伝統板・第二
「理念」 - 伝統
2016/05/15 (Sun) 04:35:26
(このスレッドでは、「理念」に関する情報を集めて参ります)
理念は、空間的ひろがり・時間的先後を超越している
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月15日)」より
「理念」―眼には見えないが厳然と存在する心的模型というものが、
あらかじめ存在するのでなければ、一粒の朝顔の種子から、何枚葉が生じても
同じ朝顔の葉の組織紋理になっているという理由が立たない。
むろん、理念は目に見えないから空間的広がりを超越している。
したがってそれが空間的広がりの世界に、形の世界に、朝顔の葉として出て来る場合には、
大きい朝顔の葉もあれば、小さい朝顔の葉もある。
しかし空間的な大小を超越した朝顔の葉としての理念は、
どんな大きい葉にも、どんな小さい葉の組織紋理にも顕われているのである。
理念に形はないというのはまちがいである。
理念は、空間的大小と時間的先後を超越して存在する「組織紋理」そのものである。
理念は「無」ではない。
朝顔の葉の理念は、朝顔の葉が枯れてしまった後にもそのまま金剛不壊に滅びない存在
であるから、また次の夏が来れば同一組織紋理の形をあらわすのである。
・・・
<関連Web>
(1)光明掲示板・第一「理念の「生長の家」」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1099
(2)光明掲示板・第一「理念の日本国、理念の日本人」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1119
<感謝合掌 平成28年5月15日 頓首再拝>
「脳髄以前の心」が「理念」である - 伝統
2016/05/24 (Tue) 03:55:08
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月24日)」より
「我(が)」の心にはたいした力はない。
心臓は「我」の心が眠ってからも搏(う)っているが、
「我」の心が、1分間に幾回搏たせようと思っても
思うように心臓の鼓動を支配しうるものではない。
脳髄の心はそんなに力のあるものではない。
脳髄のできるまでに在る不思議な心が血管をつくり、心臓をつくり、脳髄をつくったのである。
「脳髄以前の心」が「理念」である。
その理念がフィルムである。
フィルムの前にいろいろの条件が与えられて映画は銀幕に映るのである。
この「いろいろの条件」とは「両親」であったり、いろいろの環境であったりする。
しかしフィルムにないことは映らないが、条件にしたがってフィルムそのままも映らない。
大きく映ったり、小さく映ったり、鮮明であったり、ボケたりする
―― これが現象の肉体である、
両親から独立して後(のち)は、自分の肉体現象は自分で調節する「念のレンズ」の絞りや、
露出でその鮮明度を加減することが出来るのである。
<感謝合掌 平成28年5月24日 頓首再拝>
すべては、理念(コトバ)が創造したのである - 伝統
2016/05/25 (Wed) 03:10:40
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月25日)」より
肉体に再生力があるのは、フィルムが厳然として存在して、適当な条件を与えれば、
フィルムの現画と同様に再現すると同様である。
食物や空気や日光はその「適当な条件」と見ることができるであろう。
薬物さえもこの「適当な条件」の一種だと見なすことができるのである。
だから特効薬などという効力確定の薬物に生長の家は反対するのではない。
しかしすべては、理念(コトバ)が創造したのであるから、「適当な条件」さえも、
その条件が他から与えられない場合には、理念自身が内部から創造しうるのである。
生長の家が反対するのは、人間は外来の条件にのみ左右せられるというような
「自己無力」の《信念の足りなさ》と、特効薬でもないのに特効薬のごとく信じて
倚(よ)り頼ろうとする愚かなる人間の弱点とである。
われわれは太陽のない国に置かれてさえも、
心で太陽を創造して自己の住む世界を明るくしてみせるというほどの自信をもたねばならぬ。
人間は信念だけの値打である。
・・・
《内からの発現で時代はつくられる》
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月26日)」より
内から発現するのが時代の流れである。
時代によって精神が左右せられるのではない。
社会的地盤から精神が生まれてくるのではなく、
内から理想は層一層完全なる形態に顕われようとして時代をつくり、
社会的構成を変えてゆくのである。
<感謝合掌 平成28年5月25日 頓首再拝>
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されている - 伝統
2016/05/30 (Mon) 04:47:49
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月30日)」より
「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作業」だけではない。深いところの感情である。
ハッキリ思考に現われない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、大和魂なるものは理論を超越して動いている。
戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。
この深い感情は、明瞭に脳髄意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄意識の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂=ヤマトだましい)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感動の根本となっているのである。
物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。
理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感動はすべて、実在者の「理念」から発生してくるものなのである。
「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、
その「理念」はそれが現象的に顕われるのに幾回失敗しても、
やがてはそれが形に現われずはいないのは、
朝顔の花は何回萎れてもまたやがては夏来たって花咲かずにはいないのと同じである。
楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現からであるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。
「七生報国」の正成の語(ことば)は、結局は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだということを顕わしている。
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るほかはないのである。
みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、民族は崩壊するほかはない。
理念は永遠である。理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて
来るのである。
<感謝合掌 平成28年5月30日 頓首再拝>
理念とその代表 - 伝統
2016/07/01 (Fri) 03:59:29
*「光明道中記」(P204)より
学校代表とか、生徒代表とか、会社代表とか云う言葉があるが、それは個々の校舎や、
教室や、会社の建物などの如き形あるものの総代と云う意味でもなく、
またひとり一人の職員や生徒や、会社員の代理とか代弁とか云う意味でもない。
代表とは「形態以上」の本質(理念)が形態ある人格もて代わりて表現せられる
ことを言うのである。
即ち「学校」《なるもの》は校舎でもなければ、職員でもなく、また生徒でもない。
またそれ等の単なる寄せ集めでもないことは、
「車」《なるもの》は心棒でも車輪でも甑(こしき)でも轅(ながえ)でもなく、
「車」なるところの「物を乗せて運ぶもの」なる理念が
形に表現せられたのが「車」なのである。
「これが車か」と言って心棒を引き抜き、その部分部分を毀(こわ)して
指(ゆびさ)しても車はない。
それと同じく「学校」なるものは、
形あるもの一つひとつを指し示しても其処には学校はない。
学校は「《まなびのいえ》なる理念」であって、
その「理念」があらわれて色々の形態をなしているが、
個々の形態を指してもその「理念」をあらわすことが出来ない。
茲(ここ)に個々の形態以上の1個の人格をもってその「まなびのいえ」なる
全理念を表現する時此れを「学校代表」と言うのである。
一国の代表者と言うときは、「くに」なる全理念に代わる表現者を指(さ)すのであり、
宇宙の代表神位と言えば「宇宙」なる全理念の表現者に坐(ましま)すを示し、
神位なる語によって総攬主宰の位を表わすのである。
<感謝合掌 平成28年7月1日 頓首再拝>
日本を「久遠無窮」の「理念」として愛する - 伝統
2016/07/04 (Mon) 04:31:07
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月4日>(P6)より
宗教とは死なぬ道を教えるものである。
不滅の道を教えるものである。
ある場合には、それは「個」と「全体」との関連において。
「個」は「全体」とつながっているものなるがゆえに、「個」は滅びたように見えても、
「全体」は滅びないから、それにつながる「個」も滅びないというような考え方において。
ある場合には、それは国家理念の立場において。
「個人」は滅しても「理念」は滅びないがゆえに、国家理念のために没しきった個人の生命
は永遠に滅びないというような考え方において。
わたしは、日本を「久遠無窮」の「理念」として愛したいのである。
わたしは限りなく日本の国を愛する。
<感謝合掌 平成28年7月4日 頓首再拝>
「日本」の理念の復興を - 伝統
2016/07/08 (Fri) 03:34:44
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月8日>(P12~13)より
