伝統板・第二
魂を磨く② - 伝統
2016/05/28 (Sat) 04:21:28
*伝統板・第二「魂を磨く①」からの継続です。
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6462899
・・・
《魂が地上に生を受けて高きに達する祈り》
*「聖経 続真理の吟唱」(P256~259)より
人間は”神の子”であり、神の全智と全能と偏りなき愛とを
自己の内に”種子”として植えつけられているのである。
”種子”の内には神のすべての御徳が潜在的に秘められているのであるけれども、
それが時間・空間の世界に発芽してから、父母の恩愛を受け、
環境を土壌として、いろいろの体験を肥料とし、神の摂理に護られながら、
次第に茎を伸ばし、葉を繁らせ、周囲の明るさを日光として吸収し、
時としては苛辣と見える困難に鍛えられながら、内に宿る仏性・神性を長養して、
その魂は深さと広さとを増して大枝・中枝・小枝を茂らせ、
万だの蕾をつけて、ついに爛漫たる華をひらき、更に完き美しき結実を見るに至るのである。
魂の生長の道程は長くて、ある期間は坦々たる道を晴々(せいせい)たる青空をながめながら
快き旅を続けることもあるが、時には険難にして岩石突こつ峨がたる山路を喘ぎながら、
或いは躓き、或いはまた倒れては起き上がりつつ、次第に山嶺に近づいて行くのである。
平坦の道も、険難の道も、いずれも、その人の魂の長養のために、そして性格の鍛錬のために
必要なる教材として、親さまから課せられたる修学であり、訓練であり、
その修学訓練を経ることによって、その人の性格は陶冶せられ、
外光りではなく内からなる奥深き光を放つようになるのである。
色々の艱難を”敵”だと思い、”障害”だと思って、それを憎んだり、
それから逃げ出そうと思ってはならないのである。
艱難を”敵”だと思えば、艱難は”害する敵”の如くあらわれ自己を時として傷つけるが、
艱難は自分の魂を研ぎ鍛えるための学習であると考え、それを素直に受けて、
その艱難が自分に神が何を教えようとし、あらわしていられるかを知ろうとして努力するとき、
その時、その艱難の体験は光を放って、自分自身の魂を祝福する
神の愛のあらわれであることを証明するに至るのである。
人生に於ける色々の障害と見える事物も、事件も、
本来”障害”であるものは何一つ神は創造し給うてはいないのである。
すべては祝福と教養の世界である。
高き魂をもつ高級霊はみずから進んで心身障害児となって生まれ、
普通よりは一層嶮しき苛烈なる体験を経つつ、
普通の安楽生活者よりも急速にその魂を進歩させるのである。
ゆるやかに進む者は遅速の乗り物に乗るように少ない振動しか受けないが、
急速に走る乗り物は地上の乗り物でも、
空中を飛ぶ飛行機でもその騒音も震動もはげしいのである。
されども、それだけ速やかに魂は目的の高度に達し、
約束の天国浄土に到着することができるのである。
”神の子”には何事も何者も本当にあなたを害するものとてはないのである。
この真理を知らしめ給いし神に感謝いたします。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「魂の約束」 (6284)
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1185
(2)光明掲示板・第二「魂磨き (10874)」
→ http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2084
(3)光明掲示板・第三「魂を磨くということ」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=43
(4)光明掲示板・伝統・第一「魂を磨く (88)」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=54
<感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>
ソウルメイト - 伝統
2016/06/06 (Mon) 04:07:03
*「生きがいの創造 “生まれ変わりの科学”が人生を変える」飯田史彦(著)より
(1)グループで生まれ変わりをくり返す集団のうちでも、
特に強い結びつきにある魂どうしが、「ソウルメイト」です。(P154)
(2)過去生で良好な人間関係を体験した人々は、
それ以後の人生でも、再び協力関係を計画します。
ただし、今回の人生でその関係がまた確立されるかどうかは、
あの世にいるあいだに、一緒に次の人生を計画したかどうかによる。(P154)
(3)普通は、妻や夫は何度生まれ変わっても、
性別を交代しながら、やはり夫婦として生まれ変わります。
毎回相手を変えるよりも、特定の相手と何度も生まれ変わりながら
計画的に成長をはかるほうが、はるかに効率的だからです。 (P155)
(4)なぜ、もうひとつの魂とペアを組むのかといえば、
魂の状態でいるときには「性別」はありませんが、
肉体に入るときには、男か女かを選ぶ必要があるためです。
このように、今回の人生における恋愛、結婚、不倫などは、
過去の人生で何度も深い関係にあった魂たちとの再会であることが
多いことがわかっています。 (P155)
(5)ソウルメイトは、妻・夫の関係ばかりではありません。
親子や兄弟などの関係として生まれ、その関係の中に、
その人生で果たすべき大きな目的をひそませておくことも多いのです。(P158)
(6)ブライアン・L・ワイス博士(マイアミ大学教授)も、現在の人生で
敵対関係にある家族が、実は過去の人生で深いつながりにあった人物で、
しかも今回の人生では、「その相手を許すこと」を学ぶのが人生の課題で
あったという実例を、いくつも報告しています。 (P161)
(7)ワイス博士は、ソウルメイトとの協同計画について、次のように語ります。
「私たちは、自分に最大の成長を与えてくれる人生パターンと、
そのための状況、そしてそれを最も効果的にもたらしてくれる仲間の魂たちを、
自分で選び出すのだ。そして多くの場合、その魂たちは、かつていくつもの
人生で出会い、さまざまな形でおたがいに影響を与え合った魂たちなのである」
(P166)
(8)ワイス博士の被験者の口を借りてあらわれた指導役の魂たちも、
次のように教えてくれたそうです。
「お前たちは、肉体を持って物質界に生まれた時しか、ほかの魂に対する借りを
返すことができない。
もしもその人生で借りを返すことができなければ、お前たちはその人生を反省
するために、あの世へ戻らなければならない。
そこで、借りを負った相手の魂が戻ってくるまで、待っていなければならないのだ。
(そして)借りを返すために次の人生ですべきことを、
きちんと決めてから生まれるのだ」 (P166~167)
(9)過去のどこかで影響を与えた魂たちとふたたび出会った時、私たちは、
無意識に過去生でのつながりを感じて、やはり過去生と同じ行動パターン
をとってしまいます。
その行動は、良い関係を築くものである場合もあれば、
悪い関係を再現してしまう場合もあります。
たとえば、上司と部下、近所の人たち、先生と生徒、時には国や組織の指導者
として、対立し合ったり、助け合ったりするのです。 (P167)
(10)ソウルメイトたちとともに、切磋琢磨してお互いに成長しながら、
私たちは、生まれ変わりの階段を、ひとつずつ登っていくのです。
昔からの悪いくせを克服し、愛と喜びを十分に味わい、
怒りや恐怖を消し去っていくのです。
今回の人生と同じ関係、同じ状況ではないかもしれませんが、
例えば父と娘が、友人、兄弟、おじいさんと孫といった関係として、
これからも、何回も何回も出会いをつづけていくのです。 (P168)
(11)諸研究では、
ソウルメイトどうしは、お互いの切磋琢磨や、
人間がたがいに許し合うことを学ぶ必要性が、
明らかにされています。 (P173)
<感謝合掌 平成28年6月6日 頓首再拝>
荘厳なる生活をせよ - 伝統
2016/06/28 (Tue) 04:16:30
*「光明法語」(6月28日)より
吾等は吾が生活を荘厳なるものたらしめるべからず。
何となれば人間は神の子であるからです。
魂を高揚せしめる大思想家の文章は汝の魂をして荘厳ならしむべし。
低卑なる市井(しせい)の俗語に耳傾くべからず。
闇の話、脱税の話、野卑の話、猥褻なる話きくべからず。
仏典を読むべし。聖書を読むべし。
『甘露の法雨』を読むべし、
『生命の實相』を読むべし。
すべて天啓、神示に基づく荘厳なる文章を読むべし。
猥雑極まる近代のエロ文学読むべからず。
言葉の力は恐ろしき迄強き也。
<感謝合掌 平成28年6月28日 頓首再拝>
《本当の幸福とは魂が向上することである》 - 伝統
2016/07/10 (Sun) 04:06:58
*『 生長の家 』(昭和25年4月27日の法語)より
如何(いか)なる人生の体験も すべて何かの教訓を含んでいるのである。
神は偉大なる教師であって、魂を高めるために 常に適当なる課題を
吾々に与え給うているのである。
出された問題そのものが問題ではないのである。
それは試験問題の如(ごと)きものである。
それを通過することによって 魂の力が増加し、魂が向上するのである。
神は 魂のみを見ておられるのである。
人間智(ち)は 魂の向上をみないで、
現象の出来事と損得を考えがちである。
そして不幸だとか幸福だとか判断する。
本当の幸福とは 魂の向上することであり、
本当の不幸とは 魂の堕落することなのである。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13851127.html
<感謝合掌 平成28年7月10日 頓首再拝>
《わが業(わざ)は わが為(な)すに非(あら)ず》 - 伝統
2016/07/25 (Mon) 04:21:32
*「生長の家」(昭和25年6月2日の法語)より
日々に起きる出来事をば、
神は決して吾々を苦しめ給うために与え給うものではなく、
吾が魂の向上と幸福とのために与え給う所のものである。
一つ一つの出来事は
すべて自分の内に内在する よきものが
実現せんがための機会であるのである。
神の愛は無限であって
吾々がとても想像することができない範囲に
凡(あら)ゆる方面から吾々を導いて、
幸福ならしめる様に計画していられるのである。
「 わが業は吾がなすに非ず、
天地を貫きて生くる み親の力 」 であるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2
<感謝合掌 平成28年7月25日 頓首再拝>
《魂の浄化期間を設けるがよい》 - 伝統
2016/08/08 (Mon) 03:55:03
*『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P303~304)より
塵も積もれば山となり、点滴、よく石を穿つ。
1回3分間の祈りでもそれが1日20回も繰り返され、
しかもそれが純粋なる願いに裏付けされるときには、
それはついに偉大なる力となり、神の声なき御声を聴くことが
できるようになります。
更に速やかに魂の浄化を遂げようと思えば、10日間を限って、
全然利己的損得勘定の思いを起こさず、人を憎まず、争わず、腹立てず、
嘆かず、不平の心を起こさず、何事にも其の儘素直にハイと受けて行じ、
暗い心を捨て、明るい心を持ちつづけ、一切のものに対して感謝の念を
起こすようにつとめることです。
10日間だけどと限って行なうのは、1ヶ月も、1年もつづけてやれと
