伝統板・第二

2562100
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伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/16 (Mon) 08:29:21



    今日より、また新しい気持ちで投稿させていただきます。ありがとうございます。ただ、PC上の問題からしばらくお休みをいただくかもしれませんので、おゆるしを・・・(*^_^*)。


 やまと新聞の謹写も終え、(資料から、すべては謹写できま

せんでした)次にと考えましたが、やはり資料として存在

する昭和四十二年の「理想世界」誌から順を追って印象的な個

所を紹介して参りたいと思います。

 まず、5月1日号から。

見開きには谷口雅春先生の「五月の祈り」として「住吉大神と

の一体感を得るための神想観」、目次の上にやはり先生の

作詩になる「ああ 若人」(四番まで)が掲載されておりま

す。次ページは清超先生の「生きるということ」の巻頭言です。

今日はそれを謹写させて頂きます。


 <もし誰かが泥坊に入って「生きるためにはこうする他仕方

がなかった」と弁解すれば、諸君はそれを容認して彼を赦すであろうか。

彼にとって「生きる」ために凡ての手段が許されるかどうかは問題である。

吾々の社会はこのようなとき、この泥坊を、その「生きるた

め」という理由によって、決して釈放はしないのである。

 これをもって見れば、「生きる」ということが人間にとって

の最大目標ではなく、少なくとも「正しく生きる」ことが人生

の目標とされていると言わなければならない。

吾々はただ単に動物的に生きておりさえすればよいと考えてはいないのである。

ところがこれが国家生活となると、中には「生きていさえすれ

ばよい」と考える者も出てくるらしいのである。

 例えば国家の防衛の問題の場合、或る種の平和論者は、日本

の防衛力はいらないという。

そして「もしどこかの国が攻めてきて、日本が侵略されても、

吾々は武器をとって戦ってはならない。戦争という悪をさける

ためには、どんな国が占領しても、生きのびるためには、やむを得ない」というのである。

この場合、彼らにとって、日本人が独立した自由な生活をいと

なむという「正しい生き方」に最大の力点を置くのではなく、

「ただ生きること」をのみを最大の目標とするのである。

しかしもし、「生きること」のみを求めるのであれば、そして

外国の占領下にあって支配されていても差し支えないという決

意をするくらいであれば、彼らが米軍事基地の廃止をさけび、

自主独立をさけぶ意味がなくなってしまうのである。

というのは米軍が支配していようが、ソ連軍が支配していよう

が、又中共軍が支配していようが、日本人が「生きられる」こ

とにかわりはないのであるからである。

                                                 (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/17 (Tue) 08:31:22



       「新編 生命の實相」はなんだかんだ言われて

ももう20巻近く(予定の3分の1)出版されて、ペースは速いですよね(^^)/

とにかく、読みやすい(^^)/ ところで、私まだ5巻までしか購入していないのです。な~に、2万円もあれば一気買いできますから(^^)/





   <・・・しかるにもし「米軍の基地があれば戦争の危険

性がある」というのであればソ連軍や中共軍やその他のいかな

る国が侵入してきても、依然として長い将来に日本国土が戦争

の危機にさらされることは同じである。

 いや、その方がずっと危険率が高いともいえるのである。

このように考えて来ると、ただ“生きのびるために”無抵抗・無

防備であればよいという考えは、ゴマカシの理論に過ぎないと

いうことが判るのである。

無抵抗であれば、どこからも侵略はあり得ないのであろうか?

そのような保証はなく、又、かかる歴史的実例も皆無である。

国民全体が「神の子」の自覚を持ち、礼拝三昧の心境でいると

いうことと、単なる無抵抗・無防備でいることとは全く違うのである。・・・>。

                      

                                                



Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/18 (Wed) 07:59:41



   牛乳パックの貯金箱で明治神宮の「全国大会」へ行きたいです(^^)/





 次に、輪読のための青年法語として谷口雅春先生の「私は斯

くの如き人を求む」から。

 十日のことば ♡仕事に全生命を賭けること

「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠武士道の聖句

は決して単なる”死“の慫慂ではないのである。

「死ぬ」とは全生命を一つの目標に向って集中して、自分の内

に残る生命が“無”になってしまうことである。

むかし武士は主君のために死んだのである。主君の名誉のため

全生命を賭けて“私の生命”が無になってしまったのである。

主君のために全生命を注いだのであるから、その目的を達成し

たら、あとに残る“生命”はない。

それで赤穂四十七義士は目的を達すると泉岳寺で自刃したのである。

 武家時代の築城師は、難攻不落の城を築き終ると切腹して相

果てたといわれている。

城の秘密を知っている者は彼であるから、彼が生きている限り

秘密漏洩の危険があるので、死ななければならない。

築城の仕事を引き受けた限り死ななければならないと知りなが

らその仕事を引き受けたのは、彼がその仕事に全生命を賭けたからである。

仕事が終わると、余生など残存する訳はないから、彼は従容と

して死についたのである。

                                                


合掌、ありがとうございます。

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/19 (Thu) 08:34:50


  また、輪読のための青年法語として谷口雅春先生の「私は

斯くの如き人を求む」から。


十一日のことば ♡ 人間の幸・不幸の岐れ目


“思いついたが吉日”という諺がある。善事を為そうと思いつい

たら、「来年の正月から始めよう」などと延ばさないで今直ぐ

実行するのよいのである。

幸運にせよ、不運にせよ、それがあなたに近づきつつある時に

は、具体的なそれが近づく前に、それが具体化する前の

“想念”の波が近づいて来るから、幸運が近づいてくるときに

は、現象的にはまだ形があらわれていないが、何となく楽しい

明るい気分が起こって来るし、不運が近づいて来るときには、

何となく暗い不快な感じが起こって来る。

 たとえば、「今朝は気持ちが悪くて仕方がないから、今日は

欠勤して出勤したくない」というので朝寝坊をしていると、

ラジオの臨時ニュースが、「唯今桜木町の停車場で発車間もな

く四輪連結の電車の前部車両二台が火を噴いて、扉が開かない

ので、その車輌に乗っていた乗客全部は絶望と見られていま

す」というのである。

彼が若し例の通り出勤していたら、その時刻にその電車の前か

ら二輌目に習慣的に乗ることになっていたのである。

彼の潜在意識はその不幸の想念の波動をキャッチして、その不

幸に近づくことを拒絶したのである。


                      (つづく)

                                                





   

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/20 (Fri) 07:53:44


     割り箸大好きな私ですが、どうすればいいんでしょう

か"(-""-)" 一度煮沸消毒後に使えばいいんでしょうかね?

 明太子も、マーガリンも、ひじきさえ食べられないなんて、

ノーミートもびっくりぽん、です!(^^)!


 大聖師のお言葉をつまみ食いする風なことも、どうぞ、皆さ

まお許しを・・・。(本当は許されることではないのですが。

誰かさんのようで・・・。)





  輪読のための青年法語として谷口雅春先生の「私は斯くの如き人を求む」から。


十二日のことば ♡ 常に信仰深き家族にはこのような霊験がある


 長崎に原爆が落とされる日の朝である。

長崎から汽車で一時間ばかりの距離の諫早市に自宅をもってい

た与田伊佐夫氏の長女は、例の通り、長崎市内にある活水高等

女学校に通学するために汽車に乗って長崎市に向いつつあった。

彼女は、長崎駅の一つ手前の道尾という駅まで来たときに、ど

ういうものか「今日はどうしても長崎市内に入りたくない」と

いう気がして、数名の友人を誘って一緒に道尾駅で下車して、

長崎市とは反対方向に自宅に向って歩き出した。

そして長崎市から相当距離がはなれた時に、原爆が長崎市を

襲ったので、距離の関係から彼女には何の被害もなかったのである。

道尾の駅に近づいて来たときに、何ともいえぬ不快な気持ちが

彼女にしたのは、長崎市に原爆が現実に落ちる前に、原爆の想

念が既にそこに来ていることを直感した訳である。

信仰深い人やその家族や、常に神想観を怠らぬ人には、現実

に“事物”があらわれる以前に、その“事物”の“想念”が来るのを

感知して、適当の処置がとれるようになるのである。


                      (つづく)
                            
                    



Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/21 (Sat) 08:17:14

 

    また、輪読のための青年法語として谷口雅春先生の

「私は斯くの如き人を求む」から。

十七日のことば ♡ 教師は果たして単なる労働者か


 明治大学の学生ストの時のことである。

『バリケードを張られた正門に立った教授に対し、バリケード

の張られた内側から「お前たちは使用人ではないか」という罵

詈雑言もあった』ということである。

あの時、若い大学の教授たちは、大学教育について大きな不信

を持ち始めて“大学教育についての学生諸君の発言に、自分(教

師)たちが自主性を失ってまで、盲従する必要があるだろう

か”との疑惑をもちはじめた。

何とかならぬかとと思って教授たちは度々(工学部だけでも三

十回も)会合をひらいて協議したが、それはまるで無精卵をあ

たためているような親鷄のようなもので、そこからは何も出て

来なかったと、明大工学部教授の川口寅之輔氏は書いているのである。

大学生が教授に向って「お前たちは使用人ではないか」という

罵詈を浴びせかけられるのは、学校教師そのものの業の展開で

あるのである。何故なら日教組の倫理綱領には「教師は言うま

でもなく労働者である」と宣言してあり、その宣言に対して、

これらの大学教授連中は一言も日教組に対して反撃を加えるこ

となく毎月月給を貰って、多くの教授は恰もそれに同調するが

如く左翼教育を教壇から続けて来たからである。

川口寅之輔氏の如く思想問題とは関係ない工業上の教授は別で

あろうけれども、労働者として甘んじている者がその職場の経

営者から金を貰って生活したらそれは「使用人」といわれても

仕方がないし、その労働力を授業料という金を払って買ってい

る大学生はお客様であるからである。

これでは教授が学生に頭があがらないのは当然のことである。
                                      
                      (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/22 (Sun) 07:42:19


   稀勢の里関、「爪をはがす」=詰めをはがす、綱は

次場所までお預け。いい顔をしていたんですけどね~!(^^)!

 藍ちゃんも一度復活かと喜んだんですけど、また低迷へ。

ガンバッテクレ(^_-)-☆








  また、輪読のための青年法語として谷口雅春先生の「私は

斯くの如き人を求む」から。

十九日のことば ♡ 学を尊ぶ者は学校で学ばないでも・・・・・


 作家の山本周五郎氏が死んだ。

本名は清水三十六(さとむ)といい、明治三十六年生れである

というから私よりも十歳若い訳である。

私はこの作家の特異な作風が好きで、『樅の木は残った』と題

する伊達騒動を描いた小説以来の愛読者である。

清水三十六少年は小学校を出ると東銀座の質屋山本周五郎さん

の店へ奉公にあがって奉仕しながら銀座の泰明小学校の夜学に

通ったということであるから、当時尋常小学校の上に高等小学

校というものがあったので、三十六君が幼い頃に苦学をして、

あそこまで立派な作家として生長された人であることがわかる
のである。

 今は大学へ行くことがアクセサリーのようになっていて猫も

杓子も大学へ入りたがる癖に、大学へはいると、学生ストを

やったり、講義を受ける権利を放棄したりするのであるか

ら、“学園の神聖”などと表面ではいっても、“学”そのものを唯

の“商品”と考えているのだから、大学を出ても大した人物には
なれないのである。

 学を神聖として鞠躬如(きつきゅうじょ)として学ぶ者は、

学校などへ行かないでも立派な人間になれるのである。

山本周五郎氏は無論のこと、吉川英治氏然り、山岡荘八氏然

り、長谷川伸氏然り・・・・・学校で学ばないで、まだまだ立

派な人は沢山ある。

                       (つづく)
                                                

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/23 (Mon) 07:49:32



      北海道が日本の最高気温、という不思議が・・・。

 先日もどこかの大学かの「温暖化」公表(記憶?)があったば

かり、私の部屋は今、冷えてますけどね…('◇')ゞ







  また、輪読のための青年法語として谷口雅春先生の「私は斯くの如き人を求む」から。


二十五日のことば ♡ あなたの外套の裏布に


 機会は到る処にあるのである。

門は到る処にひらかれているのである。

今あなたの立っている其処が機会である。そこから天上に昇る

こともできれば龍宮海へ下りて行くこともできるのである。

この事を法華経は襟の裏に縫いつけた貴重な宝石に喩えている。

その内在の宝を発見すれば直ちに彼は無限の富者たる事実(実

相)を実現することができるのである。

 これに類する話をマーデンも書いている。

バルチモーアに一人の富める婦人があった。彼女はある晩、舞

踏会である男と踊っているうちに気がついてみたら沢山のダイ

ヤモンドをちりばめた驚くべく高価な腕輪が、彼女の腕から姿

を消していたのであった。

 彼女はテッキリその腕輪は踊りに気をとられているうちに、

摺れちがう人たちの誰かが掏ったものに違いないと思った。

彼女はそれ以来、人を呪うようになったのである。

彼女が人を呪うようになるに伴って、彼女の運命はだんだん落

ちて来て彼女は日雇い婦として、労働に従事することになった。

しかし日雇い婦は、雇ってくれる家庭がない日は金が入らないのである。

彼女はその日の食物にも困るようになった。

 彼女は神に祈った、「私に食物を与えたまえ」と。すると、

禿びて破れて、そのままでは使い物にならない外套があること

に気がついたのである。

彼女はその外套を解きほぐして婦人用の帽子をつくって、それ

を売って食物を買おうと思った。

それで彼女はその外套の破れたところの素地(きじ)を切り棄

て、素地のいたんでいない処だけ利用しようと、その外套のポ

ケットの裏布の縫糸をほぐしたときに其処から嘗て掏られたと

思っていたダイヤの腕輪が出て来たのであった。

その値打ちはザッと三千五百弗だったという。


                       (つづく)
                                        

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/24 (Tue) 08:07:04



  だけど、普通に考えてみても、教団が継続しているのは

摩訶不思議の現象ですよね。信じられないことは多々あれといえ

ども、こんな公の、大きな組織が、と考えると理解に苦しむこ

と限りなしです"(-""-)"









次は、「生命は困難を衝いて伸びる」という谷口輝子先生のご文章です。


 庭の奥の木の間から、清楚な色と香りをただよわせていた白

梅が、ほろほろと散りはじめて来た頃に、今度は私の部屋から

真直ぐに見えるところで、紅梅があでやかに開いて来た。

昨日はみぞれが降っていたのに、花たちはすでに春を感じとっ

たらしく、バラも芽ぶいて来たし、チューリップの葉も二寸、三寸と伸びて来た。

 わたしは中道のきわに突っ立ている枯木のような柿の木を見た。

今はこの木は枯木のように見えるが、もう一と月も経たないう

ちに、あざやかな緑の若葉が萌え出ることであろうと思うと楽しかった。

私は二月のある晴れた日のことを思い出した。

私は女中の一人を指図してこの柿ノ木の前に立っていた。女中

の手には剪定鋏があった。

私は“この枝は残し、あの枝は切って頂戴“”横に伸びた枝を残

し、真直ぐに上に向っている枝は切って下さい“などと、一枝一

枝について指図をしていた。つづいて幹の下部の皮を鋸で浅く
傷つけたりもした。

「さあこれで、今年の柿はどうでしょう」といいながら、心楽

しく屋内に帰った私は電話室へはいった。

原町田の姉の家に電話を架けて、「柿木をいじめたらよいので

すよ。枝を切ったり、皮を傷つけたりして・・・・・」と、

先覚者のような顔をしておしゃべりをしていた。

姉は「そうですか、そうですか、それじゃ家でもやって見ま

しょう、楽しみですね・・・・・」と喜んだ声がひびいて来た。

 あれから姉の家では、剪定をしたかしらと私は思い出してい

た。私は七十歳になっても知らないことばかりなので、新しく

何かを教えられた時は、すぐそのことを家族に話し、他の人た

ちも覚えたらよいと思うので、柿ノ木のことも娘や女中たちに

伝え、柿の木を持っている姉にも架電したのであった。

 昔から、六十の手習いと言って、六十歳という老齢になって

お習字をする人のことを、感心したり、笑ったりする人がある

が、六十歳どころか、七十歳でも八十歳でも、知らないことが

幾らでもあるし、悟りの階段も、幾ら昇って行っても終わりがないように思う。

ましてや、生長途中にある十代や二十代の青少年たちは、知ら

ないことが余りにも多いし、またそれは当然のことであろう。

年若い人たちは、学んでも学んでも足りないのである。

それ故にこそ、謙虚な心と態度をもって、心身の完成を目ざして進まねばならない。

 わが庭に大きな次郎柿が二年前まであった。

それは豊かな葉を茂らした見事な木ではあったが、何故か実の
数が少なかった。

隣家が近いから、その蔭になるからいけないのだろうか、周囲

に大きなつつじの木があるからであろうかなどと、柿木の環境

の影響だとばかり思っていたので、柿の好きな姉の家の日当た

りのよい畑に移したら、或いは今よりもっと、実が多く付くの

ではなかろうかと思い、姉の許へ運ばせて、畑の一隅に移植したのであった。

 昔から「桃栗三年、柿八年」と言われているから、実生で八

年なら、成長した木なら、二年も三年も経たなければ実のらな

いだろうと思っていたら、その年に沢山の実が採れたので意外に思った。

何故早くもその年に実のったのかしらと、私にはその理由が解らなかった。

柿の専門家も知人にいないし教えて貰う機会もなかった。


                      (つづく)                                        


Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/25 (Wed) 08:14:04

    今朝かに、こんないい歌が聴けました(^^♪


https://www.youtube.com/watch?v=7lX2oZqTZVw

♪誰でもね~神様よ~みんながね~神様よ~、

谷口雅春先生が聴いたら、よろこばれるような歌詞じゃないでしょうか。


 輝子先生のお話の続きです。








 ところが或る日の新聞の投書欄に“植物の傷と生殖生長”とい

う見出しで、イチョウの実についての質問に答えている記事があった。

問「切りかけたイチョウの枝に実がなったのは、どういうわけか」

答「・・・・・植物の生長は、枝や葉を育てる栄養生長と、花

や実をつける生殖生長との二つに分けて考えることが出来る。

栄養状態が非常によい場合には、生殖生長を進めない時がある。

こんな時、根を切ったり、幹に傷をつけると、生殖生長に向か

うものです。これは余り元気だと、種属の保存を怠り、少し弱

くなると、子孫を残さなくてはならないという生物の大原則によるものでしょう。

こんな習性を利用して、花をつけない藤の根を切ることや、鉢

に移植すると開花を見るなど、よく経験するところです・・・・・」

などと書いてあった。

 このような理屈を教えられると、私には、今まで解けなかっ

た疑問が一度に理解できるのであった。

 我庭で幾ら肥料を与えても、葉ばかり繁り、幹ばかり太く

なってきた柿ノ木が、姉の家に移される時、植木屋が小枝を

すっかり切り除き、根も相当減らして、あわれな姿にして運ん

で行ったが、あれでよかったのであった。

あんなにしなければいけなかったのであった。

枝は払われ、根を傷めつけられた柿ノ木は、”こんなに弱らされ

ては先が短かかろう。今のうちに子孫を用意しておかなければ

ならない“と感じて、実を多く作りはじめたのであった。

 我庭に置かれて、大切に甘やかされていたならば、柿ノ木は

永久に少ない数しか実のらせなかったであろう。

追憶している私の眼は、再び柿ノ木に向けられた。この柿ノ木

のような枝々に、もうほどなく新芽がふき出し、やがて若葉が

伸び、地上に大きな蔭を作るであろう。葉が多く繁るか、実が

多くみのるか、この枝の結果を見ることが楽しみである。

私の眼は柿ノ木を見つめながら、心は次第に其処を離れてい

た。柿ノ木だけでなく、一切の植物の習性は同じであろう。

銀杏もまた、切りかけたまま放って置いたら、枯れるのかと思っていたのに実がなった。

半分切られた銀杏は、殺されるかと思って、大あわてに子孫を作ったのであった。

 植物の習性は人間にも当てはまることだと私は感じた。

富裕な家に生れた子女が、甘やかされて、どんなに我儘をして

も許されるし、いたずらをしても罰せられないし、ほしいもの

は片っぱしから買って貰えるという風な育て方をされると、あ

たかも肥料をどっさり入れて貰って、葉ばかり繁らせて、花も

実も作らない植物のように生長して、世の中に何の役にも立た

ない人間に出来上がるのではなかろうか。

矢張り、枝々をちょん切られ、幹や根をゴシゴシ傷つけてやる

と、眠っていたような植物が目を覚まして、大いに張り切りだ

し、おいしい実や、美しい花をゆたかに作ろうと努力し出すよ

うに、人間の子女も、鍛えるやるべきではなかろうか。

 今朝もふとラジオをひねったら、誰の話だったか途中からなので不明だったが、

「勝れた人間は逆境のなかから生まれる」

「艱難の中で自分を鍛えなければ・・・・・」などの言葉が流

れて来、貧苦にめげないで、薪を背負って歩きながら読書して

いた、二宮金次郎少年(後に尊徳)のことについて話して居ら

れた。


                                                (つづく)                                        

