである。

   即ち 現象の不完全さ(五官の世界)に眼(め)を瞑(と)じて、
   神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、
   無限の歓喜(よろこび)、無限の調和の満つる世界を
   心の眼で凝視するのである。

   凝視が完全であれば 現象にも その完全さが現われる。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

         <感謝合掌 平成28年9月3日 頓首再拝>

葡萄の樹に譬えて“神の子”の実相を悟る祈り - 伝統

2016/09/15 (Thu) 04:52:32


         *「光の泉」(昭和54年新年号・日々読誦毎月真理経)より


イエスは『ヨハネ伝』第十五章に於いて次の如く仰せられているのである。

「我は真(まこと)の葡萄の樹、わが父は農夫なり。
おおよそ我にありて果(み)を結ばぬ枝は、父これを除き、果(み)を結ぶものは、
いよいよ果(み)を結ばせんが為に之を潔(きよ)めたまう。
汝らはすでに潔(きよ)し、わが語りたる言(ことば)に因(よ)りてなり」

これは真理を寓話に由って象徴的に説き給うているのである。
それ故に文字の表現以上にその深い意味を汲みとらねばならないのである。

「天の父」なる神を“農夫”に譬えているのである。
“葡萄の樹”というのは単なる物質的木材たる幹を指すのではなく、
たくさんの果実を生むところの“霊的生命の樹”を象徴するのである。

だから、イエスはみずから“自己”を“ユダヤ人のイエス”なりとは称せられないで、
「我は真(まこと)の葡萄の樹」と称し給うたのである。

イエスは常に我は“真理”なり、“生命”なり、“道”なりと称せられて、
「われは肉体なり」とは仰せられなかったのである。

イエスは“真理”の実現として、神の“生命”の実現として、
“道”の実現としての自己を「真理の葡萄の樹」として説き給うたのである。

「おおよそ我にありて果を結ばぬ枝は、父これを除き」と仰せられたのは、
真理の実現として、また神の生命の実現として、また“道”の実現としての結果を
その人の生活に結実させぬ“枝”に当るところの人間は剪定せられて、
この世から姿を消すことになることを象徴的に説き給うたのである。

イエスは続いて「枝もし樹に居らずば、自ら果を結ぶこと能わぬごとく、
汝らも我に居らずば亦然り」と仰せられた。

日本に於いても“樹”は“神の生命”又は“神の気”(神の樹)の象徴として用いられて、
神を数うるに“一柱”“二柱”などと呼ばれるのである。

「枝もし樹に居らずば」とは
「“枝”すなわち“神の子”たる者が、天の父の“生命の気”を素直に受けなかったならば
果を結ぶことはできない」と説き給うたのであって「汝らも我に居らずば」というのは

“汝らもユダヤ人のイエスに居らずば”という意味ではなく、
汝らも“真の生命の樹”(真理)に因って生活しなければ果を結ぶことはできない
と仰せられたのである。

更に注目すべきは、
「汝らは既に潔(きよ)し、わが語りたる言(ことば)に因りてなり」
とイエスが仰せられていることである。

イエスの仰せられた言(ことば)というのは、
「我は、“真理”なり、“生命”なり、“道”なり――その真理の葡萄の樹の
汝ら(人間)は枝である。即ち既に“神の子”である」という実相直視する真理の言葉である。

この真理の言葉を素直に受けて信ずる者は
「汝等もし我に居り、わが言なんじに居らば何にても望みに随いて求めよ、
然(さ)らば成らん。(ヨハネ伝第十五章七)」の言葉に該当する者なのである。

私はこの言葉に該当する者なのであります。

ありがとうございます。

  (光明掲示板・第二より転写
    http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=280 )

         <感謝合掌 平成28年9月15日 頓首再拝>

実相を把め - 伝統

2016/09/29 (Thu) 03:57:55

実相を把めば苦痛なくして現象人間が実相人間の完全さに速やかに近づくのである

         *『生命の實相』第35巻下化衆生篇(P87~88)より

人間の苦痛、不幸、病気等々は必ずしも不可避のものではないのである。
われらが現象界の縦断面図に捉われず、実相の高所にあがってこれを見おろすとき、
苦痛も不幸も病気等等ももはや《無い》。

不可避に苦難と闘うことによって向上進化する霊魂ももはや《無い》のである。

霊界、現界等は現象界であり、念の投影の世界であるから、
念が変われば霊界および現界におけるわれわれの状態も変わるのである。

わたしは衆人の環視のなかで発した私の実相智の一語によって、
幽冥界にて苦悩する霊魂の苦悩を救ったこともある。
(『生命の實相』第10巻「霊界篇下P144~148)


霊界、現界等における苦痛不幸病気等などは、
決してわれらの進化に不可避のものではないのである。

実相を把めば苦痛なくして現象人間が実相人間の完全さに速やかに近づくのである。

阿弥陀仏に帰命するというのも実相に帰一することである。
キリストを信ずるというのも実相に帰入するということである。

         <感謝合掌 平成28年9月29日 頓首再拝>

実相を観じよう - 伝統

2016/09/30 (Fri) 04:32:17


          *「光明道中記」(9月30日大自在の日)より抜粋

此の「善をしたから救われる」と云うような
自力の判断は恥ずかしくて出来ないのである。

此の世のこと、善と言い悪と言い、
併しそれはただ空言、妄言(たわごと)、実相(まこと)
ではないのである。

ただ念仏 ―― ただ神想観 ―― 
それは如来から廻施(えせ)せられたものであるから、
それのみが真実である。

諸君よ実相を観じよう。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=27 )


           <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>

業に捉われるな、実相を観ぜよ! - 伝統

2016/10/02 (Sun) 06:43:59


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月2日)より

過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。

ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。

過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。

生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに新たなる創造を成しつつあるのである。

過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。

端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。
神想観を励め。

           <感謝合掌 平成28年10月2日 頓首再拝>

瞑想し、實相のみをみよ - 伝統

2016/10/09 (Sun) 03:27:23


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月9日>(P97)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。健康のみを見よ。實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 平成28年10月9日 頓首再拝>

実相は最大の力 - 伝統

2016/10/11 (Tue) 04:00:51


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月11日>(P98)より

実相は最大の力である。
それは「実」であるから、いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。
一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。

われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。

われわれは見せかけの外貌を超えてそこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。
暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。

悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。

善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉にして語れ。
悪を言葉で否定せよ。

           <感謝合掌 平成28年10月11日 頓首再拝>

《実相の円満さを実現するには》 - 伝統

2016/10/24 (Mon) 03:59:28


        *『 生長の家 』(昭和25年9月24日の法語)より

   実相世界の完全円満なる姿を此の世界に実現せんがためには、
   神をあらゆる存在の根源者とみとめなければならない。

   そして神とは無限の生命であり、無限の愛であり、無限の知慧であり、
   神の生命以外には生命はなく、神の生命は完全であるがゆえに、
   人に宿る生命も完全であると云うことを知らなければならないのである。

   如何なる人間の知慧も神の知慧ほど
   すぐれた知慧は存在しないのであるから、

   人間智の思い煩いを捨てて、神の智慧を瞑想し、
   神の智慧の催しに従って無我愛の生活を送るならば、
   実相世界の完全な相(すがた)があらわれて来るのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年10月24日 頓首再拝>

《実相の秩序を祈れ》 - 伝統

2016/11/07 (Mon) 03:45:06


          *『 生長の家 』(昭和23年9月29日の法語)より

   吾々が如何になすべきかに杜(と)まどう時に、

   「 実相の秩序に於いて事物が “ ある ” ように
   どうぞ現象世界に於いてもあらしめ給え 」

   と吾々は祈るべきである。

   これはキリストの教え給うた
    「 み心の天に成るが如く地にも成らせ給え 」 と
   祈る祈りと同じ意味である。


   「 実相の秩序 」 と云うのは
   実相世界 ( 神の国 ) に於いて、
   すべての事物が互に調和して、
   相侵すことなき状態にある秩序である。

   現象の世界に於いては、時としては一人の幸福を得ようとすれば、
   他の者の幸福が侵害されるようなことがあったりする。

   それは 「 実相の秩序 」 が実現しないで、
   我(が)の秩序が顕れるからである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 平成28年11月7日 頓首再拝>

《実相は金剛不壊完全である》 - 伝統

2016/11/21 (Mon) 03:57:14


        *『幸福を招く365章』第11項(P224~225) より

現象は遷(うつ)り変るが、実相は金剛不壊(ふえ)の存在である。

実相は神によって造られ、神によってその存在が保たれているのであるから、
それが決して肉眼に見えなくとも滅するものではないのである。

遷り変る現象の不完全さに心を奪われて、
その奥にある真実在( 実相 )の完全さを見失ってはならない。

吾々は真実在の完全さを時々見つめるために神想観をするのである。

即ち 現象(五官の世界)の不完全さに眼(め)を瞑(と)じて、
神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、無限の歓喜(よろこび)、
無限の調和の満つる世界を心の眼で凝視するのである。

凝視が完全であれば 現象にも その完全さが現われる。

           <感謝合掌 平成28年11月21日 頓首再拝>

現象の奥に実相を見る日 - 伝統

2016/11/27 (Sun) 04:55:50


          *「光明道中記」(11月27日)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。(『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、現象の奥に実相を見出し、それを顕し、
礼拝するための行事が自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。
速力が速いのが好いのではない。眼立つのが好いのではない。数が多いのが好いのではない。
少くも好い。実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

          <感謝合掌 平成28年11月27日 頓首再拝>

現象に捉われず、実相健全の姿を見る - 伝統

2016/12/04 (Sun) 04:41:44


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月4日)より抜粋

人生の行路にはいろいろの迷える人が満ちている。そして苦しんでいるのである。
ある人は病に苦しみ、ある人は経済苦に苦しみ、ある人は家庭不調和に苦しむ。
真の宗教家はかかる人々に面していかなる態度をとるべきであろうか。

彼らと同一水準に降り来たって一緒に同情の涙をかき垂れて号泣すべきであろうか。
それとも物質的な施しを与えて彼らを一時的に救うべきであろうか。

イエスはラザロの死せるを見たとき、同情の涙を流したことが聖書に書かれている。
しかしいつまでも彼は泣いていなかったのである。
「死せるにあらず、寝(い)ねたるなり」と彼は言った。

同情して涙を流すは現象面のことである。
現象面にいつまでもわれわれは執(とら)えられていてはならないのである。

直ちにひるがえって実相健全の姿を見るとき、かえってその相手は復活し救われるのである。

またイエスは病にて脚(あし)の立たぬ病人にただ「起きて床をとり上げて歩め」と言っている
のである。「ああかわいそうに! 」と言って、一緒に倒れふし泣き濡れて動けなくなっている
のではないのである。

すべての人間は神の子であるから、「起きて床を取り上げて歩む力」を持っているのである。
倒れているのは「迷い」の具象化にすぎないのである。「迷い」に同情してはならないのである。

その「迷い」を見ず、「起(た)ちて歩みうる実相」を直視して、
その力を引き出すのが真の宗教家の使命であるのである。

真の愛と「苦痛を倶嘗(ともな)め」とは異なるのである。
苦痛に同悲して相手と一緒に墜落して泥まみれになるのは真の宗教家のつとめではないのである。

          <感謝合掌 平成28年12月4日 頓首再拝>

《実相は仮相ではない》 - 伝統

2016/12/19 (Mon) 04:02:41


        *『 生長の家 』(昭和25年10月6日の法語)より

   善の中に悪はなく、悪の中に善はない。
   生命(いのち)の中に病(悪)はなく、
   病の中に生命(善)はない。

   生命の中には生命のみがあるのである。

   生命の中に死物であるところの物質はない。
   生命の中には、物質(肉体)が腐食する
   と云うような病いはない。

   生命にとっては「物質の腐食」(病)と
   云うようなことは存在しないのである。

   物質肉体は生命(せいめい)でなく、
   生命(人間)は物質ではない。

   実相は仮相ではない、仮相は実相ではない。
   実相の中に仮相はなく、仮相の中に実相はない。


   人間は神の子であり、霊的実在であり、
   未(いま)だ曾(かつ)て病人だと云うこともなく、
   これからも病むと云うことはないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

          <感謝合掌 平成28年12月19日 頓首再拝>

“實相” と “現象” とを混同してはならない - 伝統

2017/01/05 (Thu) 04:13:54


         *『生長の家』(昭和40年新年号)より
 
自己の内にやどる “神” を観、すべての人々の内に宿る “神” を観て、
自己尊敬と他己尊敬の心を起し、万事万物の奥に横たわる “神性” を礼拝し、
その “神性” を生かすように、生かすように生活するとき、
万事は都合よく順調に運ぶようになるのである。

