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神の美

1:伝統 :

2016/06/01 (Wed) 03:52:55

このスレッドでは、(神の)美に関する情報を集めてまいります。

・・・

《美と価値と生命》

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より

柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。

「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」といちいち
自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。

悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。

美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。

褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。
褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。

価値とは生命とも同じことである。

            <感謝合掌 平成28年6月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2016/06/13 (Mon) 03:47:27


         *「光明道中記」(P72)より

人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。

人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。

人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。

経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。

道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。

美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。

「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。

            <感謝合掌 平成28年6月13日 頓首再拝>
3:伝統 :

2016/06/26 (Sun) 04:02:21

          *『善き人生の創造』第1章善き生活の創造原理(P9)より

「美」とは何ぞや。
単純なる野蛮人は、「美」とは「美しい物体」そのものだと思っているかも知れませんが、
物体そのものが美しいのではなく、物体の感覚的刺激を契機として、
実在界にある「美」の反映を見るのであります。

だから、活花(いけばな)の美を見ましても
必ずしも一個一個の「花」そのものが美しいのではなく、
「花」と「花」との間の「空間」に美を感ずるでありましょう。

人生の生活の「美」も、一つ一つの行為よりも
、一つ一つの行為をしてかくあらしめている無形の精神的なもの、
「三次元以上のもの」に美の本源があるのであります。


吾々が霊的な存在を知ることができるのも、物体の感覚的刺激を契機として、
それを感ずるのでありまして、丁度、小説を読んで作者の心を知り、音楽を聴いて
作曲家の魂にふれるのと同じことであります。

霊的な事物のみ実在でありまして、小説の筋や、楽譜などは
その奥にある霊的な事物の形にすぎないのであります。

            <感謝合掌 平成28年6月26日 頓首再拝>
4:伝統 :

2016/07/02 (Sat) 04:44:47


          *「光明法語」(7月2日)より

世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。

困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。

山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。

困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。

            <感謝合掌 平成28年7月2日 頓首再拝>
5:伝統 :

2016/07/17 (Sun) 04:00:39


          *『善き人生の創造』第1章善き生活の創造原理(P12~13)より

概括してギリシャでは、神の本性は「美」と認められていたのであります。
これがヘレニズム精神であります。

ローマでは、神は「正義」と認められていました。

旧約のユダヤでは、神は「正義」であると同時に、正義にそむく者えの「嫉妬」であり、
「復讐」であり、「神罰」でありました。

新約のキリストに於いて、神は初めて「愛」と認められました。

これがヘブライズム精神であります。

しかしそれらの神に対する観念は何れも偏っているのでありまして、
眞理ではありますが、全包容的ではないのであります。

神は「美」であると共に「正義」であり、「正義」であると共に「愛」であります。
「愛」であると共に「法則」でありますから、眼には眼を報い、歯には歯を報いる―――
一定の原因に対して一定の結果を与える――― 即ち復讐の神、神罰の神とも
見られることになるのであります。

しかし、その復讐は決して神罰を与えて《やれ》と云うような憎しみの感情ではなく、
法則が自働して、瓜を蒔いたら瓜が生り、茄子を蒔いたら茄子が生え、
誉めれば誉められ、陰口をきけば陰口をきかれる・・・となるのであります。


生長の家で説いている神は、これらの総ての内容を包蔵する神であり、美であり、調和であり、
正義であり、法則であり、愛である神であり、あらゆる点に円満なる神であります。

            <感謝合掌 平成28年7月17日 頓首再拝>
6:伝統 :

2016/08/02 (Tue) 03:49:46

          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月26日)より

どんな明るいものも、五官の表層を、視覚の表層を、触覚の表層を、
単に撫でかわいがるだけのものは低卑である。

《さび》と渋味とは日本人のみ知る深刻なる美である。
それは感覚の刺激を超えて、実相に突入する美である。

《さび》と渋味の中には落ちつきと平和があるが、
絢爛な五官的刺激の中には誘惑と頽廃と罪悪とがあるばかりである。

罪悪があるといっても、「罪悪」そのものが積極的に存在するというのではない。
「罪悪」とは「実相をツツミている」ということである。

《さび》と渋味の中には生命(せいめい)の悠久の美がシンボライズされているが、
互換的刺激は瞬間を追わしめて「生命(せいめい)の悠久」をツツミ蔽(おお)うばかりである。

            <感謝合掌 平成28年8月2日 頓首再拝>
7:伝統 :

2016/09/07 (Wed) 04:25:13


        *「光明法語」(9月7日)より

個別者(人間)が全体者(神)から発した者であるならば、
神の完全円満さや美しさが個別者に現れない理由は本来あり得ないではないか。

大自然の美や荘厳さは美しい花や巨大なる瀑布(ばくふ)や、渓谷や、
滔々たる大河の流れや、落日などに表現されているのであるが、

万物の霊長であり、神が自意識をもって顕現したところの
「人間」なる神の表現に美や荘厳さが完全に表れ得ない道理はないのである。

大自然における荘厳や美は自由選択をもっていない機械的荘厳と美である。

           <感謝合掌 平成28年9月7日 頓首再拝>
8:伝統 :

2016/09/30 (Fri) 04:26:59


       *「光明法語」(9月28日~9月30日)より

九月二十八日の法語 個性を通じての表現

神は自己を表現するのに、普遍であるばかりでは自己を表現することはできないのである。
普遍に満ちているものは空気の如く、エーテルの如く、それは何らの表現をもなし得ない。

表現は個性を通じてのみ行なわれるのである。
表現されたものは何らかの意味に於いて個性を有する。

桃には桃の個性があり、梅には梅の個性がある。
幾千個の桃にも決して同じ桃と云うものはないのである。

人間の個性も千差万別であって、同じ個性はない。
神は無尽蔵である。

他の人を自分の如くならしめようと縛る心を起してはならぬ。

              ・・・

九月二十九日の法語 神に一致する個性

神に一致する事は決して個性を没却する事ではない。
梅は純粋に梅の個性を発揮する事が神に一致する事なのだ。
桜は一層純粋にその個性ある美を発揮する事が神に一致する事なのである。