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/26 (Thu) 08:02:08



  世界の首脳が伊勢神宮お参り、何かを感じていただ

けることでしょう(^^♪


 輝子先生のつづき、です。






 他から尊敬されるような人は、さまざまな艱苦の中から磨き出された人が多い。

時時、ラジオやテレビに於ける座談会などで、十代の少年少女

たちが、「甘やかされたくは思いませんよ。親たちはもっとき

びしく子供を躾て欲しいものです。私たちは、びしびししめて

欲しいのです。厳しく教えて貰わなかったら、しっかりした人

間になれないと思います・・・・・」などと、けなげにも言わ

れるけれど、さていざとなって、親からお叱言を頂戴したり、

きびしい言葉を与えられたりすると、「ハイ有難うございま

す」と素直に答えられるであろうか。

戦後は、民主主義だの自由主義だのをはき違えて、我儘放題に

ふるまう青少年が多くなって、親や上司から厳しくされるとす

ぐ反撥して、「親たちの頭が古いんだ」「何をしようと自分の

自由だ」「説教は大きらいだ」などとやり返すのだった。

砂糖過多な育て方をされた少年少女は、日陰のもやしのよう

に、ひょろひょろと力弱い魂の持主になってしまう。

 二日前に早朝のラジオを聴いて居ると、奈良の薬師寺管主に

最近なった高田好胤師が、新管主になったことについて、その

感想をいろいろ語って居られた。新管主の師匠は橋本凝胤と言

われる偉い僧侶である。

いつか新聞に連載された「私の履歴書」の中で、橋本師は八歳

の時から寺に入り、日々のきびしい修業に鍛えられて、今日の

自分を作ってくれた恩人として、先師に深い感謝をしていると
書いて居られた。

 八歳という幼い子供が、毎朝四時に堂参する寺の僧たちより

も早く起きて、灯明などの準備をしなければならなかった。

眠いからもっと寝ていたいと思っても、一本の柱を枕として、

目ざしのように寝ている小僧たちと共に、師匠がげんのうで柱

の端を打つので一斉に飛び起きねばならなかった。

粗末な食事、畳の上に敷布団なしで、掛布団だけで寝かされた

し、学校から帰って、読経の練習をさせられる時、間違うたび

に、師匠の手に持つ火箸が頭を打ち、学校で習ったことの復習

をさせられる時、忘れていると眠らせないので、夜通し師匠の

枕元に坐らせられていたそうである。

 日々の行事で於いて、少しでも怠けようものなら、撲蹴の雨

に見舞われ、まともな顔で堂参はできなかった。

きびしい躾に堪えて今日の大をなした橋本凝胤師に、新管主は

また厳しくしつけられたが新管主もまた師匠の橋本師の温い人

間味にふれて感謝して居られた。

憎しみのゆえでなく、愛のゆえに枝を切り根を傷つけること

は、それを受けて伸びる人にはただ感謝でしかない。


                       (おわり)


                                                                                       

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/27 (Fri) 08:13:11


  コスモス様が、鈴木、菅野氏に対して、

<・・・両氏の神の子としての実相を礼拝しつつ。 合掌>

と結んでいます(^^)/









 これよりは、昭和42年3月14日に東京・日本青年館で行われた憲法問題講演会に於ける御講話の草稿より。
(もちろん、理想世界5/1号に掲載されたものです)


  「世尊拈華と日本国憲法の在り方」  谷口雅春


 一切の存在はコトバにて成る


 聖書の“ヨハネ伝”の冒頭に「太初に言あり、言は神と偕にあ

り、言は神なりき。万のものこれに由りて成り、成りたる物に

一つとしてこれによらで成らざるものなし、これに生命あり、

この生命は人の光なりき。」と録されております。

 すべてのものは言によって成ったというのがキリスト教の宇

宙創造説であります。「万のもの之に由りて成り」とあります

が、この事物が生成することを「成る」と日本語で申しますの

も、実は、「成る」と「鳴る」とは同一語源でありまして、凡

て事物の本質は、言でありますから、鳴りひびくのであります。

 このことは旧約聖書の創世記の冒頭に、

「元始に神、天地を創造りたまえり、地は定形なく曠空(む

な)しくして黒暗淵(やみわだ)の面にあり。

神の霊、水の面を覆いたり木、神、光あれと言いたまいければ

光ありき・・・・・」とあるのに照合するのであります。

神が天地を創造りたまうたのは「光あれと言い給うた」ときに

光があらわれ、次々と、神のコトバによって万物が生じたのであります。

 神はコトバによって万物を造ったといいますと、神とコトバ

とは別々のものであって、神がコトバという道具によって万物

を創造られたように思い違いしがちでありますけれど、ヨハネ

伝にありますように、「コトバは神と偕にあり、コトバは神

なりき」でありまして、“コトバ”と“神”とは本来不可分の一体なのであります。

 日本の古代の言語では、神のことを命と申しました。「みこ

と」というのは“御言”即ちコトバということであります。

「みこと」の“み”は“御”という字で美称であります。

 すべての物の本質はコトバである 

 すべてのものは、外面から眺めますと、物質のように見えま

すけれども、その本質はコトバであります。

それを日本人は古来ちゃんと、潜在意識にそれを悟っておりま

したので、この「湯呑」を指しても、「これは“湯呑”というも

のである」といいます。またこの「書物」を指しても、「これ

は本というもの、書物というものである」といいます。

そのほか何を指しても、「これは人間というもの」、「これは

動物というもの」__などというのであります。

「これは物質だ」といい切らないで「これは物質というもの

だ」と吾々がいうのは、すべてのものは、それは物質に見えて

も、実は「言うもの」なのだ、「コトバ」の具体的表現なの

だ、本質はコトバなんだと知っているからなのであります。

                                                (つづく)                                                                                   




Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/28 (Sat) 08:09:02

  しかし、被爆者の方々の(71年を経たゆえか)コメ

ントのすばらしさには驚かされます。さすがは日本人と思われ

るような、きらりと光る言動に思えますが…。


 御講話、続けます。








  日本国の本質は天照大御神の神勅である
 
 私がこんな話をいたしますのは、実は日本国家の本質につい

て皆さんの御理解を得たいからなのであります。

日本国は誰が何を如何にして創造されたかという問題であります。

 日本国がどのようにして出来たかと申しますと、

『日本書紀』には、天照大神の勅によりまして、

 「豊葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是れ吾が

子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地なり。宜しく爾皇孫

(いましすめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ、行矣(さきく

ませ)。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさんこと、ま

さに天壌(あめつち)とともに窮(きわま)りなかるべし。」

  と録されているのであります。

 天照大御神の「天」とは天球即ち宇宙でありまして、

天照大御神とは宇宙の大神であらせられます。

 大神が出現せられた時の有様を『日本書紀』には「光華明彩

六合照徹(ひかりうるわしくりくごうにてりとおらせり)」と

書かれており、宇宙全体にその光明がうるわしく照り徹ってい

る有様が形容されているのであります。

 日本の本当の建国は何時か
  
日本国の建国はいつの時代かという問題は建国記念日制定以前

から色々の説があり、建国記念日制定後にも尾を引いている問

題でありますが、コトバが神であり、神はコトバと偕にあり、

一切のものはコトバによって生じたという哲学から申します

と、日本の建国は、宇宙の大神にまします天照大御神が「豊葦

原の瑞穂の国は世々吾が子孫の王(きみ)たるべき国なり」と

コトバによって宣言された時に日本国は「神のコトバの世界」

即ち「理念の世界」に於いて成立したのであります。

 理念とは如何なるものか

もっとも「理念」というものは、コトバ即ち「神の生命の知的

表現としての振動」即ち神の心の中に想い浮かべられた

“形相”でありますから、それは物質的形相ではありません。

従って縦横厚みの三次元的な空間的大小のひろがりをもってい

ません。すなわち物質的な形や大きさを抽(ぬ)きにした超空

間的な純粋な形相であります。

 だから、その理念が現象面に投影して来る場合には、大にも

小にも顕われて来るのであります。

 天照大御神が天孫降臨の神勅に於いて仰せられた「豊葦原の

瑞穂の国」というのも色いろの解釈がありますが、これは大に

は現象宇宙ぜんたいを顕しており、国家的には日本国を表現し

ており、極微の世界に於いては物質原子の構成をあらわしてい

ると見ることができます。というのは、瑞穂の国というのはこ

れを哲学的に解釈しますと水火国(みずほのくに)ということになります。

 “水”は陰の象徴であり、“火”は陽の象徴であります。水火国

であります。陰陽の組み合わせによる結合によって出現したも

のはすべて、大小に拘らず水火国であります。

 大は太陽系統から、小は物質原子に到るまで、すべて水火国であります。

 国家も家庭もすべて陰陽結合によって成り立つ水火国であります。


                                                 (つづく)                                                                                   


Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/29 (Sun) 07:58:07



      消費税増税、遂に2年半後に延期です。うれしいっ

ていえばうれしいですね(^^♪

 藍ちゃんはひとり一打差不足で予選落ち、これは悲しい。

だけどコンサドーレは快調、首位独走、気持ちのいいものです(^_-)-☆


 御講話の続きです。







 瑞穂の国の根本構図について

 その水火国が如何なる形相をもつべきか、換言すればいかな

る構造であるべきかの、根本構図として示されたのが、

 「世々わが子孫の王たるべき地(くに)なり」というコトバであります。

 これは、この根本構図は、一切の存在は、「世々変らざる即

ち永久不変の中心をもつべきものである」という意味でありま

す。これが宇宙の大神たる天照大御神の御宣言なのであります。

それは宇宙の大神の御宣言でありますから、宇宙の万物すべて

のものにあらわれている存在の根本構図の原理であります。

 だから吾々が知っている最も小さな存在になる”原子”も、原

子核という永久変らざる中心をもっているのであります。

 原子が原子としての存在を保っているのは、原子核という

「永久変らざる中心」があるからである。

 原子核を中性子で攻撃して、核を破壊してしまえば、もうそ

の原子は爆発して飛んでしまって存在しなくなります。

 太陽系統も、太陽というその系統の「永久変らざる中心」が

あるのでその存在を保っているのであって、何らかの原因で太

陽が爆発して飛んでしまったり、消えてしまったら、太陽系を

めぐる天体は、中心を失って存在しなくなくなる。

 無論、地球は単なる“死天体”として冷却して、一切の生物は存在し得なくなります。

 家庭も、家長たる父または良人がその家庭から姿を消すと、

従来の安泰平和な状態を失って、家族が四分五裂してしまう。

 国家も日本天皇の如き万世一系の変らざる中心が無くなって

しまえば四分五裂して、ソ連や中共の革命当時のような混乱状

態が起こるのは必然であります。

 そしてその混乱は一時的ではなく、絶えず強者が弱者を倒し

て易姓革命が起こり、王朝が変り、インドネシアのような状態

や、中共の近衛兵旋風に類するものが起こって存在の安定が失

われてしまうのであります。

 このようにすべての存在は、永久変らざる中心を持つことに

よって、その存在を維持しているのであります。

 ところが現行の憲法では、国家の中心である天皇制を象徴に

して半ば破壊し、“家”の制度を根本的に破壊した。

 家長とか戸主とかいうものはなくて唯夫婦、単に陰陽がただ

集まっているのが家庭であって、中心というものはない。

 恰度それは分子を滅茶苦茶に集合さしただけであるから、親

の言うことをきく必要もなければ、親孝行する義務もない。

 夫に操をつくすという要請もない。ほかに好きな男が出来た

ら離婚するのは自由だというようにできている。

 中心のない家族雑居は、もう既に「家」ではないのであっ

て、それはただの下宿人の集まりである。

 太陽を失った遊星のようにみんな冷えつつある。
 
                                                 (つづく)                                                                                   


Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/30 (Mon) 08:02:33

      コスモス様がG7首脳の伊勢神宮参拝(*^_^*)と

オバマ大統領の広島訪問を感動的に伝えております。

 他稿では、あまたろう様が、実に理路整然とした論法

(*^_^*)にて痛切に自己反省をされております。締められて、

曰く、

・・・<それを教えて下さった雅宣先生、ありがとうございま

す。やっとこの問題に感謝ができました。この宇宙に感謝でき

ないものは一つもないことを、又学ばせていただきました。そ

して、一切の責任は自身にあったことも・・・。

 感謝合掌>・・・。


 御講話の続きです。











  速やかに明治憲法復元の必要に迫られている

 
 そして国民は下宿人の集まりみたいに、テンデンばらばらに

国民が自分の利己主義で勝手に行動したらよい、祖先伝来の家

の財産でも家族がバラバラに分解して持って行ったらよい。家

なんか存在しないのだ、というように定められているのが現行

の憲法であります。

国家としては、また天皇が「国民統合の象徴」として、「統合

の中心体」として現行憲法に存在しておりますので、日本国は

このような安泰と繁栄の状態を続けておりますけれども、この

天皇の地位は現行憲法そのままで、国民の総意によっていつで

も改憲できるように規定してありますから、社会主義や共産主

義系の政権が樹立され、そういう革新系の代議士の議席が三分

の二を超えるようになると、その三分の二以上の発議が「国民

の総意」とみとめられて、天皇制廃止の社会主義憲法が新たに

制定される惧れがあるのであります。

しかも社会党は安保条約の期限を画する昭和四十五年を期して

日本に革命政権を樹立するといっているのですから、そういう

ことにならないように現行の憲法が本当の憲法ではなく、占領

下に日本を弱体化する政策上押しつけられた“占領行政基本

法”であることを明らかにして、占領終了と同時に失効せるもの

であり、その失効と同時に、明治憲法がそのまま生きていると

いうことを宣言すべきなのであります。

つまり、国家にも永久かわらざる中心が万世一系の天皇の形に

よって持続することによって、一切の存在が「永久変らざる中

心を持つ」という天意の実現せる唯一の国家が日本国家であっ

て、若し、この日本国家に天皇がなくなれば、すべての存在は

永久変らざる中心があるという神の宇宙創造の基本形態が国家

だけに当てはまらず破壊されることになります。

今こそ吾々は神意を実現せる真理国家こそ日本国家であるいう

日本国家独特の神聖性を明らかにするために明治憲法復元に踏み切るべき時であります。

 こう申しますと、私のいうことは非常にナショナリズム的に

他から観られるかも知れませんが、海外の書籍などにも生長の

家はナショナリズムにつながるというような紹介記事を書いた

ものもありますが、世界的に組織をもち生き生きと活動してい

るアメリカの新しいキリスト教リリジャス・サイエンスの理事

長であるウィリアム・ホルナディ博士が数年前見えたときに、

その事について質問せられたことがあります。

その時に私はこう答えたのであります。
  
「イエスの教えた模範的祈りの”主の祈り”に於いて“天にましま

す吾らの父よ、御名をあがめしめ給え、御国を来たらしめ給

え、御心の天に成るが如く地にも成らしめ給え”と祈るように教

えられているのであるが、天には唯一つの永久変わらざる神が

いらっしゃって、すべてのものがその唯一つの神の御心に帰一

しているのでありましょう。

そうすれば、天にそのように御心の成るが如く地にも成るとす

れば、その御心が地上に成り、その御心が国家にあらわれるな

らば、永久変らざる中心が国家にも成就しなければならない。

そのような永久変らざる中心である万世一系の天皇をもつ国は

日本だけであって、国家として最も神意にかなう形態を整えて

いるのが日本国家である」と申し上げたのであります。

すると、ホルナディ博士は大いに頷いて賛成の意を表されたの
であります。

だから、古事記・日本書紀等の示すところの天皇中心国家とい

うものはキリスト教の示す世界観又は国家理想とも完全に一致
するものであります。

これをナショナリズムだ軍国主義だとキリスト教側から反対さ

れるのは、理屈に合わないのであります。


                                              (つづく)                                                                                   



Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/05/31 (Tue) 08:31:11



     志恩様がほえていらっしゃいます(^^)/


     <・・・そんなことを聞くために、受講券を買い、

交通費をかけて生長の家の話を聞きに来たんじゃねえや!!!と、

まともな頭の人間でしたら、プッツンすると思います。
シラケますよね。・・・>・・・。

 破邪顕正様がご紹介のアクエリアン様のG7首脳のコメント

は特筆ものでしょう(^^♪

 トキ様も良きことを言っております。


それでは雅春師の御講話を。







  釈尊の教えも唯一の中心に帰一する国家を示された
  
 佛教に於きましても、天皇中心国家なるものは釈尊の教え又

は釈尊の宗教的悟りの理想であったのであります。

「世尊拈華と日本国の憲法」という題で私は話すことになって

いるのでありますが、「世尊拈華」というのは、あの禅宗の聖

典である『無門関』という本の公案の第六則であります。

 それには斯う書かれてあります。

「世尊、昔、霊山会上に在って、花を拈じて衆に示す。是の時

衆皆黙然たり。唯迦葉尊者のみ破顔微笑す。

 世尊曰く、吾れに正法眼藏、涅槃妙心、実相無相、微妙の法

門あり、不立文字、教別別伝、摩訶迦葉に付嘱す。」

 この公案の出典はどこにあるか。釈尊がこのようなことをせ

られたという事実物語のようなものは大蔵経の中には収録せら

れていないで、特殊な「大梵天王問仏決疑経」という経に詳し

くその事実が記載されているのであります。

 大蔵経にそれが収録せられていないのは、伝えられている所

によると、この経は帝王経として、帝王の読むべき秘蔵の経で

あるから、一般の大蔵経には収められていないのだということであります。

 その「大梵天王問仏決疑経」にはこのように書かれているのである。

「爾(そ)の時、大梵天王葉即ち若干の眷族を引き来り、世尊

に金波羅華を献じ奉り、各々仏足を頂礼し、退いて一面に坐

す。爾(そ)の時、世尊即ち献じ奉れる金色の波羅華を拈じ、

目を瞬き、眉を揚げて諸々の大衆に示す・・・・・」

 この波羅華というのが、“高天原”即ち実相世界の構図を象徴

的に示すところの華なのであります。

“波羅“というのは梵語で、”彼岸”という意味であります。

現象世界の子とを”此方の岸“即ち”此岸“と申しますが、実相世

界のことを、現象の此方の世界から見て”彼岸“と申します。

「彼岸に到る』即ち「実相の悟り」に到達することを“到彼

岸”即ち“波羅蜜”と申します。

実相の悟りに至る六つの道を”六波羅蜜”と申すことは皆さん既

に御存知の通りであります。

このように”波羅”という語は”彼岸”即ち”実相世界“をあらわしているのであります。

この実相世界のことを、キリスト教では”天”とか”天国”とか申します。

神道では高天原と言うのであります。

その実相世界の構図の通りに、現象世界が成ることを、「みこ

ころの天に成るが如く地にもなる」というのであります。


                                               (つづく)



Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/01 (Wed) 08:18:07


    大阪教区、午後の部、首相の悪口他、太陽光や肉食やら

のもっともらしきご講義をやられていたようです。まともに受ける人もいるかもしれませんね"(-""-)"。








  蓮華の花構造は何を象徴するか

 さて、みこころの天に成れる相(すがた)は、この金色の波

羅華――即ち蓮華の花のような中心にハチスといって“ス”がある世界である。

まだ、みこころが“天”(実相)だけに成っていて、“地”(現象

世界)にはまだ完全にその通りに成っていない現在に於いては、

天界の構図を肉眼で示す訳にはまいりませんが、お釈迦さんは

蓮華の花を、その象徴として示されたのであります。

「宇宙の実相は、空ではないぞ、この通りに実(じつ)のある。」と示されたのです。

蓮華の花は、花が開いたときに既に中心に“実”即ち”実(じ

つ)“がある。その実相から現象世界が花びらのように展開して
いるのがこの世界である。

その実相は金剛不壊であって不動である。

その表面にあらわれている現象だけが波のように常に変化している。

それで仏教では、この世界を“蓮華蔵世界海”と称して、“海”に喩えたのであります。

蓮華蔵世界海という語は華厳経にある語でありますが、蓮華の

如く、中心に“ス”をもつ中心帰一の荘厳な相(すがた)を内に

蔵する世界であるが、海の表面の波の如く現象には有為転変の

相があらわれているのであるというのが、“蓮華蔵世界海”の意味であります。

 釈尊出興の最大目的は?