『あの人を “神の子” であると信じていたのに、
裏切られた、これから人を信じてはならない』 などと人は往々にして考えるのであるが、
それは “實相” と “現象” とを混同してしまうから、そんな考えが起るのである。

『信ずる』 というのはその人の生命の實相が神の生命が宿っており、
本来立派な圓萬完全なものであるということである。 

しかし現象を見る時には、その實相の圓萬完全さが
どの程度その人にあらわれているかを見なければならない。 

そしてその不完全を知り、彼が本来の實相たる完全さがあらわれるように
彼の實相を礼拝してあげることが、彼の實相を見ることであり、拝むことである。

若し現象にどの程度實相があらわれているかを見ることが悪いのであれば、
人物考査も美術鑑賞も出来なくなり、現象界の万事の評価もできなくなるのである。 

だから現実に対する真実の評価は、實相の圓萬さを背後に肯定して、
の上にどの程度その實相があらわれているかの批判によって成立っているのである。

『實相の圓萬さ』 が背後になければ、現象の批判も成立たない訳である。

          <感謝合掌 平成29年1月5日 頓首再拝>

《 実相に不調和は存在しない》 - 伝統

2017/01/20 (Fri) 03:25:46


          *『 生長の家 』(昭和24年11月2日の法語)より

   神はすべてである。だから すべては一体である。
   一体であるから すべては調和するほかはないのである。

   不調和なものは 何一つ存在していないのである。
   不調和にもし見えるならば それは私の迷にすぎないのである。

   自分の心の迷を去った時に、凡ゆる事物が
   調和したる状態に現われるのである。

   神は調和であるから、
   吾々もすべての人々と調和しなければならないのである。

   人々と調和しないでいるなら、
   調和の教を説いている生長の家の信徒であると
   名乗りをあげる資格などないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

          <感謝合掌 平成29年1月20日 頓首再拝>

《現象を見るな 実相を見よ》 - 伝統

2017/02/03 (Fri) 05:03:32


        *『幸福を招く365章』第1項(P9~10) より

常によき想念、感情を続けて持っておれば、
あなたの肉体は美しく、逞しく健康でありますが、

常に他(た)を害するような、又、常に取越苦労をしたり、常に人を憎んだり、
恨んだり、他の悪を発見したりする心を持続していますと、

貴方の肉体にはみぐるしい皺(しわ)ができ、或いは生理作用が不調になって、
ついには病気としてあらわれて来るようになるのであります。

キリストは「外見によって相手を判断してはならない」と教えました。

生長の家では現象は《ない》、実相を見よ、

どんな人間でもその実の相(すがた)は「神の子」であるから、
神の子は必ず完全であるとして拝んでおれば、
どんな外見のよくない者でも完全な者になるのであります。

          <感謝合掌 平成29年2月3日 頓首再拝>

《現象の奥の実相をみよ》 - 伝統

2017/02/19 (Sun) 04:37:40


          *『 生長の家 』(昭和25年11月14日の法語)より

   熱が出たときに熱を恐れ、
   喀血(かっけつ)したときに喀血をおそれ、
   盗汗(ねあせ)が出たときに盗汗を恐れているのでは、
   現象に振りまわされているのであって、

   その振り廻される度毎(たびごと)に自然療能力は衰え、
   病気の快復はおくれるのである。

   現象の奥にある実相を見なければならないのである。

   発熱の奥に、喀血の奥に、盗汗の奥に、
   神の摂理 ― 内より治す力 ― が働いていることを感じて
   感謝しなければならぬ。

   発熱は 病菌を死滅せしめ、毒素を焼却する働きがあり、
   喀血および盗汗は 血液の自浄作用である。
   そのたび毎に感謝する者は癒え、その度毎に恐るる者は病気が増悪する。

          <感謝合掌 平成29年2月19日 頓首再拝>

「実相覚」 - 伝統

2017/03/11 (Sat) 04:57:18


          *『善き人生の創造』(P94~95)より

生長の家の実相哲学では暗の方から推論を進めて行かないで、
光を点じて直観的にぱっと「迷いは《ない》」と結論を下してしまうのであります。

これを「実相覚」と云うのであります。
谷口哲学は直観哲学であります。

暗の方から光の方を研究して行ってはならない。
悟りの目を開いて、「人間は神の子だ」、
ただそれだけの光を点せばいいのであります。

そうしたら迷いはない、
迷いが何故現れているのかそんな事は問題にはならないのであります。

暗がどうして現れているかと云うと心に光を点さないから現れているのですから、
心の世界に目を覚まして、「人間は神の子である、神のいのちである、その儘明るいのだ」
それをその儘悟ったらいいのであります。

そしたら此の世界には何も悪いものは一つもない、
悉く神の智慧と愛と生命と供給と調和とが充満しているところの世界である
と云うことがハッキリ分るのであります。

<関連Web:谷口雅春先生に帰りましょう・第一
       「「善き人生の創造」第六章「迷い」は無いと云うこと」
       → http://kaerou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=15457932 >

          <感謝合掌 平成29年3月11日 頓首再拝>

現象を見ず実相の完全を観よ - 伝統

2017/03/13 (Mon) 04:51:32


           *「光明法語」(3月13日)より

何故、光明皇后がらい病患者を愛したまうたように、その膿血(のうけつ)
ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも
吾らは愛することが出来ないか。

それは現象を見るからである。

現象を見れば膿血はきたない。
膿血は愛することは出来ない。
膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。

膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。
そのとき膿血は消えさり、光明輝く實相があらわれる。

人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみ
その人間の神性を本当に愛することが出来るのである。

          <感謝合掌 平成29年3月13日 頓首再拝>

《“ 現象世界 ” と “ 実相世界 ”》 - 伝統

2017/03/26 (Sun) 03:36:47


          *『 生長の家 』(昭和46年10月10日の法語)より

   私は次のような意味を書いた返事を
   書いたのを憶(おも)い出すのである。


   《 法華経の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)に
   “ 衆生、劫(こう)尽きて、大火に焼かるると見る時も、
   我が此土(このど)は安穏(あんのん)にして天人常に充満せり ”

   と釈尊は仰(おお)せられているのでありますが、
   “ 劫(こう)尽きて大火に焼かるると見える此の世 ” は
   無明(むみょう)のあらわす世界であります。


   『 聖道へ』 に於いて、 “ 此の世界は神の創造ではなく
   無明縁起だ ” と書いた時の、「 この世界 」 は “
   劫尽きて大火に焼かるると見える此の世
   ” 即ち “ 現象世界 ” であります。


