伝統板・第二

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心の鏡 - 伝統

2016/06/16 (Thu) 04:04:13

《よき「思い」を種蒔くこと》

            *「光明法語」(6月16日)より

神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。

蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。

自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。

まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。

        <感謝合掌 平成28年6月16日 頓首再拝>

他人は自分を映す「鏡」である。 - 伝統

2016/06/26 (Sun) 03:44:23

         *「「道」を忘れた日本人」松本道弘・著(P202~203)より

ある総合商社の研修担当者から聞いた話だが、
彼がこれまで最も効果のあった人間改造プログラムに、各受講者に対し、
最も憎い相手の顔をイメージして、その人の許せぬ点を10点ばかり箇条書きさせ、
書き終わったところで、その相手の名前の代わりに、本人の名前を書き込ませる、
というのがあったらしい。

その研修担当者は、最も許せぬ相手は実は自分自身であることがわかり、
しばらく震えが止まらなかった、と告白していた。


この話を聞いて、私も一瞬、戦慄を覚え、ちょっと試してみようかなという気になった。

商社時代に、自己顕示欲が強く、
自分に学のあるところを人に聞かせたがるいやーな野郎がいた。


だが、その同期の男の話を思い浮かべ、
(1)自己顕示欲が強く、
(2)自分の学識を人に知らしめたい、
(3)自惚れ、
(4)キザ、

と書き続け、最後に、松本道弘という自分の名前を書き込めば、
まさに肝を冷やす思いがするではないか。

(中略)

優越感と劣等感も隣り合わせであるということを知らせてくれるのは、
神でも悪魔でもなく、実は鏡であったのである。

その友人の話から、私は《納得》してしまった。

私は、不可解な神道のアイデンティティは、実はこの鏡にある、と考えている。

怒りが収まらないときは、鏡で自分の顔をじっと見よ。と私が人に言うとき、
その他人はすでに自分と同人物であり、自分の心を見よ、と同義のセリフとなる。

        <感謝合掌 平成28年6月26日 頓首再拝>

【雨降らしの名人】 - 伝統

2016/07/08 (Fri) 03:31:17


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2014年04月10日)より

   (立花大敬先生の心に響く言葉より… )

   リヒアルト・ヴィルヘルムという人がいました。
   この人は心理学者のユングの友人で、『易経』をはじめて翻訳して
   ヨーロッパに紹介した人として有名です。


   そんな彼が中国で体験した話です。

   彼がある地方にいた時、その土地は大旱魃(かんばつ)でした。
   もう何ヶ月も雨が降らず、田畑の植物は干上がって枯死(こし)寸前でした。

   そこで農民たちが相談して、雨降らしの名人という評判の人を招きました。

   数日後、その名人がやってきました。

   見たところ、本当にみすぼらしい、ヨボヨボの老人で、ヴィルヘルムにはとても、
   その老人がそんな特殊な能力の持主のようにはみえませんでした。

   その老人は、1軒の家の提供と日に3度の食事の差し入れを要求して、
   その家にとじこもってしまいました。

   中の様子をうかがっても、しんと静まりかえっており、
   太鼓(たいこ)や鉦(かね)をたたいて祈ったり、お経を上げたり、
   呪文をとなえたりしているようにはみえませんでした。

   ところが、3日目に突然雲があつまって、ド、ドッと大雨が降り、
   農民たちは大喜びで雨の中を踊りまわったそうです。


   ヴィルヘルムは家から出てきた、その雨降らしの名人に、
   「いったいどうして雨を降らせたのですか」とたずねました。

   老人は次のように答えました。


   「私は雨を降らせようとしたわけじゃありませんよ。

   この土地にやって来た時、この土地がこんなにも干枯(ひから)びているのは、
   私の心がうるおいを失って砂漠化しているせいだとわかりました。

   それで私は家に閉じこもって、
   この土地をこんなにしてしまった私のあやまりをおわびしました。

   おわびの心が深くなってゆくにつれて、私の心にうるおいがもどって来、
   心の乱れが整理されて調和のとれた姿になってゆきました。

   そして、それ(その心の状態)が本物になった時、
   この土地の不調和の状態もおしまいになり雨が降ったのです。

   私は決して雨を降らそうと思ったわけじゃないのですよ」


   この話は、いろんな事を教えてくれますね。

   それぞれの人自らの思いで、心を素材にし、またエネルギーにして、
   まわりの環境をつくり出しているのです。

   『世界は鏡、自分の姿を映し出して見ているんだ』と
   おっしゃった古人がいますがその通りなのです。


   また、こんな話があります。

   26年間、胃病に苦しんで、ついに死の床についていた人に、
   黒住教の黒住宋忠先生はこんな風におっしゃいました。

   「この道では、症状という形(有るもの)はすっかり病にまかせてしまって、
   心は神様と一体という心になられて、心だけはまずさっぱり平癒なさい。
   そうすれば心が一切の原因ですから、形も直(じき)にお直りなさるでしょう」


   病気というもの、症状は終わろう、終わろうとその方向に歩み去ろうとしています。

   ですからその自然の流れに任せておけばいいのに、
   人はその症状をたえず気にして思いをふくらませます。

   注意がそこに留まると、その対象にいのちが籠(こも)るのです。

   つまり、その病気にどんどんエネルギーを注いでいることになります。

   退場門に向かう病気さんを必死で出ていかせまいと、
   その存在をささえているのが症状にこだわり、不安、心配する心です。

        <『神様の壺』大敬先生《しあわせ通信》第二集・本心庵 >

               ・・・

「子は親の鏡」という言葉がる。

親が暴力を使うなら、子供も暴力で解決しようとする。

親がウソをつくなら、子供もウソをつくようになる。

親が冷たければ、子供も冷たい人になる。


子供は、親の心を映し出す鏡のようなもの。

友人は、自分の鏡。

生徒は、教師の鏡。

会社は、社長の鏡。

病気や健康も、自分の心の鏡。

そして、自然や世界さえ、自分の鏡、だという。


自分が変わることなしに、子供や、友人や、生徒や、会社を変えることはできない。

ひたすら自分の心を磨き、高めたい。

            <感謝合掌 平成28年7月8日 頓首再拝>

この世は自分を映す鏡 - 伝統

2016/07/26 (Tue) 03:55:08


         *メルマガ「人の心に灯をともす」(2014年03月05日)より

   (木村進氏の心に響く言葉より…)

   《この世は鏡である。すべての人に自分の顔を映して見せる鏡である。》
               (ウィリアム・メイクピース・サッカレー:作家/イギリス)


   私たちはよく「世の中が悪い」と言う。

   その通りかもしれないが、
   その世の中は、自分自身も何らかの形でかかわっているものである。

   そのことに気づかない人が多いのも事実である。


   世の中は、自分の姿を映し出す鏡のようなものである。

   だから世の中を変えたければ、まずは自分を変える必要がある。
   自分が変わっていけば少なくとも、世の中を見る目は変わってくるはずだ。


   以前、新聞社でアルバイトをしたことがある。

   そこではクレーマーみたいな人たちから電話がよくかかってきていた。

   彼らは世の中のことに対していろいろと不満があるらしく、文句ばかりを言っていた。


   世の中は自分を映す鏡と思っておけば、さして過度に期待することはなかろう。

   そして自分を変えることが、
   ひいては世の中を変えることにつながっていくことになるだろう。

         <『頭がよくなる名言100』総合法令出版>

                 ・・・

ある人は、「水が半分しかない」と愚痴を言うが、
別の人は「まだ半分も残っている」と笑顔で言う。

同じモノや現象を見ても、考え方や見方は人それぞれだ。


文句ばかり言って暮らしている人と、
笑顔で感謝しながら楽しそうに暮らしている人と、
どちらの人をマネして生きていきたいと思うか。

人は、明るい人、感謝多き人、笑顔の人に魅(ひ)かれる。

あんな人になりたい、と思う魅力ある人だ。

魅力ある人には影響力がある。

影響力がある人には、世の中を少しずつでも変えていく力がある。

が、その反対の人は悪影響を与えることしかできない。


「世の中を変えたければ、まずは自分を変える必要がある」

自分が変われば、モノの見方が変わる。

見方が変われば、周囲の態度も変わる。


この世は自分を映す鏡のようなもの。

まず自らが、明るく笑って、感謝の日々で暮らしたい。

        <感謝合掌 平成28年7月26日 頓首再拝>

関係の鏡で自分を見つける - 伝統

2016/08/09 (Tue) 03:15:26


       *「迷ったときは運命を信じなさい」
           ディーパック・チョプラ・著(P170~173)より

「わたしは、それである」とは、世界のなかのあらゆるものを観察して、
自分のもうひとつの姿がそのすべてのなかに映し出されていると気づくことなのです。

誰もが他者を映し出している鏡です。

わたしたちは他人のなかに自分の姿が映し出されていることに気づかなくてはいけません。
これを「関係の鏡」と呼びます。
関係の鏡を利用して、「すべて」である自己を見つけ出すのです。

人間関係は魂を進化させる手段でもあります。
この進化の究極の目標は、宇宙との一体感を肌で感じとることです。

人間はひとり残らずこの宇宙の意識に含まれていますが、
日常生活のなかで宇宙とのつながりに気づいたときにしか、
わたしたちは大きく飛躍することができないのです。

親、子供、恋人、同僚など、自分が築き上げた人間関係の網の目をいつも意識しましょう。
心の奥深くでは人間関係のすべてがスピリチュアルな体験なのです。
 
人を愛しているときは、時が止まったように感じるものです。
その瞬間、あなたは不確実なものとも調和しています。
あなたは最高の気分を味わいつつも、傷つきやすくなっています。

親密さを感じつつ、危険にさらされたような気持ちを抱えています。
この状況のなかで、人は変容していきますが、そのことに不安はなく、
むしろ驚きの念を抱いています。

これがスピリチュアルな体験なのです。
 
あらゆる人間関係の鏡を通し、わたしたちは自分の知覚が拡大されていくのに気づきます。
あなたが好きな人も、嫌いな人も、同じように自分自身を映す鏡です。

あなたはどんな人に魅力を感じますか? 
おそらく自分と似た性格の人でしょうが、
同じというだけで好きになることはありません。

その人と仲良くなりたいのは、付き合うことで
その人物の特徴を自分でももっと表に出したいと潜在意識で思っているからです。

魅力を感じる人が現れたなら、なぜその人物に心を引かれるのか、
自分の胸に問いかけてください。

魅力を感じたのは、
その人の美しさ、気品、優雅さ、影響力、権力、知性のいずれでしょうか? 

