伝統板・第二 299358

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主人公

1:伝統 :

2016/05/06 (Fri) 04:36:03

【人生に主となる言葉】

           *日々読誦三十章経~六日の経言(のりごと) より

吾れは今、吾が本性が神とまったく同体であることを覚(さと)ったのである。
吾れは神が渾(すべ)てであり、従って神以外に何者も此の世に存在しないことを
知ったのである。

神は渾ての渾てである。
だから吾れが苟(いやしく)も存在する限り神と吾れとは一体なのである。
吾れは存在する、それ故に吾れは神と一体なのである。

神と一体なるが故に、吾れは神の本性(ほんせい)より
その善きもの一切を賦(わか)ち与えられているのである。
神の有(も)ち給う総ての物を吾れも亦有つのである。

此の深き悦びに吾が心はわなないているのである。
吾が心は深き聖悦に満たされているのである。

神は全能である。
それ故に吾れも亦全能なのである。

吾れは凡てを知る智慧によって導かれているが故に、吾れも亦全智なのである。
神は疲れたまうことなく、倦み給うことなきが故に、
吾れは決して失敗も疲労もないのである。

吾れは神が必ず吾が力を新たならしめ給う事を信ずる。
吾れは神に吾自身をうちまかす。
それ故に金剛圍山(こんごういさん)の動かざるが如く、吾が心も不動である。

吾れはいま他(た)の人たちの偏見や非難や時代の伝統から全然自由である。
吾れはいま自分自身の判断と自分自身の標準とを持つのである。

吾れは人間である。
人間は神の子である。
されば吾れは人生の主である。

吾れは他の人々に人間は斯くあるべきとは言葉では語らない。
吾れは吾が生活を以って人間は斯くあると行じ示すのである。

吾れはいま、自分の全意識の解放を得て歓喜勇躍の感に堪えない。
自己が神の属性を賦(わか)ちもつと云うことが歓びでなくて何であろうぞ!

吾れは永遠である。
吾れは本性に於て神とは分ちがたきものである。

吾れは真理である。
吾れは生命(せいめい)である。
吾れは智慧である。

吾が実相は完全であり、神は完全である。

それ故に吾れは此の完全さを日毎々々に発揮するのである。
吾れは生ける神の子である。

吾れ今此の真理に目覚めしめ給いしことを感謝し奉るのである。

            <感謝合掌 平成28年5月6日 頓首再拝>
2:伝統 :

2016/05/14 (Sat) 04:54:16


         *『 生長の家 』(昭和46年3月15日~16日の法語)より

新たに生まれるということは、肉体の習慣性や本能に左右せられることなくして、
神からのアイディアを受信して、肉体の習慣や、物質の法則や、種族の本能などを利用しつつ、
それを道具として、神の国にあるアイディアを現象世界の姿に構築することなのである。

ここに注意すべきは、肉体の習慣性や本能を無視するのではなく、
それに支配されることなく、それを道具として地上に天国を建設することなのである。

煩悩をそのまま菩薩に転ずることなのである。
欲望をすべて煩悩として排斥してしまったら、人間に行動の意欲がなくなってしまうから、
それではいけないのである。

煩悩は肉体に属する“ 機械の運転力 ”見たいなものである。
その機械をどの方向に利用するかは、人間の魂の指揮権に属することである。

        (http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12678404.html

                ・・・

《“ 肉体 ”という皮袋を装って》

肉体という“皮袋”を装って生まれ出たために、
霊的感覚を謂わば“目隠し”されているようなのが人間である。

そんな人間が“霊”そのものなる“神の国”への旅をつづけるには
余程の勇気と忍耐と努力の継続とを必要とするのである。

私たちは、時々、その目隠しを外して、
霊的世界を直視する努力を続けなければならないのである。

即ち 眼を瞑(と)じ、肉体の感覚を蕩尽(とうじん)して、
ひたすら心を“実相の世界”に振り向け、
その“神の国”の状態と、“神の国”に棲む一切生物の調和せる状態とを凝視して、

その印象を肉体の潜在意識に刻みつけ、その潜在意識の波長が、常に、
“実相世界”(神の国)の状態を現象世界にそのまま歪めずに映出する“媒介”と
なるようにしなければならないのである。

私たちの潜在意識の波長が常に“実相世界”(神の国)の波長と合うようになっているならば、
つねにスイッチを入れて放送局にアンテナを向けて波長の微調整を終ったテレビ・セットの
ように、“神の国”そのままの映像を現象世界に常に実現することができるようになるのである。

      (http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12681508.html

            <感謝合掌 平成28年5月14日 頓首再拝>
3:伝統 :

2016/05/22 (Sun) 03:23:03

随処作主  (ずいしょにしゅとなる)  <臨済録>

           *Web:「今月の禅語」より

随処に主となる

この語は臨済宗の開祖である臨済義玄禅師が修行者に対して諭された言葉で
「随処に主となれば立処(りっしょ)皆真なり」の一句である。

いつどこにあっても、如何なる場合でも何ものにも束縛されず、
主体性をもって真実の自己として行動し、力の限り生きていくならば、
何ごとにおいても、いつ如何なるところにおいても、真実を把握出来、
いかなる外界の渦に巻き込まれたり、翻弄されるようなことは無い。

そのとき、その場になりきって余念なければ、
そのまま真実の妙境涯であり自在の働きが出来るというものである。

法句経の

「おのれこそおのれ自身の主(あるじ)である。おのれこそ自身の拠りどころである。
おのれがよく制御されたならば、人は得がたき主を得る」

と云う言葉にも通じることであるが、

その主となっての自在の働きが万縁万境の中で
生き生きとして輝いてこそ立処真なりといえることなのだ。

 
釈尊最後の説法の「自灯明 法灯明」として知られるが、
「汝らは自らを灯明とし、法を灯明とし他を拠りどころとすること無くて
修行するものこそ最高処にあり」

とあるように他により所を求めず、
己れ自身の中に真実の自己を見いだすことが肝要である。

即ち「随処に主」たれば如何なるマインドコントロールにも影響されることは無いはずである。


趙州和尚は修行僧の「1日24時間、どのように心を用いたらよいのか」と云う問いに
「(なんじ)は24時間に使われているようだが、この老僧は24時間を使いこなしておるぞ」
と答えている。

人は皆同じ24時間を与えられているが、
時間に追われ時間に使われている人の方多いのではなかろうか。


随処に主となるとは、いつ如何なるところにあっても

「ここが仏さまから私に与えられた処」

として受け止め精一杯、力の限り生き抜くことであろう。

http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/09.htm

・・・

        *「光明道中記」(5月14日)より抜粋

【人生百般の修行は随処作主(ずいしょさしゅ)の工夫にある。
 随処作主とはその時その場の主人公となることである。(『生命の實相』第十三巻)】

            <感謝合掌 平成28年5月22日 頓首再拝>
4:伝統 :

2016/05/30 (Mon) 04:45:27


           *「幸福を招く365章」第八項(P171~172)より

宇宙は大自然の創造してやまない力が満ち満ちている。

人間は生まれるまでは、大自然は自己みずからの想念の形に、
大自然の姿を造講して来たのであるが、

人間が神の創造力の自覚的意識的発想の中心として出現して来て以来は、
聖書は「審判は子に委ねられたり」とイエスは云っているのであるが、

宇宙の創造力をどんな形にあらわすかは、
人間(神の子)が出現して以来は、人間にその「想念」(創造の模型)の選択力が
与えられていると云う意味である。

自己自身の想念の相に自分の身辺の事が作られ、
自己自身の想念が選んだ通りの形に宇宙の創造力は働いてくれるのである。
爰に於て人間は宇宙の創造力の主人公となったのである。

宇宙にエネルギーが充ち満ちているのであって、
人間がエネルギ^を創造するのではないのである。

人間はそのエネルギーを物質化して自己の想念する位置に配置するのである。

人間は自己の欲する位置に必ずしもそのエネルギーを配置することは出来ない。

それを欲する位置に配置するのは、心の方面では心の法則に従わねばならないし、
物質の方面では物質の法則に従わねばならない。

尤も物質の法則を探求し、それを利用するのも心の力によるのであるから、
人間は物心両面に於ても心によって運命の支配者となるのである。

善き想念を意志強く持続し、そこから自然に動く叡智を意志強く実践して行く者が
人生の勝利者となるのである。

            <感謝合掌 平成28年5月30日 頓首再拝>
5:伝統 :