   そして釈尊が仰せられた
   “ 我が此土は安穏にして 天人常に充満せり ” という世界は、
   “ 神の創造し給える 壊(くだ)けることのない
   常住幸福の実相世界 ” のことであります。


   「 此の世界 」 という語(ことば)は、同じ語(ことば)のようで
   ありますが、その人の自覚の程度に従って、 “ 此の世界 ” と
   いって指す世界の内容が異って来るのであります。 》


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

          <感謝合掌 平成29年3月26日 頓首再拝>

心の眼をひらいて実相を見よ - 伝統

2017/03/27 (Mon) 05:00:12


           *「光明法語」(3月27日)より

「身の燈火(ともしび)は目なり、汝の目ただしくば、全身あかるかん」
(「マタイ伝」第六章二二)
とイエスは言っている。

これは肉体の目ではなく、心の眼、「内の光」である。

心の眼をもって自己内部の実相円満なることを照らし出(い)だせば全身は明るくなり、
健康となるのである。

全身が健康になるばかりでなく環境・境遇が調和し、豊かなる供給が集まり来るのである。

だから心の眼をひらいて
「神の国と神の国の義(ただしき)とを求めよ。
然らば凡てこれらの物は汝らに加えらるべし」
と教え給うたのである。

          <感謝合掌 平成29年3月27日 頓首再拝>

《 實相の完全さのみを観よ 》 - 伝統

2017/04/06 (Thu) 03:35:23


              *「光明法語」(4月6日)より

神の国の完全さを観るためにこそ神想観すべきであって、神想観をしたら、
こんな現実的結果が得られるから神想観をすると云うのであってはならない。

それは”結果想観”であって神想観ではないのである。
結果は心の波の投影であるから、”純粋に”神の国の完全さを観ることが出来れば結局、
現実世界にも其れに相応しい好結果が得られるのである。

結果を思わず、純粋に實相の完全さのみを観ずれば、
ただそれだけで好いのである。

實相のみ實在であるからである。

          <感謝合掌 平成29年4月6日 頓首再拝>

相手の実相を信じ、相手の本当の自由にまかせる - 伝統

2017/04/23 (Sun) 04:04:41


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月23日)」より

竹はすべて真っ直に成長するのが本性であり、
藤蔓(ふじづる)は巻きつくのが本性であり、
笹芝(ささしば)は地を這うのが本性である。

そのそれぞれに美があり、個性があり、個性の中に天意があり、神がある。


竹をして竹たらしめよ。
藤蔓をして藤蔓たらしめよ。
笹芝をして笹芝たらしめよ。

藤蔓をして竹のごとく真っ直ならしめんとし、
竹をして藤蔓のごとく巻きつかしめようとする時、
竹も枯れるであろうし、

なおいっそうよくないのは、かく外部から強制せんとしつつある
自分自身が奔命(ほんめい)に労(つか)れて滅んでしまう。

人をいわゆる「自分の尺度」で測って善ならしめようとして、
相手をそこない、自己をそこなっているのはちょうどこれと同じである。

人はその類の異なるようにその個性も異なり、
事物に対する観察も異なるのである。

すべての人々の観察意見をまったく自分と同意見にしてしまおうと思うならば、
それは結局不結果に終わるほかはないのである。

そして得るところはただ、汝自身の焦躁疲労と、
相手の人々からの嫌悪とに終わってしまうのである。

誰でも他の意見に強制されるのは嬉しいことではないから、
あまり傲岸に人がその意見を強制する場合は、その人は嫌われるほかはない。


決して相手を縛って導こうとしてはならないのである。
自分自身が得ている真理で何か相手にささげる実行的奉仕をなしつつ、
相手自身を相手の思想にまかせておくのがよいのである。

相手の「神の子たる善さ」を信じてその自由にまかせておくのである。

かくて人は本当の自由にまかせられるとき、
回っている独楽(こま)を触らないで自由に委すとき、
心軸を中心として立ち上がるように正しく生きるようになるのである。

            <感謝合掌 平成29年4月23日 頓首再拝>

《天国は 既に 実相に於いて実在する》 - 伝統

2017/05/01 (Mon) 05:07:00

          *『 生長の家 』(昭和46年10月18日の法語)より

   その次にイエスは 「 御国(みくに)の来(きた)らんことを。
   御意(みこころ)の天の如く地にも行われんことを 」
   という風に祈れと教えていられるのである。

   この祈りの言葉の中で注意しなければならないのは、
   “ 御国 ” 即ち “ 神の国 ” 即ち “ 天国 ” 即ち
   実相世界には、

   既に完全な大調和の美しき豊かな楽しい状態が存在する
   という前提の下に、

   その天国の状態の如く、地上もそのようになるように ー
   という願いが、この祈りであり、

   「 実相の天国 」 を既成の天国とし、
   地上にその写象(しゃしょう)として地上天国を来(きた)らす
   ために心の波長を合わすための祈りがこの祈りである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

            <感謝合掌 平成29年5月1日 頓首再拝>

ただあるもの(実在)は第一創造の完全世界ばかり - 伝統

2017/05/14 (Sun) 03:20:01


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月14日)」より

すべては第一創造の世界にある。
神にし残しはないから、すべてはすでに与えられているのである。

それだのにわれわれにまでそれが現象界に与えられないのは「因縁の法則」によるのである。
したがって「因縁の法則」とはすでに与えられたるものからマイナスする法則であるともいえる。

「因縁、因縁」と言っている者がかえって因縁に縛られて不幸が絶えないのも
「因縁の法則」とは「マイナスの法則」であるからである。
それは「雲の法則」であり、それに引っかかるだけ太陽の光は鈍くなるのである。

