伝統板・第二

2473232
本掲示板の目的に従い、法令順守、せっかく掲示板社の利用規約及び社会倫理の厳守をお願いします。
なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
どの著作物について権利者が誰であるかを承知しておりません。

「著作物に係る権利」または「その他の正当な権利」を侵害されたとする方は、自らの所属、役職、氏名、連絡方法を明記のうえ、
自らが正当な権利者であることを証明するもの(確定判決書又は文化庁の著作権登録謄本等)のPDFファイルを添付して、
当掲示板への書き込みにより、管理人にお申し出ください。プロバイダ責任制限法に基づき、適正に対処します。

実相を観ずる~「神想観」② - 伝統

2016/05/13 (Fri) 04:34:37

     *伝統板・第二「実相を観ずる~「神想観」①」からの継続です。
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461369


         *『生長の家』(昭和32年4月号)より

神想観の神髄 ~ その1 神は今此処にあり給う

   神の国は今此処にある。
   そして神は自己において顕現している。
   神は余所にあるのではない、『汝の内にある』。

   それを見出さないで今此処を物質の国土と観、
   人間を物質の塊だと見る、其処に迷いがある。

   その迷いを取去らなければ、人間が自縄自縛されている。
   人間は物質ではない。
   この身このままに霊的存在である神を見出さねばならない。
   人間は肉体ではない、霊的存在である。

   この事実を深く心に自覚せしめるための行事が『神想観』である。

   神を頭脳で知っただけでは、神が《わがもの》とはならないのである。
   全身心をもって神の実在を体感体得しなければならない。
   それをなすのが『神想観』である。
   『神想観』を必ず怠らず行ぜよ。

   『神想観』を怠らず行じているうちに『人間・神の子』の真理が、
   頭脳的な知識から、感情的な把握となり、更に進んで
   全生命的な把握になって来るのである。

   大抵の人は『神』を単に、
   理論的に、又は『文字』の上で知っているのである。

   それが単に『文字』や『理論』である限りにおいて
   その神は『自己』の全存在から離れたものに過ぎないのであって、
   生活の上に何の力をも現わすことはできない。

   神が単なる理論上の存在や、名称上の存在でなくなって
   自己の生命そのものと自覚を得はじめたとき、
    私たちの生活は変貌しはじめるのである。

   それは《吾れみずからにては何事も成し得ず》という謙遜と、
   《天の父(神)われにいまして御業を成さしめたまうのである》という
   高らかな明るい自覚との、不思議な組合せができるのである。

   そこにおいて魂の神秘な安息(やすらぎ)が得られる。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18141914.html より転写)

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「実相を観ずる~「神想観」 (10714)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2061 

(2)光明掲示板・第三「実相を観ずる~「神想観」 (88)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=44

(3)光明掲示板・伝統・第一「実相を観ずる~「神想観」 (35)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=21


           <感謝合掌 平成28年5月13日 頓首再拝>

神想観の神髄 ~ その2 神への聖なる憧れ - 伝統

2016/05/21 (Sat) 03:31:38

         *『生長の家』(昭和32年4月号)より

   肉体的な自分、頭脳的な知性のほかに、
   何か一層高き神秘的なものが働いているという感情的な自覚、
   すべての宗教的な体験はそこから生まれて来るのである。

   しかしその自覚に達する迄には、
   頭脳的な追求も、知的な探求も必要である。

   神への追求、神への探求 ― 
   ― それがたとい頭脳的な知的なものであるにしても、
   神への追求又は探求の奥には既に自己の本質が
   『神である』ことのおぼろげなる自覚があるのである。

   そのおぼろげなる自覚を探求の緒として手繰って行けば、
   其処についに内在の神を見出し
   内在の神に到達する大通りを見出すことが出来るのである。

   タバコを一度も経験しない人がタバコを追求しないごとく、
   未だ一度も神を経験しない人が神を探求しようという衝動を
   かすかながらも感ずるはずはないのである。

   既に神は自己の内にましますから
   神への聖なる求めが生まれて来るのである。


   こうして、人類の神への聖なる追求と、
   神をたずねる聖なる巡礼とが始まる。

   ある人は神を『佛』の名において仏教で見出す。
   ある人は『慈悲』の名において慈善的な行為や
   隣人への愛行において見出す。
   ある人は、神を教会において見出し
   教会の礼拝の中に神と自己との接点を見出そうとします。


   正しく『神』を知り、本当の『神』に接するには、
   神罰や仏罰を説かない、偏りのない『愛の神』を説く
   経典又は著述を読まなければなりません。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18147238.html より転写)

           <感謝合掌 平成28年5月21日 頓首再拝>

神想観の神髄 ~ その3 既にある完全の世界の扉を叩くこと - 伝統

2016/05/30 (Mon) 04:53:47

         *『生長の家』(昭和32年4月号)より


   『生命の實相』を読んで、その文章の力、言葉の力によって
   忽然脊椎カリエスが治ったというような人の中には、
   ただ読書だけで自己内在の神を体感しえた人もありますけれども
   万人が万人とも読書だけで、《内在の神》を全身全霊をもって
   体得するわけには行きかねます。

   そこで神想観の実修が必要になるのです。
   私たちは

    『神があらわるれば即ち善となり、義となり、慈悲となり、
     調和おのずから備わり、一切の生き物ところを得て争うものなく、
     相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし』

   と、教えられています。
   神を顕わすのが神想観であります。

   神想観中に観ぜられる実在の世界は、すべては一つの神の示現であり、
   従って『一切の生物処を得て争う者なき大調和の世界』である。

   すべてが一つの神の示現であり、肉体人間なる不完全者が工夫巧者によって
   やっと築きあげた如き自力の世界ではないのである。

   すべてが神の示現の世界であるから、それは他力の世界であり、
   絶対慈悲の世界であり、ただ恩寵によって完全に生かされている世界である。

   随って、人間的なはからいによって《この善》《この幸福》を求めることは
   不要である。
   ただ神の恩寵を感謝にゆって『叩けば』よい世界である。

   既に『形』として『物象化』しているものは有限であり、
   それを求め願うのはある場合には争いの元となります。

   私たちは事物の『聖なる本源』そして『無限の本源』である神に、
   その供給を仰いで其処から『既に完全なるもの』の展開をこそ願うべきであります。
  
   人間的工夫よりも『内なる無限』よりそのインスピレーションを求むべきであり、
   病人もその治癒力の源泉を『内なる無限』より求むべきであり、
   しかもその『内なる無限』は、自力で掘り出すのではなく、
   神の恩寵によって、仏の本願によって、汲み出すべきであります。

   まず自己の内に『無限』があること、それを素直にみとめること、
   そして幼児の心になって、それに呼びかけることであります。


    (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18153948.html より転写)


           <感謝合掌 平成28年5月30日 頓首再拝>

神想観の神髄 ~ その4 《素直》と《幼な児の心》 - 伝統

2016/06/09 (Thu) 04:26:01

         *『生長の家』(昭和32年4月号)より

《素直》と《幼な児の心》とが神の恩寵をそのまま受ける神秘的鍵である。

この《幼な児の心》を快復することが《新たに生まれる》ということである。

理屈を言わずに『人間は神の子である』と言われれば、
それを素直に承認して、『ありがとうございます』と感謝することである。

『人間は神の子であり、本来病いはないのだ』と教えられれば、
たとい現象的に病いがあらわれておろうとも、そんな病いは本来無いのであって、
それは恰も『夢』を見ているようなものである。

病いの苦痛は体験として感じられていても、実際にはその病いは存在しないのであると、
完全にその病いを心の内から否定するのが《幼な児の心》というものである。

  
神想観を行ずるものは先ず《幼な児の心》になることが必要である。
  
神想観とは決して自力の思念ではないのである。
それは《既にある實相の完全さ》を素直な心で受けることである。
遮二無二自己暗示的に『神』の観念を注ぎ込むことではないのである。


真に幼な児の心になって『神』と神のつくり給いし実相の完全さを、
完全に潜在意識の底までも受け入れるとき、

現象的には曲れるは正しくなり、不調和は調和し来り一切の人間処を得て、
争う者なく、相食む者なく、それぞれの個性に従って賦えられたる善きものが、
互いに調和した相において得られるということになるのである。

この時、もはやその人は単に《自分のはからい》や不安や混迷の中に生きず、
神の恩寵によって生かされていることになり、人事関係の調和、豊なる供給、
事業の発展、よき神徠(インスピレーション)等相次いで来るのである。

何よりも先ず、現象に先だって内部に《幼な児の心》が来なければならない。
それが内部的《生まれ更り》である。 内部的《生まれ更り》があってこそ、
やがて現象的に外部的生まれ更りを生ずるのである。

