伝統板・第二 195555

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神の導き

1:伝統 :

2016/06/04 (Sat) 03:17:50

天の声を聴く日

           *「光明道中記」(6月4日)より

【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
                     (『生命の實相』第十一巻)】


心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。

天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、不調和は調和となり、
苦しみは楽しみに変わり、煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。

さればこそ試練は本来存在しなかったのである。
みずから好んで天の声を聴かず、実在の調和ある相(すがた)から離れるようにしている
状態が試練であるに過ぎない。

まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。

何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。

自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。
そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ大事業を打ち建つべきである。

「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。

若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。

            <感謝合掌 平成28年6月4日 頓首再拝>
2:伝統 :

2016/06/14 (Tue) 04:45:23


            *『 生長の家 』(昭和26年1月25日の法語)より

   内部から閃(ひらめ)く神霊の導きは 一種の直感として出て来るのであって、
   現象的にみれば一見不合理とも危険とも見えるような事をやりながら、
   それが却って現象の好転となってあらわれて来るのである。

   内に宿る神の導きは、つねに 「 神は智慧にして、我は神の子なれば、
   我はすべてを知り、すべてのもの我を知れり 」 と云う

   「 実相を観ずる歌 」 の意味を常に念じて、
   自己内在の神を目覚めしめて置くことが必要なのである。

   常に神想観を行ずる人には 霊覚とみにひらけて、
   時には 神の声をきくこともあれば、
   時には 自然の導きが人を通じて来る事もあるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

            <感謝合掌 平成28年6月14日 頓首再拝>
3:伝統 :

2016/06/25 (Sat) 04:52:35


          *『 生長の家 』(昭和25年3月14日の法語)より


   神の智慧に頼るものは、
   自分の動きが たとい他から妨げられることがあっても、
   それに対して不平をおこす事はないのである。

   汽車にのり遅れても、あの汽車にのれなかったので
   何か不測の災に出くわす事を避けることができたのだと
   感謝するのである。

   自分にとって適当でないものが自(おのず)から妨げられて行く所に
   本当の神の導きがあるのである。

   自分のする事 何でも彼(か)でもやりとげねば
   神の子らしくないと思うのは
   「 我 」 の考えにすぎない。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=67

            <感謝合掌 平成28年6月25日 頓首再拝>
4:伝統 :

2016/07/10 (Sun) 03:52:50


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月10日>(P15)より

われを導くものは神である。(これは私自身だけのことを言っているのではない)
すべての人間は「われを導くものは神である」と自覚しなければならない。

神の国に到る「道」は、自分のうちにある。
われは「道」なり ―― とイエス・キリストは言っている。

「われは真理なり、道なり、生命(いのち)なり、われによらずして神の国に到りし者なし」
とは肉体イエスのことではない。
万人の”うち”に宿る真理なるキリスト(Chrisut Ideal)のことである。

静かに瞑目してわが内に無限の叡智が宿っていることを黙然せよ。
そこから、その日その日なすべき「道」が示される。
彼は「智慧」であり、「道」であり、われらの内に宿ってい給うのである。

         <感謝合掌 平成28年7月10日 頓首再拝>
5:伝統 :

2016/07/13 (Wed) 04:09:56


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月13日>(P19)より

神はすべてのすべてだとわかったら、罪を犯してまで何を求めることがあろう。
「罪」というほどでないにしても、「無理」なことをしてまで何を求める必要があろう。

すべての必需物(なくてならぬもの)は神すべてを与えていたまうのである。
ただそれを見出せばよいのである。

「ただ見出せばよい」といっても、手を拱(つか)ねてじっとしておれという意味ではない。
法爾(ほうに)として、法爾(ほうさながら)に自然(じねん)に動き出してくる
ごとく素直に動けばよいのである。

「無理な動き」を厭うのであって、「法爾(ほうさながら)に動く」ことを尊ぶのである。
仏の掌中にあって、仏のみこころのままに動くのである。

         <感謝合掌 平成28年7月13日 頓首再拝>
6:伝統 :

2016/07/28 (Thu) 04:27:31


         *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P305~306)より

   「生長の家」の誌友の中には、最初の計画を愈々(いよいよ)
   その日になって已むを得ず変更しなければならぬようになり、

   その変更がなかったら非常な災難に遭う筈だったが
   救われたと云うような実例が度々あります。

   木星号の飛行機が三原山に激突墜落した時にも、
   その飛行機に乗る筈であったのに乗らないで助かった
   山上新太郎氏のような実例であります。

   ノモハンの日ソが衝突してその日本部隊が全滅したとき、
   生長の家の一人の誌友は恰度その時、肋膜炎に罹ってノモハン進駐の
   予定の行動を止む得ず変更して入院していました。

