伝統板・第二 189372

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悦び

1:伝統 :

2016/06/05 (Sun) 04:29:26

悦びを語り、心の日記をつける

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より

生かされている悦びを語ることは、言葉の力によって悦びを増幅することになる。

天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
 ―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。

人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、

言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。

黙ってこれまで得たおかげを握りつぶしている人の中には退転する人が多い。
自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは
自分を退転せしめない一つの良法である。

            <感謝合掌 平成28年6月5日 頓首再拝>
2:伝統 :

2016/06/09 (Thu) 03:54:56


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より

人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。

体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。

自分の持物が少ないといって嘆くことはない。

釈迦はあたかも要るだけの体温がすでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、
その王宮が苦しくなって飛び出したのである。

ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。

生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。

生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」がやがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。

人間が神の子であるのは事実である ―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。
彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、自分の方法で、自分の理論で
「神の子」を生み出そうとするのである。

「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。
生み出す者たらんとするのが人間である。

            <感謝合掌 平成28年6月9日 頓首再拝>
3:伝統 :

2016/06/18 (Sat) 04:15:43


        *「真理」第1巻入門篇(P338)より

よろこびの感情は人間を健康にいたします。

歴史によりますと、ブラジル国王ドム・ペトロがヨーロッパで病気になって
苦しんでおりましたときに、彼の摂政をしていました王女から、この病める国王の
宿願であったところの奴隷禁止令に署名したと云う電報がまいりました。

この電報を見ると、あまりのうれしさに王の病気は治ってしまいました。
このように喜びの感情は人間を健康にする力があるのですから、
常に喜び、常に感謝している人は病気にかかるものではありません。

病気にかかるのは、ふと腹を立てたり、不平に思ったり、口惜しかったり、
悲しかったりしたあとで、その心のあらわれとして病気になるのです。

腹立ちを「ゆるし」に替え、

不平を感謝にかえ、口惜しさや悲しみを、「これがあるので私の魂が高まるのだ」と
感謝とよろこびとに替えるようにしますと、病気が治るのであります。


        <感謝合掌 平成28年6月18日 頓首再拝>
4:伝統 :

2016/06/29 (Wed) 03:28:51


         *「真理」第9巻生活篇(P106~107)より

「神は霊的悦びである。霊的悦びがわたしの悦びである」
この言葉を神想観中に自己暗示的に毎朝夕20回づつとなえよ。

称(とな)えること1ヶ月又は数ヶ月にして、あなたの心に今までにない、
霊的な悦びが湧き上って来るのを感じられるでありましょう。

神は本来「悦びそのもの」であり、
「悦び」によって実在の世界を創られたのであります。

「創世記」の人間創造の記録に、人間がエデンの楽園に置かれるのもそのためであり、
仏教において仏教の世界が荘厳極まりなく美しく賛歌の満たる世界であるのは
そのためであるのであり、

天理教でも”神が人間をこしらえたのは物見遊山をさせたいから”とその天地創造説なる
「泥海古記(どろうみこうき)」に書かれているのも神の天地創造が
「悦びそのもの」のであることをあらわしているのであります。

その「神の悦び」を「わが悦び」とするとき、
必ず良き事物の創造が現実世界にもあらわれて来るのであります。

           <感謝合掌 平成28年6月29日 頓首再拝>
5:伝統 :

2016/07/14 (Thu) 04:54:31

         *『生長の家』(昭和25年6月28日の法語)より

   喜ぶことが
   神の子の特権であるのである。

   喜べ喜べ 喜ばないものは
   伸びることができないのである。

   神はこの世界を苦しむために造ったのではなく、
   喜ぶために造ったのである。

   日光の輝き、美しき空の色、妙なる鳥の囀(さえず)り、色とりどりの美しき花、
   蝶は舞う、鳥は囀る、
   すべての生きものは
   喜びに舞踏(ぶとう)しているのである。

   それだのに万物の霊長である人間が喜ばないで
   一人憂鬱(ゆううつ)にかがみこんでいるとは、
   又 万物の霊長である人間が恐しい闘争を心に描いているとは。

   喜びと愛すること 人間のなすべきことは この二つである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

        <感謝合掌 平成28年7月14日 頓首再拝>
6:伝統 :

2016/07/30 (Sat) 03:27:40


         *『生長の家』(昭和24年11月5日の法語)より

   吾は 愛と信仰と勇気と 神より頂いた無限の生命力とによって
   自分自身の幸福を創造するのである。

   吾が中(うち)に宿る完全なる 「 神の生命 」 の実相を表現する時、
   わが生命は 平和にみたされ、調和にみたされ、喜にみたされ、
   生き甲斐を感ずるのである。

   生き甲斐とは、神が神であるその実相を現わした時が
   喜の感じであるのである。
   吾は 神を表現することに喜を感じ 生き甲斐を感ずるのである。

   神は 愛であり智慧であるから、
   吾は 愛を実現し 智慧を実現することに生き甲斐を感ずるのである。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

        <感謝合掌 平成28年7月30日 頓首再拝>
7:伝統 :

2016/08/12 (Fri) 04:09:42


         *『 生長の家 』(昭和26年7月2日の法語)より  


   人生が退屈であったり、無意義に見えたりするのは
   その人の愛が乏しいからである。

   愛して何事でも、愛のために行うならば
   自然と歓喜が湧(わ)いて来て 退屈であったり、
   無意義に感じたりする筈(はず)はないのである。

   仕事が退屈なのは、その仕事を経済的理由で自分の労力を
   切売(きりうり)するような気持でするからである。

   「 神様、あなたの愛をこの仕事を通して実現させて頂きます。
   有りがとうございます 」 と 感謝しながら仕事をするならば、
   決して仕事は退屈な重荷となって来ないのである。