ローマが滅亡したのは、理念または理想に対する献身的態度や、持久の精神、
堅忍不抜の精神の衰退したのによるのである。
ものの尊さも、国の尊さも、今ある形の大きさによるのではない。
理想 ―― 理念を失ったものは、すでに内容のない形態ばかりのものになっているのだから、
今はまだ生き生きしていようとも、それはすでに幹から断ち切られた生け花のようなものである。
それは時間のたつにしたがって、衰退枯渇してゆくほかはありようはないのである。
どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないものは、
時期が来れば生長するほかはないのである。
それは生命(せいめい)の種子(たね)であり、機会ごとに伸びるのだ。
西欧文化は、偉大なように見えても、もう理念が失われている。
日本も久遠無窮の理念が失われたとき弱体化するのである。
理念が本当の「日本」であって、形はその影にすぎない。
日本を大いに復興しようと思うならば、「日本」の理念を復興しなければならぬ。
<感謝合掌 平成28年7月8日 頓首再拝>
理念(いのち)に触れよ! - 伝統
2016/10/18 (Tue) 03:50:16
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月18日>(P103)より
肉の我(われ)は「本当の我)われ)」が《ここにある》象徴である。
「これ」と眼に視える事物を指(ゆび)さすとき、本当は、
その奥にある「眼に視えない本物」を指(ゆび)さしたのである。
一個の指(ゆび)さされたる柿の実は滅びるのである。
しかし、本当の柿は永遠に滅びることなきがゆえに、
毎年また、機縁熟すれば姿をあらわすのである。
眼に見える柿は《本当の柿》ではなく、柿の象徴である。
本当の柿は「理念<いのち(りねん)>」である。
《いのち》にに触れたものでないと《いのち》はわからない。
<感謝合掌 平成28年10月18日 頓首再拝>
《形よりも理念が先立つ》 - 伝統
2016/10/29 (Sat) 03:56:19
*『 生長の家 』(昭和25年9月12日の法語)より
ダリヤの花はその球根から生ずるが、「 花そのものの形 」 は
球根と云う物質にあるのではなく、球根の奥にある霊的世界にある
「 ダリヤの花の理念 」 から生ずるのである。
理念又は霊は、物質の形に先立つのである。
イエスの理念は、肉体イエスに先立って存在したのである。
だからイエスは 「 アブラハムの生れぬ前(さき)より我はあるなり 」
と云っているのである。
物質より前に理念があるのである。
素粒子が如何に排列して或る種の物質になるかは、法則によるのである。
そして、法則は知性(心性)である。
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100
<感謝合掌 平成28年10月29日 頓首再拝>
「理念」とは何であるか - 伝統
2016/11/12 (Sat) 04:31:17
*Web:みすまるの珠<近況心境212>(2016.2.12)より
(1)実相世界にある“理念”とはこんなもの
それはちょうど、種子の中にある“朝顔の花”の原型みたいなものであります。
種子の中にある“朝顔の花”というものは、幾らの寸法であるかというと、
それは肥料の豊かさや乏しさによって七寸咲きにもなるし、一寸位の小さい花にもなる。
そういう、どんな大きさにでもなるところの、
“現象的大きさ”を超越したところの朝顔の花の形というものが、
朝顔の種子の奥にあるでしょう。
種子はむろん現象的存在ですが、その現象の奥に
現象世界に展開するところの姿の原型――元の形――がある。
物質としてあらわれる前の、物質のない形――物質抽(ぬ)きの形“純粋形相”がある。
即ち“理念としての形”があるのです。
(『新講 「甘露の法雨」解釋』)
(2)純粋形相としての理念
吾々が理念というのは、物質のない形、物質という混ぜ物を抽きにした
純粋な精神的だけの形相をいうのです。
この物質抽きの精神的原型は過去現在未来を、
映画のフィルムの巻き収められたもののように、
同時即一に一つに包んでいながら、物質じゃあないから、現象的に見える大きさが無い。
一切の形が悉くこの「実相」の中に、理念としてあるのですが、それが動き出して、
ちょうどフィルムが巻き戻されるような状態になると、
実相世界にある理念の形が、一と齣(こま)一齣継続的に出て来まして、
現象界に或る時間的持続と空間的ひろがりとをもって
あらわれて来ることになるのであります。
(『新講 「甘露の法雨」解釋』)
(3)純粋形相を「理念」と言い、そこに神の「第一創造」がすでに完成している。
時間及び空間というものは本来ない。
実相世界は超時空的存在の世界であるからである。
時間の観念、空間の観念は物質的存在を心に描くための
謂わば“画布(カンバス)”として必要なので
“わたし”が人間に与えたところの架空的観念である。
それは光の波を固定して映画の光景として見せるスクリーンの役目を
なさしめるために“人間の心”に対して“わたし”が与えたところの概念である。
このスクリーン上に生命の波動(心の波)が放射されると、
生命の波動(心の波)が固定化されて物質化して感じられるのである。
この物質化として感じられる基盤がなければ、
地上に天国を建設するという“わたし”の芸術を成就することが出来ないので、
“わたし”は人間に時間空間の観念を与えたのである。
時間及び空間は“わたし”の創造である。
(『神 真理を告げ給う』 )
(http://misumaru.o.oo7.jp/kinkyou-3.html#212)
<感謝合掌 平成28年11月12日 頓首再拝>
心の波を道具として、神の子の理念を実現せよ! - 伝統
2016/11/24 (Thu) 04:24:27
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より
生命(せいめい)なき物質と、生命ある有機体との間にはけざやかな相異があるのである。
それが等しく炭素と水素と酸素と窒素等の化合物であるにしても、それに生命(いのち)が
宿らない間は、その分解・結合の状態はいつまでも無機物的な方向において行なわれる。
いったん、それに「生命(せいめい)」がやどるとき、全然異なる分子の分解・結合が行なわれ、
一定の「理念」(または精神的原型)にしたがってあるいは絢爛(けんらん)たるバラの花となり、
清楚(せいそ)なる百合(ゆり)の花となる。
イエスはその生命(せいめい)の力の不可思議さを見よという意味で
「野の百合はいかにして育つかを見よ」と言ったのである。
すべての生物は、野の百合にせよ、垣根のバラにせよ、そこに「生命(せいめい)」が宿っている
のである。「生命(せいめい)」の一つの特徴は、物質の分子の配列を、自己の「理念」または
「精神的模型」の秩序にしたがって、新しく再配置する力をもっていることである。
それは物質それ自身の性質を利用しつつ、新たに自己の理念または精神的模型を造形しゆくこと、
あたかも美術家が、絵の具それ自身の性質を利用しつつ、自己の内にある「美の精神的模型」の
姿を造形してゆくようなものである。
宇宙精神の低次にして、受動的あらわれたる物質は、宇宙精神の高次にして優位なるあらわれなる
いわゆる「生命(せいめい)」に対してはただ素材を提供するのみであって、物質が生命(せいめい)
を左右することはできないのである。
逆に生命(せいめい)は自己の「心の波」を道具として、
物質の分解・結合の状態を変化し、自己の理想を表現するのである。
野の百合のごとき比較的低き植物階級の生命(せいめい)にしても、物質それ自身の配列状態を
克服して自己の理念の姿を表現することができているのに、人間という宇宙精神の最高顕現たる
生物が物質の世界を克服して、健康の上にも、経済の上にも発明の上にも自己の理念の姿を表現
することができないということはありえないのである。
諸君の健康が薄弱であったり、経済的に窮迫したりするのは、「人間」の天爾(てんに)の
「神の子」たる「完全模型」をみずから主張しないからであって、それは『法華経』にある
大通智勝如来が十劫の間(あいだ)道場に坐してなおさとりを開かなかったのと同じである。
大通智勝如来は、本来全能の大通力と全智の智勝(ちしょう)とをそなえていながらみずから
進んでそれを自覚しないから、自分の実相の完全さがあらわれないにすぎないのである。
諸君がひとたび自己内在の大通力を自覚しそれを実現しうることを信じて、
たゆみなく精進努力をつづけるならば必ずやあらゆる方面において
人間完全・神の子実相が実現するに相違ないのである。
<感謝合掌 平成28年11月24日 頓首再拝>
朝顔の花にたとえて理念が現象化することを説明する - 伝統
2016/12/12 (Mon) 03:48:32
*『實相と現象』(P101~103)より
よく私は、この真理を説明するのに、朝顔にたとえることがあるのですが、
朝顔の種を播いたら、その種の中に、植物の「過去・現在・未来」が既にあるのですが、
併しその種の中にある「理念」というものは、
現象界の“時間・空間”を超えた世界でありますから、顕微鏡で見ても見えない。
顕微鏡は時間空間の縦横厚みの世界のものだけを拡大して見るのだから、
種の奥の奥にあるところの縦横厚み以前の、奥にあるところの
“朝顔の花”の形というものは顕微鏡で見ても解らないのであります。
けれどもその種が発芽して段々と蔓(つる)が出てきて、
蕾ができて葉が出て花が咲くと、その花は朝顔の花になり朝顔の種が出来る。
それはその種の中に既に必ず朝顔の花となり、実を結ぶべき原型があるからであります。
さっき言いました人間の人相が皆異うのと同じように、
朝顔なら朝顔、赤い花の朝顔になる種は、必ず赤い花の朝顔になるべき精神的原型が、
その種の中の超次元世界にあって、
それが現象界に一駒一駒あらわれて、それが段々生長する姿となり、
そして蕾の形に生長し、さらに蕾が大きくなって花咲くという形に生長してくる。
これがすなわち「生命顕現の法則は無限生長なり」ということであります。
ところがそれが生長して実を結んだら、その朝顔は枯れてしまう。
その朝顔が枯れてしまったら、朝顔の生命は終りかと思ったら、終りではないのであって、
そこに《ちゃん》と次の年に播かれたら、
そこから又同じ朝顔の花の形の出てくる「原型」が《そこに》種を契機とした
超次元界にあるわけです。
すなわち朝顔の花の精神的原型 ―― 理念なるものが《そこに》あるわけです。
だから、現象の朝顔に宿っている朝顔の生命(いのち)も
種の中にある朝顔の生命(いのち)も、それは朝顔の花の形が死ぬとともに死ぬのではない、