   生長の家の信者なのに病気に罹るなんて妙だし、
   恥ずかしい事だと考えていたところが、やがて彼は病院にて、
   自分の部隊が全滅したことを知ったのです。

   若し入院していなかったら、戦線に出ていて
   全滅の仲間入りをするところだったのです。

   これなどは「内に宿り給う神」の聖なる導きによって、
   故意に運命が修正せられ、
   病気になって病院に逃避せしめられたのであったのです。

         <感謝合掌 平成28年7月28日 頓首再拝>
7:伝統 :

2016/08/11 (Thu) 04:28:54


           *『 生長の家 』(昭和46年3月26日の法語)より

   “ 神 ”は“ 霊 ”であるから、物質界の現象を認識するための道具としての
   “ 脳髄智 ”を持ってしては完全に知ることはできない。

   “ 脳髄智 ”は 懐中電灯の中にとじ込められた電池のハタラキによって生じた
   光のようなものであって、全体の存在を明るく照らすことはできないのである。

   それは脳髄組織の中にある生理作用によって生じた“ 光 ”であるから、
   その視野は狭くして縦横厚みの三次元空間の存在だけを照らすに過ぎないのである。

   従って“ 霊 ”なる神を知ることは出来ないし、
   霊なる人間の実相を知ることはできないのである。

   私たちが神を直観し、自己の実相が“ 神の子 ”であり、
   霊的実在を直観することが出来るのは、
   縦横厚みの三次元認識の牆壁(しょうへき)が砕け去った瞬間に於てである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12717736.html

         <感謝合掌 平成28年8月11日 頓首再拝>
8:伝統 :

2016/08/21 (Sun) 04:07:18


         *『 生長の家 』(昭和26年5月16日の法語)より

   一日の仕事を始むる前に、
   神に導きを求めてその仕事を行うようにすることは、
   よき仕事を行う上に是非とも必要なことであるのである。

   「 神の智慧 流れ入りて わが仕事を運ぶ道を導き給う 」 と
   時々瞑目して心に念じ、神の智慧に常に接触しながら
   仕事を運ぶようにすると失敗はないのである。

   神の智慧に接触するには、決して複雑、多言の祈りの言葉を
   要するものではないのである。

   神の智慧に振り向いて、
   「神よ」又は「父よ」と称えて心が平和に本当に落着いて、
   神の心と波長が合えばよいのである。

   又、時々「日々読誦三十章経」をひらいて、
   その思念の言葉を念ずるも好い。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

         <感謝合掌 平成28年8月21日 頓首再拝>
9:伝統 :

2016/09/02 (Fri) 03:15:43


           *『 生長の家 』(昭和26年1月26日の法語)より

   「 心を平和にして唯(ただ)坐ること 」
   それだけでも内部の神を呼出すのに有効なのである。

   道元禅師は、「 祇管打坐(しかんだざ) 」
   すなわち 祇管 ひたすら 打ち坐ることによって
   実相を徹見することを教えられたのである。

   更に静かに坐って
   「 わが内に神ましまして、全てについて我を導き給う 」
    と念ずるならば、

   我が力味も、取越苦労も 悉(ことごと)く消えてしまって
   本当の心の平和を 得ることが出来るのである。

   本当の心の平和に到達すれば
   其処(そこ)には 人間の本性(神なる実相)があるのであるから、

   自然に叡智(えいち)の閃きが湧(わ)き出で、
   する事 為(な)す事 都合がよくなり、
   無限の供給 おのずから整うのである。

   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

         <感謝合掌 平成28年9月2日 頓首再拝>
10:伝統 :

2016/09/12 (Mon) 04:21:11


        *『 生長の家 』(昭和26年5月18日の法語)より

   心に催して来ることが神の導きか、
   我の導きかどちらかであるかと云うことを
   決定する標準と云うものがあろうかと問われることがある。

   何でも自分の心に催して来ることが神の導きだと
   思えば大変な間違いを演ずるかも知れない。

   神の導きは、神の利己主義ではないから、
   自他一体の幸福になるような願いは神の導きなのである。

   自分の願いは
   利己主義でないか、
   愛にかなうか、
   他に迷惑を及ぼさないか、

   自己欺瞞(ぎまん)ではないか、
   向上の道にかなうか、
   反動的感情にかられていないか、

   冷静な判断に因(もとづ)くものか ― 

   若(も)しこれらの反省によって正しいと考えられるものは
   神の導きと考えて好(よ)い。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

         <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>
11:伝統 :

2016/09/13 (Tue) 04:52:48


          *「光明法語」(9月13日)より

吾らの生活が大生命の創造に歩調を合わすことをするならば、
大生命は吾々を導いてくれるに相違ないのである。

大生命はみずから大自然を創造すると共に、大生命の自主的支点とも称すべき
吾々「人間」をつくって、「人間」かれ自身に自主独立に創造することをまかせている。

大生命は「人間」に強制することはないが、
大生命は「人間」に対して、恰も総本店のようなものであるから、
「人間」が新しき創造に際して指導をもとめるならば、指導も惜しむものではない。

           <感謝合掌 平成28年9月13日 頓首再拝>
12:伝統 :