   利己主義のところに真の悦(よろこ)びは 湧いて来る筈はない。
   神の愛を実現する処(ところ)にのみ 真の悦びは湧いて来るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/491a18692ccef688f441aca102a8e891

        <感謝合掌 平成28年8月12日 頓首再拝>
8:伝統 :

2016/08/22 (Mon) 04:43:53


        *『白鳩』(昭和49年1月25日の箴言)より

   人間は、人間としてただ生きているというだけで、
   純粋に悦ばねばならぬのである。

   自分が豚に生まれないで、人間に生まれたということは
   何と神秘な有りがたいことだろうか。

   私は人間としてここに生きている。
   生きてそして考えている。
   人間として美を感ずることが出来る、善を考えることが出来る。

   宇宙の真理を探究することができる。
   父母を愛することができる。
   良人を愛することができる、妻を愛することができる。
   子供を愛することができる。孫を愛することができる。
   祖父母を愛することができる。

   みんなに感謝することができる ―― それは人間としての特権である。
   あなたが、そしてわたしが、人間であるということは
   何と素晴らしいことであろうか。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=809

        <感謝合掌 平成28年8月22日 頓首再拝>
9:伝統 :

2016/09/02 (Fri) 03:18:20


       *「生長の家」(昭和25年6月28日の法語)より

   喜ぶことが
   神の子の特権であるのである。

   喜べ喜べ 喜ばないものは
   伸びることができないのである。

   神はこの世界を苦しむために造ったのではなく、
   喜ぶために造ったのである。

   日光の輝き、美しき空の色、妙なる鳥の囀(さえず)り、
   色とりどりの美しき花、
   蝶は舞う、鳥は囀る、

   すべての生きものは
   喜びに舞踏(ぶとう)しているのである。

   それだのに万物の霊長である人間が喜ばないで
   一人憂鬱(ゆううつ)にかがみこんでいるとは、
   又 万物の霊長である人間が恐しい闘争を心に描いているとは。

   喜びと愛すること 人間のなすべきことは この二つである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

        <感謝合掌 平成28年9月2日 頓首再拝>
10:伝統 :

2016/09/09 (Fri) 03:45:09


        *「光明法語」(9月9日)より

大生命は内に無限の可能性を包蔵し、
外に機会ある毎にその内蔵する可能性を顕現しようとする。
而して内にあるものが外に発現せられる時に歓びを感ずるのである。

それは画家が自己の内にある美を絵に表現せられた時に歓びを感じ、
音楽家が自己の内にある感情を音楽に表現せられた時に歓びを感じ、
舞踏家が自己の内にある生命の衝動を舞踏に表現し得た時に喜びを感ずるのと同様である。

大生命は森羅萬象を自己に内在する美と感情と衝動とを表現せんが為に造った。

           <感謝合掌 平成28年9月9日 頓首再拝>
11:伝統 :

2016/09/11 (Sun) 03:10:26


         *「光明法語」(9月11日)より

汝らの内に宿る生命は大生命の一部分であるが故に、
大生命と同じき本性をもっている。

それ故に絶えず新しきものを創造する事に生命の歓喜を感ずるのである。

大生命は、吾々の一々の小生命を、創造の各々の中心として、
その各々の中心に於いて新しきものを表現し、創造せしめる。

吾々は各々創造の中心として新しきものの表現に創造に歓喜を感ずる。

新しく伸びないもの、新しく創造しない小生命は、
大生命に歓ばれることは出来ない。
それは大生命のバックを受けられない。

           <感謝合掌 平成28年9月11日 頓首再拝>
12:伝統 :

2016/09/18 (Sun) 04:48:11


          *「光明法語」(9月18日)より

神は生命の歓喜によって人間を創造したのである。
神は生命の歓喜によって大自然を創造したのである。

美しい緑の若葉は神の生命の歓喜を物語る。
牡丹の豊艶なる、海棠(かいどう)の幽艶なる、白百合の清楚なる、桜の爛漫たる、
梅花の孤峭(こしょう)なる・・・

数えれば限りはないが、いずれも神の生命の歓喜の発露であるのである。
万物は、すべて神の生命の歓喜の発露であり、表現であるが、「神の生命」そのものの
発露であり表現であるのは「人間」である。

人間が喜べば神が喜ぶのである。

           <感謝合掌 平成28年9月18日 頓首再拝>
13:伝統 :

2016/09/19 (Mon) 04:28:10


          *「光明法語」(9月19日)より

歓ばない人間は、神の生命の歓喜の出口を閉塞するものである。

喜ばない人間は健康になることが出来ない。
喜ばない人間は勝利することは出来ない。
喜ばない人間は如何に盛んなように見えても最後に挫折するのである。

イザナギの神様は「あなにやし、好乙女(えおとめ)」と歓喜して世界を創造したのである。
イザナミの神様は「あなにやし、好男(えおとこ)」と歓喜して世界を創造したのである。

喜ばない人間は創造することが出来ない。
喜びは創造する力である。

           <感謝合掌 平成28年9月19日 頓首再拝>
14:伝統 :

2016/10/03 (Mon) 04:05:09


          *「生長の家」(昭和26年7月2日の法語)より

   人生が退屈であったり、無意義に見えたりするのは
   その人の愛が乏しいからである。

   愛して何事でも、愛のために行うならば
   自然と歓喜が湧(わ)いて来て 退屈であったり、
   無意義に感じたりする筈(はず)はないのである。

   仕事が退屈なのは、その仕事を経済的理由で自分の労力を
   切売(きりうり)するような気持でするからである。

   「 神様、あなたの愛をこの仕事を通して実現させて頂きます。
   有りがとうございます 」 と 感謝しながら仕事をするならば、
   決して仕事は退屈な重荷となって来ないのである。

