伝統板・第二

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ヨガと生長の家 - 伝統

2016/06/21 (Tue) 03:51:44

今日6月21日は「国際ヨガの日」(2014年国連制定)です。

《ヨガと生長の家》

         *「生活応用 健全の真理」はしがき(P1)より

ヨガを単に健康法の体操だと考えている読者もあるらしいが、
それは出版社が”健康ブーム”に便乗して売らんがための宣伝である。

ヨガは釈尊御出興以前の深遠なるインド哲学で、
生長の家に非常に近似した実践哲学である。

体操もあるけれども、単にそんな浅いものではないのである。

心の力の応用であり、その”心の力”を発揮するのに”言葉の力”を使うのである。

それは生長の家が”心の力”を発揮するのに、
真理の言葉を吟唱することによって真理を潜在意識に深く理会せしめて、
運命を改善する道を開くのにも似ている。

また神想観に似た瞑想法や呼吸法もある。

繁栄の道への応用もあるのである。
何故(なぜ)なら富というものは物質ではないからである。

          <感謝合掌 平成28年6月21日 頓首再拝> 

ヨガナンダ - 伝統

2016/07/02 (Sat) 04:54:03


谷口雅春先生は、「生活応用 健全の真理」の第6章と第7章において、
ヨガナンダによる精神治療と真理の黙念法についてまとめております。

このスレッドでは、この6章、第7章とヨガナンダに関する情報を紹介してまいります。

(1)「生活応用 健全の真理」の目次より

   第一章 人間が幸福に健全になり得る根拠
   第二章 精神科学の発達と細胞精神の発見
   第三章 病気に対する暗示の活用

   第四章 内臓疾患に対する暗示法の実際
   第五章 特殊の精神神経疾患の原因及び治療

  ☆第六章 ヨガナンダの精神治療理論
  ☆第七章 精神統一の形式と真理の黙念法

   第八章 精神科学を応用せる健全生活法
   第九章 人に光明思念を送る法
   第十章 無限生長の道

   第十一章 メンタル・サイエンス奥儀

   なお、メンタルサイエンス奥義については、
   ”平賀玄米 さま”謹写による
   光明掲示板・第二「<メンタル・サイエンス奥儀> (10519)」があります。
    → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2017

(2)「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P92~128)小項目

  ①言葉は人に宿る神の霊である。
  ②他力を呼び出す自力と、自力を強める内在の他力
  ③良き結果を得るには思念の言葉の適当な反復が必要

  ④積極的方面にのみ精神を集注せよ
  ⑤真理の言葉を反復朗読せよ
  ⑥肉体の死をを征服し得るか

  ⑦精神治療と物質治療とは両立し得るか
  ⑧自己暗示の効果ある場合と効果なき場合
  ⑨注意力が他に転ずれば治癒する実例

  ⑩意志の力で健康になる事例
  ⑪癒すのは精神力ではなく精神によって刺激された生命力である
  ⑫治療の完成する2つの要素

  ⑬即座に治癒する場合
  ⑭性格も治療し得る
  ⑮肉体を健康に保つ6箇条

  ⑯精神的疾患を防ぐ5箇条
  ⑰霊的疾患を避けるには
  ⑱肉体は生命力の乗り物である

  ⑲物質的治療の限界について
  ⑳精神治療からさらに一歩進んで

  21 物質も精神も一種の夢に過ぎない
  22 自我・意識・物質の関係
  23 宇宙意識にも迷(まよい)があると云う説

  24 物質的意識から徐々に解放せよ


(3)「生活応用 健全の真理」第7章精神統一の形式と真理の黙念法(P129~170)小項目

  ①精神統一の形式
  ②病気治療に用いる真理の言葉
  ③想像力利用の想念法

  ④意志力応用の想念法
  ⑤正しき理性を発達せしめる想念法
  ⑥智慧を求める真理の言葉

  ⑦成功を得るための想念法
  ⑧愛の勝利を得るための思念法
  ⑨他人を思念で治療する場合

  ⑩勇気を養う思念法
  ⑪目を壮健ならしむる思念法
  ⑫性欲を正しくする思念法

  ⑬歯を強健ならしめる思念法

・・・

パラマハンサ・ヨガナンダ について

映画「永遠のヨギー ヨガをめぐる奇跡の旅」

(→ http://yogi-movie.com/

ザ・ビートルズやスティーブ・ジョブズら多くの著名人に影響を与えたとされる
ヨガの伝道師パラマハンサ・ヨガナンダの生涯に迫ったドキュメンタリー。

1920年代にヨガと瞑想の奥義を世界に伝え、
「西洋ヨガの父」と呼ばれるようになったヨガナンダ。

自身の悟りへの探求をつづった著書「あるヨギの自叙伝」は
多くのヨガ修練者たちの経典になるとともに、世界中の人々の座右の書となった。

ヨガナンダに関する資料に基づいて創作されたストーリーを中心に、
ヨガナンダ自身の貴重な映像やジョージ・ハリソンら著名人による証言やエピソードを交えながら、
その人生と教えを紐解いていく。


永遠のヨギーINTRODUCTION
 → http://yogi-movie.com/sub/introduction.html


          <感謝合掌 平成28年7月2日 頓首再拝> 

言葉は人に宿る神の霊である。~その1 - 伝統

2016/07/18 (Mon) 04:47:24


      *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P92~93)より

瑜伽(ヨーガ)の行者であり、霊覚者であるヨガナンダは、
瑜伽の哲学及び健康法から出発してメンタルサイエンスの説く真理を
それに融合させたのである。

彼の説く想念治療の限界や物質治療の限界は
極端に走らず極めて穏健である。

従って知識階級であって精神治療を研究したい人には
適当な諸説であるから爰(ここ)に紹介する所以(ゆえん)である。


人の言葉は人に宿る神の霊であるとヨガナンダはいう。

コトバは想念の振動によって起こされる所の響きである。
想念は人の魂によって起こされる所の振動であるのである。

吾々の口より出づるすべての言葉は、
吾々の魂の振動を運ぶ所のヴァイブレーションであって、
必ずや大いなる働きをなすべき筈のものである。

それにも拘らず、多くの人の言葉に生命(せいめい)なく、何らの権威も実現力も
発揮しないのは、唯(ただ)その言葉を機械的に発するだけであって、
魂の力がその中に吹き込まれていない言葉であるからである。

意味のない多弁、大袈裟の出鱈目や、嘘っぱちの噂などは、
火薬なしに玩具の鉄砲から発せられる弾丸のようなもので、
本当の「言葉」ではないのである。

多くの祈りや、役に立たぬ無駄話が、何等人生に貢献する所なく、
効果を現わさないのはそのためである。

吾々はいやしくも言葉を発するからには、真理の言葉を発しなければならない。
然(しか)も、その言葉の中に自己の魂の力をそそがなければならないのである。
魂の力の伴わない言葉は中味のない籾殻(もみがら)のようなものである。


          <感謝合掌 平成28年7月18日 頓首再拝> 

言葉は人に宿る神の霊である。~その2 - 伝統

2016/08/02 (Tue) 03:44:30


      *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P93~94)より


誠実と信仰と信念と直観力とに満たされたる言葉は
最高級の火薬を以って発射した弾丸のごときものであって、
どんな困難の壁にぶつかってもそれを貫通して進むのである。
そして遂に難事と思われていた所のものを変化することができるのである。

不快なる言葉を語ることを避けよ。
たとい、それが現実であっても不快なことはいわない方がいいのである。
言葉は内部にある実相の善さをこめて話さなければならないのである。

もし吾々が感情の底から深く理解して「真理の言葉」を使うならば、
その「真理の言葉」は宇宙に偏在する宇宙の創造力に伝達されて
どんな困難をも解決することができるのである。

一切の疑いをかなぐり捨て、強く求むる結果を思い浮かべて、
その希望を実現するまで捨てることなく、宇宙生命(せいめい)の
無限力に信頼するものは遂に求める結果を得ることができるのである。

もし吾々が一向専心神に信頼することができず、
精神統一中にも心が右往左往するならば
それだけその結果も亦浮動するのである。

もし吾々が宇宙生命の大海に善き言葉を以って種子(たね)を蒔くならば、
それが真に発芽して成長するまでは、種子(たね)の発芽を
疑ってそれを抜き取ってしまうようなことをしてはならないのである。

          <感謝合掌 平成28年8月2日 頓首再拝> 

他力を呼び出す自力と、自力を強める内在の他力 - 伝統

2016/08/15 (Mon) 04:50:59


     *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P94~96)より

「宇宙生命」即ち「神」よりも偉大なるものは存在しないのである。
それ故に吾らは宇宙生命のみにその助けを求むべきであって、
他(た)のものに右顧左眄してはならないのである。

といって全然宇宙生命に任せきって、自分は唯受身の状態になり、無力になり、
自分の中(なか)から発現する力をすべて排斥せよというのではないのである。

真の自分の内奥の深い生命(せいめい)から発するものは
自分の中(うち)に宿る神の力であるのである。

「神は自(みずか)ら助すくるものを助く」といわれているが、
自己の中(うち)から神の波長を起こすものが、
亦神の波長を受けることができるのである。

神は吾らに生命力を与え、信仰を与え、個性を与え、常識を与え、精神統一の力を与え、
自分自(みずか)ら自分の問題を処理するように与えておられるのである。


かくてヨガナンダは神の助けを得んとするならば、まず自(みずか)ら大いに
意志の力と常識の力とを用いて、自ら助くる所がなければならないとしている
所に、彼が瑜伽(ヨーガ)の行者としての自力的精神の特徴があるのである。

彼に於いては絶対他力というが如き名に於いて、何事も成り行きに任せておいて、
自ら努力しないことは排斥せられるのである。

併し、彼の修行方法は《自力他力》の綜合的修行であって、
一方に偏することがいましめられているのである。

自己の意志の力と極端に尊重する一方、全然それのみに頼って宇宙的な神の力から
自己を分離してしまってはならないと説いているのである。


瑜伽(ヨーガ)の特殊の精神統一法をおこなう場合の「思念の言葉」または
「祈りの言葉」をとなえ、また思念する時には、「《諸君自身の》」のしかも
「《神の与えたる》諸君自身の力を用いよ」と、彼は力説しているのである。

「自力」といえども完全なる「自力」というものはないのである。
それは自分の力であると同時に神が与えた力であるのであるからである。

神が人間に与えたその力を完全に使わないでいて、更に神の助けを求める
ということは、意味をなさないことだと彼は云うのである。

人生のいろいろの何問題を解決するためには、神が、その愛する「神の子」に
対して与えたところの意志、理性・・・等々を用うべきであって、自分に
与えられた力をおろそかにして、神のみに頼ってはならないとするのである。

