伝統板・第二

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人間の真の自由を自覚する - 伝統

2016/05/07 (Sat) 03:25:12

「真の自由」を自覚するには

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月7日)」より

人格の本質は「自由」ということである。

それゆえにわれわれは常に今あるよりもなおいっそうの自由を得んことを念願し、
今あるよりもなおいっそうの自由を得た時に幸福感を味わい、
今あるよりも自由が少なくなった時に不幸の感に打たれるのである。

われわれは戦後祖国の民主化によって多くの自由を獲得したのである。
しかし、われわれは外からの自由は得たけれども内なる暴君「にせものの我」の支配下にあって、
完全なる自由はなかなか得ている者は少ないのである。

この「内なる暴君」は地球上のいかなる残虐の君主よりもなお苛酷にわれらを苦しめるのである。

そしてこの暴君の支配を受ける時われわれはみじめとなり、恐怖にみたされ、
猜疑にさいなまれ、憤怒に傷つけられ、貪欲に蝕まれ、傲慢によってみずから傷つき、
あらゆる不幸がおそいかかってくるのである。

われわれはこの暴君の支配から脱しないかぎりは真に自由を得ることはできないのである。
しかし真の人間である自分は決してかかる暴君の奴隷となって苦しめられるようには
できていないのである。

われわれはこの真の自分を発見し、それに完全なる自由を与えなければならないのである。
真の自由を得るには真理を知ることが必要なのである。
だから、イエスは「真理は汝を自由ならしめん」と言っているのである。

神は宇宙の創造の最後の最高の完成者として人間を神の像(すがた)
―― 換言すれば神の完全自由の具象化 ―― として造ったのである。
そしてあらゆる万物を支配する権利を与えられたのである。

これが真の人間の使命である。
この使命を果たす者が、完全な人間であるのである。

その完全さを神想観によって自覚する時人間はその実相の完全さを実現することができるのでる。

釈迦は『法華経』においてすでに仏であるところの人間を説いたのである。
自己の内に宿るところの「真の人間」を自覚する時あらゆる不完全は消え去り、
不調和はなくなり、仏すなわちいっさい苦悩から解脱したところの人間が成就するのである。

しかしその自覚を文字(もんじ)の表面に触れるだけですでに得たりと思い、
増上漫に陥ってはならないのである。

正しき戒律を守ることと、精進努力と、禅定的工夫と、愛行と、忍辱(にんにく)と、
真理の書の読誦と、六派羅蜜の修行とが必要である。

            <感謝合掌 平成28年5月7日 頓首再拝>

人間は生長をも拒む自由をもっている - 伝統

2016/05/09 (Mon) 04:33:02

           *「光明法語」(5月9日の法語)より

種子(たね)の中にはその生長に必要なる要素を周囲の太陽、空気、水分、地中から
吸収して自己をして発芽せしむる力を蔵しているのである。

それと同じく人間も己の魂の生長に必要な凡ゆる要素を
自己の周囲から吸収する力を持っているのである。

併し種子は、その生長に必要な要素に置かれるとき、
「自分は発芽することを欲しない」とその生長を阻む自由はもっていないのである。

ただ人間のみ自由意志をもっていて自分を生長させもし、
退歩せしめすることが出来るのである。

            <感謝合掌 平成28年5月9日 頓首再拝>

人間に内在するどの要素を発揮するかは人間の自由 - 伝統

2016/05/10 (Tue) 04:08:40


           *「光明法語」(5月10日の法語)より

人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。

最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。

肉欲食欲のみに快感を求めるものは、人間でありながら動物の状態に退歩することである。
仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。

その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。

            <感謝合掌 平成28年5月10日 頓首再拝>

お委(まか)せも、人間の自由 - 伝統

2016/05/11 (Wed) 04:48:31


           *「光明法語」(5月11日の法語)より

海中に墜落したならば、墜落した底にある岩や藻にしがみついていたならば
到底浮かぶことは出来ないのである。

墜落した悲しみの底につかまるな。
悲しみの底につかまっていたならば喜びの青空に出ることは出来ない。
悲しみをかなぐり捨て、喜びの青空に出ることが必要なのである。

今有(も)てる何物かを失った時には、それは一層身軽になった時であるから、
悲しみの底につかまらない限りは、喜びの青空に最も浮かび上がりやすい時なのである。

かかる時上がる下がるも人間自身の自由である。

神に委(まか)せておれば上がるほか仕方がない。

            <感謝合掌 平成28年5月11日 頓首再拝>

つかむも放つも人間の自由 - 伝統

2016/05/12 (Thu) 04:50:10


           *「光明法語」(5月12日の法語)より

神に委(まか)せよ。
神が汝をつかんでいるから必ず善き事のほか起りようがないと信ぜよ。
然(さ)らば必ず善き事のほか起りようがないのである。

神に手を握って貰おうと思ったならば、ほかの握っているものと手を離さなければならぬ。
空手にして郷(きょう)に帰るとき、掌(てのひら)の上に、「無限」が載るのである。

しかし神は決して人間に強制して、
その悲しみまたは悩みをつかんでいる手を離させようとはしたまわぬ。

つかむも放つも人間の自由である。

しかし一切を神にその空手を差出さねば神の慈手も彼の手を握ることは出来ぬのである。

            <感謝合掌 平成28年5月12日 頓首再拝>

人間は、想念・感情・意志・言葉・行動の自由を有している - 伝統

2016/05/16 (Mon) 04:18:51


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より抜粋

宇宙にあるあらゆる理念のうち全包容的最高理念が人間である。

だから人間は万物を従わせ、万物を生かし、
万物をその使命のところに配置する権能を有するのである。

人間が人間としての価値と存在の意義は、自己選択をなしうるということにあるのである。
万物を従わせるとは、自己選択をなしうることである。
曰く、想念の自由、感情の自由、意志の自由、言葉の自由、行動の自由ということである。

毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、われわれは何を想うか、いかなる感情を起こすか、
何を意志するか、何を言論するか、何を行動するかの自由を持っているのである。
その自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在するのである。

かくのごとき自由は機械にはもちろん、単なる動物にすら存在しないところのものである

しからば諸君はまず何を想念すべきであろうか。
悪を想念するならば、悪は現象し来たるであろう。
善を想念するならば、善は現象し来たるであろう。

病気を想念するならば、病気は現象し来たるであろう。
戦争や敵意を想念するならば戦争や敵意は現象し来たるであろう。
平和のみ善意のみ想念するならば平和のみ善意のみが現象し来たるであろう。

            <感謝合掌 平成28年5月16日 頓首再拝>

悪をなす自由 - 伝統

2016/05/27 (Fri) 03:53:47


         *『生命の實相』第十四巻倫理篇(P20~21)より

人間が悪をも犯しうる自由をなぜ神が与えたのだろうかという疑問は
読者からたびたび提出される疑問である。

善とはなんであるか、それは真っ直ぐなどというだけではない、
善とは人格(すなわち自由の主体)が、その自由なる生命(せいめい)の
発露として正しい道に乗ったことを善という。