2016/09/14 (Wed) 04:21:15


        *「光明法語」(9月14日)より

大生命は小生命に対して指導を惜しむものではないが、
また小生命がエネルギー補給を求めるならば、
恰も本店が支店に対して資金を供給するが如く、
吾々に必要な生命力を補給してくれるのである。

大生命が森羅万象の創造主であることが解るならば
大生命は驚くべき精密な設計家であることが判るであろう。

吾々人間の肉体的頭脳が到底設計する事の出来ない精密な構造を
一枚の木の葉にさえも彼は与えているのである。

況(いわ)んや一枚の木の葉にまさる人間を
如何に複雑精妙に構造していられるかは考えてみればわかるだろう。

           <感謝合掌 平成28年9月14日 頓首再拝>
13:伝統 :

2016/09/24 (Sat) 04:22:03


         *『 生長の家 』(昭和25年5月31日の法語)より

   忙しい時程
   心が落ち着かなければならない。

   自分がその仕事をするのだと思ってはならない。

   「 わが内に宿る神がこれをなさしめ給う 」 と
   心の中に数回唱える様にしてから
   仕事をするがよいのである。

   わが仕事は吾(わ)が仕事ではないのであって
   神がなさしめ給うのであると知る時
   それが たとい思う様に行かなくとも

   神が今日これを完了せしめ給わないことが
   神の み心であると悟ることによって、
   仕事が完成しないでも落ちつく事ができるのである。

   汽車にのりおくれたために
   危害から救われた人もある。

   品物を売りそこねたために、
   あとから儲(もう)かる人もある。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 平成28年9月24日 頓首再拝>
14:伝統 :

2016/10/09 (Sun) 03:31:38


        *『幸福を招く365章』第9項(P190~191) より

心に催して来るところの何(ど)の考えが神の導きであるのだろうか。

唯一つしか催して来ないならば問題ではないが、ああもしたい、こうもしたい、
どちらが神の導きだろうかと迷う場合に、自分の我の迷いと、神の導きとを
区別する示標は何処にあるのだろうかと尋ねられることが往々ある。

それを見分ける示標となるのは斯うである ――

神は全ての全てであるから、全ての幸福のためにとて発案されるものは神の導きであり、
自分だけの利益のために発案されるものは、 我の導きである。
愛の導きは神の導きであり、我欲の導きは迷いの導きである。

自分が計画しても故障が起こって面白く行かないものは
神がそれを引止めるものと知れ。

           <感謝合掌 平成28年10月9日 頓首再拝>
15:伝統 :

2016/10/21 (Fri) 04:44:48


          *『生長の家』(昭和25年7月18日の法語)より

   常に高尚なる理想のみを描け。

   心にかえりみて
   これは卑しいと思うものに
   心をふりむけてはならない。

   汝の魂が何が尊いかということを
   よく知っているのである。

   汝の内なる魂のささやきを
   無視してはならない。

   神は 汝の魂の内にあるのである。
   良心は 汝の魂の内なる神のささやきである。

   高き理想は 汝の内にやどる神のみこころである。

   良心をくらますものは
   汝の魂をくらますものである。

   常に高き理想を描きて邁進(まいしん)するものは、
   常に神につかえている者である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

           <感謝合掌 平成28年10月21日 頓首再拝>
16:伝統 :

2016/11/03 (Thu) 03:44:03


        *『 生長の家 』(昭和33年9月11日の法語)より

   肉体は個々別々の存在であり、自他分離の存在であるが、
   魂から言えば、『個人の霊』は神なる『普遍霊』の一部分が
   人間に宿っているのである。

   だから自己の『内に宿る魂』の叫びに耳傾けると云うことは、
   同時に『普遍霊』の導きに対して耳傾けると云うことになるのである。
   そこから無限の智慧の導きが湧き出て来るのである。

   この『内部の霊』の呼び掛けが私たちの道徳生活に対して
   あらわれて来る場合には、これを『良心の叫び』と言い、
   日常生活での導きや、発明発見等の場合の導きとしてあらわれて来る
   場合には、これを直感とか直覚とか呼ぶのである。

   それは普遍霊の導きが、普遍霊の分霊なる『魂の自我』を通して
   あらわれて来るのである。

   私たちがこの『魂の自我』の導きに心の耳を傾け、
   その導きの通りに実践するならば、現実生活が健康と愛と繁栄とを
   実現せる『實相そのまま』の天国となるのである。

           <感謝合掌 平成28年11月3日 頓首再拝>
17:伝統 :

2016/11/17 (Thu) 03:52:02


          *『 生長の家 』(昭和33年9月14日の法語)より

   『今日一日の仕事を神の智慧によって導きたまへ』 

   毎朝ささげられるこの祈りは、其の日の最初から
   自分のなすべき仕事を神にあずけて、
   自己解放を遂げるために適当な祈りである。

   そしてその祈りにつづいて 

   『神はわが内に宿り給うて、
   今日わが為すべき事を教えたまふのである』 

   とその祈り成就の黙念をするのである。

   そして仕事に出かけて、夜眠るとき又は、夜の神想観の時に、 

   『今日一日の仕事を神様の智慧によって導きたまうて
   有りがとうございます。今夜の眠りをやすらかに護りたまいて、
   明日また神の仕事をさせて頂く力を内に快復せしめ給え』 