理由が何であれ、その人物の性質が、
あなたのなかでまだ開花していないことを確認してください。
そうすれば、自分のほんとうの姿にもっと近づくことができます。
 
もちろん、嫌いな人にも同じことがいえます。
自分が否定している性格を映し出している人物に対して、人は嫌悪感を覚えます。

しかし、とことん見つめれば、あなたが嫌いな人物が
あなたと共通する性格をもっていることにきっと気づくはずです。

ほんとうの自分の姿に近づこうとするとき、あなたは自分自身の嫌な面に気づき、
その面に対処していかなくてはなりません。

対立している価値が共存しているところに、宇宙の本質的な性質があります。
心のなかに臆病者がいなければ、あなたは勇敢にはなれません。
内面にけちな人間が住んでいなければ太っ腹になることはできません。

悪の才能がなければ、徳の高い人間にもなれないのです。
 
わたしたちはマイナス面がないかのように振る舞い、
嫌いな性質をほかの人間に投影しています。

知らないうちに、「ふさわしくない」人間を
自分のまわりに引き寄せている人がいないでしょうか? 

なぜ繰り返し、そんなことになってしまうのか、彼らは気づいていません。
そういった人は嫌いな人を引き寄せているのではなく、
自分のなかにも彼らと同じ性質があることを認めようとしていないだけなのです。

不愉快な人間と出会ったなら、対立するものの共存という逆説を受け入れ、
あなた自身の新しい面を発見する機会として利用してください。
あなたのスピリチュアリティ、自己はそれで一歩成長します。

(中略)

進んで自己の光と影の部分を認められた瞬間、わたしたちは自分自身、
そして人間関係のどちらも改善していくことができるのです。

他人のなかに自分の姿を見いだせることがわかれば、
すべての人間関係が自分の意識を進化させる手段になります。

(中略)
 
世の中に存在するすべてのものが、あなたの心にも存在しています。
このような自分のもつさまざまな面を受け入れたとき、
宇宙の意識とのつながりに気づき、あなたの認識は拡大されていきます。

        <感謝合掌 平成28年8月9日 頓首再拝>

【投げかけたものが返ってくる】 - 伝統

2016/08/19 (Fri) 04:13:59

    
           *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年05月26日)より

   (小林正観さんの心に響く言葉より…)

   投げかけたものが返ってきます。
   投げかけないものは返らないのです。

   楽しい話に囲まれたい、楽しい人に囲まれたいと思いながら、
   自分が不機嫌でいたのでは、それはかないません。

   楽しい日々を送りたいのであれば、
   自分から発するものが常に楽しいものであるほうがいいのです。

   楽しい話を発信すれば発信するほど、自分のところに返ってきます。

   投げかけを続けると、約3年ほどで自分の周りが変わるように思います。

   3年間同じことを続けていくと、
   3年後にはその投げかけたものの集積に囲まれるようになります。

   不機嫌を3年間続けていれば、3年後は不機嫌な人に囲まれます。
   楽しい話を3年続けていれば、3年後は楽しい話に囲まれることになります。
   イヤな話を3年間続けていれば、3年後はイヤな話ばかりに囲まれることになります。


   こんな面白いデータがあります。

   子どもにこんな質問をしてみました。

   「母親が悲しそうだったら、あなたも悲しくなりますか?」

   聞かれた子どもの9割以上が、悲しくなると答えました。
   母親が楽しそうだったらあなたも楽しいですか、
   と聞かれた子どもの9割以上が、私も楽しくなると答えました。


   つまり、母親が毎日楽しそうで幸せそうならば、
   子どももいつも楽しく幸せそうに暮らしていくということです。

   いつもニコニコしている母親であれば、子どももいつもニコニコしている。
   いつもイライラしている母親ならば、子どももいつもイライラしている。


   母親の生き方や考え方が、子どもに投映されます。

   子どもをしっかり教育するんだ、しつけをするんだ、
   ちゃんと子育てをするんだと意気込んで、
   毎日子どものあら探しをして怒って、悪いところを指摘して説教ばかりしていると、
   その不機嫌な親とまったく同じように、不機嫌な子どもが育ちます。

   母親が教育に熱心であればあるほど、しつけに厳しいほど、子どもは笑顔を失います。

   笑顔のない母親には、笑顔のない子どもが育つのです。


   逆に教育やしつけにあまり熱心でなくても、
   いつもニコニコして楽しそうに生きている母親がいるとしましょう。

   そうするとその子どもは、母親と同じように、
   いつもニコニコと楽しそうに生きることになります。


   母親が、来る日も来る日も政治の批判、経済の批判、
   いろんなものを批判して、気に入らないと言い続けたとしましょう。

   子どもも同じように、来る日も来る日も、
   文句を言い続ける子どもになります。

   そのように親に見本を見せつけられたからです。


   反対に、母親が来る日も来る日も「うたし焼き」の話に終始していたとしましょう。

  (う)嬉しい話、(た)楽しい話、(し)幸せな話、
  (や)役に立つ話、(き)興味深い話を、

   子どもの目の輝きを見ながら、楽しそうに、嬉しそうに話をしている母親。

   そいうことを繰り返していったら、子どももそいう話が好きになります。

   子どももそういう話だけをするようになります。


   「うたし焼き」の話をずっと繰り返していると、友人が増えていきます。

   そういう楽しい話を聞きたがる人は、世の中に多いのです。

         <『豊かな心で豊かな暮らし』廣済堂出版>

              ・・・

親や先生、先輩、上司、商店主、経営者というようなお手本とならなければならない人が、
楽しそうに生き生きとして生きていなければ、子どもや生徒、部下たちは、
親や先生や先輩たちのようになりたいとか、あとを継ぎたいとは思わない。

子どもや生徒、部下たちに、
「つまらない」「不機嫌」「イヤでしかたない」という波動を発振してきたからだ。


世の中のことはすべて、こちらが投げかけたものが返ってくる。

つまり、現在自分に起こっていることは、
いいことであれ、悪いことであれ、
自分がかつて投げかけたものが返ってきているだけ。


「投げかけたものが返ってくる」

いつも、「うたし焼き」の話をして、まわりを喜ばせる人でありたい。

        <感謝合掌 平成28年8月19日 頓首再拝>

顔は心の鏡 - 伝統

2016/08/24 (Wed) 04:32:54


           *「光明法語」(8月23日~24日)より

《容貌を美しくするには》

ロックフェラー研究所の外科医長カレル博士は言う、

「容貌の特徴は、皮膚の下の脂肪の中で動く筋肉の状態で定まる。
是等(これら)の筋肉の状態は吾々の思想感情の状態によって定まる。

人は各々望み通りの顔附(かおつき)表情をする事が出来る。
けれども其の顔附、表情をば永久に被(かぶ)っているわけには行かない。

併し、吾々の知らない間に吾々の顔附は心の状態によって
少しずつ作られて行くのであり、年をとるにつれて益々はっきりと
人間全体の感情や欲望や希望一切の看板の様になる」と。

・・・

《心に化粧せよ》

誰でも容貌の美を希わない者はないであろう。

顔は吾々の心の鏡である。
白粉(おしろい)でいくら塗っても、その精神の下劣さは隠すことは出来ない。

「顔は精神の活動よりも、もっと深いものを現す。
人間の顔には、その人間の悪徳や、美徳や、理性や、知識や、愚かさや、感情や、
最も隠された性癖や、さらにその上の全肉体の構造や、質や、
生理的、心理的病気の傾向まで現れる」 

とカレル博士は更に言っている。


誰も隠すことは出来ないのである。

天知る、地知る、自分知るである。

            <感謝合掌 平成28年8月24日 頓首再拝>

境遇は、自分の性格を映す鏡 - 伝統

2016/09/29 (Thu) 03:36:18


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日)より

自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。

境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。

あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。

鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。

たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば自分自身の性格が、苛辣であって気が短く、
人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、まず自分自身を寛容にすればよい。

             <感謝合掌 平成28年9月29日 頓首再拝>

鏡に映った境遇を変えるには、自分が変わるしかない - 伝統

2016/09/30 (Fri) 04:30:12


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月30日)より

鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。

鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。

結局、自分自身が変化するよりほかに鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。

自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=106

             <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>

心の鏡としての環境及び肉体 - 伝統

2016/11/30 (Wed) 03:49:15


      *『 生長の家 』(昭和24年2月25日の法語)より

想念は自由であるが、
これを破壊的に使えば、人間自身が破壊されるのである。

建設的にそれを使えば、
人間自身が発達進歩し、幸福になることができるのである。

神は 破壊の神ではなくして、建設の神である。

だから 法則を変えることなしに、しかも、人間が他を破壊する心を起せば、
その心の影として、自らが破壊されることになって、
破壊と云うことが神の意志でないことを示し給うているのである。

