伝統板・第二
(五月)の法語 - 伝統
2016/05/01 (Sun) 04:39:55
このスレッドでは、他の掲示板等から、次の3つの法語を紹介してまいります。
(1)『 生長の家 』 昭和二十五年五月号
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱より紹介
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
(2)『 生長の家 』 昭和二十六年五月号
谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱より紹介
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
(”明鏡 さま”のお許しをお願いいたします)
(3)『 生長の家 』 昭和三十二年五月号
『 真理 』第9巻 生活篇第11章 「 自己が自己の主人公となること 」
・・・
《親切丁寧と云うこと》
*『光明道中記』(P138)より
どんなに『生命の實相』を読んでも、法話を聴いても、
それが日常生活の茶飯事にすら顕れるようにならなければ駄目である。
聴いただけで生活に顕れて来ない真理は、
名前を聞いただけで食べない料理と同じ事である。
それでは吾等の生命は餓えて了うしか仕方がない。
「深切丁寧」と云うことが道を行ずる上に第一のものである。
「深切丁寧」とは、凡てのものを深く愛し、切に礼する心である。
一枚の紙も、一粒の米も、深く愛し、切に礼することによって生きてくるのである。
不健康とは、深く愛し、切に礼する心の欠乏である。
物質を不親切に、無造作に、抛げやりに扱うと云うことを、
物質に執われない美徳のように思っている人があるかも知れぬが、
実はそれこそ、一切のものを観るに「物質」として観ているのであるから、
却って其の人は唯物論者であり物質観に捉えられているのである。
すべての事物を見るに、一塵のうちにも仏の国土あり、如来説法したまうと見るとき、
日常生活の茶飯事にも深切丁寧が滲潤する。
この意味に於て「行」が大切である。
・・・
【一日の法語(5月1日)】
(1)《吾(われ)は常に平和と安静と明朗である》
外界に如何(いか)なる混乱状態が起って来ようとも、
吾(わ)が内には 常に平和と安静と明朗とがあるのである。
吾は今凡(あら)ゆる外界の混乱と不幸と心配とを
自分の心から完全に捨てるのである。
不幸も、混乱も、心配も、唯(ただ)現象の世界のものであって
実相の世界には存在しないのである。
そして実相のみが実在であるから、すべて不幸も心配も実相でないから、
それはあるかのようにみえても存在しないのである。
吾は如何なる場合にも神の方へ心を振り向け、
現象界の不調和に心を捉(とら)えられるということをしないのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《祈りは父子相互の霊交である》
祈りは、吾が内在の神が、宇宙の大神に近づくところの道である。
即ち「神の子」が「親様」へ霊交するところの方法であるのである。
祈りによって、神の感情を和(やわ)らげ、神から御利益(ごりやく)を
懇請し得るのだと思ってはならないのである。
祈りによって吾々の魂が神に振向けられ、
自分の魂の波長が神に志向することによって神の波長に同化されて来、
神を変化するのではなく、自分の心境が変化せしめられ、
それによって心の法則に随(したが)って、
現象的御利益もあらわれて来るのである。
神を説き服(ふ)せ、甘言(かんげん)によって誘惑して、
神を動かし神から御利益を得ようと思ってはならない。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《暗黒の時には黎明が近づいている》
あなたの心の想い(これを想念と云います)を積極的に、建設的に、
明るい方向に、常に保つように心懸けなさい。
外観が如何に悲観的に破壊的に見えようとも、
外観の暗黒さに心を奪われてはなりません。
事件が破壊的に進行していることは、
何か新しい建築がはじまろうとしていることの証拠です。
あなたの焼け跡の地面でも、恐らく其の焼け跡に何かを建築する計画のあるまでは、
焼け跡にある色々のものを毀しはしなかったでしょう。
また折角、建っている家を毀すときには、
屹度もっと大きな新しい計画があるからでしょう。
だから今ある事物が毀れて行きつつあるのを悲しんではなりません。
外見の暗黒さに心を引っかからせはなりません。
常に明るい実相を見るのです。
暗い心をもってはなりません。
明るく愉快に現在に、誠実をもって実行を続けると必ず道が開けて来るのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P285~286>)
<感謝合掌 平成28年5月1日 頓首再拝>
