伝統板・第二

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山田方谷 - 夕刻版

2016/05/24 (Tue) 17:32:38

   *光明掲示板・伝統・第一「山田方谷」からの継続です
    ( → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=93


《山田方谷の貫いたもの》

         *「致知」2016年2月号(P69~70)より
          樋口公啓(東京海上日動火災保険名誉顧問)
          矢吹邦彦(吉備国際大学元教授)


(矢吹)

方谷は53歳で元締役を辞すまでの8年間で10万両の借金をなくし、
逆に10万両の蓄財をしたわけですが、それがスムーズに進んだわけではありません。
 
特に重役たちの反発は半端ではありませんでしたね。
 
門閥で固められた上級武士を差し置いて財務大臣のポストに大抜擢されたわけですから、
驚きが怒りに変わるのも分かる気がします。

常に暗殺計画が囁かれ、こんな狂歌まで生まれました。

 山だし(山田氏)が何のお役にたつものか
 へ(子)曰はくのやうな元締
 御勝手に孔子孟子を引き入れて
 なほこのうへに唐(空)にするのか


(樋口)
 
しかし、方谷は挫(くじ)けることなく淡々と改革を進めておりますね。
 
私は改革を成功させる上で、「方谷の言は余の言」として
絶対の信頼を置いた勝静の存在がとても大きかったのではないかと思っているんです。
 
もちろん、改革の根底には方谷流の誠意中心主義、利よりも義を優先させた王道主義、
それに基づいた客観的な現状認識力と洞察力があったことも忘れてはならないでしょう。


(矢吹)
 
重臣の中には、方谷を独裁者呼ばわりする者もいました。
ところが、方谷自身は改革を終えると引退を申し出ているんです。
 
藩としては辞められては困るわけですから、
結局、元締役は辞めても参政は続けるというおかしな形になってしまう。
 
方谷が本当に独裁者なら、権力に固執したはずですが、
反対に方谷にはある種の厭世観すらあったようですね。


(樋口)

そこには師の丸川松蔭の影響もあったのではないですか。


(矢吹)
そうでしょうね。松蔭は天下の江戸幕府から招聘されながら、
「自分はお世話になった新見藩に仕える」と云ってさっさと帰郷している。
方谷の出処進退のよさは師匠譲りなのでしょう。



《備中松山藩はなぜ潰されなかったか》

(矢吹)
 
方谷が行った藩政改革のほかに忘れてはならない方谷の功績として、
備中松山城の無血開城が挙げられると思います。
 
戊辰戦争に敗れた徳川慶喜は板倉勝静を従えて大坂から江戸へと奔走する。
 
朝敵となった備中松山藩へは征討軍が押し寄せる。
 
藩主不在の中、抗戦か恭順かという選択を
迫られた方谷が下した結論が無血開城でした。
 
この時、方谷には自分一人の首を差し出して
藩民を無傷のまま救おうという覚悟があったようです。


(樋口)
そのとおりですね。


(矢吹)
ただ、私はここでもある疑問を感じるんですね。
 
備中松山藩はいわば最初の朝敵です。
だとしたら、なぜ征討軍は徹底的に藩を潰して勝利の凱歌を全国に轟かせなかったのか。
 
当時、備中松山藩には正兵500名の他に
最新西洋銃の訓練をした1200名ほどの農兵がいました。
それを取り囲んだ征討軍は3000人足らずです。
 
もし、方谷が反旗を翻していたら、征討軍はすぐに負けていたでしょう。
実際、方谷に教えを受けた河井継之助の長岡藩の西洋式軍隊1500名は、
10倍もの数の薩長征討軍を6度も敗走させていますからね。
 
私はもしかしたら、
「いま備中松山藩と戦っては負ける。
方谷は話せば分かる人だから、無血開城に持っていけ」
と指令が出たのではないかと考えています。


(樋口)
無血開城に関連して申し上げますと、
私は熊田恰(あたか)の話がとても心に残っております。
 
熊田恰は戊辰戦争で勝静の親衛隊長でしたが、
勝静から帰藩を命じられ、158名の兵を伴って船で玉島(現・倉敷市)に着きました。
 
この報を受け備前藩の藩兵は熊田の軍を取り囲むのですが、
熊田は、「自分一人が責任を取る」と言って1月22日に自刃し、
他の兵士たちの命を救うんですね。

方谷という人もまた生涯に幾度も死を覚悟したことがあったでしょうけれども、
私は方谷に関する本をたくさん読む中で、
「熊田恰の代わりになれるものならなりたかった」
という方谷の思いをひしひしと感じるんです。

(中略)