現象を目蒐けて、現象の利益を追求しているようなことでは
《内部的生まれ更り》というものはあり得ない。

現象界のある事物を得んがために、またある目的を達成せんがために
神想観をするのは、神を求めているのではなく、
現象的な目的を達成せんがために、神を利用しようとしているのである。

其処には《神の恩寵》はあり得ない。
何故なら、人間が先に立って、神を利用しようとするのだからである。

だから厳重に言うならば、病気を治すために、金を儲けるために、自動車を得るために
等々の目的で神想観すべきではないのである。  

神想観と世俗の《祈り》とはその点が非常に異なるのである。


神想観は《内部的生まれ更り》をするためにこそ行ずるべきである。
  
『神』を自己の内に素直にみとめるのである。
『神』は既に汝の内にあるけれども、
幼な児の心で素直にみとめない時には現れないのである。

神想観は『神がわが内にありたまい、われ神の内にある』實相即ち真実を見るのである。
神は一切の《善き物》を自己の内に蔵したまい、それを我らが素直に受けることによって
その《善き物》が現象的にも展開するのである。

神を自己の内に素直に見出し、それを受けることが最初の出発点であり、
最後の決着でなければならない。

神と別なるもの、神の善意に相反するもの、他を押しのけて自分が利益を得るもの―
それらを神想観中に求めたりするならば、それは神想観の本質を破壊してしまうことなる。

神はすべて『善』である。 
神以外のものを求める必要はないのである。

神は霊であるから、霊に対しては霊をもって祈るべきである。
物質を目的に祈ってはならないのである。

物質は霊の投影であるから、
霊の方がととのったならば、その投影であるところの物質の方もととのうのである。

だからキリストは

「先ず神の国と神の義(ただしき)とを求めよ、その余のものは汝らに加えらるべし」

と教えられたのである。

   (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18165914.html より転写)

           <感謝合掌 平成28年6月9日 頓首再拝>

深く神想観を励む日 - 伝統

2016/06/14 (Tue) 04:59:33

             *「光明道中記」(6月14日)より

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に行く手を照らす炬火(たいまつ)である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、人の不幸を喜ぶ性質、人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

           <感謝合掌 平成28年6月14日 頓首再拝>

神想観で神我一如となる  - 伝統

2016/06/24 (Fri) 05:03:02

          *「光明道中記」(6月24日)より

【神の懐に入り神を求めよ。(『生命の實相』第四巻)】

神が必要とする人物たれ。
自分の我(が)に使役せられる人となるな。

神に必要とせられる人物となったとき初めて吾々は神に護られ、
神から供給を受ける資格を得るのである。


宇宙の奥に over-soul(オーバー・ソール)<超越霊>と云うものがあるとエマソンは言った。
宇宙の心だ。宇宙の心に悦ばれるものとなるものは、全宇宙がその人を護りたまう
のである。

今よりのち吾れは宇宙の《もの》となったのである。
も早、吾がためには何物をも使わないのである。

吾が悦びは宇宙のために尽すことのほかにはあり得ないのである。
公けなる喜びのみが自分の悦びである。利己的なものの裏には醜い影が附き纏(まと)う
ていることを私は知るが故に、利己的には決して成り切れないのである。


吾れは既に神の《もの》となりたれば、
わが一挙手一投足に神宿りて吾れを護り給うのである。

吾が言う言葉は神の言葉となったのである。
吾れは最早わが権威にて何事も言わないのである。
神の権威にて一切を言うのである。

吾が言葉は必ず成就するのである。
最早われ神の《もの》となったからである。

斯く神想観して祈れ。

           <感謝合掌 平成28年6月24日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2016/06/25 (Sat) 04:56:43


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

           <感謝合掌 平成28年6月25日 頓首再拝>

神想観の神髄 ~ その5 - 伝統

2016/07/08 (Fri) 03:51:50


               *『生長の家』(昭和53年4月号)より

宗教というものは、神様の生命を頂いている人間の完全な相(すがた)を、
それを現わすことによって人間を救うのであります。

その《本来の完全な相》を『實相』というのであります。

その『實相』を現わすためには、その本来の完全な相を包み隠している欠点を取除くために、
その欠点をとくに見付けて「これはいかんぞ、此処はよくない」と説くような方法もある
のであります。
  
大抵今までの教育の仕方はこれでありました。

これは宗教でいえば

『お前は罪の子である、罪の子である。原罪すなわちオリジナル・シン(orijinalsin)という、
人類の祖先なるアダムとイヴが神の教えに背いて、《知識の樹の実》を食べ、
エデンの楽園から追放されて以来、それから続いている深い罪を持っているのであるから、
それが救われるためにはキリストに振り向け』

と説くように、《罪を強調する》ことによって、
実相の完全な姿に振り向かせようとする教化方法もあるのであります。

しかし、そういう教化方法は今まで失敗して来たのであります。

それだからお釈迦さまが生まれてから約三千年、キリストが出られて約二千年、
人類の心をよくしようと思って、その弟子の僧侶や宣教師たちが釈迦、キリストの
教えを説いて来たけれども、人類の道徳性は少しもよくなっていないのであります。

それは罪を強調し、悪を強調して来たからであります。

子供の教育でも『お前は頭が悪いぞ。数学が下手だから余程勉強しなければならない』
というように、学校の先生や親たちが子供に言う。

すると子供はせっかく心を勉強の方に振り向かせても、
《自分は頭が悪いのだ》という先入観念にしばられて、
何時まで経ってもその子供は発達しないのであります。

この世界には《見るものが現れる》という《心の法則》があるのであります。
いくらそこにあっても、〃見なければ現れない〃のであります。

我々の生命の實相は『神の子』であって、
完全であるという本来の姿が現にあるのだけれども、
それを見ないから現れないのであります。
  
欠点を見詰めると欠点が尚一層強く現れて来ます。
『病気、病気、病気』と病気ばかり考えていたら益々病気は悪くなります。

病気を癒そうと思ったら、病気を忘れて、
健康を見詰めれば健康が強く出て来るのであります。

心で観るものが現れて来るのでありますから、神想観では、心の眼で、
自分が神から頂いた生命の本当の姿、完全な姿をじいっと見詰めることによって、
その完全な神の子の姿を現象的にも、肉体的にも現わすことが出切るのであります。

そういう原理に従いまして、神想観というのは神から与えられた自分の生命の實の相
本当の相が完全圓萬であることを見詰める修行であります。

そのためには、神様のお造りになったこの世界が素晴らしく立派な完全なものである
ということを、心の眼でじいっと見詰めなければなりません。

       (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/18175787.html

           <感謝合掌 平成28年7月8日 頓首再拝>

《「 心 」 の安静が 「 実相 」 の完全さを歪みなく現象する》 - 伝統

2016/07/24 (Sun) 04:56:20


           *『 生長の家 』(昭和26年4月23日の法語)より

   安静療法を必要とする病気もあるが、
   安静の内、もっとも大なる安静は 心の安静であるのである。

   心の安静のうち最も大なる安静は 神想観であるのである。

   瞑目(めいもく)して

   「 神の大いなる癒す力 全身に流れ入り、既にわれは癒されたのである 」
   と念ずるときほど心の安静を得ることは 他(ほか)にないのである。

   すべての癒す力の根元は 内部の 「 完全なる実相 」 である。

   その実相を完全に現象化する力は
   「 心 」 と云う歪(ゆが)みないレンズである。

   「 心 」 が平静を失えば、いくらあなたの実相が完全であっても、
   現象的には不完全にあらわれて来るのである。

   だから何よりも先ず 「 心 」 の安静を得ることが必要である。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12235748.html