強制されて正しい道にのったのは善ではない。
それは人格的自由なにし、ただ外面がやむをえず正しい姿をしている
というだけにすぎない。

本当の善と、似て非なる強制された正しさとの区別は、肉筆で描かれた線の美と、
定規で描かれた線の美との相異のようなものである。

定規で引いた線は一見正しく引けており、美しいように見えるかもしれないが、
それは芸術ではなく、生命(せいめい)がなく、味わいがない。

なぜなら、それは定規によって強制されて、ほかに行きどころがなくそのまま
直線になっているにすぎないからである。

もし、人間が正しい道にのるほかになんらの自由もないならば、
われわれの行為は定規をあてられたと同じことになり、真っ直ぐには歩めるかも
しれぬが、定規で描いた直線と同じようにすこぶる興味なく生命(せいめい)なき
人間の動きとなってしまうのである。

そして定規で描いた直線が芸術に非ずして機械的必然の線であるがごとく、
われわれ人間の動きは機械的必然の支配するところになって、
生活でも道徳でもなくなるのである。

だから本当の善というものは、そして本当の生活というものは、彫刻において
ノミの運びが横にも縦にもそれる自由がありながら、なおかつそのノミが
正しい輪郭を穿(うが)ってゆくところに美が出るように、

生活において不正に外(そ)れる自由がありながらなおかつ正しい生き方を
してゆくところにあるのである。

            <感謝合掌 平成28年5月27日 頓首再拝>

神を拒む自由 - 伝統

2016/06/05 (Sun) 04:34:34

《みずから神を拒むな》

          *『 生長の家 』(昭和26年5月21日の法語)より

   神は幸福の源泉であり、
   人間に幸福を与うることを悦び給うのであって、
   決して人間に不幸や貧乏や病気を与え給うのではないのである。

   不幸や貧乏や病気は、吾々が勝手に神を拒んだ結果に過ぎないのである。

   神は幸福の源泉であるけれども、
   人間に完全なる自由を与え給うていられるのであるから、
   それを拒む場合には幸福を強制し給うことはないから、
   自己選択によって不幸や病気や貧乏があらわれて来るのである。

   それは写真師が焼付の時間を選択することによって、
   呆(ぼ)けた調子の写真でも、ドギツイ調子の写真でも、
   完全な写真でも造り出し得るようなものである。



   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

            <感謝合掌 平成28年6月5日 頓首再拝>

思想の自由 - 伝統

2016/07/01 (Fri) 04:13:33


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月1日>(P4)より

深海の中に棲む魚(うお)は盲(めしい)である。
暗(やみ)のみを心に思い浮かべているからである。

光を見る心になったときわれわれに眼ができ、
美しい世界がわれわれの周囲に展開したのである。

思想することは自由である。
幸福になるように、あるいは不幸になるように。
けれどもそれは各人の選択である。

ただひと筋に光明思想に随(つ)いて来るものは幸いである。

すべてのものがわが内にある。本当にある。本当にある。
ただそれだけを知ればよいのである。
ただそれだけを直視すればよいのである。

思想として、宗教として、哲学として、生長の家はすべてのすべてである。
このほかにもっと何かよいものがあるかと思ってさ迷い出るものは、
エデンの楽園にいてエデンの楽園をさ迷い出(い)ずるものである。

いろいろ変わった思想のものを読んで、思想を混乱させればさせるだけ、
自分の運命が混乱してくる。

罰を当てるのではないが、いろいろお蔭を戴いてから去ったものの運命が
それほど花々しくないのは、その人自身の思想が混乱しているからである。

元の思想に還ればまた幸福がその人のために甦ってくるのだが、
いったん光明思想を去った者が元の思想に還ることは負けたような気がして
正直に懺悔の心を表白することができない。

そこでその人はいつまでもグズついて不幸の中に身をまかせているのである。

真理の前に跪(ひざまづ)くことは、
不幸の中に身をまかせていることよりも
いっそう勇敢なことであることを知らなければならない。

            <感謝合掌 平成28年7月1日 頓首再拝>

最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う - 伝統

2016/07/04 (Mon) 04:29:23


           *「光明法語」(7月4日)より

   汝病気ならんか、「否!」と断じて言うべし。
   病いすなわち必ず癒えん。

   汝に不幸来(きた)らんか。
   「否!」と言うべし。
   如何なる不幸も汝を傷つける事は出来ない。

   最も自由なる人は自己の好まざることに対して断じて「否」と言う。
   かかる人には如何なる不幸も近づく事が出来ない。

   世界は如何なる「幸福」でも「不幸」でも
   自由に販売しているところの百貨店だと言える。

   それを求める貨幣は「決意」である。


            <感謝合掌 平成28年7月4日 頓首再拝>

本当の自由 - 伝統

2016/07/20 (Wed) 03:43:06


         *「生活の智慧365章」(P111~112)より


吾々は“無限”を求める存在であると同時に、“自由”を求める存在である。
何故なら人間は神の自己顕現であり、本来“無限の自由”を内に蔵するからである。

「自由」を、何か自分を縛る物を破壊することだ、と考える人があるが、
本当の自由は、そのような対立的観念、相対的な物の考え方では
得られるものではないのである。

本当の自由は「絶対者」となることによってのみ得られる。
自分が神の自顕現であり、「絶対者」の自己実現である
との悟りによってのみ得られるのである。

それ故に本当の自由は、神想観によってのみ得られる。

何故なら吾々は神想観によって自己が神と一体であり、
絶対者と一体であり、環境とか外物とか見えるものも「他物」ではなく
自己の心の顕現であると悟ることができるからである。

それだから神想観は真に最高の尊き神人合一の行事であると共に、
何人も“本当の自由”を求むる限り修しなければならない修行であって、
生ま易しいものではないのである。

            <感謝合掌 平成28年7月20日 頓首再拝>

《完全の自由を得るには》 - 伝統

2016/12/17 (Sat) 03:53:58


        *「光明法語」(12月17日)より

金があっても買えないものがある。
善き妻、善き子は金があっても買うことは出来ない。
快楽は金で買い得る事があるが、真の幸福は金では買い得ないものである。

金があっても良いインスピレーションは買い得ないし、
完全の自由は求め得られない。
金に執着している限りその人は金に縛られる。

釈迦は金貨が山の中にかくされているのを見て、
「あそこに毒蛇がいる」と言ったそうである。

金が尊いのではない。

完全の自由が尊いのである。
完全の自由があれば何でも得られる。

            <感謝合掌 平成28年12月17日 頓首再拝>

《神をわがものとせよ》 - 伝統

2016/12/18 (Sun) 04:43:52


        *「光明法語」(12月18日)より

完全の自由を得るには「完全の自由の本体」をわがものとしなければならぬ。
「完全の自由の本体」とは全知全能なる神のみである。

全知全能なる神をわがものとしたときにのみ「完全な自由」が得られる。

全知全能をわがものとするには小智小能を捨てなければならぬ。
すなわち自分の「我的欲望」を捨てなければならぬ。
自分の小さい知恵を握っている限り、どんな大きいものがあっても握るわけには行かぬ。

大きいものを握るには、今まで握っていたものを先ず離すことだ。

            <感謝合掌 平成28年12月18日 頓首再拝>

真の自由 - 伝統

2017/01/04 (Wed) 04:57:59

          *「叡智の断片」(P19~21)より


真の自由を獲るには、自己抛棄と云うことが必要である。
これは自由を得んとして もがきつつ愈々深く転落して却って
極度の不意自由に陥りゆく蟻地獄に陥った蟻にも見出すことが出来る。