   利己主義のところに真の悦(よろこ)びは 湧いて来る筈はない。
   神の愛を実現する処(ところ)にのみ 真の悦びは湧いて来るのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/491a18692ccef688f441aca102a8e891

           <感謝合掌 平成28年10月3日 頓首再拝>
15:伝統 :

2016/10/16 (Sun) 03:13:23

【喜ばせる喜び】~[日本の中の私]

       *「すべては今のためにあったこと」中山靖雄・著(P210~212)より

東日本大震災の時に、天皇陛下が被災地の方に

「助かってくださってありがとうございます」

とおっしゃいました。

「助かって良かったですね」

ではないのです。

このように、「私」と「あなた」の区別がない世界を生きていたのが日本です。

川端康成さんがノーベル賞を受賞した講演の際の演題は、
『美しい日本と私』だったといいます。
しかし、途中でそうではなかったと思い直し、
『美しい日本の私』に変更したそうです。

私たちは、向かい合っているのではなくて、お互いが自分の中に存在している。

つまり、「私の中のあなた、あなたの中の私」という感覚で生きてきたのですね。

「日本を変える」「世の中を変える」と、相手を設定して作り出し、
自分が変えるべき問題として向き合うとやる気になるし、
力も出やすいと思います。

しかし、日本と向き合うのではなく、
自分が日本なのだと思う。
これが大事なのです。

「日本を変える」としたとたん、
「日本と私」と別物になってしまいます。

自分が日本だと思って生きていく。
そのほうが本当に深くて難しいことなのです。

(中略)

人様が幸せになってくれたら自分は嬉しいという思いは、
自己犠牲ではなく、「喜び」が根幹を成しているのです。

ここが大切なのですが、
根っこに喜びがないと、永遠には栄えることができません。

なぜなら、《喜んで生きてほしいというのが天の願い》だからです。

みんなそれぞれ自分のままで、自分どおりの役割があります。
役割は違っても、みたまの値打ちはみんな一緒で、
天から見たらみな大切なわが子です。

だから「今しかない、ここしかない、今こそすべてなのだ」
と喜んで生きてほしい。

そのことを教えるために、
天はいろいろなことを起こしているのです。

「喜べば、喜びごとが、喜んで、喜び集めて、喜びにくる」

という言葉どおり、

天を知り、喜んで生きる時、
喜び上手のところに喜びごとは集まってきます。

           <感謝合掌 平成28年10月16日 頓首再拝>
16:伝統 :

2016/10/28 (Fri) 03:28:15

《厳寒に咲く花に学べ》

       *「生長の家」(昭和25年6月29日の法語)より

   予期しない不幸がやって来た時にも喜べ。
   不幸があるから喜べというのではないのである。
   不幸があっても喜ぶのである。

   それは 過去のあやまれる想念の蓄積が
   自壊するために現われた所の影にすぎないのである。

   自壊した次には
   新しき善きものが生まれて来るのである。

   厳寒に咲く花は
   最初は美しくない萼(がく)や苞(ほう)につつまれている所の
   蕾(つぼみ)にすぎないのである。

   蕾の萼が破れ 苞が破れて、
   そこから美しき花が咲くのである。

   くだけるのは
   善きものが現われて来んがために くだけるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2


           <感謝合掌 平成28年10月28日 頓首再拝>
17:伝統 :

2016/11/10 (Thu) 03:17:10


           *「生長の家」(昭和25年7月3日の法語)より

   本当の喜びは 五官の心を徹底的に自己統制して、
   自分の生活の凡ゆる瞬間、如何なる小さき行動も、
   如何なる小さき心の想いも
   神にささげてしまった時にのみ得られるのである。

   人生とは 「 ニセモノの自分 」 が 「 本物の自分 」 ( 神 ) に
   徐々にささげて行く所の練習過程である。

   早くささげきったもののみが本当の幸福に入り
   永遠不滅の魂の喜びを味わうことができるのである。

   番犬である五官の喜びを
    「 自分 」 が 喜んでいるのだと思ってはならない。

   肉体が喜ぶのは 番犬が喜んでいるのであって
   「 本当の自分 」 は隠されているのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12


           <感謝合掌 平成28年11月10日 頓首再拝>
18:伝統 :

2016/11/26 (Sat) 04:04:30


         *『 生長の家 』(昭和46年10月4日の法語)より

   いろいろと自分を取り巻いている
   空気や日光や、日常必需の“水”や、家や、
   建具(たてぐ)や、畳や、敷き物や、花瓶や床の間の置物や ー 

   外部にある事物を見て感謝することをおぼえたのであるけれども、

   私たちは、もっともっと感謝すべきものを
   神から与えられていたのである。

   それは、今、此処に 自分が生きている‘ いのち ’ が、
   神の神聖な‘ いのち ' を与えられている
   という事実であるのである。


   即ち 自分のいのちが
   神のいのちの最高の自己顕現であるということである。

   それを発見したとき 本当に歓喜が充満し、
   手の舞い、足の踏むところを知らず、
   有頂(うちょう)に昇る思いがせずにはいられない筈(はず)である。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

           <感謝合掌 平成28年11月26日 頓首再拝>
19:伝統 :

2016/12/09 (Fri) 04:05:08


        *「光明法語」(12月9日)より

真に神が私に割当てたものだけが、真に自分の魂を喜ばせるのである。

其の余のものは吾々の魂を喜ばすことは出来ない。
一時五官を楽しませたように見えても、五官の楽しみは魂の喜びではないから、
やがて魂は嘆くのである。

自分の魂の内なる「切なる願い」から出たものでないものは、
得ても甲斐なきものである。

「魂の切なる願い」は、自己の内にやどる「神の生命」の願いでああるから、
神とともにそれは願うのであるから成就しないと云うことはない。

           <感謝合掌 平成28年12月9日 頓首再拝>
20:伝統 :