   と祈ってから眠るのである。

   この祈りを続けるとき、自分で力むことがなくなり、
   神からの智慧と力とが流れ入る心のパイプが解放される結果、
   事業も順潮に行くようになるのである。

           <感謝合掌 平成28年11月17日 頓首再拝>
18:伝統 :

2016/11/25 (Fri) 04:49:41


          *「光明道中記」(11月25日)より抜粋

私は一歩一歩毎日歩くことだけは努めて行きたい。
私には他の人のように駆歩(かけあし)する力はない。
常に駆歩している者はついに倒れてしまうであろう。

痩我慢(やせがまん)か知らないが、ただ撓みなく日々に歩いて行く者だけが最後の勝利を得る
のだと思う。然(しか)し自分の力のみで歩いてはならない。
常に神を呼びつつ進まなければならない。

大股に歩いては長時間歩くことは出来ないのである。
犬を伴れて歩いて見るとその事がよく判る。
犬の方が人間より歩くのに疲れないし、速力なども早いのである。

人間の眼は光がなかったら見ることが出来ない。
自分の智慧で見、自分の智慧で計(はか)らって見たとて、事はなかなか成就するものではない。
神智に照らされたときのみ何事もすらすらと進行するのである。

功に誇る者が神智を失うのは、山上の水は使い切ったら補給の道がないようなものである。
功に誇ってはならない。
われみずからにて何事をも成し得ずであるからである。

若し神がいなかったら、また若し神が私を導いて下さらなかったら今日の私はないであろう。
今日の私があるのは、「私」があるのではなくて「神」がある《のみ》である。

神に感謝しないでいることは実相を晦(くらま)すものである。

          <感謝合掌 平成28年11月25日 頓首再拝>
19:伝統 :

2016/12/11 (Sun) 03:37:21


        *『幸福を招く365章』第11項(P231) より

一日の仕事を始める前に、
神の導きを求めてその仕事を行うようにすることは、
よき仕事を行なう上に是非とも必要なことであるのである。

「神の智慧流れ入りてわが仕事を運ぶ道を導き給う」

と時々瞑目して心に念じ、
神の智慧に常に接触しながら仕事を運ぶようにすると失敗はないのである。

神の智慧に接触するには、
決して複雑、多言の祈りの言葉を要するものではないのである。

神の智慧に振り向いて、

「神よ」又は「父よ」と称(とな)えて心が平和に本当に落ち着いて、
神の心と波長が合えばよいのである。

又、時々『日々読誦三十章経』をひらいて、その思念の言葉を念ずるも好い。



(初出~「生長の家(昭和26年5月16日)」)

           <感謝合掌 平成28年12月11日 頓首再拝>
20:伝統 :

2016/12/27 (Tue) 04:03:33


        *『幸福を招く365章』第11項(P232) より

心に催して来ることが神の導きか、我(が)の導きか、
どちらであるかと云うことを決定する標準と云うものがあろうかと
問われることがある。

何でも自分の心に催して来ることが神の導きだと思えば
大変な間違いを演ずるかも知れない。

神の導きは、神は利己主義ではないから、
自他一体の幸福になるような願いは神の導きなのである。

自分の願いは、利己主義でないか、愛にかなうか、他(た)に迷惑を及ぼさないか、
自己欺瞞ではないか、向上の道にかなうか、反動的感情にかられていないか、
冷静な判断に基づくものか ―― 

若しこれらの反省によって正しいと考えられるものは神の導きと考えて好い。


(初出~「生長の家(昭和26年5月18日)」)

           <感謝合掌 平成28年12月27日 頓首再拝>
21:伝統 :

2017/01/13 (Fri) 03:42:37


         *「光明法語」(1月11日)より

朝目覚めたとき、不快の思いを起こすな。
今日その日が、いままでありし日のどの日よりも祝福されたる日であると信ぜよ。

而(しか)して「今日はあらゆる日のうちで一番幸福な日である」と
言葉に出して20回ずつ唱えよ。
然らば、毎日毎日が、その日までの凡(あら)ゆる日よりも
幸福な日となることが出来るであろう。

また汝ら仕事にかかるとき又は出勤するとき、
「神様、この日一日を神様の完全な御智慧(みちえ)にて導き給いて
過ちなからしめ給え」と祈れ。

しかして神が必ず導き給うと信ぜよ。然らばその日一日じゅう過ちはないであろう。

           <感謝合掌 平成29年1月13日 頓首再拝>
22:伝統 :