人に於いても同じことである。

「自由自由」と云いながら家庭の中の誰とも調和せず、
実に不自由窮屈な生活を送っている人が多いのである。

それは何故であるか。

自己を抛棄してしまったならば、
自由を享受すべき本体なるものが無くなってしまうのではいか。

自己があるので、自己の自由があるのではないかと
反対論をとなえる人があるであろう。

併しながら、真の自由は、十字架と復活とのみによって得られると云うことを
キリストは教えたのである。

十字架とは自己否定である。
『みこころならばこの苦き杯(さかずき)を吾れより放ちたまえ。
されどわが意を為さんとには非ず』とイエスはゲッセマネに於いて
祈っているのである。

自己の受くべき杯からのがれたい気持ちのある間は魂の内部闘争によって
イエスと雖も汗の出るほど苦しんだのである。
彼は所謂『自己』を有している限りに於いて自由でなかった。

しかし、このゲッセマネの苦悩ののちイエスは敢然として自己を
神のみこころの中へ抛(な)げ棄(す)てたのである。

かくて、イエスには、『此の世の創めぬ先より神と偕に有ちたりし栄光』が
復活し来ったのである。

彼はこの時真の自由を得たのである。

何故『自己』を棄てなければ真の自由が得られないのであろうか。
それは『自己』と思ったところのものは『真の自己』ではなく、
業(ごう)の流転であったからである。

『自己』と云う覆面をかぶった、『業(ごう)』潜在力が『真の自己』(神性)を
引き摺り廻し、小突き廻して、その自由を奪っていたのであったからである。

だから真に自己を抛棄し、神にまで無条件帰入しない限りは、
真の自由はもち得ることは出来ないのである。

先ず人は真に自由を得るには、
業を本質とする此の仮面の『自己』を克服しなければならぬ。

『自己』に打克ったとき、彼は真に自由である。

神のみが自己自身の主人公であり、真に自由自在を得た者と
云うには辱からしからぬ者となり得るのであろう。

            <感謝合掌 平成29年1月4日 頓首再拝>

完全なる人間の心の自由 - 伝統

2017/01/31 (Tue) 04:45:36

《常に善念を把持すべし》

       *「光明法語」(1月31日)より

神は人間に完全なる自由を与えたのである。
幸福も不幸も健康も病気もその外(ほか)なにものでも
諸君は心に描くことが出来るのである。
そこに完全なる人間の心の自由があるのである。

心に描けば法則が自働して心に描いたものを形に現してくれるのである。
諸君は自分の運命の構図を書くことが出来る。
そして好きな所に花咲かせ鳥をうたわせることが出来れば
又すきな所に地震も津波も大暴風(あらし)もおこすことが出来るのである。

全ての人々に愛念を起こすべし。
すべての悪を否定せよ。
善のみ汝の心を集中せよ。善のみ来(きた)るであろう。

            <感謝合掌 平成29年1月31日 頓首再拝>

人間自身の自由意思と自由想念とその行動化 - 伝統

2017/03/08 (Wed) 04:53:49


《環境・運命は新陳代謝いたします》

         *『幸福を招く365章』第2項(P26~27) より

神はその想念をもって宇宙の大体をつくり”神の子”なる人間を造って
万物の霊長として、人間自身の自由意思と自由想念とその行動化によって
人間自身の環境と運命をつくるようにせられたのです。

それが人間の宿命(さだめ)であり同時に自由なのです。

こうして人間は自分で造った環境と運命の中に生活するのです。

そして私達は「類は朋(とも)を呼ぶ」という「類似の波長の牽引の法則」によって、
次から次へと自分の環境と運命の状態を新陳代謝せしめつつあるのです。

自分の想念感情と類似のものを新たに吸引しつつ、
常に環境も運命も新陳代謝するものでありますから、
現在如何なる環境に置かれていようとも、悲観することはないのです。

自分の想念感情を交替せしめることによって、自分の環境・運命も交替せしめ得ます。

常に明るい事を思うように致しましょう。
常に深切な思いを起こすように致しましよう。

            <感謝合掌 平成29年3月8日 頓首再拝>

自由意志の条件 - 伝統

2017/04/21 (Fri) 04:15:07


         *『幸福を招く365章』第2項(P98~99) より

《個性の表現》

個性の生命(せいめい)(又は霊魂)は、大生命の夫々(それぞれ)の個性的表現の
中心であるのであるから、その個性的向上又は発展を途中で止めてしまうなどと
いうことはあり得ないのである。

もしそんなことをするならば大生命は自分の個性的発現の《次第に完成し行く出口》
を自分で閉じてしまうようなことになるのである。

大生命がそんな事をする筈はないのである。

吾々は出来るだけ自己の個性を失わず、流行になずまず、自己でなければならない
独特の個性ある表現をすることが、神砂割大生命の意志であるのである。

といって別に奇矯なる服装をし怪奇な行動をせよというのではない。
寧(むし)ろその反対ですらある。
流行の流れの中に沈没してしまう如きは神の意志に反するのである。

嘗て終戦間もなく、英国の文豪プリーストリ氏が日本を訪ねて来た際、
日本固有の風俗がすたれてしまって、外国模倣の住居や服装が氾濫しているのを
見て慨嘆して、

「日本人が幾ら西洋人の生活様式を模倣しても、其処には
西洋人のマガイモノが出来るだけで西洋人にはなり切らない。

マガイモノはホンモノに劣るのである。日本人は日本人でなければできない
独特の文化をこそつくるべきである。そうでないと類似品や贋物(まがいもの)
ばかりで、新しい価値を創造したことにはならない」

ということを講演で述べていたのである。

              ・・・

《自由意志の条件》

「個性ある表現」を人間が許されているということは、
自由意志が許されていうことに ほかならないのである。

ただそれに制限がある ―― というのは、大生命は全体者であるから、
すべての個性的表現が、いずれも害われることなく
全体が完全に表現されることを望んでいるのは当然である。

だから各自の自由意志は許されているけれども、
他(た)を犯したり、他(た)に迷惑をかけない
という条件に於いて許されているのである。

他(た)に迷惑をかけないところの個性的表現への願いは、それ自体が大生命の
自己表現の出口であるから、彼が何を願い欲しようとも、その背後には
大生命の無限の力が後援していて、その表現をたすけていてくれることを
自覚して信念と勇気とをもって実行すべきである。

模倣や迎合や虚栄や流行に押し流されて個性ある生活をいとなむことが
できない人間があるのは甚だ残念なことである。

            <感謝合掌 平成29年4月21日 頓首再拝>

真理を知ることによってのみ本当の自由を得る - 伝統

2017/04/24 (Mon) 03:55:31


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月24日)」より

人間は真理を知ることによってのみ本当の自由を得るのである。

「真理」とはマコトのコトワリである。
マコトはミコトであり、コトバであり、
「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。

すなわち「真理を知る」とは、
神と神より出でたるいっさいの事物の《真象》すなわち
《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。
仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、仮の相(すがた)であり、
真実でないから、それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

かくすればもろもろの障礙はおのずから消えてしまい、
人間は真に自由を得るのである。

多くの人たちが不幸であり、不自由に縛られているのは、
結局、実在もしない「悪」とか「不完全」とかをあるかのごとく考え、
それに執し、それに捕捉され、心を混乱に陥(おとしい)れ、
外見の「悪」の渦巻きの中にまき込まれてしまうからである。

そんな時に「悪」の存在を見ないで、「起きよ、汝の床をとり上げて歩め」と
われらに棒喝を与えてくれ、巻きこまれた迷いの纏絡(てんらく)から
切りはなしてくれるのが、「真理」のコトバなのである。