2016/12/24 (Sat) 03:52:19


        *『生長の家』(昭和25年7月25日の法語)より

   「 吾 童子の時 語ることも童子の如く、思うことも童子の如く、
   論ずることも童子の如く、人となっては童子のことをすてたり。」

              (コリント前書第十三章十一節)


   浮世の喜びや、五官の快楽や世間的名声の如きは
   魂の幼きものが もてあそぶ所の玩具(おもちゃ)にすぎないのである。

   幼き童子に玩具(おもちゃ)が必要な如く、世間的名誉も
   人間の或る時代の魂の発達には必要なものであるのである。

   然(しか)し魂の成人したるものは
   かくの如き玩具(おもちゃ)の喜びを捨てるのであって、

   そして古き魂の習慣を脱皮して
   新たに肉体の子から神の子に生れ更(か)わるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 平成28年12月24日 頓首再拝>
21:伝統 :

2016/12/25 (Sun) 03:43:58


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月25日)より

憎みを考えるものではない。
話題をそういう問題から常に避けるようにしなければならぬ。
常に、愛のことを、深切のことを、心に残る後味のよいことを考えるようにしなければならぬ。

ピシリと相手をやっつけても、そのあとで心が後味の悪さで苦しむようでは、
その相手に負けているのである。

勝つとは、後味までも歓べることである。

            <感謝合掌 平成28年12月25日 頓首再拝>
22:伝統 :

2016/12/30 (Fri) 04:47:53


           *「光明道中記」(12月30日)より

【他の救いのために動き出すと本物の悟に入る。(『生命の實相』第十一巻)】

他に優超するよろこびと云うものもある。
これも渇欲の一種であって、一人に優れれば、十人に優れたくなり、
十人に優れれば、百人に優れたくなり、止まるところを知らないのである。

人を踏みつける喜び、見下す喜び、ザマ見ろと云う喜び、好い気味だと云う喜び、
こんな喜びは地獄の喜びであって本当の喜びではないのである。

天国の喜びは、神を讃える喜びである。
感謝する喜びである。
人を互いに賞め合うよろこびである。

人と助け合う喜びである。
人に深切を尽すよろこびである。
仕事をする喜びである。

ニセ者の我を征服する喜びである。

真理を知る喜びである。
教を聴く喜びである。
教を行ずる喜びである。

創造する喜びである。
美を味わい、芸術を鑑賞する喜びである。

すべて自分が喜ぶことで、他の人が喜べない状態になる喜びは、
それは純粋なる幸福を齎(もたら)し得るものではない。
人の苦しみが自分の心の世界に投げ返されて来るからである。

奪い合いのない幸福でなければならない。

5つのパンを5千人に分っても尚(なお)籠(かご)に一ぱいのパンが余っているような、
与えても与えても減らない喜びでなければならない。

            <感謝合掌 平成28年12月30日 頓首再拝>
23:伝統 :

2017/01/02 (Mon) 04:51:38


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月2日)より

すんだことの中に生活せず、「今」のなかに生活せよ。
「今」は常に生きている。「今」の中にはあらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満ちている。

過去にどんな悲しいことがあったにしても、それについては思い煩うな。
「今」天地一新したのである。
もう別の天地に生きているのである。

過去に寒風に吹き暴(さら)されたことを嘆かないで、
「今」梅の花は喜びに満たされて咲いている。
梅の花よりも尊く強く逞しきが人間である。

喜ぶべきことしかないのが人生である。

         <感謝合掌 平成29年1月2日 頓首再拝>
24:伝統 :

2017/01/06 (Fri) 03:40:00


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月6日)より

たえず活(はたら)いているということが喜びの源泉である。
活(はたら)かないものは、何か自分の内部から気がとがめるあるものを感ずる。
この気がとがめる囁きをごまかすために多くの人は外面を麻酔する誘惑に身を投ずる。

「小人(しょうじん)閑居すれば不善をなす」というのは、働かないものが内部に
感ずる良心の囁きをごまかすために誘惑に身を委(まか)せることをいう。

酒や麻酔薬で内部の囁きをごまかしてみても本当の幸福は来ぬのである。
ごまかしの生活の中には必ず何か暗いものがある。

本当の幸福というものは暗い生活からは生まれぬ。

暗い生活をごまかしごまかしして偽りの快感らしい生活を送るのは、
湿疹(しっしん)の瘡蓋(かさぶた)の痒きを掻(か)いてごまかすところの快楽である。
掻けば掻くほど、魂は爛(ただ)れ、みぐるしい膿血(のうけつ)が流れるのである。


常に人の《ため》になる仕事、常に世の《ため》になる仕事、
たゆみなくかかる仕事に従事している人には魂の喜びが伴う。
仕事が無上の喜びとなり、仕事の中に休息と慰安とがある。

金(かね)を貰って働いている人も、
金を貰って働くと思えばその時から魂の喜びは消えてしまう。

金(かね)を頂くのは、それが多いにせよ少ないにせよ神様から恵まれたものであると感謝し、
仕事は仕事で人のため世のためへの自分の魂の献(ささ)げ物であると思って、
人のために尽くすという喜びの中に仕事をするがよいのである。

かかる仕事の中からは不断の喜びが湧く。
金と仕事とを交換的に考えてはならぬ。

仕事はいかなる「金(かね)」よりも尊いものであるがゆえに、
仕事のために「金(かね)」を貰っているという考えが起こるや否や、
仕事の歓びは半減される。

仕事を常に支配すること。
仕事に支配されてはならぬ。
仕事を追い回すことは、仕事から追い回されない秘訣である。

仕事に不平を立てておいて、そのゴールまで突進するのは仕事を捗(はかど)らせる
良き方法である。しかし、ゴールに到着しない日があっても焦(あせ)ってはならぬ。
一日の労は、一日の労で足りるのである。

