伝統板・第二

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神の国を求めよ - 伝統

2016/06/04 (Sat) 03:16:06

《神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ》

    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月4日)より

今まで現象界へ振り向いていた心を神の方へ振り向けることが大切である。
「先ず神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ、其の余のものは汝らに加えらるべし」
とイエスは言った。

吾々は大抵、神の国を先ず求めないで、其の余のものの方へ心が向き勝ちであったのである。
神の国は現象世界が整うて来るための根である。

根を求めないで枝葉から先に求めていたから、根のない枝葉は枯れるほかはないので、
神の方へ振り向かない働きは、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
式に労して功なしであったのである。

        <感謝合掌 平成28年6月4日 頓首再拝>

《天国を地上にあらわすためにあなたの心を調律しましょう》 - 伝統

2016/06/14 (Tue) 04:50:54


           *『 生長の家 』(昭和40年3月23日の法語)より

   テレビの把子(つまみ)をひねって放送局の波長に合わすと、
   放送中の番組が具体的に肉眼に見えるようにあらわれて来るのである。

   それと同じく神様の霊波(心の波長)に人間の心の波長を合わすと、
   神様の世界(実相世界)に実在する状態が肉眼に見えるように
   自分の周囲にあらわれて来る。即ち地上に天国が実現するのである。

   これは神様に「天国を地上にあらわしめ給え」といくら懇願しても懇請しても、
   自分の心が争いの念に充ち満ちていては天国が地上にあらわれて来ないのである。

   テレビのチャンネルを間違ったところへやりながら、
   NHKのテレビ番組をこのテレビ・セットにあらわし給えといくら祈っても、
   その番組が出て来ないのと同じである。

   「 祈り 」というものは 懇請や“泣き付き”ではなく、
   自分の心を調和した状態にすることである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121


        <感謝合掌 平成28年6月14日 頓首再拝>

《あなたの生活を天国生活にするには》 - 伝統

2016/06/25 (Sat) 04:50:13


           *『 生長の家 』(昭和40年3月21日の法語)より

   小我(しょうが)に仕えるか、大我(たいが)に仕えるかだ。
   肉体の欲望や権勢欲や名誉欲に仕えるか、
   それとも唯、神に“のみ”仕えるかである。

   それによって、その人の生活が地獄にもなり、極楽にもなるのである。

   財産もあり名誉もあり国家の権力者になっている人たちが、
   内心に顧(かえり)みて、本当に私の魂は平安である、
   私は神に悦ばれる生活をしている、

   魂の底から「お前はよくやった」という讃辞をきくことが出来る
   という人が幾人あるであろうか。

   彼らの大多数は、魂の不安、地位からの顛落(てんらく)の恐怖に悩まされ、
   心に敵を描いて常に闘争の精神にみたされて、
   心は修羅(しゅら)の如くであるのである。

   もっと人間は神に悦ばれる者と“先ず”ならなければならないのである。

   それが「先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」
   であるのである。


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        <感謝合掌 平成28年6月25日 頓首再拝>

《自己の自覚の程度の投影としてのその人の現実生活》 - 伝統

2016/07/08 (Fri) 03:45:55


          *『 生長の家 』(昭和40年3月19日の法語)より

   若し人間が、本当に 「 実相 」 の完全さを自覚して、
   更に心が本当にその完全さにのみ集注することができるならば、
   病気も無くなり、悪癖、悪習慣もなくなり、貧乏もなくなり、
   一切の不調和は消えてしまうことになるのである。

   一切の不調和がまだその人の運命、境遇、環境、家庭等から消えないのは、
   その人が本当に「 実相 」の完全さを自覚していないか、
   たとい自覚していても、心が「 実相 」の完全さにのみ集注しないで
   道草を食っているからである。

   私たちは「 実相 」以外のものに、「 神の国 」以外のものに、
   心を止めて道草を食ってはならないのである。

   「 神の国 」( 実相 )以外のものに心を止めて道草をくっているものは、
   「 先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし 」 という
   訓(おし)えを守っていないことになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 平成28年7月8日 頓首再拝>

《馬を“宝の車”の後ろにつなぐ勿(なか)れ》 - 伝統

2016/07/22 (Fri) 03:17:18


           *『 生長の家 』(昭和40年3月17日の法語)より

   「 先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし 」 が
   正しき順序であるのである。

   多くの人たちは 「 その余のもの 」 (現象存在)を先ず求めて、
   それが沢山整うたら「神の国」ができ上がるように思っているけれども、

   「 神の国 」 がまず自覚されて現象界にあらわれて来たところの
   「 地上天国 」 でない限りは、本当にくだけない 「 幸福の世界 」 は
   あり得ないのである。

   或る人は肉体の健康を求め、肉体の健康が得られたら幸福になれるように思い、
   また或る人は現象の富を求め、現象の富さえ裕(ゆた)かに得たら幸福になれる
   ように思っているが、健康な人でも、そして裕かに富をもっている人で、
   本当に何らの不安なく、恐怖なく、摩擦のない天国的生活を送っている人が
   幾人あるだろうか?

   富も健康もそれを 「 顕われ 」 から見れば、
   「 実相 」 からあらわれた“ それ ”と
   「 迷妄 」 からあらわれたそれと区別がつかないようであるが、

   実相の投影としてあらわれたそれには
   不安も 恐怖も 争いも 魂の悩みもないのである


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 平成28年7月22日 頓首再拝>

あなたが今、神様を其処に見出されましたら、其処が神の国 - 伝統

2016/08/25 (Thu) 03:22:47


          *「静思集」(P69~70)より

神の国とは此処に見よ彼処に見よと云ってはないのである。
汝の心の中にあり と イエスキリストは被仰(おっしゃ)いました。

ではあなたの立っていらっしゃるところが、あなたの坐っていらっしゃるところが、
そのままで、あなたが天国を見出しなさったならば、其処が天国なのでございます。

神の国とは、神のいらっしゃるところでございます。
浄土とは仏のいらっしゃるところでございます。

ではあなたが今、神様を其処に見出されましたら、其処が神の国なのでございます。
あなたが今、仏様を其処に見出されましたら、其処が浄土なのでございます。

神ここに在(いま)す、仏此処にましますと、
どうぞあなたの心の中で誦(とな)えて下さいませ。

吾々は、眼をつぶっていえては光を見ることが出来ないでしょう。
まず心の眼を開いて下さいませ。
心の眼を開くには、言葉でとなえることでございます。

神道に於ける「大宇宙(たかあまはら)に神詰(かみつま)ります」という祝詞(のりと)、
仏教に於ける南無阿弥陀仏の称名念仏、基督(キリスト)教に於ける讃美歌・・・
まだ色々御座いましょう。

