伝統板・第二
神癒② - 伝統
2016/06/12 (Sun) 03:58:54
*伝統板・第二「神癒①」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6458999
《偉大な”神癒の原理”》
*『生長の家』(昭和47年6月号)より
~『練成会に臨んで内観すること』 藤原敏之 先生
◇偉大な〃神癒の原理〃
合掌、有難う御座います。
生長の家大神の御守りと御導きを賜り、尊師谷口雅春先生の御恩徳によりまして、
毎回信濃練成に於て神癒と奇蹟とが続出しておりますことを此の上もなく有難く感謝申上げます。
医学や常識では、到底治る筈が無いというような重患が、一瞬にして消えたり
人間業では解決しそうもない困難な問題が、忽ち解消すると言っても、
一般には一寸納得出来かね又体験として発表しても信じようとはしないのであります。
其れ程迄に現象にとらわれ、現象を信じ込んでいるのが人間なのであります。
この長きに亘る迷妄を打ち破ることこそ御教えの目的であり、根本的課題である
と信ずるものであります。
『生命の實相』第一巻第三頁に、この神癒の原理が示されているのであります。
『生命の實相の自性圓萬を自覚すれば、大生命の癒力が働いて
メタフィジカルヒーリング〈神癒〉となります』
とも御示し戴き又實相圓萬の自覚によって、大生命の治す力が働いて
われわれの不幸を癒して戴くことが出来るとも御教え戴いておりますから、
私達は只信じて実行すれば、それだけでよいのであります。
私は練成の根本方針を、此処のところに於て実施させて戴いております。
御教えが絶対であり間違いないからこそ御教え通りどんな悪性疾患も機能障害も
みんな消えて治ってしまうのであります。
別に種も仕掛けもないのであります。
強いて言えば、同じお話しをしても行事をするにしても、形式的とならず、
生命が篭り生命を通したものがそこに発現して練成を受けられる皆様の魂を打ち、
肉の耳で聞くだけではなく魂で受け止め、身体で受けられる結果
神様に直結せられ神癒をお受けになるものと信じます。
理由は私共にも判らず又治る方々にも判らないのであります。
兎に角人間は少し本を読んで判りかけますと、覚えたものを自分のものだと思い違いしたり、
御教えを私有物とし勝ちでありますが、このことは極めて警戒を要することだと思います。
御教えを御説き下さる谷口雅春先生も
「自分は教祖ではない教祖は自分を指導して下さる御神霊である」
と申しておられます。
私達は常に神想観して自己を否定し、己れを空しうする時、
神に直結し神の導きを戴くことが出来るのであります。
人間心や人間力で人間が救われる筈がなく、私達が祈りに徹し自己を放下し切った時、
神は私達を媒体として働き給い、神智と神愛とを天下し給いて神癒を現わされるもの
と信じます。
私達は練成に際して神以外のものを一切認めないよう自己否定の祈りに徹して
練成に従事させて戴いております。
随って信濃練成は「神様が直接主催し給う練成」であると信じております。
私達は只奉仕者としてお手伝いをさせて戴くのであり、
神意以外のものが混じってはならないと、
常に厳重なる内観の下に従事させて戴いております。
話しが上手であっても、行事がうまく行われても、人間によって為されている限り、
単なる行事に終り、話しとなります。
救われるのは話しでもなく行事でもなく、
そこに神の御降臨があるかないかで決まるものと信じます。
どれだけ神を現すかが重要な鍵となり、
このことを明確にし正しい基盤の上に立って行われる時、
上手下手には関係なく必ず成果が上がるものと思います。
何故かと言えば、其処に神が現われている時、そことは最高となり最善となりますが、
神が現われないでは人間力が主体となり、相対力しか働かないからであります。
神力は無限でありますが人間力に自ずから限界があり、絶対的な自信は伴わないから、
言うこと為すことに権威が無く相手の魂を打つだけの迫力に欠けるのであります。
御教えは覚えたり、知るものではなく、行ずるのであります。
教えをそのまま実行する時初めて結論となり、金剛不壊の信となり、
信は即ち絶対でありますから自信となり、其処に完全な自由が得られるのであります。
無碍光如来とはこの様な境地に生きる人を言うのであります。
『生命の實相』に「自己を礼拝し自己を讃嘆せよ」とあり、
釈尊が「天上天下唯我独尊」の自覚を得たのも
如来以外のものを認めなくなったからだと思います。
この自己を礼拝するということは、肉体人間を礼拝することではなく、
「自分が自分と見える侭自分ではなく、神の生命其のものであり無限なるものである」
という自覚に到達することでありますから、
只話しや言葉だけではなく真実であり、御教え通り如実に実現するところに
御教えの真実性と無限の尊さがあるのであります。
さて、前おきが長くなりましたが、物ごとは前提となり基盤となるものが一番肝腎であります。
建物でも土台がシッカリしていない所にどんなに立派な建築をしても、
すぐガタガタになり壊れてしまう如く、練成の成果もこれ同様でありまして
奉仕する者、練成担当自身の心構えが極めて大切であり、
ここが狂っていては正しい指導は生れず、どうすることも出来ないと思います。
ありもしない現象ばかり見て現象処理の方便ばかりと取り組み、
心の法則や因縁話だけに力を入れてみても、
實相を観る心が開かれないで、迷って苦しんでいる人達は
益々判らなくなるばかりであります。
生長の家の御教えには、縦の真理と横の真理とが明確に区分されて説かれて、
縦には「人間は神の子であり、無限であり、絶対なるものであり、
肉体的存在ではなく生命そのものであり、其の生命は即ち神の生命である」
との大前提に立つのでありまして、このことを離れては御教えは存在しないと信じます。
この御教えの根本であり中心を貫く筋金がシッカリとはいっていなかったならば
「物質は無い、肉体は無い、病気も無ければ不幸も無い」と横の真理を口で言ってみても、
所詮解決は得られないのであります。
病気が癒えるのも、不幸が解消するのも、元々無いものが無くなる丈のことであって、
悪いものが善くなったり、あるものが無くなる訳ではなく、
本来善なるものが本来の姿に帰るだけのことであります。
人間は、現象の悪や不完全なものがあるという迷妄によって、
ありもしない苦しみや悩みを造り出しているのでありますから、
この根本的な間違いを打ち破る以外に、解決の道は無いと確信致します。
現象の悪に執えられて苦しんでおられる方達は、
丁度ありもしない夢を見て夢を本当だとして恐れているのと同様でありますから、
夢の中の出来事を解消する為の努力を払う必要もなく、夢が醒めることが根本なのであります。
私達練成担当者の使命は、この夢にうなされ苦しんでいる人達の夢を
醒ましておあげすることだと信じます。
そのことを忘れて一緒になって夢の解決に力を入れているようでは
本当の救いとならないのは当然であります。
指導する立場にある者が現象や悪を認めて現象処理の方便としての横の真理のみに力を入れて、
心の持ち方や、又先祖祀りの形式や、神想観のやり方の上手下手によって問題の解決が決まる
というような導き方で根本的な解決の出来る道理はありません。
それだけでは生長の家の肝腎要の神髄が失われ、骨抜きになります。
救いの顕れるのは本人の自我的努力によるものでは勿論なく、
指導者の巧拙によるものでもなく、「どれだけ相手の實相を拝み得たか」
ということにあると確信致します。
拝むということは人間を拝むのではなく、神を拝むのであります。
相手を人間と見乍ら何程拝んでも、それは拝んだことにはならないと思います。
本当に拝むということは徹頭徹尾現象を否定し、人間を否定し切ることであります。
そこに初めて神を観ることが出来、無条件に拝むことが出来ると信じます。
否拝まずにはおられなくなるのだと思います。
生長の家の練成会には必ず〃神性開発〃という肩書きが附けられのも、この為だと思います。
このことが抜けた場合は、只の練成会となり、他の団体等で行われている単なる
集団訓練と変わらないことになります。
神癒の原理は人間的常識を超越することによって起るのであり、
現象の法則を超えた神の世界に於いてのみ現れるのでありますから、
常識では納得出来ないのが当然であります。
信ずる者のみに起る現象なのであります。
キリストも「汝の信ずる如く汝にまでなれ」と教えております。
この信とは単に頭で理解するだけではなく、真理に醒め自覚することであり、
自覚とは生命で把握することでありますから小賢い者程、人間智が邪魔して自我が捨て切れず、