(樋口)
方谷が文字どおり命懸けの立て直しを行った後、次のような漢詩を読んでいます。

「十歳の経営身の為にせず
 大倉の積粟む已に陳陳たり
 却って嗤う八口の生計に苦しむを
 僅かに荒蕪を墾して少民に伴なう」

藩の立て直しに苦心すること10年。
その間少しも我が身のためにしなかった。

貯蔵の藩米は倉の中に積み上げられ、
財政もゆとりのあるものとなったが、
我が家8人の生計はあべこべに窮屈になったのは皮肉なことだ。

このたび荒れ地を開墾して、やっと小百姓の仲間入りをすることになった。――
 

これからのリーダーに求められるのは、

方谷の貫いた保身を顧みない。
 
この強い覚悟なのかもしれません。


            <感謝合掌 平成28年5月24日 頓首再拝>

山田方谷(誠に生きた藩政改革の巨人)~その1 - 伝統

2016/05/28 (Sat) 18:44:44


           *『祖国と青年』平成22年8月号  より


《事の外に立ちて事の内に屈せず》

幕末期の陽明学者山田方谷の魅力について、安岡正篤氏は

「古代の聖賢は別として、近世の偉人といえば、私はまず山田方谷を想起する。
この人のことを知れば知るほど文字通り心酔を覚える」と述べている。

山田方谷は文化二年(1805)に備中松山藩(現在の岡山県高梁市)に誕生、
幼い頃から学問に励み、京都に三度遊学して学問を深め、更には江戸に赴いて佐藤一斎に学び、
帰国後藩校有終館学頭(校長)に任じられた。

その後、藩財政の再建を任せられ、見事に成功を収め、その手腕と実学は全国に鳴り響き、
長岡藩の河井継之助は方谷を唯一の師と仰いで、備中松山迄学びに訪れた。

方谷は、幕末期最後の老中となった藩主・板倉勝静公を補佐する。
大政奉還上奏文の起草は方谷が行った。

維新後は、松山藩の存続に力を注いで成功し、新政府からの財務大臣就任の要請を断って、
郷土の子弟教育に晩年は尽力し、明治10年(1877)に73歳で逝去した。

            <感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>

指導者方谷の経世哲学 - 伝統

2016/05/31 (Tue) 18:02:39


           *『祖国と青年』平成22年8月号  より

嘉永二年、松山藩では板倉勝静公が新しい藩主に就任、十二月には自らの学問の師である
有終館学頭の山田方谷を元締役兼吟味役(藩の財務大臣)に任命した。
方谷四十五歳の時である。

松山藩は5万石の藩だが、実質は2万石しかなく、
借財は積り積って10万両(現在の約600億円)に達して居た。

方谷は、確固たる哲学の下、次々と手を打ち、利益は3年にして1万両(60億円)
4年目には5万両(300億円)に迫り、わずか7年で藩政改革を成し遂げ、
全ての借財を終え、更に10万両の余剰金迄を生み出した。

方谷は佐藤一斎に学んでいる時に「理財論」という経済論を、
帰国後「擬対策」という政治論を執筆しているが、
その中にこの藩政改革の基本的な哲学が記されている。


   それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて、事の内に屈せず。
   しかるに今の理財者は悉く財の内に屈す。

   (良く天下の仕事を為す事が出来る者は、物事の外に悠然と立って物事を考察し、
    物事の渦中に取り込まれる事は無い。それにも拘らず、現在の財務担当者は総て
    財政の事しか考える事が出来ずに袋小路陥っているのだ。)


と指摘し、太平の中で唯一財政赤字の克服について毎日毎日議論しているが、
結局、打開策は見出せずに歳月を空費しているだけである。と現状を厳しく批判する。
そして、


   人心は日に邪にして正すこと能はざるなり。風俗は日に薄くして敦きこと能はざるなり。
   官吏は日にまみれ、民物は日に弊るるも検すること能はざるなり。
   文教は日に廃れ、武備は日に弛むも、これを興しこれを張る能はざるなり。

   挙げて問ふ者あれば、すなはち曰く、財用足らざれば、奚んぞここに及ぶに暇あらんと。
   嗚呼、この数者は経国の大法にして、舎きて修めざれば綱紀ここに於てか乱れ、
   政令ここに於てか廃れ、財用の途もまたはた何に由りてか通ぜん。

   (人心は日に日に邪悪になって正す事が出来ない。風俗は日々軽薄に流れ敦くならない。
   役人は汚職にまみれ、民百姓が倒れて困窮する事の原因も追究出来ない。
   日に日に文教は廃れ、軍備は疎かになっている。

   それらについて尋ねる者があれば、お金が無いから対策する余力が無いと言い逃れする。
   ああ、これらの事は「経国の大法(国家経営の重要問題)」であって、これを除外して
   政治を行えば、国の綱紀は乱れ、政令は廃れ、貨財運用の方途も行づまるのである。)
                                  〈「理財論」〉


それ故、今の者達は「財の内に屈する者」だと言う。
更に、方谷は、「君子は其の義を明らかにして其の利を計らず。」
「利は義の和」との言葉を引用して抜本的な国家経営の建て直しこそが、
財政再建への道である事を指摘している。