云われたのでは、「到底不可能である」と思って後退する人も
あろうけれども、10日間と思えば出来ぬことはないのです。
併し自宅では、これまでの生活習慣で出来にくいかも知れない。
そんなときには、生長の家の飛田給練成道場や宇治習練道場や
長崎練成道場で、世間から離れて一時練成を受けるのも一つの方法です。
<感謝合掌 平成28年8月8日 頓首再拝>
”本当に強い人” - 伝統
2016/08/18 (Thu) 04:10:22
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年07月20日)より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
目の前の問題を解決するのには
次のような3つの3次元的方法があります。
それは、
1つ目「克服し乗り越えること、もしくは意見が対立したとき
論破して自分の主張や意見をおし通すこと」。
2つ目「逃避、そこから逃げ出して別のところに行くこと」。
3つ目「忍耐、我慢をし続けること」。
ほとんどの人がこのような方法をとっています。
その結果として、ストレスをため込んだり、
体の中にポリープを作ったりして体がガタガタになります。
さらに、4次元の解決方法として
「気にしない」というのがあります。
英語の“I don’t mind”、つまり「どんまい」です。
そして5次元の解決策として
「気にならない」というのがあります。
バカにされても、あざけられても、気にせずににっこり笑って
「そうなんですよね~」と言っていられるのを、
本当に強い人と言います。
「頑張るぞー」と言ってはいけません。
力をいれないのがいちばん強いのです。
どんなことに対しても一喜一憂しない心をつくると
ものすごく人生が楽になります。
何を言われてもにこにこしている状態を、強靭な魂と言いますが、
私が発見した方法を使えば、15秒くらいでこれをつくれます。
必要なことはただひとつ、「ぼーっ」とすること。
メンツやプライドを一生懸命に守ろうとする人は、
実はものすごく弱い人なのです。
自尊心が傷つかないように、身や心を守るのではなく、
バカにされてもあざけられても、いっさい傷つかないで
「そうなんですよね、ふふ」と言っている人。
これが本当に強い人といえます。
外側の条件にいちいち過剰反応せずに、
自分はたいしたもんじゃない、
ろくなもんじゃないと思い切りましょう。
ろくでもないのが自分なのだから、
それ以上に見せる必要はありません。
だから、いい話をするとか笑わせるより、「笑われる」。
これはとても簡単です。
これが本当に強靭な魂という意味なのです。
<『感謝ではじまる幸せの習慣』宝島社>
・・・
カチンとくることを言う人がいる。
「見下すような言い方をする人」
「恩に着せるような言い方をする人」
「嫌みを言ったり、バカにしたりする言い方をする人」
「からかったり、相手をなめたような言い方をする人」
「情熱を込めて話しても、それを鼻でせせら笑ったり、
批判したり、全面否定するような人」
「乱暴だったり、けんか腰だったり、ため口だったり、
相手に敬意を払わないような言い方をする人」
これらのことに、いちいち反応していたら、
自分の心が萎(な)えてしまう。
「風疎竹(かぜそちく)に来る 風過ぎて竹に声を留(とど)めず」
という、菜根譚(さいこんたん)の中の言葉がある。
風が竹林に吹くと竹の葉がザワザワとなる。
しかし、一旦風が通り過ぎてしまえば、
竹林は何事もなかったかのようにひっそりとしている。
何か大事があったそのときは心がザワザワと騒ぐが、
それが終わってしまえば、何事もなかったかのように穏やかに
静まりかえり、いつまでもそれに執着しないこと。
「本当に強い人は、気にしない人、ぼーっとしている人」
嫌なことがあってもそれを、
気にしない人、ぼーっとできる人でありたい。
<感謝合掌 平成28年8月18日 頓首再拝>
《五官は番犬に過ぎない》 - 伝統
2016/08/29 (Mon) 03:39:46
*「生長の家」(昭和25年7月2日の法語)より
五官の心は 「人間自身」 ではなく
人間の道具である。
それは 番犬のようなものである。
五官の喜びは 番犬の喜びであり、
人間自身には ニセモノであり、迷わしであり、
それは 幻にすぎないのである。
幻にすぎない快楽は
永遠に持続するものではない。
されば ニセモノに打ち克ち
本物を現わすために
決然 克己心をふりおこして
過去の肉体的欲望の惰力に
打ち克たなければならないのである。
肉体の快楽は 一時的に汝を喜ばすかは知れないが、
汝の魂に深い悩みと淋しさとを残すのである。
それは 「 本当の自分 」 が
打ち敗(ま)かされたからである。
本当の魂を喜ばすのは
実相智によるほかはないのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 平成28年8月29日 頓首再拝>
《生命の真理を自覚する》 - 伝統
2016/09/10 (Sat) 04:18:01
*『生長の家』(昭和25年7月9日の法語)より
浮世の苦しみと悩みは、
結局人間が世俗的な名声や、地位や、富や、五官的な喜びを
追い求めた結果、生ずるのである。
かくの如き五官的な世俗的な喜びは
本来実相の喜びでないから、
あるが如く見えても存在しないのである。
だから かくの如きものを求めて
永遠の喜びを追求するのは
焔(ほのお)をのんで渇(かわ)きを癒(い)やさんとせるが
如きものである。
魂の喜びは焔をのむことによっては得られないのである。
キリストが 「 永遠にかわかぬ水 」 といった所の
生命の真理を自覚することである。
生命の真理を自覚することによってのみ
人間は魂の渇きは 永遠に癒されるのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12
<感謝合掌 平成28年9月10日 頓首再拝>
《重きものは筋肉を発達せしめる》 - 伝統
2016/09/22 (Thu) 03:32:18
*『 生長の家 』(昭和24年7月19日の法語)より
千万長者といわれるような人たちは何(いず)れも一度は
破産者または、破産同様の関所を越えてきた人ばかりである。
もしそうでなく安易に一千万円を得たならば、
それは間もなく煙のように消えてしまうに違いない。
もっとも美しき、もっとも強き、もっとも高邁(こうまい)なる性格は、
温室のような環境では育たないのである。
それはもっとも美しき筋肉美が、重きものを動かす運動をしないで
発達しないのとおなじことである。
環境の重圧に耐えて来た魂の筋肉美こそ最も美しいのである。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/508c64494605c4fb3ce67545161615bf
<感謝合掌 平成28年9月22日 頓首再拝>
すべての境遇は、魂を向上させる学科である - 伝統
2016/09/27 (Tue) 04:18:53
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月27日)より
われわれは自分が与えられた環境、または境遇から
逃げ出そうと考えてはならないのである。
環境、境遇においてあらわれて来る様々の出来事は、自己の人格を鍛錬し、
性格を磨きあげ、魂を向上させるための学科であるのである。
もしわれわれがそれから逃げ出すことによって安易を求めるならば、
その人は決して人格を鍛錬することはできないし、強き性格を築きあげることはできないし、
魂を向上させることはできないのである。
われわれは与えられた環境または境遇と取り組んで、それを征服しえたときにのみ
強き性格を築きあげ、魂を向上させることができるのである。
これはけっして受難を礼讃する意味ではない。
われわれは「難」をも「楽」をもともに克服しうる人とならなければならないのである。
<感謝合掌 平成28年9月27日 頓首再拝>
喜びの心で、すべての体験を受け入れる - 伝統
2016/09/28 (Wed) 04:24:01
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月28日)より
この世界は不幸または苦難の連続だと考える人があるけれども、
けっしてこの世界は不幸や苦難の連続ではないのである。
魂の向上のために与えらた体験を避けようと思うときにのみ、
それは不幸と感じられ、苦難と思われるのである。
困難を迎え撃つ態度にかわるとき、
それは悦んで上級学校の科目を教えられる喜びに変わるのである。
体験を通して、魂は何事かを獲得する。
それは釣竿に魚のかかったときのようなスリルであり、
猟師が獲物を得たときのような喜びを獲得することができるのである。
人生の行路を険しいと言って嘆いてはならない。
それをハイキングの喜びやスキーの楽しみにかえるのは
それを受ける心の態度である。
<感謝合掌 平成28年9月28日 頓首再拝>
【この世は最上の修業の場】 - 伝統
2016/10/12 (Wed) 04:22:29
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年10月04日)より
(ひろさちや氏の心に響く言葉より…)
「極楽百年の修行は穢土(えど)一日の功に及ばず」(報恩抄・日蓮)
(極楽浄土で百年間修行をしようとも、この世で一日修行した成果には及ばない。)
日蓮は苦で満ちるこの世こそ最上の修業の場であると喝破しました。
アメリカの成功者に、それを体現したような人物がいます。
先年亡くなったアップルの創業者、スティーブ・ジョブズです。
ジョブズの人生は波乱の連続でした。
生まれてすぐ養子に出されたり、
せっかく受かった大学は半年ほどで中退してしまったり…。
しかし、ジョブズは挫折すら糧とする術を心得ていました。
空き瓶の返還金の5セントを食費にあてなければいけないような貧しさを、
ハングリー精神に昇華しました。
創業した会社をクビになるという驚くべき不運を、
よりクリエイティブな自分になるための燃料にしました。
ジョブズが仏教にシンパシーを持っていたのは有名な話です。
「この世のすべては修行であり、何ひとつ無駄なことはない」
という仏教的な価値観が、彼には自然と根づいていたのかもしれません。
毎日毎日、つらいことやイヤになることばかり。
心身の疲れがあまりにも溜まってくると、どうしてこんな世に
生まれてきたのだろうと、親を恨みたくなるときすらあるでしょう。
しかし、何十年も生きていると、思わぬところで
昔の経験が活きてくる場面に遭遇することも珍しいことではありません。
今の苦しさは試練。
試練があるのは、この世が修行場だからこそ。
乗り越えた先には、必ず大きな実がなっています。
<『いい言葉が、心を掃除する』PHP研究所>
・・・
京セラ創業者の稲盛和夫氏はこう語る。
「『この世へ何をしにきたのか』と問われたら、私は、
『生まれたときより、少しでもましな人間になる、すなわち、
わずかなりとも美しく崇高な魂を持って死んでいくためだ』と答えます」
輪廻の考え方からすると、この世にはテーマを持って生まれてくるという。
それが、前の時(前世)より、少しでもましな人間になること。
そのために、つらいことや、イヤなこと、苦しいことを、
自分自身が長い人生の中に設定してきた。
ハードルを高くしてそれを乗り越えることが、自分を高めることになるからだ。
「困難なこと」は自分自身が決めたこと、
と思うなら、それに文句を言ってもはじまらない。
自分の魂の修業のために、我々はこの世に生を受けた。
魂を磨き、輝かせる修行。