真剣さに欠けたり素直さが失われ本来の相(すがた)を観ることが難しいのであります。
神のお造りになった世界には、元々聾唖盲も居ないのでありますが
現象界には現象界の法則があり、生長の家の横の法則としては仏教でいう三界唯心であり
運命や環境は心の影でありますから無いものでも仮りにはあるが如く現れ造ることも
出来るのであります。
病気や不幸等もみんなこのありもしないものをありと想像し思い違いした結果
あるかの如く現れているに過ぎないのでありますから、無いものが無いと判れば
自然と消えるのであります。
このことを離れて生長の家の御教えは存在しないのであります。
唯単にみ教えを受売りするだけの言葉では、
中々魂の底には響かないで肉の耳にしか達しません。
正しい祈りにより神想観を通して生命で把握した言葉は只の言葉ではなく、
相手の生命に結び附くことが出来るのであります。
「神のみが神を観、生命のみは生命を観る」とは
このようなところを指してお教え戴いたものと有難く拝受致しております。
以上は講師として尊い御使命を頂戴致した者が、
最も関心を持ち、第一に把握しなければならない最重要事項として、
常に自分に言い聞かせ、常に内観を怠らず反省を繰返しているところであります。
自我流になった時、御教えを毒し汚すことになりますので、注意が肝要と存じます。
以上が練成に臨む私の根本とする心的態度であります。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=484 より転写)
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第二「神癒への原理 (10739)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2065
(2)光明掲示板・第三「神癒」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=243
(3)光明掲示板・伝統・第一「神癒 (68)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=42
<感謝合掌 平成28年6月12日 頓首再拝>
病者へは、思念より真理を理解せしめよ - 伝統
2016/06/19 (Sun) 04:45:08
*「光明道中記」(6月19日)より
【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
(『生命の實相』第四巻)】
凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。
病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも思念してはならないのである。
病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその「生命」を使用しないことを誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。
此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。
けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、生きている間じゅう相手が一層利己的な生活をつづけるならば、
癒したことは善事か悪事か疑問である。
重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ
誘導すべきである。
思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。
思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。
<感謝合掌 平成28年6月19日 頓首再拝>
自分の心を調べて見る - 伝統
2016/06/20 (Mon) 04:41:30
*「光明道中記」(6月20日)より
【心の世界にて形成された運命が物質世界に映って初めて地上の事件となる
(『生命の實相』第一巻)】
自分が利己的な心を持っていて、寛大な愛他的な相手が出て来て
自分を助けてくれそうなものだと思うことは愚かなことである。
利己心は利己心を招(よ)びむかえるだけである。
類は類を招(よ)び、朋(とも)は友を招ぶ。
憎む心を捨てないでいて本当に健康になろうと望んでも、
本当の健康になることは出来る筈がない。
どこかに頭につかえるものが残っているし、腹につかえるものが残っているからである。
多くの病人は自分が利己的であるがために病気に罹っている者である。
或るニュー・ソートの治療家(ヒーラー)の所へ通って来る患者があった。
彼女は規定の料金の数倍も支払って長時間思念をして貰っても病気が治らないのであった。
治療家(ヒーラー)はその理由を考えた。
その患者には出来るだけ自分《だけ》長時間思念をして貰いたいと云う
利己心があることが判った。
治療家はそのことを患者に指摘した。
その利己心に気が着いたときに、その患者の病気は治ったのである。
『生命の實相』は全部読むのは中々大変であるから、
先生に直接返事を頂きたいと云う患者も此の種類に属している。
<感謝合掌 平成28年6月20日 頓首再拝>
深切・貸し越しになる生活をせよ - 伝統
2016/06/23 (Thu) 03:20:11
*「光明道中記」(6月23日)より
【形あるものは心の世界に形を持続する力がなくなった時速やかに崩壊し始める。
(『生命の實相』第四巻)】
病気を癒そうと思って神想観をしながら、癒えないと云う人には6種類ある。
(1)「病気を癒そう」と思って神想観をするために、常に、
「病気、病気」と心に念じて絶えることがないのである。
(2)家族のうちに反対観念者があって、そんなことで治るものかと強く念じている場合。
(3)憎んでいる人を赦していない場合。
(4)何か未来のことに取越苦労のある場合。
(5)心が焦(あせ)っている場合。
(6)死に切っていない場合
―― 換言すれば利己心を殺し切っていない場合。
利己心を殺し切った者には恐怖心はないのである。
恐怖心は利己心から来るのである。
みずから栄える道は他を栄えしむるにある。
社員を栄えさせ、店員を栄えさせ、顧客を栄えしめるように店を経営して行くならば、
その店は繁昌する他はないのである。
他を栄えしめんとの自分の愛念は必ず自分に反射して来て、自分を栄えしむるほかはない。
与えたよりも多く受けようと思うな。
それは卑怯な狡(ずる)い考である。
卑怯は卑怯を呼び、狡さは狡さを呼ぶであろう。
ケチな主人に仕(つか)えるならば、尚一層深切に仕えよ。
常に貸し越しになる生活をせよ。
<感謝合掌 平成28年6月23日 頓首再拝>
神癒と言うことは「實相直視」 - 伝統
2016/07/06 (Wed) 04:18:26
*「生活応用 健全の真理」(P225~226)より
神癒と言うことは「實相直視」であって、ただ仮相が消滅するに過ぎないのである。
實相を端的に直視することが出来ない場合に
「理論的思念」(reasoning)と言うことを行うことがある。
それはいろいろの理屈が自分の心の中に蟠(わだかま)っていて
それが實相の完全さを直視する邪魔をしていることがあるのである。
かかる場合、理論を重ねて、病気のないことを連続想念しているうちに、
自分の心の中の理屈がほぐれて、實相の完全さが端的に出て来るのである。
例えば、
「神はすべての渾てである。神は完全である。完全はすべてのすべてである。
すべてが完全であるから病気はないのである。
すべては完全であるから意地悪なんてものはないのである」
と言うが如き種類の思念である。
若しこんな理論的な思念を繰返していて途中で雑念が生じて
理論がアヤフヤになったような気がしたら、思念を元に返して
最初からやり直す方が好いのである。
尚一例、
「神はすべてである。神のみが唯一の力であり、唯一の生命であり、唯一の実在である。
その唯一の実在は完全であるのである。
その完全なる生命が自分(又は何某----被治療者)の中に宿っているのであるから、
自分(又は彼)は完全で健全であるほかはないのである。
それは完全から決して変化して不完全になりようはないのである。
その完全なる生命が今自分(又は彼)の中にあるのである。」
と思念するのである。
<感謝合掌 平成28年7月6日 頓首再拝>
神から悦ばれていると云う自覚が治病の根本 - 伝統