すべて此処に神在(いま)し、此処に仏ましますと云う念を深める言葉を常住
となえることは、天国浄土を地上に実現する基礎でございます。


    此の世をば浄土とぞ思う 
       大神(おおかみ)の名(みな)誦(ず)しをれば
            眼の裏(うち)あかるし

            <感謝合掌 平成28年8月25日 頓首再拝>

神の国の義しきを観よ - 伝統

2016/10/14 (Fri) 03:52:57


          *「光明法語(10月14日)」より

「先ず神の国と神の国の義しきとを求めよ。其の余のものは汝らに加えられるべし」と
イエスが言ったのは、彼の祈りが、対立的な一々の現象の悩みを「あり」として
取扱わなかったことを示している。

そこには「悪」や「病い」を争闘や抗争によって撃滅する何等の人間側の努力もない。
天の父がみ業(わざ)を為し給うのである。

吾等は唯それを観れば好いのである。
イエスが「われみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにいまして成さしめ給う」と
言ったのは此処である。

            <感謝合掌 平成28年10月14日 頓首再拝>

みとめたものが顕れる - 伝統

2016/10/31 (Mon) 03:24:43


           *『神と偕に生きる365章』(P324~325)より

「神の国は汝の内にあり」とイエスは教えたのである。

その神の国が自己の内に秘められ、埋蔵されたままであるか、
それともそれが現象的にも完全に展開するかによって、
あなたの運命の幸不幸、健不健、繁栄と衰微との差別がきまるのである。

あなたの現象の生活がどんなに不満足なものであろうとも、
あなたの内に“神の国”が現に今“永遠の今”厳存するということに
間違いはないのである。

それを如何にして、顕すかどうかということが問題なのである。

現象顕現の法則というのがある。
それは「認めれば顕れ、認めなければ顕れない」という法則である。

如何にあなたの内に”至福の世界”なる”神の国が宿っておろうとも、
それを認めなければ顕れないのであるから、

イエスは「先ず神の国と神の義とを求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」
と教えたのである。

先ず既に“神の国”が自己の内にあることを認めることが大切である。
すると外界は内界の投影であるから、内界に於いてみとめられた程度に応じて、
外界にその“神の国”の至福の姿が影を映すのである。

みとめたものが顕れる ―― 神の国もその法則に従って現実化するのである。

            <感謝合掌 平成28年10月31日 頓首再拝>

心の世界に、神の国を描くこと - 伝統

2016/11/23 (Wed) 03:46:09


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月23日)より

人間の心の思いは動力であることを知らなければなりません。
心に描いたことが形にあらわれるのであります。
このことは何度繰り返しても繰り返しすぎるということはないくらい重大な問題なのであります。

キリストは「まず神の国と神の義(ただしき)を求めよ。
その余(よ)のものは汝らに加えらるべし」
と教えられました。

具体的に現実世界に善きものが現れてくるに先立ってまず心の世界に、
神の国を描くことが必要なのであります。

「もし芥子種ほどの信だにあらばこの山に動いて海に入れと言うといえども必ず成らん」と
キリストが言われたのも、実現に対する信仰が心の世界に打ち建てられれば、神の国にある
いっさいのものがこの世に実現するということであります。

すべての地上の建造物は、まず建築家の心の内に描かれたものが実現したのであります。
原子爆弾といえども科学者の心の内に描かれたものが実現したのであります。
「心はすべての造り主」と言われている所以(ゆえん)であります。

物質はみずから自発的に動いて一定の形をとることはできません。
湯呑みが勝手に歩いたり、万年筆が勝手に動いて文章を書くということもありません。

ブランシェット(心霊現象の自働書記でお筆先を書く道具)が自働して文字や絵を書くのは、
その道具が勝手に動くからではなく、それを動かす霊があるからです。

われわれの肉体細胞の成分が一定の姿に配列されて健康になるのも病気になるのも
皆心の働きです。

         <感謝合掌 平成28年11月23日 頓首再拝>

天国は、われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある - 伝統

2017/01/03 (Tue) 04:39:06


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月3日)より

人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。
神の国とは天人常に充満し、絶えず天鼓(てんく)の響きを妙(たえ)に、
摩訶曼陀羅華の花降る世界である。

天鼓(てんく)とは天の鼓ではない。
人間の人を賞(ほ)め讃える声である。

曼陀羅華とはインドにある華(はな)ではない。
華(はな)の笑(え)むように和やかな微笑、深切な言葉、思いやりのある行ないが
天上から降る曼陀羅華である。

これら天鼓(てんく)と曼陀羅華とで飾られたる妙(たえ)なる世界の姿が天国である。
天国とは別の世界のことではない。
われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。

         <感謝合掌 平成28年1月3日 頓首再拝>

宗教とは内に力を見出す教えである - 伝統

2017/01/09 (Mon) 04:38:04


           *「光明道中記」(1月9日)より抜粋

【宗教とは死んでから用のないものである。(『生命の實相』第一巻)】

宗教とは内に力を見出す教えである ―― と私は茲に定義して置く。

「内」とは仮の語(ことば)であって、「外」に対する「内」ではない。

人は「我」と云うものを肉体的存在だと思っているから、肉体には内外を劃(かぎ)る膚肉の
面があるから、そして「我」と云うものは、その膚肉の内部に働いているように見えるから、
その「我」より力を汲み出すことを「内に力を見出す」と云うのである。

併し「内」と云うのは膚肉の内部と云う意味ではないから、皮膚を剥ぎ、肉を切り、
骨を刳(えぐ)ってその「内部」へ「内部」へと穿(うが)って往っても其処からは
何の力も湧き出でては来ないのである。

所詮「内」とは肉体の「内部」でもなく、肉体の「外」でもない。
それは「肉体」の内にも外にも在らざる無形の中心(センター)である。
「我」とは畢竟空間的存在ではないのである。

            <感謝合掌 平成29年1月9日 頓首再拝>

《“ 神の国は汝の内に在り ”》 - 伝統

2017/01/23 (Mon) 05:05:23


           *『 生長の家 』(昭和46年10月26日の法語)より

   イエスは、客観的に “ 神の国 ” というものが、
   地上に実現するとは教えなかったのであった。


   “ 神の国 ” は “ 霊の世界 ” であるから
   (それはテレビ放送の天国番組が電波の世界であるのと同じように )

