伝統板・第二

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素直(すなお) - 伝統

2016/06/01 (Wed) 03:41:18

このスレッドでは、「素直」に関する情報を集めてまいります。


素直第一の日

        *「光明道中記」(6月1日)より   

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」(「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

            <感謝合掌 平成28年6月1日 頓首再拝>

素直な心とは、寛容にして私心なき心 - 伝統

2016/06/11 (Sat) 04:24:21


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著

(1)素直な心とは

   素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。
   また、静にして動、動にして静の働きのある心、真理に通ずる心であります。

(2)第1条 私心にとらわれない

      素直な心というものは、私利私欲にとらわれることのない心、
      私心にとらわれることのない心である。

   素直な心というものの内容のひとつには、自分だけの利益や欲望にとらわれることのない、
   いわゆる私心にとらわれない、ということがあげられると思います。

   ふつう一般にいって、私心というか、私利私欲を求める心というものは、
   お互い人間が生きているからには当然あるものというか、当然働くものでありましょう。

   私心が全くない、というような人間は、いってみれば俗事を超越した神の如き聖人であって、
   お互い凡人がそう簡単に到達し得る境地ではないと思います。

   やはり、ふつうの場合は、それなりの私心をもって日々の生活を営み、
   活動を続けているのが、お互い人間の姿といえるのではないでしょうか。
   また、それはそれでよいと思うのです。

   けれども問題は、その私心にとらわれ、私利私欲の奴隷になってはならないということです。
   私心にとらわれて物を考え、事を行うということになると、
   やはりいろいろと好ましからざる姿が起こってくると思うのです。

   たとえば仮に政治の衝にあたる人が私心にとらわれて
   自分にばかり都合のいい政治をおこなうとしたらどうなるでしょう。

   そういう姿からは国民の多くがいろいろな迷惑をうけ、
   多大な損害をこうむることにもなりかねないでしょう。

   そしてそれはその政治家自身にも、国民の支持が失われるなどの
   大きなマイナスとなってはね返ってくると思います。

   だからお互いに素直な心になることが大切です。
   素直な心になったならば、もちろん私心は働くけれども、それにとらわれることなく、
   他の人びとのことも十分配慮する、というような姿になると思うのです。

            <感謝合掌 平成28年6月11日 頓首再拝>

素直に無邪気に - 伝統

2016/06/20 (Mon) 04:46:40


           *『人生読本』(P76~77)より

同じことをお父さんに言っても、叱られる場合と、叱られぬ場合とがあります。
なぜそうなるかを考えてみたことがありますか。

それはお父さんの御機嫌の好い時は叱られないで、
お父さんの御機嫌の悪い時は叱られるのだとお考えになりますか。
必ずしもそうばかりではありませんよ。

素直に無邪気に物が言えた時には、その人の眼の色にも、顔つきにも、言葉つきにも、
明るい、生き生きとした、伸び伸びといたところがでているから、
その眼の色を見、顔を見、言葉を聞くと快い気持ちになって叱れなくなるのです。

同じ人でも、無邪気で素直であるときと、無邪気で素直でない時とは、
こうも形にあらわれ方が異うのですよ。

言葉、形、さては1本の線を引くのだって、
無邪気に素直に自分の本物を出すようにすれば、
皆から喜ばれるのです。

入学試験を受けるコツもこれですよ。

無邪気にやれば覚えただけでは皆出てくるが、
無邪気な素直な心を出せないで、恐れていると、
憶えているのまで忘れてしまって、出て来ないことがあります。

            <感謝合掌 平成28年6月20日 頓首再拝>

天国は満ちたる杯(さかずき)の如し - 伝統

2016/06/25 (Sat) 04:39:20


           *「光明法語」(6月25日)より

天国は手をつっこんで奪うことは出来ない。
天国は縁(ふち)まで満ちた杯の如きものである。

手を突込んではその悦びはこぼれてしまう。
天国は覆(くつがえ)してはならない。
天国は床に流れて姿を没するであろう。

天国はただ素直にそれに口をつけて静かに飲むべきものである。
静かにのめば、全身に平和と柔らぎとは来り、心は悦びに満たされ、
恍惚として酔い、美しき光景を見、七宝集まり来り、全てのよき友集い来るを見るであろう。

「今」を有難く受け生かす者に非ずば天国に入ることは出来ない。

        <感謝合掌 平成28年6月25日 頓首再拝>

「ハイ」の「無限力」 - 伝統

2016/07/03 (Sun) 04:18:45


         *「光明法語」(7月3日)より

   最も重き言葉は最も簡単なる言葉である。
   それは「ハイ」の一語である。
   一切の事物は「ハイ」の一語にて成就する。

   汝、使命を感ぜんか、唯「ハイ、ハイ」とのみ言え。
   然してこれを實行せよ。然(しか)らば必ず成就せん。

   「ハイ」とは決意である。使命に対する決意である。
   如何なる困難も、吾使命を感ぜんか、
   「ハイ」の決意にてその困難はきり拓(ひら)かれ、坦々たる大道となる。

   「ハイ」は汝を自由ならしめる。
   「ハイ」は實相その儘である。

            <感謝合掌 平成28年7月3日 頓首再拝>

気取るな、そのままが一等よい - 伝統

2016/07/19 (Tue) 03:47:06


           *『人生読本』(P77~78)より

無邪気といったら、どんなことだといいますと、気取らぬことです。
自分のそのままを出すことです。

写真によく映りたいと思って固くなると変な顔に映るでしょう。
知らぬ間にパッと写されると、かえって柔らかい優しい顔に
映っているでしょう。

あの固くなるのが無邪気でないのです。
あの固くなるのが素直でないのです。
固くならないそのままが、無邪気で素直なのです。

人間は「神の子」ですから、そのままが一等好いのです。

無邪気で素直であれば、目の色から顔貌、動作、技芸、
もの憶えまでよくなるのです。

そのままをなんのこだわりもなく出すとき、
吾々の「内にある最も佳いもの」がスラスラ出るのです。

皆さん、そのままになりましょうね、
素直になりましょうね、こだわりの無い心になりましょうね。

            <感謝合掌 平成28年7月19日 頓首再拝>

素直な心とは、謙虚に耳を傾ける心 - 伝統

2016/08/03 (Wed) 03:39:42


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

(第2条)

素直な心というものは、だれに対しても何事に対しても、謙虚に耳を傾ける心である

 
戦国時代の武将、黒田長政は、“腹立てず”の異見会という会合を
月に二、三度ずつ催していたといいます。

参加者は家老をはじめとして、思慮があって、相談相手によい者、
またはとりわけ主君のためを思う者など六、七人であったということです。

 
その会合を行う場合には、まず長政から参加者に対して次のような申し渡しがあります。

「今夜は何事をいおうとも決して意趣に残してはならない。他言もしてはならない。
もちろん当座で腹を立てたりしてはならない。思っていることは何でも遠慮なくいうように」

そこで一座の者も、それを守る誓いを立てた上で、
長政の身の上の悪い点、家来たちへの仕打ち、国の仕置きで道理に合わないと思われる点など、
なんでも低意なく申し述べるわけです。

過失があって出仕をとめられた者や扶持をはなれた者のわびもいう。
そのほかなにごとによらず、通常の場合には口にしにくいことをいい合いました。

もちろん長政も人間です。
だから自分の悪い点を家来が面と向かって指摘したなら腹も立つでしょう。
しかし、そこで腹を立てればもうおしまいです。

だからそのことをあらかじめ考えて、
会合の前に“腹を立ててはいけない”というルールをお互いに誓いあって
万全を期していたわけです。

まことにゆきとどいた姿といえるのではないでしょうか。

長政がそういう姿の会合を続けていたということは、
一つには自分にも至らない点、気づいていないこと、知らないことがある、
それは改めなければならないから教えてもらおう、
というような謙虚な心をもっていたからではないかと思われます。

そういう謙虚さはどこから出てきたかというと、
それはやはり素直な心が働いているところから出てきたのではないかと思うのです。

謙虚な心で衆知に耳を傾けるということは、
いつの時代どんな場合でも非常に大切なことですが、
素直な心が働けば、そういう姿がおのずと生まれてくるのではないかと思います。

            <感謝合掌 平成28年8月3日 頓首再拝>

自己に宿る神性仏性に素直に - 伝統

2016/08/15 (Mon) 04:42:41


           *「常楽への道」吉田国太郎・著(P342)より

素直に素直に、神の生命(いのち)に素直に、
自己に宿る神性仏性に素直に 今を生かしもて 行くのである。

行ずることが大切である。
行をして、神想観の延長であらしめる事が大切である。

真行(しんぎょう)とは神想観の延長のことである。

此の行によって いのちの世界の霊々妙々なる自由と歓喜は
はじめて此処に実現するのである。(二一・三)

            <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝>

素直に笑う - 伝統

2016/08/17 (Wed) 03:16:04


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月17日>(P55)より抜粋

家庭光明寮は婚前の処女に花嫁としてのあらゆる資格を与えるために訓練する学校であるが、
ある時、その中に一度結婚して、姑との折合いが悪くてついに離婚になった美しい娘が、
もう一度花嫁としての修行をするため寮生の中に混じっていた。

彼女は目立って美しかったが、目立って知的ですましこんでいるので、
他の寮生とが全然異なる雰囲気を持っていた。

なぜこの美しい知的な娘が結婚生活において今まで不幸であったのだろうか。

それは彼女自身が間もなく「他の寮生たちが何でも無邪気に、
箸の転んだのにまでも愉快そうに笑うのが低級に見えて皆さんと合わない」と
申し出たことによってハッキリわかったことであった。

彼女は何事にも素直にそのまま美しいと
無邪気に受け容れる性質を持っていなかったのであったのである。

素直に笑う事ができないものは
「笑う門に福運来たる」の法則にすでに背いているのである。
その上、まだ素直に笑っている少女たちを低級だとか何だとか非難しているのである。

彼女の眼から見るならば、素直に食卓に談笑している舅姑たちも低級に見えたのであろう。
それならば彼女が舅姑から排斥されて離縁になったのも無理はない。
だれでも低級だと見られて喜んで、その批評者を迎えるものはないからである。

しかし、なぜ、無邪気に笑っている少女たちが低級なのであろうか。
そう感じられるなんじの心がかえって低級なのである。

無邪気に笑う樹草の花が人間に愛でられるのは、無邪気に生命が笑っている――
そのこと自身がすでに価値があるからである。人間も同じことである。

           <感謝合掌 平成28年8月17日 頓首再拝>

素直に、いっさいをそのまま受ける - 伝統

2016/08/18 (Thu) 04:12:38


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月18日>(P57)より

与えられたるいっさいをそのまま受けるところに幸福は来るのである。

ある会社の重役が涜職(とくしょく)の嫌疑によって某刑務所の未決監に投獄せられたときに、
彼はひと晩ぐっすり寝入って翌朝洗面して向こうにある鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。
鏡に映る自分の顔を見たときに驚いた。

それは彼の眼が幼い児童の眼のように実に澄みきった美しい眼であったということである。

五十歳を過ぎている彼は、もう五十歳を過ぎたら、眼の白い部分は老衰の結果どんより
曇ってしまって、永久に幼児(おさなご)のように澄みきった美しい眼にはなれないものだと
思っていたのである。

ところが、実に彼の眼の複雑な濁りは、彼の複雑な浮世の問題に悩んでいる
心の具象化にすぎないのであった。

今、彼は刑務所に投獄された。
浮世の問題について何を思い煩っても、手の届かない世界の事であったから、
彼は何ひとつ思い煩わないで、与えられた未決監の生活をそのまま素直に受けたのだった。

監獄はそんな彼にとって苦しいところではなかった。
その世界は狡猾な策略も商戦も何も複雑な思い煩いの要らぬ世界であった。

彼は与えられた生活をそのまま素直に受け取って、まるで幼児のような心境になったのだ。
その心境が一夜のうちに具象化して彼は澄みきった瞳の色になっていたのだった。

監獄の生活でさえそのまま素直に受けるときそこに天国があるのだ。
もしこの重役がこの未決監から逃げ出そうと思っていろいろ焦っていたならば、
この澄みきった美しい眼にはなれなかったに相違ない。

―― こうわたしはその重役の話を聞いたとき教えられたのであった。

          <感謝合掌 平成28年8月18日 頓首再拝>

素直が一等大なる美徳 - 伝統

2016/08/29 (Mon) 03:42:20


        *「人生読本」(P151~152))より

私達は素直になる事が一番必要であります。
生長の家の生き方は素直な生き方であります。

偉い者は偉いとして、偉くないものは偉くないとして、
光は光として、影は影として
正直に一切のものをそのまま受容(うけい)れる心持には、ちっとも無理がありません。

無理があるのはどこかに本当でないところがあるのです。
耳が聞こえないとか、目が見えないとか、或いは鼻がよく利かぬとか、
蓄膿症とかいう人の中には、素直な気持ちが乏しい人が多いのであります。

