伝統板・第二 171679

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素直(すなお)

1:伝統 :

2016/06/01 (Wed) 03:41:18

このスレッドでは、「素直」に関する情報を集めてまいります。


素直第一の日

        *「光明道中記」(6月1日)より   

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」(「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

            <感謝合掌 平成28年6月1日 頓首再拝>
2:伝統 :

2016/06/11 (Sat) 04:24:21


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著

(1)素直な心とは

   素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。
   また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります。

(2)第1条 私心にとらわれない

      素直な心というものは、私利私欲にとらわれることのない心、
      私心にとらわれることのない心である。

   素直な心というものの内容のひとつには、自分だけの利益や欲望にとらわれることのない、
   いわゆる私心にとらわれない、ということがあげられると思います。

   ふつう一般にいって、私心というか、私利私欲を求める心というものは、
   お互い人間が生きているからには当然あるものというか、当然働くものでありましょう。

   私心が全くない、というような人間は、いってみれば俗事を超越した神の如き聖人であって、
   お互い凡人がそう簡単に到達し得る境地ではないと思います。

   やはり、ふつうの場合は、それなりの私心をもって日々の生活を営み、
   活動を続けているのが、お互い人間の姿といえるのではないでしょうか。
   また、それはそれでよいと思うのです。

   けれども問題は、その私心にとらわれ、私利私欲の奴隷になってはならないということです。
   私心にとらわれて物を考え、事を行うということになると、
   やはりいろいろと好ましからざる姿が起こってくると思うのです。

   たとえば仮に政治の衝にあたる人が私心にとらわれて
   自分にばかり都合のいい政治をおこなうとしたらどうなるでしょう。

   そういう姿からは国民の多くがいろいろな迷惑をうけ、
   多大な損害をこうむることにもなりかねないでしょう。

   そしてそれはその政治家自身にも、国民の支持が失われるなどの
   大きなマイナスとなってはね返ってくると思います。

   だからお互いに素直な心になることが大切です。
   素直な心になったならば、もちろん私心は働くけれども、それにとらわれることなく、
   他の人びとのことも十分配慮する、というような姿になると思うのです。

            <感謝合掌 平成28年6月11日 頓首再拝>
3:伝統 :

2016/06/20 (Mon) 04:46:40


           *『人生読本』(P76~77)より

同じことをお父さんに言っても、叱られる場合と、叱られぬ場合とがあります。
なぜそうなるかを考えてみたことがありますか。

それはお父さんの御機嫌の好い時は叱られないで、
お父さんの御機嫌の悪い時は叱られるのだとお考えになりますか。
必ずしもそうばかりではありませんよ。

素直に無邪気に物が言えた時には、その人の眼の色にも、顔つきにも、言葉つきにも、
明るい、生き生きとした、伸び伸びといたところがでているから、
その眼の色を見、顔を見、言葉を聞くと快い気持ちになって叱れなくなるのです。

同じ人でも、無邪気で素直であるときと、無邪気で素直でない時とは、
こうも形にあらわれ方が異うのですよ。

言葉、形、さては1本の線を引くのだって、
無邪気に素直に自分の本物を出すようにすれば、
皆から喜ばれるのです。

入学試験を受けるコツもこれですよ。

無邪気にやれば覚えただけでは皆出てくるが、
無邪気な素直な心を出せないで、恐れていると、
憶えているのまで忘れてしまって、出て来ないことがあります。

            <感謝合掌 平成28年6月20日 頓首再拝>
4:伝統 :

2016/06/25 (Sat) 04:39:20


           *「光明法語」(6月25日)より

天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。
静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 平成28年6月25日 頓首再拝>
5:伝統 :

2016/07/03 (Sun) 04:18:45


         *「光明法語」(7月3日)より

   最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。
   それは「ハイ」の一語である。
   一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

   汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。
   然してこれを實行せよ。然(しか)らば必ず成就せん。

   「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
   如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
   「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

   「ハイ」は汝を自由ならしめる。
   「ハイ」は實相その儘である。

            <感謝合掌 平成28年7月3日 頓首再拝>
6:伝統 :

2016/07/19 (Tue) 03:47:06


           *『人生読本』(P77~78)より

無邪気といったら、どんなことだといいますと、気取らぬことです。
自分のそのままを出すことです。

写真によく映りたいと思って固くなると変な顔に映るでしょう。
知らぬ間にパッと写されると、かえって柔らかい優しい顔に
映っているでしょう。

あの固くなるのが無邪気でないのです。
あの固くなるのが素直でないのです。
固くならないそのままが、無邪気で素直なのです。

人間は「神の子」ですから、そのままが一等好いのです。

無邪気で素直であれば、目の色から顔貌、動作、技芸、
もの憶えまでよくなるのです。

そのままをなんのこだわりもなく出すとき、
吾々の「内にある最も佳いもの」がスラスラ出るのです。

皆さん、そのままになりましょうね、
素直になりましょうね、こだわりの無い心になりましょうね。

            <感謝合掌 平成28年7月19日 頓首再拝>
7:伝統 :

2016/08/03 (Wed) 03:39:42


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

(第2条)

素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても、謙虚に耳を傾ける心である

 
戦国時代の武将、黒田長政は、“腹立てず”の異見会という会合を
月に二、三度ずつ催していたといいます。

参加者は家老をはじめとして、思慮があって、相談相手によい者、
またはとりわけ主君のためを思う者など六、七人であったということです。

 
その会合を行う場合には、まず長政から参加者に対して次のような申し渡しがあります。

「今夜は何事をいおうとも決して意趣に残してはならない。他言もしてはならない。
もちろん当座で腹を立てたりしてはならない。思っていることは何でも遠慮なくいうように」

そこで一座の者も、それを守る誓いを立てた上で、
長政の身の上の悪い点、家来たちへの仕打ち、国の仕置きで道理に合わないと思われる点など、
なんでも低意なく申し述べるわけです。