           <感謝合掌 平成28年7月24日 頓首再拝>

神想観に心浄まる日 - 伝統

2016/08/01 (Mon) 04:31:50


            *「光明道中記」(8月1日)より

【もっと魂をみがいてから他を救おうと思うのは考え違いである。(生命の實相第十一巻)】


多くの人たちは今まで幸福を、健康を、供給を、財福を、
すべての善きものを、外部に求めて来た。

しかしイエスの言ったように「神の国は爾の内にあり」であったのである。
爾とは私であり、諸君であり、すべての人であり、衆生である。

「神の国は爾の内にあり」と云うことを「華厳経」では「一毛頭初に三千世界を現ず」と
あらわしているのである。「一塵の中に一切の仏刹を現ず」とも言い現してある。

「一毛頭初」とは1本の毛の尖端である。
此のような小さな点の中にも三千世界が入っていると云うのである。

「我」と云うものは、一毛頭初よりも小さい。一塵よりも小さい。
併しもう「小さい」と云う言葉は当嵌らない。

「我」は既に肉体でもない。一毛頭初でもない。一塵でもない。
もう空間的な幅や広さや厚みの物質世界を超えている。

吾々は此の世界の中に生まれたのかと思っていたら、吾々の超空間的な「心」の中に
空間的な此の世界が浮かんでいるのだ。

神想観をしているうちに此の超空間的な存在であるところの「我」が自覚出来てくる。
澄み切った虚空と一体の「我」である。否、虚空が「我(わ)」が内にある。

一切が「我」が内にある。
今、そして此処に一切が”有る”の自覚である。

            <感謝合掌 平成28年8月1日 頓首再拝>

《神想観の注意》 - 伝統

2016/08/14 (Sun) 03:38:27


          *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P287)より

   神想観は先ず教えられた通りの基本的神想観のやり方から
   入って行かなければなりません。

   心がそれによって神との一体感に慣れて来ますと、
   危急の場合、神想観も祈りもする余裕がなくて、
   唯一言(ただひとこと)「神様 !!」と言っただけで、

   神との一体感を得、そのために自動車や汽車に
   撥ねとばされたが身に微傷だも
   受けなかったと云うような実例がでて来ます。

   毎日同じ言葉を念じていると退屈になり、
   却って雑念が浮かんで来て、精神統一が失われて来るような場合には、
   如意宝珠観や、普賢菩薩観や、浄円月観を行なうと
   不思議に精神が統一するものである。

   神想観を修するには、同一の言葉を念じても
   常に新鮮な感情を籠めて念ずるように心掛けなければならない。

   言葉がただ形式や、何の意味も感じも起らない
   呪文的繰り返しに陥らないように
   溌剌たる意味をもって念ずることが大切です。

            <感謝合掌 平成28年8月14日 頓首再拝>

《常に神想観を怠らないこと》 - 伝統

2016/08/26 (Fri) 03:45:32


       *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P288~289)より

   神想観は毎朝毎晩必ず実修する習慣をつけるが宜しい。
   朝は早く目が覚めず、すぐに仕事にかからなければならぬし、
   夜は、眠くて身体(からだ)がだるくて合掌するにも疲れていて
   仕方がないと言うような場合には、
   夜、床に入って仰臥したまま、ただ

   「神と我とは一体である。神は完全であるから我も完全である。
   神と我とは一体である。神は霊であるから我も霊である。
   霊は金剛不壊であるから我も金剛不壊である。金剛不壊であるから
   如何なる病菌にも気候の変化にも冒(おか)されない・・・」

   (これは健康を欲する場合の思念の例)と云う風に、
   一念その思いに心を集中して
   念じながら何時(いつ)の間にか眠ってしまうがよい。

   もっと簡単な”思念の言葉”としては、

   「神の生命(いのち)われに流れ入りてわが生命(いのち)となりたまう。
   われは無限智慧、無限愛、無限生命(せいめい)、無限健康」
   と繰り返しつつ眠るがよい。

   罪の観念や悔恨の観念が起って
   不安な感じがとれないと云うような場合には、

   自分の胸を自分の両手で抱きながら其の両手を
   「神の慈手(みて)」であると想像しつつ

   「神は我が罪をゆるしたまいてわれをその慈手(みて)に抱きたまう。
   われは完全に赦されたり」

   と念じながら眠るがよろしい。

             <感謝合掌 平成28年8月26日 頓首再拝>

歓喜の霊身を実現する祈り~「歓喜光の神想観」を修する - 伝統

2016/09/08 (Thu) 04:51:31


         *「光の泉」(昭和53年11号・日々読誦毎月真理経)より

イエス・キリストは、
「われみずからにては何事をも成し得ず“天の父”われに在(いま)して
御業(みわざ)を為さしめ給うのである」と説いていられる。

人間は、肉体的に見て、如何に孤独のように見えようとも、
その実相は常に孤独ではないのである。
常に“天の父”と偕にあるのである。

わが生命の中核に常に“天の父”即ち全智にして全能にまします神が坐し給い
“愛の霊光”を燦然とその中核より照射し給うて全人類を照らしてい給うのである。

されども肉体の波動は鈍重にして恰も太陽の輝きを雲が遮るが如く、
われら人間の中核にまします“天の父”の“愛の霊光”の輝きを覆い隠して、

全人類と自分との生命の交流を不完全ならしめ、恰も人間の本質が
本来個々別々の存在であるかの如く、利己的、個我的存在であるかの観を呈せしめて、
神の愛の顕現を実際生活に完うせしめないのである。

されば、神の愛の顕現を生活に完うするためには、
太陽の霊光を覆い隠すところの雲を吹き祓うが如く、
われわれは暗黒の想念感情を吹き祓わなければならないのである。

暗黒の想念感情を吹き祓うには歓喜光の神想観を修するのがよいのである。
阿弥陀如来も歓喜光如来である。『創世記』にあらわれている
天地の創造神・エロヒムの神名も歓喜光を意味する。

毘盧遮那仏即ち大日如来は無論歓喜光如来である。
天照大御神も歓喜光そのものであらせられる。

黒住宗忠が重症の結核を病み、命旦夕に迫ったとき、
宗忠は親より頂いた肉体よりも尚尊き、自分の本体たる“心”を
父母が相ついで他界せる悲しみに、毎日切り刻むが如く
闇黒なる哀哭の感情で苦しめ続けて来た己(おの)が不孝さに気づき、

翌朝夙(と)く起き出でて海浜に出て、
斎戒沐浴して今しも差し昇る朝日の御光を礼拝し胸を伸ばして深く呼吸せるとき
その日輪より差し出でたる黄金光の霊光宗忠の全身に流れ入り、

最早宗忠の身(しん)ここに生くるに非ず、
天照大御神の歓喜光わが身(しん)と成りてここに生くるなりとの自覚を得たのである。

そのことありて後しばらく彼は毎日眠ることもせず、
唯“歓喜光”に満たされて「あはは、あはは」と歓喜の笑いをつづけたのであった。

人々これを見て宗忠を憐れみて「宗忠狂乱せり」と噂したけれども、
彼は狂せるに非ず、天照大御神の歓喜光に満たされて歓喜の哄笑をつづけたのであった。

斯くて宗忠数日を経て静かなる歓喜に復り自己を顧みたとき、
さすがの重体の結核も癒えてしまっていたのであった。

わたし達もこの宗忠の例に倣い、歓喜光の神想観を修するがよいのである。

「神の霊光流れ入り、わが全身歓喜光に満たされているのである。
満たされている、生かされている、ありがとうございます」と念ずるとき、

自己の顔貌が歓喜の霊光に満たされ黄金色に輝いていることを
如実に心に描いて本当に嬉しい表情をするのである。

毎日この「歓喜光の神想観」をつづけるならば暗い運命は一転して明るい人生は開け、
寿命のある限り、病は癒え、老衰は若返るのである。


  (光明掲示板・第二より転写
    http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=280 )

         <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

《毎日一定時間に神想観を修すること》 - 伝統

2016/09/20 (Tue) 04:49:08


         *「生長の家」(昭和51年6月29日の法語)より

   『人生を前進する』という本の第四十七章 には
   次のように書かれている。

   「人間は神の自己実現である。最高の自己 実現なのである。
   自己実現ということは坐して手を拱いていて”神の実現”が出て来る
   ということではなく、日々の行持を通して 行動化して
   あらわれて来ることなのであ る。」

   われわれは日々の行持を大切に実行しなけ ればならないのである。
   朝起きて洗顔を終った時、一定時間を定めて必ず神想観をすること
   によって、自分の心を神の方向へ 向けかえてその日の出発をするが
   よいのである。

   成就したい希望があるならば、神と一体感を得た心の状態に於いて、
   その”希望”を心に唱え、その希望が ”心の世界”に於いて
   既に成就したことを感謝するがよい。

   その希望の成就が世のため人のためになると同時に、
   自己の魂の向上に役立つものであるならば、”心の世界”に於いて
   既に受けて感謝したところのその事柄は屹度(きっ と)現象界に
   投影して、実現して来るに相違ないのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

         <感謝合掌 平成28年9月20日 頓首再拝>

《自己が霊的存在であることを瞑想せよ》 - 伝統

2016/10/05 (Wed) 03:43:07


         *『生長の家』(昭和25年7月10日の法語)より

   生命の真理を自覚する為には、
   自己が永遠の生命であり、不滅の生命であり、
   無限の智慧と愛と生命とにみたされている所の
   霊的存在であるということを、

   常に瞑想することが必要である。

   ダイヤモンドを磨くには
   ダイヤモンドを以(もっ)てしなければならないのである。

   心を磨くには、心を以てしなければならないのである。

   ダイヤモンドであるからこそ磨くのであって、
   石炭なら磨く必要はないのである。

   人間は 本来神の生命であるから磨く必要があるのである。

   道元禅師は これを 「 證上(しょうじょう)の修 」 すなわち、
   実相は 仏として既に證(さとり)をひらいている上での
   修行であるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