しかし それが 「 破壊 」 であるが故に、
一見 神罰のように見えるが、これを神罰と観るものは、
神の愛の深さを知らないものである。

神は 人間を自由意志のままに置いて、而(しか)も自分の 「心の影なる 」
肉体及び環境を見て、それを鏡として、自ら省み
自由意志のままに善に遷ることが出来るようにし給うたのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13042889.html

             <感謝合掌 平成28年11月30日 頓首再拝>

《心の反映が環境である》 - 伝統

2017/01/05 (Thu) 04:02:41


           *「光明法語」(1月3日~5日)より

《「知恵の樹の実」を食べると云うこと》(1月3日)

かくて人間は神の映像であるから、神そのままの姿に完全円満なのが真実である。
それにも拘(かかわ)らず人は自由に空想を馳せて、
神の創造の中にも善なるものと悪なるものとが存在すると考え出したのである。

これが「知恵の樹の実」を食べたと云うことに当たるのである。

この「悪」も存在すると云う考えが具象化して「悪」なる現象を固定化し
此の世に悪を造構することになったのである。

かくて人間は自からの心が描いた映像をみて怯え、悲しみ、心配をし、
みずから不快になり、痛み、悲しむことになったのである。

思いを変えよ。

・・・

《先ず想いを変えよ》(1月4日)

自己の環境も肉体も自己の念(おもい)の反映であるから、
思いを変えれば環境も肉体も変わるのである。
不幸を思えば不幸が来(きた)るのである。

若(も)し自分に危険が迫って来るとするならば、
それは如何に外から迫って来るかのように見えようとも、
それは自己の心のうちに生じたものであることを知らねばならぬ。

危険を予感するものには危険が来るのである。

自己の運命は自己が作者であり、自己が完成者である。
不幸から自己を護るのは、自分の心のうちに不幸を予感することを
止(や)めることから始めねばならないのである。

・・・

《心の反映が環境である》(1月5日)

自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。

環境が具体的に一変するに先立って、自己の念(こころ)が平和になり、明朗になり、
落ち着いて来るのは、祈りが先ず自己の念(こころ)を変化したことの証明である。

神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。

人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。

             <感謝合掌 平成29年1月5日 頓首再拝>

環境浄まる日 - 伝統

2017/01/17 (Tue) 04:47:17


           *「光明道中記」(1月17日)より

【菩薩心浄ければ、その土また浄し。(『維摩経』『生命の實相』第十二巻)】

我が住む世界はわが心の反影である。
この真理は永劫に渝(かわ)ることなき真理である。

自分が若し他に憎まれているならば、それは他が自分を憎んでいるのではなく、
自分の心が自分を憎んでいるのである。
其の人の表面の心が許していることを潜在意識が憎んでいるのである。

他に責められる間はまだ自分に責められるべき要素があるのである。
それは業の自壊であり、自己の念の流転力が相手に反影しつつ消えて行くのである。

あらゆる苦痛は自己処罰の一形式と見ることが出来る ――
これは三界は唯心の所現なる原理からおのずから引き出されるところの結論である。
自分自身が罰しないのに他が自分を罰することはあり得ないのである。

苦難が魂の浄化だと思っている間は、その人にとって苦難が来るであろう。
それは自己処罰の一形式であるからである。

何か落着かぬ心のある日には、小さい事であっても失策が続出する。
言わないで好いことを言って見たり、覆(かえ)さないで好い鍋を覆して見たり、
皆な自己処罰である。

            <感謝合掌 平成29年1月17日 頓首再拝>

心が反影する世界 - 伝統

2017/01/21 (Sat) 04:06:43


           *「光明道中記」(1月21日)より

【類は類を招ぶ。類でないものは反発する。(『生命の實相』第一巻)】

凡そ似た者夫婦と云う諺(ことわざ)のとおり、夫婦は似たり寄ったりのものである。
自分の欠点はわかりにくいのは、自分の睫毛(まつげ)が自分自身に見えないのと同じことである。
自分の睫毛を見るためには鏡が要る。

それと同じく自分の心の相(すがた)を映して見るため与えられているのが、
自分の夫であり、妻であり、子である。

妻が出しゃばりであるのは自分が出しゃばりであり、
子供が要らぬことに金を費やすのは、儲けてはならない不当なことに儲けていた反影である。
金持三代続かないのはその為である。

善行をして次第に集った富ならば何時までも続く筈である。

ケチな心は貧しい心、出し吝(おし)みする心であるから、一時は出口を押さえる力で蓄積が
出来るものであるが、やがてその人の周囲にはケチな心、出し吝(おし)みする心の持ち主ばかり
が集って来て、ついにはその人自身が立たなくなり衰微して滅んでしまうのである。

贅沢な心のところにも富は永遠にいないものである。
何故なら物の価値を知らないで、湯水のように贅沢に恵みを悟らずに
使いほかしにする心の処には神の恵みは何時迄も停(とどま)らない。

            <感謝合掌 平成29年1月21日 頓首再拝>

眼はその人の心と運命を現している - 伝統

2017/02/01 (Wed) 05:06:37


          <「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月1日)」より>

人に逢うて何かなつかしく、いつまでもその人と話していたいと思える人と、そうでない人がある。
眼の光のなごやかな人と、鋭い人と、温かい人と、冷たい人と、なんとなく凄い人と、
狡(ずる)そうに見える人と、人間にもいろいろあるものだ。

ひらいた心の人でないと明るい眼の人にはなれるものではない。
幼児(おさなご)の眼が澄んで清らかなのは、
幼児の心は打ち開いた澄んだ天空海闊の心をしているからである。
幼児でも虐げられている継児(ままこ)は清らかな眼はしていない。

濁りに染まない幼児の眼のような心になりたいものだ。

いろいろの眼の光のあるうちで、一番わたしの好きでない眼は狡い光の眼である。
愛の光のある眼は温かく、知恵の深い眼は時として冷たい。時として冷酷にさえ感じる。

冷たい眼でも、その冷たさが知恵の深いために
冷たい光を湛(たた)えているのは崇高にさえ感じられる。

隠し心のある眼、正面(しょうめん)を真正面(まとも)に見られない眼、
下を向いていて上眼(うわめ)づかいで見る眼、顔の向かぬ方を盗み視(み)する眼
 ―― およそ狡(ずる)い眼の光はこういう眼の種類である。

ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で相手を見る人は必ず好運である。
形は心の影である。
眼の形、眼の光、そのとおりの形のものがあなたの運命をあらわしている。

どんより曇っている眼の人は、心も曇っている。
眼の三角の人は心も三角である。

            <感謝合掌 平成29年2月1日 頓首再拝>

周囲の相が観世音菩薩の顕れ - 伝統

2017/02/06 (Mon) 04:45:58


           *「光明道中記」(2月6日)より抜粋

観世音菩薩とは「世音(せおん)」即ち「世間の念波」を観じて、
その念波そのままの姿を以て顕れたまう菩薩である。
だから千手であったり、十一面であって、三十三相随宣(ずいぎ)変貌するのである。

自分が腹立っている時に周囲が自分に腹立った相(すがた)をするなら、
その周囲の相が観世音菩薩である。

            <感謝合掌 平成29年2月6日 頓首再拝>

打つ心は打たれる心である - 伝統

2017/02/10 (Fri) 03:39:05


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月10日)」より
 
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。
同じ強さで打っても愛撫する心で愛慰(あや)すような形で打ったら子供はかえって喜ぶだろう。
痛さは心にあるからである。

かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。
禅家の道場破りを仕事にしているような物凄い格好の修行者が来た。
そしてたずねた。

「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」

「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。僕はこれから君を打ってやる!」

殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。
そのままいたら野村さんを殴りでもしかねるまじき姿勢である。

と、たちまち野村さんの方が起ち上がってその修行者の方へ近づいていったかと思うと、
ピシリとその修行者の頬を打った。
痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあったらしい。

やがて野村さんは元の座へ還って来て、何事もなかったように別の修行者と話していた。

野村さんが打たなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。
野村さんの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者が打たれたのあった。

打つ心は打たれる心である。
打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手を打つ。
相手の気魄が強ければ、それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つのである。


阿難が釈尊に対(むか)って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、
その憎んだ心はどこへ行きますかと尋ねたときに、

釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」と問い返された。

阿難は「それは贈った人に返ってきます」と答えた。
釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。


そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。
その同じ修行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。

「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「それでは先生の肉体を僕はこれから撲(なぐ)りますが、傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。

「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。

「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。人を撲ろうとするお前の心には痛みがある。
『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。五官は心の痛みを映すものだ」

『ウーム、よし!』と言ったきり、
修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向いたまま動かなかった。
そしてわたしが他の修行者と話しているうちにその修行者はどこかへ姿を消してしまった。


野村さんの捌(さば)き方と、わたしの捌き方とどちらも個性が出ていておもしろいと思う。
野村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」と修行者は噂する。

ときには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから
一日も早く道場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。

しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、叱られて病気が治ったと感謝する人もたくさんあった。
相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りうるものでない、
損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。

「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と忠告する人があると、
「指導の最中には相手を指導することきり考えない。修行者が増えるとか減るとか、損得のことを
考えて指導する奴があるか」と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきいたことがある。