彼はいう「全然神に全托する古き観念と、全然自己の力に頼る所の近代的方法との
間に平衡が得られなければならないのだ」と。

          <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝> 

良き結果を得るには思念の言葉の適当な反復が必要 - 伝統

2016/08/28 (Sun) 04:03:15


      *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P96~97)より

人々の心の状態、性格、個性等には千差万別がたるがために、
その用うる思念の仕方も一様であってはならないとヨダナンダはいうのである。

人を癒す場合には、その患者の性質傾向が「想像的性格」の者には
《想像を掻き立てる》ような思念の仕方が必要であるし、

「智的性格の人」に対しては《智的に推理を行なう》ような思念の
仕方が必要であるし、

「感情的性格」の患者には感情をあうるような誘導法が必要であるし、

「意志の強い性格」の人に対しては単なる創造力を喚起するような方法では
功を奏しないのであって意志力を行使するように導くことが必要である
としているのである。

如何なる場合に於ける思念にも、
まず第一にあたるのは強烈なる「注意力」の集中である。

その次にはその「注意力」の継続とそれから「思念の言葉」の
《適当なる反復》が必要である。

それには『日々読誦三十章経』の反復読誦が適当である。

「思念」には《熱情》と《意志の力》と《信仰》とをもって、
くりかえしくりかえし念ずる事が必要であるが、その結果が現れるか
そうかについては心に思い煩(わずら)わないがいいのである。

ただ思念するだけでいいのである。
結果は自然に現れるに任せればいいのである。

肉体の病気を治すために思念している間には注意力を
病気に集中してはならないのである。病気に注意力を集中すると
信仰がくすれてしまって好結果を得ないのである。

結果を得んとすれば結果にのみ注意力を集中すればいいのである。

恐怖心や、忿怒(ふんぬ)の習慣や、劣等感や、
強迫観念等を癒やす場合には、精神集中はその反対の心的性質が
彼に《ある》として思念を集中しなければならないのである。

たとえば、恐怖の精神的習慣を癒やす場合には「恐怖はない」と念ずるよりも、
「彼(又は自分)は勇敢である」と念ずるべきであり、

忿怒(ふんぬ)の習慣を癒やす場合には、
「彼(又は自分)は腹を立てない」と念ずるよりも、
「彼(又は自分)は平和に満たされている」と念ずるが如きである。

・・・

<参考>

谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
[901] 日々読誦三十章経(経言)    (お経のみ)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=101


谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
[55] 日々読誦三十章経         (「真理に就いての瞑想」と「お経」)
  → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=17

          <感謝合掌 平成28年8月28日 頓首再拝> 

積極的方面にのみ精神を集注せよ - 伝統

2016/09/09 (Fri) 03:51:51


      *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P98~99)より

肉体的病気にせよ、精神的病気にせよ、
それを心的又は物質的方法によって治そうと試みる場合に障害となるのは、
患者が、「治っている」又は一層積極的に云えば「健康である」ということに
精神を集中しないで、「病気」のことばかりに精神を集注したがるということである。

これによって、患者は病気の精神的及び肉体的習慣を
いつまでもつかんで放さないことになるのである。

特に神経病の場合には、それに伴う肉体的故障が癒されてしまった後(あと)にも、
依然として心に神経病をつかんで放さないことがあるのである。

健康にせよ病気にせよ、その肉体的作用又は肉体的感覚は脳髄細胞に一種のレコードを
刻んでいて、そのレコードを抹殺しない限りは、うつまでも同じような生理機能と
肉体的感覚とを継続せしめることになるのである。


潜在意識に刻まれている病気の概念は、その観念通りに生理作用を支配するので
あるから、慢性病の継続に対して非常な影響を及ぼすのである。

神経病又は肉体病は何れにせよそれは慢性的である場合には
常に潜在意識に深い根をもっているものである。

この潜在意識に植え込まれたる根を完全にぬきとれるや否やが
その病気の治療如何に関係するのである。

そこで現在意識でとなえる所の「真理の言葉」(註、実相の完全さを語る言葉)は
潜在意識にその精神的習慣として深く印象されるように
工夫されなければならないのである。

すると潜在意識に印象されたる真理の言葉が自働的に再び現在意識を支配して
現在意識をも健康に導いてくれるのである。

こうして現在意識の意志の努力によって真理の言葉を強烈にとなえることは、
潜在意識を媒介として精神方面及び肉体方面に健全なる効果をもち来たすのである。

潜在意識に深く真理の言葉がきざまれるためには
強烈なる意志と熱情とがなければならない。

かかる真理の言葉はたんに潜在意識にきざまれるのみならず、
いわば魔術的力の貯蔵庫であり、又あらゆる奇蹟の製造所ともいうべき宇宙意識に
それを伝達して、おどろくべき力を発揮することにもなるのである。

          <感謝合掌 平成28年9月9日 頓首再拝> 

真理の言葉を反復朗読せよ - 伝統

2016/09/20 (Tue) 04:32:48

     *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P99~101)より

ヨガナンダはまず、「真理の言葉」は、誰も聞いていない時には
朗々と聞こえる言葉で一度は唱えて聴覚器官を通してそれを潜在意識に注入し、
やがて心の中で一念不動の精神集中力を以っていよいよ強き念力を増加しながら
継続すべきものであるとしているのである。

一念不動の注意力集中は、くりかえし行う思念の言葉の始めから終わりまで
継続すべきものであって決して途中でだらけるようなことがあってはならないと
されているのである。

もし注意力が衰えて雑念が交われば、繰り返しくりかえし最初の思念の言葉に
立ち戻って来てどこまでも目的とする思念の言葉を継続すべきものであると
ヨガナンダは云っている。

(私は真理の言葉の朗読には
『 甘露の法雨 』 『 天使の言葉 』 『 日々読誦三十章経 』 『 真理の吟唱 』 など
この目的のために読誦して素晴しい成績をあげている人たちを知っているのである。)

注意力の集中、反復、及び忍耐強き思念の継続は、遂にその精神習慣を作ることに
なるのであって、常に真理の言葉を思念する時には出来るだけの努力をつくして
一念不動の注意力を修練しなければならないのである。

もし、思念の継続中、病状が悪化したり、予想したとは反対の結果が現れようとも、
そんなことは全然無視して、深き感情と、強き意志を以って、倦(う)むことなく、
その思念を継続しなければならないのである。

ヨガナンダは

「精神又は肉体の病気が治らないという信念を以って不健康に生きているよりも、
自分は霊的存在であるから完全なる健康であるという信念をもちつづけて、
肉体の病気が治らないでしまった方が《まし》である。
(もしその人に死が来たらなければならない時期ならば)」

とまで極言しているのである。

つまり「自分は霊的実在だ」という信念をもっているならば、
人間は心の世界に住むのであるから、死のうが生きようがそんなことは
どちらでもよいという意味である。

・・・

*『 甘露の法雨 』 『 天使の言葉 』 『 日々読誦三十章経 』 『 真理の吟唱 』

(1)光明掲示板・第一「聖経(集) (8582)」
   (『 甘露の法雨 』 『 天使の言葉 』含む)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1605

(2)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
    [901] 日々読誦三十章経(経言)    (お経のみ)

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=101

(3)光明掲示板・第一「新生のための祈り~『聖経 真理の吟唱』 (5176)」
   
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=980

          <感謝合掌 平成28年9月20日 頓首再拝> 

肉体の死をも征服しうるか - 伝統

2016/10/04 (Tue) 03:36:15


     *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P101)より

ヨガナンダは人間の肉体の死をも否定しているのである。

「もし吾々が完全なる精神的訓練を積むならば
その精神力の集中によって死をも征服し得(う)る」

と彼は云うのであるが、たとい、現在の人間の知識に従って、肉体の死が
必然の終局として訪れなければならぬものであるにしても、
彼は決して人間には一定の定命(じょうみょう)というものはないと
しているのである。

もし一定の定命(じょうみょう)があっても 魂の底深く横たわる
普遍意識の力によってそれを修正することができるといっているのである。

だからこの魂の底に横たわる普遍意識に対して強烈に真理の言葉をささやきかけ、
凡(あら)ゆる不安と、疑いと、恐怖から自由になれば、
それだけ長寿を得るのである。

そのために、「真理の言葉」を潜在意識及び普遍意識につぎ込むための
案内者たる光は「注意力」の《集中》と《熱情》《信仰》であるといっている。

その力が強ければ強い程潜在意識及び普遍意識に真理のヴァイブレーションを
より一そう強く印象することができるのである。

          <感謝合掌 平成28年10月4日 頓首再拝> 

精神治療と物質治療とは両立し得るか - 伝統

2016/10/18 (Tue) 03:54:04


     *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P102)より

薬剤や、マッサージや、脊椎矯正法や、電気治療や、その他色々の物質的治療法は、
肉体組織のある部分に刺激を与え、血行を正常にし、その浄化力によって、
肉体的細胞に失われたる健康状態を回復する補助的作用を与えるのであると云って、
ヨガナンダはそれらを決して排斥しないのである。

彼は云う、

「これらは時として治癒をもたらすために《生命力》を助けるための外的方法となる
のである。然しそれは死骸に対しては何ら働く力をもっていないのである。
何故なら死骸からは生命力が消え去っているからである。

死骸の中には薬剤のどんな性質も電気的流れも利用する力が残っていないのである。
生命力がなければ、薬剤や物質は人体に対して何らの治癒的効果をあげ得るもんではない。

だから治癒をもたらすことができるのは、ただ生命力のみであって、
すべての外的方法はこれに刺激を与えて《生命力》に単に協力するのみであって
《生命力》なしには何ら力なきものであるということがわかるのである」

と。

          <感謝合掌 平成28年10月18日 頓首再拝> 

自己暗示の効果ある場合と効果なき場合 - 伝統

2016/10/30 (Sun) 04:47:15


     *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P102~103)より

人の性格には種々の性格があるのであるから、
患者に従って、想像力の豊富な人には想像力を喚起するように誘導し、
知性の勝(すぐ)れた人には理論的説服を用いるようにし、

信仰的傾向の人にはいよいよその信仰を助長し、
感情的性格の人にはその感情を正常に誘導し、
意志の強き人には意志力によって健康を創造するように誘導せねばならぬとし、

すべての人間に一様の方法を用いることに反対しているのである。

そして彼はエミール・クーエの自己暗示法を批評して、

「クーエは凡(あら)ゆる病気に自己暗示法をもって癒そうとしたのであるが、
知性タイプの人は暗示に感応しないのであって、これらの人々は肉体を支配する
所の意識の力というものについて哲学的論議をもって説服することによってのみ
癒やされるのである」

といっている。

即ちかかる知性タイプの人がウィリアム・ジェームズ教授が『心理学の諸問題』と
云う著書に於いて指摘した如く

催眠状態に於いて、「皮膚に掻き傷ができた」と
暗示すれば掻き傷ができるというような事実を指摘して心によって
皮膚を病気にすることができるならば、

心のよって肉体の状態を変化し得るものであるということを納得せしめる
ことによって、心の転換をうながし、彼を癒やすことができるのである
と説くのである。

          <感謝合掌 平成28年10月30日 頓首再拝> 

注意力が他に転ずれば治癒する実例 - 伝統

2016/11/12 (Sat) 04:24:34


     *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P104)より

しかしヨガナンダは、自己暗示というものは強烈な意志力をもつ人には
無効であるといっている。

自己暗示は想像力を喚起するものであるから、想像力の強い人には有効であるが、
意志力のすぐれている人には想像力よりも彼の意志の力を刺激して、
大いに発奮せしめて、病気を忘れて熱中し得る仕事をもたらしめるようにする
ならば癒やされるというのである。