神は梅を通して自己の無限個性の一部を表現し、
桜と通して自己の無限個性の一部を表現し給う。

神は「無」にして「一切個性」であると言い得る。
一切個性が「無」の一つに統一せられてあるのが無相の神である。

七色が統一されて無色の太陽光線になっている如く、
神に於いては一切が内に包容されていて無なのである。

              ・・・

九月三十日の法語 協力の美しさ

個性が完全に発揮されたとき、それは美しい。
梅は梅として美しく、松は松として、竹は竹として美しい。

そしてそれ以上の段階美は如何にして発揮されるか。
それは夫々(それぞれ)に美しい個々のものが互いに協力する事によってである。

例せば松竹梅美しく配置することによって得られる。
互いに和解する事によってである。
天と地と人とは互いにその位置を異(こと)にしながら、しかも一つに渾然と調和する。

それが盆栽や生花(いけばな)の美である。

人間も一個人として無論美しいが互いに和し協力する美は交響楽の様に美しい。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=235

           <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>
9:伝統 :

2016/10/01 (Sat) 04:09:48


          *「光明法語(10月1日)」より

異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。

その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。

         <感謝合掌 平成28年10月1日 頓首再拝>
10:伝統 :

2016/12/06 (Tue) 04:20:29


         *「光明法語」より

十二月四日の法語 《不ぞろいの美しさ》 

すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。

左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。

活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。
天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、美しさなど見られない。

平等でないところに美があるのである。

・・・

十二月五日の法語 《自然の歪みの美しさ》 

茶の湯の茶碗の美も、人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。
若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら美しさなどはないであろう。

人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べるとその美しさは劣るのである。

大自然のもので、コンパスで書いたような、正円もなければ、定規で引いた様な直線もないのである。
しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、人間の眼の不揃いも美しいのである。

・・・

十二月六日の法語 《無理にたくむな》

人生の行路も樹木の枝の曲りのように迂余曲折しているものである。
迂余曲折しているままで美しいのであり、その儘その自然のゆがみにまかせて行けば
美しく豊富な結果が得られるのである。

そのまま自然の、歪みに任せて行こうとしないで、我(が)を出して一直線に引こうとしたり、
また無理にたくんで美しい曲線に曲げて行こうとしたりするから、美しい結果が得られないで
苦しまなければならないのである。

行雲の如く流水の如く、その儘に流れるとき何事も美しく成就する。

         <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>

11:伝統 :

2017/01/10 (Tue) 04:43:30


           *「光明道中記」(1月10日)より

【空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず。・・・空間の上に投影されたる生命の
  放射せる観念の紋(あや)。これを称して物質と云う。(『甘露の法雨』)】


「維摩経」に「心は内に在らず、外に在らず、中間に在らず」と説かれているが、空間は心が
認識作用を投影する印画幕として外界に仮に展開せしめたる面である。

画家の心の中にある「美」は空間的存在であるか。
空間的存在であるならばそれは何尺何寸であるか。

画家の心の中にある美は超空間的な存在であるから、それは寸法を超えたものである。

1号のカンヴァスに描けば1号のカンヴァスの大きさに現れ、
3号のカンヴァスに描けば3号のカンヴァスの大きさに現れるが如く、その美が投影される
「面」の寸法に準(したが)って無限に多種多様の寸法に現れ出(いで)得るが故に、
それ自身は大いさなきものである。

無寸法にして無限寸法のものであり、無空間にして無限相のものが生命であり、その美である。

生命はそのように、無空間の無限相の存在であると云うことが判れば、此の肉体の何処にも
自分の「生命」は無く、無空間の世界から、空間面に肉体と云う反影(リフレクション)を
投げかけているものが生命だと知れるのである。

だから生長の家では「肉体はない、生命のみある」と言うのである。

            <感謝合掌 平成29年1月10日 頓首再拝>
12:伝統 :

2017/01/24 (Tue) 04:56:04


          *「女性の幸福365章」(P74)より

悲劇にさえも其処に美がある。
悲しみさえも、それは生命(せいめい)の働きであるから
其処に美が構成されるのである。

人がその人生航路において右するも死、左するも死・・・の板挟みに立たされながら、
辛うじて「生」のバランスを保っているところには、
恰も生死の構図の不等辺三角形が、倒れんとして倒れないで、
不均衡の均衡を保っている美に類似した美しさがあるのである。

円盤投げ選手の姿勢の美しさや、体操選手の平均台上における美しいフォームなども、
不均衡の均衡、倒れんとして倒れざる、重圧に対してそれを克服しつつある
内部生命の美しさの表現である。

人生の重荷も、もしそれを私達がよく耐え忍ぶならば、
私たちはこの宇宙に何らかの「美」を創造しつつあるのである。

「私は今、この人生苦を耐え忍ぶことによって人生に“美”を創造しつつあるのだ」
という考えを起すならば、

無価値と見える人生に私たちは価値を見出し、
生きる希望と勇気とを与えられることになるのである。

            <感謝合掌 平成29年1月24日 頓首再拝>
13:伝統 :

2017/01/26 (Thu) 04:54:01


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月26日)より

どんな明るいものも、五官の表層を、視覚の表層を、触覚の表層を、
単に撫でかわいがるだけのものは低卑である。

《さび》と渋味とは日本人のみ知る深刻なる美である。
それは感覚の刺激を超えて、実相に突入する美である。

《さび》と渋味の中には落ちつきと平和があるが、
絢爛な五官的刺激の中には誘惑と頽廃と罪悪とがあるばかりである。

罪悪があるといっても、「罪悪」そのものが積極的に存在するというのではない。
「罪悪」とは「実相をツツミている」ということである。

《さび》と渋味の中には生命(せいめい)の悠久の美がシンボライズされているが、
互換的刺激は瞬間を追わしめて「生命(せいめい)の悠久」をツツミ蔽(おお)うばかりである。

            <感謝合掌 平成29年1月26日 頓首再拝>
14:伝統 :

2017/02/24 (Fri) 04:20:19


           *「光明道中記」(2月24日)より   

【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
                       (「生命の實相」第十九巻)】

美しく開く春の花を見るにつけても、その美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。
天地自然がどんなに美しくとも、若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。

天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。

若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような
顕微鏡的、機械的装置に過ぎないものだったら、

吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、そんな美術品も
ただ空間(あき)だらけな分子の機械的な集りとして観たであろう。

機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。

吾々の観る世界が美しく観えるのは、
吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。

吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。

ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。

先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。

            <感謝合掌 平成29年2月24日 頓首再拝>
15:伝統 :