【二日の法語(5月2日)】 - 伝統
2016/05/02 (Mon) 04:27:51
(1)《吾は吾を唯幸福にのみ導き給う神を信ずる》
外の世界に如何なることがおこって来ようとも、
吾は吾を唯幸福に導きたまう神のあることを信ずるのである。
吾々は現在の状態を人間の努力によって変化しようと
力む必要はないのである。
「 吾が業は吾がなすに非(あら)ず天地(あめつち)を貫きて生くる み親の力 」 と、
信ずるのである。
どんな時にも神に頼って居(お)れば
神がその時その場に適当なことをなすべく導いて下さるのである。
これを信ずるが故に吾は常に心の平和と安静とを保ち得て、
落ち着いて何事もなすが故に
如何なる暗黒をも光に変ずることができるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《祈りには心境が変ることを先(ま)ず願え》
自分の心境だけの御蔭を頂くのである。
神を拝みたおしても駄目である。
と云っても神に祈るなと云うことではないのである。
神に祈ればその間だけでも、神の方へ心が振向けられ、
自分の心が感化せられる、それこそが真の御利益である。
心境さえ変われば、心の法則によって
物質的御利益は自然にあらわれるのであるから、
寧(むし)ろ、物質的なものを心に描いてそれに心を集注するよりは、
「 神よ、みこころの如くならしめ給え 」 と
神の方へ心を振向けることを専(もっぱ)らにする方が、
心境の変化のためには一層よいのである。
神想観の実相・無限智・無限愛・無限生命の世界を心に描く祈りは
この意味で最もよいのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《肉体の習慣性に負けてはならない》
祈りを伴わない実行は、時として失敗します。
人間に於いてサカシキものも神の み前に於いては愚かなるものであります。
霊的進歩をとげなければ、一時的の成功はあっても、
永遠の勝利と云うことはありません。
霊的進歩を遂げるには、是非とも神との一体感を深めなければなりません。
そのためには神想観とか、祈りとか、坐禅とか、念仏三昧とか、
名称は異なれども、宇宙の偉大なる実在と瞑合し融合する修行を行なうことが必要です。
私たちの肉体は結局、物質として顕れていますから、それ自身に生命(せいめい)はなく、
物質の動きは唯惰力によって与えられた方向に与えられた運動量だけ動くだけのもの
ですから、結局「なまけ者」であります。
それは成るべく努力しないで楽をしたがります。
「神想観などしたくない、面倒くさい」と思うかもしれません。
その面倒くささに打ち勝つのが霊の働きであります。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <286~287>)
<感謝合掌 平成28年5月2日 頓首再拝>
【三日の法語(5月3日)】 - 伝統
2016/05/03 (Tue) 03:33:11
(1)《物事を良くするのは心配によってではない》
如何なる不調和に見え、それは正しくない
と見えるような出来事がおこって来ようとも、
私は決して心配したり いらいらしたりすることはないのである。
そこに何があろうともそれをよくする力は
自分の内に宿っているのである。
それを良くする方法は
それを心配することではないのである。
「思い煩い」を唯 捨てて
神に任せるがいいのである。
ある詩人は唱(うた)っている。
「 吾は吾が戦いを戦えるに非ず、神とともに歌を歌えるなり 」
何事をするにも神とともに歌を歌う積(つも)りで
明るくすることが大切である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《先ず 「 内 」 なる宝を発見せよ》
吾々は自己が神の子として、
自己の内に与えられている力を自覚することを
先ず目標としなければならない。
外の宝を求めるよりも、
先ず自分の内にある 「 宝 」 を発見することを
先にしなければならない。
外の力に頼るな。先ず自分を発見せよ。
自分の内の力を発見したら 先ずその力を働かせることが必要である。
祈っただけで何もしないでいることは、電気の存在を知っただけで、
発電装置も作らず、スイッチを入れないのと同じことである。
それでは、電気は存在すれども何の効果もあらわさないのと同じように、
神は存在すれども何の効果もあらわれないのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《神想観の注意》
神想観は先ず教えられた通りの基本的神想観のやり方から
入って行かなければなりません。
心がそれによって神との一体感に慣れて来ますと、
危急の場合、神想観も祈りもする余裕がなくて、
唯一言(ただひとこと)「神様 !!」と言っただけで、
神との一体感を得、そのために自動車や汽車に