   それに波長を合わした“ 心の情態 ” になった人にのみ
   体験される世界であることを教えたのである。

   『 ルカ伝 』 第十七章二十節には 次のように書かれている。―

   『 神の国の何時(いつ)きたるべきかをパリサイ人に問われし時、
   イエス答えて言いたまう

   「 神の国は見ゆべき状(さま)にては 来らず。
   また “ 視(み)よ、此処に在(あ)り ”
   “ 彼処(かしこ)に在り ” と人々は言わざるべし。
   視よ 神の国は 汝らの中(うち)に在るなり。 』


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

            <感謝合掌 平成29年1月23日 頓首再拝>

《先ず神の国と神の義を求めよ》 - 伝統

2017/03/02 (Thu) 04:38:23


           *『幸福を招く365章』第2項(P29~30) より

「先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」と
キリストは教えたのである。
そして「神の国とは汝の内にあり」と注釈したもうているのである。

先ず自分の内にある「神」と「神の国」とを知らなければならないのである。

多くの間違った人々の宗教的信仰とゆうものは、外にある神を頼って、
「内にある神」を知らず、依頼心を起こして、神に泣き付くことを以て祈りであると
誤解していたのである。

「自分の内に在る神」を忘れて「外にある神」に泣きつくような卑怯なことを、
神は決して悦び給わないのである。
「内にある神」とは「内なる生命力」であり「内なる智慧」であり「内なる愛」である。

自分の内にある生命力と智慧と愛とを充分認識してそれを働きだすことが、
「先ず神の国を求める」ことであり、それを「神の国の義(秩序)において実践することが
「神の義」を求めることである。

            <感謝合掌 平成29年3月2日 頓首再拝>

《神と交通するに静処を求めることはいらぬ》 - 伝統

2017/04/21 (Fri) 04:17:40


         *『生長の家』(昭和24年11月22日の法語)より

   吾々は神と交通するために世間をはなれて静かな所へ
   行かなければならないということはないのである。

   自分はどこにいても、其儘(そのまま)で神と交通しているのである。

   今ここが神の国であり、実相世界であるのである。

   自分はこの完全なる実相の中心に坐(ざ)して、
   今すべての悪を否定するのである。
   すべての不調和 病気 不幸 ・・・の存在を否定するのである。

   自分は実相の中心座に坐して
   その中心からサーチライトで照らすが如く
   一切の現象界の暗を照らすのである。

   一切の悪は消えさり 一切の不幸は消え去り
   唯 善のみが存在するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成29年4月21日 頓首再拝>

《先ず神の国を求めよ》 - 伝統

2017/05/08 (Mon) 04:35:59


       *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P93~94) より

”真空“は ”何も《ない》”どころか、
”真空“ こそ万物を ”現在ある形“に保っているところの
“智慧”であり、”力“であるのである。

原子を形造っている”原子核“と”電子”との間の存する”真空“が
崩れて仕舞ったら、原子は崩壊してしまうのであり、

太陽と遊星との間を埋めている ”真空”が崩れてしまったら、
太陽と遊星とは、互いに連絡し得ないで、飛び散ってしまうか、
真空の形の崩れるままに太陽と遊星とは密着してしまうかするより仕方がないのである。

兎も角、”真空“は ”何もない空間”でなく、
”霊“という無限の智慧と無限の力が包蔵されており、

その”霊の世界“に於ける”理念“(精神的原型)が形の世界に
時間的順序配列をもって恰(あたか)”も

“フィルムの世界“に既に存在する光景が映画館の銀幕に時間的順序をもって
一コマ一コマ展開して行くような具合にあらわれているのである。

だから吾々が可視的世界(肉眼で見える現象世界)に
幸福や健康や繁栄を実現しようと思ったならば、

先ず不可視の霊的世界に、その幸福や健康や繁栄を
心で描いておかなければならないのである。

現象界の物質的利益の追求よりも
「先ず神の国を求めよ」 とは このことである。

            <感謝合掌 平成29年5月8日 頓首再拝>

宝樹華果(ほうじゅけか)多くして衆生の遊楽する処 - 伝統

2017/06/01 (Thu) 04:36:24


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月1日)より

吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。

「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」
と云う『法華経』の文句は決して空文ではなく、
既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。

それは既に放送局の放送があるのと同じように、既に肉眼では見えないが
波長を合わしさえしたならば現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように
今此処に既にあるのである。

現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては
不調和なものに波長を合わすから不調和なものばかりが現れて来るのである。

        <感謝合掌 平成29年6月1日 頓首再拝>

《神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ》 - 伝統

2017/06/04 (Sun) 04:23:30


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月4日)より

今まで現象界へ振り向いていた心を神の方へ振り向けることが大切である。
「先ず神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ、其の余のものは汝らに加えらるべし」
とイエスは言った。

吾々は大抵、神の国を先ず求めないで、其の余のものの方へ心が向き勝ちであったのである。
神の国は現象世界が整うて来るための根である。

根を求めないで枝葉から先に求めていたから、根のない枝葉は枯れるほかはないので、
神の方へ振り向かない働きは、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
式に労して功なしであったのである。

        <感謝合掌 平成29年6月4日 頓首再拝>

「神の国は爾の内にあり」 - 伝統

2017/08/01 (Tue) 05:00:39


        *「光明道中記」(八月 烈日に伸びる)(8月1日)より

【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。
                       (生命の實相第十一巻)】


多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。

しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。

「神の国は爾の内にあり」と云うことを
「華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」とあらわしているのである。
「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。

「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。

「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。

「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。

吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、
吾々の超空間的な「心」の中に空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。

神想観をしているうちに此の超空間的な存在であるところの
「我」が自覚出来てくる。

澄み切った虚空と一体の「我」である。
否、虚空が「我(わ)」が内にある。

一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。

       <感謝合掌 平成29年8月1日 頓首再拝>

《天国浄土は貴方(あなた)の家がそれだ》 - 伝統

2017/08/20 (Sun) 04:48:39


         *『 生長の家 』(昭和25年1月2日の法語)より 

   すでに完全なる世界がある。
   それを実相の世界という。

   キリストは これを 「 み心の天になる世界 」 といったのであり、
   又 「 神の国 」 ともいったのである。

   これを仏教では 「 浄土 」 というような言葉で表現している。

   今までの教えでは、神の国や浄土は
   遠き はるかなる彼方(かなた)に存在するように説かれていたが、

   生長の家では、それは尚(なお)目に見えないとはいえ、
   ラジオの波のように 今までに 此処(ここ)にある
   と観(み)るのである。


   その天国浄土を実現するには
   貴方の心の波長を合わせればいいのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/1a46c6f559b57badfdd289156cd6c37d