2016/06/08 (Wed) 03:51:52


         *『 生長の家 』(昭和32年5月28日の法語より
          ~『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <311~312>

   あなたの現在の境遇は、あなたの今までの想念感情の集積の具象化です。
   あなた自身の現状はあなたの今までの想念感情の集積の具象化です。

   あなた自身が如何に《ある》かは
   あなたの想念感情が今如何に《ある》かと云うことです。
   あなたが《今ある》ところに、あなた自身は今立っているのです。

   そしてそれを境遇だとか運命だとか名づけて、
   恰も自分の「外部の出来事」が「自分」を強制してあるかの如く
   錯覚しているに過ぎません。

   たとえば、
   「病気はバイキンが侵入して来たので自分は運が悪いのだ」と
   考えます。併しバイキンは到る処に存在するのです。

   しかもそれに冒される人と冒されない人とがあるのは
   その人自身に誘因があるからです。
   その誘因とは自己の持つ想念感情です。

   最近、発達して来た「精神身体医学」によれば想念感情の変化によって
   脳下垂体 → 副腎皮質 → 系統のホルモンの性質や量が変わり、
   それによって細菌に対する抵抗力が変化することが
   生理学的に明瞭になって来たのです。

            <感謝合掌 平成28年6月8日 頓首再拝> 
6:伝統 :

2016/06/18 (Sat) 04:24:03


          *『 生長の家 』(昭和46年3月15日の法語)より

   新たに生まれるということは、
   肉体の習慣性や本能に左右せられることなくして、

   神からのアイディアを受信して、
   肉体の習慣や、物質の法則や、種族の本能などを利用しつつ、

   それを道具として、神の国にあるアイディアを
   現象世界の姿に構築することなのである。

   ここに注意すべきは、肉体の習慣性や本能を無視するのではなく、
   それに支配されることなく、それを道具として
   地上に天国を建設することなのである。

   煩悩をそのまま菩薩に転ずることなのである。

   欲望をすべて煩悩として排斥してしまったら、
   人間に行動の意欲がなくなってしまうから、
   それではいけないのである。

   煩悩は肉体に属する“ 機械の運転力 ”見たいなものである。

   その機械をどの方向に利用するかは、
   人間の魂の指揮権に属することである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12678404.html

            <感謝合掌 平成28年6月18日 頓首再拝> 
7:伝統 :

2016/06/29 (Wed) 03:24:06


         *『 生長の家 』(昭和24年3月18日の法語)より

   自分の運命が向上しないのは、
   自分の与える分量が少ないからである。

   すべて自分の運命は
   自分自身で作るのである。

   吾々の生命を悪鬼のように吸血し、黴菌のように浸蝕し、活力を涸渇せしめ、
   仕事の能率を低下せしめ、有為の人材をして無力化してしまうのは、
   仕事を一所懸命に行う所の克苦精励によってではないのである。

   吾々の活力を奪い、精力を衰耗せしめ、
   人生観が真暗がりになるほど神経を衰弱せしめるものは、
   健康の法則にそむいたる日常生活に於ける誤れる習慣である。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/5798ef1d2f7a1b278ba30ff640148c2b

            <感謝合掌 平成28年6月29日 頓首再拝> 
8:伝統 :

2016/07/14 (Thu) 04:56:29


        *『 生長の家 』(昭和46年3月23日の法語)より

   人間の本体である“霊”は、“神の子”即ち“神の分霊”であるがゆえに、
   それ自身完全なる自由をもつのである。

   その人間本具の自由を私たちは“人格の自由”と呼ぶのである。

   人間に“人格の自由”があるのは、
   完全自由の“本体”たる“神”の分霊が“人間の本体”であるからである。

   本来の自由は 自分の“内”にあるのであって、
   “外の束縛”を破ることによって辛うじて得られる如き
   頼りない自由ではないのである。


   “生長の家”の真理が断想的形式で書かれている「智慧の言葉」には
   「縛られていても自由自在」という聖句がある。

   これは相対的境地を超えて、絶対自由を説いたものである。
   人間は“神の子”であるから、絶対自由を有するのである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12705562.html

            <感謝合掌 平成28年7月14日 頓首再拝> 
9:伝統 :

2016/07/30 (Sat) 03:38:16


            *「生命の實相」第5巻聖霊篇上(P23)より

人間(ひと)は神の子である ――
これが「生長の家」の主張する根本自覚で、
この自覚を「中心自覚」と申すのであります。

なぜこの自覚を「中心自覚」と申しますかといいますと、
この根本自覚は円の中心のようなものであって、
この中心から外的な一切の善きものが流れ出でるからであります。

この根本自覚が完全であればあるほど、この根本自覚が強烈であればあるほど、
われわれに発現する知恵はいっそう明らかとなり、愛はますます深くなり、生きる力は
いよいよ豊富となり、万事における能力は層一層旺(さかん)となるのあります。

神われに在(い)まし、われ神の内にあるがゆえに、
すべてのこと、あらゆること、われに不可能なるものはない。

これが「中心自覚」でありまして
「不可能という言葉取り去れ」
これが生長の家の生きかたの最初の第一であります。

            <感謝合掌 平成28年7月30日 頓首再拝> 
10:伝統 :

2016/08/12 (Fri) 04:02:42


         *『 生長の家 』(昭和40年3月18日の法語)より

   人間が、自己を単なる肉体的存在とみとめ、
   肉体の意識によって生活している限りに於いて、

   彼が健康であったり、病弱であったり、
   運が好かったり、運が悪かったりするのは、

   それは偶然のめぐり合わせであって、
   彼自身に責任がないかのように見えるのである。

   しかしながら、現象世界が、実は、「 生活する人 」 自身の
   “ 心の状態の顕われ ” であることを知るとき、

   その人は自分の心を支配することを通して、
   病気をはじめとして人生の諸問題を自己の欲する方向に
   変化する事ができるのである。

   毎日々々の吾々自身の起す想念が、
   将来起る吾々自身の運命の原型を
   形成しつつあるのである。

   私たちは 「 想念 」 の種子(たね)を蒔いて、
   それが現象としてあらわれたのを
   自己の運命として獲(と)りつつあるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

            <感謝合掌 平成28年8月12日 頓首再拝> 
11:伝統 :

2016/10/06 (Thu) 04:49:23


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月6日)より

【貧乏や不幸がなくとも霊魂が進化し得るような状態になれば貧乏や不幸はなくなる。
                            (『生命の實相』第九巻)】

幸福は偶然に来るのであり、不幸も偶然に来るのである。
神を信ずればとて幸福が来る人もあれば不幸が来る人もある ―― 斯う云う偶然論者も、
彼が経験する生活範囲に於いてはまことにその偶然論者の言う通りである筈である。

何故なら、その人の住む人生はその人の人生観の展開であるからである。
彼の運命が一見「偶然」と見られるものに翻弄され、惨めにも人生に敗退するのは、
それは彼のみずから招くところではあるけれども、彼は神が与えた「神の子」の権利を
抛棄したものだと言わなければならないのである。

神が彼に与えた権利とは何であるか。
それは「人間の絶対自由」と云うことである。
「人間は運命の主人公である」と云うことである。

運命に翻弄されるものは運命の奴隷であって主人公だと云うことは出来ない。
神は人間意運命の主人公たることの権を与えたまうたのである。

与えられた権を抛棄するものは、神に背く者である。
神に背くことは、自己を晦(くらま)すことである。

吾々は神に背くとき、自己を晦すとき不幸に堕ちるのは当然である。

           <感謝合掌 平成28年10月6日 頓首再拝>
12:伝統 :