意志の力が病気を癒やした実例としてヨガナンダは次のような一例を掲げている。

ある感情的性格の患者が失語症にかかって一言(いちごん)もいうことが
できなかったのが、自分の住んでいる家が火事を起こして
逃げ出す瞬間にしゃべりだしたというのである。

火災の光景彼の意志力を刺激し、
「火事だ 火事だ」と叫ばずにはおれないことになり、
今まで失語症であったということを忘れてしまわせたのである。


この様に強烈なる感情によって刺激されたる《意志の力》は
潜在意識の中にある精神的病念を征服してしまうのである。

注意を病気の方から他(た)に一転すること、
これが病気を治す秘訣の一つとあんるのである。

これは意志力と云うより観念の転換によるのである。

          <感謝合掌 平成28年11月12日 頓首再拝> 

意志の力で健康になる実例 - 伝統

2016/12/01 (Thu) 04:15:56


     *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P105~106)より

ヨガナンダは、彼自身の体験としてこんなことを述べている。

印度からコロンボに行く為初めて汽船の旅にのぼったときのことである。
海が荒れて船になれない彼は、船酔いにかかってはげしく嘔吐をもよおした。

彼はこの体験に憤慨したと自分みずから云っている。

「何故(なぜ)なら、自分がうれしくも漂う部屋と、水の中を走る村ともいうべき
この華麗な汽船の中をたのしんでいるいる時に、自分の許可を受けずに
船酔いというやつが、自分にとびかかって来たからだ」 というのである。

それ以来、彼は固く意志の力で二度と船酔いなどにかかるものか、
と決意したというのである。

彼は船艙の床に《すっく》と立ち上がって、足を踏みしめ、自分の意志に対し、
「二度と再び船酔いなどを許してはならない」と云ったということである。

それ以後彼は、カルカッタからボストンまで五日間の航海をつづけたり、
日本へ行く時には一か月も航海を続けたり、シアトル、アラスカ間の往復に
26日間の航海を続けたりしたけれども、一度も船酔いしたことが
なかったと云うのである。

かくの如く、ヨガナンダは、想像力、理論的説服、感情の力・・・等々を
人々の性格に従って応用すべきであるといっているけれども、
決してこういう精神力そのものが病気を治すとはいわないのである。

かかる精神力の種々なる働きが、「生命力」を刺激して、
生命力を目覚めしめ、生命力が治癒をもたらすのであると
いっているのである。


腕の麻痺症の如きものに於いては、
意志の力と想像力とが刺激されなければならないといっているのである。

すると「動く」と《想像された》る腕に、「動かさんと」する《意志の力》
が働いて「生命力」がその病める神経細胞に流れ入り、その組織を治癒して
麻痺を治すのである。

真理の言葉を黙念することは、意志と想像力とが眠れる「生命力」を
完全に目覚めしめることができるまで継続的に行なわれなければならないと
されている。

          <感謝合掌 平成28年12月1日 頓首再拝> 

癒やすのは精神力でなく精神によって刺激された生命力である - 伝統

2016/12/18 (Sun) 04:50:43

     *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P106)より

思念集中はそれが潜在意識を通し、宇宙意識まで到達し宇宙意識の本体である
「生命力」を動かしてそれを自己の欲する方向に誘導するように、
「精神統一的方法」によって行うべきであるのである。

思念する場合「真理の言葉」を表現する聖経または聖詩を一心に反復するのは、
これによって、雑念を忘れ病念を忘れ、唯(ただ)念ずる所の健全なる方向にのみ
「生命力」を誘導するためである。

・・・

<参考Web>

(1)「聖経」
   光明掲示板・第一
   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1605

(2)「聖詩」
   谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=79


          <感謝合掌 平成28年12月18日 頓首再拝> 

治療の完成する2つの要素 - 伝統

2017/01/05 (Thu) 04:08:02


     *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P107)より

樹木を植える時には、2つの要素が考えられる。
―― 適当なる《種子》と適当なる《地面》とである。

それと同じように他働的に病気を治すにも、2つの要素が考えられるのである。
それは「「治す人」の力と「治される人」との感受性とである。

「治す人」から出る所の波動を、完全に受ける所の相手がなければならぬのである。

これについては、イエスは

『力、吾より流れ出でて、汝に入(い)れり』

というと同時に

『汝の信仰汝を癒やせり』

といっているのである。

          <感謝合掌 平成29年1月5日 頓首再拝> 

即座に治癒する場合~その1 - 伝統

2017/01/21 (Sat) 04:08:56


    *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P107~108)より

病気の治癒に要する時間はどれほどかかるかという問題がおこるのであるが、
器質的疾患でも機能的疾患でも霊的疾患でも、即座に癒えるということも
往々あるのである。

幾世代前から続いている暗黒でも、
それに光をもち来たせば一瞬の中(うち)に明るくなるのである。
神は必ずしもそれを遂(お)い出すのに時間を要しないのである。

だから、相手が何時(いつ)癒されるかということを
吾々は語ることができないのである。
彼の心に光がともれば瞬間に明るくなるのである。

だから「何日間かからねば治らない」などと
心で制限をもうけて置く必要はないのである。

時間が治すのではなくして、信仰が癒やすのであるから、
信仰がその程度まで昂(たか)まるかが問題なのである。

即ち信仰がどの程度まで「生命力」を目覚めしめ得(う)る程の
高さまで行くかが問題なのである。

不信仰は生命力を目覚めしめるさまたげとなり、
自然療能力を完全に働からしめ得ないのである。

          <感謝合掌 平成29年1月21日 頓首再拝> 

即座に治癒する場合~その2 - 伝統

2017/02/07 (Tue) 04:59:46


    *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P108~109)より

信仰の他(ほか)に意志の力及び想像力も必要である。
「治ろう」という意志が働かないで、「病気になりたい」意志が働いている限り
その人は癒やされないのである。

又「治りたい」という意志が働いていても、「治らないであろう」という《想像力》が
働いているのでは、これまた決して病気は治らないのである。

病気が治るためには、「治りたい」《意志》と「治るであろう」という《想像力》と、
「神、今癒やし給う」という《信念》とが、合体しなければならないのである。

意志と想像力と信仰とが働かなければ「生命力」は眠ったままでいて、
自然療能博士は働かないのである。

もし信仰の光がともれば一瞬でも治癒は完成されるのであるが、長期の慢性病によって
いためつけられ、薄弱になっている意志と信仰とは、病気の方ばかりを想像しがちな
想像力を、正しき方向に強めるということは、相当の時間を要するのである。

治癒が一瞬の中(うち)に完成しないというのはそういう理由によるのである。

慢性病者の潜在意識の中(うち)には病的観念が深く蓄音機のレコードの溝の如く
刻みつけられているのであって、それは長期間に亙(わた)って印象づけられたもので
あるから、その潜在意識の病的印象をけづりとって、新しき「健康の念を印象」するには、
多くの場合病的観念を植えつけたと同じ期間をようするのだといっている。

          <感謝合掌 平成29年2月7日 頓首再拝> 

性格も治療し得る - 伝統

2017/02/21 (Tue) 03:31:00

十四、性格も治療し得る

    *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P109~110)より

ヨガナンダは、単に肉体の疾患のみならず、
恐怖、憤怒の悪習慣、劣等感、自信力の欠乏、独創力の欠乏、無智、無関心、
希望の欠乏、高慢、独断、懐疑、人生の目的を物質の満足のみだと考えている唯物的傾向、
人生の法則を知らぬこと及び自己の神性を自覚しない事などをも病気の中に
加えているのであって、これも治すべきであり、癒されるべきであるとしているのである。

多くの人達は、肉体の不調和の治癒へのみ専ら注意をはらうのであるが、
これはもっとも目につき易く直接的に感じ得るものであるからである。

然しながら人生の意義と神秘とに無自覚であるがための霊的苦しみは
尚一層重大なるものであって、すべての肉体的病気も実はこの根本的悩み ―― 
即ち人にして人生の目的を知らず、人間の本性の何たるかを知らず、
霊を知らず、生命(せいめい)の本質を知らざる所から出ているのである。

従ってこれを知らせることが本当の根本的治療法であると彼はいうのであって、
心の衛生と、生活の霊化の法則とに無智なることが肉体的苦しみ及び
経済的苦しみにもっとも責任があるとしているのである。

彼はいう ―― 

「もし心が怒りや、心配や、恐怖心のバクテリヤから自由になり、
魂が無智から自由になるならば如何なる物質的病気も貧乏も
起こって来ることはできない」 と。

吾々はもし本当に智慧があるならば、肉体も精神も霊も病むことはないのである。
病もなければ薬も、精神療法も、心霊療法もいらないのである。

無智のために吾々は調和の法則をやぶり、
それによって病気にかかり貧乏に陥り、
その救済法を求めるのである。

従って吾々は凡ゆる方向に研究をすすめて
病気な貧乏も存在せざる世界を創造しなければならないのである ―― 

これが彼の考え方である。

          <感謝合掌 平成29年2月21日 頓首再拝> 

肉体を健康に保つ6箇条 - 伝統

2017/03/10 (Fri) 04:12:39

十五、肉体を健康に保つ6箇条

    *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P110~113)より

ヨガナンダは物質的治療を決して排斥しないことは前に述べた通りである。
彼は肉体的病気を防ぐ方法として、次の如き事柄をすすめているのである。

(1)物質界(自然界)の法則に従うこと。

(2)過食してはならない。
   飢饉のために死んで人はいないのである。
   多くの人は貪食のために、そして正しき食物の習慣を知らぬために死ぬ。

(3)神の定め給える衛生の法則に従うこと。
   心を清浄に保って、心の衛生を守ることは物質的衛生より以上に必要である。

   然し物質的衛生も甚(はなは)だ重要であって無視してはならないのである。
   といって衛生の法則の奴隷になってしまい、一寸でもその法則から
   はずれたら健康を害するような「物質的存在」だと思ってはならないのである。

(4)正しき活動と休養とは必要である。
   それによって体内に不要物がたまることを防止するのである。

   そして毎日1回は真理の言葉を黙念して、「生命力の流れ」を
   無限に自己の体に流入せしむべきである。

(5)適当なる運動によって血管の硬化を防ぐこと。

(6)心臓の過労を避けること。
   恐怖や怒りは心臓に過大の重荷を課するのである。
   心を平静に保つことによって心臓の鼓動と働きとを軽減するのである。

   真理の言葉を黙念することによって心を絶対の平和と静寂の境地に置いて
   心臓を絶対安静ならしめるのである。

   もし吾々が心臓の収縮期に於ける一収縮毎に送り出される血液の量をはかって
   みるならば、1分間に送り出される血液の量は18ポンドに達するのである。
   1日の量にしてみるならば約12トンの血液を運びだすのである。

   1年間には4千トン荷物を運搬する重労働を心臓はしているのである。
   然も、肉体期間は睡眠中休息をとるにもかかわらず心臓は睡眠中も
   依然として働いているのである。

   医学の教える所によれば、心臓はその拡張期に若干の休息をとるといわれて
   いるのであるが、実はそれは次の運動のための単なる準備時間であって、
   本当の休息ではないのである。

   心臓壁の収縮によって起こされた振動はその拡張期にも心臓の組織全体に
   反響しているのであるから、心臓は決して絶対に安静なる休息をとるという
   ことはないのである。