2016/07/13 (Wed) 04:08:12
*「光明法語」(7月13日)より
吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。
先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。
されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。
<感謝合掌 平成28年7月13日 頓首再拝>
『全き神のいのち』に浸りきる - 伝統
2016/07/23 (Sat) 04:21:32
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月23日>(P26)より
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。
かく念じつつ、神の生命(いのち)が、宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの
内に、そして「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、
それに生かされている」との深い実感のうちに、30分間を浸りきることは極めて尊き
神想観である。
病ある者はすみやかに癒されるであろう。
観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、そこには病は無いのであるから。
<感謝合掌 平成28年7月23日 頓首再拝>
「静(せい)」の力を受ける - 伝統
2016/08/06 (Sat) 03:34:33
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月6日>(P42)より
「静(せい)」のうちにあずける時、そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、「清(せい)」であり、「聖(せい)」であり、
生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、
活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 平成28年8月6日 頓首再拝>
宇宙の知性と人間との関係 - 伝統
2016/08/11 (Thu) 04:20:41
*「光明法語」(8月11日)」より
兎も角、宇宙すべての物の背後に宇宙の知性(法則)が存在する事が分った筈である。
この宇宙の知性を神と言う。
では、宇宙の知性と「人間」との関係や如何と云う問題になる。
この問題を解決すれば、人間の病気や不幸の問題も解決される事になるのである。
そんなにも微妙な構造の人体諸器官の組織を造った宇宙の知性が、何故、
現在吾々の肉体の諸器官の欠陥を治す事ができないか。そんな筈がない。
それが治らないのは、「宇宙の知性」に吾々が委ねないからではないか。
<感謝合掌 平成28年8月11日 頓首再拝>
神癒のための思念の方法 - 伝統
2016/08/21 (Sun) 04:09:36
*「生活応用 健全の真理」(P233~234)より
思念治療に二種類ある。論理的説服想念法(argumentative method)
と實相直感的思念法(realization method)とがある。
論理的説服想念法というのは、その言葉の示す通り、
「神のみ実在であって悪は存在しない。病気は悪であるから病気は存在しない。
人間は神の子である、神は完全であるから人間は完全であるほかはない。
従って病気に罹っていると見える如きは、それは妄念の虚像にすぎないのである。
だから彼は健康である。病気はないのである」
というふうに論理的に自分の心の中で病気の存在を論破するのである。
それは自分自身を説服するのであって病者に云ってきかせるのでのではないのである。
自分自身の中に病的観念がなくなれば、相手は自分自身の心の影であるから
相手の病気は消えるのである。
實相直感的思念法は、三段論法的に一歩一歩論理を積み重ねて行くことなしに、
直感的に相手が神の子であることをそして完全であることを直観するのである。
もし彼が眞に神の子の完全さを直観することが出来るならば、たちどころにその治癒は完成する。
治癒は治療家の心の中に人間の実相の完全さを眞に自覚するために行われるのである。
その自覚が宇宙霊を通して患者に反映するのである。
<感謝合掌 平成28年8月21日 頓首再拝>
神癒のための祈りの実例 - 伝統
2016/09/02 (Fri) 03:21:25
*「生活応用 健全の真理」(P234~237)より
その実例。
メリイが病気であって、ジョンが治療家であるとする。
メリイが来て「私は病気です」という。
ジョンはメリイに対して思念を送るのでもない、暗示を与えるのでもない。
ただ心の中に彼女の名前を唱えて「メリイは神の子で健康である」という
眞理だけを強く宣言するのである。
そして肉眼に見える一切の病気の徴候を認めないで全否定してしまうのである。
心の中で唱えられたその真理の言葉が宇宙の創化作用を動かしてその真理が実現する。
即ち治癒が完成する。
するとメリイは奇跡が起ったと思う、然し奇跡ではないのである。
ジョンはただ法則を使っただけである。
だからメンタル・サイエンスの治療は科学である。
メリイが病気の場合でなく或る職業を求める場合であっても同じことである。
神の子たる人間に職業はなく貧しいということはないという真理を
自覚すれば職業が得られるのである。
宇宙に唯一つの存在がある。それは神である。
ジョンもメリイもその神の中にあるのである。
そして神はジョンの中にもメリイの中にもあるのである。
だからジョンがメリイについての眞理を今ここで自覚すれば、
メリイもメリイ自身の眞理を自覚するのである。
遠隔治療、又は遠隔思念(英語ではabsent treatmentという)と呼ぶけれども
距離が離れているのでもその場に出席していないのでもない。
今神の生命の大海原の中に一緒につながっているのである。
自分の思うことは彼の思うことである。
宇宙のどの部分で思念されることも、あらゆる部分で思念されるのと同じである。
全体が一つである。
原因結果は想念の二つの面である。
しかし神はすべてであるから原因と結果とを自分の中にかねそなえているのである。
祈りに効果が現れるのは、自分自身が自分の想念に対する反響を聴くのである。
聖書に「彼等が叫ぶに先立ちて吾、彼らに答えん」とある如く
すでに結果は与えられているのである。
すでに放送はあるのである。
然しこちらが波長を合わせた時のみその放送をきくのである。
それを祈りが実現したというのである。
<感謝合掌 平成28年9月2日 頓首再拝>
現象の完全なる否定、実在の完全なる肯定 - 伝統
2016/09/14 (Wed) 04:27:22
*「生活応用 健全の真理」(P254~255)より
神想観で病気を治すのは、自分の精神統一力で相手を治すのではない。
ただじっとある時間写真機のピントを合わすように、
心を神に振向けてピントを合わせばよいのである。
癒す力は、癒す者と癒される者との対立の観念から来るのではない。
すべての実在が善なる神の一元に融合しているという自覚から来るのである。
人間は神の子であるから常に健康であり、豊かであり、楽しくあり、平和であるとの
自覚の中に相手を包容してしまうことによって癒しが成就するのである。
だから相手を癒そうと思うとき、その病的状態の存在を心に認めてはならないのである。
認めればその存在を心に描き支えるからその状態は益々はっきり現われて来る。
現象の完全なる否定、実在の完全なる肯定、
之がメンタル・サイエンスの治療法の真髄である。
癒そうと思って病者に対してはならないのである。
病気はないと直接認識しなければならないのである。
無いものは無いのである。
神の造り給わない病気はどんなにあるように見えても無いのである。
無いものに恐れることはない。ただ平和を心に思念せよ。
<感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>
《速やかに治らぬ場合には》 - 伝統
2016/09/26 (Mon) 04:22:29
*『生長の家』(昭和26年4月22日の法語)より
愛念を起しても忽(たちま)ち病気が治らなくても
悲観してはならない。
現象に 「 念 」 が具象化するには
それ相応の時間と現象的過程とを要するのである。