又、方谷は財について『古本大学講義』の中で次の様な考えを示している。

   ●絜矩に因り財用を制すれば、争も奪も起こらぬものなり。

   (物事の明確な基準を立てて財を運用すれば、争いも奪い合いも起こらない。)

   ●自然の誠意より出でて、財を積み国を富ませば王道なり。
    権謀術数を以て、国を富ませば覇術なり。

   (自然の真心に随って財を生み出し国を富ませる事が出来たなら王道であり長続きし、
    権謀術策によって国を富ませたなら覇道であって長続き出来ない。)

   ●財は天下に広めて、天下万民の用をなすに非ざれば、真に財を生ずるに非ず。

   (財は天下に広めて巡回させ天下万民の役に立たなければ、
    真に財を生み出した事にならない。)


方谷は、物事を為し遂げる信念ともいうべき人生観を確立していた。

   ●天地間如何なる大功業も、時に遭ひ運に遭ひ、
    自然の道義より出づれば、出来ざることなし。(『孟子養気章講義』)

   ●国家を治むるは、徳に非ざれば不可なり。才智の能く為す所に非ず。(服部膺手記)

   ●大事を成すは、大義と細謀と、兼ね行はれざれば遂ぐること能はず。
                             (『続資治通鑑綱目講説』)

            <感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝>

わずか7年で藩を蘇らせたその手腕 - 伝統

2016/06/03 (Fri) 18:49:47


           *『祖国と青年』平成22年8月号  より

この様な、考えの上に立って方谷は、藩政の抜本的な建て直しに着手して行った。
それは、次の様な内容だった。

(1)【実態の解明と情報の公開】

   年間五万両の支出に比し収入は三万両弱、二万両の構造赤字、
   藩の財政規模の倍に相当する十万両の借金、利息は一万三千両に及ぶ実態を解明。


(2)【負債返済猶予の相談】

   大阪に自ら乗り込み、商人達の前で実態を説明すると共に緻密な返済計画を示し、
   借金返済延期を要請。方谷に対する人間的な信頼が生じ了解を得た。


(3)【藩札の信用回復】

   信用の失われていた旧藩札を回収、高梁川河原で全て焼却して
   財政立て直しの強い意思を内外に示し、
   その上で健全財政を裏付けとする新藩札を発行。


(4)【地場産業の振興・物品販売方策の確立】

   藩の事業部門「撫育方」を新設して専売事業を推進、
   大坂蔵屋敷は廃止、米は藩内で貯蔵して直接全国に販売。

   時代の潮流に乗った産業政策を振興、煙草・ゆべし・檀紙等地場産業を育成、
   道路の拡幅、河川改修等の公共投資。

   鉱山を直営とし、鉄製品等特産品を育成、三本刃の「備中鍬」が大ヒット。
   江戸の大火に際し「鉄釘」を大量供給。船を保有し江戸へ直送。


(5)【人心の掌握 撫民政策】

   道路や水利の整備、凶作に備え領内40余ヶ所に貯倉設置
   (嘉永六年の日照り災害の際、死者が出ず、農民は方谷を「生き神様」と慕った。)、
   目安箱を設置、賄賂を禁じ、賭博や盗賊の取締りを厳しくした。


(6)【人心の刷新】

   中級以上の武士と豪農を対象に節約令・贈答禁止・上下節約
   (穀禄を減ずる・贅沢禁止・贈答禁止・役人饗応禁止)、
   方谷は家計簿を他人に管理させて範を示す。


(7)【士風の刷新】

   時代に対応出来る軍事力の整備、近代的な銃陣、洋式砲術を採用し
   軍制改革、農兵の組織化・嘉永五年「里正隊」を結成し、幕末有数の強兵となった。


(8)【文教振興】

   人材を養成すべく文武奨励の為、学問所、教諭所、寺子屋、私塾など、
   を75カ所に新設した


かくて松山藩はわずか七年で藩政を立て直し、更には十万両の貯蓄を生み出し、
経世家山田方谷の名は全国に轟いた。

            <感謝合掌 平成28年6月3日 頓首再拝>

方谷の陽明学 - 伝統

2016/06/05 (Sun) 19:23:25


ここからは、藩政改革を成し遂げた人間力を生み出した方谷の学問、
特に陽明学について記して行く。

武士の家系であるにも拘らず、菜種油の売買で生計を立てていた方谷の両親は、
天凛の才を持つ方谷に、幼い時から学問を身に付けさせ、
学問の力で藩に取り立てられる事を願っていた。