過失があって出仕をとめられた者や扶持をはなれた者のわびもいう。
そのほかなにごとによらず、通常の場合には口にしにくいことをいい合いました。

もちろん長政も人間です。
だから自分の悪い点を家来が面と向かって指摘したなら腹も立つでしょう。
しかし、そこで腹を立てればもうおしまいです。

だからそのことをあらかじめ考えて、
会合の前に“腹を立ててはいけない”というルールをお互いに誓いあって
万全を期していたわけです。

まことにゆきとどいた姿といえるのではないでしょうか。

長政がそういう姿の会合を続けていたということは、
一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、
それは改めなければならないから教えてもらおう、
というような謙虚な心をもっていたからではないかと思われます。

そういう謙虚さはどこから出てきたかというと、
それはやはり素直な心が働いているところから出てきたのではないかと思うのです。

謙虚な心で衆知に耳を傾けるということは、
いつの時代どんな場合でも非常に大切なことですが、
素直な心が働けば、そういう姿がおのずと生まれてくるのではないかと思います。

            <感謝合掌 平成28年8月3日 頓首再拝>
8:伝統 :

2016/08/15 (Mon) 04:42:41


           *「常楽への道」吉田国太郎・著(P342)より

素直に素直に、神の生命(いのち)に素直に、
自己に宿る神性仏性に素直に 今を生かしもて 行くのである。

行ずることが大切である。
行をして、神想観の延長であらしめる事が大切である。

真行(しんぎょう)とは神想観の延長のことである。

此の行によって いのちの世界の霊々妙々なる自由と歓喜は
はじめて此処に実現するのである。(二一・三)

            <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝>
9:伝統 :

2016/08/17 (Wed) 03:16:04


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月17日>(P55)より抜粋

家庭光明寮は婚前の処女に花嫁としてのあらゆる資格を与えるために訓練する学校であるが、
ある時、その中に一度結婚して、姑との折合いが悪くてついに離婚になった美しい娘が、
もう一度花嫁としての修行をするため寮生の中に混じっていた。

彼女は目立って美しかったが、目立って知的ですましこんでいるので、
他の寮生とが全然異なる雰囲気を持っていた。

なぜこの美しい知的な娘が結婚生活において今まで不幸であったのだろうか。

それは彼女自身が間もなく「他の寮生たちが何でも無邪気に、
箸の転んだのにまでも愉快そうに笑うのが低級に見えて皆さんと合わない」と
申し出たことによってハッキリわかったことであった。

彼女は何事にも素直にそのまま美しいと
無邪気に受け容れる性質を持っていなかったのであったのである。

素直に笑う事ができないものは
「笑う門に福運来たる」の法則にすでに背いているのである。
その上、まだ素直に笑っている少女たちを低級だとか何だとか非難しているのである。

彼女の眼から見るならば、素直に食卓に談笑している舅姑たちも低級に見えたのであろう。
それならば彼女が舅姑から排斥されて離縁になったのも無理はない。
だれでも低級だと見られて喜んで、その批評者を迎えるものはないからである。

しかし、なぜ、無邪気に笑っている少女たちが低級なのであろうか。
そう感じられるなんじの心がかえって低級なのである。

無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――
そのこと自身がすでに価値があるからである。人間も同じことである。

           <感謝合掌 平成28年8月17日 頓首再拝>
10:伝統 :

2016/08/18 (Thu) 04:12:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月18日>(P57)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。
鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、眼の白い部分は老衰の結果どんより
曇ってしまって、永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼にはなれないものだと
思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる
心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活をそのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

          <感謝合掌 平成28年8月18日 頓首再拝>
11:伝統 :

2016/08/29 (Mon) 03:42:20


        *「人生読本」(P151~152))より

私達は素直になる事が一番必要であります。
生長の家の生き方は素直な生き方であります。

偉い者は偉いとして、偉くないものは偉くないとして、
光は光として、影は影として
正直に一切のものをそのまま受容(うけい)れる心持には、ちっとも無理がありません。

無理があるのはどこかに本当でないところがあるのです。
耳が聞こえないとか、目が見えないとか、或いは鼻がよく利かぬとか、
蓄膿症とかいう人の中には、素直な気持ちが乏しい人が多いのであります。

素直な気持ちが乏しい場合、すなわち総てのものをそのまま受容れる心がない場合には、
心の目を閉じ、心の鼻を抑え、心の耳を塞いでいるのでありますから、
それが肉体にあらわれますと、目が疎くなったり、耳が聞こえなくなったり、
鼻が利かなくなったりするのであります。

蓄膿症や、乱視や、中耳炎などはこれから起こることがあります。

それですから、健康のためにも成功のためにも何でも素直な心、
ハイハイというような心持、一切のものをそのままありがたく受容れる
という心持になることこそ非常に大切であります。

すべてを素直に受容れる心は神の心であります。
神というものは善にもあれ、悪にもあれ、太陽の照るがごとく一様に光を与えてくださる、
これが本当の神であります。

この大包容の心持になった時、病気の治る事はもちろんですが、
総ての事業にも成功するのであります。
これが生長の家の生き方であります。

小さい心は小さいおかげしか受けることができません。

太陽に黒点があっても黒点なんか目もくれないで、
太陽の光の良いところばかり讃歎(さんたん)して吸収する、
そうすると私達は生き生きと自分自身がその太陽に育てられて伸びてくるのであります。

私達は科学者が太陽の黒点を研究している間に黒点なんかを忘れてしまい、
「ああ私の暖かい太陽よ!光の太陽よ!」と喜ばねばなりません。

そういう人は必ず発達し成功するのであります。

          <感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>
12:伝統 :

2016/08/31 (Wed) 04:03:42


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月31日>(P68)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

           <感謝合掌 平成28年8月31日 頓首再拝>
13:伝統 :

2016/09/12 (Mon) 04:00:12

             *「素直な心になるために」松下幸之助・著

(「素直な心とは、寛容にして私心なき心」<2016/06/11>からの続きです )

素直な心の内容の中には、
万物万人いっさいをゆるしいれる広い寛容の心というものも含まれている。

お互い人間は、どこかの離れ小島でたった一人で生きているというのでなく、
ふつうみなが相寄って、集団生活、共同生活というものを営んでいます。

その共同生活を営んでいく上で大切なことはいろいろありましょうが、
中でも最も大切なことの一つは、お互いがともどもによりよく生きてゆく、
ということではないでしょうか。