生命の実相の悟りとは、雲を一躍して太陽光線の世界へ跳入することである。
もうその世界には雲もなければ、因縁もない。ただあるものは第一創造の完全世界ばかりである。

            <感謝合掌 平成29年5月14日 頓首再拝>

実相の拝みかた - 伝統

2017/05/26 (Fri) 03:06:42


         *「子育て免許証」鹿沼景揚・著(P103~104)より

実相を観る、ということはどうすればよいか。

スター・デーリーの『奇跡を生ずる信仰』からすばらしい瞑想法を学びました。

(1)願望成就(神の子の実相を観ること)には、
   あらゆる疑惑がなくなるまで信じて瞑想を続ける。

(2)願望(神の子と観ること)は必ず実現すると、
   ハッキリ心に確認する。

(3)スバリ、その欲するもの(神の子の実相)を得たりと、
   深く信ずるまで瞑想を続ける。
   信じて信じて迷走を続ける。

(4)瞑想者の信仰が、単純で幼子のようであればあるほど、
   その効果は大である。
   

また、アディントン著『奇跡の時は今』では次のように教えています。

(1)あなたは、祈りに対して「神様の応答」が来るのを急いではならない。
   神様からの応答は適当にして、完全に時期が熟したときに、
   適正にして完璧なる経過を通してくるのである。

(2)感謝こそ霊的生活への冒険の第一歩であり、最も重要な事柄である。
   あなたが感謝の生活を送ることができない限り、
   あなたはそう以上霊的生活に進むことはできないのである。

            <感謝合掌 平成29年5月26日 頓首再拝>

自分自身の本体(実相)を探す - 伝統

2017/06/11 (Sun) 03:37:30


         *「子育て免許証」鹿沼景揚・著(P104~108)より

自分が神の子であるという実相をどのようにして確認し得るかについての一つの試み。
端坐して、瞑目合掌して次の実験をします。

自分は今、どこにいるかを探します。
頭の中にいるのであるか。頭の中をグルリと見つめ見まわしつつ、自分を探します。
心臓の中にいるのであるか。心臓を見つめつつ、自分を探します。
肺臓の中にいるのであるか、肺臓の中を見つめ、見わたしつつ、自分を探します。
肝臓の中にいるのであるか、肝臓の中を見つめ、見わたしつつ、自分を探します。

以下同じ様にして、内臓の各器官を、ジーッと見つめつつ、
自分を探すことをくり返します。・・・・・・・


これをくり返していると、自然に見つめられているカラダの各部と、
見つめている自分とが分離してくるのがわかります。・・・・・・

次に、「見つめている」自分を探します。
その「見つめている自分」の奥にもう一人の自分がいることがわかります。

更にその自分がいることを知っている自分が、また、その奥にいます。
その知っている自分を見ている自分がまた、その奥にいることがわかります。

これをくり返しているうちに、自分という本体が、肉体の奥へ、奥へと退いていって、
遂に、肉体と分離した個生命のいのちの本体の自分が、独立してハッキリと
存在していることが自覚されてきます。

これが、肉体を超え、物質を超えた霊妙極りない光明輝くわが本体であります。
この本体なる自分自身が神の子としてのホンモノの自己であります。

                ○

この実相の自分自身が確立してくると、
「端坐して実相を観る」の妙境が現出します。


眼の前にあらわれた人が、どんな人であろうと、肉体の奥の、物質の奥の
実在なるホンモノの彼をジーッと観ることにすればよいのです。

もはや、自分が実相を観るのではない。
「自己」はないのです。
自分でないホンモノの自分が端然と坐しています。

そして相対している人の実相をジーッと観ているだけであります。

                ○

これはすばらしいことです。

あそこをなおしてやりたい、ここをなおしてやりたい、
しかし、どうにもならないで、くたびれてしまっていたのが、
忽然として消えて、新しい光明に輝く姿がでてくるのであります。

これは、「端座して実相を観る」ことについての入門であります。

            <感謝合掌 平成29年6月11日 頓首再拝>

実相を諦観せよ! - 伝統

2017/06/24 (Sat) 03:48:31


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月24日)より

人の病気を治すには、その人の病気を自分の内に摂取しなければならないのは、
洗濯屋が汚れものを洗濯するには一度それを自分の家へ持って帰らなければならぬ
ようなものである。

「自分の内に摂取する」とは同悲同苦の感情を起こして「かわいそう」という愛念によって、
相手の苦しみ悩みを自分自身の苦しみ悩みとすることである。

それはラザロの死を見て、「イエス涙を流したまえり」の境地である。
彼が憤(いきどお)りによって病気になっているならば、
「憤るのはもっともだ」と同情する愛念が起こるべきである。

これは相手の病根がどこにあるかを知るためでもある。
同情のない審判(さば)くだけでは治す力は少ないのである。

かくて同情によって自己の内に相手の悩みを摂取した後(のち)は、
最早、その病根である心の悩みでいつまでも自分の心を乱しているようなことでは、
汚れた水(想念)をもって汚れ物を洗うに等しいから効果はないのである。

そこで、心の中に、すべての病気と、病根である悪しき想念感情を放ち去って、

「彼は神の子であるから病気もなければ、未だかつて憤ったこともないのだ」

と 実相を念ずるようにしなければならぬのである。

これが『続々甘露の法雨』の中に

「この病気は、この心の迷いの影などと迷いをいちいち詮索すること勿れ。
迷い本来無ければ、迷いの影も本来無し。

この病気は何の罪の結果ならんかと罪の種類をいちいち詮索すること勿れ。
罪本来無ければ罪の種類も本来存在せざるなり。汝ら存在せざるものを追うこと勿れ」

と 書かれている所以である。

すなわちいったん、その病気の原因、病気の苦悩などを自己に摂取した後には、
病気の姿や、原因に心を捉えられることなく

「汝の生命の実相は久遠の神なり、金剛身なり、不壊身なり、本来円満完全なる仏身なり」
                               (『続々甘露の法雨』)

と じっと自身の実相を諦視すれば自分の病気が治り、
同じように相手の実相を諦観すれば相手の病気が治るのである。

「真の人間は神の子・人間なり、真清浄、真円満なる神の子、人間なり」

この実相を驀(まっしぐ)らに自覚しさえすればよいのである。

しかし実相を自覚して自己を円満完全だと諦視するには、
まず悔い改め(自己否定)がなければならない。

物質(肉体)の否定と、「心」の否定である。
肉体は本来ない、それは心の影だとまず肉体を否定し、

さらに

「あんな心を起こしたのは実相(ほんもの)の心でなかった。
すまなかった。あれはニセモノだった」

と 心も否定し去り、しかして後、円満完全なる罪なき実相を諦視するのである。

一度「心」を否定した上でまだクヨクヨ思ってはならない。

           <感謝合掌 平成29年6月24日 頓首再拝>

《実相を観ずれば相手の善なる仏性が顕現する》 - 伝統

2017/07/14 (Fri) 03:35:34


         *『 生長の家 』(昭和44年12月27日の法語)より

   あなたが人に対する時には、常にその人が“神の子”であり、
   神の愛と智慧とがその人に宿っており、自分に好意をもっており、

   決して自分に災いを為す人ではない、
   この人は自分に祝福をもって来て下さったのだと信じて、
   その人の実相なる“神の子”を心に描いて
   礼拝し感謝する気持で応対するがよい。

