伝統板・第二

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内なる宝庫 - 伝統

2016/06/11 (Sat) 04:31:46

《神は常に吾がうちにありて働き給う》

          *『光明法語』(6月11日)より

今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。

神の力が今其処に君の内に一切を新たならしめるべく、あらゆる君の求めに応ずべく、
働いていたまうのである。

今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。現象は唯の随伴物に過ぎない。

何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。

        <感謝合掌 平成28年6月11日 頓首再拝>

神の真が自分の中に生きている - 伝統

2016/06/12 (Sun) 04:02:16


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月12日)より

信心とは《自分が》こう信ずるということではない。

神の真(まこと)が自分の中に生きていることである。

            <感謝合掌 平成28年6月12日 頓首再拝>

《内在の 「 神の子 」 をくらましてはならぬ》 - 伝統

2016/06/22 (Wed) 04:06:53


           *『 生長の家 』(昭和25年5月11日の法語)より

   吾々が救われるのは
   吾々の実相によって救われるのである。

   神の子である所の
   すでに救われている実相を認めることが必要である。

   神の子をくらます様な何事をも なすな。
   自分にいる所の 「 神の子 」 をくらましては
   自分自身は滅びるより仕方がないのである。

   吾々は自分に宿る 「 神の子 」 を通してのみ、
   凡ゆる困難に打ち勝って勝利者となることができるのである。

   吾に宿る神の子は、
   自己に宿るキリストであり、
   内在の仏性である。

   それに目覚めることが第一である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 平成28年6月22日 頓首再拝>

自己の内にある天国 - 伝統

2016/06/24 (Fri) 04:47:36


          *「光明法語」(6月24日)より

誰にでも自己の天国があるのである。
自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受しこれを生かし働かすとき
其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 平成28年6月24日 頓首再拝>

天国は汝の内にあり - 伝統

2016/06/27 (Mon) 03:56:35


           *「光明法語」(6月27日)より

自己即今、天国なり。
自己のうちに天国を見出し得ない者は何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。

金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。

されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。

されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。

心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。

        <感謝合掌 平成28年6月27日 頓首再拝>

《自己に宿る宇宙大生命》 - 伝統

2016/07/09 (Sat) 03:55:49


        *『幸福を招く365章』(P73) より

吾々が神に祈るならば、神社に祀られている神々に対してならば、
その個性能力等に適したる事柄を祈るならば、効果がある。

しかしその個性能力を超えた問題を祈っても効果はないのである。

「神は非礼を受け給わず」である。

個性能力を超えたような重大問題に対しては、宇宙普遍の大生命に祈るべきである。

しかし宇宙普遍の大生命は普遍であるから至るところに、
自己の外にも、上にも、下にも、自己の内にも在(いま)すのである。

この自己の内に神が宿り在すと云うことが普遍の神の力を動かす「支点」となるのである。


            <感謝合掌 平成28年7月9日 頓首再拝>

《自己臍下丹田の神》 - 伝統

2016/07/29 (Fri) 03:46:30


        *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P302~303)より

   自己臍下丹田の神と謂っても、別に形の臍の下のところに
   神がましますと云うのではない。それは「種子(たね)」
   の中にある「花」の形のようなものである。

   種子(たね)を植えねばその植物が伸びて花を咲かせることは
   不可能であるから、種子(たね)に《於いて》花の「理念」は
   在るのであるが、

   では種子(たね)の何処(どこ)にその花の「理念」(精神的原型)
   があるかと顕微鏡で探し求めてみても、物質の種子(たね)そのもの
   の中にはついに「花の理念」はみつからないのです。

   花の理念は種子(たね)に《内在し》ながら、
   その「物質的形態」の《中にはない》のです。

   それと同じく人間に「内在する神」も
   形の臍下丹田に居給うのではない。
   而(しか)も矢張り「自己」に《於いて在る》のである。

   先ず天地遍満の神を観じ、
   その神が静呼吸の吸う息と共に自己に流れ入って、
   自己臍下に《於いて》「内在する神」を観じ、

   その御心にひたすら心を集中して、
   そのみ心のみ、声のみ、ひたすら聴かん事を願いて
   一点集中するのです。

            <感謝合掌 平成28年7月29日 頓首再拝>

《神が汝(なんじ)の内に宿っている》 - 伝統

2016/08/11 (Thu) 04:35:26


       *「生長の家」(昭和25年6月30日の法語)より

   どんな悪しき形をも よき形に変化し得ない
   という様な神の力はないのである。


   神は 暗黒の中に光を放ち、
   悪と見ゆるものから善を放ち、
   貧しさの中から富を生み出す所の力である。

   その神を吾(わ)が内に見出す時には
   吾は 如何(いか)なるものの中からも
   よきものを生みだすことができるのである。

   躓(つまず)きを恐るな。
   躓いても すぐ立ち上がって
   光明に面するのが生長の家の生活である。

   神が汝の内に宿っているではないか。
   それを思いおこすことが必要である。

   神は一切の不幸を幸福に変貌(へんぼう)する力である。
   その力が自分の内に宿っているのである。

   喜べ喜べ。神を信ぜよ。自己を信ぜよ。


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            <感謝合掌 平成28年8月11日 頓首再拝>

心の王国を征服する - 伝統

2016/08/14 (Sun) 03:26:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月14日>(P51)より

世界を征服することは偉大であるが、
まず自分の心の王国を征服することはいっそう偉大である。

ます自分の心の王国を征服し、自分の心に真理を実現すれば、
一家に平和は来たり、一家に平和来たれば近隣相和す。

近隣相和せば、一町一村に平和来たり、一町一村に平和来たれば、一群一県に真理来たる。
一群一県に真理来たれば、国家はじめて正法に立脚し、国家正法に立脚すれば四隣の国
おのずから相和し、四隣の国おのずから相和せば、もって世界の平和を招くに足るのである。

            <感謝合掌 平成28年8月14日 頓首再拝>

内なる神に、信じて求めよ - 伝統

2016/08/20 (Sat) 03:33:42


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月20日>(P59)より

求めよ。ただし、信じて求めよ。さらば必ず与えられん。
飢え渇くごとく求める者はついに生命(いのち)の泉を見出すであろう。

しかし、どこへ向かって求むべきであるか。
多くの先人は求むる方向が間違っていたために失敗したのである。
彼等は「神」に求むることを忘れて、人に求めたのである。

あるいは、彼らは「神」に求めることは求めたのであるが、
その神なるものは木像であったり、金仏であったり、石像であったり、時とすると
声の届かない遠方にいたりして、こちらが求めていても聞こえなかったりしたのである。

そこでわれらは、そんな遠くにいまさない、実に自分の手近なところにいまして、
常にわれわれの求めを聞いてくださる「内在の神」に求めることにすべきである。

宇宙普遍の神 ―― それは普遍であり給うがゆえに、わがうちにも宿り給うて、
わが欲求をことごとく諾(き)き給うのである。

            <感謝合掌 平成28年8月20日 頓首再拝>

他を羨むな! 自己の内に宿る価値を掘れ! - 伝統

2016/08/26 (Fri) 03:37:47


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月26日>(P64)より

もてるものを見て羨むな。
羨むとは心病(うらや)むことであり、心が病むことである。
すでに心病(こころや)めば身の病の現われるのは当然である。

他(ひと)のもてる”もの”を見るから、心”もの”に執着し、
執着するがゆえに粘着し、捉えられ、縛られて心が苦しむのである。

他(ひと)のもてるを見るときには、ものを見ず心を見よ。
いかなる心が、その道を引き寄せたか。

二十五年前(ぜん)無一物のフォードがその二十年後(ご)には自動車王して
億万の富を引き寄せた心境を知るがよい。
そして、その同じ「心」が自分の内にも宿っているものであることを自覚せよ。

羨むなとは諦めよということではない。自分が貧弱なままで諦めておれということではない。
自分の内に彼と同じところの立派な価値が宿っているということを信じて
勇猛果敢にそれを掘削せよということである。