つらいことやイヤなことが、磨き砂となって、魂を磨いてくれる。
この世は最上の修業の場。
<感謝合掌 平成28年10月12日 頓首再拝>
点滴石を穿つ日 - 伝統
2016/10/15 (Sat) 03:34:36
*「光明道中記(その身まったし)」(10月15日)より
【幾度も生れ更わった霊魂ほど、現世幽界を度重ねて浄化作用を営んでいる。
(『生命の實相』第八巻)】
精進と云うことは何事を成就するにも必要なことである。
「精神一到何事か成らざらん」の諺もこれに当る。
国民総動員も之に当る。
点滴石を穿つ。天才は忍耐也。精神とは毎日たゆみなく行なうことである。
少しずつでも毎日たゆみなく聖典を読む、毎日たゆみなく神想観を行ずる、
毎日たゆみなく飯を食う、すべて是(これ)が精進である。
一度に力を出して置いて、あとはい眠っているのは精進ではない。
兎と亀との競走に於て、のろい亀が勝利を得たのは、亀はたゆみなく歩んだからである。
仏教で六波羅蜜の一つに到彼岸法(はらみたほう)として、精進が挙げられているのは、
悟りに到るにも毎日の精進が必要だからである。
精進のあるところ必ず魂が輝き出ずるのは、毎日磨いている廊下が光沢を増してくるのと
同じことである。1年360回拭くので廊下が光るのであるから、1週に360回
拭いて置いて、あとは放って置いても廊下は光るかと云うと、そう云う訳には行かぬ。
何故行かぬか、それは精進がないからである。
『生命の實相』も1回読んで意味が分かったと思って、
アトすっぽ抜かして置いては魂の進歩はない。
道場の講義も毎日聴くので効果があり、この日記も毎日読むから効果がある。
解ったと思って止める者は気の毒だ。
<感謝合掌 平成28年10月15日 頓首再拝>
《困難は魂を浄化する》 - 伝統
2016/10/30 (Sun) 04:49:07
*『 生長の家 』(昭和24年7月20日の法語)より
人生は一見 有用なるものばかりでは
成り立ってはいないのである。
却(かえ)って無用と見えるものが
適当の分量に於いて有用であるのである。
滋養物のみが人体に健康を与えるのではない。
不消化な滓(かす)になるような繊維素その他が
腸内の清浄作用に非常に役に立っているのである。
それと同じく人生に不用に思われる摩擦や困難が
吾々の魂の清浄作用に役立っているのである。
http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/bfdb706a940194f3ffea807b7423de3b
<感謝合掌 平成28年10月30日 頓首再拝>
魂の発達と進歩 - 伝統
2016/11/12 (Sat) 04:26:40
*「苦難と恐怖の克服法」(P103~106)より抜粋
(1)野の百合の次第に生長するが如く吾々の信仰も生長します。
◇野の百合は如何にして育つかを思え(ルカ伝第十二章27)
①事務所のボーイも必ずや勉強次第、努力次第で
会社の最高地位になることが出来るでしょう。
もし彼が正しく自己に内在する素質を培養し
自己努力と自己訓練とを続けて行きますならば、
何物も彼が会社の最高支配人になることを留めることは出来ない筈です。
②会社の最高地位は総ての社員にとっては
「得られる最高の可能性」として既にあるのです。
併し乍らその可能性を現実にする為には彼は先ず今居るところの
事務所のボーイとして、最善のボーイになることが必要なのです。
その次には最善の下役の事務員となり、
その次には主任救の事務員として最善のものとなり、
その他様々の段階を経て、
やがて彼の可能性の最高の目標点に到達することが許されるのであります。
(2)大信仰への道のり
①祈りや称名念仏は吾々に方向を誤らしめない神仏の導きを喚び起こすものなのです。
祈りながら、吾々は向上の心を失わず、常に精進努力し、
色々の信仰上の試練に耐えなければならないのです。
②現世に於ける修行に於いては吾々は自己の信仰を鍛える為に、
日常生活中に敢えて冒険であると思われるような仕事にも
ぶつからなければならないことも多いのです。
③吾々はかくて日常生活を通して何事かを学びつつ遂に最高自由の境界に到達し、
自己内在の完全神性(仏性)を開発し得るに到るのです。
而して最後に孔子の所謂「心の趣く処に随って矩を越えざる」底の
自在境に入ることが出来るのです。
④吾々が大信仰の畏敬すべき人々に出会う時感ずることは、
これ等の人々が皆大なる人生経験の体験者であると云う事です。
ローマは一日にして成らず、
大いなる信仰は西洋松茸のように一夜にして生長し得たものではないのです。
大いなる信仰は実に多くの信仰上、及び実際生活上の血と汗と祈りと行
との体験を通して生長し来たった所のものなのです。
(”平賀玄米 さま”ご投稿<人間救いの原理②>2016年09月27日~28日
より、抜粋し転写。
「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=550 )
<感謝合掌 平成28年11月12日 頓首再拝>
努力は魂を向上せしむる道 - 伝統
2016/11/28 (Mon) 04:37:31
*『幸福を招く365章』第11項(P238) より
何事でも自己に与えられたる仕事が、
誰かにとって益を与うるものであるならば決して拒むな。
それが自己に不適当なる仕事であると思っても決して拒むな。
神は決して貴方(あなた)に不適当なる仕事を強制し給うことはないのである。
与えられたる仕事を、神が自分に課せられたる人類の奉仕の仕事であると信じて
感謝してそれを為(な)すならば、自分に不適当なる仕事にも
それを完成し得る力が湧(わ)き出てくるのである。
容易なる仕事ばかりをしているのでは、
内在無限の力は湧き出ては来ないのである。
困難なる仕事に努力することによって、力は増強せられる。
努力は魂を向上せしむる道である。
(初出~「生長の家(昭和26年5月27日)」)
<感謝合掌 平成28年11月28日 頓首再拝>
体験は吾々を高めてくれる魂の課目 - 伝統
2016/12/13 (Tue) 03:54:48
*「苦難と恐怖の克服法(人間救いの原理)」第2章より
神は人間に「艱難」を課しているのではありません。
人生は決して吾々に苦しむべく求めているのではないのです。
神は体験を通して吾々の魂を向上せしめたく希望していられるのです。
人生の色々の体験は吾々を高めてくれる魂の課目です。
それを次々習うことによってあぞなたの魂が次の段階へと到達することが出来るのです。
神が望み給う所は吾々をより高き喜びに導くことなのです。
総ての経験を感謝して受けよ。避けようと思うな。
若し吾等が人生総ての体験に「素直にそのまま有難く」協調して
その出来事や仕向けられたる悉くを受け入れるようにするならば、
「眞理は汝を自由ならしめん」。
自由への道は喜びに満ちた姿をして吾々の眼の前に展開して来るに違いないのです。
繰り返し申しますが、人生それ自身は吾々の實相円満境の展開と顕現とに
必要なる諸課目を行い学ばしむるところの魂の学校です。
吾らが辛い人生の科目を避けようとする習慣がある為に生活は却って
難しく苦痛に満ちたものとなるのです。
数学でも基礎知識が出来たら応用問題も難なく解ける筈なのに、
その科目をエスケープしているから、いつまで経っても数学が難しいと同様です。
(”平賀玄米 さま”ご投稿<人間救いの原理②>(2016年09月30日)より、抜粋。
「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」
→ http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=kaelou&mode=res&log=550 )
<感謝合掌 平成28年12月13日 頓首再拝>
人間は“生れ変り”を続けて魂が無限に生長する - 伝統
2016/12/28 (Wed) 05:03:08
*『實相と現象』(P103~105)より
ヘンリー・フォードとトラインというアメリカの光明思想家の会話の本の中には、
こういうことが書いてあります。
「キリストは33歳で死んだけれども、彼は老人である。」
これはどういう意味かというと、彼は何遍も“生れ変った”のである。
そして彼はこの世の中においては33歳で死んだけれども、
しかしその“生れ変り”の数の多さにおいて年齢を数えるとしたならば非常に老人である。
だから、このような立派な真理を説くことができたのである――
というような意味のことをいっているのであります。
佛教においても、この生れ変りということは、繰返し説かれているのであります。
たとえば法華経の常不軽菩薩品の中にもでています。
(中略)
常不軽菩薩はすべての人間を礼拝した功徳によって、今、釈迦牟尼如来としてここに
現れているのである ── と釈尊は自分が常不軽菩薩の生れ変わりだといっておられる。
そういうように”生れ変わり”の説をお釈迦様も説いておられるのであります。
さて、お釈迦さんやキリストがこの世の中にでてこられて、人類救済のために
真理をお説きになることができたのは、一遍ぐらいの”生れ変わり”ではなく、
幾百回も幾千回も”生れ変わって”いろいろの苦労をなさって修行せられた結果、
真理を悟られたのであります。
<感謝合掌 平成28年12月28日 頓首再拝>
私たちはみな、勇気ある旅人 - 伝統
2017/01/13 (Fri) 03:15:30
*「生きがいの創造」飯田史彦・著(P326~327)より抜粋
私たちは、「偉大で、強くて、力のある存在」であり、
「生命を発展させ、人類という名で知られる大いなる冒険に
参加しようとする、勇気を持った魂」なのです。
私たちは、決して「いやいやながら、辛い苦行を強いられている」のではなく、
「自分からすすんで、楽しみながら学ぶ修行をしに来ている」のです。
(中略)
「地球」という惑星は、
宇宙に無数に存在する魂のひとつひとつである私たちが、
「肉体を持たなければ経験できない修行や楽しみ」を体験するために、
みずから希望しておとずれている「遊園地付きの自学自習センター」
のようなものだと考えられます。
そこでは、だれに教わるわけでもなく、
自分で選んだ練習問題を解きながら、
暇をみては、大いに遊んで楽しむことが許されています。
遊んでばかりいては成長できませんが、勉強ばかりしているのでは、
真に創造的で豊かな人生であるともいえません。
私たちは、「愛と創造の実現に挑戦する人間生活を体験するための地球ツアー」に、
みずから希望して参加している、好奇心と向上心と勇気にあふれる魂たちなのです。
さあ、大いに、人生という「楽しみながら学ぶ修行」に、
わくわく、どきどきしてみようではありませんか。
<感謝合掌 平成29年1月13日 頓首再拝>
【すべては私を磨くため】 - 伝統
2017/01/29 (Sun) 03:04:09
*メルマガ「人の心に灯をともす(2017年01月16日)」より
(小林正観さんの心に響く言葉より…)
《すべての日常生活は“私”を磨くための砥石(といし)なのです》
私は親子関係や夫婦関係で相談を受けるとき、よく「砥石」という言葉を使います。
砥石とは刃物を磨く石のことです。
魂を磨くための砥石は3つあります。
ひとつは「家族と家庭」。
結婚とは、「夫という名の砥石」「妻という名の砥石」を手に入れた
ということではないでしょうか。
夫婦という名の共同生活は、食べ物の甘い辛い、気温の暑い寒いなど、
一つひとつ折り合いをつけることにほかなりません。
なかなか思い通りにならない子どもも「砥石」です。
次は「仕事」。
どんなときにも怒らない、イライラしないということを求められて魂は磨かれます。
