伝統板・第二

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心の法則 - 夕刻版

2016/05/01 (Sun) 19:29:22

          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月1日)」より

お山のつつじが真盛りである。
万物がわたしのために讃歌を歌っている。

讃歌の世界、花びらの降りそそぐ世界、この世界がそんな美しい世界だと知ったとき
わたしはこのお山へ招かれて来たのである。

「三界は唯心の所現である。」釈迦のこの哲学が真実であるならば、
心の法則を知ることは三界を自由に動かし、
運命を自由に支配することとならざるをえないのである。

「なんじの信ずるがごとくになんじにまでなれ」キリストのこの信仰が真実であるならば、
信念の法則を知ることは環境を自由に支配し、肉体を思うまま健康にし、心に思うまま
法悦と歓喜と平和を満たすところの唯一の鍵であるといわなければならない。

心の法則なるかな。信念の法則なるかな。

せっかく、光明真理に触れたのであるから、もう一度この問題を復習してみることは、
これからの自分の生活を確固とした基礎の上に置くことになるのである。

・・・

<関連スレッド:「法則としての《神》」
        → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6532750 >

            <感謝合掌 平成28年5月1日 頓首再拝>

唯心所現~心が万事の本(もと) - 伝統

2016/05/02 (Mon) 18:32:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月2日)」より

「『生命の實相』を読みましたけれども良人の病気が治りませぬ。
誌友になりましたけれども良人の病気が治りませぬ・・・
いろいろの不幸が重なって出て来ようとしております。

私は今まで願ったことは一つも叶えていただけませんでしたけれども、
これだけはぜひ一つだけでも叶えていただきたいと思うのでございます。
それは良人を今の位置から転任させていただきたいことです。・・・」

これが今日来たある夫人の手紙です。

こういう人は『生命の實相』のどこを読んだのであろう。
「すでにすべてが叶えられているのが生命の実相(ほんとのすがた)である」
というのがわれわれの教えである。

地上の世界が曇っているとも見え、雨が降っているとも見えるにしても、
太陽の本当の相(すがた)は曇っていないのである。

それと同じくこの世が不如意に見えようともわれわれの実相(ほんとのすがた)は
すでに叶えられているのである。この真実(ほんとう)の相を見れば心に歓喜が湧く。
心に歓喜が湧けば、その心の歓びが形にあらわれて幸福な運命となる。

この夫人は不平ばかりを「心」に思っているから、「三界は唯心の所現」という法則により、
不平に思えることばかりが現れて来るのである。

不平に思うからこそ「不平に思える事柄」が出て来ているのである。
自分で自分に「不平」を製造しながら、神を恨んでいるようなことでは、
幸福は来るものではない。

「汝の信ずるごとく汝にまでなれ」である。

不平を心に思わねば、「不平に思える事柄は出て来ないのだ」と言えば、
「不平に思うべき事柄が無くなれば不平に思わずにいられますけれども、
こんなおもしろくない事件ばかり起こるのに不平に思わずにおれるものではありません」と
普通の人は言う。

そして毎日不平に思って、次の日にその思った「心の不平」が形にあらわれて
「不平な事件」が突発する、そして、ますます不平に思う ―― こうして、
そういう人には不平と不幸とが循環輪廻して尽くるところがないのである。

これは心の法則を知らぬからである。

今眼の前に起こっている形の不幸を、実際あると思っているから、
歓ぼうと思っても歓べはしないし、不平が尽くることがない。

不平は「不幸」の機関車を運転する石炭のようなものである。
不平の罐(かま)を焚いていながら、「不幸の機関車よ、運転するな」ということは
できないのである。

「それではどうしたら不平に思わずにいられましょうか。」
「今眼の前にあることは、過去に自分が思った念(おもい)が形にあらわれて消えてゆくのだ、
ありがたい」と思えばよいのである。

そして、「今眼の前にどう現われていようとも、それは唯心の所現であって
本当に《ある》のではない。本当には今自分が、自分の良人は、自分の子供はすでに健康であり、
幸福であるのだ・・・ああ、ありがたい!」と感謝する心になることである。

心が万事の本(もと)である。

            <感謝合掌 平成28年5月2日 頓首再拝>

「第一創造の世界」と「第二創造の世界」 - 伝統

2016/05/06 (Fri) 17:21:41


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月6日)」より

眼に見える世界は、われわれの心で造った第二創造の世界である。
その奥に神の心で造った第一創造の世界がある。

第一創造の世界は神の創造であるから曇ることはないが、
第二創造の世界はみずからの心に従って曇ることがある。

曇っても不平を言うまい。
自分の心が曇ったのだから。

第一創造の世界は大宇宙であり、第二創造の世界は小宇宙である。
神が大宇宙を造ったように、われわれはわれわれの心で
われわれの周囲に小宇宙を造るのである。

思考が《もの》に化(な)る。
念(こころ)が《もの》に化(な)る。

            <感謝合掌 平成28年5月6日 頓首再拝>

心の法則に従う - 伝統

2016/05/08 (Sun) 19:15:13


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月8日)」より

心で《もの》を造るのは心の法則に従うほかはない。

病気を治そうと思えば、治るような心になるほかはない。

人に頼んでも、金を払っても、そんなことでどうにもなるわけではない。

            <感謝合掌 平成28年5月8日 頓首再拝>

想念(こころ)を大きく持つ - 伝統

2016/05/11 (Wed) 20:01:42


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月11日)」より

第一創造の世界=第二創造の世界。
この2つの世界を繋いでいる=(パイプ)は想念(こころ)である。

想念(こころ)は大きくなければ、第二創造の現象世界に完全な状態はあらわれない。
想念(こころ)は=(パイプ)であるから、想念(こころ)で力んでみてもなんにもならない。

凝念(ぎょうねん)は生長の家の神想観ではない。
=(パイプ)を大きく持つのが神想観である。

小さなことに興奮しているようなことでは功徳はないのである。

人相ではこの=(パイプ)は眉間にあらわれる。
眉間に剣(ケン)があったり、八の字が寄っていたり、
凹(へこ)んでいるようなことではいかぬ。

            <感謝合掌 平成28年5月11日 頓首再拝>

《心はレンズである、向ける方向のものを映し出す》 - 伝統

2016/05/15 (Sun) 19:08:55


           *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P291)より

   あなたの現象不満足は、
   神があなたに欲する事物を与えないからなのではないのです。

   神は既に、あなたにとって最も適当な唯一の「位置」を
   与えておられるのです。
   現象不満足に就いて神に責任を負わせてはなりません。

   神は既に必要なものを「実相」に於いては与えておられるのです。
   併し現象界は、現象顕現の法則に支配されているのです。
   即ち現象界はあなたの「心の影」だと云うことです。

   それは神罰でもなければ、神の側の「経費節減」で、
   あなたを貧しくしているのでもないのです。
   あなたの心がどちらを向くかと云うことなのです。

   現実の欠乏を見て、「欠乏」の光景ばかりに
   「心のレンズ」を向けていますと、現象界に映ってくる光景は
   唯「欠乏」ばかりになって来ます。

   私たちは実相の「完全な供給」の方に
   「心のレンズ」を向けるようにしておれば、
   現象界に映ってくる姿は「完全な供給」のみとなって来るのです。

            <感謝合掌 平成28年5月15日 頓首再拝> 

《心は「実相」と「現象」とをつなぐパイプである》 - 伝統

2016/05/20 (Fri) 19:03:18


        *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P292)より

   また心は一種の「パイプ」に喩えることが出来ます。
   そのパイプの一端は「実相」(無限供給の世界)につながっているのです。
   パイプのもう一方の端は「現象世界」につながっているのです。

   そして「供給」は、常に豊かなる「実相」から
   現象世界に流れ下っているのです。

   そしてそのパイプに其の流れが妨げるようなものが何一つなかったならば、
   豊かなる供給は常に現象世界に流れ出て来るのです。

   ところがパイプ中に何かがつまります。
   悲しみが詰り、憤(いかり)が詰り、不平が詰り、
   憎みが詰り、欠乏が詰る。

   すると、それが流入パイプをふさぐ邪魔物になって、
   実相世界の無限の供給を妨げるものとなるのです。

   私たちが若し、この神の無限供給 ―― 智慧の供給、愛の供給、
   生命(せいめい)の供給、富の供給、歓喜の供給、調和の供給を
   邪魔しさえしなければ、無限に楽しい極楽浄土が
   此の儘地上に実現するのです。

