伝統板・第二
ひかりの一日一言⑮~理想を高く掲げよ - 伝統
2016/06/01 (Wed) 03:36:29
ひかりの一日一言《1日》
《1日 自己に宿る第ニの力》
全ての人間は自分が気が着いているいるよりも 偉大なる力を予備的に備えているのである。
執筆に疲れて、もう頭が朦朧として迚(とて)も 執筆を継続する事が出来ない感じを
無理に執筆していると、いつの間にか頭が冴えて来て、もう眠くも何ともなくなり
徹夜して執筆出来る事がある。
運転手が激しい運転を持続して行う時には、ある処までやれると呼吸困難と心臓の苦痛とを
感ずるが、その運動を押し切ってやっている間に急にとり除かれて、呼吸も心臓も楽になり、
容易に運動を続けられるようになる。
これはセカンド・ウィンドと専門家の称しているものである。
私達は練習を続けていると容易にセカンド・ウィンドを突破することが出来るようになる。
れは肉体的な運動でも 精神労働でも同じことである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P108~109) より
<関連Web>
(1)ひかりの一日一言⑬~幸・不幸の岐れ道
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439
(2)ひかりの一日一言⑭~意識を高く昇らせよ
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6866429
<感謝合掌 平成28年6月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2016/06/02 (Thu) 03:36:11
《2日 目標を高きに置け》
「僕ばかりでない。あの人だってこんなことをしているのだもの」
と云って自己の無能を自己弁解してはならないのである。
自分と同等または自分より劣っている人と較べて
「あの人もこの位だから私だって此の位で結構だ」と
思うようなことでは其の人に進歩はないのである。
進歩は《より》高きものを目標にして、自己にも尚(なお)、それ以上に伸びる
内在の力があることを自覚し、自分の現在はまだまだ慢心するには足らぬが、
毎日精進努力することによって無限に伸びることが出来るとの自覚から
日に日に進歩を怠らぬところから来るのである。
神は決して「人間神の子」の発達にどんな制限をも置き給わないのである。
毎日の進歩は、より一層あなたに神があらわれることであるから、
必ず魂の喜びを感ずるものである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P109) より
<感謝合掌 平成28年6月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2016/06/03 (Fri) 04:38:55
《3日 既に天国の饗宴に招かれている》
吾々が宗教的立場に立つ限りにおいて、
現象界のことは別に思い煩う必要はないのである。
それぞれの役目の人がそれぞれの立場に配置してあって
それぞれの役目を果たしていてくれているのである。
地上に天国浄土が実現するにはいろいろの役者がいるのであって、
シテもワキも、二枚目も三枚目も馬の脚も要(い)る訳である。
吾々は此等(これら)の舞台上の役者と議論を戦わす必要はないのである。
唯(ただ)、各々がその役目を完全に実現してくれるように
祈っていれば好いのである。
尤(もっと)も自分自身も局外者と云う役ではなく
何らかの役目を割当てられているのだけれども。
吾々は神様が主催される天国の婚莚(こんえん)に招かれる客のようなものである。
すでに御料理は出来ているのである。
ただ、ハイとその招待をお受けすれば好いのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P109~110) より
<感謝合掌 平成28年6月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2016/06/04 (Sat) 03:06:44
《4日 常に「静(せい)」に復(かえ)ることを忘れるな》
吾々は動いてよい時と動かずに静かにしているべき時とを知らなければならない。
静かにしているということも一つの行動であるからである。
「静」の世界から「動」が涌き出て来るのである。
「動」ばかりに狂奔している場合には、
神からの導きの声がきこえないことがあるものである。
だから仏教では禅定、キリスト教では祈りと瞑想、生長の家では
その両者を兼ねたところの行事「神想観」というのがあるのである。
仮にあなたが物を紛失したと云う場合に、あわてふためいてひきだしをひっくり返し
押入れの雑品をことごとく引き出して混沌として必要品を発見し得ない如きは
「静」の裏付けのない「動」であるから効果が少ないのである。
神想観をして心を静めてから探せば、何のことはない。
自分の開く蓋の下に、其処に欲するものがあるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P110) より