最後に、「他のすべての人間関係、交友関係」。
日常生活のすべてが「“私”を磨くための砥石」なのです。
「怒ってもいい状況」も「怒らせる人」も存在せず、
折り合いをつけるべき状況や相手がいるだけ。
それなのに怒って解決する道を自ら選んでしまっているのかもしれません。
私たちはすべての日常生活で、
「いかにイライラしないか、笑顔でいられるか」を問われています。
<『宇宙も神様もぜんぶ味方につける習慣』宝島社>
・・・
池波正太郎氏の素敵な言葉がある。
『男は何で自分を磨くか。
基本は「人間は死ぬ・・・」という、この簡明な事実を
できるだけ若いころから意識することにある。
もう、そのことに尽きるといってもいい。
何かにつけてそのことを、ふっと思うだけで違ってくるんだよ。
自分の人生が有限のものであり、残りはどれだけあるか、こればかりは神様でなきゃわからない。
そう思えばどんなことに対してもおのずから目の色が変わってくる。
そうなってくると、自分のまわりのすべてのものが、
自分をみがくための「みがき砂」だということがわかる』
(男の作法・新潮文庫)より
生まれ変わりがあると信じるなら、この世に生まれてきた目的はただ一つ。
現世において、少しでもましな人間になってあの世に旅立つこと。
生きている間に、まわりの人にどれだけ喜んでもらえたか。
あなたがいてくれて良かった、という人を少しでも多くつくる事。
砥石やみがき砂はそのためにある。
すべては私を磨くため、と思い定めて生きていきたい。
<感謝合掌 平成29年1月29日 頓首再拝>
《人生は錦織なす織物である》 - 伝統
2017/02/14 (Tue) 04:46:01
*『幸福を招く365章』第10項(P215~216) より
人生を織物にたとえるならば、人間はその織(お)り手である。
縦糸は全体を貫く自分の希望であり、理想である。
緯(よこ)糸は縦糸をさえぎり交叉するところの出来事である。
どんなすがたに緯(よこ)糸が交叉して来ようとも、
縦糸は必ずこれをまとめ上げて一反の織物に完成するのである。
そしてその緯糸の交叉する状態に応じていろいろの美しい
模様を作り上げるのである。
吾々はこう考えるとき自分の前途に横たわる出来事が何であろうとも、
それを悲しむことも憎むことも要(い)らないのである。
すべての出来事は人生を美しき織物に織りなす素材であるに過ぎないのである。
(初出は「生長の家」昭和26年7月6日の法語)
<感謝合掌 平成29年2月14日 頓首再拝>
魂の”向上と進化”の意味するもの - 伝統
2017/02/26 (Sun) 04:37:21
*『神と偕に生きる365章』(P201)より
魂そのものの向上と進化というものは何を意味するのであろうか。
それは自己の生命の本質が“神の子”なることを一層深く自覚して
智慧(真理の理解とその応用)と、愛と、
行動力(行動の勇気と、行動範囲と、行動速度と行動の的確性)との増進を意味するのである。
つまり、その人の魂の“神”なる神通自在性を、
より多く発揮し得るようになることである。
快楽や苦痛は、それに誘導して行くための甘味料や香辛料であって、
行動の食欲を増すために与えられるものであって、
人生の目的そのものではないのである。
<感謝合掌 平成29年2月26日 頓首再拝>
《刻苦精励は生命を鍛える》 - 伝統
2017/03/13 (Mon) 04:59:34
*『 生長の家 』(昭和24年9月15日の法語)より
人は生命を働かしただけ、それだけ自分のおかげは 増えるのである。
ビスマルクは 真の生命に対する唯一の安全なる守りは、
刻苦精励にあるといっている。
刻苦精励は 機会のない処に(ところ)に 機会を作り、
成功のない処に 成功を作る。
刻苦精励こそは 自己の生命を鍛えあげ、
その不純物をとりさり、自分の魂を愈々(いよいよ)
光輝燦然(こうきさんぜん)たらしむべき
唯一の方法であるのである。
仕事がなくして ただ寝ころんで生活することができるとするならば、
それこそ人生は無用であり、空虚であり、だらけてしまって
何らの幸福感もあり得ないのである。
ビスマルクの青年に告げんとする言葉は、
「 働け、働け、働け 」 という三語であったといわれている。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31
<感謝合掌 平成29年3月13日 頓首再拝>
《魂が成就したら万事が成就する》 - 伝統
2017/03/27 (Mon) 04:53:28
*『 生長の家 』(昭和24年8月6日の法語)より
人間は魂の発達が第一に大切である。
外界に於ける成功と否とは、必ずしも問う所ではないのである。
魂は肉体にまさり、肉体は衣服にまさり、
衣服は外界にまさるのである。
しかし本当に魂が神格を得る時
すべてが成就するのである。
魂の完成の上に築かれた成功のみが、
揺がぬ基礎の上に築かれた成功である。
http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12763600.html
<感謝合掌 平成29年3月27日 頓首再拝>
私たちは、魂をより輝かせるため、学ぶために、生れてきた - 伝統
2017/04/16 (Sun) 03:18:41
*「あの世のひみつ」美鈴・著(あとがき)より
自分で自分に課した課題である宿命は、変えることはできません。
運命は、その宿命を解消するフィールド。
そのときの自分に相応しい道を、いくらでも選び、作ることが可能です。
運命は、いかようにも変えることができるのです。
そのために自由意志を与えられています。
私たちはみな霊的な存在です。
この世で、死を迎えても、魂は永遠に生き続けるのです。
お金や地位・名誉、物質は、いっさいあの世へは持ち帰ることはできませんが、
現世での経験・感動は、決して消えることはありません。
私たちは、魂をより輝かせるため、学ぶために、
自分で決めた課題をいっぱい持って生まれてきました。
その学びの途中で、どれだけ「幸せ」と感じられ、感謝できるのか…。
幸せな人生は、自分自身で作り上げるものなのです。
神秘のルール、霊的な法則を知り、自分自身の性質を知り、
さまざまな経験と感動を得て、魂を磨いていくことこそが、
「真の幸せ」なのだということを……。
愛する人のため、地球のために精一杯輝きながら、辛い学び舎「物質学校」で、
きらきら輝く生き甲斐や幸福を、一つでも多く見つけて、寿命をまっとうし、
祝福を受けながら卒業したいものです。
奈良の長谷寺の十一面観世音様よりいただいたお言葉です。
「森羅万象によって生かされていることを再度理解し、すべての御霊を敬い、
愛を返すことにより汝ら一人ひとりが、この世を救う救世主となるであろう」
私たちは魂の存在です。
幸せも不幸も、自分で作りだして生きています。
日々のできごとには、すべて意味が込められているのです。
<感謝合掌 平成29年4月16日 頓首再拝>
《人生の目的は魂の向上にある》 - 伝統
2017/05/01 (Mon) 04:52:15
*「光明法語」(5月1日)より
人生は魂の向上の過程である。
魂の向上とは「内在の完全なる実相」がより多く次第に開舒(かいじょ)することである。
魂の向上にはあらゆる人生の面に触れることが必要であるのは、
歯を磨くにもあらゆる角度から磨かなければならないのと同様である。
従って吾々の触れる人生の面は時々変化するのは
別の角度から磨かれる必要があると云うことである。
新しい人生の展開、新しい境遇の展開は、今ある境遇の行き詰まりから生ずる。
だから今ある境遇が行き詰まるのは新しい善き運命の先触れだと信じて感謝すべきである。
<感謝合掌 平成29年5月1日 頓首再拝>
《愛深き峻厳が魂の進化せる特徴である》 - 伝統
2017/05/02 (Tue) 04:04:09
*「光明法語」(5月2日)より
「汝の如く汝の隣人を愛せよ」とは自分の実相を完全なる神の子であると信ずる如く、
汝の隣人をも完全なる神の子であると信じて敬することである。
敬のない惑溺(わくでき)は真の愛ではなくて肉欲の変形であったり、
自己憐憫の投影であったりするのである。
自己の苦痛を恐れる者のみが、他(ひと)の苦痛に同情するのである。
だから同情は、自己不完全の投影ですらある。
真の魂の生長せる者の特長は「愛深き峻厳」である。
愛深くして相手の実相の完全さを知るが故に猥(みだ)りに甘やかさず
峻厳であるのである。
<感謝合掌 平成29年5月2日 頓首再拝>
精神レベルとこの世の法則 - 伝統
2017/05/14 (Sun) 03:13:34
*「出逢う力 世界を動かす神秘のルール」浅見 帆帆子・著(P25~30)より抜粋
(1)私たちを各世界に分けているのが、その人自身の精神レベルです。
精神レベルによって、起こる物事が変わり、出逢う人も変わります。
(2)精神レベルとは、言い換えれば「魂の成長度合い」のことです。
(3)あなたのまわりには、あなたの精神レベルに応じたこと
(=あなたが心で考えていることと同じ質のこと)が
引き寄せられて来ています。
たとえば、あなたが夢のことを考えている際、
夢の実現を50%疑っていれば、50%分足を引っ張られることが起こり、
20%不安に思っていれば、20%分、不安の思わされるようなことが起こる。
あなたが「それ」を信頼する割合に応じて(正確に)現れてくるのです。
(4)「自分の考えていることが自分の生活に現れる」という仕組み、
これがいわゆる「この世の引き寄せの法則」です。
これはすべての人に働いている、とても公平な仕組みです。
自分がなにを考えるかは、100%自分が決められるからです。
(5)この仕組みがわかると、「運の良いこと、悪いこと」という感覚自体が
なくなっていきます。
どんな物事でも「ただ起きているだけ」であり、
自分の反応の仕方、捉え方で、
どちらにでも変えられるからです。
(6)なにかが起きたときに、焦らず、怒らず、イライラせず、
淡々とその物事の意味を考えて、
「このおかげでこういうことがわかった」
という状態で解消すると、その人の精神レベルが上がります。
逆に言えば、「あなたの精神レベルを上げるために(魂を生長させるために)
その出来事が起きている」とも言えるのです。
(7)すると、その事件を後から眺めると、「自分を成長させてくれるために
起きたありがたい出来事」となるのです。
ますます「嫌なことが起こる」という感覚がなくなっていくのです。
<感謝合掌 平成29年5月14日 頓首再拝>
魂の稚(おさな)い場合には脱線して苦しみます - 伝統
2017/05/27 (Sat) 04:15:49
*「真理」第9巻生活編(P66~67)より
神は人間を「神の子」としてつくり、地上に生み出され、
その各々に適当な位置と天分とを与えられたのであります。
その神の計画どおりに吾々が生活するならば、最も摩擦なく不快なく生活できる
のでありますけれども、神は人間に完全なる自由を与えたもうて、
神の計画の中に、機械的に運転するようにはしたまわなかったのですから、
我々は、其の与えられた自由によって、
あるべき位置からハミ出して生活していることが多いのであります。
その限りに於いて私たちは何かピッタリしないものを感ずる、
それが摩擦であり、悩みであり、正しきものを生み出す苦しみであり、
魂の稚い期間は、神の計画の中から脱線することが多いので、
其の位置にピッタリせず、苦しみを受けることが多いのです。
これが苦しみによって魂が浄化される期間であって、
決して神が練成のために苦痛を課するのではないのです。
<感謝合掌 平成29年5月27日 頓首再拝>