そしてそのために大切なことの一つに“寛容”ということがあるのではないかと思います。

共同生活にはいろいろな人がいます。
背の高い人もおれば低い人もいます。
声の大きい人もおれば小さい人もいるでしょう。

いろいろな性格、考え方の持ち主が一緒にいるわけです。
したがって、もし背の高い人が低い人に対して、
「背が低いのはけしからん。消えてなくなれ」というようなことをいったとするならば、
背の低い人たちはみな怒るでしょう。

しかしいたたまれなくなってどこかへ行こうと思っても、
結局、共同生活から出ていけば生きていくことはできません。

だから、背の高い人が低い人の存在を認めないようなことがあれば、
両者の間に争いもおこり、お互いの不幸な姿も生まれかねないでしょう。

もちろん実際にはこういったことはありえないことかもしれませんが、
しかしたとえば思想や宗教、あるいは人種的な差別という面では、
往々にしておこりかねないことだといえましょう。

 
寛容とは、広い心をもって、よく人をゆるしいれるということです。
また人のあやまちに対して、きびしくとがめだてしないということです。

したがって、たとえよくないことをした人に対して善意をもって
そのあやまちを正すということはしたとしても、
よくないことをしたからといってその人を憎み、その存在をゆるさない、
というようなことはしないということです。

それでは寛容ということにはならないだろうと思われます。


それでは、寛容の心はいったいどこから生まれてくるのかといいますと、
それはやはり素直な心から生まれてくるものだと思います。

つまり、素直な心というものになれば、
おのずとそういう寛容の心があらわれてくるのではないかと思うのです。

           <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>
14:伝統 :

2016/09/26 (Mon) 03:52:36


素直な心というものは、広い視野から物事を見、その道理を知ることのできる心である

             *「素直な心になるために」松下幸之助・著

寛永の頃に幕府の勘定奉行をつとめた伊丹播磨守康勝は、
農民や町民のために利をはかることが多かったといいます。

たとえば、その頃、運上金、つまり税金を公儀に納めて、
甲斐国から出る鼻紙を一人で商っていたのをうらやんだある富商が、
「私にお任せ下されば、これまでより一千両も多くの運上金を納めます。
どうかお許し願います」と願い出ました。

それに対し、評議では許すことに決まりそうでしたが、播磨守一人は反対しました。
富商はなおも熱心に願いつづけたので、3年後には老中など執政の人々の意見も
許すことで一致しました。

そのとき播磨守は、
「これより後に、盗賊のおこらぬ道が立ちますならば、いかにも許しましょう」
といいました。

人びとがそのことばのわけをたずねると、播磨守は次のようにいったということです。

「鼻紙というのはみなの生活必需品ですが、その値段が低いから世の助けになっています。
千両多く運上金を納めるといいますが、その千両をどこから引きだすつもりでしょうか。
その紙の値段を上げて小売商に卸し、小売商がまた値段を上げて売るようになったら、
値段は相当高くなるでしょう。

一物の値段が上がれば、万物の値段も同じように高くなるのは道理です。

諸物価が高くなって、求めようにも求められなくなる場合には、
盗みということがおこります。盗むことが世に盛んになったら、
どういう政治をしてこれを防げるでしょうか。

盗みは貧よりおこります。
わずかに千両の金が増えるからといって、世の風俗を乱してはなりません。
運上金を多くしようとすれば、物の値段が高くなっていくのです。
このことをよくよくお心得願いたく存じます」。


人々は、播磨守の遠いおもんぱかりを知って、みなその言に従ったということです。

今日のわれわれも、物価の問題についていろいろ悩まされていますが、
お互いに播磨守のように道理を知り、遠いおもんぱかりをもって物事を考えることも
一面において大切ではないでしょうか。

そして、そのためにもまずお互いにつね日頃から、
素直な心というものを十分養い高めて、つねに素直な心が働くよう心がけていくことが
大切だと思うのです。

           <感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>
15:伝統 :

2016/10/10 (Mon) 03:58:38


素直な心というものは、すべてに対して学ぶ心で接し、
そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心である

             *「素直な心になるために」松下幸之助・著

何事も経験であり、勉強である、ということをいいますが、
そのような心がまえをもって人生をすごしてゆくならば、
月日とともにいろいろなことをおぼえ、学びとってゆくこともできるでしょう。

だから、そこからは限りない進歩向上の姿も生まれてくるのではないでしょうか。

たとえば、他の人びとと通常ふつうの会話を交わしている際でも、
何の気もなしにただ話をしているだけであれば、
その場限りのものとなってしまうでしょう。

けれどもそういう際にも、勉強する態度というか、
学ぶ心というものを保っていたとするならば、
相手のふとしたことばの中からハッと学ばせられるようなものを
見つけ出すこともあると思います。

自分では気づかなかったような事柄を知ったり、知らなかった知識を得たり、
さらには何らかの教訓を得たり、というように、学ぶ心さえあれば、
日々の会話であろうと何であろうと、お互いの生活、活動の中から
いろいろなことを学びとることができるのではないかと思うのです。

学ぶ心があれば、この世の中の一切の人、物、あらゆる物事のすべてが、
自分にとって貴重な教えともなり、勉強ともなってくるでしょう。

だから学ぶ心からは、お互いのたゆみなき向上、
進歩の姿というものも生まれてくるのではないかと思うのです。

学ぶ心というものは、こうした好ましい姿をもたらすものであると思うのですが、
この学ぶ心というものも、素直な心になるところからあらわれてくるものだと思います。

というのは素直な心というものは、まだ何もかかれていない白紙のようなもので、
吸収すべきは何でも吸収する心だからです。

したがって、字であろうと絵であろうと、何でもその上にかくことができます。
すでに字がかかれているから、もう絵をかいてはいけない、というようなこともありません。

また、すでに全面にわたって字がかかれているから、書き足す必要はもうない、
というようなこともないわけです。

字でも絵でも、すべてを新しいものとしてみとめ、
そして是なるものはこれを大いに受け入れるわけです。

要するに、素直な心になれば、すべてに学ぶ心があらわれてくると思います。

いっさいに対して学ぶ心で接し、そしてつねに何らかの教えを得ようとする態度も
生まれてくるでしょう。

素直な心になったならば、そのような謙虚さ、新鮮さ、積極さ
というようなものもあらわれてくるのではないかと思います。

           <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>
16:伝統 :