<感謝合掌 平成28年6月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2016/06/05 (Sun) 04:26:37
《5日 富める貧者と、貧しき富者》
常に天使の美に目覚めている者は、天国浄土に住むものである。
庭の雑草1本にも、小さき虫の鳴く声にも、白雲の行き交いにも、
美を見出すものは富者である。
貨幣は使い切れぬほどであれどもその使い道を知らず、
ただその分量の多からんことを願っている者は、唯の蒐集家にすぎない。
吾々は蟻のように蓄えるばかりになってしまってはならないのである。
味わうことは本当に受けることである。
如何に多くのものがあっても味わうことをしらないものは
本当に受けることを知らないのであるから、貧しき者と云わなければならない。
財は乏しくとも、凡ゆる事物に存在する美を、その意義を、その宜しきを
しみじみと味わうことの出来る者は既に富める者である。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P111) より
<感謝合掌 平成28年6月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2016/06/06 (Mon) 04:09:53
《6日 生命の神秘に就いて》
「如何に」それはあるかということを研究するのが科学である。
「何故(なぜ)」ということを理論的に探求するのは哲学であり、
存在の「意義」を直感的に把握するのが宗教である。
無神論者はこの人生は偶然にある物質的条件が結合した結果の産物であって、
蛆虫が生(わ)くように或る条件が調うたときに自然に発生したのだという。
その自然力が神である。
これに就(つ)いての評論は私の著述『生命の謎』(谷口雅春選集第三巻)
を読んでいただきたい。
樺太などの大森林地帯で火災が起こって、見渡す限り焼け野原になったあとに
どんな雑草の種子も飛んで来る気遣いのない広い焼け野に最初は松柏科の植物が
生えはじめ、それが稍々(やや)生長した頃になると
その松柏科の植物に保護されながら白樺が生えて来ると云うことである。
生物は必ずしも種子からばかり生じない。
それは自然発生のものである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P111) より
<感謝合掌 平成28年6月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2016/06/07 (Tue) 03:14:47
《7日 時間を巧みに利用せよ》
その人の成功と不成功とは自己の時間を如何に巧みに
有用に生かし得たかにかかっているのである。
しかし誰でも学校では勉強時間がきまっているし、
会社でも勤務時間がきまっている。
そこで巧みに有用に自己の時間を生かし得ると否とは結局、
余暇の時間を如何に巧みに利用し得るかと云うことにかかっている。
休暇だと云うと懶(なま)け易(やす)い。
家族の人たちも休暇には一緒に談笑したいとか、一緒に遊びに行きたいとか、
どこかへ連れていってほしいとか考えている。
そこで「休暇」というようにまとまった時間は、
却(かえ)って失われやすいのである。
短い仕事と仕事の合間の時間とか、出勤のために電車・汽車に乗っている時間とか、
新聞の三面記事を読む時間とか ――
そうした零細の時間が却って利用し易いのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P112) より
<感謝合掌 平成28年6月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2016/06/08 (Wed) 03:49:01
《8日 身辺の事物を常に整理せよ! 》
どんな短い時間にでも、それが読めるように
読みたい本を列べた本箱を自分のすぐ手の届くところに置くことは、
零細な時間を利用するのに便利である。
机の上に混乱させて置くと、書きかけた原稿を探すのに半日かかったり、
未処理の手紙を探すのに一日もかかったりする。
そして物を探して発見しないことは神経を実にイライラさせるもので
あるから精神的エネルギ-の浪費になるのである。
常に進歩し自己反省と自己改善をなさそうと思う者は、
そんなつまらないことに神経を浪費してはならないのである。
日本の女性が裁縫をする時は、本当に縫う時間よりも鋏や糸巻きを
さがしている時間の方が多いと云われている。
自分の身辺の物品をすぐ発見し、すぐ使用出来るように
整頓して置くことは一生の間に見積もると大変な時間の節約になるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P113) より
<感謝合掌 平成28年6月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2016/06/09 (Thu) 04:11:26
