伝統板・第二

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困難に戯れよ② - 伝統

2016/05/13 (Fri) 04:24:01


   *伝統板・第二「困難に戯れよ①」からの継続です。
     → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6463677

《問題は必ず解決する》

         *「光明法語」(5月13日の法語)より

神が人間をこの世に生んだのであるから、
人間自身が兎や角、思い煩う必要はないのである。

問題が起こっても恐れることはないのである。

問題は必ず人間を今迄とは異なる境遇や環境に置き、
今迄とは異なる状態に於いて、その人の魂をきたえるのである。

問題は必ず解決されるために存在するのであって、
解決のない問題はないのである。

吾々は恐れることはないのである。

人生は生きており、人生は新生面を展開する。

人間の肉体は老いることがあっても人生は老いることはないのである。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第二「困難に戯れよ! (10457)」
     → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2004 

(2)光明掲示板・第三「困難に戯れよ! (70)」
     → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=36

(3)光明掲示板・伝統・第一「困難に戯れよ! (28)」
     → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=16


            <感謝合掌 平成28年5月13日 頓首再拝>

《神と共に戦う者は平安なり》 - 伝統

2016/05/20 (Fri) 03:44:26


        *『 生長の家 』(昭和25年4月8日の法語)より

   困難に面して自分の力を以(もっ)て戦うと思うな。
   自分の力で戦うと思うものは、
   力が尽きてしまって結局 挫折してしまうのである。

   自己の内に宿る神の力に頼る者は
   永遠に挫折するということはないのである。

   ここに無我全托(ぜんたく)の全勝である秘密があるのである。

   自分が謙遜(けんそん)になった時にのみ
   神は力を与えて吾々を支え給(たま)うのである。

   神は常に自分を護(まも)り給い 幸福にし給い、平和を与え給うのである。
   どんな困難が来た時にも 自分の力で それに対抗しようと思ってはならない。

   「 吾 神と共にあり、吾 神と共に生く、何をおそれんや 」 と
   念じ乍(なが)ら進むが好(よ)いのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786986.html

            <感謝合掌 平成28年5月20日 頓首再拝>

《困難な時ほど 「 神の子 」 を自覚せよ》 - 伝統

2016/05/27 (Fri) 03:47:42


         *『 生長の家 』(昭和26年5月7日の法語)より

   困難が来たときに其の人の信仰がテストされるのである。
   困難が来ぬときに 「 人間、神の子 」 と豪語するのは
   容易(たやす)いことであるけれども、

   実際、解決し難き困難、普通では癒えがたき病気に直面したとき
   其の人の信仰がどの程度のものであるかがわかるのである。

   かかる場合、信仰うすきものは
   平素の 「 神の子 」 の自覚は何処(どこ)へやら、
   現象の困難の前に屈従してしまうのである。

   そんなときに言葉の力によって自己が神の子であることを強調し、
   「 吾れは神の子であり、神の愛に強く支えられているから
   如何(いか)なる困難をも克服し得るのである。
   神よあなたの愛に感謝いたします 」 と

   繰返し念ずることは信仰を更に強め困難を乗り切る力を与えるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年5月27日 頓首再拝>

困難消滅する日 - 伝統

2016/06/03 (Fri) 04:37:21


           *「光明道中記」(6月3日)より

【心が「迷いの念」に引っかかって生命本来の自由性を失うと、症状が顕れる。
                        (『生命の實相』第一巻)】

人が神に近づくには試練の火が必要であり、
必ず困難によって鍛えられなければならないと云うのは嘘である。

実際上多くの人達は試練の火によって鍛えられ、
困難によって浄められて神に近づく。
私自身も嘗てはそうであったのである。

併し今私は試練の火が必要であったのでも、
困難が必要であったのでもなかったと
「私の生活体験」を解釈する立場に立つのである。

試練の火は《神から》来たところの不可避の火ではなかったのである。
試練も無く困難もなかったのである。

自分の自覚が「実在」(神の造りたまえる《そのまま》)と
調和しなかったのである。

みずから神から離れたるものと誤覚し、
「実在」の秩序の中に調和しないでいる ――
その《みずからの状態》が「試練」であり、「困難」であったのである。

今よりのち試練を神からきたものと考えまい。

私が悪いのである。
すべては私の責任である。

試練を神に帰することは神を残忍者であると観、神を不完全であると観ることになる。
斯くの如きことは「子たる者」の為すべきことではない。
子自身が勝手に放浪(さすら)い出て困難を経験していたに過ぎない。

心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなるのである。

            <感謝合掌 平成28年6月3日 頓首再拝>

困難に直面するとき、常に神の全能を信じて神に振り向けよ - 伝統

2016/06/09 (Thu) 03:50:32


           *『光明法語』(6月9日)より

汝が困難に直面するとき常に神に振り向けよ。
汝が人間力を絶したる複雑困難なる問題に面した時、常に神に振り向くべし。
神はすべての解決である。

「神様」と呼びかけよ、全身全霊をもって神に呼びかけよ。
その間神の全能を信ずべし。
少々の疑いも、恐怖も持つべからず。疑いと恐怖とは神の救いの波に対する絶縁体である。

完全なる信のあるところ恐怖はないのである。
恐怖なくして神に振り向き、「神はすべての方法と手段とを有(も)ち給う。
如何なる複雑な問題も、すべて調和した姿に解決する方法を知り給う」と念ぜよ。

        <感謝合掌 平成28年6月9日 頓首再拝>

神に於いて解決困難な問題など一つだとてあり得ない - 伝統

2016/06/10 (Fri) 04:46:37

神は全能の智慧、調和の智慧

       *『光明法語』(6月10日)より

「神の力、神の智慧、神の愛、今われに流れ入りてわれを救けたまい、導きたまい、
われを祝福したまう。神に於いて解決困難な問題など一つだとてあり得ないのである。

神は全能の智慧であり、調和の智慧である。

神は自分に宿りたまう智慧であるばかりでなく、すべての人々に宿りたまう智慧であるから、
すべての人々が調和して動き出して問題は完全に調和した形に解決するのである。

神は今自分を神御自身の創造の尖端として新しき調和ある解決の道を見出し給う。
神よ、神の完全なる智慧によって調和ある解決の導きを示し給え」

        <感謝合掌 平成28年6月10日 頓首再拝>

困難を征服し宝石を得る - 伝統

2016/06/11 (Sat) 04:27:50


              *「光明道中記記」(6月11日)より 

【自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。
 「実相」に虚が作用して形が生まれる。(『生命の實相』十一巻)】


逃れようと思わぬこと。

あらゆる経験は、すべて鉱石のようなものであって、それを捨てずに処理して行くとき、
どんな貧鉱(ひんこう)からでも尊き金属を採取し得るように、
どんな経験からでも尊き「価値」を採取し得るのである。

吾らの生活は、五官の快楽のための生活ではなく、
「価値生活」であると云うことを知らなければならないのである。

人間の幸福は五官の快楽と否(いな)とにあるのではない。
それは鉱石の価値は採取し易いと否とにあるのではなく、
どんなに採取に困難でも「価値」多い鉱石はそれだけ値打ちが多いのと同様である。

盤根錯節(ばんこんさくせつ:面倒な事柄)を厭うのが生長の家の生活ではない。
盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。
盤根錯節が吾々に不幸を齎(もたら)すのは、盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。

盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)すのである。

と云うのは不幸に甘んぜよと言うのではない。
不幸を幸福ならしむる不思議の力は、
逃げだそうとしないで眼の前の困難に平気で進んで行くことから得られるのである。

        <感謝合掌 平成28年6月11日 頓首再拝>

《困難を克服する言葉》 - 伝統

2016/06/21 (Tue) 03:50:13


           *『 生長の家 』(昭和26年5月8日の法語)より

   困難に面したときは 次の如(ごと)く念ずるが好い。

   「 吾は一切のものの創造主(つくりぬし)にましまし、
   吾が父にまします神が常に吾れを護(まも)り給(たま)う
   ことを知るのである。

   神の愛は われを取巻き、わが内にも外にも行きわたりて
   我を護りたまうがゆえにわれは常に健康であり、
   われは常に幸福であり、わが事は必ず成就するのである。

   困難と見え、病気と見えるのは仮想であって
   本当の相(すがた)ではないのである。

   吾れは神の創造(つく)りたまいし 此(こ)の世界が常に善に、
   永遠に善であり、常に調和していることを知るのである。
   されば吾れに敵対する者は 何一つあり得ないのである。 」


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年6月21日 頓首再拝>

《勝利者としての確信》 - 伝統

2016/07/02 (Sat) 04:51:33


          *『 生長の家 』(昭和26年5月9日の法語)より

   「 われ常に人生に於いて勝利す 」 と云うのが
   我らの標語でなければならないのである。

   一切の困難と見ゆるものは、真に困難なのではなく、
   我々の力を鍛錬して高め上げるための運動競技の道具である。

   吾々はその運動競技の道具を跳び超えることによって
   内在する 「 神の子 」 の力を
   より一層多く発揮することが出来るのである。

   具体的な勝利は、勝利の確信の具象化であるのである。
   勝利の確信なくして勝利したるものはないのである。

   神はわが生命(いのち)であり、
   わが内に神いまして、わが事業を導きたまい、
   わが肉体の健康を維持したまうのである。

   これを信ずるとき 如何なる病いも如何なる不幸も
   我を害することは出来ない。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年7月2日 頓首再拝>

すべての経験は、「神」を掘り出す喜びの作業 - 伝統

2016/07/03 (Sun) 04:20:36


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月3日>(P5~P6)より

われらのすべての経験は、自分の内にある「神」を掘り出す作業である。
どんなにそれが失敗したように見えようとも、どんなにそれが深刻であり、
悲惨なように見えようとも、それが深刻であればあるほど、悲惨であればあるほど、