2016/10/22 (Sat) 04:50:22


          *『 生長の家 』(昭和23年9月23日の法語)より

   神?(インスピレーション、啓示)と云うのは
   必ずしも外からのみ与えられるのではないのである。

   神は到る処にいられるのであるから、(これを遍在と云う)
   内から思いつくこともあれば、
   外から思いつくこともあるのである。

   外から思いつくと云うのは
   他の人から 「 斯うせよ 」 とお教えられたり導かれたり、
   自然の事情の動きでそうせねばならぬように
   仕向けられることである。


   神に計画をゆだねたならば 何が外から起って来ても、
   それが神の導きであると信じて完き従順もて起ってくることを
   感謝して其の儘受けるのが必要である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>
17:伝統 :

2016/11/06 (Sun) 03:17:25


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

【素直な心というものは、自由自在に見方、考え方を変え、
 よりよく対処してゆくことのできる融通無碍の働きのある心である】

 
素直な心というものは、融通無碍の働きのある心であるともいえると思います。

すなわち、物事に対して臨機応変、自由自在に
とりくむことのできる心ではないかと思うのです。

したがって、素直な心が働くならば、いつどのような物事に出くわそうとも、
必要以上に おどろきあわてることなく、また窮してゆきずまることもなく、
つねに正々堂々と物事に対処し、そこによりよき成果を生み出していくことが
できるのではないでしょうか。

それはいってみれば、一つのことにとらわれたり、
固定してしまうというようなことがなくなるからでありましょう。

つまり、極端にいえば困っても困らない、一見できないようなことでもできるというように、
まことに自由自在な行動、姿というものがそこに生まれてくるからではないかと思うのです。

 
たとえばお互いが何か大きな失敗をしたとします。
失敗をすること事態は、お互い人間の常として、
一面やむをえないといえるかもしれません。

しかしその失敗が自分にとってきわめて深刻な場合には、
それを気に病んで悲観し、思いあまって自分の生命をちぢめる
といったような姿さえ実際には見られます。

これはまことに気の毒な同情すべきことだと思います。

けれども、また一面においては、もしも素直な心が働いていたとするならば、
おそらくそういう不幸な姿に陥ることはさけられるのではないかとも考えられます。

というのは、 素直な心が働いていたならば、
物事を融通無碍に考えることができるからです。

ですから、 いかにその失敗が深刻であったとしても、
たとえば“失敗は成功の母である”というように考えて、それを生かしていこう、
と思い直すことができると思うのです。

ですから、お互いが素直な心を養い高めていったならば、
いらざる衝突、争いなどはほ とんどなくなって、
きわめて和やかに、つねに談笑のうちに日々の活動が営まれていくようになるわけです。

このように、素直な心になったならば、
融通無碍な心の働きというものもあらわれてくるのではないかと思うのです。

           <感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>
18:伝統 :

2016/11/23 (Wed) 03:08:07


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

素直な心というものは、どのような物事に対しても、
平静に、冷静に対処してゆくことのできる心である。

剣聖といわれた宮本武蔵の記した“五輪書”のには、
いわゆる兵法の極意がいろいろ述べられていますが、

その一つに“兵法の道において、心の持ちようは、
常の心にかわるこ となかれ”というのがあります。

これは、たたかいの場においても常の心、
すなわち平常心、平静心を保つことが大切だということでしょうが、
なかなかこれはむつかしいことであろうと思います。

というのは、たたかいの場といえば、いってみれば命のやりとりが行なわれるわけです。
当時であれば刀や槍などの武器がふるわれ、殺気にあふれて必死に争いあうわけでしょう。
だからふつうであれば、極度に緊張し、また興奮もしてくるだろうと思われます。

けれども、そのように心が張りつめ、高ぶってしまったならば、
かえって冷静な判断を下すこともできにくく、またとかく身体も柔軟性を失いがちとなり、
思わぬ失敗をしてし まうことにもなりかねません。

しかも、戦いの場における失敗は死につながると思います。
それだけに、できるだけ冷静な態度を保っていることがのぞましいわけです。

そこで宮本武蔵も、兵法の極意の一つとして、
この平常心、平静心というものをとりあげたのではないかと思われます。

 
今日においては、もう実際に命をやりとりするような場は、
ふつうの状態においてはほとんどみられません。
戦争などの特別な場合を除いては、なくなりつつあると思います。

しかし、そういう平常心、平静心というもの自体は、
たたかいの場に限らず、またいつの 世にも大事なのではないでしょうか。

というのは、今日のお互いの日々の生活、活動の上においても、
冷静さを欠き、平静心を失ったがために、思わぬ失敗を招いたというような姿が、
いわば日常茶飯事のようにひ んぱんにおこっているように思われるからです。

さらにまた、人との交渉の際などにおいても、また試験をうけたり、
スポーツ競技に参加した場合などにおいても、同じように平常心、平静心というものが、
大事になってくる のではないでしょうか。

お互いが素直な心になれば、おのずとそういう平常心、平静心が得られると思います。
すなわち、お互いが素直な心で物事を見、考えていったならば、
物事を冷静に、平常心を 保って見、考えていくということもできるようになると思うのです。

           <感謝合掌 平成28年11月23日 頓首再拝>
19:伝統 :

2016/12/08 (Thu) 03:31:56


         *「人生読本」(P76~77)より

同じことをお父さんに言っても、叱られる場合と、叱られぬ場合とがあります。
なぜそうなるかを考えてみたことがありますか。

それはお父さんの御機嫌の好い時は叱られないで、
お父さんの御機嫌の悪い時は叱られるのだとお考えになりますか。
必ずしもそうばかりではありませんよ。

素直に無邪気に物が言えた時には、その人の眼の色にも、顔つきにも、言葉つきにも、
明るい、生き生きとした、伸び伸びといたところがでているから、
その眼の色を見、顔を見、言葉を聞くと快い気持ちになって叱れなくなるのです。