あなたの病気が形にあらわれたのも、
あなたが病気にふさわしい 「 念 」 を起してから
相応の時間をかけて現実化して来たのであるから、
今度はその逆のコースを行くのである。
常に間断なく人を愛せよ、仕事を愛せよ。
人に感謝せよ、仕事に感謝せよ。
常に間断なく善きこと楽しきことのみを想(おも)えよ。
悪しきこと悲観すべきことを心より放ち去れ。
病気の症状を心より放ち去れ。
もっとひどくなるかと恐怖する勿(なか)れ。
「 既にもう治っているのだ 」 と念ぜよ。
それは間もなく実現せん。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12233407.html
<感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>
懺悔の徹底 - 伝統
2016/10/07 (Fri) 03:52:14
*「光明法語(10月7日)」より
病気が自他の肉体に現われても、肉体は霊の最高顕現であるから病気に罹ったなどと思うな。
その病気を「自分の心の影」だと見よ。神の霊の完全なる顕現である肉体に、自分の誤れる
「心の影」として不完全なる状態をあらわして済みませぬと謝り切れ。(これ懺悔である)。
そして瞑目合掌精神を統一して完全なる神人(ゴットマン)の実相 ――
霊にして霊光遍照する自己の体を観よ。(正しき観である)。
この懺悔が徹底したときに、肉体の奥にある完全なる霊的実相が顕現して
病気は消えてしまうのである。
<感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>
宇宙の大自療力 - 伝統
2016/10/12 (Wed) 04:36:54
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P98)より
宇宙には無限の癒す力が充ち満ちているのである。
祈りと思念とはその無限の癒す力に接触する道である。
どんなに砂塵や煤煙が濛々と立ち騰(のぼ)ってもしばらくのうちに空気が澄みきってゆく力、
どんなに土砂降りで泥や塵芥が海中に押し流されても、それを浄(きよ)らかな澄みきった
海水に変化する力、皮膚や筋肉に負傷しても下からそれを再生する不可思議な自療力
―― 考えれば宇宙にはいたるところに、自療力(みずからなおすちから)が充ち満ちている
のである。
しかし皮膚や筋肉や内臓に故障が起こっても
それを自療してゆく力の起こる人と起こらない人とがあるのはなぜであろうか。
それは宇宙の大自療力をみずから認めないで拒(こば)んでいるからである。
<感謝合掌 平成28年10月12日 頓首再拝>
そのまま受け流す~これが神妙不動智の極意である。 - 伝統
2016/10/19 (Wed) 03:26:30
*「光明道中記(その身まったし)」(10月19日)より
【心配、取越苦労、憤怒などは恐怖心の変形である。(『生命の實相』第十二巻)】
「善を思わず、悪を思わず、正与麼(しょうよも)のとき、那箇(いかん)かこれ
明上座(みょうじょうざ)が本来の面目(めんぽく)」
これは慧明に六祖慧能大師が与えられた一喝であった。
善悪愛憎に因えられ、これが可(い)かん、あれが可かんと言っている間は通力を
失った状態であるから本当の大善は出て来ないのである。
「心の狭い善人」は生長の家ではいたく排撃せられるのである。
これが善い、これが悪いと云う人が多く肺病にかかって血を喀(は)いたりするのである。
善いも悪いもない、其処へ出てきたものをその儘受け流す、
次に出てきたものも、そのまま受け流す。
これが神妙不動智の極意である。
「ああ血がこんなに出たから、もう駄目だ」などと考えたら、
もう血に心が因えられたから通力を失って一層健康が悪くなるのである。
「血が出た。オーライ」「熱が出た。オーライ」「痰が出た。オーライ」
別にいつまでもそれに心を引掛けていないで、出たのは出たとして、それ以上何も嘆かぬ。
出るものが出たら、あとはサッパリするものである。
心が引掛らねば、生命は「生きる力」なのだから必ず生きる。
血が出た、痰が出た、熱が出た ―― に是非、善悪を引っ掛けて、
心がいつまでも思煩(おもいわずら)うところに病気も長引く。
すべて有り難く受け流して行けば病気は消える。
<感謝合掌 平成28年10月19日 頓首再拝>
《「 心 」 の安静が 「 実相 」 の完全さを歪みなく現象する》 - 伝統
2016/11/01 (Tue) 04:03:19
*『 生長の家 』(昭和26年4月23日の法語)より
安静療法を必要とする病気もあるが、
安静の内、もっとも大なる安静は 心の安静であるのである。
心の安静のうち最も大なる安静は 神想観であるのである。
瞑目(めいもく)して
「 神の大いなる癒す力 全身に流れ入り、既にわれは癒されたのである 」
と念ずるときほど心の安静を得ることは 他(ほか)にないのである。
すべての癒す力の根元は 内部の 「 完全なる実相 」 である。
その実相を完全に現象化する力は
「 心 」 と云う歪(ゆが)みないレンズである。
「 心 」 が平静を失えば、いくらあなたの実相が完全であっても、
現象的には不完全にあらわれて来るのである。
だから何よりも先ず 「 心 」 の安静を得ることが必要である。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12235748.html
<感謝合掌 平成28年11月1日 頓首再拝>
人を癒やすために自分を癒やせ - 伝統
2016/11/06 (Sun) 03:26:19
*「光明法語」(11月6日の法語)より
人を癒やす為には、自分の心の中の病気を消す事が必要なのである。
医者が手を放したとき、治る見込みがないと言ったとき、
色々の民間治療家や有名な博士がいずれも失敗したと云うとき、
それをきかされて「不治」を自分も連想するようでは相手を癒やす資格はない。
かかる不治の不安が光明思想をする人を捉えたとき、
先ず思念者は自分自身の想念の歪みを癒やさねばならないのである。
先ず人間は神の子であり、神が霊的実在であるが如く
自分も亦霊的実在である事を念ぜよ。
<感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>
その儘病気が治るようになっている - 伝統
2016/11/14 (Mon) 04:18:43
*「光明道中記」(11月14日)より抜粋
【雑念妄想は神想観を妨げず。雑念妄想そのまま実相を念ずれば好い。
(『生命の実相』第九巻)】
下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康なのである。
凡夫はそれに囚(とら)われて囚人となり、
聖人は囚(かこい)の外に出てそれを見ているだけである。
「何じゃ、そんなことなら生長の家へ入るのではなかった。
生長の家に入れば現実に病気が治るのか思っていた」と
不平を言う者は率爾者(あわてもの)である。
実際病気が軽減し治っているのである。
尤(もっと)も生長の家が治すのではない。
人間には自然療能と云う大生命力が宿っていて、
その儘病気が治るようになっているのである。
そして下痢あり、嘔吐あり、それがそのまま健康であると云うのは、
下痢も嘔吐も自然療能と云う大生命力の働きであるからである。
凡夫は自然療能力が霹靂(へきれき)の如くはためくのを見て戦慄し、
自己に宿る生命力を萎縮せしめて病気を更に増悪せしめるが、
悟った人はそれを有難いと見て感謝して恐れないから、自然療能力を益々増大するのである。
されば生長の家に入ってその真理の一端を知らされれば、生長の家へ入らない前よりも
病気に罹らなくなり、なっても速やかに治癒に赴(おもむ)く。
けれども病気にならないことが「悟」に必ず付随すると思っている人は、
必ず終るべき肉体の寿命が終ろうとする時、
「自分は依然として悟れなかった」と切歯扼腕(せっしやくわん)しなければならぬであろう。
<感謝合掌 平成28年11月14日 頓首再拝>
無いものから生じた病気も無と知る - 伝統
2016/11/15 (Tue) 04:04:27
*「光明道中記」(11月15日)より
【恐怖心や不安は消極的に生理機能を萎縮沈衰せしめう。(『生命の実相』第一巻)】
南岳禅師、嘗て病気をしたときに、自分で斯う考えて治癒せしめたと云う話がある。
以下は禅門の大家、故秋野孝道師が話された筆記を借りるので、生長の家が主張するのでは
ないが、生長の家の説くところと同一である ――