撥ねとばされたが身に微傷だも
受けなかったと云うような実例がでて来ます。
毎日同じ言葉を念じていると退屈になり、
却って雑念が浮かんで来て、精神統一が失われて来るような場合には、
如意宝珠観や、普賢菩薩観や、浄円月観を行なうと
不思議に精神が統一するものである。
神想観を修するには、同一の言葉を念じても
常に新鮮な感情を籠めて念ずるように心掛けなければならない。
言葉がただ形式や、何の意味も感じも起らない
呪文的繰り返しに陥らないように
溌剌たる意味をもって念ずることが大切です。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P287>)
<感謝合掌 平成28年5月3日 頓首再拝>
【四日の法語(5月4日)】 - 伝統
2016/05/04 (Wed) 03:52:00
(1)《吾れ神と共にあり、何を恐れんや》
まず吾々は今 眼の前にある状態を
祝福しようではないか。
それが自分を害するものだという考えを
捨てようではないか。
今 眼の前にあるものは
過去の想念の影であるのである。
それはある様に見えているが
過去のものにすぎないのである。
それはすでに ないのである。
ないものに心を捉えられるな。
そこから新しいものが
生まれて来ようとしているのである。
新しきものは 自分の掌中にあるのである。
自分の手に於いて 神が働き給うのである。
神は今日ここにましますのである、自分の中に。
されば吾は何を恐れんや。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《真に神のパイプとなるには》
自然現象のほかは、
神は人間を通してその働きをあらわし給うのである。
人間が神のよきパイプとなり、よき道具となることが必要なのである。
自己を空(むな)しくしての祈りは
人間をして神のよきパイプとなることを可能ならしめ、
神の完全なる表現としての人間を完成することになるのである。
人間を通して神は自己実現したまうのであるから、人間が働かないで
行動しないでただ祈るばかりでは役に立たないのは明らかである。
祈りによって神の御心(みこころ)と同調し、行動の方向が決定せられ、
その決定せられた方向に行動をとることによって、
その人は本当に神のパイプとなり、
神の自己実現となるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《常に神想観を怠らないこと》
神想観は毎朝毎晩必ず実修する習慣をつけるが宜しい。
朝は早く目が覚めず、すぐに仕事にかからなければならぬし、
夜は、眠くて身体(からだ)がだるくて合掌するにも疲れていて
仕方がないと言うような場合には、
夜、床に入って仰臥したまま、ただ
「神と我とは一体である。神は完全であるから我も完全である。
神と我とは一体である。神は霊であるから我も霊である。
霊は金剛不壊であるから我も金剛不壊である。金剛不壊であるから
如何なる病菌にも気候の変化にも冒(おか)されない・・・」
(これは健康を欲する場合の思念の例)と云う風に、
一念その思いに心を集中して
念じながら何時(いつ)の間にか眠ってしまうがよい。
もっと簡単な”思念の言葉”としては、
「神の生命(いのち)われに流れ入りてわが生命(いのち)となりたまう。
われは無限智慧、無限愛、無限生命(せいめい)、無限健康」
と繰り返しつつ眠るがよい。
罪の観念や悔恨の観念が起って
不安な感じがとれないと云うような場合には、
自分の胸を自分の両手で抱きながら其の両手を
「神の慈手(みて)」であると想像しつつ
「神は我が罪をゆるしたまいてわれをその慈手(みて)に抱きたまう。
われは完全に赦されたり」
と念じながら眠るがよろしい。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P288~289>)
<感謝合掌 平成28年5月4日 頓首再拝>
【五日の法語(5月5日)】 - 伝統
2016/05/05 (Thu) 04:20:30
(1)《自分を害する人にさえ其(そ)の幸福を祈れ》
神はすべてを良くし給う力である。
神の力が自分より完全にそそぎ出(い)でるためには
まず吾らはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人を赦して、而(しか)して後に
神に対して凡ゆるよきものを願う所の祈りが
神に対して波長が合うのである。
十字架の中からキリストが復活した様に
吾々も亦(また)凡ゆる苦難の中から復活することができるのである。
キリストは自分を十字架につけた者さえも決して呪(のろ)わず、
「 神よ彼らを赦し給え、彼らはなすことを知らざるなり 」 といって
彼を害した人の幸福さえも祈っているのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《実相は金剛不壊完全である》