あなたの内に、”すでに”すべてが宿っているものを、
隣の井戸水の豊富を羨んでいる暇に、自己の地面に井戸を掘ればよいのである。

掘れば掘るほど滾々(こんこん)と生命(いのち)の清水が湧き出てくるのである。

          <感謝合掌 平成28年8月26日 頓首再拝>

《あなたに宿る”生命”は”神” である》 - 伝統

2016/09/07 (Wed) 04:29:08


         *「生長の家」(昭和51年6月17日の法語)より

   それゆえに”行”が必要である。
   行動が必要なのである。
   その行動の必要と仕方とを説いたのが私の『人生を前進する』である。

   毎日”光 ”をかかげて前進するものはついに、
   ”暗い過 去の影”を消して光明輝く世界に自分の住む世界を
   光転してしまうことができるのである。

   『人生を前進する』の本 には、幾たびも過去に地殻が変動し、
   一度築かれたものが破壊されて地殻の中に埋没されても、
   またその地殻の上に何かを築きあげずには置かなかった
   大自然の生命力の 逞しさを説いて、

   それと同じ生命力が自分の内に宿っていることを説き、
   次の如く結論しているのである。

   「諸君に宿っているところの生命力もおよそかくの如きものである。
   生命がかくも執拗にたくましく、埋没されても、圧下されても、
   滅びることを知らずに伸びることのみを知って退嬰しないのは
   生命とは『神』であるからである」(『人生を前進する』 200頁)


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363


          <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>

《汝の内なる神を自覚せよ》 - 伝統

2016/09/18 (Sun) 04:51:53


          *『 生長の家 』(昭和26年6月18日の法語)より

   あなたの内に神 住みたまう。

   神はあなたの内に宿りたまいて、夜も昼も絶え間なく
   あなたを護っていられるのである。

   あなたの内には、あなた自身が自覚していられるよりも
   尚(なお)一層偉大なる力が宿っているのである。

   あなたは、今 到底自分には出来ないと思われるような
   困難を打破する力を持っているのである。

   その力は自覚の深まる程度に従ってあらわれて来るのである。

   それを自覚するためには毎日、神想観をして
   自分の「 実相 」が神の生命であることを諦視すること。

   毎日、真理の書の一章を読むことである。

   最近、松田午(うま)三郎氏と関口野薔薇(のばら)氏とが
   訳してくれたハードマン博士の
   「 メンタル・サイエンス綱要 」 などは好い本である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

          <感謝合掌 平成28年9月18日 頓首再拝>

《わが内の神よ、目覚めよ》 - 伝統

2016/10/02 (Sun) 06:31:11


        *『幸福を招く365章』第9項(P189~190) より

わが内なる神よ、目覚めよ。
われは今日(きょう)ひねもすわが内なる神を呼ぶ。

わが内なる神よ、目覚めよ。
大いなる智慧の眼をひらけ。
愛の手を伸ばせよ。

わが父よ、わが母よ、永遠に父性にして母性なる神よ。
常よりも一層目覚めよ。

われはひたすらにあなたを呼び、あなたの智慧を求め、愛を求む。

われは神の導きのままに行動せんことを求め、神の愛を我を通して実現せんことを求め、
わが行いが神の栄光をあらわさんことを希(こいねが)う。

わが内なる神よ、わが手をとり給え、われを導きたまえ。

大いなる光をもて、われを照らしたまえ。

わが行く道があなたの示したもう道でありますように。


          <感謝合掌 平成28年10月2日 頓首再拝>

内在無尽の宝庫 - 伝統

2016/10/16 (Sun) 03:27:47


       *「生命の實相」第8巻観行篇(P48~50)より抜粋

自己の内に埋蔵されたる無限無尽の供給を知らないものは、
自己に対して罪(包)を犯すものであります。

他に対して内に埋蔵されたる無限無尽の供給を知らしめない者は、
他に対して罪(包)を犯すものであります。

およそ布施のうちで何が最も大きな布施(ほどこし)であるかと言いますと、
彼自身の内に埋蔵されたる無尽の宝庫に目覚めさせてあげるほど、
偉大なる布施はないのであります。

外から金銭財宝などを施してあげる布施は、使い尽くしたらやがて
「無くなる」ものを施すのでありますが、内在無尽の宝庫を目覚めさせてあげれば、
もうそれは無くなることがない、使い尽くしようがないのであります。
 
諸君は有限な人間の内に「内在無尽の宝庫」などがあるはずがないと思われますが、
人間を有限だと見るものは、それは神の子であるところの実相人間をみないで、
仮現(かりのあらわれ)であるところの肉体人間を見ているからです。

(中略~スレッド「或る譬話・寓話からの学び②~井の中の蛙(2016/10/15)」を参照願います。
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6728968   )

人間の真の発達は、神の無限無尽の大知恵に内部から繋がることにより、
それが外に形にまで現れてくることによってであります。

          <感謝合掌 平成28年10月16日 頓首再拝>

無尽蔵の秘庫 - 伝統

2016/10/17 (Mon) 04:47:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P102)より

ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。

自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。
あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも土壌を深耕しなければならない。
深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。

自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。

目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。

ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。

人間もまたかくのごときものである。

表面にあらわれている力だけで満足する者は自己の内にただそれだけの値打ちしか
発見することができないが、今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。

何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。

今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。

なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。

           <感謝合掌 平成28年10月17日 頓首再拝>

《自己の内に宿る神を自覚せよ》 - 伝統

2016/10/29 (Sat) 03:54:03


        *『幸福を招く365章』第10項(P203~205) より

あなたの中に「今」神が宿っているのであります。
神の無限力があなたを支えているのです。
神の愛があなたを護っているのです。

神の生命(いのち)があなたに流れ込んであなたの生命(いのち)となっているのです
―― 此の素晴らしい真理を目を瞑って、黙想してごらんなさい。
悦びがしみじみと内から湧いてまいります。

どんな困難でも、大問題でも、神にゆだねて解決しないと云うことはありません。

神と云うのは外にあるのではありません。
あなたの内に宿っていられるのです。
あなたの肉体は神様のお宮なのです。

「わが内に宿り給う無限力なる神よ、
あなたは常に私を導いて下さいます」と呼び掛けなさい。

あなたの肉体は神の宮であり、神の叡智の湧き出でるパイプであり、
神の生命(せいめい)が具体的に顕現するための自働的機構であります。
その中に神は坐(ま)しましてあなたを導き、動かし、生かしていられるのです。

あなたの肉体はあまりに完全な自働的機構でありますから、それ自身、
「我(が)」の意識を有していて、時としては内に宿りたまう神(これが本当の貴方自身です)
の御意(みこころ)に背反するようなことを行うことがあるものです。

そう云うような時に、所謂る「我(が)が出た」と云うことになるのでありまして、
事物が調子よく行かぬようになったときにはよく反省して神に懺悔し、
神の御心(みこころ)に従って実践して行きますと万事よくなります。