2017/01/14 (Sat) 04:33:46


          *「光明法語」(1月14日)より

今日吾が内に神の霊みちたまう。
吾が肉体のも吾が周囲に起る事件にも神の霊みちたまう。
それを今更の如く感ずるのである。

わが肉体を生かしたまうものは神の霊であり、
わが周囲を動かしたまう者も神の霊である。

わが肉体は今新たな新鮮なる活力を得つつあるのであり、
わが周囲に起る事件は神の智慧に導かれて
実に清らかに進行しつつあるのである。

われは周囲に何事が起って来ようとも思い煩うことはないのである。
何故なら、それは神の智慧に導かれていて
万事がよくなるほか致し方がないからである。

           <感謝合掌 平成29年1月14日 頓首再拝>
23:伝統 :

2017/01/20 (Fri) 03:21:10


         *「光明法語」(1月20日)より

吾が全ての願いは吾が中(うち)に宿り給う神が内よりもよおし給う願いである。

されば吾が願いは決して成就しない事はないのである。
吾と神と一体であるという事を自覚するが故に
如何なる願いも必ず成就しないということはないのである。

吾は吾が中に宿る神のもよおしに対していと素直にそれに従うのである。
神よりの導きは内からも外からも来るであろう。

吾に何事でも勧めてくれる人は神が遣(つか)わし給いし天の使(つかい)である。
吾は素直に外の導きにも内の導きにも従うのである。

吾はあらゆるものにすなおに喜びをもって従うのである。

         <感謝合掌 平成29年1月20日 頓首再拝>
24:伝統 :

2017/02/03 (Fri) 04:59:13


          *『 生長の家 』(昭和23年9月23日の法語)より

   神?(インスピレーション、啓示)と云うのは
   必ずしも外からのみ与えられるのではないのである。

   神は到る処にいられるのであるから、(これを遍在と云う)
   内から思いつくこともあれば、
   外から思いつくこともあるのである。

   外から思いつくと云うのは
   他の人から 「 斯うせよ 」 とお教えられたり導かれたり、
   自然の事情の動きでそうせねばならぬように
   仕向けられることである。


   神に計画をゆだねたならば 何が外から起って来ても、
   それが神の導きであると信じて完き従順もて起ってくることを
   感謝して其の儘受けるのが必要である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

         <感謝合掌 平成29年2月3日 頓首再拝>
25:伝統 :

2017/02/18 (Sat) 04:55:30


           *『 生長の家 』(昭和24年11月6日の法語)より

   吾は神の子である。
   神はその無限の智慧より、常にその善き考えを
   吾々に注ぎ給うのである。

   吾は神より吹き込まれたる善き考えに常にみたされているのであり、
   それを実践するごとに自分は成功し
   又人々に幸福を与えることができるのである。


   神の世界には智慧と愛と喜と無限の生命とがみちみちているが故に
   神をこの世に実現した時 それらの善きものが現実に現われずには
   いないのである。

   神より与えられたる賜物は 常に雨降る如く、豊に流れ入るのである。

   吾はそれを自覚するが故に幸福であるほかはないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

         <感謝合掌 平成29年2月18日 頓首再拝>
26:伝統 :

2017/02/22 (Wed) 04:31:57


           *「光明法語」(2月22日)より

どんな事でも神の導きと思えば感謝出来るのである。

人間知恵で突進している場合、それの方向転換が必要であっても、
人間知恵ではわからぬ。そんな時、思わぬ事件が起って、
その方向転換させて下さるのが神の導きである。

何よりも大切なのは常に神を信ずること。神に祈ること。

どんな紛糾した複雑な問題でも解決せられないと云うことはない。

人間の知恵に於いては全部の人を幸福にすることは迚(とて)も出来ない、
誰かを犠牲にしなければならぬ時でも、神は全部の人を幸福に出来るのである。

         <感謝合掌 平成29年2月22日 頓首再拝>
27:伝統 :

2017/03/11 (Sat) 04:51:37


         *「生活の智慧365章」(P45~46)より

人は神との一体感が深まって来るにつれて、「生命の本源」なる無限者との波長が
一層ぴったり合うようになって来、普通の肉体力や精神力では到底できないような
奇蹟的な力を発揮することができるようになるのである。

これに反して、あまりにも心が物質的なものに捉われ、個人主義的な心の持ち方となり、
「全体生命」又は「普遍生命」なる神との波長が普通以下になって来るとき、
普通の健全生活が出来なくなり色々の心配事や不調和な争いや病気や事業の失敗等が
あわれて来るようになるのである。

吾々は常に心を調えて、大生命の”声なき声”の導きを
心の耳で感じとることができるように修養しなければならないのである。

それは少なくても毎日1回(出来得べくんば早朝起床時と就床前との2回)
神想観を実修して心のチャンネルを神に振向け、神との交通の習慣を
つけて置くことが必要なのである。

そうすることによって衝突する汽車電車自動車などには
何となく自然に乗らなくなるのである。

         <感謝合掌 平成29年3月11日 頓首再拝>
28:伝統 :