   たといその人が、実は、こちらに対して悪意をもち、
   謀略をもって自分を陥れるためにやって来ていたにしても、

   あなたが真に相手の悪意のない
   完全な“神の子”の実相を拝んで相対するならば、

   相手の当初の悪意は消えてしまい、
   敵であった者がついに味方になってしまうのである。


   ここに実相を観ずる力の秘密があるのである。

   これが法華経にある常不軽菩薩の生き方である。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/1c19b3d5b7a0394769b3af6d1942ac80

           <感謝合掌 平成29年7月14日 頓首再拝>

実相哲学 - 伝統

2017/07/28 (Fri) 03:26:11


       *『善き人生の創造』(P94~95)より

生長の家の実相哲学では暗の方から推論を進めて行かないで、
光を点じて直観的にぱっと 「迷いはない」 と結論を下してしまうのであります。

これを「実相覚」と云うのであります。

谷口哲学は直観哲学であります。
 
暗の方から光の方を研究して行ってはならない。
悟りの目を開いて、「人間は神の子だ」、
ただそれだけの光を点せばいいのであります。

そうしたら迷いはない、迷いが何故現れているのか
そんな事は問題にはならないのであります。

暗がどうして現れているかと云うと心に光を点さないから現れているのですから、
心の世界に目を覚まして、

「人間は神の子である、神のいのちである、その儘明るいのだ」

それをその儘悟ったらいいのであります。

そしたら此の世界には何も悪いものは一つもない、
悉く神の智慧と愛と生命と供給と調和とが充満しているところの世界である
と云うことがハッキリ分るのであります。

           <感謝合掌 平成29年7月28日 頓首再拝>

「今」「此処」既に円満完全の実相に感謝する - 伝統

2017/07/29 (Sat) 04:26:02


        *『光明道中記(7月29日 日々是れ好日と知る日)』より

【漂える雲の彼方にまんまるに澄み切る月ぞわが姿なり。(『生命の實相』第十一巻)】


雪峰(せっぽう)の法嗣(あとつぎ)に雲門和尚と云う人がある。
その雲門がある日公案を出して
「十五日已前(いぜん)は汝に問わず、十五日已後一句を道(い)い将(も)ち来れ」
と言った。

その問は十五日に提出されたものであるから、
「十五日已前」と云うのは過去を指し、
「十五日已後」と云うのは、これからの現在どう生きて行くかと云うことである。

師の意を揣(はか)りかねて誰もこれに門下の者は答えることが出来なかったので、
雲門和尚は「日々是れ好日(こうにち)」と自分の問に自分で答えた。


生長の家で言うならば、「そのまま素直に難有(ありがた)い」であり、
「今を生かせ」であり、「今の中に久遠があり」である。
日々を難有いとしてその日の行事に励むのが「日々是れ好日」である。

烈日燬(や)きつくすようでも、
それは好いお旱(ひでり)を頂いたのであって、ただ難有いのである。

風が吹いたからとて、風があるので害虫が育たず、
雨が降るので植物が育つ。

若し雨が降り過ぎて家が流れ、田畑に損害があるならば、
それは業(ごう)の自浄作用としてただ難有いのである。

 
動き流れる雲の彼方に「今」実相の円満そのままの姿を見る者は幸いなるかな。

         <感謝合掌 平成29年7月29日 頓首再拝>

實相円満の相(すがた)を見よ - 伝統

2017/07/30 (Sun) 03:55:50


          *「光明法語」(7月29日~30日)より

《超個人的精神上の観念》

バークレーは、物は本来ないのであって、それは心が知覚するからあるので、
物とは個人の知覚の表象(かたちにあらわれたる)にすぎないと言った。

併しこれでは個々別々の人が、一様に薔薇の花を薔薇の花と見、
百合の花を百合の花と見るところの知覚の一致が説明出来ない。

そこですべての人に薔薇の花が薔薇の花と見える根拠として、個人を超越して
一切個人を包含して、薔薇の花を薔薇の花と見る原理となるべき、
超個人的精神上の観念(こころのすがた)のある事を預想しなければならぬ。

・・・

《實相円満の相(すがた)を見よ》 

この超個人的精神こそは神であって、
すべての存在は、神の心の上に思い浮かべられたところの観念であり、
神のコトバであると言うのである。

神の心中(こころのなか)観念はあらわれて一切の真象となる。
これは實相円満なる相(すがた)である。

併し、個人的精神は、この真象をそのままに見ず、迷ってこれを不完全に見る。
これを迷いと言い妄想と言う。

一切の現象は、ここに真象と偽象との混淆(こんこう)したすがたとなってあらわれ、
健康と病気と幸福と不幸と、交々(こもごも)相混じてあらわれる。

         <感謝合掌 平成29年7月30日 頓首再拝>

《実相人間は物質や黴菌には害されぬ》 - 伝統

2017/08/15 (Tue) 05:01:29


        *「幸福を招く365章」(P251)より

   真に健康を得ようとするならば、物質が人間を支配し得る、
   黴菌が人間を支配し得ると云うような考えを
   絶対的に克服しなければならないのである。

   実相に於ては、人間は霊的存在であるから
   物質に支配されることはないのである。

   実相に於ては、人間は万物の霊長であるから
   黴菌に支配されると云うことはないのである。

   実相に於いては 『 甘露の法雨 』 にあるように
   「 一切の生物処を得て争うものなく相食(あいは)むものなく」
   互に害する状態は存在しないが故に黴菌に冒される
   と云うこともないのである。

   「 絶対そんなことはない。ない。ない。神の子の勝利だ 」
   と三万遍繰返して思念せよ。

    (初出~「生長の家(昭和25年10月19日)」)
    ( http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85 )

         <感謝合掌 平成29年8月15日 頓首再拝>

現象は無い、実相のみがある - 伝統

2017/08/30 (Wed) 04:59:09


         *『人間死んでも死なぬ』(P352~353)より

現象即実在と云う言葉は仏教の中でも見出し得る言葉でもあるが、(法華経諸法実相)
谷口哲学では『現象無し実在のみ有る』と云い、(『生命の實相』第24巻の質疑篇)