このようにヨガナンダは
心臓と生命(せいめい)との関係を非常に重大視しているのである。

昼夜兼行で何らの休息もとらずに働いている心臓は結局疲労し、消耗して、
遂にその働きを停止する ―― 即ち死が来(きた)るというのである。

だから、彼は心臓をも眠らせよと主張するのである。
意識的に心を持って心臓の働きを支配し、その運動を休息せしめてしまうのである。

彼はヨガの行者であるから、そういう実例を知っているのである。――

数年前インドに於いてサディユ・ハリダスという名のヨガの行者がヨーロッパ人
医師数名の間断なき監視の下(もと)に数か月間心臓の鼓動を停止して絶対の
安眠に入り、その期間が終わると、息をふきかえして、普通の生活に入った事実
があるのである。

これは特殊な例であるが、精神力の集中によって、心臓の働きをも自由に支配し、
心臓を安眠させることこともできるのであるとヨガナンダは主張するのである。

          <感謝合掌 平成29年3月10日 頓首再拝> 

精神的疾患を防ぐ5箇条 - 伝統

2017/03/25 (Sat) 04:51:39

十六、精神的疾患を防ぐ5箇条

    *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P113)より

ヨガナンダは精神的疾患を防止するために次の方法をすすめるのである。

(1)心を平和に保つこと。

(2)宇宙生命に深き信頼をもつこと

(3)心を動揺せしめる想念から自由になり、
   心を安静と歓喜でみたすこと。

(4)精神治療のほうが、物質的治療よりも勝れることを理解する。

(5)生活を退廃せしめる悪習慣を避けること。

          <感謝合掌 平成29年3月25日 頓首再拝> 

霊的疾患を避けるには - 伝統

2017/04/12 (Wed) 04:58:51

十七 霊的疾患を避けるには

   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P114~115)より

彼は又霊的疾患を防止する方法として次の方法をあげているのである。

人間は死すべきもの、無常なるものという意識を破壊することによって
肉体を霊化すべきである。

彼にいわせれば肉体は物質化されたる「生命(せいめい)の波動」であって、
その実相を認めることが悟りの道であるのである。

老衰とか病気とか、死とかが肉体を侵し得るという迷いを去るには、
物質と霊とが本来「一つ」なる《霊的実在》であって、本来物質なるものは
存在しないと云うことを悟らねばならない。

物質と見えているものは《仮相》であるということを科学的に理解することに
よって、自己を物質視する迷いを取り除かねばならないのである。

そして人間は宇宙生命の実現として無限のものであるということを自覚し、
「父なる神の姿」に造られたることを固く信じ、従って不滅であり、
神が完全であるが如く自分も完全であることを固く信ずべきである。

エネルギーの不滅であるが如く、人間の霊も不滅であるのである。
物質は無常であり、精神も無常である。
無常とは変化することである。
変化するとは前のものが《なくなる》ことである。

即ちそれは死である。
然し、外形の死の変化は「実相」の変化でもなければ、
破壊でもないのである。

彼は毎日この真理を深く自覚せんが為に精神統一を行ない、祈りと
メディテーション(神想観又は座禅)をなすべく勧めているのである。

その精神統一において味わう所の平和と安静とを凡ゆる
実際生活の場合にあてはめよというのである。

いかなる苛辣(からつ)な境遇に置かれても、荒れ狂う感情や
身を切るような境遇の中に於いて毅然として立つことを修練せよ、
と彼はいうのである。

ここにも彼の意志を尊重する哲学が現れているのである。

          <感謝合掌 平成29年4月12日 頓首再拝> 

肉体は生命力の乗り物である - 伝統

2017/05/01 (Mon) 04:54:25

十八 肉体は生命力の乗り物である

   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P115~116)より

病気は普通の常識では外部的な物質的原因の結果であると考えられている。
そしてそれが内部の生命力の不活動から来たるものであるということを
理解することがない人は多いのである。

「生命力」の乗り物である所の肉体細胞及び、身体(からだ)の「組織」が
何らかの障碍を受けた時には、「生命力」はその場所から撤退して、
そしてそこに故障が起こるのである。

その時に用うる薬剤とかマッサージとか、電気治療というものは、
単に生命力をそこに刺激して修復の仕事を再び継続するように
促すための働きをするにすぎないのである。

          <感謝合掌 平成29年5月1日 頓首再拝> 

物質的治療の限界に就いて - 伝統

2017/05/15 (Mon) 03:29:53

十九 物質的治療の限界に就いて

   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P116~117)より

ヨガナンダは物質的治療に傾く事も、精神治療に傾く事も、
両極端者流を誡(いまし)めているのである。

患者自身の信念に従って、どんな治療法も、それを用いて適当なことがあるのである。

吾々は薬剤や食物や毒素・・・等はすべて吾々の血液及び身体組織に一定の
化学的作用を与うるものであるということを忘れてはならないのである。

吾々がいやしくも食物を食べてその化学的エネルギーを利用する限りに於いて、
薬剤その他物質が何ら肉体に影響を与えないと否定することは不合理であるのである。

人間がまだ物質的意識をもっている限りに於いて、これらのものは
或る場合有効に働くのである。

『然(しか)しながら』とヨガナンダはいう。

「物質的肉体は外部から与えられたものであるが故にその力に制限があるのである。
もっとも善き治療法は自然療能博士の治癒活動を促すために内部から生命力を
たすける所の方法である」と。

薬剤は血液及び身体組織の働きを科学的に補助するのである。
電気的物療装置も亦有効である。

然しながら薬剤も、電気も、病気を治すことはできないのである。
それは時として、其処を刺激して「生命力」を喚(よ)び出すので、
「生命力」のみが治癒機能を有するのである。

ヨガナンダは薬剤も物療も排斥しない代わりにその効力の限界を
はっきりさせているのである。

薬剤や物療はたんに「生命力」を刺激し、治癒力を誘導して、生命力の放棄していた
肉体の病的部分に生命力がかえって来るように促すだけのことである。

従ってもし吾々が、そういう媒介的物質を使うことなしに「生命力」を内部より
刺激して、治癒機能を直接に促進する事ができるならば、生命(せいめい)に
とって異物である所の薬剤や電気その他の外的援助を注入するということは
好ましくないことであるといっているのである。

マッサージや、オステオマスィや、指圧による脊椎矯正(カイロプラクチック)や、
瑜伽(ユガ)の行者の行なう特殊の姿勢等は何ら身体(からだ)をそこなう
外物を身体(からだ)に注入するのでないから弊害はないのである。

これらの方法は神経系統及び脊髄に於ける停滞物容易に除去する助けをなし、
それによって生命力の自由なる流入を可能さならしめる点に於いて効果がある
のであるとヨガナンダは云っている。

          <感謝合掌 平成29年5月15日 頓首再拝> 

精神治療から更に一歩進んで - 伝統

2017/05/28 (Sun) 04:52:07

ニ十 精神治療から更に一歩進んで

   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P117~119)より

これらの物質的治療を彼は斯く排斥しないが、精神治療は、物質的治療に
まさること萬々(ばんばん)だといわなければならないと主張するのである。

なぜなら精神治療に用うる所の、意志の力、想像の力、信仰の力・・・等々は
意識の異なる面であってそれは実際に直接的に「生命(せいめい)」に対して
内部から働くのであり、生命力をしてある一定の仕事をなさしめるために
精神的刺激を与えて、その方向に生命力を振り向けしめるからである。

何(いず)れににせよ物質治療も、精神治療も、病気を治すのではないのである。
只(ただ)それは生命力に影響を与えてそれを目覚めしめる限りに於いて有効である
のである。

治すと所の力は生命力であるのであって、何れの治療法が優秀であるかは
生命力に働きかける力の大小によって定(さだ)まるのである。

精神治療と物質治療との、その上に位するのが心霊治療であって、それは
意志の力と生命力とを直接的に働かしめるものであって、ヨガナンダは
これを「セルフ・リアライゼーションメソッド」(Self-Realization Method)
といっているのであって、

それは吾々が生長の家に於いて「真理の黙念」の修行である所の神想観と
いっているものにすこぶる似ているのである。

それはたんに暗示によって想像力を喚起するのではなく、意志の力によって
一定の真理の言葉を精神統一的に念ずるのであって、それが深い境地に達する
ならば全身に生命力の流れが音をたてて流れているように感じられるといっている。

然(しか)しヨガナンダは薬も排斥しないのである。
小さい傷口等には外用薬をつけて黴菌の侵入を防ぐのもいいのである。

もし吾々が腕の骨を折った場合にはその折れた腕の相(すがた)を神に任せて
医師が適当な位置に骨と骨をならべて接着させることも排斥するというが
如きは非常識も甚だしいと云っている。

医師も神の子であって、神の定(さだ)めた法則を物質的に応用しているに
すぎないのである。無論心の力によって折れた骨が治らないというのではない
のである。

激しい打撲傷で折れくぼんだ肋骨が、自然に元の位置にかえって治癒して
しまった実例の如きは生長の家でも体験発表されたことがあり、
心の力を骨折の場合には利用できないというのではない。

が、それだけの精神力に到達していないものが、
それだけの精神力を養成するまで骨の折れたのを医師にかけずに放置する
というのは没常識であるというだけのことである。

人は各々自己の境地相応の生活をするほかはないのである。

          <感謝合掌 平成29年5月28日 頓首再拝> 

物質も精神も一種の夢に過ぎない - 伝統

2017/06/13 (Tue) 03:50:51

ニ十一 物質も精神も一種の夢に過ぎない

   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P119~120)より

ヨガナンダはこのように物質治療も、医術の力を認めているのであるから、
物心両方面の存在を認めているのであるかというと、決してそうではないのである。

むしろ彼は、《物質も精神もともに一種の夢としてその存在を否定しているのである》。
「《物質は吾々が普通認めるが如き状態では存在しないのである。それは妄想として
存在するのである》」と《彼はいっている》。

「物質は存在するという意識は迷妄の法則によって人間を占領しているのであって、
この迷妄を解脱する反対の法則に従う事によってのみ物質が存在するという意識を
消散する事ができる」と。

  (註)これは生長の家の『甘露の法雨』の
    「夢と妄想との産物なる物質と肉体とに求むること勿れ」とあるに一致する。

併し、人間が迷妄の世界に於いて生活する限り、物質治療も精神治療も排斥し得ないが、
極端に物質的医療のみを信ずる者も、極端なる精神治療崇拝者もともに偏っているので
あって本物ではないと彼はいう。

この種の人々は物質と霊との間に 劃然と一線を 劃するのであって、
霊と物質とが本来同一のものであることを知らないのである。

「霊は物質化の過程を通して物質となって現れ出たものである。
それ故物質はその本源である所の霊と全然別種のものではないのである。
物質は霊の一部分的表現にすぎない。

換言すれば無限なるものが、有限に現れたのである。
それ故《物質はない》のであって、物質は霊が仮相として表現をなしているのである。
だから霊なしには物質は存在しないのである。