「病と云うものは仏教から言うと業から起るものだ。業と云うものは何処から起る、
妄(まよい)から起る。それじゃその妄想(まよい)は何処から起るかと云うと心から起る。
其業を作る所から病気が起って来る。
病気は元(も)と業だ。業は元(も)と妄(まよい)だ、妄の源(みなもと)は心だ。
サア心と云うものは何だ。心は無生(むしょう)としてある。其(その)一番源となる心と
云うものは無生なものだ。全体姿形のあるものでない。
そんならば此病は何(いず)れの所より来ると観念する時、病は平癒したと云う事がある。
病を根底から直した。
それで自分の病気は心から妄となり、妄から業と云う事になって来ている事である。」
口演の速記であるから随分重複した文章になっているが、病気の本源を探ね行き、心に到達し、
心も無と知り、無いものから生じた病気も無と知り、大安心に達したとき自然療能力で病気が
治るのは今更(いまさら)始まったことではない。
<感謝合掌 平成28年11月15日 頓首再拝>
人の病いを癒すには - 伝統
2016/11/23 (Wed) 03:44:06
*「光明法語」(11月23日の法語)より
他の人の病いを癒す為には、自己の名前や、報酬や、虚栄や、
それらすべての利己的なものを捨てなければならぬ。
そして彼を本当に愛しなければならぬ。
自己の為に彼を愛する利己的な愛では足りないのである。
彼自身の為に彼を愛しなければならぬのである。
この愛の中に高まり入るとき
「汝等互いに相愛せよ。愛するところに吾はいるなり」と言われた
イエスの無限の癒す力と一つになる事が出来る。
この時吾らは神の愛と一体となり、無限の力の源に触れるのである。
<感謝合掌 平成28年11月23日 頓首再拝>
彼の心の悩みを自己にとる事 - 伝統
2016/11/24 (Thu) 04:18:30
*「光明法語」(11月24日の法語)より
人の病いを癒さんとする時、先ず彼の名前をとなえ、
彼の悩みを心に思い浮かべて可哀相だと思う事が必要である。
そう思わなくとも治る事があるが、この方が一層効果があるのである。
何故なら、それは洗濯屋が《よごれ》物をお客様からとって来る様に、
相手の悩みを自分にとって来るからである。
この「悩みの洗濯物」は「悩みのよごれ水」で洗い浄めても綺麗には
ならないから、一旦自己にとり来った「心のよごれ」は
「全然悩みのない思念の水」で洗い浄める事が必要である。
<感謝合掌 平成28年11月24日 頓首再拝>
ラザロを復活させたイエス - 伝統
2016/11/25 (Fri) 04:46:21
*「光明法語」(11月25日の法語)より
イエスは死して4日、既に腐臭芬々たるラザロを蘇生せしめられた時に
「イエス涙を流し給えり」と聖書にある。
その家族の悲しみを自分の悲しみにまで摂取し給うたのである。
その次には「死せるに非ず、活けるなり」と仰せられた。
人の悲しみを自分に受取った上はもう「悲しみの水」では、
その悲しみを洗い流すことは出来ない。
今度は、悲しみを見ず、死を見ず、病いを見ず、ただ死せるに非ざる
「活けるラザロの実相」を見られたのである。
その時ラザロは復活した。
<感謝合掌 平成28年11月25日 頓首再拝>
彼の悩みを洗浄する法 - 伝統
2016/11/26 (Sat) 03:53:40
*「光明法語」(11月26日の法語)より
人の病い(悩み)等を清めるのも洗濯するのと同じである。
「治す人」は洗剤の如きものである。
洗剤は一度「洗濯物」から自分自身にその《よごれ》を摂(と)り、
自分自身が《よごれ》なければならぬ。
これが「可哀相」だと思う事にあたる。
次には少しも「《よごれ》のない水」を、豊富に濺(そそ)いで
その《よごれ》を捨ててしまわなければならぬ。
「《よごれ》のない水」とは、光明思念である。
病いのことを少しも思わず、神のみが実在であること、
神の世界に一切の罪は存在せずと思念するのである。
<感謝合掌 平成28年11月26日 頓首再拝>
相手の病いを治す思念 - 伝統
2016/11/27 (Sun) 04:24:56
*「光明法語」(11月27日の法語)より
更に彼が神の子であること、神の肖像(にすがた)としてつくられたる
完全なる存在であること、その全身が物質に非ずして霊的存在であること、
如何なる欠乏も、病気も、不完全も悩みも存在しないのであって、
ただ神の愛と平和と完全さとのみが存在すると云うことを思念して、
その思念者が完全平和の心境になり得たとき、
乃ち相手は癒されていると云うことになるのである。
相手に念を送るのではなく、自分自身に摂取した念を浄めるのである。
自他は一体であるからである。
<感謝合掌 平成28年11月27日 頓首再拝>
柔和なる者、汝は地を嗣(つ)がん - 伝統
2016/11/28 (Mon) 04:30:52
*「光明法語」(11月28日の法語)より
「すみません。私が悪かったのです。貴方は神の子で完全な方でありますのに」
と妻が良人に詫びる気になった時、その妻自身の病気が治ったり、
良人の重病が治ったり、愛児の病気が治った実例はたくさんある。
それは「(心の)貧しき者は幸いなるかな、神の国は汝のものなり」
と云うのにも当る。
傲(おご)れる者は、神を求めず、神に縋(すが)る気にもなれない。
ただそれは氷山の水面上の部分の硬さに信頼するものであるからである。
氷山が融(と)けて来たとき海の水の広大さが判るのである。
<感謝合掌 平成28年11月28日 頓首再拝>
「神よ、御心のままになし給え」 - 伝統
2016/11/30 (Wed) 03:41:08
与えよさらば与えられん
*「光明法語」(11月30日の法語)より
「求めよ、さらば与えられん」 と教えられている。
併し 「与えよさらば与えられん」 と云う事は更に真実である。
子供が重病に罹(かか)って医者が手を放した様な場合に、
「神よ、この子を是非いやし給え」 と祈るよりも、
「神よ、御心のままになし給え」 と完全に神に対して、
自分の子を与えてしまった方が、癒える事が早い。
何故なら、「是非いやし給え」 と祈っている時は、
その子の親の執着が子供の生命を縛っているけれども、
神に与えた時には執着で子供の生命を縛る事がない。
<感謝合掌 平成28年11月30日 頓首再拝>
《自然療能力を呼び出すには》 - 伝統
2016/12/14 (Wed) 04:48:33
*『 生長の家 』(昭和26年5月29日の法語)より
吾々の肉体の内には無限の自然療能力が宿っているのである。
その自然療能力こそ、心臓も肺臓も胃袋もなき一個の卵細胞から
この無限に複雑なる内臓諸機関を作り出したところの
不可思議力なのである。
この不可思議力の活動を喚(よ)び覚ますことに成功するならば、
如何なる病いも癒(い)えないと云うことはないのである。
想念は不可思議力を自分の欲する形にまで誘導するところの力である。
この不可思議力を「療能力」として想念し、
その方へ想念を集中するならば、その不可思議力は
癒やす力として直(ただ)ちに働き来(きた)るのである。
病気の時には、却って病気を思わず、
「 神の生命流れ入りて今、癒やし給(たま)いつつある 」
と思念すべきである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
<感謝合掌 平成28年12月14日 頓首再拝>
《神癒の根源をつかめよ》 - 伝統
2016/12/28 (Wed) 05:01:09
*『 生長の家 』(昭和26年6月22日の法語)より
すべての癒(い)ゆる第一歩は、
神は到る処に満ちている云う根本原理を知ることにある。
その次には 神は善であって、
神のいます処に如何なる悪も存在しないと知ることである。
神は善であっても、力が足りなければ
其の善を実現することが出来ないが、
神は全能であるのである。
「 神に於いては何事も不可能ではない。
その神は吾が内にましまして
吾を癒し給いつつあるのである 」
と となえながら眠ってしまうことは、眠っている間に
内なる真の癒力(いやすちから)を発揮する方法である。
色々、罪や過ちの観念で悩んでいる人は、
「 神はわれを赦したまいて 愛の慈手(みて)をもて抱き給う。
吾は既に癒されたり 」
と念じながら眠るのも好(よ)い。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127
<感謝合掌 平成28年12月28日 頓首再拝>
生命の神秘を拝む日 - 伝統
2017/01/12 (Thu) 04:18:19
*「光明道中記」(1月12日)より