《9日 飢え渇くように「進歩」を求めよ》
飢え渇くように智識を求め、1分間でも勉強し、あらゆる機会から得られる
すべての体験を自己改善の資料としている人は、たとえ現在は、
どんな境遇にいようとも必ず発達する人である。
勤務時間に勤務し、勉学時間に勉学しているだけでは、
世間普通の人々と同じことである。
世間普通の人々と同じ速力で走っているのでは、
世間並みであって、秀でた人とはなれないのである。
人の休んでいる時にもなお進む者のみが、
他に抜きんでて進歩することができるのである。
どんなに速力の早い者でも、
兎のように慢心して一定時間走ったあとは眠っているようなことでは、
他(た)の眠っている間にも少しでも進歩をつづける亀にその勝ちを
譲らなければならないのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P113) より
<感謝合掌 平成28年6月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2016/06/10 (Fri) 04:51:56
《10日 常に自己の品性を磨く様心掛けよ》
人間は進歩しなければ退歩するのである。
動いてやまない人生には、同じ位置に静止するということはない。
ほんの1時間の暇な時間を優良な図書を読むのに費やすか、エロ小説を読むのに費やすか、
競輪に費やすか、パチンコに費やすかに従ってその人の品性や性格に著しい相違を
来すことになる。
パチンコでたばこが儲かるとか、競馬や競輪で金が儲かるとか ―― 云うことは別として、
あなたの品性や性格に何を加えるか ―― ということがもっとも大切である。
その人の将来の運命はその人の品性と性格との具象化として一定の形をとって来る。
相場師は相場師として成功することもあるが、
相場師は相場師以外の運命を受けることはできないのである。
しかし相場師でもその零細な時間で自己教養を遂げるとき、
また別の面にその人の運命が展開する。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P114) より
<感謝合掌 平成28年6月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2016/06/11 (Sat) 04:33:43
《11日 あなたの悲しみの時には》
あなたに悲しみの来るとき、それをひとりで耐え忍ばねばならないようなとき、
あなた一人で苦しんでいるのだと思ってはなりません。
あなたの内に神があり、今あなたの魂の進歩のために、
尚一層人生を理解することのできるように、
あなたの魂が今実地訓練を受けているのだと云うことを、
その内在の神は知り、それを見ながら、
「お前はよく堪えた! でかした、でかした! 」と
賛(ほ)めていて下さるのであります。
自分ひとり困難に直面しているのではなく、
神が、たとえば幼稚園の保母のように見戍(まも)りつつ、
この人生の遊戯を、危険のない程度に、遊ばせながら、魂を訓練させていて下さるのであり、
本当の危険が来たら、神はいつでも適当のときに
その重荷を取り去って下さるのだということを知るならば、
どんな困難でも恐るることなくそれに耐えられのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P115) より
<感謝合掌 平成28年6月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2016/06/12 (Sun) 04:04:58
《12日 問題解決には何よりも心の平和を》
心の平和は、健康のためにも、事物を成就し、計画を発展せしめるためにも
是非なくてはならないところの根本的な条件である。
すべて外界の事物は、心の世界の外的表現であるから、
問題はただ我々の心の中にのみあるのである。
心の中から問題を取り去れば、外界の問題はなくなる。
いつまでも心が問題に引っかかっているから問題が残っているのである。
心が問題に引っかからなくなるためには天地一切のものに感謝すればよい。
その問題そのもの、不快な点を心から放ち去って考えず、
その問題に関係のあるすべての人々に感謝するようにすればよいのである。
その時、自然に心の中の問題がとけてなくなるから、
外界の問題も自然に解消するのである。
互いに全てが仲よくなれば、問題はないのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P116) より
<感謝合掌 平成28年6月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2016/06/13 (Mon) 03:45:13
《13日 現象を見るな 実相を見よ》
常によき理念感情を、心に続けて持っておれば、あなたの肉体は美しく、
たくましく健康でありますが、常に他(た)を害するような、
また、常に取り越し苦労をしたり、常に人を憎んだり、恨んだり、
他の悪を発見したりする心を持続していますと、貴方の肉体にはみぐるしい皺が出来、