       <感謝合掌 平成29年8月20日 頓首再拝>

《極楽は今 貴方の家にある》 - 伝統

2017/09/04 (Mon) 03:26:10


       *『 生長の家 』(昭和25年1月3日の法語)より  

   天国浄土が遠い所にあるのであっては、
   吾々は本当に安心などは得られるものではない。

   キリストは 「 神の国は汝(なんじ)の中(うち)にあり 」
   といったし

   「 悔い改よ、天国は 今 手のとどく所にある 」 とも
   いったのである。

   釈迦(しゃか)は 「 極楽は 此処を去ること遠からず 」 と
   観無量寿経で教えた。


   今 ここに 自分の中にも自分の周囲にも、
   到(いた)る処(ところ)に ラジオの波のように、
   神さまの愛の生命の波によって造られている天国浄土が
   存在するのである。

   それを現わすには
   貴方の心の波長を合わせればいいのである。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/894d9f9ee3bb4443fc7127add3b3e7c6

         <感謝合掌 平成29年9月4日 頓首再拝>

《先ず神の国の義(ただしき)を求めよ》 - 伝統

2017/09/10 (Sun) 04:48:05


          *『 生長の家 』(昭和25年1月12日の法語)より

   ソロモンの祈りは 「 神のみ心を知る智慧を与え給え 」
   という祈りであった。

   キリストは、「 まず神の国と神の国の義を求めよ。
   その余のものは汝らに加えらるべし 」 といって
   吾々が祈り求める時に、何を祈り求むべきかを教えているのである。


   神の国以外のものを求めても、
   それ以外のものは存在しないのであるから、与えられるわけがない。

   「 神の国の義 」 というのは
   神の国に於(お)いてあるべきものが
   あるべき姿に於いてある その正しき智慧である。

   即(すなわ)ち 神の み心を求めよというに外ならない。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/2b30bc4197004beac551c7cc46352180

         <感謝合掌 平成29年9月10日 頓首再拝>

“神の国”が自己の内にあることを認める - 伝統

2017/11/21 (Tue) 04:49:21


        *『神と偕に生きる365章』(P324~325)より

みとめたものが顕れる

「神の国は汝の内にあり」とイエスは教えたのである。
その神の国が自己の内に秘められ、埋蔵されたままであるか、
それともそれが現象的にも完全に展開するかによって、
あなたの運命の幸不幸、健不健、繁栄と衰微との差別がきまるのである。

あなたの現象の生活がどんなに不満足なものであろうとも、
あなたの内に“神の国”が現に今“永遠の今”厳存するということに
間違いはないのである。

それを如何にして、顕すかどうかということが問題なのである。

現象顕現の法則というのがある。
それは「認めれば顕れ、認めなければ顕れない」という法則である。

如何にあなたの内に”至福の世界”なる”神の国”が宿っておろうとも、
それを認めなければ顕れないのである。

イエスは「先ず神の国と神の義とを求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」
と教えたのである。

先ず既に“神の国”が自己の内にあることを認めることが大切である。

すると外界は内界の投影であるから、内界に於いてみとめられた程度に応じて、
外界にその“神の国”の至福の姿が影を映すのである。

みとめたものが顕れる ―― 神の国もその法則に従って現実化するのである。

         <感謝合掌 平成29年11月21日 頓首再拝>

神の国を現象化するための言葉 - 伝統

2017/12/10 (Sun) 04:04:37


         *「神と偕に生きる真理365章」(P325~326)より

「神の国がわが内にある。それが今現象界に展開しつつあるのである。

神の愛がわが内にある。それがわが現象の心にあらわれつつあるのである。

神の智慧がわが内にある。それが今、現象界に展開しつつあるのである。

神の国の繁栄がわが内にある。それが今現象界に展開しつつあるのである」


毎朝の神想観のとき、先ず招神歌(しょうしんか)を誦(とな)えてから、
神との一体感を深め、しかる後に以上の如く念ずるがよい。

一日だけ念じても、その通りには実現しないかも知れないけれども、
毎日怠らず念じていつうちに、その自覚が深まる程度に応じて、
神の国にある完全にして幸福なる実相が、あなたの現象界に実現し始めるのである。

         <感謝合掌 平成29年12月10日 頓首再拝>

《馬を“宝の車”の後ろにつなぐ勿(なか)れ》 - 伝統

2017/12/29 (Fri) 04:26:25


          *『 生長の家 』(昭和40年3月17日の法語)より

   「 先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし 」 が
   正しき順序であるのである。

   多くの人たちは 「 その余のもの 」 (現象存在)を先ず求めて、
   それが沢山整うたら「神の国」ができ上がるように思っているけれども、

   「 神の国 」 がまず自覚されて現象界にあらわれて来たところの
   「 地上天国 」 でない限りは、本当にくだけない 「 幸福の世界 」 は
   あり得ないのである。

   或る人は肉体の健康を求め、肉体の健康が得られたら幸福になれるように思い、
   また或る人は現象の富を求め、現象の富さえ裕(ゆた)かに得たら幸福になれる
   ように思っているが、健康な人でも、そして裕かに富をもっている人で、
   本当に何らの不安なく、恐怖なく、摩擦のない天国的生活を送っている人が
   幾人あるだろうか?

   富も健康もそれを 「 顕われ 」 から見れば、
   「 実相 」 からあらわれた“ それ ”と
   「 迷妄 」 からあらわれたそれと区別がつかないようであるが、

   実相の投影としてあらわれたそれには
   不安も 恐怖も 争いも 魂の悩みもないのである


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

         <感謝合掌 平成29年12月29日 頓首再拝>

天鼓と曼陀羅華とで飾られたる天国 - 伝統

2018/01/03 (Wed) 03:14:43


       *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月3日)より

人生の唯一の目的は神の国をこの世に実現するということである。
神の国とは天人常に充満し、絶えず天鼓(てんく)の響きを妙(たえ)に、
摩訶曼陀羅華の花降る世界である。

天鼓(てんく)とは天の鼓ではない。
人間の人を賞(ほ)め讃える声である。

曼陀羅華とはインドにある華(はな)ではない。
華(はな)の笑(え)むように和やかな微笑、深切な言葉、思いやりのある行ないが
天上から降る曼陀羅華である。

これら天鼓(てんく)と曼陀羅華とで飾られたる妙(たえ)なる世界の姿が天国である。
天国とは別の世界のことではない。
われらの思いと、言葉と、行ないとの中にある。

         <感謝合掌 平成30年1月3日 頓首再拝>

「内」とは無形の中心(センター)である - 伝統

2018/01/09 (Tue) 03:14:03


           *「光明道中記」(1月9日無字透関の日)より抜粋

【宗教とは死んでから用のないものである。(『生命の實相』第一巻)】

宗教とは内に力を見出す教えである ―― と私は茲に定義して置く。

「内」とは仮の語(ことば)であって、「外」に対する「内」ではない。

人は「我」と云うものを肉体的存在だと思っているから、
肉体には内外を劃(かぎ)る膚肉の面があるから、
そして「我」と云うものは、その膚肉の内部に働いているように見えるから、
その「我」より力を汲み出すことを「内に力を見出す」と云うのである。