われらの神に通ずる坑道は深く穿たれていきつつあるのである。

深く深く下げていくうちには、やがて広々とした世界に出る。
そこには、もうなんの悲惨もない、常楽のみの世界なのである。

どんな経験も、苦しい経験も、
ただ、われわれは神に近づく掘り下げ方だとして喜ばなければならない。

            <感謝合掌 平成28年7月3日 頓首再拝>

《与えられたる仕事を拒(こば)むな》 - 伝統

2016/07/19 (Tue) 03:49:37


         *『 生長の家 』(昭和26年5月27日の法語)より

   何事でも自己に与えられたる仕事が、
   誰かにとって益を与うるものであるならば決して拒むな。
   それが自己に不適当なる仕事であると思っても決して拒むな。

   神は決して貴方(あなた)に
   不適当なる仕事を強制し給うことはないのである。

   与えられたる仕事を神が自分に課せられたる
   人類の奉仕の仕事であると信じて感謝してそれを為(な)すならば、
   自分に不適当なる仕事にもそれを完成し得る力が
   湧(わ)き出てくるのである。

   容易なる仕事ばかりをしているのでは
   内在無限の力は湧き出ては来ないのである。

   困難なる仕事に努力することによって力は増強せられる。

   努力は魂を向上せしむる道である。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年7月19日 頓首再拝>

《困難の時には凡(あら)ゆる物に感謝合掌せよ》 - 伝統

2016/08/03 (Wed) 03:45:29


          *『 生長の家 』(昭和25年5月28日の法語)より

   四面楚歌(そか)の行きづまった状態を
   解放する唯一の方法は
   神に振り向くということである。

   周囲が如何にふさがっているにしても、
   上方は必ず空いているのである。

   神に向かう道が
   ふさがるということは
   あり得ないのである。

   神に振り向くとは、神に感謝することであり、
   神の造り給うたあらゆるものに
   感謝と合掌とを送ることである。

   疑わずそれを行ってみよ。
   神は如何なる困難の金城鉄壁をも打破して
   調和と幸福と豊かさと健康とを恵み給うのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

            <感謝合掌 平成28年8月3日 頓首再拝>

《困難を克服し得た勝利感》 - 伝統

2016/08/15 (Mon) 04:46:34


         *「生長の家」(昭和51年6月1日の法語)より

   人は何故、野球を楽しみ、スキーを楽しみ、
   ヒマラヤやアルプスの峻峰(しゅんぽう)に登ることを壮快に感じ、
   時としては顛落(てんらく)して死することがある危険を

   前途に見ながら、随分の費用をかけて、みずから進んで
   その 困難に直面して行こうとするのであろうか。

   それは”困難”は自己に内在する”未見の我 ”
    ”神の子なる未見の無限力”を、顕在の世界にあらわしたい
   という潜在的願いがあるからなのである。

   そしてその困難を征服したときに、わたし達は勝利の快感を味わう。
   生き甲斐を感じるのである。

   何の困難もない平々凡々の生活が毎日続く時には、
   人間は倦怠感を生じて、人生そのものにウンザリしてしまうであろう。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

            <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝>

《勝利感と生き甲斐の源泉は何か》 - 伝統

2016/08/26 (Fri) 03:35:19


         *「生長の家」(昭和51年6月2日の法語)より

   困難を克服し得た勝利感はどうして起こるのであろうか。

   実は”困難”というものは、”外 ”にあるのではなくて、
   自分の”内”にある” 心が描いた仮存在”なのだからである。

   人間の実相は”神の子”であり、”無限力” であるから、
   ”困難”などある筈がないのである。

   その本来の”無限力”を覆い隠して”包み ”(罪)によって、
   ”困難”を感ずるのである 。

   一つでも、その”困難”を征服し得たということは”包み”を破って、
   内在実相の”無限力 ”が一歩一歩一層多く顕現し得たことであるから、
   自己の「実相隠蔽」を克服したことに勝利 感を感ずるのである。

   そして自己の「実相」が 一歩でも現象の世界に一層多く
   顕現し得たことに生き甲斐を感ずるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

            <感謝合掌 平成28年8月26日 頓首再拝>

五香の儀式 - 伝統

2016/09/06 (Tue) 03:50:25


         *「眼からウロコが落ちる本」笠巻勝利・著(P12~14)より

中国では、生まれた赤ちゃんに乳を与える前に、まず

 ○酢をなめさせる

 ○次に、塩をなめさせる

 ○その次に、にがい薬をなめさせる

 ○そして、トゲのあるカギカズラをなめさせる

 ○最後に、砂糖をなめさせる

という「五香の儀式」を行なったという。

この世に生まれ出た赤ちゃんに、
人生は「すっぱく」「からく」「にがく」「痛い目」に会わなければ、
甘いものにはありつけない事を、身を持って体験させたのである。

今もこの習慣が残っているとしたら、素晴らしい。

なにしろ、生まれた時から過保護に育てすぎる。
親としては愛情を注いでいることになるのだろうが、ひ弱な人間が多過ぎる。
 
ちょっと困難なことに直面すると、簡単にギブアップしてしまう。
せっかく入学した高校・大学などでも中途退学が非常に多い。
ようやく就職しても「もし、いやだったら、いつでも帰っておいで」と送り出す。
 
結婚する時も、「もし、うまくいかなかったら戻ってきてもいいのよ」では、
うまくいくワケがない。
極端に過保護な母親は、新婚旅行について行くこともあると聞く。

 
ある父親は、娘が夫とケンカして実家へ戻ってきたところ、
「この品は特別品につき、返品、お取り替えの儀は平にご容赦下さい」と、
手紙をつけて夫のもとに帰したそうである。

なんとも、ユーモアと厳しさを持ったいい父親だろう。
 

さて、何事についても、先憂後楽を常とすることをお勧めしたい。
初めから楽をしようとすると、反って後で苦労することになる。
 
最近の食生活をみていると、生活水準が向上したせいか、
常日頃から美味しいもの、ぜいたくなものを食べている。
だから、正月になっても何もご馳走はない。
いつもと同じものを食べることになってしまう。
 
仕事の面においても、下積み生活がないので、
困難な仕事にぶつかると簡単に挫折してしまう。
 
何事についても、初めにイヤな事、辛いことから対処することが大切である。

            <感謝合掌 平成28年9月6日 頓首再拝>

《「我れ世に勝てり」》 - 伝統

2016/09/17 (Sat) 03:35:27


         *「生長の家」(昭和51年6月3日の法語)より

   イエスは自分が磔(はりつけ)の刑に遭うべ き前途を予見したときに
   ゲッセマネで祈るとき 、先ず「願わくはこの苦き盃(さかずき)を
   われより取り去り給え」と祈っているのである。

   この願いは”肉体の願い”である。
   誰でも十字 架上に釘つけられて槍で刺されることを願う肉体はあり得ない。
   誰の肉体でも、肉体は苦しみ を避け楽を得ようと欲するのである。

   しかし、 やがてイエスは
   「されど我が意(こころ)を成 さんとするには非ず、
   みこころの如くならしめ給え」と、
   ”別の言葉”を以って祈っているの である。

   「”苦き盃”(困難)を取り去り給え 」という前半の祈りは
   ”肉体の願い”であり、 ”世俗的願い”である。

   しかし、「されど我が 意(こころ)を成さんとするには非ず
   みこころ の如くならしめ給え」という後半の祈りは、

   肉体的自我を放棄し、その”世俗的願い”に打ち勝ち、
   人類の罪の身代わりとなる崇高なる魂の 願いに身を捧げる決意が
   できたとき、彼は”世 俗的願い”に打ち勝ったのである。

   そこに真の 生き甲斐を感じ、
   彼は「我れ世に勝てり」と宣 言したのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363


            <感謝合掌 平成28年9月17日 頓首再拝>

【逆境を生かす人】 - 伝統

2016/09/30 (Fri) 04:22:09


          *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年09月23日)より

   (アル・シーバート氏の心に響く言葉より…)

   あなたは人生で経験する挫折にどう向き合っていくだろうか?

   人はさまざまなやり方で困難に向き合う。

   感情を爆発させ、キレてしまう人もいる。
   人を激しく罵倒するだけでなく、中には実際に暴力を振るう人もいる。
   また、内にこもってしまう人がいる。

   感情の矛先が自分に向かい、どうしていいのかわからなくなってしまうのだ。

   自分は犠牲者だと運命を呪う人もいる。

   自分の人生が台無しになったのは他人のせいだと人を責め、
   人生の坂を転がり落ちていく。


   それから、もう一つのグループがいる。

   困難に際して状況を把握し、そこにある危機と向き合う人たちだ。
   困難を切り抜けるだけでなく、それによって以前よりも強く、
   そして人間的にも磨かれていく人たち。