【この地球に修業しにきている】 - 伝統
2017/06/12 (Mon) 04:14:30
*メルマガ「人の心に灯をともす(2017年06月09日)」より
(美輪明宏氏の心に響く言葉より…)
美しい生き方というのは、
たとえば死後にもものすごく影響することだと思うのです。
楽あれば苦あり。
すごく悪いことがあった後に、
ものすごくいいことが起きるようになっている。
この地球という星はそういう場所なのです。
そして私たちの開発途中の魂は、あらゆる人種、職業、容姿、性格と、
あらゆるパターンの人間の人生を、心を、体験し、修業しなければならないのです。
あるときは黒人になったり、白人になったり、あるいは黄色人種になったり。
男になったり、女になったり、私のように真ん中になってみたり(笑)。
いろいろなタイプの人生を何千何万回と生まれ変わり、死に変わり、
輪廻転生を繰り返して体験して生きていかなくちゃいけないのです。
そしてそこで苦労して勉強していく。
「私はどうしてこんなに孤独でひどい人生を歩まなくてはいけないのかしら」
と思っても、実は、生まれる前にあの世で自分でプログラミングして
それを選んで生まれてきたのだから、その人はその人生を体験しなきゃいけない
義務を持っている。
この地球に修業しにきているのだから。
だから文句はいえないわけ。
よく人生に疲れたからといって自殺する人がいるけれども、
これは言ってみれば人生の職場放棄で人生の中途退学なのです。
ですから次に生まれ変わっても、また一からやりなおさなければいけない。
辛い思いをして死んだとしても、結局、また同じコースを生まれかわってきて
同じことを繰り返さないといけない。
だから自殺で死ぬのは痛いし苦しい目にあっただけ骨折り損のくたびれ儲け。
だからどんなに苦しくても辛くても
人生は自然死までがんばったほうがいいということです。
反対に苦労が多い人生でも、前向きにすべてクリアして経験していくと、
優しくて厳しくて温かい思いやりある、自信にあふれた人格へ成長していく。
人間はその美しい姿、完全なる人格、
つまり神と同じ純粋エネルギーに近づくために生まれてきているのです。
あの世ではこの世の権力や地位、肩書なんて何の役にも立ちません。
本当に平等なのです。
魂が純粋で、美しければ美しいほど、それに準じ比例した高いところにいける。
真っ黒で汚くて、恨みつらみ憎しみで想念が固まり、
ストップしたままあの世で暮らすなんて嫌でしょう。
だからこそ、私は現世で、ウォーミングアップとして
まず心の優しさ温かさ美しさを、といつも呼びかけているのです。
そう、未来永劫(みらいえいごう)、
この世でも平和で安らかで美しく生きていくために…。
<『美輪明宏 天声美語』講談社>
・・・
「生まれる前にあの世で自分でプログラミングしてそれを選んで生まれてきた」
と、肚の底から納得できるなら、人生におけるすべての嫌な事や面倒なこと、
つらいことに対して、文句を言ったり嘆(なげ)いたリすることはできない。
なぜなら、「それら問題に遭遇し、それを乗り越える」、
というプログラムは誰あろう自分自身で作ったのだから。
このことがわかると、どんなことも、
「人のせい」や「まわりのせい」にすることはできない。
人生における「いいこと」も「悪いこと」もすべて自分にとって
必要なジャストのタイミングで起こる。
これは人との出会いも一緒だ。
森信三先生はそれを、
「人間は出逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬遅からず、一瞬早からず」と言った。
我々は、「この地球に修業しにきている」。
修業とは、生まれたときよりも、少しでもましな人間になって
あの世にいくことであり、人間性を磨くこと。
この地球での修業を真剣に楽しみたい。
<感謝合掌 平成29年6月12日 頓首再拝>
【今世この世に来た意味がある】 - 伝統
2017/07/02 (Sun) 03:49:04
*メルマガ「人の心に灯をともす(2017年06月27日)」より
(北川八郎氏の心に響く言葉より…)
《釈尊はいわれる
生きとし生ける者どもは死ぬであろう。
生命は終(つい)には死に至る。
人は、作った業に従って赴(おもむ)き、それぞれ善と悪の報いを受ける。
老いた人々も、若い人々も、その中間の人々も順次に去って行く。
熟した果実が、枝から落ちてゆくように。
昼夜は過ぎ行き、人間の寿命は尽きる。
男も女も幾百万人と多くいるが、財を蓄えたあげく、死の力に屈する。
いくら財を蓄えても、最後には生命の方が尽きてなくなってしまう。
高い地位・身分も終には離れてしまう。
歩んでいても、止まっていても、人の命は昼夜に過ぎ去り、とどまりはしない。
たとえ百歳を生きたとしても、終には死に帰着する。》
人の今世に生まれた使命の一つは、
前世の悪しき業を修正し、その痛みと喜びを学びに来たことだといえる。
だから、釈尊はあの世においては、人は今世作った業に応じて
それぞれの住む光のレベルが決まるといわれる。
今の世の善と悪の報いに応じて、あの世の学びのクラスが違ってくる。
人は皆、楽しむ人も、苦しむ人も、嘆く人も、喜ぶ人も、
果実が木から落ちるように寿命は尽き、魂の大海に呑まれる。
多くの人は地位と財を目指すけれど、百年もつことはほとんどなく、
またいくら財を蓄えても、生命の方が先に滅してゆく。
私たちの命の電池はもうあまりないことを知って、あわてず急いだ方がいい。
どんな高い地位も身分も命をそれを捨てて、あの世に赴く。
眠っていても、歩んでいても、笑っていても、TVを見ていても、
止まることなく、昼夜に命の電池は消耗してゆく。
百歳生きても、それは一瞬にして、必ず人は死に帰着する。
いつまでも生きられると思うなかれ。
時の過ぎゆくは、過ぎてみると早いと知る。
今世の善き行為と、悪しき行為の光の明るさによって、
あの世では苦を受け、さらに来世では悪をなした人の立場が替わり、
与えた苦を自分が受けて、その苦の深さとつらさと痛さを味わって、
次の世で修正するチャンスを与えられる。
私たちはみな、今世この世に来た意味がある。
財と地位を手にし、快と、野望を果たしに、人間として生を与えられたのではない。
あらゆる、命の尊さ、美しさ、楽しさ、喜びの深さを学びにきているのだ。
<『ブッダのことば 「百言百話」』致知出版社>
・・・
「因果応報(いんがおうほう)」という言葉がある。
善い行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがある、ということ。
しかし、この世に生きている間に、
ひどく悪いことをした悪人に、悪い報いがないということは間々(まま)あることだ。
なんであんなひどい人間に罰がくだらないのか、と思う。
しかし、釈尊は、それは来世において報いがある、という。
朝比奈宗源(あさひなそうげん)老師の知り合いの僧は、
博打(ばくち)ばかりするひどい人間だったという。
その僧が博打をやって負けて帰ってくると、
宗源老師は「あいつもやがて死ぬやっちゃ」と独り言をいっていたという。
それは、老師が、「しかたのないやつだ…」と諦観(ていかん)して言った言葉だ。
この世では罰(ばち)は当たらないかもしれないが、
あの世でその報いを受けるのに、と。
「私たちはみな、今世この世に来た意味がある」
あらゆる、命の尊さ、美しさ、楽しさ、喜びの深さを日々学びたい。
<感謝合掌 平成29年7月2日 頓首再拝>
すべての経験は、「神」を掘り出す喜びの作業 - 伝統
2017/07/03 (Mon) 03:33:06
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月3日>(P5~P6)より
われらのすべての経験は、自分の内にある「神」を掘り出す作業である。
どんなにそれが失敗したように見えようとも、どんなにそれが深刻であり、
悲惨なように見えようとも、それが深刻であればあるほど、悲惨であればあるほど、
われらの神に通ずる坑道は深く穿たれていきつつあるのである。
深く深く下げていくうちには、やがて広々とした世界に出る。
そこには、もうなんの悲惨もない、常楽のみの世界なのである。
どんな経験も、苦しい経験も、
ただ、われわれは神に近づく掘り下げ方だとして喜ばなければならない。
<感謝合掌 平成29年7月3日 頓首再拝>
安楽な人生を送るために生まれてきた人はいない - 伝統
2017/07/19 (Wed) 04:06:35
*Web:ツキを呼ぶ感謝のことのはブログ(2009年9月16日)より
「人は幸せになるためにこの世に生まれてきています」。
しかし、その一方で、
「安楽な人生を送るためにこの世に生まれてきた人は一人としていない」
のもまた事実です。
なぜかというと、
この世にやってくる前にいたあの世というのはとても安楽な世界なんです。
大概のことが思った通りになります。
しかも思うとすぐに叶い目の前に現れます。
この世とはまた全然違うんですね。
ですから、安楽に過ごしたいのであれば、
この世にやってくる必要はまったくないわけです。
人は、この世に、思い通りにいかないことに巡り会い、
つらく、苦しい思いをするためにやってきているのです。
しかも、そんな安楽な世界から
この世に無理やり連れ込まれてきた人は一人としていません。
すべての人が自分で「どうか行かせてください。お願いします」と
強く懇願してやってきています。
また、この世にやってくるにあたり、
自らの人生で起こることの多くを“自ら決めた上で”
やってきているといわれています。
思い通りにいかない、つらく、苦しいことは誰が決めたわけでもなく、
自分でこうしようと決めたことばかりなのですね。
その多くは、これまで生まれてきて超えられなかった“課題”であるようです。
人は過去に幾度もこの世での人生を送っています。
そして、以前に失敗したにも関わらず、気づきがないがために
何度も同じ失敗を繰り返してきています。
ブライアン・L・ワイスの「前世療法2」には
このような実際の事例が紹介されています。
ダンというアメリカ人の男性は、恋人であるメリールーが
いつも人前で他の男に媚(こ)びを売ることに、我慢できませんでした。
それが何度も続くので、彼はついに嫉妬(しっと)で怒り狂い、
彼女の「首をへし折ってやりたい」とまで思いつめるようになります。
しかし、退行催眠でダンが知ったのは、
過去世で彼が彼女を何度も殺していたという事実でした。
ダンは何度も生まれ変わりをしながら同じ苦しみを背負う人生を送りながら、
繰り返し、繰り返し学ぶ機会を与えられてきたわけです。
彼の課題は彼女を解放し、そして自らを彼女への執着から解放して、
嫉妬の感情から心を自由にすることにあったのです。
自分の目の前に現れることは、
自分が仕掛けた「時限つき体験爆弾」のようなものです。
自分がこの世で体験したいと思うことが時間割ごとに仕掛けられています。
正確には自分で仕掛けてあります。
その課題は貴重な限りある(寿命ある)この世での時間を無駄にしてしまいますので、
必ず自分が超えられる課題のみになっています。
超えられない問題、難題は決して起こらないのです。
そして、その体験、課題は、自分の魂の成長につながることばかりです。
体験をして、そこで「これらのことは自分に必要なことなんだ」
と明るく前向きなポジティブな気持ちになり、すーっと受け入れた瞬間に
課題は“合格”となり、カルマは消えていきます。
自分の前で嫌な、つらい思いの原因になっていた人や事柄さえも、
自分のその体験のためにわざわざ現れていたことに気づく時がやってくることでしょう。
課題を乗り越えた時の歓びのために人はわざわざこの世にやってきているわけです。