            <感謝合掌 平成28年5月20日 頓首再拝>

《繁栄への道》 - 伝統

2016/05/24 (Tue) 17:41:18

 
         *『 生長の家 』(昭和26年7月12日の法語)より

   繁昌(はんじょう)は 一日にして来らず、
   それが単なる偶然の好運であるかに見えても、

   必ず過去に蓄積されている 善き想念、善き言葉、
   善き行為、善き感情 が現実化して生ずるのである。

   すべての 想念、感情、言葉、行為 の結果は
   実現しないではいないのである。

   それは 原因結果の法則 である。


   原因結果の法則には、
   物理化学的な法則 と、心の法則 とがあるのである。

   大抵(たいてい)の人は物理化学的法則 のみを知っていて、
   心の法則 を知らないのである。

   繁栄せんと欲する者は、顧客に対して よき想念、善き感情、深切な注意、
   行き届いたサービスの精神 を揮(ふる)い起さなければならないのである。

            <感謝合掌 平成28年5月24日 頓首再拝>

想念の法則(因果の法則)によって、健康も幸福も築いている - 伝統

2016/05/31 (Tue) 18:06:49


          *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月31日)」より

心の法則にせよ、物質の法則にせよ、いずれも反対の方向に働くことができるのである。

同一の力が自動車を前方にも後方にも動かす。
磁気の陽極は惹き、陰極は反撥する。

ある種の想念と感情は建設的創造的であって、友そのほか助けとなる力を呼ぶ。
これとは全然反対の効果を生ずる想念および感情もある。

それは誤解と争いと悪意とを創る。
この種の想念感情を消極的であると言うのである。
破壊的沈滞的で個人の進歩を妨げるからである。

実際失敗する人は、好ましくない状態を作り出す方向に心の法則を働かしているのである。

次に述べる箴言はメンタル・サイエンスの箴言であって
算術の法則と同じに信頼のできる基本的な法則であり、
さっそくあなた自身にも適用されるものなのである。

すなわち「今日貴下(きか)の生活の中にある好ましくないもの、
貴下の健康・幸福・成功を妨ぐるものは、その好ましいものと同様に、あなた自身が心の法則に
働かしめてみずからそれをもたらしたからそこに存るのだ」ということである。

些細な事件、不慮の出来事、損失または利得、結婚したり離婚したり、
その他人生に起こるすべてのことの背後にはある見えざる力があり、
その見えざる力が具象化しつつあるのである。

その見えざる力は実は自分自身が起こした想念の力なのである。

諸君は想念の法則によって動いている宇宙に住んでいて、そこで想念の法則が、
あたかも物理的法則が星の運行を支配するがごとく、
諸君の運命の運行を支配しているのである。

「想念の法則」とは「因果の法則」ともいい、
現在意識すなわち自覚ある心の思想、感情、希望に常に応えてくれる宇宙普遍の心、
阿頼耶識の働きを言うのである。

これは神の働きまたは「真如縁起」ではない。
阿頼耶識の働きである。
次に主観心の説明を試みる。


阿頼耶識は心理学上の潜在意識にほぼ一致するものであるが、もっと広義に用いられる。

夢の状態で活動する心、習慣の背後にある心、タイピストや音楽家の指に
眼があるかのごとく働くその指を通して働く心である。

それはわれらの生命(せいめい)の内部にあって
われわれの身体を母胎にいる間から創造した心である。
そして今もその心は再創造を続けているのである。

阿頼耶識が浄化されてアンマラ識となるとき真如実相の智慧に近づくのである。
それが真如実相の智慧に近づくにしたがい、肉体を創造する力は完全となるのである。

われらの肉体細胞は日々死んでいるのであって、新しい細胞と組織とを創造し、
生活過程で消耗したものと取り換えつつあるのであって、
その再創造が、浄化された阿頼耶識によって導かれるとき、
肉体の再創造は完全となり、健康なる肉体が創造せられる。

これに反して阿頼耶識が浄化されないとき肉体の再創造は不完全となり病気となるのである。

            <感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝>

汝の内にある天国をあらわすには - 伝統

2016/06/01 (Wed) 20:43:25


           *『光明法語』(6月1日)より

吾々は神から永遠の幸福を約束されているのである。

「諸々の堂閣種々の宝もて荘厳せり、宝樹華果多くして衆生の遊楽する処なり」
と云う『法華経』の文句は決して空文ではなく、
既にかかる世界が今、実に此処にあるのである。

それは既に放送局の放送があるのと同じように、
既に肉眼では見えないが波長を合わしさえしたならば
現実に五官に触れるような形にあらわれて来るように今此処に既にあるのである。


現実の不完全な相(すがた)に心を捉えられていては
不調和なものに波長を合わすから不調和なものばかりが現れて来るのである。

        <感謝合掌 平成28年6月1日 頓首再拝>

人間は放送局であると同時に受信セットである - 伝統

2016/06/02 (Thu) 18:36:13


          *『光明法語』(6月2日)より

一人一人の人間は各々放送局であると同時に受信セットであるとも言い得る。
各々の放送局である個人は、或は悲しみの念波を放送し、或は怒りの念波を、
或は憂いの念波を放送している。

二十二億の『人間放送局』から別々に放送されるこれらの想念・感情の波は、
類似の波長を起こす受信機(人間)の所に群り集まって想念の集団をなして具象化するのである。

だから自分が起こした悲しみの波のみが自分の身辺に具象化するだけではなく、
悲しみの念波を起こせば自分以外の悲しみの波も集まって来て具象化する。

        <感謝合掌 平成28年6月2日 頓首再拝>

《人間の自由は、心の法則を知り駆使することからなる》 - 伝統

2016/06/07 (Tue) 18:02:59


<人間が自由になる道>

        *「善き人生の創造」<第三章 幸福の門を開くには、P57~59)

人間が生命の實相を悟ろうとして求めるのは、
それによって自分の生命の円満完全さを自覚し、あらゆる人生の束縛から解放され、
あらゆる種類の制約から自由になりたい為であります。

かくの如き完全なる人間の自由はすべての事物の奥に存在する所の法則を
理解することによってのみ得られるのでありまして、
その法則を理解し得た者は人生のあらゆる場面の勝利者でありますが、
そうでない限り人間は周囲のあらゆるものに駆使せられている奴隷に過ぎないのであります。

人間の生命の實相を理解することなき普通の人達は人生の行路に於いて
自分の目前に入り来る所のすべての事物に支配されるのであって、
周囲の出来事のためにいつもかき乱され、振り廻され、
人間の自由の実現などは殆ど全く見出すことが出来ないのであります。

ところがそれらの人生に於ける色々の障害物は一見、外から現れて来るかの如く思われる
のでありますけれども、殆んど全ての人生上の問題は、人と人との関係に於ける
自分自身の物の見方によって現れて来るにすぎないのであります。

例えば或る人が私の事をこう思っているとか、あの人がこういうことをこの人に言ったとか、
私の言いもしない事を言ったかの如く告げ口したとか、あの人が出しゃばりであるとか、
この人がけちんぼであるとか、・・・・

もう実に他愛もないつまらない出来事に自分の心が引っ掛かってそして大袈裟に
この人生は面白くないとか、地獄のような世界であるとか言いふらすに過ぎないのであります。
もとはと云えば心の問題にすぎないのであります。

自分の子供は女の癖に煙草をのむとか、酒を飲むとか、家の事をしないで遊んでばかりいるとか、
そういうつまらない問題に引っ掛かって母親がいらいらしたり、もうまるで頭から湯気をたてん
ばかりに腹を立てたり悔やんでみたり、そして母親自身が正しいと信ずることを
娘に強いようとする。

娘は娘で近代民主主義の国家に於いて個人の自由を束縛されてたまるものかと、
これ又母親に対して反撃の陣おさおさおこたりないと云うわけです。

こうしてこの家庭は永遠の闘争と永遠の地獄との中に閉じ込められているのであります。
あなたの家庭にもこのような娘さんや息子さんがおありではありませんか。

こんなことが起るのは、みんな心の法則を知らないからです。

大体心の法則を知らないで、人生を幸福に送って行こうなどとは、
電気の法則を知らないで、ラジオ・セットを組立てようと思うほど無暴なことです。

人の組立てたラジオ・セットでも、そのまま順調に行っている時には何事もありませんけれども、
一度問題がおこって、さあ自分で人生を組み立て直さないとならないとなったら
法則を知らない者はただ混乱状態に陥るばかりなのであります。