2016/10/15 (Sat) 03:32:13


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻<10月15日>(P100)より

自己のみが自己を縛るのであって、
他物(たぶつ)や外物(がいぶつ)は自己を縛ることができないのである。

自分の想念が癒されるまでは、人間は永続的な健康を得(う)ることはできない。
むろん一時的な元気回復や、一時的な健康は、覚醒剤や興奮剤や刺激剤によって得られる。

しかし、それは結局不自然の刺激であるがゆえに、薬用の持続は暫次効果がうすれてくるし、
ついにはその反対効果をあらわしてきて、薬がなければ苦痛な状態となってしまうのである。
それはまったく、苦痛からの解放ではなくて、薬剤の奴隷状態となってしまうのである。

真に人間が苦痛から解放されるためには、人間は奴隷状態から脱して、
自己が自己の主人公とならなければならぬ。

           <感謝合掌 平成28年10月15日 頓首再拝>
13:伝統 :

2016/10/16 (Sun) 03:19:54


     *『生命の實相』幸福篇下第三十八巻<10月16日>(P101)より

人を指導する場合に、われわれは相手の精神状態を回復せしめた程度にしたがって、
彼の肉体の状態を回復せしめることができるのである。

英語の回復すなわち ricovery は「取りもどす」と同じ字である。

「真実の自己」を取り戻した程度にしたがって人間は自己本来の「自由」を回復し、
自己本来の「自由」を回復した程度にしたがって「健康」も「財福」もおのずから
得られるのである。

本来完全円満万徳具有の「真実の完全自己」を諦視せよ。
「真実の完全自己」を想念せよ。
「真実の完全自己」のみを常に語れ。

心の中に、想念の中に、言葉の中に「真実の完全自己」を再発見した時にのみ、
本当に完全なる自己があらわれるのである。

           <感謝合掌 平成28年10月16日 頓首再拝>
14:伝統 :

2016/10/28 (Fri) 03:30:33


         *『 生長の家 』(昭和25年9月5日の法語)より

   位置を欲するものは位置の奴隷となり、
   女を欲する者は女の奴隷となる。

   食を欲する者は食の奴隷となり、
   金を欲する者は金の奴隷となる。

   名誉を欲するものは名誉の奴隷となり、
   酒を欲する者は酒の奴隷となる。

   奴隷は自由を得ることは出来ないのである。

   吾らは如何なる者に対しても
   其の奴隷的状態から超出しなければならぬのである。

   人間が如何に民主主義の世界を求めても、
   自分自身が奴隷である限りは、
   制度はいくら変っても奴隷であるのである。

   制度のことは政治的天才にまかせて置け。

   人間が奴隷的心境を脱したとき
   彼はどんな制度の下にも自分が自分の主人公となる。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年10月28日 頓首再拝>
15:伝統 :

2016/11/04 (Fri) 04:00:11


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より

なんじの愛の乏しきことを嘆け。
なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。
なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。

真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。
本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をしてなんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。
なんじの物質精神を嘆け。

「本当の汝」はいずこにいるぞ。

それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。

いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中(なか)にいないのである。
「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。

「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。

         <感謝合掌 平成28年11月4日 頓首再拝>
16:伝統 :

2016/11/18 (Fri) 03:45:21


        *『 生長の家 』(昭和25年9月17日の法語)より

   人間は物質に支配されたときには、
   本当に健全なることは出来ないのである。

   物質は想念の反映であるから、反映を実在と思って、
   それに対して一喜一憂しているようなことは
   想念は、益々動揺するから、
   その想念の反影である現象の姿は益々悪くなるのである。

   人間は物質を支配したとき本当に、
   自分が主人公になることが出来るのである。

   それには物質を心の前に出しゃばらせず、
   心をもって物質を支配しうるよう心掛けなければならぬ。

   本能に支配されてはならない。本能を支配すべきである。

   食色の本能は霊の利用する道具であって、
   霊によって支配すべきである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

         <感謝合掌 平成28年11月18日 頓首再拝>
17:伝統 :

2016/12/06 (Tue) 04:22:21


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月6日)より

自分が自分の環境の中心者とならなければならない。

周囲によって自分が攪乱(こうらん)せられるようなことではならぬ。
周囲が悪いから自分が苦しいなどと言うな。
かくのごとく言う人は、何たる卑怯な奴隷根性なんだろう。

周囲というがごとき自分から独立せるものはない。
自分の周囲に関するかぎりは、自分が存在の中心者なのである。

まずなんじが自身の自覚を屈従せしめて、周囲がなんじを屈従せしめるのである。

奴隷となるな、屈従するな、
ただし、これは剛性(ごうじょう)になれということではない。

素直に周囲の事情を感受するすることは、
周囲を支配する王者となる道である。

噛みしめればどんなものにも味が出る。
周囲に攪乱せしめられるとは、
落ちつきを失って、周囲の味を噛みしめ味わいえないことである。

            <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>
18:伝統 :

2016/12/21 (Wed) 04:45:28


         *『 生長の家 』(昭和25年4月13日の法語)より

   吾は 神の生命の自己実現の中心である。

   吾々の周囲に自分を妨げる様に現われている所の事物は、
   決して自分を妨げるためにあるのではなく、
   それは画家のカンバスが画家の前に現われて 画家をして美しき絵を
   その上に描かしめんがためにあるのと同じことである。

   吾々は自分の前に立ちふさがるすべてのものを 自分を表現する所の
   カンバスであると思って 感謝すればいいのである。

   自分の心が美しくなれば そのカンバスには美しき境遇が描かれ、
   自分の心が豊かになれば 豊かなる境遇が描かれるのである。


    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13804727.html

            <感謝合掌 平成28年12月21日 頓首再拝>
19:伝統 :

2017/01/07 (Sat) 04:30:10


          *『無限者との協調』
            ~ラルフ・ウォルドー・トライン 1896年 谷口雅春訳 より


私が今まで知っている人のなかで最も魂の輝いている人であって
イザというときに何をいかになすべきかについて決して判断に迷わなかった
人の言葉をここに私は読者とともに聞きたいと思うのである。

それは 「あなたがあらゆる外部的方法で導きを得ようとしてけれども依然として
いかなる方法を追求したならば良いかがわからないで戸惑っているようなことが起これば、
いつでも《内部の目をもって見、内部の耳をもって聞くがよい》」 という言葉である。

そして疑惑によって妨げられることなく、単純に自然に美しく
はこんで行くコースにまかせればよいのである。・・・・・・
常ならぬ混迷の暗い時期が訪れて来たときには、私たちは最も単純な道を選ぶがよいのである。

(中略)

ここに再び注意をひかなければならないことは、
多くの人たちが、自己独特の個性を発揮することを忘れて、
常に常識の世界に自分を委ねているために、自己の可能性を充分発揮することができず、
それよりズッと低い生活をしているということである。

あなたはこの世界において一個の有力な実力者になろうと欲せられますか。

では“自分自身”になることです。自分自身であることを忘れて、
他の人から配役されて、“君は何をやれ”と言われることに
甘んじるようなことであってはならないのです。

いわゆる“大衆”の仲間入りや“その他大勢”のクラスに入るようなことが
あってはならないのである。

あなたの自己自身の魂の内部の最高の理想に対して忠実でなければならない。

そして神の法則の上に築かれないところの習俗や因習や、
人間が勝手にきめた法則によって自分自身が支配されるようなことが
あってはならないのである。

神の法則の上に築かれたものは、正しき理性と正しき感情をもつ人によって
守られなければならないのである。


《独創なき生活は生活ではない》

自己の独創的人格を習俗や因習の前に屈服せしめてはならない。

なぜなら人間の個性的人格というものは宇宙大生命の最もすぐれた変圧器であるからであり、
習俗や因習というものは個性的人格を保持するだけの力のない大衆によって
維持せられている枠に過ぎないからである。

私たちと同時代の最大のある著作家は、現代のこのような個性没却の社会を評して
“妥協の雑炊”と称したことがあるのであるが、私たちはそんな“雑炊”の材料として
自己独特の個性をささげてしまってはならないのである。

もしあなたがこのようにして自己独自の個性を大衆の習俗や因習の前に
屈服せしめてしまうならば、あなたは社会の好ましからざる風潮を増加するために
応援してやっているようなものである。

その代償としてあなたは一個の奴隷と化してしまう。
そして、やがては、このようにしてあなたが喜ばそうと試みた
その大衆の尊敬すらをも保ち得ないような結果に陥るのである。