            <感謝合掌 平成29年2月10日 頓首再拝>

責める心、指す心が相手に映る - 伝統

2017/02/20 (Mon) 04:45:00


           *「光明道中記」(2月20日)より 


【他が自分に対して薄情である場合は、自分自身に何か暗い冷たさがある思え。
                           (『生命の實相』第四巻)】

温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る。人を拝めば人が集る。

荒木松衛さんが、熊本県立白川学園と云う不良児の感化院で園長をしていられたときに
一人の生徒が脱走した。

その時、荒木さんは風邪を引いて寝ていられたが、「私の懐は温かいのだ。
生徒よ帰って来い。私はこの温かい心で汝を抱擁するのだ」という意味の思念をせられたら、
脱走した生徒が急に帰園したくなって帰って来たという話を聞いたことがある。

若し、他が自分に対して薄情であり冷淡であるならば、
それは自分の中に「温かさ」がないからである。
暗い冷たい世界からは何人(なんぴと)でも逃げ出そうとするものである。

また内心に温かいものを持ちながらでも、他(ひと)を責め、人を指す心を起すとき、
それは相手を追い出す心になる。如何に多くの愛深き妻が、
良人を責める心を起したがために、その良人が堕落の淵に堕ちたであろう。

だから「他を責める心、人を刺す心は人を逐(お)い出す心」
(『生命の實相』第二巻))であり、

「他の欠点をあげたい心が既に神に背(そむ)いた心である」
(『生命の實相』第五巻))と示されている。

            <感謝合掌 平成29年2月20日 頓首再拝>

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな - 伝統

2017/02/25 (Sat) 04:24:27


           *「光明道中記」(2月25日)より   

【心の眼がひらかれなければ実相の国土が如何に美しくとも見ることは出来ないのだ。・・・
 三界はただ見る人、見る人自身の鏡である。  (『生命の實相』第十六巻)】 

これは難解な「維摩経」を判り易く意訳して戯曲化した私の作の一節である。

「菩薩心浄ければ浄土浄し」の意味である。

浄土と云うのは、何か土の平面的は広がりや、
景色などのように思っている人もあるかも知れぬが、

「浄土」と云うのは「世界」であり、
「世界」と云うのは「主観(こころ)の住んでいるところの客観界」の意味である。

浄土とは主観客観全一の存在であり、客観ばかりではなく、主観によって、観る者と
観られたるものとの一体の世界である。

孔(あな)ばかりを観ている人には此の世界は多孔性の世界であるし、
塀ばかりを見ている人には、前途見透(みす)かしのつかない衝突ばかりの世界である。

他(ひと)の欠点を探す人には此の世界は孔だらけな無味乾燥な世界に見えるであろう。
棘(とげ)ばかりを見出す人には此の世界は、針地獄に見えるであろう。

我れらは最も美しき心によって世界を見んかな。
  
今日いちにち人の美しさのみを見ることをつとめよう。
  
若しそれが美しく見えないならば自分の心が汚れているのだと反省しよう。

            <感謝合掌 平成29年2月25日 頓首再拝>

「外界は自分の心の鏡である」 - 伝統

2017/03/15 (Wed) 04:01:59

         *「3賢者の成功哲学」オリソン・マーデン(著)(P50~57)より

こんな話しがある。

ある貧乏な少年が、山の頂にある万年雨ざらしになった小屋に住んでいた。

少年は毎夕戸口に立って谷を眺め、谷の向こうに見える夕日に輝いている
美しい窓のある家を魅せられたようにいつも見入っていた。

時が経つにつれ、少年は自分が住んでいる小屋をみすぼらしく思うようになり、
自分を不幸に思うようになった。

少年はさんざん悩んだあげく、深いため息をついて、
「僕の家は本当に貧乏だ。もし谷の向こうにある金色の窓のある家に住めたら、
どんなに幸福だろう」と独り言を言った。

そんなある日の夕暮れ、金色の窓はこれまでにないほど眩しく輝いて、
「こっちにおいで」と、自分を招いているように見えた。

少年はこの瞬間、あの美しい家を訪ねてみようと決心し、翌日の明け方に出発した。
道は朝霧がたちこめ、日中は蒸し暑く、
少年はへとへとになって足を引きずりながら前進した。

谷の向こうに到着した時はすでに夕方になっていた。

自分の小屋からいつも眺めていたあの美しい家はどうであったか。
少年は輝く家を目の当たりにして愕然とした。

そこにあったのは、屋根の落ちた納屋、見る影もない窓であった。
それは決して金色ではなく、普通のガラスで、しかも所々割れていて、
塵と埃で汚れていたのである。

この時少年は、体は疲れ果て、喉は渇き、一歩も動けない状態でいた。
少年は納屋に入り仰向けに横たわって涙にむせんだ。

しばらくして半身を起こし頭を上げて涙ながらに谷の向こうを見ると、
そこにはキラキラと光っているものが見えた。
それはまぎれもない、山の頂に建っている自分の家であった。

その窓は夕日に照らされ、燃える黄金に輝いていた。

多くの人はこの少年と同じ思考に囚われている。
私たちを手招きするのは常に遠くに見える家である。

「不満に思う自分の家」は今現在を指し、
「遠くに見える美しい家」は遠い場所、長い時間を指す。

人生の美と栄光とは、私たちの不満と羨望の魔の手に囚われている間は、
いつも遠く隔たりのある場所(時間)にあるものだ。

私たちは、いつか時間が経過すれば美しい家に入ることが可能になると考える。

しかし、その羨望の思いを抱く時、今現在、今月今日の自分の居場所を度外視して、
軽く見る傾向が強い。

将来において、いつかお金、またはお金によって得られる物によって
幸福を手に入れることができると考えている。

しかしながら人間は、遥か遠くから手招きする蜃気楼のような漠然とした物を
把握できるものではない。

大抵の人は、歳を経て、いついつこれくらいの歳になれば
心配も苦労もなくなり、自分の野心を充たすことができるだろうと思っていても、
さていよいよその歳になってみると、相変わらず月並みで、平凡この上なく、
幸福は遥か前方の遠い所にあることを実感するのである。

(中略)

外界は自分の心の鏡である。
部屋にある鏡をふと覗けば、その鏡には自分の顔がそのまま映し出されるのと
同じである。

君が笑えば笑った顔が映し出され、顔をしかめればしかめっ面が映し出される。

幸福は自分の心の反映であり、見方、考え方一つでいろんな色にもなれば
いろんな形にもなる。

美しい心で見れば美しく、もし醜い気持ちで見れば必ず醜く不愉快なものに
なって見える。自然の美しさも、音楽の美しい響きも、すべて自分の心の反映である。

・・・

<参考>

立教88年生長の家春季記念日(平成29年3月1日)では、
総裁が、谷口雅春先生訳による、O.S・マーデン著「繁栄への道18章」からの
文章を紹介されたようです。

            <感謝合掌 平成29年3月15日 頓首再拝>

《五官の世界は象徴である》 - 伝統

2017/03/28 (Tue) 04:53:47


          *『幸福を招く365章』第12項(P249) より

   吾々は人間の本質を自覚するには、
   五官的認識から飛躍しなければならない。

   五官に見える状態は一種の象徴として
   取扱わなければならないのである。

   それは物そのものではなく、

   画家が画家自身の生命の象徴を絵として表現するように、
   吾々は五官の世界に自分の心の波動を象徴として
   表現するのである。

   象徴とは 「 象(かたち)」 として捉えがたきものを
    「 象 」 をもって徴(しるし)として
   あらわしたものである。

   だから、私は、「肉体も環境も吾が心の象徴(かげ)」と
   云うのである。


   (初出~「生長の家(昭和25年10月15日)
   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

            <感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>

心の鏡 - 伝統

2017/04/20 (Thu) 04:10:22


      *『生命の實相』第8巻観行篇(P86~88)より  

心の鏡になぜ曇りができるかと言いますと、
心が外界の印象を受けるからであります。

五官を通じて入(い)り来(きた)るいっさいの事物は
心のうえに痕を印するのです。

そしてもしわれらの心が印象の選択を行なわないならば、
完全なる絶対実在の実相(ほんとのすがた)と一致しないような
多くの印象が心のうちに造られるのです。

かかる印象が、たとえ鏡面上の「曇り」または汚点のごときものとなり、
心が波立ち騒ぎ、鏡面に凹凸ができ、くるいのない反映の現出をさまたげる
のであります。

しかしながらわれらは必ずしも五官の世界に対して心を閉じる必要はない
のであります。われらは五官の世界に実相の完全さを顕現しなければ
ならないのであります。

そしてこれには「内界」が「外界」となって顕われ、また内界」が「外界」に
対して相互作用を起こさなねばならないのです。だから、われらは「外界」に
対して目を閉じる必要はない。

外界に起こりつつあるさいっさいの事物を感受しつつ、それにとらわれないで
自由自在の働きをなしえなければならないのです。

われわれが人生を眺むるにその仮相にとらわれますならば、生命本然の
自由自在の働きができませんし、事物および人間の実相をあるがままに
観ることはできないのです。

実相を見ることができなければ、外より受ける印象はくるいのあるものと
ならざるをえないのであります。狂いのある印象は潜在意識の世界に集積され、
積もり積もってついに自壊するために形の世界に病的現象を顕わすにいたるのです。

これに反して、われわれが存在の実相に徹して、実相の至高所よりして人生を
眺むるときは、われらはいっさいの事物を通じても、完全なる「物そのもの」の
真のすがたを印象されるのであります。

こうなりますと、心に入り来るいっさいの印象は、実相世界から屈折なしに
直射し来たる光景となりますから、われらの心の鏡の上に、いかなる
暗い陰影(かげ)をも印することはできないことになるのであります。

すなわちわれらがいっさいの事物をあるがままの実相そのままのすがたに
おいて観ることができるならば、心はいかなる事物に接しても実在の真の
すがたのほかの何ものもうけとらないことになります。