常に働いていながら、その仕事が捗らないのは、何か神の摂理(おぼしめし)があるので
あろうと、またそのことに感謝するがよい。そこからいらいらした心持(こころもち)が
和(なご)やかになり、平和が魂に戻ってくるであろう。

急がず、たゆまずに進むのが仕事の秘訣である。

         <感謝合掌 平成29年1月6日 頓首再拝>
25:伝統 :

2017/01/07 (Sat) 04:25:35


           *「光明道中記」(1月7日)より

【暗は光明に来てブッ突かればブッ突かった刹那(せつな)に光明に化して了っている。
                              (『生命の實相』第一巻)】

悲しみは存在しない。それは無い心である。

文字構造に天才的インスピレーションを有(も)っていた古代支那人は、
《かなしみ》と云う字を「非(あらざ)ざる心」と云う意味でそれを組み立てた。

「悲しみ」は悲しんでいる間だけあるのであって、
もう喜んでいるときには存在の世界から消え去っているのである。

喜べばいくらでも喜べるのが心である。

悲しみと云うものの奥にもしみじみと味えば喜びだけがあることが判るのである。
ただ悲しみが悲しみだけで終るのは、悲しみに抑えられて、獅子(ライオン)に咬まれた
小兎のように悲しみによって振り回されるからである。

静かに悲しみを心の眼の前に置いて眺めても見よ。
それはただ美しいばかりである。
悲劇が観客によろこばれるのは悲劇の実相は歓びだからである。

オスカーワイルドは「悲しみの中には聖地がある」と言った。
イエス・キリストは「悲しめる者よ、汝は幸福なり」と言った。

これらの言葉は悲しみを追求する為に、
悲しみに耽溺(たんでき)する為に説かれたのではない。

悲しみの外貌(がいぼう)をとっているが、
その奥地に探り入れば悦びが実相である。

            <感謝合掌 平成29年1月7日 頓首再拝>
26:伝統 :

2017/01/08 (Sun) 04:21:37


           *「光明道中記」(1月8日)より

【人間は苦行しなければ浄まらないようなものではない。(『生命の實相』第一巻)】
  
浄まるとは、生命が進歩の形に於いて生々としていることである。
苦しみとは生命の伸展力が或る障礙を受けて伸びられないときの状態である。
伸びるのが浄まりであり、枉屈(おうくつ)が苦しみである。

浄まりと苦しみとは本来何の関係もないことなのである。

寒中水浴をやることによって、その人の生命が伸びるならば、
その人の水浴はもう苦行として感じられないで楽しみとして感じられる。
却って水浴しないことが不快で苦行となるであろう。

また其の人が寒中水浴することが不快であり、嫌々ながら人に勧められたために
已(や)むを得ずそれを実行するのであるならば、其の人はその水浴が無効であり、
却って害があることを実証するために、自ら進んで風邪を引いて見せるであろう。

喜べば生命は伸び、嫌々何事でも行なえば生命は衰退するのである。

健康法で健康になり得た人はその健康法を持続し得た人のみである。
持続し得るのは喜んでいる証拠である。

そこで健康法がその人を健康にしたのではなく、
喜びが其の人を健康にしたことが判る。

            <感謝合掌 平成29年1月8日 頓首再拝>
27:伝統 :

2017/01/11 (Wed) 03:45:42


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月11日)より

一つの同じことが、甲の人には不平不満の源であり、
一つの同じことが、乙の人には喜びの源である。

自分のしている善いことに、家族が従ってきてくれないといって不平を言うこともできるが、
自分は家族たちよりも先んじて光明(ひかり)の道を知らせていただいたといって、
人一倍喜ぶこともできるのである。

明るい半面ばかり見る者は常に生長し、暗い半面を見るとき人は暗黒の世界に墜落する。

どんなことにも喜びは見出される。
雨が降ったらうっとうしいと言う代わりに「結構な善いおしめりだよ」と喜ばねばならぬ。

この世の中に何一つ無駄なものはない。
この世の中に何一つ無駄なものがないと知ったとき、
われわれは悲しむべき何物もこの世界にないと知るのである。

         <感謝合掌 平成29年1月11日 頓首再拝>
28:伝統 :

2017/01/27 (Fri) 03:28:29


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年01月06日)」より

   (100歳の精神科医、高橋幸枝氏の心に響く言葉より…)

   私は元気なときには「老齢だからいつ死んでもよい」と威勢よく話しています。

   でも、「私にも生きることへの終着が強くあるのだな」と実感するのは、
   体調を崩したときです。

   たとえば、風邪や発熱に見舞われたときは「大丈夫かしら」と不安になります。

   歳を重ねるにつれ、そのような時間はおのずと増えるようになりました。

   そして「生きることは、不安と共生しているようなものだ」と
   つくづく思うようにもなりました。


   「生老病死」という言葉があります。

   仏教の言葉で「生まれること」「老いること」「病むこと」「死ぬこと」という、
   4つの苦しみを指します。


   とくに「老い」「病気」「死」への不安というのは、
   中高年以降にとっては大きな問題であることでしょう。

   これらの不安に苦しめられないためには、
   それよりも大きな「生きる喜び」を感じるようにするのが早道です。


   では、生きる喜びとは、いったいどのようなものでしょう。

   それは、誰かに与えられることを待っているのではなく、
   自分から積極的に見出していく性質のものです。


   たとえば、植物や動物と語り合い、なるべく自然を取り入れた暮らしを送ること。
   そこで、「自分も自然の一部である」と感じること。


   仲間と過ごす時間を大切にすること。
   そこで、「自分にもわかり合える仲間がいる」と感じること。

   つまり、「ひとりぼっちではない」と感じたときに、生きる喜びは湧いてきます。


   そして、生きる喜びがあれば、
   「老い」「病気」「死」への不安など、はるかに凌駕(りょうが)することが
   できるはずです。

            <『こころの匙加減』飛鳥新社>

                   ・・・

人は健康で元気なときは、誰でも威勢がいい。

しかし、ひとたび病気になったり、具合が悪くなって寝込んだりすると、
途端に気持ちが落ち込んでくる。

体と心は密接に結びついているからだ。


「なにか悲しいこと、辛いこと、そのほか消極的な出来事があったら、
努めて『笑う』ようにしてごらん」(中村天風)