もしあなたが、あなた独自の個性を保持するならば、
あなたは奴隷でなく一個の主人公となるのである。

そしてもし賢明にして思慮分別あるならば、
あなたは、その独自の個性的働きによって社会に良き感化をおよぼし、
社会の状態を一層高く、一層よく、一層健全たらしめるための貢献をなし得るのである。

その上にすべての人たちは、あなたが社会の“妥協の雑炊”中の材料として
多くの愚かな人たちと一緒に煮込まれて、自己の弱点をさらけ出している時よりも、
人々から重んぜられ、社会から一層高く尊敬せられることになるのである。

かくのごとくして、あなたはあらゆる階層の人々に感化をおよぼすにいたるのである。

誰かが言ったごとく 「偉大なるタイプの英雄は社会のあらゆる階層、
左右両翼のあらゆる階層の人物にとって魅力となり、獣類さえも彼をしたって
集まってくるようになるのである。」


《彼自身独特の存在でこそ価値がある》

彼自身独特の者になることによってのみ、人は価値があり、
あるべき唯一の満足なものとなることができるのである。 

「環境によって支配されるのはあまり良い生活態度ではない」 とある人は言ったが、
では何が良い生活態度であろうか。自分自身そのものになり切ることである。
これが最初にして最後の、そして常にかくあるべき生活態度であるのである。

何よりもまずこの事だ
自分自身に忠実であれ

されば、夜の次に昼が来るように
必ず伴うて出てくることは
あなたが何人に対してもニセモノでないことである


《至上者を自己の理想として》

私たちが、“至上なる者”に呼びかけ、自己の生活を神の法則によって支配せしめるとき、
一般大衆の意見や、人々の毀誉褒貶によって動かされることはなくなり、
いと高きものの手が自分を支え給うという自覚のもとに安住することができるのである。

もし何らかの方向にもせよ、私たちが他の者の意見に迎合して生活しようとするならば、
私たちは却って決してそれらの人を喜ばすことはできないのである。

私たちがもしそのような迎合妥協の生活を試みれば試みるほど、
他者は私たちに対して不合理な態度をとり、いよいよますます苛辣な批判を
加えることになるのである。

あなたの生活の管理は全然神とあなた自身との間の問題であり、
他のものによって動かされ影響を受けるならば、
それは間違った道を歩いていることになるのである。

(後略)

http://www.cwo.zaq.ne.jp/coach/trine2/index.htm

            <感謝合掌 平成29年1月7日 頓首再拝>
20:伝統 :

2017/01/23 (Mon) 05:03:50


         *『 生長の家 』(昭和25年4月7日の法語)より 

   外界にしばられている限りは
   人間は決して自由人だということはできないのである。

   吾々は外界を超えなければならないのである。

   内界によって外界を完全に支配することができた時にのみ
   自分が自分で自分の運命の主人公となったのである。

   今自分の肉体の力は如何に弱くとも
   それを本当の自分が弱いのだと思いあやまってはならないのである。

   本当の自分は 自己に宿る 「 久遠のキリスト 」 であり、
   自己に宿る 「 久遠の釈迦(しゃか) 」 であるから、
   すべての不幸をこえ、死をさえもこえる所の力をもっているのである。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786946.html

            <感謝合掌 平成29年1月23日 頓首再拝>
21:伝統 :

2017/03/24 (Fri) 03:17:28


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より

わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。

わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。

わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。

わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。

この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。

            <感謝合掌 平成29年3月24日 頓首再拝>
22:伝統 :

2017/04/11 (Tue) 04:38:15


《人間は自分の運命を支配する》

         *『幸福を招く365章』第3項(P48) より

人の運命は外から強制されるものではないのである。
人は自分のうちに、強くも弱くもどちらにでもなれる
運命の支配権をもっているのである。

吾々は神の子として一切のものを支配する権利を有するのである。

如何なる外見上(みせかけ)の障害が起こって来ようとも、
それは自分を高め上げ、自分を磨き上げるための
砥石(といし)であり、鑢(やすり)である。

若し鍛造(たんぞう)したままの日本刀が、
外から砥石をもって摩擦せられなかったならば、
自分のうちに明皓々(めいこうこう)と輝く立派なものがあっても
あらわすことが出来なかったにちがいない。

人間もその通りであって、若し何らかの鍛えと磨きがなかったら、
自己内在の力を現わす機会を失ったであろう。

            <感謝合掌 平成29年4月11日 頓首再拝>
23:伝統 :

2017/05/01 (Mon) 04:58:14


        *『 生長の家 』(昭和24年1月8日の法語)より

どこまでも 「 自分 」 というものが主体である。
自分とは如何なるものであるかそれを知ることがまず第一である。

ソクラテスの教の第一は 「 汝自らを知れ 」 ということであった。

釈迦は、自己の本質を自覚せるものを仏(ほとけ)といったのである。

自己自身をまず知らなければならない。

自己とは肉体ではないのである。
肉体はただの物質であって、それ自身は知性がない。
肉体はただ単に霊が操縦するところの道具にすぎない。
それは霊を取り去ったならば間もなく崩壊して無機物になってしまう。

   (https://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12025014.html


            <感謝合掌 平成29年5月1日 頓首再拝>
24:伝統 :

2017/06/01 (Thu) 04:46:03


            *「人間とは何か」(P160)より

私たちは自(みずか)ら自分の人生の事物を価値あるものと見る。

しかし、常に記憶するがよい。

価値はあなたの心に認めたものの投影であり、
あなたはその投影の主人公なのである。

あなたは全てのものをあなたを通して表現されているのだと認めるとき、
あなたは如何なるものの主人公にもなることが出来るのである。

他(た)の人の心が想像した価値に同意し、その奴隷となるよりも、
心の焦点を一転して、自らが主人公となるべき道を学ぶべきである。

            <感謝合掌 平成29年6月1日 頓首再拝>
25:伝統 :

2017/06/20 (Tue) 04:30:03


         *「『ありがとう』で運は開ける」中井俊巳・著(P200~201)より

あなたの人生では、当然あなたが主人公です。

あのカッコイイAくんも、美人のBさんも、
あのスポーツ万能のCくんも、頭のいいDさんも、
あなたの人生ではみんなちょい役か、脇役です。

主役のあなたは
いろいろな個性あふれる脇役のおかげで、
泣いたり笑ったり、ドキドキしたりワクワクしたり、
あなただけの物語を過ごしてきました。

さあ、これからも、
あなたが主役の物語を作っていきましょう。

            <感謝合掌 平成29年6月20日 頓首再拝>
26:伝統 :

2017/07/06 (Thu) 04:44:47

         *「真理」第9巻生活篇(P313~314)より

「わが全存在を神にゆだねる」これがあなたの全存在の革命です。

今まで物質的な欲望をもった肉体的なニセモノがあなたの全存在を占領していたのが、
神にまで無条件降伏して、その全存在を「肉体的ならざるもの」「神なるもの」
「真(しん)に無我の愛なるもの」に明け渡すのです。

「神よ、わが城に入り給え」 と無条件に 「わが存在」 という城を明け渡すのです。
その時あなたの肉体の外観は元のままであるかも知れないけれども、
その肉体の中に生きている主人公が一変(いっぺん)したのです。

今迄の主人公は肉体に属する色々の因襲や、業因や、習慣を背負っていた欲望である
けれども、過去の主人公が降伏してそれを明け渡したとき、
もう肉体と云う城に住む主人公は 「神」 御自身となったのです。

その人は新たに生れ更(かわ)ったのです。

さればあなたは

神そのままに 完全に世界を観、
神そのままに完全なる人間を観、
神そのままに 完全なる悦びを感じ、

神そのままに 立所(たちどころ)に病いを消し、
神そのままに 罪人を清浄(しょうじょう)ならしめ、

その行くところに、平和と豊かさとを来らしめ、
神がなし得る凡(あら)ゆる神聖にして
偉大なる御業(みわざ)を成すことを得るのです。

              <感謝合掌 平成29年7月6日 頓首再拝>
27:伝統 :