ですから、嫌なこと、つらいことがあって当たり前なんだ、
自分が超えられないことはないんだというポジティブな気持ちで、
日々を過ごしてください。
せっかくの良き機会です。
「多くの経験」をしてください。
多くの経験から多くの学びを得て、持ち帰ることが自らの歓びと成長になるのです。
(http://kansya385.blogspot.jp/2009/09/)
<感謝合掌 平成29年7月19日 頓首再拝>
《自分の力で上らねば 真の獲得はない》 - 伝統
2017/08/06 (Sun) 04:01:22
*『 生長の家 』(昭和24年9月27日の法語)より
諸君が高き魂の王座に座(ざ)して、
万人に対して 「 吾(われ)すぐれたり 」
という自信をもち得るためには、
人から押しあげてもらうようなことでは得られないのである。
ケーブル・カーで山の頂上まで上る事ができるにしても、
それはケーブル・カーが上ったのであって、
自分が上ったのではないのである。
それは 唯ケーブル・カーに随伴したというにすぎない。
彼の体力も筋肉力もそれによっては少しも偉大にならないように、
労せずして、高き位置にのぼったにしても
その人の魂の力は 少しも高くなっていないのである。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=31
<感謝合掌 平成29年8月6日 頓首再拝>
ツインソウル - 伝統
2017/08/23 (Wed) 04:43:44
*Web:飯田史彦 研究室へ ようこそ! より
ツインソウルとは、もともとは一つの意識体であったものが、
わざわざ二つに分かれて、別々の肉体に入っていった魂たちのことです。
地球の人口は60億人余り、その中で同じ国に同時代に生まれて出逢うとすれば、
正に神業を超える神業としか言えないでしょう。
そんなツインソウルが出逢った時の惹かれ方は物凄いものがあるようです。
以下、「生きがいの創造」飯田 史彦著よりご紹介します。
最も厳密な意味でのソウルメイトは、
「ツインソウル」(一組の対になって生まれ変わるソウルメイト)と呼ばれ、
苦楽を共にする夫婦であったり、何らかの使命を共に果たす最高の親友で
あったりしながら、身近に生まれて支え合います。
このツインソウルは、他の数多くの普通のソウルメイトたちとは
決定的に異なる、ある重要な特徴を持っています。
その特徴について教えてくれる証言を、二つご紹介しましょう。
D 光に聞いてみてください。「私と夫は、どんな関係なんでしょうか?」
C 「もとは一つだった」
D 「それは、どういう意味ですか?」
C 「一緒に生まれてきては、同時に成長してきている......表と裏......」
D 光に聞いてみてください・「人間は、何のために生きているのでしょうか?」
C 「愛を広めるため......寛容になるため......」
D 「何故私は、何度も生まれ変わっているのでしょうか?」
C 「体験するため......完成という目的に向かって、体験するため......」
D 「何故私は、夫と何度も生まれ変わっているのでしょうか?」
C 「同じソウルだから」
D 「同じソウルって、どういう意味なのでしょうか?」
C 「卵......一卵性......一緒......」
この二つの証言は、たいへん重要な事実を示しています。
それは、ツインソウルが、「もとは一つだった」ということであり、
「一卵性の、同じソウル(魂)」なのだということです。
言い換えれば、もともとは一つの意識体であったものが、
わざわざ二つに分かれて、別々の肉体に入っていったからこそ、
「ツイン(一対の)ソウル」と呼ぶ訳です。
本書で仮に「意識体」と呼んでいるものは、
「個体」ではなく「精神的エネルギー」ですから、
いくつもに分かれた状態で「つながって」おくことが可能なのです。
もともと、私たちの正体である意識体には性別はありませんが、
人間として生まれていく際には、オス(男性)かメス(女性)かの体を
選んで入っていかなければなりません。
したがって、二つに分かれた意識体が、
一方は男性、一方は女性として生まれていき、
やがて出会って夫婦になり、体のうえでは別個の存在であっても、
心(魂)はしっかりとつながりながら、
事実上は「二人で一つの存在」として溶け合い、支え合って生きていくことになります。
この絶対的な一体感こそが、ツインソウルと、その他の普通のソウルメイトとの、
決定的な差になります。
そのため、ツインソウルの相手に出会った場合には、その人生で
初めて、疑う余地のない絶対的な一体感を感じることができるので、
お互いに、すぐに「この人だ!」と判ることでしょう。
逆に、「この人、私のツインソウルなのかしら」と迷ってしまうようでは、
ツインソウルである可能性は低いはずです。
ツインソウルの圧倒的な吸引力は、たとえお互いに別の結婚相手や恋人がいたとしても、
理性では抑制できないほど激しいものだからです。
自分の分身、もう一人の自分に出会うという体験は、それほど強烈な、
その人生で最もドラマティックな一こまになることでしょう。
(http://wellness7755.com/success/cat12/cat166/1_24.html#more)
<感謝合掌 平成29年8月23日 頓首再拝>
【魂を磨き成長すること】 - 伝統
2017/09/07 (Thu) 04:46:50
*メルマガ「人の心に灯をともす(2017年08月23日)」より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
たとえばここに、姉と弟の二人きょうだいがいるとします。
姉は毎月、お給料の1割を貯金しています。
一方の弟はギャンブルが大好きで、
自分のお給料のすべてギャンブルに使っていました。
自分のお給料の範囲内でギャンブルを楽しんでいる間はまだよかったのです。
次第に、お給料の範囲を超えるお金をギャンブルに使うようになり、
借金をつくってしまいました。
弟は姉に言うのです。
「ねぇちゃん、金、貸してくれ」とか。
「きょうだいじゃないか、助けてくれよ」とか。
このとき、姉はどうすべきでしょうか。
いろいろ意見があると思いますが、魂の時代はこうです。
『ふざけんなっ! ギャンブルやったの、アンタでしょ』
そのように思うのが正しいのです。
そして、自分がやったことの責任は自分がとりなさい、と、
弟に教えてあげるんです。
最初のうち、姉は「弟だから」「身内だから」という言葉にしばられて、
弟の借金の保証人になったり、肩代わりをしようとするんです。
それをやってしまうと、「ギャンブルにおぼれて借金をつくり、困る」
という経験を通じて魂を成長させるはずの弟は何も学べません。
そのうえ、姉のほうも運勢が悪くなります。
なぜなら、ギャンブルで借金をつくった弟に「ふざけんなっ!」と言い、
自分がやったことの責任は自分でとらせるということが、
姉にとっての魂の成長だからです。
要するに、両方とも、泥沼から抜け出すことができないのです。
それって冷たくないですか、って、あなたの気持ちはよくわかります。
けれど、お互い、自分がやったことの
責任は自分でとることが「魂の成長」なんです。
他人がやったことの責任をとったのでは「魂の成長」とは言えません。
それをやってしまうと、
結局、助けられたほうも、助けたほうも助からないのです。
両方とも、苦労の人生になってしまうんです。
けれど、そういうことを繰り返しているうちに、
姉は「ふざけるなよ」と思うようになります。
「あの子にお金は貸さないは。
あの子は困っているのではなく、学んでいる最中だから」
「あの子のなかにも自分と同じ魂がある。信じて見守ってあげよう」
そう思えるようになったら合格です。
すると、弟のギャンブル借金問題も消えてしまうのです。
<『絶対、よくなる!』PHP>
・・・
ギャンブル等で借金をつくってしまう人は、
一度は誰かがそれを解決してやったとしても、
たいていまた同じことを繰り返す。
自分でそれを解決していないからだ。
世の中の、自分にふりかかる問題もすべてそれは同じ。
自分に起こった問題を、自分で解決しなかったとき、また同じことが起こる。
なぜなら、学んでいないからだ。
生活習慣病にしても、起きた原因を追求し、それを改めない限り同じことは続く。
つまり、魂の成長がないということ。
我々がこの世に生まれた目的は、「魂を磨き成長すること」。
生きている間に、魂を磨き続け、人に喜ばれる人間になってあの世に往くこと。
自分の魂を磨き続けたい。
<感謝合掌 平成29年9月7日 頓首再拝>
魂の向上こそが、真の成功なのである - 伝統
2017/09/26 (Tue) 03:37:58
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月26日)より
本当の成功は、富を得ることでも、商売の繁昌でもないのである。
本当の成功はその人の人格の完成 ―― 心霊学的に言えば、魂の向上である。
商売の損益や、事業の成否のごときは人生航路上の遊戯にすぎないのである。
勝つも負けるも一場の遊戯にすぎない。
ただその遊戯の上で、人間は性格を形造り、
人格をより完成せしめ、魂を向上させるのである。
商売上の利益も、財産の増殖も築きあげた事業も、
何一つそれらは真の意味においてその人の獲得ではないのである。
真の意味における獲得は、
肉体が死するときにも持って行けるものでなければならないのでのである。
魂の向上、性格の強さや円満、これこそが唯一の獲得である。
<感謝合掌 平成29年9月26日 頓首再拝>
すべての境遇は、魂を向上させる学科である - 伝統
2017/09/27 (Wed) 04:39:54
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月27日)より
われわれは自分が与えられた環境、または境遇から逃げ出そうと考えてはならないのである。
環境、境遇においてあらわれて来る様々の出来事は、自己の人格を鍛錬し、
性格を磨きあげ、魂を向上させるための学科であるのである。
もしわれわれがそれから逃げ出すことによって安易を求めるならば、その人は決して人格を
鍛錬することはできないし、強き性格を築きあげることはできないし、
魂を向上させることはできないのである。
われわれは与えられた環境または境遇と取り組んで、それを征服しえたときにのみ
強き性格を築きあげ、魂を向上させることができるのである。
これはけっして受難を礼讃する意味ではない。
われわれは「難」をも「楽」をも ともに克服しうる人とならなければならないのである。
<感謝合掌 平成29年9月27日 頓首再拝>
喜びの心で、すべての体験を受け入れる - 伝統
2017/09/28 (Thu) 04:15:25
*『生命の實相』第38巻幸福篇下(9月28日)より
この世界は不幸または苦難の連続だと考える人があるけれども、
けっしてこの世界は不幸や苦難の連続ではないのである。
魂の向上のために与えらた体験を避けようと思うときにのみ、
それは不幸と感じられ、苦難と思われるのである。
困難を迎え撃つ態度にかわるとき、
それは悦んで上級学校の科目を教えられる喜びに変わるのである。
体験を通して、魂は何事かを獲得する。
それは釣竿に魚のかかったときのようなスリルであり、
猟師が獲物を得たときのような喜びを獲得することができるのである。
人生の行路を険しいと言って嘆いてはならない。
それをハイキングの喜びやスキーの楽しみにかえるのは
それを受ける心の態度である。
<感謝合掌 平成29年9月28日 頓首再拝>