【自療力さえ誘導されたならばあとは治るのであります。(『生命の實相』第ニ巻)】
肉体はそれ自身の力で生理作用を営むのではない。
血液は肉体の機械的構造によってのみ循環するのではない。
それは毛細現象と云う毛細管が液体を吸着する力によってのみ循環するのではない。
毛細血管は心臓の如く脈動し、心臓の如く弁を備えて血液を循環せしめる輔(たすけ)をする。
それ故に血液循環の原動力は心臓にあらずして毛細血管の物理的構造にあると説を立てる人もある。
併し物理的条件は生命のつくった利用し得べき装置にあるに過ぎないから、1分間前に脈動して
いた血管も心臓も、「生命」が其処を去るならば、その物理的構造は1分間前と同様であっても、
もう血液は循環しなくなるのである。
所詮は物理的構造はその補助であって、生命機能の本体ではないのである。
生命は常に「無空間の世界」から無線操縦の波を送って肉体と云う装置を支配している。
そのためにこそ肉体は「生命体」として普通の物質を試験管に入れたのとは異なる
物理化学的発展を遂げるのである。
生命がその操縦波を送らなくなったとき死と言い、またその操縦波が恐怖、懊悩、心配、煩悶、
憤怒、呪詛等によって攪乱せられたる状態を病と言う。
<感謝合掌 平成29年1月12日 頓首再拝>
《自己に宿る自然療能力に感謝せよ》 - 伝統
2017/01/27 (Fri) 03:37:43
*『 生長の家 』(昭和26年7月5日の法語)より
肉体を讃美するのは 必ずしも肉体主義でも
エロティシズムでもないのである。
肉体は 神の自己表現の機関として、神が創造したまいし
理念の形象化(かたちになったもの)であるのである。
だから肉体を神の宮とも云うのである。
神の自己表現の機関である肉体は 健康であるように、
美しくあるようにつくられたのであり、
その美と健康とを維持するように 内部に自然療能
(神御自身の再生能力)を与えられているのである。
常に神の再生能力は 吾(われ)らを生かし、修復し、若返らせ、
疲労を恢復(かいふく)せしめつつあるのである。
その驚くべき恢復を発現せしめようと思うならば、
先ず、その力の存在を認め、それに感謝することである。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/e8ba579a5ccc941d9989c4bf18a4b634
<感謝合掌 平成29年1月27日 頓首再拝>
愛を尽せば病いは治る - 伝統
2017/02/14 (Tue) 04:48:54
《人間は全人類一体である》
*『 生長の家 』(昭和25年9月16日の法語)より
人間は神より生れ、神の中に住み、神の生命を食し、呼吸し、
永遠に死なず病まざる霊的実体である。
神は宇宙生命であり、「 渾(すべ)ての渾ての一体 」 であるから、
人間もその実相に於いては
すべての人間と共通の生命を有(も)つのである。
すべてのすべてと一体である自覚を 「 愛 」 と云うのである。
すべての人類は神に於いて兄弟姉妹であるのである。
愛にそむいた思いや行為が病気を引き起すのは、
自己の生命の本質を破壊する思いであるからである。
渾てに一体である生命を自覚して愛を尽せば病いは治るのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100
<感謝合掌 平成29年2月14日 頓首再拝>
《自己に宿る自然療能力に感謝せよ》 - 伝統
2017/02/27 (Mon) 03:42:58
*『幸福を招く365章』第10項(P215) より
肉体を愛し讃美するのは、必ずしも肉体主義でもエロティシズムでもないのである。
肉体は神の自己表現の機関として、神が創造したまいし
理念の形象化(かたちになったもの)である。
だから肉体を神の宮とも云うのである。
神の自己表現の機関である肉体は健康であるように、
美しくあるように作られたのであり、その美と健康とを維持するように
内部に自然療能(神御自身の再生能力)を与えられているのである。
常に神の再生能力は吾らを生かし、修復し、若返らせ、
疲労を快復せしめつつあるのである。
その驚くべき快復を発現せしめようと思うならば、
先ずその力の存在を認め、それに感謝することである。
(初出は「生長の家」昭和26年7月5日の法語)
<感謝合掌 平成29年2月27日 頓首再拝>
人の病気を治すには - 伝統
2017/03/07 (Tue) 04:20:57
*「光明法語」(3月7日)より
人の病いを心で治そうと思ったならば、その病気を見てはならないのである。
此処に治療を要する病人があるなどと思ってはならないのである。
観たとおりに現れるのが心の法則であるから、吾々が心で彼を病めりと観るならば、
彼は依然として病の状態でつづくであろう。
病気の存在を信ぜず、又見ざるところの人のみが病気を消滅することが出来るのである。
此処にも神のつくらない病気などは存在しないのであり、
そんな病気に罹っている人も存在しないのであると見なければならぬ。
<感謝合掌 平成29年3月7日 頓首再拝>
《死への願望を捨てよ》 - 伝統
2017/03/23 (Thu) 03:32:47
*『 生長の家 』(昭和25年9月29日の法語)より
重態の病人が治ると治らないとは主として其の患者の
切なる願いが「治ること」を希望していると否とにかかっている
とは名医の指摘する真理である。
人間が病気から治るためには
「病気になりたい意思」を捨てなければならないのである。
「この世が嫌になった」と仮初(かりそめ)に云う言葉の奥にも、
死への願望や、病気への願望がひそんでいるのである。
夫婦喧嘩や、事業の失敗や、
現世で迚(とて)も遂げることの出来ない願望に
絶望したのちに人間が病気にかかるなどはそれである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100
<感謝合掌 平成29年3月23日 頓首再拝>
《神癒の根本は愛にある》 - 伝統
2017/04/08 (Sat) 04:13:25
*『 生長の家 』(昭和25年10月3日の法語)より
神癒の根本原理は「愛」である。神は愛であるからである。
若(も)し、誰(だれ)かを自分が憎んでいることがあるならば、
愛に反することがあるならば、それを今直ちに是正し、
憎んでいる人を赦(ゆる)し、
愛に反する行為を愛に置きかえることが必要なのである。
真理の書を浴びる程読んでも、
若し自分の心の中に愛の心が喚起されなかったならば、
それはただ真理の外形だけを掴(つか)んでいることになるのである。
感謝と云(い)うことも、愛をしみじみ感ずるところから湧(わ)いて
来るので、神の愛を先(ま)ず感じ、神の子である人類を先ず愛する
ことから始めよ。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85
(『幸福を招く365章』第12項(P242~243)に収載)
<感謝合掌 平成29年4月8日 頓首再拝>
すべてに感謝し、今病気なしと信じて報恩のために起て。 - 伝統
2017/04/10 (Mon) 03:45:43
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月10日)」より
ある人からどうしたら自分の病気が治るかという質問が来た。
こんな手紙が毎日自分の机の上に何十通と送られてくる。
わたしはその人にこう書いた。
この返事はすべての病人にあてはまるわけではないが、
また多くの病人にとって参考になるかもしれない。
「あなたは焦っていますね。早く治ろうと思っていますね。
そんなにいらいらしていては病気は治るものではありません。
そのいらいらする心そのものが病気なのですよ。
あなたは家族との間に心の摺れ合いがありますね。
そんなに摺れ合いがあっては治るものではありません。
そんなに摺れ合ってはいないとあなたは抗弁なさいますか。
撲り合いはなさらないでしょう。
しかし、本当に満足していますか。
このままでありがたい、十分尽くしていただいている
と思って家族に感謝していられますか。
そうではないでしょう。
『もう少しここをどうかしてほしい』と思っていられませんか。
『ほしい』の心は不平の心です。また、同情を求める心です。
そんな心そのものが病気なのです。
病気は肉体にあるのではありません。
その心にあるのです。
右手が動かなかったら、動く左手を与えられていることを感謝するのですよ。
ありとあらゆるものを感謝の心にかえてしまうのですよ。
そしてあとに、これだけ感謝の心を起こしているのにまだ治らぬか?