不安を解消する方法は、不安ではなく、明るいこと、笑うこと、面白いことに
焦点(しょうてん)を当てること。


そして、もう一つは、

「人はやっぱり、生身の人と1日1回は話をしなければだめ」(高橋幸枝)

仲間がいることを実感すること。


「生きる喜びが湧いてくる」

楽しいこと、明るいことに焦点を当てる生き方をしたい。

         <感謝合掌 平成29年1月27日 頓首再拝>
29:伝統 :

2017/02/04 (Sat) 04:52:33


           *「光明法語」(2月4日)より

神は萬物を悦びによって創造したのである。
悦びこそが神の本性である。
悦びが創造の力である。

歓喜しておれば自然に身體が動き出すように、
神は悦びの感情によって自然にその生命が動いて萬物の創造となったのである。

悦びの表現は愛である。
心が悦びに満たされているときは萬物を愛したくなるのである。

愛は悦びの変形である。
創造されたるものと創造したものとの自他一體の感情が愛である。

かくて悦びは愛を生じ、愛は萬物を創造し、
又愛することによって萬物を進化せしめる。

愛が形をかえて色々の文化を生ずる。

         <感謝合掌 平成29年2月4日 頓首再拝>
30:伝統 :

2017/02/15 (Wed) 04:25:41


           *「光明法語」(2月15日)より

希望こそは人生の悦びの源泉である。

希望のあるものは老いないのである。
何故なら、希望は創造的感情であるからである。

希望は未来を創造する。
真に未来を創造するものは希望である。

希望のないものには百万円の富籤が当たっても、たいして有難くない。
死にぎわに百万円貰っても有難くないのは希望がないからである。

ガソリンがないのに自動車を貰っても別に有難くない。
フィルムがないのに写真機を貰っても別に有難くない。

希望がないからである。

尤もそれを売って何か他のものを買おうと思う希望があるなら有難い。

         <感謝合掌 平成29年2月15日 頓首再拝>
31:伝統 :

2017/02/28 (Tue) 03:33:39


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月28日)」より

よろこび、よろこぶところに喜びが集ってくる。
昨日もよろこび、今日もよろこび、明日もよろこぶ。
よろこぶ心で世界を見ればみんながよろこんでいる。

お空がよろこび、空気がよろこび、光線がよろこび、新緑がよろこび、
子鳥がよろこび、鳩がよろこび、人間がよろこんでいる。
心がよろこべば、太陽が万物に照ったように万物が輝いてみえる。

心が暗くなれば、太陽が陰ったように万物が暗く見える。
わたしの仕事はただ喜ぶことだけである。

           <感謝合掌 平成29年2月28日 頓首再拝>
32:伝統 :

2017/03/17 (Fri) 04:19:57


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月17日)」より

皆さまにお気に召すようにお化粧してまいりましょう。

この心がけに家庭平和の秘訣もあれば、商売繁盛の秘訣もある。

皆様を喜ばす心がけが中心となる。技巧に走れば虚飾になる。

            <感謝合掌 平成29年3月17日 頓首再拝>
33:伝統 :

2017/03/28 (Tue) 04:56:29


          *『生長の家』(昭和24年11月5日の法語)より

   吾は 愛と信仰と勇気と 神より頂いた無限の生命力とによって
   自分自身の幸福を創造するのである。

   吾が中(うち)に宿る完全なる 「 神の生命 」 の実相を表現する時、
   わが生命は 平和にみたされ、調和にみたされ、喜にみたされ、
   生き甲斐を感ずるのである。

   生き甲斐とは、神が神であるその実相を現わした時が
   喜の感じであるのである。
   吾は 神を表現することに喜を感じ 生き甲斐を感ずるのである。

   神は 愛であり智慧であるから、
   吾は 愛を実現し 智慧を実現することに生き甲斐を感ずるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成29年3月28日 頓首再拝>
34:伝統 :

2017/04/03 (Mon) 04:14:48


          *「光明法語」(4月3日)より

われに流れ入る神の生命は、
いと清く、いと美しく、いと妙に、いとすこやかに、
歓びに満たされたるものである。

神の生命の歓喜が自分のうちに流れ入るのである。

われは神の生命の歓喜そのものである。
わが血液の流れは神の生命の歓喜そのものである。
わが心臓の鼓動は生命の歓喜そのものである。
わが肺臓の呼吸は生命の歓喜そのものである。

生命の歓喜はわれを満たし、
われをしてすべての事物を愉快に勇ましく遂行せしめ給うのである。
わが行為は神の生命の歓喜そのものである。

            <感謝合掌 平成29年4月3日 頓首再拝>
35:伝統 :

2017/04/22 (Sat) 04:21:20


        *『幸福を招く365章』第3項(P63~64) より

受ける者よりも、与える者の方が幸福である。
与えると云うことには幸福感を伴う。

神の愛は「与えてやまぬ愛」であるから、
与える心の中には神の愛が目覚めて来るのである。

しかし受ける者があるので与える悦びが完了するのである。
だから受ける者を軽蔑してはならぬ。
受ける者を軽蔑したとき、与える悦びは減ってしまうのである。

受ける者を愛し祝福する気持になったとき、与えた悦びは増大するのである。

与える喜びも大切であるが、
何事にても受けるときに真にそれを神の恵みとして感謝するならば、
受けることも大なる悦びに変化して来るのである。

自分が与える悦びばかり固執していて、他に与えさす機会を与えないのは
他の人の魂の進歩を妨げることがある。

            <感謝合掌 平成29年4月22日 頓首再拝>
36:伝統 :