併し「内」と云うのは膚肉の内部と云う意味ではないから、
皮膚を剥ぎ、肉を切り、骨を刳(えぐ)ってその「内部」へ「内部」へと
穿(うが)って往っても其処からは何の力も湧き出でては来ないのである。

所詮「内」とは肉体の「内部」でもなく、肉体の「外」でもない。
それは「肉体」の内にも外にも在らざる無形の中心(センター)である。

「我」とは畢竟空間的存在ではないのである。

            <感謝合掌 平成30年1月9日 頓首再拝>

《潜在意識に“ 神の国 ”が印象されているならば》 - 伝統

2018/01/26 (Fri) 03:50:04


         *『 生長の家 』(昭和46年3月17日の法語)より

   私たちの潜在意識に、“ 神の国 ”の完全世界の光景が、
   恰もテレビのビデオテープのように印象されているならば、
   そのビデオテープを放送セットにかけて放送すれば、

   ビデオテープに印象されている“神の国”の光景が
   受像セットにあらわれて来るのと同じように、

   常に吾々の住む世界に“神の国“の調和した光景があらわれて来るのである。


   それは突如として“神の国”の光景があらわれるというよりも、
   法則的秩序を通し、時間の流れを通して、空間面に
   それがあらわれ来(きた)るのである。

   先ず“神の国”を実現するためのアイディアが
   私たちの肉体の脳髄に閃(ひらめ)き
   出(い)でて来ることになるのである。

   そしてそのアイディアを実践することによって、合理的順序を踏んで、
   あなたの環境が“ 神の国 ”的調和した姿となってあらわれて来るのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12687565.html

            <感謝合掌 平成30年1月26日 頓首再拝>

「神の国」はみとめたものに顕れる - 伝統

2018/02/12 (Mon) 03:42:22


           *『神と偕に生きる365章』(P324~325)より

「神の国は汝の内にあり」とイエスは教えたのである。

その神の国が自己の内に秘められ、埋蔵されたままであるか、
それともそれが現象的にも完全に展開するかによって、
あなたの運命の幸不幸、健不健、繁栄と衰微との差別がきまるのである。

あなたの現象の生活がどんなに不満足なものであろうとも、
あなたの内に“神の国”が現に今“永遠の今”厳存するということに
間違いはないのである。

それを如何にして、顕すかどうかということが問題なのである。

現象顕現の法則というのがある。
それは「認めれば顕れ、認めなければ顕れない」という法則である。

如何にあなたの内に”至福の世界”なる”神の国が宿っておろうとも、
それを認めなければ顕れないのであるから、

イエスは「先ず神の国と神の義とを求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」
と教えたのである。

先ず既に“神の国”が自己の内にあることを認めることが大切である。
すると外界は内界の投影であるから、内界に於いてみとめられた程度に応じて、
外界にその“神の国”の至福の姿が影を映すのである。

みとめたものが顕れる ―― 神の国もその法則に従って現実化するのである。

            <感謝合掌 平成30年2月12日 頓首再拝>

神の国を現象化するための言葉 - 伝統

2018/02/28 (Wed) 04:30:57


         *「神と偕に生きる真理365章」(P325~326)より

「神の国がわが内にある。それが今現象界に展開しつつあるのである。
神の愛がわが内にある。それがわが現象の心にあらわれつつあるのである。
神の智慧がわが内にある。それが今、現象界に展開しつつあるのである。
神の国の繁栄がわが内にある。それが今現象界に展開しつつあるのである」

毎朝の神想観のとき、先ず招神歌(しょうしんか)を誦(とな)えてから、
神との一体感を深め、しかる後に以上の如く念ずるがよい。

一日だけ念じても、その通りには実現しないかも知れないけれども、
毎日怠らず念じていつうちに、その自覚が深まる程度に応じて、
神の国にある完全にして幸福なる実相が、あなたの現象界に実現し始めるのである。

            <感謝合掌 平成30年2月28日 頓首再拝>

常住今此処が神の国 - 伝統

2018/04/02 (Mon) 03:24:00


         *「叡智の断片」(P47~48)より

イエスは言ひたまふ
『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきかを知らぬか。』
                      (ルカ伝第二章一〇九節)

いつでも人間は父の家に居るのである。
無限の平和と、無限の供給と、無限の生命と、無限の愛と、無限の智慧との
満ちている父の家―― 神の国 ―― 實相の世界 ―― 實在界 ―― 
に住んでいるのである。

十二歳の時イエスが祭の慣習に随って父母と共にイエルサレムに上った帰るさい、
父母は道伴れのうちにイエスもいると思って他の人達と話しながら途中の町まで来ると
イエスがいないのである。

親族縁者のうちにいるかと思って、一日たずね廻ったがいないので、
再びイエルサレムに舞い戻って見ると、宮の境内で教法師たちの中で
神の教をきいているイエスを見出したので、

そこで母マリアが
『何故、かかる事を我らに為せしぞ。視よ、汝の父と我と憂いて尋ねたり』
と云ったときに答えた言葉が、これであった。

『何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきかを知らぬか』

常に今此処にいる永遠の世界が、神の世界なのである。
何処にも、危険の世界はない。
何処にも乏しき世界はない。

『我は父の家にいるべきかを知らぬか。』
―― これはイエスだけのことではない。

吾々すべてが、各人が『我は父の家にいるべきかを知らぬか』と
言い得べきであるのである。

此の言葉を、瞑目して十篇黙念せよ、百篇黙念せよ、千篇黙念せよ。

              <感謝合掌 平成30年4月2日 頓首再拝>

《あなたの生活を天国生活にするには》 - 伝統

2018/04/23 (Mon) 03:25:26


        *『 生長の家 』(昭和40年3月21日の法語)より

   小我(しょうが)に仕えるか、大我(たいが)に仕えるかだ。
   肉体の欲望や権勢欲や名誉欲に仕えるか、
   それとも唯、神に“のみ”仕えるかである。

   それによって、その人の生活が地獄にもなり、極楽にもなるのである。

   財産もあり名誉もあり国家の権力者になっている人たちが、
   内心に顧(かえり)みて、本当に私の魂は平安である、
   私は神に悦ばれる生活をしている、

   魂の底から「お前はよくやった」という讃辞をきくことが出来る
   という人が幾人あるであろうか。

   彼らの大多数は、魂の不安、地位からの顛落(てんらく)の恐怖に悩まされ、
   心に敵を描いて常に闘争の精神にみたされて、
   心は修羅(しゅら)の如くであるのである。