            <感謝合掌 平成29年4月24日 頓首再拝>

人間の自由は、自己統制にある - 伝統

2017/04/27 (Thu) 04:58:51


       *「光明法語」(4月23日~27日)より


《4月23日の法語 人間の尊厳》

人間は神の自己実現中、最高完全なる表現である。

従って人間のうちにはそれ以下の段階である凡ゆる階級の生物の状態をも
自己の内に包容している。

無論、「動物的状態」をも自己の内に包容している。
しかし人間は其の「動物的状態」を内に包容しつつ而も
それを超えたる存在であるのである。

「心」を象徴する頭部は、すべての動物に於いては、地球の牽引力(物質の表現)に
引きつけられて俯向(うつむ)いて歩み遊(およ)ぎ飛ぶのであるが、
人間のみ敢然と頭部を地球の牽引力の反対の方向に持ち上げた。

此処に人間の尊厳がある。

・・・

《4月24日の法語 自由とは濫用ではない》

人間の尊厳は、物質を自己の内に包容しながら物質の奴隷とならず、
物質を超えつつ物質を支配し得る所にある。

物質の法則の中にありながら、物質の法則を知ることにより、
物質を超えて之を支配し得る所にある。

彼が物質の奴隷となり、肉の奴隷となる程度に従って
彼は「動物」的低位の存在にまで退歩する。

「動物」は本能によって機械的に動く。
彼の性的生活も本能によって一定の交尾期のみに働く。

人間は一定の交尾期がなく完全に自由選択にまかせられている。
自由の特長は濫用と云うことではなく自己統制にある。

・・・

《4月25日の法語 人間は完全なる自由》

本能によって他動的に支配さるるものは機械であり動物である。

蚕が食物の選択を本能によって完全に行い、
桑の葉のみを食して食中毒をするなどと云うことのないのに、

人間が食物を本能によって選択せず、
自由心の選択にまかせられていて時々食中毒をするのは

人間は完全なる自由を与えられていて、
「善」にさえも強制せられるものではないことをあらわしている。

食慾をも、性慾をも自己統制し得て、過不及なく錯誤なく
これらを最も健全に支配する処に人間の尊厳がある。

・・・

《4月26日の法語 神は法則である》

神は法則である。
『甘露の法雨』には「神は宇宙を貫く法則」であると書かれている。

法則は秩序である。秩序性は一定の規則があると云うことである。
生命は一定の秩序あるところのみ出現し、秩序が破るれば生命は姿を消すのである。

動物は本能によって其の秩序性を守って生活し、
人間は自主的統制によって其の秩序性を守って健康に生活する。

人間の自由とは無秩序のことではなく、
自由意志と自由選択とによる完全なる自己統制である。

孔子の所謂(いわゆ)る「心の趣く所に随って矩(のり)を超えず」である。

・・・

《4月27日の法語 霊的生活の基礎としてのみ物質は存在意義あり》

神の生命の最高完全の自己実現として出生した人間は、動物的段階を内に含み乍ら、
それ以上に発達し、それを超えた存在であるから、
動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す。

動物的な肉慾や食慾を征服克服して
霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である。
キリストや釈迦やソクラテスが尊敬せられるのはその為である。

肉慾や食慾は人間なる生命の段階に於いては
霊的生活の基礎として必要な存在であるに過ぎない。

地球なる鉱物の固結体が植物や動物や更に人間発生の基礎である様にである。

            <感謝合掌 平成29年4月27日 頓首再拝>

人間は生長をも拒む自由をもっている - 伝統

2017/05/09 (Tue) 04:38:55


           *「光明法語」(5月9日)より

種子(たね)の中にはその生長に必要なる要素を周囲の太陽、空気、水分、地中から
吸収して自己をして発芽せしむる力を蔵しているのである。

それと同じく人間も己の魂の生長に必要な凡ゆる要素を
自己の周囲から吸収する力を持っているのである。

併し種子は、その生長に必要な要素に置かれるとき、
「自分は発芽することを欲しない」とその生長を阻む自由はもっていないのである。

ただ人間のみ自由意志をもっていて自分を生長させもし、
退歩せしめすることが出来るのである。

            <感謝合掌 平成29年5月9日 頓首再拝>

人間は、想念・感情・意志・言葉・行動の自由を有している - 伝統

2017/05/16 (Tue) 04:53:31


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より抜粋

宇宙にあるあらゆる理念のうち全包容的最高理念が人間である。

だから人間は万物を従わせ、万物を生かし、
万物をその使命のところに配置する権能を有するのである。

人間が人間としての価値と存在の意義は、自己選択をなしうるということにあるのである。
万物を従わせるとは、自己選択をなしうることである。
曰く、想念の自由、感情の自由、意志の自由、言葉の自由、行動の自由ということである。

毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、われわれは何を想うか、いかなる感情を起こすか、
何を意志するか、何を言論するか、何を行動するかの自由を持っているのである。
その自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在するのである。

かくのごとき自由は機械にはもちろん、単なる動物にすら存在しないところのものである

            <感謝合掌 平成29年5月16日 頓首再拝>

真の自由は物質の無を悟って得られる - 伝統

2017/05/29 (Mon) 04:13:06


         *『 生長の家 』(昭和24年12月3日の法語)より

真の解脱は物質の無を自覚し、自分自身を物質と観ずる心から解脱し、
自分自身を神通自在の神の子と自覚することによって得られるのである。

従って、般若心経には、観自在菩薩が、五蘊(ごうん)皆空と照見し、
色(しき)、受、想、行、識の五つとも皆空(みなくう)であると観じて、

色(物質)にもわずらわされず、受想行識の心のハタラキにもわずらわされず、
自由自在になったことが書いてあり、
三世(さんぜ)の諸仏もこの方法によって悟りをひらいたのだと書かれているのである。


この世界を物質という不可入性と不可抗性とを持った物質と観ずる限り自由はない。

http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=96

            <感謝合掌 平成29年5月29日 頓首再拝>

《あなたが完全な自由を得るために》 - 伝統

2017/06/13 (Tue) 03:52:55


         *『 生長の家 』(昭和44年12月14日の法語)より

   あなたが何物か外界又は他者によって縛られていて
   自由が得られない感じがするならば、

   その自由を外界や他者に対して求めることを止めて、
   自分の“実相”に対して求めるがよいのである。


   次のように念じなさい。

   “ 私は神の子である。
   神が××(自分の姓名を唱える)となって
   此処にあらわれているのである。

   神が私なのである。神が私なのである。

   私は今完全に自由なのである。
   何ものも私の自由を縛ることはできないのである。”


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/46eb21bebef7354d2b70d079452f475d

            <感謝合掌 平成29年6月13日 頓首再拝>

人は、宗教的意味に於ては王であり、絶対の自由者である - 伝統

2017/07/02 (Sun) 04:05:46


       *『生活の智慧365章』(第2部歓喜の泉)第5篇(P119) より

《すべての人間は「王」である》

自己に宿る絶対者、自己に宿る超越者、自己の宿る普遍者、自己に宿る無限者、
有限の内に宿る無限なる者、相対者の如くあらわれている絶対者、
現象のあらわれている奥にある超越者、今このままに久遠なる者、
有限即無限、個性即普遍