かかるが故に霊《のみ》存在する、物質は存在しないのである」

という筆法で彼は説く。

          <感謝合掌 平成29年6月13日 頓首再拝> 

ニ十二 自我・意識・物質の関係~その1 - 伝統

2017/07/02 (Sun) 04:03:57


   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P121~123)より

意識といい、物質というものはともに、見えざる分割し得(う)べからざる
霊の表現にすぎないのである。

意識と物質との相異はたんに相対的にすぎないのである。

《意識は、超越的霊の深い精妙なる振動であるに反し、
物質はその粗大なる波動であるのである》

すべてのものはヴァイブレーション(波動)の創造であるが、
その本源は唯一の霊である。

唯一の霊のみ存在するのであって、「知るもの」と、「知ること」と、
「知らるるもの」とは、霊的に「一つ」であるのである。

創造の働きによって唯一の霊が2つの性質のものを現わしたのである。
即ち一つは「意識」であり、一つは波動的「物質」である。
意識は《主観的性質の波動》であり、「物質」は《客観的性質の波動》である。


哲学的にいうならば物質と霊との間の相異ではなく、ヴァイブレーションの
程度の相異であるのである。

すべてのヴァイブレーションはその本質からいうならば同一のものであるのである。
1秒間に20乃至2萬振動のヴァイブレーションは粗大な振動であって、
聴覚器官に音としてきくことができるのである。

こに対して20以下の振動及び2萬以上の振動は
吾々の聴覚器官にふれることができない。

意識のヴァイブレーションに至っては、極めて精妙であり粗大な吾々の器官を
もってしてはとらえることができないのである。

ただ《意識のみが意識をとらえ得るのである》。
意識ある人間のみが他の人間の意識の振動を知ることができるのである。

ある室内で或る人が意識の特殊の振動を起こしていたならばその室内に入(い)る
他(た)の人はその部屋に印象されたる意識の振動を感ずることが出来るものである。

即ち前にその部屋に住んでいた人が暗い気分であったならば、
その部屋に入(はい)ると何となく暗い気持ちになるが如きがそれである。


このように、意識の精妙なる振動と物質の粗大なる振動とは根本的に相異する
のではなくたんなる表面的相違であるとヨガナンダはいう。

それは程度の相異であるのであるが、その振動数が極めて顕著に相異しているが
ために、人間の意識には、たんなる程度の相異とは感じられずに
種類の相異の如く見得るのである。

意識は物質と称せられる稍々粗大なる振動をするエネルギーの被覆の中に
存在する所の一そう精妙なる力であると認められるのである。

別のいい方をもってすれば意識は霊の起こした《第一次》のヴァイブレーション
であり、物質は意識が《二次的》に起こした粗大なるヴァイブレーションの
結果の表現であるのである。

「自我」は意識を直接に認識し、物質(肉体等)を間接的に認識する―― 
即ち感覚とか知覚とかを通して認識するのである。

          <感謝合掌 平成29年7月2日 頓首再拝> 

自我・意識・物質の関係~その2 - 伝統

2017/07/19 (Wed) 04:21:52

ニ十二 自我・意識・物質の関係~その2

   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P123)より

以上述べたように物質と意識は本来「一」であるが、
それを多くの人達は理解しないのである。

生きている人間と、死骸とを一緒にならべてみると非常なる相異が認められるので、
単なる「肉体」と「意識」とは別物であるというような迷妄的観念を生ずるのである。

死骸を見れば意識が存在しないし、生きている人には意識が存在するために、
物質と意識とは顕著な相異があると推理し始めるのであるが、それは

「死骸も、健康なる人も、ともに幻覚乃至夢の状態を支持する人間の意識の力が
顕している所ののものであって、三界唯心の原理によって発生しているものだと
いうことを知らないのである」 とヨガナンダはいうのである。

これは『甘露の法雨』にたんなる病人が存在しないばかりでなく、
健康なる力士も存在しないのだと、健不健の何(いず)れの肉体をも
否定してしまっている観方と一致するものがあるのである。

          <感謝合掌 平成29年7月19日 頓首再拝> 

ニ十二 自我・意識・物質の関係~その3 - 伝統

2017/08/04 (Fri) 04:48:40


   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P123~124)より

ヨガナンダはいう
―― 夢を見ている場合にはその人は美しい花園を愉快に散歩していると観ずる。

所が、そこに突然親友の死骸が横たわっているのを見る。
その人は悲しみにとらわれ、涙を流し頭が痛み、心臓がどきどきする。

所が突然沛然(はいぜん)たる暴風雨がやって来たと夢みるまに
全身は濡れてつめたくなる。

その人は驚いて目を覚ます。
そして何だそれはすべて夢であったかと笑うのである。

《この夢の影響の下にある人の夢中の体験と、覚めた状態に於いて、心に描いた波動と
感じている人の体得とどれだけ相異があるであろうか》。

夢中に於いても、現実に於いても、物質を感ずる意識も、
心を感ずる意識もともに存在するのである。

夢中の人はその夢の中に「物質」と「意識」とを《創造する》のである。

現実の人は覚めた姿に於ける心の波動によって
「物質」と「意識」とを《創造する》のである。
それが病気の創造ともなって現れて来るのである。

          <感謝合掌 平成29年8月4日 頓首再拝> 

ニ十三 宇宙意識にも迷いがあるという説~その1 - 伝統

2017/08/19 (Sat) 03:59:26


   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P124~125)より

このような迷(まよい)の創造が人間の意識に可能であるならば、
無限に強力なる宇宙意識も亦その末那識(まなしき・宇宙的迷妄心)によって
人間の夢みた夢中の存在よりもも少し永続的な夢を人間の意識の中に創造する
ことが出来、それによって比較的永久的に物質と意識とが別々に存在するような
夢を創造することもできると云わなければならないのである。

考えて見れば、「健康を求め、或いは幸福を求め廻る人々も、
病気を恐れ、死を怖れ、惜別の悲しみを恐れる人も皆これらの影響の下(もと)
にふりまわされているのだいわなければならないのである。

即ち、「健康」は「病気」とは異なるものであり、「生」は「死」と異なるものであり、
「悲しみ」は「喜び」と異なるものであるというような
迷妄の下(もの)迷いを脱することができないからである。

かくて普通の人間は病と健康と、死と生と、慈愛と喜悦との二重生活を夢みている
のであるが、彼がそれに目覚めた時、それがたんなる夢であり、夢みている
意識のまどわしにすぎないことを悟るのである。

もし吾々が自己の実相を自覚するならばこれ等の二重的存在は消えてしまい、
すべての欠乏はただ幻である、すべての欲望も消滅してしまうと
ヨガナンダは云っているのである。


          <感謝合掌 平成29年8月19日 頓首再拝> 

ニ十三 宇宙意識にも迷いがあるという説~その2 - 伝統

2017/09/03 (Sun) 04:33:22


   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P125~126)より

これらの真理がわからない人には、物質的治療がどうだとか精神的治療が
どうだとか、それらのどちらを強調しようが、全然無視してしまおうが
どちらも意味なき事である。

然(しか)しこの真理の行ったんでもわかった時、心の治療力が薬剤の治療力に
まさるということは否定すべからざることである。

然し又、薬剤や薬草の或る程度の治療力を否定することも、
人間が物質的意識を夢見ている限り不合理である。

されば吾々が精神治療を推賞して凡ゆる物質治療を嘲笑し去る必要もないのである。

それは宇宙意識の世界に描かれた物質的法則の研究の結果であって、
すべてが心の現れであるということを知った上で、
物質治療のある程度の有効さを認めることも必要であるのである。

          <感謝合掌 平成29年9月3日 頓首再拝> 

ニ十三 宇宙意識にも迷いがあるという説~その3 - 伝統

2017/09/20 (Wed) 04:49:48


   *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P126)より

ヨガナンダの云う要点はこうである ―― 
多くの人々は物質治療に傾くか精神治療に専念するかして
その2つの方法の一致点を見逃しているのである。

物質治療の法則は精神治療の法則と決して矛盾するものではないのである。
何故(なぜ)なら物質の法則はたんに霊の法則の延長にすぎない。

然し霊は本源であり、物質はその延長又は表現であるから、
物質の法則は霊の法則よりももっと限られた力しかないものである。

従って物質治療の限られた効力よりも精神治療の尚一層偉大なる力の方を
彼はまされりとしているのである。


彼によれば、根本的には人間の肉体は幻影に過ぎないのであるが、
苟(いやし)くも、肉体が存在するという物質的意識の存する限りに
於いて人類から薬剤の使用を全然なくすることはできないと云うのである。

人間は肉体であるという意識が減少してくるに従って、それだけ薬剤の
癒やす力を信ずることも減少し、凡ゆる肉体的疾患は心にその根をもつ
ものであるということを悟るに到るのである。

          <感謝合掌 平成29年9月20日 頓首再拝> 

ニ十三 宇宙意識にも迷いがあるという説~その4 - 伝統

2017/10/07 (Sat) 03:37:18


  *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P126~127)より

ヨガナンダはいっている ―― 

「吾が師は決して決して薬剤の不必要を説かなかった。
然し弟子たちの意識を訓練し、拡大した結果、薬剤に対して
頼ることがないように、自然にそうなったのである。

そして病気になった時には心の力を以って
自分自身で治癒せしめたのである」と。

ともかく、一方に於いて極端に物質及び薬剤の存在を否定していながら、
他方に於いて一日飯(めし)を食べなかったら生きることができないと
感ずる程に自分を肉体的存在だと思い込んでいるならば、
それは矛盾しているといわなければならないのである。

「毎日ランチにビフテキを食べるその同じ口で物質の存在を否定するのは
矛盾している」とヨガナンダはいっている。

「真の悟りの状態に於いては肉体も心も、生も死も、健康も病気も
ともにたんなる幻覚であるということがわかるのである。
かかる状態になったもののみが、食物(しょくもつ)も薬剤も
外科治癒も不必要であるといい得るのである」 と。

          <感謝合掌 平成29年10月7日 頓首再拝> 

ニ十四 物質的意識からは徐々に解放せよ。 - 伝統

2017/10/24 (Tue) 04:49:08


  *「生活応用 健全の真理」第6章ヨガナンダの精神治療理論(P127~128)より

また、物質の存在を固く信じている程度の人に急激に物質の非存在を教えることは、
非実際的であり危険であり、偏った熱狂者を造ることになるといって
ヨガナンダは戒めている。物質存在の迷妄を除去するにはたんなる想像力や
狂熱的な信仰によってなし能(あた)うことではないのである。

それをなすには徐々に真理の思念法を続けて行かなければならないとしている。

まず物質的意識から解放して人間を霊的存在であるとの自覚に到る階梯として、
薬剤や物質治療を行わずして、物質に頼らないでも自然に内部の力が癒してくれると
いうような体験から徐々に「人間は物質に非ず、肉体に非ず」ということを
知らせるが良いとしている。


肉体は固体、液体及び瓦斯体の混合物として物質化した所の
波動の現れであるのである。

肉体の背後に、精妙なる人間意識のヴィアブレーションがある。
その人間の意識は精妙であるが、普通の人間は迷いによって
神の意識から隔絶されてしまっているのである。

そして罪と病と死との夢を見ているのである。
宇宙意識の中にはなお迷いがあるが、
神の意識の中には罪も病も死も存在しないのである。

それを自覚しないで夢中に幻(まぼろし)を見ているものが
現実世界の諸種の不幸であるのである。

この夢中の幻から自己を解放する方法が即ちヨガナンダの
「セルフ・リアライゼーション・メソッド」(Self・Realization・Method)
であるのである。