釈尊が此の世に出興せられた最大の目的は宇宙の実相、蓮華の

花びらの如く、中心に巣(統・枢)があって、万象悉く

その巣より出て巣に還るーー即ち宇宙の実相は中心に”ス“即ち

スメラミコトが在(ましま)して万象悉くそれより発し

 それに還るーーその実相を説き明かさんがために出興せられ

たのが釈尊がこの世に出興された目的であり使命であると
私は思うのであります。

  何故かというと、釈尊が六年苦行の後、山を降って、尼連

禅河の畔の菩提樹の下で静座瞑想してサトリを開かれて、

第二十七日にはじめて、その悟った真理を、何の方便もなくそ

のまま説教せられたのが華厳経であるからであります。

この華厳経の題目は、詳しく謂えば“大方広仏華厳経”でありま

して、このお経の題目を解釈すれば、

“大方広仏”即ち凡ゆる方角に無限に広がっている如来が大方広

仏出あり、その普遍的如来の生命の展開が大宇宙であり、その

構図は蓮華の如く中心に“ス”があって、万物悉くその“ス”をよ

り発し底へ還って行くというのであります。

 ところが釈尊が大方広仏華厳経をお説きになって、この宇宙

に内在する実在の構図を示されたけれども、普賢菩薩ひとりだ

けその真意がわかっただけで、他の聴衆にはその真意がわからなかった。

そこで釈尊はこの華厳経を竜宮へ秘めて置いて、道徳修養を主

とするような阿含経のようなお経をお説きになっていて、その

後は久しく宇宙構図の真実を顕さなかったのであります。

                                               (つづく)                                                                                   

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/02 (Thu) 07:55:24


   曰く「アベノミクス窮地鮮明」「『新しい判断』

首相独断」「財政健全化一層遠のく」「先延ばしに不安と不

信」・・・、八ヶ岳教団もよろこぶお題が並んでます"(-""-)"


 御講話、続きです。










 大方広仏華厳経が竜宮に秘められていたということには、深

い象徴的意義があるのであります。

竜宮というのは、あの浦島太郎の神話で御存知の竜宮であります。

竜宮とは浜の砂を掘って、三池炭鉱のように深く深く海の底へ

沈んで往ったら、そこが竜宮というようなお伽話ではないのであります。

竜宮とは海の底であります。

一切のものを「生み出す根底」の世界「生みの底」のことであ

ります。換言すれば創造の本源世界のことであります。

創造の本源世界は、時間空間以前の世界でありますから、超時間の世界です。

だから浦島太郎が竜宮海に往っていた間は年齢が寄らなかった

という神話になっているのであります。

そこには沢山の乙姫が住んでいました。

創造の本源世界に沢山の乙姫が住んでいるというのは、どうい

乙姫は“音秘め”であります。

”音“とはコトバでありまして、この講話の冒頭で申しましたよ

うに、創造はコトバで行なわれるのでありまして、それは秘め

られたる創造の力であるから、”音秘め“であります。

そして、そのコトバの数は創造の数と等しく無限であります。

仏教学者の伝える処によりますと、本当の華厳経は文字に書い

たお経ではなく、宇宙の創造の本源世界に鳴りひびいている真

理のコトバそのものであります。

釈尊が其の真理のコトバをお説きになりましたのが華厳経であります。

その華厳経が普賢菩薩にしかその真の意味がわからなかったと

いうのは、普賢というのは、宇宙普遍の叡智であります。

その叡智を出して来なければ華厳経の意味は分からないということであります。

 さて、その宇宙普遍の叡智に導かれて解釈してみますと、竜

宮海即ち、「生みの底」(創造の本源世界)には無限の音姫即

ち「秘められたる実相のコトバ」が満ち満ちているのであります。

その創造の本源に秘められてある真理のコトバそのものが華厳

経でありますから、華厳経を読むには神通力によって竜宮へ降りて行かねばなりません。

そこへ降りて往って華厳経を読んで来たのが竜樹菩薩であります。

                                               (つづく)                                                                                   

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/03 (Fri) 08:01:30



      あめのうずめ様が”俺様教”にフツーにムカついてお

られます!(^^)!


 御講話の続きです。








 竜樹菩薩とは如何なる人か

 竜樹菩薩という人の伝記はいろいろありますが、大体、釈迦

が入滅せられてから大凡そ二百年後に生まれて寿命七百歳

を保って神通自在の人だったと言い伝えられています。

 神話中の人物で、ハッキリとはわかりません。従ってその行

動も象徴的に解釈しなければなりません。

 幼きころ四歳にしてヴェダの経典を全部読破した。

その後、地上にあるあらゆる仏典を読破したけれども、大乗の

仏典が見当たらないというので神通力で竜宮へ降りて往った。

そして、そこに秘められている大乗の真理の経典“華厳経”を読破したというのであります。

 つまり是は、創造の本源世界にある「実在の構図」即ち

「実相世界の構成」換言すれば「み心の天に成る世界構図」の

秘密を読破したというのであります。

 その華厳経のコトバの数は、その上本には十三千大千世微塵

数(じゅ)あり、中本には四十九万八千八百偈(げ)あり、地

上に持ち来たって、現今、文字の形で伝わっているのは下本だといわれております。

 下本とは簡略本のことでありましてその上本即ち本当の華厳

経のコトバは十三千大千世微塵数というのは大千とは千の自乗であります。

 千の自乗を十三千倍した数だけの世界を擦りつぶしてメリケ

ン粉のように微塵にした、その微塵の数だけのコトバの数があ

るというのですから、これは大宇宙そのもののコトバの数であ

りまして、大宇宙の実相そのもののコトバの展開そのものが華厳経なのであります。

                                               (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/04 (Sat) 08:04:18


     SNI教団ここに極まれり、とでもいいたくなる今日この頃です(*_*;

 明日運動会というのに寒い、寒い。だけど、世界中に

小二男児の奇跡的生還が伝えられましたね!(^^)!すごいです。

道産子ですよ(^^)/



 御講話続けます。






  華厳経にあらわれた実相の構図


 竜樹菩薩が竜宮海に降りて往って実相の構図を見て来た処に

よりますと、このコトバの姿はどのように実在世界で展開して

いたかというと、蓮華荘厳の姿に展開してい手、その中央の

蓮華の花の“ス”の中心に毘廬遮那如来(訳して大日如来

、日本的に翻訳すれば天照大御神)がましまして、この全法界

はこの如来身の顕現であると、華厳経の浄眼品(じょうがんぽん)には書かれております。

そしてその如来身はあらゆる顕現の世界に重現せられて真理の

説法をしておられるーーこの説法しておられるということは、

宇宙に満つる創造のコトバそのものであるということを意味しております。

そしてこの蓮華蔵世界海の周辺には八つの金剛囲山(いせん)

に取り囲まれている中心には“大日如来”即ち天照大御神の宝座

があって、それによって宇宙の存在が支えられているのであ

り、そこから一切の真理のコトバが発生し、能く明らかに一切

の世界を照らしいるということを華厳経の廬遮那仏品には次の

如く書かれているのであります。

「仏子よ、当に知るべし、此の蓮華蔵世界海の、金剛囲山は

蓮華日宝王地に依りて住せり。

彼に一切の香水海あり、一切の衆宝あまねく其の地に布き、

金剛の厚地にして破壊(はえ)すべからず、一切の衆法を出生

し、又能く明らかに一切の世界を照らせり。」


                                              (つづく)                                                                                   

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/05 (Sun) 07:50:16



     藍ちゃん、初日首位も、2日目5打差9位に後退。

ガンバ!






 御講話です。






 これは全く、日本書紀に、天照大御神が御出誕になった時

に、“光華明彩・六合照徹”(ひかりうるわしくりくごうに

 てりとおらせり)、全宇宙に天照大御神の御徳が照り徹って

いる有様を形容しているのと符節を合わしているのであります。

  兎も角、釈尊は、その悟りをひらいて宇宙の真理を自覚な

さった真理の発表の第一声である華厳経に於いて、

宇宙の実相は中心座に永遠変わらざるスメラミコト・天照大御

神・大日如来がましますことをお説きになり、一切の真理のコ

トバはそこから出生して全宇宙を照らしていることをお説きになった。

 だから、これをお説きになることが釈尊がこの世に出られた

最大の目的であり、使命であったといって好いのであります。


   世尊拈華の意義について

 こういう華厳経が釈迦成道の第一声であって、それを理解す

る者が普賢菩薩のほかに誰もなかったので、久しく竜宮海

 なる創造の本源世界にそのままこの真理は沈められていたの

でありますが、梵天王が偶々釈尊の説教会にのぞんで、

 金波羅華を釈尊に献上して「これについて衆生のために説法

して下さい」と言うものだから、金波羅華を大衆に示して

 「ここに宇宙の実相がある」と、その象徴を悟れと仰せられたのであります。

 再説いたしますと、釈尊は、悟りをひらかれてから、宇宙の

実相が蓮華荘厳の姿を内蔵する蓮華蔵世界海であると説いて

その第一声を挙げられたにも関らず、それを理解する者がな

いので、阿含経のような修養説教から説きすすんで、修養の

根本となる欲望の否定を説くために、一切現象の空を説く般若

部のお経を説いて「五蘊皆空・無限耳鼻舌身意」と一切を否定し切られた。

 ところが般若部のお経によって、釈尊は一切を否定し、否定

し切られた末に、いくら否定しても否定し切れない”実相“があ

ることを釈尊は法華部のお経に於いてお説きになったのであります。

 まず当時八十幾歳の老いぼれている現象の「肉体の自分」は

「本来無い」のであって、五百塵点劫以前よりも尚更に

百千万億阿僧祇劫以前から存在する久遠実成の如来である実相

のみが独在するのであるとお説きになり、

 「衆生劫尽きて、大火に焼かるると見る時も、我が此土は安

穏にして天人常に充満せり」とお説きになって、焼け尽きる

現象世界の奥に、永遠に焼けないくだけない実相世界がある。

 そして、その実相世界は、やがてくだける現象世界よりも、

一層確実な具体的な世界であるとして、その光景を描写して、


  園林諸々の堂閣、種々の宝もて荘厳せり

  宝樹華果多くして、衆生の遊楽する所なり

諸天、天鼓を撃ちて、常に衆(もろもろ)の伎楽を作し

曼陀羅華を雨ふらして、仏及び大衆(だいしゅ)に散ず

  我が浄土は毀(やぶ)れざるに、而も衆は焼け尽きて

憂怖諸々の苦悩、是の如き悉く充満せりと見る。


                                               (つづく)                                                                                   

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/06 (Mon) 08:14:48




      破邪顕正様VSトキ様論争、興味津々です。




 御講話続きです。





   妙法蓮華経の題目の意義について

 このように釈尊は実相は“空”にあらず、そんな“有耶無

耶”ハッキリしないところの夢幻的存在でもなく、実にハッキリ

とした具体的な存在であるとお説きになった。

 この真理をお説きになったお経が妙法蓮華経と名づけられて

いるのは、この世界の実相は、妙法即ち妙なる法によって成り

立っている世界であって、その法は蓮華の花びらのように、中

心に巣があって一切のコトバが中心のスメラミコトに

中心帰一している世界だという真理を、文底秘沈の真理として表現しているのであります。

 私たちが、「南無妙法蓮華経」ととなえて有りがたいのは、

それは単にお経のお題目だからではない。

「宇宙の実相は妙法蓮華の相(すがた)である。その中心に

スメラミコトがましますのです。

それが実相です。

 その実相に、私たちの命を帰一します。その実相と、私の生

命は一体でございます」という意味の誦(とな)え言であるか

ら、「南無妙法蓮華経」と誦えることが有りがたいのでございます。

だから或る団体の信者のように、天皇に対して敵意をいだき、

やがて天皇制を廃するための下ごころで、現行憲法を当分の間

護持するつもりで護憲側にまわっているような人々が「南無妙

法蓮華経」と唱えても、”心“と誦える”言葉゛とが一致しません

ので、決して功徳はないのであります。

 蓮の華をもって、”蓮華蔵世界海“即ち大宇宙の象徴とし、そ

の蓮の華の中央にある”巣“をもってスメラミコト即ち

 大日如来・天照大御神が中心座にましますことの象徴とみと

めますのは、一切の存在はコトバによって創造られたのであり

(創世記、ヨハネ伝、弘法大師の「声字即実相」)そのコトバ

をスベテ統合した一番もとの本元のコトバが、「ス」であるからであります。

 万籟寂として現象の音もない寂静の世界に座して耳をすます

と、かすかに現実のひびきではない“スー”の声が感じられます。

これは現象世界のサ行活用の“ス”の声ではないのでありまし

て、皆さんが目覚めている時には、耳に聴こえる色々の言葉を

発言なさいますが、それら一切の言葉を内に秘めて静かに眠り

に入られたとき、その一切の言葉が一つに統べ統合せられた声

が出るーーそれが、“スー、スー”という寝息にあたる声であり

まして、すべての存在の根元であるコトバのすべてが統べられ

統一せられたコトバが”スー“即ち「統べらミコト」であります

から、中心に蜂の巣のような形の”巣“があるところの蓮の華を

もって天皇が中心座にまします宇宙存在の本来のあり方を象徴するのであります。


                                            (つづく)                                                                                   

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/07 (Tue) 08:14:01


  第四インター、なんてとても遠くの存在でした

(*^_^*) そこにいた方(*_*;ともいまだ遠くの存在のままです

( `ー´)ノ





 御講話の最後です。




 そしてその実相世界を蓮華蔵世界と称し、釈尊の成道の第一

声から、世尊拈華の具体的象徴による蓮説法を通じて、更に

 仏法の最高峰である法華経に於いて、宇宙存在の根本のあり

方、従って又日本国家の本当のあり方は、永久変わらざる

 万世一系の天皇が、宇宙存在の根本的鎮めとその中心座にあ

らせられねばならぬことを釈尊はお説きになったのであります。

 法華宗だけでなく、浄土宗の各宗に於いても「南無阿弥陀仏

と称えると、極楽浄土の蓮華の台座の上に坐す」と言われて

いるのは、実相の浄土は、中心にスメラミコトのまします蓮華

蔵世界であるからであります。

 ところが、現行の憲法は、日本国家の主権は天皇には無く、

単なる象徴であり、主権の存する国民の総意如何によっては、

いつでも天皇を廃し得るようになっているので、宇宙存在の根

本的構図に背いている反真理的憲法でありますから、どうして

も、この憲法の非真理を明確にして、釈尊が蓮華経及び法華経

及び、花を拈って具体的に示された天皇中心の明治憲法に復元

しなければ、将来、日本国は非常な混乱状態に陥ることになる

と思うのであります。

 何故なら、実相の真理に背いているものは、一時は栄えるよ

うに見えても、幻の上に築かれた楼閣のようなものであるから

崩壊するほかはないからであります。
                                                 (おわり)                                                                                   

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/08 (Wed) 07:55:35




  「原宿駅が東京五輪で変わる」という記事がありました。

 「とんがり屋根」の、東京最古の木造駅舎は”奇跡の駅舎”とも呼ばれる。

昭和20年4月の空襲で約10発の焼夷弾直撃を受けたが、全弾不発、焼け野原に生き残った、ということです。





 さて、今日からは、「理想世界」5/1号から、


  谷口清超先生の「個の救いから全の救いへ」です。


   人の為に尽くす?

 人間が「正しく生きる」ためには、ただ単に自分一個の幸福

や安全をのみを考えてはいけない。

ということは、常識ある社会人であれば誰しも思うところであります。

 人間は自分ひとりで生きているのではなく、多くの人々と共に生活しているのである。

自分だけの利益を追求していていまだかって完全に幸福であり

得たためしはないからです。

そこで「人は、他人のためにつくさなければならない」といわ

れる訳であり、「他人の幸福を考え、他を愛しなければならな

い」という説は正しいのです。

ところがこれに対して、或る人は次のように反駁するかもしれない。

「それはウソなのである。“他人のためにつくす”といっても、

それは実は“自分の心の満足”のためなのである。

一見彼は他人のために尽くしているような行動をしているかも

しれないが、実は自分のために尽くしているのである。

いかなる人も、未だ曾って、本当に他人のために尽くしてはい

ないのである」と。

この反駁に対して、諸君は果たしてなんと答えるでしょう?一

つ冷静になって考えてもらいたいと思うのです。

たしかに信仰深いと言われる人々の愛行にも、そのような反駁

が加えられる余地がありうるでしょう。

「与える者は与え返される」「愛せよ、しからば愛されん」こ

の真理を実行する側に、「自分が与えられ」「自分が愛され

る」という最終目標のために、先ず人を愛し、人に尽くし、人

に与えようとする思いがないであろうか?

たしかに、いつの間にか、「自分の幸福」ということがひそか

に登場して、ちゃんと舌なめずりをし乍ら待っているーーそういうこともあるのです。

いや「こともある」じゃなくて、それが本当なのだ、「他人の

ため」なんてことはどだいあり得ないのだーーと彼らは強く反駁するのです。

 しからば、「捨身の愛行」をする人の場合はどうであろう
か?

今他人が海におちて溺れかけているとしましょう。

それを見るに見かねて、海に飛び込んで、共に溺れた人がいる。

この場合、助ける人は純粋に人のために尽くそうとしたのではなかろうか?

彼は「あとでお礼をもらおう」とか、「愛せばまた愛し返され

る」などと考えて、海に飛び込んだのではなく、純粋に人を助

けようとして、夢中で飛び込んだのではないであろうか?

こちらの身が死の危険にさらされているのに、どうして”お返

し”のことなど考えうるであろうか?

                                                (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/09 (Thu) 08:33:48



     中仙堂様が引用されている次の「はしがき」につい

て、「学ぶ会」誌7月号で中島代表がその深意を述べられております。


<私は、本書を校正しながら、磔けに釘けられて後復活した

キリストが、ペテロと食事を共にしたのち、「汝この者どもに

勝りて我を愛するか」と三度繰返してたずねられる処に至って

滂沱として涙せずにはいられなかった。「わが汝を愛する事は

なんじ知り給う」とペテロが答えると、イエスは「我が羊をや

しなえ。……われに従え」

と仰せられているのである。名称がキリスト教会であるばかり

ではなく、真にイエスの魂に触れ、イエスに従う者のみが真に

クリスチャンであるのである。

昭和三十五年八月二十五日      著者識す

大聖師 谷口雅春先生 ご高著『ヨハネ伝講義』はしがき>


  清超先生の続きです。






   自分と他人と

これに対してかの”反駁者”は、次のように答えるでしょう。

「それだからこそ、彼は彼自身のために海に飛び込んだのであ

る。彼は彼の”本能”が命ずるままに飛び込んだ。

 それは、そうしなければ自分の気がすまなかったからであ

る。それは、ひとのためではなく、自分の心をなぐさめるためなのだ。

本能的衝動的に、自分の感ずるままの行動をとったのである。

それこそまさに愛他行ではなく、愛自行ではないか」と。
  
さて、皆さん、このような考え方は、どこに間違いがあるのでしょうか?