だから吾々は是非とも人生を支配している心の法則を学ばなければならないのであります。



<飲酒喫煙癖からの解放>(P59~61)

大体人間は神の子であって完全なる自由を与えられているのですから、自分の子供だといって、
それを自分の自由に強制しようとおもっても、その強制のそのことが神様の法則に背いている
のですから、そんなことで効果があるわけはないのであります。

大体子供というものは模倣性が発達しているものでありまして、
子供の習慣性は概ね親のすること又は周囲の人々がすることを模倣することによって、
智慧と体験とを深めて行くのであります。

もし両親や周囲の人々が少しも酒を飲まなかったり煙草を吸わなかったなら、
その子供は酒を飲むことも、煙草を吸う事も決して知らないでありましょうし、
従って飲酒喫煙の習慣も出来るわけがないのであります。

すべての感覚で見るものは心の面に或る「心象」を描かせます。

そして心に描いた心象はそれが必ず具象化するというのが心の法則であります。

親たちが同じことをしてそれを子供に見せて心に飲酒喫煙を描かせておいて、
それが実現したからといって、それに対してとやかく小言を云ってみた所が、
それは無駄な事なのであります。

大体飲酒喫煙は心にいらいらしさがあるためにそれを麻酔せしめる働きとして
脳神経中枢に対して或る麻酔的働きを有する所のアルコールやニコチンを欲するところの
欲望が具体化するのでありますから、

外からいろいろと小言をいって互に正面衝突して、心の焦々(いらいら)しさ
を増進させているようではそれは決して止まないのであります。

もし息子や娘の飲酒喫煙を止めさせたいと思うならば、根本的にその息子や娘を自由に解放して
そういう麻酔剤を要求しなければならないような心の焦々(いらいら)しさを除りさるように
工夫することが第一なのであります。

私はここに必ずしも息子や娘の飲酒喫煙の問題を如何にすべきかという解決法を示す積もりでは
なかったのであります。

ただ吾々の人生に於いて色々の悩みが起るのはそれは結局その人自身が
周囲の出来事にとらえられて振り廻されるからであって、そういうことを止めてしまえば、
人間は本当の幸福が得られるということが、言いたかったのであります。

すべて悩みというものは、心がそれに引っ掛かるものだけが悩むのであって、
引っ掛からない者は如何なる悩みもその人を苦しめようがないのであります。

        <感謝合掌 平成28年6月7日 頓首再拝>

認めたものだけが現れる - 伝統

2016/06/13 (Mon) 18:41:59


          *『光明法語』(6月12日)より

神に波長を合わすには、ラジオと同じく先ず放送局がある事を認めなければならない。
神を先ず認め、神は無限に寛大に吾らの願いをきいて下さるものである事を、
認めなければならぬ。

神が神罰を与えるような苛酷な存在であると吾々が認めるならば
「苛酷」な波長に波長を合わす事になり、苛酷なものが現象界に実現することになるのである。

それよりも吾々は神は愛深き存在であり、無限の癒やしであり、
無限によきものを吾らに与え給うべく待ちかまえていられるのであることを信ずれば、
それに波長を合わすことになるのである。

        <感謝合掌 平成28年6月13日 頓首再拝>

《神から与えられた「生命(せいめい)」はその絞りようでどんな形にも変化する》 - 伝統

2016/06/17 (Fri) 18:45:19


        *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P298)より

   私たちの一挙手一投足が、神の智慧の流入を受け、神の智慧に導かれ、
   自分自身が神の指定したまえる軌道の上におのずから載っているとき、
   私たちは幸福感に満たされるのです。

   しかし其の様な状態になるためには如何にすべきでありましょうか?

   再び「水道の水」とゴム・ホースの喩えをもって話すことに致しましょうか。

   ゴム・ホースから噴出する水は、ホースの先に色々の形の孔(あな)のあいた
   金具をつけて、水の出方を絞ることによりまして、水は太い噴水のようにも、
   細い噴水のようにも、霧のようになっても出ます。

   そのホースの向け方によって、火事を消す働きにもなりますし、
   家中水浸しにしたり、自分の顔にまともに水を浴びることにもなります。

   その水は建設的にも破壊的にも使えるのです。

   私たちは神から与えられたる「生命(せいめい)の水」を
   破壊的に使うことを止めて、建設的に使うようにしなければなりません。

        <感謝合掌 平成28年6月17日 頓首再拝> 

《生命(せいめい)の輸送管をふさぐ汚物》 - 伝統

2016/06/23 (Thu) 20:01:13


        *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P298)より

   私たちが、破壊的なことを思ったり語ったりするとき、
   事物の暗黒面を語ったり思ったりするとき、

   また私たちが利己主義の心を起こしたり、高慢な心を起こしたり、
   恐怖したり、不平の念を起こしたり、自己憐愍の感情に捉えられたり、
   人を憎んだり、恨んだり、悪しざまに批評して鬱憤をはらしたり、

   無駄な持越苦労や取越苦労に自分の生命力を浪費したりするとき、

   私たちは神から与えられた「生命(せいめい)の水」を破壊的に使う
   ことによって浪費しているのです。

   これらの破壊的な想念感情は、此の世界を美しい花園にするための
   「生命(せいめい)の水」を流通させるゴム・ホースに、汚物をもって
   栓をすることになるのです。

   其処から精神的にも肉体的にも経済的にも色々の故障が起こって来るのです。

   私たちは此のような心の塵をもって生命(せいめい)の輸送管を
   つまらせないようにしましょう。

        <感謝合掌 平成28年6月23日 頓首再拝> 

《想念感情は現実の状態の原因である》 - 夕刻版

2016/07/02 (Sat) 19:07:53


          *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P304~305)より

   私たちの肉体の状態、そして環境、境遇等ことごとく想念感情の具象化です。
   それは何らかの機会に自分の潜在意識に飛び込んだ想念感情のこともあるし、
   過去からの物の考え方の習慣性であることもあります。

   この潜在意識に蓄えられている「考え方の習慣性」を変化しない限りは、
   自分の肉体の状態も、家庭生活の状態も、勤務先の環境も、
   決して変化するものではないのです。

   私たちが過去の「考え方」の習慣性に支配されている限りは私たちは過去の
   「考え方」の奴隷であって、新しい「自己支配」と云うことは出来ないのです。

   想念(即ち潜在意識中に、どう考えているかと云うこと)が
   私たちの人生を動かしている主要な設計構図であり、
   動力の回転の仕方を変化するものであるのです。

   私たちの想念感情が一変すれば、私たちの境遇も運命も一変するのです。

        <感謝合掌 平成28年7月2日 頓首再拝> 

心の法則を活用せよ - 伝統

2016/07/05 (Tue) 19:54:26

     *『生命の實相』第三十八巻・幸福篇下 <7月5日>(P7~8)より

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注せよ。
なんじの欲せざる事物の上になんじの心を集注せいてはならない。

病を欲するならば、病の上に心を集注せよ。症状を気にかけよ。心配せよ。
しからばなんじの病は必ず増大すべし。
心をそれに集注するものが実現するからである。

多くの人々がなぜ不幸であり、不健康であるかの原因は、
好まないものにことさら心を集注して心配するからである。
なぜ、君は自己の欲せず希望せざるものの上に心を集注するのであるか。

幸福ならんと欲する者は、自己の幸福のみに心を集注せよ。
他の人の幸福のみに心を集注せよ。他の人の幸福を羨(うらや)んではならない。
幸福を羨む心は、幸福を否定し、抑制し、不幸を欲する心であるがゆえに、
みずから不幸を招くのである。

他人の幸福を自己の幸福と感じうるものは、自分が今いかに現実に乏しくとも、
他(た)のすべての人の幸福が自分自身の幸福であるがゆえに、
すでに豊かであるのである。

なんじの欲する事物の上になんじの心を集注するとき念の創化作用によって、
ついにそれをこの世界に現実化するに至るのである。
なんじ、何を欲するや。これをまず自己自身に問え。