(以上で、「生活応用 健全の真理」第6章の紹介は完了です。
 次回以降は、「生活応用 健全の真理」第7章の紹介を予定しております)

          <感謝合掌 平成29年10月24日 頓首再拝> 

一 精神統一の形式 - 伝統

2017/11/09 (Thu) 04:49:50


    *「生活応用 健全の真理」第7章 
     精神統一の形式と真理の黙念法(P129~131)より

すべて善き言葉は潜在意識の中に植えつけられて
善き果実を結ぶ種子(たね)となるのである。

その善き言葉が信仰及び精神統一の力によって培養せられて、
それが根を卸(おろ)して深く潜在意識の中にはびこり、
更に宇宙意識の中にまでその善き言葉が滲透する時、

それは宇宙的な養分によって養われ、すばらしき偉大なる果実を
結ぶに到るのである。

善き言葉の種子(しゅし)を潜在意識の中に蒔くためには色々の方法がある
のであるが、ともかくその「善き言葉」は、生き生きとした言葉でなければ
ならないし、雑念や疑いをさしはさんではならないのである。

信仰と、熱情と、精神統一と、平和なる信頼の念とによって魂の底深く
「善き言葉」をくりかえすことが必要なのである。

だからヨガナンダは簡単な機械的な言葉のくりかえしを避けているのである。

その点、生長の家の『甘露の法雨』の読誦に類している自由詩のような
美しき言葉を、詩を朗誦するように、まず自分の耳にきこえる言葉にてそれを
朗誦し、やがて次第に声を低くして深く魂の奥底にその言葉を印象することを
すすめているのである。

ヨガナンダが採用した所の精神統一の形式と、真理の言葉の黙念法とは
大体次のようなものである。

(1)北方又は東方に向いて坐すること。

(2)目をとじる。
   心を延髄即ち後頭部に集中して精神統一をはかる。

   脊柱を真直ぐにする。
   胸を高くあげ、腹をひっこめる。

   その姿勢でどこにも力みなく完全に体(からだ)をゆるめる。
   深く息を

(3)体の力をすっかり抜いてただそのまま静かに体を保つのである。
   心を空っぽにして肉体の感覚を蕩尽(とうじん)し、体の重さ、
   外界の温度、音響その他のものから全然心をはなしてしまう。

(4)心を神に対する熱情でみたすのである。

   心の思い煩(わずら)いを捨て、いと静かに神の法則が到る処に充満しており、
   無限の力が自分の中に妨げさえせねば今こんこんと流れ入って来ていることを
   思い出すのである。

   そしてすべて肉体の状態は変化しつつあるのであってどんな病気といえども
   根治しないということはないこと、慢性病の如きは畢竟幻にすぎないという
   ことを想念するのである。

(5)自分の癒やすべき病気のことについて全然忘れてしまう。
   そして唯(ただ)大生命が自分に流れ入ることのみを念ずるのである。

(6)多勢(おおぜい)の集まりにて思念する場合には指導者は、
   立ったままリズミカルな調子で「真理の言葉」を朗読する。

   一節の朗読が終わると集会している人達がその同じ言葉を
   同じリズムをもって復誦するのである。

          <感謝合掌 平成29年11月8日 頓首再拝> 

ニ 病気治療に用うる真理の言葉~その1 - 伝統

2017/11/23 (Thu) 04:54:55


    *「生活応用 健全の真理」第7章 
     精神統一の形式と真理の黙念法(P131~144)より

ヨガナンダの創作にかかる一般の健康増進又は病気治療に用いる詩句は大体、
次の如きものである。

これは、純粋の翻訳によらず、翻訳と云うものは却ってギコチなくなって、
詩情を失わしめ、信仰と熱情を去勢してしまうから、その意味をとったものを
更に私の信仰の情熱で再現したものが次の通りである。
(以下これに準ずる)


   吾が感情と
   想念と
   意志との聖(きよ)き想念に、
   神は坐し給う、
   神は坐し給う


   吾がすべての感情と
   意志と
   想念との上に
   神は坐して導き給う。


   吾が感情よ
   吾が想念よ
   吾が意志よ
   神に従え。


   神よ吾らを導き給いて
   汝(な)があり給う如く
   吾らをして完全ならしめ給え。

          <感謝合掌 平成29年11月23日 頓首再拝> 

ニ 病気治療に用うる真理の言葉~その2 - 伝統

2017/12/12 (Tue) 04:08:03

   神よ汝(なんじ)は
   吾が意識の奥殿に坐し給える光(ひかり)である、
   吾を導きたまう光である、
   今まで吾は気づかりしが、
   今明らかにそれを見る。


   ここは汝(な)が聖なる奥殿、
   今ここは完(まった)く清し、
   それに気づかず、吾れ寐(い)ねて
   悲しみと別れの満ちし
   あばら屋を夢みし我の愚かさよ。


   されど
   神吾を目覚めしめ給いぬ、
   神吾を目覚めしめ給いぬ、

   今ここは神の国なり、
   神の国は今や全(まった)し、
   神の国は今や全(まった)し、

   吾れ神をあがめまつらん。
   吾れ神をあがめまつらん。


   吾が魂の深き底より
   吾が肉体の細胞の隅々までも
   吾れひたすらに神を愛せん。


   吾れ汝(なんじ)とともにして、
   至大無外(しだいむがい)
   至小無内(ししょうむない)
   電子の中(なか)にも舞踊せん。

   ああ神よ、君は星にも、
   はるかなる天の河(あまのがわ)にも、
   吾が体(からだ)にもすべていまして、
   吾(われ)を生かし導き給う、
   吾れ汝(なんじ)を高くあがめん。


   神の国の神のみこころ
   吾が中(うち)に流れ入り来(きた)りて
   吾が心となり給いて、
   吾が内(うち)に輝き満ちぬ、
   吾が内(うち)に輝き満ちぬ。

   されば吾がねがいは
   されば吾が求めは
   されば吾が働きは、
   吾が業(わざ)のなすに非ず、
   神により行なわれ
   且(か)つ導かる。

   吾が意志は吾が意志ならず、
   神の意志吾を導く。

          <感謝合掌 平成29年12月12日 頓首再拝> 

ニ 病気治療に用うる真理の言葉~その3 - 伝統

2017/12/30 (Sat) 04:05:49


   ああ神よ、神の子たる吾よ!

   神の国なるそのままの
   善き姿にてあらしめよ、
   
   汝(な)が愛は吾に全(まった)し
   神の国に汝(な)が完(まった)きがごと
   吾そして完(まっ)たからしめ
   すこやかに身も亦(また)心も、
   汝(な)が如くすこやかならしめ、
   神の子としてかくあらしめ給え。


   神はすべての所に
   行きわたり満ちてなします。

   神のいます所に完全(かんぜん)はみちわたる
   吾が体(からだ)の凡(あら)ゆる隅々にも
   汝(な)が生命(いのち)はみちわたる。

   されば吾は健やか、
   されば吾は全(まった)し。

   神のねがわくば、
   吾(わ)が内にあなたのいますを
   吾らすべてに、すべての人に、
   感ぜしめ知らしめ給え。


   吾が生命(いのち)の生命(いのち)なる神よ、
   吾は全(まった)し。
   到る処にいまし給う。

   吾が心臓にも、吾が脳髄にも、
   吾が目にも、吾が顔にも、
   五臓六腑到る処に、
   常にいまして生かし給う。

   されば吾が体(からだ)は全(すべ)て完(まった)し。
   吾が五体、悉く健やかにして
   神はすべてにいまし給う。

   神は吾が足を支え給い
   吾をして仆(たお)れざらしめ給う。

   吾が体(からだ)すべて全(まった)し。
   神ここにいまし給う。
   吾が体(からだ)すべて全(まった)し、
   神ここにいまし給う。


   神はわが咽喉(のど)にも、延髄にも、内臓にも、
   その生命(いのち)の輝きをもてみたし給う。

   されば吾が体(からだ)すべて全(まった)し。

          <感謝合掌 平成29年12月30日 頓首再拝> 

ニ 病気治療に用うる真理の言葉~その4 - 伝統

2018/01/23 (Tue) 04:16:27

ニ 病気治療に用うる真理の言葉~その4(P140~144)

   神の光、吾が脊柱を稲妻の如くひらめき流れ
   凡(あら)ゆる神経細胞に行きわたりてすべて全(まった)し、
   すべて全(まった)し、
   吾が体(からだ)すべて全(まった)し。

   すべて全(まった)し。
   吾が体(からだ)すべて全(まった)し。

   静脈にも、動脈にも
   毛細血管にも
   神はその生命’いのち)を流れ入らしめ給い
   吾をして健やかにならしめ給う。

   されば吾は全(まった)し、
   吾が体(からだ)すべて全(まった)し。


   神よあなたは
   吾が胃腸を流れる生命(いのち)の光であり給う。

   われば吾が胃腸は常に全(まった)し、
   あなたは私自身であり給い、
   私はあなた自身であるが故に、
   あなたは私であり、
   私はあなたである。

   吾が体(からだ)そのままに神なり、すべて全(まった)し。


   神よあなたは
   吾が脳髄であり給い
   吾が内に輝き給う。

   吾は健やか、吾は全(まった)し。


   神よ、吾が想像の翼を自由ならしめ給え、
   吾が想像の翼を自由ならしめ給え、
   吾れ病むと吾れ思う時吾は病むなり。
   吾れ健やかと吾れ思う時吾は健やか。


   吾れ今思う、今思う。
   吾が体(からだ)、吾が心共に全(まった)し。
   吾は全(まった)し、吾は全(まった)し。
   吾は喜ぶ、吾は喜ぶ。


   吾れかつて吾れ病めりと夢みてありしかど、
   吾れ今目覚めて歓喜して咽(むせ)ぶなり。

   喜びの涙かきたれ、
   愚かにも病い夢見し
   吾が過去を振り返り見て、
   
   吾れ笑うなり、
   吾は健やか、
   吾は全(まった)し。


   おお神よ
   神の愛吾をひたせり、
   そのさまを今眺めつつ
   喜びてふるえ戦(おのの)く

   吾は神の子、
   善きことのほか何事もなし。

   吾は神の子、
   神よ、あなたの、
   健やかなる生命(いのち)の流れを
   明らかなる智慧の流れを
   身の内に感ぜしめ給え。


以上のような詩のようなリズミカルな真理の言葉を静かに念
又は合唱することにするのが一般的治病の方式なのである。

          <感謝合掌 平成30年1月23日 頓首再拝>

三 想像力利用の想念法 - 伝統

2018/02/08 (Thu) 04:06:02

三 想像力利用の想念法 (P144~145)

心に描く想念の力を主眼として神より受けるための真理の言葉としては、
前額の部分に精神を集中して次の如き詩句(しいく)を心に繰り返して
その有様を心に描くようにすすめているのである。


   吾が頭脳より吾が体のすべての部分に、
   神の生命(いのち)こんこんと流れ入り流れ入る。

   生命(いのち)の光り内部組織の凡ゆる部分に行き亙(わた)り、
   照り輝きて吾が体(からだ)光明遍照。

   生命(いのち)の洪水は脊髄を今貫流し
   溢れ出(い)で、全神経系統に行きわたる。

   全身四百兆の細胞は、
   その小さき口をそろえて
   その生命(いのち)の流れを吸うのである。

   全身の細胞の小さき唇は、
   生命(いのち)の光で照り輝いているのである。

          <感謝合掌 平成30年2月8日 頓首再拝>

四 意志力応用の想念法 - 伝統

2018/02/25 (Sun) 03:58:23

四 意志力応用の想念法 (P146~147)

意志を働かせて、意志の力によって潜在意識に健康の観念を吹き込むためには、
ヨガナンダは延髄と眉間とに同時に精神を集中して、最初は朗々と、
次第にささやくような声で、次の如く唱えよと教えているのである。


   吾は吾が生命(いのち)に神の生命(いのち)を注ぎこまんと欲す。
   吾は吾が神経及び筋肉のすべてに、
   吾が全身の組織に、

   宇宙の隅々までも、
   神の意志を注ぎこまんと欲す。

   焔(ほのお)の如く喜びに燃える生命力を、
   えんえんと燃え上がる生命(せいめい)の火を、
   神のいと大いなる生命(せいめい)の流れを、

   吾至上の命令権を以って
   吾が血液の中に
   吾がすべての細胞の中に

   燃え上がる炎となって、
   神の生命(いのち)よ照り輝け。


   吾至上権を以って命ず。

   神の生命(いのち)よ
   燃え上がる炬火(きょか)となって
   吾が全身に照り輝け!