2017/03/29 (Wed) 03:56:16


           *『希望を叶える365章』(P60)より

常に自分の行為又は仕事を、
「自分だけ」でやることなしに、神に相談し、
神の智慧の導きを受け、神が人類に幸福を与え給う
神業の一環としてそれを為すのがよいのである。

「自分だけ」でやった行為は、
どんなにそれが立派な仕事であっても「我(が)」の行為であり、
広大なる意義への連関はないのである。

そして、それは如何にすぐれたる智慧で行っても、
我(が)の智慧ではどこかに見落としがあり、
先が見えず、やがて躓く時が来るのである。

何事を行うにも、その仕事が、神の人類救済の仕事
(又は人間に何らかの幸福を与える仕事)として、
神御自身の祈りと連関して、
祈りの中に於いて計画し、遂行するならば、

神の智慧には誤算がないから行き詰まることがないのみならず、
自分の仕事が、単に個人的価値ではなく、
「神の仕事」としての意義と価値とを有つことになり、
其処に本当に生き甲斐というものが感じられることになるのである。

また“「神」と称(い)う「無限価値」との連関に於いて我れ仕事を為す”
と云う自覚があるとき、仕事に対する深い悦びが湧いて来て、
仕事の“退屈さ”ということがなくなり、
精神的にくたびれる程度が少なくなるのである。

         <感謝合掌 平成29年3月29日 頓首再拝>
29:伝統 :

2017/04/15 (Sat) 04:28:15


          *『幸福を招く365章』第3項(P62~63) より

何か不調が起って来ても、貴方は決して周章狼狽することはしないのである。
本来不調和と云うものは存在しないことを知っているからである。

不調和は自分の心の風が激しく吹いている時だけに現れている波のようなものである。
自分の心の風が荒れなくなって来たならば、
波がおのずから静まって来るように、事件も平静に帰って来ると云うことになるのである。

自分の心を自分の力で平静に出来ない時には、
その事件を神にまかせれば好いのである。

すべての調和と平和と光との源は神にあるのである。
自力で立騒ぐことをやめよ。

「神の智慧、流れ入りてこの問題を解決し給う」と念じて
神の導きの来るままに事を運ぶが好い。

         <感謝合掌 平成29年4月15日 頓首再拝>
30:伝統 :

2017/04/20 (Thu) 03:58:59


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月20日)」より

イタリヤの彫刻家チェリーニはある事件で
法王のためにサン・アンジェロ城に禁錮せられた。

彼は悲しんで自殺しようとした瞬間、
ある不思議な見えない力が突然彼の身体(からだ)を捉えて
一間ばかり投げとばしたので、チェリーニは気絶した。

その晩、夢に不思議な青年が現われて
チェリーニに自殺を思い止まるように説教したので、
チェリーニはついに自殺を思い止(とど)まったのだという。

神秘な力は存在するものなのである。

唯物論では、生命の世界はわからない。

            <感謝合掌 平成29年4月20日 頓首再拝>
31:伝統 :

2017/05/05 (Fri) 03:30:21


           *「光明法語」(5月5日)より

神のみこころに対立せる祈りは決して成就しないのである。
されば問題を常に、神のみこころの中に預けることが必要である。
神は吾々の脳髄知よりも常に一層よきものを知りたまうのである。

神の「みこころの展開」(即ち神の導き)には
一段一段と階段を昇って行くが如きものがあるのである。

最初の頃は階段は低くして、
到底自分の求むるものとは同じではないと思えるけれども、
それは次なる最後の階段に達するための踏段(ふみだん)となるのであるから、
急いで我を出して頭脳知でやると失敗(しくじ)る。

            <感謝合掌 平成29年5月5日 頓首再拝>
32:伝統 :

2017/05/18 (Thu) 03:34:36


          *『生長の家』(昭和24年11月29日の法語)より

   人間の頭で考えて、もう解決の道がないと思われる時にさえも
   神に於いては解決がないということはあり得ないのである。

   神は無限の智慧であり、無限の能力であるから、
   必ず、それを善きように解決して下さるに相異ないのである。

   暗(やみ)を貫いて光が照り輝く如く、
   神の智慧は常に吾が迷を透(とう)して照り輝き、
   正しき道に導き給うのである。

   だから、自分は恐れるということはないのである。

   人間の頭脳智で考えたならば、
   なぜこんな不幸が起って来たのであろうと
   疑われるようなことがあっても、

   神はその事件を通して、
   更に一そう良きものへ吾らを導き給うていられるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成29年5月18日 頓首再拝>
33:伝統 :

2017/05/31 (Wed) 04:55:32


         *「生活の智慧365章」(P70~71)より

あなたの内部理想の囁きは、実は貴方の内に宿り給う神の囁きにほかならないのである。
そして神が囁き給うことは、必ず神の力に導かれて成就することであるのである。

神想観して

「吾れ心を空しうして神の御心に随い奉らんとす。
希(こいねがわ)くは御心を示したまえ。
吾れ何を為すべきかを示したまえ」

と念じて、神の御声をきくべく、
心を静かにして聴従(ちょうしょう)する気持ちになっておれば、
何を為すべきかを”声なき声”によって覺ることができるのである。

人には各々、その人でなければならない仕事又は使命があるのである。
甲の使命は、乙にとっては使命でないかも知れない。
しかし自分の使命が何であるが充分ハッキリ判らない事があるかも知れない。