しかして、健康を欲するならば、「われは完全なり健康なり。われは生命(せいめい)なり。
われは神の子なり。われは永遠の存在なり。われは不老なり。われは何物をも羨まず。
われは日々にいっそう、神の子の完全さを顕現するなり」と常に精神を集注して念ずべし。

諸君が成功を欲するならば、常に偉大なる物のみを心に描け。
偉大を念ぜずして偉大になった者は一人もないのである。
小なる計画は人を魅(ひ)曳きつける磁石的力を有しないのである。

いやしくも失敗を予想するなかれ。しかし細心であれ。一歩一歩を大切にすべし。
大望を抱くものは日常生活に気をつけるのである。
気をつけることと、恐怖することはちがうのである。

将棋の木村名人のように一分一秒を大切にして、
しかも最後の勝利を前途に描く者はついに勝つのである。


心の法則を知らざる者は、健康を欲しながら病気を念じ、
成功を欲しながら失敗に精神を集注し、
すべて逆に逆にと心を使うから失敗するのである。

されば健康を欲し成功を欲するものは少なくともその基礎知識として勝利の常識として
わたしの「人生は心で支配せよ」の本一冊ぐらいは読んでおかなければならないのである。

              <感謝合掌 平成28年7月5日 頓首再拝> 

《人生は心で支配せよ》 - 夕刻版

2016/07/07 (Thu) 19:42:05


         *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P307~308)より

   人間は生まれながらにして其の「実相」は神の子であり、
   神のもち給えるあらゆる「善きもの」を持って生まれて来たのです。

   その「善きもの」の中でも最も素晴らしいのは人間には
   「想念の力」と云う”魔法の杖”が与えられていることです。

   この”魔法の杖”によれば、私たちは、如何なるものでも
   「想念の力」を駆使して創造することができるのであります。

   この「想念の力」を駆使する方法を知っている限りは、
   人間は、たとい現在が「形ある何物」をも持っていなくとも、
   すでに富める者と云うことができるのです。

   若しあなたが今御自分の生活を豊かに富める幸福たる生活たらしめようと
   欲せられるならば、その「想念お力」を駆使して、
   自己の欲する事物以外は「想念」しないようにすればよいのです。

   自分の「心」を支配するのです。
   『人生を心で支配せよ』の本をお読みなさい。


・・・

<参考:『人生を心で支配せよ』〔原著〕はしがき>


本書は私の神想観入門である。

一日に一種の黙念法を行い、30日で大体その初歩的実修が完了し得るように
なっているところに特長がある。

私が『新仏教の発見』(編注・前半が『聖道へ』にほぼ同じ。初版昭和15年)において
述べたような思想的過程で発見したところの仏教的真理――人間は本来自己内在の大自在・大円覚
を有すと云う真理――は、関東大震災当時の私においてはまだ理念の大自在に過ぎないのであった。

その大自在を理念より現実に成就する道はまだ私に発見せられていなかった。

釈迦は法華経において人間本来すべて仏子であることを説いたが、
観普賢菩薩行法経において、初めてその人間本来の仏性を実現する方法を説いた。

私も観普賢菩薩行法経を読んで見たが、「端坐して実相を想え」と書いてあるけれども、
本当に如何に端坐し如何に念ずるかがハッキリ解らなかった。

その頃、あたかも私は関東大震災に遭ったのが動機で、私は郷里神戸に帰ったのである。

そして、神戸で、私は私の自序伝『神を見るまで』(『生命の実相』頭注版第19、20巻)に
記載してあるような経路で、フェンウイック・ホルムス著の“The Law of Mind in Action”なる書と、
同じ著者の“Being and Becoming”なる書を獲る機会に接したのである。

後者はかつて『新百事如意』(編注・『心と運命』)なる題で私の訳補書が出ている。
 

ホルムスの“The Law of Mind in Action”を得て読んだとき、
旧著『新仏教の発見』において私が到達していた人間内在の大自在
――本来の仏性を現実に成就する道に一つの行法を暗示されたのである。

《ある》ところの「大自在性」を、
《成る》ところの「大自在性」に転ぜしむる行法を発見せしめられたのである。

と同時に、ホルムスの思想はクリスチャン・サイエンスやニュー・ソートの流れを
汲むものであったが故に、ここにはからずも仏教と基督教とを一つに一致せしめる道に
大いなる示唆を得た。

この書は全く私にとっての普賢菩薩行法経の役目を果してくれたのである。

大自在の「知」が「行」に成る契機がここに与えられたのである。
 

その当時、この書を得た私は悦びに満たされて翻訳し始めた。
やがてそれは『如何にせば運命を支配し得るか』と題して実業之日本社から出版して貰った。
(編注・大正14年6月10日初版)それはいわば私自身の運命革新書であったのである。

その書は相当好評を博して当時10版ばかり重版したが、その後思索が進んで来た私には
意に満たぬところがあるので、爾来絶版にしてしまったのである。
もうそれは約25年前のことである。

その後も私の思想は進歩し、向上し今日に到達した。
 

最近この書をもう一度出版して欲しいと云う要求が諸方にある。
眼を通して見ると、現在の私の心境からは、以前の文章のままでは到底出版する勇気がない。

現在の生長の家の思想には劣る点や、相違する点が眼に着く。
「『悪』も『病気』も、一切は唯心所現であるから、現れている限りは存在する」と云ったような、
アルとアラワレとの重大な混同をホルムスがしているのも気になるのである。

筆を入れ出したら限りがない程である。


そこで私は現在の心境において全然書き直すことにしたのが本書である。

大体私は本書の示すが如き思念法を行い、神の叡智を流入せしむることによって、
私の性格は明るくなり、自由自在性が加わり、私の運命は暗黒から光明に転回して来たのである。
 

仏教、キリスト教、クリスチャン・サイエンス、ニュー・ソート等が
「生長の家」の「生命の實相」哲学と如何に一体のものであるかは本書を読まれれば判る。

今やキリスト教的な仏教、仏教的なキリスト教、日本の宗教に調和するキリスト教の
求められているとき、本書が日本光明化に役立つこと甚大であると思う。

諸君が本書によって人生に勝者となり、
一層の幸福を得られんことを念願して世に送るものである。

 1948年11月

           著 者 識 す  

              <感謝合掌 平成28年7月7日 頓首再拝> 

《最初の10日間の心の訓練》 - 伝統

2016/07/10 (Sun) 18:52:47


       *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P308~309)より

   自分の「心」を支配することは結局、
   自分の「人生」を支配することになります。

   「心」は「意馬心猿」などと云って
   最初は中々扱いにくい奔馬のようなものであります。

   併し、それも、つとめて自分の想う「想い」を吟味し、
   悪しき事、暗き事を思わぬような習慣附けを致しますと、
   よく訓練された馬のように自由自在に
   それを支配することができるようになるのです。

   もっともこれは意志の問題であります。

   最初の数日又は10日間は思うように「心」を支配し、
   「想念」を吟味し選択することができないでも、

   意志を以って、
   「我れ断じて暗黒なこと、不安なこと、悪しき事を思わず」 
   と大決心をもって、

   明るきこと、快きこと、善きことのみを思うように努力しますと、
   ついには心に習慣性がついて明るきこと、快きこと、善きことのみを
   思うようになれて来ます。

              <感謝合掌 平成28年7月10日 頓首再拝>  

《神に対して心を調節せよ》 - 伝統

2016/07/13 (Wed) 19:32:21


            *『 生長の家 』(昭和26年5月11日の法語)より

   何事が起って来ても
   恐怖の旋風の中に巻き込まれる必要はないのである。

   神は吾らの父であり給い、神は愛であり給うから、
   どんな時にも、神を呼べば神は必ず護っていたまうのである。

   神は、どんな不調和の中にも調和を、争いの中にも平和を、
   病気と見ゆるものの中にも
   健康を打ち立て給うことが出来るのである。

   併(しか)しそれが現実にあらわれるには、
   ラジオのように心の波長を合わすことが必要である。
   常に、自分の心を神に向って調節せよ。

   暇ある毎に5分間でも3分間でも利用して、眼をつぶり、

   「 自分は神と一体である。神は愛であるから、
   自分は常に神の愛に護られている 」 と

   暫時(ざんじ)思念することは、心の調律に大変よい。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

              <感謝合掌 平成28年7月13日 頓首再拝>  

心の「絞り」を調整する - 伝統

2016/07/18 (Mon) 18:43:46


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<7月18日>(P23)より

写真を写すにも、絞りを調整することによって、
その写真が上手に写ったり下手に写ったりするのである。

それと同じく現世をよくするには心の「絞り」を調整することが必要である。

内部が整うて、外界が整うのである。
何か外界に悪しきことが起こったら、まず内部を調整すべきである。

         <感謝合掌 平成28年7月18日 頓首再拝>

《神から与えられた「生命(せいめい)」はその絞りようでどんな形にも変化する》 - 伝統

2016/07/24 (Sun) 19:01:34


          *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P298)より

   私たちの一挙手一投足が、神の智慧の流入を受け、神の智慧に導かれ、
   自分自身が神の指定したまえる軌道の上におのずから載っているとき、
   私たちは幸福感に満たされるのです。

   しかし其の様な状態になるためには如何にすべきでありましょうか?