          <感謝合掌 平成30年2月25日 頓首再拝> 

五 正しき理性を発達せしめる想念法 - 伝統

2018/03/13 (Tue) 04:36:10

五 正しき理性を発達せしめる想念法 (P147~149)

心(こころ)晦瞑(かいめい)にして正鵠(せいこう)の判断を得ざる如き人が、
理性を発達せしめ正しき理性の導きを得るためヨガナンダは次の如くすすめているのである。

(1)真理の書をよむこと。
   よくかみしめ、かつ重要な点にマークを施すこと。

(2)真理について理論的な考察をすること。

(3)理性的判断を実行して理性を鍛錬するために必要なプランを
   自分自身で考えてその最善の方法を講ずること。

(4)1時間真理の本を読んだならば2時間それにについて書いてみること。
   そして3時間真理について考えてみること。

   その割合は理性を教養するためには是非行わねばならない割合だと
   ヨガナンダは云っているのであります。

(5)理性の発達のために神より示された所の精神的法則に従うこと。

(6)真理の言葉の朗誦(ろうじゅ)または黙誦(もくじゅ)が、
   魂の底深き力にて行われる時には、アカデミックな心理学者が
   到底不可能だといっている内部知性の発達をとげることができるのである。

(7)物質の法則に従いながら、尚一そう優れたる心霊の法則によって支配することを
   なすならば、物質の法則の上に超越してそれを霊的に導くことができるのである。

   物質の法則を克服して、心霊の法則の超越的な優秀性を実証する為には
   無暗に物質の法則を無視してそれを逆行しようとしてはならないと彼は云う。

   空気の抵抗に超出しようとしたならば、空気の法則に従いながら、
   それを利用して飛行し得るようなものである。


そのためにヨガナンダは次のような思念をすすめているのである。
この時には頭蓋骨の下に精神を集中し、脳髄の重みを感じているような感じで
次のように思念するのである。


   私の智慧の奥殿に神は宿り給い
   神は坐し給う、
   神は私の内に宿る理性である。

   神は今目覚め給いて
   私の脳髄のすべての善きものを感受せしめ給い、
   神の与え給う凡ゆる智慧を完全に受けせしめ給うのである。

   神は私の智慧である。

   神はみずからの主人公であって、
   私自身思考するのである。
   私自身判断するのである。

   私は神に対して依頼心を起こさないのである。

   而(しか)も神は、
   理性があやまった時には導き給いて、
   正しき目標に達せしめ給うのである。

          <感謝合掌 平成30年3月13日 頓首再拝> 

六 智慧を求める真理の言葉 - 伝統

2018/03/30 (Fri) 03:32:33

六 智慧を求める真理の言葉 (P149~154)

   おゝ永遠の父性にして母性なる神よ、
   吾が主(しゅ)なる神よ、
   吾が友なる神よ、

   吾(われ)一人来たり、
   吾一人行く。

   吾一人行く時汝(なんじ)と二人なり、
   吾一人行く時汝(なんじ)と二人なり。

   おゝ神よ、あなたは私のために、
   吾が生命(いのち)の住居(すまい)を
   生ける細胞をもて造り給いぬ。

   この住居(すまい)は汝(な)が住居(すまい)なり。
   汝(な)が生命(いのち)の、吾がために造り給える住居(すまい)なり。
   汝(な)が力の、吾がために造り給える住居(すまい)なり。

   汝(な)が住居(すまい)は完全なり。
   汝(な)が住居(すまい)は完全なり。

   吾は神の子、
   あなたは吾が父にてまします。

   吾れ一人いる時汝(なんじ)と二人なり。

   この同じ住居(すまい)に吾は汝(なんじ)と共に住む、
   生命(いのち)の細胞をもて造られたる殿堂(でんどう)に、
   ここにあなたは常に私と共に住み給う、
   吾が心(こころ)脈打つ魂の祭壇の上に住み給う。


   吾れ遠く流れ行きしかな
   暗(やみ)とあいたわむれつつ。

   吾れはるかに流れ行きしかな
   迷いとあいたわむれつつ。

   愚かなる放蕩の子は、
   はるかにも流れ行きしが、
   吾がふるさとを恋(こ)い慕い、

   今かえりしかども、
   吾が目は暗(やみ)にて蔽(おお)われ、
   吾が手は泥にて汚(けが)れたりき。

   吾が父は近くにましませども、
   吾(われ)は父を見出し得ざりしなり。

   吾が父は全(まった)かりしかども、
   吾(われ)は見ることを得ざりしなり。

   吾は盲人(めしい)なりき、
   吾は盲人(めしい)なりき。

   今(いま)光はここにあれども、
   見ることを得ざるは
   吾が罪に過ぎず。

   見ることを得ざるは
   吾が罪に過ぎず。

   されど暗黒の底にも
   汝(な)が光は輝き給う、
   汝(な)が光は輝き給う。

   光の行く所には
   暗(やみ)はとどまることを得じ、
   暗(やみ)はとどまることを得じ。

   智慧と愚かさとは
   一つ所にとどまることを得ず。

   暗(やみ)よ去れ、
   迷(まよい)よ去れ、
   暗(やみ)は消えたり、
   暗(やみ)は消えたり。


   吾が全身の細胞は神の御光(みひかり)にて造られてあるなり。

   吾が肉の体(からだ)は、
   もはや肉のものに非ず、
   神のものにて造られてあるなり。

   吾は完全なり。
   そは、神は完全なればなり。

   吾は健やかなり。
   そは神が健やかなればなり。
 
   吾は霊なり。
   何故(なぜ)ならあなたは霊であるからである。

   吾は不滅なり。
   そは、神は永遠に生き給へばなり。

          <感謝合掌 平成30年3月30日 頓首再拝> 

成功を得るための想念法~その1 - 伝統

2018/04/21 (Sat) 03:34:28

七 成功を得るための想念法(P154~160)~その1

失敗続きで、失敗の潜在意識で悩まされている人の心を改造するためには
又別の思念法を用いるのである。

ヨガナンダは極端な神霊者流ではないのであります。
彼は成功は神の法則と物質の法則との両方に従う事によって
得られるのであるとしております。

成功するためには精神を念じているばかりでは役に立たないのであって、
物質的成功は人生の凡ゆる必需物を得ることによって成り立っているのであると
説いているのである。


もっとも財貨を獲得するには、財貨それ自身の獲得を目的としてはならない
のであって、社会、国家、人類を改善せんがためにその財貨を利用することを
目的としなければならいとヨガナンダはいっているのであります。

物質的な財貨獲得法は、しばらく措(お)き、精神面からの財貨獲得法には
現在意識的、潜在意識的及び超越意識的方法がある
とヨガナンダは説いている。


成功する為の潜在意識的方法は、朝眠りより覚めた時と、
夜眠りに入(い)る直前とに真理の言葉を繰り返すのが好いとされている。


たとい吾々が超越意識的力(神の力)を成功のために喚(よ)び出そうと
欲しても、現在意識の努力を停止しなければならぬということはないのである。

意識的に、現実に於いて必要な成功の計画を綿密に失敗を防ぐ方法を講じて
努力すると同時に、神の法則が、その成功目的を達成せしめる如く
自分に協力してくれつつあるという深い信念をもつことが必要なのであります。

この方法によれば現在意識による行動が超越意識の導きと連結して
完全なる結果を得ることができるのである。


ます第一に自分が神の子であるということを信じ、されば父なる神に属している
凡ゆるものを獲得する権利があるということを信ずるのである。

それを疑っては根本が覆(くつが)える。

何でも求むるものがある時には、直ちに失敗の観念を投げすてて、
すべてのものは神の子たる自分に属しているのだということを、
心に深く思念して悟ることが必要なのである。


潜在意識が、吾々自身が神の子として神のもち給えるすべてのものを
得(え)る権利があるということを信ぜず、知らざる場合には、
この神聖なる権利を放棄したことになるのである。


神から来たる所の無限供給の資源を利用しようと思うものは
「神の子無限供給」の真理を潜在意識に浸透せしめるように努力し、
そのあやまれる心的傾向を粉砕してしまうことが必要なのである。


こうして潜在意識も、超越意識も、現在意識も、ともに成功に協力する時、
現実界に本当の成功が持ち来たらされるのであります。

まず潜在意識の「不成功」の迷いを払拭して、「無限供給」の観念に
置きかえるためには次のような真理の言葉を念ぜよとヨガナンダは
教えているのである。

もっともこれを数回唱えたからといってすぐ成功するというわけではないので
あって自分の潜在意識内容を変化し得るまでに継続することが必要なのである。

(次の詩に続く)