2017/03/01 (Wed) 04:39:17


            *「光明道中記」(三月~万物めぐむ)より

人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。

人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。

人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。

経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。

道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。

美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。

「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。

            <感謝合掌 平成29年3月1日 頓首再拝>
16:伝統 :

2017/04/23 (Sun) 04:09:06


         *「生長の家」(昭和24年12月10日の法語)より

美しき花を咲くべき薔薇(ばら)が美しい花を咲かせないのは、
それだけ人類から美を奪っていることになるのである。

人間は、花よりも鳥よりも尚(なお)、美しくあるべく、
最高の傑作として人間を作り給うたのである。

その美しかるべき人間が美しく衣服をつけず、
蓬頭(ほうとう)乱髪、殊更(ことさら)に自分を醜くくしている如きは
人生から美を奪うものなのである。

神は決して、
人間をただ生活出来る物質以上のものを使ったら贅沢(ぜいたく)だなどと
咎(とが)めたまうほどケチではないのである。

生活の余剰のところに文化は生じ芸術は生れる。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

            <感謝合掌 平成29年4月23日 頓首再拝>
17:伝統 :

2017/05/08 (Mon) 04:38:02


          *『白鳩』(昭和42年12月3日の法語)より

   あなたは毎日、和歌を一首、又は俳句を
   一句かならず創作るようにして御覧なさい。

   自然を観、人生を観る心の態度が変って来るのである。

   今まで何の気なしに眺めていたこの世界と人生とから、
   今まで発見し得なかった意義とか、興味とか、新しさとかを見出して
   また別の世界が開けてくることになるのである。

   また絵心のある人は、毎日、何か自然界の景色でも植物でも見て、
   その形を簡単な線画でよいから写生するようにして御覧なさい。

   今まで気着かなかった自然界の美を発見し、
   神の叡智の素晴しさもわかって来るのである。

   自然の美を発見し、それを詩歌にうたい、絵に表現することを
   毎日の行事としている人に、悪い人はない、戦争などを好む人はない。

   大自然の奥にある美を感じとっているならば、
   物質や領土の奪い合いで血を流すことなどはないである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=782

            <感謝合掌 平成29年5月8日 頓首再拝>
18:伝統 :

2017/06/01 (Thu) 04:38:42

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より

柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。

「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」といちいち
自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。

悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。

美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。
褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。

褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。

価値とは生命とも同じことである。

            <感謝合掌 平成29年6月1日 頓首再拝>
19:伝統 :

2017/06/27 (Tue) 03:40:02


         *「光明道中記」(6月27日)より
美しき夢見る日

【高き理想、気高き感情、明るき心を持続するものには老衰は近附いて来ないのである。
                          (『生命の實相』第十二巻)】

私たちの家は海岸にあった。
私は一人暁方(あけがた)、和(なご)んでいる春の海の夜明を見るために
渚の方へ歩いていったのである。
少しも風のない海の水は鏡のように静かであり透(す)きとおっているのであった。

その海浜(かいひん)の透きとおった水の中から何とも言えない紅(くらな)いの花が、
臙脂(えんじ)よりも深い紅の花が、ポッカリと咲き出でているのである。

それはほんとうに現実の世界では全く見ること出来ない清まった花の姿であった。
わたしはあまりに美しいので声をあげた。
その声でわたしは眼が覚めて了ったのである。

眼が覚めてからもその夢の美しい印象は消えなかった。
わたしはこれ迄色々のところへ招かれて色々の景色を見たけれども、
こんなに清まった美しい景色と、清まった花とを見たことがないのであった。

私に歌が久し振りで出来た。
丁度その日が光明寮の卒業式であったので道場に列(なら)んでいる寮生たちを見ると
その夢の中の花の一つ一つが寮生の魂のように清く美しく感じられた。

  覚めてなお心に深くのこれるは海より咲ける紅いの花

            <感謝合掌 平成29年6月27日 頓首再拝>
20:伝統 :

2017/07/02 (Sun) 03:57:23


          *「光明法語」(7月2日)より

世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。

困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。

山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。

困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。

            <感謝合掌 平成29年7月2日 頓首再拝>
21:伝統 :

2017/07/19 (Wed) 04:26:42


      *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P162~163) より

《祝福すべきかな変化無常》

この世は無常の世界であり、変化の世界である。

その変化無常を、好転の方へ変化せしめるか、
凶転の方に変化せしめるかの
鍵を握っているのはあなた自身なのである。

若し変化無常の世界でなかったならば、
吾々は日本の景色に春夏秋冬の異なる美を
楽しむことができなかったであろうし、

幼児から少年少女への生長の悦び、
そして青年期の元気溌剌とした活動と進展の悦び、
そして家族をつくって家族相和す悦び、
老いて孫をいだく歓びなど

色々異なる悦びなどの境涯を体験することができなかったに相違ないのである。

 
朝を迎えて東天に太陽はさし昇る、
そして落日は黄金色に西海に沈むのだ。

何という荘厳! 

何という変化の美ぞ。

落日の反映を受けて、刻々、
紫から淡紅(うすべに)に、淡紅から淡紫に変化し行く富士の嶺。

そして虹(にじ)のような暈(くま)をもつ雲海によって
その麓(ふもと)をかこまれている富士の嶺。

私は、刻々その位置を変化する飛行機上から
この秀麗きわまりなき富士の山容を見て感嘆した。

若し富士にこの変化がなかったらそれは唯、死灰(しかい)の堆積。

ああ変化無常こそ神の生きた芸術である!

            <感謝合掌 平成29年7月19日 頓首再拝>
22:伝統 :

2017/09/07 (Thu) 04:51:51


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月7日)より

個別者(人間)が全体者(神)から発した者であるならば、
神の完全円満さや美しさが個別者に現れない理由は本来あり得ないではないか。

大自然の美や荘厳さは美しい花や巨大なる瀑布(ばくふ)や、渓谷や、
滔々たる大河の流れや、落日などに表現されているのであるが、

万物の霊長であり、神が自意識をもって顕現したところの
「人間」なる神の表現に美や荘厳さが完全に表れ得ない道理はないのである。

大自然における荘厳や美は自由選択をもっていない機械的荘厳と美である。

           <感謝合掌 平成29年9月7日 頓首再拝>
23:伝統 :