併し人の使命は、人によって異なるけれども、亦、時によっても異るのである。

例えば、その人が結局は富士山の頂上に登るのが使命であると仮定するならば、
富士山の頂上以外にいることは使命ではないかというと、決してそうではないのである。

その人が富士山麓の山道(さんどう)にいる事も或る時期には使命であり、
八合目の岩壁を攀(よ)じ登ることもその人の使命である。

最後の使命に到るまでは、時期によって、色々の異なる仕事に従事するのも
その人の使命であるのである。

だから眼前にある仕事を最も忠実に愛を以って遂行することが肝要である。

            <感謝合掌 平成29年5月31日 頓首再拝>
34:伝統 :

2017/06/04 (Sun) 04:27:52


           *「光明道中記」(6月4日)より

【念は「無」を材料として地上に様々の相を現す働きをなす。
                     (『生命の實相』第十一巻)】


心を澄まして天の声に耳傾けよ。
天の声は必ずあなたを導くであろう。

天の声の導きにゆだねるとき其処には嶮しきは平かとなり、不調和は調和となり、
苦しみは楽しみに変わり、煉獄の火は天国の芳葩(はなびら)に変ずるであろう。

さればこそ試練は本来存在しなかったのである。
みずから好んで天の声を聴かず、実在の調和ある相(すがた)から離れるようにしている
状態が試練であるに過ぎない。

まず眼下を浄めよ。何処(いずこ)に自分の心が立っているか。

何処(いずこ)に自分の心が立っているか。
利己心の上に立っているものは、利己心は「本来無い心」であるが故に、
崩れる基礎の上に立つものである。

自分の欲望の上に立つ者は愚かなるかな。
そう云う狭い立場の上に大きな建築物は建たないのである。
まず立場を大きくし、大きな基礎工事の上にこそ大事業を打ち建つべきである。

「私ならぬ立場」超個人的な立場、人類的な立場、全体的な立場、
国家的な立場に於て吾々は立たねばならぬ。

若し此の基礎工事を自分自身の生活に於て誤っているならば、
あなたは今日から出直さねばならぬ。

            <感謝合掌 平成29年6月4日 頓首再拝>
35:伝統 :

2017/06/20 (Tue) 04:41:13


         *「光明法語」(6月20日)より

最初は自分の罪におののくが、それに慣れてくると何ともなくなる。
次には罪の行為(おこない)が楽しくなり、
しまいにはそれが度(たび)かさねぬとおれぬようになる。

習慣と云うものは、恐ろしいものである。

先ず最初に罪に近づかぬことである。
罪とは実相の円満完全さをツツミ隠した思いであり行為(おこない)である。
それが実相そのものでないと云うことは、魂の最初の戦(おのの)きでわかるのである。

最初に、第一印象で、魂が非難するところのものは行なわぬがよいのである。

第一念で良いと思うことは善いことが多い。

        <感謝合掌 平成29年6月20日 頓首再拝>
36:伝統 :

2017/07/31 (Mon) 03:38:29


         *「生活の智慧365章」(P45~46)より

人は神との一体感が深まって来るにつれて、「生命の本源」なる無限者との波長が
一層ぴったり合うようになって来、普通の肉体力や精神力では到底できないような
奇蹟的な力を発揮することができるようになるのである。

これに反して、あまりにも心が物質的なものに捉われ、個人主義的な心の持ち方となり、
「全体生命」又は「普遍生命」なる神との波長が普通以下になって来るとき、
普通の健全生活が出来なくなり色々の心配事や不調和な争いや病気や事業の失敗等が
あわれて来るようになるのである。

吾々は常に心を調えて、大生命の”声なき声”の導きを
心の耳で感じとることができるように修養しなければならないのである。

それは少なくても毎日1回(出来得べくんば早朝起床時と就床前との2回)
神想観を実修して心のチャンネルを神に振向け、神との交通の習慣を
つけて置くことが必要なのである。

そうすることによって衝突する汽車電車自動車などには
何となく自然に乗らなくなるのである。

         <感謝合掌 平成29年7月31日 頓首再拝>
37:伝統 :

2017/08/14 (Mon) 04:22:06


        *「生活と人間の再建」第1章(P5~9)より

神は「静かなる小さき声」にて吾らに語り給うのである。
その静寂(せいじゃく)なる声は、たかぶる人の心の耳にはきかれないのである。

それを知ることなくして、ただ徒(いたず)らに「吾神の子なり」との命題を知ったからと
て直ちに自分の全身全霊が神の子の波長にあうわけではないのである。

それにも拘(かかわ)らず、「吾神の子なり」と知った以上は、
自分の考えることは悉(ことごと)く神より出でたる正しき思想である等(など)と考え、
深き先人の言葉にきくことを敢(あえ)てせず、