   彼らは、たとえ仕事上で大きな失敗をしても、
   それをさらに上のキャリアへのステップにしてしまう。

   心に弾力性があり、柔軟で、新しい状況に素早く適応し、
   変化していく環境の中で力強く成功することのできる人たちだ。



   ガートという女性がいた。

   彼女は、学生時代からの恋人ニールと結婚した。

   ニールはガートの親が経営する帽子製造の小さな会社で働き始める。
   ニールは懸命に働き、やがてその会社の社長となった。

   だが、彼は突然の心臓発作で亡くなってしまう。
   1970年のことだった。


   残されたガートは涙にくれた。

   仕事はすべてニールが取り仕切っていたし、
   両親はもはや仕事をするには年を取り過ぎていた。

   家のお金もすべてつぎ込んでいたから、
   もし会社がダメになれば彼女は家族とともに露頭に迷うことになる。

   そしてガートは、自分の力の及ぶ限り会社をつぶさないと決意する。

   大学に通っていた息子のティムを呼び戻し、ともに会社の立て直しに奔走した。

   何しろ多額の借金があったし、多くの従業員も抱えていた。
   夜遅くまで働き、土日でも商品を発送する毎日が続いた。


   やがて経営は安定し、彼らはスポーツウェアの製造にも手を広げることを決める。

   ガートは製品一つひとつにまで徹底してこだわった。

   そのこだわりは、ガート自身の妥協を知らない職人魂を広告にした
   キャンペーンでも発揮された。

   このキャンペーンで、彼らの会社は一躍有名になった。

   そのブランドこそ、世界的に有名な「コロンビア・スポーツウェア」だ。


   この広告では、ガートが息子のティムに眼鏡の向こうから鋭い眼を向け、
   徹底的に商品の耐久性をテストさせる姿が象徴的に使われた。

   彼女のリーダーシップの下で、コ
   ロンビア・スポーツウェアは破産の淵からただ甦っただけではない。

   彼らはオレゴンの小さな帽子屋から、
   世界的なアウトドアウェアの製造メーカーへと立ち上がったのだ。

        <『逆境を生かす人 逆境に負ける人』ディスカヴァー>

                ・・・

逆境に対してとる行動は、二つしかない。

一つは、不運を嘆き、不平不満をいい、
泣き言やグチを言うという、現状維持の姿勢。

もう一つは、なんとかそれを乗り越えようと努力し、
少しでも前に進もうとする、現状打破の姿勢。


嘆いたり人のせいにしているうちは、現状は何も変わらない。

目の前の小さな問題を一つひとつを解決し、
改革に賛同する人を一人ひとり増やしていく、
という地道な努力でしか現状は変わらない。

倦(う)まずたゆまず、決してあきらめない人だけが、
一歩ずつ前に進むことができる。


逆境を生かす人でありたい。

            <感謝合掌 平成28年9月30日 頓首再拝>

《世俗的な自己評価に雷同するな》 - 伝統

2016/10/14 (Fri) 04:00:46


         *「生長の家」(昭和51年6月4日の法語)より

   人間は五官の感覚をもって自分の肉体を見、 自己を一定量の物質だ
   という知覚を得て、常に 自己限定しつつ生活しつつあるのである。

   その 自己限定のままで生きている限りは、
   それは世俗になじんで生きているのであり、
   「われ世に 勝てり」と宣言することはできないのである。

   「われ世に勝てり」とは、
   外界の物質世界を征服することではないのである。
   自己の内にある 「世俗的な自己評価」に打ち勝つことなのである。

   自己を”神の子”と自覚することは、
   今これが「自分の肉体的力」の極限だという自己限定を打ち破って、
   常に自己に出来るだけ以上の事を成すという理想目標をおいて、
   毎日一歩でも より多く前進し、進歩することなのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

            <感謝合掌 平成28年10月14日 頓首再拝>

困難を困難と思わない - 伝統

2016/10/26 (Wed) 04:11:14

         *「致知(平成28年2月号)」(P77)より
          ~大橋洋治(ANAホールディングス相談役)

大きな夢を実現しようとすれば、それ相応の困難が目の前に立ちはだかる。
しかし、それを困難だと思ったら克服ことはできない。

私は常に困難を困難と思わず、前向きな気持ちで仕事に打ち込んでいった。

「それ善く天下の事を制する者は、事の外に立ちて、事の内に屈せず」

これは江戸時代に備中松山藩の財政改革を行なった山田方谷の言葉である。

大きな事を成し遂げるには大所高所から物事を判断し、
何があっても決して屈しない強い心を持つそのような姿勢で
あらゆる物事に取り組んでいくことが肝要である。

・・・

<参考Web:山田方谷>

(1)光明掲示板・伝統・第一「山田方谷」
    → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=93

(2)伝統板・第二「山田方谷」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6891321

            <感謝合掌 平成28年10月26日 頓首再拝>

いつも笑顔で逆境に立ち向かいなさい。 - 伝統

2016/11/08 (Tue) 03:23:12


        *「「成功」のルール」オグマンディーノ・著(151~153)より

   《いつも笑顔で逆境に立ち向かいなさい。
   そうすれば、やがて逆境のほうが屈服する。》

   逆境が永遠に続くことはない。
   それに気づけば、あなたは誰よりも賢い人となる。

   だが、それだけでは足りない。
   なぜなら、幸運が訪れるのをじっと待っているあいだに、
   逆境と失敗があなたを破滅させてしまうこともあるからだ。

   立ち向かう方法は、ただ一つしかない。
   それは、両手を広げて逆境と失敗を受け入れることだ。

   だが、この方法は論理と道理に反している。
   そのためこの方法を首尾よく習得することは難しい。

   《自分の不運を嘆いて流す涙で、自分の両目を洗いなさい。
    そすれば、あなたは真実が見えるようになる》

   あなたがいま闘っている相手は、あなたを奮いたたせ、
   あなたの力を磨いてくれる。あなたに敵対する者は、
   結果的にあなたの最良の協力者なのである。


   逆境というのは人生における雨だ。
   冷たく、みじめで、よそよそしい。
   だが、雨が降り季節があるあるから、ユリやバラが咲き、
   ナツメヤシやザクロが実る。

   苦難の灼熱に焼かれ、苦悩の雨に打たれたあと、
   あなたがどんな偉大なものを生みだすかは、誰にも予測できない。

   《砂漠でさえ、嵐が過ぎれば花が咲く》

   逆境は、あなたにとって最良の教師であり
   勝利からはほとんど何も学べないが、追い詰められ、苦しみ、
   打ちのめされたときこそ、大いなる知識が得られ、
   真の自分自身を知ることだろう。

   逆境に追い込まれると、あなたにこびへつらっていた者たちが去るからだ。
   あなたにとって友とは誰か?
   逆境に飲み込まれたときこそ、真の友人が誰かがわかるのだ。

   最大の暗闇に閉ざされているときこそ、あらゆる失敗は成功の第一歩であり、
   何が偽りかを見きわめることが真実への近道であることを思い出しなさい。

   試練にあえば、何が間違っているかがわかる。

   あらゆる逆境の陰には、平和と成功への道が隠されている。

            <感謝合掌 平成28年11月8日 頓首再拝>

【人は境遇に支配されてはならない】 - 伝統

2016/11/18 (Fri) 03:34:02


           *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年11月08日)」より

   (本多静六氏の心に響く言葉より…)

   さて世にはまた、自分は今不遇の身にあるから努力しないが、
   風雲一度際会すれば、大いに活動するなどという人もあるが、
   このような人はとうてい成功する見込みのない人である。

   もともと、努力は一つの習慣である。

   慣れてしまえば何の苦しみもないものだが、慣れないうちは苦しいものだから、
   現在の仕事に怠惰な人はたとえ急に得意の位置に置かれることがあっても、
   一時は努力するがたちまち苦しくなって努力が鈍り、
   ついにはその位置を失うに至るであろう。

   人は境遇に支配されてはならない。

   かえってその境遇を支配していく勇気が必要である。

   貧乏だ、病気だ、学校に行けないとか、世間が不景気だ、先輩が不親切だなどと、
   親や世間を恨んだり、境遇を悲観したりするのは意気地なしの骨頂である。

   古来大成功者はいずれも貧苦や病苦を通り抜けた人だけである。

   志のあるところ、道おのずから生ずで、
   山の中でも都会でもどこにいても差し支えない。

   奉公してよい主人に使われるのもよく、
   残酷なわからず屋に使われるのもまた可である。


   ただ残酷な目に遭った時には天の試練だと思ってこれに堪える修養をするというように、
   どんな苦痛、どんな境遇にも善処し、これを利用して自分の修養に役立て、
   ますます誠実勤勉になれば自分の運命は自然に開拓されるものである。


   イギリスのロイド・ジョージも、ラムゼー・マクドナルドも、ごく貧農の子供であり、
   フランスのアリスチード・ブリアンは貧乏な居酒屋の息子であり、
   チェコスロバキアの大統領だったマリック博士は馬蹄工(ばていこう)の息子で、
   家畜小屋で独学した人である。

   電気で有名なフランクリンは印刷職工あがりで小学校に2年通っただけだ。

   トーマス・エジソンは小学校はわずか三月(みつき)で退学させられ、
   新聞売り子をしながら苦学した。

   自動車王フォードは貧乏百姓の倅(せがれ)で弁当箱さえ買うことができないで、
   空缶へ弁当を詰めて通学した人だ。

   また巨万の財産をつくってその大部分を社会事業に寄付したカーネギーは、
   子供の時から流浪(るろう)して13歳の時1週1ドル20セントで
   木綿工場の小僧になった人である。

   また、時計王・服部金太郎は夜店、古道具屋の子守り小僧をした人、
   製紙王・大川平三郎は王子製紙工場の職工から出発した人である。

   総理大臣であった斎藤実、後藤新平は水沢藩の給仕であり、
   高橋是清はアメリカに奴隷で売られ、帰国後も芸者屋の箱屋(三味線を持って
   芸者のお伴をする下男)までしながら苦学した人である。


   したがって人は、仕事の大小、性質や環境、月給の高低かかわらず、
   なんでもその時々に自分に授けられた仕事に懸命に努力し、
   常にその仕事では一番手になろうと心がけていさえすれば、

   いつかは地位も待遇も進んで、自分の器量相当の仕事を授けられるようになって、
   成功するに決まっている。

   とくに若いうちごく卑(いや)しい低級な仕事から始めて、他人の嫌がる仕事、
   人の困難とする仕事に当たって、それを片端から完成していくことこそ、
   後年にはとうてい体験することのできない貴重な体験となり、
   成功の基礎となるのである。