2017/09/27 (Wed) 04:45:16


         *『生命の實相』第8巻観行篇(P69~70)より

「間(あいだ)」に生命(せいめい)が顕われる

本当の美は、個々(ひとつひとつ)にあるのではない。

メーテルリンクの戯曲の科白(せりふ)は言葉と言葉との間(ポーズ)で
魂を語らせたが、なにによらず本当の美は「個」それ自体にあるよりも
いっそう多く個と個とを結び合わす「間(あいだ)」にあるのである。

一個の音韻はそれほど美しいとは言えないが、それが他(た)の音韻と結び合うとき、
一個の音韻それ自身がもたない美が音韻と音韻との「間(あいあだ)」に
でき上がるのである。

色彩でもそのとおりである。二つ以上の色彩が結び合うとき、
一個の色彩ではもたない美しさが、色彩と色彩との間(あいだ)に
でき上がるのである。

音楽も「間(あいだ)」にあり、美術も「間(あいだ)」にあり、
人間の生活も「間(あいだ)」にある。

「人間」とは誰が言い始めたのか知らないが、人間の生活は一個人にあるのではない。
個と個と結び合った「間(あいだ)」に人間の生活があるのである。

眼に見え、感覚に感ずる肉体の人は皆はなればなれの存在であるが、
これは朽ちゆく世間不実の存在であり、本当の人間ではない。

実在である人間はこの感覚に見える現象存在の「間(あいだ)」にのみ
顕われるのである。

感覚的存在を通して実相が見えるのではなく、感覚的存在と感覚的存との
「合い間」に実相人間があらわれるのである。

この「合い間」を描くのが芸術であり、
この合い間を生きるのが「愛」である。

           <感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>
24:伝統 :

2017/09/30 (Sat) 04:52:20


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月30日)より

個性が完全に発揮されたとき、それは美しい。
梅は梅として美しく、松は松として、竹は竹として美しい。

そしてそれ以上の段階美は如何にして発揮されるか。
それは夫々(それぞれ)に美しい個々のものが互いに協力する事によってである。

例せば松竹梅美しく配置することによって得られる。
互いに和解する事によってである。
天と地と人とは互いにその位置を異(こと)にしながら、しかも一つに渾然と調和する。

それが盆栽や生花(いけばな)の美である。

人間も一個人として無論美しいが互いに和し協力する美は交響楽の様に美しい。

           <感謝合掌 平成29年9月30日 頓首再拝>
25:伝統 :

2017/10/01 (Sun) 04:21:23


    *「光明法語」(10月の法語 神の国の義(ただ)しきを観る 10月1日)より  

【異なる者の渾一調和】

異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。

その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。

       <感謝合掌 平成29年10月1日 頓首再拝>
26:伝統 :

2017/11/01 (Wed) 05:01:10


       *美しき日本の再建(P125)より

”美”というものは、神の”生命の動き”《そのもの》が現象世界にあらわれた時に、
それが私たちの感覚に触れて”美”として感ずるのである。

色彩の美、音楽の美、匂いにあらわれたる美、味覚に感じられる美、肌にふれて
なめらかに感じられ、或いは突兀(とつこつ)として複雑な凹凸の組み合わせに
よって感じられる美 ―― それらはすべて実相界(神の国、”天”又は”天国”
とも称す)に”神の生命”の動きによって出現したる美が現象界に影を映した
ものである。

それらの美的感覚は必ずしも感覚器官の惑わしではないのである。
それらは、それぞれの「秩序の”場”」に於ける”神の生命”の動きが
表現されているのである。

       <感謝合掌 平成29年11月1日 頓首再拝>
27:伝統 :

2017/11/03 (Fri) 03:29:54


       *「光明法語」(11月3日の法語)より 

《無いもの》 は否定する必要もない。
病気の姿を思念をこらして一所懸命否定するのは、
病気を 《あり》 と認めて、それに対して戦っていることになる。

病気は益々あるかの如くその姿を 《あらわす》 のは
「《ありと認めて》」 いる念の力に支えられて姿を現すのである。

病気の念を捨てなければならない。
吾らは病気に対して戦う事も否定する事も要(い)らない。

吾らはただ人間が神の子であること、
美しいこと、健康であること、老いない、死なない事を
讃美して歌をうたえば好いだけである。

       <感謝合掌 平成29年11月3日 頓首再拝>
28:伝統 :

2017/11/18 (Sat) 03:22:34


       *美しき日本の再建(P125~126)より

眼、耳、鼻、舌、身の感覚器官によって感じられる色(しき)、声(しょう)、
香(こう)、味(み)、触の妙なるリズムはそれ自体に於いて、なんら
”悪”の要素を内に含むものではないのである。

それを私たちが感受することを希い、美しき色彩の交錯するリズムに見惚れ、
妙なる声音の交錯するリズムとメロディに傾聴し、馥郁なる香の匂いを賞(め)で、
舌の上を流れる美味を讃え、肉体の皮膚や粘膜から伝わって来る特殊の美感に
恍惚となることは、それ自体に於いて何ら”悪”の要素はないのである。

それが”悪”となるのは、それぞれの「秩序の”場”」にふさわしくなく、
あるべき秩序が破壊されたとき、それは”美”でなくなり、”醜(しゅう)”と
なるのである。

       <感謝合掌 平成29年11月18日 頓首再拝>
29:伝統 :

2017/12/03 (Sun) 04:44:35


         *「光明法語」(12月3日)より

そのままの美しさを知らねばならない。
そのままの美しさを殺した活花(いけばな)は美しいようでも真の美しさに欠けている。

どんな樹の枝の歪(ゆが)みにも、その自然の歪みのゆえに、美しさが満ちている。
それは画家がよく知っている。

どんな人間の顔もそのままが全体として調和した美しさをもっているのであって、
鼻の低い人は鼻の低いそのままが全体の顔の道具と調和しているのである。

若し隆鼻術でも施して、その鼻を人工的に高くしたら、その顔は全体の調和を失って了う。

       <感謝合掌 平成29年12月3日 頓首再拝>
30:伝統 :

2017/12/04 (Mon) 03:58:46


         *「光明法語」(12月4日)より

すべての人の眼は左右平等ではないのである。
左眼と右眼とは其の大きさが異(ちが)う。
そこに美しさが見られ、生命の動きが見られる。

左右平等では動きが見られないのである。
動きと云うものは二つのものの力の相違から来るのである。

活け花にも天と地との位(くらい)をつくった其処に生動の姿をあらわす。
天は高く地は低く、そこに美が構成せられる。
もし天地の位置を、平等の高さに置いて活花を活けるならば、美しさなど見られない。