あなたの内に宿り給う神は、常にあなたを内部から力づけ、善き想念を生み出し、
よき計画を思いつかせてい給うのであります。

あなたの内に宿りたまう神は、
常にあなたに呼びかけて次のように云っておられるのです。

「わが愛する者よ、わたしはお前を愛している。
わたしの愛を受けよ、そしてお前のハートを、全身を全霊をわたしにおくれ。
わたしはお前と一体になりたいのだよ」と。

何故(なぜ)あなたは、神様のこの尊き求愛を受けないのですか。

神の愛を受けて一体となるとき、
貴方には何んでも貴方の欲するものを得(う)ることが出来るのです。

神は無限の富者であるからであります。


           <感謝合掌 平成28年10月29日 頓首再拝>

《先ず「内」なる宝を発見せよ》 - 伝統

2016/11/10 (Thu) 03:22:35


       *『幸福を招く365章』第11項(P223~224) より

吾々は自己が神の子として、自己の内に与えられている力を自覚することを
先ず目標としなければならない。
 
外の宝を求めるよりも、先ず自分の内にある「宝」を
発見することを先に しなければならない。

外の力に頼るな。
先ず自分を発見せよ。
自分の内の力を発見したら先ずその力を働かせることが必要である。

祈っただけで何もしないでいることは、
電気の存在を知っただけで、発電装置を作らず、
スイッチを入れないのとおなじである。

それでは、電気は存在すれども何の効果もあらわさないのと同じように、
神は存在すれども何の効果(おかげ)もあらわれないのである。

           <感謝合掌 平成28年11月10日 頓首再拝>

爾のうちの神を生かせ - 伝統

2016/11/27 (Sun) 04:51:28


       *「生命の讃歌」(P109~110)より

貴方(あなた)はもっと深切にならなければならない。
何事にももっと行届いた愛を有(も)たなければならない。
小さなことでも慎まねばならない。

貴方(あなた)の性格上の欠点は
常にこれ位のことは善(よ)かろうと
何でも好い加減の所で済まして置く所にあるのだ。

ちょっとぐらいどうでも好い。
ちょっとぐらい穢れていても好い。
ちょっとぐら位皺がよっても好い。
ちょっとぐらい乱暴でも好い。

私は、此のちょっと位が嫌いなのだ。

神は愛であるから、
神は深切であるから、
貴方(あなた)がほんとに神を信ずるならば、

何をするにも、その仕事を愛しなければならない。
何をするにも、その仕事を深切にしなけらばならぬ。

行届いた愛で仕事をするとき、
親切な心で仕事をするとき、
貴方(あなた)の内にある神が生きて来る。

「ちょっとぐらいどうでも好い。」
毎日貴方(あなた)はこう云って
貴方(あなた)の内にある神を殺していはしないか。

           <感謝合掌 平成28年11月27日 頓首再拝>

超越的内在の神 - 伝統

2016/12/15 (Thu) 04:50:38


        *『神の真義とその理解』(第一篇・ 第三章 神は何処にあるか)より

《超越的内在の神について》

キリストが「天にまします我らの父」と神を称したのは、
「天」とは「雲上」の意味ではなく、「超越している」という意味であり、

「我(肉体我)みずからにては何事をも為し得ず、
天にまします父われに宿りて御業(みわざ)をなさしめ給うのである」

とキリストが言ったとき、

「超越的実在の神が我が内部に宿って“内在の神”となっていて、
この“内在の神”を自覚するとき、その超越的な力が動き出して、
奇蹟的とも見える偉大なる働きが出て来る」

という意味に、新しく解釈すべきであります。

このような解釈によってのみ、現代の科学的精神に合致した、
宗教的信仰を打ち立て得るのであのます。

生長の家の合理的宗教は、神をこのように理解して、
超越的内在の存在として、自己の内に神をみとめ、

その存在の神が超越普遍の実態として、無限力を備えていて、
必要に応じてわれわれ個人を出口として、われわれの願いとその無限力を
発揮させて下さるのだと説くのであります。


《超越内在の神を“生命の体験”として自覚せよ》
          
生長の家は「神」をそのように説く。

その学説を諸君が読む、そして生長の家は、「神」のことをそのように説いているのだな
――と諸君がわかっただけでは何の効果もないのであります。

諸君自身が、

「超越無限力の神が自己に内在していて、その神こそが自分の本体であり実相である」

と自覚しなければならないのです。

その自覚が“生命の体験”として完成してこそ、
「天の父われに在(いま)して、御業をなさしめ給う」とイエスが言ったような、
偉大なる功業を樹(た)てることが出来るのであります。


時々、一見信仰深き人は「神に全てをお委(まか)せ致します」と言います。

しかしその「神」とは自己に「内在する神」だということを知らねばなりません。

遠く天上にある神にお委せして自分は何の努力も工夫もしないでも好いのだ
というような考えで、「すべてを神にお委せします」というのでは、
神を自分と離れた「外にあるもの」(外在神)とみとめる信心で、
迷信だというほかはありません。

「わが魂の底にこそ宇宙にみち満ちている超越普遍の神が宿ってい給うのだ。
その“魂の底の底なる神”こそ“本当の自分”であり、その神を今自分は喚(よ)び出して
働かせるのだ。否(いな)、現にその神が働き給うているのだ」

という自覚を喚び起すのでなければ、
実際に神の無限の力を、自己の出口を通して、発揮させることはできないのであります。

「わが魂の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ」

と私たちは一日数回、一寸した時間でも活用して、この内在超越の神を、
意識面に喚び出して活動せしむべきであります。

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1155 より転写)

           <感謝合掌 平成28年12月15日 頓首再拝>

「内在」と謂う意味に就いて - 伝統

2016/12/29 (Thu) 04:26:50


        *『神の真義とその理解』(第一篇・ 第三章 神は何処にあるか)より

私は自己の内に「内在する神」という語(ことば)を使いましたが、
その「内在」とは「肉体という容器」の中に閉じ込められているという意味ではありません。

あなたの意識の底の底にある「本当の自分」こそ「内在の神」なのであります。

あなたの“本当の自分”というものが、常識的の意味において
肉体の内部に閉じ込められていないということは、
こういう自問自答をしてみれば、直ぐに分ることであります。

「この腕は“自分”であるか?」
「いいえ、この腕は“自分”「そのもの」ではありません。“自分”「の」腕であります」

「では、この胴体は“自分”であるか?」
「いいえ、この胴体は“自分”「そのもの」ではありません。“自分”「の」胴体であります」”

「では、この脚は“自分”であるか?」
「いいえ、この脚は“自分”「そのもの」ではありません。“自分”「の」脚であります」
 
こうして身体の各部について同様な問(とい)を繰り返してみても、
「自分」というものは、肉体の各部ではないのであります。
それは「自分の持ち物」という意味での所有格の助詞の「の」がついているのであります。

最後に、

「では脳髄はお前の“自分”であるか?」とたずねてみますならば、依然として、
「いいえ、脳髄は“自分”「そのもの」でありません。これは“自分”「の」脳髄であります」

と答えるほかはないでしょう。

「ではお前の“本当の自分”は脳髄の「中に」宿っているのであるか」とたずねてみましても、
“自分”というものは脳髄の“中に”閉じ込められているものではありません。
脳髄の中に“自分”というものが閉じ込められているのだったら、人間の首だけ切って、

「お前は其処(そこ)にいるのであるか?」ときいてみたら、
頭蓋骨の中から返事でもしそうなものでありますけれども、
そういう訳にもゆかないのであります。

もう其処には「自分」というものは立ち去って、
自分の無(な)き殼(がら)(亡骸(なきがら))となっているのであります。

このようにして考えてまいりますと、肉体の何処にも「人間」はいないのであって、
「人間」というものは、「肉体の奥」と言おうか、「背後」と言おうか、
とも角、肉体「そのもの」の中にはなく、その奥にあるのであります。

ですけれども、その「奥」といい、「背後(うしろ)」といっても、
物質としての肉体の“箱”みたいな物の「奥」や「背後」ではなく、

“本当の自分”は肉体を超越したところの「奥」におって、
肉体を使用して、「自己」を表現しているものだということが、わかるのであります。
だから「肉体」は人間ではなくて、人間の自己表現の道具に過ぎないのであります。

この「肉体を超越したところの奥」ということが、「超越的内在」という意味であり、
この「超越的内在」の自己が、自覚によって宇宙に超越普遍する神と同調することによって、
宇宙無限の力を引き出して来ることができるのであります。

「我みずからにては何事も成し得ず、天の父われにいましてみ業(わざ)をなさしめたまうなり」
とのキリストの言葉は、「肉体の我れ」の力では、大したことは何一つも出来ない
(脳髄の知識では“草の葉一枚”製造できないことを知れ)。

脳髄という複雑な生理的機構を造った神の智慧が、自分に宿っているのであって、
その無限の智慧の導きに従うならば、どんな大事業でも、自由自在にできる
という意味であります。

常に神想観を怠らず
、内在無限の力なる「天の父」(超越的内在神)を喚(よ)び出すことによって、
現代の人類最高の危機に際して、出来るだけ多くの人類を救うために、
身を挺して活躍しようではありませんか。

          (『「理想世界」誌昭和34年8月号)

http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1155 より転写)