或いは生理作用が不調になってついには病気としてあらわれて来るようになるのであります。
キリストは「外見によって相手を判断してはならない」と教えました。
生長の家では現象は《ない》、実相を見よ、どんな人間でもその実(まこと)の
相(すがた)は「神の子」であるから、神の子は必ず完全であるとして拝んでおれば、
そんな外見のよくない者でも完全な者になるのであります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P116~117) より
<感謝合掌 平成28年6月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2016/06/14 (Tue) 04:43:16
《14日 外を整えるより まず自己を整えよ》
神の国は此処に見よ、彼処に見よと云っても、物質の中にはないのである。
神の国は自己の生命の中にある。
否、生命そのものが「神」であり、その「生命」が本当に発露したとき、
「神」のひろがりであるが故に、そこに「神の国」があらわれるのである。
神の国は、生きた花の生命(せいめい)が、中(うち)から伸び広がって花となって
あらわれるように、自分の中(なか)から生れ出て来るのであって、造花のように
外から花びらをくっつけて見ても本当の生き花とはならないと同じように、外の工夫を
いくらやって見ても中の生命(いのち)の出口をとざしてしまっては駄目であるのである。
だから、自分の「中(うち)の生命(せいめい)」を整えて、宇宙大生命と波長が合う
ようにし、自分の「中の生命」を媒介として、宇宙大生命が自分の内部から展開し、
肉体には健康を、環境には天国を実現するようにしなければならないのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P117) より
<感謝合掌 平成28年6月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2016/06/15 (Wed) 04:18:55
《15日 合理化ということ》
失敗や面倒臭いことに対して合理化をしてはならない。
或る子供は、親から「学校へ行く道でちょっと八百屋さんへ行って、
野菜を持ってくるように言ってちょうだい」と言われたが、それを忘れてしまった。
そしてあとから、「何故(なぜ)、おまえは八百屋へ往ってくれなかったのかね」と
たずねられると、「学校を遅刻しそうだったから」とか、
「英語を暗唱しながら往ったので、つい忘れました」とか答える。
しかし本当の理由は、その子供は八百屋などに行きたくなかったのである。
しかしもっともらしい理由をつけて自分も満足し、他(た)に対して
合理的説明を与えようとするのを、心理学上「合理化」と言うのである。
合理化はその人の真の感情を隠蔽し、粉飾する。
しかし本当の理由はほかにあるのである。
日本を傷つけるような歴史を書くものは本当は事実に忠実なのではなく、
日本を愛していないのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P118) より
<感謝合掌 平成28年6月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2016/06/16 (Thu) 04:01:11
《16日 理想化と現実の注視》
「合理化」とならんで、心理学上の用語に「理想化」というのがある。
愛するものを理想的な立派なものと信じたがる傾向である。
誰でも多少とも「自己愛」というものがあるから、自分を理想化して考えたがるのである。
どんな醜婦でも、多少自惚れがあって白粉(おしろい)を塗って鏡を見て
自分の顔をなお多少美しいと思うのである。
人間は自己を理想化することによって生き甲斐を感じ、現実の醜さから逃避して、
その結果、現実も多少ともその理想的善(よ)さまで歩み寄るのである。
自己を理想化する程度に従って、彼の自信力は増し、能力は向上し、
成功と勝利の機会は多くなる。
しかし理想化が過度となるとき、現実の欠点を反省する能力を失って失敗する。
高き理想を自己の「可能性」として有(も)ち乍(なが)ら、
脚下を顧みて現実にあらわれている欠点は是正しなければならぬ。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P118~119) より
<感謝合掌 平成28年6月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2016/06/17 (Fri) 04:33:08
《17日 大膽にして細心なれ》
「世間の通念に押し流されて生活することは容易であるが、
また山にこもって自分の好むように生きて行くことも容易であるが、
大衆の中にいて、ひとり気高く霊の尊厳を維持して生きていくことは
大人物にして始めて可能である」とエマースンは云っている。
大衆にこびず、自己満足に陥らず、迎合せず、妥協せず、
しかも大衆を生かして満足せしむるには