平等でないところに美があるのである。

       <感謝合掌 平成29年12月4日 頓首再拝>
31:伝統 :

2017/12/05 (Tue) 03:35:56


         *「光明法語」(12月5日)より

茶の湯の茶碗の美も、人間的に巧(たく)まない自然の歪みの曲線にある。
若し機械にかけてあれを人工的に正図にしてしまったら美しさなどはないであろう。

人間は兎(と)もすれば人工的機械的な直線をつくりたがる。
けれども人工的な機械的な直線は自然のたくまない線に較べると
その美しさは劣るのである。

大自然のもので、コンパスで書いたような、
正円もなければ、定規で引いた様な直線もないのである。
しかもその歪んでいる樹木の枝の美しさ、人間の眼の不揃いも美しいのである。

       <感謝合掌 平成29年12月5日 頓首再拝>
32:伝統 :

2017/12/21 (Thu) 03:23:28


       *『第二青年の書』第六章 より

次には「美」ということであります。
『甘露の法雨』には「神があらわるれば、乃ち善となり、義となり、
慈悲となり、調和おのづから備わり・・・」とありますが

「美となり」と書いてありませんから、
生長の家では「美」ということは説かないのですか
――と北海道の講習会でお尋ねになった方がありましたが、

この「調和」ある秩序が備わるということが「美」なのであります。

写真一つ写して、それを引伸ばしましても、その引伸ばす時に何処を、
どうトリミングして、明暗のバランスや、形のバランスをどうとるか
ということによって、その写真の表現する「美」の程度が変わって来るのであります。

これは、美というものは存在の奥に何処にでも、
その實相として内在するのであります。

それをジッと心で見詰めていると、その美が浮き上がって来る。
その浮かび上がって来た部分だけを残して、他を切り取ってしまうのであります。

彫刻家は、大理石とか樟とかいう彫刻の材料になるものをジッと見詰めていると、
そこから美の象(かたち)が浮かび上って来る、その象を残して、
ほかを削り落とすと美しい彫刻が出来上がる。

美は事物のその奥に「實相」としてあるもの、それをジッと見詰めて見出し、
それを表現するのが美術家又は芸術家であります。

(谷口雅春先生に帰りましょう・第二「『第二青年の書』」
http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1943
日時:2017年12月13日 (水) 10時17分 より転写)

       <感謝合掌 平成29年12月21日 頓首再拝>
33:伝統 :

2018/01/10 (Wed) 04:19:42


           *「光明道中記」(1月10日自在を得る日)より

【空間は却って生命の造りたる『認識の形式』にすぎず。
・・・空間の上に投影されたる生命の  放射せる観念の紋(あや)。
これを称して物質と云う。(『甘露の法雨』)】


「維摩経」に「心は内に在らず、外に在らず、中間に在らず」と説かれているが、
空間は心が認識作用を投影する印画幕として外界に仮に展開せしめたる面である。

画家の心の中にある「美」は空間的存在であるか。
空間的存在であるならばそれは何尺何寸であるか。

画家の心の中にある美は超空間的な存在であるから、それは寸法を超えたものである。

1号のカンヴァスに描けば1号のカンヴァスの大きさに現れ、
3号のカンヴァスに描けば3号のカンヴァスの大きさに現れるが如く、
その美が投影される「面」の寸法に準(したが)って無限に多種多様の寸法に
現れ出(いで)得るが故に、それ自身は大いさなきものである。

無寸法にして無限寸法のものであり、
無空間にして無限相のものが生命であり、その美である。

生命はそのように、無空間の無限相の存在であると云うことが判れば、
此の肉体の何処にも自分の「生命」は無く、無空間の世界から、
空間面に肉体と云う反影(リフレクション)を
投げかけているものが生命だと知れるのである。

だから生長の家では「肉体はない、生命のみある」と言うのである。

            <感謝合掌 平成30年1月10日 頓首再拝>
34:伝統 :

2018/01/26 (Fri) 03:44:22


          *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(1月26日)より

どんな明るいものも、五官の表層を、視覚の表層を、触覚の表層を、
単に撫でかわいがるだけのものは低卑である。

《さび》と渋味とは日本人のみ知る深刻なる美である。
それは感覚の刺激を超えて、実相に突入する美である。

《さび》と渋味の中には落ちつきと平和があるが、
絢爛な五官的刺激の中には誘惑と頽廃と罪悪とがあるばかりである。

罪悪があるといっても、「罪悪」そのものが積極的に存在するというのではない。
「罪悪」とは「実相をツツミている」ということである。

《さび》と渋味の中には生命(せいめい)の悠久の美がシンボライズされているが、
互換的刺激は瞬間を追わしめて「生命(せいめい)の悠久」を
ツツミ蔽(おお)うばかりである。

            <感謝合掌 平成30年1月26日 頓首再拝>
35:伝統 :

2018/02/12 (Mon) 03:37:27


       *「第二青年の書」より

だから「美」は物質そのものにあるのではなく、
物質の、その奥にあるのであります。
即ち「實相」が美なのであります。

その「美」があらわれて来るためには、
調和ある秩序が必要なのであります。
秩序がなければ混沌であります。

「生命」とは混沌に対して秩序を与える活力であります。

「無」の世界を征服して、そこに原子を造り、それを集合せしめて天体を造り、
その天体に色々の鉱物の結晶や植物や動物をおつくりになったのが、
「神」即ち「生命」の本体なのであります。


活花の美というようなものでも所伝によれば、
天・地・人とか眞・副・体の三段階に秩序がある。

新しい活花の流儀もありますけれども、何らかの秩序を与えなければ、
内部にある美が表現されないのであります。

単に新しければよいというので、箒を逆さまに立てて頬かぶりさせた側に、
薪や枯木をただ雑然と並べて見て、今迄になかった新規な排列だと、
ひとり自慢で前衛派の華道だなどと言ってみても
それは「美」というものではありません。

兎も角、たとい前衛派でもそれが「美」というものを表現しているとするならば、
必ずそこになんらかの“秩序〟が創作されていなければならないのです。

もっとも、前時代の人たちが
「美」を表現するために造った「形の秩序」というものは、
生きた精神を伝承することを怠って、その形だけを弟子が真似て行きますと
それは形の模倣だけになってしまって、生きた生命の表現としての「秩序」ではなく、
「形骸だけの秩序」になってしまいます。