           <感謝合掌 平成28年12月29日 頓首再拝>

「内部」の神を自覚する  - 伝統

2017/01/14 (Sat) 04:45:46


          *「真理」第九巻(P5)より

自己の生命(せいめい)の内に横たわる無限の力 ―― 
これを称して、吾等は神と言うのです ―― 

従来の或る宗教に於ける神のように、天上にいて吾らを監視していて
処罰を与えると云うような神ではないのです。

自己の内部に神を発見したときに、
わたしたちの力は2倍になり3倍になり4倍になるのです。

肉体的には虚弱な、永遠に十一貫五百匁(め)を上下しているような私が、
人々の2倍以上の仕事をして老いず、

九貫五百匁しか体重のない吉川英治が、戦争中従軍記者として難行軍をつづけながら、
それほどつかれず、驚くべき筆力をもって新平家物語を書きつづけて老いることなく、
65歳になっても髪黒々としている神秘は、人間は肉体ではない。

「内部の神性」こそ真物(ほんもの)の自分だと云うことを自覚している者が、
その日常生活の力を数倍又は十数倍になし得る証拠でなく何でありましょう。

           <感謝合掌 平成29年1月14日 頓首再拝>

《わが内に生き給う神》 - 伝統

2017/01/30 (Mon) 05:01:12


          *『 生長の家 』(昭和24年11月1日の法語)より

   吾は神の子である。
   神は吾が親さまであり給う。

   神は吾らの目に見えないけれども
   吾らを常に護り給うているのである。

   外見がどうあろうとも吾は吾が親さまである神に、
   完全に信頼し全託して、神の守りを信ずるのである。

   吾は一分間と雖(いえども)神が絶対であり、
   その守りが絶対であるという信念をすてないのである。

   すべての吾が言葉と吾が行いとは、
   それ自らでは何事もなす力はないのである。

   吾が言葉、吾が力は神の絶対力の表現であるから、
   始めてそれが無限の実現力をもっているのである。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

           <感謝合掌 平成29年1月30日 頓首再拝>

自己の内に埋蔵されたる宝庫 - 伝統

2017/02/01 (Wed) 06:20:19


        *「光明道中記」~二月「天地そろう」はじめの言葉 より

【自己内在の光】

吾々の『生長の家』は毎号、諸君自身の内に宿る力を指示するために発行されるのである。

他に依頼心を持つ者は躓くであろうが、
自己の内に埋蔵されたる宝庫へ幸いに振向く人は救われるであろう。

救いの力は諸君自身の内にあるばかりであって、
わたしはその在(あ)り所(か)を指示するだけである。

吾々の光明思想になった結果病気が治ると云うのも、
諸君自身がそう云う思想になった結果であってわたしはただ指(ゆびさ)すのみである。

文章の力による指し方は可也り上手であるので、
文章の力で病気を治したとも謂い得るが、
精(くわ)しく言えば文章の力は、よく諸君の心を振向けただけである。

そこに自己内在の無限の力を見出すのは
諸君自身の力であって私の力ではないのである。

光栄は諸君自身の「内」にこそ帰せられるべきものであって、
私は喇叭(らっぱ)であり、指南車である。

指を月と間違え私の書いた符号を本物と間違える者は
実相を見ることが出来ないでああろう。

私はただ諸君を振向かすために文章で叫ぶだけに過ぎないのである。

私を尊敬せずに真理をこそ尊敬せられたい。

           <感謝合掌 平成29年2月1日 頓首再拝>

すべての人間に天才と能力が宿っている - 伝統

2017/02/19 (Sun) 04:32:33

         *「真理」第1巻(P134~135)より

《諸君は瓦であるか、珠(たま)であるか》

世の中に何が楽しいと云っても、自分自身が伸びている ―― 
と云う自覚ほど楽しいものはないのである。

困難に逢う毎に、諸君は自分自身が伸びるのであると思え。
新たなる責任が加わる毎に、自分自身が伸びる機会であると思え。

自分自身が人造ダイヤモンドか、本当のダイアモンドかが、
強烈な日光に触れるとき、偽物(にせもの)の方は次第に光輝を失って、
本当のダイヤモンドのみがいつまでも光輝を持ちつづけるので判るのである。

強烈な試練があるので、諸君は自分自身が他(ほか)よりも傑出していることを
証明する機会を得るのだ。

本当のダイヤモンドが何時(いつ)までもニセ物と混同されていては
判らないではないか。それが選り分けられるのは困難の時に於いてのみである。

瓦か珠(たま)か、それを選(え)り分けてくれるのは
諸君に一層重い責任のかかった時である。

・・・

《全ての人間には天才と力がある》

けれども諸君は瓦ではない。屹度瓦ではない。
誰でも自分のうちに珠(たま)が宿っている。

自分が瓦であると思う者は、自分を磨かないで、
好い加減なところで?(ほお)って了(しま)うからダメなのである。
本当は瓦でないのだ。

珠(たま)でも磨かなければ光は出ない とは千古不磨の金言である。
誰にも立派無限の力が宿っていて、磨けば磨くほど光がでて来るのだ。

諸君は何をもって自分を磨くか。
珠(たま)は何によって磨くか。

喜んでザラザラした金剛砂の砥石を受け、
喜んでザラザラした磨研布でこすって喜ぶことだ。

では諸君も喜んで危地に飛び込むことである。
喜んで責任の重いところへ飛び込むことである。

諸君が喜んでそうするならば諸君の能力はどれだけでも増進することは
間違いのない事実である。

すべての人間に天才と能力が宿っており、
それは磨くに従って力を発揮すると云うことは
最近の精神科学で見出された事実である。

           <感謝合掌 平成29年2月19日 頓首再拝>

自己の能力の宝を掘り出せ - 伝統

2017/03/06 (Mon) 04:34:55


           *「生命の實相」第七巻生活篇(P16)より

自己を決して軽んずるな。
自分の能力を生まれつき少ないと信ずるな。

諸君はすべて神の子であるから、
誰でも天才という高貴な金鉱がその底に埋めてあるのだ。

いわゆる「天才」とは割合浅いところにその金鉱が埋めてあって、
発掘しやすいというにすぎぬのだ。

一見「凡才」はその金鉱がやや深い所に埋めてあるがために
掘り出すのに割合努力を要するというに過ぎない。

しかし諸君は、深い所に埋めてある宝ほど
却って貴きものであることを知らねばならぬ。

小なる宝は表面にかくしてある。

表面に宝の容易に見出されない者は幸いなるかな。

掘れ、掘れ、自己の能力の宝を掘り出せ。

時間を巧みに利用して掘り出せ。

諸君はやがていわゆる天才よりも偉大なる能力の宝をわがものとする日が来るであろう。

           <感謝合掌 平成29年3月6日 頓首再拝>

人間には神が宿っている - 伝統

2017/03/21 (Tue) 03:32:46


          *『幸福を招く365章』第3項(P49) より

人間は肉体以上のものである。
人間は精神である。
精神力によって肉体を支配することが出来るのである。

しかし人間は精神力以上のものである。
精神にいくら鞭打っても、どうにもならない時が来る。
かかる時に精神力以上のものが呼び出されて来るのである。

ランニングの選手でも、もうこれ以上どうしても走ることができないという時を
更に走っているときに、不思議に内部から生命力が更新して来ることがあるものである。

それは人間のうちには、肉体以上のもの、
更に精神以上のものが宿っているからである。
その精神以上のものを「神」というのである。

人間には神が宿っているのである。

           <感謝合掌 平成29年3月21日 頓首再拝>

わが内に宿る神 - 伝統

2017/03/22 (Wed) 04:59:17


           *「光明法語」(3月22日)より

『マタイ伝』第六章六には

『なんじ祈るとき、己(おの)が部屋にいり、戸を閉じて、
隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ』

とイエスが教えている。

必ずしも自分だけ独占の密室で祈れと云う意味ではない。
若しそうならば一室に数人同居する引揚者などは祈ることは出来ないのである。

『己が部屋にいる』とは自分の心の中に深く沈潜することである。
すると自分の内に『隠れたるに在す汝の父』がい給うのである。

神を外に見ている間は本当のお蔭は得られないのである。

わが内よりこそ無限の生命も無限の供給も得られるのである。

           <感謝合掌 平成29年3月22日 頓首再拝>

【自分の中の鏡を磨く】 - 伝統

2017/04/10 (Mon) 03:23:52


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年03月12日)」より

   (浜松医科大学名誉教授、高田明和氏の心に響く言葉より…)