         <感謝合掌 平成28年10月5日 頓首再拝>

神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2016/10/07 (Fri) 04:04:04


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月7日>(P95)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。

神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、

その後に起こる事件の処理中には(病気ならば回復の過程において)
悪化と見える出来事が起こってくるかも知れないのである。

これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに

「悲しめる者は幸いなるかな、彼らは必ずや慰められん。
神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」

と念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 平成28年10月7日 頓首再拝>

般若波羅蜜多(「神想観」)を行ずる - 伝統

2016/10/10 (Mon) 04:23:45


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月10日)より

【般若波羅蜜多の修行は「神想観」の修行である。(『生命の實相』第一巻)】

波羅蜜多の道 ―― 換言すれば神の内流と一つになる道 ―― に六種ある。
六波羅蜜多と言う。
そのうち波羅蜜多は既に言った通りである。

物質なし、肉体なし、五官なしと、一切皆空の否定から、すべての引っかかりを無くして、
本来の自由自在の神格を流露(るろ)して行くのである。
訳して智慧波羅蜜多と言っている。

禅那波羅蜜多と云うのがある。
禅定(訳して静慮<じょうりょ>)によって心を鎮め、斯くして精神統一を得て一切に
煩わされることなく自己の神格の内流を直接把握するのである。

その直接把握を悟道(さとり)と言っている。
神想観は一切皆空と照見しつつ、精神を統一して蓮華蔵世界の光明燦爛たる光景を静慮しつつ、
自己を光明無量、生命無量、慈悲無量の毘盧舎那身(びるしゃなしん)として観ずるのである
から、般若波羅蜜多と禅那波羅蜜多とを同時に行なうものである。

檀那波羅蜜多とは布施波羅蜜多とも訳されている。
布施とは施しをする事であるが、一言にして言えば、愛他の行である。
愛他を行ずる事によって、個々の肉身は別々に分かれてい乍(ながら)も。
自他一体平等なる彼岸(実相)の風光を自覚する行である。

悟りを開くには神想観と同時に愛他の行を行なえと云う教と一致する。

           <感謝合掌 平成28年10月10日 頓首再拝>

「ありがたい」情感の神想観 - 伝統

2016/10/23 (Sun) 04:56:37

     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P105)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、功徳も生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

           <感謝合掌 平成28年10月23日 頓首再拝>

神に融け入る神想観をする日 - 伝統

2016/10/27 (Thu) 04:09:43


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月27日)より

【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、
自分の欲する事物を精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。

そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。


神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、
ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との充ち満ちてある
その妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。
実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 平成28年10月27日 頓首再拝>

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である - 伝統

2016/10/28 (Fri) 03:35:28


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月28日)より抜粋

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、無限智、無限愛、無限生命、
無限供給、無限調和・・・等々一切の善きものを具体的に認めることが出来ないならば、
吾々の現実生活にもそれらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を現象面に創造するのではなくして、
ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が既に成就していると云う前提の
もとに行ぜられるものである。それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。
ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

           <感謝合掌 平成28年10月28日 頓首再拝>

神の智慧を引出す道が神想観 - 伝統

2016/11/11 (Fri) 04:12:21


          *『 生長の家 』(昭和33年9月8日の法語)より
  
   すべての欠乏は、自分の心の産物であるのである。

   自分の心がケチであり、もっと力を出さなければならない時に
   力を出すことを吝んだり、『實相』に智慧を仰げば、
   もっとよい智慧があらわれて来るのに、現象の智慧によって
   實相の智慧を蔽い隠してしまった結果なのである。

   その道の専門家の指導で株に投資して一時大いに儲けたように
   見えていても、それが實相の智慧に導かれた富でない限りは、
   一朝経済界の破綻が来た際に、株券がただ一枚の紙片に
   化してしまうのである。


   よろしくもっと全智なる神の智慧の導きに随うべきである。
   全智なる神が吾々自身の内に宿ってゐたまうのである。

   よろしく吾等は神想観して深く自己の内なる神を内観し、
   其処から如何に富を処置すべきかを判断すべきである。
   すべての人間の内部には無限の智慧が宿っているのである。

   その智慧を引出す道が神想観である。

           <感謝合掌 平成28年11月11日 頓首再拝>

《別時の念仏に就いて》 - 伝統

2016/11/29 (Tue) 03:46:55


           *『 生長の家 』(昭和25年10月1日の法語)より

   静かに坐(ざ)して祈る時間は、恰(あたか)も 「 別時の念仏 」
   のように特に全身全霊を神の方へ振向ける行事として必要である。

   それを神想観というのである。

   行住坐臥(ぎょうじゅうざが)ともに神想観の心境でおれば
   別に或(あ)る特定の時間に神想観する必要はないと云うのは、
   高慢な人の慢心である。

   行住坐臥にはどうしても物質が存在するかのように
   五官には見えるのであるから、それを物質でないと観(み)て
   処置して行くことは至難のことであるのである。

   だから、或る一定の時間には五官の目を閉じて、
   実相円満の相(すがた)を心に強く感ずることが必要なのである。

   南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と云うのは、
   「 阿弥陀仏と私とは命が一体だ 」 と云う思念である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

           <感謝合掌 平成28年11月29日 頓首再拝>

三種の神想観を怠ってはならない - 伝統

2016/12/13 (Tue) 04:09:42


           *「光明道中記」(12月13日)より

【自分は宇宙の中心であるからどちらを向くのも吉方である。
                       (『生命の實相』第十一巻)】 

魂の進歩は、日に日に与えられた其の儘を
素直に全心(まこと)をもって行じて行くところにある。
神想観はその行ずる方向を神の智慧によって導かれ、行ずる意志力を招び出だし、
その行じ得させて頂くその事実に感謝するところの行事である。

ただ遮二無二行ずればとて、反対の方向へ向かって行じているのでは却って
逆効果を呈することになる。

そこで神想観によってその行ずる方向を神の叡智によって導いて頂くのが、
「神の叡智流れ入りて、常住坐臥吾を導き給う」と観ずる神想観である。

実行の意志力を強めるところの神想観は、
「神の力われに流れ入りて吾に実行の勇気を与え給う」と観ずる神想観である。

「全てなくてならぬものを与えたまいて有り難うございます」
と繰り返し念ずるのが感謝の神想観である。

吾等は日常この三種の神想観を怠ってはならないのである。
叡智なき行は崩れる。行なき叡智は崩れる。
行あり叡智ありとも感謝なき功徳は崩れる。

叡智と行と感謝と、そしてもう一つ感謝を実行に表現すること、
それは愛を隣人に対(むか)って行う報恩行である。

みんな報恩のつもりで、やらせて頂く者には何の力みもない。
唯(ただ)有り難いばかりである。

           <感謝合掌 平成28年12月13日 頓首再拝>

新天新地を心の中に呼び覚ます神想観 - 伝統

2016/12/24 (Sat) 03:58:37


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月24日)より

就寝前に人々すべてを赦し、すべてのものに感謝し、
すべての過去を謝(さ)った後(のち)に、
新生活に目覚めたる今朝(けさ)のすがすがしさよ。

それこそ新しき天地の始まりである。

「旧(ふる)き天と地とは過ぎ去り、自分に過去は無いのである。
今が新生である。新しき神の生命(いのち)が天降ったのである」

こう唱えつつ吸う息とともに自分に流れ入る神の生命(いのち)を思い浮かべつつ

「私は罪なき神の子である。すでに浄(きよ)まれる者である。
神の健康たる生命(いのち)、神の喜びに満ちた生命(いのち)がわたしである。
わたしは喜びそのものである。わたしは幸福そのものである。私は健康そのものである」

と繰り返し念ずるのである。

これは新天新地を心の中に呼び覚ます神想観である。

朝目が覚めたとき寝床の中で仰臥のまま念じようと思っても
心が統一し難いものである。

覚めかかると同時に寝床の上に正坐合掌して、
直ちに神想観に取りかかり前述のように念ずるがよいのである。

寒い時には、褞袍(どてら)でも用意しておいて、
ずぐそれを寝巻きの上に羽織って神想観を行なうがよい。

            <感謝合掌 平成28年12月24日 頓首再拝>

《超越的自己を自覚するために》 - 伝統

2017/01/10 (Tue) 04:51:19


          *「理想世界」(昭和47年10月4日の法語)より

   わたし達は「本当の自分」ではないところの
   単なる仮装の存在である肉体にばかり気をとられ、
   肉体が生活している「物質と見えている環境」の有様にのみ

   心を集中して生活している時には、この内在の「本当の自分」
   ―― Soul(魂)なる自分には気がつかないのである。

   しかし或る瞬間―― それは座禅や鎮魂や神想観や瞑想や―― 
   兎も角、外界に心を振り向けずに自分の内的生命にのみ
   ひたすら心を振り向けた機会に、
   自己の内的生命の自覚が顕在になって来る。