   再び「水道の水」とゴム・ホースの喩えをもって話すことに致しましょうか。

   ゴム・ホースから噴出する水は、ホースの先に色々の形の孔(あな)のあいた
   金具をつけて、水の出方を絞ることによりまして、水は太い噴水のようにも、
   細い噴水のようにも、霧のようになっても出ます。

   そのホースの向け方によって、火事を消す働きにもなりますし、
   家中水浸しにしたり、自分の顔にまともに水を浴びることにもなります。

   その水は建設的にも破壊的にも使えるのです。

   私たちは神から与えられたる「生命(せいめい)の水」を
   破壊的に使うことを止めて、建設的に使うようにしなければなりません。

         <感謝合掌 平成28年7月24日 頓首再拝>

《生命(せいめい)の輸送管をふさぐ汚物》 - 伝統

2016/07/29 (Fri) 20:24:34


          *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P299)より

   私たちが、破壊的なことを思ったり語ったりするとき、
   事物の暗黒面を語ったり思ったりするとき、

   また私たちが利己主義の心を起こしたり、高慢な心を起こしたり、
   恐怖したり、不平の念を起こしたり、自己憐愍の感情に捉えられたり、
   人を憎んだり、恨んだり、悪しざまに批評して鬱憤をはらしたり、

   無駄な持越苦労や取越苦労に自分の生命力を浪費したりするとき、

   私たちは神から与えられた「生命(せいめい)の水」を破壊的に使う
   ことによって浪費しているのです。

   これらの破壊的な想念感情は、此の世界を美しい花園にするための
   「生命(せいめい)の水」を流通させるゴム・ホースに、汚物をもって
   栓をすることになるのです。

   其処から精神的にも肉体的にも経済的にも色々の故障が起こって来るのです。

   私たちは此のような心の塵をもって生命(せいめい)の輸送管を
   つまらせないようにしましょう。

         <感謝合掌 平成28年7月29日 頓首再拝>

《真に救われるとは》 - 伝統

2016/08/01 (Mon) 21:35:01


        *『 真理 』第9巻 生活篇第11章 (P312)うおり

   人間が「真に救われる」と言うことは、
   一時的に病気が治るとか、経済的に楽になるとか、
   家庭が調和するとか、云うようなことではありません。

   「病気が治る」「経済的に楽になる」「家庭が調和する」のは
   何故であるか、
   それらの現象を支配する「根本」をつかむことなのです。

   その「根本」を掴まなくて、唯々「心の法則」の心理学的応用位で、
   もう「われ悟れり」などと考えていますと、

   一時的に救われたようになっていても、
   それが単に一時(じ)の現象であって、
   結局は元の木阿弥になってしまうのです。

   「心の法則」は「真理」の一端ではあります。

   しかしそれは「真理」の全貌ではありません。
   群盲が象の耳を捉えて「象は風呂敷のようなものだ」と
   言っているのと同じです。

   わたし達は「真理」のい全貌を全身心をもって捉えなければ
   本当に救われたとは言い得ないのです。

         <感謝合掌 平成28年8月1日 頓首再拝>

《現象は結果に過ぎない》 - 伝統

2016/08/03 (Wed) 18:16:39


         *『 生長の家 』(昭和26年5月30日の法語)より

   人は想念する(考える)ところのものとなるのである。
   神は想念することによって宇宙を創造した。

   創造されたる宇宙は結果であって原因ではない。

   しかし結果を目的として想念したのではないのであって、
   想念されたるものを「 観(み)る心 」が
   「 認識の形式 」を通して「 物質宇宙 」として観るのである。

   人もまた想念するところのものを肉体にあらわすが、
   それは肉体にあらわそうと故意(ことさら)に想念しないでも、
   ただ、何の気なしに想念していたことが肉体にあらわれて
   病気となったりするのである。

   病気を治すのはその逆を行けばよいのである。

   病気を治そうと思わないでも善き想念を描いておれば病気は消える。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

         <感謝合掌 平成28年8月3日 頓首再拝>

《心の波長を「実相」に合わせましょう》 - 伝統

2016/08/07 (Sun) 19:26:52


        *『 真理 』第9巻 生活篇第11章(P313)より

   私達が色々の災禍から自然に避けるには、
   災禍と波長が合わない心の波を常に維持しなければなりません。

   そのためには私達は毎朝の生活を正しき「祈り」又は
   「神想観」によって始めるようにするが宜しい。

   その根本原理は、神に波長を合わすことなのです。
   又、従ってそれは各人の「内なる神」に波長を合わすことです。

   各人の実相は「神」であり、それに波長を合わせる事によって、
   各人の実相の「善さ」があらわれて来て、互いにその
   「善さ」と「善さ」とで調和した世界がひらかれて来るのです。

   各人の仮(か)りの姿に過ぎないところの「悪」に
   波長を合わしている限り、悪は尽きることなく、
   明るい世界、善なる世界はあらわれて来ません。


         <感謝合掌 平成28年8月7日 頓首再拝>

「心」が万事に先行する - 伝統

2016/08/12 (Fri) 20:15:52


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<8月12日>(P49)より

列車に乗ってその列車が転覆したからといって、その列車に乗せた駅員が悪いのではない。
転覆するような列車に乗るのは、乗ったその人自身にその列車に乗るようになっている
「心」があったからである。

「心」が万事に先行するとういうことを知る人は不幸に逢っても、他を憎んだり恨んだり
するものではない。自分の「心」がそれを造ったということを知っているからだ。

列車に乗って不慮の災難に逢うことも、人の口車に乗って不幸に陥ったり物事が失敗に終わる
ということも、「乗る」のは、自分がその乗物に引きつけられて乗ったのだから、自分自身の
「心」の中に原因があるのである。

他(ひと)が「悪い、悪い」と思っている人は、要するに責任を他(た)に転嫁する卑怯者の
ことである。

人間は強くなるにしたがって、いっさいの原因を自分自身に帰するようになる。
そして聖者と言われるほどの人になると、衆生の一人でもまだ苦しんでいる者があると
自分自身の責任だと感ずるものである。

世界のすべての人類が「光明思想」を知らず、また知っても十分実践せず、
不幸に沈淪(ちんりん)している者があるのは、わたしの宣伝が足りないからなのである。
皆わたしの罪なのである。

           <感謝合掌 平成28年8月12日 頓首再拝>

《自分の心通りのものが引き寄せられる》 - 伝統

2016/08/17 (Wed) 18:06:46


       *「生長の家」(昭和25年6月14日の法語)より

   吾は 吾が内に吾が求むるもののすべてをひきよせ、
   すべてを生みだす力があることを知ったのである。

   もし悪しきものが目の前に現れて来た時には、
   それは自分の心の中に
   それらをひきよせる心の波があるからだと知れ。

   現象の悪しき姿にとらわれて、
   それを払いのけようとして
   心にその 「 悪しきもの 」 を描く限り
   「 悪しきもの 」 は去らないのである。

   神を思いおこせ。

   かくの如(ごと)き悪しきものは
   存在せずと念ぜよ。

   然(しか)もいつまでも念ずる必要はないのである。

   「 み業は神がなし給う 」 と信じて
   後は 神に任せきれ。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=2