   もっと人間は神に悦ばれる者と“先ず”ならなければならないのである。

   それが「先ず神の国と神の義を求めよ。その余のものは汝らに加えらるべし」
   であるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

              <感謝合掌 平成30年4月23日 頓首再拝>

やっぱり最初に”神の国”を求めよ - 伝統

2018/05/24 (Thu) 04:07:26


         *『 希望を叶える365章 』(P72~73)より

どんな問題が出て来ても、自分の心の窓をひらいて、
光を差し込ましたとき解決しない問題などあり得ないのである。

「自分の心の窓をひらく」というのは、
窮屈に、狭い「我(が)」の考えを頑固に握っていないで、
ゆたかに相手を包容してあげる広々とした「愛」の心を起こすことです。

「光を差し込ます」というのは、神の智慧の光を受けて、
その光に照らして相手をよく理解し、現状をよく分析し、
それに対する神の智慧の導きを受けることです。


5と5を合わせば必ず10になるのと同じように、斯うして、
豊かな「愛」の包容力と、明らかな智慧の判断とを合(あわ)して、
事を決すれば、どんな問題でも必ず諒解点に達し、
誰にでも満足できるような解決が見出せるのです。

それにはやっぱり神想観して、
神の愛と智慧とが自分に流れ入るように祈ることが必要である。

やっぱり「先ず神の国と神の義(ただしさ)を求めよ」である。

              <感謝合掌 平成30年5月24日 頓首再拝>

《神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ》 - 伝統

2018/06/04 (Mon) 04:05:47


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月4日)より

今まで現象界へ振り向いていた心を神の方へ振り向けることが大切である。
「先ず神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ、其の余のものは汝らに加えらるべし」
とイエスは言った。

吾々は大抵、神の国を先ず求めないで、其の余のものの方へ心が向き勝ちであったのである。
神の国は現象世界が整うて来るための根である。

根を求めないで枝葉から先に求めていたから、根のない枝葉は枯れるほかはないので、
神の方へ振り向かない働きは、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
式に労して功なしであったのである。

        <感謝合掌 平成30年6月4日 頓首再拝>

神は常に吾がうちにありて働き給う - 伝統

2018/06/11 (Mon) 03:49:57


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月11日)より

今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。

神の力が今其処に君の内に一切を新たならしめるべく、あらゆる君の求めに応ずべく、
働いていたまうのである。

今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。現象は唯の随伴物に過ぎない。

何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。

        <感謝合掌 平成30年6月11日 頓首再拝>

”内外打成一片”の実現 - 伝統

2018/08/02 (Thu) 04:07:35


      *「光明道中記」(8月2日 完徳成就の日)より 

【汝らは初めから如来であり、成仏している。(生命の實相第一巻)】


神を外にのみ求むる時代は人類にとって過ぎ去ったのである。
神は外にあらず、内にあらず、中間にあらず、
そして外にあり、内にあり、中間にある。

それは現象を超えた外であり、内であり、中間であり、
その本源であり、それを左右し、支配し、修正する力である。

嘗て、京都の講習会に往ったときに三高の英文学教授深瀬基寛氏から
『現代英文学の課題』と題する本を頂いた。

此の書はその前年同教授夫人が叡山の生長の家講習会に受講して山上から
帰られると神徠(しんらい)のように書きたくなって書かれた書であると言う。

その中に曰く――

「『完徳の観念』(Ider of perfection)はアーノルドに於いても根本的な地位を
占めているが、アーノルドは『教養』(Culture)の方法によって専らこの観念を
実現せんとし、エリオットは『個性の脱却』(Depersonalisation)によって
個人以上の『他社の権威』(Outside Authority)に合致することを以て
完成の内容としている。

・・・個人の『内心の声』(Inner Voice)を最後の拠り処とする傾向が浪漫主義の本質で
あって、エリオットは此の傾向を『近代の異端』として排撃する」と。

此の「外の権威」と「内心の声」は内外(しげ)打成(だじょう)一片の
生長の家に於いては完全に一致する。

       <感謝合掌 平成30年8月2日 頓首再拝>

《先ず神の国の義(ただしき)を求めよ》 - 伝統

2018/11/26 (Mon) 03:27:13


         *『 生長の家 』(昭和25年1月12日の法語)より

   ソロモンの祈りは 「 神のみ心を知る智慧を与え給え 」
   という祈りであった。

   キリストは、「 まず神の国と神の国の義を求めよ。
   その余のものは汝らに加えらるべし 」 といって
   吾々が祈り求める時に、何を祈り求むべきかを教えているのである。


   神の国以外のものを求めても、
   それ以外のものは存在しないのであるから、与えられるわけがない。

   「 神の国の義 」 というのは
   神の国に於(お)いてあるべきものが
   あるべき姿に於いてある その正しき智慧である。

   即(すなわ)ち 神の み心を求めよというに外ならない。


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/2b30bc4197004beac551c7cc46352180

            <感謝合掌 平成30年11月26日 頓首再拝>

《”道心に衣食あり”ということ》 - 伝統

2018/12/14 (Fri) 04:44:08


       *『人生の秘訣365章』第11篇(P277) より

真理を自覚するとき、単に「神罰」から自由に解放せられるだけではなく、
一切の苦厄不幸等から解放されて自由となるのである。

これがイエスが

「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」

と説かれた所以であるのである。

昔から「道心(どうしん)に衣食あり」という諺があるが、
道心の”道(みち)”とは宇宙にミチる道(みち)であり、普遍者であり、神である。
その普遍者なる道(みち)と完全に同調するところの心が「道心」である。

道と完全に同調する心をもったときに
自然に衣食は裕に備わることになるという意味である。

これはイエスの

「神の国と神の義を求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」

というみ教と一致するのである。

            <感謝合掌 平成30年12月14日 頓首再拝>

物質に捉われる勿れ、神の国は汝の内にあり - 伝統

2019/04/06 (Sat) 02:02:10


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(4月6日)」より抜粋

金(かね)の多寡(たか)によって幸福が来るのではない。
金(かね)に対するいっさいの執着を裁ち切って、ただ愛を、智慧を、生命を
国のために、隣人のために献(ささ)げきったとき歓びが来るのである。