現象は遷(うつ)り変るが、実相は金剛不壊(ふえ)の存在である。
実相は神によって造られ、
神によってその存在が保たれているのであるから、
それが決して肉眼に見えなくとも滅するものではないのである。
遷り変る現象の不完全さに心を奪われて、
その奥にある真実在( 実相 )の完全さを見失ってはならない。
吾々は真実在の完全さを時々見つめるために神想観をするのである。
即ち 現象の不完全さ(五官の世界)に眼(め)を瞑(と)じて、
神の無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給、
無限の歓喜(よろこび)、無限の調和の満つる世界を
心の眼で凝視するのである。
凝視が完全であれば 現象にも その完全さが現われる。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《あなたは今何(ど)んな位置に立っているか》
人間は 「 神の子 」 である。
何(なん)らかの点に於いて 神の最高の自己実現なのです。
だから何らかの使命 又は 天分を 神は人間に与えているのです。
若(も)し あなたが現状に不満足を感ずるならば、それは
あなたが まだ自分に与えられた 「 使命 」 の上に乗っていないで、
その途中にあるか、別の方向に往(ゆ)きつつあるかしているのです。
若し今あなたの位置が本当に、神があなたを使命した位置にあるならば、
あなたは何となく自然に幸福感に満たされ、心が幸福で、
伸び伸びして自縛しないですから、計画も自由自在になり、事業は発展し、
肉体の健康も おのずから増進するのであります。
そのような時には 其の事業を遂行(すいこう)するに必要な経費も
自然に裕(ゆた)かに入ってくるようになります。
併(しか)し あなたが、若し神が
あなたに使命づけた位置にいないならば
どんなに物質に豊かであっても本当の幸福感は得られないでしょう。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P289~290>)
<感謝合掌 平成28年5月5日 頓首再拝>
【六日の法語(5月6日)】 - 伝統
2016/05/06 (Fri) 04:33:52
(1)《復活の力は「 赦し 」から出て来る》
神の愛は永遠に変わらないが、人間の心が変わって
神の愛に波長が合わなくなるだけである。
キリストが十字架から復活した様に、
凡ゆる不幸の中から復活する力が
自分の中に宿っているのである。
吾はすべての人々を赦す度毎(ごと)に
吾自身が赦されるのである。
神はすべての罪をすでに赦し給うたのである。
自分も亦すべての人を赦したのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《真の正しき祈りとは》
神想観は、実相観であり、実相において全てのものが
既に与えられていることを確認し肯定するため強き祈りであり、
不足するものを認めて懇願するような祈りではないのである。
既にこの世界は完全であり、この人間は完全であることを確認し、
ほめ讃(たた)え、感謝する祈りである。
現在、不完全な世界が与えられていることを認め、
神に懇請することによって、神がこれを修正し給うなどと
考えるのは神を侮辱するものである。
現象の不完全さは、実相を受信する「人間、ラジオセット」の
心の波の不完全さで、色々のものを混信しているからで、
吾が心を調べれば不完全さは消えるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《生存競争の必要はない》
神は萬物のつくり主であり、神は無限でありますから、
神はすべての人間ひとりひとり各々使命を与えているのであります、
神は同じ顔を二つ作らないように、寸分同じ形の花を決して作らないように、
各人の演ずる役割も、各人とも各々異なる役割を与えられているのであります、
それですから各人同じ位置で同じ仕事をするように計画されていません。
従っ真の意味に於いて各人は同じ位置を占めるべく、
同じ職につくべく争う必要は全然ないのです。
そこに一つの位置があるとすれば、
そこに坐るべき人はたった一人と云うことになっています。
この真理が分れば本当にこの世界には生存競争はあり得ないし、
嫉妬や、利益の分け前で争うことの必要もないのである。
あなたが何か現状に不満足であるならば、
あなたの内なる神が、あなたの本当の位置を探しているのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P290>)
<感謝合掌 平成28年5月6日 頓首再拝>
【七日の法語(5月7日)】 - 伝統
2016/05/07 (Sat) 03:20:58
(1)《消極的な考えを捨てよ》
時として吾らは 自分自身を弱き者と考え
自分の様なものは とても健康になれないとか