神霊に導かれるものにして始めて為し得ることなのである。
大膽にして奔放なだけなら、蛮勇者(ばんゆうしゃ)も為し得るが、
大膽にして細心なるを得るは神霊の導きによるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P119) より
<感謝合掌 平成28年6月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2016/06/18 (Sat) 04:19:36
《18日 思念は行動の代用にはならぬ》
ただ坐る、ただ神想観するといっても、
一日中坐って祈っているわけではないのである。
思念は行動の代用品にはならないのである。
だから思念しているだけで、懶(なま)けていたり、
細いところに気をつけなかったりしては何の効果もないのである。
孔(あな)のあいたバケツに水を入れて、
「どうぞこのバケツが漏らないようにして下さい」
と祈るだけでは効果がないのである。
祈ることは神の智慧につながることによって、バケツを如何にして
修理すればよいのかの智慧と力とを得ることが出来るるのであって
その智慧の通りに実践することによって初めてバケツの水が漏らなくなるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P120) より
<感謝合掌 平成28年6月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2016/06/19 (Sun) 04:46:38
《19日 商売繁盛も健康も心の問題である》
商売や仕事といえども根本は物質的問題ではなく、心の問題なのである。
心の誠実さが客を呼び、誠実なるサービスが繁栄をもたらすのである。
心なき商売や、心なき仕事は失敗し衰微するほかはないのである。
肉体の健康の問題も単に物質的問題ではないのである。
肉体は無数の細胞によって組織せられており、
その細胞には一つ一つ精神があるのである。
胃腸の細胞を考えてみても、唯(ただ)溶(と)けた物質を何でも吸収するのではなく、
人体に必要なものだけを選択的に吸収して同化しようとする智慧がはたらいているのである。
吾々の心の状態はこれら細胞の心に影響を与えて肉体を健不健にするのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P120~121) より
<感謝合掌 平成28年6月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2016/06/20 (Mon) 04:43:47
《20日 神のみ声をきくには》
心そこに非ざれば見れども見えず聞けども聞こえずである。
神の声をきこうとするには常に誠実なる心をもって
神の導きの声をきくようにつとめなければならない。
利己的なことを祈ってはならない。
常に自分の天分にかないながら他(た)の人を利益するように祈り
かつ心を清めて傾聴すべきである。
神のみ声は必ずしも耳にきこえる声ではなく、直感的な閃きとなって来ることも、
良心のささやきとなって来ることもある。
神の声を聞いたならば、、その通り素直に実行しなければならぬ。
神の導きをきけども従わぬならば、神は再び導きの労をとり給うことはない。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P121) より
<感謝合掌 平成28年6月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2016/06/21 (Tue) 03:48:19
《21日 汝、これを信ずる》
真理の霊、汝に来りて常に言い給う。
「汝わが言葉を信ずるや。過去の学説を信じてわれを信ぜざるや。
われ汝を『霊』にして物質に非ず、肉体に非ずと、云う。
汝それを信ずるや。
信ずる者は永遠に病まず死せざる生命(せいめい)の泉汝の内に湧き出でん。
汝、わが言葉を信ずるや、汝は神の子にして絶対に自由なり。
汝は神の子にして、われは汝に無限に豊富なる生活を与えたり。
汝は永遠に乏しきことなし。
この言葉を信ずる者は永遠に乏しからず、無限の供給つねに
汝につきまとうて、あらゆる場面に処して完全なる自由を得ん」と。
この啓示を一日数度繰返し読みて深く信ずべし。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P121~122) より
<感謝合掌 平成28年6月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2016/06/22 (Wed) 04:03:21
《22日 平和は神智に導かれねばならぬ》
神の霊が今日も明日も永久にあなたの内にいて
あなたを生かしあなたを導いていられるのである。
だから貴方は常にいつも心配することは要らないのである。
もしすべての人間が、内に宿りたまう神の導きに従うべく、
毎日神想観を修してその神の導きに従って行動するならば、