          <感謝合掌 平成30年4月21日 頓首再拝> 

成功を得るための想念法~その2 - 伝統

2018/05/18 (Fri) 04:19:33

七 成功を得るための想念法(P154~160)~その2


   神よあなたは吾が父であられます。
   成功と喜びの吾が父であられます。

   私はあなたの子であります。
   成功と喜びとの神の子であります。

   地上の凡(あら)ゆる富と
   宇宙の凡(あら)ゆる資源とは
   悉(ことごと)くあなたのものです。

   私はあなたの子であります。
   地上の富も、宇宙の資源も
   悉く神の子のもの、
   悉く神の子のもの。

   吾れかつて貧しさを心に描き、
   貧しさの夢を見し故、
   貧窮の子なりしかども、
   神よ、この放蕩の子を赦し給え。

   今この放蕩の子は
   神のみ許(もと)に帰ってまいりました。

   神はそのもち給えるすべての富を吾(われ)に与えて、
   豊かなる神の子として下さいました。

   私はすでに豊かであります。
   私はすでに成功であります。

   あなたは私のための宝庫であります、
   私はすでに富んでいます、
   私はすでに富んでいます、

   あなたはすべてであられます、
   あなたはすべてであられます、

   あなたは私のものであられます、
   私はすべてのものの持ち主であります。

   私はすべてのものを持っているのであります、
   私は豊かなのです、
   私は富んでいるのです、

   私のものでないものは一つもない、
   私のものでないものは一つもない、
   私はすべてのすべてを持っているのです。
  
   神がすべてを持ち給う如く、
   私はすべてのものをもつのです、
   私はすべてのものをもつのです、
   神よあなたは私の富であり給う。

   私はすべてのものを持つのです。

          <感謝合掌 平成30年5月18日 頓首再拝> 

霊の勝利を得るための想念法 - 伝統

2018/06/14 (Thu) 03:21:31

八 霊の勝利を得るための想念法

    *「生活応用 健全の真理」第7章 
     精神統一の形式と真理の黙念法(P160~161)より

以上は潜在意識に成功の観念を吹き込んで、失敗の観念を一掃するために
朗読又は黙誦すべき言葉であるが、更に宇宙の超越意識にふれて、
霊の勝利を克ち得るためには次に述べる如き思念法をすすめているのである。

霊の勝利は一切の地上的なものを超えて
最高の歓喜と意義とを獲得せしめるのである。

霊の勝利を得るとき、どんあ浮世の失敗も死も、悉くより高き目的に向かって
進行する宇宙目的によって行われているのであって決して本当の失敗も死もない
と云うことを自覚して心の平和を確立することが出来るのである。

人生の失敗や死や別離は自(みずか)らが無智であるがために
かく見えるのであって、もし真に霊智を得たならばそれ等から来る
悲しみから解放されるのである。

だからヨガナンダはそのために次の如く思念するようにすすめているのである。


   神よ、あなたは智慧であられます。
   あなたは総ての事物の原因結果を知っていらっしゃいます。

   私はあなたの子であります。
   私は生命(いのち)の真(しん)の秘密を知りたいのです。
   生命(せいめい)の真(しん)の歓喜と義務とを知りたいのです。

   吾に宿り給うあなたの智慧が、
   あなたの知り給うすべてのものを示して下さいますことを信じます。


          <感謝合掌 平成30年6月14日 頓首再拝> 

他人を思念で治療する場合 - 伝統

2018/06/29 (Fri) 03:36:19

九 他人を思念で治療する場合(P161~162)

思念にて他人治療を行なう場合には、思念者は自分の生命(せいめい)の
エネルギーを自己リードしてその流れを患者の肉体に注ぎこみ、

患者の生命(せいめい)のエネルギーを刺激して、
患者の自然療能の混乱を思念者の意志の力と思念の力とによって、
平静なる状態に取りもどさなければならないとヨガナンダは云っている。

これはメタフィジカル・ヒーリングと云うよりも、
思念の移送による治癒即ち想念治療である。

思念者の想念の力と、意志の力と、信仰の力と、理性の力と、
平和なる感情の力とは、混乱せる患者の生命(せいめい)エネルギーを刺激して、
それを平静にもどす力をもっているのである。

          <感謝合掌 平成30年6月29日 頓首再拝> 

勇気を養う思念法 - 伝統

2018/07/12 (Thu) 03:29:38

十 勇気を養う思念法(P162~164)

勇気を養い成功に導くための思念の言葉として、
ヨガナンダは次の如き言葉をのべているのである。


   私は勇気だ、
   私は強者なのだ、
   成功のかんばしき好機が天降って来て、
   私の中に吹き入るのだ。

   私は冷静である。
   私は沈着である。
   私はやさしいのだ。

   私は深切なのだ、
   私は愛だ、同情だ。

   私は磁石的な人を引きつける魅力をもっているのだ、
   私はすべてのものを喜ぶのだ。

   私はあらゆるものの悲しみと恐怖とを拭い去るのだ。

   私には敵がない。
   たとい誰かが敵であると考えようとも、
   私はすべてのものの友達である。

   私は食事にも、服装にも、動作にも、
   何ら悪い習慣をもっていないのだ。

   私は自由である、私は自由である。

   おゝ神よ、吾に来り給え。

   来りて吾がなす凡(あら)ゆる事物の上に、
   吾が仕事の上に
   汝(あなた)の精神統一法を指導し給え。

   私はすべてのものをなすことができるのである。

   神よ再び私に来たりて、吾に教え給え。
   私は汝(あなた)に今神想観しつゝ崇敬の言葉を奉げるのである。

   如何なる僻陬(へきすう)の地におろうとも
   私はあなたと偕(とも)にいるのである。

   私の働く手を通じて、
   私はあなたの力を感ずるのである。

   ここに、そうです、私に於いて、あなた自身が活動したまうのです。

          <感謝合掌 平成30年7月12日 頓首再拝> 

目を強健ならしむる思念法 - 伝統

2018/07/25 (Wed) 04:50:18

十一 目を強健ならしむる思念法(P164~167)

まず正しく坐して延髄部に精神を集中するのである。
然る後 網膜に向かって通ずる神経を想念してそれにみる力があることを
強く想念し、網膜に精神を集中するのである。

瞼(まぶた)を固くとじ、然して後(のち)これをゆるめる。
上を見る気持ちで眼球を上方にあげ、
然し次にできるだけ下を見るようにできるだけ眼球を下に向ける。

同様にして眼球をできるだけ左方へ、然して右方(うほう)へふりむける。
然(しか)る後(のち)眼球を左から右へと廻転し、次に右から左へと
廻転する・

而(しか)して後、両眼(りょうがん)の注意を前頭部の中央部の一点に集中し、
生命力が眼球に流れ入って両眼をサーチライトの如く輝かしめつつあると
思念するのである。

これは単に肉体の視力を増加するだけでなく、
心の目を開くのにも役立つのであると称せられているのである。

次の如く思念するのである ―― 


  おお汝(汝) ―― 
  藍色(あいいろ)の光線よ。
  吾が視神経を貫きて流れよ。

  然して吾に真理を示せ。
  
  ここに神の光がある。
  ここに神の光がある。

  吾が目を通して
  汝はのぞくのだ。
  汝はのぞくのだ。

  すべては完全である。
  すべては健やかである。

  霊の眼も、二つの肉の眼も、
  三つの眼、悟り目。

  眼に見えざるお前を通して、光はいずこへ逃げたのか。
  眼に見えざるお前を通して、光はいずこへ逃げたのか。

  蓮華のように涙の池にうるおうた目よ。
  もう泣くではない。
  もう泣かないでおってくれ。

  どんな嵐ももうお前の花葩(はなびら)を傷つけはしないから、
  ここへお出(い)で、
  そして白鳥のように
  祝福の静かな池の面(おも)をすべっておくれ。
  平和の和(なご)やかな湖(みずおみ)面(おも)をすべっておくれ。

  智慧の太陽のさし昇るあけぼのが来ているのだもの。
  お前の光で私が輝くのだ。
  私の過去も現在も未来もともに輝くのだ。


  お前、私の二つの眼、
  たった一つになれ。
  単純になれ、

  すべてを知り、すべてを見んがために。
  一つの目 ―― 霊(たましい)の目と一つになるのだ。

  そして私の肉体を輝かしておくれ。
  私の心を輝かしておくれ。
  私の魂を輝かしておくれ。

             ・・・

  (ほぼ同じ内容のものが、「私はこうして祈る」(P104~108)に
   収録されております)

          <感謝合掌 平成30年7月25日 頓首再拝> 

性欲を正しくする思念法 - 伝統

2018/08/15 (Wed) 04:41:43

十ニ 性欲を正しくする思念法(P167~170)

肉体は5つの間隔の美しい果実によって余りにもたわわに実りすぎた
花咲く楽園のようなものである。

人間内部の霊性の尊厳さを維持するためには、五官の快楽に余りにも
耽溺しすぎる事は警戒しなければならないとヨガナンダは云っている。

特に肉体的な「エデンの楽園」の中央部に位置している性器官の
禁断の果実を乱用することに対して警戒しなければならないと
云っているのである。

創世記にあるように、さかしき悪の好奇心の蛇が、そしてイヴ即ち人間の
内に宿る感情的女性本能が、正しき異性との接合の法則を破るように
誘惑することが時としてありがちなのである。

これによって人間は「祝福の意識」の楽園から追放せられてやがて
その罪を意識して、羞恥を以って無花果の樹(き)の葉を以って
自己を覆い隠そうとするのである。

性(セックス)の快楽は、それ自身を目的として追求してはならない
とヨガナンダは警告しているのである。

性欲を正しくするためにはヨガナンダは次のことをすすめている。

就寝前に両手、両足、腋の下、顔、後頭部及び凡ゆる肉体の開口している
部分を清潔に拭(ぬぐ)う事、これを規則正しく行なってサッパリした
清浄な気持ちで床(とこ)に入るよう勧めています。

性欲が発動して来たときには、深呼吸を6回乃至15回繰り返し、
大衆の中へ飛び出して行って気分を転換するか、目上の人の前に出て
気分を引きしめるが好いと云っている。

そして又、次の思念を行なうことをすすめている。


   花粉と雄蕊(おしべ)とを通して
   あなたは天降りたまい、
   清く美しき花を造り給いました。

   また、あなたが吾が聖なる父母を通して
   吾が肉体をお造り下さいました。

   あなたがすべてのものの美(うるわ)しき造り主でありますように、
   私も亦すべてのよきものの造り主であるのです。

   あなたよ、聖なる清き創造(そうぞう)の み業(わざ)を教え給え、
   尊き理念と尊き魂との み業(わざ)を教え給え。

   凡(あら)ゆる要求が神聖でありますように、
   凡(あら)ゆる欲求が神聖でありますように。

   あなたは性を超越していらっしゃいます。
   その如く私も性を超越しているのでございます。

   あなたは聖浄(せいじょう)の内(うち)に
   私を創造(そうぞう)なさいました。

   あなたの聖なる姿を表現する「尊き思想」 ――
   清き子供達を作ることを教え給え。


          <感謝合掌 平成30年8月15日 頓首再拝> 

歯を強健ならしめる思念法 - 伝統

2018/09/10 (Mon) 04:40:36

十三 歯を強健ならしめる思念法(P170)

歯を強健ならしめるためには、静かに坐して、眼をとじ、先ず全体の
上歯と下歯とを同時に固く噛みしめます。

次には右のみの上歯と下歯とを固く噛みしめます。
その次には前歯のみのみを固く噛みしめます。
次に左側の上下の歯を噛みしめます。

次に再び全体の上歯と下歯とを満遍なく噛みしめます。

この噛みしめの継続時間は各々1運動、1分乃至2分間でありまして、
その噛みしめている間じゅう精神を統一しながら、

「今神の癒やす力が歯の根に流れ入って
凡ゆる不完全なる状態を除去しつつあるのである」

と念ずるのである。

身体の動作に連合せしめながら、適当な暗示的思念を用いる所に、
ヨガナンダの精神治療法の特長があるのである。


(以上で、「生活応用 健全の真理」からの紹介を終了します)

(次回以降は、ヨガナンダの著書からの言葉を紹介して参る予定です)

          <感謝合掌 平成30年9月10日 頓首再拝> 

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