2017/07/20 (Thu) 03:34:34


         *『 生長の家 』(昭和44年12月1日の法語)より

   正しい信仰というものは、釈尊が尼蓮禅(にれんぜん)河畔(かはん)で
   迷いを去って悟りをひらかれた時のように
   「 天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」
   と知ることであり、

   キリストがヨルダンの河畔でサタンの誘惑を退けて自己の神性を知り、
   「 われ神の子 」 と宣告されたように、

   あなたも亦(また)、「 われ神の子、天上天下唯我独尊 」 と悟ることなのである。

   この「 天上天下唯我独尊 」 の自覚は、
   決して、利己主義でも個人主義でもないのである。

   自己( 自個 )の内に“ 独尊 ”の絶対価値をみとめるとき、
   はじめて“ 他個 ”の中にもある“ 独尊 ”の絶対価値を見ることが
   出来るのである。

   自己の内に絶対価値を見出し得ないような者が、
   どうして“ 他個 ”のうちに絶対価値をみとめて、
   それを礼拝することができるのであろうか。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/d/20140309

              <感謝合掌 平成29年7月20日 頓首再拝>
28:伝統 :

2017/08/14 (Mon) 04:09:23


          *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年08月11日)」より

   (マーク・レクラウ氏の心に響く言葉より…)

   あなたの人生の責任を負っているのは、ほかならぬあなた自身だ。
   上司、配偶者、親、友人、知人、顧客、景気、天気ではない。

   自分の人生で起こることについて他人を責めるのをやめると、すべてが変わる。

   自分の人生に責任を持つということは、
   人生の主導権を握って「主役」になるということだ。

   あなたは「被害者」になるのではなく、主役として境遇を自らつくり出すか、
   少なくとも自分が状況にどのように対処するかを決定する力を得ることができる。


   重要なのは、人生で何が起こるかではなく、自分がどんな心の姿勢を持つかだ。

   心の姿勢は自分で選ぶことができる。

   もし自分の状況を他人のせいにするなら、
   自分の人生を好転させるためには、他人を変えなければならないという理屈になる。

   だが、他人を変えることはまず不可能である。


   一方、もしあなたが主役なら、
   自分の人生の中で好きではないことを変える力を持っている。

   あなたは自分の思考、感情、行動をコントロールすることができる。

   もし結果が気に入らないなら、自分の思考、感情、行動を変えればいいのだ。


   責任に対する考え方→他人や環境のせいにする(被害者)→自分が責任を持つ(主役)

   現状に対する姿勢→言い訳をして正当化する(被害者)→たえず改善に努める(主役)

   変化に対する姿勢→何も変えようとしない(被害者)→率先して変化を起こす(主役)

   焦点をあてる対象→問題に焦点をあてる(被害者)→解決策に焦点をあてる(主役)

   運に対する考え方→幸運に恵まれるように祈る(被害者)→自分で幸運をつくり出す(主役)


   被害者は人生でうまくいかないことをすべて他人や環境のせいにする。
   しかし、そんな姿勢ではいつまでたっても問題を解決することができない。

   たとえば、交通事情のせいで遅刻しがちだと思い込むと、
   あなたはいつまでも遅刻しがちになる。

   これは被害者の行動パターンだ。


   しかし、主役になって人生の主導権を握りたいなら、早めに家を出ればいい。
   そうすれば、問題はすんなり解決する。


   被害者意識を持っている人は、
   自分の人生の責任を他人になすりつけて自分を正当化する。

   一方、主役はつねに自分の人生に責任を持ち、過去の経験から学び、
   たえず改善に努め、理想を追求する。

   大切なのは、あなたがどちらを選ぶかということだ。

         <『習慣を変えれば人生が変わる』ディスカヴァー>

              ・・・

「人生の悲喜こもごもさまざまな出来事は、実はすべて必要で必然です」(船井幸雄)

人生に起こるすべてのことが、必要で必然である、
と深く思ったとき、自分の人生の主役となれる。

しかし、人生に起こるすべてのことが、
理不尽で、納得いかない、と思ったとき、被害者となる。


よく、人生は「舞台」だと言われる。

自分が脚本を書き、なおかつ、自分が主役となってそれを演じる。

自分で脚本を書いているのだから、筋書きに文句は言えない。

つまり、人生を、不平不満やグチ・泣き言の多い「悲劇」にするのか、
楽しくて、幸せいっぱいで、大笑いの「喜劇」にするのかは自分が決めている。


結局、何でも他人のせいにする人は、自分が変わろうとしない人。

自分を正当化しようとするから、他人のせいにする。


たった一度しかない人生・・・

被害者ではなく、主役として精一杯楽しみたい。

              <感謝合掌 平成29年8月14日 頓首再拝>
29:伝統 :

2017/09/03 (Sun) 04:35:35


《天地の万物一切に絶対価値を見出すこと》

         *『 生長の家 』(昭和44年12月2日の法語)より

   「 天上天下唯我独尊 」 の自覚は、
   「 有情(うじょう)・非情(ひじょう)同時成道(どうじじょうどう)」
   の悟りに連るのである。


   自分だけが“ 独尊 ”であって、他のものは悉く
   自分より下等なものであるというような

   “ 自己 ”中心的な“ 他個 ” 軽蔑的なものの考え方は
   凡そ悟りから遠いものなのである。


   “ 有情 ” 即ち “ 情(こころ)あるもの ” も
   “ 非情 ” 即ち “ 情(こころ)なきもの ”( 無機物 )
   に至るまでも悉く、

   同時に“ 道 ” の現成であるということが
   「 有情・非情同時成道 」 である。


   ” 道( コトバ ) ” は天地に満つる “ 法 ” であり、
   「 太始( はじめ )に道( コトバ )あり 」( ヨハネ伝 )の
   ” 道( コトバ )”であり、“ 仏性 ”であり、
   ” 法身の如来 ”であり、天地の理法であり、“ 神 ”である。


   かくして、有情・非情を“ 法身の如来 ” が
   そこに姿を顕わされたものであるとして見るとき、

   天上天下唯我独尊の自覚は、
   何処にも傲慢(ごうまん)のかげもなく、

   その独尊の絶対価値を
   天地の万物一切に見出して拝むことができるのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/76456cb2933201398ca8056aec3cb528

              <感謝合掌 平成29年9月3日 頓首再拝>
30:伝統 :

2017/09/16 (Sat) 04:44:29


        *『 生長の家 』(昭和26年1月18日の法語)より

   現象の外観にまどわされ 内部の心を支配されてはならない。
   それは 外観の奴隷であって、自分自身の主人公ではないのである。

   内界が 外界を支配し得るようにならなければ
   自分自身が自分の主人公だと云うことは出来ないのである。

   内界の理念に 「 光明 」 を描いて 外界を照しだせば、
   外界を 「 光明 」 に変化することが可能なのである。

   すべて順潮に伸びて行く人は、
   内界の力をもって 外界を押し進めて往(い)った人である。

   ただ無機物のみが 外界の物質的な力に押されて 屈服するのである。

   生命は 幾多の自然界の無機物的力、無数の天変地変にも負けずに
   此処まで進化を遂げて来たのである。

   汝 「 生命 」 ならば これを支配せよ。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=51

              <感謝合掌 平成29年9月16日 頓首再拝>
31:伝統 :

2017/10/06 (Fri) 03:24:55


    *「光明道中記(その身まったし)」(自己解放の日10月6日)より

【貧乏や不幸がなくとも霊魂が進化し得るような状態になれば貧乏や不幸はなくなる。
                            (『生命の實相』第九巻)】

幸福は偶然に来るのであり、不幸も偶然に来るのである。
神を信ずればとて幸福が来る人もあれば不幸が来る人もある ―― 斯う云う偶然論者も、
彼が経験する生活範囲に於いてはまことにその偶然論者の言う通りである筈である。

何故なら、その人の住む人生はその人の人生観の展開であるからである。
彼の運命が一見「偶然」と見られるものに翻弄され、惨めにも人生に敗退するのは、
それは彼のみずから招くところではあるけれども、彼は神が与えた「神の子」の権利を
抛棄したものだと言わなければならないのである。