   そのとき、イエスが
   「われはアブラハムの生まれぬ前 (さき)より在るものなり」
   と自覚された時のような、肉体の年齢や時間を超越して
   実在するところの自分を自覚するのである

   ―― 諸君もそれを自覚するときが 来るのだ―― 
   そのためには毎日怠らずに 神想観を実修するがよい。


   http://jbbs.shitaraba.net/bbs/lite/read.cgi/study/11346/1322022766/2713


            <感謝合掌 平成29年1月10日 頓首再拝>

《神想観を励む日 》 - 伝統

2017/01/26 (Thu) 05:01:46


         *「生長の家」(昭和16年10月21日の法語)より

   明治天皇御製 ――

     千萬の民の力をあつめなばいかなる業も成らむとぞ思ふ



   天皇よりこのように慈まれ、信頼されている国民は幸いである。
   この光栄を思うとき吾々はどんなに働き過ぎると云うことは
   ないのである。


   併し、理論は兎も角も、働き過ぎて過労になって病気に罹る
   と云う人は無いでもない。それは何故であるかと云うと、
   気があせり過ぎて、血液が逆上し、肩に血が滞り、
   全身の血液循環が平衡を失ってしまうからである。

   だから働けば働くほど力が出ると云っても、それには
   出し方があるのだと云うことを知らねばならぬ。

   無限精力を以て仕事をつづけようと思うものは、
   血液が頭に凝ったり、肩に凝ったりしないように、
   血液を下腹部に又は脚部へ自由に集める練習をすることが
   必要である。


   それには神想観の基本的練習法が最も効果がある。
   即ち正しく坐して静かに『神の生命流れ入る、流れ入る・・・・』
   と観じ、その神の生命が、後頭部から自己の背骨へ、背骨を伝わって
   ずっと腰へ、脚へ、足先へと流れ入るように観ずる。

   意志の力で血液を一定のところへ集中しようとしても無駄である。
   観の力である。心に描くのである。

   神の生命が自分を今癒してくれつつあるように観ずるのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=346

            <感謝合掌 平成29年1月26日 頓首再拝>

『神想観』 とは如何なるものか - 伝統

2017/02/18 (Sat) 04:36:46


            *『生長の家』誌 31年9月号より
              ~ 吉田武利

聖典 『生命の實相』 に於て 
『神想観』 に関する谷口雅春先生の御言葉を抜書きしてみた。 

『神想観』 についてこんな御言葉があったか、
こんな御説明があったかと知らされる事ばかりであった。


 ◎神想観は生長の家の神から私が直接授かったものであります。

 ◎神想観は 『無想観』 にあらず、 『凝念』 にあらず。

 ◎神想観は神の力、仏の力なり。

 ◎神想観はその使命を以てあらわれた守護の神に護られて行う何よりも完全な行法である。

 ◎心と視力を集めて実相を静観するのが神想観である。

 ◎神想観は 『ハイハイ有難うございます』 の修行で少しも難しい事はないのです。

 ◎神想観の祈りは、絶対他力への帰命信頼の表白である。

 ◎与えられた勘定書を精確に承認するのが神想観である。

 ◎神想観は 『実相観』 なり。

 ◎実相上に坐して修するのが神想観である。

 ◎神想観は全身が真理と成る為なり。

 ◎神想観こそ最高の祈りである。

 ◎神想観は 『祈り』 と 『観法』 との調和し合体したものである。

 ◎神想観は神と二人切りの対座なり。

 ◎神想観は永く別れていた親子の対面なり。

 ◎神想観の中(うち)にのみ永遠なる拠り処を吾々は見出す。

 ◎神想観にまさる喜び、幸福は他にない。

 ◎神想観は諸仏現前三昧なり。

 ◎神想観は他力、自力を絶した 『絶対力』 である。

 ◎神想観は実行が実相を念ずるコトバの大行なり。

 ◎神想観は往相精進の行なり。

 ◎神想観は求める場でなく与える場である。

 ◎神想観は 『證上(しょうじょう)の修』 なり。

 ◎忙しく 『睡眠時間の足りないような時ほど却って神想観』 をなすべし。

 ◎人類光明化運動の基礎となるもの ―― それは神想観である。

          (以上は神想観に関する先生の御言葉の一部の列記にすぎない)


『神想観』 が他の如何なる行法にも勝る全き観法である所以と、
これを生長の家の大神より谷口先生を通して授けられた尊さを、
今はじめての如く知り得たと同時に、不勉強であった自分を更めて痛感させられた。

孔子は 『易経』 を読んで韋編三たび絶ったというではないか。 

この古今に冠絶する生命の書、真理の書をいただきながら何という不勉強ぞ。
 
須く、繰返し、徹底的に 

『生命の實相』 を真讀すべし、心讀すべし、身讀すべし。

    (http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533/24588893.html

            <感謝合掌 平成29年2月18日 頓首再拝>

神想観の時の注意 - 伝統

2017/03/14 (Tue) 04:58:34


        *『幸福を招く365章』第2項(P27~28) より

《私達は人類の想念の中に住む》

私たちは、ラジオの放送波の中に住んでいます。
それと同じように人間精神の中に住んでいるのも事実です。

人間が何か感情や想念の波を起こします。
それは電気的には脳波を起こします。

その波は単に弱電流となって神経組織の中を交流し、
内臓を動かしたり筋肉を収縮せしめたりするだけでなく、
それは精神波動となって宇宙至るところに放送されており、
私たちの周囲には無数の想念感情の放送が充満しているのです。

その放送波を感受し得るからこそ、私たちは“虫の知らせ”が本当であったり、
第一印象が的中したりするのです。

時には遠方にいる近親者が遭難したような場合に、
その光景をアリアリと夢に見ることもあるのです。

私たちは斯うして色々の精神波動を受信します。
突然脳裏にひらめいて来るよきインスピレーションなどは
高き霊界からの精神波動の感受であることもあります。


《神想観の時の注意》

漠然と無意識・無想念のようなボンヤリとした想念の状態に於ては、
それは放送された精神波動に対して選波作用(どの波長を選ぶかのハタラキ)
がありませんから、浮動する出鱈目の精神波動を感受してそれによって動かされます。

それでは其の人は目的の定まらぬ気の変わり易い浮浪者になってしまいます。
従って、神想観をするときには無意識をするときには無意識、
無想念になって、何も考えなくなるのは良くありません。

必ず実相円満の完全なる世界像と人間像とを心に描いて、
それに精神を集中するようにしなければなりません。

すると、実相界の完全なる波動が自分の「人間受信機」に受信され感応されて、
そこに現実界にも幸福なる完全なる有様が現れて来るようになるのであります。
ハッキリと自分の欲する状態を心で選び取らねばなりません。

            <感謝合掌 平成29年3月14日 頓首再拝>

神想観と感謝行 - 伝統

2017/03/20 (Mon) 03:32:38


           *「光明法語」(3月20日)より

心を「不完全の念波」(迷い、又は病念)から解放するには、
言葉の力、思念の力によって不完全の反対の念波を打消すことが必要なのである。

神想観により、神のみ實在であり、實在するものは悉く完全であり、
人間は神の子であるから、完全であるほかはないと云う念を強力に、精神集中的に
起こすことは「不完全な念波」を消散又は撃退するのに非常に有効な方法であるのである。

更に有効な方法は、「既に完全なる状態がある」と観じ、
常住それを感謝する念を起こすことである。

            <感謝合掌 平成29年3月20日 頓首再拝>

神想観は、實相の神の国の円満さを見るために行なう - 伝統

2017/04/07 (Fri) 06:18:54


《神と實相のみを愛せよ》 

          *「光明法語」(4月7日)より

祈りも、神想観も、結局現象的御利益の為のものであってはならないのである。

祈りは「神」なる親様、神の子との人格的交渉のためのものである。
父なる神と交通する為、それのみに祈るべきであって、
恵みは祈り方の上手下手によって来るのではない。