「形骸」だけになると、形は整っていいるようでも
「生命感から来る美」というものがあらわれていなくなります。

人間でも若くて生命感が溢れている者だったら、
多少、形はそれほど美人というほどでなくとも、
形を超えた「美」というものがあらわれております。

これが「美」は「物質」そのものにない証拠であります。

それで芸術家は先人の「形」を学んで、
先人は如何に大自然又は人間から「美」を見出したかを勉強し、
「美」を見る眼を養い、しばらくはその「形」を踏襲することによって、
先人の発見した美に近づいて行くのでありますが、

「形」ばかりを真似ているのでは生命感があふれ出て来ないのですから、
形の踏襲が幾時代も続いてそれが形骸だけになって来ますと
「形」を破壊しようとする運動が起こって来るのが常であります。

しかし「形」を破壊したばかりで、そこに「新しき秩序」というものが
創造されてなかったらそこには雑然があるばかりであり、混沌があるばかりであり、
生命も美も表現されていない、それは「新しかる」ばかりであって、
かえって退歩しているということになるのであります。


   (谷口雅春先生に帰りましょう・第二「『第二青年の書』」より転写
    日時:2017年12月14日 (木) 11時14分 名前:平賀玄米
      http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1943

            <感謝合掌 平成30年2月12日 頓首再拝>
36:伝統 :

2018/02/24 (Sat) 04:01:50


           *「光明道中記」(2月24日 心の眼ひらく日)より   

【大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心が生ずる筈がない。
                       (「生命の實相」第十九巻)】

美しく開く春の花を見るにつけても、その美しさを味わう心の不思議さに驚嘆される。
天地自然がどんなに美しくとも、若し吾々の心に「美」が宿っていなかったら、
天地自然の美は存在しなかったであろう。

天地自然の美、梅の花、桜の花、桃の花・・・の美。
それら凡てを味わうことが出来る「大いなる美」が人間に宿っているのである。
《人間は美しきものなのである》。

若し「人間」の知覚力が分析的な測定機のような顕微鏡的、機械的装置に
過ぎないものだったら、吾々はどんな美人をも粗面の醜婦と観、
そんな美術品もただ空間(あき)だらけな分子の機械的な集りとして観たであろう。

機械的な心に観られた世界は機械的なものに観える。
そこには「美」は存在しないのである。

吾々の観る世界が美しく観えるのは、
吾々が「美しく観える」立場から万象を見ているからである。
吾々は最も美しく観える寸法に於て人間を観、天地自然を観ているのである。
美は吾々の観る心によってのみ発掘される。

ものを暗く観る立場から観ている者は盲人である。

先ず心の眼を啓くことが第一である。
心の眼明るければ世界は明るく、心の眼瞑(くら)ければ世界は暗い。

            <感謝合掌 平成30年2月24日 頓首再拝>
37:伝統 :

2018/03/01 (Thu) 04:48:37


        *「光明道中記」(P72)より

人間は宇宙の生命が咲き出た美花である。
それに気着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。

人間自身が花であると云うことに気が着いたならば、
人間はただ美しく生きることに懸命になれるに相違ないのである。

人間の価値には、美的価値と、道徳的価値と、経済的価値がある。

経済的価値とは物の生産と消費との関係に於ける価値である。
経済的価値を生産のみにあると思うのは間違である。
生産と消費との調和に価値が生まれるのである。

道徳的価値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの価値である。
経済的価値も、道徳的価値も、行(ぎょう)を通してのみ、その価値を成就する。

美的価値は離れて観る価値であるから、
行と最も縁遠いところの価値であるが如く思われる。
併し、「美」もまた行を離れて存在し得ない。

「美」は紋理(もんり)であり、相(すがた)であるが、
相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、
行(ぎょう)なくんば美もまたないのである。

            <感謝合掌 平成30年3月1日 頓首再拝>
38:伝統 :

2018/03/29 (Thu) 03:48:34


         *「第二青年の書」より

「形」ばかり真似ていては生命も美もあらわれないという実例ではこんな話があります。
私が諸方へ旅行しますと、講演の控室で薄茶を出されることがります。
その茶碗を私の前に置く前に茶碗を一、二回廻して置かれるのですが、
あれは何遍廻すのが礼儀作法か、出す時には何遍廻すのか、
受けて飲むときには何遍廻せばよいのだろうか

――そう考えると、お茶の作法を正式に習ったことのない私には窮屈で、
下手に茶碗を廻して笑われやしないかと思うと堅苦しくて仕方がない。

これはまるでお客様を苦しめるようなものだと思っていたのであります。

ところが或る日、或る場所で、生長の家の花嫁学校の卒業生が、
私にお茶を淹れてくれたのであります。

その時そのお嬢さんが茶碗をこう廻して私の前へ差出した。
その態度、全身の動き、手つき、表情などが、
「この茶を先生に差上げるのだから、茶碗の表を先生の方へ向けましょう」
と尊敬と親和との感じが、その清らかな手に寂(しず)かにあらわれていたのです。

その時私は、茶碗は「何度廻す」というような「形」のことではない。
「形」は心から自然に出て来る、これこそ茶の湯の極意の
「和敬清寂」だとわかったのです。

「形」ばかり教わって、「形」ばかり真似ている人には、
同じように茶碗を廻しても、その親和と、尊敬と、清らかさと、寂かさとが
あらわれていないから、お客様を窮屈がらせるだけだったのですけれども、
「形」の奥から生命と精神とがあらわれている、
そこに動作に完全な生命或る秩序があらわれていたのであります。

ダンスや歌謡にしましても、マンボ、カリプソ、ロカビリー等、
色々新しい踊りや歌の形式が出て来ますけれども、
これらも古い形骸としての秩序に飽き足りないで形を破ろうとする
努力のあらわれでしょうけれども、これらの現状は、
古い形の秩序が破られているだけでまだ新しい秩序が完成していないのです。

芸術と見世物(ショー)とは違うのです。
“ショー〟はクスグリや奇抜や滑稽やオドケを性的刺激に混入して
調剤すれば出来ますけれども、「美」というものは“ショー〟ではない
ということを知らなければならないのであります。

それは秩序を通してあらわれる「實相の表現」であるということでありまして、
“性的興奮〟に導くものを「美」だと考えたり、“性的興奮〟を「美感」だと
間違えてはならないのであります。