常に超次元の世界に保存されている訳です。
個人内に宿っているところの生命もやはり永遠不滅の生命であって、
肉体が死んでも死する訳ではない、また生れ変ってくるのであります。
それですから、皆さんの生命は幾度でも生れ変って、
それを繰返す毎に無限に生長しているのであります。
<感謝合掌 平成28年12月12日 頓首再拝>
「生長の家」と言う「理念」 - 伝統
2017/01/23 (Mon) 05:06:40
*「光明道中記」(1月23日)より
【十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするのが日本の使命である。
(『秘められたる神示ー神示講義<秘の巻>』「久遠天上理想国実現の神示」)】
全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇の建国の理想は決して侵略戦争ではない。
八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。
此の理念を「生長の家」と言う。
理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。
何故そう云う名称を附したかと言えば、
生は縦に無限に生(の)びることを現わし、
長は横に長(の)びることを現すからである。
縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、
縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、
内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇(スメラミコト)の御天職である。
此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。
全世界は天皇に於いて一宇(ひとつのいえ)である。
万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以って
出現したのが吾々の団体である。
病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用にすぎない。
天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、
真理の中には病気不幸は存在しないが故に、
病気不幸が消えるのは当然のことである。
病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。
省みて真理に載るものは幸(さいわい)である。
<感謝合掌 平成29年1月23日 頓首再拝>
大自然の心は、荘厳なる理念そのもの - 伝統
2017/04/28 (Fri) 04:54:03
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月28日)」より
大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心を生ずるはずがない、
人間に心がある事実は、大自然にもまた心がある証拠である。
大自然の心とは ―― 大自然の背後にある荘厳なる理念そのものである。
<感謝合掌 平成29年4月28日 頓首再拝>
理念は、空間的ひろがり・時間的先後を超越している - 伝統
2017/05/15 (Mon) 03:26:05
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月15日)」より
「理念」―眼には見えないが厳然と存在する心的模型というものが、
あらかじめ存在するのでなければ、一粒の朝顔の種子から、何枚葉が生じても
同じ朝顔の葉の組織紋理になっているという理由が立たない。
むろん、理念は目に見えないから空間的広がりを超越している。
したがってそれが空間的広がりの世界に、形の世界に、朝顔の葉として出て来る場合には、
大きい朝顔の葉もあれば、小さい朝顔の葉もある。
しかし空間的な大小を超越した朝顔の葉としての理念は、
どんな大きい葉にも、どんな小さい葉の組織紋理にも顕われているのである。
理念に形はないというのはまちがいである。
理念は、空間的大小と時間的先後を超越して存在する「組織紋理」そのものである。
理念は「無」ではない。
朝顔の葉の理念は、朝顔の葉が枯れてしまった後にもそのまま金剛不壊に滅びない存在
であるから、また次の夏が来れば同一組織紋理の形をあらわすのである。
<感謝合掌 平成29年5月15日 頓首再拝>
「脳髄以前の心」が「理念」である - 伝統
2017/05/24 (Wed) 04:31:58
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月24日)」より
「我(が)」の心にはたいした力はない。
心臓は「我」の心が眠ってからも搏(う)っているが、
「我」の心が、1分間に幾回搏たせようと思っても
思うように心臓の鼓動を支配しうるものではない。
脳髄の心はそんなに力のあるものではない。
脳髄のできるまでに在る不思議な心が血管をつくり、心臓をつくり、脳髄をつくったのである。
「脳髄以前の心」が「理念」である。
その理念がフィルムである。
フィルムの前にいろいろの条件が与えられて映画は銀幕に映るのである。
この「いろいろの条件」とは「両親」であったり、いろいろの環境であったりする。
しかしフィルムにないことは映らないが、条件にしたがってフィルムそのままも映らない。
大きく映ったり、小さく映ったり、鮮明であったり、ボケたりする
―― これが現象の肉体である、
両親から独立して後(のち)は、自分の肉体現象は自分で調節する「念のレンズ」の絞りや、
露出でその鮮明度を加減することが出来るのである。
<感謝合掌 平成29年5月24日 頓首再拝>
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されている - 伝統
2017/05/30 (Tue) 04:38:53
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月30日)」より
「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作業」だけではない。深いところの感情である。
ハッキリ思考に現われない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、
大和魂なるものは理論を超越して動いている。
戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。
この深い感情は、明瞭に脳髄意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄意識の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂=ヤマトだましい)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感動の根本となっているのである。
物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。
理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを
一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感動はすべて、
実在者の「理念」から発生してくるものなのである。
「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、
その「理念」はそれが現象的に顕われるのに幾回失敗しても、
やがてはそれが形に現われずはいないのは、
朝顔の花は何回萎れてもまたやがては夏来たって花咲かずにはいないのと同じである。
楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現からであるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。
「七生報国」の正成の語(ことば)は、結局は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだということを顕わしている。
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るほかはないのである。
みずからの民族の中心を見失い、帰一すべき何物もなくなったとき、民族は崩壊するほかはない。
理念は永遠である。理念さえ失わねば形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて
来るのである。
<感謝合掌 平成29年5月30日 頓首再拝>
理念とその代表 - 伝統
2017/07/01 (Sat) 04:34:24
*「光明道中記」(P204)より
学校代表とか、生徒代表とか、会社代表とか云う言葉があるが、それは個々の校舎や、
教室や、会社の建物などの如き形あるものの総代と云う意味でもなく、
またひとり一人の職員や生徒や、会社員の代理とか代弁とか云う意味でもない。
代表とは「形態以上」の本質(理念)が形態ある人格もて代わりて表現せられる
ことを言うのである。
即ち「学校」《なるもの》は校舎でもなければ、職員でもなく、また生徒でもない。
またそれ等の単なる寄せ集めでもないことは、
「車」《なるもの》は心棒でも車輪でも甑(こしき)でも轅(ながえ)でもなく、
「車」なるところの「物を乗せて運ぶもの」なる理念が
形に表現せられたのが「車」なのである。
「これが車か」と言って心棒を引き抜き、その部分部分を毀(こわ)して
指(ゆびさ)しても車はない。
それと同じく「学校」なるものは、
形あるもの一つひとつを指し示しても其処には学校はない。
学校は「《まなびのいえ》なる理念」であって、
その「理念」があらわれて色々の形態をなしているが、
個々の形態を指してもその「理念」をあらわすことが出来ない。
茲(ここ)に個々の形態以上の1個の人格をもってその「まなびのいえ」なる
全理念を表現する時此れを「学校代表」と言うのである。
一国の代表者と言うときは、「くに」なる全理念に代わる表現者を指(さ)すのであり、
宇宙の代表神位と言えば「宇宙」なる全理念の表現者に坐(ましま)すを示し、
神位なる語によって総攬主宰の位を表わすのである。