恵みは神のみこころによって来るのである。

神想観は、また實相の神の国の円満さを見るためにのみ行なえば好いのである。
神よりも御利益を愛するもの、實相よりも現象を愛する者は
神のみ心にかなわないのである。

            <感謝合掌 平成29年4月7日 頓首再拝>

神想観深まる日 - 伝統

2017/04/17 (Mon) 04:44:35


           *「光明道中記」(4月17日)より

【人間の小智才覚を捨てることが心の扉を開くことになるのであります。
                           (『百事如意』)】


静かに正坐して丹田に軽き力を入れて次の如く念ぜよ。――

  「吾れは神の中に坐っている。
  坐する者も神である。
  (斯くして静かに息を吸いながら ―― )
  吾れを養いたまう者も神である」

而して再び丹田に息を保ちて
「吾れは神の中に坐っている・・・坐する者も神である」と念じ、
再び息を吸いながら「吾れを養いたまう者も神である」と念ずるのである。

斯くしてこれを繰返して十分、二十分、三十分に至るのである。

此の神想観をつづけるならば、神我一体の自覚は頓(とみ)に増し、自分の周囲と内部、
悉く「一つの神」の大調和の雰囲気に満つることを悟り得るが故に吾々は何事に臨んでも
周章狼狽することなく、必ず健康となり、幸福となり、おのずから希望成就するのである。

若し吾々が万物と調和しなかったならば、好機会が来たときにそれに気がつかないだろう。

            <感謝合掌 平成29年4月17日 頓首再拝>

《あなたの人生を〃神〃の基礎の上に築け》 - 伝統

2017/05/04 (Thu) 04:51:37


         *『生長の家』(昭和41年12月1日の法語)より

   まづ一日の始まるとき、あなたの心を浄めましょう。
   自分の生活を〃神〃という堅固な基礎の上に立って始めましょう。

   次の如く神想観中に念じましょう。

   『わたしは神の子である。神の生命が、その最高の顕現をなすべく
   ××〈自己の姓名〉という姿をもって爰にあらわれたのである。

   自分の生活は〃神〃という堅固な基礎の上に立って
   営まれているのである。如何なる人生の風涛も、
   この堅固なる神の平和を動揺さすことはできないのである』

   現象の人生は、その人の心の所現であり、
   神と一体なる自己の実相をどの程度自覚するかに従って、
   その人の人生が幸福にも不幸にもなるのである。

   それゆえ、一日の始めに神想観して、
   心を神の基礎の上に安住せしめることは、
   あなたの生活を安泰なる基礎の上に立たしめ
   ゆるぎなき幸福を築くことになるのである。

 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

            <感謝合掌 平成29年5月4日 頓首再拝>

《就寝直前の神想観》 - 伝統

2017/05/18 (Thu) 03:43:28


          *『生長の家』(昭和41年12月2日の法語)より

   あなたが一日の仕事を終って、眠りに入ろうとする直前、
   時間が許さなかったら極短時間でもよいから神想観して、

   先ず神に感謝を述べ、一日じゅう仕事の事に熱中して、
   色々の外界の問題を心に掴んでいたその心の〃掴み〃を放して、
   その問題を神に委ねて、心を軽くしてから眠りに入るのがよい
   のである。


   次の如く神想観中に念じなさい

   『今日いちにち中、神の愛によって護られ、
   神の智慧によって導かれ、健康と繁栄との道を歩ませて
   頂きました事を感謝いたします。

   私が今日の生活中、腹立ち人を憤り憎みました事が
   少しでもありましたら、その心の汚れを潔めたまえ。

   今、わたしはすべての人々を完全に赦しました。
   その如く神よ、私の過ちを赦したまえ。

   わが生命をすべての仕事を神様あなたに委ねて
   眠りに入らせて頂きます。

   私の眠っています間にわが魂に平和を、わが肉体に健康を、
   わが精神に自信と断行の勇気とを、わが事業に繁栄の智慧を
   与えたまえ、すべてを神様あなたにお委せいたします。 
   ありがとうございます』

   このように念じて、神がすべてを良くしたまうことを信じ、
   本当に一切の思い煩いから脱却して、
   心の重荷を解除してから安らかな眠りに入るのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

            <感謝合掌 平成29年5月18日 頓首再拝>

《相手を赦す神想観》 - 伝統

2017/05/28 (Sun) 04:56:26


           *「光明法語」(5月28日)より

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。
私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。

私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

            <感謝合掌 平成29年5月28日 頓首再拝>

《劣等観を去るための神想観》 - 伝統

2017/06/12 (Mon) 04:28:18


        *『 生長の家 』(昭和44年12月13日の法語)より

   人間の不幸のすべては殆どみな劣等観に基いて
   本来の偉大なる潜在能力を発揮せずに、
   その出口を塞いでしまうことから起って来るのである。

   そのような劣等観をなくするためには、
   次のように神想観をして祈るがよい。―


   “ 私は神の子である。
   神は全能である、その全能の力が私に宿っているのである。
   私は神の子である。

   神は全智である、
   その全智なるすぐれたる智慧が私に宿っているのである。

   そして時に応じ、処に応じ、人に応じて、
   その全智全能なる智慧と力とが自由自在に
   発現してくるのである。

   それゆえに私は何物をも恐れることはないのである。”


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/9ca5ddcfd20b24aaf94d3b2e9e335e00

            <感謝合掌 平成29年6月12日 頓首再拝>

深く神想観を励む日 - 伝統

2017/06/14 (Wed) 04:27:54


         *「光明道中記」(6月14日)より

【自信は吾々が満ちの世界に進んで行く時に行く手を照らす炬火(たいまつ)である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

先ず自分のうちに、仏が宿っていること、
大慈大悲の観世門菩薩が宿っていること、
先ず自分のうちにキリストが宿っていること、

静かに眼を瞑じて吾がうちに宿る、仏性を呼び、キリストを呼ぶことである。

一切の悪しき性質は悉く拭い去られたりと観ぜよ。
一切の病気も悪癖も悉く拭い去られたりと観ぜよ。

人を憎む性質、怒(いか)る性質、人の不幸を喜ぶ性質、人の欠点(あら)を探す性質、
―― 神らしからぬすべての性質は悉く洗い浄められたりと観ぜよ。


此の「観」を常に続けること。
吾々が道をつけただけ山上の水は平地に流れ下って来るのである。
やがて大いなる生命の水が山上より降って来るであろう。

一切の悪は、それによって押し流され、
一切の汚れはそれによって浄められる時が来るであろう。

最高キロワットの水力タービンは回転し倏忽(しゅくこつ)の間に
世界は相(すがた)を変えるであろう。
ただそれまでは吾々は道をつけねばならないのである。

神はわれを遣わし給いて、われに道を備えしめ給う。
わが力は神より賜(たま)いたる力である。
わが力は一つもないのである。

われは神と協力すれども、そのわが力も神のものである。

            <感謝合掌 平成29年6月14日 頓首再拝>

実相上に坐して修するのが神想観である - 伝統

2017/06/25 (Sun) 05:03:04


        *『生命の實相』第三十七巻幸福篇上(6月25日)より

ある人が毎日神想観を熱心にやっていた。
「なぜ君はそんなに神想観を熱心にやるのですか」と先輩が訊いた。

するとその人は、「神想観をして無限供給を受けようと思うのです」と答えた。

先輩はこう言った「神想観はすでに無限供給である自分の実相を観ることですよ。
神想観をしてから無限供給が来るのではない。
われらの本体がすでに無限供給である。観中すでに無限供給なのですよ。」

この先輩の言葉はおもしろい。
神想観をして病気を治そうと思っている人もあるが、病気がないのが実相である。

実相上に坐して修するのが神想観である。
実相に到達せんとして修するのが神想観ではない。

           <感謝合掌 平成29年6月25日 頓首再拝>

《神想観を通して自己の本源を自覚せよ》 - 伝統

2017/07/15 (Sat) 04:16:40


          *『生長の家』(昭和41年12月10日の法語)より

   生命が生き生きと活動をつづけるためには
   生命の本源が〃無限者〃なる神から来たものであるという
   自覚をもたなければならないのである。

   その自覚の道具となるものが〃心〃である。

   〃心〃をして自己の内部の本源者の方へ振向かせることによって、
   自己が〃無限者〃の流れを汲むものであることを悟ることが
   出来るのである。

   ひたすら内部の〃無限者〃に心を振り向ける
   精神統一的行事が神想観なのである。

   すべての人間は現象的には有限的存在であるけれども、
   〃無限〃につながる流れであるから、時間の経過を通して
   いくらでも力が出て来るのである。

   目的を完遂するためには、どこまでも押し強く、粘り強く
   頑張っておれば、やがてその目的を成就することができるのは、
   時間の流れを通じて〃無限〃があらわれて来るからなのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

           <感謝合掌 平成29年7月15日 頓首再拝>

《内を見る力》 - 伝統

2017/08/02 (Wed) 03:59:31


        *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)第4篇(P91~92) より

人間は自己の内に”無限”を蔵し得る無限の可能性として
それを内に貯えているのである。

五官の感覚は外を見るために発達した器官であるがゆえに、
内を見る力を欠いて、自己の実相の無限力を見る事ができないので、
恐怖心や懐疑の心に満たされるのである。

自己を内観することによってのみ、実相の”無限”を自覚する機会を得るのである。
内観しないものにとっては、実相を観る道は完全にふさがれて、
打ち勝ちがたき鉄壁として「物質の世界」が立っているのである。