とおっしゃるのですか。
やっぱり終点が不平の心に到着するようでは、心の生まれ更わりができていませぬ。
不平行きの汽車に乗っているかぎりは、感謝の終点には到着しませぬ。
それでは途中の駅々での感謝の心は皆ニセ物だったということになりますよ。
すべてを感謝の心に更えて、さて今病気なしと信じて報恩のために起て。
もう病気はないのである。」
<感謝合掌 平成29年4月10日 頓首再拝>
神癒の原理の第二の根本 - 伝統
2017/04/29 (Sat) 04:55:43
《神の愛はすべての渾(すべ)て》
*『 生長の家 』(昭和25年10月4日の法語)より
神はすべてのすべてである。
これが神癒の原理の第二の根本である。
神は愛であるから、愛の展開としての世界に、
人間に不幸感を与えるような病気や災難や貧乏が
存在しようがないのである。
先ずこれを信ぜよ。「 信 」 が茲(ここ)に必要である。
神の愛を信ずるや否やと云うことである。
人は信ずる通りのところのものになるのである。
神の創造(つく)りたもうた世界に悪が決して存在し得ない
ことを信ずることが出来るものは、
神癒の根本原理を把握したものである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85
『幸福を招く365章』第12項(P242~243)に収載
<感謝合掌 平成29年4月29日 頓首再拝>
虫のよさが治ったら病気の三分の一くらいは治るだろう。 - 伝統
2017/05/04 (Thu) 04:41:00
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月4日)」より
「虫のよい」という言葉がある。
自分だけのことばかり考えて、人のことを考えない利己主義者の別名である。
病気を治してほしいなどと訴えてくる人にこういう虫のよい人が多い。
利己主義者は全体生命と隔離されているから、全体生命(大生命)が流れ込んで来ない。
それが病気のもとなのである。
虫のよさはまた不平の本である。
虫のよさが治ったら病気の三分の一くらいは治るだろう。
「あなたは利己主義だ」と言われてハッと気がついて神経衰弱の治った人がある。
・・・
わたしへの手紙に対するわたしの返事
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月5日)」より
『生命の實相』全卷を読めば詳しく回答のあることを、
読まずにいて幾回でも長文の質問を列記して返事を求めて来る人がある。
手紙ですめば本は買わずにすむという経済観念でやってくる人には
太刀打ちができない。
かかる人は人の時間がいくばくの価値がある物だか知らないのである。
そのこと自身が自己の心が病気であることを表わしている。
そんな虫のよさを捨てることが病気の心を捨てることである。
返信料を封入してあれば、回答を迫る権利があるかのように思って、
返事が遅れると努号してくる人もある。
返信料は郵政省が収入する。
わたしへの手紙に対するわたしの返事は、返信料の報酬として書かれるのではない。
わたしの好意によって、書かれるのである。しかもわたしだけが返事を書いていては、
とても間に合わないので、回答係があって返事を書いているのである。
それでも肉筆では、そして便箋幾枚の短文では詳しく説明しえないので、
数百ページの書籍において回答しているのである。
地方へ派遣する講師、みんな回答係のようなものである。
道場は直接回答係の詰所である。
回答係の必要がなかったら本部の建物も講師組織もみな不要である。
われわれは回答係に奉仕せしむるために毎月少なからぬ経費を支出しているのである。
回答を求むる人はこれらの経費を分担してもよいはずだけれど請求したことはない。
生命(せいめい)の悟りに関することを、
古人は「生命(せいめい)」を抛げ出して求めたのだ。
今人(こんじん)は(そのすべてではないが)返信料だけで得ようとする。
ものは出しただけの値打ちである。
<感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>
病気の雰囲気を去ることが必要 - 伝統
2017/05/12 (Fri) 03:54:04
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月12日)」より
病気の治るまでに、病気の雰囲気を去ることが必要である。
雰囲気が病気を造り、雰囲気が病気を癒す。
幸運の来るまでに幸運の雰囲気を作ることが必要である。
部屋を浄(きよ)め、窓を開き、ガラスを拭き、門前を浄め、
よきお客様が来るような気持ちでせっせと働いておれば、幸運はたずねて来るのである。
不運な人にかぎって、
ルンペンしか泊まってくれないような見苦しい雰囲気をその身辺に作っている。
「床を取り上げて起きよ、しかして、汝の周囲を浄めよ。」
<感謝合掌 平成29年5月12日 頓首再拝>
《神の癒力を受けるには》 - 伝統
2017/05/24 (Wed) 04:37:53
*『生長の家』(昭和25年10月28日の法語)より
どんな重い病気の力よりも、神の癒やし給う力は強いのである。
ただ人間が他の力の方へ振向いて神の癒やす力の方へ
振向こうとしない事が、人間の禍(わざわい)であるのである。
これが、「アダムが蛇の知恵にだまされて、
知恵の樹(こ)の果(み)を食った」と云う喩(たとえ)である。
人間の知恵の方が神の知慧よりまさっていると云う考え方である。
この考え方を改めない限り、神の癒やす力に対して、
吾々の心が全開(まるびら)きにはされないので、神の癒力は
多少とも常に働いてはいるが、完全には働かないのである。
と云って私は薬剤を排斥せよと云うのではない。
製薬業者も神の子であって、神の知慧を受けて出来る丈(だけ)の
事をしているのである。
それは心の問題である。
神が授けたまうた霊薬(れいやく)として医者の処方してくれた
薬剤を拝んで飲むとき驚くべき効果が発揮される。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85
<感謝合掌 平成29年5月24日 頓首再拝>
「心」が真理を悟ると病は癒える - 伝統
2017/06/09 (Fri) 03:42:07
《最初に「心」あり、万物あらわる》
*『幸福を招く365章』第12項(P252~253) より
原子は如何(いか)にして生じたのであるか。
原子を構成する電子、陽子、中性子、中間子等々・・・の素粒子は
物質から生じたのであるか。
それは物質を生じたのであって、物質から生じたのではないのである。
かかる素粒子は非物質の真空より生じ、また非物質の真空の中に消散するのである。
非物質の叡智(えいち)が素粒子の根元であり、
その素粒子が物質を構成する法則も非物質の叡智である。
非物質の叡智とは「心」である。
心が物質に先立つのである。
物質にもある働きがあるが、それは「内在の心」である。
心は物質を造り、物質を支配するのである。
「心」は偉大なる創造者である。
「心」が「物質」に先立ち「物質」を創造したものならば、
「心」は主人公の方が従僕(じゅうぼく)よりも権威があるのは当然である。
尤(もっと)も従僕の方が主人公よりも或る特別なよき働きをすることもあるが、
「心」は空間的存在ではないから、物質の入り込み得ない処へも侵入して、
それを適当に処置し得るのである。
脊椎(せきつい)カリエスで骨質の中へ結核菌が入り込んで
骨質がボロボロになっているものでも、
「心」が真理を悟ると治ってしまうのである。
(初出~「生長の家(昭和25年10月21日~22日)
<感謝合掌 平成29年6月9日 頓首再拝>
病者へは、思念より真理を理解せしめよ - 伝統
2017/06/19 (Mon) 04:23:46
*「光明道中記」(6月19日)より
【心が完全に人間の実相を映す時、肉体人間は本来の完全さを顕現する。
(『生命の實相』第四巻)】
凡(およ)そ利己のために思念すべきものではないし、
また他の利己心を満足せしむるために思念すべきではない。
病者に癒しの思念をするのも同じである。
自分の栄誉や利益のために人に思念して癒してもならないし、
病者が利己のためにその寿命の存続をねがっている場合にも
思念してはならないのである。
病者を癒さんとするならば、