      <『成功するために必要なシンプルな話をしよう』知的生き方文庫>

                 ・・・

本多静六氏は、「人生の最大幸福はその職業の道楽化にある」と言う。

道楽化とは、仕事を趣味のように、ゲームのように、スポーツのように、
あるいは芸術のように楽しむ、ということ。

画家や彫刻家、音楽家などが自分の仕事を苦労とも思わず、時間を忘れてやるのと同じだ。


そして本多氏は、道楽化する唯一の方法は勉強しかない、という。

つまり、決してあきらめず、長く続ける努力。


逆境も同じで、道楽化している人には、それは発憤(はっぷん)の材料にしかならない。

「天が与えた試練だ、もっと頑張れというメッセージ」ととらえ、さらに努力を重ねる。


人は境遇に支配されてはならない。

            <感謝合掌 平成28年11月18日 頓首再拝>

《困難は実相内在の美を磨き出す研磨機である》 - 伝統

2016/12/03 (Sat) 04:48:08


         *「生長の家」(昭和51年6月5日の法語)より

   困難は、自己に内在する力を、平常普段の生活以上に
   発揮させてくれる”呼び水”になるも のである。

   目標が、日常生活程度では、
   誰でも出来る平凡な普通一般の生活になっていて、
   別に現在以上の力を引き出してくれる機会をつくってくれないのである。

   それだから、神は一見”困難”と見える問題 又は事象を、
   時々すべての人に課して、それを 解決するために、
   その人が”日常以上の力”を発揮する機会を与えて下さるのである。

   それだから”困難”の来る毎に、
   その”困難”と、そして、その困難を与え給うた神とに感謝せよ。

   困難という研磨機を通して、わたし達の魂に内在する貴き光が、
   一層多く燦然と輝き出すことになるのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

            <感謝合掌 平成28年12月3日 頓首再拝>

困難を遊戯化する日 - 伝統

2016/12/04 (Sun) 04:39:06


           *「光明道中記」(12月4日)より

【苦しみも戯(たわむ)れに化する時人生は光明化する。何事も魂の生長の養分である。
                          (『生命の實相』第四巻)】

自分の言いなり通りが必ず通ると云うのは、その人にとって一つの誘惑であることがある。
通らないことが時にはあるので、自分が過って「我(が)」でものをやろうとしていた
そのことに反省の機会が与えられるのである。

『生命の實相』のなかにも書いてあるがナポレオンの辞書には
「不可能」と云う字がなかったが、彼は「我」の力を極度にまで信じていて
「何でも自分の言いなり通りが通る」と信じていたのである。
そして最後に蹉跌が来た。

「我」の力は如何(いか)に強大であろうとも最後に崩壊が来るものである。
それは「我」と云うものは本来無いからである。

無いものを有ると思って、我の道を通ると陥穽(おとしあな)に陥(おち)るのである。
無いものは陥没するほかはないからである。

同じく陥没する位なら大事に至らないうちに陥没する方が好い。
早く「自分の言いなり通りが通らぬ場合」が出て来る方が好い。
コツンと一つ頭を打って自分の頭(ず)が高かったことに気附くのである。

ヒットラーが世界大戦を惹き起こしたとき、ヘンダーソン前駐独英大使が、
ヒットラーを評して「彼は何事にも『諾(イエス)』と答える人間に囲まれている
誇大妄想狂だ」と言った語(ことば)を思い出すが、

人は何事にも「諾(イエス)」と答える人間に囲まれているとき
却って災厄を惹き起こすのである。

            <感謝合掌 平成28年12月4日 頓首再拝>

今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである - 伝統

2016/12/12 (Mon) 03:44:46


           *「光明道中記」(12月12日)より

【神は全存在(すべて)であるから誠ある人にのみ其の無限力を現わし給う。
                           (『生命の實相』第四巻)】 

神の恵みは《既にある》には相違ないけれども、
それはレディーメードではないと云うことである。
神の恵みはそんな安物ではないのである。
尤(もっと)もどんな安物も神の恵みの倉の中にあるのである。

神は労働服地も、大礼服地も、背広服もモーニング地も用意していられる。
そして吾々の注文に従ってそれを仕立てて出して下さるのである。
神の作りたまう吾々への供給は、どんな安物服でもピッタリと
各人の心の寸法に合うのである。

どんな貧しさもその人の心の寸法合っている。
彼がその貧しい境遇と称(よ)ぶ服を着ているのは、神様のレディーメードではなく、
彼が困難と戦って魂の貴(とうと)い鉱石を発掘するためには、
その貧しい服装が丁度都合がいいと言って、彼の心が誂(あつら)えたものなのである。

それは無意識に誂えたのかも知れないが、兎も角彼の心が誂えたものなのである。

自分の今ある境遇は自分の心が誂えたところの自分の魂の衣服なのである。
兎も角、今着せられている「境遇」と云う服装で吾等は善処しなければならない。
 
今労働服を着ている人は、その労働服が擦り切れてしまうまで働かなければならぬ。
その後に新しい服が与えられるであろう。

            <感謝合掌 平成28年12月12日 頓首再拝>

《ころぶたびに前進している》 - 伝統

2016/12/16 (Fri) 04:48:45


         *「生長の家」(昭和51年6月8日の法語)より

   まことに人生は”七転び八起き”である。
   現象はころんだように見えても、その人の魂はころんでいないで、
   ころぶたびに前進している。

   わたしは九州に移転してから曾孫に午前一回、午後一回、
   お茶の時間に会うことにしている。

   まだ生後1年数ヵ月にしかならない其の幼児は、
   1分間もじっとしていないで室の中を走り廻るのであるが、
   まだ歩き慣れないものだから、時々倒れる、

   けれどもその倒れたことを悲しむこともなく、
   にこにこ笑いながら自分で起きる 。

   彼は倒れた姿勢のときから立ち上がるのに、
   どこの筋肉はどのように力を入れれば立ち上がることができるか、
   それを自修し つつあるのであり、

   ついに誰に教えられないでも、絶対に倒れないで
   歩いたり走ったりする術を自得し、

   横に伏したり、俯向きに臥した状態からどのように腕をつっぱり、
   脚を動かせば直ぐ起き上がれるかを習得する。

   彼は幾度も倒れながら、彼は常に前進しているのである。

   わたしは、こんな幼な児の、生命の不屈不撓の精神を讃美する。

   イエスは「凡そ、天国に入る者は、この幼児の如きものである」と
   わたしのように、また別の意味で讃美しているのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1363

            <感謝合掌 平成28年12月16日 頓首再拝>

困難はわれらを高め上げてくれる - 伝統

2016/12/17 (Sat) 03:50:32


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月17日)より

恐怖というものは誤解の上に築かれている。
およそ恐怖すべてものは実相には無いのである。

人は困難を恐怖するが、困難がどれだけわれらを高め上げてくれるものであるか、
その困難の功績を知らない者が多いのである。

もし、困難の功績というものを、われらが知ることができるならば、
われわれは困難を苦痛と感じなくなるであろうし、
困難に対して恐怖を感じなくなるであろう。

困難と苦痛とは異(ちが)うのである。
困難を苦痛と感ずるのはただ誤解に因(もとづ)いている。

困難は時として立派な遺産を置いて行ってくれるものなのである。

            <感謝合掌 平成28年12月17日 頓首再拝>

困難の意義 - 伝統

2017/01/03 (Tue) 04:43:32


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月18日~19日)より

およそいっさいのものには存在の意義がある。
その人にとって不必要なものは存在しないのである。
いわんや困難に意義がないなどというはずはない。

与えられたものをその存在の意義をそのままに受け取ろうとしないとき、
そこに苦痛は起こり、悲哀が感じられるのである。

わたしはある日、鳩が板の上に卵を生んで抱卵に困っているありさまを見て、
その卵を巣皿の中に入れてやったら、慣れない鳩はその巣皿を怪しいものと思い、
「不幸」が見舞ったと思い、その卵の抱卵の期を失ってしまったことがある。

板の上に卵を生んだ鳩にとっては、そこへ巣皿が現れたということは、かえって救いの手であった
のだが、彼はそれを誤解し、恐怖し、与えられたものを素直に受けようとせず、苦痛を感じ、
呪詛を感じ、そして自己と自己の子孫の運命を腐敗せしめてしまったのであった。

困難を恐れる人間も、この鳩のごときものである。
すべて恐怖は誤解の上に成り立つのである。

静かに受けて、与えられた意義を見出せば、その人にとってそれは
あるいは運命向上の、あるいは人格向上の、あるいはいっそう健康となるための
素材であるはずのものがどんなにか多いことであろう。

・・・

避けようと思えば思うほど苦痛が来る。
そのまま受けて全力を尽くそうと決意すれば苦痛はやわらぐ。
そのまま受けることが天意に協(かな)うことであるのが、これによってもわかるのである。

進んで、巣皿の中に飛び込んで行くものは、自分も保護され、自分の子も保護されるのである。


            <感謝合掌 平成29年1月3日 頓首再拝>

《与えただけの値打のものが来る》 - 伝統

2017/01/15 (Sun) 04:07:38


            *「生長の家」(昭和24年7月1日の法語)より

   すべて安価なるものはそれだけ価値が少ないのである。
   吾々の得る所の喜びは、その値打を払っただけのものであって、
   それ以上のことはあり得ないのである。

   奮闘の後に得られたる獲得こそ、
   しみじみと自分の魂にその価値が感じられるのである。

   たんにその獲得の価値が感じられるばかりではなく、
   凡(およ)そ困難と戦ってそれを克服することによって
   吾々は新たなる力を獲得することが出来るのである。