<感謝合掌 平成29年7月1日 頓首再拝>
日本を「久遠無窮」の「理念」として愛する - 伝統
2017/07/04 (Tue) 04:08:41
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月4日>(P6)より
宗教とは死なぬ道を教えるものである。
不滅の道を教えるものである。
ある場合には、それは「個」と「全体」との関連において。
「個」は「全体」とつながっているものなるがゆえに、「個」は滅びたように見えても、
「全体」は滅びないから、それにつながる「個」も滅びないというような考え方において。
ある場合には、それは国家理念の立場において。
「個人」は滅しても「理念」は滅びないがゆえに、国家理念のために没しきった個人の生命
は永遠に滅びないというような考え方において。
わたしは、日本を「久遠無窮」の「理念」として愛したいのである。
わたしは限りなく日本の国を愛する。
<感謝合掌 平成29年7月4日 頓首再拝>
「日本」の理念の復興を - 伝統
2017/07/08 (Sat) 04:17:11
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月8日>(P12~13)より
ローマが滅亡したのは、理念または理想に対する献身的態度や、持久の精神、
堅忍不抜の精神の衰退したのによるのである。
ものの尊さも、国の尊さも、今ある形の大きさによるのではない。
理想 ―― 理念を失ったものは、すでに内容のない形態ばかりのものになっているのだから、
今はまだ生き生きしていようとも、それはすでに幹から断ち切られた生け花のようなものである。
それは時間のたつにしたがって、衰退枯渇してゆくほかはありようはないのである。
どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないものは、
時期が来れば生長するほかはないのである。
それは生命(せいめい)の種子(たね)であり、機会ごとに伸びるのだ。
西欧文化は、偉大なように見えても、もう理念が失われている。
日本も久遠無窮の理念が失われたとき弱体化するのである。
理念が本当の「日本」であって、形はその影にすぎない。
日本を大いに復興しようと思うならば、「日本」の理念を復興しなければならぬ。
<感謝合掌 平成29年7月8日 頓首再拝>
久遠の理念 - 伝統
2017/08/14 (Mon) 04:27:41
*「善と福との実現」(P231~232)より
久遠の理念が、宇宙に内在し、それが常に宇宙を変貌しつつあるのである。
久遠の理念、それを実相と云うのである。
久遠の理念は誰が造ったか、神みずからの内に内在するのである。
それは神意(みこころ)である。
神は、「永遠の今」であり、過現未を通じてその奥に内在し、
それが常に宇宙を変貌せしめつつあるのである。
理念とは想念(こころのおもい)である。
しかし、ただの想念ではない。
迷いの想念ではない。
ちょいとした想いつきでも想像でもない。
それは根本実在の想念である。
神意である。
一例を挙ぐれば「神、光あれと云い給いければ光ありき」
これが神意である、理念である、真理である、愛である。
暗黒を光明に変え、死を永遠の生に変貌し、混沌を秩序に置換え、
たえず悦びと平和とを生み出しつつある、宇宙内在の根本原動力である。
<感謝合掌 平成29年8月14日 頓首再拝>
日本国家の理念と、日本国家の現象 - 伝統
2017/08/29 (Tue) 04:54:03
*「実相と現象」(P162~164)より
日本国家というものも、やっぱり理念が先ずあって、それが天降って来て、
そこに現象としての日本国家というものが成立したという事になるのであります。
これは非常に重大な問題を含んでいるのであります。
現在の憲法では、天皇の地位というものは、
主権の存する人民の総意によって支えられているように書かれている。
けれども、それは人體にたとえてみるならば、
「 人間の人格の存在を、主権の存する細胞の総意による 」 というのと同じであります。
それは細胞も生きておりまして、細胞自身は細胞としての一個の主権をもっている
けれども、細胞一個一個は全身 ―― この一個の神の子としての人格を備えた人間 ――
を支配する主権はない。
細胞一個一個の主権は、全體の 「 人間なる人格 」 の主権のもとに統制せられて、
はじめてそこに秩序整然たる生理作用の行われる本当に健康なる人體があり得るわけである。
そして、その統一者なる人格の支配の下に、すべての細胞が秩序整然と従うことによって
細胞自身も健康で幸福で生きながらえることができるということになるわけであります。
それに反してその全體を支配している一個の “ 神の子 ” なる 「 人格 」 の統制に反抗して、
細胞のおのおのが我が我がと、秩序を無くして自分だけ利己主義的に栄えたらいいという風
になって、我々人體の或る部分の細胞が盛んに増殖しだしたら、
それはガンとか肉腫とかになって、ガン細胞みずからは、一時大きく伸びるけれども、
全體の調和が破れて、全體の人體が滅び、結局細胞自身も滅びてしまうということになる
わけであります。
《現行憲法の根本的欠陥》
こういう点から、天皇の地位を国民の総意によって支えられるとしたところの部分品に、
国家の全人格を支配する主権があるとする現在の憲法というものは、
そこに根本的に欠陥があるということがわかると思います。
あの憲法の問題にされているのは、
唯一つ、その戦争放棄、軍備破棄の第九条だけではないのであります。
根本的に、あの憲法というものは主権の存在が逆になっているわけです。
「 部分品に主権有り 」 という憲法になっておりますから、
結局あれは唯物論的憲法とでもいうことができるわけなのであります。
<感謝合掌 平成29年8月29日 頓首再拝>
「理念」の人間 - 伝統
2017/09/14 (Thu) 04:40:21
*「善と福との実現」(P234~235)より
真の人間は「神そのままの姿」であるところの「理念」の人間である。
(神その像<かたち>の如く人を創造りたまへり)と
創世記の第一章に於ける人間の創造がそれである。
《実相人間との直接対面》
人間を「久遠理念」と知るとき、
彼は「実相の人間」と直接対面したのである。
「久遠理念」こそ真の人間であると知ったとき、
神それみずからが人間であることを知ったのである。
神それみずからが人間であると知ったとき、
人間は自己の不死と不病とを知ったのである。
肉体と云う現象面から見るとき人間は病み、老い、死する者であるけれども、
実相に於いて人間を見るとき、人間は神そのままに完全であり、
善であり、万徳具足であるのである。
<感謝合掌 平成29年9月14日 頓首再拝>
”理念とは” - 伝統
2017/11/26 (Sun) 03:55:56
*「諸悪の因 現憲法」第四(神意天降った日本の建国)より
”理念”とは”理想とする形相”を表現するところのコトバのことです。
聖書に「太初にコトバあり」と記された通り、
全ての存在はまず、コトバ即ち
”理念”によって創生せられてくるのです。
「理念」という語は、
哲学を勉強した人でないとわかり難いかもしれません。
例えば、ここに朝顔の種子があるとします。
その種子を植えると、双葉が出て来て、茎が伸びて、葉が伸びて、
だんだん蔓が伸びて蕾が出来て、そして朝顔の花が咲く。
その朝顔の種子を植えたら必ず朝顔の花が咲く。
これは、その種子の中に朝顔の花の形が、
肉眼には見えないけれどもちゃんとあるのです。
もちろん種子を割って顕微鏡で覗いても
花の形はまだ物質になっていないから見えません。
見えないけれどもやはり種子の中には、
朝顔の″花の原型″というものがある。
これが″理念″というものであります。
(中略)
朝顔の種子を植えたら、朝顔の花が咲くより仕方がない。
そのように物質に現れてくる以前の原型、心の形、
それが”理念”というものであります。
<感謝合掌 平成29年11月26日 頓首再拝>
″日本の国の理念″とは - 伝統
2017/12/14 (Thu) 03:34:45
*「諸悪の因 現憲法」第四(神意天降った日本の建国)より
それでは″日本の国の理念″とは何かというと、
それは天照大御神の御神勅に現れているのです。
「豊葦原の千五百秋の国、即ち日本の国は、
天照大御神の子孫が連綿として天皇としてあるべきだ」という″理念″です。
その根本設計である日本国家の″理念″の天降りが、瓊瓊杵尊の天孫降臨であり、
その国家としての具体化が神武天皇の橿原に於ける御即位となって、
日本の国が始まったのであります。
つまり今の日本国家は天皇がお創めになった国でありまして、
諸外国のように国民が相談をしてこの国を建てたというのではないのです。
そこに日本国の尊さというものがあるのであります。
<感謝合掌 平成29年12月14日 頓首再拝>
純粋形相としての理念 - 伝統
2018/01/07 (Sun) 04:09:16
*『新講 「甘露の法雨」解釋』 より
吾々が理念というのは、物質のない形、物質という混ぜ物を抽きにした
純粋な精神的だけの形相をいうのです。
この物質抽きの精神的原型は過去現在未来を、
映画のフィルムの巻き収められたもののように、
同時即一に一つに包んでいながら、物質じゃあないから、
現象的に見える大きさが無い。
一切の形が悉くこの「実相」の中に、理念としてあるのですが、
それが動き出して、ちょうどフィルムが巻き戻されるような状態になると、
実相世界にある理念の形が、一と齣(こま)一齣継続的に出て来まして、
現象界に或る時間的持続と空間的ひろがりとをもって
あらわれて来ることになるのであります。
(Web:みすまるの珠「212 「理念」とは何であるか (2016.2.12)
http://misumaru.o.oo7.jp/kinkyou-3.html より転写 )
<感謝合掌 平成30年1月7日 頓首再拝>
「生長の家」の理念、その団体の役目 - 伝統
2018/01/23 (Tue) 04:21:34
*「光明道中記」(1月23日寒菊競い開く日)より
【十六方位の世界を一つの常住性ある永遠滅びぬ世界とするのが日本の使命である。
(『秘められたる神示ー神示講義<秘の巻>』「久遠天上理想国実現の神示」)】
全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇の建国の理想は決して侵略戦争ではない。
八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。
此の理念を「生長の家」と言う。
理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。