   ある高校の校長先生に聞いた話です。

   その学校の剣道部の部長は剣道初段にすぎませんでした。
   自分がそれほどの腕ではないと思っていたせいか、
   生徒が試合に勝ったりすると非常にほめて、
   「そのやり方でいいぞ。がんばれ」と励ましたのだそうです。

   「欠点などどうでもいいよ。得意技だけを磨け」というのが口癖でした。

   おもしろいことにこのような指導を受けた生徒は
   学業成績もよくなったというのです。


   次に部長となった先生は剣道四段でした。

   前の先生は甘やかしすぎたとして、
   悪いところはびしびし直すという指導法でした。

   ところがそれから3年たって生徒は欠点を直すことだけに力を使ってしまい、
   あまり技に進歩がなかったというのです。

   それどころか、生徒の学業成績も芳しくなかったそうです。


   校長先生は「ある学校が一つの競技で県で優勝したりすると、
   他の部も皆強くなるといわれますが、その理由がわかったような気がします」
   と言っていました。

   校長のお話はたいへん示唆的です。


   「自分はだめだと思っている人を、人はばかにする」という
   外国のことわざもあります。

   ですから、まず自分が優れていると思うべきなのです。


   禅では自分が本来仏であるという気持ちをしっかり持つべきだ、とされます。

   また禅の修業は、仏でない者が仏になろうという修業ではなく、
   自分は本来仏と同じ心をもっていたと気づかせてくれるものだとされます。


   南嶽(なんがく)という僧は六祖慧能(えのう)の法を継がれた方です。

   南嶽の下で若き日の馬祖同一(ばそどういつ)が修行していました。
   馬祖はのちに中国唐代の禅宗発展の中心となる僧です。


   ある日、南嶽が瓦(かわら)をごしごし磨きだしました。

   馬祖は変に思い、「何をなさっているのですか」と訊きました。

   「うん、瓦を磨いている」

   「瓦を磨いてどうするおつもりですか」

   「鏡にしようと思う」

   これを聞いて馬祖が「瓦をいかに磨いても鏡にはならないでしょう」
   と問い返しました。


   すると南嶽が唐突に「お前はここで何をしている」と問い返しました。

   「座禅をしています」と答えると、

   南嶽は「座禅をして何になる」と訊いたのです。

   「座禅をして仏になろうと思っています」と答えました。

   すると南嶽は
   「瓦を磨いても鏡にならないように、座禅をしても仏にはなれまい」
   と言ったのです。

   驚いた馬祖は「それではいったいどうしたらよいのでしょうか」と問いました。

   南嶽の答えは「もし牛車が動かなくなったら車をたたくか、牛を叩くか」
   というものでした。

   この言葉で目が覚めた馬祖は南嶽の下で本気で修行を積み、法を継いだのです。


   南嶽は馬祖の修行がルーティンワークに陥っていると見て、
   抽象的な悟りを求めてはいけないと、
   このような奇妙な言動で釘を刺したのでしょう。

   このエピソードが示しているのは、
   座禅をしても仏にはなれないということではありません。

   私たちの修行は、瓦を磨いて鏡にしようというような
   不可能なことをしているのではないということです。

   最も大事なことは、本来持っている鏡を磨いて、
   さらにきれいにし、そのきれいな心で自分の仏心を自覚することなのです。

          <『心が奮い立つ禅の名言』双葉社>

             ・・・

五百年に一度の名僧と言われた白隠禅師は、
「坐禅和讃(ざぜんわさん)」の中でこう言っている。

「衆生(しゅじょう)本来仏なり」

我々はみんな、そのままで仏さま。


だからこそ、自分を磨いて、磨きぬいて
本来の仏である自分自身を取り出さなければならない。

それが、ほめることであり、その存在を認めること。

まさに、禅語にある「明珠在掌(めいじゅたなごころにあり)」だ。

宝物は、すでにあなたの手の上にある、あなた自身が持っているということ。


「名選手必ずしも名監督にあらず」

という言葉がある。

自分が実績をあげたからと言って、
それと同じやり方を選手に押しつけてもうまくはいかない。

相手のよいところを引き出せる人を、名監督というからだ。


自分の中の鏡を磨き、よいところを伸ばしたい。


・・・

南獄禅師 と 馬大師 については、

谷口雅春先生は、「光明道中記(7月20日~23日)」にて
その真理を説いております。

光明掲示板・第一「浄行ととのう (9596)」にてご確認ください。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1821

           <感謝合掌 平成29年4月10日 頓首再拝>

《内在の神の道具となれ》 - 伝統

2017/05/07 (Sun) 03:57:47


         *「光明法語」(5月7日)より

金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」と祈った。

その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。

されば神に祈ると云うことは「自己内在の神」に祈ると云うことである。
自己の内に神が宿っているのであるから、常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)を
なくならせて、ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。

           <感謝合掌 平成29年5月7日 頓首再拝>

《あなたの内在する〃天の父〃について》 - 伝統

2017/05/21 (Sun) 05:06:03


           *『生長の家』(昭和41年12月9日の法語)より

   キリストとは一人の人間の固有名詞ではないのである。
   それは 〃宇宙本源の救世主〃 であり、
   イエスに宿っていたところの 〃天の父〃 であり、

   イエスが「我れみづからにては何事をも為し得ず、
   天の父われに宿して御業を成さしめ給ふなり」と
   いったところの 〃天の父〃 である。

   それは 〃天の父〃 であるから、
   イエスのような若い姿ではなく、
   また瘠せさらぼうた繊弱な姿でもない。

   それは白髪の老翁なる 〃父〃 の姿であり、
   永遠に強健なる体躯のイメージをもって顕現せられるのである。

   使徒ヨハネは小亜細亜のパトモス島に流謫せられているとき、
   祈りのうちにその姿を見て、黙示録の第一章にその姿を描いたのである。

   この永遠のキリスト 〈永遠の救いの本源者〉 は
   常にあなたの内にあって、あなたを護り導いておられるのであるが、
   ある特殊の問題についてお伺いするならば、
   特にそれについての導きがあるのである。
 

    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

            <感謝合掌 平成29年5月21日 頓首再拝>

誰にも立派な無限の力が宿っている - 伝統

2017/06/06 (Tue) 04:55:07


《諸君は瓦であるか、珠(たま)であるか》

         *「真理」第1巻(P134~135)より

世の中に何が楽しいと云っても、自分自身が伸びている ―― 
と云う自覚ほど楽しいものはないのである。

困難に逢う毎に、諸君は自分自身が伸びるのであると思え。
新たなる責任が加わる毎に、自分自身が伸びる機会であると思え。

自分自身が人造ダイヤモンドか、本当のダイアモンドかが、
強烈な日光に触れるとき、偽物(にせもの)の方は次第に光輝を失って、
本当のダイヤモンドのみがいつまでも光輝を持ちつづけるので判るのである。