神が彼に与えた権利とは何であるか。
それは「人間の絶対自由」と云うことである。
「人間は運命の主人公である」と云うことである。

運命に翻弄されるものは運命の奴隷であって主人公だと云うことは出来ない。
神は人間に運命の主人公たることの権を与えたまうたのである。

与えられた権を抛棄するものは、神に背く者である。
神に背くことは、自己を晦(くらま)すことである。

吾々は神に背くとき、自己を晦すとき不幸に堕ちるのは当然である。

           <感謝合掌 平成29年10月6日 頓首再拝>
32:伝統 :

2017/10/15 (Sun) 03:14:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<十月「円満具足」>(P100)より

自己のみが自己を縛るのであって、
他物(たぶつ)や外物(がいぶつ)は自己を縛ることができないのである。

自分の想念が癒されるまでは、人間は永続的な健康を得(う)ることはできない。
むろん一時的な元気回復や、一時的な健康は、覚醒剤や興奮剤や刺激剤によって得られる。

しかし、それは結局不自然の刺激であるがゆえに、薬用の持続は暫次効果がうすれてくるし、
ついにはその反対効果をあらわしてきて、薬がなければ苦痛な状態となってしまうのである。

それはまったく、苦痛からの解放ではなくて、薬剤の奴隷状態となってしまうのである。
真に人間が苦痛から解放されるためには、人間は奴隷状態から脱して、
自己が自己の主人公とならなければならぬ。

           <感謝合掌 平成29年10月15日 頓首再拝>
33:伝統 :

2017/10/29 (Sun) 04:10:00


         *『光の泉』(昭和33年4月号)より 

   人間というものは、“オギァー”と産まれた時に、生じて来たものであると、
   こう思っている限りには、“死すべきところのもの”なのであります。 
   生じたものは滅しなければならないというのが、自然の法則であります。

   だから吾々が“死なない道”を発見しようと思ったならば
   “生れない道”というものを発見しなければならないわけであります。

   その “生れない道” を釈尊が発見されたのが 
   「生すでに尽きたり」 であります。 
   その時に 『天上天下唯我独尊』 と言われた。

   『天上天下唯我独尊』 というのは、
   わしが一番偉くなって他の奴は皆馬鹿だという意味ではないのであります。

   それは、総ての時間空間の、そういう束縛の世界から解放されて了って
   何物にも縛られない完全自由のものになったのだから、 

   『天上天下何物も私を縛るものがない、実に素晴らしき尊い存在が私である』 
   のであるということをお悟りになって、その境地を 『天上天下唯我独尊』 
   という語で表現なさったわけであります。

   その語を自分だけの 『独尊』 という意味にとるといけません。

   キリストでも 『自分は神の子の一人子』 と言って居りますけれども、
   一人という名辞がついているから、キリストだけが “神の子” で、
   他の人は皆「罪人」 だといわれているように思う人もあるかも
   知れませんけれども、そうじゃないのであります。

   釈尊が 『独尊』 と言われたその一人というのも矢張り決して 
   “わたしひとりだけが尊い” というのでは決してないのであります。

   『人間は神の子であって、総ての人間が尊い』 
   という自覚のお持ちになった上での、
   その『一人』は、結局生きとし生ける者を蔽い包んで居るところの 
   『全体者』 としての自覚ですから、釈尊の 『独尊』 ということも、

   キリストの 『神の一人子』 ということも、自分だけが一人尊い
   ということじゃないのであって、自分が一切のものである。 

   自分が悟れば一切が悟るというような自他包容の 『独尊』 の自覚であります。

   だから釈尊が悟りを開かれた時に、
   『山川草木国土悉皆成仏』 とこう仰せられたのであります。 
   山も川も草も木も、国土も、悉皆、悉くみな “成れる仏” である
   というのであります。

   『独尊』 といわれたのだから 『一人だけ尊い』 のかと思ったら、
   そうじゃないのであって、
   万物が皆 “成れる仏” であるという自覚があります。 
   これが本当の 『独尊』 の自覚であります。

     (http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19577838.html より転写)

              <感謝合掌 平成29年10月29日 頓首再拝>
34:伝統 :

2017/11/04 (Sat) 03:33:46


     *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月4日)より

なんじの愛の乏しきことを嘆け。
なんじの心の審判(さばき)の満ちたることを嘆け。
なんじの心に虚偽(いつわり)の満ちたることを嘆け。

真理がなんじの心のうちに未だ顕れざることを嘆け。
本物を蔽(おお)い隠す泥棒のみ主人顔をしてなんじのうちに幅を利かせていることを嘆け。
なんじの物質精神を嘆け。

「本当の汝」はいずこにいるぞ。

それでもなんじは「真理」を悟ったというか。
『生命の實相』を読んだというか。

いな、いな、いな、断じて。
真理はなんじの中(なか)にいないのである。
「《本当の汝》」は汝の中にいないのである。

「本当の汝」をなんじの中に呼び戻せ。
なんじは癒ゆるであろう。

         <感謝合掌 平成29年11月4日 頓首再拝>
35:伝統 :

2017/11/18 (Sat) 03:05:11

        *「感動3.0 自分らしさのつくり方」平野 秀典・著(P65~68)より

「自分の人生がもし、1本の映画か芝居になるとしたらどんな作品になるか」
というスタンスで考えてみましょう。

「他の誰も経験できないオリジナルな人生を生きているという事実」に
フォーカスしてみてください。

ある人は今、まだドラマの前半部分で、これからメインシーンが来て
盛り上がっていくストーリーなのかもしれません。

ある人は今、ヒーローになるために苦難を経験するシーンを歯を食いしばって
演じているのかもしれません。

ある人は今、ピンチの真っ只中にいて、未来が見えないシーンを
全力で演じているのかもしれません。

ある人は今、ピンチを乗り越え、ハッピーエンドシーンを
豊かに演じているのかもしれません。


それは、各自のストーリーの織りなす必然性の中で、
今のシーンがたまたまそうであるだけなのです。

どんな映画も演劇も、単独のシーンだけで構成される作品はありません。


人生というドラマをデザインする上で最も重要なことは、
今のシーンをハッピーエンドにつなげるか悲劇につなげるかを、
脚本家であり演出家である自分が選択できるということです。

自分は主演俳優であるだけと思っていると、
脚本は誰か他人が書いたものを受動的に演じなければなりません。

「できると思おうと、できなと思おうと、どちらも正しい」と言ったのは、
ヘンリー・フォードですが、素直で遇直な選択の力には
ほとんどの人は気づいていないのです。

気づいているのは、成功したり夢をかなえたりしている人たちだけです。

その人たちは、自ら脚本を選択し、自分自身がその脚本を主役として
演じている役者であることも理解しています。

さらに演出家としてもっと素晴らしいステージに進化させる努力もしています。


   映画や演劇の一つひとつのシーンの中にドラマの伏線があり、
   それぞれのシーンが最後につながり物語の全容がわかるように、

   あなたの人生もひとつのドラマとして必ず過去の点が1本の線に
   つながっていると考えるのです。


偶然の人生はありません。

人生は舞台。

すべてのシーンはつながっています。
(今はわからなくても)

         <感謝合掌 平成29年11月18日 頓首再拝>
36:伝統 :

2017/12/06 (Wed) 04:30:47


      *「生命の實相」第三十八巻幸福篇下(12月6日)より

自分が自分の環境の中心者とならなければならない。

周囲によって自分が攪乱(こうらん)せられるようなことではならぬ。
周囲が悪いから自分が苦しいなどと言うな。
かくのごとく言う人は、何たる卑怯な奴隷根性なんだろう。

周囲というがごとき自分から独立せるものはない。
自分の周囲に関するかぎりは、自分が存在の中心者なのである。
まずなんじが自身の自覚を屈従せしめて、周囲がなんじを屈従せしめるのである。

奴隷となるな、屈従するな、
ただし、これは剛性(ごうじょう)になれということではない。

素直に周囲の事情を感受するすることは、周囲を支配する王者となる道である。
噛みしめればどんなものにも味が出る。
周囲に攪乱せしめられるとは、落ちつきを失って、
周囲の味を噛みしめ味わいえないことである。

            <感謝合掌 平成29年12月6日 頓首再拝>
37:伝統 :