素直な気持ちが乏しい場合、すなわち総てのものをそのまま受容れる心がない場合には、
心の目を閉じ、心の鼻を抑え、心の耳を塞いでいるのでありますから、
それが肉体にあらわれますと、目が疎くなったり、耳が聞こえなくなったり、
鼻が利かなくなったりするのであります。

蓄膿症や、乱視や、中耳炎などはこれから起こることがあります。

それですから、健康のためにも成功のためにも何でも素直な心、
ハイハイというような心持、一切のものをそのままありがたく受容れる
という心持になることこそ非常に大切であります。

すべてを素直に受容れる心は神の心であります。
神というものは善にもあれ、悪にもあれ、太陽の照るがごとく一様に光を与えてくださる、
これが本当の神であります。

この大包容の心持になった時、病気の治る事はもちろんですが、
総ての事業にも成功するのであります。
これが生長の家の生き方であります。

小さい心は小さいおかげしか受けることができません。

太陽に黒点があっても黒点なんか目もくれないで、
太陽の光の良いところばかり讃歎(さんたん)して吸収する、
そうすると私達は生き生きと自分自身がその太陽に育てられて伸びてくるのであります。

私達は科学者が太陽の黒点を研究している間に黒点なんかを忘れてしまい、
「ああ私の暖かい太陽よ!光の太陽よ!」と喜ばねばなりません。

そういう人は必ず発達し成功するのであります。

          <感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>

そのまま素直に受けきったとき光明化する - 伝統

2016/08/31 (Wed) 04:03:42


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月31日>(P68)より

「徳」とは何であるか。
その文字の組立てによれば「直心(じきん)を彳(おこ)なう」ことである。

直心とは素直な心である。
そのまま素直にありがたく受けて、与えられたる条件において
与えられたる使命を彳(おこ)なうことが「徳」である。

不幸は一方で一つの形を押し込んで隠せば他の形で他方に顕われる。

そのまま素直に受けきったとき光明化するのである。

           <感謝合掌 平成28年8月31日 頓首再拝>

素直な心には、広い寛容の心が含まれる - 伝統

2016/09/12 (Mon) 04:00:12

             *「素直な心になるために」松下幸之助・著

(「素直な心とは、寛容にして私心なき心」<2016/06/11>からの続きです )

素直な心の内容の中には、
万物万人いっさいをゆるしいれる広い寛容の心というものも含まれている。

お互い人間は、どこかの離れ小島でたった一人で生きているというのでなく、
ふつうみなが相寄って、集団生活、共同生活というものを営んでいます。

その共同生活を営んでいく上で大切なことはいろいろありましょうが、
中でも最も大切なことの一つは、お互いがともどもによりよく生きてゆく、
ということではないでしょうか。

そしてそのために大切なことの一つに“寛容”ということがあるのではないかと思います。

共同生活にはいろいろな人がいます。
背の高い人もおれば低い人もいます。
声の大きい人もおれば小さい人もいるでしょう。

いろいろな性格、考え方の持ち主が一緒にいるわけです。
したがって、もし背の高い人が低い人に対して、
「背が低いのはけしからん。消えてなくなれ」というようなことをいったとするならば、
背の低い人たちはみな怒るでしょう。

しかしいたたまれなくなってどこかへ行こうと思っても、
結局、共同生活から出ていけば生きていくことはできません。

だから、背の高い人が低い人の存在を認めないようなことがあれば、
両者の間に争いもおこり、お互いの不幸な姿も生まれかねないでしょう。

もちろん実際にはこういったことはありえないことかもしれませんが、
しかしたとえば思想や宗教、あるいは人種的な差別という面では、
往々にしておこりかねないことだといえましょう。

 
寛容とは、広い心をもって、よく人をゆるしいれるということです。
また人のあやまちに対して、きびしくとがめだてしないということです。

したがって、たとえよくないことをした人に対して善意をもって
そのあやまちを正すということはしたとしても、
よくないことをしたからといってその人を憎み、その存在をゆるさない、
というようなことはしないということです。

それでは寛容ということにはならないだろうと思われます。


それでは、寛容の心はいったいどこから生まれてくるのかといいますと、
それはやはり素直な心から生まれてくるものだと思います。

つまり、素直な心というものになれば、
おのずとそういう寛容の心があらわれてくるのではないかと思うのです。

           <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>

素直な心というものは、道理を知ることのできる心である - 伝統

2016/09/26 (Mon) 03:52:36


素直な心というものは、広い視野から物事を見、その道理を知ることのできる心である

             *「素直な心になるために」松下幸之助・著

寛永の頃に幕府の勘定奉行をつとめた伊丹播磨守康勝は、
農民や町民のために利をはかることが多かったといいます。

たとえば、その頃、運上金、つまり税金を公儀に納めて、
甲斐国から出る鼻紙を一人で商っていたのをうらやんだある富商が、
「私にお任せ下されば、これまでより一千両も多くの運上金を納めます。
どうかお許し願います」と願い出ました。

それに対し、評議では許すことに決まりそうでしたが、播磨守一人は反対しました。
富商はなおも熱心に願いつづけたので、3年後には老中など執政の人々の意見も
許すことで一致しました。

そのとき播磨守は、
「これより後に、盗賊のおこらぬ道が立ちますならば、いかにも許しましょう」
といいました。

人びとがそのことばのわけをたずねると、播磨守は次のようにいったということです。

「鼻紙というのはみなの生活必需品ですが、その値段が低いから世の助けになっています。
千両多く運上金を納めるといいますが、その千両をどこから引きだすつもりでしょうか。
その紙の値段を上げて小売商に卸し、小売商がまた値段を上げて売るようになったら、
値段は相当高くなるでしょう。

一物の値段が上がれば、万物の値段も同じように高くなるのは道理です。

諸物価が高くなって、求めようにも求められなくなる場合には、
盗みということがおこります。盗むことが世に盛んになったら、
どういう政治をしてこれを防げるでしょうか。

盗みは貧よりおこります。
わずかに千両の金が増えるからといって、世の風俗を乱してはなりません。
運上金を多くしようとすれば、物の値段が高くなっていくのです。
このことをよくよくお心得願いたく存じます」。


人々は、播磨守の遠いおもんぱかりを知って、みなその言に従ったということです。

今日のわれわれも、物価の問題についていろいろ悩まされていますが、
お互いに播磨守のように道理を知り、遠いおもんぱかりをもって物事を考えることも
一面において大切ではないでしょうか。

そして、そのためにもまずお互いにつね日頃から、
素直な心というものを十分養い高めて、つねに素直な心が働くよう心がけていくことが
大切だと思うのです。

           <感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>

素直な心というものは、学びの謙虚さをもった心である - 伝統

2016/10/10 (Mon) 03:58:38


素直な心というものは、すべてに対して学ぶ心で接し、
そこから何らかの教えを得ようとする謙虚さをもった心である

             *「素直な心になるために」松下幸之助・著

何事も経験であり、勉強である、ということをいいますが、
そのような心がまえをもって人生をすごしてゆくならば、
月日とともにいろいろなことをおぼえ、学びとってゆくこともできるでしょう。

だから、そこからは限りない進歩向上の姿も生まれてくるのではないでしょうか。

たとえば、他の人びとと通常ふつうの会話を交わしている際でも、
何の気もなしにただ話をしているだけであれば、
その場限りのものとなってしまうでしょう。

けれどもそういう際にも、勉強する態度というか、
学ぶ心というものを保っていたとするならば、
相手のふとしたことばの中からハッと学ばせられるようなものを
見つけ出すこともあると思います。

自分では気づかなかったような事柄を知ったり、知らなかった知識を得たり、
さらには何らかの教訓を得たり、というように、学ぶ心さえあれば、
日々の会話であろうと何であろうと、お互いの生活、活動の中から
いろいろなことを学びとることができるのではないかと思うのです。

学ぶ心があれば、この世の中の一切の人、物、あらゆる物事のすべてが、
自分にとって貴重な教えともなり、勉強ともなってくるでしょう。

だから学ぶ心からは、お互いのたゆみなき向上、
進歩の姿というものも生まれてくるのではないかと思うのです。

学ぶ心というものは、こうした好ましい姿をもたらすものであると思うのですが、
この学ぶ心というものも、素直な心になるところからあらわれてくるものだと思います。

というのは素直な心というものは、まだ何もかかれていない白紙のようなもので、
吸収すべきは何でも吸収する心だからです。

したがって、字であろうと絵であろうと、何でもその上にかくことができます。
すでに字がかかれているから、もう絵をかいてはいけない、というようなこともありません。

また、すでに全面にわたって字がかかれているから、書き足す必要はもうない、
というようなこともないわけです。

字でも絵でも、すべてを新しいものとしてみとめ、
そして是なるものはこれを大いに受け入れるわけです。

要するに、素直な心になれば、すべてに学ぶ心があらわれてくると思います。

いっさいに対して学ぶ心で接し、そしてつねに何らかの教えを得ようとする態度も
生まれてくるでしょう。

素直な心になったならば、そのような謙虚さ、新鮮さ、積極さ
というようなものもあらわれてくるのではないかと思います。

           <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

《素直に啓示に従うこと》 - 伝統

2016/10/22 (Sat) 04:50:22


          *『 生長の家 』(昭和23年9月23日の法語)より

   神?(インスピレーション、啓示)と云うのは
   必ずしも外からのみ与えられるのではないのである。

   神は到る処にいられるのであるから、(これを遍在と云う)
   内から思いつくこともあれば、
   外から思いつくこともあるのである。

   外から思いつくと云うのは
   他の人から 「 斯うせよ 」 とお教えられたり導かれたり、
   自然の事情の動きでそうせねばならぬように
   仕向けられることである。


   神に計画をゆだねたならば 何が外から起って来ても、
   それが神の導きであると信じて完き従順もて起ってくることを
   感謝して其の儘受けるのが必要である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 平成28年10月22日 頓首再拝>

素直な心というものは、融通無碍の働きのある心 - 伝統

2016/11/06 (Sun) 03:17:25


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

【素直な心というものは、自由自在に見方、考え方を変え、
 よりよく対処してゆくことのできる融通無碍の働きのある心である】

 
素直な心というものは、融通無碍の働きのある心であるともいえると思います。

すなわち、物事に対して臨機応変、自由自在に
とりくむことのできる心ではないかと思うのです。

したがって、素直な心が働くならば、いつどのような物事に出くわそうとも、
必要以上に おどろきあわてることなく、また窮してゆきずまることもなく、
つねに正々堂々と物事に対処し、そこによりよき成果を生み出していくことが
できるのではないでしょうか。

それはいってみれば、一つのことにとらわれたり、
固定してしまうというようなことがなくなるからでありましょう。

つまり、極端にいえば困っても困らない、一見できないようなことでもできるというように、
まことに自由自在な行動、姿というものがそこに生まれてくるからではないかと思うのです。

 
たとえばお互いが何か大きな失敗をしたとします。
失敗をすること事態は、お互い人間の常として、
一面やむをえないといえるかもしれません。

しかしその失敗が自分にとってきわめて深刻な場合には、
それを気に病んで悲観し、思いあまって自分の生命をちぢめる
といったような姿さえ実際には見られます。

これはまことに気の毒な同情すべきことだと思います。

けれども、また一面においては、もしも素直な心が働いていたとするならば、
おそらくそういう不幸な姿に陥ることはさけられるのではないかとも考えられます。

というのは、 素直な心が働いていたならば、
物事を融通無碍に考えることができるからです。

ですから、 いかにその失敗が深刻であったとしても、
たとえば“失敗は成功の母である”というように考えて、それを生かしていこう、
と思い直すことができると思うのです。

ですから、お互いが素直な心を養い高めていったならば、
いらざる衝突、争いなどはほ とんどなくなって、
きわめて和やかに、つねに談笑のうちに日々の活動が営まれていくようになるわけです。