強烈な試練があるので、諸君は自分自身が他(ほか)よりも傑出していることを
証明する機会を得るのだ。

本当のダイヤモンドが何時(いつ)までもニセ物と混同されていては
判らないではないか。それが選り分けられるのは困難の時に於いてのみである。

瓦か珠(たま)か、それを選(え)り分けてくれるのは
諸君に一層重い責任のかかった時である。

               ・・・

《全ての人間には天才と力がある》

         *「真理」第1巻(P135)より

けれども諸君は瓦ではない。屹度瓦ではない。
誰でも自分のうちに珠(たま)が宿っている。

自分が瓦であると思う者は、自分を磨かないで、
好い加減なところで抛(ほお)って了(しま)うからダメなのである。
本当は瓦でないのだ。

珠(たま)でも磨かなければ光は出ない とは千古不磨の金言である。
誰にも立派な無限の力が宿っていて、磨けば磨くほど光がでて来るのだ。

諸君は何をもって自分を磨くか。
珠(たま)は何によって磨くか。

喜んでザラザラした金剛砂の砥石を受け、
喜んでザラザラした磨研布でこすって喜ぶことだ。

では諸君も喜んで危地に飛び込むことである。
喜んで責任の重いところへ飛び込むことである。

諸君が喜んでそうするならば諸君の能力はどれだけでも増進することは
間違いのない事実である。

すべての人間に天才と能力が宿っており、
それは磨くに従って力を発揮すると云うことは
最近の精神科学で見出された事実である。

            <感謝合掌 平成29年6月6日 頓首再拝>

天才がある - 伝統

2017/06/26 (Mon) 03:09:01


          *谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』(P258)より

全ての人々の中に「天才」がある。

それは神(天)から与えられた才能であって、
自分勝手に作り上げたものではない。

神(天)はごく一部の者にしか才を与え給(たま)わないというエコヒイキはなさらない。
だから全ての人々に「天才」がある。
あることはあるが、それをどれだけ現わすかは、各人の自由である。

そこでナイと思って、少しも現わさない人もいるし、
少ししかないと思って、少しだけ出す者もいる。

しかし人は内在の力を現わし出してこそ楽しく嬉(うれ)しいのである。

それ故(ゆえ)全ての人々は、すでに与えられている「天才」をみとめ、
それを日々の生活の中で現わし出す練習をしようではないか。

            <感謝合掌 平成29年6月26日 頓首再拝>

天国は汝の内にあり - 伝統

2017/06/27 (Tue) 03:35:31


          *「光明法語」(6月27日)より

自己即今、天国なり。
自己のうちに天国を見出し得ない者は何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。

金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。

されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。

されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。

心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。

        <感謝合掌 平成29年6月27日 頓首再拝>

掘れ、掘れ、自己の能力の宝を掘り出せ。 - 伝統

2017/07/16 (Sun) 04:52:17


           *「生命の實相」第七巻生活篇(P16)より

自己を決して軽んずるな。
自分の能力を生まれつき少ないと信ずるな。

諸君はすべて神の子であるから、
誰でも天才という高貴な金鉱がその底に埋めてあるのだ。

いわゆる「天才」とは割合浅いところにその金鉱が埋めてあって、
発掘しやすいというにすぎぬのだ。

一見「凡才」はその金鉱がやや深い所に埋めてあるがために
掘り出すのに割合努力を要するというに過ぎない。

しかし諸君は、深い所に埋めてある宝ほど
却って貴きものであることを知らねばならぬ。

小なる宝は表面にかくしてある。

表面に宝の容易に見出されない者は幸いなるかな。

掘れ、掘れ、自己の能力の宝を掘り出せ。

時間を巧みに利用して掘り出せ。

諸君はやがていわゆる天才よりも偉大なる能力の宝をわがものとする日が来るであろう。

        <感謝合掌 平成29年7月16日 頓首再拝>

《卵の中に既に雛(ひな)がある》 - 伝統

2017/07/29 (Sat) 04:17:06


         *『 生長の家 』(昭和44年12月24日の法語)より

   あなたが魂の奥底に於て実現したい希望は、
   既に「実相の世界」に於て成就して、
   既に実在するのである。

   実在するが故にこそ、切実にあなたの内部から、
   それが浮び上がって来るのである。

   ここに「実相の世界」といったのは、
   キリストがいった「神の国」に相当するものである。

   キリストは「神の国は汝の内にあり」といった。

   あなたの内に既に「実相の世界」があり、
   そこに成就しているものが、
   内から押し出すように浮かび上がって来るのが
   切実なる魂の願いである。


   それは卵の中に既に雛があるのと同じことである。

   まだ現象の形にはあらわれていない雛が
   だんだん生長して具体的な形を備えた雛となって
   あらわれて来るように、

   既にあるあなたの希望の雛は
   次第に成長して形を備えつつあるのである。


   あなたは、その希望の雛を温めることを忘れてはならないのである。

   希望の雛を温めるのは、
   次の如き祈りによる想念によって毎日温めるのである。―


   「 神さま、私の希望××(この希望の内容を述べる言葉)は
   あなたさまのお陰で既に実現いたしました。
   ありがとうございます 」

   親鶏(おやどり)が毎日卵を温めるように、
   この言葉を心の中に繰り返して希望の卵を温めるがよいのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/71a3dadb4b25bc5d5778e6b40dfd2a4a

        <感謝合掌 平成29年7月29日 頓首再拝>

自分自身の中心 - 伝統

2017/08/12 (Sat) 04:04:02


    *『無限者との協調』 ラルフ・ウォルドー・トライン 1896年 谷口雅春訳 より

私たちは自己の内に宿る内部の力を自覚する程度に従って、
支配者となり、指揮権をふるうことができるのである。

しかしまた私たちが「内なる力」を認めそこなった程度に従って、
自己は外界の奴隷となり、外界の条件の頤使(いし)するままに
屈従することになるのである。

私たちは内に自己が認めたもののみを外に築き上げる。
私たちは自己に来るところのものをすべて自己が引き寄せるのである。

人間生活のすべては、原因結果の法則で成り立っている。
偶然というようなものは、地上に存在しないし、全宇宙にも存在しないのである。

私たちの人生に入り来たった事物にして何か自分に満足できないものがあるとすれば、
私たちの成すべきことは、自己の想念が創造した勝手に「運命」だと称している
ところのものに対して

罵ったり小言を言ったりする暇に、その内部に動いているところのものに眼をやって、
そこに働いているところの原因(想念)を変化して、
他の性質ものが現れて来るようにするならば、
その変化した想念と同じところのものがそこに実現して来ることになるのである。

このことは肉体の健康不健康の問題のみならず、人生百般の問題において真実なのである。

かくのごとくであるから、何が人にやって来ようとも、
その結果は全然、それを迎える精神的態度にかかっているのである。

この事件または彼の状態があなたに苦渋を味わわすならば、ではよろしい!!
それはあなたが、それを招いてあなたを悩ますことを許したゆえにこそ、
それがあなたを悩ますのであると知るがよい。

あなたは自分自身の領域に絶対的支配権を持って生まれて来ているのである。
しかしもしあなたが意識的にその支配権を他の誰かまたは何事かに譲り渡すならば、
たとえそれがごく少期間であろうとも、その期間だけはあなたは支配者ではなく、
奴隷であり、被支配者となるのである。

過ぎ行く事物によって煩わされないで生活するためには、
あなたはまず自分自身の中心を見出さなければならないのである。
然る後、その中心の上にシッカリと立って内部から世界を支配しなければならない。

彼が自己の環境を支配し得なかったならば、
過程は逆になって環境が彼を支配するようになるのである。

自己の生命の中心を見出せ。而してその中心の内にシッカリと生きよ。
その中心を誰にも何ものにも譲り渡してはならないのである。

これを完全に成し得る程度に従って、
あなたは自己の内に次第に一層強く生長しつつある自分自身を見出すであろう。

  (http://www.cwo.zaq.ne.jp/coach/self-center/ より複写)

        <感謝合掌 平成29年8月12日 頓首再拝>

《自己の内に神を見出せ》 - 伝統

2017/09/01 (Fri) 04:59:13


        *『幸福を招く365章』第8項(P162~163) より

あらゆる心の悩みは、あなたの心が神に向かった時に癒されるのである。
暗(やみ)は光に向かえば消えるのと同じように。

病気や不幸を心につかんでいて、「神様これを癒したまえ」と願うことは、
言葉は神の方へ向いているけれども、心は病気や不幸の方へ向いているのであるから、
心が光に向かったとは云い難いのである。