世界はこんなに混乱状態を演ずることはなかったに違いないのである。
何故なら、各人の内部神性即ち内部に宿る神なるものは、普遍的であり、「一つ」であるから、
その一つの智慧によって導かれるとき互いに相反するようなことは起りようがないからである。
すべて相反する衝突が起るのは、一つの神の全体智に支配せられず、
孤立知(すなわち迷い)によって執着するからである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P122) より
<感謝合掌 平成28年6月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2016/06/23 (Thu) 03:17:01
《23日 神の智慧をもとむる祈り》
「神よ、今日もまたあなたのみ智慧によって導きたまえ、
あなたのみこころを知らしめたまえ。
あなたの想念を私の想念とし、あなたの愛をわたしの愛とし、
わたしをあなたの御心の実現する道具とならしめ給え」
これがあなたのそしてすべての人の祈りとならなければならないのである。
或いはまた朝起きたときこう祈るべきである。
「神よ、今日も亦、一日の歩みを、あなたの導きによって歩むことが出来ますように、
鋭敏な霊感を私にあたえたまえ。あなたの与えたまう小さなヒントも逃すことなく
それを捉えて、それを生活に実行させて下さいませ」
こういう祈りを毎日つづけているうちに神のみこころを感受する霊感が
段々鋭敏になって来るのである。
しかし神のお示しが来たならば、必ず実行するようにしないと霊感は来なくなる。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P123) より
<感謝合掌 平成28年6月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2016/06/24 (Fri) 04:56:08
《24日 利己的でない願いは神の願いなり》
この宇宙にはただ一つの救いがある。
それは神の救いにほかならない。
自分にとってもうどうすることもできないような行き詰った状態がたとえ来ようとも、
神には行き詰まるということはあり得ないのである。
何故あなたは神をその問題の解決のために呼ばないのですか。
あなたが神の宮を建てようと考える。
それに要する献金をしたいと思う。
ああ金があったら献金ができるのになァと考える。
併し貴方は「神の宮を建てるために献金をしたい」と思うその願いは、
あなたの肉体から出たでしょうか。
肉体は、肉体の快感をもとめる。
美味をもとめ、美酒をもとめ、美女をもとめ、五感の快楽をもとめる。
しかし神の宮を建てることによって肉体が快楽を得るのではない。
だからあなたが神の宮を建てたい、それに献金したいと思う願いは
決してあなたの肉体の願いではないのです。
それは、あなたの内に宿っている神の欲求なのです。
それは貴方を通して神が願っていられるのです。
従って、あなたが、献金したいと思ったが
できないというようなことはあり得ないのです。
現に献金し得る何ものかを持っていられるのです。
併しそれをしたならば、あとの補充は誰がしてくれるかと
心配していられるのです。
そんな人はつまり神を疑っていられるのです。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P123~124) より
<感謝合掌 平成28年6月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2016/06/25 (Sat) 04:47:44
《25日 コトバの力を活用せよ》
すべての事物はコトバによって造られたのであるから、
何事でも成就しようと思ったならば、
先ずコトバによって成就しなければならないのである。
「私は不健康だ」と云いながら、健康を得ることは難しいのである。
先ず健康を得んとするならば、
「神は既にわが健康として、実現したまえり、ありがとうございます」と
コトバによって、その「既に得たること」を表現し感謝するがよいのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P124) より
<感謝合掌 平成28年6月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2016/06/26 (Sun) 03:59:09
《26日 現象世界は人間の心の創作である》
我々の説く根本真理は、神はすべてのすべてであると云うことである。
そして神は善であり愛であり、智慧であり、全能の力であるから、
神の創造(つくり)たまえるこの世界には悪しきものは決して存在しない
ということである。
だから、仮に《ある》が如く見えていようとも悪と云うものは
決して存在しないのである。
だから病気も存在しないし、貧乏も存在しないのである。
ただそれらの悪が存在するか如く見えるのは、人間の心の創作であって、
それは劇作家の創作した心の作品が舞台上で演じられているようなものである。