その両親も方谷十四・五歳の時に相次いで亡くなった。
家業と学問の間で困しむ方谷に救いの手を差し延べたのは藩主板倉勝職公だった。

21歳の時に2人扶持を給され藩校有終館で学ぶ事を許された。
23歳の時に初めて京都に遊学し、寺島白鹿の下で朱子学を学んだ。


この間の方谷の学問に対する強い志が伺われる文章を紹介する。

●父や我を生み、母我を育つ。 天や吾を覆い、地吾を載す。 
 身男児たり。宜しく自ら思ふべし。  苶々(ぼんやり)として寧ぞ草木とともに枯れんや。

●然りといへども皇考(亡き父)の志は継がざるべからず、
 明主の遇(殿様から受けた待遇)は報ぜざるべからず。
 (略)
 大丈夫の志を立てるは一にかくの如し。
 天下の力を挙げて之を動かすも、未だ以て吾が志を移すに足らざるなり。
    

山田方谷が、陽明学に強く魅かれる様になったのは、
天保四年の三度目の京都遊学の時で29歳だった。

方谷は陽明学の得失を確りと認識した上で、
王陽明の言葉に強く魅かれる事を「伝習録抜粋の序」に記している。

●王の学たる、内に専らにして、約に一なり。
 是を以て其の伝ふるは偏に出で、是を習ふ者は、得あり失あり。

 (陽明学は内面を見つめる事に力を注ぎ、「致良知」に究極を見出すので、
 学ぶ者には得失が生じる。)


そこで、あまり勉強もしない迂闊な者がそれを学ぶと
自分の心を絶対視して慢心が生じる欠陥がある。一方、

●易にして知なる者之に資れば、則ち性を見ること速やかに、理を断ずること果に、
 之を事業に措きて其の効を視るもの、おうおう之あり。是れ其の得なり。

(おだやかで知力がある者が学べば、自己の本性を見出すが速やかで、物事の理を見出す事も早く、
 事業に活用して効果を出す者も往々にして生れる。それが利点である。)


方谷は、得失を弁えた上で陽明学に魅かれて行った。
王陽明語録である「伝習録」を読んだ時の心境を

「口に熟し心に得て、猶ほ空水名月の無間に相映ずるがごとし。
(口に諳んじ心に尋ねると、澄んだ水と明月とが隔てるもの無く映し合う様な境地になる)」
と記している。


京都での学問の積み重ねは方谷に強い使命感を抱かせた。

●天の我を生むや、既に我に与ふるに終身の業を以てす。
 授受よりして之を命と謂ひ、固有よりして之を性と謂ひ、
 之を心に得て徳と謂ひ、之を身に行なつて道と謂ふ。
 天之を用て以て我に与へ、我之を奉じて以て天を全くして、終身の業は畢る。

 (天は私を生み終生尽す業を課せられた。
  それは、「命」であり「本性」であり「徳」であり「道」である。
  私はこれらを奉じて天を全うして生涯の業を終える。)


天保五年、29歳の方谷は江戸に上り佐藤一斎に学んだ。
塾頭に任じられた方谷は、佐久間象山と共に「左門の二傑」と称された。
方谷は佐藤一斎の下で陽明学を深め、自ら体現して行く。

●孟春念五、佐藤翁の門に入る。
 翁の道は、先づ其の大いなるものを立て、華を去り実に就き、
 人をして性命道徳の源に優游自得せしむ。是を以て日にその教へを聞くを楽しむ。

 (正月二十五日、佐藤一斎翁の門下生となる。
  翁の学問は先ず大いなるものを立て、華美を去り実質を重んじ、
  人の性命道徳の根元にゆっくり自得する様に導かれる。毎日先生の教えを聞く事が楽しい。)

            <感謝合掌 平成28年6月5日 頓首再拝>

《激しい求道心・物凄い志気》 - 伝統

2016/06/07 (Tue) 17:53:20


           *『祖国と青年』平成22年8月号  より

《山田方谷の人生哲学を考える場合、その激しい求道心に圧倒させられる。》

方谷は、知人から故郷備中の風土について問われた際、鉄を産する風土が人心をも剛健にし、
鍛え上げれば日本刀より鋭くなると、漢詩を詠んで示した。

   ☆ わが州の風土はもとより雄豪なり  鉄気山にこもって山勢高し  
     さらに人心の剛なることは鉄に似たり  錬磨一たびなれば刀よりするどし
 

又、方谷の剛毅なる精神を示したエピソードとして文久元年三月、
藩主に随って江戸に居た際、愛宕山の麓で喀血した際に詠じた次の漢詩は有名である。

   ☆ 東征に扈従して邸に留まること月余なり。会喀血を患う。
     時に陽明先生の心中の賊を討つの語を思ふあり。因って賦す。
     賊心中に拠り勢ひ未だ衰えず  天君令有り殺して遺す無かれと  
     満胸迸出す鮮鮮の血  正に是れ一場鏖戦の時

血を吐きながら王陽明の「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るは難し」を思い起こして、
心中の賊を皆殺しにする戦いは今であると、自らを叱咤激励しているのだ。物凄い志気である。