多くの人たちは、この「物質の鉄壁」の中にとじ込められ自由を失って、
恰も囚人の如き自由なき生活を送っているのである。

「働けど働けどなおわが暮らし楽にならざり」という啄木の如き嘆きは、
この「物質の鉄壁」を超える事の出来ない人々の嘆きを代表しているのである。

物質の鉄壁は外に向かってそれを打ち破ること事の出来ない壁である。

ただ内観によってのみそれを超え得る。
その内観こそ神想観である。

           <感謝合掌 平成29年8月2日 頓首再拝>

純粋な神想観について - 伝統

2017/08/17 (Thu) 04:50:28

        *「神と偕に生きる真理365章」(P57)より

「わが内にある神」 が 「普遍なる神」 に直接接するのが本当の神想観である。
「幼な児の心」 になるということは、 「わが内にある神」 が魂をひらいて
「普遍なる神」 に接触するためにその障壁をとり除くことになるのである。

「我(が)の心」 をもって 「物質的なアレ、又はコレを与えたまえ」 と祈ること
とは大変なちがいであるのである。

純粋な神想観は、「わが内なる神」 が 「普遍なる神」 に対して直接対面し、
「わが”みおや”なる神よ、汝語りたまえ」 と、素直に相対し、
素直に神そのままの御言葉をきくことであり、実相そのままを受取ることである。

完全なる自己放棄と、完全なる自己の扉の全開である。
その扉の入り口に 「物質的な要求」 がデンと坐って、
その入り口をふさいでしまってはならない。

完全な自己放棄が行なわれたとき、
「普遍なる神」 と 「内なる神」 との契合(けいごう)が行なわれる。

           <感謝合掌 平成29年8月17日 頓首再拝>

《精神を神に集めよ》 - 伝統

2017/08/31 (Thu) 04:05:12


         *『 生長の家 』(昭和25年1月4日の法語)より

   心の波長を合わす方法が「 神想観 」 であり、祈りである。

   「 観 」 は 心で深く見ることであり、
   それには精神統一が必要である。

   仏教に色々の観法が存在する。

   静かに目をつぶって心を散乱せしめず、
   天国浄土の既に目の前にあることを予想して、
   ただ只管(ひたすら)それに精神を集中するのである。

   精神統一の方法をスター・デーリーがライファーに尋ねた時に、
   ライファーは詩篇(しへん)第三十七篇を開いて

   「 願わくは、あなたの耳を開き、目を開き給(たま)いて、
   吾が祈りに心を傾け給え 」 という一節を示した。

   ( 新著 「 愛は刑よりも強し 」 参照 )


   → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a371c203b940daebebab8915453fcb58

           <感謝合掌 平成29年8月31日 頓首再拝>

『神想観』の本義 - 伝統

2017/09/17 (Sun) 04:49:12


          *生長の家本部道場   昭和40年5月30日 御指導

神想観をおやりになるには、本当に‘真剣な’、その‘真剣さ’
というものが必要だと思うですね。 
‘真剣さ’がある処に本物が出て来るのであって、
ただ型だけを真似しているというのでは、本当の神想観にならないと思うのであります。


『詳説 神想観』36頁に、神想観は実相観なり ―― 
与えられた勘定書を正確に算出する「祈り」なりとあります。 

我々は神の子として、親譲りの素晴らしい財産が ―― 
財産と言っても物質の意味ではないんですが ―― あらゆる善きものが
 ―― ちゃんと勘定書に正確に書かれて、与えられているわけなんです。 

それを、神想観して素直に遺産相続を受けて、
正確にその受けとったものを算出する祈りであると、
そういうように書かれているわけです。 

そして正確にその勘定書を受けとれば、
今、皆さんのおっしゃったような、色々の功徳がその勘定書に出ている
ということになるわけなんです。


それで、次の37頁には、 
“神想観は現象観ではない、神を讃美する「祈り」である” とあります。 

本当に実相の世界にありとあらゆる善きものがあって、
既に我々にそれが与えられているということが解れば、
自然に神を讃美する心が起り、祈る心が起って来るということになるわけであります。

そして神想観が本当に喜びの神想観、讃美の神想観、感謝の神想観になる。 

それが、そうならないのは、まだ本当に実相に於いて凡てのものが与えられている
という自覚が乏しいというわけでありまして、やっぱりその自覚を導き出すために
本当に感謝の心が起らなくっても、感謝の心を無理に起すようにすると、
それが迎え水のようになって、実相世界の完全なものが現われて来る
ということになるわけです。


この神想観は、単に或るものを波長合わすようにこう観るんだったら、
これは神さまとの人格的まじわりというようなものが乏しくって、
機械的になりまして、宗教的体験として出て来ないということになるのであって、

そこでこの “神想観は神様との人格的まじわりである” 
ということを知ることが大切であります。


38頁の終りの行に  
“実相の神は南無阿弥陀仏と呼べば、阿弥陀仏の姿を現じ給う神様であり、
生長の家の神様と呼べば生長の家の神様を現じ給う神様であります。 

吾々が実相の神に祈るのは、現象界へ実相の神を呼ぶのであります。 

「衆生仏を憶念すれば仏衆生を憶念し給う」 と云う語がありますが、
神は実相界に遍満し給う神でありますから、呼んでも呼ばなくとも
満ちてい給う神様であります。 

が、呼ぶとき其処に人格的交渉があらわれ人格神として応現し給う”  
と書いてあります。


此処に宗教的体験としての神想観が出て来るので、
単に波長を合わせばいいというような機械的祈りではないということになるわけです。 

それで人格的祈りということと、観法ということが、
一つに合体して調和したもの ―― これが神想観である ―― わけで、
それがその次に書かれているわけなんであります。


此の本の42頁には “行住坐臥の祈り” が書いてあります。 

これは一定の時間に坐るというだけが神想観ではないんで、
行住坐臥、神を念じ、実相を念じ、実相の中に今、自分が居り、
神と自分とがいつも一緒にいる、ああ、有難うございますという、
その念の中に生活すること ―― この行住坐臥の神想観をしていますと、
無限の愛であり、無限の智慧である神様の背中に、

いつも‘おんぶ’されて生活しているんだ、
或はその神様に手を引かれてこの世界を歩いているんだ
というような境地になるわけでありまして、

そうすると何も恐るべきものが無くなって、常に神様が守っていて下さり、
正しい方向に導いて下さって、必要な一切のものを与えて下さる父であり、
母であるその神様といつも一体である ―― という自覚が出来てくるわけなんであります。

其処に本当に神想観は最高の喜び、最高の幸福であるということが
解るわけでありまして、これが行住坐臥の神想観であるというわけであります。

次に一定の時間に、坐って神想観をする場合ですね、
それは44頁にあるように、祇管唯観実相であって、 
「欲する事物を心に描いてそれを呼び出す方法」 などと考えてはならないのであって、
それ以上のものであるわけであります。



この神想観の一番の根本にあるものはですね 
‘この世界は神のみが実在であって、一切の悪はない’ ―― 
という大前提をしっかりと把んで、

どんなに悪があらわれていても、病気が出ていても、
どんな不調和が現われていても、そんなものは無い! 
と唯善一元、神一元、神の外何もないという

唯観実相一元観に立つことが必要であって 
「善も悪も色々あるのでその中の善に対して私は波長を合わすのである」 
というような考え方では、それは二元的な考え方に堕して本物ではないわけです。

“神、その造り給える凡てのものを見給いけるに、甚だ善かりき”〈創世記〉。 
もう既にある完全な実相を唯、観ずるものであるということが
44頁の終りから6行目にありますね。 

そして神想観は全身が真理となること ―― つまり真理とは実相ですね。 
唯善だけがある実相と自分とが一枚になってしまう。 もう外に何もないんです。 
善一元・神一元の世界 ―― 

そうなった時が即ち、神想観の三昧境ということになりまして、
もう何とも言いようのない、至美至妙・金剛不壊の実相身を
自分の生命の上に体得したということになるわけであって、
これが神想観の本義であり、功徳は自ずから其処に出て来るわけであります。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/17879052.html )

           <感謝合掌 平成29年9月17日 頓首再拝>

神想観の最高の方法 - 伝統

2017/10/03 (Tue) 04:54:16


             *『静思集』(P137~138)より

神想観の実修にあたって、自分の欲する事物を精神統一の世界から
招(よ)び出して来るために、目的事物を強く念ずる人がある。

そしてそれは功を奏することもあれば功を奏さぬこともある。

ただ注視すべきは「私(わたし)」の凝念の力によって事物を現象界に
顕そうとするのは我(が)の心の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ、又将来に愛憎の業を流転せしめる
ことがあるのである。何故(なぜ)なら「あれが欲しい」を念ずることは
一種の愛憎の念であるからである。