同じ人でも、無邪気で素直であるときと、無邪気で素直でない時とは、
こうも形にあらわれ方が異うのですよ。

言葉、形、さては一本の線を引くのだって、
無邪気に素直に自分の本物を出すようにすれば、皆から喜ばれるのです。

入学試験を受けるコツもこれですよ。

無邪気にやれば覚えただけでは皆出てくるが、
無邪気な素直な心を出せないで、恐れていると、
憶えているのまで忘れてしまって、出て来ないことがあります。

           <感謝合掌 平成28年12月8日 頓首再拝>
20:伝統 :

2016/12/20 (Tue) 04:00:49


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心というものは、よいものはよいものと認識し、
 価値あるものはその価値を正しくみとめることのできる心である》

今、仮にだれかがあなたに対して、一つの助言をしてくれたとします。
あなたは、その助言をどう受けとめるでしょうか。

もちろん、その助言の内容にもよるわけですが、内容 は一応よいものとして、
それをどういう態度で受けとめるか、ということです。

その受けとめ方は、いろいろあると思います。

「ああ、これはいい助言をしてくださった、ありがたい」と感謝の心で受けとめ、
その助言を生かしていく場合もあるでしょう。

その反対に、「いらない世話だ。助言など必要ない」といった
拒否の態度をとる場合もあ るでしょうし、さらには、
「表面ではいいことをいうが、ウラで何をたくらんでいるかわ からない、気をつけよう」
というように不信、疑いの心で受けとめるといった場合もあるかもしれません。

 
こうした受けとめ方のうち、素直な心をもっている場合の受けとめ方はどういうものか、
というと、やはり素直な心があれば最初にあげた場合のように、
感謝の心で受けとめるのではないかと思います。

なぜ感謝の心で受けとめるのかというと、それはもちろん、
助言 をしてくれた好意、親切に対しての感謝もあると思います。

また、それと同時に、素直な 心というものは、
よき助言はよき助言として受けとめることができる。
つまりよいものはよいものとしてはっきりと認識することができる心であるからだ、
ということです。

素直な心になったならば、物事の本当の姿を見る、物事の実相を見る、
ということもできるようになるわけですが、

物事の実相を見るということは、やはり一つには、よいものはよいものと認識し、
価値あるものはその価値を正しく認める、といったことにもなるだろう思います。

だから、よいものはよいものと認識し受けとめるというような態度は、
結局のところ、その根本は素直な心の働きのあらわれの一つということになるのではないか
と思うのです。

           <感謝合掌 平成28年12月20日 頓首再拝>
21:伝統 :

2017/01/06 (Fri) 03:25:56


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心というものは、人間が本来備えている
広い愛の心、慈悲の心を十二分に発揮させる心である》


お互い人間というものは、他の人が困っているのを見れば、
なにか手助けできることは してあげよう、と考えるのが自然の情ではないかと思います。

もちろん、他の人の難儀を見ても見ぬふりをする、というような姿もときにはありましょう。
しかしそういう場合でも、なにか特別の事情がない限りは、
やはり内心ではできれば助けてあげたいとか、だれ か他の人が助けてあげればよいのにとか
思っているのであって、これはおもしろい、大いに難儀して苦しめばよい、
などとはまず考えないのではないでしょうか。

もともと人間というものは、互いに心を結びあって、
大切にしあい、生かしあい、許しあい、助けあって生きてゆこう
というような心をもっているのではないかと思うのです。

つまり、そういう広い愛の心、慈悲心というものを、
本来人間は備えているのではないかと思うのです。

しかしながら、現実のお互い人間の姿というものをみると、
必ずしもつねにそういう愛の心、慈悲心が発揮されているとはいえないでしょう。

ではなぜ、そういう愛の心が十二分にあらわれてきにくいのでしょうか。
これについては考え方はいろいろあるでしょう。

しかし、やはり一つには、お互いの心がいろいろなものにとらわれている、
だからその本来もっているあたたかい心があらわれてきにくいのではないかと思います。

たとえば、お互いの心が一つの利害にとらわれてしまうと、
他のことを忘れて利害のみを争うようにもなり、自分の思うようにいかないと
そこに憎しみが生まれて愛の心をかくしてしまう、ということもあると思います。

けれども、お互いが素直な心になったならば、
そういったもろもろのとらわれというものはなくなっていくと思われます。

したがって自分の利害にも、立場にも、また自分の考えや主張にも、
すべてにとらわれることがないという姿にもなってくるでしょう。

すなわち、素直な心になれば、人間本来の広い愛の心、慈悲心が働いて、
みながともどもに明るく幸せに生きてゆくことができるような姿が生まれ、
高まってゆくのではないかと思うのです。

素直な心というものは、そういう広い愛の心、慈悲心にもつながっていると思います。

           <感謝合掌 平成29年1月6日 頓首再拝>
22:伝統 :

2017/01/20 (Fri) 03:28:41


            *『 生長の家 』(昭和46年10月20日の法語)より

   私は数え年四歳のとき、実父の妹谷口きぬさんのところへ
   養嗣子(ようしし)となって貰われて往(い)ったのである。

   私は養父母を本当の生みの父母(ふぼ)だと言いくるめられ、
   教えられ、そのように指導されていたのだけれども、
   やっぱり直感的には実の父母でないと知っていて、
   何となく遠慮がちであったらしいのである。

   私はその頃、生田(いくた)神社の門前の借家に住んでいたが、
   よく養父につれられて、湊川(みなとがわ)神社(祭神 楠木正成公)
   の西門の通りが、商店街になっていて、
   今なら小百貨店みたいなのが勧工場(かんこうば)と称して
   玩具(おもちゃ)その他の商品を列(なら)べて売っていた。

   養父(ちち)が、その玩具のどれかを指(ゆびさ)して
   「 これ買(こ)うてやろか 」 というと、
   私はきまって 「 買って頂戴 」 と素直には何物も求めなかった。
   そして 「 どうでも・・・ 」 と言ったものだ。

   稍々(やや)私が成長した時に、
   養父(ちち)は私にこう言って歎かれた。

   「 お前は幼い時に、何を買ってやろうかといっても、
   いつも “ どうでも ” と答えるので、買って貰って嬉しいのか、
   そんなもの要(い)らぬのか判断に困ったものだ。