   いつまでも浅瀬で足を砂の上につけて泳いでいたのでは、
   本当の泳ぐ力は出て来ないのである。
   さればこそ吾らは 「 困難にたわむれよ 」 と云うのである。

   困難を困難とせず、困難をのりこえることに喜びを見出(みいだ)す者は、
   困難きたるごとにその能力を増すのである。

   小人(しょうじん)は困難に遭って屈服してしまうのであるが、
   偉大なる人は困難あるごとに一そう自己が偉大となるのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/7dd174f3c05e24216f87966583a937e9

            <感謝合掌 平成29年1月15日 頓首再拝>

《困難、困難に非ず》 - 伝統

2017/01/22 (Sun) 04:59:31


          *「光明法語」(1月22日)より

あらゆる見せかけの困難はすでに困難ではないのである。

吾は何事は起って来ようとも神之(これ)を解決し給うことを信ずるのである。
如何なる出来事もこの信念を打ちこわすことは出来ないのである。

吾は目の前に起って来る如何なる困難をも呪(のろ)いはしないのである。
すべての困難は吾が魂を鍛え上げる鍵である。吾が魂を磨く《やすり》である。

吾が魂が鍛えられ、磨かれ、光輝燦然と輝く様になった時、
もはやそのようなあらあらしい砥石は自分の魂に不必要になって来るのである。
従ってそのような困難は消えてしまう。

            <感謝合掌 平成29年1月22日 頓首再拝>

《狭き門より入れ》 - 伝統

2017/02/07 (Tue) 04:57:32


          *「生長の家」(昭和25年7月1日の法語)より

   実相の智慧以外に
   何人をも幸福ならしめるものはないのである。

   それ故にたえず実相の書をよみ、実相を観じ、
   久遠不滅の実在の世界を把握し、
   久遠不滅の自己を想念することを努めなければならないのである。

   実相智は 五官の智慧では求むべくもないのである。
   実相智に達するには
   五官の誘惑に打ちかたなければならないのである。

   実相智に到達すれば 喜ぶ世界のみであるけれども
   それに到達するには 己に打ち克つことが必要である。

   「 己 」 とは 「 ニセモノの自分 」 である。
   「 狭き門より入れ 」 とイエスが教えたのは そのためである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=12

            <感謝合掌 平成29年2月7日 頓首再拝>

困難を超えて向上する日 - 伝統

2017/02/10 (Fri) 03:42:59


           *「光明道中記」(2月10日)より

【困難があるので魂は向上する。軌道に摩擦があるので汽車は進行する。
                      (『生命の實相』十一巻)】

魂の向上とは、困難がなくなることではない。
困難が困難でなくなることである。

甲は1ポンドの鉄亜鈴(てつあれい)を振舞(ふりま)わすことを快感であると言い、
乙は2ポンドの鉄亜鈴がちょう度快感であると言う。
かくの如くして吾々の力が向上するに従い、困難が困難でなくあんるのである。

吾々の筋肉は毎日使うことによって発達し、吾々の頭脳も毎日使うことによって発達する。

最初は一桁の加算(よせざん)が難しかった小学生が、
ついには高等数学の問題を何の苦しみもなく解くことが出来るようになるのは、
その人の進歩であり、困難を征服した賜(たまもの)である。

お蔭と云うのは、数学上の問題が無くなることではなく、
どんな数学の問題でも自由に解決し得るように力を得ることであると同じように、

吾々がお蔭を得たと云うのは人生に問題が無くなる事ではなく、
どんな人生の問題でも重荷でなく解決し得るようになる事である。

最後のドタン場になって「救けてくれ」と言うのは、
平生(へいぜい)勉強しないでいてお情(なさけ)及第させてくれと言うに当る。

お情及第させられた者は、その時は有難いと思っても実力がないから次の時に失敗する。

            <感謝合掌 平成29年2月10日 頓首再拝>

【困っても困らない】 - 伝統

2017/02/24 (Fri) 04:02:44


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年01月17日)」より

   (松下幸之助氏の心に響く言葉より…)

   《心配またよし》

   何の心配もなく、何の憂(うれ)いもなく、何の恐れもないということになれば、
   この世の中はまことに安泰(あんたい)、きわめて結構なことであるが、
   実際はそうは問屋が卸さない。

   人生つねに何かの心配があり、憂いがあり、恐れがある。

   しかし本当は、それらのいわば人生の脅威ともいうべきものを
   懸命にそしてひたすらに乗り切って、刻々と事なきを得てゆくというところに、
   人間としての大きな生きがいをおぼえ、人生の深い味わいを感じる
   ということが大事なのである。

   この心がまえがなければ、この世の中はまことに呪(のろ)わしく、
   人生はただいたずらに暗黒ということになってしまう。

   有事に直面しても、これを恐れてはならない。
   しりごみしてはならない。

   “心配またよし”である。

   心配や憂いは新しくものを考えだす一つの転機ではないか、
   そう思い直して、正々堂々とこれと取り組む。

   力をしぼる。
   知恵をしぼる。

   するとそこから必ず、思いもかけぬ新しいものが生み出されてくるのである。
   新しい道がひらけてくるのである。

   まことに不思議なことだが、この不思議さがあればこそ、
   人の世の味わいは限りもなく深いといえよう。

           <『道をひらく』PHP>

               ・・・

松下幸之助氏はこう語る。

「人生には、困難なこと、難儀なこと、苦しいこと、つらいこと、いろいろとある。
そんなときに、どう考えるか、どう処置するか、それによって、その人の幸不幸、
飛躍か後退かがきまるといえる。

困難を困難とせず、思いを新たに、決意をかたく歩めば、
困難がかえって飛躍の土台石となるのである。

要は考え方である。

決意である。
困っても困らないことである」


「心配またよし」とは、困っても困らないことだ。

これは困難に対してだけでなく、うまくいっているときや順境のときも同じ。


困難のとき、愚痴をいったり、自暴自棄(じぼうじき)になってしまうのか。

逆に順境のとき、調子にのって威張ったり、謙虚さを忘れ鼻持ちならなくなってしまうのか。

どちらになっても、淡々と素直に謙虚に処するだけ。


要はとらえ方しだい、見方しだい。

つまり、「順境よし、困難またよし」。


困っても困らない人でありたい。

            <感謝合掌 平成29年2月24日 頓首再拝>

諸君は瓦であるか、珠(たま)であるか - 伝統

2017/03/12 (Sun) 04:42:02


         *「真理」第1巻(P134~135)より

世の中に何が楽しいと云っても、自分自身が伸びている ―― 
と云う自覚ほど楽しいものはないのである。

困難に逢う毎に、諸君は自分自身が伸びるのであると思え。
新たなる責任が加わる毎に、自分自身が伸びる機会であると思え。

自分自身が人造ダイヤモンドか、本当のダイアモンドかが、
強烈な日光に触れるとき、偽物(にせもの)の方は次第に光輝を失って、
本当のダイヤモンドのみがいつまでも光輝を持ちつづけるので判るのである。

強烈な試練があるので、諸君は自分自身が他(ほか)よりも傑出していることを
証明する機会を得るのだ。

本当のダイヤモンドが何時(いつ)までもニセ物と混同されていては
判らないではないか。それが選り分けられるのは困難の時に於いてのみである。

瓦か珠(たま)か、それを選(え)り分けてくれるのは
諸君に一層重い責任のかかった時である。

            <感謝合掌 平成29年3月12日 頓首再拝>

《障礙(しょうがい)物は進歩の踏台》 - 伝統

2017/03/26 (Sun) 03:31:42


          *「生長の家」(昭和24年7月2日の法語)より

   「 我は 如何なる困難をも克服する所の偉大なる神の子である。」

   かく信じて目の前にある障礙物を却(かえ)って
   自己の向上する為(ため)の踏台とする人こそ
   やがて偉大に成功するのである。

   困難の報いは進歩である。
   多くの人たちは盤根(ばんこん)錯節(さくせつ)に遭遇して
   その偉大なる本性を展(ひら)き出したのである。

   神は決して高価なる宝玉を地表にころがしては い給わないのである。
   それは地下に埋蔵されて困難を穿(うが)ち行く努力によってのみ
   発掘せられるのである。

   魂を磨く所の鑢(やすり)は困難である。
   困難こそ人間を玉成するのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/91b3c7f27b37743f351a0e60d8176e5f

            <感謝合掌 平成29年3月26日 頓首再拝>

《努力なしには地下の宝玉は得られぬ》 - 伝統

2017/04/13 (Thu) 04:14:16


           *「生長の家」(昭和24年7月3日の法語)より

   多くの才能は地下に埋蔵された宝石と等しく、
   努力なしに放置する時には眠っているのであるが、
   困難の刺戟(しげき)によってそれが現実となるのである。

   金鉱は高熱の溶鉱炉で溶(と)かされた時、
   その純金の成分を分離するのである。

   神が多くの貴金属を地下に蔵して地表に置いていないのは、
   努力によって人間内在の能力と叡智を磨き出させんがためである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f8a321701bff09ca11de9c55a2bbeb49

            <感謝合掌 平成29年4月13日 頓首再拝>

逆境や困難への対応 - 伝統

2017/04/29 (Sat) 04:43:08


        *メルマガ「成功への道しるべ(2017年4月12日)」より 

        
1.逆境に置かれ困難に遭遇した時、成功につながる選択は、
  下記の4つのうちの、いずれでしょうか?