自(みずか)らの低き思想を以(もっ)てすでに足れりとする自己満足の如(ごと)きは、
これから発達途上にある青年達にとってもっとも恐るべき災いなのである。

キリストが「汝(なんじ)らひるがえりて幼児(おさなご)の如くならずば
天国に入(い)るを得じ」と云った如く、幼児(おさなご)のすなおさに復(かえ)って
先人の言葉を素直にとり入れてよく咀嚼(そしゃく)しよく吸収するもののみ
「天国にて大いなるもの」となることを得(う)るのである。

青年の心の固さは寧(むし)ろ美点ではなくして欠点であるのである。
固いものよりも柔かいものが強いのである。

幼児は柔かい精神をもつが故(ゆえ)に速(すみや)かに言語でも覚えるのである。
幼児は霊感にみたされており、その成長は、青年よりも尚一そう速かなのである。

幼児は自己をてらうことなく、自己弁解することなく、
自分の尊大を維持せんがために言葉巧みに詭弁(きべん)を弄(ろう)することもなく、
ただすなおに謙遜に一切のものを受け容れるのである。

彼は単純であり、純粋であり、柔和であり、そのままであり、謙(へりくだ)りであり、
虚飾や自己弁解や名誉慾(よく)などにしばられるということはないのである。

かくの如き幼児の心のみ平和であり、静寂であって、
神の「静かな小さき声」をきくことができるのである。

凡(およ)そ偉大なる人格とは、極(きわ)めて謙遜なる人格であるのである。
謙遜なるもののみが神の偉大なる導きを受けることができるのである。


凡そこの世の中の不幸と葛藤とは謙遜ならざる人々の、
即ちキリストの所謂る「柔和なる者」ならざる精神の摩擦より生ずるのである。

「《おれ》がこれをした」「吾これをなせり」かく信じて
しかしてその報酬に自分を主張せんとする。

かくて権利と権利の主張は互いに衝突し、摩擦して争いを生ずる因となるのである。
世界の平和を来たすにはかくの如き傲慢と尊大と自我拡張の心とを除かねばならないのである。

真に「柔和なる者」決して自ら高き地位や重大なる役目につこうとしないのである。
真に偉大なる人は、自分について又自分自身の働きについて吹聴したり、
恩に着せたりすることはないのである。

凡(あら)ゆる場面に於いて彼は自分よりも他人をば高き位地に推し出そうとする。
そして自らは低きについて、下からそれらの人を却って押し上げてやることに
喜びを感ずるのである。


諸君はスター・デーリーの生活を紹介した『愛は刑よりも強し』をおそらく読んだであろうが、
あの中に出てくるライファーの如き生活が本当の柔和なる生活であるのである。

彼は人を助けても《自分が手柄をした》とは思わないのである。
それは、《神の愛を現すため》にしたのであり、その行為によって《自分自身が救われるがため》
に「させて頂くのである」というような謙遜の心持を常に失わないのである。

彼は病人を治すにしても、自分が病人を治す力があるなどとは認めないのである。
相手が病人であるのは、自分の心の中に尚「病気」があるのであるから、
相手の「完全な姿」を完全にみる力がないから相手が病気に現れているのであると、
自ら謙りて相手の完全な姿を拝ませて頂くのである。

自分はこのライファーの生活態度に著しく心を打たれたのである。
自分はすべての人間がこのようになってくれることを望み、
このようになってくれることによってのみ世界の平和が確立すると思うのである。

自分は『愛は刑よりも強し』の本を校正しながら幾度も、同じ文章を繰り返し読んで、
自分も斯くなりたいと大息しつつ感じたのである。


真に偉大なる人はライファーの云うが如く謙遜であって
何ら自分の功績に対して特殊の権利を主張しようとはしないのである。
彼は謙遜であるが故に、自分が認められないことが何ら不平ではないのである。

彼はほめられようとは思わない。
彼は神に対して常に謙っているのであって、
《神の栄光を現すことが尚足りないことをひたすらに神の前におそれているのである》。

自分の功績を誰かが誉めてくれなくとも、
誰かがあやまって彼を却って悪しざまに批評しようとも、
それは彼にとって何ら彼の心を傷つけることにはならないのである。

彼は尚自己が神の栄光を完全に現し得ないことを恥じる、
そして、実相においては如何なる批評も如何なる誹謗も自己を傷つけるものではない
ということを知っているから動じないのである。

人のまちがった考えは自分の真の値打ちを何ら傷つけることはできないことを知って
却って心は常に平和であるのである。

かくの如き真に偉大なる柔和が現代の青年には欠けているのではないかと思う。
この柔和なる精神なくして世界の平和は到底招来することはできないのである。

         <感謝合掌 平成29年8月14日 頓首再拝>

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