   “ これ買って頂戴 ” と素直に言ってくれれば、
   買ってやり甲斐があるのに、お前は決して
   何(なん)にも求めなかった 」

   といって淋しい顔をせられたことがある。

   だから、 “ 神の子 ” たる人間も、親様(おやさま)なる神様に、
   何を求めても、求め過ぎるということはない。

   されば、 “ 求めよ、さらば与えられん ” と
   神様は 素直に神に求めることの無邪気さを
   愛(め)でていられるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

           <感謝合掌 平成29年1月20日 頓首再拝>
23:伝統 :

2017/02/07 (Tue) 05:04:19

我(が)を捨てるところに「本当の自分」が生きる

           *『真理』第五巻女性篇(P227~228)より


黒住宗忠のように親が「高足駄(たかあしだ)を穿(は)け」といわれたら
「はい」と高足駄を穿く。
「草履を穿け」といわれたら「はい」と草履を穿く。

それは非科学的な精神のようでありますけれども、
そこに本当の深い真理が現れるのであります。

キリストも同じようなことをいわれました。

「汝の右の頬(ほほ)を打つ者あらば、これに左の頬をもめぐらして打たせよ。
十里の公役(こうえき)を強いられなば、二十里を行け。
上衣(うわぎ)をとる者には下着(したぎ)をも取らせよ」

この素直の精神が、天地のはからいと一致することになるのであります。

素直ということは、凡(あら)ゆる徳の中で一番素晴しい徳であるわけです。

キリストの謂(い)われた 「幼児(おさなご)の心」 です。

「素直」は、すなわち「我(が)」の絶滅です。

「我(が)」を主張することが民主主義だと、こういうように考えて、
到るところに「我(が)」をのさばらしている現代の日本の状態が、
どんなに其(そ)のために、混乱状態に陥っているかということは、
現実の世相(せそう)を見ればはっきり分るのであります。

           <感謝合掌 平成29年2月7日 頓首再拝>
24:伝統 :

2017/02/14 (Tue) 04:31:45


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月14日)」より

素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。
素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわいがられる。
素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがらる。

夫婦仲が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、
それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからである。

神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

            <感謝合掌 平成29年2月14日 頓首再拝>
25:伝統 :

2017/02/23 (Thu) 04:37:42


           *「光明道中記」(2月23日)より   

【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。(「生命の實相」第十九巻)】

朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。

当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。

朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。

異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。

それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。

それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。

其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。

太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?

            <感謝合掌 平成29年2月23日 頓首再拝>
26:伝統 :

2017/03/13 (Mon) 04:40:30


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心というものは、物事のありのままの姿、
本当の姿、実相というものが見える心である》

素直な心は、物事のありのままの姿、実相というものを
見ることのできる心であるともいえると思います。

というのは、素直な心になったならば、心の中に物事の実相をおおいかくすというか、
これを曇らせるようなものがなくなると思われるからです。

美しく磨きあげられた無色透明なガラスをとおせば、物がそのありのままに見えます。
それと同じように、素直な心になったならば、物事の本当の姿というか、
実相がはっきりと見えるようになるのではないかと思います。

だから実相に基づいて物事を考え、判断することも、
しだいにできやすくなってくると思うのです。

もしもこれが、無色透明でなく色のついたガラスであったならばどうでしょうか。
色ガラスをとおしてみれば、向こうにあるものの本当の色が正確にはわからなくなります。

仮にガラスの色が青色であるとすれば、向こうにある白いものは白くは見えず、
青みがかって見えるでしょう。つまりこれでは、本当のありのままの姿というものが
わからなくなります。

あるいはまた、そのガラスがゆがんだガラスであれば、
向こうにあるものもゆがんで見えるわけです。
けれども素直な心になって物事を見た場合には、無色透明で正常なガラスをとおして
見るように、なんの色もつかず、そのありのままが見えるというわけです。

今日のわが国においては、政治をはじめとして社会の各分野の活動において、
またお互いの日々の生活の各面において、いろいろとあやまちやゆきちがいが
生まれてきています。

そしてそれらがお互いの悩みや苦しみ、対立や争いをいっそう深めている面さえ
あるように思われます。こういう面もあるということも、一つには、
お互いが素直な心ならざる色ガラスをとおして見、それにとらわれて判断を下し
行動している、というような姿が少なくないからではないでしょうか。

もしそうであるとするならば、やはりそのままではいけないと思います。
お互いに素直な心を養い高め、物事の本当の姿を見ることができるように
つとめなければなりません。

じっさい、お互いが素直な心になるならば、しだいに色ガラスでなく
無色透明なガラスをとおして物事を見るというような姿にもなってゆくでしょう。

したがってその判断は物事の実相に基づいた判断ともなり、
あやまちのない適切な判断となってくるわけです。

            <感謝合掌 平成29年3月13日 頓首再拝>
27:伝統 :

2017/03/30 (Thu) 03:13:30


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心が働いたならば、なすべきことを正しく知り、
 それを勇気をもって行なう、という姿が生まれるようになる》

ご承知のように、羽柴秀吉が主君織田信長の命によって中国攻めをしていたとき、
主君信長が本能寺で明智光秀に討たれてしまいました。

そのとき、京都の周囲には信長麾下(きか)の武将がたくさんいましたが、
秀吉は遠く京都をはなれ、しかも毛利という大敵と戦っていたのです。

信長麾下の武将たちは各方面を攻めにいっていましたが、
距離からいうと一番遠くにいたうちの一人が秀吉でした。

近くには、信長の息子信孝が大坂に、同じく信雄が伊勢にいました。
光秀は憎い親のかたきですから、息子がまずだれよりも先にかけつけて、
光秀と一戦交えるというようなことをしなければなりません。

しかし、息子たちはそうせずに、いわば形勢を展望していたのです。

その当時の常識としては、いわゆる“不具倶戴天の父のかたき”ということがあります。
つまり、父のかたきとはともに天をいただかない、ともに生きてはいない、ということです。