(1)逆境から逃れる。   FLEE it
(2)逆境を忘れようとする。  FORGET it
(3)逆境と戦う。     FIGHT it
(4)逆境に面と向かう FACE it

   (1)や(2)はむろんですが、(3)も、成功につながる選択ではありません。
   状況もよく把握せずに、コントロール不可能な問題にやみくもに挑んで、
   逆境に打ちのめされることになりかねません。

   (4)の逆境に面と向かうが、成功につながる選択です。

   決して言い訳をしたり、言い逃れをしたり、理屈をこねたりせず、
   困難を直視することです。

   そうすることで成功の美酒を味わうことができます。

   なぜなら逆境の一つひとつは、それと同じくらいか、
   それを遥かに上回る恩恵を生み出す種だからです。
   その種を見出すために、逆境と面と向かうことが必要なのです。

   逆境や困難を成功への踏み台とみることができるようになります。
   逆境を乗り切るために、創造性を発揮し、新しいアイディアを試み、
   新しい行動を試みることになります。

   逆境に面と向かうことで、普通の状況の時には使われない潜在能力を
   引き出し勝利を勝ち取ることができます。

2.明治維新の志士高杉晋作は

  「人間、窮地に陥るのはよい。意外な方向に活路を見いだせるから。」

  といったそうです。

  その言葉通り、何度も窮地に陥りながら、そのたびに
  敵も味方も、あっと驚くやうなアイディアで活路を見出しています。

  晋作が逆境に出会うことがなかたったら、
  その人生は全くつまらないものだったでしょう。

  逆境や困難こそ、私達の才能や能力を最大限に引き出してくれ、
  単純な状況の時よりりも早く成長させてくれます。

  偉大な物事の達成の多くは、逆境や困難の中に、成功の芽を見出し、
  その芽を大きく開花させた結果です。

3.こういうことは頭では理解できても、実際に大変な状況に出会うと
  冷静さを失い、気が付くと、まずい選択をしていることがよくあるものです。

  今度深刻な逆境や困難に直面した時、慎重にしかし積極的に面と向かえるように、
  下記のようなことを試みてはどうでしょうか。

(1)逆境、困難を「ありがとうございます」と受け入れることです。

   逆境や困難に対してイヤな思いでいると、イヤなことを引き寄せ、
   イヤなことが連鎖して起るのです。
 
   ありがとうを繰り返すことで、
   イヤな思い否定的な思いを断ち切る ことができます。

   そして実際逆境や困難は、使われていないかった潜在能力を引き出すことで、
   より大きな成功を達成すこと、また大きく自分自身を成長させるチャンス
   でもあるのです。

   そのことを感謝し“ありがとう”と受け入れることで
   “ありがとう”と云わざるを得ない状況を引き寄せます。

(2)「紙に書く」

   今直面している逆境、困難を紙に記述するのです。
   大変だ、大変だと思っていると大変が頭の中で増幅され、
   ますます解決するのが難しくなってしまいます。  

   紙に書くことによって状況を客観的に把握することができます。

   また問題がいっぱいあるなら、それらを全部書き出すのです。
   書き出してみると大概そんなに多くありません。

   また大きな問題も分解して考えてみると解決方法が見えてきます。
   具体的に書かれた問題は面白いほどすぐに解決策が浮かんでくるものです。  

4.逆境や困難をあえて求める必要はないかもしれませんが、
  避けることは出来ません。
 
  心の準備ができていれば、遭遇した時は喜んで受け入れられます。

            <感謝合掌 平成29年4月29日 頓首再拝>

《問題は必ず解決する》 - 伝統

2017/05/13 (Sat) 03:16:07


        *「光明法語」(5月13日)より

神が人間をこの世に生んだのであるから、
人間自身が兎や角、思い煩う必要はないのである。
問題が起こっても恐れることはないのである。

問題は必ず人間を今迄とは異なる境遇や環境に置き、
今迄とは異なる状態に於いて、その人の魂をきたえるのである。

問題は必ず解決されるために存在するのであって、
解決のない問題はないのである。
吾々は恐れることはないのである。

人生は生きており、人生は新生面を展開する。
人間の肉体は老いることがあっても人生は老いることはないのである。

            <感謝合掌 平成29年5月13日 頓首再拝>

《摩擦ある環境もお蔭(かげ)である》 - 伝統

2017/05/26 (Fri) 03:51:10


         *「 生長の家 」(昭和24年7月4日の法語)より

   飛行機は 空気の抵抗によって上昇する。
   機関車は レールの摩擦によって疾走する。

   すべての困難と抵抗とは 自己を向上せしめ
   前進せしめるための天与の刺戟である。

   もっともすぐれたる刃物は 火の中で焼かれ、
   鉄槌(てっつい)をもってくだかれ、

   はげしき砥石(といし)の摩擦によって
   その光輝(こうき)燦然(さんぜん)たる光を放つのである。

   ダイヤモンドは 硬くして純粋度の多いものほど
   はげしい摩擦によってのみ その光輝を発することができるのである。

   ダイヤモンドを磨くのはダイヤモンド自身の粉末の摩擦によるのである。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/fa6ad9358ba8bb76fe1e4e26484fa68f

            <感謝合掌 平成29年5月26日 頓首再拝>

困難消滅する日 - 伝統

2017/06/03 (Sat) 04:45:46


          *「光明道中記」(6月3日)より

【心が「迷いの念」に引っかかって生命本来の自由性を失うと、症状が顕れる。
                        (『生命の實相』第一巻)】

人が神に近づくには試練の火が必要であり、
必ず困難によって鍛えられなければならないと云うのは嘘である。

実際上多くの人達は試練の火によって鍛えられ、
困難によって浄められて神に近づく。
私自身も嘗てはそうであったのである。

併し今私は試練の火が必要であったのでも、
困難が必要であったのでもなかったと
「私の生活体験」を解釈する立場に立つのである。

試練の火は”神から”来たところの不可避の火ではなかったのである。
試練も無く困難もなかったのである。

自分の自覚が「実在」(神の造りたまえる《そのまま》)と
調和しなかったのである。

みずから神から離れたるものと誤覚し、
「実在」の秩序の中に調和しないでいる ――
その《みずからの状態》が「試練」であり、「困難」であったのである。

今よりのち試練を神からきたものと考えまい。

私が悪いのである。
すべては私の責任である。

試練を神に帰することは神を残忍者であると観、
神を不完全であると観ることになる。

斯くの如きことは「子たる者」の為すべきことではない。
子自身が勝手に放浪(さすら)い出て困難を経験していたに過ぎない。

心を放って本然の状態に復するとき、病気も試練もなくなるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月3日 頓首再拝>

困難を征服し宝石を得る日 - 伝統

2017/06/11 (Sun) 03:48:38


           *「光明道中記」(6月11日)より 

【自由ばかりでは形はない。光ばかりでは映像はない。
 「実相」に虚が作用して形が生まれる。(『生命の實相』十一巻)】


逃れようと思わぬこと。

あらゆる経験は、すべて鉱石のようなものであって、それを捨てずに処理して行くとき、
どんな貧鉱(ひんこう)からでも尊き金属を採取し得るように、
どんな経験からでも尊き「価値」を採取し得るのである。

吾らの生活は、五官の快楽のための生活ではなく、
「価値生活」であると云うことを知らなければならないのである。

人間の幸福は五官の快楽と否(いな)とにあるのではない。
それは鉱石の価値は採取し易いと否とにあるのではなく、
どんなに採取に困難でも「価値」多い鉱石はそれだけ値打ちが多いのと同様である。

盤根錯節(ばんこんさくせつ:面倒な事柄)を厭うのが生長の家の生活ではない。
盤根錯節そのものは善でも悪でもないのである。
盤根錯節が吾々に不幸を齎(もたら)すのは、盤根錯節を恐れ又は敵対するからである。

盤根錯節と協力して、わが生活を練るのだと思えば、
盤根錯節はかえって吾々に幸福を齎(もたら)すのである。

と云うのは不幸に甘んぜよと言うのではない。
不幸を幸福ならしむる不思議の力は、
逃げだそうとしないで眼の前の困難に平気で進んで行くことから得られるのである。

            <感謝合掌 平成29年6月11日 頓首再拝>

艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉(たま)にす - 伝統

2017/06/30 (Fri) 02:41:09


       *「致知」(平成29年3月号)(P11)より

「窮達(きゅうたつ)は命(めい)なり。吉凶(きっきょう)は人に由(よ)る。」

困窮したり、栄達に恵まれたりするのは運命であり、どうしようもないことだ。
しかし、その困窮、栄達を吉にするか凶とするかはその人次第である。

(中略)

「艱難汝を玉にす」

艱難にあうことによって、人は立派な人物になる。

艱難(かんなん)こそが人を磨くことは古来、多くの先達がさまざまに述べていることです。

「ある人問う、人艱難にあう、これ不幸なる事か。
曰く艱難はまた事を経ざる人の良薬なり。
心を明らかにし、姓を練り、変に通じ、権に達する。
まさにこの処にありて力を得」(『格言聯璧(れんぺき)』)

艱難にあうのは不幸なことではない。これは人生経験の少ない人の良薬である。
艱難を経験することで人は心を明敏にし、性格を練り鍛え、
変化に対応する知恵を身につけ、物事を計画する力を養うことができる。

まさに艱難によって人は力を得る。


坂村真民に、若い頃病魔に侵され生死の境をさまよわれる中で詠まれた詩があります。

「苦がその人を 鍛えあげる 磨きあげる 本ものにする」

次に、幾度も艱難を乗り越えて覚者となられた常岡一郎さんの言葉です。

「逆境はつねにいつでも自分の敵ではない。
ときには恩師となって人生に尊いものを教えてくれることがある。
心の親となって自分の本質を守り育ててくれる。
不幸、病気、逆境は大成する人格を育てる落ち葉である」(『常岡一郎一日一言』)