とても成功できないとか 消極的に考え勝ちなのである。
かかる消極的考えを捨てよ。
吾々を不幸にするものは外界の状態でも、
時代の流れでもないのである。
それは自分の心が消極的に傾いていることである。
これらの消極的な心の態度を克服する時、
直ちに積極的な働きが自分の内から生まれて来るのである。
而してかかる消極的な考え方を克服する道は
何よりも人間が神の子であるということを知ることである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《困難な時ほど 「 神の子 」 を自覚せよ》
困難が来たときに其の人の信仰がテストされるのである。
困難が来ぬときに 「 人間、神の子 」 と豪語するのは
容易(たやす)いことであるけれども、
実際、解決し難き困難、普通では癒えがたき病気に直面したとき
其の人の信仰がどの程度のものであるかがわかるのである。
かかる場合、信仰うすきものは
平素の 「 神の子 」 の自覚は何処(どこ)へやら、
現象の困難の前に屈従してしまうのである。
そんなときに言葉の力によって自己が神の子であることを強調し、
「 吾れは神の子であり、神の愛に強く支えられているから
如何(いか)なる困難をも克服し得るのである。
神よあなたの愛に感謝いたします 」 と
繰返し念ずることは信仰を更に強め困難を乗り切る力を与えるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《心はレンズである、向ける方向のものを映し出す》
あなたの現象不満足は、
神があなたに欲する事物を与えないからなのではないのです。
神は既に、あなたにとって最も適当な唯一の「位置」を
与えておられるのです。
現象不満足に就いて神に責任を負わせてはなりません。
神は既に必要なものを「実相」に於いては与えておられるのです。
併し現象界は、現象顕現の法則に支配されているのです。
即ち現象界はあなたの「心の影」だと云うことです。
それは神罰でもなければ、神の側の「経費節減」で、
あなたを貧しくしているのでもないのです。
あなたの心がどちらを向くかと云うことなのです。
現実の欠乏を見て、「欠乏」の光景ばかりに
「心のレンズ」を向けていますと、現象界に映ってくる光景は
唯「欠乏」ばかりになって来ます。
私たちは実相の「完全な供給」の方に
「心のレンズ」を向けるようにしておれば、
現象界に映ってくる姿は「完全な供給」のみとなって来るのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P291>)
<感謝合掌 平成28年5月7日 頓首再拝>
【八日の法語(5月8日)】 - 伝統
2016/05/08 (Sun) 04:42:25
(1)《不幸を数えるよりも幸福を数えよ》
吾は神の子であり、神の子が自分の実相であり、
そこから健康が湧(わ)いて来、インスピレーションが湧いて来、
日常生活についての色々の導きが得られるのである。
吾が内に宿る 「 神の子 」 が
人生を指導する 「 生きている力 」 である。
「 私は神の子だ。私は神の子だ 」 と
常に間断なく心の中に宣言せよ。
それが自分の中に宿っている神の子を
導きだして来る もっとも良き方法である。
凡ゆる神の祝福が神の子には
与えられているのである。
まず不幸を数えあげるよりも、
幸福を数えるようにすべきである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《困難を克服する言葉》
困難に面したときは 次の如(ごと)く念ずるが好い。
「 吾は一切のものの創造主(つくりぬし)にましまし、
吾が父にまします神が常に吾れを護(まも)り給(たま)う
ことを知るのである。
神の愛は われを取巻き、わが内にも外にも行きわたりて
我を護りたまうがゆえにわれは常に健康であり、
われは常に幸福であり、わが事は必ず成就するのである。
困難と見え、病気と見えるのは仮想であって
本当の相(すがた)ではないのである。
吾れは神の創造(つく)りたまいし 此(こ)の世界が常に善に、
永遠に善であり、常に調和していることを知るのである。
されば吾れに敵対する者は 何一つあり得ないのである。 」
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《心は「実相」と「現象」とをつなぐパイプである》
また心は一種の「パイプ」に喩えることが出来ます。
そのパイプの一端は「実相」(無限供給の世界)につながっているのです。
パイプのもう一方の端は「現象世界」につながっているのです。
そして「供給」は、常に豊かなる「実相」から
現象世界に流れ下っているのです。
そしてそのパイプに其の流れが妨げるようなものが何一つなかったならば、
豊かなる供給は常に現象世界に流れ出て来るのです。
ところがパイプ中に何かがつまります。