自己の内に「病気」を見出さないで
「神を見出し、生命を見出す」のが最もよいのである。

神を信じても、神を自分の外に見出したのでは、
暗は依然として自分の内に残るのである。

病気だとか不幸だとか、面白くないとか、自分はとてもだめだとか、
そんな消極的な言葉をあなたの心の圏外に放逐せよ。

そして「吾れ神と偕(とも)にあり」と云う光の言葉を常に自己の内に照り輝かせ。

        <感謝合掌 平成29年9月1日 頓首再拝>

自分自身を発掘せよ - 伝統

2017/09/18 (Mon) 04:44:37


         *「真理」第1巻入門篇(P136~138)より

若し誰も、「貴方は天才ですよ。立派な能力があるんですよ」
と云ってくれる者がいなっかったならば、

貴方自身が絶えず自分に向かって
「自分は天才だ、自分は神の子だ、無限の力が宿っているのだ。
どんな困難より強い力が宿っているのだ。」と囁きかけよ。

暇(いとま)ある毎に心の内でそう唱えよ。
低声(こごえ)で自分の耳に対してそう話かけよ。

また「光の泉」や「生長の家」や「生命の實相」を常に読めよ。
それらの書物は常にあなたに対して次のように囁いてくれるでしょう。

「貴方は天才である。貴方には無限の力が宿っている。貴方は偉いのだ。
どんな困難よりも貴方は偉いのだ。困難ある毎に力は増す。
どんな不順な時候もどんな不衛生な状態も、貴方を病気にすることは出来ない。

身体(からだ)が弱いと思っていたのは嘘だったのだ。
自分で自分の力を出さなかったのだ」と。 

斯(こ)う云う言葉を、、文章を、常に読んでいる者は、
常に貴方を愛して力附けてくれる先生や、兄弟を、持っていると同じことである。

《ひと》が誉めてくれないからと悲しむに当たらない、
《ひと》から叱られたからと悲観するに当たらない。

そんな時には「真理」を書いた光明思想の本を披(ひら)いて読むことだ。
その一頁、一頁から飛び出してくる光に満ちた言葉は貴方を激励し、
貴方を力づけ、もう倒れそうになっている貴方の力を引き起こすのだ。

明るい心持が湧いて来る。貴方は起き上がる。
倒れた時よりも其(そ)の時は一層強くなっているのだ。
もう貴方は以前の躓いたことを呟かない。

ただ前進あるのみだ。
恐れず前進するものには、弾丸でさえも中(あた)らなかったとは、
戦場を遍歴(へんれき)した勇士から聞いた言葉だ。

        <感謝合掌 平成29年9月18日 頓首再拝>

自己を深く掘り下げよ! - 伝統

2017/10/17 (Tue) 03:17:33


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」17日>より

ともかくも自己を深く掘り下げてゆくことが第一条件である。

自己を掘り下げない者は表面の力しか使うことができない。
あるいは良き野菜をつくり、あるいは実りの多き稲を作るにも
土壌を深耕しなければならない。

深く掘るほど予想しなかった宝が掘り出されてくるのである。

自己を掘り下げる目前の目的が何であるかは問うところではない。
われわれはただ飲料水を得(う)るためにだけ土を深く掘り下げるのでもよい。

目前の目的は何であろうともいよいよ深く掘り下げてゆくならば
必ず予想外の尊いものが発見される。

ただ飲料だけを求めていただけのものにも石炭が見出され、金銀が見出され、
ラジウムが見出され、そのほか地下のあらゆる希鉱物が見出されるであろう。
なぜなら地下は無尽蔵の鉱物の宝庫であるからである。

人間もまたかくのごときものである。

表面にあらわれている力だけで満足する者は自己の内にただそれだけの値打ちしか
発見することができないが、今を、そして自己を掘り下げる者は、
今の掘り下げている目的以上のものを掘り当てることになるのである。

何よりも全力を出して自己を掘り下げてゆくことが肝要である。
最後に何を見出すかは、その詳細を予想する必要はない。

今目的として掘りつつあるところのそれ以上に価値のあるものが
必ず発見されることだけは信じてよい。

なぜなら、自己の内には、地下の鉱脈よりも無限に豊富なる
無尽蔵の秘庫(すなわち神性)が埋蔵されているからである。

           <感謝合掌 平成29年10月17日 頓首再拝>

神の国は汝の内に在り - 伝統

2017/10/30 (Mon) 04:39:27


          *『善き人生の創造』第十九章 より抜粋

すべての失敗は、自己内在の無限力を自ら限るから来るのであります。
外から失敗や不幸や敗北を押しつける何者もないのであって、
自分自身が自分の内在の力を自覚しないところから、その失敗は起るのであります。

この原理をキリストはいとも明らかに
「先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」
と教えているのであります。

そして「神の国は汝の内に在り」と教えているのでありますから、
「汝の内」にある処の内在無限の力を先ず発見し、自覚することによって、
その余のもの、即ち現象界のあらゆるものが好都合に実現することになるのであります。

  (谷口雅春先生に帰りましょう・第二「尊師・谷口雅春先生著『善き人生の創造』第十九章」
    http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/mode=res&log=99 より転写)

           <感謝合掌 平成29年10月30日 頓首再拝>

神はあなたの内に居ます - 伝統

2017/11/18 (Sat) 03:25:14


         *『愛はかくして完成す』(P274~275) より

神はあなたの内に(これほど近いことはあり得ない)居ますのですから、
「神は求むるに先立ちて無くてはならぬものを知り給う」と聖書にあるのであります。

神はあなたの求めを必ず聴き給うのです。

神はあなたの求めを常に聴き、常にそれを満足せしめ給うのです。

神はあなたの内に満ち給うと同時にあるあゆる所に満ちたまうのですから、
あらゆる人に、事物に、資源に連絡して、必要なものを引き寄せ、
あなたの要求を満たしたまうのです。

これを信じなさい。
これを信ずると同時に、あなたの運命は好転しはじめます。

           <感謝合掌 平成29年11月18日 頓首再拝>

《内在の神は呼びかけを待ち給う》 - 伝統

2018/01/12 (Fri) 04:11:31


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第12篇(P309~310) より

神は常にあなたと偕(とも)にあるのである。
なぜなら、あなたの「内在の生命(せいめい)」は神であるからである。

併し。「内在の神」はそれに対して呼びかけないとき、ただ黙々として
”生理的いとなみ”をつづけているだけで、その他(た)のことを
示そうとはしないのである。

何故(なぜ)なら「内在の神」は専制君主ではなく、圧政的に自己主張を
したまうことはなく、肉体の自我が、内部に対して呼びかけるのを
唯(ただ)待っていられるだけであるからである。


しかし若し私たちが、善なる目的をもって「内在の神」に呼びかけ、
その神の教えたまうところに”唯(ただ)まかす”ときには、
神は必ず道を示したまうのである。

但(ただ)し神に呼びかけるには必ず、「善なる目的」のために
でなければならない。

利己的目的のために、神に呼びかけることがあれば、利己的目的のために
その辺を浮浪しているつまらない幽霊が「神」の仮面をかぶって来て
あなたを迷わすばかりである。

           <感謝合掌 平成30年1月12日 頓首再拝>

神は汝の内にあり - 伝統

2018/01/30 (Tue) 03:53:30


         *『愛はかくして完成す』(P274~275) より

神は決して「人間」から距(はな)れて
遠き距離なる天空にいられるのではありません。

イエスは「神の国は汝の内にあり」といわれました。

神の国が自己の内にあるならば、
神の国に住み給う神もまた自己の内にいます筈です。

神を近くに感ずることが、
常に幸福を自己に齎(もた)らす根本となるのであります。


神はあなたの内に(これほど近いことはあり得ない)居ますのですから、
「神は求むるに先立ちて無くてはならぬものを知り給う」
と聖書にあるのであります。

神はあなたの求めを必ず聴き給うのです。
神はあなたの求めに常に聴き、常にそれを満足せしめ給うのです。

神はあなたの内に満ち給うと同時にあらゆる所に満ちたまうのですから、
あらゆる人に、事物に、資源に連絡して、必要なものを引き寄せ、
あなたの要求を満たしたまうのです。

これを信じなさい。
これを信ずると同時に、あなたの運命は好転しはじめます。

           <感謝合掌 平成30年1月30日 頓首再拝>

《自己にやどるもの》 - 伝統

2018/02/17 (Sat) 03:29:27

       *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第1篇(P8~9) より

自己に宿る神を知ることが根本である。
知るといっても神は物体ではないのだから肉眼で見て知るのではないのである。
信仰によって直観するか、悟りによって把握するほかなはないのである。