神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、ただ実相の世界に、
神の智慧と、愛と、生命(せいめい)との充ち満ちてある、
その妙(たえ)なる有様(ありさま)を観ることである。

吾々は我(が)の凝念(ぎょうねん)の力によっては、そう多くは動かし得ない。

実相の創化作用の自動によってのみ、無限の力が湧いて来るのである。
ただ自分と云うものを、仏(神)の家に投げ入れて仏(神)から
はかられることが正しいのである。

愛憎によって人間が注文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは
神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず、神想観の効果は少ない。

           <感謝合掌 平成29年10月3日 頓首再拝>

神のみを想い、神のみを観る - 伝統

2017/10/07 (Sat) 03:44:50


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月7日>(P95)より

われわれは瞑想において、または神想観において、
けっして現象の不完全さと取り組んではならないのである。
神想観はただ神のみを想い、神のみを観るのである。

それは往相精進の行である。
それは上に向かって進む。

しかし神想観によって得たる真智により、
現象界に向下して方便智自在に現象界を処理するのである。

神想観中、完全円満な相(すがた)を観ずるが、その後に起こる事件の処理中には
(病気ならば回復の過程において)悪化と見える出来事が起こってくるかも
知れないのである。

これを迷いの自壊作用と名づける。

このような自壊作用に面するとき、われわれはイエスとともに
「悲しめる者は幸いなるかな、彼らは必ずや慰められん。
神はいかなる混乱の中からも調和をもたらし給うのである」と
念ずるがよいのである。

           <感謝合掌 平成29年10月7日 頓首再拝>

神と共に静かに語れ - 伝統

2017/10/08 (Sun) 04:36:45


        *「光明法語(10月8日)」より

人間が神の生命から生まれた神の子である以上、
神と共に静かに語る時間を持つと云う事は、
親子が静かに語る時間を持つと云う事であって
是非とも必要なる当然の行事である。

祈りの時間とか神想観の時間とか神と語る時間である。

神より頂いた生命は、神に感謝して、
自己の時間の何分の一かは純粋に神と語る対話する為に捧げなければならぬ。

また神から与えられた供給は、その何分の一をば、神に捧げなければならぬ。
宗教や社会事業に捧げる事がそれである。

            <感謝合掌 平成29年10月8日 頓首再拝>

瞑想し、實相のみをみよ - 伝統

2017/10/09 (Mon) 03:46:12


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』
       <十月「円満具足」10月9日>(P97)より

眼を瞑って、瞑想せよ。

「人間は何であるか。人間は物質でない。肉体でない。
霊である。霊は金剛不壊である。だから黴菌に侵されることはない。

気候風土の変化によって病気になることはない。
霊は神通自在であるから、けっして不幸に陥ったり、
貧乏になったりすることはないのである」

しずかにこう念じて不幸を見るな、幸福のみを見よ。
病気を否定せよ。貧乏を否定せよ。健康のみを見よ。實相のみをみよ。

心の世界に、幸福のみによって輝く世界を、
健康と富裕とに祝福されたる自分の姿を見つめるのである。
これを毎日数十分ずつ続けよ。

           <感謝合掌 平成29年10月9日 頓首再拝>

「ありがたい」情感の神想観 - 伝統

2017/10/23 (Mon) 06:17:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(「円満具足」10月23日)より

神想観も「ありがたい」情感の神想観になってきたとき初めて尊くもあり、
荘厳であり、くどくも生ずる。

実在の本質はただの「念」だけではない。
だから念ずるだけでは実在を引き出すことはできぬ。

実在は「愛」であるから、われわれは万物に対する「愛」を起こさねばならぬ。
「愛」は相手を予想する感情であるから、「愛」は「愛」されることを望み、
「感謝」されることを望むのである。

神を愛しないでただ功利を「念」ずる神想観が功徳少なきはそのためである。

われわれはまず神を愛しなければならぬ。
「神」の前に死なねばならぬ。
「神」の前にすべてを捨てねばならぬ。

それは神が「犠牲」を要求せられるという意味ではない。
われわれの方が「神」を愛して「物質」を愛していない証拠としてである。

イエスは神を「父」と称した。
「父」という言葉の中に「子」が「父」に対する無限の情感が宿っている。

神想観の最後には必ず「ありがとうございます」と感謝の念を起こすべしである。

           <感謝合掌 平成29年10月23日 頓首再拝>

神に融け入る神想観 - 伝統

2017/10/27 (Fri) 04:57:43


        *「光明道中記(その身まったし)」
         (10月27日神に融け入る神想観をする日)より


【健康とは筋肉の発達ではない。心に「私」なき聖者は常に長命である。
                    (『生命の實相』第十二巻)】

神想観の実修にあたって、
自分の欲する事物を精神統一の世界から招び出して来るために、
目的事物を強く念ずる人がある。

そしてそれは功を奏することもあれば、功を奏さぬこともある。

ただ注意すべきは「私」の凝念(ぎょうねん)の力によって
事物を現象界にあらわそうとするのは我(が)の心の力の仕事であって、
神の力の展開ではないと云うことである。

それは時にはひどく疲労を惹起せしめ
又将来に愛憎の業を流転せしめることがあるのである。
何故なら「あれが欲しい」と念ずることは一種の愛憎の念であるからである。


神想観の最高の方法は、愛憎の念を動かさず、
ただ実相の世界に、神の智慧と愛と生命との充ち満ちてある
その妙なる有様を観ることである。

吾々は我の想念の力によっては、そう多くを動かし得ない。

実相の創化作用の自働によってのみ無限の力が湧いて来るのである。

ただ自分と云うものを仏(神)の家に投げ入れて、
仏(神)の方からはからわれることが正しいのである。

愛憎によって人間が註文しなければ、
欲しい事物が与えられないように思うのは神の力を信じないものである。

愛憎があればあるほど自由を失い、神の波長に合わず神想観の効果は少い。

           <感謝合掌 平成29年10月27日 頓首再拝>

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である - 伝統

2017/10/28 (Sat) 04:51:36


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月28日良き種を蒔く日)より


【きょう種を蒔いたからとて今日はえない。芽が出るには時間が要るのだ。
                        (『生命の實相』第十一巻)】

若し吾々が、実相なるもの、神、宇宙の本体、実在に対して、
無限智、無限愛、無限生命、無限供給、無限調和・・・等々一切の善きものを
具体的に認めることが出来ないならば、吾々の現実生活にも
それらの善きものが発現して来ないのは当然である。

何故なら外界は内界の投影に過ぎないからである。

吾等は我(が)の念力によって欲する事物を現象面に創造するのではなくして、
ただ実相妙有の相(すがた)を眺め、讚嘆し、礼拝し、感謝するのである。

神想観を我の念力の凝念法だと思っている人は全然間違であるが、
何か欲する事物を招び出すためにする行事だと思っている人も間違である。

そしてこれを一種の観念法だと思っている人は、
全然当らずと云う訳でもないが一面観である。

神想観は讚嘆行であり、礼拝行であり、感謝行である。

讚嘆と、礼拝と、感謝は、すでにその御業(みわざ)が
既に成就していると云う前提のもとに行ぜられるものである。
それには成就しないかも知れぬと云う不安が微塵もない。

それは南無阿弥陀仏と称えて、信心決定(けつじょ)せると同じことである。
ただ異なるのは死後の世界に於ける救いが信心決定せるだけでなく、
神想観に於いては「今」すべての救いが信心決定せることである。

           <感謝合掌 平成29年10月28日 頓首再拝>

《一念不動、実相の完全さを信ぜよ》 - 伝統

2017/11/14 (Tue) 04:18:17


         *『 生長の家 』(昭和26年2月7日の法語)より

   吾々は如何なる仕事をなすにも、心をそれに集中して
   右を顧み左を振向きなどしていてはならないのである。

   吾々が神想観をするときには、一念不動ただ一事(じ)
   「 吾れ神の子 」 「 われ霊的実在なり 」 の実相に
   心を集中しなければならない。

   「 この病気を今治しつつある 」 などと、病気があるなどと
   考えてはならないのである。

   現にある病気を想念することは病想観になっているのであって、
   神想観ではないのである。

   現象界は、写真の焼付けみたいなものであって、
   あまり短時間だけ焼付けたのでは駄目である。

   一定時間中は、ほかの原版と取換えてはならないのである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/a5925824fab088c119c7381b8a773a1e


           <感謝合掌 平成29年11月14日 頓首再拝>

名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.