この境地に達すれば、われらの五官の世界に対しても、実相の世界に対すると
同様に、自己の心を遠慮なく打ちひらくことができ、念(こころ)の鏡の上に
射してくるものとしては、唯(ただ)実相の光明から発する光ばかりとなり、

鏡の上にうつる姿としては、肉体、境遇、運命のいっさいにいたるまで
くるいのないもの、すなわち健全幸福なるものとなるのであります。

             <感謝合掌 平成29年4月20日 頓首再拝>  

《心の鏡をみがく日》 - 伝統

2017/05/07 (Sun) 04:07:48


         *「生長の家」(昭和16年10月19日の法語)より

   しづかに坐して自己の中(うち)なる『中(ちゅう)』に触れよ。
   ‘そのまま’の心になるのである。偏らぬ心になるのである。

   天之御中主神なる宇宙本源の大神の生命の
   『中(みなか)』とひとつになるのである。
   ひとつになっただけのものが其処に現れて来る。

   無限の力と一つになる者には無限の力が現れて来るのである。


   偏らぬ心になるとき、宇宙の偏らぬ神の生命と一つになる。
   そのとき力の浪費なくして最も効果多く力が使われるのである。

   力は出すから疲れるのではなく、偏った心、
   『中(ちゅう)』を失った乱れた心で力を使うから、
   天之御中主神から無限の力の流入に妨害が出来るのである。

   活力さえ旺盛であれば病気にかからない。
   活力が弱ければ薬剤を浴びるほど服んでも効くものではない。
   活力が第一である。

   その活力は神から来るのである。
   神と波長を合わすこと。

   それには人を憎まぬこと、憤らぬこと、争わぬこと、
   人の悪を思わぬこと、嫉妬せぬこと、羨ましいと思わぬこと、
   今自分に与えられたものを、唯有難いと素直に受けること。

   『今』を生かすこと。すべての人を、物を、拝むことである。


     明治天皇御製 ――

         われもまたさらにみがかむ曇なき人の心を鏡にして


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

             <感謝合掌 平成29年5月7日 頓首再拝> 

害心を持つものは本来無い - 伝統

2017/05/22 (Mon) 03:22:03


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月22日)」より

すべての人はわがために遣わしたまえる兄弟です。

一人もわれに対って害心を持つ者はこの世にないのである。

もし害心をもってわれに挑んでくるものがあったならば、
自分が害心を心に描いた反映であって、
そんなものは本来無いのである。

            <感謝合掌 平成29年5月22日 頓首再拝>

立ち対(むか)う人の心は鏡なり - 伝統

2017/06/16 (Fri) 05:22:54


よき「思い」を種蒔くこと

       *「光明法語」(6月16日)より

神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。

蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。

自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。

まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。

        <感謝合掌 平成29年6月16日 頓首再拝>

よき「行為(おこない)」の種を蒔け - 伝統

2017/06/17 (Sat) 04:39:10


           *「光明法語」(6月17日)より

   「思い」の種子は「行為(おこない)」の実を結ぶが、
   一つの「行為」はまた多くの「思い」の果(み)を結ぶ。
   それは互いに映し合って「合わせ鏡」の如くである。

   また「思い」の方ではそんなに深切な気持ちが起こっていないにしても、
   そこに思い切って深切な行為(おこない)を実行して見た時に、
   不思議に「嬉しい思い」が湧いてくることを発見するであろう。

   そこに常に深切な行為(おこない)をする人は、
   常に幸福な思いを味わう人だと云う事が出来るのである。

   又、相手の感謝の表情を見る事は人生無上の楽しみである。
   感謝は感謝の共鳴を喚(よ)び起こすのである。

        <感謝合掌 平成29年6月17日 頓首再拝>

顔は吾々の心の鏡である - 伝統

2017/08/24 (Thu) 04:48:20


         *「光明法語」(8月23日~24日)より

《八月二十三日の法語 容貌を美しくするには》

ロックフェラー研究所の外科医長カレル博士は言う、

「容貌の特徴は、皮膚の下の脂肪の中で動く筋肉の状態で定まる。
是等(これら)の筋肉の状態は吾々の思想感情の状態によって定まる。

人は各々望み通りの顔附(かおつき)表情をする事が出来る。
けれども其の顔附、表情をば永久に被(かぶ)っているわけには行かない。

併し、吾々の知らない間に吾々の顔附は心の状態によって少しずつ作られて行くのであり、
年をとるにつれて益々はっきりと人間全体の感情や欲望や希望一切の看板の様になる」と。

・・・

《八月二十四日の法語 心に化粧せよ》

誰でも容貌の美を希わない者はないであろう。

顔は吾々の心の鏡である。
白粉(おしろい)でいくら塗っても、その精神の下劣さは隠すことは出来ない。

「顔は精神の活動よりも、もっと深いものを現す。人間の顔には、その人間の悪徳や、美徳や、
理性や、知識や、愚かさや、感情や、最も隠された性癖や、さらにその上の全肉体の構造や、
質や、生理的、心理的病気の傾向まで現れる」 とカレル博士は更に言っている。

誰も隠すことは出来ないのである。

天知る、地知る、自分知るである。

            <感謝合掌 平成29年8月24日 頓首再拝>

《自己の環境は自分の心の具象化》 - 伝統

2017/09/08 (Fri) 05:00:55


          *『 生長の家 』(昭和25年12月5日の法語)より

   あなたが父母に対して、
   又、良人(おっと)に対して、又、妻に対して、
   又、隣人に対して

   如何(いか)なる想念感情を抱いているかと云(い)うことを
   知ることが出来れば、あなたの現在の運命を言いあてること、
   恰(あたか)も指(ゆびさ)すごとくであり得るのである。


   あなたが隣人を嫌っているならば 貴方(あなた)も亦(また)
   隣人にきらわれているのである。

   あなたが父母を憎んでいるならば
   あなたは父母に憎まれているのである。

   あなたが良人に対して不満足の感情をもっているならば、
   あなたの良人も亦 あなたに不満足の感情をもっているのである。

   あなたが妻に対して不満足であるならば、
   妻はあなたに不満足であるのである。

   その反対も亦 然(しか)りである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12280706.html

            <感謝合掌 平成29年9月8日 頓首再拝>

境遇は、自分の性格が鏡に映った映像 - 伝統

2017/09/30 (Sat) 04:47:35


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月29日~30日)より

自己の性格(内部の精神波動のレコードまたはフィルム)が原因であり、
その人の周囲にあらわれる出来事や境遇は、その性格の反影(かげ)である。
原因は性格、結果が境遇である。

境遇を自分の性格が鏡に映った映像であると観ればまちがいない。

あなたが自分の住んでいる境遇がおもしろくないならば、
「ああこれはわたしの性格が鏡に映っているのだな」と考えて、
性格を変えるようにすればよいのである。

鏡に映っている影を醜いと思って嫌悪するよりも、
自分自身の性格の欠点を直すようにつとめればよいのである。

たとえば自分の環境が自分に苛辣であるならば自分自身の性格が、苛辣であって気が短く、
人を容(い)れる寛大さがないからだと悟って、まず自分自身を寛容にすればよい。

             ・・・

鏡に不完全な姿が映っているのを、鏡そのものに欠点があるのだと思って、
鏡をいくら取り換えてみても、自分のとおりの醜い姿が映るのである。

鏡が悪いのだと思って鏡をこわしてしまったら、
ひびの入った鏡の破片にはなお不完全な姿が映る。

結局、自分自身が変化するよりほかに鏡に映る姿をよくする方法はないのである。
結局、環境も境遇も、自分の欠点を指示してくれる学科であるから、
その学科から逃げ出そうと思っては駄目である。

自分の性格を変化せよ。
商売も繁昌し、事業も成功し、人からも好かれ、喜ばれるのである。
性格の種を蒔けば、環境として刈り取るのである。

             <感謝合掌 平成29年9月30日 頓首再拝>

外界は心の世界のあらわれ - 伝統

2017/10/06 (Fri) 03:23:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月6日>(P95)より

外界(現象界)に不幸や混乱状態が起こるならば、
必ずそれと同じような混乱状態が内界に起こっているのである。

内界とは心の世界である。
心の世界のあらわれが外界である。

さて、外界に不幸や混乱状態があらわれてきたならば、
ただ内界を変化するようにつとめさえすれば、
現象界はほっておいてもよいという意味ではない。

現象界の処理の仕方(外界)も、内界の心の持ち方で変わってくるのであるから、
まず心の持ち方を正しくして、その正しい心の持ち方から自然に催してくる
「現象界の処理の仕方」を実行することによって、正しい処置が自然ととれて、
不幸や、不完全や、病気がおのずから消えてしまうのである。

           <感謝合掌 平成29年10月6日 頓首再拝>

心の反映が環境である   - 伝統

2017/10/21 (Sat) 03:33:22


       *Web:晴れときどき・・・(2011/7/22)より

自己の念の反映が環境であるから、
自己の念が一変するならば、環境が一変し始めるのである。

環境が具体的に一変するに先立って自己の念が平和になり、
明朗になり、落ち着いて来るのは、
祈りがまず自己の念を変化したことの証明である。

神は何事をなさんとも、それが他を傷つけないことである限り、
貴下を助けるにやぶさかではないのである。

人を批判してはならない。
人を言葉でこき下ろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。

                     谷口雅春師 『一日一話』

   (https://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/20614803.html

・・・
このご文章は、「光明法語」(1月5日)に収載されております。
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=53