――それが私であり、あなたであり、一切の人々である。
それを自覚するとき相互礼拝が自然に行われるようになるのである。

自己を単に物質的存在たる肉体だと観る限りに於て、
人間は「制約」から超越することはできない。
即ち自由を完全に享受することができないのである。

その制約から超越して自由を得るためには、「真理は汝を自由ならしめん」と
イエスが言ったように、真理を知らなければならないのである。

「真理とは何ぞや」とピラトがイエスに訊いたとき、
イエスは黙然として答えなかったが、

ピラトが再び「汝は王なるか」と訊いたときに、
イエスは、「汝が言えるが如し」と答えているのである。

王とは「神聖にして犯すべかざる絶対者だ」と云う意味である。

すべての人間は法制上では王ではないけれども、
宗教的意味に於ては王であり、絶対の自由者であるのである。
これが真理なのである。

この真理を知るとき何人も本当の自由を得るのである。

            <感謝合掌 平成29年7月2日 頓首再拝>

《消極的な想念の誘惑》 - 伝統

2017/09/06 (Wed) 04:25:26


      *『生活の智慧365章』(第3部繁栄の泉)第8篇(P219~220) より

神は人間に完全なる自由を与え給うたのである。

この実相に心を振り向けるとき、
一切の自分を不幸に陥れる束縛も制約も消え去ってしまうのである。

事物を処置するに当って、否定的な消極的な面に心を振向ける者には
大なる成功と云うことはあり得ないのである。

神が常に自分の仕事を導き給うと云う信念があれば、
一時その仕事が如何に行詰(ゆきずま)ったように見えても、
また別の道がひらけて其処から素晴らしい仕事の枝が出て来て、
主要なる仕事よりも其の枝の収益で損失をおぎなうことも出来るようになるものである。

消極的な考えが起きて来たならば、

「神はわが父であり給い、わが求むるすべてのものを神は与えたまうのであるから、
必ずわが行くべき道は拓かれるのである。
神は無限の智慧をわれに授け給いてわが行くべき道を示し給う」

と念ぜよ。

            <感謝合掌 平成29年9月6日 頓首再拝>

選択の自由 - 伝統

2017/09/08 (Fri) 04:56:44


    *「光明法語」(9月の法語 大生命の歓喜 9月8日)より

人間の荘厳と尊厳

人間のみが意識をもち、自由意志によって自己の美と荘厳と全と完全さを
自分の選択によって表現することが出来る。
爰(ここ)に人間は初めて神の最高完全たる顕現たるを得るのである。

人間の自由とは、
善なるを得ると同時に悪(善の否定)なるをも得る自由だとも言い得る。

一方的に「善しか出来ない」と定められていたならばそれは一種の機械である。
かくて人間は、悪(不健康等)をさえ表現し得る。

併し、吾らは何もかかる否定的なものを選択する必要はないのである。

           <感謝合掌 平成29年9月8日 頓首再拝>

「真実の完全自己」を取り戻し、自己本来の「自由」を回復せよ - 伝統

2017/10/16 (Mon) 03:40:14


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月16日>(P101)より

人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。

英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。

「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。

本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。
「真実の完全自己」を想念せよ。
「真実の完全自己」のみを常に語れ。

心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。

           <感謝合掌 平成29年10月16日 頓首再拝>

神をわがものとしたときにのみ「完全な自由」が得られる - 伝統

2017/12/18 (Mon) 03:34:37


         *「光明法語」(12月17日~18日)

《完全の自由を得るには》

金があっても買えないものがある。
善き妻、善き子は金があっても買うことは出来ない。
快楽は金で買い得る事があるが、真の幸福は金では買い得ないものである。

金があっても良いインスピレーションは買い得ないし、
完全の自由は求め得られない。
金に執着している限りその人は金に縛られる。

釈迦は金貨が山の中にかくされているのを見て、
「あそこに毒蛇がいる」と言ったそうである。

金が尊いのではない。

完全の自由が尊いのである。
完全の自由があれば何でも得られる。

・・・

《神をわがものとせよ》

完全の自由を得るには「完全の自由の本体」をわがものとしなければならぬ。
「完全の自由の本体」とは全知全能なる神のみである。

全知全能なる神をわがものとしたときにのみ「完全な自由」が得られる。

全知全能をわがものとするには小智小能を捨てなければならぬ。
すなわち自分の「我的欲望」を捨てなければならぬ。
自分の小さい知恵を握っている限り、どんな大きいものがあっても握るわけには行かぬ。

大きいものを握るには、今まで握っていたものを先ず離すことだ。

           <感謝合掌 平成29年12月18日 頓首再拝>

真理を知ることによってのみ本当の自由を得る - 伝統

2018/04/24 (Tue) 03:20:02


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月24日)」より

人間は真理を知ることによってのみ本当の自由を得るのである。
「真理」とはマコトのコトワリである。
マコトはミコトであり、コトバであり、「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。
すなわち「真理を知る」とは、神と神より出でたるいっさいの事物の《真象》
すなわち《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。
仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、仮の相(すがた)であり、
真実でないから、それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

かくすればもろもろの障礙はおのずから消えてしまい、
人間は真に自由を得るのである。

多くの人たちが不幸であり、不自由に縛られているのは、
結局、実在もしない「悪」とか「不完全」とかをあるかのごとく考え、それに執し、
それに捕捉され、心を混乱に陥(おとしい)れ、外見の「悪」の渦巻きの中に
まき込まれてしまうからである。

そんな時に「悪」の存在を見ないで、「起きよ、汝の床をとり上げて歩め」と
われらに棒喝を与えてくれ、巻きこまれた迷いの纏絡(てんらく)から
切りはなしてくれるのが、「真理」のコトバなのである。

            <感謝合掌 平成30年4月24日 頓首再拝>

《人間は生長をも拒む自由をもっている》  - 伝統

2018/05/09 (Wed) 04:17:27


         *「光明法語」(5月9日)より

種子(たね)の中にはその生長に必要なる要素を
周囲の太陽、空気、水分、地中から吸収して
自己をして発芽せしむる力を蔵しているのである。

それと同じく人間も己の魂の生長に必要な凡ゆる要素を
自己の周囲から吸収する力を持っているのである。

併し種子は、その生長に必要な要素に置かれるとき、
「自分は発芽することを欲しない」と
その生長を阻む自由はもっていないのである。

ただ人間のみ自由意志をもっていて自分を生長させもし、
退歩せしめすることが出切るのである。

            <感謝合掌 平成30年5月9日 頓首再拝>

《人間は神的実現》 - 伝統

2018/05/10 (Thu) 03:14:11


         *「光明法語」(5月10日)より

人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。

最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。

肉欲食欲のみに快感を求めるものは、
人間でありながら動物の状態に退歩することである。

仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。

その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。

            <感謝合掌 平成30年5月10日 頓首再拝>

本当の“自由人” - 伝統

2018/06/30 (Sat) 04:02:37


       *『人生の秘訣365章』第5篇(P131) より

《現在の状態を呪ってはならない》

現在の給料以上の働きをしたら損だと考える人は、
“現在の給料”と云うものに縛られて、
内在無限の可能性を自由に働かし得ない人であり、
“現在の境遇”に縛られている奴隷なのである。