このように、素直な心になったならば、
融通無碍な心の働きというものもあらわれてくるのではないかと思うのです。

           <感謝合掌 平成28年11月6日 頓首再拝>

平常心 - 伝統

2016/11/23 (Wed) 03:08:07


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

素直な心というものは、どのような物事に対しても、
平静に、冷静に対処してゆくことのできる心である。

剣聖といわれた宮本武蔵の記した“五輪書”のには、
いわゆる兵法の極意がいろいろ述べられていますが、

その一つに“兵法の道において、心の持ちようは、
常の心にかわるこ となかれ”というのがあります。

これは、たたかいの場においても常の心、
すなわち平常心、平静心を保つことが大切だということでしょうが、
なかなかこれはむつかしいことであろうと思います。

というのは、たたかいの場といえば、いってみれば命のやりとりが行なわれるわけです。
当時であれば刀や槍などの武器がふるわれ、殺気にあふれて必死に争いあうわけでしょう。
だからふつうであれば、極度に緊張し、また興奮もしてくるだろうと思われます。

けれども、そのように心が張りつめ、高ぶってしまったならば、
かえって冷静な判断を下すこともできにくく、またとかく身体も柔軟性を失いがちとなり、
思わぬ失敗をしてし まうことにもなりかねません。

しかも、戦いの場における失敗は死につながると思います。
それだけに、できるだけ冷静な態度を保っていることがのぞましいわけです。

そこで宮本武蔵も、兵法の極意の一つとして、
この平常心、平静心というものをとりあげたのではないかと思われます。

 
今日においては、もう実際に命をやりとりするような場は、
ふつうの状態においてはほとんどみられません。
戦争などの特別な場合を除いては、なくなりつつあると思います。

しかし、そういう平常心、平静心というもの自体は、
たたかいの場に限らず、またいつの 世にも大事なのではないでしょうか。

というのは、今日のお互いの日々の生活、活動の上においても、
冷静さを欠き、平静心を失ったがために、思わぬ失敗を招いたというような姿が、
いわば日常茶飯事のようにひ んぱんにおこっているように思われるからです。

さらにまた、人との交渉の際などにおいても、また試験をうけたり、
スポーツ競技に参加した場合などにおいても、同じように平常心、平静心というものが、
大事になってくる のではないでしょうか。

お互いが素直な心になれば、おのずとそういう平常心、平静心が得られると思います。
すなわち、お互いが素直な心で物事を見、考えていったならば、
物事を冷静に、平常心を 保って見、考えていくということもできるようになると思うのです。

           <感謝合掌 平成28年11月23日 頓首再拝>

素直に無邪気に - 伝統

2016/12/08 (Thu) 03:31:56


         *「人生読本」(P76~77)より

同じことをお父さんに言っても、叱られる場合と、叱られぬ場合とがあります。
なぜそうなるかを考えてみたことがありますか。

それはお父さんの御機嫌の好い時は叱られないで、
お父さんの御機嫌の悪い時は叱られるのだとお考えになりますか。
必ずしもそうばかりではありませんよ。

素直に無邪気に物が言えた時には、その人の眼の色にも、顔つきにも、言葉つきにも、
明るい、生き生きとした、伸び伸びといたところがでているから、
その眼の色を見、顔を見、言葉を聞くと快い気持ちになって叱れなくなるのです。

同じ人でも、無邪気で素直であるときと、無邪気で素直でない時とは、
こうも形にあらわれ方が異うのですよ。

言葉、形、さては一本の線を引くのだって、
無邪気に素直に自分の本物を出すようにすれば、皆から喜ばれるのです。

入学試験を受けるコツもこれですよ。

無邪気にやれば覚えただけでは皆出てくるが、
無邪気な素直な心を出せないで、恐れていると、
憶えているのまで忘れてしまって、出て来ないことがあります。

           <感謝合掌 平成28年12月8日 頓首再拝>

価値を知る - 伝統

2016/12/20 (Tue) 04:00:49


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心というものは、よいものはよいものと認識し、
 価値あるものはその価値を正しくみとめることのできる心である》

今、仮にだれかがあなたに対して、一つの助言をしてくれたとします。
あなたは、その助言をどう受けとめるでしょうか。

もちろん、その助言の内容にもよるわけですが、内容 は一応よいものとして、
それをどういう態度で受けとめるか、ということです。

その受けとめ方は、いろいろあると思います。

「ああ、これはいい助言をしてくださった、ありがたい」と感謝の心で受けとめ、
その助言を生かしていく場合もあるでしょう。

その反対に、「いらない世話だ。助言など必要ない」といった
拒否の態度をとる場合もあ るでしょうし、さらには、
「表面ではいいことをいうが、ウラで何をたくらんでいるかわ からない、気をつけよう」
というように不信、疑いの心で受けとめるといった場合もあるかもしれません。

 
こうした受けとめ方のうち、素直な心をもっている場合の受けとめ方はどういうものか、
というと、やはり素直な心があれば最初にあげた場合のように、
感謝の心で受けとめるのではないかと思います。

なぜ感謝の心で受けとめるのかというと、それはもちろん、
助言 をしてくれた好意、親切に対しての感謝もあると思います。

また、それと同時に、素直な 心というものは、
よき助言はよき助言として受けとめることができる。
つまりよいものはよいものとしてはっきりと認識することができる心であるからだ、
ということです。

素直な心になったならば、物事の本当の姿を見る、物事の実相を見る、
ということもできるようになるわけですが、

物事の実相を見るということは、やはり一つには、よいものはよいものと認識し、
価値あるものはその価値を正しく認める、といったことにもなるだろう思います。

だから、よいものはよいものと認識し受けとめるというような態度は、
結局のところ、その根本は素直な心の働きのあらわれの一つということになるのではないか
と思うのです。

           <感謝合掌 平成28年12月20日 頓首再拝>

素直な心というものは、慈悲の心を発揮させる心である - 伝統

2017/01/06 (Fri) 03:25:56


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心というものは、人間が本来備えている
広い愛の心、慈悲の心を十二分に発揮させる心である》


お互い人間というものは、他の人が困っているのを見れば、
なにか手助けできることは してあげよう、と考えるのが自然の情ではないかと思います。

もちろん、他の人の難儀を見ても見ぬふりをする、というような姿もときにはありましょう。
しかしそういう場合でも、なにか特別の事情がない限りは、
やはり内心ではできれば助けてあげたいとか、だれ か他の人が助けてあげればよいのにとか
思っているのであって、これはおもしろい、大いに難儀して苦しめばよい、
などとはまず考えないのではないでしょうか。

もともと人間というものは、互いに心を結びあって、
大切にしあい、生かしあい、許しあい、助けあって生きてゆこう
というような心をもっているのではないかと思うのです。

つまり、そういう広い愛の心、慈悲心というものを、
本来人間は備えているのではないかと思うのです。

しかしながら、現実のお互い人間の姿というものをみると、
必ずしもつねにそういう愛の心、慈悲心が発揮されているとはいえないでしょう。

ではなぜ、そういう愛の心が十二分にあらわれてきにくいのでしょうか。
これについては考え方はいろいろあるでしょう。

しかし、やはり一つには、お互いの心がいろいろなものにとらわれている、
だからその本来もっているあたたかい心があらわれてきにくいのではないかと思います。

たとえば、お互いの心が一つの利害にとらわれてしまうと、
他のことを忘れて利害のみを争うようにもなり、自分の思うようにいかないと
そこに憎しみが生まれて愛の心をかくしてしまう、ということもあると思います。

けれども、お互いが素直な心になったならば、
そういったもろもろのとらわれというものはなくなっていくと思われます。

したがって自分の利害にも、立場にも、また自分の考えや主張にも、
すべてにとらわれることがないという姿にもなってくるでしょう。

すなわち、素直な心になれば、人間本来の広い愛の心、慈悲心が働いて、
みながともどもに明るく幸せに生きてゆくことができるような姿が生まれ、
高まってゆくのではないかと思うのです。

素直な心というものは、そういう広い愛の心、慈悲心にもつながっていると思います。

           <感謝合掌 平成29年1月6日 頓首再拝>

《素直に神に求めるがよい》 - 伝統

2017/01/20 (Fri) 03:28:41


            *『 生長の家 』(昭和46年10月20日の法語)より

   私は数え年四歳のとき、実父の妹谷口きぬさんのところへ
   養嗣子(ようしし)となって貰われて往(い)ったのである。

   私は養父母を本当の生みの父母(ふぼ)だと言いくるめられ、
   教えられ、そのように指導されていたのだけれども、
   やっぱり直感的には実の父母でないと知っていて、
   何となく遠慮がちであったらしいのである。

   私はその頃、生田(いくた)神社の門前の借家に住んでいたが、
   よく養父につれられて、湊川(みなとがわ)神社(祭神 楠木正成公)
   の西門の通りが、商店街になっていて、
   今なら小百貨店みたいなのが勧工場(かんこうば)と称して
   玩具(おもちゃ)その他の商品を列(なら)べて売っていた。

   養父(ちち)が、その玩具のどれかを指(ゆびさ)して
   「 これ買(こ)うてやろか 」 というと、
   私はきまって 「 買って頂戴 」 と素直には何物も求めなかった。
   そして 「 どうでも・・・ 」 と言ったものだ。

   稍々(やや)私が成長した時に、
   養父(ちち)は私にこう言って歎かれた。

   「 お前は幼い時に、何を買ってやろうかといっても、
   いつも “ どうでも ” と答えるので、買って貰って嬉しいのか、
   そんなもの要(い)らぬのか判断に困ったものだ。

   “ これ買って頂戴 ” と素直に言ってくれれば、
   買ってやり甲斐があるのに、お前は決して
   何(なん)にも求めなかった 」

   といって淋しい顔をせられたことがある。

   だから、 “ 神の子 ” たる人間も、親様(おやさま)なる神様に、
   何を求めても、求め過ぎるということはない。

   されば、 “ 求めよ、さらば与えられん ” と
   神様は 素直に神に求めることの無邪気さを
   愛(め)でていられるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

           <感謝合掌 平成29年1月20日 頓首再拝>

「素直」は、すなわち「我(が)」の絶滅です - 伝統

2017/02/07 (Tue) 05:04:19

我(が)を捨てるところに「本当の自分」が生きる

           *『真理』第五巻女性篇(P227~228)より


黒住宗忠のように親が「高足駄(たかあしだ)を穿(は)け」といわれたら
「はい」と高足駄を穿く。
「草履を穿け」といわれたら「はい」と草履を穿く。

それは非科学的な精神のようでありますけれども、
そこに本当の深い真理が現れるのであります。

キリストも同じようなことをいわれました。

「汝の右の頬(ほほ)を打つ者あらば、これに左の頬をもめぐらして打たせよ。
十里の公役(こうえき)を強いられなば、二十里を行け。
上衣(うわぎ)をとる者には下着(したぎ)をも取らせよ」

この素直の精神が、天地のはからいと一致することになるのであります。

素直ということは、凡(あら)ゆる徳の中で一番素晴しい徳であるわけです。

キリストの謂(い)われた 「幼児(おさなご)の心」 です。

「素直」は、すなわち「我(が)」の絶滅です。

「我(が)」を主張することが民主主義だと、こういうように考えて、
到るところに「我(が)」をのさばらしている現代の日本の状態が、
どんなに其(そ)のために、混乱状態に陥っているかということは、
現実の世相(せそう)を見ればはっきり分るのであります。

           <感謝合掌 平成29年2月7日 頓首再拝>

素直に飛びつく者は愛される - 伝統

2017/02/14 (Tue) 04:31:45


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月14日)」より

素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。
素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわいがられる。
素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがらる。

夫婦仲が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、
それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからである。

神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

            <感謝合掌 平成29年2月14日 頓首再拝>

素直に楽しみ行ずる - 伝統

2017/02/23 (Thu) 04:37:42


           *「光明道中記」(2月23日)より   

【当り前のことが当り前である。噛みしめれば味がある。(「生命の實相」第十九巻)】

朝起きると小鳥が啼いている。
当り前のことだが嬉しく喜ばしい。

当り前の味は米の飯の味である。
いつ迄たっても飽きが来ないのが此の「当り前」の味である。

朝起きて顔を洗い、朝飯を食い、排便して出勤する。
平凡と言えば平凡だが、その平凡の味がわかるようにならなければ達人ではない。
唯なにかなしに嬉しいのである。

異常なることがあって嬉しいのではない。
ただ当り前のことが楽しく行じられるのが健康なる心である。
心臓はただ当り前のことを楽しく行じ、肺臓もまたただ当たり前のことを楽しく行じている。

それでこそ吾等は生きていられるのである。
吾等はただ当り前の事を楽しく行じてくれる心臓に感謝しなければならないし、
肺臓に感謝しなければならない。

それと共に吾等は自分の心臓や肺臓に「その儘に随順する心」を見習うべきである。
吾々は世界の心臓であり、肺臓である。
世界は吾々が其の儘素直に行じているそのことによって支持されているのである。

其の儘素直に楽しみ行ずる力は、宇宙を支持する力である。

太陽が朝昇ることを当り前の行事で面白くないと云って昇らなくなったら――?