           <感謝合掌 平成29年10月21日 頓首再拝>

《心の鏡としての環境及び肉体》 - 伝統

2017/11/06 (Mon) 04:20:34


         *『 生長の家 』(昭和24年2月25日の法語)より

   想念は自由であるが、
   これを破壊的に使えば
   人間自身が破壊されるのである。

   建設的にそれを使えば、
   人間自身が発達進歩し
   幸福になることができるのである。

   神は 破壊の神ではなくして、
   建設の神である。

   だから 法則を変えることなしに
   しかも、人間が他を破壊する心を起せば、
   その心の影として、自らが破壊されることになって、

   破壊と云うことが
   神の意志でないことを示し給うているのである。

   しかし それが 「 破壊 」 であるが故に、
   一見 神罰のように見えるが、

   これを神罰と観るものは、
   神の愛の深さを知らないものである。

   神は 人間を自由意志のままに置いて、
   而(しか)も自分の 「心の影なる 」 肉体及び環境を見て
   それを鏡として、自ら省み
   自由意志のままに善に遷ることが出来るようにし給うたのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13042889.html

           <感謝合掌 平成29年11月6日 頓首再拝>

深いところを映しだす「鏡の法則」 - 伝統

2017/11/24 (Fri) 04:40:56


     *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
               ~ 斎藤一人・著(P81~82)より

自分が今世で決めてきた問題からは、絶対に逃れることができません。

だからそういう問題から一時的に逃げられたとしても、
また別の、本質的に同じ問題が現れたりするんです。

たとえば、勤めていた会社で人間関係がイヤだからといって辞めると、
また別の会社で同じような人間関係の問題が起こったりします


このように人間関係でイヤなことが続くんだとしたら、
それは自分の中にそうさせるものがあるんです。

「上司が私にいじわるをするんです」って言う人も、
そのいじわるをされた人が上司になったときに、
同じようなことをやりかねない性格だから、そういうことが起こるんです。

これを「鏡の法則」といいます。

「自分が好意的に接すれば、相手も好意的に接してくれる」とか、
「相手に対して苦手意識や敵対心を持っていると、
相手もその人に対して同じような感情を持つ』

というのは表面的な話で、

「鏡の法則」はもっと内面的に深いところまで映しだすことがあるんです。

たとえば「威張っている人を見るとすごく腹が立つ」人というのは、
自分の心の中に、人の上に立ったときに威張ってしまうという性格があるんです。

または、自分が威張りたいのを抑えてる。
抑えてるから余計に、相手が威張ると腹が立っちゃうんです。


   鏡は自分の姿をそのまま映してくれるよね。

   あなたの中の鏡はなにを映してくれていますか。

   映ったものがちゃんと見られる自分でいようね。

           <感謝合掌 平成29年11月24日 頓首再拝>

《自分の心が変れば周囲が変る》 - 伝統

2017/12/12 (Tue) 04:05:53


         *『 生長の家 』(昭和25年3月19日の法語)より

   真の人間は 肉体ではないのである。
   自分自身は 「 生命 」 である。

   「 生命 」 が動いて 「 心 」 となって現われ
   「 心 」 が動いて 肉体となって現われるのである。

   されば如何に生命を動かすか、如何に心が動くかということが
   大切な問題であるのである。

   自分の心の通りの世界が現われるのである。

   自分の心が不幸であれば自分は不幸であり、
   自分の心が幸福であれば、自分は幸福であるのである。

   吾々は 自分の運命を変化するために
   他人の心を変えなければならぬことはないのである。
   自分自身の心が変れば 周囲が自から変るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

           <感謝合掌 平成29年12月12日 頓首再拝>

鏡を拭いても顔のシミは取れません - 伝統

2017/12/29 (Fri) 04:04:02


     *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
         ~斎藤一人・著(P83~84)より

人はみな、“傷”を持って生まれてきます。
そして多くの場合、同じ傷を持っている親の元に生まれます。
なぜかというと、それは自分の傷に気づくためなんです。

自分が暴力をふるっちゃうような人は、暴力をふるう親の元に生まれます。

そこで、「これは自分にそういうところがあるからだ」
と思えばその傷も治るんだけど、
「暴力をふるう親が悪い」って言ってると、それは治りません。

そしてそういう人は、自分が親になったときに同じことをやるんです。

自分の顔にシミがついてるからって、鏡を拭いてもシミは取れません。
鏡を替えても取れないんです。


だから、部長がイヤだからといって会社を辞めても、
また次の会社で似たような人が現れるからね。

でも鏡を見て、自分の顔の“よごれ”に気づいて取れば綺麗になるように、

自分の中にある傷に気づいて治せば、起こる現象も変わってきます。

部長の対応が変わるとか、相手が転勤していなくなるとか、
自分が昇進して異動するというようなことが起こるんです。

鏡には自分のそのままの姿が映ります。

それと同じで、自分に起こっている出来事は、自分の傷が投影されたものなんです。

だから起こった出来事を他人のせいにばかりしていると、
いつまでたってもうまくいかないんだよね。


    自分の鏡に映ったものをしっかり見て、気づいて対応すれば、
    現実の世界もおもしろいように変化していくからね。

           <感謝合掌 平成29年12月29日 頓首再拝>

《心の反映が環境である》 - 伝統

2018/01/05 (Fri) 04:40:54


         *「光明法語」(1月5日)より

自己の念(こころ)の反映が環境であるから、
自己の念(こころ)が一変するならば環境が一変しはじめるのである。

環境が具体的に一変するに先立って、自己の念(こころ)が平和になり、明朗になり、
落ち着いて来るのは、祈りが先ず自己の念(こころ)を変化したことの証明である。

神は何事をなさんともそれが他を傷つけないことである限り、
貴下(きか)を助けるのにやぶさかではないのである。

人を批評してはならない。
人を言葉でこきおろし、悪しざまに言ってはならない。
人を傷つけたら、また自分が傷つくことになるのである。

           <感謝合掌 平成30年1月5日 頓首再拝>

《周囲の光景は自分の心の影》 - 伝統

2018/01/19 (Fri) 04:32:21


         *『 生長の家 』(昭和25年3月20日の法語)より

   周囲が自分に対して けわしいのは
   自分の心の中に けわしいものがあるからである。

   周囲が自分に対して荒っぽくあたって来るのは
   自分自身の心の中に荒っぽいものがあるからである。

   吾々は 自分が幸福になろうと思ったならば、
   自分の心が輝いて、どんな人に対してでも、

   その人の内に宿っている 「 神性 」 又は 「 仏性 」
   をみなければならないのである。

   立ち向う人は 心の影として現われるのであるから、
   吾々は彼の姿をみて、彼の本当の自分を見出すことができないのである。

   吾々は、谷に対して叫ぶが如(ごと)く ただ自分の言葉の反響を聞いて
   それを相手だと思うにすぎないのである。

   自分の口より出(い)ずる言葉が やさしければ
   相手から出る言葉も やさしいのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

           <感謝合掌 平成30年1月19日 頓首再拝>

家族や富は、おのれの心の鏡 - 伝統

2018/01/21 (Sun) 03:36:30


           *「光明道中記」(1月21日笑門福来七宝充満の日)より

【類は類を招ぶ。類でないものは反発する。(『生命の實相』第一巻)】

凡そ似た者夫婦と云う諺(ことわざ)のとおり、夫婦は似たり寄ったりのものである。

自分の欠点はわかりにくいのは、
自分の睫毛(まつげ)が自分自身に見えないのと同じことである。
自分の睫毛を見るためには鏡が要る。

それと同じく自分の心の相(すがた)を映して見るため与えられているのが、
自分の夫であり、妻であり、子である。

妻が出しゃばりであるのは自分が出しゃばりであり、
子供が要らぬことに金を費やすのは、
儲けてはならない不当なことに儲けていた反影である。
金持三代続かないのはその為である。

善行をして次第に集った富ならば何時までも続く筈である。

ケチな心は貧しい心、出し吝(おし)みする心であるから、
一時は出口を押さえる力で蓄積が出来るものであるが、
やがてその人の周囲にはケチな心、出し吝(おし)みする心の持ち主ばかり
が集って来て、ついにはその人自身が立たなくなり衰微して滅んでしまうのである。

贅沢な心のところにも富は永遠にいないものである。
何故なら物の価値を知らないで、湯水のように贅沢に恵みを悟らずに
使いほかしにする心の処には神の恵みは何時迄も停(とどま)らない。

            <感謝合掌 平成30年1月21日 頓首再拝>

眼はその人の心と運命を現している - 伝統

2018/02/01 (Thu) 04:01:16


          <「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月1日)」より>

人に逢うて何かなつかしく、いつまでもその人と話していたいと思える人と、
そうでない人がある。

眼の光のなごやかな人と、鋭い人と、温かい人と、冷たい人と、なんとなく凄い人と、
狡(ずる)そうに見える人と、人間にもいろいろあるものだ。

ひらいた心の人でないと明るい眼の人にはなれるものではない。
幼児(おさなご)の眼が澄んで清らかなのは、
幼児の心は打ち開いた澄んだ天空海闊の心をしているからである。
幼児でも虐げられている継児(ままこ)は清らかな眼はしていない。

濁りに染まない幼児の眼のような心になりたいものだ。

いろいろの眼の光のあるうちで、一番わたしの好きでない眼は狡い光の眼である。
愛の光のある眼は温かく、知恵の深い眼は時として冷たい。時として冷酷にさえ感じる。

冷たい眼でも、その冷たさが知恵の深いために
冷たい光を湛(たた)えているのは崇高にさえ感じられる。

隠し心のある眼、正面(しょうめん)を真正面(まとも)に見られない眼、
下を向いていて上眼(うわめ)づかいで見る眼、顔の向かぬ方を盗み視(み)する眼
 ―― およそ狡(ずる)い眼の光はこういう眼の種類である。