2017/12/24 (Sun) 03:27:29


          *『 生長の家 』(昭和40年3月18日の法語)より

   人間が、自己を単なる肉体的存在とみとめ、
   肉体の意識によって生活している限りに於いて、

   彼が健康であったり、病弱であったり、
   運が好かったり、運が悪かったりするのは、

   それは偶然のめぐり合わせであって、
   彼自身に責任がないかのように見えるのである。

   しかしながら、現象世界が、実は、「 生活する人 」 自身の
   “ 心の状態の顕われ ” であることを知るとき、

   その人は自分の心を支配することを通して、
   病気をはじめとして人生の諸問題を自己の欲する方向に
   変化する事ができるのである。

   毎日々々の吾々自身の起す想念が、
   将来起る吾々自身の運命の原型を
   形成しつつあるのである。

   私たちは 「 想念 」 の種子(たね)を蒔いて、
   それが現象としてあらわれたのを
   自己の運命として獲(と)りつつあるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=121

         <感謝合掌 平成29年12月24日 頓首再拝>
38:伝統 :

2018/01/09 (Tue) 03:16:21


    *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P282~283)より

『人生は心で支配せよ』と云う私の本があるが、
“自分の肉体は自分の心で支配せよ”である。

何故なら、肉体は物質であり、物質はみずからの力にて
その位置や構造を変化することができず、その構造する細胞を健全な姿に置き並べ、
その病的構造を健全な構造に組みかえるのは“心”のハタラキであるからである。
 

その“心”が物質たる肉体に対する“支配者”たることを自覚せず、
その “支配者”たる権利を抛棄(ほうき)して、
肉体の病気の物質的原因なるものの前に萎縮して、
「こう云う“物質的原因”があるから、このような病気になる」などと、

“物質的原因”を主人公とみとめて、
其の前に拝跪(はいき)するようなことになったならば、

“心”の委縮と恐怖とが、その病的観念を肉体細胞に具象化して、
ついに本当に病気を構成し、また新たに病気を造ることになるのである。

併しこの場合も、結局は“心”が主人公であって、
その病的観念を肉体に反映したにすぎないのである。

         <感謝合掌 平成30年1月9日 頓首再拝>
39:伝統 :

2018/01/26 (Fri) 03:37:03


      *『 ワンネスを生きる 』アモラ・クァン・イン著 より

主体性とは、あなた自身があなたの主(あるじ)でありマスターであるという意味です。
あなたの上には誰もいません。あなたに答えをくれるのはあなただけなのです。

あなたにはグルも、何をすべきかを教えてくれる人も必要ではありません。
あなたの内部にすべてがあるからです。
どんな人生を選ぶとしても、それはあなたの選択なのです。

今というこの地球の特別な時期において、私たちは完全な覚醒への道を歩んでいます。
ですが誰かに依存していては、そこに到達することはできません。

たとえばあなたが天国の門の前に立っているとしましょう。
なぜ入りたいのかと問われて、もし「私は誰それを信じており、
その教えを学び終えたので入れてください」と応えたとしたら、
おそらくあなたは「帰りなさい」と言われるでしょう。

多くの人が、この種の共依存的な関係を何らかの人と結んでいます。
の相手はパートナーかもしれず、宗教やグルや霊的な指導者、本の著者、
あるいは親しい友人かもしれません。

そして自分自身の内なる叡智を信頼できずに、自己不信と責任放棄のなかで生きています。
いつも、人に言われたことや勧められたことをし、他に従順であろうと一生懸命なので、
自分への信頼を育てることができません。

それでいったい、どうやって覚醒し、自分自身のマスターになることができるのでしょうか。
マスターとは、あなた自身が自分の主人になるということであり、
あなたの他に頼る人はいないのです。

マスターは24時間常に、主体的でいなければならないのです。

あなたにはグルも、何をすべきか教えてくれる人も必要ではありません。
自分の主権を誰かに預けて生きるのも、それもあなたの選択です。
ですがそれは決して、よい選択とは言えません。

なぜなら私たちはあらゆる面で、
自らのマスターとしての主体性を身につけるためにこの地上に来ているからです。

あなたに必要な答えはすべて、あなた自身の中にあります。
そうです、すべてです。

もちろん、霊的な指導者やヒーラーや本の中から学ぶことはたくさんあるでしょうし、
パートナーや友人からも学ぶものがあるでしょう。

ですが、それを信じるかどうかはあなたの選択であり、その結果、
自分の力を誰かに譲り渡してしまうこともあなた次第なのです。

ここで言っている力とは、あなた自身と内なる導きを信じる
というあなたの内的な力のことです。

もしあなたが自分を決して信頼せず、内なる導きに決して従わないとすれば、
それもあなたが自分で選択していることです。

どのような選択をしようとも、
あなたが自分の運命の主人であることに代わりはありません。

誰かに寄りかかって生きようと、
あなたの人生を支配したり選んだりできる人はいません。
それができるのはあなただけなのです。


現実とは何とよくできているのでしょうか。
そのように気づいていようといまいと、
いつだってあなたは自分の運命の主人なのです。

あなたが自分の真実を言わないなら、言わないことをあなたは選んでいます。
たとえば誰かがあなたを脅し、怖がらせたとしても、
そのような現実が自分に起きることをあなたは許容したのです。

重要なのは他の人が何をしたかではなく、
自分の人生がそれに支配されることを許すかどうかなのです。

それが誰かに選択をゆだねた結果であろうと、
そうなることをあなたが許したのです。

もしあなたが霊的な自らのマスターの道を歩もうと思うなら、
自分自身に新たな誓いを立てましょう。

それは意識的に、あなたの人生と運命の主人として生きることです。
あなたはこれまで、その主体性をその時の気分次第で使ってきたかもしれません。

ですがここでちょっと立ち止まり、自分自身について、
そして人生の選択について見直してみてはどうでしょうか。

たとえばこのように自分にたずねます。

毎日をただ漫然と、決められた通りに過ごしてはいないだろうか。
生命の呼びかけに、自分の全存在と信頼をもって応えているだろうか。
それともただ自動的に周囲の要求に応じているだけだろうか。

自分がすることを意識的に選んでいるか。

あるいはただのロボットのように生きているのか。
自分自身として存在し、人生で起きてくることを意識的に見つめているだろうか。
それとも、ただ周囲に適応しているに過ぎないのだろうか?

多くの人が子どもの頃に、「みんなと同じでなければいけない。
思っていても本当の自分を出してはいけない」という契約(約束)を自分自身と、
そして親と結びました。あなたもそうでしょうか? 

もしそうなら、それらの契約を解消して新しい誓いを立てましょう。
まずは自分が今生きている現実と、自分の選択を問い直すことから始めてください。

定期的に瞑想を続けるにつれて、誰と一緒にいても、あるいはどのような環境にあっても、
少しずつあなた自身として存在できるようになっていきます。

そしてあなた自身でいればいるほど、あなたの内なる導きも感じやすくなってきます。

ガイドや守護霊、ハイアーセルフは、
あなたの代わりに何かをするためにいるのではありません。

彼らは常にあなたが主体となり、
意識的に自分のマスターになる道を歩めるように助けています。

あなたの代わりにそれをしてしまえば、
あなたは何も学べないことを彼らはよく知っています。

彼ら光の存在たちは、しばしばあなたに問いかけてくるでしょう。
彼らはあなたが自分で考え、自分なりの考え方を身につけられるよう導いてくれます。

あなたが物事の是非をよく吟味し、何が絶対的な善でもっとも望ましいことなのかを、
自分で選び取れるようにと願っています。

そのために大切なのは、たとえどのような理由があっても自分をごまかさず、
つねに自分の真実を口にするということです。

他者の意見に同感ならそう言いましょう。
異論があるときも、やはり言いましょう。

もしあなたがぞんざいに扱われていると感じたら、
感じていることを相手に知らせて、なぜそうするのか理由をたずねてみましょう。

もしそれで相手が激怒したら、それは仕方ありません。
なぜなら相手の反応はあなたの責任ではないからです。
あなたの責任は、あなたの真実を話すことです。

   
以前、こんなことがありました。
   
ある女性の家を訪ねたとき、その女性はひどく憤慨しており、
同居人のことを悪しざまにけなし始めたのです。
私は彼女をさえぎり、そんな会話は続けたくないと言いました。