何故そう云う名称を附したかと言えば、
生は縦に無限に生(の)びることを現わし、
長は横に長(の)びることを現すからである。
縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、
縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、
内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇(スメラミコト)の御天職である。
此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。
全世界は天皇に於いて一宇(ひとつのいえ)である。
万国の民にそれを告げ知らせる東道(みちしるべ)の役目を以って
出現したのが吾々の団体である。
病気が治り運命がよくなり、万事に成功すると云うが如きはただ副作用にすぎない。
天地の真理、すべてが生長する真理に随順して生きる時、
真理の中には病気不幸は存在しないが故に、
病気不幸が消えるのは当然のことである。
病気不幸が起るには何か真理に離れたことがある。
省みて真理に載るものは幸(さいわい)である。
<感謝合掌 平成30年1月23日 頓首再拝>
「生長の家」とは、そして日本の役割とは - 伝統
2018/01/25 (Thu) 04:31:35
*「光明道中記」(1月25日光明充満する日)より
【自分の利益のために楽しもうと思って性欲を扱いますと、
性欲が汚れたものに見えて 来るのです。(『生命の實相』第二十巻)】
「高天原(たかあまはら)に神詰ります」と
実に朗々とした声で祝詞(のりと)が響いて来る。
朝の空気を動かし、霧を動かし、
「高天原なる大宇宙に神が充満している」と云う観念が
天地を動かす、実に荘厳だ。
それを古代日本人は知っていた。
常に古代日本人は「大宇宙(たかあまはら)に
神遍在(つまりま)す」と誦(とな)え念じ、
邪気を祓(はら)っていたのである。
神が充満しているから、悪の存在はあり得ない。
尽天尽地ただ神のみである。神光遍満、邪気不在である。
その大宇宙を「家」と見たのが古代日本人である。
吾々はそれを生長の家と名附けた。
「生」の縦に生びる神漏伎(かむロギー)と、
「長」の横に長びる神漏美(かむロミー)と、
一つの中心普遍的神漏皇(かむロゴス)が陽陰の対偶と分化しあらわれて、
陽陰の偉大な素晴しき交流となった家が「生長の家」である。
私の家が生長の家ではない。大宇宙が「家」であり、生長の家の理で充たされている。
生長の家の理を隠蔽することなく生きた時に、其の人が生長の人となり、
其の人の家が生長の家となり、国家が生長の国家(いえ)となる。
組合(クミ)と云う意味での国々は世界到るところにあるが、
国家すなわち国がそのまま家族であるのは日本のみである。
全世界を家族となし全世界動乱の因を断つのが日本の使命である。
<感謝合掌 平成30年1月25日 頓首再拝>
全世界が一家庭たる理念 - 伝統
2018/01/27 (Sat) 04:17:18
*「光明道中記」(1月27日久遠皇位を胆(きも)に銘ずる日)より
【火にも焼けざる皇位の久遠無窮性を立証せんが為に、
火を着けて皇子をお生みになったのです。 (『驀進日本の心と力』)】
生命(いのち)のひとつ流れの実相を把握するとき、
眼の色は異り、皮膚の色は異るとも、八紘は一宇であり、一家庭であり、
すべての人種ことごとく天皇の徳に帰一し奉ることが出来るのである。
ナチスの血の哲学、民族の哲学は
ゲルマン民族の栄えのために把握されたる哲学であった。
日本の哲学はそんな狭い精神でないのである。
東洋民族よ聯合せよ! と云う東洋民族の哲学でもないのである。
それはまだ血を見ている。
血を見るのは皮膚の色を見ることであり、骨格を見ることであり、
人種の差別を見ることである。
人と人とを分割することである。
外国の哲学はどんなに優れていても結局は分割に落着く。
日本の哲学は包容帰一である。
ヒトとは霊止(ひと)であり「理念止まる」である。
全世界が一家庭たる理念降下し、義に於て君臣、
理念に於て陛下の赤子である実相を知るとき、
何人種と言えども既に日本人である。
「日本を守る会」は他国と対立して、小さい現象日本国を守るのではない。
天皇を中心に全世界が一家庭となる包容帰一の日本の理想を守る有志の懇談会である。
<感謝合掌 平成30年1月27日 頓首再拝>
”理念”の展開として、われらは常に進歩し向上する - 伝統
2018/02/14 (Wed) 03:31:58
*『如意自在の生活365章』(P286~287)より
種子から発芽した植物の新芽が徐々に生長して美しい葉をひろげ、
茎や幹を伸ばし、枝を繁らせてついに蕾をもち花を開くようになるのは、
すでに種子の中に宿っていた「精神的原型」(これを理念という)が
時間・空間の秩序の中に展開しつつあるのである。
人間が進歩向上して行くのも、
やはりこの植物の種子の中にある〝理念″が展開して行くのと同じであって、
外から附加したものが展開して行くのではないのである。
むろん、植物の生長にも、肥料を与えることが必要であるのと同じように、
人間の進歩向上にも、外から栄養物質や、精神的教養を与えることは必要である。
しかし、どんなに肥料の成分を変化しても、
朝顔には朝顔の花が咲くのであって、籐の花や、桜の花が咲くのではない。
肥料や土壌の成分は内部の〝理念″を変化するのではなく、
内部の〝理念″を形の世界にあらわすための条件を供給するだけである。
条件が完全にはたらけば、その〝理念″の展開が大きくあらわれるし、
条件が貧しければ〝理念″の展開する容積が縮小するのであり、
あまりにその〝展開″を狭めるような条件では、
内在の〝理念″がゆがめられて表現されるが、
それは〝理念″そのものがゆがめられたのでも変形したのでもないのである。
どんなにゆがめられた形にあらわれている子供でも、
それは内在の〝神の子″が歪められているのではなく、
環境条件を整えれば、立派な〝神の子″の実相をあらわすにいたるのである。
それゆえに、人類をよくするには〝真理の教育″によって、
内在の完全さに波長を合わせて、
それを顕在にまで引き出すようにしなければならない。
<感謝合掌 平成30年2月14日 頓首再拝>
理念としての人間 - 伝統
2018/03/25 (Sun) 04:18:13
*『人間死んでも死なぬ』(P339~342)より
茲に同自性の連続として感じられるところの「人間」“なるもの”は、
実は<肉体の同自性の連続>ではなく、また「我」なる<大脳意識の同自性の連続>
ではなく、<設計者の理念の同自性>による「人間」なる一つのものとしての
自覚であることが明瞭になったと思う。
そこで我等に「同自」なるものとして自覚せしめている
<本当の人間>なるものは肉体ではなく、また軽々しく普通人が「我」と
漠然と称しているところの第一人称者でもなく、
実はその奥に横たわるところの設計者の理念そのものが
茲(ここ)に生きていることを知るのである。
端的に云えば肉体は人間ではない。心(大脳の作用の)も人間ではない。
<理念が人間なのである。>設計者によって構想されたる
「人間」なる理念が人間なのである。
だから、ガス火焔は消える、ガスの装置も錆びて使えなくなる。
併し、そのガス装置の設計者の理念は消滅し得ない如く、
人間の肉体は腐蝕し、傷つき、死するであろうし、その大脳意識は消えるであろうが、
「人間」“そのもの”は、設計者の「理念」なるが故に消えることなき
久遠不滅の存在なのである。
一個のガス装置が錆びて使えなくなったら、
設計者の設計(理念)が廃棄せられない限り、
同じ型のガス装置が適当な材料を求めて製作せられて、
同じような型のガス火焔が燃えるであろう。
その如く、「あなた」の肉体は幾度滅びても、<「あなた」なる理念>は、
つねに設計者の中にあって永遠に死滅することないが故に、
“幾度でも”地球またはその他の遊星の如き適当なる環境材料を見出して、
そこに<現象的な人間>として姿を現し出(い)でるのである。
そして斯くして出生する<現象的な人間>は<本当の人間(理念の人間)の
ただの投影(かげ)に過ぎないのである。
私は「人間」そのものは、設計者の「理念」なるが故に
消えることなき久遠不滅の存在なのであると言った。
ここに見逃すべからざる二つのことがある。
(1)人間は設計者に関係していること。
(2)「人間」の本質又は<本当にある>人間は理念であるが、
その理念とは類型的概念ではないと云うことである。
「人間“なるもの”」と云う共通類型的な概念ではなく、
ひとりひとりの人間、「あなた」なるもの、「彼」なるもの
--------等々悉く設計者の心の中に描かれたる個性的な理念であって、
決して類型はないのである。
設計者を仮に神と云う。
神の心の中には決して類型的な理念は描かれはしないのである。
神は無限創造である。
神は無相にして無限相を内に包蔵する。
類型の重複を造り出す必要は決してないのである。
「人間」には類型は一人もないのであって、悉く個性を備えている。
類型の如く見える人間が若しありとすれば、それは本来類型の人間ではなく、
まだ未発達であるが故に個性ある人間の特殊性が蔽(おう)われて
開顕していないに過ぎないのである。
それは柿の嫩葉(わかば)と大豆の嫩葉(わかば)とが
互いに類型的に形が似ているのは、それが本来類型的な為ではなく、
それが未発達であるが為にその個性が完全に発揮されていないにすぎないのである。
「理念」には類型はなく、悉く個性的である。
人間も赤ん坊は一層類型的であるが、生長するにつれて“より”一層個性的となる。
猿の胎児と人間の胎児とは互いに類型的であるが生長するにつれて
別個の斬然たる個性を発揮する。
民族もその未発達期に於いて類型的な性格が多いが、
より一層発達するに連れて、より一層個性的となるのである。
人間は「理念」であるが故に、常に死滅することはない。
機縁にふれて“より”一層その「理念」内容を完全に表現し、
機縁に触れて病み且つ傷つけるが如く現れる。
釈迦は仏性に滅、不滅なきこと月の性、固(もと)より出没なきが如しと言っている。
(『涅槃経』月喩品)
斯くて人間は今、物質に非ずして物質の様態を表現し、
肉体に非ずして肉体の様態を示現し、仮に「肉体」を我と考え違いし、
大脳意識の滅落を我の死と思い違えて悲しむのであるが、
<本当の人間>――“本当にある人間”は決して死することなきものである。
長押(なげし)の釘に掛けたる衣服は釘が抜け落つると同時に
吾々の視界から没し去るが、衣服そのものは決して滅したのではないのである。
(ベルグソン『創造的進化』)
吾々は肉体の死を悲しむには当らないのである。