たしかにどこかに間違った所がある。

それは、彼らの「自分」と「他人」との考え方の中に、根本的

なあやまちがあると言わなければなりません。

この反駁者は、「じぶん」というものを、「他人」と分離し

た”絶対他者”だと考えているのです。

自分と他人一人一人とは、夫々孤立した存在であるという”先入観念”を抱いている。

そこに根本的な間違いがあるのです。

ところが実をいうと、人間は断じて孤立した存在ではないのである。

「自分」の中に「他人」が住し、一見「他人」と見ゆるもの

も、実は「自分」の投影なのであります。

「一即他」であり、「他即自」であるのです。

宗教的にはよく「自他一如」といわれますが、この「一如(い

ちにょ)」という言葉は「一つ」であって独立性がないということではないのです。

夫々独立した人格をもちながら、しかも一つのいのちを生きているという「如」であります。

生命の世界は、かくの如く多次元的であって、三次元世界の肉

体観で割り切るわけには参りません。

その生命界を唯物論者はすぐ三次元的に割り切って考え、

「自」と「他」とをバラバラに分離して見るのである。

そして自分のためにのみ生きているのだと結論するのですが、

そこに大変な間違いがあると言わなければなりません。

ところが御本人はその"間違い"に気がつかない。何故気がつか

ないかというと、依然として唯物人間観をもって、三次元の世

界でしかものを考えることが出来ないからであります。

しかし真実のいのちは、物質のいのちではないのです。

だから、自分の幸福が他人の幸福と直結しているということになる。

他の人を愛する事が、直接自分を愛することにもつながって来る。

自分を本当に愛しようとするならば、どうしてもひとを愛しなければならなくなるのです。

ところが「自分だけを愛しよう」とする心は、自己を自己の肉

体の中に閉じ込めるところの”自己限定”をすることによって、

かえって他人を含んだ「本当の自己」を苦しめ、不幸とするのであります。

之に反し、「ひとのために尽くそう」という愛念を起こして行

動すれば、それだけ自分がひとの領域にまで拡大して、

「真実の自分」を自覚し、表現することになる。

こうして「愛他行」は、必然的に人をして「真の人間」たらし

めるのでありますが、「利己心」は「真の人間」を覆いくらま

すという結果になるのであります。

                                               (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/10 (Fri) 08:15:12


      六花亭もえらい迷惑ですね(*_*;

写真のご本は読まなくちゃ。





 清超先生のご文章です。




    人と国と

それ故吾々は、自分の都合がよくなったり、自分が「与えかえ

され」て豊かになることを、決して坑んだり、否定したりする者ではないのです。

神様は「凡ての人の幸福」を実現し完成されているのであっ

て、「凡ての人から自分を除いた者」を幸福にしようとしておられるのではない筈です。

従って凡ての人は大いに自分を幸福ならしめてよいのです。

自分の心の満足のために愛行をすることは、何も悪いことでは

ない。自分もひともみなそれで幸福になれるのです。

それは「自他一如」だからです。

しかし「自分だけを」という考えはよろしくない。即ち、自分

だけのく福を追求したり、「自分が不幸にならねば神の

御心に叶わぬ」という間違った自己犠牲の考えは、自他分離の

三次元的発想法であるが故に、いずれも正しくはないと言わなければなりません。
 
 そこで当然吾々が国家生活をなす場合、国家全体の幸福をね

がい、祖国を愛し、祖国のために尽くす人の方が、利己主義に

こり固まっている保身主義者よりも、正しい生き方をしている

と言わなければならないのです。

誰だって自分の幸福を求めない者はいない。しかし、その

「自分」というものが、「祖国」と離れがたく結びついている

ということが判ったならば、祖国を愛し、祖国に尽くすことが

自分の幸福でもあるのだということ判る筈である。

「自分」の中に「祖国」があり、「祖国」の中に「自分」があるのです。

これが判らず、とかく人は「自分と他人とが寄り集まって別に

国家というものを便宜的に形成していると考えるところの三次元的発想法をとる。

そこで、「国家なんか滅んでも、自分さえ安全に残っていれば

よい」などという甘っちょろい考えにとらえられてしまうのであります。

 しかし乍ら、考えてもごらんなさい。

日本という祖国を除外して、今のあなたがどうして今の如くあり得るでしょうか。

吾々は、どこかの父母から生まれて出たに間違いないが、その

父母は日本人であり、おそらく日本の地において日本人の中で

生活して来られたにちがいありません。(例外はあるが。)

この具体的事実をみるならば、吾々の生活の基盤には、日本という国が厳然としてあるのです。

従ってこの国を良くすることなくして、どうして吾々の幸福がありうるでしょうか?

                                                 (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/11 (Sat) 08:16:05




     朝日デジタル、だそうです(*_*;





 清超先生の続きです。泣いていらっしゃるでしょう。





   愛国的とは

例えば、今、あなたが突然日本人でなくなって、中国人になったと仮定しましょう。

そうすると、日本では永住できないことになるから、近い将来

中共かどこかへ行ってもらわなければならない。

すると、中共では御存知の「革命」があれ狂っているから、早

速「汝は毛沢東を礼賛するか?」と来るでしょう。

 毛を礼賛しなければ、たちまち紅衛兵につるし上げられる。

国家はあなたの個人的思想をいやおうなしに変革しようとする。

あなたが「日本」という国から分離すれば、今までのように

「自由に自分の意見をのべる」生活は不可能になる。
少なくとも限定されるのです。

それは現実世界中で、日本ほど言論が自由な国はちょっと見当たらないからです。

そしてあなたの日本人的思考や趣味や教育や遺伝は、根こそぎ

洗い流されなければ、あなたはあなたの内部の国家をすてることが出来ないのです。

見せかけはいかに世界人らしく方々の国を旅行して廻っていて

も、あなたのポケットの中に日本国政府発行の「旅券」がある

限り、あなたは断じて日本国から分離できてはいない。

あなたのその自由な旅行生活や自由な世界人的ジェスチュア

は、あなたが「日本人である」事実を基盤として保証されているところのものであります。

だから、あなたは日本国から分離できはしない。どこかの国に

亡命しても、又帰化しても、あなたの心の中にある「日本人の
心」はなくなりはしない。

そしてその心の中に「日本国」という理念があり、しかも日本

国は、実はあなたの「中」にあると同時に、あなたをしっかりと包んでいるのである。

だから、あなたは日本国の「中」にあるいのちなのであります。

従って吾々は、この場合でも、「国家」を外形的唯物的に考え

てはいてはならない。そんなものは本当の国家ではなく、国家
の形骸であります。

本当の国家は、「神の理念」の中にある「神の国」であって、

その「神の国」があなたの中にあり、しかもその「神の国」

(実相日本)の住人としてのあなたは既に「神の子」なのであります。

つまり”神”と”神の国”と”神の子”とは「一如」であり「三位一

体」であることを知ることが大切です。

 さてそうなると、愛国行動なるものは、同時に又自分を愛す

ることでもあり、他人を愛することでもあるわけです。

さらにまた全世界の人類を愛することにも連なって来るのです。

それは、「愛国行」が、愛他行的に展開すれば、当然自国のた

めのみならず他の国々のためにもなる行動となるからであります。

具体的に言えば日本が安全で平和で繁栄することが、アジア並

びに全世界の安全と繁栄に貢献するということになるのであります。

どこかの青年のように日本の安全や幸福をほっといて、他国に

忠誠を尽くして、世界を平和ならしめるというようなことはあり得ないことであります。

                                                  (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/12 (Sun) 07:53:12


  がんこ親爺様が吠えていらっしゃいます!(^^)!

 藍ちゃん、大叩き、残念下降(*_*;ガンバ!



 清超先生のご文章です。




    国家の主権と独立


そこで日本を安全にし、繁栄せし、地上天国たらしめるには、一体どうしたらよいでしょうか。

それにはどうしても、そこに住む人々が、「神の子・人間」を

自覚するように真理を広く伝道しなければならないのであっ

て、その伝道には愛行実践が何よりも大切であります。

こうして日本国民の大多数が真理に目ざめるにつれて、日本は

安全となり、繁栄し、中心帰一的となり、「生命的独立体」となってくるのです。

国家が「独立性」をもち、自由に「行動する」ということは、

そこに国としての「人格」を確立することであり、それは「生

きているもの」として認められることでもあります。とする

と、国家は「生命体」でなければならず、その「生命体」には

他からの侵入や侵略は許されないということになる、これが国

家が”独立している”という事実であります。

ところが中には、国家が”独立”している尊さを自覚せず、どこ

かの国が侵略して来てもよいではないかと考えたり、「主権の

自由」の尊さを無視して、どこかの国の隷属国家の如きに行動

をとらしめ乍ら恬として恥じない者もいない訳ではない。

これは国家を「生命体」としてとらえようとせず、単に「死

体」か「制度体」として捉えているからでありましょう。

もしそのように捉えるならば、この世に存在する「生命体」と

しては「個人」としての人間だけになってしまうので、当然の

如く個人第一主義の考え方をとるようになる。

そして国なんかどうでもいいと考えるのでありますが、それな

らば、「独立」とか「自主外交」などという口はばったいことは言わぬことです。

外交なども、主権的人格のないところにはあり得ない概念です。

吾々が国と国との”交際”とか”生存”とか”独立”とか”行動”とか

を口にする以上、どうしても国家を生命体として捉えなければなりません。

しかも独立した「生命体」は、中心的人格(元首)をもつのが当然であります。

而して国の元首は、永遠性をもつ(天皇として)のがもっとも

理想的なのであり、その生命体は外部から主権を「侵されな

い」ところの「威」を備えていなければならず、それが国家の

軍備となって具体化するのであります。

何故かというと、ここにいう軍備は広い意味でのそれであっ

て、国民的自覚を主体とした、その物的裏づけでありますか

ら、必ずしも敵に対する攻撃を備えるところの”戦争のためのみ
の準備”ではありません。

けれども「威」のあらわれであるから、そこには外的侵入をハ

ネ返すだけの「力」が示されていなければなりません。

その力は本当にハネ返しうるところまで行くのが本当であろう

が、現実には少なくとも堅い意志が示されているのであり、そ

れが現実の「軍備」となったり「生産力」となったり、「愛国

的心情」となったり、「安全保障体制」となったりしているのであります。

                                                 (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/13 (Mon) 08:41:04




    <「今神界では日本国実相顕現の大きなうねりが起き

ている。今まで日本国を貶めていた暗黒思想を解き放つ動きが大きくなっている。

 『生命の實相』生活篇で、夜明け前が一番暗い、最後まで耐

え忍べ、信仰成就には時間が必要であると説いたであろう。い

よいよその動きが本格化するのである。その前には、闇がうごめくのである。

 キリストもサタンに誘惑された。生長の家教団が今の教えと

唱えこれまでの私の教えを信奉するものを原理主義と唱える動きもそれである。」・・・>。

 さすがのコスモス様もこの言葉に感動していらっしゃいます(^^)/。






  清超先生のご文章です。



    軍備はもつべきか

 ところが日本が軍備をもつことに反対する者は、”軍備”がそ

のまま”戦争準備”であると考える。

 そして、こちらが軍備をもてば、それはこちらに敵愾心があ

ることを証明し、それが相手国を刺激して、却って世界を
 不安ならしめる。

 それは「心と心との感応」であって、当然そうなるのだか

ら、日本は軍備をもたない方が安全であるというのです。

 しかしこの考え方には、大変おかしい箇所があるのです。と

いうのは、もし「心と心との感応」や、「こちらの軍備が相手

 の軍備を誘発する」という理論が正しいとするならば、今現

に、日本以外の凡ての国々がもっている軍備が、日本の

 軍備保持を当然誘発しなければならないという理屈(それが

実現して”自衛隊”となっている)を見落としているからです。

 つまりこの考え方によると日本が軍備をもってもともとで

やっとノルマルな国際的均衡になるということになる。

 彼らは、日本を公平に「心と心との感応の法則」の中に組み

入れていないで、日本にだけ特別の”忍従”を強制しようとして
 いる。

何故「日本」だけを「心の法則」の除外例としようとするのか?

そしてもしそれが「心の法則」であれば、世界中の軍備に対し

て日本だけが軍備をもたないだけの心的能力を現在の日本が

もっていると何故考えるのか?

しかも軍備は、単に戦争準備というだけのものではなく、

「威」の具体的現世的表出であるにおいておやであります。

「しかし」と彼らはいうかもしれません。「”生長の家”の一切

礼拝三昧の精神から言えば、たとい全世界が軍備を持っていて

も、尠なくとも日本だけは拝み切って軍備をもたなくておれば

いいではないか。それが”大調和の精神”ではないのか」と。

 しかし、前述の如く実相にある「威」は、何らかの形で現実

にあらわれ、「国家の独立を保持する力」となって来なければ
ならないのであります。

とすれば、そのあらわれは、他国の現実と相関的になるのが当

然で、それが「人・時・処三相応」の原理でもあります。

たしかに精神において一切の国々を拝み切るのはよろしいので

す。しかし、そうするのには形に「威」をあらわしていてもよいではないか。

いや、本当に拝むときには当然「威」がそなわるものであります。

そして具体的には、軍備があっても、砲口は必ず隣国に向けていなくてもよい。

刀は必ずしも隣人に向って抜き放たれていなければならない事

はない。むしろそれは”鞘の中に納められている“方が、万人に対して威力がある。

しかし刀はちゃんと鞘の中にあって、いつでも瞬間的に抜かれ

る状態にあるべきで、敵が出て来てからコツコツと作り出すのでは間に合わないのであります。

 さらに、「日本が一切の国を拝む」と軽々しく言うが、一体

「拝む」ということをどれだけの日本人が本当になしうるであろうか。

「実相を拝む」となると、さらに数少い人々しか出来ないでしょう。

悲しいことに、現実の日本人は、ほとんど千人に一人しか

「生長の家の説く「実相礼拝」を知っていないのであります。

つまり国民の僅か0・一%の人々が「実相を礼拝する」心を

もっているだけであるから、どうして「日本国が他国を拝む」ことになりうるでしょう?

それ故吾々は先ず当り前の適当な軍備をもって国をまもりつ

つ、日本国民の大部分が「実相礼拝三昧」となりうる状況に

もって行くために、同志の数を飛躍的に拡大しなければならないと言っているのであります。

しかるに、「軍備反対」の若人自身が、中々その拡大行動をとってくれていないのであります。

                                                  (つづく)




Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/14 (Tue) 08:32:47




       イソップ寓話『酸っぱい葡萄』、う~ん、たし

かに思い当たる節はありそうな。深いです!(^^)!