           <感謝合掌 平成28年8月17日 頓首再拝>

《繁栄への道》 - 伝統

2016/08/20 (Sat) 18:09:32


       *『 生長の家 』(昭和26年7月12日の法語)より

   繁昌(はんじょう)は 一日にして来らず、
   それが単なる偶然の好運であるかに見えても、

   必ず過去に蓄積されている 善き想念、善き言葉、
   善き行為、善き感情 が現実化して生ずるのである。

   すべての 想念、感情、言葉、行為 の結果は
   実現しないではいないのである。

   それは 原因結果の法則 である。


   原因結果の法則には、
   物理化学的な法則 と、心の法則 とがあるのである。

   大抵(たいてい)の人は物理化学的法則 のみを知っていて、
   心の法則 を知らないのである。

   繁栄せんと欲する者は、顧客に対して よき想念、善き感情、深切な注意、
   行き届いたサービスの精神 を揮(ふる)い起さなければならないのである。

   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f0b648755f87462c2d6035c9abd6ae7a
   
           <感謝合掌 平成28年8月20日 頓首再拝>

「心の法則」は私たちに告げて言う、『行動を起せ!』と - 伝統

2016/09/08 (Thu) 17:59:51

 
行動を伴わねばならない

         *『生活の智慧365章』(P205~206)より

「心の法則」は私たちに告げて言う。
 
「汝の求むるものをわれは汝に与えるのではない。
汝の想念が如何なる波長のものであるかに随って、
その波長に合うものを与えるのである。

心暗黒にもてば、われは汝に暗黒を与える。
心を暗黒にもちながら、光明を求めてもわれは光明を汝に与えることはできない。

しかし、心を明るくもっていたならば、
労せずして何でも欲するものを現象界に於て得られると思ってならない。

汝にすべてのものが与えられているのは、実相界に於てのことである。
その実相界にある無限のものを、如何なる形に噴出せしめるかは、
汝の心によって、“心の形”の噴出口を如何につくるかによってきまる。

しかしそれだけでは足りないのである。
その噴出口から、実相界にある“無限のもの”を引き出すには、
行動を起こさねばならない。」

   
           <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

《ただ善事のみ数えよ》 - 伝統

2016/09/15 (Thu) 17:48:47


         *『 生長の家 』(昭和26年7月14日の法語)より

   人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。
   小さな過ちを廓大(かくだい)鏡で見て
   増大するような事を避けよ。

   善事はどんな小さな事でも これを廓大(かくだい)して見、
   そしてそれを賞(ほ)め語れ。

   さらば他の人々も諸君の過ちを見のがし、
   諸君の善事を看過(みのが)さないであろう。

   それが心の法則である。

   他人に辛(つら)くするときは 自分も 亦 辛くせられ、
   他人に寛大である者は 自分も亦(また)寛大に取扱われるのである。

   人が自分に対して冷酷だと思う者よ。
   他を怨(うら)むまでに、自分が他に対して
   冷酷でなかったかを反省して見よ。

   そして今まで批難していた人々を赦(ゆる)せよ。


   http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/3c09a72ecfeb3c3ee15ff5f39ad5c544

           <感謝合掌 平成28年9月15日 頓首再拝>

想念感情は同類相(あい)引く - 伝統

2016/09/26 (Mon) 18:58:11


        *「光明法語」(9月26日)より

大生命は流れるが、どんな形に流れさせるか。
大生命は創造するが、どんな形を創造させるかその形を決定し、
創造されるものの姿を決定するのは、自分の感情であり、想念である。

それは類似の波長は共鳴し、相牽(あいひ)くと云う法則に随って、
明るき感情は明るき想念を呼び出し、明るきものを創造せしめる。

暗き感情は暗き想念を呼び迎え、暗きものを創造せしめる。

一瞬時と雖も暗き感情をもつ事は罪悪である。
罪悪とは本来の明るい姿をツツム事である。

           <感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>

「想うもの」が出て来る - 伝統

2016/10/01 (Sat) 18:10:44


   *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』(10月1日>(P92)より

すべての事物は、心の想うことによって存在に入ったのである。

神が心に星辰を想い、天体を想うことによって、諸々の星辰天体が生じたようにである。

われわれの周囲の事物はわれわれが心に想うことによって存在に入ったのである。
そうすれば自分の好まない事物を心に想わないようにしなければならない。

「想うもの」が出て来るのであるから、敵を想えば敵が出て来る。
戦争を想えば戦争が出て来る。
病気を恐れて、心に警戒すればするほど病気にかかるのである。

ということは予防的なことをいっさいするなという意味ではない。
戸締りをしないで徹夜で泥棒を恐れているよりも、
戸締りをして泥棒を思わないで眠る方がよい。

           <感謝合掌 平成28年10月1日 頓首再拝>

心の波で不幸や貧乏や病気を描くな! - 伝統

2016/10/05 (Wed) 18:46:42


     *『生命の實相 幸福篇下 第三十八巻』<10月5日>(P94)より

見える世界に不幸や病気が起こったからとて、それをそのまま実在だと思い、心に描けば
描くほど、その映画のフィルムの複製を幾本も新たにつくって映写することになるから、
その不孝や病気は治らないのである。

映画の世界(眼に見える世界)に不孝を映して見ることが嫌いならば、フィルムの世界
(心の波で作る映画の世界)における原画を訂正しなければならないのである。

現象界は結果であって、原因ではないのである。原因の表現が結果である。
だから結果であるところの不幸や病気を根絶しようと思うならば、
原因であるところの心の波で描く原画を変更しなければならない。

心の波で不幸や貧乏や病気を描くな。

           <感謝合掌 平成28年10月5日 頓首再拝>

《心を調律すること》 - 夕刻版

2016/10/11 (Tue) 18:27:14


         *『 生長の家 』(昭和23年9月3日の法語)より

   物質的秩序は 自然科学の方面から研究せられる。
   それは謂わば 神の智慧の物的方面への顕れの研究であるが、
   今は自然科学者の方面にまかせて置く。

   私は爰に 精神的秩序の方面を述べて見たいのである。

   生命体は秩序の顕現であるから
   秩序が破れたらそれだけ傷つくのである。


   先ず、次のような心を持たぬことである。

     一、腹立てやすい。

     二、いらいらする。

     三、気むずかしい。

     四、陰気くさい。

     五、自己軽蔑。

     六、受難礼賛。

     七、呟く心。自己憐憫。

     八、同情を求める心。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 平成28年10月11日 頓首再拝>

《人を呪わば穴二つ》 - 伝統

2016/10/18 (Tue) 20:19:14


         *『 生長の家 』(昭和23年9月4日の法語)より

   また次のような 他を にくむ心を起こしてはならない。

     一、嫉妬心(しっとしん)( 人の成功ねたむ心 )。
    
     二、猜疑心(さいぎしん)
       ( 人が自分に悪意や軽蔑心をもっていないかと疑う心 )。
  
     三、悪意。

     四、憎悪。

     五、人の不幸を喜ぶ心。

     六、人の失敗をせせら笑う心。

   他に対して 憎悪、悪意、嫉妬、猜疑、人の不幸を喜ぶ心、
   人の失敗を痛快に思う心を起すことは、
   それは いずれも他を害する心であるから、
   一種の爆弾の如く 他に悪念波を送る。

   同時に 自分の内に 先ず自分を害する 「 悪念波 」 を発生して
   自分を害する。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

           <感謝合掌 平成28年10月18日 頓首再拝>

神罰ではない - 伝統

2016/10/28 (Fri) 18:20:49


          *「光明法語(10月28日)」より

病気をした為に神を知ったと言い、災難を受けたために神信心をするようになった。
これは神の導きであったと言う人がある。

これは摂理であり、「理」であり、神が自由意志をもって、導かんがために、
病気や不幸を課したのではない。

「理」にしたがって、心の通りの姿が、肉体や境遇に反映してあらわれるのである。
眼をとじていれば暗いが、その暗いのは「理」に従って暗いのであって、
神罰によって暗いのではない。

暗くて頭を打つのも「理」にしたがって頭を打つのであって神罰ではない。

           <感謝合掌 平成28年10月28日 頓首再拝>

心の法則に順応せよ - 伝統

2016/10/31 (Mon) 18:00:39


          *「光明法語(10月31日)」より

それと同じく「心の法則」と云う理によって起こる災禍や病気は、
神の肆意(しい=かってきまま)による神罰でないから、顧みて、自分が如何なる心を
もったかを反省し、理に逆らっていた心の持ち方を捨て、理に順応する心の持ち方に
心を転ずれば災禍や病気は治るのである。