ぱっちりと打ち開いた愛くるしい隠しのない眼の光で相手を見る人は必ず好運である。
形は心の影である。
眼の形、眼の光、そのとおりの形のものがあなたの運命をあらわしている。

どんより曇っている眼の人は、心も曇っている。
眼の三角の人は心も三角である。

            <感謝合掌 平成30年2月1日 頓首再拝>

打つ心は打たれる心である - 伝統

2018/02/10 (Sat) 04:53:40


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月10日)」より
 
憎みながら叱る心で軽く打つと子供は泣く。

同じ強さで打っても愛撫する心で
愛慰(あや)すような形で打ったら子供はかえって喜ぶだろう。

痛さは心にあるからである。


かって野村義隆さんが道場で指導していた朝のことである。
禅家の道場破りを仕事にしているような物凄い格好の修行者が来た。
そしてたずねた。

「生長の家では肉体は無いというんですね。」
「そうです。」

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「では痛みは肉体にはないんですね」。」
「そうです。」

「それではあなたの肉体を打っても痛くありませんね。
僕はこれから君を打ってやる!」

殺気がその修行者の眼から一閃、野村さんの方へ走った。
そのままいたら野村さんを殴りでもしかねるまじき姿勢である。

と、たちまち野村さんの方が起ち上がって
の修行者の方へ近づいていったかと思うと、
ピシリとその修行者の頬を打った。

痛いか痛くないか冷暖を自知せよというのにあったらしい。

やがて野村さんは元の座へ還って来て、
何事もなかったように別の修行者と話していた。

野村さんが打たなかったら、野村さんは修行者に打たれていたかもしれない。
野村さんの気魄の方が修行者の気魄に打ち勝ったので修行者が打たれたのあった。


打つ心は打たれる心である。

打つことを心に描けば、その念(こころ)は形と表れて相手を打つ。
相手の気魄が強ければ、
それはかえって自分自身に還ってきて自分自身を打つのである。


阿難が釈尊に対(むか)って人を憎んだ心を相手が受けなかったら、
その憎んだ心はどこへ行きますかと尋ねたときに、

釈尊は「お前は贈り物を人に持っていった時に相手がそれを受け取らなかったら
その贈り物は誰のものになるか」と問い返された。

阿難は「それは贈った人に返ってきます」と答えた。
釈尊は「人を憎む心もそのとおりだ」とおっしゃった。


そのころ、道場には夜も指導があって、夜間はわたしが受け持っていた。
その同じ修行者がその夜も来ていて同じようにわたしに問いかけた。

「肉体は本来無いんですね」
「そうです。」わたしは朝の出来事を知らないので何心なくこう答えた。

「痛みは心にあるんですね。」
「そうです。」

「それでは先生の肉体を僕はこれから撲(なぐ)りますが、傷みはありませんね。」
修行者は今にも撲りに来そうな姿勢である。
「それは痛いにきまっている」とわたしはとっさに答えた。

「なぜ痛いんだ、無い肉体がなぜ痛いんだ。
痛ければ、今後肉体に痛みは無いなどと言うな。」
恐ろしい剣幕で修行者は詰めかける。わたしは静かに答えた。

「肉体そのものは傷まないが、お前の心が痛いのだ。
人を撲ろうとするお前の心には痛みがある。
『五官は心の影を見るに過ぎず』と『甘露の法雨』にある。
五官は心の痛みを映すものだ」

『ウーム、よし!』と言ったきり、
修行者は立ち上がりかけた膝を畳に落ちつけて俯向いたまま動かなかった。
そしてわたしが他の修行者と話しているうちに
その修行者はどこかへ姿を消してしまった。


野村さんの捌(さば)き方と、わたしの捌き方と
どちらも個性が出ていておもしろいと思う。

野村さんが道場に出れば「叱られる、叱られる。野村さんはこわい」と修行者は噂する。

ときには「道場であんなに憤怒の形相をされては生長の家の名にかかわるから
一日も早く道場へ出ないようにしてほしい」と投書して来た人もあった。

しかし野村さんに叱られて悟ったと喜ぶ人も、
叱られて病気が治ったと感謝する人もたくさんあった。

相手を愛しなければ、公な心であんなに思うままに修行者を叱りうるものでない、
損得を考えたらあんなに叱りうるものではないと批評する人もあった。

「そんなに叱ったら生長の家へ修行に来なくなりますよ」と忠告する人があると、
「指導の最中には相手を指導することきり考えない。修行者が増えるとか減るとか、
損得のことを考えて指導する奴があるか」
と野村さんはその人に一喝したこともあったと噂にきいたことがある。

            <感謝合掌 平成30年2月10日 頓首再拝>

とげとげしい心を捨てる - 伝統

2018/02/15 (Thu) 03:29:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月15日)」より

どんな美しいバラの花でも、その棘に触ったときにはハッと驚いて捨てられる。
人に嫌われるのは心に棘があるからである。

これだけ立派な仕事をしているのに人が自分を遠ざけるというような人は、
これだけ美しい花が咲いているのになぜ人が自分を捨てるのだろうと、
みずから疑うバラの花のようなものである。

とげとげしい眼、とげとげしい言葉、とげとげしい行動、
その一つ一つを抑えようとしてもなかなか直るものではない。

まずとげとげしい心を捨てなければならぬ。
とげとげしい心を捨てるには「とげとげしい心」を
アリとして抑えてもなかなか直るものではない。

暗は暗をいくら押さえてみても消えるものではない。
暗を消すには光を持ってくるにかぎる。

とげとげしい心が自分にあると気づいたら、その反対を持って来るのである。
「自分は優しい優しい人間であって、とげとげしいところはちょっともない」と、
その反対の念を自分自身にいって聞かせればよいのである。

            <感謝合掌 平成30年2月15日 頓首再拝>

温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る - 伝統

2018/02/20 (Tue) 03:49:18


           *「光明道中記」(2月20日 雪が融ける日)より 

【他が自分に対して薄情である場合は、自分自身に何か暗い冷たさがある思え。
                       (『生命の實相』第四巻)】

温かいストーブの周囲にはおのずから人が集る。人を拝めば人が集る。

荒木松衛さんが、熊本県立白川学園と云う不良児の感化院で
園長をしていられたときに一人の生徒が脱走した。

その時、荒木さんは風邪を引いて寝ていられたが、
「私の懐は温かいのだ。生徒よ帰って来い。私はこの温かい心で汝を抱擁するのだ」
という意味の思念をせられたら、脱走した生徒が急に帰園したくなって帰って来た
という話を聞いたことがある。

若し、他が自分に対して薄情であり冷淡であるならば、
それは自分の中に「温かさ」がないからである。
暗い冷たい世界からは何人(なんぴと)でも逃げ出そうとするものである。

また内心に温かいものを持ちながらでも、
他(ひと)を責め、人を指す心を起すとき、
それは相手を追い出す心になる。

如何に多くの愛深き妻が、良人を責める心を起したがために、
その良人が堕落の淵に堕ちたであろう。

だから「他を責める心、人を刺す心は人を逐(お)い出す心」
(『生命の實相』第二巻))であり、

「他の欠点をあげたい心が既に神に背(そむ)いた心である」
(『生命の實相』第五巻))と示されている。

            <感謝合掌 平成30年2月20日 頓首再拝>

“こんなに良人を愛しているのに良人が冷たい” - 伝統

2018/03/06 (Tue) 04:25:43


          *『女は愛の太陽だ』(P122~123)より

あなたの家庭が淋しいと感じられ、良人が冷たいと感じられ、
やるせない寂寥感に悩まされる時があるならば、

その冷たい良人を恨んだり、責めたりする感情を
先ず棄てることが肝腎であるのである。

良人の現象的状態は妻の心の影であることを悟らなければならないのである。

良人が冷たいのは、あなた自身が良人に対して冷たいのが映っているのである。

しかしあなたは「いいえ、私は良人を熱愛しているのです。
良人の愛をこんなにも求めているのです。それなのに良人が冷たいのです」

と仰言りたいのでしょう。

あなた自身の言葉が証明しているように、
あなたは良人の愛をそんなにも求めているのです。

しかし“求めている”ということは「愛を与えている」ことではないのである。

「良人から愛を奪いとろう」としているのです。

それは自己愛であり、良人への愛ではないのです。

自分ばかりを愛していて、自分を愛するために、
良人から愛を奪おうとしているのです。

だからあなたは本当は自分自身に対しては熱く、良人に対しては冷たいのです。

その心が良人に反映して良人が冷たくあらわれるのです。

            <感謝合掌 平成30年3月6日 頓首再拝>  

深いところを映しだす「鏡の法則」 - 伝統

2018/03/27 (Tue) 03:43:01


         *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
              ~斎藤一人・著(P81~82)より

自分が今世で決めてきた問題からは、絶対に逃れることができません。

だからそういう問題から一時的に逃げられたとしても、
また別の、本質的に同じ問題が現れたりするんです。

たとえば、勤めていた会社で人間関係がイヤだからといって辞めると、
また別の会社で同じような人間関係の問題が起こったりします


このように人間関係でイヤなことが続くんだとしたら、
それは自分の中にそうさせるものがあるんです。

「上司が私にいじわるをするんです」って言う人も、
そのいじわるをされた人が上司になったときに、
同じようなことをやりかねない性格だから、そういうことが起こるんです。