 また、犬塚博英、田中忠雄、野尻稔さんのこと知って感動モノです。

 田中先生のことはある程度は知っておりましたが。




 清超先生のご文章、最後です。




さらに吾々は、あらゆる手段をとる自由を持っている中で、礼

拝三昧をとるときに、真の自由人たりうると考えるのであります。

つまり、自分が無力であって、敵に対抗する手段も何ももたな

いでいて、仕方なくおとなしくしているのと、あらゆる対抗手

段をちゃんともちながら自主的に「平和的」であり、「礼拝の

心」でいるのとでは、本質的に全くちがうということを言いたいのです。

「闘う体力がない」のと「闘う体力があっても、それを正しい

行動に使う」のとは月とスッポンほどちがうのです。

そうして人間としても国家としても後者の行き方をとるのが吾々は正しいと思う。

しかるに軍事力となると、急においそれと整えるというわけに

は行きませんから、前もって周到な計画の下に準備しておかな

ければならず「安保体制」等のことも充分考えておく必要があるわけです。

そうでなければ、ただ単に「闘う力がない」即ち国家という生

命体として「ヘナヘナの体力である」というだけに終わり

、それは“敵愾心”がないのと根本的にちがうことになる。

 たしかに、“敵愾心”は過大な軍備をもたらすでしょう。が、

軍備全体が“敵愾心”そのものの具体化ではなく、その中核には

「威」の精神内容があるのです(『我ら日本人として』参照)。

だから吾々は、日本が不相応な過大な軍備をもつことを断じて主張しはしない。

あらゆる方面から考えて、最小限度の安全を保証しなければな

らないのであり、それには現実としては安保条約下のいささか

の軍備(自衛隊)を必要とすると言わざるを得ないのです。

 若しそれを現憲法が禁じているのであれば、それは禁じてい

る憲法が”憲法違反の憲法”(成立過程が間違って”押しつけられ

た憲法)であるからであって、すべからく正しい憲法にもどさなければなりません。

 何故なら、「日本国」は”憲法”のために存在するのではな

く、「日本国」のためにこそ”憲法”が制定されている筈だからであります。

                                                  (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/15 (Wed) 08:14:39



  「継続は力なり」叫んでおります。

 信徒連合様が…。良き方向へ参りますます様に…。





   昭和42年「理想世界」誌5月1日号より。

  谷口恵美子先生「美しき家庭の創造」


 わが子が産まれた時、はじめて聞く産声の響きに母はどんなに感激したことでしょう。

新しい生命の誕生への畏れと歓びは母になった人しか知らない歓びでもあるのです。 

まだ母になったなどと思うこともできないそのひととき、ただ

生きている小さい生命への驚きに思わずうれし涙をこぼさずにはいられないのです。

「こんにちは、赤ちゃん、わたしはママよ」という歌がはやっ

たことがありましたけれど、これは母が作った歌ではないのです。

パパになった父が生まれた赤ちゃんに会いに行って自然に「こ

んにちは、赤ちゃん、わたしはパパよ」と出て来た歌だと思います。

母は一目見た赤ちゃんが、生きていることにただ黙って感動し

て涙するのが本当だと私は思うのです。

このようにして神より恵まれた一つの新しい生命は両親の愛に

育まれ成長して、適当な配偶者を得て、又新しい家庭を造り、

父母と同じような感激をへて父となり母となり人間は何千年と暮して来たのです。

つまり家庭は、夫婦愛、親子の愛、兄弟姉妹の愛、によって結

ばれ支えられて、美しく楽しく調和した姿を保っていくところ

に限りない人生の歓びを知り、仕事にも生甲斐を感じ、充分の力を出すことができるのです。

 ある有名人が婦人会の時に、

「私は幼い時に父母が別れたため、母が働いて女手一つで育て

られました。ですから私は、夫婦は仲良くとは申しません。

それはむつかしいことですから。皆さまは、互いに勤め合って

いくことによって家庭を壊さないでほしいと思います」

とおっしゃったのを聞き、私にとっては、「夫婦は仲良くとは

申しません。むつかしいことですから。」という言葉は珍しい

ことを聞いたように不思議に耳に響きました。

そして私達は幸せなのだと、今更のように有難いことだと思ったのでした。

夫婦というものは仲の良いのが本来の姿だということは、私の

「考え」などではなく、私の信じている心の底からの「想い」なのです。

どうしてかと聞かれれば、私達はとても仲が良いし、父母も又

仲睦まじいからです。

それに私達の知っている人達も、もとは大変仲が悪いような状

態でも、お互いが神様の子であり仲が良いのが当り前であると

いう真理の言葉を聞き、愛行を続けられた時に、それらの人が

このままが天国のような家庭を感謝をもって送っていらっしゃるのを知っているからです。

                                                  (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/16 (Thu) 08:26:25


   お金の魔力はどこにでも蔓延して・・・、「本流」の

行く手さえ阻んでおります(*^_^*)。どうにかしたいですね、ほんとに。



 恵美子先生のご文章です。



「喧嘩をしない夫婦なんて本当は仲が良くないのよ。」
 
など知ったかぶりして、喧嘩を楽しむ人も時にはあるようです

けれど、何故喧嘩をしなければ成らないのか分かりません。喧

嘩という言葉は荒々しくてどうもいけません。

兄弟喧嘩も仲が良いとするのかどうか知りませんが、

二人の女の子に、

「あなた達、ちっとも喧嘩しないわね」

 といいますと、

「あら!私達けんかしてるわねえ」

と楽しそうに顔を見合わせて笑っています。

自分でそう言うのですけれど、私にとってはちっとも喧嘩に見

えるような場面に小さい時から出会わないのです。

男の子二人もふざけっこから取組み合いになっても、楽しんで

いるとしか見えませんし、まことに賑やかな雰囲気です。

同じ家族の中で憎み合ったり嫉妬したりするはずはないと思い

ます。そんなことがあるはずがないではありませんか。

夫は妻を信じ、妻は夫を信じ、親は子を信じ、子は親を信じ

て、互に夫婦であることを感謝し合い、親子であることを感謝

し合い、兄弟姉妹であることを感謝し合って、神に生かされて

いることを心から信じ合っていましたら、家庭は自然に美しくなるより他ないと思うのです。

近頃は、核家族という言葉が出来て、夫婦単位に別れ住み、子

供も一人か二人という風潮が見られますが、お嫁に行くなら

「家付き、カー付き、ババぬき」など耳ざわりなことも言わ

れ、一般に若い人は利己的になったようにいわれています。

配偶者を選ぶにも、沢山の条件を出して、四、五万以上の収入

で背丈は百六十五センチ以上の人とか細かい注文をつけたりな

さるので、仲人さんが「この人、一センチ足りないけど、いい

かしらね」など話し合ったりするのを聞きます。

勿論こんな人ばかりであるはずはありません。

物質的な豊かさに魅かれる人にはその人にふさわしい人が見つ

かるでしょうし、信仰あつく、神が自分に最もふさわしい人を

必ず与えてくださると信じ、今あるところで最もよき生き方をしている人もあるでしょう。

善き種子を蒔いた人には善き収穫があるように、常日頃のその

人の美しい生き方は、必ずよき運命と配偶者を得ることができるでしょう。

よき娘はよき妻となりよき母となり、明るい楽しい家庭を造り
出すことができるでしょう。

 家庭の中には、夫、妻、子供、それぞれがに役目を持って暮

しているわけです。男女平等、人間尊重などという言葉を鵜呑

みにして、夫も妻も同じようなことをするのが良いとか親のす

ることは子供もする権利があるように取違えたりするところに

家庭の秩序が乱れ、混乱が起こってくるのです。

特に最近は、共稼ぎが増えまして、妻は夫と同じ権利があり偉

いように思う人もあり、女性の天分である愛はどこへやら置き

忘れてしまう人さえあるようです。

自分が楽をするために子供は数少なく産んで、生活を楽しむ人

も多くなりましたし、好きな勉強の方を家庭よりも大切に思う人もあるようです。

先日もテレビに出た奥様は「主人は七時には帰って来ますの

で、もう少し遅く帰って欲しいと思うのですよ。そしたら本も

沢山読めますし」とおっしゃっているのを聞いておどろきました。

 女性の天分は愛であり、よき家庭を造って、そこに住む家族

が大調和のうちにそれぞれが仕事や勉強ができるように、愛念

をこめて仕事に励むところに自分自身のよろこびが湧くのです。

家族の神性を拝み、和顔愛語賛嘆を実行するところすばらしい

家庭が造られるでしょう。
                                                  (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/17 (Fri) 08:23:12


   コスモス様に大賛成です(^_-)-☆

 また、盛田様が仙頭泰先生のご講演を紹介されております。

感動の内容です。

 伝統様のご寄稿にも注目です。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6915417






 昭和42年「理想世界」誌5月1日号より。

  谷口清超先生「窓」欄より。


○今年になってはじめての講習会が高知で行なわれるので、前日
羽田からYS機で高知に行った。

高知県ではごく最近まで生政連活動にからんで色々幹部間の交

替があり、青年会の執行委員長が中谷美穂子という女性の”課長
さん”に変わっていた。

白鳩会長さんは新保さんが移転したので関さんに変わったりして、ちょっと実力が完全に出せなかったようであった。

しかし千六百二十五名の参集者があり、講習会は天気もおだやかであたたかく、平穏であったのは有難いことであった。 

二日間を終えて空港の待合室で沢山の見送りの方々とを待って

いると、全日空の予定していた飛行機が事故のために欠航になったとアナウンスされた。

大分から高知に着いた機体に何か重大な故障があって、ちょっと修理の見当がつかないから、とりやめにするという。

しかし国内航空の七時すぎの飛行機があったので、私はそれに移乗して、とにかく無事に東京につけた。

そのため高知空港ではだいぶ長いこと坐って待っていたが、そ

の間連合会長さんの岡本茂男さんが、かつての松山沖で遭難し

た全日空YS11に乗るところであったのを、不思議にも助かったという話をされるのである。

岡本氏の語るところによると、その夜は大雨がふって、風もき

つく、大阪空港のは沢山の乗客がっ欠航便や遅延便のために一

杯あふれていた。その大部分は新婚組で、ことに九州へ行く人達が多かった。

岡本氏は宇治の幹部会を了え手、高知市の市会議長とその秘書

との三人で、高知行きの便を待っていたが、何となくいやな予

感がしてきた。そのうち四国行きは、松山行きを除いてあとは

全部欠航となり、ただ一つ松山行きだけがフレンドシップ機を

YS11機に変えて出発するというアナウンスがあった。

YS機になると座席にまだ余裕があるから、四国へ帰られる方

で松山行きに乗られたい方は、今からすぐ申し込んでくれとい

うアナウンスであったので、乗客は切符の取消しや変更のためにカウンターにつめかけた。

そのとき岡本さんのつれの市会議長は「松山行きに乗って松山

まで行こう、そうしたら市の自動車が松山に来てくれるから、

それにのって今夜中に高知に帰れるから」というので、松山行きの切符に切りかえるべくカウンターにならんだ。

岡本氏も松山行きをすすめられ、三人でカウンターにならんだ

が、どうしてもいやな予感が去らないので、「今晩はこのまま

ホテルにとまって、明日の一番の便で帰ろう」といって、市会

議長の胸にさしてある搭乗整理券を勝手に引きぬいて、岡本氏

が三枚とも明日の第一便に切りかえてしまったのである。

さてそれからタクシーで大阪市内のホテルに向かっていると、

市会議長はブツブツと文句をいい、岡本氏の勝手な行動を怒っ

ておられるのであった。何の具体的理由もなく、今晩かえれる

松山行きを勝手に変更してしまったというわけである。しか

し、ホテルについて、テレビをつけてみると、おどろいたこと

に、今まで乗ろうとしていたYS11機が松山沖で行方不明になっているニュースであった。

もしあのままそれにのっていたら、今ごろはどうなっていただろう?

たちまち「岡本君、君はいのちの恩人だ」ということになってしまったのであった。

このように、間一髪のところで遭難機にのらないでたすかると

いうことは、どうしても「心の法則」の実在を示すものであ

り、人間はすばらしい智慧をもち、又、心の波長の合っている

ものには霊的な啓示が天降り、安全にまもられるものであると
いうことを表わしていると言えるのである。
                                                  (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/18 (Sat) 08:18:26



       伝統様、わざわざお出かけいただきまして

ありがとうございます(^^♪

 早速調べますが、現在の謹写が「昭和42年」ですから、さて

「前年」の存在は少々あやしいような気もしております。

まずは少々お時間をいただきたいと思います。

ご期待に応えられればうれしいですけど・・・(^^♪。





  清超先生の「窓」続きです。大聖師の31年祭のお孫さんの

暴言(*_*;には口、あんぐり状態です。







○本年度の運動方針案にもある如く、今年こそは先ず「伝道」に力を入れなければならないのである。

吾吾は単に一個人だけ救われたら良いというものではなく、又

仲間だけが集まって、趣味的なディスカッションに終始してい

るだけはならないのであって、一人でも多くの同志を具体的に

獲得し、日本の未来を堅固なる基礎におかなければならないのである。

そこで吾々は今年こそ総力を結集して「誌友」づくりをし「組織」づくりに邁進しなければならない。

そこで今迄のような一ヵ月に一回などという集会の持ち方では

なく、毎週一回という会合をどんどんつくって行かなければな

らない。そうすると毎月一回集まっていたときに少数しか集ま

らなくても、毎週一回ということになると、かえって沢山あつ

まって来られ、活発化するという実例を、広島県などではあげているのである。

映画でも付き一回繰り見に行くよりは、週一回見に行くときの

ほうが”魅力”を感じ、熱中する傾向があり、ついには行くクセ

になってしまうという事実がある。私は決してここで映画に毎週出かけろと言ってるのではない。

魅力ある“例会”を毎週持とうではないかというのが、今年の課題であるというのである。

さらに又、今年こそ「分会」を積極的につくって「単青」をふやして行くことにしようではないか。

戸別訪問などにより、どんどん新しい分野を開拓して、誌友を

拡大し、同志の班・分会・単青づくりをしっかりとやり抜こう。

それが凡ゆる光明化運動の基礎となり原動力となるのである。

青年大会の会場もきまり、準備もととのった。

大いなる成果のあらわれんことを切に祈るものである。

                                                  (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/19 (Sun) 08:03:35


       伝統様、ありがとうございます。

やはり捜しましたけれども、小生の謹写が昭和42年のものからで

すので、手元にあるものはその年から、ということになります。

 残念至極、願いは聞かれませんでした( `ー´)ノ

ちょっと検索しましたら、次のおそろしげなサイトに、

谷口雅春先生の「日本の回帰」の記述がありましたが、さっぱり参考にはならないようです。ご存知かと思いますが。

アインシュタインの予言の真相はいかがなものなのでしょうか?

逆質問になってしまいました。おゆるしください<m(__)m>。


 童子様が興味のあるご投稿されておりますね!(^^)!。





Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/19 (Sun) 10:38:35


   伝統様、誠に失礼いたしました。

 「おそろしげなサイト」を紹介するのを忘れました<m(__)m>。

こういうサイトです。

http://blog.livedoor.jp/gasevia/archives/16525479.html

 ここにはアインシュタインの予言が?であるという不思議な
主張が出ております。

 伝統様は、どうお考えなのか教えていただければ、と思いお尋ねしたわけです。

朝ボケの為に、誠に申し訳ないことをしてしまいました。

よろしくお願い申し上げます。

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/20 (Mon) 08:20:07



>『理想世界』は「生長の家」の機関誌の一つであるが、その昭和41年10月号に、
>谷口雅春氏は「日本への回帰(一)」という論説を書いている。<・・・。

 おそろしげなサイトの、ここになにかの手がかりが…、と思ったのですが、力及ばず(*_*;。

 今迄、大聖師の御著書等で見かけた、すばらしいインパクト

のあるエピソードと単純に皆に吹聴していた自分が恥ずかしいです。

 伝統様のご探求を待ちます。理想世界41年10月号だって

必ず保有されてる方はおられるのですから(^^)/。

 ですけれど、「大聖師の霊言」感動ものです。

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/21 (Tue) 08:39:59

<・・・しかし諸君よ、故国にいながら、故国の良さに目覚

め、故国を愛することに悦びを感ずる者はまことに幸いなるか

なである。此らの人たちはまことに覚者である。

日本の将来の興隆は、まことにも諸君の双肩にかかっているの

である。諸君の責任はまことに重且つ大である。

佛人ポール・リシャルは『告日本国』なる文章で日本の国を次の如く讃えて曰う。

「諸々の神に愛護せられたる國よ、諸々の神もまた汝に於いて

互いに相和せり。異なれる神の宗教は、到る処に互いに相呪う

を常とするに、独り汝の宏量なる奉仕のみは、互いに他を排す

ることを為さずして、却って相補全せしめたり。異なれり神の

宗教とは何ぞ。一は神の内在を教え、自然の諸々の生命が躍動

する空間に於て、祖先が生動する時間に於て、万殊に通ずる

一如を教えるもの、他は即ち神の超在を教え、時空を超越し

、永遠の寂静裡に至上の祝福を司り、独一の中に万殊を蔵する

を説くもの是なり、而して世界に於て流血の汚れに染まず、

『地に平和あれ』と宣伝するの権利を保有するものは、唯だ此

等両個の宗教のみに非ずや・・・・・」(大川周明博士訳)

ポール・リシャルのこの賞讃の言葉にも拘らず日本の現実の

宗教は諸宗諸派に分岐れ、互いに境を分ちて相軋り合っている

のである。しかしこれは、職業宗教人の生活や面子のために為

すところの歪められた宗教であって、“万殊に通ずる一如を教え

る”真の日本の宗教ではないのである。真に日本的なる“万殊に

通ずる一如を教え、独一の中に万殊を蔵する”宗教は、ただ萬教

帰一の“生長の家”のみである。・・・・・>。

さらに曰く、

<ポール・リシャルは、また『日本の児等に』と呼びかける題

の下に、次の如く歌って曰う――


     日本の児等に


 曙の児等! 海原の児等!

 花と焔との国、力と美との国の児等!


 聴け、涯しなき海の諸々の波が、

 日出ずる国の島々を讃える栄誉の歌を


 汝の国に七つの栄誉あり

 故にまた七つの大業あり

 さらば聴け、其の七つの栄誉と七つの使命とを

       一

独り自由を失わざりし亜細亜唯一の民!

汝こそ自由を亜細亜に与うべきものなれ

       二

嘗て他国に隷属せざりし世界の唯一の民!

一切の世の隷属の民のために起つは汝の任なり

       三

嘗て滅びざりし唯一の民!

一切の人類幸福の敵を亡ぼすは汝の使命なり

       四

新しき科学と古き知恵と、欧羅巴の思想と
 
亜細亜の精神とを自己の衷に統一せる唯一の民!
 
此等二つの世界、来るべき世の此等両部を統合するは汝の任なり

       五
 
流血の跡なき宗教を有てる唯一の民!

一切の神々を統一して更に神聖なる真理を発揮するは汝なるべし

       六

 建国以来一系の天皇、永遠に亘る一人の天皇を奉戴せる唯一の民!
 
汝は地上の万国に向かって、人は皆な一天の子にして、
 
天を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教えんが為に生れたり

       七

 万国に優れて統一ある国民!

 汝は来るべき一切の統一に貢献せんが為に生れ

 また汝は戦士なれば、人類の平和を促さん為に生れたり


曙の児等! 海原の児等!
 
斯くの如きは、花と焔との国なる汝の七つの栄誉、七つの

大業なり(大川周明博士訳)・・・>。


  谷口雅春先生 「第二 青年の書」より抜粋。


  アインシュタイン博士の予言はともかくも、後にこのよう

に日本の国柄を賞讃される人物がおられたことも事実であります。




        合掌、ありがとうございます。

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/22 (Wed) 08:13:11



    <・・・私の好奇心が最高潮に達したのは、

「北野丸」が日本の海峡を進むとき、朝日に照らされた無数の

すばらしい緑の島々を見た時でした。[*p140]


 景色ばかりでなく、その時に同乗していた日本人船客らの態

度も、アインシュタインを感動させた。

 しかし、いちばん輝いていたのは、日本人の乗客と乗組員全

員の顔でした。

 いつもは朝食前にけっして姿を見せたことのない多くの華奢

なご婦人たちは、一刻も早く祖国を見たいと、ひんやりとした

朝風も気にせず6時ごろにはいそいそと甲板に出て、楽しげに歩き回っていました。

私はそうした人々を見て深く感動しました。

 日本人は、他のどの国の人よりも自分の国と人びとを愛しています。・・・[*p140]

 これが、アインシュタインの40日以上に渡る日本滞在の始まりだった。・・・>・・・。


伝統様のご投稿から。涙腺をやられました('◇')ゞ






  昭和42年「理想世界」誌6月1日号より。


 谷口雅春先生 輪読のための青年法語「創造者としての人間」より。


 十一日のことば ◆ あなたの容貌を魅力あるものに

暗い想念感情を持っているときはその表情がやはり暗いものと

なり、それが習慣的に成る時には、その「暗さ」が固定した人相になるのである。

暗い人相をしている者は人から好かれないから、その暗い人相

の通りに、その人の運命も暗いものとなるのである。

美貌は女性ばかりに必要なのではなく、人を魅きつける魅力の

ある人でなければ多くの同志や協力者を引きつけることができ

ないので大事業を成すことはできないのである。

生まれつきの顔の骨骼の如きものでも、信仰によって著しく変

化した例がないことはないけれども、たとい顔の骨骼や目鼻唇

の配置がどうあろうとも、それに光を添えて崇高な美しさをも

たせることは精神によって可能なのである。

ドイツのモルトケ将軍は雙眼(かため)であったけれども、人

をして畏敬せしめる尊厳さを失わなかったといわれている。

日本でも小泉信三氏の如きは戦争中、爆撃の戦禍を受けて顔の

皮膚全体が崩れてしまっていたけれども、精神の力で人をして

尊敬せしめ、また親しまれる不思議な容貌を備えていたのである。

外から化粧品を塗るよりも、内から自分の想念感情を美化する

ことによって、あなたの容貌を美化するがよい。


 二十七日のことば ◆ 困難を克服するには忍耐が必要である

エジソンが初めて蓄音機の発明にとりかかったとき、その蓄音

機の振動板から子音だけのSの音(おん)が発声しないのであった。

彼は毎日色々工夫して実験に実験を重ねて一日十八時間乃至二

十時間speciaという語を吹き込んで蓄音機がその音を完全に再

生するかどうかを試みたが、”スペシア、スペシア、スペシ

ア・・・・・“と彼が吹き込んでも、蓄音機は”ペシア、ペシ

ア、ペシア”と発声するだけであった。

その”ペシア、ペシア、ペシア”という不完全で単調な発声の繰

り返しを二十時間も毎日聴いていることは普通の人にとって

は、もうウンザリしてイライラして来て、気でも狂うか、神経

衰弱になりそうな仕事であったのである。

けれどもエジソンはそれに耐えた。

そうして、ついに、子音だけのSの音をも完全に発声する蓄音

機の製作に成功したのであった。

常人に抜きんでて立派な仕事を完成するためには、仕事をやり

始めたら、どんな退屈な困難な障碍があっても、中途で挫折し

ない忍耐力を必要とするのである。

                       (つづく)




Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/23 (Thu) 08:24:39



   江戸の討ち入りは12月14日でしたが、現代の

討ち入りは?・・・。





   昭和42年「理想世界」誌6月1日号より。

 谷口雅春先生 「現行の日本国憲法前文の非合理性と非真理性を明らかにする」


     はたして現行の憲法は日本に適する憲法か


 現行の日本国憲法は平和憲法であり、人類の平和理想を憲法

上に完全に具体化した基本法でこんな憲法は世界の何(ど)の

国にもない立派な憲法だから、是非ともこれをいつまでも日本

国の憲法として護持したいという革新系の人もあるのである。

併しまた、この憲法は占領軍が日本を弱体化する目的をもって

日本政府に押しつけた憲法だから是非とも自主的憲法に改めな

ければならないという国粋的愛国精神の人もあるのである。

 また賛成論者の中には、それは押しつけであっても中味がよ

ければそれでよいではないかという人もあるのである。

では果たしてこの憲法の中味は良いであろうか。それを考えてみたいと思うのである。

 この憲法が如何なるものであるかは、憲法の前文が先ずそれ

を説明しているので、今回は先ずそれを検討するために、日本

国憲法の前文を次に掲げて皆さんと一緒に考えて見たいと思うのである。


     日本国憲法の前文


『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて

行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和によ

る成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保

し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないよ

うにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言
し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その