何よりも今まで神の光に眼を瞑(ふさ)いでいた眼を開くことが大切である。
そうすれば暗がりにいて頭を打つ様な馬鹿らしい病気や災難は受けなくなる。
人を打つ心をもてば、自分が打たれる。

心の法則は何も難しい事はないのである。

            <感謝合掌 平成28年10月31日 頓首再拝>

現在意識と潜在意識 - 伝統

2016/11/09 (Wed) 18:24:09


心の照準は現在意識

       *「光明法語」(11月8日の法語)より

「我みずからにては何事もなし得ず、
天の父われに在(いま)してみ業をなさしめ給うのである」
とイエスは言った。

癒すのは「天の父」即ち神であり、われではないのである。
われは、心の照準を定めて引金を引くだけである。

心だけ正しい方向にむけて神の力の自働するのに任せて置けば好いのである。
みわざは内在の爆発力がなし給うのである。
内在の爆発力とは、神である。

照準を定めるのは現在意識であり、現在意識の志向を潜在意識の中まで落すのが、
「引金を引く」ということである。

・・・

如何なる観念が潜在意識に入るか

       *「光明法語」(11月9日の法語)より

現在意識がボンヤリしている時に突如として投げ込まれた強烈なる印象
又は明確なる観念は、潜在意識の中に深く種子を蒔かれるものなのである。

催眠状態中の暗示は勿論、朝眼が覚めた直後の自己暗示や、
就寝後の眠りを催し来る直前の自己暗示や、診察中に医者の態度に気をとられている
最中に医者の偶然漏らした言葉や、

両親が子供を叱りつけた時、子供は呆然としている、
其のとき親の言った言葉などは深く潜在意識に刻みつけられて、
やがて芽を吹き実を結ぶ事にもなる。

            <感謝合掌 平成28年11月9日 頓首再拝>

【類は友を呼ぶ】 - 伝統

2016/12/06 (Tue) 18:34:58


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年11月26日)」より

   (五日市剛氏の心に響く言葉より…

   「同じ波動は引き合う」とか「類は友を呼ぶ」という言葉があります。
   これは自然界の法則と言ってもいいかもしれません。

   ツイてない人はツイてない人と引き合い、
   ツイてる人はツイてる人同士で引き合いやすい。

   これをビルのフロアにたとえると、わかりやすいです。

   上の階に住む住人ほどツイてるとすると、
   たとえば10階の人は10階のフロアの人にしか会えませんし、
   頑張って100階に行くと100階のレベルの人たちに出会え、交流できます。

   逆に低いフロアの人たちは大変です。

   地下100階の住人はどこに逃げ回ってもその階から逃れることはできませんので、
   常にその階に住んでいる人や出来事に関わることになります。

   なんだか気の毒ですね。


   「再婚」や「転職」をした人も、その後も同じ低いフロアにいれば、
   結局うまくいかないか、「離婚」「転職」を何度も繰り返すことになります。

   そのような方々は、なんらかのきっかけで
   住むフロアをグンと高めなければなりません。

   まあ、この概念は決して万能ではなく、フロアの厳密な定義はできませんが、
   でも、「ツイてる人」「ツイてない人」をイメージするには
   わかりやすい考え方だと思います。


   高いフロアに住んでいる人にも、
   ツイてないこと、見かけ上悪いことはもちろん起こります。

   ピンチは訪れるんです。

   でも、彼らに共通することは、
   「マイナス」と思われることを「プラス」に変えることがとてもうまい!

   しかも上のフロアの人ほどうまいようです。


   「幸せは不幸の姿で現れることがある」、
   だから「ピンチは不幸じゃない」と知っている人がツイてる人であり、
   高いフロアに住む人の特長なんですね。

   ですから、人生をもっと楽しくするためにも、
   より高いフロアへ行きたいものです。


   それでは、より高いフロアへ一歩一歩確実に上がっていくには、
   どうしたらいいと思いますか?

   私はこれには、2つの方法があると思います。

   (1)一つ目は、「自分を愛し、敵を愛する」。

   (2)二つ目は、魔法の言葉「ありがとう」「感謝します」を習慣化する。


   一つ目の「自分を愛する」というのは
   たとえば、自分自身に優しい言葉をかけてあげること。

   医師の矢山利彦先生がおっしゃるように、
   腰や肩、ひざやひじが痛いということは、それらが一生懸命働いてくれた証です。

   そうした痛い部分に手を当て、
   「ありがとう」「いままで本当にご苦労さん」「無理しちゃってごめんね」
   と心をこめて声をかけます。

   すると、痛みが和らぎます。

   「自分を愛する」とは、物質的にも意識的にも
   自分にもっと関心を持ち、いい言葉を使っていくことです。

   すると、自分のからだは間違いなくワーイワーイと喜ぶことになります。


   「敵を愛する」と述べましたが、
   敵とは自分の嫌いな人、苦手な人のことを指します。

   大事なポイントは、なにがあっても
   絶対に「相手のせいにしない」ということです。

   「成功はあなたのおかげ、失敗は自分のおかげ、どんなときもおかげさま」
   というユニークな言葉がありますが、失敗を人のせいにしないかぎり、
   必ず復活するチャンスがあります。

   そして、やがて失敗や試練は
   実は自分自身を高いフロアへ導いてくれるためのガイドだったんだ
   ということがわかるようになります。

   このことが腹の底にズドーンと落ちると、
   人は、どんなときも問題を人のせいにせず、
   やがて敵を愛することができるようになります。


   次に、二つ目の魔法の言葉の習慣化についてです。

   「人生を変えようと思ったら、大きな努力は必要ない。
   必要なのは、小さな習慣である」という言葉が好きです。

   「ありがとう」「感謝します」を口ぐせのように言えて、
   小さな習慣にできる自分に早くなりたいですね。

   この習慣はもっとも強力です。

   なかでも、特に大事なのが、「嫌なことがあったら、ありがとう」です。

   失敗や試練に「ありがとう」とすぐに言えたら、
   言葉に見あった具体的なアクションを起こしていきましょう。

   必ず、ピンチがチャンスとなります。


     <『運命が変わる 未来を変える』(五日市剛&矢山利彦)サンマーク文庫>

              ・・・

メトロノームの同期(シンクロ現象)の話を五日市氏から聞いた。

メトロノームの同期(シンクロ現象)とは、
複数のメトロノームを四方を糸で吊った一枚の台の上にのせ、
そのメトロノームをそれぞれランダムに針を動かす。

最初の頃は、それぞれバラバラに、カチ、カチ、カチと動いているが、
それが何分か経つと不思議な事に、全てのメトロノームの針の動きが
同じに揃(そろ)ってしまうという現象のことを言う。


これは、人間の世界でも同じことが言える。

例えば…

汚い言葉や乱暴な言葉を使っている仲間と一緒にいると、
やがて汚い言葉や乱暴な言葉を言うようになる。

愚痴や不平不満を言う人と一緒にいると、愚痴や不平不満ばかりいう人になる。

ツイてる人と一緒にいると、ツイている人になる。


つまり、「類は友を呼ぶ」現象。

魔法の言葉「ありがとう」を口ぐせにしたい。

            <感謝合掌 平成28年12月6日 頓首再拝>

《貧乏はケチな想念の反映》 - 伝統

2016/12/18 (Sun) 19:06:54


        *『 生長の家 』(昭和24年11月15日の法語)より

   光明思想の根本的な教の一つは、
   「 類は類を呼ぶ 」 ということなのである。

   「 豊かなる想念は豊かなる事物をひきよせる 」 のである。

   貧乏は決して人間に与えられたる宿命ではないのである。
   それは 貧しき けちな想念の反映として
   現われて来たのにすぎないのである。

   けちな想念の中(うち)には
   「 与えることを惜しむ 」 心があるのである。

   人に深切を与えることを惜しむ心、
   物をなすのに深切丁寧さを与えることを惜しむ心、
   自分の労苦をだすのを惜しむ心 ― すべてこういう惜しむ心が
   貧乏となって現われて来るのである。