【自分の魂を成長させる方法】 - 伝統
2017/10/12 (Thu) 04:06:50
*メルマガ「人の心に灯をともす(2017年09月15日)」より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
生きていると、いろいろな問題が出てきます。
そして、問題が出てくると、たいてい、人は悩んだり、苦しんだりします。
でも、問題というものは、自分の魂を成長させるためのものなんです。
人間は、自分に起きた問題を利用して魂のステージ、
いわゆる「霊格」をあげていきます。
ただ、ほとんどの人は、自分の魂をどうやって成長させるかを知らない。
それどころか、目の前に起きた問題が自分の魂を一つ上にあげる階段だ
ということも知らない人も多いんです。
だから、苦労したり、悩んだりするのです。
でも、私はなぜか、昔から知っていました。
問題が起きたとき“魂を成長させる方法”というのがあることを。
魂を成長させると同時に、その問題を解決してしまう方法があるということを。
その方法はたった一つです。
たった一つの方法で、全部の問題が解決できます。
それは、感謝です。
なにか一つ問題が起きたとき、
多くの人は「なぜ、こんな問題が起きたんだろう」と考えます。
理詰めで考えると、いろいろな原因が思い当たるでしょう。
でも、魂的な視野からいうと、自分に起きる問題は
「自分の感謝のなさ」を教えてくれるものとして出てきています。
だから、上司が自分にいやがらせをするのだとしたら、
いやがらせをしない同僚やなんかに感謝が足りなかったのです。
感謝の反対は「当たり前」。
同僚たちがいやがらせをしないのは当たり前だと思っていた。
ということは、感謝を知らないのです。
だから、病気になったのだとしたら、
からだに感謝することを知らなかったんです。
それの「気づき」のために、どこかからだの具合が悪くなる。
それに気づき、他の具合が悪くないところ一つひとつに感謝すればいいのです。
必要な治療を受けながら、感謝すればいい。
そうやって、問題のないところに感謝して、感謝して、
最後に問題そのものにまで感謝できたとき、
その問題は消滅するようになっています。
これはお約束ごとです。
この世は、そういう仕組みになっています。
ということは、問題が起きたとき、
「これは自分が感謝を知らなくて起きたんだ」
と思い、最初から問題そのものに感謝するのが、一番いいんですよね。
でも、最初から問題そのものに感謝するという流れには行かないものなのです。
だから、最初は問題を起こしていない周りに感謝から始めるのです。
周りへの感謝から始めると、やがて、その問題にも感謝できるようになります。
そして、魂が上にあがります。
<『運命は変えられる』KKロングセラーズ>
・・・
感謝の言葉「ありがとう」は、「有り難う」と書く。
「ありがとう」とは、
有(あ)る事が難(むずか)しいくらい稀(まれ)なこと、
奇跡のようなこと、という意味。
だから、感謝の反対は「当たり前」。
「夜寝て、翌朝起きる」、という「当たり前」のことが本当は奇跡のようなこと。
なぜなら、我々が寝ている間も、心臓が、一瞬も休むことなく仕事をし、
血液を送ってくれるからこそ、次の日起きることができる。
心臓も一緒に休んだら、永遠に起きることはできない。
毎日、心臓も、内臓も、目も、口も、耳も、鼻も、
あるいは手や足など、すべての臓器や器官が動いてくれているからこそ、
我々は生きていける。
この当たり前だと思っていることが、
いかに素晴らしいことか、奇跡のような「ありがたいこと」かを普段忘れている。
そして、病気になったとき初めて、この「ありがたさ」に気づく。
「問題が起きたときは、感謝を忘れていたとき」
感謝で、自分の魂を成長させたい。
<感謝合掌 平成29年10月12日 頓首再拝>
人間の地上誕生は、魂を向上せしめんがための神の御意志による - 伝統
2017/10/26 (Thu) 04:22:00
*『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P203) より
《光明思想は魔術ではない》
光明思想は、決して自分の欲する事物を
無条件で何でも得られると云う方法を教えるのではないのである。
若し人間が自己の欲する事物を無条件で何でも得られると云うことになるならば、
人間は正しい努力を為すことを忘れてしまい、ただ享楽と怠惰と貪欲とを事とする
愚かな利己主義者に成りさがってしまうであろう。
人間が地上に生れて来たのは、ある条件の下(もと)に、その条件に適合しながら
困難を克服する努力をつづけることによって、愛を実現し、自己の品性を陶冶し、
自己の能力を開発し、魂を向上せしめんがための神の御意志によるのである。
この神の御意志に反対して、努力もなく、愛もなく、
ただ自分の利己的満足を得んがために、「労せずして効多き方法」を得るために、
「心の力」を使うならばそれは、宗教ではなく、魔術になってしまうのである。
<感謝合掌 平成29年10月26日 頓首再拝>
【人は、なぜ生まれてくるのか】 - 伝統
2017/11/11 (Sat) 03:08:37
*メルマガ「人の心に灯をともす(2017年10月17日)」より
(産婦人科医・医学博士、池川明氏の心に響く言葉より…)
人はなぜ、生まれてくるのでしょうか?
これを子どもたちに聞くと、「人の役に立つため」、
とりわけ「家族を幸せにするため」という答えが多いです。
臨死体験をされた方々の複数の証言によると、
死後、閻魔様(えんまさま)の前で聞かれるのは、
次の2つのことだけだとも言います。
1. 陰徳(いんとく)を積んだか?(人知れず、他人の役に立ったか?)
2. 自分の人生を楽しんだか?
であるにも関わらず、私たちが「生きているのがつらい」
と感じることが多いのは、なぜでしょうか?
私が、多くの子どもたちから集めたお話から解釈するに、たぶん、
「自分がつらい思いをして、それを乗りこえたときに、
魂はそれを“楽しい”と喜ぶ。そしてつらい思いをしたからこそ、
同じようにつらい思いをしている人の役に立つことができる」
からだろう、と思います。
つまり、ずっと幸せかつ平穏に過ごしているだけの人は、
他人の心に寄りそえないし、
魂も、実は「それで楽しい」とは思わないようなのです。
つらさのただ中にある人は、
実は、同じようなつらさを経験したことのある人の助言しか、
真剣には聞かないものです。
なので、そのためにもつらい経験をする必要がある、
苦労する必要があるのかな、とも思います。
実は、子どもたちに聞いた、空の上で暮らす魂の日常は、
すごく穏やかで、平和で、幸せなのだそうです。
着るものにも、食べるものにも困らない世界で、
食べようと思えば、いくらでも食べられて、ダイエットの必要もない、
すごく良いところなのだそうです。
ですので、この世に生まれてくる魂たちは、
“非日常”を求めて…まさにアミューズメントパークに来るような感覚で、
この世に生まれてくるようなのです。
楽園から楽園に移動しても“非日常”は感じられないので
…それでこの世は、制限が多く、つらいことも多い世界なのでしょう。
また、空の上と、この世とでは、どうも時間の流れも違うようです。
空の上は時間がすごくゆっくり流れていて、地上は速いのです。
私たちの100年と、赤ちゃんとして過ごした数週間とか数日間は、
あちらの世界に戻るとそう変わらない、と多くの子が証言しています。
空の上では、時間という概念がないのだけれど、
あえて言うと、時間がものすごくゆっくり流れている、と。
だから地上に生まれて来ると、魂の成長が、
空の上にいるときよりもはるかに早まるのだそうです。
いわば、この世は、魂レベルの促成栽培地なのです。
空の上では、小学校1年~6年までに千年かかるのに、
地上では6年で済むとか、
そういった感覚で考えていただけると良さそうです。
ですから、お得なのです。
だから、みんな、地上に来たがるわけです。
ですから、「早く魂を成長させたいな」という人が
優先的に生まれて来ているとも言えます
(実際は、そうした成長とは無関係に、この地上に、
ただただ多くの刺激や体験を求めに来ている魂も少なくないようですが)。
<『ぼくが生まれてきたわけ』KADOKAWA>
・・・
池川氏はこう語る(同書より)。
『子どもが望む愛、注いでほしい愛って、何なのでしょうか?
これがけっこう難しいんですけど、長年調べてきてわかったのは、
それはどうも「笑顔」のことのようなのです。
お母さんの笑顔。
妊娠中にニコニコしていて、生まれたとき、赤ちゃんの顔を見てはニコッとして、
その後、子どもが大きくなって「ねぇ、ねぇ、お母さん」って言ってきたら、
「なあに? 」ってニコッと笑う…これが愛情なのです。
愛情イコール、笑顔だったんですね。
でも、たいていのお母さんは、妊娠中からしかめっつらをしています。
病院で、これをやっちゃダメ、あれをやっちゃダメって言われますからね。
食事や行動も制限されて…具合は悪いし、旦那は理解に乏しいし。
そうして苦労して生んだ後は、赤ちゃんは泣きますし…さんざんなんですね。
そういうお母さんを、お子さんから見ると、
お母さんは、いつも眉間にしわを寄せていて、つらそうな顔をしているんです。
子どもは、自分が生まれて、お母さんが笑顔になるのを期待しているのに、笑顔にならない。
すると、自分は生まれちゃいけなかったかな、と思うんです。
それで、少し大きくなってくると、今度は怒られるわけです。
「あんたが、こんなことをするから! 」
「あんたさえいなけりゃ、お母さんは苦労しないのに! 」とか。
そうしたら、「もう空に帰ろうかな」と思う子も出てくるのです』
人生はジェットコースターのようなものだという。
山を乗り越えると、次は坂を猛スピードで下(くだ)る。
すると、また次の山がある。
苦しいことも同じで、乗り越えたと思ったら、また次のイヤなことがやってくる。
しかし、何度も何度もその山や坂を越えていくと、
だんだんとそのアップダウンの傾斜は緩やかになってくる。
我々は、そのジェットコースターに乗ることを、自ら選んで生まれてきた。
目の前に起こるできごとを、すべてそのように考えると不平や文句は言えなくなる。
陰徳を積み、笑顔で人生を楽しみたい。
<感謝合掌 平成29年11月11日 頓首再拝>
問題は魂の向上のためにある - 伝統
2017/11/26 (Sun) 03:33:00
問題は悩むためにあるんじゃない
*「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
~斎藤一人・著(P79~80)より
よく「ひとりさんは悩み事ってないんですか?」って聞かれるんだけど、
悩みがないのと問題がないのとは違います。
私にもいろいろと問題は起こるけど、それを悩み事とは捉えません。
そもそも、問題って誰にでも起こるんです。
なぜかというと、それが魂の向上のために必要だから。
問題のない魂って、向上する必要がありません。
そもそも、そういう魂は生まれ変わってこないんです。
私たちはみんな、未熟で修行が必要な魂なんです。
だから失敗もするし、問題も抱えます。
でも未熟ということは、完成されていないということです。
だから、まだまだ成長することができます。
私たちは、問題を悩むために生まれてきたのではありません。
問題を解決するために生まれてきたのです。
そして、その問題を解決したとき、魂が成長するようになっているんです。
それと、解決できない問題は出てきません。
神様はあなたに解決できる問題しか与えないんです。
もしあなたが今、悩んでいるんだとしたら、
それは「魂を成長させるときですよ」という合図です。.