            <感謝合掌 平成29年2月23日 頓首再拝>

まことの姿が見える - 伝統

2017/03/13 (Mon) 04:40:30


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心というものは、物事のありのままの姿、
本当の姿、実相というものが見える心である》

素直な心は、物事のありのままの姿、実相というものを
見ることのできる心であるともいえると思います。

というのは、素直な心になったならば、心の中に物事の実相をおおいかくすというか、
これを曇らせるようなものがなくなると思われるからです。

美しく磨きあげられた無色透明なガラスをとおせば、物がそのありのままに見えます。
それと同じように、素直な心になったならば、物事の本当の姿というか、
実相がはっきりと見えるようになるのではないかと思います。

だから実相に基づいて物事を考え、判断することも、
しだいにできやすくなってくると思うのです。

もしもこれが、無色透明でなく色のついたガラスであったならばどうでしょうか。
色ガラスをとおしてみれば、向こうにあるものの本当の色が正確にはわからなくなります。

仮にガラスの色が青色であるとすれば、向こうにある白いものは白くは見えず、
青みがかって見えるでしょう。つまりこれでは、本当のありのままの姿というものが
わからなくなります。

あるいはまた、そのガラスがゆがんだガラスであれば、
向こうにあるものもゆがんで見えるわけです。
けれども素直な心になって物事を見た場合には、無色透明で正常なガラスをとおして
見るように、なんの色もつかず、そのありのままが見えるというわけです。

今日のわが国においては、政治をはじめとして社会の各分野の活動において、
またお互いの日々の生活の各面において、いろいろとあやまちやゆきちがいが
生まれてきています。

そしてそれらがお互いの悩みや苦しみ、対立や争いをいっそう深めている面さえ
あるように思われます。こういう面もあるということも、一つには、
お互いが素直な心ならざる色ガラスをとおして見、それにとらわれて判断を下し
行動している、というような姿が少なくないからではないでしょうか。

もしそうであるとするならば、やはりそのままではいけないと思います。
お互いに素直な心を養い高め、物事の本当の姿を見ることができるように
つとめなければなりません。

じっさい、お互いが素直な心になるならば、しだいに色ガラスでなく
無色透明なガラスをとおして物事を見るというような姿にもなってゆくでしょう。

したがってその判断は物事の実相に基づいた判断ともなり、
あやまちのない適切な判断となってくるわけです。

            <感謝合掌 平成29年3月13日 頓首再拝>

なすべきをなす - 伝統

2017/03/30 (Thu) 03:13:30


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心が働いたならば、なすべきことを正しく知り、
 それを勇気をもって行なう、という姿が生まれるようになる》

ご承知のように、羽柴秀吉が主君織田信長の命によって中国攻めをしていたとき、
主君信長が本能寺で明智光秀に討たれてしまいました。

そのとき、京都の周囲には信長麾下(きか)の武将がたくさんいましたが、
秀吉は遠く京都をはなれ、しかも毛利という大敵と戦っていたのです。

信長麾下の武将たちは各方面を攻めにいっていましたが、
距離からいうと一番遠くにいたうちの一人が秀吉でした。

近くには、信長の息子信孝が大坂に、同じく信雄が伊勢にいました。
光秀は憎い親のかたきですから、息子がまずだれよりも先にかけつけて、
光秀と一戦交えるというようなことをしなければなりません。

しかし、息子たちはそうせずに、いわば形勢を展望していたのです。

その当時の常識としては、いわゆる“不具倶戴天の父のかたき”ということがあります。
つまり、父のかたきとはともに天をいただかない、ともに生きてはいない、ということです。

一戦交えたら勝つか負けるかわかりません。
しかし勝つか負けるかということよりも、ともに生きているという状態にはしておかない、
ということです。

これがその当時としてのいわば道徳のひとつであったと思うのです。


一方、秀吉はどうであったかというと、秀吉は一番遠くにいて、
てごわい敵と戦争していましたが、信長が討たれたと知ると直ちに敵と和睦し、
そしてとるものもとりあえず引き返して、不倶戴天の主君のかたきを見事に討ちました。

これは当時の道徳に素直に従った姿であるともいえるのではないでしょうか。

天下をとろうなどという野心が先に立ったのでは、
なかなかあのようにうまくはいかなかったでしょう。

自己の利害ということを超越し、ただひたすらになすべきをなした、
やらねばならないことをやった、ということだと思います。

そして、そういう私心をはなれた態度、行動をとるということは、
やはり素直な心にならなければなかなか出てこないのではないかと思うのです。

このような点から考えてみても、
素直な心の偉大さというものがよくわかるのではないでしょうか。

もちろん、当時と今日とでは、考え方も道徳のようなものもずいぶんちがいますから
この例はそのまま今日にあてはまるものではないでしょう。

ただ大切なことは、なすべきことは私心をはなれて断固として行なう、ということです。
ときには、自分の命をかけてでもやりとげるということです。

            <感謝合掌 平成29年3月30日 頓首再拝>

素直な心になれば、思い通りになる - 伝統

2017/04/18 (Tue) 04:05:07


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心になれば、すべてに対して順応していくことができるから、
 何でも自分の思い通りにすることができるようになる》


何事によらず、物事を自分の思う通りにやりたいというのが、
お互い人間の一面の姿ではないかと思います。

たしかに、人でも物でも、すべてが自分の思う通りに動いていくとしたら、
一面これほど愉快なことはないともいえるかもしれません。

けれども実際の世の中というものは、どちらかというと、人でも物でも
なかなか自分の思う通りには動いてくれない場合が多いのではないでしょうか。

それで相手と争ったり、みずからいろいろ思い悩んだりするなど、
好ましくない姿に結びつく場合も少なくないように思われます。

 
しかしお互いが素直な心になったならば、
そういう好ましくない姿は生まれてこないのではないかと思います。
というのは、素直な心になれば、すべてがいわば自分の思い通りになると思われるからです。

自分の思い通りになるというのは、
思い通りになるように、自分から順応していくからです。

すなわち素直な心が高まってくれば、そのなすところは融通無碍となり、
いわば障害はなくなってしまうと思われます。

それはなぜかというと、できないことはやらないようになるからです。
こういうといささか消極的になりますが、逆に積極的にいうと、
できないと思われるようなことでもよき考えを生み出してやりぬく
という知恵がわいてくると思うのです。

つまりこれは非常にむつかしいけれども、
こうやればできるということがしだいにわかってくると思うのです。

それで、非常にむつかしいことでも、それをのりこえ、
道をひらいてゆくことができると思います。

けれどもその反面においては、これは絶対に不可能だということは
もう始めからやらない、ということにもなると思います。

だから素直な心が高まってくれば、これは今の段階ではムリであるということと、
これはやればできるということと、その両方が同時にわかってくるのでないか
と思うのです。

だから、素直な心になったならば、
自分の行く手に高い山がたちふさがったような場合でも、
これをムリヤリつきぬけて通ろうというようには考えずに、

たとえば山のふもとを回り道して通っていけばよい、
というように考えるだろうと思うのです。

そしてそのようにするなら、そこにムリもおこらず、
争いとか悩みをおこすこともなく、その山を越すこともできる
のではないかと思うのです。

            <感謝合掌 平成29年4月18日 頓首再拝>

松下幸之助は 「素直な心」 が成功の要と考えた - 伝統

2017/05/04 (Thu) 04:33:24


          *Web:東洋経済ONLINE(2016年07月29日)より

松下幸之助は、「自然の理法は、いっさいのものを生成発展させる力を持っている」
と考えた。

だから、素直な心になって自然の理法に従っていれば、うまくいく。
世の中は成功するようになっている。


《とらわれるから、うまくいかん》

ところが、私たちにはなかなかそれができない。
自分の感情にとらわれる。立場にとらわれる。地位や名誉にとらわれる。

自然の理法になかなか従うことができない。
それゆえ、かえって状態を悪くする。
無用な苦労をする。
望むような結果が得られない。

一人ひとりのとらわれが、争いになり、つまるところは戦争にまで至る。

自然の理法に従うならば、もともと人間には進歩発展する本質が与えられている。
言葉を替えて言えば、平和、幸福、繁栄を実現する力が与えられている。

「それがうまくいかんというのは、とらわれるからや。素直でないからや。
だとすれば、素直でないといかん、と。素直な心こそが人間を幸せにし、
また人類に繁栄と平和と幸福をもたらすものであると、わしはそう考えたんや」


しかし松下の言う 素直な心 とは、
人の言うことになんでもハイハイと答えるということを言っているのではない。
無邪気な心のことでもなければ、幼児の心のことでもない。

それだけでは、ほんとうの素直ではない。


「ほんとうの素直とは、

自然の理法に対して、すなわち本来の正しさに対して素直であると、

そういうことやな」

正邪、善悪、表裏の存在を知りながら、なおかつそれにこだわらない。偏らない。
たんなる無心でもない。自分が悟ればそれでよしとするものでもない。

素直な心になることは、決して易しいことではない。

「自然の理法に従えば、と言うたけどな、それは自然の理法に従っておれば、
それだけでただ何もせんでええということではないんや。
それは、きみ、わかるやろ」

自然の理法はやるべきこと、なすべきことをやっている。
早い話がお日さまはきちんと東から出る。西に沈む。
春が来て、夏が来て、秋が来て、そして冬が来る。

人間もやるべきこと、なすべきことをきちんとやれるかどうか。
逆になすべからざることは絶対にやらない。
そういう振る舞いができるかどうか。

自然の理法に従うというのは、決してそう易しいことではない。

「まあ、わしはそういうようなことをみずから考えながら今日までやってきた。
宇宙万物自然というものが、わしの先生でもあったわけやな。

わしの経営についての考え方は、経営というひとつの枠のなかだけで考えたのではない。
わしはいつもその枠を越えて、宇宙とか自然とかそういうものに考えを及ぼし、
そこで得られたわしなりの結論を経営に応用したんや」


《天地自然の中に繁栄の原理を探してきた》

経営についての松下の考えは、全体の考えの一部であって、決して全体ではない。
多くの人が松下を「経営の神様」と呼んだが、ほんとうは松下が考え続けてきたのは
宇宙のことであり、万物のことであり、自然のことであり、人間のことであった。

松下は経営をやりながら、つねに人間の本質とはなにか、人間の幸せとはなにか、
宇宙の本質とはなにか、自然の理法とはないかということを、考え続けてきた。

天地自然の中に繁栄の原理を探してきた。

これが松下幸之助のやり方だった。


PHP研究所の庭の左奥に、「根源さま」の小さなお社がある。
松下は研究所にやってくると、まず最初に、必ず根源の社の前に円座を敷き、
座禅をするように足を組んで座り、2~3分間ほど手を合わせていた。

根源さまとは神様でも仏様でもない。松下が勝手につくったものである。
そして社のなかにはなにも入っていない。
松下の「根源」という考え方が入っているだけである。


「あそこへお客さんを案内すると、必ず、根源さんというのはなんですかと聞かれるな。
いちいち説明せんといかんけど、それがあの場所では面倒やな。ハハハ。

どうして根源という考えをわしが持ったかというと、こういうことや。

考えてみればわしのような、なんも恵まれておらなかった者が、
一応の成功をしたということは不思議やろ。

それらしい説明は、聞かれればしてみせるけどな。正直言うと、
なぜこうなったのか、ほんとうのところの理由はわしにも、ようわからんのや」


松下はあるとき、これは自分を存在させてくれたものに感謝しなければいけないと考えた。
誰が自分を存在させてくれたのか。
それは自分を生んでくれた両親である。

ならば、両親に感謝しなければいけない。

だが、その両親はどうして存在したのだろうか。
両親のそのまた両親からではないのか。
その両親は、そのまた両親からということになるのではないか。

それではその両親はと、どんどん考えていくと、ついには人間の始祖になる。
とすると、人間はみんな始祖とつながっている。

今日私たちがこうして存在していることは、
両親やそのまた両親に感謝しなければならないのはもちろんのこと、
初めての人間、すなわち始祖に感謝しなければ、とそう思ったという。

「ところがふと、それでは初めての人間はどこから生まれてきたのか、と思ったんや。
いろいろ考えたんやけど、今度はそう簡単に答は出てこん。

ずいぶんとあれやこれやと思いめぐらした結果、
人間は宇宙の根源から、その根源のもつ力によって生み出されたんやと、
うん、突然そうひらめいた。

そうや、宇宙の根源から生まれてきたんや。
それは人間だけではない、宇宙万物いっさいがこの根源から、
その力によって生み出されてきたんやと考えた。

実際にそうかどうかは、わしは見ておったわけやないからわからんけど、
そう考えるほうが便利いい」


《「ここに存在できていること」への感謝の思い》

「その根源の力にひとつの決まりがある。それが自然の理法というもんや。
そしてその力には宇宙万物すべてを生成発展せしめる力があると。
前に自然の理法は生成発展やと言うたのは、そういうことやったんや」