又、

「人は浩然の気を養はねばならぬ。此が学問工夫の肝要(重要)なる所なり。」
「学業は、鉄を鍛ふるが如し、一鍛、休むべからず、百錬の剛を成さんを要す。」
「総て学問は、存心、致知、力行の三つなり。」

とも述べている。


江戸在住の頃に体調を悪くした方谷はそれを契機に、以後死ぬまで二十年余酒を断った。
意志の強さはここにも表れている。

            <感謝合掌 平成28年6月7日 頓首再拝>

至誠惻怛、国家の為にする公念より出でん - 伝統

2016/06/09 (Thu) 17:32:20


          *『祖国と青年』22年9月号 より

山田方谷は、学問が自分の日常に結びつかない口先だけの人間を最も嫌った。
「友人某に答ふる書」の中で、王陽明の「人となり」に学ぶ事の重要性を指摘し、
王陽明の言葉を利用して他者を非難する軽佻浮薄な青年を戒めている。


   足下にしてまことに王氏の学に志すことあらんか、なんぞまたしばらく其の言を舎きて、
   其の人となりを学ばざるや。僕が此に来りて、一二の少年が口に王氏を籍る者を見る。
   高論雄弁、以て人を圧するに足る。

   而るに細かに其の人となりを察すれば、
   剛愎自ら用ひ、驕傲不遜、一として法度に合するものなし。
   此れ徒に弁論を務めて、其の人となりを学ばざるの患なり。


   (君が本当に王陽明の学問を志すならば、王氏の言葉は暫く置いて、
   その人となりに学ぶべきである。僕がここに来た時、一・二の少年が王陽明の言葉を
   借りて雄弁に語り他人を圧倒して居た。

   だが、事細やかに彼らの人間性を観察すれば、強情かつ傲慢で一つも尊敬出来る所が無い。
   彼は、弁論にばかり力を注いで他人に勝つ事のみを考え、王陽明の人間性に学び
   自らを省みる事が無いからそうなるのだ。)


山田方谷は、佐藤一斎の下で佐久間象山と勉学を共にしていたが、
才能を誇り他者を見下す象山とは、性が合わなかった。
後に方谷の下に弟子入りした河井継之助の旅日記『塵壷』には方谷の象山評が記されている。


   佐久間に、温・良・恭・倹・譲の一字何れかある。

   (佐久間には、孔子様が備えておられた五徳、温和さ・善良さ・恭しさ・
    つつましさ・謙譲さのその一つも無いではないか。)


方谷は、京都在住の陽明学者春日潜庵と親交を結んでいた。
春日潜庵は薩摩の西郷南洲が尊敬し、門弟達を送り込んだ事で有名な学者である。

潜庵は、佐藤一斎の下で学ぶ方谷に、陽明学の「致良知」について問い質す手紙を書き送った。
それに対して方谷は返事を認めて居り、その中に方谷の陽明学観が表されている。

その中で方谷は、「致良知」ばかり強調する潜庵に対して、
王陽明の学問の本質は「誠意」であり、「誠意」の本体を掴むのが「致良知」だが、
「誠意」の実践は「格物」にあるから、王陽明は「致良知」に「格物」を必ず配している。
双方が並び進んでこそ「誠意」が体得できるのだ。
君が「致良知」ばかり言うのは王陽明から遊離していると思う。と書いている。


少し補足しよう。儒学の経典『大学』に君子修養の「八条目」として

「格物(物を格す)・致知(知を致す)・誠意(意を誠にす)・正心(心を正す)・
修身(身を修む)・斉家(家を斉う)・治国(国を治む)・平天下(天下を平らぐ)」

が記されている。

「致良知」とは「致知」であり、「格物」と相俟って「誠意」が実現するのである。
王陽明は致良知に修養の要諦を見出したが、その言葉のみに捉われてはならず、
「致知」「格物」を車の両輪として磨き上げて「誠意」を実現する事を、
方谷は陽明学の真髄としたのである。

方谷は「格物」による実践を重視した。
「格物」とは、物事に当って関係を正して行く事である。
様々な事に直面してそれをより良き方向へと導いて行く事が「格物」である。

その際に「致良知」が同時並行で現出されて行くのだ。
その積み重ねの中で「誠意」、心の発動の機である「意」が誠になって行くのである。

            <感謝合掌 平成28年6月9日 頓首再拝>

誠意の工夫・至誠惻怛、国家の為にする公念 - 伝統

2016/06/13 (Mon) 18:38:10


          *『祖国と青年』22年9月号 より

山田方谷は「学問の道は誠意のみ」と、「誠意」を重視し、
その工夫について次の様に述べて居る。

☆意を誠にするは、唯一念の動く処につき、省察して、自然に出づるか出でざるかを見るに在り。

 (心中の思いを誠にするには、ちょっとした思いが動く時に、考えを回らして、
  その思いが自然な心から出ているか否かを見る事である。)