いくら自分の内にあっても知らないものは使えない。
財布の中に1億円の小切手がおさめられていても、それは入っていることを
知るまでは、その1億円の小切手は使う訳には行かないのである。

神も矢っ張りそうであって、いくら自己の内にあっても、それを知らない限りは、
自分の希望にしたがって随時随所に使うわけには行(ゆ)かないのである。

もっとも神は単なる物質の小切手ではないから吾々が発見する前から
常に人間を護りたまい、色々の恩恵を与えていては下さるのである。


併し、自分を護り給う神があることを知るまでは、放送があるということを
知らなかった以前には、放送局に波長を合わす気になれなかったのと同じように、
神の霊的放送に波長を合わそうとしないものだから、
それだけ神様から来るお蔭を受けることが少ないのである。

           <感謝合掌 平成30年2月17日 頓首再拝>

生命の内部を流れる水 - 伝統

2018/03/07 (Wed) 04:15:01


      *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇(P35~37) より

《聖なる悩み》

ウィリアム・ジェイムズ教授は心理学・哲学・宗教を一つの糸に結びつけながら、
それを実際生活に応用する理論を創案して第一人者だといって好い人であるが、

彼は人間が普通の状態に於いて、「もう自分の力は出し切った」と思っていても、
それは自分の内に宿る本当の力の25%しか出していないのだといっているのである。

人がひとたび「自己の宿るところの神」を自覚するならば、
「人生何の意義ありや」とか「生きていて何の甲斐があるのか」などという疑問や
悩みはおのずから消えてしまうのである。

何故かといえば、「人生何の意義ありや」などと考えて悩むのは、
「自己の内に宿る神」を肉体意識にみとめさせようとして内から催して来るところの
聖なる悩みであるからである。

吾々の内には「神」が宿っており、それをみとめさせようとする催しが動いている
からこそ悩むのである。神が宿っていないならば、ただの「物質の塊」が人間であるならば、
肉体そのままの自覚だけで何の矛盾も 感じられないから、
「人生の意義」を考える悩みなども出てこない筈である。

                ・・・

《視えざる世界の認識》
     
吾々は、、成る程、一面に於ては物質的肉体であり、
物理化学的には物質宇宙に関係をもっており、
眼耳鼻舌触の五官を通して、物質宇宙を感じ、
それによって行動し生活するのである。

併しながら、人間には、それ以上のものがあるのである。

吾々は「心」というものは如何なるものであるか、
魂は果たして肉体の死後存続するものであるか、
神はあるか、ないか、などと考える。

即ち、”視えざる世界”に属するものを考えずにはいられないのは、
吾々の存在が、その一面は”視える物質宇宙”に関係をもちながら、
その反面は”視えざる世界”に関係をもつ「存在」であるからなのである。

そして此の”視えざる世界”に属するものを認識するには、
眼耳鼻舌触の五つの感覚では役に立たないのであって、

吾々は、精神統一によるか、霊的修行によるか、坐禅によって
身心脱落、脱落身心の境地に入るか、
神想観を実修するか等の方法によって、
肉体的感覚以上のものを内部から呼び出して来なければならないのである。

               ・・・

《生命の内部を流れる水》

吾々の生命(せいめい)の内部に流れているところの聖なるものを ―― 
吾々は”地下の伏流水”を堀鑿(ほりぬき)してそれを地上に導き出し、
常に涸れざる清き水道の資源とするように、吾々の生命(せいめい)の内部に
流れているところの生命(せいめい)の内部的聖流を堀鑿(ほりぬき)
しなければならないのである。

地表に流れているところの河の水も水道の資源となるが、
これは涸れることもあれば、洪水の時などには汚水や濁水が混入して、
甚だ穢(よご)れていることがあるのである。

地表をながれる河の水は、現象的にあらわれている脳髄的智慧のようなものである。
それは涸(か)れたり汚れたり不純なものが混入するのである。

しかし、生命(せいめい)の内部を流れる、実相の智慧を汲み上げて来るならば、
それは無限に滾々(こんこん)と湧き出して来るし、
どんな地上の汚れも混入していないのである。

    
旅人が疲れて咽喉(のど)が渇(かわ)いでいるとき、地下から噴(ふ)き
出(で)ている泉を見出したならば蘇生(そせい)の思いをするように、

人生の旅に、どんな現象的な智慧を出して来ても解決しない問題に面したとき、
生命(せいめい)の内部を流れる実相の伏流水から智慧を汲みだして来たら、
本当に蘇生の思いをするような解決の智慧が湧いて来るのである。

           <感謝合掌 平成30年3月7日 頓首再拝>

わが内に宿る神 - 伝統

2018/03/22 (Thu) 03:26:05


           *「光明法語」(3月22日)より

『マタイ伝』第六章六には

『なんじ祈るとき、己(おの)が部屋にいり、戸を閉じて、
隠れたるに在(いま)す汝の父に祈れ』

とイエスが教えている。

必ずしも自分だけ独占の密室で祈れと云う意味ではない。
若しそうならば一室に数人同居する引揚者などは祈ることは出来ないのである。

『己が部屋にいる』とは自分の心の中に深く沈潜することである。
すると自分の内に『隠れたるに在す汝の父』がい給うのである。

神を外に見ている間は本当のお蔭は得られないのである。

わが内よりこそ無限の生命も無限の供給も得られるのである。

           <感謝合掌 平成30年3月22日 頓首再拝>

《内に宿る神秘な力》 - 伝統

2018/04/14 (Sat) 03:20:48


     *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第2篇( P46~47) より

人のうちには神秘な不思議な能力が宿っているのである。

それを多少開発し得ている人と、殆ど全く開発し得ていない人とがあるけれども、
兎も角、それを開発し得ている人の能力を観察するならば、
それは、脳髄や感覚器官による知識などとは全然異なる如き、
そしてそれを超越する如きはたらきを成し得るのである。


神想観を充分実修するとき、何人もその神秘なる能力を開発し得るのであり、
その神秘の能力には色々の種類があり、最高なるものは実相の直感的把握であり
(これを仏教では”般若の智慧”を得ると称するのである)

そのほか声の形で霊示を受けるものや、霊視の形で霊示を受けるものなど
色々にあるのであるが、そのような心霊現象的な神秘的能力ではなくして、

日常生活中に、自然に催す常識的判断の中に神秘なる智慧があらわれ、
自分がしようと思うことが悉く急所にあたって、功を奏する如き、
日常生活中の智慧となってあらわれて来るに至るのであるが、
それが最も好ましき実例である。

           <感謝合掌 平成30年4月14日 頓首再拝>

《内在の神の道具となれ》 - 伝統

2018/05/07 (Mon) 04:04:07


        *「光明法語」(5月7日)より

金光教祖は「頼まいでもお蔭はやってある」と言い、
イエスは「みこころの天(神の国)になるが如く地にも成らせ給え」と祈った。

その「天」とは「神の国は汝らのうちにあり」と云うイエスの言葉に
あらわれたる如く「内在の神の国」なのである。

されば神に祈ると云うことは「自己内在の神」に祈ると云うことである。

自己の内に神が宿っているのであるから、
常に吾々は自己の神にまかせて、我(が)をなくならせて、
ただ自分が神の智慧の流入のパイプとなることが必要なのである。

           <感謝合掌 平成30年5月7日 頓首再拝>

《内からの自覚》 - 伝統

2018/06/01 (Fri) 03:22:54


      *『生活の智慧365章』(第1部生命の泉)第3篇( P62) より

自己に宿る生命(せいめい)は「神の生命(せいめい)である」という
内からの自覚によって運命が好転したり、能力が倍加したり、病気が治ったりするのは、
他(た)からの暗示によって支配されるのではなく、

自己内在の実相の開顕による能力発揮であるから、
その自覚は愈々(いよいよ)ふかくなるほど、益々他(た)からの暗示に
支配されなくなり、自主独立の人間形成をなし得ることになるのである。

           <感謝合掌 平成30年6月1日 頓首再拝>

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