“現在の境遇”を超えて、自由に無限の可能性をあらわすことを
できる人のみが本当の“自由人”である。
“現在の状態”に自分の心を引っかからせてはならない。

自己の“無限の可能性”を自分の“引っかかった心”でみずから縛ってはならない。

自己の運命を縛るものは、現在の“自分の境遇”ではなくて、
自分の心に過ぎないのである。
「境遇にしばられる」と思う自己劣等感から脱却せよ。

あなたの内には“無限の可能性”が宿っているのである。
現在の状況を呪ってはならない。

「現在の状態」はあなたが“失敗”へも“成功”へも
どちらにでも踏み切れる“飛び石”に過ぎない。

その“飛び石”がなかったら、
あなたは、どちらへも踏み切ることができないのである。

            <感謝合掌 平成30年6月30日 頓首再拝>

人間の自由とは、善をも悪をも得る選択し得る自由 - 伝統

2018/09/08 (Sat) 03:12:47


      *「光明法語」(9月8日 人間の荘厳と尊厳)より

人間のみが意識をもち、自由意志によって自己の美と荘厳と全と完全さを
自分の選択によって表現することが出来る。
爰(ここ)に人間は初めて神の最高完全たる顕現たるを得るのである。

人間の自由とは、善なるを得ると同時に
悪(善の否定)なるをも得る自由だとも言い得る。
一方的に「善しか出来ない」と定められていたならばそれは一種の機械である。
かくて人間は、悪(不健康等)をさえ表現し得る。

併し、吾らは何もかかる否定的なものを選択する必要はないのである。

           <感謝合掌 平成30年9月8日 頓首再拝>

《人は常に外見よりも偉大である》 - 伝統

2018/11/08 (Thu) 02:46:00


        *『人生の秘訣365章』第8篇(P220~221) より

あなたの實相は、常に見えている姿よりも
偉大であり、完全であり、万徳を具足するのである。

だからあなたは劣等感をもってはならいのである。

現在、あなたより立派に花咲いている人々もあるであろうが、
あなたもやがて、あの人のように、否それよりも立派に花開く
ときが来るのである。

秋に花咲く菊が、春に咲く桜の花の美しさを羨む必要はないのである。
菊には菊でなければ表現できない美しさがあるし、
桜の花には桜の花でなければ表現できない美しさがあるのである。

どちらが優れており、どちらが劣っているということもないのである。


それぞれの花にはそれぞれの個性ある美があり、その花咲く時期にも、
それぞれの宇宙大生命が割当てた時期があるのである。

植物ならビニール栽培や、光線の明暗を加減したりして、
早咲きや遅咲きの変種をつくることも悪しくはないが、
人間は特に早咲きの能力を得るように促成栽培しなければならぬこともない。

併しみずから好んで、早咲きに自分の能力を開発したい人は
早期に天才を発揮することもできるのであって、
それを特に制限しなければならぬこともない。

何故(なぜ)なら人間には完全な自由が与えられているからである。

           <感謝合掌 平成30年11月8日 頓首再拝>

《真理は汝を自由ならしめん》 - 伝統

2018/11/24 (Sat) 04:31:07


      *『人生の秘訣365章』第10篇(P259) より

人間の行動は、その自覚の程度によって左右せられるものである。
たとい人間は神の子であり、本来完全円満であっても、
神の子であるという自覚が出来るまでは、神の子らしい働きができないのである。

先ず 「人間は神の子である」 と云う真理を知ることである。
この真理を知ったときに、人間は自己解放を遂げることができるのである。

これをキリストは「真理は汝を自由ならしめん」
と云うような語で表現したのである。

「本当の自分」 即ち 「内在のキリスト」(佛教的に謂えば、内在の佛性)は
完全円満であるけれども、それが色々の「迷い心」で隠覆されているのである。

「迷い心」の最大なるものは、
「人間は肉体と謂う物質的塊である」と云う根本無明である。

人間自身を物質的塊であると信じた程度に応じて、
その人は物質界の法則に支配される程度が殖え、
それだけその人は自由を失うのである。

           <感謝合掌 平成30年11月24日 頓首再拝>

完全の自由を得るには - 伝統

2018/12/18 (Tue) 04:10:44


        *「光明法語」(12月17日~18日)より

《完全の自由を得るには》

金があっても買えないものがある。
善き妻、善き子は金があっても買うことは出来ない。
快楽は金で買い得る事があるが、真の幸福は金では買い得ないものである。

金があっても良いインスピレーションは買い得ないし、
完全の自由は求め得られない。
金に執着している限りその人は金に縛られる。

釈迦は金貨が山の中にかくされているのを見て、
「あそこに毒蛇がいる」と言ったそうである。

金が尊いのではない。

完全の自由が尊いのである。
完全の自由があれば何でも得られる。

・・・

《神をわがものとせよ》

完全の自由を得るには「完全の自由の本体」をわがものとしなければならぬ。
「完全の自由の本体」とは全知全能なる神のみである。

全知全能なる神をわがものとしたときにのみ「完全な自由」が得られる。

全知全能をわがものとするには小智小能を捨てなければならぬ。
すなわち自分の「我的欲望」を捨てなければならぬ。
自分の小さい知恵を握っている限り、どんな大きいものがあっても握るわけには行かぬ。

大きいものを握るには、今まで握っていたものを先ず離すことだ。

           <感謝合掌 平成30年12月18日 頓首再拝>

《個性の表現》 - 伝統

2019/04/18 (Thu) 04:00:43


        *『生活の智慧365章』(第3部歓喜の泉)
           第4篇(P98~99) より

個性の生命(せいめい)(又は霊魂)は、大生命の夫々(それぞれ)の個性的表現の
中心であるのであるから、その個性的向上又は発展を途中で止めてしまうなどと
いうことはあり得ないのである。

もしそんなことをするならば大生命は自分の個性的発現の《次第に完成し行く出口》
を自分で閉じてしまうようなことになるのである。

大生命がそんな事をする筈はないのである。

吾々は出来るだけ自己の個性を失わず、流行になずまず、自己でなければならない
独特の個性ある表現をすることが、神即ち大生命の意志であるのである。

といって別に奇矯なる服装をし怪奇な行動をせよというのではない。
寧(むし)ろその反対ですらある。
流行の流れの中に沈没してしまう如きは神の意志に反するのである。

嘗て終戦間もなく、英国の文豪プリーストリ氏が日本を訪ねて来た際、
日本固有の風俗がすたれてしまって、外国模倣の住居や服装が氾濫しているのを
見て慨嘆して、

「日本人が幾ら西洋人の生活様式を模倣しても、其処には
西洋人のマガイモノが出来るだけで西洋人にはなり切らない。

マガイモノはホンモノに劣るのである。日本人は日本人でなければできない
独特の文化をこそつくるべきである。そうでないと類似品や贋物(まがいもの)
ばかりで、新しい価値を創造したことにはならない」

ということを講演で述べていたのである。

           <感謝合掌 平成31年4月18日 頓首再拝>

真理を知ることによってのみ本当の自由を得る - 伝統

2019/04/24 (Wed) 03:48:37


          *『生命の實相』第37巻幸福篇上(4月24日)」より

人間は真理を知ることによってのみ本当の自由を得るのである。
「真理」とはマコトのコトワリである。
マコトはミコトであり、コトバであり、「真実(ほんと)の事」であり、実相である。

コトワリとはコトバすなわち神より分け出(いだ)されたる象(かたち)である。
すなわち「真理を知る」とは、神と神より出でたるいっさいの事物の《真象》すなわち
《実相》を知ることである。