舞台上で如何に劇が演ぜられようとも、それは実在する人生ではないように、
実在の人生は劇場を出てみると其処にあるように、
現象世界という劇場の外にあるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P125) より
<感謝合掌 平成28年6月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2016/06/27 (Mon) 04:00:38
《27日 神の中に没入すること》
あなたは神の子である。
すべての力は与えられているのである。
併しその肉体が神の子なのではない。
その肉体にすべての力が与えられているのではない。
すべての力が与えられているのは、
あなたの内に宿るところの「神性」に対してである。
それは埋蔵されたる無限力である。
それに先ず気がつかなければならないのである。
気がついたときその発掘の第一歩がはじまる。
気がついてただ見ているだけではそれはハッキリ自分のものにはならない。
それを完全に把握しなければならないのである。
それを完全に把握するのは、手でつかむことではない。
自分がなくなり、神の中に没入するのである。
それは完全な受動である。
なまけている「委せ切り」ではない。
信頼のまかせ切りである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P125~126) より
<感謝合掌 平成28年6月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2016/06/28 (Tue) 04:20:12
《28日 神独在以外の真理は本物ではない》
あなたを救う真理は、「唯、神のみ実在したまう」と云うことである。
この真理から外れたところのあらゆる論理も学説もあなたを幸福にすることは
出来ないのである。
今病気で苦しんでいる人は、また貧乏で苦しんでいる人は、
その他如何なる不幸にでも苦しんでいる人はこの真理から外れて、
ほかの真理を信じている人なのである。
或る人は病気や不幸を実在であると信じている。
そして神も実在であると信じている。
そして神に対して、「この不幸を取り去り給え」と祈るのである。
そして中々その不幸は癒されないのである。
そして時には「不幸」の方が「神」よりも力が強いのではないかと思う。
併し、この人の心が「神」も信じ、「不幸」も信じている限り
それは二元論であって真理ではない。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P126) より
<感謝合掌 平成28年6月28日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《29日》 - 伝統
2016/06/29 (Wed) 03:21:13
《29日 今を活かす事は過去未来も活かす》
今を活かすことが光明生活の一つの重要なる要素である。
明日のことを思い煩うこと勿れ。
昨日以前のことも持越苦労することはいらないのである。
一日の苦労は一日で足れりである。
今の生活そのものに全力をそそぐとき、その思い煩いに消耗するところのエネルギ-が、
逆に建設的に生かされ、新しき創造の力となり、過去の業績もそれによって
活を入れられ、生きてくるのである。
「今」を生かすとき、過去の蓄積が生きて来て、大いなる未来が創造される。
「今」を生かさないで悩み煩うことに時を費やすとき、
過去はただの醜しい残骸となり、
未来も失敗して悲しき末路を辿るより仕方がないのである。
「今」を活かすことはただ努力するだけでは足りない。
神想観して、神の叡智を受けることが必要である。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P127) より
<感謝合掌 平成28年6月29日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《30日》 - 伝統
2016/06/30 (Thu) 04:51:50
《30日 先ず第一のものを第一に》
第一のものを第一にし、第二のものを第二にすることが成功の秘訣である。
柳生流の極意にも相手が千人であろうとも、次々と受けてゆけば、
相手は一人同じであると云う意味のことがかかれているのである。
人生百般の仕事は随分沢山のものがあるのであるから、
その順序を間違えたら労して功なきことになるばかりか、
物事がアベコベになることがある。
最も重要なるものを先に行え。多くの人々は、問題にならないような
些事に引っかかって重要なことをなし得る時間を空費してしまっているのである。
第一のことを第一に、第二の事を第二に秩序整然と行うようにするならば
何事もすべて都合よくゆくのであって、譬えば囲碁の名人が石を打つように
一つも無駄なく成功するのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第6項(P127) より
<感謝合掌 平成28年6月30日 頓首再拝>