一戦交えたら勝つか負けるかわかりません。
しかし勝つか負けるかということよりも、ともに生きているという状態にはしておかない、
ということです。

これがその当時としてのいわば道徳のひとつであったと思うのです。


一方、秀吉はどうであったかというと、秀吉は一番遠くにいて、
てごわい敵と戦争していましたが、信長が討たれたと知ると直ちに敵と和睦し、
そしてとるものもとりあえず引き返して、不倶戴天の主君のかたきを見事に討ちました。

これは当時の道徳に素直に従った姿であるともいえるのではないでしょうか。

天下をとろうなどという野心が先に立ったのでは、
なかなかあのようにうまくはいかなかったでしょう。

自己の利害ということを超越し、ただひたすらになすべきをなした、
やらねばならないことをやった、ということだと思います。

そして、そういう私心をはなれた態度、行動をとるということは、
やはり素直な心にならなければなかなか出てこないのではないかと思うのです。

このような点から考えてみても、
素直な心の偉大さというものがよくわかるのではないでしょうか。

もちろん、当時と今日とでは、考え方も道徳のようなものもずいぶんちがいますから
この例はそのまま今日にあてはまるものではないでしょう。

ただ大切なことは、なすべきことは私心をはなれて断固として行なう、ということです。
ときには、自分の命をかけてでもやりとげるということです。

            <感謝合掌 平成29年3月30日 頓首再拝>
28:伝統 :

2017/04/18 (Tue) 04:05:07


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心になれば、すべてに対して順応していくことができるから、
 何でも自分の思い通りにすることができるようになる》


何事によらず、物事を自分の思う通りにやりたいというのが、
お互い人間の一面の姿ではないかと思います。

たしかに、人でも物でも、すべてが自分の思う通りに動いていくとしたら、
一面これほど愉快なことはないともいえるかもしれません。

けれども実際の世の中というものは、どちらかというと、人でも物でも
なかなか自分の思う通りには動いてくれない場合が多いのではないでしょうか。

それで相手と争ったり、みずからいろいろ思い悩んだりするなど、
好ましくない姿に結びつく場合も少なくないように思われます。

 
しかしお互いが素直な心になったならば、
そういう好ましくない姿は生まれてこないのではないかと思います。
というのは、素直な心になれば、すべてがいわば自分の思い通りになると思われるからです。

自分の思い通りになるというのは、
思い通りになるように、自分から順応していくからです。

すなわち素直な心が高まってくれば、そのなすところは融通無碍となり、
いわば障害はなくなってしまうと思われます。

それはなぜかというと、できないことはやらないようになるからです。
こういうといささか消極的になりますが、逆に積極的にいうと、
できないと思われるようなことでもよき考えを生み出してやりぬく
という知恵がわいてくると思うのです。

つまりこれは非常にむつかしいけれども、
こうやればできるということがしだいにわかってくると思うのです。

それで、非常にむつかしいことでも、それをのりこえ、
道をひらいてゆくことができると思います。

けれどもその反面においては、これは絶対に不可能だということは
もう始めからやらない、ということにもなると思います。

だから素直な心が高まってくれば、これは今の段階ではムリであるということと、
これはやればできるということと、その両方が同時にわかってくるのでないか
と思うのです。

だから、素直な心になったならば、
自分の行く手に高い山がたちふさがったような場合でも、
これをムリヤリつきぬけて通ろうというようには考えずに、

たとえば山のふもとを回り道して通っていけばよい、
というように考えるだろうと思うのです。

そしてそのようにするなら、そこにムリもおこらず、
争いとか悩みをおこすこともなく、その山を越すこともできる
のではないかと思うのです。

            <感謝合掌 平成29年4月18日 頓首再拝>
29:伝統 :

2017/05/04 (Thu) 04:33:24


          *Web:東洋経済ONLINE(2016年07月29日)より

松下幸之助は、「自然の理法は、いっさいのものを生成発展させる力を持っている」
と考えた。

だから、素直な心になって自然の理法に従っていれば、うまくいく。
世の中は成功するようになっている。


《とらわれるから、うまくいかん》

ところが、私たちにはなかなかそれができない。
自分の感情にとらわれる。立場にとらわれる。地位や名誉にとらわれる。

自然の理法になかなか従うことができない。
それゆえ、かえって状態を悪くする。
無用な苦労をする。
望むような結果が得られない。

一人ひとりのとらわれが、争いになり、つまるところは戦争にまで至る。

自然の理法に従うならば、もともと人間には進歩発展する本質が与えられている。
言葉を替えて言えば、平和、幸福、繁栄を実現する力が与えられている。

「それがうまくいかんというのは、とらわれるからや。素直でないからや。
だとすれば、素直でないといかん、と。素直な心こそが人間を幸せにし、
また人類に繁栄と平和と幸福をもたらすものであると、わしはそう考えたんや」


しかし松下の言う 素直な心 とは、
人の言うことになんでもハイハイと答えるということを言っているのではない。
無邪気な心のことでもなければ、幼児の心のことでもない。

それだけでは、ほんとうの素直ではない。


「ほんとうの素直とは、

自然の理法に対して、すなわち本来の正しさに対して素直であると、

そういうことやな」

正邪、善悪、表裏の存在を知りながら、なおかつそれにこだわらない。偏らない。
たんなる無心でもない。自分が悟ればそれでよしとするものでもない。

素直な心になることは、決して易しいことではない。

「自然の理法に従えば、と言うたけどな、それは自然の理法に従っておれば、
それだけでただ何もせんでええということではないんや。
それは、きみ、わかるやろ」

自然の理法はやるべきこと、なすべきことをやっている。
早い話がお日さまはきちんと東から出る。西に沈む。
春が来て、夏が来て、秋が来て、そして冬が来る。

人間もやるべきこと、なすべきことをきちんとやれるかどうか。
逆になすべからざることは絶対にやらない。
そういう振る舞いができるかどうか。

自然の理法に従うというのは、決してそう易しいことではない。

「まあ、わしはそういうようなことをみずから考えながら今日までやってきた。
宇宙万物自然というものが、わしの先生でもあったわけやな。

わしの経営についての考え方は、経営というひとつの枠のなかだけで考えたのではない。
わしはいつもその枠を越えて、宇宙とか自然とかそういうものに考えを及ぼし、
そこで得られたわしなりの結論を経営に応用したんや」