単なる現象すなわち《仮相》にまどわされてはならないのである。
仮相はどんなに醜くそれが《ある》かのごとく見えても、仮の相(すがた)であり、
真実でないから、それはウソの相(すがた)であり、ニセモノの相(すがた)である。

ニセモノは本物ではなく、アルかのごとく見えてもないのであるから、
そんなものに頓着することなく、ただ「実相」のみを実在として、
その完全な相のみを見るようにしてゆけばよいのである。

かくすればもろもろの障礙はおのずから消えてしまい、人間は真に自由を得るのである。

多くの人たちが不幸であり、不自由に縛られているのは、
結局、実在もしない「悪」とか「不完全」とかをあるかのごとく考え、
それに執し、それに捕捉され、心を混乱に陥(おとしい)れ、
外見の「悪」の渦巻きの中にまき込まれてしまうからである。

そんな時に「悪」の存在を見ないで、「起きよ、汝の床をとり上げて歩め」と
われらに棒喝を与えてくれ、巻きこまれた迷いの纏絡(てんらく)から
切りはなしてくれるのが、「真理」のコトバなのである。

            <感謝合掌 平成31年4月24日 頓首再拝>

《人間は完全なる自由》 - 伝統

2019/04/25 (Thu) 21:22:43


         *「光明法語」(4月25日)より

本能によって他動的に支配さるるものは機械であり動物である。

蚕が食物の選択を本能によって完全に行い、
桑の葉のみを食して食中毒をするなどと云うことのないのに、

人間が食物を本能によって選択せず、
自由心の選択にまかせられていて時々食中毒をするのは

人間は完全なる自由を与えられていて、
「善」にさえも強制せられるものではないことをあらわしている。

食慾をも、性慾をも自己統制し得て、過不及なく錯誤なく
これらを最も健全に支配する処に人間の尊厳がある。

            <感謝合掌 平成31年4月25日 頓首再拝>

《人間は生長をも拒む自由をもっている》  - 伝統

2019/05/09 (Thu) 04:25:25


          *「光明法語」(5月9日)より

種子(たね)の中にはその生長に必要なる要素を周囲の太陽、空気、水分、地中から
吸収して自己をして発芽せしむる力を蔵しているのである。

それと同じく人間も己の魂の生長に必要な凡ゆる要素を
自己の周囲から吸収する力を持っているのである。

併し種子は、その生長に必要な要素に置かれるとき、
「自分は発芽することを欲しない」とその生長を阻む自由はもっていないのである。

ただ人間のみ自由意志をもっていて自分を生長させもし、
退歩せしめすることが出切るのである。

            <感謝合掌 令和元年5月9日 頓首再拝>

人間の内部の各要素のどれを発揮するかは人間の自由 - 伝統

2019/05/10 (Fri) 04:33:17


       *「光明法語」(5月10日《人間は神的実現》)より

人間は神の造りたまえる最後の最高の自己実現であるから、
人間以下のあらゆる動物の段階の各要素を自己の内に含んでいる。

最後の最高の神的実現にまで生活を高めることも出来れば、
あらゆる種類の動物的状態も実現することも出来るのである。

肉欲食欲のみに快感を求めるものは、
人間でありながら動物の状態に退歩することである。

仏典にも人間の内部には、地獄、餓鬼、畜生、人間、天人の各要素を
自己の内部に包蔵すると説かれている。

その要素のどれを発揮するかは人間の自由である。

            <感謝合掌 令和元年5月10日 頓首再拝>

《自由意志の条件》 - 伝統

2019/06/07 (Fri) 04:39:53


          *『生活の智慧365章』
            (第3部歓喜の泉)第4篇(P99) より

「個性ある表現」を人間が許されているということは、
自由意志が許されていうことに ほかならないのである。

ただそれに制限がある ―― というのは、大生命は全体者であるから、
すべての個性的表現が、いずれも害われることなく
全体が完全に表現されることを望んでいるのは当然である。

だから各自の自由意志は許されているけれども、
他(た)を犯したり、他(た)に迷惑をかけない
という条件に於いて許されているのである。

他(た)に迷惑をかけないところの個性的表現への願いは、それ自体が大生命の
自己表現の出口であるから、彼が何を願い欲しようとも、その背後には
大生命の無限の力が後援していて、その表現をたすけていてくれることを
自覚して信念と勇気とをもって実行すべきである。

模倣や迎合や虚栄や流行に押し流されて個性ある生活をいとなむことが
できない人間があるのは甚だ残念なことである。

            <感謝合掌 令和元年6月7日 頓首再拝>

《人間は絶対自由の主体である》 - 伝統

2019/06/28 (Fri) 04:51:26


        *『 生長の家 』(昭和46年3月23日の法語)より 

   人間の本体である“霊”は、“神の子”即ち“神の分霊”であるがゆえに、
   それ自身完全なる自由をもつのである。

   その人間本具の自由を私たちは“人格の自由”と呼ぶのである。

   人間に“人格の自由”があるのは、
   完全自由の“本体”たる“神”の分霊が“人間の本体”であるからである。

   本来の自由は 自分の“内”にあるのであって、
   “外の束縛”を破ることによって辛うじて得られる如き
   頼りない自由ではないのである。


   “生長の家”の真理が断想的形式で書かれている「智慧の言葉」には
   「縛られていても自由自在」という聖句がある。

   これは相対的境地を超えて、絶対自由を説いたものである。
   人間は“神の子”であるから、絶対自由を有するのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12705562.html

            <感謝合掌 令和元年6月28日 頓首再拝>

本当に自由を得るには - 伝統

2019/07/21 (Sun) 04:32:24


       *『 生長の家 』(昭和25年4月6日の法語)より

   《如何(いか)なる暗黒に面しても自分は人を憎まない》

   如何に周囲のものが辛くとも、如何に悲しみがおそいかかって来ようとも、
   吾(われ)は決して そんなことによって人を憎むことはないのである。

   そのような不完全な姿が現われて来るのは、その不完全を通してさえも
   「 完全なる本当の存在の実相 」 をみる力を
   吾(わ)が魂に養(やしな)わしめんがためであるのである。

   吾々が困難に対して自分自身が しばられなくなった時にのみ
   本当に吾々は自由を得たということができるのである。

   みせかけの不完全な状態に苦しまなくなり、
   黒雲の奥に輝いている太陽をみて感謝する心境になった時にのみ
   その人は本当に自由になったのである。


   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786899.html

            <感謝合掌 令和元年7月21日 頓首再拝>

《人間は外界に左右されては自由人ではない》 - 伝統

2019/08/11 (Sun) 04:52:10


        *『 生長の家 』(昭和25年4月7日の法語)より 

   外界にしばられている限りは
   人間は決して自由人だということはできないのである。

   吾々は外界を超えなければならないのである。

   内界によって外界を完全に支配することができた時にのみ
   自分が自分で自分の運命の主人公となったのである。

   今自分の肉体の力は如何に弱くとも
   それを本当の自分が弱いのだと思いあやまってはならないのである。

   本当の自分は 自己に宿る 「 久遠のキリスト 」 であり、
   自己に宿る 「 久遠の釈迦(しゃか) 」 であるから、
   すべての不幸をこえ、死をさえもこえる所の力をもっているのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786946.html