☆凡そ事は、何に限らず、詐り飾りて出来るものに非ず。唯我が一念の誠を以て推すのみ。

 (物事は何に限らず、偽ったり飾ったりして出来るものではない。
  唯、自分の心の誠を推していくだけである。)(以上二編『古本大学講義』)



☆辞を修むるは、誠を立つるを尚ぶ。
 (言葉を修めるには誠を立てる事がその根本である。)(「唐の徳宗論の後に書す」)


方谷は、誠無き功業は意味が無い事を何度も述べている。


☆自然の至誠より起こるは実物なり。作為のものは何程ありても、偶人造花の如し。

 (自然の誠を基礎として起こったものこそが本物であり、作為のあるものはどれ程であっても、
  人形や造花の様な偽者でしかない。)(『中庸講筵録』)


更に方谷は、「至誠惻怛」((誠意を尽して人を思いやる心)という言葉を好んで用いた。

前回、方谷の財政改革成功の事を記したが、その数々の改革実践の根底を貫いていたものは
陽明学実践に裏打ちされた「至誠惻怛」の哲学だった。

☆政の根本は、至誠惻怛の仁心より起こりて、功業の花やかなるには、
 初めより少しも目をかけざるを大切とす。  

 (政治の根本は、至誠惻怛の人を思いやる心から起って、為し遂げる功業の華やかさなどには
  初めから目もかけないことが大切である。)(『続資治通鑑綱目講説』)


☆至誠惻怛、国家の為にする公念より出でずして、名利の為にする私念に出づれば、
 縦令驚天動地の功業あるも、一己の私を為すに過ぎず。

(至誠惻怛、国家の為にする公の思いから出なくて、私の思いから出たならば、
 譬え天を驚かせ地を動かす様な大業を成し遂げたとしても、
 ただ一箇の私事を為した事に他ならず価値は無い。)(「方谷年譜」)

            <感謝合掌 平成28年6月13日 頓首再拝>

幕末激動期、備中松山藩不動の中心として - 伝統

2016/06/15 (Wed) 19:39:44


          *『祖国と青年』22年9月号 より

備中松山藩主板倉勝静は、財政再建を成し遂げた成果を背景に幕閣に昇進し、
安政四年に寺社奉行、文久二年・慶応元年と二度老中に就任し、
最後の老中として徳川幕府とその運命を共にするに至った。

実は、方谷は安政年間から幕府の崩壊を予測し、板倉公の幕閣就任には反対したのだった。
安政二年、方谷は幕府を衣に譬えて、

家康公が「材料を調え」
秀忠公が「織り上げ」
家光公「初着用」したが、

吉宗公の時に「一度洗濯」し、
松平定信公の時に「二度目の洗濯」を行った。

三度目の洗濯は難しく「もう汚れと綻びがひどく新調せねばならぬ」と述べている。

文久二年には、老中に就任し江戸城を自慢する藩主に、
幕府は「荒海に浮かぶ大船」と答えている。

だが、藩主が幕閣に立つ以上、忠義を尽すのが臣下である。
方谷は、誠を尽して板倉公を支えた。

板倉勝静は、安政の大獄を断行する井伊大老に対し、
その暴虐を諌めたが、逆に罷免されてしまった。

慶応二年秋には、将軍家茂薨去後の長州処分について諮問を受けた方谷は、
次の三策を老中の勝静公に上奏した。

(1)【大挽回の策】

   一橋慶喜を将軍、勅許を得た通商条約に従って政治を行う、
   長州藩の攘夷実行は勅を奉じて故表彰すべき。
   長州藩に更新の道を与え、幕府は大公至正の政治を行い、天下の耳目を一新する。

(2)【小挽回の策】

   慶喜が将軍固辞の時、徳川慶勝(尾張)を将軍に、慶勝自身が広島に赴き、
   2年前の征長総督であった慶勝の寛大さでもって長州藩と休戦にもちこむ。

(3)【一時姑息の策】

   長州藩に対しいたずらに寛大な措置をとるが、諸大藩の調整に任せる。
   天下の侮りを来たし、再乱を招き挽回は出来ない。
   結局、幕府は挽回策を採用する事が出来ずに自らを崩壊へと導いてしまう。


方谷は、慶応三年八月に帰藩を許され、藩の重鎮として激動の舵取りに当った。

鳥羽伏見の戦いの結果、幕府側は「賊軍」となり、備中松山藩にも朝廷から征討令が出され
備前岡山藩(家老の伊木若狭が総督)を中心に征討軍が迫った。
藩主不在(江戸)の下、方谷には藩の存亡が託された。

方谷は、自らが養成した近代装備の兵力を背景に和平交渉に臨んだ。
松山藩から3名が使者として十二キロ南方の美袋本陣に向った。
官軍からは、「謝罪書」(前もって官軍が作成)の提出を迫られた。