2017/05/07 (Sun) 04:03:00


         *『白鳩』(昭和42年12月4日の法語)より

   明治の文豪・国木田独歩が『牛肉と馬鈴薯』という小説の主人公に
   「私は吃驚したいんです」と言わせているが、

   これは大自然の生命又は人間の生命の神秘に触れて、
   驚異の悦びを感じたいという意味だと受けとれるのである。

   つまり、事物の外見ではなく、その奥にある生命の実相に
   触れて驚異したいという意味にほかならない。

   本当に悟りの心の眼がひらかれた人だったら、
   神の生命が一切の物の奥に充ち満ちており、
   それが実際に輝いており、それが吾々に話しかけており、

   その光が吾々を祝福しており、その光に導かれておるこが判って、
   魂の底から悦びが感じられて来るのである。

   生きていてよかった。この世に生まれてよかったという悦びが
   自分自身の顔貌にもあらわれて、その人に接する人々が、
   やはり実相の光に触れる悦びを感ずるようになる筈である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

            <感謝合掌 平成29年5月7日 頓首再拝>
37:伝統 :

2017/05/21 (Sun) 04:49:18


オレたちは愛と感謝でできている!

        *「運がいいとき、「なに」が起こっているのか? Good Luck! 」
          石田久二・著(P250~255)  より

大切な真実をお伝えしたい。

つい先日、とあるワークで「生れてから、覚えている限りの最初の記憶」を
取り戻す機会があった。そのときにふと出てきたのが、「お尻」だった。

たぶん1歳2歳で、お母さんからお尻に白い粉をパンパンしてもらっているシーン。
最近はあまり使われなくなったそうだが、オレが赤ちゃんのころは汗疹予防で
よくパンパンしてもらった。あの、赤ちゃんの香りがする白い粉だ。

あそのシーンが蘇ってきたとき、ある事実をさとった。
もし、あのとき、お母さんからパンパンしてもらってなかったら、
オレのお尻はかぶれている!

そのかぶれが広がり、かゆくなってかきむしり、そこからばい菌が入って化膿し、
オレの身体がボロボロになっていたかもしれない。

パンパンするのはひとつのシンボル。

《お母さん、お父さん、そして多くの人がいたからこそ、
いま、こうやって健康に楽しく生きている自分がいる。》

それはオレだけじゃなく、世の中の人すべてがそうだ。

たしかに、世の中には両親から傷つけられながら
育ってきた不幸な人たちだっている。

けっして安易に「許しましょう」なんてことは言わない。
それでも、やっぱり両親がいて、誰かが育ててきてくれた、
世話してきてくれたからいまの自分がある。

人間の赤ちゃんは不完全に生まれるがゆえに、
必ず誰かの世話が必要なのだから。


それだけじゃない。パンパンの粉も、おむつも、服も、ミルクも、
食べ物も、誰かが作ってくれたから手にすることができた。

そしていまも、食べ物ひとつにしても、農家、畜産、加工、技術、流通、
企業、システム、などあらゆる「手」がかかって初めてここにあるわけだ。

《自分の力なんて・・・1兆分の1もない。》
だけども、《その1兆分の1以下の力があるからこそ、
この世の中が成り立っている》のも事実。

《そこにあるのは感謝、そして愛》

自分ひとりでは生きていけない。
あらゆるものを与えられて生きている。
そこには感謝しかない。

一方で、自分自身の存在そのものも誰かの役に立っている。
なにかを与えている。
まさに愛。


  この宇宙にはなにひとつ無駄なものはない。完璧だ。
  そして存在する以上、すべてに価値がある。
  理由などない。条件などない。
  そもそも価値があり重要で愛される存在。
  それが存在の、宇宙の真実。


  すべてを受け入れること。それが感謝。
  そしてただ与えること。それが愛。

愛と感謝。

これこそが「宇宙」の本質であり、その真実に気がついたとき、
無限の「喜び」に包まれていることを感じるだろう。

《「運がいい人」とは「喜び」に包まれている人、愛と感謝に生きている人》

お母さんから白い粉をパンパンしてもらっている記憶が蘇ったとき、
オレはまさに生かされているんだ。
そしてこの宇宙の一員なんだと知った。

その真実と同化した瞬間、もう涙が止まらなかった。


  この宇宙は愛と感謝で成り立っている。
  そして、《存在そのものがすでに喜び》なんだ。
  だから、恐怖の奴隷になどなる必要もない。
 
  すでに祝福され、愛され、重要な存在であるオレたちは、
  他人に認めてもらうよう がんばる必要などない。

  《ただ、「ある」だけで価値がある》

  なにをやって、そこには「喜び」しかない。
  だから大丈夫。どんな「夢」を描いてもいい。

  ちっぽけでもいい。バカバカしくてもいい。
  ザワツキが起こったら迷わないでやってみよう。

  大丈夫、ひとりじゃないから。
  いつも宇宙はあなたのことを見ている。
  そして愛している。

  喜びが広がり、夢は膨らむ!
  人生ってなんて楽しいんだろう!
  最高なんだろう!

  ありがとう!  