これを「鏡の法則」といいます。

「自分が好意的に接すれば、相手も好意的に接してくれる」とか、
「相手に対して苦手意識や敵対心を持っていると、
相手もその人に対して同じような感情を持つ』

というのは表面的な話で、

「鏡の法則」はもっと内面的に深いところまで映しだすことがあるんです。

たとえば「威張っている人を見るとすごく腹が立つ」人というのは、
自分の心の中に、人の上に立ったときに威張ってしまうという性格があるんです。

または、自分が威張りたいのを抑えてる。
抑えてるから余計に、相手が威張ると腹が立っちゃうんです。


   鏡は自分の姿をそのまま映してくれるよね。

   あなたの中の鏡はなにを映してくれていますか。

   映ったものがちゃんと見られる自分でいようね。

            <感謝合掌 平成30年3月27日 頓首再拝>

観る世界は観られる世界である - 伝統

2018/04/01 (Sun) 03:37:06


      *光明道中記(四月「相倚りたすける」【燦爛輝く桜花】)より

観る世界は観られる世界である。
能観(のうかん<あるもの>)の中に所観(しょかん<みられる>)の世界があり、
所観の世界の中に観る人の心がある。

観る者と観られるものとは本来一体であるのである。
これを吾々は心の影と言っている。


日本に美しい桜の花が多いのも、日本人の心が桜の花のように美しく潔いからであり、
執拗でなく淡白であるからである。

本居宣長の『敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花』
と云う歌は日本精神を詠んだものとしてその内容に就て色々と解釈せられているが、

『朝日に映(は)えている爛漫たる相(すがた)』が日本精神だとか、
散りぎわの潔い相(すがた)が日本精神だとか、互に言い争って、
その解釈の優劣を決定する必要はないのである。

観る世界が観られる世界であると云う真理が本当に解るならば、
日本の国の相、日本の樹木の相、日本の風光の相、すべて、日本人の心を
現していないものはひとつもないのである。

風土が人間を感化するとも言えるが、桜も生命であり、心の表現であり、
人間も生命であり、心の表現であるから、

日本人が桜を感化し、桜が日本人を感化し、日本人の中に桜があり、
桜の中に日本人があるのである。

差し昇る朝日に映える桜花を鑑賞する日本人の心には、
差し昇る朝日に映える桜花の心があるのである。

            <感謝合掌 平成30年4月1日 頓首再拝>

嫌な人もあなたの鏡 - 伝統

2018/04/16 (Mon) 03:23:07


    *「あなたが『宇宙のパワー』を手に入れる瞬間~永遠に続く幸せの源泉」
      ~ディーパック・チョプラ著、(P125~127)より抜粋

(1)すべての人間関係はあなた自身の鏡です。
   魅惑を感じる人も、不快を感じる人も、どちらもあなたの鏡です。

(2)あなたが人に対して魅力的に感じる性質と、
   不快を感じる性質を紙に書き出してみて下さい。
   これらすべてがあなた自身です。

(3)そしてあなたが自分自身をあるがままに受け入れ、
   あるがままに自分を愛することができたら、
   あなたは自然な状態になるので非常に魅力的になります。

(4)あなたの影を容認し、理解し、許してあげてください。

   あなたは神の様々な顔であるという事実を、
   愛情をもって受け入れて下さい。

(5)あなたは無限の役割を演じるという運命にありますが、
   あなたは演じている役割そのものではないのです。

   あなたは永遠のスピリットで、
   これらの役割を演じる静かな目撃者なのです。

            <感謝合掌 平成30年4月16日 頓首再拝>

《相手の姿は自分の心の影 》 - 伝統

2018/05/08 (Tue) 03:32:30


       *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第3篇( P79~80) より

私たちは往々他の人の悪や欠点をみとめて、それに腹を立て、
苛酷に非難することがあるけれども、それは自分の心の影であることがある。

自分が彼に対して苛酷な考えをもっているから、彼が自分に対して苛酷にあらわれ、
或いは「悪人」の如くあらわれて見えるのである。

彼に対する、こちらの考えを変えれば、彼が変わることになるのである。


先ず神想観を修して自分自身が神の愛にみたされ、
すべての人々を赦し得る心境となり、

然る後、彼もまた神の愛にみたされ、
全然悪意なき神の子となっている姿を心の中に描いて、
それを凝視するがよいのである。

やがて其の人の神性があらわれて、その人が過去を懺悔し、あやまりに来て
善人になるような実例が随分たびたびあるのである。

            <感謝合掌 平成30年5月8日 頓首再拝>

鏡を拭いても顔のシミは取れません - 伝統

2018/06/02 (Sat) 03:00:18


     *「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
            斎藤一人・著(P83~84)より

人はみな、“傷”を持って生まれてきます。

そして多くの場合、同じ傷を持っている親の元に生まれます。
なぜかというと、それは自分の傷に気づくためなんです。

自分が暴力をふるっちゃうような人は、暴力をふるう親の元に生まれます。

そこで、「これは自分にそういうところがあるからだ」
と思えばその傷も治るんだけど、
「暴力をふるう親が悪い」って言ってると、それは治りません。

そしてそういう人は、自分が親になったときに同じことをやるんです。

自分の顔にシミがついてるからって、鏡を拭いてもシミは取れません。
鏡を替えても取れないんです。


だから、部長がイヤだからといって会社を辞めても、
また次の会社で似たような人が現れるからね。

でも鏡を見て、自分の顔の“よごれ”に気づいて取れば綺麗になるように、

自分の中にある傷に気づいて治せば、起こる現象も変わってきます。

部長の対応が変わるとか、相手が転勤していなくなるとか、
自分が昇進して異動するというようなことが起こるんです。

鏡には自分のそのままの姿が映ります。

それと同じで、自分に起こっている出来事は、自分の傷が投影されたものなんです。

だから起こった出来事を他人のせいにばかりしていると、
いつまでたってもうまくいかないんだよね。


    自分の鏡に映ったものをしっかり見て、気づいて対応すれば、
    現実の世界もおもしろいように変化していくからね。

            <感謝合掌 平成30年6月2日 頓首再拝>

立ち対(むか)う人の心は鏡なり - 伝統

2018/06/16 (Sat) 03:29:50


       *「光明法語」(6月16日 よき「思い」を種蒔くこと)より

神をあざむくことは出来ない。
神は秤(はかり)の如く、自分の目方どおりの目盛りをあらわしたまうのである。

蒔かぬ種は生えぬし、蒔いた種は穫(か)りとらなければならないのである。
一つの「思い」を種蒔けば、それは多くの「行為(おこない)」となって実を結ぶ。
よき「思い」は多くよき「行為(おこない)」となってあらわれる。

自分の行為がよくなるばかりでなく、自分の「思い」の一つで
相手の「行為(おこない)」までがよくなるのである。

まことにも「立ち対(むか)う人の心は鏡なり」と黒住宗忠の歌った通りである。
立ち対(むか)う環境さえも自分の心の鏡である。

        <感謝合掌 平成30年6月16日 頓首再拝>

相手の喜怒哀楽は自分を映す鏡のようなもの - 伝統

2018/07/04 (Wed) 04:11:24


       *『1日1分元気になる法則』福島 正伸・著(P66~67)より

あなたのまわりにいる人が
あなたのことを、すべて教えてくれます。

相手が笑顔になれば
自分が笑顔で接していることがわかります。

相手が怒っていれば
自分の言動に問題があったことがわかります。

まわりの人が喜べば
あなたはまわりに喜びを与えたことがわかります。

相手にやる気がなければ
自分が仕事を楽しんでいないことがわかります。

売上があがれば
あなたはお客さまに価値を提供したことがわかります。

感謝の手紙がくれば
あなたは他人に貢献する行動をしたことがわかります。

まわりの人はすべて
あなたがどんな気持ちで、どんな行動をしたのかを
いつも正直に、教えてくれています。

        <感謝合掌 平成30年7月4日 頓首再拝>

鏡は、体の外見を映す。人間関係は、心の内面を映す。 - 伝統

2018/07/18 (Wed) 03:09:38


         *Web:Happy Life Style より

「私はどんな人間なんだろう」

そう思って、鏡を見ます。

顔・髪型・表情を見て、自分を判断します。

 
しかし、鏡を見て判断する自分は、外見だけです。
鏡は、外見を映してはくれますが、心の内面までは映してくれません。

では、心の内面を映し出してくれる鏡はあるのでしょうか。

なんと、あります。

あなたの人間関係です。

親を含めたあなたの人間関係が、あなたの心の内面を映し出しています。

自分の周りにはむかつく人ばかりだというなら、あなたがむかつく人間になっています。

自分の周りには優しい人ばかりだというなら、あなたが優しい人間であるということです。


なぜ、周りの人があなたの心を反映してくれるのかというと、
相手はあなたの顔・態度・言葉によって、反応しているからです。

あなたの言葉遣いが悪いと、相手は悪い印象を受けて、汚い言葉で返してきます。


相手に「ばか」と言えば、
山びこのように、相手から「お前もばか」と跳ね返ってきます。

また相手に「ありがとう」と感謝すれば、嬉しくなった相手も
あなたに「ありがとう」と優しくなります。

好意返報性の法則です。


あなたが笑えば、相手も笑います。
相手が笑っているということは、あなたが笑っているということです。

あなたがしかめ面をすれば、相手もしかめ面をします。

相手の顔・態度・言葉は、あなたを映しています。

自分の外見を確かめるときには、鏡を使います。

自分の内面を確かめるときには、周りの人間関係を活用します。

周りの人は、あなたの心を反射しているのです。

         (https://happylifestyle.com/4862

        <感謝合掌 平成30年7月18日 頓首再拝>

Re: 心の鏡 - senvtgewqtMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:50:45

伝統板・第二
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