   (谷口雅春先生に帰りましょう・第二「『第二青年の書』」より転写
    日時:2017年12月15日 (金) 10時14分 名前:平賀玄米
      http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1943

            <感謝合掌 平成30年3月29日 頓首再拝>
39:伝統 :

2018/04/18 (Wed) 03:34:57


       *「第二青年の書」より

私は早稲田の文科に在学中、オスカーワイルドに傾倒したものであります。
オスカーワイルドは貴族であり、有名な作家であり、美貌であり、
金持ちであるので、感覚的に自分の欲するあらゆる快楽を貪った。

そして肉体的感覚に対して快美の感じを与えるものを
「美」だと称したのであります。

彼の論文の中には、「色彩の感覚する道徳を超えている」と言って、
「美」は「道徳以上のもの」という耽美主義的人生観をもっていて、
保守的な服装を好む英国人の中にあって、
色彩の絢爛を競う様な“美的衣装〟というのを着て街を歩いたりしたものです。

女出入りも無数にあり、感覚的に快感として感じられるあらゆる行為を
「美的行為」として行ったのでありますが、感覚に感じられる快美の感じは、
刺激が同じものが繰返されると快美でなくなる。

ついに女生との交渉には何ら美的感覚というようなものを感じられなくなり、
新鮮の感覚を求めてついに男色事件を起こし、法に触れて
レーディングという所の獄舎に未決囚として拘置所につながれる事になった
のであります。

愛の低い段階は、物質や肉体の美にあらわれる。
そしてそれに引きつけられます。

併し愛が段々深まって来るにつれて、物質を超え、肉体を超えて、
人類を救うことに喜びを感ずるようになってあらわれて来るのであります。


そこに深い魂の美は愛と一致し、愛は「善」と一致することになるのです。
何故なら愛は神より出でるものであり、實相より出でるものであるからです。

實相はマコトであり、實相を生きることは「眞」を生きることになります。
そして「眞」を生きることは、「愛」を生きることになり、
「愛」を生きることは生命の眞を生きることになり、
それが同時に美を生きることになります。

ここに眞・善・美の生活が一致することになるのであります。


   (谷口雅春先生に帰りましょう・第二「『第二青年の書』」より転写
    日時:2017年12月16日 (土) 11時21分 名前:平賀玄米
      http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1943

            <感謝合掌 平成30年4月18日 頓首再拝>
40:伝統 :

2018/05/13 (Sun) 03:29:24


        *『真理』第3巻 初學篇(P225~226)より

ひとの富を、ひとの着物を、ひとの家を、ひとの出世を、ひとの美しさを
悦びあじわう心こそ、いつも楽しい心、平和の心です。

吾々は形の美しい顔や、健康な色沢を見ますと楽しい感じがしますが、
それよりも尚美しいのは、魂の美しさ、心の美しさに輝いている顔であります。

そういう顔は、どんな質素な着物を着ていましても、
素晴らしく美しく見えるのであります。

魂の美しさに輝く顔になるには、心が美しくならねばなりません。

つねに人にあたえて、その悦びを見ることを楽しむ心になっていますと、
いつの間にか自分の顔が美しく輝いて見えるようになるのであります。

こんな美しさを人格の美しさといいます。

最高の美しさは生まれつきの顔の形ではありません。
仲のよい友達の深切なときの顔は、どんな生まれつきの顔でも
一番美しく楽しく見えるではありませんか。

            <感謝合掌 平成30年5月13日 頓首再拝>
41:伝統 :

2018/06/01 (Fri) 03:19:25


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(6月1日)」より

柳は緑、花は紅(くれない)、千紫(し)万紅、みなとりどりに美しい。
けれどもそれが所を得なかったら美ということはできないのである。
柳は緑なのがよいが、その緑なのが一幅の絵の美を剥(そ)ぐこともある。

「これがどうして悪であるか、この行為はどうして悪であるか」といちいち
自分の行為の理由を挙げて弁解する人があるが、
悪とはものそのものには無いのであるから、
いちいちの行為を挙げれば悪はひとつもないのである。

悪だということは、ただ一つ相応(ふさ)わぬという状態である。
悪とはものそのものではなく、状態なのである。

美と価値と生命とは一個のものの中にはなくて配合の中にあるのである。
褐色の絵具は糞色で汚れているとも考えられるが、
朽葉色(くちばいろ)で趣きがあるともいえる。

褐色の絵具そのものは美でもなく醜でもない。
それを美たらしめ醜たらしめるのは配合にあるのである。
価値とは生命とも同じことである。

            <感謝合掌 平成30年6月1日 頓首再拝>
42:伝統 :

2018/06/19 (Tue) 03:33:15


        *「神道 感謝のこころ」葉室頼昭・著(P37~38)より

もともと日本人は、心を大切にしてきました。

日本人の心の原点にあるのは、
神さまに悦んでいただけるように感謝を捧げる祭りの姿です。

人びとは長い間、豊かな自然の声に耳を傾けて暮らしてきました。

たとえば、道端に咲く小さな花が、自分の美しさを見せようとしてではなく、
与えられた命を精いっぱい生きようとして咲いている姿に、
神さまの真実の美の素晴らしさを見出してきたのです。

そういう神さまの「美」はいたるところに溢れていますから、
どんな生き物にも内には神さまが宿っていて、
みな神さまのお心によって生かされているということに人々は気がついていたのです。

そして他人や自然に対しても敬いの心や感謝の心を忘れず、
心豊かに自然と共生してきたのです。

            <感謝合掌 平成30年6月19日 頓首再拝>
43:伝統 :

2018/07/02 (Mon) 04:42:58


       *「光明法語」(7月2日)より)

世の中に無駄なものは一つもない。
困難さえもその人に知能を付与する。
困難の中にあって毅然として立つ者には荘厳の美が備わる。

困難は吾々に或る価値を付与するものだったのである。
海浜の巌頭に立つ松には平地に育った松に見られない
曲折蟠屈(はんくつ)の美が見られる。

山に登る馬の後脚は正確に前脚の痕跡を踏んで墜落することなく、
平地を歩む馬は遂に後脚の正確なる歩度を失う。

困難は困難にあらず、平易は平易に非ず、
曲るべきは曲り、屈すべきは屈し、
或は峻(けわ)しく或は急にして生命愈々美しく荘厳を極(きわ)む。

            <感謝合掌 平成30年7月2日 頓首再拝>
44:伝統 :