(http://bbs5.sekkaku.net/bbs/snihonryuu/mode=res&log=233 より転写)
<感謝合掌 平成30年3月25日 頓首再拝>
大自然の心~大自然の背後にある荘厳なる理念 - 伝統
2018/04/28 (Sat) 03:23:55
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月28日)」より
大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心を生ずるはずがない、
人間に心がある事実は、大自然にもまた心がある証拠である。
大自然の心とは ―― 大自然の背後にある荘厳なる理念そのものである。
<感謝合掌 平成30年4月28日 頓首再拝>
理念は、空間的ひろがり・時間的先後を超越している - 伝統
2018/05/15 (Tue) 03:29:44
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月15日)」より
「理念」―眼には見えないが厳然と存在する心的模型というものが、
あらかじめ存在するのでなければ、一粒の朝顔の種子から、何枚葉が生じても
同じ朝顔の葉の組織紋理になっているという理由が立たない。
むろん、理念は目に見えないから空間的広がりを超越している。
したがってそれが空間的広がりの世界に、形の世界に、
朝顔の葉として出て来る場合には、
大きい朝顔の葉もあれば、小さい朝顔の葉もある。
しかし空間的な大小を超越した朝顔の葉としての理念は、
どんな大きい葉にも、どんな小さい葉の組織紋理にも顕われているのである。
理念に形はないというのはまちがいである。
理念は、空間的大小と時間的先後を超越して存在する「組織紋理」そのものである。
理念は「無」ではない。
朝顔の葉の理念は、朝顔の葉が枯れてしまった後にも
そのまま金剛不壊に滅びない存在であるから、
また次の夏が来れば同一組織紋理の形をあらわすのである。
<感謝合掌 平成30年5月15日 頓首再拝>
「脳髄以前の心」が「理念」である - 伝統
2018/05/24 (Thu) 03:57:55
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月24日)」より
「我(が)」の心にはたいした力はない。
心臓は「我」の心が眠ってからも搏(う)っているが、
「我」の心が、1分間に幾回搏たせようと思っても
思うように心臓の鼓動を支配しうるものではない。
脳髄の心はそんなに力のあるものではない。
脳髄のできるまでに在る不思議な心が血管をつくり、心臓をつくり、脳髄をつくったのである。
「脳髄以前の心」が「理念」である。
その理念がフィルムである。
フィルムの前にいろいろの条件が与えられて映画は銀幕に映るのである。
この「いろいろの条件」とは「両親」であったり、いろいろの環境であったりする。
しかしフィルムにないことは映らないが、条件にしたがってフィルムそのままも映らない。
大きく映ったり、小さく映ったり、鮮明であったり、ボケたりする
―― これが現象の肉体である、
両親から独立して後(のち)は、自分の肉体現象は自分で調節する「念のレンズ」の絞りや、
露出でその鮮明度を加減することが出来るのである。
<感謝合掌 平成30年5月24日 頓首再拝>
外来の条件にかかわらず、理念自身の創造を信ぜよ - 伝統
2018/05/25 (Fri) 04:21:18
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月25日)」より
肉体に再生力があるのは、フィルムが厳然として存在して、
適当な条件を与えれば、フィルムの現画と同様に再現すると同様である。
食物や空気や日光はその「適当な条件」と見ることができるであろう。
薬物さえもこの「適当な条件」の一種だと見なすことができるのである。
だから特効薬などという効力確定の薬物に生長の家は反対するのではない。
しかしすべては、理念(コトバ)が創造したのであるから、
「適当な条件」さえも、その条件が他から与えられない場合には、
理念自身が内部から創造しうるのである。
生長の家が反対するのは、人間は外来の条件にのみ左右せられるというような
「自己無力」の《信念の足りなさ》と、特効薬でもないのに特効薬のごとく信じて
倚(よ)り頼ろうとする愚かなる人間の弱点とである。
われわれは太陽のない国に置かれてさえも、
心で太陽を創造して自己の住む世界を明るくしてみせる
というほどの自信をもたねばならぬ。
人間は信念だけの値打である。
<感謝合掌 平成30年5月25日 頓首再拝>
内(内部理想・理念)からの発現で時代はつくられる - 伝統
2018/05/26 (Sat) 03:15:14
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月26日)」より
内から発現するのが時代の流れである。
時代によって精神が左右せられるのではない。
社会的地盤から精神が生まれてくるのではなく、
内から理想は層一層完全なる形態に顕われようとして時代をつくり、
社会的構成を変えてゆくのである。
<感謝合掌 平成30年5月26日 頓首再拝>
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されている - 伝統
2018/05/30 (Wed) 03:29:15
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月30日)」より
「三界は唯心の所現である」釈迦のこの所説は正しい。
しかし、「唯心」とはただの「思考作業」だけではない。深いところの感情である。
ハッキリ思考に現われない以前に心の中に動いている原因不明の魂的な動きがそれである。
思考の上では完全に論理的には組み立てられないが、
大和魂なるものは理論を超越して動いている。
戦死の瞬間に天皇陛下万歳を唱える心は、これは理論でも学問でも思想でもない。
われわれの魂の奥底に横たわる深い感情である。
この深い感情は、明瞭に脳髄意識としては理論的には組み立てられていないが、
脳髄意識の理論発生以前にその奥に存在する実在の理念なのであって、
この中心帰一理念(弥的魂=ヤマトだましい)こそが真統(ほんとう)の
日本人の深い感動の根本となっているのである。
物質分子さえも「中心帰一理念」の中にあるから
原子核を中心として陰電子が回転しているのである。
理念といえば、その文字面から「道理と想念」とを一緒にしたような言葉に思われるが、
人間の深いところの感動はすべて、実在者の「理念」から発生してくるものなのである。
「理念」の力は内より押し出す最も力強い感動であり、
その「理念」はそれが現象的に顕われるのに幾回失敗しても、
やがてはそれが形に現われずはいないのは、
朝顔の花は何回萎れてもまたやがては夏来たって花咲かずにはいないのと同じである。
楠木正成の忠誠心は「中心帰一理念」の発現からであるから、
湊川で挫折しても、「理念」は結局は敗北するものではない。
「七生報国」の正成の語(ことば)は、結局は、
「中心帰一理念」は全世界を支配することになるのだということを顕わしている。
全宇宙は「中心帰一理念」に支配されているのである。
一勝一敗を契機として中心帰一理念を失ってはならないのである。
物質でさえ原子核が破壊されたら正体もなく飛び散るほかはないのである。
みずからの民族の中心を見失い、
帰一すべき何物もなくなったとき、民族は崩壊するほかはない。
理念は永遠である。理念さえ失わねば
形には幾変遷あろうとも、またもとの姿があらわれて来るのである。
<感謝合掌 平成30年5月30日 頓首再拝>
霊的原型(理念・アイディア) - 伝統
2018/06/28 (Thu) 03:55:22
*「神真理を告げ給う」(P162~163)
~「“神”と“人間・神の子”の意義について」より
《万物は神の想念を原型として生ずる》
神が天地一切のものを創造せられたのは、
”有無相対”の”無”を材料として創造せられたのではない。
人間に宿る論理は「”本当に何もない”ところの無よりして何かが生ずる」
ということを拒絶するのである。
何かがそこから生じた”源(みなもと)”となった”無”は、
人間の五官認識の目から見た場合にその存在を見ることが出来なかった
というに過ぎない。
それは種子の中に既にある”花の形”みたいなものである。
朝顔の種の中には、既に朝顔の“花の原型”がある。
成長の途中で肥料等の成分の混合によって生成された”花の形”でないからこそ、
どんなに土壌をとりかえ、肥料を取り換えても、その植物の生命(せいめい)が
花を咲かす生命力がある限りに於いて、
花の大小は栄養の完不全で異なるにしても、
朝顔の花という“個性ある形相(かたちすがた)”は、
種子の中の“理念”として既存のものであるから、”朝顔の花”という
“個性ある形相(かたちすがた)”を保つ花を咲かせるのである。
すべて“自然発生”の形のあるものは、有無相対の“無”より生じたのではなく、
肉眼では“無”と見えるその奧にある霊的原型(理念・アイディア)の
自己顕現であるのである。
<感謝合掌 平成30年6月28日 頓首再拝>
理念とその代表 - 伝統
2018/07/01 (Sun) 04:06:14
*「光明道中記」(P204)より
学校代表とか、生徒代表とか、会社代表とか云う言葉があるが、それは個々の校舎や、
教室や、会社の建物などの如き形あるものの総代と云う意味でもなく、
またひとり一人の職員や生徒や、会社員の代理とか代弁とか云う意味でもない。
代表とは「形態以上」の本質(理念)が形態ある人格もて代わりて表現せられる
ことを言うのである。
即ち「学校」《なるもの》は校舎でもなければ、職員でもなく、また生徒でもない。
またそれ等の単なる寄せ集めでもないことは、
「車」《なるもの》は心棒でも車輪でも甑(こしき)でも轅(ながえ)でもなく、
「車」なるところの「物を乗せて運ぶもの」なる理念が
形に表現せられたのが「車」なのである。
「これが車か」と言って心棒を引き抜き、その部分部分を毀(こわ)して
指(ゆびさ)しても車はない。
それと同じく「学校」なるものは、
形あるもの一つひとつを指し示しても其処には学校はない。
学校は「《まなびのいえ》なる理念」であって、
その「理念」があらわれて色々の形態をなしているが、
個々の形態を指してもその「理念」をあらわすことが出来ない。
茲(ここ)に個々の形態以上の1個の人格をもってその「まなびのいえ」なる
全理念を表現する時此れを「学校代表」と言うのである。