   与えれば与えられるのが心の法則である。



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=102

            <感謝合掌 平成28年12月18日 頓首再拝>

思う通りになる世界 - 伝統

2016/12/20 (Tue) 18:17:06


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月20日)より

この世はままならぬと思う者には、まことにこの世はままならぬ世界である。
これに反して、この世は思うとおりになる世界だと思う者には、
まことにこの世は思うとおりになる世界である。

環境は人間に支配されると思う者には、環境は人間に支配されるが、
人間は環境に支配されると思う者には、環境は頑としてその人の上に暴君的力を揮うであろう。

そのこと自身が環境は自分の思うとおりのものであること表している。

            <感謝合掌 平成28年12月20日 頓首再拝>

《ただ善事のみを数えよ》 - 伝統

2016/12/25 (Sun) 18:20:38


       *『幸福を招く365章』第10項(P220) より

人が自分に対して行った過ちを数えあげるな。
小さな過ちを拡大鏡で見て増大するような事を避けよ。

善事はどんな小さな事でもこれを拡大して見、そしてそれを賞め語れ。

さらば他(た)の人々も諸君の過ちを見のがし、
諸君の善事を看過(みのが)さないであろう。

それが心の法則である。

他人に辛(つら)くするときには自分も亦辛くせられ、
他人に寛大である者は自分も亦寛大に取り扱われるのである。

人が自分の対して冷酷だと思う者よ。
他(ひと)を怨むまでに、自分が他に対して冷酷でなかったかを反省して見よ。

そして今まで非難していた人々を赦せよ。


(初出は「生長の家」昭和26年7月14日の法語)

            <感謝合掌 平成28年12月25日 頓首再拝>

《この世界は心の波で変化する》 - 伝統

2016/12/28 (Wed) 17:41:39


        *『 生長の家 』(昭和23年9月19日の法語)より

   多くの人達は、現象世界を物質の世界だと思っているけれども、
   物質は、ただ分子がその径の千倍も隔った空間に
   バラバラに浮いているに過ぎないのであるから、
   その形は決して固定したものではないのである。

   心に従ってその分子の離合集散はかわるのである。

   自己の健康でも、家庭でも、友人でも、仕事の状態でも、
   すべて自分の心の雰囲気の及ぶ範囲内の出来事は、
   如何にそれが物質で構成されているように見えようとも
   自分の心の中の信念の具象化に過ぎないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

            <感謝合掌 平成28年12月28日 頓首再拝>

《真に救われるとは》 - 伝統

2017/01/04 (Wed) 19:06:49


       *「真理」第9巻生活編(P312)より

人間が「真に救われる」と言うことは、
一時的に病気が治るとか、経済的に楽になるとか、家庭が調和するとか、
云うようなことではありません。

「病気が治る」「経済的に楽になる」「家庭が調和する」のは何故であるか、
それらの現象を支配する「根本」をつかむことなのです。

その「根本」を掴まなくて、唯々「心の法則」の心理学的応用位で、
もう「われ悟れり」などと考えていますと、一時的に救われたようになっていても、
それが単に一時(じ)の現象であって、結局は元の木阿弥になってしまうのです。

「心の法則」は「真理」の一端ではあります。
しかしそれは「真理」の全貌ではありません。

群盲が象の耳を捉えて「象は風呂敷のようなものだ」と
言っているのと同じです。

わたし達は「真理」のい全貌を全身心をもって捉えなければ
本当に救われたとは言い得ないのです。

            <感謝合掌 平成29年1月4日 頓首再拝>

《心の波長を「実相」に合わせましょう》 - 伝統

2017/01/07 (Sat) 18:08:39


       *「真理」第9巻生活編(P313)より


私達が色々の災禍から自然に避けるには、
災禍と波長が合わない心の波を常に維持しなければなりません。

そのためには私達は毎朝の生活を正しき「祈り」又は「神想観」によって
始めるようにするが宜しい。

その根本原理は、神に波長を合わすことなのです。
又、従ってそれは各人の「内なる神」に波長を合わすことです。

各人の実相は「神」であり、それに波長を合わせる事によって、
各人の実相の「善さ」があらわれて来て、互いにその「善さ」と「善さ」
とで調和した世界がひらかれて来るのです。

各人の仮(か)りの姿に過ぎないところの「悪」に
波長を合わしている限り、悪は尽きることなく、
明るい世界、善なる世界はあらわれて来ません。

            <感謝合掌 平成29年1月7日 頓首再拝>

《よき心の雛形を出すこと》 - 伝統

2017/01/11 (Wed) 18:31:49


            *『 生長の家 』(昭和23年9月20日の法語)より

   「 類は類をもって集まる 」 と云う諺がある。

   病気を思い浮べないのに病気になったと思う人があるかもしれないが、
   ブツブツと心に不平を思えば病気のことを思わないでも
   皮膚にブツブツが出来るのは、
   「 類は類をもって集る 」 の心の法則によるのである。

   また 「 自分は物質的存在だ 」 と云う念をもっていると、
   病気のことを思わないでも、
   「 物質は使えば禿(ち)びる 」 「 物質は虫が食う 」 などの
   念を付随するから
   やはり老衰や疲労や寄生虫による病気にかかるのである。

   先ず善き心の雛形を出さねばならぬ。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=86

            <感謝合掌 平成29年1月11日 頓首再拝>

《類は類を招(よ)ぶのが宇宙の法則》 - 伝統

2017/01/21 (Sat) 18:56:48


         *『幸福を招く365章』第1項(P8~9) より

「類は類を以って集まる」「類は友を呼ぶ」と云う法則は心の世界にも、
生命(せいめい)の世界にも当て嵌まるのである。

同じ土地に、梅の樹(き)と福寿草とを植えて置くと、
梅の木は梅の花になる成分を土から引き寄せるし、
福寿草は福寿草の花になる成分を土から引き寄せる。

土を空へ放り上げても土の上に落ちて来て、土は土で集まる。
水蒸気は水蒸気で集まって雲となり、水は水で集まって河となり、
海となるのである。

鳥は鳥づれ、犬は犬連れ、ルンペンはルンペン連れ、
斜陽階級は斜陽階級連れ、社用階級もまた然(しか)りです。

あなたはどんな「類(るい)」を自分の周囲に呼びたいと思いますか。

それがあなたの運命をつくるのです。

            <感謝合掌 平成29年1月21日 頓首再拝>

《貴方のお心次第ですよ》 - 伝統

2017/01/25 (Wed) 19:48:05


        *『幸福を招く365章』第1項(P9) より

同じ土壌から収集した成分を、その成分の分子をどう云う風に配列して、
そんな形の花にするかは、その植物の内部生命の知性(心)によるのであります。

人間でも同じことであります。

同一家族が同一食物をたべながら、その同じ成分でお婆さんは白髪(しらが)を
作りますし、お爺さんは渋紙(しぶがみ)のような皮膚を作ります。

お嬢さんは瑞々しい柔らかい皮膚を作りますし、
息子さんは、逞しい筋肉を作ります。

それはその人の内部生命の知性の然らしむる処であります。

内部生命の知性とは「心」の働きでありますから、
皆さんが、心で始終思っている通りに、それに類するように
貴方の身体(からだ)は作られるのであります。

「肥えるも痩せるも病気になるのもあなたの心次第です」と云う訳です。

            <感謝合掌 平成29年1月25日 頓首再拝>

《個人の運命は固定してはいない》 - 伝統

2017/02/02 (Thu) 18:28:08


          *『 生長の家 』(昭和33年9月18日の法語)より

   毎日私たちは、自分の運命を自分で造りつつあるのである。
   自分の生活にプラスをつけ加えるか、はたまたマイナスを
   附け加えるかと云うことによって、
   自分自身の未来の運命を自己決定しつつあるのである。

   人のためになることを行えば、自分の運命にプラスを加えたのである。
   人のためにならぬことを行えば、自分の運命にマイナスを加えたのである。

   このような行動によるプラス・マイナスのほかに、
   自分の心の明るさ暗さによって運命を左右する
   プラス・マイナスがあるのである。

   常に『明るい心』をもっておれば、
   『類をもって集る』と云う心の法則にしたがって、
   『明るい運命』が自分に集ってくるし、

   常に『暗い心』を持ちつづけておれば、
   『暗い運命』が自分に集って来るのである。

   常に私たちは『過去の成績《業》』の中から立上りつつあるのである

            <感謝合掌 平成29年2月2日 頓首再拝>

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