今日私たちがここに存在している、その源をたどれば、初めての人間を通り越して
宇宙の根源にまでにいたる。そうすると、「ここに存在できていること」への
感謝の思いは、実にこの宇宙の根源に対してでなければならないということになる。

それで松下は、根源の社をつくった。

私はあるとき、ひょいと
「根源の社の前にお座りになって、そのあいだ何を考えているのですか」
と尋ねたことがある。

「うん、今日、ここに生かされていることを、宇宙の根源さんに感謝しとるんや。
ありがとうございます、とな。

それから、今日一日、どうぞ素直な心ですごせますように、すごすようにと念じ、
決意をしとるわけや。ここはわしが感謝の意を表し、素直を誓う場所やな」


読者に根源の社を押しつける気持ちはまったくない。
ただ、自分がそういう宇宙根源から、そして人間の始祖から連綿とつながっている
と思えば、おのずと自分の値打ちの重さを感じる。

そう感じれば、おのずと自分の人間としての重さを自覚する。
そして、感謝の念が湧いてくる。

この感謝の気持ちを持ちながら、日々をすごすことが大切だと思うのである。

松下の毎日は感謝の日々であったといっても言い過ぎではない。
それでもなお、感謝の思いが足らないと言って反省することが多かった。

  (http://toyokeizai.net/articles/-/129289

            <感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>

素直な心になれば、こだわりやわだかまりがなくなる - 伝統

2017/05/20 (Sat) 03:57:25


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心になれば、何事に対しても
こだわりやわだかまりが心にのこらないようになってくる》

お互いが素直な心になったならば、
人からなにをいわれようと、またなにごとがおころうと、
みずからの心にわだかまりやこだわりが残るということは
比較的少なくなるのではないかと思います。

たとえば、よく冬の寒い日などに、子どもたちが窓ガラスに息を吹きかけて遊んでいます。
子どもたちがふっと息を吹きかけると、すき通った窓ガラスに白いくもりができます。
白いくもりができると、向こう側がよく見えなくなります。

けれども、間もなくそのくもりはうすくなって、また元のすき通ったガラスにもどります。
そこで子どもたちはもう一度息を吹きかけます。
けれども、再びくもった窓ガラスは、すぐにまた元通りになるのです。

これは何度くり返しても同じことです。

素直な心になったならば、ちょうどこの窓ガラスと同じように、
何かこだわりやわだかまりを持つようなことが身にふりかかったとしても、
それがいつまでも心の中に残るようなことは少ないであろうと思うのです。

つまり、ごく短い間には、そのことが気にかかるかもしれませんが、
すぐにそれは窓ガラスの白いくもりと同じように、自然に消えていくであろうと思います。

というのは、素直な心になるということは、
私心なく真理というか正しいことにしたがうというところに基本の態度があり、
そこに一つの大きな安心感がありますから、こまかいことにくよくよせず、
つねに前向きにものを考えるという姿勢が保たれているからではないでしょうか。

したがって、こだわりはこだわりとならず、わだかまりもわだかまりとはならない、
というような姿も生まれてくるのではないかと思われます。

            <感謝合掌 平成29年5月20日 頓首再拝>

素直第一の日 - 伝統

2017/06/01 (Thu) 04:43:12

         *「光明道中記」(6月1日)より   

 【自分の顛倒妄想でさえぎらねば無限の生命がながれ込む。
                    (『生命の實相』第十一巻)】 
              
 
「天地の主なる父よ、われ感謝す、此等(これら)のことを智(かしこ)きもの
 慧(さと)き者に隠して嬰児(みどりご)に顕したまえり」(「ルカ伝」第十章二十一)


素直がいちばん可(よ)いのである。
まず空っぽになることが必要である。

空っぽの者はすべてを知るであろう。
空っぽの器(うつわ)の中には一切が流れ入るが如くにである。


すぐれたる人の生活は常に支配者の生活を営(いとな)むのである。
他人への支配者であるよりも寧(むし)ろ自分自身の心を支配する者が
真の勇者であり、勝利者である。

外界は内界(こころ)の投影であるから内界を支配し得ないでいながら、
外界を支配しようとするとき其処に矛盾を生じ、衝突を生じ、自壊が生ずるのである。

自分を浄(きよ)めること、真面目であること、愛深くなること、忍耐づよきこと、
「今日」を大切にし一歩をゆるがせにせず、毎日自分を堅実に築いて行くこと。

自分がからっぽになって神の聖旨(みむね)を満たし得る盃(さかずき)になること。

常に祈ること。み心が「自分」に来るように祈ること。

            <感謝合掌 平成29年6月1日 頓首再拝>

素直に物事を見て、前向きに考える - 伝統

2017/06/18 (Sun) 04:53:00


        *「松下幸之助パワーワード」小宮一慶・著(P99~100)より。

どんな人にも、どんな本にも、どんなものにも、いい面と悪い面があります。

そのどちらを見る人が成功するか?

考えるまでもありません。

幸之助さんは、物事の見方を説かれるとき、
二宮尊徳が残した逸話をしばしば紹介されていました。


江戸時代、二人の若者が江戸の街で一旗揚げようと、田舎から出てきました。
彼らの前を、水売りが通り、「えーっ、水はいらんかえー」と
売り声を上げました。

それを見て、若者のひとりは「なんと江戸では水を商売にしている。
こんなところにはとてもいられない」 と驚き、田舎に帰ってしまいました。

一方、もうひとりの若者も驚いていました。
「なんと江戸では水を商売にしている。これはすごいことだ。
面白い商売がきっとできる」と。

ワクワクしながら江戸に残った彼は、江戸で商売を成功させ、
一財産を築いたといいます。

幸之助さんは、この逸話について、

「いっぱいの水を売っているという事実はひとつだが、その見方はいろいろあり、
悲観的に見ると、心がしぼみ、絶望へと通じてしまう。

しかし、後の若者のように《楽観的に見るなら、必ず躍動し、さまざまな知恵や
才覚が湧いてくる》」(「松下幸之助翁 82の教え」)

と説いています。

その基本になるものは、素直に物事を見て、前向きに考えることです。
そのベースは感謝です。
感謝は、人を素直に、謙虚にするからです。

感謝や、謙虚な気持ちを持って見ないと、いい面は見えてきません。

            <感謝合掌 平成29年6月18日 頓首再拝>

こだわらない - 伝統

2017/07/07 (Fri) 04:43:44


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心になれば、何事に対してもこだわりやわだかまりが
心にのこらないようになってくる》

お互いが素直な心になったならば、人からなにをいわれようと、
またなにごとがおころうと、みずからの心にわだかまりやこだわりが残る
ということは比較的少なくなるのではないかと思います。

たとえば、よく冬の寒い日などに、
子どもたちが窓ガラスに息を吹きかけて遊んでいます。

子どもたちがふっと息を吹きかけると、すき通った窓ガラスに白いくもりができます。
白いくもりができると、向こう側がよく見えなくなります。

けれども、間もなくそのくもりはうすくなって、
また元のすき通ったガラスにもどります。

そこで子どもたちはもう一度息を吹きかけます。
けれども、再びくもった窓ガラスは、すぐにまた元通りになるのです。
これは何度くり返しても同じことです。

素直な心になったならば、ちょうどこの窓ガラスと同じように、
何かこだわりやわだかまりを持つようなことが身にふりかかったとしても、
それがいつまでも心の中に残るようなことは少ないであろうと思うのです。

つまり、ごく短い間には、そのことが気にかかるかもしれませんが、
すぐにそれは窓ガラスの白いくもりと同じように、
自然に消えていくであろうと思います。

 
というのは、素直な心になるということは、
私心なく真理というか正しいことにしたがうというところに基本の態度があり、
そこに一つの大きな安心感がありますから、こまかいことにくよくよせず、
つねに前向きにものを考えるという姿勢が保たれているからではないでしょうか。

したがって、こだわりはこだわりとならず、わだかまりもわだかまりとはならない、
というような姿も生まれてくるのではないかと思われます。

            <感謝合掌 平成29年7月7日 頓首再拝>

日に新た - 伝統

2017/07/21 (Fri) 03:50:26


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《 素直な心になれば、現状にとらわれることなく、
  日に新たなものを生み出していくことができるようになる 》


幕末の頃、土佐の檜垣清治という人が、その頃土佐で流行していた大刀を新調し、
江戸から帰ってきた坂本龍馬に見せたところ、龍馬は、
「きさまはまだそんなものを差しているのか。おれのを見ろ」といって、
やさしいつくりの刀を見せました。

そして、「大砲や鉄砲の世の中に、そんな大刀は無用の長物だよ」といいました。

清治は、「なるほど」と気がつきました。
そこで、龍馬のと同様の刀をこしらえて、その次に帰ってきたとき見せました。

すると龍馬は、「この間は、あの刀でたくさんだといったが、もう刀などはいらんよ」
といいながら、ピストルをとり出して見せたというのです。

またその次に帰ったときには、
「今の時勢では、人間は武術だけではいけない。学問をしなければならない。
古今の歴史を読みたまえ」とすすめたということです。

さらにその次に会ったときには、
「おもしろいものがあるぞ。万国公法といって、文明国共通の法律だ。
おれは今それを研究しているのだ」と語ったそうです。

 
清治は、「そのように龍馬にはいつも先を越されて実に残念だった」と
人に語ったといいますが、坂本龍馬という人はいつも先ざきを見ていたから、
そういう姿も出てきたので はないかと思われます。

そしてそういう、現状にとらわれない、たえず先を見るというような姿は、
やはり素直な心が働いているところから生まれてくるものではないでしょうか。

素直な心になれば、現状にとらわれるということがなくなって、
つねに何が正しいか、何がのぞましいかということがおのずと考えられ、
それがスムーズに見きわめられてゆくようにもなるでしょう。

坂本龍馬は傑物であったといわれますが、
結局彼は当時としては非常に素直な心の持ち主であったのではないでしょうか。

素直な心の持ち主であったがために、つねに世の流れの先を見越して、
次つぎと新しい考え方を生み出し、よりのぞましい行き方をとることもできた
のではないかと思います。

そういうような点から考えても、素直な心というものは、
お互い人間の共同生活の日に新たな進歩向上をもたらすために、
きわめて重要で大切な心の持ち方ではないかと思います。

            <感謝合掌 平成29年7月21日 頓首再拝>

禍を転じて福となす - 伝統

2017/08/06 (Sun) 03:47:55


             *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《 素直な心になれば、危機に直面してもこれをチャンスと受けとめ
  “禍を転じて福となす”こともできるようになる 》


お互いがそれぞれの仕事をすすめていく上にも、また人生の歩みの上においても、
ときに非常な困難、危機ともいうべき局面にぶつかることもあろうと思います。

そして、そうした難局に直面した場合、人によってはそれに負けてしまい、
ゆきづまってしまうような姿もあるでしょうが、

その反対に、それを一つのチャンスとしてとらえ、非常な努力を注いで取り組んだ結果、
みごとその難局をのりこえるばかりでなく、むしろよりよき発展をとげた、
というような姿もあるのではないでしょうか。

後者のような姿は、いわゆる“禍を転じて福となす”といった姿ではないか
と考えられますが、お互いが素直な心になったならば、この後者の姿を
実際にあらわすこともできるようになるのではないかと思います。

すなわち、素直な心の効用の一つとして、
“禍を転じて福となす”ということもあげられると思うのです。

それではなぜ、素直な心になれば“禍を転じて福となす”ことができるのでしょうか。

これについては、いろいろな見方、考え方ができると思いますが、
たとえば次のようなことも考えられるのではないかと思います。

すなわち、いま仮に世の中が不況で
お客さんが減ってしまったうどん屋さんがあったとします。

このうどん屋さんとしては、いわば商売上の危機を迎えたわけです。
しかし、このうどん屋さんに素直な心が働いていたならば、
お客が少なくなったからといって、少しもあわてないだろうと思います。

というのは、素直な心のうどん屋さんであれば、
“この不況は自分の力を存分にふるうチャンスだ。自分の本当の勉強ができるときだ”
というように考えるのではないか思うからです。

したがってそのうどん屋さんは、従来の自分の商売のやり方とか考え方を、
私心なく、第三者の立場に立ってみつめ、考え直すと思います。
今までのやり方を徹底的に反省してみるわけです。