権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使

し、その福利は国民がこれを享受する。

これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基く

ものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

『日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配す

る崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民

の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から

永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。

われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、

平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

『われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国

を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的

なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、

他国と対等関係に立とうとする各国の名誉にかけ、全力をあげ

てこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。』


    ※※      ※※      ※※
                                           
                                                  (つづく)











Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/24 (Fri) 08:34:42

    


     <・・・だから「もののふ」とは衣食等に左右せら

れず、真理のためには餓死するのも厭わぬのが、「武士は食わ

ねど高楊枝」の諺の真意である。

 この真理こそ最も「日本的」なものであって、この

真に「日本的なもの」が現代の日本人に具象化していたならば

満州事変や太平洋戦争の如き他を侵略する戦争は起らなかったであろう。・・・>・・・。


  童子様のご投稿より、見たくないものを見てしまった心境にあります。

 戦後すぐの「生長の家」誌に書かれた大聖師のお言葉です。

・・・・・"(-""-)"。



青山氏、すごいです。圏内いけるや。





「憲法」の続きです。


以上で日本国憲法の前文は終っているのであるが、この前文の

特徴をなすものは、敗戦国民が、戦勝国に対して、「今まで私

たちは悪いことをして来ました、今後一切あのようなことは致

しませんということを誓います」という「あやまり証文」の文体及び語調をもっていることである。

これで、この憲法が、その国の国民が自主的に定めた憲法であ
ると言えるであろうかということである。

 この憲法前文は言う。「日本国民は・・・・・平和を際する

諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と。

これを意訳するならば、「日本国民は、あなたがた戦勝国民は

皆構成で信義に篤い国民であると信じます。いけなかったのは

日本国民だけです。今後われわれは、みなさん列国民が我々に

公正で信義ある扱いをして下さることを信じて、自分の安全と

生存とを自分の力で保とうとは思わないで皆さんにお委せしよ

うと決心しました。」と言う意味になるのである。

私はこの憲法の前文を読むたびごとに悲しくなって泣き出したくなるのである。

「自分の安全も生存も自主的に自分で護る権利を放棄します。

自分の生存を保持することすら、平和を愛するあなたがた諸国

民の公正と信義におまかせします」というのである。

一国の憲法に、このような卑屈な言葉の表現があってよいものだろうか。

国民の決意なら決意で、もっと自主的な決意があってよい筈な

のに、「今まで自分の国は悪うございました。それで今後は自

分で自分の生存をも護りません。皆様のあなたまかせにいたします」とあるのである。

このような文章は強圧者の前にひたすら処刑をまぬかれるため

に憐れみを請う気持でなければかけぬ文章なのである。


    各国のお慈悲にすがる告白文

 さてその「あなた委かせ」に、ひたすら、「そのお慈悲に

頼って生存します」と日本国民が誓うところの其の相手国であ

る諸国民がそんなに公正で信義ある国民であろうか。

この憲法を護持する、この憲法こそ正しいと称する革新系の

人々は、この草案を書き、且つ戦勝国の代表者として、この憲

法を押しつけたところのアメリカ合衆国を、本当に平和を愛好

する信義あつき国だと信じているのであろうか。

彼ら革新系の人々は、二言目には「アメリカ帝国主義」と罵り

「侵略国アメリカは平和の敵である」と、中共とともに共同宣

言することを辞せないのであるから、吾々の隣国に、公正と信

義を保つ諸国民が存在しないことを、夙に知っているのは、社

会党等の、この革新系の人々ではなかろうか。

だから「諸国民の公正と信義に信頼し得る」と仮定したこの憲

法は真実を語るものでないことを知っているのがこの革新系の人々なのである。

それなのに、真実を語るものでないこの憲法を何故彼らは護持

しようとするのであろうか。しかもこれらの革新系の人々は

「戦争を廃絶する唯一の道は戦争によるほかはないのである」

という毛沢東語録一流の考え方に基づいて「平和共存路線」に

踏み出したソ連を「修正主義」と称して激しく攻撃している中

共と手をつないで、アメリカを「日中共同の敵」と宣言することを敢えてしているのである。
          
                                                  (つづく)






Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/25 (Sat) 08:19:52

    


     <・・・谷口という名はよくつけてくれたものだと思う。


  わたしは老子が。「谷神(こうしん)不死」と

言ったところの、死なず不滅の 「久遠を流るるいのち」の喇叭

口(らっぱこう)になったのにすぎないのである。・・・>・・・。

 
  伝統様の直近のご投稿から。


 大聖師の「霊界から」?のお言葉が話題になっております。

それぞれの皆様のご見解が興味津津、私は信じたく思っております(^^♪。






  その大聖師の御講義の続きです。


「戦争を廃絶する道は戦争によるほかはない」と隣国に分裂内

戦の火をつけるだけでなく、コンゴやインドネシアに革命内戦

の火をつけ、これは失敗したが、現にベトナムを南北に分裂さ

せ手、同一民族を互に戦わせていて、"漁夫の利”を得ようとし

ている隣国が現にいるのに、「平和を愛する諸国民の公正と信

義とに信頼する」という決意によって起草されたこの憲法全体

は、既に事実と相違するところの憲法に過ぎないのではないだろうか。

このような不合理な憲法を「自分の生存の保持も安全もあなた

まかせにいたします」とお辞儀をして受諾したのは、広島や長

崎に、人類が未だ経験したことのない原爆による巨大なる被害

を受け、その上、占領軍が上陸して来て、「占領軍の言いなり

になるほかはない、どんな抵抗をする力も我々にはないのだ」

と、国民が虚脱状態になっているとき、

『このアメリカ製憲法を受諾しなければ”天皇の人体”

(Person of Emperor という語を使ったと

いう)もどうなるかわからぬと占領軍におどかされて、ひたす

ら、占領軍の”打首の剣”の下におののいていたのが当時の日本国の現状であったのだ。

抗して、一方では天皇を打首にするかも知れぬと”不可視の

剣”をふり上げながら、「しかし一国の憲法はその国の国民が定

めるのであるから自分でよく考えて、このアメリカ草案の憲法

法に基づいて日本国憲法を改正するかどうか、ちょっとお庭を

二十分間ほど散歩してくるからその間に考えて返事をしなさ

い」といってホイットニー准将は散歩に出ていったというのである。

 これでは、ちょうど強盗がピストルで一方でおどしながら、

「お前の家の財産はおまえが渡すか渡さぬか決めるものであっ

て、決して俺が強制して定めるものでない。それはお前の自由

意志が定めるのだ。しかし俺の勧告に従って金を出さねば、こ

のピストルの弾がお前の脳天を貫くかも知れない。併しその決定権はお前にある。

俺はただ勧告するだけだ」というようなものなのである。これ

が"勧告"と偽称する恐るべき恐喝でなくて何であろうか。


  それでもこの憲法は”押し付け”でないか


 憲法調査会の高柳賢三氏は、昭和三十八年十二月号の雑誌

「自由」に、左翼の人たちに遠慮したのであろうか、日本国憲

法は押し付けられたものでないとして、次の六項目を挙げてい
るのである。

 (一)マ司令部の命令脅迫ではなく、勧告である。

 (二)日・米が平等同格の立場で協力した。

 (三)日本側の要望がいれられた。

 (四)憲法改正の最高権限は、マ司令部または米国から極東
委員会に移っていた。

 (五)国際情勢が緊迫していた。
 
 (六)制憲議会において議員の自由な討議が行なわれた。

 しかしこの第一項目は、ピストル(強権)をもった強盗が

「金を出すか出さぬかはお前の自由意志である。私は出すよう

に勧告するだけである」と勧告するのに似ている事は前に述べた通りである。

 (二)の日米が平等同格の立場で協力したということ及び、

(三)の日本側の要望をいれられたというのはウソであるのである。
                                                  (つづく)        

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/26 (Sun) 08:04:29



   童子様の徳久克己先生のご文章紹介が光ります。



 道産子、福島千里(27歳)リオでも健闘を祈る(^^)/。








 憲法の続きです。


アメリカ側からは「ポツダム宣言の要請にしたがって日本国憲

法を改正するように」という勧告が日本国政府にあったのにし

たがって時の国務大臣松本烝治博士が、明治憲法を書き直した

憲法草案と、全然新たに起草した憲法草案と二種類の憲法草案

を作成してマッカーサー司令部に持参したところ、それを読ん

だマ元帥は「どちらの草案もいけない」というので、「悪いと

ころがあれば訂正いたしますから、それを指示して下さい」と

答えると、「ところどころ訂正したらよいというようなもので

はない。全文がいけないのだ。これは明治憲法の精神をただ民

主主義の用語をもって書き直しただけではないか。今アメリカ

側で日本国憲法の草案を起草中であるから、それを後ほど持た

せてやるから、それに基づいて改正するように」ということであった。

これでは何処に「日米が平等同格の立場で協力した」と言い得るであろうか。

最初の日本案は完全に拒否せられたのだ。

それからやがてホイットニー准将がそのアメリカ製憲法草案を

もって来て、「これを受諾するかどうか二十分間庭を散歩して

くるから、その間に考えておいて返事をせよ」というのであったのである。

 無論、占領軍が被占領国の憲法を改正することは国際法規の

上から許されないことであるから、どこまでも、この第(六)

に示された如く日本の憲法制定議会に於いて議員の自由な討議が行なわれたことは事実である。

そういう形をとらせることに占領軍は苦労したのである。

これについて、マ司令部民生局編纂の『日本の新憲法』という

本には「明治憲法の改正という形式で制定された新憲法」とい

う奇妙な表現を使っている如く、形式を「明治憲法の改正とい

う形」をとらせただけであることを語るに落ちて暴露している

のである。形式は改正であるが、事実は強制であるのである。

 何故かというと、"ポツダム宣言“を受諾して戦争を止めると

いう際、天皇制がどうなるかを連合軍司令部に問い合わせた時

の回答には「降伏ノ時ヨリ天皇及ビ日本国政府ノ国家統治ノ権

限ハ・・・・・最高司令官ノ下ニ置カルルモノ」とあって、こ

れを受諾して占領軍が上陸して来て政治を行っているのである

から、天皇にも国民にも完全な自由意志はあり得ないのである。

占領軍が武装を解除した被占領国民への要望は、それが勧告の

形をとろうと、示唆であろうと、希望の表明であろうと従わね

ば危ないのであるから、自由意志など表明できないのである。

それだから、いくら「日米が平等同格の立場で協力した」と

高柳氏がいわれても、それは自由意志なき形だけの議会での言

葉のヤリトリであり、形だけの日米協力の合作であるに過ぎないのである。

あの憲法に「日本側の要望がいれられた」と高柳氏がいわれる

のは、天皇制を何らかの形で残し得たことであろうと思われる

が、その天皇制も条件附で残されているのであって、「天皇の

地位は主権の存する国民の総意に基づく」と定めて、いつでも

国民が多数決で議決したら、天皇を改廃することができること

に定められているので、国民の多数決で、現天皇を廃して野坂

参三を天皇にでも定めることができるようになっているのであ
る。

                                                   (つづく)        

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/27 (Mon) 08:36:00



    『久遠天上理想國實現の神示』しっかり読んでみたいです。

 破邪顕正様にしっかりと追従したくもあります。





 雅春先生の憲法意見です。


(四)の憲法改正の最高権限は、マ司令部または米国から極東

委員会に移っていた。と高柳氏がいわれるのは事実であって、

当時、極東委員会が組織されてソ連が、新しい日本国憲法の草

案を書きつつあるので、ソ連製の憲法は、社会主義国憲法であ

るから、全然”天皇ヌキ“の憲法になる恐れがある。

それでマッカーサー元帥は全然”天皇ヌキ“の日本国にしては、

終戦直後の日本国を治める自信がもてないのと、天皇を廃した

ら日本が完全赤化してしまう恐れがあるので是非天皇制を残し

たいという蒋介石の強い主張もあったので、大急ぎで象徴天皇

を残しておく憲法を押しつけて置いて、天皇制はあるが、天皇

は骨抜きの存在にしてあるという理由で、ソ連、オーストラリ

アをはじめとする極東委員会の「天皇廃止の日本国憲法をつく

る」という主張をなだめることにしたらしいのである。

この象徴天皇制を温存しようとした点は或る意味では、マッ

カーサー元帥の日本に対する功績だということができるのである。

 当時、憲法改正の最高権限たる極東委員会には、高柳賢三氏

のいう処によれば、「天皇制廃止を強く主張したソ連とオース

トラリアの代表者があったし、米国務省内部でも、天皇制の存

続を主張したグルー、ドゥーマン等の知日派が去り、

天皇制廃止論を主張するヴィンセント等の人達がこれに代わっていたのである。」

これが、高柳氏の「押しつけでない」という根拠の第(五)項

にある「国際情勢が緊迫していた」ということで、この緊迫し

た情勢のもとで、マ元帥は米国案の憲法を速やかに受諾することを希望したのである。

それは事は急を要するので、「この線(マ草案の線)では日本

政府案を起草すれば、天皇制を存続さす、天皇御自身の安泰も

確保する。」しかしこの案を受け容れなかったら、天皇御自身

の安泰も確保できない―――という意味の勧告的示唆となったの

で、被占領者で自由を失っている日本の当事者にとっては、そ

の勧告を巨大なる脅迫とかんじたのは当然のことなのである。

 それで、形式上からは明治憲法の第七十三条の「将来此ノ憲

法ノ条項ニ改正ノ必要ヲ生シタル時ハ・・・・・」という条項

にもとづいて合法的に、明治憲法を改正したという偽装が行なわれたのである。

そして昭和二十一年十一月三日、マッカーサー元帥は天皇をし

て、新憲法発布の勅語を発せしめたのである。

これは「降伏ノ時ヨリ天皇及ビ日本国政府ノ国家統治ノ権限

ハ・・・・・最高司令官ノ下ニ置カレル」というポツダム宣言

受諾のときの条件であって、天皇といえどもマッカーサー元帥

の命令に背くことはできないときに行なわれたので、次のよう

な新憲法公布の勅語が出されたのである。

―――即ち、「本日、日本国憲法を公布せしめた。この憲法は帝国

憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類

普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって確定

されたのである。・・・・・」

 という冒頭の文章でこの勅語は始まっているのである。既

に、ここに偽装が行なわれているのであって、占領下に於い

て、天皇も政府も連合軍司令官の下にあり、国民の自由意志の

発表は禁止せられ、戦争中の愛国者の殆ど全ては巣鴨の刑務所

に監禁されるか、、追放処分を受けて発言の自由を奪われてお

り、言論統制は厳重であり、それを破る者はいつ検挙されるか

追放処分に付せられるかわからない恐怖の軍政下に於いての、

新憲法発布の勅語であるから勅語といえども天皇の自由意志に

基づくものでないことは明らかであるのである。

「現行憲法が、天皇の勅語によって公布せられ他のであるか

ら、この憲法も欽定憲法であって、それを無効であるというの

は天皇の御意志に反するのではないか」と、ある青年が質問し

たことがあったが、天皇が自由にその最高意志を表現できない

占領下で、前述の如き緊迫した脅迫的国際情勢の下に強要され

た現行憲法は、これを天皇御自身の発意による欽定憲法という
ことはできないのである。

天皇の御意志は本当に欽定憲法である明治憲法にあると観るのが正当であるのである。

                                                  (つづく)    


Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/28 (Tue) 08:10:35



  日本教文社、日本共産党、日本の冠が泣いています('◇')ゞ





 大聖師の憲法意見続きです。




   果たして人類普遍の原理がこの憲法にあるか
                                                      
ところで、この新憲法公布の勅語にも、新憲法の前文にも、

「人類普遍の原理」に基いてこの憲法を制定されたもので

あると宣言されているのであるが、この憲法に盛られている

所謂る"民主主義の原理”が果たして「人類普遍の原理」であろ

うか、甚だ疑わしいと言わなければならないのである。

 この現憲法に盛られてある所謂る”民主主義の原理”なるもの

は唯物論であり、素粒子がすべてに先行して、それが結合して

分子となり、更に分子が結合して有機体となるように、事物の

組成分たる構成単位が主権をもつという考え方である。

そのような唯物論を国家に当て嵌めて、国家の構成単位である

ところの国民ひとりひとりに主権があると定めているのである

から、国家の部分としての国民が幸福(この憲法では唯物論的

な肉体的快楽を国民の幸福という)であれば、国家はどうでも
いいというように定めてある憲法なのである。

そこで国家を衛る自衛隊の存在も憲法違反だとして法廷で抗争できるような憲法になっているのである。

私は「愛国心と日本の憲法」というパンフレットに『無門関』

第八則の”奚仲造車“の公案を引用して、車をバラバラに部分品

に分解して、”車”はどこにあるかと探しても、”車”は見つから

ないと同じように、国家を国家の構成部分要素たる国民にバラ

バラに分解し手、国民に主権をもたしたら、"国家"は見つから

なくなる、”国家”が見つからなかったら”愛国心”はなくなる。

現に日本国民の”愛国心”は非常に衰退しつつあって、テレビの

街頭録音で、あらゆる階層の日本国民に「あなたは国家と家庭

とどちらが大切に思いますか」という質問をしたのに対する回

答を聴いていたら、回答者の八〇%は「国家よりも家庭を大切

に思う」と答えたのに驚いたのであった。

これは「部分が先にあって、全体は部分の結合によって出来

た」という唯物論的国家観が、現行の憲法を貫いているからである。

しかし、そのような「部分が先にあって、全体は部分同士の相

談によって成立した」というような唯物論が果たして人類普遍
の原理であろうか。

無機物の化合による鉱物的結晶は部分同士の機械的結合によっ

て成立するかのように観察できるかも知れないけれども、”有機

体”特に”生命体”の顕現には、部分分子の機械的な化合現象では

成り立たないのであって、部分の結合を、一層高次なる「結合

を指導する霊」換言すれば「理念」が天降って来るか、理念が

内在するかして、部分と部分との結合する形を一定の霊的模型

に従って指導することによってのみ、”個性ある生物”―――薔薇

は薔薇として、藤は藤としての個性ある植物形態や花の形をつ

くり上げ、、また豚は豚として、熊は熊として、人間は人間と

して等・・・・・の個性ある動物の形態をつくり上げるのである。

だから人間は、豚を食っても、熊を食っても、植物の根葉を食

しても、すべてそれらの分子結合を指導し変化して、人体をつくり上げるのである。

全てこのように、単位分子の結合だけでは、有機的生命体は生

まれることはなく、有機的生命体は必ず、その単位要素を結合

するのに、「理念的な存在」(霊)が先行し優先するのである。

                                                  (つづく)




Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/29 (Wed) 08:38:16


    大聖師、憲法意見続きです。


     国家は生命体である
                                                      
そのように考えて来るならば、国家という有機的生命体も単位

要素を結合して、国家をして「国家」という生命体となるため

には、単に”国民”一人ひとりという単位要素が勝手気儘に自主

権をバラバラに主張して寄合世帯を形成するだけでは不可能なのである。

バラがバラの花を咲かせ、藤が藤の花を咲かせるためには、養

分とか肥料とかいう単位要素が、唯、無定見にあつめられるだ

けではその個性ある花の形が成り立たないのであって、その養

分とか肥料とかの単位分子を、バラの花の理念が優先してバラ

の花の形にそれを配列したとき、バラの花が咲くのであり、藤

の花の理念が優先して、その養分とか肥料とかの単位分子を藤の花の形に配列したとき、藤の花が咲くのである。

生命体の形成には「理念」が単位分子に先行し、「理念」が単

位要素を支配して、これを個性ある形に形成しなければならないのである。

それゆえに「生命体である国家」も、国家形成の単位要素なる

国民(民族個人)に優先して、その国それぞれの特徴ある国家

理念が存在し、その国家理念によって国民が統合せられて、そ

れぞれの特徴ある国家形態が成立するのである。

アメリカ合衆国にはその国旗(星条旗)によって象徴せられて

いるような民主主義国家理念が、民衆合衆の姿に国民をあつめ

て、合衆国特有の国家形態を成しているのである。

ソ連国家はその国旗(鎚と鎌)が象徴するような労農階級が主

導者となる国家理念によって国民が統合せられているのである。

日本はその国旗の”日の丸”が象徴するような、ただ日の大神を

中心にして国旗の全領域が無色無心にその栄光を仰ぎ見るよう

な国家理念によって国民が統合せられているのである。

 ソ連の国家理念を合衆国に持って来ることが不穏当であるの

と同じく、合衆国の国家理念をソ連にもって来ることも妥当を

欠くのであるが、(茲には人類普遍の原理などはない。)現行

の日本国憲法はアメリカの民主主義国家理念にソ連の社会主義

国家理念を少しばかり混入してソ連にも多少満足させて沈黙さ

せておくための鵺(ぬえ)的理念で、"国民主権"という国家形

成の単位要素に主権ありと定めた憲法を押しつけたのであるか

ら、天皇が存在しながら、主権は天皇になく、国民にあり、

天皇は基本的人権すらないただの象徴(シルシ)という奇々怪々な文章をもって始まっているのである。

各々の国家には各々異なる個性ある国家理念があるべきなの

に、アメリカ式民主主義に、チョッピリソ連的社会主義的なも

のを加えた国家理念を押しつけて、これを「人類普遍の原理」
であると誇称するのである。

まことに驚き入った押し付けであるのである。

この憲法に基づいて、日本固有の"家"の美俗は廃止せられ、親

孝行の必要はなく老人は社会保障制度で養い、教師は言うまで

もなく労働者となり、生徒は教師を月謝で養っているのだと考

え、大学生はストライキをする。これが人類普遍の原理であろうか。

 国家形成に各国別々の理念がなく「人類普遍の原理」とやら

いうもので共通され得るものならば、どうして自由主義国家

アメリカと、共産主義国家"中共"とが、そのイデオロギーの相

異によって争ったり闘ったりしなければならないのか。

それは、国家形成の理念には「人類普遍の原理」などというも

のは存在しないからこそ、そして互いに自国の国家理念を他国

に押し付けようとするからこそ、其処に戦争が起こるのである。

だから現行憲法の前文にあるところの「ここに主権が国民に存

することを宣言し・・・・・これは人類普遍の原理であり」な

どということはアメリカが勝手に、自国の国家形成の理念に、

ソ連の国家形成の階級闘争理念をチョッピリ混じたものを、

「人類普遍の原理」だなど勿体ぶって押し付けたものであり、

それが非真理性のものであることは明らかなことなのである。

                                                 (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/06/30 (Thu) 08:07:56


 本日は、谷口貴康先生のお誕生日のようです。

 おめでとうございます。

よく本流をご指導くださるようにお願い申し上げます。





  「憲法」の続きです。


    日本国家形成の理念は如何なるものか

                                               
 それでは日本国家形成の理念というものは如何なるものであ

るかというと、天皇を中心とする君民同治の国家理念であるの

である。それは、日本書紀にしるされている「豊葦原の瑞穂国

は世々わが子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)

なり」という理念であり、それが更に具体化されて神武天皇建

国の「上は則ち天津神の国を授け給いし徳に答え、下は則ち

皇孫(すめみま)正しきを養いたまう心を弘めん。然してのち

六合を兼ねて都を開き、八紘を掩いて宇(いえ)と為さん」の

詔勅となり、これが世界連邦の「都をつくり、八方の世界各国

の魂の緒を、冠の緒を一つに結ぶかの如く結び合わせて世界

じゅうを一家庭の如くする」という理想となって発展している

ことは屢々(しばしば)私の説くところであって、茲では詳し

く述べる紙数がないので唯概略を述べることに止めたのである

が「上は則ち天津神の国を授け給いし徳に答絵」という建国の

根元にわれらは注意しなければならないのである。

日本国は「人間立国」の国ではなくて、「神より統治の大権を

天照大御神の子々孫々たる天皇に下し給うた」という「理念」

の具体化が現実の日本国としてあらわれているのである。

この理念が「大日本帝国憲法」(明治憲法)の第一条「大日本

帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」として明確に表現せられているのである。

そして、明治天皇の大日本帝国憲法発布の上論が、同憲法の前

文として与えられているのであるが、それには、「茲ニ大憲ヲ

制定シ、朕ガ率由スル所ヲ示シ、朕ガ後嗣及臣民及臣民ノ子孫

タル者ヲシテ、永遠ニ循行(じゅんこう)スル所ヲ知ラシム。

国家統治ノ大権ハ、朕ガ之ヲ祖宗ニ承ケテ、之ヲ子孫ニ伝フル

所ナリ。朕及朕カ子孫ハ、将来此ノ憲法ノ条章ニ循(したが)

ヒ、之ヲ行フコトヲ愆(あやま)ラサルヘシ」

 ここに注意すべきは、「国家統治ノ大権ハ、朕ガ之ヲ祖宗ニ

承ケ」とあること及び「子孫タル者ヲシテ、永遠ニ循行スル所

ヲ知ラシム」とあることであって、この憲法は永遠に子孫に循

行(したがいおこなう)せしめなければならないし、士かも、

その根本精神たる国家統治の大権は皇祖天照大御神及び皇宗即

ち祖先歴代の天皇を通してそれを継承したところのものであっ

て、この憲法の大精神は天皇の後嗣者及び臣民及臣民の子孫た

る者をして、永遠に循行せしむべきものであると定められているのである。

「循行」とは命(みことのり)のままに循い奉って実行することである。

この憲法の根本精神は「永遠ニ循行スル所ヲ知ラシメル」ので

あるから、憲法改正のことを定めた明治憲法の第七十三条「将

来此ノ憲法ノ条項ヲ改定スル必要ヲ生ジタルトキハ」があるに

しても、その条項改定とは、おのずから制約があるべきであっ

て日本の「国家理念」そのものや「建国の根本精神」たる「国

家統治の大権は、之を祖宗に承け」ということまで改定するこ

とを意味せずして、足りない条項を加えるとか、条項の文章が

不適当であるのを改正するとかいうような或る限定範囲がある

筈であるので、無制限の改定又は、全然の書き改めを意味する
ものではないことは明らかであるのである。
                                                   (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/01 (Fri) 08:13:30


  VANNON32様のブログの、大聖師の91歳

の御講義がまた印象的です。



 浅薄なるわが身には至極難解乍ら、師の「憲法論」の締めです。




だから、明治憲法をその第七十三条の改定条項に従って現行の

憲法が合理的に制定せられたというのは一種の詭弁であり、偽装にすぎないのである。

一歩譲って、明治憲法の第七十三条の改定条項が無制限の改定

を許したと解釈することを合法的だとみとめても、その条章に

は、「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改定スル必要ヲ生ジタル時

ハ・・・・・」とあるので、実際にはあの時決して、日本国民

にとっては明治憲法を「改定する必要」などはなかったのである。

占領軍にとっては「日本国弱体化のために」”改定の必要”が

あったかも知れないけれど、日本国の憲法を定める当事者たる

日本国民には”改定の必要”などは無かったのであるから、この

七十三条の「改定の必要ヲ生ジタル時ハ・・・・・」の改定条

項には当て嵌まらないのである。

「ポツダム宣言やバーンズ回答を成心なく素直に読みさえすれ

ば、憲法改正や或いは制定を必須ならしめる如き条件は、明示

的には勿論、黙示的にも全くないし、統治の主体や所在につい

ても勿論何ら変更を必要とするものではない」ということは

遠藤重利氏らも指摘している通りである。

日本の降伏条件であったポツダム宣言を日本が受諾した結果、

日本の民主化をポツダム宣言が謳っているから憲法改正の必要

があったという人があるかも知れぬがポツダム宣言は明治憲法

の下に於いても民主主義は行なわれていたことをみとめて、

「民主主義的傾向の復活強化」という語句を録しているのであ

る。実際明治天皇は五ヵ条の御誓文の中に於いて「広ク会議ヲ

起シ万機公論ニ決スヘシ」と仰せられ、議会制度を定めるなど

全く民主主義を実行せられたのであった。

だから日本民主化のために明治憲法を改定するの必要は無いの

に、この改定条項に従って改定したと呼称するところに偽りが

あり、擬装があり、不合理があり、虚妄があるのであるのであ

るから、この七十三条によって改定したと称する現行の憲法は

無効なのであり、それは明治憲法に対しては違憲の大罪を強行

したのであり、単にそれは占領軍の占領行政遂行の便宜上設け

られた基本法であるから、占領終了と同時にそれは失効してし

まっていて、既に明治憲法が事実上復元している筈なのである。

唯この大事実を認めて宣言し、天皇に助言して、それを公布せ

しめる勇敢にして真理に忠実なる総理大臣の出現を私は待ちの

ぞむばかりである。以上の理由によって私はどこまでも、現行

憲法は、明治憲法に対する違憲によって生まれた奇型児である

から本来無効であると主張するのである。                                              

                                                  (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/02 (Sat) 08:11:35

   SNI教団の現状が様々報告されております。

 よく存在出来ておるものと首を傾げるばかりです('◇')ゞ



 ムズカシイ、それでも、よく判る大聖師の憲法論、に次いで

は谷口輝子先生の穏やかなる厳しき御文章です。



     「理想世界 6/1号」 精一杯に生きるもの 

                 谷口輝子先生 
                                             

 ふと庭に眼をやると、風もないのに白木蓮の花びらが、ひと

ひらずつ、ひらりひらりと落ちている。

寂しさが私の胸を引きしめて来た。

春だというのに、咲きほこった大輪の花びらが凋落して行くのである。

一日として現象界は変わらないではいない。落下しつつある白

木蓮の手前には、早咲きのチューリップが、真っ赤な花を、精

いっぱい開いているし、それに並んで薄紫とピンクのヒヤシン

スがあでやかさを競っている。八重の黄水仙も、庭のあちこちに微笑んでいる。

この草花たちは、せい一杯に咲いているのである。美しく咲く

ことが生れつきなのであるし、美しく咲くことが使命なの   である。

草花たちには使命感などはないであろうけれど、彼らは美しく

咲くことによって、世界を美化し、人々の心を楽しませてくれ

ている。美しく咲いている。美しく生きている。それだけで彼らには存在価値がある。

春といえば、私が時々思い浮べる「春鳥(はるのとり)」とい

う生長の家の劇団は、中心者の青砥洋君をはじめ団員一同は、

暇があると集まって、演劇や歌のけいこをしているが、私は彼

らが劇を通して教えを伝え、劇によって人々の心を光明化しよ

うと、意欲を燃やしていることを思い、どうかこれらの演劇グ
ループが、立派に育ってくれたらと祈るものである。

去年のいつだったか、私は劇団「春鳥」が、谷口清超原作の

「高原」を演じた時観に行ったが、その数日後に青砥君と会った時、

「古い箪笥や、いろりに掛けた自在や鍋などは、今時めずらし

い物だが、どこから手に入れたの?」
と聞いて見た。すると青砥君は、

「あんな芝居の道具を貸す店があるので借りたのです」

と答えられた。私は演劇はしばしば観るが、舞台裏や、経営の

ことなどは知らないので、そんな商売があるということを初めて知った。

「春鳥」の劇団員が一所懸命に熱演し好演したのに、タイミングが悪かった。

演劇の時間には、それを観劇して貰おうと思っていた全国青年

会員たちは、本部大道場で会議中であったので、激情とされた

千代田公会堂は満員にならなかったので「春鳥」の劇団経営は赤字となった。

会場費や、舞台の書割りや諸道具費やそれに付帯する諸費など

相当必要であろうことを考えて、劇団経営も大変だなと私は思った。

 私は劇団「春鳥」は、生長の家関係の会社員や学生などで組

織された、所謂素人たちの芝居であるから、舞台道具や衣装な

どを持ち合わせて居ないことは当り前だと思うが、本職の俳優

たちは、それぞれの劇団の衣装部の倉庫に、あらゆる役柄の道

具や衣装が準備されているし、一流の俳優や女優たちになる

と、新調するのが常だろうと思っていた。

 ところがニ、三年前の新聞に、女優の北林谷栄さんが書いて

居られた記事を読んで、感心もし、興味深く感じたものである。

 私は北林さんの舞台姿は見たことはないが、映画かテレビで

は何度も見た。見るたびに北林さんは、ひどく婆婆くさい役を

して居られるので、こんな年寄りが芝居をして居られるのかと

思っていたが、後になって、北林谷栄さんという女優は、東山

千栄子のような七十何歳の老女優ではなく、まだ中年の人らし

いことを知り、うまく老婆に化けたものだと感心していた。
                                               (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/03 (Sun) 08:10:37



  「なんだかなぁ~、コテコテの極左思想・・・」・・・。

 志恩様の、ユーモアたっぷりのお言葉を拝借<m(__)m>。



続けて、谷口輝子先生の御文章。




 最近の彼女の記事によると、老役(ふけやく)のうまい彼女

は、そして、貧しい老婆役に度々なる彼女は、劇団の衣装部の

倉庫に山と積まれてある衣装がもの足りなくて、町や村を歩い

て、生活の苦渋の滲みこんだ古着を集めて来るというのであった。

 衣装部の倉庫にある着物るいは、(汚しをかける)と言っ

て、まともな衣装を塗料でよごしたり、軽石をかけてスリ切れ

させたり破いたり、わざと別布のツギを当てたりして、ボロの

感じを出すのだそうだけれども、そういう創られたボロはわざ

とらしくて不自然なので、本物の、生活の苦労のしみ着いた着
物を買いあさるのだそうである。

 北林谷栄さんは、映画「キクとイサム」で使用したばっちゃ

の衣装は、盛岡市の朝市に、花や野菜を持って近在から集まっ

て来たおばさんたちを物色して歩き、旅カバンを片手に、き

きょうや山芋、菜っぱなどを一山買いこんでから、やっと口を

きり、呉服屋さんに連れこんで、新品をそろえて身ぐるみ脱い

でもらったし、カカシの着ている浅黄色の襦袢が欲しくて、田

圃の持主に頼んでお札を出したら、先方にキチガイを見るよう

なうさん臭い目つきをされたそうである。

そのほか、古着を買い集めるためにいろいろ苦心されたこと

を、面白く書いて居られるが、北林さんは真剣なのである。

自分に割り当てられた役の人物を、いかにそれらしく表現しようかと、本気で取り組んで居られるのである。

 夏の土用ともなれば、北林さんの家では庭木と庭木との間に

何本も細引きを張りわたし、薄ぎたない古着るいの虫干しを

、五、六日間なさるそうである。その古着るいは、百姓風、漁

村風、長屋風、くたびれた朝鮮服や、ロシヤもの、芝居に使う

年代ものの更、三角ショールの類、いろんな古外套、古毛皮な
どが行李から引き出されて日光浴をする。

 私がこんな話を娘や孫たちにすると、娘が笑い出して、「お

母さまだったら、そんな古着は一枚だって着ることがお出来になれないわ・・・・・」

 と言うのであった。私は潔癖というのであろうか、若い頃に

貧乏な生活を何年もしたことがあったが、古着を買ったことは

一度もなかったし、古道具を買ったこともなかった。

何となく、古いものきたない感じがして、欲しいという気持ちが起こらなかった。
それだけに私は、俳優という職業なるがゆえに、私のように潔

癖を通して居られないばかりか、積極的に、我儘の殻を破っ

て、きたない古着を買いあさらねばならない彼女を、私は拝みたい気持ちになっていた。

 女優北林谷栄さんは、自分の職を、自分の役柄を、せいいっ

ぱい生きているのであった。せいいっぱい生き得た時、彼女は

どんなに満足したことか。そして彼女の仕事が成功した時、そ
れを眺めた観客たちも満足したであろう。

自分がせいいっぱい生き切ったと思えたら、誰でも生き甲斐を感じるであろう。

                                                   (つづく)


Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/04 (Mon) 08:19:44

   

   <昭和47年は連合赤軍集団リンチ事件やテルアビブ空港

大量射殺事件など様々な事件が日本国内だけではなく国際的にも波及して行われた。

その前年の昭和46年10月11日の『やまと新聞』’月曜随想’のコラムで雅春先生は


この頃悲しいことばかり、憂うべきことばかり、日本国内にも

国際的にも色々と起って来るのである。もうこんな世界には生きたくないと思うことすら時にある。

”そんなことではいけない。日本国を救わなければならない、人

類をたすけなければならばい。と自分に励まし、老驅に鞭うっ

て、出来るだけ若々しそうな元気を出して、日本国を救い、人

類をたすけるための智慧を出してみるんだけれど、童べ笛吹け

ど、その調べに合わして動き出してくれる政治家はあまり無いのである。・・・>・・・。


  山ちゃん1952様のご投稿から。大聖師の深いお嘆きが心を打ちます。

ここから「百万運動」が始まったとおっしゃられています。




 輝子先生の御文章の最後です。



大阪の春場所大相撲が四、五日前に千秋楽になった。

今場所で大評判になっているのは九重部屋の大関北の富士の優勝であった。

今年の二月はじめに、出羽海部屋から独立した元横綱千代の山

は、北の富士外十名ほどの力士を連れて九重部屋を創立した。

独立した理由は語らないでただ「出羽海親方の寛大な措置に感

謝している」とだけ語っているそうであるが、出羽海部屋の風

当たりは強く「恩知らず」という声もあったという。

それだけに、九重部屋の親方も弟子力士たちも懸命にはげん

で、立派になって出羽海親方に恩返しせねばならなかった。

 九重部屋はまだ小さい部屋なので、けいこ場も持っていな

かったので、国技館の相撲教習所を借りて、激しいけいこをや

り、春場所の始まる大阪へも、他の部屋の連中よりも早く一番

乗りをして、火花を散らすというほどの鍛え方だったという。

火花が出る形容されるような真剣な奮闘が、大鵬の七場所連続優勝をはばんだことになった。

九重部屋では、幕内優勝は北の富士、十両優勝は松前山と、独立して間もなく、二人も優勝を出したのであった。

九重部屋の力士たちは、せいいっぱい闘ったのであった。

出羽海部屋で養成された力士はこんなにも優秀なのだというこ

とによって、見事に出羽海親方の恩義にむくいたのである。

喜びに満ちた九重部屋の情況が想像される。精一杯生きた喜びである。

 恵美子が庭に出ていると思っていたら、間もなく彼女は真っ

赤なチューリップを一輪、小さな花瓶にさして持って来た。

父母の机の上に置いて、

「可愛いでしよう」と言って去って行った。

 可愛いくて美しい切りたての花、老夫婦の机の上で、生き生きとした姿で微笑んでいる。

この花も、精いっぱいに咲いているのである。生き生きと濡れているようである。

忙しい私たち夫婦の眼が、時々この花の方へ向く時、心なごむのであった。

私は時々外出先で花が飾られてあるのを見かける。あら、あそ

こに花がと気づいた途端に、何だか変だなと感じて近づいて行

くと、それは生きた花ではなく、枯れ木やペンキを塗った枝

や、色をつけた花などの所謂造花であって、それはいのちのな

い花や木のミイラである。私はすぐ踵を返してしまった。

 すべていのちのないものは魅力はないものである。

いのちある花の色や姿を真似てみても、所詮は形だけの真似であって、生命の美しさが感じられない。

 地に咲く花も、花瓶に生けられた花も、精一杯に咲いてい

る。いのち美しく生きられる限り咲いている。

しかし、いずれも時が来たら朽ちてしまうことは、現象界のさだめである。

白木蓮もわずか五日か七日を、精一杯に気高く美しく花開いて

いたが、もはや地に落ちて朽ちて行きつつあるし、チューリッ

プも、ヒヤシンスも、黄水仙も、その他のあらゆる花たちも、

花開いてはやがてまた散って行く運命である。

しかし、短いこの地上の生活でも、精一杯に生きるということ

は、立派なことであり、生甲斐のある生活である。

善いことのために、精一杯に生き得る人は幸せである。

                                                   (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/05 (Tue) 07:43:46



        0予測の「こころ」に入れるか、1票でも多

くが欲しいだろう自民に入れるか迷いますね( `ー´)ノ。


 今日からは谷口清超先生の御文章です、

なかなか面白い語り口です。






     兎と亀の物語    谷口清超先生


  ♥・・・その背後にあるもの


 日本人なら「うさぎ」と「かめ」の競争の話を知らない人はほとんどいないでしょう。

「うさぎ」と「かめ」が競争したところ、「兎」のほうが脚が

速いので、目的地に早く着いて競争に勝つかと思ったら、途中

で安心して居眠りをしたので、遅い足の「かめ」に負けてしまったというお伽話であります。

これは昔から、コツコツと努力する者が最後には勝利すると

か、自分の力に慢心して相手を侮る者はついに失敗するという
ような訓話として理解されて来ていました。

 ところが近頃の青年や少年達の中には、このお伽話を聞いて、あまり感心しない人が増えて来たというのです。

小学校の子供の中にも、こういって反問する人がいるということであります。

「先生、どうしてカメは途中で眠っているウサギを起してやら

なかったのでしょう。相手が眠っているときは、それを起こし

てあげて、正々堂々と競争するのが正しいのじゃないでしょうか?」

 この反問の中には、小学生をこのように指導した"現代青

年"たる教師の意見が含まれているわけですが、皆さんはこのよ

うな考え方に対してどう思われますか?