            <感謝合掌 平成29年5月21日 頓首再拝>
38:伝統 :

2017/06/05 (Mon) 04:20:58


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月5日)」より

生かされている悦びを語ることは、言葉の力によって悦びを増幅することになる。

天地の万物みんな生かされている悦びを語っているではないか。
燃えるような若葉、空の色の碧、咲き出でた小草
 ―― みんな生かされている悦びを表現しているのだ。

人間だけ黙って憂鬱に黙り込んでいるべきではない。
自分の受けたおかげを人に対して話さしていただくということは、
悦びを表現することであると同時に、

言葉の力にて悦びを殖やすことであり、語る相手を救うことであり、
自分自身の心境の程度をはっきりさせることであり、話している事柄の中に
自分自身も教えられることがあり、自分の向上にも役立つのである。

黙ってこれまで得たおかげを握りつぶしている人の中には退転する人が多い。
自分自身をハッキリ反省する上から心の日記をつけることは
自分を退転せしめない一つの良法である。

            <感謝合掌 平成29年6月5日 頓首再拝>
39:伝統 :

2017/06/09 (Fri) 03:36:26


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月9日)」より

人間は必要なものを創造(つく)り出すことが喜びである。

体温と同温度の部屋に生活させられたらわれわれはかえって苦しくなる。
少しく体温よりも低温度の部屋にいて、
自分で必要な体温をつくり出しているときには爽快を感ずる。

自分の持物が少ないといって嘆くことはない。

釈迦はあたかも要るだけの体温がすでに室内温度として与えられているのと同じように、
あらゆる必要と同じ物質(もの)をことごとく与えられた王宮にいたので、
その王宮が苦しくなって飛び出したのである。

ちょうどよいということは幾分乏しくて、
自分の力で創造しうる部分が残っているということである。

生み出すことが楽しいのである。
生みだされたる結果を享受することだけでは人間は満足できないのである。

生み出されたる子はやがて親になろうとする。
これは「生み出されたる者」がやがてその「生み出されたもの」であることのみに
満足することなく「生み出す者」たらんとする衝動である。

人間が神の子であるのは事実である
 ―― この事実に満足しないで、人間は「なぜ?」と考える。

彼は「神の子として生みだされている事実」に満足しないで、
自分の方法で、自分の理論で「神の子」を生み出そうとするのである。

「生み出されている」ことだけでは人間は満足できない。

生み出す者たらんとするのが人間である。

            <感謝合掌 平成29年6月9日 頓首再拝>
40:伝統 :

2017/06/11 (Sun) 03:46:49


神は常に吾がうちにありて働き給う

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月11日)より

今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。

神の力が今其処に君の内に一切を新たならしめるべく、
あらゆる君の求めに応ずべく、働いていたまうのである。

今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。現象は唯の随伴物に過ぎない。

何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。

        <感謝合掌 平成29年6月11日 頓首再拝>
41:伝統 :

2017/06/29 (Thu) 04:39:05


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年06月19日)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   「斎藤さんのところの仕事して、辞める人とかいないんですか」って聞く人がいます。

   勤め人でも、どっかに勤めたら一生クビにならない会社ってありますかねって
   言ったって、そんなものはあるわけないの。

   それは、うちの仕事をやりに来たって、向かない人もいるんだよ。

   向うから辞めていくのもいれば、
   「あんた向かないから辞めな」って、こっちから言うのもいるんだよ。

   それは、サラリーマンの社会でもなんでも同じなの。

   「プロとして一生懸命やらなくていい仕事、ありますかね」って聞いたって、
   そういうのは世界は広いんだから、
   「海の水もどこかで甘いところもあるでしょう?」って言ったって、ないよ。

   海の水は、どこでもしょっぱいんだよ。
   それは決まってるの、しょっぱいに。

   だけど、「海の水でもね、天然の塩には甘味がありますね」ぐらいの
   凝(こ)ったことを言ってほしいんだよ、俺としては。

   それが、「仕事も打ち込めば、おもしろさが出ますね」ぐらいのと同じなんだよ。

   仕事が辛くってって言うけれど、幸いに決まってるんだよ。

   辛くてやりたくねえから、こっちも金払っているんだよ。

   楽しくてしょうがないんだったら、金もらいたいよ。

   金もらうっていうのは、辛くて大変に決まってるの。

   そんなのは当たり前なの。


   そこに喜びを見出すの。

   「仕事楽しいよ」って俺が言うと、
   本当に遊んでいて楽しいんだと思っているんだよ。

   バカなこと言ってんじゃないよ。

   金もらうっていうのは、大変なんだよ。

          <『斎藤一人 人生が全部うまくいく話』知的生き方文庫>

              ・・・

よく、「毎日、面白くて楽しい」とか言うと、
「お気楽でいいね」とか「ノーテンキな人はいいね」などと言われることがある。

しかし、ちょっと考えればわかるが、
面白くて楽しいことばかりが、連続して毎日起きる人などこの世にいない。

一日の中にだって、嫌なことや、悲しいこと、つらいこともあるに決まっている。

しかし、どんな状況になっても、「そこに喜びを見いだす」ことが大事なのだ。



人生は、面白いこと、楽しいことを見つけるゲーム。

そして、面白がって楽しく生きる人が勝つことになっているゲーム。


「そこに喜びを見いだす」

毎日を、面白おかしく生きてみたい。

           <感謝合掌 平成29年6月29日 頓首再拝>
42:伝統 :

2017/07/17 (Mon) 03:54:32


          *『白鳩』(昭和42年12月5日の法語)より

   祈っても念じても病気が消えない人は、心が暗く沈んでいて、
   神の祝福の前に、魂を閉ざしているからである。

   魂を閉ざすつもりではないのだけれども、
   その人の精神全体の波長が暗いために、
   魂を閉ざしているのと同じ結果になっているである。


   黒住教祖の宗忠は
   「何程信心いたし候とも、心沈鬱候ては何の甲斐も御座なく候」
   というような手紙を書いている。

   人生を悦ばなければならないのである。
   人生を悦ばない人は、人生を否定しているのである。
   人生を否定していながら人生に幸福が出て来る筈はないのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

           <感謝合掌 平成29年7月17日 頓首再拝>

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