このようにして、そのうどん屋さんが素直な心で対処してゆくならば、
不況に際してもゆきづまることなく、かえってお客が増えて繁盛してきた、
というような姿を生み出すこともできるようになるわけです。

            <感謝合掌 平成29年8月6日 頓首再拝>

素直が一等大なる美徳 - 伝統

2017/08/21 (Mon) 04:46:42


         *「人生読本」(P151~152)より


私達は素直になる事が一番必要であります。
生長の家の生き方は素直な生き方であります。

偉い者は偉いとして、偉くないものは偉くないとして、
光は光として、影は影として正直に一切のものをそのまま受容(うけい)れる心持には、
ちっとも無理がありません。

無理があるのはどこかに本当でないところがあるのです。
耳が聞こえないとか、目が見えないとか、或いは鼻がよく利かぬとか、
蓄膿症とかいう人の中には、素直な気持ちが乏しい人が多いのであります。

素直な気持ちが乏しい場合、すなわち総てのものをそのまま受容れる心がない場合には、
心の目を閉じ、心の鼻を抑え、心の耳を塞いでいるのでありますから、
それが肉体にあらわれますと、目が疎くなったり、耳が聞こえなくなったり、
鼻が利かなくなったりするのであります。

蓄膿症や、乱視や、中耳炎などはこれから起こることがあります。
それですから、健康のためにも成功のためにも何でも素直な心、
ハイハイというような心持、一切のものをそのままありがたく受容れる
という心持になることこそ非常に大切であります。

全てを素直に受容れる心は神の心であります。
神というものは善にもあれ、悪にもあれ、太陽の照るがごとく一様に光を与えてくださる、
これが本当の神であります。

この大包容の心持になった時、病気の治る事はもちろんですが、
総ての事業にも成功するのであります。
これが生長の家の生き方であります。

小さい心は小さいおかげしか受けることができません。
太陽に黒点があっても黒点なんか目もくれないで、
太陽の光の良いところばかり讃歎(さんたん)して吸収する、
そうすると私達は生き生きと自分自身がその太陽に育てられて伸びてくるのであります。

私達は科学者が太陽の黒点を研究している間に黒点なんかを忘れてしまい、
「ああ私の暖かい太陽よ!光の太陽よ!」と喜ばねばなりません。
そういう人は必ず発達し成功するのであります。

            <感謝合掌 平成29年8月21日 頓首再拝>

つつしむ - 伝統

2017/09/06 (Wed) 04:14:01


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心になれば、
自分の立場をわきまえて、つねにつつしむという見識も生まれてくる》


江戸の昔、世間で鶉(うずら)を飼うことがはやったことがありました。
身分の高い家々では、互いによい鶉をと争い求めたので、
その値段も非常に高くなったということです。

老中阿部豊後守忠秋も、その頃鶉を好んで、
つねにそばにカゴをおいて、鳴き声を楽しんでいました。

そのことをある大名がきいて、高価な鶉を買って、
あるご典医を通し「ちか頃珍しい鶉を手に入れましたから、お慰みに進上します」
といわせました。

これをきいた豊後守は、なにも答えずに、近習の者を呼び、
「鶉カゴの口を庭の方へ向けよ」といいつけ、
さらに「カゴの口をみな開けよ」と命じました。

それで近習の者がそのようにすると豊後守の飼っていた鶉は
みんカゴを出て飛び去りました。

ご典医はそれを見ていぶかしく思い、
「よくお手馴らしてあるので、また帰ってくるのでございますか」とたずねました。

すると豊後守は答えていいました。

「そうではござらぬ。きょうはじめて放ったのでござる。
それがしのような、上のご威光によって、人にとやかくいわれる身で、
物など好んではならないということでござる。

それがしがこの頃ふと鶉を好んだならば、もうそのように噂する人もでてくる。
これからはふっつりと思い切って、鶉好きはやめましょうぞ」

 
人間だれしも、自分のすきなことはやめにくいものです。

しかし豊後守は、それが世の風俗にも好ましくない影響を及ぼし、
またその権勢を自分のために利用するようなことは、
日頃からかたくつつしんでいたので、あえてそのような処置をとった
のだということです。

贈物を受けとったとなると、とかく公正を欠いた判断にも結びつきかねません。
たとえ公正であっても不公正な印象を残します。

だから公の立場にある者としては、きびしくつつしみ、
いましめなければならないのは当然でしょう。

しかしその当然のことを当然として、贈物を受け取らないばかりか、
自分の飼っている鶉まであえてとき放ったということは、
これはなかなかできにくいことではないかと思われます。

そのできにくいことをきっぱりと行ったところに、
豊後守の素直さというものが感じられます。

つまり、豊後守は、自分の個人的な感情とか欲望などによって
事を判断したのでなく、公の立場にある者として何を考えるべきか、
いかにあるべきか、というような深い考えに立って
事を判断したのではないかと思うのです。

            <感謝合掌 平成29年9月5日 頓首再拝>

和やかな姿 - 伝統

2017/09/23 (Sat) 04:43:50


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心になったならば、いらざる対立や争いがおこりにくくなって、
 和やかな姿が保たれるようになる》

お互いが素直な心になったならば、いらざる対立や争い、
いがみあいなどはおこりにくくなって、おおむね、
和やかな明るい姿を保っていくことができるのではないかと思います。

というのは、互いにいがみあったり、争いあったりすることの原因の多くは、
お互いが素直な心になることによって、おのずととり除かれると思われるからです。

たとえば、しばしばお互い人間の争いの原因となるものの一つに、
利害の対立ということがあります。

利害の対立というものは、お互いが自分の利益をぜひとも守ろう、
損を絶対にしないようにしよう、などというように利害に
とらわれるところからおこる姿だといえると思いますが、そういうところから、
互いの争いとか衝突が生まれてくる場合がきわめて多いわけです。


それからまた、感情のゆきちがいといったことも争いに結びつくでしょう。

口のきき方がどうも気に入らないとか、自分を軽視したからけしからんとか、
無視したから許せないとか、いわれなき非難中傷をされたとか、
そういったことがしばしば原因となって、互いのいがみあい、
争いがおこる場合も少なくないのではないでしょうか。

 
けれども、お互いが素直な心になったならば、
そういう姿はほとんどおこらないようになるのではないかと思います。

というのは、素直な心になれば、たとえば自分の利害にとらわれるという姿も、
それ自体がなくなっていくのではないかと思われるからです。  

といっても、自分の利害を全く考えないというのではありません。
それは当然考えるけれども、同時にまた相手の利害も十分考慮しあって、
互いにいわば談笑のうちに事をすすめていく、というわけです。

だから、お互いに、相手のことも考えずに自分の利害だけにとらわれて
争いあうというような姿は、おのずとおこりにくくなってゆくのではないか
と思われるのです。

 
もちろん、お互い人間が争うのは、こうした利害の対立、感情のゆきちがい
といったことだけが原因ではないと思います。

今日ではとくに、いわゆる主義主張、思想などの上での対立、争い
というものがみられるようになってきました。

そしてそれが、単なる個々人の間の争いだけにとどまらず、団体と団体の争い、
ひいては国家間の紛争、戦争といったものにまで発展しかねないような状況も
一面においてみられるようです。
これはまことに憂慮すべき姿であるともいえましょう。

しかし、お互いが素直な心になったならば、こうした形の争いというものも、
あまりおこらないようになっていくでしょう。

というのは素直な心になれば、単に一つだけの物の見方考え方にとどまらす、
さまざまな物の見方、考え方があることがわかりその良さをみとめ、
とり入れようとするようになると思うからです。

            <感謝合掌 平成29年9月23日 頓首再拝>

正邪の区別 - 伝統

2017/10/06 (Fri) 03:11:39


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《お互いが素直な心になったならば、何が正しいか正しくないか
という区別がはっきりし、共同生活の秩序が高まってゆく》


お互いが素直な心になったならば、いわゆる正邪の区別というものが
はっきりしてくるのではないかと思います。

というのは、素直な心になれば、
互いに利害や感情にとらわれることが少なくなり、
いってみれば冷静に客観的に物事の正邪を判定することが
できるようになると思われるからです。

お互い人間というものは、ややもすると、自分の立場であるとか、
利害、感情といったものにとらわれて物事の是非を考え、
判断するという姿に陥りかねません。

たとえば仮に、人に親切にすることの是非を問われれば、
だれしも是と答えるでしょう。

けれども、それでは日頃から仲のわるい相手に対しても親切にするかというと、
それはちょっとできにくい。むしろ不親切にしているというのが
いわばお互いの陥りやすい姿ではないでしょうか。

そしてそれがお互いの陥りやすい姿であるだけに、
ふつうはその非を指摘する人はほとんどいないのではないかと思われます。
つまり、正邪の区別がアイマイにされがちになってしまうわけです。

けれどもお互いが素直な心になったならば、人に親切にすることが正しいなら、
仲のわるい人に対しても同様に親切にすることが正しい、という判断が生まれ、
それが実際の姿にもあらわれてくるのではないかと思います。

すなわち、仲のよしあしといった、
いわば個人的な感情などにとらわれることなく、
正しいことは正しい、と素直に判断できるわけです。

そして同時に、正しくないことは正しくないこと、不正なことは不正なこと、
というように正しく判断できるわけです。

世のお互いがともどもに素直な心というものを養い高めていったならば、
世の中のあらゆる面において、正邪の区別がはっきりし、
それぞれが責任ある行動をとるようになるだろうと思います。

そうすれば、お互いに、なすべきことは大いに行い、
なすべきでないことは極力行わないといったような姿もおし進められ、
共同生活の営みというものがきわめて高い秩序のもとに、
好ましい姿において進み、日に新たに向上していくことにもなるのでは
ないでしょうか。

            <感謝合掌 平成29年10月6日 頓首再拝>

適材適所の実現 - 伝統

2017/10/21 (Sat) 03:23:28


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心というものは、よいものはよいものと認識し、
価値あるものはその価値を正しくみとめることのできる心である》


お互いが素直な心になれば、一人ひとりが自分の持ち味を十二分に発揮できるような
適材適所の実現が進められるようになる

この世の中にあるすべての物、そしてお互い人間の一人ひとりすべてが、
それぞれにそれなりの特質なり持ち味というものを持っているわけですが、
そうした万物万人の持ち味というものが十二分に発揮されていったならば、
そこから、お互い人間の共同生活の向上、物心一如の真の繁栄というものも
逐次もたらされてくるのではないかと思います。

すなわち、それぞれの人、それぞれの物がよりよく生かされていくところから、
物質面も精神面もともどもにゆたかになって、お互いの幸せというものも
歩一歩高められて行くのではないか思うのです。

けれども、現実の世の中の姿、お互いの姿というものをみると、
そういう好ましい面が必ずしもつねに十分にあらわれているとはいえないようです。

たとえば、それぞれの人の特質なり持ち味というものにしても、
もちろんそれを十二分に生かして活躍しているという人もいるでしょうが、
必ずしもそうではないという人も少なくないと思います。

いわゆる適材適所ということばは、それぞれの人がその持ち味、
能力というものを十二分に発揮できる仕事について活躍するというようなことを
意味しているのではないかと思 いますが、

その適材適所ということにしても、
実際にはなかなか実現していない場合が少なくないようです。

たとえば、今ここに非常に見識も高く、能力もあるすぐれた人がいて、
その人がグループのリーダーとして一番ふさわしいという場合があったとします。

その人は、いってみればリーダーとして最適任であって、
リーダーとして立ったならばまさに適材適所が実現することになるわけです。

しかしながらこの場合に、
もしもその人がグループの最年少だったとしたならばどうでしょうか。
なかなかスムーズにりーダーとしての立場に立ちにくい、
ということにもなりかねないのではないでしょうか。

つまりリーダーとしてふさわしい特性なり素質をもっていても、
その特性が生かされにくく、適材適所が実現しにくいわけです。

けれども、リーダーには年長者がふさわしいという考え方は、
もともと年長者がリーダにふさわしい見識とか能力を培っていた
というような事実が先にあったために、

年長者こそリーダーにふさわしいといった考え方が
生まれてきたのではないでしょうか。

もしそうであるとするならば、たとえ年少者であっても
その人がリーダーにふさわしい特性なり資質をもち、
またこれを大いに伸ばしてやっていけるという場合には、
その人はリーダーとして立つのが当然である、ということにもなるでしょう。

そういうことを考えてみると、やはり年少者であるからという理由だけで
リーダーに立ちにくいという姿があるとするならば、
それはいってみればお互いが何かにとらわれたところからもたらされている姿であって、