この問題は一見大層簡単なようであり乍ら、実は中々重大な問題を内包するのであります。

どうしてかと言いますと、小学生は先生から教えられるままに

「正々堂々と闘う」ことの尊さを主張するかもしれませんが、

この考え方の背後には、現代青年達がわれ先にと自己に有利な

目標に向って突進して行き、クラス・メートでもすきがあれば

それを追い落として自己の成績を上げ、すこしでも有利な学校

や会社に入らなければならないと、血眼の競争をしている事実への反撥があります。

ウサギもカメも、いつの間にか童話の世界から抜け出して、最も身近な現代社会の主人公となっているのです。

そしてそれを一部の先生方は「いけない」と感じているから、

子供達に「ウサギをおこしてあげる」のがいいのだ、自分だけ

抜けがけで努力するのではなく、皆で一緒にやるのが大切だと

教えるわけで、それが子供の反問となって大人へ還って来るのであります。


  ♥・・・競争はよいか


 たしかに、現代社会のあまりにも激しい競争にわれを見失っ

た人々は、いかなるチャンスをものがさずひっつかんで、友人

を引きずり倒してでも、自分が一歩先へ出て、有利な地位を得たいというような一面があります。

これは明治時代の"立身出世主義"と似ているようですが、もっ

と窮屈な"血走った眼つき“の考えで、私は決してこういう行き
方に賛成するわけにはゆかないのです。

                                                  (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/06 (Wed) 08:07:10




      <・・・「救済を具体化することが出来ないやう

な神は、〝神〟と称されるにしてもハタラキに於ては神ではない」

だからこそ「〝神〟が救済を完(まつた)うし得る本当の神と

なり得るためには、…天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならない」

つまり、「救済」のためには、どうしても住吉大神として顕現されなければならないということなのです。

換言すれば、「天之御中主神」を「ご祭神」として合祀するの

では、「超越的絶対者は、それは〝絶対者〟であるが故に、

われらに語りかけて対話を交へることはあり得ない」ために、

具体的な「救い」をもたらすことは出来得ないということになるのです。

何故、今の“SNI教団”から「救い」が生まれ得ないのか。

それは、「天之御中主神」を「ご祭神」として合祀したが故なのです!

“救い”のない宗教は宗教にあらず。・・・>・・・。


 破邪顕正様が切々と訴えておられます。吠えていらっしゃいます。






 清超先生の御話です。


何故なら、彼らの「目標」があまりにも小さすぎるからです。

地位や名誉や月給などという、そんな朽ち果てるべきものを人生第一の目標にしているところが気にいらない。

そうでなければ○○大学とか××会社とかいう、中間目標が、いつ

の間にか第一目標にすりかえられ、その目標のために手段をえ

らばず努力するというのがちょっと情けない。

この場合”努力する“のはよいのですが”手段を選ばず“がいけないのです。

その醜さをいやというほど見せつけられた先生方は、上記のよ

うなお伽話にまで批判を加えるということになるのでありましょう。

 しかし、ここでもう一つ別の問題が生じて来ます。

それはこの批判者が、かかるあさましい競争は現在の”資本主義

体制”の、或いは又自由競争の根本的性格に由来するものである

から、この「制度」を社会主義化しなければならないというように考える場合がるということです。

しかしこうなって来ると、このお伽話の批判も、又一つの「別

のお伽話」の枠の中に組み込まれただけであって、実に下らぬ

公式的結論になってしまいます。

小学生にはわからぬから、社会制度のことまでもふれないで

しょうが、次第に中高生となって来ると、これらの先生方の教

育も本格化して来て、結局「自由競争はいかぬ」とか「資本主

義社会の否定」などという結論にもって行かれる懼れがあります。

 だが果たして、競争のない社会など、どこかにあるであろう

か。そもそも「競争」そのものがいけないのであろうか。

それならば、全てのスポーツなんかやめてしまわなければなら

ないし、月探検のロケット競争も、社会主義国自身率先放棄しなければならなくなるでしょう。

無気力化した「動物園」的福祉国家に住んでいて、そこに「自

殺者」が続出する悲劇は、このような陳腐な理論では到底解決することは不可能であります。

 しかし乍らよく考えてみると、競争そのものが悪なのではな

いのです。競争するのは、人間の中にいくらでも「力」がかく

されているから、それを開発したいということであり、それが

人に勝ちたいということになる場合でも、実は自分の中にある

「無敵性」を形にあらわしたいという願望でもあります。

だから、相撲をして人に勝つのもよいし、学力で競争するのもよいのです。

トラックで競争して一位二位をあらそうのも結構だし、その意

味ではウサギとカメの競争だって決して悪くはないのであります。


 ♥・・・人間は醜悪か


けれども競争には、とかく自分の力をのばすことを忘れて、相

手を押えつけたり、相手の失敗をよろこぶという「相対主義」

がつきまとうのです。こうなると、もはや「自分の無限力を伸

ばす」のではなく、「相手の無限力を押さえる」という誤った

目標のためにエネルギーを浪費することになる。

これでは「無敵性」の追求でも何でもないのであって、「有敵

根性」の至極あさましい闘争に堕落してしまいます。

これでは駄目です。その点では、全く議論の余地がないのであります。

ところが現代青年の中には、そのあさましさを「現実の人間

性」として肯定し、「それが動物である人間の実体だから、そ

れを堂々と露呈したらよいのだ」と考える“野獣派”もいるのです。

                                                   (つづく)



Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/07 (Thu) 08:27:40

  河井寛次郎50年展に『生命の實相』が展示、の

BigNews(^^♪が。うれしいですね。








  清超先生の続きです。


つまり彼らは、人間をそういう「きたないもの」だと規定す

る。そしてそのきたなさから面(かお)をそむけない。

正々堂々とそれに直面する。“正々堂々”といっても色々の意味

があります。それが現実なのだ。

肉欲と物欲のカタマリが人間なのだ―と彼らは主張する。しか

し、彼らには重大な見落としがあります。

人間には、そんな物欲を離れた崇高な行為がいくらでもあることを彼らは見落としている。

第一彼ら自身、そのような「動物人間」を自分であると規定し

ていながら、自己の心中にかすか乍ら理想への憧れや純粋性への憧憬があることを認めざるを得ない。

そしてその自己矛盾を酒やタバコでごまかさなくてはならな

い”現実”がある。これに気がつくまいとして強がれば強がるほ

ど、その背後から“悲哀”の霧が立ちのぼり、異様な“不安”となって彼自身の心を動揺させるのです。

つまり人間は、「真理」を求めているのであります。従って

「人間は醜悪なり」を真理として彼は主張しても、その主張そ

のものの中に「人間は純粋に真理を求める」事実を見出さざるを得ない。

そうなると「人間は醜悪なり」があやしくなってしまう。「人間は醜悪でもない」ことになる。

従ってその信ずる真理のためには、「名誉も地位」も犠牲にし

かねない自分を発見するという結果になるのであります。

「いや、俺は真理なんてものを求めてはいない、俺は凡てに疑

いをもつ」という人もいるが、「疑い」そのものが「真理」へ

のひたむきな探究の姿であることを否定するわけには行かな

い。凡ゆる既存への反撥も、「真実の力」へのあこがれ以外の何ものでもない。

「人間はきたない」というのも、「きれいな心の人間」、

「真実の人間」があり、それが自分の本心であってはじめて

自覚される感慨であります。だから、「人間は醜(みぐる)し

い」という人は、「醜しい人間」の心で言っているのではない。

それは客観的に「醜しい自分」を見つめている「醜しくない

自分」の下す判断であるということに気がつかねばならないのであります。



  ♥・・・競争の条件


 ところで、この辺でもう一度ウサギとカメのきょうそうにかえることにしましょう。

ある子供らはこの競走を「正々堂々とした競走でない」ということは前に申しました。

かれらはそういった暗示や教えを先生方から受けたのでしょう。

眠っているウサギをおこしてやるのが正々堂々だと彼らはいう。しかし果たしてそうでしょうか?

その辺はもう一度考えて見る必要があります。

 そもそも凡ての競争には一定のルールがあるものです。その

ルールを度外視したら、てんで競争にはならない。

つまり、手段を選ばぬ競争というものは文明社会では認められ

ないのです。凡ゆる卑劣な手段で相手を叩き倒すことの出来る競争などを肯定してよい筈がありません。

ところがこの反対に、「相手を助ける」という行為は善である。敵軍に塩を送ったという故事もある。

しかし戦争の場に於いては、「相手を助けてあげる」ことは必

ずしも善とはいえず、かえって“ルール違反”となる場合があります。
                                                  (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/08 (Fri) 07:55:39



   童子様が雅宜氏の実相を祈ることを批判されてお

りますが、小生、信徒連合様の「生長の家實相顕現の祈り」に

て拝んでおりますので、少々戸惑っております('◇')ゞ




 清超先生の御話続きです。




 例えば、入学試験場で、隣の友人が入試問題がとけないで苦

しんでいるとする。それを見て、「人が苦しんでいるのに、自

分だけサッサと答案を書いたら、利己主義である。相手を助け

て、ともに努力し合うのが本当の民主主義だ」とか何とかつぶやいて、自分の答案を隣人に見せてごらんなさい。

それは「相手を助け」たようであって、逆に相手を殺し、かく

てはカンニングの醜名をさせられて、試験場から追いはらわれる結果になるでしょう。

 ウサギをおこしてやるカメの行為を称讃する先生が、まさか

カンニング幇助者を養成しているなどという飛躍したことは言

えませんが、ややそれに近いところにまで生徒をあやまらせる可能性はあります。

つまり、このお伽話を、純粋にお伽話としてその面白さと教訓

とを素直にうけとることを拒否する以上、そしてそれに対し

て、”科学的“”倫理的“”人道的“批判を加える以上、生半可な態

度ではだめであります。もっと純粋に”科学的“になり切って、

競争の条件まで分析するのが当然であります。

ところが現代青年は、とかく”科学的“とか”学問的”とか称しな

がら、実にいいかげんな”科学的“で満足している。

いや、そんな”宣伝”に誤魔化されてしまう。

こういう人はマルクス主義が科学だなどと言われると、それだけで参ってしまうのでしょう。

現代医学が科学的だといって信用している人は、現代医学のあ

まりにも幼稚な科学性をきかされたら、驚いて腰を抜かしてしまうかもしれない。

テレビに出て来るアメリカ医師の奇蹟物語という”お伽話”を、

そのまま現代科学の勝利だと考える人々は、まだウサギとカメ

のお伽話を批判する資格をもってはいないのであります。



  ♥・・・一定のルールがある


 その資格のないものが、資格があるようにふりをして、何千

年来の日本の歴史を批判したり、倫理や宗教をも批判する。

そして自から“科学的”とか”合理的”とかとうぬぼれている。こ

んな馬鹿馬鹿しい”文化人”に、諸君はだまされてはいけませ
ん。

こんな甘ちょろい、新しがりやが、真に未来の世界を背負って立つ人材だと思い違えてはならないのです。

流行や、宣伝に易々と乗ることが、自動車に乗ることと同じよ

うにたくみになった現代青年を、どうして「人間の進歩」と見

做すことが出来るでしょう?。人の宣伝に易々とのせられてはいけません。

いかに世間が英雄と宣伝しようとも、彼がいかに多くの青年を

熱狂させようとも、そんなことでド胆を抜かれていては、「日

本的後衛兵」になり下がるだけであります。彼らの如く「革命

の道具」になり下がり「武器」や「掃除道具」になり下がるこ

とがいやであれば、しっかりと自分の心で、自分の「本心」

で、真実を観透さなければならない。

もっと腰を落着けて、“条件”を分析し、正しい判断力で「全相

を観る」ことにも習熟しなければなりません。
                                                  (つづく)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/09 (Sat) 08:03:07


       <昭和47年12月3日 白鳩会座談会での 

谷口雅春先生 の御指導



 『人間を救う真理は一つであって、教団とか宗派とかいう団体が救うのではないのです。

 宗教団体に入るとか出るとかいうことは、問題じゃないのです。

 そういう団体が、自分の団体からメンバーが減ると、それだ

け教勢が衰えるというので、無理につなぎとめておきたいというような計らいが起る。

 それに貴女は引かかって、半分出たいようなフラフラした気持になっている。

 それで貴女の運命もフラフラと定まらないのです。

 そんな団体はスカッとやめたら好いのです。

 宗教というものは、団体じゃない、教えなんです。

 真理の中に入れば、そのままで平和でいられる。』・・・>・・・。


 童子様のご投稿から(無断で)引かせていただきました<m(__)m>。



 清超先生の御話です。


ところで、ウサギとカメの話は、まだ続くのです。

ウサギのまねをして昼寝をしているわけではありませんが話が中断してしまいました。

さてカメがウサギを助けるにしても、一定のルールをまもらな

ければ競走にはならないということが判らない人は一人もおらないだろうと思います。

しからばこの場合、「一定のルール」とは何でしょうか。大体

これは”お伽話”なのでありますから、もともとバレー・ボール

や野球のようなルールが明示されている話ではありません。そ

の明示されていないルールの“お伽話”を批判しようというので

すから、その態度が根本的におかしいのです。第一、ウサギとカメとは競争なんかしないのです。

しているのは人間であって、ウサギをおこすカメも実は本当の
カメではなく、「人間」なのであります。

 こう考えてみると全くおかしい話だけれども、今更おかしい

ではすまされないところまで論文を書いて来てしまいましたか

ら、続いてその疑問点を申しのべますと、全ての競争には目的があります。

つまりそれは何を競うのであるかという目標です。

ヨーイ、ドンでかけ出すからには、かけ出す前から結果が判っていたのでは競争にならないでしょう。

千に一つの可能性がなくても、ひょっとしたらひょっとするか

もしれないという“可能性”が、凡ての競争を意味あらしめるのであります。

 とすると、ウサギとカメの競争でも、大抵はウサギが勝つけ

れども、ひょっとするとカメが勝つ可能性がある―-というとこ

ろでこの競争は成り立つのであります。もしルールをもうける

とすると、この「可能性をまもる」という意味でもなければ、

ルールの意味はないでしょう。そうなって来ると、カメがウサ

ギに勝つ、もっとも自然な可能性は、ウサギの居眠りというこ
とにならないでしょうか?

ウサギが途中で猟師に射たれるとか、犬に追いかけられて横道にそれるでは、第一お伽話にはなりません。

だからどうしても「お伽話」としてのこの物語りの存在を完成

するためのルールは、「ウサギの居眠りを許可すること」にならざるを得ないのでありますまいか。

そうすると、カメがウサギの居眠りをさまたげて、「一緒に走

りましょう」では、入学試験のときのカンニング幇助者と同じ

ルール違反をしていることになるのであります。これでは、ウサギとカメが一緒に走り出す意味がありません。

何故なら走らない前から、結果がわかってしまっているからであります。


  ♥・・・科学と伝統


そこで私は最後に現代青年に”お伽話”や“神話”を科学的に分析することの愚かさを知ってもらいたいと思うのです。

現代人は”科学的”とか“必然性”という言葉に対して、余りにも弱すぎます。

「これは科学的歴史的必然だ」など言われると、コロッと参っ

てしまう。歴史でも雙です。考古学的に研究すると、この歴史

はあやまりだと言われると、いつの間にか考古学の方がすばら

しく“科学的”であるかの如く見なされてしまったりして、歴史はコソコソと後退する。

                                                  (つづく)




Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - 道産子

2016/07/10 (Sun) 08:30:30




   <生長の家社会事業団の「公式声明」が爆発的な大反響です!>

 大反響であってほしいです(^^♪





  清超先生の御話の最後です。


しかし、歴史だって考古学だって、それは”科学志望者”であっ

ても、まだ本当の意味での純粋科学ではない。

なるほど凡ての現象は疑ってかかることが出来る。

そしてそれも一つの人生態度です。しかし、現象や物語を、そ

のまま素直に味わってみて、そこから“魂の糧”を汲みとるとい

う、もっとも大切な人間としての態度を見失ってはなりませ

ん。美人を見たら、ああ美しいなと、讃嘆する態度も必要なのです。

これが出来なくて、「きっとあの人のヘソには垢がたまってい

るぞ」とか何とか”科学的分析”をやらなければ矢も盾もたまら

ぬという青年は、少々異状であります。

 私は現代人の教育が、あまりにも素朴な心的態度を軽視しているように思われて心外なことがあります。

”人道的”とか”平和的“という言葉で、他の思考能力を妨礙しているきらいはないであろうか。

そんなものを”切り札“として、真の”科学性“を窒息せしめてはいないか。

確かに科学的分析も大切であります。しかしそれは、あくまで

も”数学的厳密“さでもって分析してもらいたいものであって、

さもなくばいいかげんな”似而非(えせひ)科学者“や” 似而非人道主義者“を気どってはいけません。

そんな”似而非(えせひ)科学者“や” 似而非人道主義者“ばかりいくら輩出しても、日本文化は進歩向上はしない。

甘ちょろい科学や人道や平和など、ごめんこうむりたい。もっ

と科学は科学らしく厳密になる反面、謙虚でなければなりません。

少なくとも”神話”や”お伽話”にまで介入して来ては場ちがいで

あります。そしてそんな生半可な分析やスローガンに諸君は誤魔化されてはならないのです。

青年はもっと素朴な魂を全的に展開して、美や真を堂々と追求

すべきであります。「現代」という時代にスポイルされてはな

らないのです。時代や現象の波ばかりに乗ることをもって現代人と心得てはならないのです。

古典や、古い技術や伝統工芸の中に、脈々と伝えられている

「日本の魂」を、素直に把握することを忘れてはならないのです。

吾々は分析だけでは生きられないことを知るべきです。父や母

の行動の分析がいかに詳細に行なわれても、そこから「親孝行

是か非か」の結論は出て来はしない。必ず、吾々は全人的な把握を必要とする。

対象やテーマの「心」をつかむことが大切です。

それが日本の古くからの伝統的な魂であります。この魂によっ

て日本という国は生まれ、そして保たれて来ているのです。

この事実を素朴な態度でうけいれてこそ、もっとも偉大な人間

として人類の未来を担いうる”現代青年”となり真の”科学者”となることが出来るのです。

吾々はあくまでも「神の子・人間」を信奉する真実の徹底的

人間尊重論者でなければならないと思うのであります。

                                                   (おわり)

Re: 伝統様、ありがとうございます Ⅸ。 - ctmbdlenvMail URL

2020/08/29 (Sat) 03:51:20

伝統板・第二
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