だから「この問題で自分の魂が成長する解決策ってなんだろう」
って考えてみてください。
きっとあなたの中に、その答えは隠されています 。
<感謝合掌 平成29年11月26日 頓首再拝>
一層高い魂の段階に - 伝統
2017/12/13 (Wed) 04:57:32
*「真理」第九巻生活篇(P282~283)より
今までのすべての祈りが「執着の固まり」であって
羞(はず)かしいことであったと気がつくときが来るのである。
その羞(はず)かしは魂の側(がわ)から見れば
獲得であり、向上であり、進歩である。
物質の獲得は、それが獲得されたと有頂天に達したときに
魂が退歩していることがある。
併し心の修行は、最初は単なる「執着の解放」だけを目標にしていると、
まだ幼い魂たちは近寄って来ることができないから、
心の修行の最初の一過程として「祈りによって希望を実現する一科目」を
課するのである。しかしそれは卒業されなければならない過程である。
心の力を知るに従って、物質が単に心の表現であって、
物質そのものは「無」であることを知り、物質に対する執着を去り、
更に自分の魂に於いて実相を完全に把握すると云う無形の獲得の方が、
もっと貴(とうと)いお蔭であることを悟ることが出来る
「魂の一層高い段階」に達する時期が来るのである。
<感謝合掌 平成29年12月13日 頓首再拝>
【なぜ私たちはこの世に生まれてきたか】 - 伝統
2017/12/31 (Sun) 04:16:13
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2017年12月07日)より
(江原啓之氏の心に響く言葉より…)
なぜ私たちはこの世に生まれてきたか。
それは前世でやり残した課題をクリアするため。
今までのたましいの歴史において、自分の短きところである短所は補い、
長きところである長所は伸ばし、たましいをより磨こうと
決意して生まれてきています。
そのための課題となるカリキュラムを自分でちゃんと決めているのです。
そして、私たちはカリキュラムを一番よく学べる学校として
家系や家族を、自らで選びます。
例えば、自分に何かしら学ぶべき課題があって、
そのために酒乱の父親がいる家庭を選んでくるといったこともあるでしょう。
前世の因果に、家系の因縁もあって、
現世に生まれてきているのが、今の私たちです。
そして今の自分の運は、「前世の因果」「家系の因縁」という成分を含んで、
因果果として運ばれてくる運というわけ。
ですから、学ぶべき課題として
自分を成長させるような運が運ばれてくることもあるのです。
私たちがこの世に生まれてきた理由を考えてもわかるように、
その多くは自分の短所を見つめる運と言えるでしょう。
だからといって、それが単純に不運ばかりだと言えないのが難しいところ。
例えば、宝くじに当たるということを例に考えてみましょう。
多くの人は、宝くじに当たることを良運だと思うでしょう。
しかし大金が当たってその後の人生が不幸になった人の話は
枚挙にいとまがありません。
これが、身勝手なことをインスタントに選んでしまうという課題を
クリアするために、運ばれてきた運だとしたら?
単純に良運だとは言えないのではないでしょうか。
また、離婚する夫婦は、最初から離婚など予想せずに結婚するはずです。
結婚したときは、「いい人と出会えて運がよかった」と思っても、
結果的に離婚となれば、「その相手との出会いは不運だった」と
なるのでしょうか?
結婚というものに憧れて相手をよく見ていなかった幼稚さや、
妄想で結婚してしまった安易さがあったとしたら、
その短所は前世からやり残した課題。
それが離婚という形で浮き彫りになっただけのこと。
しかし自分の短所を知り、改善することで自分が成長したなら、
結婚も離婚もたましいの視点から見れば
運がよかったと解釈できるのではないでしょうか。
前世というたましいにおける過去のよい行い、悪い行い、
それらを清算するために運がやってくるとしたら、
幸運と見せかけた不運、不運と見せかけた幸運、様々にあることでしょう。
ですから、現世だけでなく霊的世界の視点も持たなければ、
本当の意味での運は読み解けないのです。
<『運命を知る』PARCO出版>
・・・
経営学者で福島大学元教授の飯田史彦氏は、経営学の見方から、
「生まれ変わり」について述べている。
「生まれ変わり」など絶対にない、怪しい考え方だと固く信じている人が、
亡くなったあともし「あの世があった」としたら、
がっかりして、絶望的な気持ちになる。
数字的に言えば、ー1。
反対に、「生まれ変わり」があったら楽しいなと思っている人が、
亡くなってあの世に行ったときに「あの世があった」としたら、
思った通りだとうれしくなり、幸せな気持ちになる。
これは、+1。
そして仮に、「あの世がなかった」としても、
何もないのだからプラスもマイナスもない、「ゼロ」。
つまり、「生まれ変わり」を信じた方が+1で、得だということ。
あの世があるかどうかは誰もわからない。
しかし、あると思って努力した方が確率的に言っても得。
我々が生まれてきた意味は、生まれたときよりも、
少しでもましな人間になってこの世を去ること。
自分に起こるすべてのことがらは、
自分の成長のために「自らが選んだこと」と深く得心すれば、
どんなことも乗り越えられる。
毎日、自らのたましいを磨きたい。
<感謝合掌 平成29年12月31日 頓首再拝>
《同じ問題でも受け方で魂の向上が異う》 - 伝統
2018/01/15 (Mon) 04:42:22
*『 生長の家 』(昭和23年3月2日の法語)より
かりに或る人が泥棒に着物をとられたとする。
甲は それに対して嘆き かなしみ失望し落胆する。
併し乙は それに発奮して、
とられた以上のものを稼ぎ出そうとして 大いに仕事に努力する。
丙は 俺もとられた、だから取り返してやれと思って
自分も泥棒になる。
丁は 自分の不注意に気付いて
今後の生活をもっと慎重にする。
戊は 自分の不注意に気づいて
一層 謙遜になる。
広島の宮田講師は 「 自分の着物は 余っているのであるから
自分で持って往って差し上げたいと思っていたのに、
取りに来て下さって有難い 」 と合掌した。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13098489.html?type=folderlist
<感謝合掌 平成30年1月15日 頓首再拝>
困難は、吾が魂を磨く《やすり》である - 伝統
2018/01/22 (Mon) 03:15:42
*「光明法語」(1月22日)より
《困難、困難に非ず》
あらゆる見せかけの困難はすでに困難ではないのである。
吾は何事は起って来ようとも神之(これ)を解決し給うことを信ずるのである。
如何なる出来事もこの信念を打ちこわすことは出来ないのである。
吾は目の前に起って来る如何なる困難をも呪(のろ)いはしないのである。
すべての困難は吾が魂を鍛え上げる鍵である。吾が魂を磨く《やすり》である。
吾が魂が鍛えられ、磨かれ、光輝燦然と輝く様になった時、
もはやそのようなあらあらしい砥石は自分の魂に不必要になって来るのである。
従ってそのような困難は消えてしまう。
<感謝合掌 平成30年1月22日 頓首再拝>
私たちはすごく長いスパンで「魂の修行」をしています - 伝統
2018/02/03 (Sat) 04:21:45
*「大丈夫だよ、すべてはうまくいっているからね」
斎藤一人・著(P87~89)より
虎を捕まえるより、罠を売ったほうが儲かる。
人が困難や、なにかに立ち向かおうとするときに、
必ず「勇気」というものが必要になります。
でも中には、その「勇気」が出ない人もいます。
それで、その「勇気が出ない人」はダメかというと、そうではありません。
勇気が出ない人は「勇気が出ない」という才能なんです。
そういう人は安定を求めます。
そして、その安定の中から魂を成長させる人なんです。
だからちゃんと真面目に会社勤めをして、そこの中でしあわせになって、
そして魂を成長させればいいんです。
いくら「これやったほうがいいよ」と言ってもやれない人は、
そのことを「やれない」という才能なんだよね。
あなたの最高のしあわせのために、
「やれない」とか「勇気が出ない」とかそういうことが、
あなたの中に組み込まれているんです。
そういう人は自分のできることの中で魂を成長させていると、
結果は必ず良くなります。
「大きな目標」を追い求めるのも才能だけど、
「小さなしあわせ」を追い求めるのも才能なんです。
だから、それを否定するより活かしたほうが、必ずうまくいきます。
私の話を聞くだけで、なにも行動や実践をしない人がいるんだけど、
それはそういう「段階」なんです。
今、その人は「聞く段階」だから、今世は聞くだけでいいの。
知るだけでいいの。
行動できる人は「行動する段階」なんです。
それで、行動できない人はまた来世があります。
私たちはすごく長いスパンで「魂の修行」をしています。
だから、死んでも大丈夫だし、臆病でも大丈夫なんです。
勇気がある人は虎の穴に入って、虎の子どもを捕まえてくることができます。
でも勇気のない人は罠をしかけるんです。
それで、虎を捕まえに行くよりは、罠を売ったほうが安全で儲かります。
臆病だから成功できないんじゃないの。
臆病は臆病を活かせばいいんです。
それを「勇気がなければいけない」
「努力家じゃなければいけない」
「やり始めたことは途中でやめちゃいけない」
っていうのは間違いだからね。
途中でやめないで続けられる人は、それはそれで才能です。
だけど、私のように続かない人もいるんです。
だから続かない人は、その「続かない」という才能を活かせばいいんだよね。
人はそれぞれ容姿も性格も「才能」も違うよね。
持って生まれた「才能」はしっかり活かすんだよ。
<感謝合掌 平成30年2月3日 頓首再拝>
【自分で決めたストーリー】 - 伝統
2018/02/14 (Wed) 03:07:00
*メルマガ「人の心に灯をともす」(2018年01月15日)より
(斎藤一人さんの心に響く言葉より…)
定めの話ってすごく難しいんだけど、
簡単に言うとね、私たちはあの世にいるときに、
自分で自分のストーリーを決めてくるんだよね。
生れてくる前に、神様と相談して、
今世(こんせ)どういうふうに生きていくかを決めてくるの。
運命っていうのを決めてきちゃってるんだよね。
これを「定め」って言うんです。
その定めのなかで今世、魂の修業を通して自分を高めていくの。
もちろん、この世にきてしっかり魂を磨いてよくなる人もいれば、
うまく修業できずに悪くなっちゃう人もいるんだよね。
同じ出来事でも、肯定的にとらえる人と否定的にとらえる人がいるからね。
それによって、
人生ってあらかじめ描いてきたものとは違ってきちゃうんです。
良くも悪くも変えることができるの。
強い意志を持てば、決めてきたストーリーよりもうんとよくなるし、
その反対もあるってことだよね。
<『奇跡を起こす大丈夫の法則』(舛岡はなゑ)マキノ出版>
・・・
人は生まれる前に、自分の人生の脚本を書いて生まれてくるという。
それが斎藤一人さんのいう「定め」。
人生を舞台とするなら、脚本を書くのも自分だし、それを演じるのも自分。
たとえば、インフルエンザにかかってしまったとする。
それを「その程度ですんで良かったね」というと、
「いやいや、ホント大変だったんだよ、ツイてない、最悪だよ嫌になっちゃう」
というように返す人がいる。
「インフルエンザにかかる」というシナリオを自分で書いてきたのに、
「この程度ですんで良かった、ラッキー」と思うか、
「最悪だ、嫌になっちゃう」と思うか。
どちらの方が、
周りの人の気持ちを明るくするか、ほっとさせるかは言うまでもない。
不平不満や、愚痴や泣き言を言わない人は、神様から好かれる。
神様から好かれれば、
決めて来たストーリー(脚本)よりも、人生はうんとよくなる。
それが、おかげさまの気持ちと、感謝が多い人。
神様から好かれる人を目指したい。
<感謝合掌 平成30年2月14日 頓首再拝>