もしもお互いが素直な心になったならば、
そういう姿はしだいになくなっていくのではないかと思われます。

            <感謝合掌 平成29年10月21日 頓首再拝>

病気が少なくなる - 伝統

2017/11/07 (Tue) 03:35:43


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心になれば、病気になりにくくなり、たとえなっても比較的直りやすくなる》


お互いが素直な心になったならば、病気になりにくくなると思います。

というのは、一つには素直な心になれば物事の実相がわかりますから、
いらざることに心を悩ませたり、またいたずらに心配したり不安感におそわれれる
というようなことが少なくなるからです。

今日、お互いの多くは何らかの病気にかかったり、故障を生じていたりして、
そのために日々苦しんだり、不便な思いをしている場合が少なくないと思います。

ところが、それらの病気や故障の中には、
いわゆる精神面からきているものが相当に多いということです。

つまり、仕事上の問題や対人関係の不調からくるストレスというものがつみ重なって、
胃腸などの内蔵を痛めたり、また人生上の悩みからくるノイローゼになって
頭痛に苦しんだりというように、心の面、精神面からくる病気というものが
かなり多いわけです。

そういうことを考えてみますと、お互いが素直な心を養い高めていくことによって、
それらの病気にかかるということをずいぶん少なくしてゆけるのではないかと思います。

お互いが素直な心になったならば、たとえどのような問題がおころうと、
また自分がどういう立場におかれようと、そのことによっていたずらに心を悩ませる
というようなことはなくなるだろうと思うからです。

なぜそのように悩まなくなるかといいますと、すでにくり返しのべておりますように、
素直な心になれば物事の実相もわかり、物の道理もわかります。

だからたとえば自分の立場のみを中心にして物事を考えるとか、
自分の感情や利害にとらわれて事を判断するようなことがありません。

しかもその心が高まっていけば、融通無碍の働きをすることもできるわけです。

したがって、自分の感情が満たされないために悩むとか、
自分の利益が損なわれるから悩むとか、物事がうまくいかないから悩む
などといった姿は、あまりおこってこなくなるでしょう。

そしてつねに心は安らかに安定するだろうと思います。

だから、心の面、精神面からくる病気というものは、
お互いが素直な心を高めていくことによって、しだいに少なくしてゆくことが
できるのではないかと思われます。

そうして、万が一、病気にかかってしまった場合でも、
素直な心になれば、自分の病状がある程度自分でつかめるようになるでしょう。

だから、医者の指示もよくわかって、その治療の効果も高めるよう
協力していくということもスムーズにできるのではないかと思います。


            <感謝合掌 平成29年11月7日 頓首再拝>

素直な心が働かなければ衆知が集まらない - 伝統

2017/11/23 (Thu) 04:40:03


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心がない場合には、人のことばに耳を傾けようとしなくなり、
その結果、衆知が集まらないようになる》

素直な心が働いていない場合におこってくる弊害というものは、
これはいろいろとあると思いますが、その中でもとくに大きな弊害の一つは、
人のことばに耳を傾けようとしなくなることではないかと思います。

つまり、素直な心がないと、人がたとえ親切に教えてくれたり、
助言してくれた大切なことでも、それをいたずらに聞き流したり、
拒否したりするとが多くなるように思うのです。

なぜ、そういうことになるのかというと、これはいろいろな場合があると思います。
たとえば、自分の考え、行動は絶対に正しい、だから他人の助言を聞く必要はない、
むしろそれはジャマになる、というように考えている場合もあるでしょう。

また、とにかく自分の好きなことをやりたいのだ、
他人の意見など聞きたくないのだと、事の是非はともかく
自分のカラにとじこもろうとする人もあるでしょう。

さらには、親切そうに言ってくれるけれども、
これはきっと自分を失敗させようとして言っているのだろう。
なにかワナがあるにちがいない、というように不信感が先に立って
他人の意見をまともにうけとれない場合もあるかもしれません。

そういうように、他人の意見をきかないといっても、
そこにはいろいろな場合が考えられますし、
時にはそれが正しい場合もあるかもしれないと思います。

しかし基本的にいって他人の意見が素直に聞けないというのは、
結局自分というものにとらわれている姿であって、
決して好ましい姿ではないように思うのです。

というのは、そのように、人のことばに耳を傾けないということになると、
そのことによって、いろいろな弊害が生まれてくるからです。

たとえば、人のことばに耳を傾けないということになれば、
自分自身が物事に失敗しやすくなるのではないかと思います。

いかにすぐれた知恵、広い知識をもっていたとしても、
しょせん一人の知恵、知識には限りがあります。
その限りある知恵、知識のみによって物事を判断していたならば、
ときに適切な判断ができたとしても、いつかはあやまった判断をし、
思わぬ失敗をしてしまうことにもなりかねないでしょう。

そしてその失敗によるマイナスが自分一人だけのものであるならばまだしも、
その人の立場によっては、周囲の人びとにも、また世の人びとにも、
さまざまなマイナスをもたらすことになりかねません。

そういう意味での弊害もあるのではないかと思うのです。

そういうようなことをいろいろ考えてみると、
素直な心が働かない場合の最も大きな弊害のひとつは、
いわゆる衆知というものが集まらない、ということではないかと思われるのです。

すなわち、素直な心が働かなければ他人の声に耳を傾けようとしなくなる、
耳を傾けようとしなければ衆知が集まらなくなる、ということが
いえるのではないかと思うのです。

            <感謝合掌 平成29年11月23日 頓首再拝>

固定停滞 - 伝統

2017/12/12 (Tue) 03:50:09


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心がない場合には、現状にとらわれて創意工夫をおこたり、
 進歩向上のない固定停滞の姿が続いていくようになる》


素直な心というものがない場合の弊害の一つに、
物事の進歩向上が得られにくい、ということがあるのではないかと思われます。

すなわち、素直な心がない場合には、
よりよい姿を求めてより新しい歩みを進めていくといったような姿が生まれにくく、
現状をよしとして改めるべきをも改めようとせず、

いわゆる固定というか、停滞というか、そういう状況のままに
推移していくといった姿があらわれるのではないかと思うのです。

なぜ、そういう固定、渋滞の姿が続くことになってしまうのかというと、
その原因はいろいろあると思います。

たとえば、素直な心がなければ、現状なりこれまでの常識なり、
そういったものにとらわれがちになり、それが固定、停滞に結びつ
くのではないかと思うのです。

技術にしても、これまでのものが最良だと思っていたならば、
よりすぐれた新しい技術を取り入れることを怠り、
従来の旧式な技術をいつまでも使用するといった停滞の姿に陥りかねないでしょう。

また、一つの思想や学説などを最良最高のものと思い込んで、
他をかえりみることをしないというような姿に陥ったならば、
これまた時代の変化、人心の移り変わりなどとかけ はなれた、
きわめて旧式なものとなってもろもろの停滞を招くことにつながってゆくでしょう。

 
そのように素直な心がない場合には、
往々にして一つのことにとらわれがちとなり、
改めるべきをも改めようとしないといった姿が生まれ、
物事の進歩向上というものが得られない、
いわゆる固定、渋滞の姿があらわれてくるのではないかと思うのです。

ところが、現実の世の中には、案外こういうことが忘れられており、
知らず知らず現状とか一度つくったものを固定化し、
それにとらわれている姿が少ないようです。

たとえば、いわゆる議会における議員の定数のようなものでも、
もちろん規定によって変更が加えられるということはあるでしょうが、
抜本的にというか根本に立ちかえって、果たして現在のような
定数自体が最も好ましいものなのかどうか、
というような検討は行なわれているでしょうか。

現在よりも少ない定数で、しかも効率よく議会の使命を果たしてゆくという方法は、
どうもあまり十分には検討されていないように思われます。

また、いわゆる行政機構というようなものについてみても、
これまでくり返しその合理化が叫ばれ、いろいろ検討もされ
一部は実施されているようですが、

しかしそれはごく小さな部分であって、抜本的な合理化というものは
なかなか検討されにくいようです。

 
こういった姿は、やはり現状というか、一度つくり上げたものを固定化し、
そのワクにとらわれている姿ともいえるのではないかと思いますが、
やはりこうした姿も素直な心が働いていないところから生じているのではないでしょうか。

            <感謝合掌 平成29年12月12日 頓首再拝>

目先の利害にとらわれる - 伝統

2017/12/27 (Wed) 03:06:08


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心がない場合には、目先の利害にとらわれて物事を判断した行動をとりやすく、
 将来の発展を損なう場合が少なくない》

素直な心というものがない場合の弊害のひとつに、目先の小さな利害にとらわれる、
ということがあるのではないかと思います。

すなわち、素直な心が働いていなければ、ついつい自分の目先の利害得失に心奪われ、
それにとらわれて物事を考え、判断を下し、行動をとってゆくことになりかねない
ということです。

もちろん、お互いが利害得失を考えるというのは、これは人間として
いわば当然の姿であって、それを考えつつ物事を判断し、行なうということは、
きわめてあたりまえのことだと思います。

しかし、だからといって、つねに自分の利害得失だけを考え、
それのみに基づいて物を判断するということになると、
これはいささか目先の利害にとらわれた姿であり、
そこからは物事はスムーズに運ばないのではないかと思うのです。

自分の利害にとらわれるということは、いってみれば、
その時々の自分の利益になることのみを追い求め、肯定し、
損害になることはすべていみ嫌い、遠ざけ、否定する、
というような姿であるともいえるでしょう。

しかし、そういう、自分のことしか考えない姿というものは、
往々にして他の人びとの利害を無視したり、
軽視したりすることにも結びつきかねません。

したがって、とかく人々の反発、非難を受けることにもなるでしょう。
そこには争いが生じ、自他ともの損失を生むことにもなりかねないと思います。

お互い人間は相寄って共同生活を営んでいるわけですから、
互いに自分一人だけの目先の利害を考えていたのでは、
共同生活をスムーズに運営していくことはむつかしいでしょう。

やはり、自分の利益は当然考えるけれども、
それと同時に他の人の利益についても考える。
また目先のことことだけでなく将来にわたって益になることを考える。

そのようにしてこそ、自他ともの利益というものが調和した姿において満たされ、
ともどもに和やかに日々をおくっていくこともできるようになるわけです。

しかしながら、お互いが素直な心をもっていない場合には、
ついつい自分の目先の利害にとらわれて物を考え、事を判断する
ということになりがちのようです。

たとえば、卑近なところでは、先般ある大都市でゴミ処理場の建設をめぐって
トラブルがおこりましたが、これなどもその一例といえましょう。

つまりゴミ処理場の必要性は認めるが、
しかし自分たちの住む家の近くにはつくってほしくない、
どこか他の地区のもっと遠くへ建ててほしい、などという住民の声が強くて、
責任者としても処理場の建設用地が決定できず、
事がなかなか運ばなかったということです。

そしてそのために9年ちかくの長い間にわたって、ああでもないこうでもない
ということでトラブルが続き、住民たち自身もいろいろと頭をつかったり、
悩んだり、互いに争ったりしたということです。

お互いが自分の目先の利害にとらわれて物事を判断し、行動するところからは、
結局、自分自身も社会全体としても大きなマイナスを招くことになると思われます。

            <感謝合掌 平成29年12月27日 頓首再拝>

子どもの心を忘れない - 伝統

2018/01/12 (Fri) 03:57:46


        *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年01月11日)より

   (齋藤孝氏の心に響く言葉より…)

   大人になると、知識やノウハウを身につけるにつれて感性を失ってしまう。
   “色眼鏡”をどんどん濃くした結果、視界不良に陥るようなものである。

   しかし、そういう大人ばかりではないことも事実だ。

   例えばピカソは、老年になってから
   「絵をうまく描くことは子どもの頃からできたけれど、
   この歳になってようやく子どものように絵を描けるようになった」と述べている。

   晩年のシンプルな作品は批判の対象にもなったが、子どもの絵のような力強さもある。

   あのピカソが子どもの絵を一つの到達点としたのは、
   そこに素朴な表現力を感じ取っていたからだろう。

   あるいはニーチェは、人生には3つの段階があるとして、
   それぞれの時期を「ラクダ」「獅子」そして「子ども」と命名している。

   「ラクダ」の時期に義務を果たし、
   「獅子」の時期にさまざまなことに「ノー」と言って自由を獲得し、
   そしてやがて「子ども」の時期を迎え、おおいに遊び、自分で価値を創造していく。