一国の代表者と言うときは、「くに」なる全理念に代わる表現者を指(さ)すのであり、
宇宙の代表神位と言えば「宇宙」なる全理念の表現者に坐(ましま)すを示し、
神位なる語によって総攬主宰の位を表わすのである。
<感謝合掌 平成30年7月1日 頓首再拝>
日本を「久遠無窮」の「理念」として愛する - 伝統
2018/07/04 (Wed) 04:49:14
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月4日)より
宗教とは死なぬ道を教えるものである。
不滅の道を教えるものである。
ある場合には、それは「個」と「全体」との関連において。
「個」は「全体」とつながっているものなるがゆえに、「個」は滅びたように見えても、
「全体」は滅びないから、それにつながる「個」も滅びないというような考え方において。
ある場合には、それは国家理念の立場において。
「個人」は滅しても「理念」は滅びないがゆえに、国家理念のために没しきった個人の生命
は永遠に滅びないというような考え方において。
わたしは、日本を「久遠無窮」の「理念」として愛したいのである。
わたしは限りなく日本の国を愛する。
<感謝合掌 平成30年7月4日 頓首再拝>
「日本」の理念の復興を - 伝統
2018/07/08 (Sun) 04:56:22
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(7月8日)より
ローマが滅亡したのは、理念または理想に対する献身的態度や、持久の精神、
堅忍不抜の精神の衰退したのによるのである。
ものの尊さも、国の尊さも、今ある形の大きさによるのではない。
理想 ―― 理念を失ったものは、
すでに内容のない形態ばかりのものになっているのだから、
今はまだ生き生きしていようとも、
それはすでに幹から断ち切られた生け花のようなものである。
それは時間のたつにしたがって、衰退枯渇してゆくほかはありようはないのである。
どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないものは、
時期が来れば生長するほかはないのである。
それは生命(せいめい)の種子(たね)であり、機会ごとに伸びるのだ。
西欧文化は、偉大なように見えても、もう理念が失われている。
日本も久遠無窮の理念が失われたとき弱体化するのである。
理念が本当の「日本」であって、形はその影にすぎない。
日本を大いに復興しようと思うならば、「日本」の理念を復興しなければならぬ。
<感謝合掌 平成30年7月8日 頓首再拝>
《理念とは如何なるものか》 - 伝統
2018/07/21 (Sat) 03:49:31
*新講『甘露の法雨』解釈(P106~108)より
ところで、神は霊でありますが、霊が生命の本源であり、
それが動けば「コトバ」となってあらわれるのです。
これを「理念」というのです。
『生命の實相』の中には、読者に理解し易いように
「理念」と書いて「かみのことば」と振りがなをつけたところがあります。
人間の本体は「理念の人間」であり、
「肉体の人間」はそれを五官で翻訳した姿であります。
この「理」という字は玉扁に「里」という字の構成になっているのであります。
これは支那人が霊感によって ―― 支那人は「象形文字」すなわと「物の意義や内容」を
象(たかち)にあらわした字を作るのが非常に上手であり ―― 「理」という字も、
その内面的意義を巧みにあらわしているのであります。
「理」というのは、支那大陸に行きますと瑪瑙(めのう)とか翡翠(ひすい)とかいう
「玉(ぎょく)」が沢山ありまして、これは「玉扁」でありますが、“ゝ(チョボ)”
を略して「王扁」になっているのであります。
その文字の構成を分析いたしますと、鉱床から「玉」を取り出して「里」の人が磨きますと、
その表面に縞模様や、いろいろの紋理があらわれる、それを「理」と言ったのです。
まん丸い翡翠とか瑪瑙とかの宝玉にするためそれを磨きますと表面に、
雪の様な色々の模様が浮かび上がって来るのですが、
その「玉」表面に浮かびだした象(かたち)を「理」と言ったのです。
ところが、これを物質の玉(ぎょく)だけではなく、
神様の霊(みたま)の表面にぽっかりと浮かんだものも「理」といったのであります。
神の霊の心が動き出でて「波動(ことば)」となったのであります。だから聖経には、
この全能なる神、
完全なる神の
『心』動き出でてコトバとなれば
一切の現象展開して萬物なる。
萬物はこれ神の心、
萬物はこれ神のコトバ、
すべてはこれ霊、
すべてはこれ心、
と示されているのであります。
こうして神霊の心の波によってあらわされた霊的波動の模様が「理念」なのです。
神は永遠の存在でありますから、
神の心によって、ひとたびこれを創り給うたならば、
それは永遠の存在である。
だから「理念」は永遠不滅の存在であり、
人間の“本体”であるところの「理念の人間」もまた永遠不滅の存在であります。
理念が永遠不滅の存在であるということは、
「数の理念」即ち数理が永遠の存在であることが解れば
他も推して知ることが出来ると思います。
一度神様が「二ニンが四」と、数の理念を心に思われたら、
この「数理」は不滅で、2と2とを乗じたら必ず4になるのであります。
或いは、2と4倍したら8になるのであると
神様が一ペン心に思われたら、これは永遠の理念的存在として消えないものなのです。
「人間は神の姿に造られたり」と聖書の「創世記」にこう書いてありますが、
人間は神様の姿に造られたということは、「神様の姿」なる人間を
神様の心の中に「理念」として思われたことであります。
本当の人間は「理念の人間」でありますから、
「数理」が永遠に消えない存在であるのと同様に永遠不滅なのです。
“2×2=4 の「理念」は永遠に消えない。
2個のリンゴを2回集めて四つになるが、現象のリンゴは食べたらなくなるけれども、
「二二ンが四」の原理は食べてもなくならない。
常に到る処に存在して秩序が整えばそこに姿をあらわすのであります。
《人間は久遠不滅の存在である》
そういうふうに人間というものは、
「二二ンが四」の数理が不滅の理念であるが如く不滅の理念でありまして、
神様の心の思いでありますから、永遠に消えない不滅の存在なのであります。
現象としての「肉体人間」は
物質界の法則に従って消えてしまうことがあるかもしれないけれども、
実相としての「理念人間」は永遠不滅に消えないものであります。
<感謝合掌 平成30年7月21日 頓首再拝>
理念の人間 ―― 人間なる最初のもの - 伝統
2018/08/12 (Sun) 03:29:26
*「幸福の哲学」(P80~81)より
「人間」をその親、その親と遡ってまいりますと地球は星雲と云う
高温度状態に達しますから、その時分から存在した「人間」なるものは、
肉体人間でないことは明らかであります。
するとそれは如何なる「人間」かと申しますと、「理念の人間」であります。
「人間」《なる最初》のもの ―― 精神的模型 ―― 理念的存在が
本当の人間であって、今日まで幾多の天変地変を経て来ても、
火にも焼けず、水にもおぼれず存続したのでございます。
そして、この「理念の人間」こそは常に変易して相(すがた)を
とどめなくなる「肉体人間」よりも、常恒不変の存在であり、
より多く一層吾等の「本当の人間」なのでございます。
だから、キリストは肉体の上では32歳にして「吾はアブラハムの
生まれぬ前(さき)よりありしものだ」と仰せられ、
釈迦は肉体の上では80歳でありながら「吾は百千萬億那由佗劫以前 ――
なおそれよりも古きこと久遠なる存在である」と仰せられたのであります。
いずれの宗教でも、久遠に死なない「不滅の人間」 ――
理念の人間こそ《本当の自分》だと云うことを知らせて、
人間を不死の大安心に導き入れるのでございます。
何が幸福かと申しましても、この「久遠の人間」 ―― 理念なる人間 ――
を本当の人間だと知ることほど幸福なことはございません。
一切の幸福はそこから発生するのであります。
そして自分を「久遠人間」として見るばかりでなく、すべての人々を
「久遠人間」として、理念の兄弟として観るのでございます。
そういう風にすべての人間を観ますと、
至る処に神の理念が満ちていることが判るのであります。
<感謝合掌 平成30年8月12日 頓首再拝>
理念(いのち)に触れよ! - 伝統
2018/10/18 (Thu) 03:42:26
*『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月18日>(P103)より
肉の我(われ)は「本当の我)われ)」が《ここにある》象徴である。
「これ」と眼に視える事物を指(ゆび)さすとき、本当は、
その奥にある「眼に視えない本物」を指(ゆび)さしたのである。
一個の指(ゆび)さされたる柿の実は滅びるのである。
しかし、本当の柿は永遠に滅びることなきがゆえに、
毎年また、機縁熟すれば姿をあらわすのである。
眼に見える柿は《本当の柿》ではなく、柿の象徴である。
本当の柿は「理念<いのち(りねん)>」である。
《いのち》にに触れたものでないと《いのち》はわからない。
<感謝合掌 平成30年10月18日 頓首再拝>
妙有は理念実成の世界 - 伝統
2018/10/26 (Fri) 04:16:09
*「光明道中記」(10月26日 家庭整う日)より
【現在は過去の念で決定した宿命である。未来は・・・。(『生命の實相』第二巻)】
引き寄せて結べば柴の庵なり解くればもとの野原なりけり
こんな仏教の諸行無常を歌った歌が、
妙有の世界を殺風景な野原的世界の観を与えしめた。
現象界の美しき建物は”ある”けれども、それが解けて解体してしまえば、
その材料となった殺風景な野原ばかりだと云うのは、
実在の風光を誤ること著しいものである。
金銀財宝色々の形にあらわれているが、そんな金銀財宝は空しきもので、
いずれも電子の組み合わせによって顕れ方が異(ちが)うだけで、
実相は一様平等砂漠みたいな電子に過ぎないと云うような人生観である。
これでは妙有の世界は、ただ材料の世界だと云うことになって了う。
「材料はあれども製品(現象)は仮の姿」と云うような考え方である。
併し在来、仏教ではこの材料なるものを、地水火風の四大としたのであって、
四大を妙有としたのではない。
地大(堅性のもの)と、水大(湿性「のもの)と、火大(霊性のもの)と、
風大(動性のもの)とこの四つの要素が組合わされ、引き寄せて結べば
柴の庵のような現象になっているのであるが、
分解すればただの要素になる。
実在世界もなければ、実在人間も無い――こんな考え方では仏教は生きて来ない。
妙有は理念実成の世界なのである。
<感謝合掌 平成30年10月26日 頓首再拝>