今日(きょう)、誌友のK氏がわたしを訪ねて来て、こんな話をした。

(中略)

約1万円の金が失われた。
K氏の身体(からだ)が失われたわけでもない。氏の心が失われたわけでもない。
また、氏はその金がなければ生活に困るのでもなかった。

氏の身体(からだ)にも心にもなんらの関係のない「金(かね)」という
えたいの知れぬもの、しかもそれは金貨という固い確実なものでもない。

ただ氏の名義から、他(た)の人の名義に金額を表わすある数字が
書き換えられたということだけで、心がこんなに悲しみ、
身体(からだ)がこんなに苦しむとはどういうわけなのだろう。

悲しむべき理由がないのに悲しく、苦しむべき理由がないのに苦しい ――
これを妄想というのである。その妄想のために幾千万の人間が苦しんでいるのである。
K氏もいつの間にかこの妄想の中に墜落したのだ。氏はもがいた。

氏はその心の苦しみから逃れるために『甘露の法雨』を仏前で朗唱した。

氏は心の苦悶を忘れるために大声を挙げて読んでいるうちに、少しく心が静まってきた。
その時氏は自分の声が「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走る者にして
永遠に神の国を建つる事能(あた)わず」と朗々と誦(ず)しているのを聞いた。

それはまったく天籟(てんらい)の声のようであり、
神啓の韻(ひび)きのように聞こえた。

そうだ、物質は無いと《あれ》ほど聴かされていたのに、
いつの間にか自分は物質の増加が人間の幸福であると思っていた、

「物質に神の国を追い求むる者は夢を追うて走るもの」だったのだ ―― と、
K氏は気がついた。

今まで頭が朦朧として高血圧症が再発したように感じられていたが、
三斗(と)の冷水(れいすい)を浴びたように忽然として爽快となった。

げに肉体は心の影であり、心は物質に捉えられたとき
直ちに地獄へ顛落するものであることがK氏にはわかったのであった。

氏は『生命の實相』を読んだようでも、
今までどれほども読んでいないところの自分であることを反省した。

K氏は毎月の『生長の家』誌の精読と『生命の實相』百回読誦を実行することにした。

爾来、K氏の人を指導する霊能はいちじるしく殖え、
人を救う人数は日に殖え、人を救い得たたびごとに自分の心の中に感じられる
歓喜の情は、まったく天国に住んでいる感じであった。

全く「汝らの内にのみ神の国はあるなり」

と『甘露の法雨』に書いてあるとおりであった。

            <感謝合掌 平成31年4月6日 頓首再拝>

《先ず神の国を求めよ》 - 伝統

2019/04/23 (Tue) 03:51:58


       *『 生長の家 』(昭和23年3月25日の法語)より

   「 神と富とに兼ねつかうること能わず 」 と云う聖書の言葉を誤解して、
   富めば神様にきらわれるように思い、

   「 富める者の神の国に入ることの難きこと駱駝の針の孔を通るが如し 」
   と云う言葉を貧乏にならねば神の国に入れぬと解釈して、
   いつも貧乏の生活を青年時代にしていたのは私であった。

   今は神の国に入れば無限の豊富さが
   自然に備わっていることを知るようになったのである。

   「 富 」 を神の国の外に求めるから、
   「 神と富とに兼ね仕えること 」 になるのだが、
   先ず「 神の国を求めよ、富は自ずから汝に随い来るのである。」


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13233937.html?type=folderlist

            <感謝合掌 平成31年4月23日 頓首再拝>

《“ 神の国 ” は汝の内に在り》 - 伝統

2019/05/11 (Sat) 04:38:18


        *『 生長の家 』(昭和46年3月30日の法語)より

   「人間が神の子である」という真理は、
   換言すれば“凡ての力”は既に与えられているのだということである。

   “凡ての力”が与えられているだけではなく、
   “神の国”(又は天国)は自分の内にあるということである。

     〈 注。「神の国は汝の内にあり」(イエス) 〉

   先ず自己の内にある神の国を知ることが第一であり、
   それを「今此処に神の国がある」として瞑想することである。
   その瞑想が神想観である。

   しかし瞑想さえすれば何も行動を起さなくてもよいかというと、
   決してそうではないのである。

   瞑想によって“神の国”が正しく確実にハッキリと観じられたならば、
   その“神の国”が現象化して出て来るための自然の行動というものが、
   内から催して来て、それが具体的行動となって実践されるのである。

   知ることは行うことである。

   もし行となり、実践となって出て来ないならば、
   それは“まだ本当に知られていない”のであるから、
   尚一層、神想観の実修を励むがよい。

   「 神の国は汝の内に在り 」 そして
   「 在るもの 」は “認める”ことによって、
   “知る”ことによって、必ず現れて来るのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12734045.html

           <感謝合掌 令和元年5月11日 頓首再拝>

《神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ》 - 伝統

2019/06/04 (Tue) 03:57:10


            *『光明法語』(6月4日)より

今まで現象界へ振り向いていた心を神の方へ振り向けることが大切である。
「先ず神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ、其の余のものは汝らに加えらるべし」
とイエスは言った。

吾々は大抵、神の国を先ず求めないで、其の余のものの方へ心が向き勝ちであったのである。
神の国は現象世界が整うて来るための根である。

根を求めないで枝葉から先に求めていたから、根のない枝葉は枯れるほかはないので、
神の方へ振り向かない働きは、「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
式に労して功なしであったのである。

        <感謝合掌 令和元年6月4日 頓首再拝>

神は常に吾がうちにありて働き給う - 伝統

2019/06/11 (Tue) 03:20:33


        *『光明法語』(6月11日)より

今此処に、神の力が、君の内に、そら其処にあるではないか。
遠いところに求める必要はない。君が生きているのが其の証拠である。
神の力が君の内に今働いているのである。