《天地自然の中に繁栄の原理を探してきた》

経営についての松下の考えは、全体の考えの一部であって、決して全体ではない。
多くの人が松下を「経営の神様」と呼んだが、ほんとうは松下が考え続けてきたのは
宇宙のことであり、万物のことであり、自然のことであり、人間のことであった。

松下は経営をやりながら、つねに人間の本質とはなにか、人間の幸せとはなにか、
宇宙の本質とはなにか、自然の理法とはないかということを、考え続けてきた。

天地自然の中に繁栄の原理を探してきた。

これが松下幸之助のやり方だった。


PHP研究所の庭の左奥に、「根源さま」の小さなお社がある。
松下は研究所にやってくると、まず最初に、必ず根源の社の前に円座を敷き、
座禅をするように足を組んで座り、2~3分間ほど手を合わせていた。

根源さまとは神様でも仏様でもない。松下が勝手につくったものである。
そして社のなかにはなにも入っていない。
松下の「根源」という考え方が入っているだけである。


「あそこへお客さんを案内すると、必ず、根源さんというのはなんですかと聞かれるな。
いちいち説明せんといかんけど、それがあの場所では面倒やな。ハハハ。

どうして根源という考えをわしが持ったかというと、こういうことや。

考えてみればわしのような、なんも恵まれておらなかった者が、
一応の成功をしたということは不思議やろ。

それらしい説明は、聞かれればしてみせるけどな。正直言うと、
なぜこうなったのか、ほんとうのところの理由はわしにも、ようわからんのや」


松下はあるとき、これは自分を存在させてくれたものに感謝しなければいけないと考えた。
誰が自分を存在させてくれたのか。
それは自分を生んでくれた両親である。

ならば、両親に感謝しなければいけない。

だが、その両親はどうして存在したのだろうか。
両親のそのまた両親からではないのか。
その両親は、そのまた両親からということになるのではないか。

それではその両親はと、どんどん考えていくと、ついには人間の始祖になる。
とすると、人間はみんな始祖とつながっている。

今日私たちがこうして存在していることは、
両親やそのまた両親に感謝しなければならないのはもちろんのこと、
初めての人間、すなわち始祖に感謝しなければ、とそう思ったという。

「ところがふと、それでは初めての人間はどこから生まれてきたのか、と思ったんや。
いろいろ考えたんやけど、今度はそう簡単に答は出てこん。

ずいぶんとあれやこれやと思いめぐらした結果、
人間は宇宙の根源から、その根源のもつ力によって生み出されたんやと、
うん、突然そうひらめいた。

そうや、宇宙の根源から生まれてきたんや。
それは人間だけではない、宇宙万物いっさいがこの根源から、
その力によって生み出されてきたんやと考えた。

実際にそうかどうかは、わしは見ておったわけやないからわからんけど、
そう考えるほうが便利いい」


《「ここに存在できていること」への感謝の思い》

「その根源の力にひとつの決まりがある。それが自然の理法というもんや。
そしてその力には宇宙万物すべてを生成発展せしめる力があると。
前に自然の理法は生成発展やと言うたのは、そういうことやったんや」


今日私たちがここに存在している、その源をたどれば、初めての人間を通り越して
宇宙の根源にまでにいたる。そうすると、「ここに存在できていること」への
感謝の思いは、実にこの宇宙の根源に対してでなければならないということになる。

それで松下は、根源の社をつくった。

私はあるとき、ひょいと
「根源の社の前にお座りになって、そのあいだ何を考えているのですか」
と尋ねたことがある。

「うん、今日、ここに生かされていることを、宇宙の根源さんに感謝しとるんや。
ありがとうございます、とな。

それから、今日一日、どうぞ素直な心ですごせますように、すごすようにと念じ、
決意をしとるわけや。ここはわしが感謝の意を表し、素直を誓う場所やな」


読者に根源の社を押しつける気持ちはまったくない。
ただ、自分がそういう宇宙根源から、そして人間の始祖から連綿とつながっている
と思えば、おのずと自分の値打ちの重さを感じる。

そう感じれば、おのずと自分の人間としての重さを自覚する。
そして、感謝の念が湧いてくる。

この感謝の気持ちを持ちながら、日々をすごすことが大切だと思うのである。

松下の毎日は感謝の日々であったといっても言い過ぎではない。
それでもなお、感謝の思いが足らないと言って反省することが多かった。

  (http://toyokeizai.net/articles/-/129289

            <感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>
30:伝統 :

2017/05/20 (Sat) 03:57:25


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心になれば、何事に対しても
こだわりやわだかまりが心にのこらないようになってくる》

お互いが素直な心になったならば、
人からなにをいわれようと、またなにごとがおころうと、
みずからの心にわだかまりやこだわりが残るということは
比較的少なくなるのではないかと思います。

たとえば、よく冬の寒い日などに、子どもたちが窓ガラスに息を吹きかけて遊んでいます。
子どもたちがふっと息を吹きかけると、すき通った窓ガラスに白いくもりができます。
白いくもりができると、向こう側がよく見えなくなります。

けれども、間もなくそのくもりはうすくなって、また元のすき通ったガラスにもどります。
そこで子どもたちはもう一度息を吹きかけます。
けれども、再びくもった窓ガラスは、すぐにまた元通りになるのです。

これは何度くり返しても同じことです。

素直な心になったならば、ちょうどこの窓ガラスと同じように、
何かこだわりやわだかまりを持つようなことが身にふりかかったとしても、
それがいつまでも心の中に残るようなことは少ないであろうと思うのです。

つまり、ごく短い間には、そのことが気にかかるかもしれませんが、
すぐにそれは窓ガラスの白いくもりと同じように、自然に消えていくであろうと思います。

というのは、素直な心になるということは、
私心なく真理というか正しいことにしたがうというところに基本の態度があり、
そこに一つの大きな安心感がありますから、こまかいことにくよくよせず、
つねに前向きにものを考えるという姿勢が保たれているからではないでしょうか。

したがって、こだわりはこだわりとならず、わだかまりもわだかまりとはならない、
というような姿も生まれてくるのではないかと思われます。

            <感謝合掌 平成29年5月20日 頓首再拝>

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