国家は吾々の最高理念である。 - 伝統
2018/11/11 (Sun) 02:49:44
*『明窓浄机』草創篇(P284~28「昭和12年 天皇は中心理念に在す」)
数字に先立って『数』が存在するがごとく、
理念はすべての形あるものに先行して存在する最高の存在であり、
生命(いのち)の生命である。
国家はその理念のうちの最高なるものである。
個生命はこの最高理念のために、『生命の生命』のために、
一切をなげうって奉仕しなければならぬ。
否、奉仕することそのことが喜びであり、それが個生命なる
小さな理念的存在が最高の理念にまで包摂せられ向上し行く最後唯一の道である。
銃後の親戚知友に送られて征途に旅立つ軍人の歓呼こそは、
見送る人も、見送られる人も、それは個生命が最高の理念に包摂し向上する
刹那の生命の凱歌であり、鬨(とき)の声である。
(http://sei4ch1ou.seesaa.net/article/421281552.html より抜粋転写)
<感謝合掌 平成30年11月11日 頓首再拝>
神の子の理念を実現するためには - 伝統
2018/11/24 (Sat) 04:24:47
*「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月24日)より
生命(せいめい)なき物質と、
生命ある有機体との間にはけざやかな相異があるのである。
それが等しく炭素と水素と酸素と窒素等の化合物であるにしても、
それに生命(いのち)が宿らない間は、その分解・結合の状態は
いつまでも無機物的な方向において行なわれる。
いったん、それに「生命(せいめい)」がやどるとき、
全然異なる分子の分解・結合が行なわれ、
一定の「理念」(または精神的原型)にしたがってあるいは
絢爛(けんらん)たるバラの花となり、
清楚(せいそ)なる百合(ゆり)の花となる。
イエスはその生命(せいめい)の力の不可思議さを見よという意味で
「野の百合はいかにして育つかを見よ」と言ったのである。
すべての生物は、野の百合にせよ、垣根のバラにせよ、
そこに「生命(せいめい)」が宿っているのである。
「生命(せいめい)」の一つの特徴は、物質の分子の配列を、自己の「理念」または
「精神的模型」の秩序にしたがって、新しく再配置する力をもっていることである。
それは物質それ自身の性質を利用しつつ、
新たに自己の理念または精神的模型を造形しゆくこと、
あたかも美術家が、絵の具それ自身の性質を利用しつつ、
自己の内にある「美の精神的模型」の姿を造形してゆくようなものである。
宇宙精神の低次にして、受動的あらわれたる物質は、
宇宙精神の高次にして優位なるあらわれなるいわゆる「生命(せいめい)」に
対してはただ素材を提供するのみであって、
物質が生命(せいめい)を左右することはできないのである。
逆に生命(せいめい)は自己の「心の波」を道具として、
物質の分解・結合の状態を変化し、自己の理想を表現するのである。
野の百合のごとき比較的低き植物階級の生命(せいめい)にしても、
物質それ自身の配列状態を克服して自己の理念の姿を表現することができているのに、
人間という宇宙精神の最高顕現たる生物が物質の世界を克服して、
健康の上にも、経済の上にも発明の上にも自己の理念の姿を表現することが
できないということはありえないのである。
諸君の健康が薄弱であったり、経済的に窮迫したりするのは、
「人間」の天爾(てんに)の「神の子」たる「完全模型」を
みずから主張しないからであって、
それは『法華経』にある大通智勝如来が十劫の間(あいだ)道場に坐して
なおさとりを開かなかったのと同じである。
大通智勝如来は、本来全能の大通力と全智の智勝(ちしょう)とを
そなえていながらみずから進んでそれを自覚しないから、
自分の実相の完全さがあらわれないにすぎないのである。
諸君がひとたび自己内在の大通力を自覚しそれを実現しうることを信じて、
たゆみなく精進努力をつづけるならば必ずやあらゆる方面において
人間完全・神の子実相が実現するに相違ないのである。
<感謝合掌 平成30年11月24日 頓首再拝>
日本人が日本人であるのは実相理念の展開である - 伝統
2018/12/12 (Wed) 04:48:31
*『理想世界』(昭和47年新年号)
佐藤通次博士 〈皇學館大學教授/文学博士〉 は
「人はもとより本質的に男女の相対を超える。
またある国の国民というごとき限定をも超える」
と書いておられるが、“超える” ということは
「相対がない」 という意味ではないのである。
絶対そのままに相対が内包されているからこそ絶対なのである。
絶対のほかに相対が別にあるのだったら既にそれは絶対ではないのである。
天之御中主神の “中(ちゅう)”〈みなか〉に、
既に高御産巣日神、神産巣日神が内包されているけれども、
天之御中主神は陽神に非ず、陰神に非ず
“陰陽不二” の実在であらせられるのである。
人間が本質的に 「男女の相対を超えた存在である」 ということは、
私が 『維摩経解釋』 の本に書いたように、
舎利弗〈男子〉という釈迦の弟子が、
天女の神通力によって女の姿に変貌せしめられる。
そうしてどんなにもがいても、
男子の姿に戻ることができない天女の神通力の中にあって、
はじめて人間は女にあらずして女の相(すがた)に生まれ、
男に非ずして男の相にあらわれている現実を悟るところがある。
これは人間は本来 “陰陽不二” の神の生命の自己実現するとき
その生命 〈 = 魂〉 の半分が女身を現じ、
その生命 〈 = 魂〉 の半分が男身を現じて互に呼び交わし、
互に結び付いて一体になろうとする真理を示すのである。
それは例えば、本来 “一筋の紐” がある。
それは陰陽を超えている。
しかしその紐には両端がある。
一端は左 〈陽足(ひだり) = 陽極〉 があり、
他端は右 〈水極(みぎ) = 陰極) である。
ここに “一筋の紐” にも既に陰陽を内包しているのである。
しかも、“一筋の紐” そのものは陰陽を超えているのである。
超えていながら陰陽が既にあるのである。
しかしその陰陽両端があらわれたとき、その両端を結ぶと、
一筋の紐そのままでは顕われていなかった美しい “結び姿” があらわれる。
リボンを結ぶのでも、帯を結ぶのでも、水引を結ぶのでも同じことである。
しかし紐そのものにそのような美しき “結び姿” をあらわす
本性が内在していたのである。
即ち人間は本来陰陽を超えながら男女性を顕わし、
その男女陰陽の結びによって無限の相(すがた)の美が
展開する内性があるのである。
展開とは ‘既にある’ ものが展(ひら)き開かれ、あらわれることである。
「人はもとより本質的に男女の相対を超える」 が “超える” ということは
“無い” ということではなく、らゆる相対をも内に内包するからこそ絶対であり、
その絶対から陰陽が展開すというのは、内部実相に既に陰陽があるからこそ
展開するのだという理論を 「人間は本来、ある国の国民というごとき限定を超える」
という佐藤博士の言葉をそのまま当てはめると、
日本人が日本人としてあらわれるのは、その生命の内部実相に
「日本人‘なるもの’」 〈理念的存在 = 実相的存在〉 が
あるのが展開して日本人としてあらわれているのであって、
何もない空(くう)からして無幻的に日本人として偶然あらわれている
のではないということである。
それは実相即ち 「実在の日本人としての理念」 の現象顕現であるのである。
それを佐藤博士は、「男が男らしく生きるのは人が人らしく生きることの‘内実’であり、
日本人が日本の道の威厳ある伝統を奉じて日本人らしく生きるのは、
人間が人間らしく生きることの‘実地’である。」
という文章をもって表現していられるのである。
「国家は諸悪の根源なり」 というように説く、
国家否定思想の〇〇〇〇氏の如きがあるけれども、
国家もまた実相 〈 = 実在界 = 龍宮海と比喩的に表現する〉 の中に
内包されてある理念的存在である。
その理念的存在が、時間・空間面に顕現するとき、
ある時点に建国した 「国家」 としてあらわれるのであって、
みだりに国家の存在を否定すべきものではないのである。
佐藤博士は 「国家は実の座に現成する。
それは‘現’の超越 〈 = 真〉 が、改めて相対境に実にせるもの。」
という句をもって表現されている。
「‘現’の超越 = ‘真’」 とは、私の解するところでは
「現象を超えた真 ― 即ち実相界にある真実理念」 のことであって、
実相界に既に実在する理念が、相対境 〈即ち時間・空間の世界〉 に
展開したものである。
されな 「国家」 も実相の世界に根ざしたものであるから、
みだりに否定さるべきものではないのである。
(https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19033501.html )
<感謝合掌 平成30年12月12日 頓首再拝>
大自然の心とは、 大自然の背後にある荘厳なる理念そのもの - 伝統
2019/04/28 (Sun) 04:48:53
*『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月28日)」より
大自然に心がなければ、大自然より発生した人間に心を生ずるはずがない、
人間に心がある事実は、大自然にもまた心がある証拠である。
大自然の心とは ―― 大自然の背後にある荘厳なる理念そのものである。
<感謝合掌 平成31年4月28日 頓首再拝>
理念は、空間的ひろがり・時間的先後を超越している - 伝統
2019/05/15 (Wed) 04:14:24
*「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月15日)」より
「理念」―眼には見えないが厳然と存在する心的模型というものが、
あらかじめ存在するのでなければ、一粒の朝顔の種子から、何枚葉が生じても
同じ朝顔の葉の組織紋理になっているという理由が立たない。
むろん、理念は目に見えないから空間的広がりを超越している。
したがってそれが空間的広がりの世界に、形の世界に、朝顔の葉として出て来る場合には、
大きい朝顔の葉もあれば、小さい朝顔の葉もある。
しかし空間的な大小を超越した朝顔の葉としての理念は、
どんな大きい葉にも、どんな小さい葉の組織紋理にも顕われているのである。
理念に形はないというのはまちがいである。
理念は、空間的大小と時間的先後を超越して存在する「組織紋理」そのものである。
理念は「無」ではない。
朝顔の葉の理念は、朝顔の葉が枯れてしまった後にもそのまま金剛不壊に滅びない存在
であるから、また次の夏が来れば同一組織紋理の形をあらわすのである。
<感謝合掌 令和元年5月15日 頓首再拝>