《ある》ものは《ある》。

《無い》ものは《無い》とハッキリ区別せよと云い、
《ある》ようで《ない》ような有無曖昧不明の概念を持っていると、
その哲学が実際生活に生きて来る力がないと云う。(『生命の實相』第19、20巻、自伝篇)

また現象は投影(かげ)であると云い、投影(かげ)は《本来無い》のだと云い、
《本来無い》ものは《全然無い》のだと云い、

肉体は現象であるから投影(かげ)であり、
投影(かげ)は鏡面の映像の如きであるから、《映像は本来無》いのであって、
従って《全然無い》のであって、《実物の人間だけが本来有る》のだと云う。

現象と実在とは映像と実物の人間とが《相即》の関係にあると云う意味に於て
谷口哲学に於ても『現象即実在』とも言い得られるのであるが、

それは現象と実在とは相即の関係を有すると云うだけのことであって、
《現象そのもの》が実在であると云う意味でも、
実在そのものが現象していると云う意味でもない。

谷口哲学はただ《実在(あるもの)のみが有る》と云い
現象は実在に対して映像の関係にあるのみであって何処までも、
現象は実物では無いと云う。

若し《現象そのもの》が実在であると云うのであるならば、
肉体即人間・人間即肉体と云わなければならないが、
谷口哲学では『肉体は人間に非ず』(谷口雅春著『甘露の法雨』)と
截然(せつぜん)として肉体を抹殺し去る。

ここに《本当の人間》又は《真の人間》と云う術語が案出され、
『真の人間は物質に非ず、肉体にあらず』(前同)と云われているのである。

         <感謝合掌 平成29年8月30日 頓首再拝>

観ればその完全な姿がそこにあらわれてくる - 伝統

2017/09/15 (Fri) 04:44:27

      *『生命の根元を培う新しき教育』(P59~60)より 

悪なし、罪なし、人類無罪

私の『美しき日本の再建』という本の中にちょっと書いておきましたがね、

それにはある奥さんが夕方に目を覚ましてみたら、
娘の部屋でギャーと娘の叫び声が聞える。
お父さんがまた叫び声をあげた。

何事かと思ってそのお母さん目を覚まして行ってみたら、強盗がはいっておった。

そのお嬢さんは二十歳くらいのお嬢さんですが、
このお嬢さんの腕の両方からはがいじめにして、脇の下に腕をつっこんで、
そして喉にナイフをつきつけて“金を出せ”というのです。“

金を出さなかったら、ナイフで頚動脈を切るぞ”という格好をしている。

その時、このお母さんは、熱心な生長の家白鳩会員でした、
それで夫は叫び声をあげたまま出て行ってしまってどこへ行ったかわけが分らないが、
彼女は「この男も、“神の子”である神性が宿っているから悪いことはしない」
と心に念じていると、

彼女すなわちそのお母さんには“神の智慧”が湧いてきた。
これは、始終神想観をして、神様とつながっていなければ
そういう智慧は湧いてこないのです。

「あんた早く逃げなさい」と言った。強盗にですよ。

「今、夫がここへ来たけれども、どこかへいっちゃったでしょう。
あれは警察へ行ったんだから、あんた、ながくここにいると
警察がでてきてあんたをつかまえるから早く逃げなさい」と言ったんです。

ナイフで喉とつかれたらいかんというので、娘はナイフを手で掴んでいる。
その掴んでいるところから血が流れている。

「そのナイフを捨てなさい」というとその少年はナイフを捨てた。

「血が流れているじゃないですか。包帯をしてあげます」

娘の手から血が流れていると思ったけれどもそうじゃなかった。
強盗の少年から出ている血だった。
それで薬をつけてあげるからと言って、薬をつけて包帯をしてやった。

そして、
「はやく逃げなさい。夫が警察へ行って警官を連れてくる時間だから早く逃げなさい」
と言ったら、その男は、

「僕、逃げません。つかまります」といって、
警察がくると自ら手をつき出して縛って下さいといった。

これは事実の話です。

そんな強盗になっている少年でも、その実相を観れば善なるものなのですよ。
すべて善なるもので、そんなに自分をいたわってくれて、
警察につかまらないで逃げて下さいというその愛情に打たれたのでしょう。

それで自ら縛られて行くというようになったと言うのであります。

観ればその完全な姿がそこにあらわれてくるということになるのであります。

http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/411  より転写)

         <感謝合掌 平成29年9月15日 頓首再拝>

諸君よ実相を観じよ - 伝統

2017/09/30 (Sat) 04:50:17


        *「光明道中記」(9月30日)より

 【病気は無い! 物質は無い! 現象はない。実相のみ独在。(生命の實相第十巻)】

(歎異抄総結の条)

   聖人のつねの仰せには、弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、
   ひとへに親鸞一人がためなりけり。・・・

   聖人の仰せには、善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。

   そのゆへは、如来の御こころに善しと思召(おぼしめ)すほどに
   知り徹(とお)したらばこそ、善きを知りたるにてもあらめ、
   如来の悪(あ)しと思召(おぼしめ)すほどに知り徹(とお)したらばこそ

   悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、
   よろづのこと、皆もつて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、
   ただ念仏のみぞまことにておはしますとこそ仰せは候ひしか。・・・

もう此の月の頁が終わるので『歎異抄』の総結のところを重要点だけに端折(はしょ)る。

「弥陀の五劫思惟の願を、よくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」とは
至言である。皆その心持保つべしである。

よくよく考えて見れば本当に人間には此の世のことの善も悪も本当には判らない。
此の「善をしたから救われる」と云うような自力の判断は恥ずかしくて出来ないのである。
此の世のこと、善と言い悪と言い、併しそれはただ空言、妄言(たわごと)、実相(まこと)
ではないのである。