悲しみが詰り、憤(いかり)が詰り、不平が詰り、
憎みが詰り、欠乏が詰る。
すると、それが流入パイプをふさぐ邪魔物になって、
実相世界の無限の供給を妨げるものとなるのです。
私たちが若し、この神の無限供給 ―― 智慧の供給、愛の供給、
生命(せいめい)の供給、富の供給、歓喜の供給、調和の供給を
邪魔しさえしなければ、無限に楽しい極楽浄土が
此の儘地上に実現するのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P292>)
<感謝合掌 平成28年5月8日 頓首再拝>
【九日の法語(5月9日)】 - 伝統
2016/05/09 (Mon) 04:43:30
(1)《感謝と愛念をすべてに送れ》
自分の目の前にあるすべての事物に感謝と愛念を送ることは、
そのすべての事物を完全ならしむる所の
もっともよき方法である。
自分の目の前にあるすべての人々に
感謝と愛念を以(もっ)て祝福することは
自分自身が祝福されることになるのである。
自分の与えたものがすべて自分にかえって来るのであって、
人を害して自分が利益を得ようと思っても、
それは無駄にすぎないのである。
自分は今日から凡(あら)ゆる事物に
感謝と愛念を送り、
さらにすべての人々に感謝と祝福の念を送るのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《勝利者としての確信》
「 われ常に人生に於いて勝利す 」 と云うのが
我らの標語でなければならないのである。
一切の困難と見ゆるものは、真に困難なのではなく、
我々の力を鍛錬して高め上げるための運動競技の道具である。
吾々はその運動競技の道具を跳び超えることによって
内在する 「 神の子 」 の力を
より一層多く発揮することが出来るのである。
具体的な勝利は、勝利の確信の具象化であるのである。
勝利の確信なくして勝利したるものはないのである。
神はわが生命(いのち)であり、
わが内に神いまして、わが事業を導きたまい、
わが肉体の健康を維持したまうのである。
これを信ずるとき 如何なる病いも如何なる不幸も
我を害することは出来ない。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《すべての「善き物」と「幸福」は「実相」から来る》
多くの人達は、内を調(ととの)えずして、外からの栄養剤や薬物をもって
健康を保とうとし、外物を色々と工夫して幸福を得ようとし、外的な技巧や工夫で
繁栄を来たそうとしますけれども、それは結局不結果に終わるのです。
何故ならそれは、「実相」(無限供給の世界)から流れ来るパイプの内に、
その「供給」を求めずして、外に何かを工夫すれば「供給」が流れ入るだろうと
考えているからです。
それは喩えば、水源池から来るパイプの外から水道の水は流れてこないと同じように、
「実相」から来るパイプ以外からは何の供給が来る筈もないからです。
私たちは、すべての善き物を唯、
「神」からのみ、「実相」からのみ得ることが出来るのです。
では「神」に祈ってばかりおり、「実相」を観じてばかりおれば、
何も行動しないでもよいかと云うと、決してそうではありません。
では、どうすればよいか?
考えて下さい。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P293>)
<感謝合掌 平成28年5月9日 頓首再拝>
【十日の法語(5月10日)】 - 伝統
2016/05/10 (Tue) 04:17:14
(1)《神の扉は暴力では開けない》
まず神の扉を開くことが第一である。
神の扉は 暴力では開けない。
我(が)の力でも開けないのである。
それは感謝によって開かれ
愛念によって開けるのである。
与えれば与えられる。
自分がまず与える心をおこすことである。
「 神よ、私はあなたに私自身を与えます。
私の肉体を 私の心を私に属する凡ゆるものを
あなたに与えます。
私の肉体をあなたの欲し給(たま)うが如(ごと)く
お使い下さい。
私の心をあなたの み心のままにお導き下さい。
私の仕事をあなたの管理の下にお導き下さいませ 」
こう 真心から祈ることが必要である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《先ず人生観を変えよ》
人生が思うようにならないとか、
健康が思うようにならないとか云うものは、
自己の想念を変化し、自己の人生観を変化し、
生活感情全体が変化しなければならないのである。
先ず自己が神の子であることを信じ、
神の全能の力がわが内に宿っていることを信じ、
神の創造り給える環境が常に自分に対して
微笑(ほほえ)みかけていて下さることを信じ、
楽観的な気持をもって、自己内在の力を出来るだけ出すようにするならば、
事業に於いては新しき機会が、健康に於いては新しき活力が、
おのずから目覚めて来って、