しかし、その中に「大逆無道」の四字が記されていた。

それを受けて方谷は、

「大逆無道とは子が親を殺し、家臣が主君を殺すこと、
藩侯の尊皇の志は誰よりも篤く、一度たりとも朝廷に刃を向けたことはない。
この四文字は自らの命に代えても受け容れられぬ。」と

修正を要請し、それが受け居られない場合は腹を切る覚悟を定めた。

その気魄に推され、官軍側も「大逆無道」を「軽挙暴動」に書き換える事を認めた。
言葉に命を賭けて来た学者方谷の面目が表された場面であった。
かくて、慶応四年正月十七日に備中松山藩は無血開城した。

一方、藩主の板倉勝静公は幕府老中として最後の将軍慶喜に付き従い、
江戸開城後は榎本武揚等と函館五稜郭に立て籠もって居た。
方谷は、藩存続の為、藩主父子を捜索し、函館五稜郭に居る藩主の脱出を画策した。

横浜在留プロシア商船長のウェーフに依頼して、函館迄慰問に行ってもらい、
勝静公を船内に招き、そのまま出港して東京へ連れ帰った。
そして、藩の家老達が藩再興の為に勝静公の謝罪自訴を説得した。

その努力が実って、明治2年9月、備中松山藩は五万石から二万石に降格するが、
血筋の繋がる板倉勝弼を藩主として復興する事が許された。

            <感謝合掌 平成28年6月15日 頓首再拝>

明治政府からの出仕要請を断り後進の指導に尽力 - 伝統

2016/06/26 (Sun) 19:35:46


          *『祖国と青年』22年9月号 より
 
この様な時代の変転を方谷は達観していた。

明治5年6月廃藩置県の後、方谷は、「楽分洞の記」の中で
「常を楽しむは易く、変を楽しむは難し。」
「天理を明らかにする者よりしてこれを観れば、変もまた常なり。」

「海内の覇政、隆を極むること数百年なり。
物久しければすなはち変ずるは、すなはち天理の常なり。
それ王道の大いに興るや、百度一新し、貧富貴賎は悉くその位を易ふ。
これもまた寒暑昼夜の変のみ。奚んぞ以て怪しむに足らんや。」

と幕藩体制の崩壊と新体制の誕生を天理であると見つめている。

方谷は楠木正成公の「七生滅賊」を信じていた。
方谷は『楠公七生伝』を書き記した。
その「序」のみが現存しており、その中で方谷は次の様に記している。

ある人が楠公の画を持って来て感想を求めたので、日頃の思いを二つの詩で表した。

「賊運将に窮まらんとす二百春、忠魂正に値る七生の辰、雲飛び風起こり山河裂く。
かくのごときの英雄はこれ後身

(湊川の戦いから二百年が経って、足利幕府の運命は正に尽きはてた。
楠公の忠魂が七度生まれ変わって滅ぼしたのだ。
雲が飛び風が起こって山河が裂ける様な戦いが繰り返されたのだ。
それを戦った英雄こそが楠公の生まれ変わりである。)」。

「人間果して七生の縁を諦す、牽き到る遥々永禄の年、
姦賊の子孫誅殺し尽き、忠魂この日始めて天に帰る

(縁によって七度生まれ変わり、終に永禄の年になって姦賊足利の子孫は
滅び尽くされた。大楠公の魂はこの日に初めて安らかに天に戻って行かれたのである。)」。


詠じ終わって思うには、大楠公が七回生まれ変わられたその身は
必ず天下の治乱に関わった方であろう。
誠を尽してその人物を求めるなら、誰であるか見出せるはずだ。
そこで一心に考えて捜す事数日に及び、終にその七人を見出す事が出来た。

だが、本当に正しいのか確信が持てず、
精根尽き果てて机に寄りかかってうつらうつらしていた所、

●公忽然として前に立ち、余に告げて曰く、汝の考ふるところは是なりと。
余大いに驚き、更に請ふところあらんと欲すれば、すなはち遽然として覚む。

(中略)

すなはち室町氏の滅びし所以、王室の全き所以は、皆な公の後身のなすところに係る者なるは、
目下に瞭然たり。

(たちまち大楠公が私の前に現れ、私に告げて言われた
。お前の考える所は正しい、と。
私は大いに驚いて、更に尋ねたいと思った所で、夢が覚めてしまった。

(中略)

室町幕府が滅び、朝廷が安泰なのは、皆楠公の生まれ変わりが為し遂げた事によるのは、
明らかで疑いがないのである。)

 
幕末期、最大の経世家として名をはせた山田方谷を、明治新政府が放って置くはずが無かった。

だが、維新時に六十四歳の方谷は、出仕要請を断り、地元で後進の為に学問を伝える道を選んだ。
明治六年に再興された閑谷学校でも、春秋には教鞭を執った。
方谷は陽明学を教学の中心に据えて講義した。
弟子達は方谷の為に、岡山県東部の蕃山村の熊沢蕃山居宅跡近くに庵を建てた。