2018/07/13 (Fri) 04:25:41


           *美しき日本の再建(P126)より

絵画に於いては色彩と形のバランスが崩れ、調和が破られ、あまりにドギツすぎたり、
あまりにも怪奇な色と形の組み合わせになったとき、
人間の生命の自然が反発を感じ、それを”醜”と感ずるのである。

絵画に於いて、色彩と形の調和が破られて、それが人間生命の内的秩序と
調和しなくなったとき、それが醜に感じられるのであるけれども、

それが”生命の動き”の表現である限り、それの表現が異常であり、
”醜”に感じられる場合に於いてすらも、その”醜”の奥に吾々は、
なお”美”を感ずることができるのである。

それはその奥底に依然として、”生命”が働いているからであり、
”生命”は”神の本質”であるからである。

それは例えば、普通の人には異常に感じられ、醜に感じられる所の
サイケデリックな模様や絵画に於いても、ある人にとっては、
”怪奇な美感”が感じられるのがそれである。

            <感謝合掌 平成30年7月13日 頓首再拝>
45:伝統 :

2018/07/28 (Sat) 03:36:37


           *「美しき日本の再建」(P126~127)より

音の世界。声の世界に於ける美も、そのヒビキの調和によって
”美”が感じられ、それを傾聴することによって吾々は恍惚たる境に
入ることができるのである。

その調和にも色々な段階があり、あまりに平板、単調で調和しているために
刺激が少なく、新鮮味を感ずることができない音楽もある。

そのメロディーの一部分に全体の調和を破るような鋭い変化があるために、
かえってその音楽の美が生きて来ることもある。

それは恰も人間の顔が、あまりに類型的な市松人形的に整った顔よりも、
少し形の崩れたところがあり、それがかえってその人の性格の特長を
表していて、魅力的に感じられるのにも似ているのである。

ほおtんど騒音にちかいようなジャズにも生命の激しい噴出があり、
その生命の激しい噴出が、単に穏やかな音楽よりも
人を魅(ひ)きつけ得ることもあるのである。

            <感謝合掌 平成30年7月28日 頓首再拝>
46:伝統 :

2018/08/19 (Sun) 04:49:28


          *「神真理を告げ給う」(P172)より

歌手は何故、歌を歌わずには居られないのか。
それは歌手自身の内にすでに歌があり、歌の声の美があるから
それを表現せずにはいられないのである。

画家は何故、絵を描かなければならない衝動にかられるのか。
それは画家の心の中に、既に表現されるべき”美”のイメージが
あるからである。

作曲家は何故作曲したくなるのであろうか。
彼は自己の内にある音楽的メロディが中から、表現する衝動が
湧き起こって来るからである。

”内”にあるものは”外”に表現されるとき、
その存在の意義を完成する。

歌手の内にある音楽美はそれが歌われて
外に表現されたとき、その存在の意義を完成する。

画家の”うち”にある”美”のイメージは、それが描かれて
”外”に表現されたとき、その存在の意義を完成する。

”内”にあるものは”外”へと発動するところの陽性の力であり、
”外”はその発動を、そのままに受け止めてそれを形象(かたち)にまで
表現するのである。

            <感謝合掌 平成30年8月19日 頓首再拝>
47:伝統 :

2018/09/07 (Fri) 04:41:27


       *「光明法語」(9月7日)より

個別者(人間)が全体者(神)から発した者であるならば、
神の完全円満さや美しさが個別者に現れない理由は本来あり得ないではないか。

大自然の美や荘厳さは美しい花や巨大なる瀑布(ばくふ)や、渓谷や、
滔々たる大河の流れや、落日などに表現されているのであるが、
万物の霊長であり、神が自意識をもって顕現したところの
「人間」なる神の表現に美や荘厳さが完全に表れ得ない道理はないのである。

大自然における荘厳や美は自由選択をもっていない機械的荘厳と美である。

           <感謝合掌 平成30年9月7日 頓首再拝>
48:伝統 :

2018/09/26 (Wed) 04:38:13


           *「美しき日本の再建」(P127~128)より

眼に感ぜられる美や耳に感ぜられる美は、
嗅覚又は味覚又は触覚によって感じられる美よりも、
一層高い秩序の美が表現されているのである。

それは肉体から離れたところにあるものの差が感じられる。

肉体に即(つ)いたものはそれだけ”低い美”であり、それを天地に分類する
ならば、”地的”な美であり、肉体から離れて感じられるところの”美”は、
”天的”な一層高い秩序にランクされる美であるということができるのである。

日本人は古来”地的!な美よりも”天的”な美を愛したのである。

”天的な美”を好む者は、表現のテカテタと光る絢爛豪華を嫌うのである。
それは水墨画の美の如く”寂”の姿を奏(かな)でる。

そのような場合、表面に顕れた美はただ内部に奥深く秘められている
”天的な美”の象徴として用いられるのである。

それは「奥ゆかしい」という形容詞が最もふさわしいような、
奥に秘められた”ゆかしさ”の表現となるのである。

外から塗りたくったり、外から盛りあげた美ではなくて、内にある”天的な美”が
かすかに内から囁(ささや)くようにあらわれているところに何とも言いがたい
「奥ゆかしさ」の感じがあるのである。

日本民族は古来、そのような美を愛して来た。

           <感謝合掌 平成30年9月26日 頓首再拝>
49:伝統 :

2018/09/30 (Sun) 03:10:21


          *「光明法語」(9月30日)より

個性が完全に発揮されたとき、それは美しい。
梅は梅として美しく、松は松として、竹は竹として美しい。

そしてそれ以上の段階美は如何にして発揮されるか。
それは夫々(それぞれ)に美しい個々のものが互いに協力する事によってである。

例せば松竹梅美しく配置することによって得られる。
互いに和解する事によってである。

天と地と人とは互いにその位置を異(こと)にしながら、
しかも一つに渾然と調和する。

それが盆栽や生花(いけばな)の美である。

人間も一個人として無論美しいが互いに和し協力する美は交響楽の様に美しい。

           <感謝合掌 平成30年9月30日 頓首再拝>
50:伝統 :

2018/10/01 (Mon) 04:42:29


        *「光明法語(10月1日)」より

異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ
完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。

その完全なる美の極致の一つは交響楽である。
各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど
全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら
渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。

           <感謝合掌 平成30年10月1日 頓首再拝>

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