先ず今後利己のためにはその「生命」を使用しないことを
誓わしめるべきである。
病者の魂の転向が完全であるならば神の生命流れ入りて、
其の時よりその病いは癒え始めるであろう。
此方(こちら)の「我(が)」の思念の力で、
病者に健康の念を送ってもその病は癒える事はある。
けれども若し、それが動機となって相手の魂が救われることがなく、
病気を馬鹿にする気になって、生きている間じゅう相手が
一層利己的な生活をつづけるならば、癒したことは善事か悪事か疑問である。
重荷は理由なくして人の魂の上から卸(おろ)してやるべきではない。
重荷はみずから運んで行き、彼の魂が重荷を軽く扱うことが出来るようにこそ
誘導すべきである。
思念よりも真理を理解せしむるようつとめよ。
思念するならば「あなたの心には神の愛が満ちている」と思念せよ。
<感謝合掌 平成29年6月19日 頓首再拝>
目覚めの言葉 - 伝統
2017/06/23 (Fri) 04:00:39
*『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月23日)より
朝目を覚ましたとき、その疲労感に捉われるな。
多くの病人は、半睡半覚状態における身体の《だるい》感じを
「病気の執拗(しつこ)いためである」と錯覚しているのである。
「身体(からだ)の《だるい》のは同じ姿勢で長く寝ていたからである」と信ぜよ。
そして
「今後自分には善きことばかりが来るのである。
自分は神の子であり、神に祝福されたるものであるから、
常にいっそう幸運は訪れ、常にいっそう健康になるのである」
と瞑目のまま低声(こごえ)をもって繰り返し念ぜよ。
必ずその言葉の力のとおりになるのである。
<感謝合掌 平成29年6月23日 頓首再拝>
《真の完全なる治癒》 - 伝統
2017/07/12 (Wed) 03:17:15
*『幸福を招く365章』第12項(P253) より
病気が治るか治らないかは、
如何なる治療法をとるかどうかと云うことが問題ではないのである。
吾々は必ずしも其人(そのひと)が
物質的治療法をとることを排斥するものではない。
それが治ると治らないとは、
患者の迷いの心が、その治療法を媒介として、克服され、
生命の本来完全なる姿が自覚されるか否かによって決定するのである。
真の完全なる治療は、ただ生命の自性円満なる相(すがた)が
実現することによってのみ可能であって、それ以外の治癒は結局、
一つの迷いの信念を或る方法によって克服したことに過ぎない。
・・・
(初出~「生長の家(昭和25年10月23日)
<感謝合掌 平成29年7月12日 頓首再拝>
『全き神のいのち』に浸りきる - 伝統
2017/07/23 (Sun) 03:51:03
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月23日>(P26)より
「神はすべてのすべて・・・神は全(また)き生命(いのち)」と
瞑目して繰り返し繰り返し念ぜよ。
かく念じつつ、神の生命(いのち)が、宇宙全体に、すべてのものの内に、いっさいのものの
内に、そして「自分の内にも充ち満ち、その『全き神のいのち』にすっかり包み込まれ、
それに生かされている」との深い実感のうちに、30分間を浸りきることは極めて尊き
神想観である。
病ある者はすみやかに癒されるであろう。
観中、「病を癒す」などの念を起こす必要はない。
神の生命(いのち)の中に没入しているかぎりにおいて、そこには病は無いのであるから。
<感謝合掌 平成29年7月23日 頓首再拝>
神の癒しを受けよ - 伝統
2017/08/04 (Fri) 04:46:19
*「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)(八月四日 常に神を憶う日)より抜粋
【「幸福」とは神の実現である。そのほかに人間の幸福はない。
(『生命の實相』第十一巻)】
神の”いのち”なるわが”たましい”は、
神と偕(とも)に常に此処に立っていることを知らねばならぬ。
恐れることはひとつもあり得ないのである。
われは神と偕であるからである。
神はすべてのところにましますが故にその癒しもすべてのところにましますのである。
癒しと云うのは病気を認めての語(ことば)であるが、これはただ病気をみとめている
人々に対してのみ言うところの方便的語(ことば)に過ぎないのである。
癒しと云うのは神の創造の顕現であり、神の完徳(まったきとく)が
現象世界面にあらわれて来ることに過ぎないのである。
だから吾等が神の完き創造の”ちから”と”めぐみ”と智慧とをみとめるならば、
病気のみならず、あらゆる事件に神の癒しは与えられるのである。
不幸に傷つきたる人々よ、神の癒しを受けよ。
神は無限の智慧、無限の愛、無限の生命(いのち)であり、世の終わりまで
”常に”吾等と偕に在り、吾等を愛し、吾等を護りつづけていられるのである。
<感謝合掌 平成29年8月4日 頓首再拝>
「聖」なる癒しを受けるには - 伝統
2017/08/06 (Sun) 03:57:13
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月6日>(P42)より
「静(せい)」のうちにあずける時、そこに「聖(せい)」なる癒しの力があらわれる。
「静(せい)」は「生(せい)」であり、「清(せい)」であり、「聖(せい)」であり、
生かしであり、清めである。
絶対安静療法などのことを言っているのではない。
心がただ委(まか)せきりになって、全托の心境に万事を委ねるのである。
絶対安静療法などなどと言って身体(からだ)を安静にしても、
心が「静(せい)」になりきらない者は、
「静(せい)」の生かす力を受けることはできないのである。
我(が)の力による力みを捨てること。
静かに静かに、自分が委(まか)せきりになっているかどうか。
無理はないか。焦りはないか。
ひたすら歓びのある心持に落ちつけるとき、活動していても、活動していなくとも、
「静(せい)」の力を受けることができるのである。
<感謝合掌 平成29年8月6日 頓首再拝>
《心を明るくせよ》 - 伝統
2017/08/21 (Mon) 04:44:24
*『幸福を招く365章』第12項(P254~255) より
心に希望をもち、勇気をもち、心を常に愉快に保つ者は速かに癒えるのである。
肉体を構成する一切の細胞は物質ではないのであって、心の具象化せるものである。
だから、その指揮者である本人の心の状態に非常に鋭敏に感ずるのである。
先ず本人の心が恐怖心を滅しなければならない。
「病気が自分を殺すかも知れぬ」と云うような恐怖を捨てなければならない。
病気が客観的存在であって自分を傷つけると思うのは迷信であるのである。
病気は自分の心が作ったものであり、幽霊の正体見たり枯尾花である。
自分の心が変れば、対象が変化するのである。
( 別著 『 神癒への道 』(新選谷口雅春選集第三巻) 参照 )
(初出~「生長の家(昭和25年10月26日)
<感謝合掌 平成29年8月21日 頓首再拝>
《病気が消えるための祈り》 - 伝統
2017/09/06 (Wed) 04:32:43
*『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P219) より
あなたが若し病気であれば、あなたの想念を病気の症状に集中してはなりません。
症状を超え、現象を越え、“神の子”たる完全なる実相に集中しなければなりません。
既に癒されている完全なる状態を心に描いて、
その想念を心のうちに持ち続けることが必要であります。
次の如く祈りなさい。
「神はわが内なる実相の生命(せいめい)である。実相のみが実在するのである。
神は完全であるからわが内なる実相の生命(せいめい)は完全である。
実相のほかには何ものも実在でないから、わが全心身は実相そのものである。
実相は完全であるから、実相そのものであるところの全心身は健全である。
病気と見えているところのものは、
それは実相の完全さを知らない迷いの影にすぎないのである。
迷いは真理を知ることによって消えるのである。
私は今神より叡智の光を受けてすべての迷いが消えたが故に
『迷いの産物』なる病も消えたのである。」
<感謝合掌 平成29年9月6日 頓首再拝>