そこで方谷は熊沢蕃山を偲び漢詩を詠み

「旧魂の故郷に還ることなからんや」
「何ぞ怪しまん精霊の我が腸に感ずるを」

と蕃山の魂がこの地に戻り方谷に向き合うとの実感を記した。

方谷は蕃山とは生年が百三十五年隔てて居るが、
共に陽明学を学び実学を実践し、時代の巨人として名を馳せている。

明治10年6月26日、山田方谷は小阪部(現岡山県新見市大佐)の塾舎で、
多くの弟子達に囲まれて73年の生涯を閉じた。

臨終の枕元には、慶応三年八月に帰藩を許された時に勝静公から贈られた「短刀」と「小銃」、
そして生涯の愛読書だった「王陽明全集」が置かれていた。

http://blog.goo.ne.jp/takuyoshio/e/92974d0b075aeee2cc4521e1aa64a6be

            <感謝合掌 平成28年6月26日 頓首再拝>

10万両の借金を8年で返済 - 伝統

2019/11/22 (Fri) 20:16:59

10万両の借金を8年で返済 備中松山城を支えた2人の“改革者”とは?

       *Web:文春オンライン(2019.11.22)より抜粋

備中松山城の最大の魅力は、中世の城と近世の城の姿が共存することです。
中城のある標高約480メートルの臥牛山は、大松山、天神の丸、小松山、前山の
四つの峰からなります。

鎌倉時代に大松山に築かれた砦が備中松山城のはじまりで、
戦国時代には全山が一大要塞化され、関ヶ原合戦後に小松山だけが改造されて、
石垣や天守のある現在の姿になりました。

中世の城から近世の城へとリフォームされた、新旧ブレンドの城なのです。


「備中兵乱」で落城も経験
 
数々の転機を迎えながら廃城にならず存続したのは、重要な場所にあるから。
江戸時代になると山麓に御根小屋が築かれて政庁としての機能は移りましたが、
それでも山上の城が維持され続けたのは、山城そのものが特別な存在だった
からかもしれません。

戦国時代の天正3年(1575)には、「備中兵乱」と呼ばれる愛憎入り混じる
大乱の舞台になり、落城も経験しました。

慶長9年(1604)に城主となった小堀遠州がつくった庭園のある頼久寺に、
毛利・宇喜多連合軍に敗れて自刃した三村元親のお墓があります。


城塞化された寺町が残る城下町も備中松山城の見どころのひとつですが、
この道筋も備中兵乱のときの敵の進軍路を意識してつくられているのだとか。

備中兵乱を知ると、備中松山城歩きはより深く楽しく感じられるはずです。


《城主よりも有名な「山田方谷」とは?》

備中松山城へは数えきれないほど訪れているのですが、何度か訪れるうち、
「山田方谷」なる歴史上の人物が地元で誰よりも慕われていると気づきました。

なんと、2019年10月には、大河ドラマ化を目指す署名が103万人を突破した人気ぶり。
地元では呼び捨てではなく「方谷先生」と呼ばれるほど尊敬され、
JR伯備線には方谷駅もあります。

かの有名な、長岡藩の河井継之助も師事したほどです。

備中松山城の最寄り駅である備中高梁駅前に建つのも、方谷の銅像です。
戦国時代に備中兵乱で落城した際の城主・三村正親でもなく、
備中国奉行として城と城下町を整備した小堀遠州(政一)でもなく、
現存する天守や石垣を築いた水谷勝宗でもありません。



10万両に膨れた藩の借金を8年で返済!
 
方谷は幕末の陽明学者で、
逼迫した備中松山藩の財政再建と藩政改革を成功させた人物です。

10万両に膨れた藩の借金を8年で返済し、
さらに10万両の蓄財を成し遂げたのですから、まさに伝説の改革者。

幕末の備中松山藩は、公称5万石でありながら実際には2万石と、
現代でいうなら粉飾決算を繰り返した末の破産状態でした。

その状況を巻き返したのが、方谷というわけです。

良質な砂鉄が採れる地域特性を生かし、鉄工場を設立。
輸送船を使って江戸で鉄釘などの鉄製品を直売し、
藩の専売事業にして利益を上げました。

藩を挙げての大倹約令を断行しつつ、一方で農民の保護策を徹底。
新田開発や殖産により財政が豊かになると、税を軽減して
生産意欲を刺激させるという庶民ファーストな計らいもしています。


「柚餅子」も、方谷に関係する高梁名物です。
方谷は、城下の家々に柚子の木を植えることを奨励。
採れた柚子を使って柚餅子を大量に製造し、江戸、大坂に販売したのです。

   (https://bunshun.jp/articles/-/15595 )

            <感謝合掌 令和元年11月22日 頓首再拝>

Re: 山田方谷 - sktbthjqvMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:52:43

伝統板・第二
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