   人生で最終的に目指すのが「子ども」というわけだ。


   いずれにせよ、好むと好まざるとにかかわらず
   背負ったものを降ろせるのが、「子ども」の魅力だろう。

   ピカソのような才能はないとしても、
   少なくとも自分の中にある子どもの部分を忘れないようにすることはできる。


   もっとも手っとりは早いのは、軽くジャンプすることだ。

   可能なら、小学3年生時代を思い出してみていただきたい。

   意味もなくピョンピョン飛び跳ねていたのではないだろうか。
   それを見習うと、気分が軽くなってすべてが遊びに思えてくる。

   つまりは、子どもの身体に戻すということだ。

   身体が子どもになれば、大人の良識を持ちつつ、
   子どもの素直さも多少は取り戻せる。

       <『リーダーシップとは言葉の力である』日本経済新聞出版社>

               ・・・

「すなほなる をさな心を  いつとなく  忘れはつるが  惜しくもあるかな」 (明治天皇)

大人になると、素直な幼心(おさなこころ)を 
いつとはなしに忘れてしまうのは、本当に惜しいことだ。


幼心とは…

ワクワクドキドキする。

何をみても驚いたり、感動したりする。

冒険心や、好奇心あふれる。

無邪気に遊んだり、くったくなく笑ったりする。


大人になっても、子どもの心を忘れずにいたい。

            <感謝合掌 平成30年1月12日 頓首再拝>

感情にとらわれる - 伝統

2018/02/01 (Thu) 03:51:00


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心がない場合には、感情にとらわれ、われを忘れて、
 思わぬ失敗を招くことにもなりかねない》


素直な心というものが働かない場合には、物事を見、考える際に、
ともすれば感情にふり回されるというか、感情にとらわれて事をあやまることが
多くなるのではないかと思います。

すなわち、人間というものには、よきにつけあしきにつけ感情の動きがあります。

うれしいことがあれば喜び、腹が立つことがあったならば怒り、
つらいことがあれば悲し むというように、さまざまな感情の動き、
起伏というようなものがあります。

そして人間はもともと「感情の動物である」などといわれるように、
そういった感情に 左右されて動くといった傾向を少なからずもっていると思います。

が、素直な心が働かな い場合には、
そういう傾向がとくにつよくあらわれてくるのではないかと思うのです。

ところが、もしそういう感情の動きにとらわれて物事を判断し、
行動するようなことが あったとしたならば、やはりそこには適切な判断ができず、
したがって思わぬあやまちを 犯すことになる場合も間々あると思います。

そういうような例は、これまでの人間の歩みをふり返ってみても、
枚挙にいとまがないと思います。

たとえば、古今東西においてお互い人間は、くり返し他を傷つけたり
命を奪ったりするという姿をあらわしていますが、
そうした好ましからざる姿というか行為を生ずる原因の 大きなものの一つは、
この“感情にとらわれる”ということがあるのではないでしょうか。

つまり、なんらかのきっかけによって、
相手に恨みや憎しみといった感情を抱いたような 場合、
素直な心がなければその感情にとらわれてしまうわけです。

そしてそういった憎しみ恨みを晴らしたいという考えのみに心奪われて、
自分でもいろ いろと心を労し、心を悩ませるばかりでなく、
ついには相手と争いをおこし、互いに傷つけあい血を流しあうといった、
まことに不幸な姿をもたらすことにもなりかねないでしょう。

ところがこの場合に、もしも素直な心が働いていたならば、
そうした不幸な結果を生じることはさけられるのではないかと思います。

というのは、素直な心が働いておれば、
自分の感情の動きというものも冷静に把握できますし、
またそれにとらわれてしまうことの ないように、自分を失うことのないように、
といった自制の心も働くでしょう。

だから、結局、その憎しみや恨みを晴らすための好ましからざる行動に出る
というようなことはさけられると思うのです。

今日、お互いの身の回りにおいても、カッとして、逆上して人と争い、
傷つけ殺してしまったとか、とかく感情にとらわれ、我を忘れて事を行なって
失敗してしまったというような姿は、マスコミなどでも連日のように報道されています。

こうした姿というものも、やはり一つには、素直な心が働いていないために
感情にとらわれ、われを忘れてしまうというようなところから生じている面もある
のではないでしょうか。

            <感謝合掌 平成30年2月1日 頓首再拝>

素直に飛びつく者は愛される - 伝統

2018/02/14 (Wed) 03:21:57


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(2月14日)」より

素直に飛びついて来る子供はかわいがられる。
素直に舅 姑の懐にとびついて来る嫁はかわいがられる。
素直に先生の懐に飛びついてくる生徒はかわいがられる。

夫婦仲が悪いとか、家庭はおもしろくないとかいう人があるけれども、
それは互いに飛びつくような素直さをなくしたからである。

神のみふところに飛びつく者は神に愛される。

            <感謝合掌 平成30年2月14日 頓首再拝>

一面のみを見る - 伝統

2018/03/02 (Fri) 04:29:53


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心がない場合には、物事の一面のみを見て、
 それにとらわれがちになってしまう》


お互い人間の精神面の苦しみ、悩みというものは、
ときとしてみずからの命をたつほどに強く、深いものがあるようです。

現に、今日この世の中においても、そうした悩みを抱き、
絶望してみずからの命をたってしまったというまことに気の毒な姿が
しばしばくり返されているのではないかと思われます。

たとえば、受験を前にした受験生が、自信をなくして自殺したとか、
事業に失敗した人が絶望のあまり自殺したとか、あるいは失恋をしたとか
人間関係がうまくいかないなどということで自殺したというような
例が少なくないように思うのです。

しかしこうした不幸な姿というものは、やはりお互いの努力によって
なるべく少なくしてゆかなければならないと思います。

それでは、そういった不幸な姿に結びつく悩みとか絶望というものは、
なぜ生じてくるのでしょうか。

これについては、もちろんそこにはそれぞれの事情があって
、一概にはいえないと思います。
また見方考え方もさまざまなものがあろうと思われます。

けれども、総じていうならば、やはりそうした悩みなり絶望というものは、
物事の一面のみを見てそれにとらわれてしまう、というようなところから
生じてくる場合も少なくないのではないでしょうか。

だから、同じ一つの物事であっても、それに対して、いろいろな見方があり、
さまざまな面から考えることができるわけです。

だから、一見してマイナスと思われるようなことでも、
実際にはそれなりのプラスがあるというのが世の常ではないかと思います。

いってみれば、雨が降れば着物がぬれて困ると見る見方もある反面、
畑の作物をうるおしてくれると喜んで見る見方もあるわけです。

ところが、そのうちの一面のみを見てそれにとらわれてしまうと、
いたずらに心を悩ませたり、極端な場合は絶望してみずからの命をたつ
といったような不幸な姿にも陥りかねないわけです。

それではどうして、そういった一面のみにとらわれるような姿に陥るのかというと、
それはやはり素直な心がないからではないかと思います。


つまり素直な心がない場合には、往々にして一つのことにとらわれてしまったり、
自分の考えとか感情にとらわれてしまいます。

だから、ついつい物事の一面だけしか目に入らず、他の面まで見る心の余裕もなければ、
また視野というもの自体がひらけなくなる場合が多いと思われます。

したがって、素直な心がない場合には、
物事のさまざまな面を見、考えることができず、
単に一面のみを見てそれにとらわれるといった姿に陥ることにもなりかねません。

そしてそういうところから、ここに述べたような
さまざまの不幸な姿が生じることにもなってくると思うのです。

            <感謝合掌 平成30年3月2日 頓首再拝>

無理が生じやすい - 伝統

2018/03/16 (Fri) 03:07:11


        *「素直な心になるために」松下幸之助・著 より

《素直な心がない場合には、とかく物事にとらわれがちとなり、
 ついつい無理をしてしまうことになりやすくなる》

 
“無理をしてはいけない”ということは、お互いの日常生活において
しばしばくり返しいわれていることではないかと思います。

無理をしないということは、辞書によれば、道理に反することをしない、
理由がたたないことをしない、行ないにくいことをしいてしない、
というようなことですが、これはいってみればごくあたりまえのことのようにも
考えられます。

しかし、このあたりまえのことが、実際にはなかなか守られにくいようです。
たとえば、お互いの日々の生活、活動の上においても信号が赤に変わりかけているのに
無理して車を進ませるとか、能力以上の仕事を無理してかかえ込むとか、
あるいは他の人に対して物事を無理じいするとかいったような姿は、
しばしばくり返されているのではないでしょうか。

そして、そういった無理によって、いったいどのような姿が生じているのかというと、
それはだいたいにおいて好ましからざる姿に結びつく場合が多いように思われます。

つまり、たとえば信号無視の無理をすれば事故につながるとか、
能力以上の無理をすれば失敗してしまうとか、あるいは無理じいをして
人の反発を買い、争いになってしまうとかいうように、
往々にしてマイナスを生じかねないと思うのです。

だからそういった無理はしない方がよい、ということは、
これはだれでも一応は知っているであろうと思います。
ところが、実際はなかなかそういう姿がなくなりません。

これはいったいどうしてでしょうか。
なぜ、そういう無理がなされるのでしょうか。

これは、もちろん、一言ではなかなかいえないものがいろいろあるのだと思います。
たとえば、その時の必要に迫られて、結果のマイナスなど考えてみる余裕がなかったため、
無理を承知で無理をした、というような場合もあるでしょう。

また、自分自身の意欲とか欲望にとらわれてしまい、
たとえばかけごとで取り返しのつかない大損をするとか、
遊びに夢中になって徹夜の不摂生をつづけるといったように、
無理は承知だけれども、ついつい無理をする、また人に無理じいをする、
というような場合もあるかもしれません。

こういうように、いろいろな場合が考えられると思います。

けれども、そういった場合を通じていえることは、
結局のところ、素直な心がないということ、つまり素直な心が働いていないから
無理というものが生じてくる、ということではないでしょうか。つ

まり、なにかの必要に迫られて心に余裕がなくなるというのも、
これはいわば一つのことにとらわれた姿であって、
素直な心のない姿であるともいえるでしょうし、

また意欲や欲望にとらわれるという姿は、
まさに素直な心のない姿そのものであるともいえるでしょう。

すなわち、お互いが無理を承知で無理をするというような姿というものは、
お互い素直な心をもたずに、いろいろなことにとらわれるというようなところから
生じてくる場合が多いと思うのです。

            <感謝合掌 平成30年3月16日 頓首再拝>

【3日会わざれば】 - 伝統

2018/04/09 (Mon) 03:15:37


     *メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年03月27日)より

   (松下幸之助氏の心に響く言葉より…)

   幕末のころ、土佐の檜垣清治(ひがきせいじ)という人が、
   そのころ土佐で流行していた大刀を新調し、江戸から帰ってきた
   坂本龍馬に見せたところ、

   龍馬は、「きさまはまだそんなものを差しているのか。おれのを見ろ」と言って、
   やさしいつくりの刀を見せました。

   そして、「大砲や鉄砲の世の中に、そんな大刀は無用の長物だよ」と言いました。


   清治は「なるほど」と気が付きました。

   そこで、龍馬のと同様の刀をこしらえて、その次に帰ってきたとき見せました。

   すると龍馬は、
   「このあいだは、あの刀でたくさんだと言ったが、もう刀などは要らんよ」
   と言いながら、ピストルを取り出して見せたというのです。


   またその次に帰ったときには、
   「今の時勢では、人間は武術だけではいけない。学問をしなければならない。
   古今の歴史を読みたまえ」と勧めたということです。

   さらにそのつぎに会ったときには、
   「面白いものがあるぞ。万国公法といって、文明国共通の法律だ。
   おれは今それを研究しているのだ」と語ったそうです。


   清治は、「そのように龍馬にはいつも先を越されて残念だった」
   と人に語ったといいますが、坂本龍馬という人はいつも先々を見ていたから、
   そういう姿も出てきたのではないかと思われます。

   そしてそういう、現状にとらわれない、絶えず先を見るというような姿は、
   やはり素直な心が働いているところから生まれてくるものではないでしょうか。

       《素直な心になるために》
        『松下幸之助成功の金言365』PHP研究所

            ・・・

「男子3日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」

という『三国志演義』からきた言葉がある。


真の男子たるもの、死に物狂いで勉学や修練すれば、
3日も会わなければ、 見違えるように成長しているものだ。

さあ、目をこらしてよく見るがよい、と。


反対に、3日どころか、1ヶ月たっても、1年たってもまったく進歩のない者もいる。

現状を変えようとしない人だ。

世の中が凄(すさ)まじいまでに変化しているのに、
自らを変えようとしない人は必ず時代から取り残される。


しばらく会わなかったら…

見違えるように成長している人でありたい。

            <感謝合掌 平成30年4月9日 頓首再拝>

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