            <感謝合掌 平成29年6月30日 頓首再拝>

困難が来ても恐れてはならない - 伝統

2017/07/09 (Sun) 04:49:06


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月9日>より抜粋

困難を避けて遊惰(ゆうだ)を喜ぶようになったとき、その民族の衰退は始まる。

今、われわれに課せられた状態がいかにあろうとも、
今が、そしてその状態が自己の魂の進歩にとり最善の時であり、
最高の機会なのである。

われわれがわれわれ自身を見出すところの今の環境が、そ
の時と処においてわれわれにとって最もよいということである。

われわれの前に起こるところの義務は、そして手近にあるところのすべてのものは、
われわれを導く神の智慧が開かれつつあるところの道である。

家庭の茶飯事、その勤める店での呼鈴(よびりん)に応えること、事務所で働くこと、
病める隣人をまたは親類縁者を看護することなどは
散文的な、あまり馨(かんば)しからぬように見えるかもしれない。

それはそうかもしれないが、しかしわれわれの日常生活における義務を、
神に対する義務のごとく、また、人生に捧げる捧げ物のごとく忠実に行なうことは、
その人の魂に与えられた日課を果たすということになるのである。

そしてその時その場における内部に宿る神の催しに従うこと、
すべての時において神の掟を守りて正しく生きること、

また生活がわれらに齎(もたら)したるところのすべての位置において
全力を尽して試みることは、魂の向上の道に入るための日々の課業であるのである。

人から見て目覚しい仕事を為すということは、
それはすでに報いを受けたのであるから、それほど価値はないのである。

すべての人生の出来事と環境において、
人から見て目立たない仕事を人のために尽すとき、
その報いは天の倉に貯えられるのである。
すべての善は神よりのみ来るのである。
だから決して善行誇りに陥ってはならないのである。

重ねて言う。すべての善は神よりのみ来るのであるということを記憶せよ。
されば、自分の善を誇ってはならないし、
またどんな困難が来ても恐れてはならないのである。

            <感謝合掌 平成29年7月9日 頓首再拝>

”人生がすっぱいレモンをくれるのなら” - 伝統

2017/07/22 (Sat) 04:06:18


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年07月03日)」より

   (中山和義氏の心に響く言葉より…)

   アメリカにアレックスという名前の少女がいました。
   彼女は1歳になったばかりの頃、小児ガンになってしまいます。

   その後、度重なる手術や抗ガン剤の投与などを行って、
   彼女は必死に病気と闘ってきました。

   彼女が4歳になったとき、入退院を繰り返していた病院で同じ
   小児ガンと闘う女の子と友達になりました。

   一時退院が許されたとき、友達に、

   「今、世界中でガンの研究をしているから、きっといい薬ができるよ。
   2人でガンをやっつけようね。元気になって、2人で外で遊ぼうね」

   と約束して別れました。

   しかし、その約束は果たせませんでした。

   検査のために病院を訪ねたとき、彼女は友達が亡くなったと聞かされたのです。

   彼女は大きなショックを受けましたが、数日後、子どもが家の前で
   レモネードを売っている様子をテレビで見ると、お母さんに話しました。

   「ママ、私もレモネードを売りたい。そして、お金を病院にあげるの。
   ガンのお薬ができるように、みんなを助けてあげるの。
   約束したから・・・」

   亡くなった友達との約束を果たそうとしたのです。

   それから、彼女はレモネードを売り続けました。

   小さな女の子が病気の悪化を覚悟で、
   ガン患者のために頑張る姿は、多くの人の心に響きます。

   その活動は、全米に広がっていきました。

   やがて、アメリカ各地にアレックス・レモネードスタンドが出現。

   4年後、彼女が8歳になったときには全米50州でレモネードスタンドがオープンし、
   売り上げが30万ドル以上になる日もありました。

   8歳の誕生日から半年後、彼女は家族に見守られる中、静かに天国に旅立ちました。

   彼女の亡くなった後もその意志は受け継がれ、
   全米1000カ所以上のレモネードスタンドで活動が続けられています。


   「人生がすっぱいレモンをくれるのなら、それで甘いレモネードを作ればいいのよ」

   彼女はいつも話していました。

        <『人生の目的に気づく 24の物語』フォレスト出版>

                 ・・・

アレックスが、いつもレモンを買いに行く近所のスーパーは、
このレモネード・スタンドの背景を聞き、材料を寄付することを決めたという。

誰かのために我欲なしに頑張っている人をみると、
どこからか必ずそれを応援する人があらわれる。

人生は捨てたもんじゃない、と気づかされる。


我々は今自分が、どんなに恵まれているのかをすぐに忘れてしまう。

外にもでかけられる、友だちと会うこともできる、暮らす家もある…

それなのに、
不平不満や文句をいったり、グチを言ったりしてしまう。

だからこそ、8歳の少女のことばが心に突き刺さる。


「人生がすっぱいレモンをくれるのなら、それで甘いレモネードを作ればいいのよ」

どんな試練がきても、何かやれることはある。

            <感謝合掌 平成29年7月22日 頓首再拝>

困難に学ぶ - 伝統

2017/08/04 (Fri) 04:34:20

          *「Q・次の2つから生きたい人生を選びなさい」 
            ~ハーバードの人生を変える授業 2 (P56~58)より抜粋


     役に立つ危機を無駄にしてはいけない。

              <教育学者 アン・ハービソン>


つらいことはできるだけ起こらないでほしいものですが、
それでも困難が向こうからやってくることはよくあります。

そんなときにも、私たちには選択肢があります。

「困難をネガティブな経験として受けとめ、早く忘れ二度と思い出さないことにする」か
「どんな困難にも含まれている教訓を見出して理解する」かです。

たとえば厳しい状況から次のようなことを身につけることができます。

謙虚さ、共感性、忍耐、レジリエンス(逆境から立ち直る力)


自分に降りかかってくる問題をすべて歓迎できるわけではありませんが、
ネガティブなことが起きた場合、私はそれを自分を成長させるツールだと
思うようにしています。

いつもベストのことばかりが起こるわけではありませんが
起きたことをベストにする選択をすることはできるのです。


【Action 困難から行動を選択する】

カタリーナ・エスコパルは、2000年に事故で息子を失います。

ひどい悲しみに打ちのめされますが、それでもカタリーナは行動することを選び
その後、ほかの子どもたちを救うために
人生をささげるようになりました。


彼女はコロンビアのカルタヘナを救済活動の拠点にしますが、
その街では乳児の死亡率が1000人中50人近くと、
先進国での死亡率(1000人中5人)に比べて10倍も高かったのです。

カタリーナは子どもに栄養価のある食べ物を与えたり、
若い母親に健康についてのカウンセリングを提供したりするために
ホアン・フェリペ・ゴメス・エスコバル基金を設立しました。

彼女の働きにより、これまでに何万もの子どもたちの命が救われました。
今後もその数は増えていくことでしょう。

カタリーナは、子どもたちの健康を守る熱心な活動家となり、
子どもとその両親の暮らしをよくするための事業について、
世界各地を講演してまわっています。

彼女が創立したビジネスと社会福祉を融合させた組織は、
コロンビアの貧困地区や他の国にとってよいモデルになりました。


カタリーナは、自分の子どもを失ったことを
結果的に良かったと思っているでしょうか。

私はそうは思いません。

もし息子を取り戻せるのなら、彼女はどんなことでもするのでしょう。

しかしそれが叶わない状況の中、彼女は体験した悲劇をきっかけに
卓越した強さを見出し、それによって立ち直り、自分自身に、
さらには地域社会に大きな変革をもたらしたのです。


あなたがいま困難を抱えているなら、そこから何かを学んでください。

また、過去にあなたが経験した困難を思い出してみてください。

そのつらい経験からあなたは多くを学び、そして成長したことに気づくでしょう。

            <感謝合掌 平成29年8月4日 頓首再拝>

《生きているから変化する》 - 伝統

2017/08/18 (Fri) 03:58:12


       *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第6篇(P162) より

行き詰ったときに道が開かれる。
行き詰りに恐怖することはないのである。

人智の行き詰まりに神智がひらかれるのである。
八方ふさがりの時に人は、ふさがっていない青空を見るのである。

変化を無常と見たのは暗黒にとらわれた小乗仏教者のことである。
大乗の仏教者はもっと明るくなければならない。

変化があるので生長があるのである。
生命(せいめい)が生きているから変化を生ずるのである。
銅像や乾物(ひもの)やミイラはあまり変化しないが、
それは生命が生きていないからである。

変化を通して「無限」が表現されつつあるのである。
それ故に、無常と見ゆる一点一面の生命(せいめい)の
動きの中にも久遠の生命を直観することができるのである。

“無常”の中に“常恆”(じょうこう)があり一瞬の中に永遠を孕(はら)んでおり、
「今」即「久遠」の生命(せいめい)を生きているのである。

その理由を日々の一瞬一瞬の生活にも忘れないで生きるとき、
一瞬一瞬が祝福されたるものとなり意義深きものとなるのである。

            <感謝合掌 平成29年8月18日 頓首再拝>

《あなたが困難な問題に面したとき》 - 伝統

2017/08/31 (Thu) 04:00:28


        *『 生長の家 』(昭和44年12月17日の法語)より

   時々、あなたの魂を鍛えるために、
   困難な問題や、艱難辛苦がやってくるかも知れない。

   冷たい風に触れずに温室育ちのような生活を送っているものは、
   人格の強さを鍛え出すことはできないのである。

   それゆえに人生に、色々の問題が起って来ることは、
   あなたの魂が健実に強固に育つために是非必要な条件なのである。

   だから、起って来る困難な問題に対して感謝せよ。

   問題は必ず解答が出るようにできているのである。

   その問題を解くように考えをめぐらすことは、
   あなたが学校でむつかしい数学の問題を
   出されて考えているようなものである。

   学校でむつかしい数学の問題が出て来るのは、
   あなたの能力を増すためにある。

   では、人生でむつかしい問題が出て来るのは、
   あなたの魂の力を強くするためだと解るであろう。

   人生に困難の問題が出て来たとき、あなたは、
   「 この問題で私の魂は鍛えられて向上する。
   ありがとうございます 」と感謝するがよい。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/90442007959e1673f682730248f7da1f