ただ念仏 ―― ただ神想観 ―― それは如来から廻施(えせ)せられたものであるから、
それのみが真実である。

諸君よ実相を観じよう。

         <感謝合掌 平成29年9月30日 頓首再拝>

業に捉われるな、実相を観ぜよ! - 伝統

2017/10/02 (Mon) 04:21:07


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月2日>(P92)より

過去の経験によって自分自身の将来を縛ってはならないのである。

ととえば過去に身体(からだ)が虚弱であったからとて、
今後も虚弱であるに相違ないと考える必要はないのである。

過去の人間がすべて百歳以下で死んでからとて、
今後の人間も百歳以下で死するものと考えてはならないのである。

生命は無限であり、同じものは一つもないのである。
大生命は一つひとつの生命としてあらわれるごとに新たなる創造を成しつつあるのである。

過去に縛られるということは業に縛られるということである。
業に縛られるのは、自分の心が業に捉われるからである。

端坐して実相を観ずるといっさいの業障は消えるのである。
神想観を励め。

           <感謝合掌 平成28年10月2日 頓首再拝>

実相は最大の力 - 伝統

2017/10/11 (Wed) 03:28:04


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月11日>(P98)より

実相は最大の力である。
それは「実」であるから、いかなる「虚」の力もこれに対抗することはできないのである。
一つの「実相」の想いは百万の「虚」の想いを打ち消す力があるのである。

われわれはどんな不幸が眼の前にあらわれて来ても、
それを「実」と見ないで「虚」であると見るのである。

われわれは見せかけの外貌を超えてそこに「実」にある「完全さ」を見なければならない。
暗(やみ)はどんなに深くとも、それは「虚」であり、
ニセモノであるから光には対抗することができない。

悪はいかに姿をあらわしても、それは「虚」でありニセモノであるから、
善には対抗することができない。

善のみ実在することを信ぜよ。
それを言葉にして語れ。
悪を言葉で否定せよ。

           <感謝合掌 平成29年10月11日 頓首再拝>

吾等は唯、天の父のみ業(わざ)、それのみを観れば好い - 伝統

2017/10/14 (Sat) 03:41:08



          *「光明法語(10月14日神の国の義しきを観よ)」より

「先ず神の国と神の国の義しきとを求めよ。
其の余のものは汝らに加えられるべし」とイエスが言ったのは、

彼の祈りが、対立的な一々の現象の悩みを「あり」として
取扱わなかったことを示している。

そこには「悪」や「病い」を争闘や抗争によって撃滅する何等の人間側の努力もない。
天の父がみ業(わざ)を為し給うのである。

吾等は唯それを観れば好いのである。

イエスが

「われみずからにては何事をも成し得ず、
天の父われにいまして成さしめ給う」

と言ったのは此処である。

           <感謝合掌 平成29年10月14日 頓首再拝>

「妙有の世界」は一層具体的な金剛不壊の世界である - 伝統

2017/10/25 (Wed) 03:41:40


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月25日 月一回の恩を返す日)より

【毎朝が新生である。吾らは朝ごとに新しく生まれ変わる。
                         (『生命の實相』第十二巻)】

(一)人空 ―― 曰く、

   物質の人間、肉体の人間は存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の人間」を今ありと肯定せよ。

   「妙有の人間」は抽象概念の人間ではなく、
   現象肉体の人間よりも、尚一層具体的であり、尚一層金剛不壊であり、
   真清浄真無垢真健康なるが故に、それを自覚するとき
   病気が頓(とみ)に癒えるのである。

(二)法空―― 曰く、

   物質の世界、不完全形態を物質的にあらわしている此の世界は
   空にして本来存在しないと否定せよ。
   而して「妙有の世界」今此処にありと肯定せよ。

   「妙有の世界」とは現象世界よりも一層具体的な金剛不壊の世界である。

   現象世界は具体的に見えていても崩れるが、
   「妙有の世界」は現象世界が破壊すると見ゆるときにも
   「わが浄土は安穏(あんのん)なり」と釈迦が「法華経」に於て
   説いたところも金剛不壊の世界である。

   金剛不壊と云っても祖元禅師が
   「電光影裡春風(でんこうえいりしゅんぷう)を斬る」と言った如き、
   風の如きエーテルの如きものであるから、斬っても斬れない
   と云うような頼りなき世界ではない。

   「宝樹華果(ほうじゅけか)多くして、衆生の遊楽するところなり、
   諸天天鼓を打ち、伎楽を奏し、曼陀羅華を雨ふらして大衆(だいしゅ)に散ず」
   と「法華経」の自我偈にあるが如き具体的妙(たえ)なる世界である。

           <感謝合掌 平成29年10月25日 頓首再拝>

《環境に振廻(ふりまわ)されず 実相を観(み)よ》 - 伝統

2017/11/10 (Fri) 04:54:57


        *『 生長の家 』(昭和26年1月23日の法語)より

   環境や境遇や現象界の諸事情は 常に変転きわまり無きものであって、
   それらの変化する毎(ごと)に心を動揺させていては、
   吾々は心の平和を得ることは出来ないのである。

   真に心の平和を得ようとするならば
   常に円満完全なる 「 実相 」にのみ
   心を振向けなければならないのである。

   そして現象は如何(いか)に移り変るとも、
   完全円満なる 「 実相 」 が 徐々に尚(なお)一層完全に
   表出され出ずる過程であるから、変化する毎に一層よくなる。


   一時は不結果のように見えても 必ずよくなると信じて
   心を動揺させずに、前途に 「 善き状態 」 を想念していれば、

   その想念の創化作用によって、
   悪く見えている事物も結局は よくなって来るのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

         <感謝合掌 平成29年11月10日 頓首再拝>

現象の奥に実相を見る日 - 伝統

2017/11/27 (Mon) 03:43:55


          *「光明道中記」(11月27日)より

【心を清く空虚にせよ、心の清き者は神を見ることを得。
                     (『生命の實相』第十四巻)】

どんな立派なものでも、浮世のものには、心を奪われまい。
浮世のものは崩れるものであるからである。

崩れるものであるからとてそれを避けまい。
崩れるものの中に実相の光明が輝いているからである。

現象を現象として追いまわすのではなく、現象の奥に実相を見出し、それを顕し、
礼拝するための行事が自分の生活であって欲しいのである。

自分と云うものが、実相でありますように、
自分と云うものが実相よりも低いものに心が捉われませぬように。

静かに日々の自分を省みよう。

速力が速いのが好いのではない。
眼立つのが好いのではない。
数が多いのが好いのではない。
少くも好い。

実相があらわれれば好いのである。

実相はダイヤモンドのようなものであり、砂金のようなものである。
小さくとも価値高くして衆人の仰ぎ見るところのものである。
衆人に仰がるるためにダイヤモンドたらんとするのではない。

人間 固(もと)より仏、固より光明燦爛たるのである。
これを晦(くら)ましていたことを恥じ、
それを諦(あきら)かにするのが日々の行事である。

          <感謝合掌 平成29年11月27日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.