            <感謝合掌 令和元年8月11日 頓首再拝>

艱難こそはわれらの生命の自由さを現実にする要素なのだ - 伝統

2019/09/25 (Wed) 04:47:25


        *「生命の實相」第7巻生活扁(P185~186)より

そうだ、神は生命の源であってわれらは皆、生命なのだ、
生命の本来の面目は自由自在なところにある。

しかし自由が自由とわかるのは、
自由がただ障害を破ったときにおいてのみである。

剣の名手は、敵者(あいて)があらわれてはじめて
自分の自由を現実にすることができるのだ。

水は平地にたたえられている時は、
まだその自由は潜んでいるにすぎないのである。
それが逆境の上に置かれるとき何物をも押し流す自由を得るのだ。

「光」であり「生命」であるわれわれ人間にとっては
本当の暗黒もなく、本当の障害というものもないのである。

暗黒は光が進んで行くとき、
その光の眩(まぶ)しさを引き立たすために役立つにすぎないのである。

障害は潜(かく)れている生命の自由さを引き立たす役でしかない。

電流の通路に抵抗があるので電流は光となり熱となるのである。

抵抗のない電流と、落差のない水とは、
それが逆境におかれていないためにかえって本当に自由ではないのである。

おお、逆境こそはわれらの生命にいっそうの自由を与えるものではないか。

空気の抵抗があるので飛行機は空を飛ぶことができるのではないか。
タイヤに摩擦があるので自動車は地を走ることができるのではないか。

どこにも障害のない世界、抵抗のない世界、摩擦のない世界は、
本当は自由のようでも、その自由は永遠に発揮されないで
「可能」の形の世界ではないか。

だから、障害こそはわれらの生命に光明を放たしむる要素なのだ。
抵抗こそはわれらの生命を飛躍せしめて、
いと高き世界へと高揚さすための要素なのだ。

艱難こそはわれらの生命の自由さを現実にする要素なのだ。

されば、どんな艱難に面しても、
われらはその暗い側を見ることは要らないのである。

いかなる艱難(なやみ)も、
われらの生命のどの部分かを引き立たすために存在するのである。

艱難(なやみ)の来るたびごとに初めてわれらの生命は潜んでいた力を実現し、
潜んでいた自由を形にかえることができるのである。

天国は、ここに見よ、かしこに見よというがごとく、
われらの外に来るのではなかったのである。

われらが艱難の意義を知り、苦しみの功徳を知り、この世界の何物も、
自分の生命の自由さを実現する資料とならないものはないということを知るとき、
そこにこのままに、天国が地上に実現するのである。

            <感謝合掌 令和元年9月25日 頓首再拝>

人間の絶対自由 - 伝統

2019/10/06 (Sun) 04:42:05


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月6日《自己解放の日》)より

【貧乏や不幸がなくとも霊魂が進化し得るような状態になれば貧乏や不幸はなくなる。
                          (『生命の實相』第九巻)】

幸福は偶然に来るのであり、不幸も偶然に来るのである。
神を信ずればとて幸福が来る人もあれば不幸が来る人もある
 ―― 斯う云う偶然論者も、彼が経験する生活範囲に於いては
まことにその偶然論者の言う通りである筈である。

何故なら、その人の住む人生はその人の人生観の展開であるからである。
彼の運命が一見「偶然」と見られるものに翻弄され、惨めにも人生に敗退するのは、
それは彼のみずから招くところではあるけれども、彼は神が与えた
「神の子」の権利を抛棄したものだと言わなければならないのである。

神が彼に与えた権利とは何であるか。
それは「人間の絶対自由」と云うことである。
「人間は運命の主人公である」と云うことである。

運命に翻弄されるものは運命の奴隷であって主人公だと云うことは出来ない。
神は人間に運命の主人公たることの権を与えたまうたのである。

与えられた権を抛棄するものは、神に背く者である。
神に背くことは、自己を晦(くらま)すことである。

吾々は神に背くとき、自己を晦すとき不幸に堕ちるのは当然である。

           <感謝合掌 令和元年10月6日 頓首再拝>

「本当の人間」とは、「本来自由なるもの」――仏性、神性そのものなのである - 伝統

2019/10/21 (Mon) 04:46:32


        *「生命の實相」第13巻倫理篇上(P183~184)より 
         ~人格の自由と「認め」の倫理

人間において行為の善悪が問題視せられるのは、
人間には本具の「自由」というものがあると
先験的に認められているからである。

人間において人格の自由というものが本来ないものであるならば、
善悪の批判は成り立たないのである。

列車は軌道の上を真っ直ぐ走るであろう。

しかしこれは強制されて軌道の上を「正しく走る」のであって、
「善」を行為するのではない。

なぜなら列車は軌道の上を正しく走るほかに自由なくして、
やむをえずに軌道の上を正しく走っているにすぎないからである。

それはいくら精確に走ったからとて機械的精確さで走っているのであって、
道徳的自由で行為するのではないのである。

しかるに人間においては行為の善悪がただちに問題となる。

それは《人間はなんびとにも先駆的に「自由なるもの」が
内在することを認めているからである》。


この何人(なんびと)にも先験的に認められているところの
人間内在の「自由なるもの」を、われわれは「人格」という。

その自由性を「人格の自由」という。

だから人格とは、肉体のことではない。

肉体ははじめから時間空間に制約せられて自由ではありえないからである。

外から観れば自由ならざる肉体であるところの人間が、
どうしても「自由なるもの」を自己の内に内在するとして
先験的に肯定しなければならないのは、
《「本当の人間」は肉体的ではないからである》。

肉体とはベルグゾンの云ったところの外的投影の人間にすぎないのである。

そして「本当の人間」とは
「本来自由なるもの」――仏性、神性そのものなのである。

           <感謝合掌 令和元年10月21日 頓首再拝>

《広き道を歩め》 - 伝統

2019/11/13 (Wed) 04:52:34


        *『真理』第九巻生活篇(P263~264)より

自由は神が吾々に与えたもうた特権である。
しかし自由とは
「我儘勝手放題をせよ」と云う意味ではないのである。

その与えられた自由を神の人類光明化の仕事に協力するように
使ったとき、その自由は最も善き果(み)を結ぶのである。

しかし自由を神に反する方向に使ったとき、
神は決して罰を与え給わないけれども、みずから「利己的行為」と云う
狭い道をあゆんで、結局、動きがとれなくなって苦しむのである。

神はすべての人類の父であるから、神の道はすべての者の幸福になる
道であって、自分ひとりだけが幸福になる道ではないのである。

だから神の道を歩む者は広い道を歩むことになり、
利己的行為は狭い道を歩むことになるのである。

すべての人の幸福になる道を考えて実践するならば、
その幸福にせられたる人々の悦びが自分に反射して来(き)、
大なる幸福を味わうことができる。

           <感謝合掌 令和元年11月13日 頓首再拝>

《完全の自由を得るには》 - 伝統

2019/12/17 (Tue) 04:39:18


          *「光明法語」(12月17日)より

金があっても買えないものがある。
善き妻、善き子は金があっても買うことは出来ない。
快楽は金で買い得る事があるが、真の幸福は金では買い得ないものである。

金があっても良いインスピレーションは買い得ないし、
完全の自由は求め得られない。
金に執着している限りその人は金に縛られる。

釈迦は金貨が山の中にかくされているのを見て、
「あそこに毒蛇がいる」と言ったそうである。

金が尊いのではない。

完全の自由が尊いのである。
完全の自由があれば何でも得られる。

           <感謝合掌 令和元年12月17日 頓首再拝>

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