            <感謝合掌 平成29年8月31日 頓首再拝>

《困難を克服する言葉》 - 伝統

2017/09/15 (Fri) 04:18:38


          *『幸福を招く365章』第11項(P226) より

困難に面したときは次の如く念ずるがよい。

「吾れは一切のものの創造主(つくりぬし)にましまし、
吾が父にまします神が常にわれを護り給うことを知るのである。

神の愛はわれを取り巻き、わが内にも外にも行きわたりて
我(われ)を護りたまうがゆえにわれは常に健康であり、
われは常に幸福であり、わが事は必ず成就するのである。
 
困難とみえ、病気とみえるのは仮相(かそう)であって
本当の相(すがた)ではないのである。

吾れは神の創造(つく)りたまいし此の世界が常に善に、今も善に、永遠に善であり、
常に調和していることを知るのである。
さればわれに敵対する者は何一つあり得ないのである」


           <感謝合掌 平成29年9月15日 頓首再拝>

《体験に失敗はない》 - 伝統

2017/10/03 (Tue) 04:46:10


   *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P216~217) より

過去について思い嘆くこと勿れ。
過去は既に蚕が、一眠ごとに脱ぎ捨てた皮のようなものであり、
蝉の抜け殻みたいなものである。

過去の殻の形が如何にあろうとも、
それは現在の自己にとって何のかかわりもないことである。

真に自分にとって大切なことは、
脱ぎ捨てた過去の殻が如何なる形をしているかと云うことでなく、
その殻の中にあって如何に自分の魂が生長を遂げたかと云うことである。


如何なる困難も、如何なる失敗も、
決して完全なるマイナスと云うものは人生には全然ないのである。

エジソンは千百の実験に失敗した後(のち)一つの発明を完成しても、
その千百の実験を「失敗」と呼ばないで、
「こうしたら、こうなる」と云う実験のデータを得たのであるから、
それだけ自分は進歩したのだと言ったそうである。

           <感謝合掌 平成29年10月3日 頓首再拝>

困難から学ぶ - 伝統

2017/10/17 (Tue) 03:10:48


    *『ハーバードの人生を変える授業』タル・ペン・シャハ(著)Week 7 より

ワタシは憂鬱になったり落ち込んだりすると、
「早く気分を直さなっちゃ! 」と焦ったりすることがあります。

私たちの社会、とくにアメリカは「幸せでなければならない」
という思い込みにとらわれていると言われています。

「幸せではない気分」というものをなんとかしなければならない!!
とばかりに、

その場しのぎの問題解決法や、苦痛のない人生のための
自己啓発本が空前の売れ行きで、人々は感情的な苦痛を覚えると
すぐに精神科の薬を求めに走るそうです。


こうしたアメリカ人の思い込みは、
「幸せでなければならない」というよりも、
「楽しさがすべて」というものです。

社会に満ちたその場しのぎの解決法は、
私たちの「意義」への欲求を無視しています。


本当に幸福になるためには、不快な感情やつらい体験が必要です。

人生は困難を克服することで幸福になれるのです。

精神科医ヴィクトール・フランクルは次のように述べています。

「人間が本当に必要としているのは不安のない状態ではなく、
価値ある目標のために努力することである。
人間に必要なのは何としても不安を取り除くことではなく、
意義の達成に指名を感じることである」。

人は困難な時期があるからこそ、
より大きな喜びを感じられるようになるということを忘れてはなりません。

困難こそが、人生におけるすべての喜びへの感謝の気持ちを作り、
この感謝の気持ちこそが、真の生きがいや喜びの源になるのです。


あなたが大変だったり、辛かったりした経験を思い出してみてください。
そこからあなたは、何を学びましたか?
どのように成長したでしょうか?


《アクション:過去の経験を書き出す》

テキサス大学のジェームズ・ペネベカーは、
つらかった経験を書き出すことによって、
気持ちの整理がつきやすくなることを立証しました。

被験者に4日連続で毎日15分から20分間、
怒りを感じたり、トラウマとなったりした経験を書いてもらう
という実験をしたのです。

被験者には秘密を守ることを約束し、
できるかぎり心の内をさらけ出してもらうようにしました。

4日間で合計1時間程度、この書くという作業に時間を使ったことにより、
被験者の不安感は驚くほど減少し、幸福感が増し、健康状態も改善しました。


ワタシと一緒に、辛かったことを書き出してみませんか?

人生で最も怒りを感じたり、トラウマとなった経験を書き続けます。
文法や文字の違い、文章校正を気にしてはいけません。

その体験について心の奥底でどのように思い、感じているでしょうか?
あなたにとって大きな影響があったものなら、何を書いても構いません。

他の人にはあまり語っていないことが理想的ですが、
何より大切なのは最も深いところにある感情や思いと向き合うことです。

何が起こり、どう感じたか、そして今どう思っているかを書いてください。
毎日異なる出来事について書いてもいいですし、
ずっと同じ体験について書いても構いません。

どのようなトラウマ体験を書くかは、まったくあなたの自由です。

作家 マルセル・ブルースとは言っています。
「傷ついたことを完全に表現して初めて、私たちは癒される」。

   (http://understandlove.hatenablog.com/entry/2017/06/05/193000 より)

           <感謝合掌 平成29年10月17日 頓首再拝>

成長への近道は、困難な道を選ぶこと - 伝統

2017/10/30 (Mon) 04:22:53


        *Web:B-plus(2017.6.16)    
         ~ほめ達!の「未来を拓く言葉たち」第3回  より

《成長に必要な3つの勇気とは?》

(1)失敗を恐れない勇気

   私は、成長するためには3つの勇気が必要だと考えています。
   まずは、失敗を恐れない勇気です。

   例えば、スキーがうまくなるためにはどうしますか? 
   初心者コースを滑れるようになったら、より難しいコースに挑戦しますよね。

   自分の技量では転倒してしまう可能性の高い斜面を、転びながらでも滑ってみる。
   転ぶことを恐れずに、あえて難しいコースに挑戦する。

   成長のためにはそうした、失敗を恐れない勇気が必要です。

   そもそも、何かを行った結果に、失敗はありません。
   全ては失敗ではなく、気付きなのです。

   発明王と言われたトーマス・エジソンは、

   999回失敗しても、それを失敗とは考えず、
   999通り、上手くいかないパターンを新発見した。

   と考えていた。

   そうです。
   「全ては発見であり、気付き」なんです。
   失敗をしているのではなく、成長をしているんですね。


(2)変化を恐れない勇気

   2つめは、変化を恐れない勇気です。

   例えば、自分がある程度の地位にあって、名誉を得ている人だったとします。
   その分野において、自分はすでに完成されているように思っている。
   だから、挑戦をしません。

   なぜなら、挑戦は未知の体験ですから、失敗することがあるかもしれない。
   今の立場で失敗はしたくない。
   だから挑戦をしたくない。

   しかしそれでは、成長から遠ざかってしまいます。
   どのような実績があっても、どんな立場にいても、
   変化を恐れた時点で成長は止まってしまうのです。


(3)全てを受け入れる勇気

   そして最後が、成長のために全てを受け入れる勇気。
   アドバイス、誹謗中傷も含めて、
   他人の指摘を受け入れる勇気も成長には必要なことです。

   自分の考えややり方に固執せずに、他人の言うことに耳を傾けて
   自分の手法に取り入れれば、より成長のスピードは速まります。

   他人の指摘に耳を傾けることは、成長にも必要なことなのです。



こうやって考えてみると、成長する過程には様々なストレスを伴うことがわかると思います。
私流に言えば、「成長には成長痛が伴う」ということです。

思春期の子どもが関節に痛みを感じるように、
普段とは異なる違和感や痛みを感じることなくして、成長はありません。
つまり、辛いと感じる時に、人間は成長しているんですね。

20世紀のイギリスの政治家、ウィンストン・チャーチルもよく引用していたという、
ゲーテの名言を紹介しましょう。

   財を失うことは小さく失うことである。

   名誉を失うことは大きく失うことである。

   勇気を失うことは全てを失うことである。

             ~ゲーテ(ドイツの詩人)~


《挑戦からも気付きと発見が得られる》

成長には挑戦が必要だと冒頭に言いました。

私は、挑戦とは、向き合えば地獄、踏み出せば極楽 だと思っています。
向き合えば地獄、踏み出せば極楽 ―― と考えて自分から動いてみると、
得るものがたくさんあることに気付きました。


(中略)


《常に困難な道を選べ》

最後に、挑戦に関する名言をご紹介しましょう。


   安易な道は困難になり、困難な道はやがて容易になる


ケンタッキーフライドチキンで有名なアメリカの会社、KFCコーポレーションの創業者、
カーネル・サンダース氏の言葉です。


安易な道を選ぶのは楽です。
楽だから時間もかからない。

いっぽう、困難な道を歩むと様々な苦労があるし、時間もかかるものです。
でも時が経つにつれて、容易だった道のほうが困難になってきます。
なぜなら、時を空費するだけで、自身に成長がないからです。

逆に困難だった道を歩んでいれば、負荷を得て知らぬ間に成長をしていますから、
困難だったことも、やがて容易に達成できるようになっている。
さらに次の困難を選べばどれだけ成長できるでしょうか。

前者と後者、選ぶ道次第で、将来的なその人の能力差は
歴然としたものになることがわかると思います。


           <感謝合掌 平成29年10月30日 頓首再拝>

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