私は自分の人生では、もう他人の批判的な決め付けはしないことを誓っていたからです。

そうした批判的な意識が、どれほど人を損なっているかに気づいたことを私が話すと、
彼女は私を睨みつけ、「でも私にはそう感じるだけの正当な理由がある」と言いました。

私は、「もしあなたが感じることを正直に分かち合いたいのなら、
私は喜んで聞き役になる。でも誰かをクソみそのように言うのは聞きたくない」
と言いました。

その瞬間、彼女はこれからもその態度は変える気がないことがはっきりわかりました。

たとえ他の人と違っていても自分の選択を伝え、なぜそうなのかを話せばいいのです。
もし相手が私の話を聞きたくなければ、私は自分の真実を伝えてそこから離れます。

ですがそのためには、”ものごとを個人的に取らない”という
内なる場所に立っている必要があります。

世界中の人々がそれぞれのペースで学び、成長しています。
あなたはある分野では人より抜きん出て前を歩いているかもしれませんが、
ほかの分野ではずっと後ろを歩いているかもしれません。

そのように見るならば、人がすることには何ひとつ個人的なものはない
という真実がわかってきます。

人はみなそれぞれが、成長と進化において、自分が今いるところを表現しているのです。

ですから未だに、他人の批判や不誠実などその他の好ましくない体験を学んでいる人は、
近くにいる誰にでもそれをぶつけようとするでしょう。

そこにあなたが巻き込まれる必要はありません。
たとえあなたがその人と向き合っていようとも、
あなた自身が相手から蔑(さげす)まれたように感じるとしたら、それは違います。

その人は自分の学びと成長のために、今の状況を生きているだけなのです。
あなたがこのことを理解するとき、自然と愛と慈しみがわいてくるでしょう。

私たちは、自由意志という宇宙の法則を大切にし、尊重しなくてはなりません。
それは求めていない人に癒しを送ることはできず、
相手が学びたくないものを教えることはできないからです。

つまり、人に変化を強いることは自由意志の法則に反するのです。

この地球という学びの学校において、誰もが自分にふさわしい居るべきところにいます。
そしてそれは、すべての人にとって普遍的な権利だということを忘れないでください。

真に主体的であるとは、自分自身を頼りに、内なる叡智を深く誠実に信じることです。
あなたの内なる導きを信頼してください。

あなたがそうしたことにまだ気づいていないとしても、
それは常に手の届くところにあり、あなたはそれを聴くでしょう。

 (http://8729-13.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-4122.html より転写)

         <感謝合掌 平成30年1月26日 頓首再拝>
40:伝統 :

2018/02/11 (Sun) 04:53:20


     *『生活の智慧365章』(第4部繁栄の泉)第11篇(P283)より

“心”が自己の唯心所現的な全能力を忘れて
病気の物質的原因の前に恐怖し萎縮するときは、
“心”はその全能力を抛棄(ほうき)し、物質に対する支配権を抛棄して、
物質の権威の前に跪いたことになるのである。

本来“自主権”をもつ“心”が、その自主権と物質支配権とを抛棄した結果は、
“心”の本来性と矛盾し、“心”の本来性に対して不調和となる結果、
そこに其の反映として不調和な状態を肉体にあらわる結果となるのである。

よろしく、“心”の自主権と、物質に対する支配権とを恢復すべし。

         <感謝合掌 平成30年2月11日 頓首再拝>
41:伝統 :

2018/02/26 (Mon) 03:47:35


          *『 生長の家 』(昭和46年3月15日の法語)より

   新たに生まれるということは、
   肉体の習慣性や本能に左右せられることなくして、

   神からのアイディアを受信して、
   肉体の習慣や、物質の法則や、種族の本能などを利用しつつ、

   それを道具として、神の国にあるアイディアを
   現象世界の姿に構築することなのである。

   ここに注意すべきは、肉体の習慣性や本能を無視するのではなく、
   それに支配されることなく、それを道具として
   地上に天国を建設することなのである。

   煩悩をそのまま菩薩に転ずることなのである。

   欲望をすべて煩悩として排斥してしまったら、
   人間に行動の意欲がなくなってしまうから、
   それではいけないのである。

   煩悩は肉体に属する“ 機械の運転力 ”見たいなものである。

   その機械をどの方向に利用するかは、
   人間の魂の指揮権に属することである。
 

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12678404.html

         <感謝合掌 平成30年2月26日 頓首再拝>
42:伝統 :

2018/03/05 (Mon) 04:45:22


           *「光明法語」(3月5日)より

人間は環境に支配されると言うが、真の環境は自分自身の想念である。
人間は自己選択の自由に与えられているのであって、如何なる環境からでも、
自分の想念によって其の波長に合うものだけを吸収するのである。

縦には無限の遺伝の中から、自分の想念に合うものだけを表現するのである。
人間の遺伝を遡(さかのぼ)れば神に達するのであるから、吾らは中間の遺伝を無視して、
神に波長を合わせさえしたら、神の完全さが今此処に実現するのである。

神に波長を合わすのが神想観である。

         <感謝合掌 平成30年3月5日 頓首再拝>
43:伝統 :

2018/03/20 (Tue) 04:20:24


        *「希望を叶える365章」(P91~92)より

人間が霊的存在であり、肉体は霊の自己実現のための皮袋であり、衣装である。
衣装も自己実現のために必要であるから、その保存や維持や、その働きに対する
慰労のために、ある程度の快楽を与えることなども必要である。

併し、表現の道具たる肉体は、表現の主体たる霊に従属するものであらねばならない。
若し肉体の本能のみに人間の魂が従属してそれに奉仕するならば、
主体が道具に従属すると云う誤った結果を来(きた)すのである。


イセスがヨルダン河畔で四十日夜(や)断食して肉体を霊に従属せしめる修行を
していた際に、悪魔が現れて、「汝、神の子ならば、この石を変じてパンと為せ」
と誘惑したときに、イエスは「人はパンのみに生くるのみにて生くるに非ず、
神の口より出ずる理念(ことば)による」と断々乎として宣言した。

”神の子”としての理念を生きることが肉体の本能に生くるよりも大切だと
云うことを宣言されたのである。

         <感謝合掌 平成30年3月20日 頓首再拝>
44:伝統 :

2018/03/24 (Sat) 03:20:03


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(3月24日)」より

わたしの行くところに道がひらかれる。
わたしは道である。

わたしの行くところに花びらが撒かれる。
わたしは花びらである。

わたしの行くところに太陽が照り輝く、わたしは太陽である。

わたしの行くところに必ず宝庫が開かれる。
わたしは宝庫である。

この世の中が思うようにゆかないという人は、わたしと同じ心持になるがよい。
険(けわ)しきは平らかにせられ、難(かた)きは易しきに打ちかえられる。

            <感謝合掌 平成30年3月24日 頓首再拝>
45:伝統 :

2018/04/14 (Sat) 03:18:48


        *「希望を叶える365章」(P96~97)より

困難に直面したときに、
自分を”悲劇の主人公”に仕立てて自己憐愍(れんみん)してはならない。

自己憐愍して”悲劇の主人公”だと思えば思うほど、
自分自身を”悲劇の主人公”に仕立てて自分を悲劇に突き落とすことになる。

自己憐愍して自分を”悲劇の主人公”だと思い込むのは、
”そのような運命に自分は定められていたのだ”と判断して、
自分の努力の少なさや、智慧を働かさなかったことに治して、
自己の責任を回避しようとしている心理である。


どんな困難が起って来ても、それを悲劇だと思ってはならないし、
自分を”悲劇の主人公”に仕立ててはならないのである。

そういう”悲劇の主人公”に仕立てる下心(したごころ)があると、
自分の潜在意識が自己に益々悲劇を引き寄せることになるのである。

「自分は”幸福の主人公”であって、今、困難があっても、
やがて幸福な大団円が来るのだ」 と信ずるが好いのである。

            <感謝合掌 平成30年4月14日 頓首再拝>

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