神の力が今其処に君の内に一切を新たならしめるべく、あらゆる君の求めに応ずべく、
働いていたまうのである。

今それを悦べ、今それに感謝せよ。
治して貰えるから感謝するのでもなければ、治ったから感謝するのでもない。
そんな現象の問題ではない。現象は唯の随伴物に過ぎない。

何よりも君が既に神である実相を見て悦ぶのだ。感謝するのだ。

        <感謝合掌 令和元年6月11日 頓首再拝>

今此処が天国 - 伝統

2019/06/24 (Mon) 03:53:19


       *「光明法語」(6月24日)より

誰にでも自己の天国があるのである。
自分の脚下を見、真に自分に与えられたものを享受しこれを生かし働かすとき
其処に天国は現れるのである。

必ずしも富めるのが天国ではない。
富めるが為に財産税にて首をくくれる人がある。
富めるがために強盗を怖れて不眠症になる人もある。

貧しき者偶々(たまたま)富みて脚下を忘れ、
婦人に弄(もてあそば)れて不治の病いを得るものあり、
人格をそこなう者あり、富は必ずしも天国の条件ではないのである。

諸君が今此処に於いて与えられたる恩恵に目覚めるとき天国は今此処にあるのである。

        <感謝合掌 令和元年6月24日 頓首再拝>

天国は満ちたる杯(さかずき)の如し - 伝統

2019/06/25 (Tue) 04:34:01


       *「光明法語」(6月25日)より

天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。
静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、
全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 令和元年6月25日 頓首再拝>

天国は汝の内にあり - 伝統

2019/06/27 (Thu) 04:42:26


          *「光明法語」(6月27日)より

自己即今、天国なり。
自己のうちに天国を見出し得ない者は何処にも天国は見出す事は出来ないであろう。

金殿玉楼に錦繍をまとって暮らすとも嘆きの園に生活する者もある。
小人たまたま富を得て家庭乱れ、地獄忽ち現前して火の輪(くるま)舞う。

されど貧しきが必ずしも幸福に非ず、貧しきが故に家庭争議絶えざるものあり、
心の源泉を清めずんば、貧富共に禍(わざわい)となる。

されば貧富ともに禍でもなければ、又貧富共に幸福でもないのである。

心の中にこそ天国はあり。その天国より富を得る者これ最大の富者である。

        <感謝合掌 令和元年6月27日 頓首再拝>

今(いま)茲(ここ)にある天国を知る - 伝統

2019/06/29 (Sat) 04:52:10

          *「光明道中記」(6月29日《天国成就の日》)

【われ既に天地を新たならしめたのである。(新天新地の神示 講義)】

「われ既に天地を新たならしめたのである」
此の言葉を其の儘受け容れるとき、此の言葉の真実をその儘知るとき、
吾等の住む此の世界がそのまま新天新地に変貌するのである。

《それ》は《今》あるのである。
これから新天新地が開けるのではない。
《今》既に新天新地があるのである。

おお ! その荘厳なる相(すがた)よ。
開けるのは天地が開けるのではなく、こちらの心が開けるのである。
眼を蔽(おお)える鱗(うろこ)が落ちるのである。

そのとき吾等は別の風光が眼の前に開けるのを見る。
天地が開けるとは吾が心の岩戸開きが出来ることである。

既に成就せる世界を知って、それを現象世界に実現するのが、吾々の正しい生活である。
証上(しょうじょう)の修(しゅう)である。

既に成就せる世界を知るが故に退転することがないのである。
既に健康なる自分を知って、その如く行ずるのである。

多くの病者は《これから》健康になろうとして、健康法を励行するが、
思うように効果が挙がらないのは、《これから》と思っているからである。

既に《今》健康なのである。
肉体は自分ではない。自分の殻(から)である。

殻何するものぞ。
捨て切れ、捨て切れ、捨て切ったとき永遠の生命と、
今(いま)茲(ここ)にある天国を知ることが出来るのである。

           <感謝合掌 令和元年6月29日 頓首再拝>

神の国の義しきを観よ - 伝統

2019/10/14 (Mon) 04:08:35


          *「光明法語(10月14日)」より

「先ず神の国と神の国の義しきとを求めよ。其の余のものは汝らに加えられるべし」と
イエスが言ったのは、彼の祈りが、対立的な一々の現象の悩みを「あり」として
取扱わなかったことを示している。

そこには「悪」や「病い」を争闘や抗争によって撃滅する何等の人間側の努力もない。
天の父がみ業(わざ)を為し給うのである。

吾等は唯それを観れば好いのである。
イエスが「われみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにいまして成さしめ給う」と
言ったのは此処である。

            <感謝合掌 令和元年10月14日 頓首再拝>

《神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ》 - 伝統

2020/06/04 (Thu) 04:44:54


    *『光明法語』(六月の法語「天国は汝の内にあり」6月4日)より

今まで現象界へ振り向いていた心を神の方へ振り向けることが大切である。

「先ず神の国と神の国の義(ただしき)を求めよ、
 其の余のものは汝らに加えらるべし」

とイエスは言った。

吾々は大抵、神の国を先ず求めないで、
其の余のものの方へ心が向き勝ちであったのである。

神の国は現象世界が整うて来るための根である。

根を求めないで枝葉から先に求めていたから、
根のない枝葉は枯れるほかはないので、
神の方へ振り向かない働きは、
「はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりじっと手を見る」
式に労して功なしであったのである。

            <感謝合掌 令和2年6月4日 頓首再拝>

《神の国への郷愁》 - 伝統

2020/07/05 (Sun) 04:33:55


          *「真理」第9巻生活篇第14章(P378~379)より

あなたは神の子であり、
あなたの本当の故郷(こきょう)は“神の国”であります。

あなたが本当の郷里に帰るまでは郷愁は去らないでありましょう。
郷愁は色々の形であらわれます。

理由のない寂しさや、憂鬱や、それから起って来る色々の問題や、
経済的な行き詰りや、肉体的な病気なども、謂わば、自分の郷里である
「神の国」に自分が住んでいない郷愁のあらわれであります。

神の国には私たちに必要なあらゆる富、
あらゆる幸福が常に備わっているのであります。

あなたが神の国を今ここに見出されますならば、
あなたは一呼吸、一挙手、一投足にも神の力と生命(せいめい)が其処に、
あなたに於いて呼吸し、行動していることがわかるのです。

あなたの思いが、計画が、神御自身の思いであり、計画であることになるのです。
神御自身の思いや計画が成就しないということはないのです。

            <感謝合掌 令和2年7月5日 頓首再拝>

神の国の義しきを観よ - 伝統

2020/10/14 (Wed) 04:56:44


          *「光明法語(10月14日)」より

「先ず神の国と神の国の義しきとを求めよ。其の余のものは汝らに加えられるべし」と
イエスが言ったのは、彼の祈りが、対立的な一々の現象の悩みを「あり」として
取扱わなかったことを示している。

そこには「悪」や「病い」を争闘や抗争によって撃滅する何等の人間側の努力もない。
天の父がみ業(わざ)を為し給うのである。

吾等は唯それを観れば好いのである。
イエスが「われみずからにては何事をも成し得ず、天の父われにいまして成さしめ給う」と
言ったのは此処である。

            <感謝合掌 令和2年10月14日 頓首再拝>

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