輝かしい成功と健康とを実現することが出来るのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《神の智慧を頂くこと》
私たちは本当の幸福は、
外的な技巧や工夫によって得られるのではないと云っても、
現象界で現象的努力をするなと云うのではありません。
現象界でする努力が、実相界から流れ入る智慧によって、
実相界の「完全な状態」を現象的に現像する工程として、
自然法爾に流露して来る「自然の努力」になる事が
必要なのであります。
実相界からの智慧を遮断されたる「人間的工夫」ほど
愚かなものは無いのです。
それは賢(さか)しらに見えつつ却って失敗するのです。
私たちの努力は自力で計らう努力でなくて、
神の智慧が「自分」と謂うパイプを通して流れ入り、
神の智慧に計らわれえている努力にならないと可(い)けないのです。
即ち、計らわずして計らわれている其の儘自然のハタラキに
ならなければ可(い)けないのです。
先ず仕事や勉強を始める前に暫く祈って、
神の智慧と能力を頂いてから始めましょう。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P294>)
<感謝合掌 平成28年5月10日 頓首再拝>
【十一日の法語(5月11日)】 - 伝統
2016/05/11 (Wed) 05:02:03
(1)《内在の 「 神の子 」 をくらましてはならぬ》
吾々が救われるのは
吾々の実相によって救われるのである。
神の子である所の
すでに救われている実相を認めることが必要である。
神の子をくらます様な何事をも なすな。
自分にいる所の 「 神の子 」 をくらましては
自分自身は滅びるより仕方がないのである。
吾々は自分に宿る 「 神の子 」 を通してのみ、
凡ゆる困難に打ち勝って勝利者となることができるのである。
吾に宿る神の子は、
自己に宿るキリストであり、
内在の仏性である。
それに目覚めることが第一である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《神に対して心を調節せよ》
何事が起って来ても
恐怖の旋風の中に巻き込まれる必要はないのである。
神は吾らの父であり給い、神は愛であり給うから、
どんな時にも、神を呼べば神は必ず護っていたまうのである。
神は、どんな不調和の中にも調和を、争いの中にも平和を、
病気と見ゆるものの中にも
健康を打ち立て給うことが出来るのである。
併(しか)しそれが現実にあらわれるには、
ラジオのように心の波長を合わすことが必要である。
常に、自分の心を神に向って調節せよ。
暇ある毎に5分間でも3分間でも利用して、眼をつぶり、
「 自分は神と一体である。神は愛であるから、
自分は常に神の愛に護られている 」 と
暫時(ざんじ)思念することは、心の調律に大変よい。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《或る西洋の寓話》
或る日、父と子供とが花園の手入れをして草花に水をやっていました。
子供は水道の栓にゴム・ホースをつないでホースの先から出る水を
草花に濯(そそ)いでやるのが、楽しみでした。
ところが突然その水道の水が停(とま)ってしまったのです。
「お父さん、水が出なくなりました!! 」と其の子供は叫びました。
父は振り返ってゴム・ホースを見ました。
見ると、其の子供自身がゴム・ホースを右足で踏んでいるのです。
「お前がホースを踏んでいるではないか」と、父は子に言いました。
子供は気がついて右足を挙げますと、また元の通りゴム・ホースから
水が豊かに噴出しはじめました。
ところが暫くする子供はまた叫びました。
「お父さん、また水が停まりました。
足は挙げているのに水が停まったのです。」
父がまた振返って見ますと、
今度は子供の左足がゴム・ホースを踏んでいました。
親からの無限供給があなたの日常生活に杜絶(とだ)えるのは、
ちょうど此の譬え話の通りであります。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P295>)
<感謝合掌 平成28年5月11日 頓首再拝>
【十二日の法語(5月12日)】 - 伝統
2016/05/12 (Thu) 04:56:40
(1)《不幸と見えるものは 「 過ぎ行く 」 波である》
何事か自分を傷つけるものがおこって来たならば、
それを唯(ただ) 「 過ぎ行く姿 」であると観ぜよ。
全(すべ)ては波動的順序をもって前進する、
下にくぐった波は必ず上に上(のぼ)る。
「 愛する者の死 」 があっても悲しんではならぬ。
悲しまない模範(てほん)が見せてある。
彼は本当には失われてはいない。
いずれも波である。
一層高き世界に上らんがために
一時 姿を消したにすぎない。
神の み手に於(お)いては
何ものをも 未だかつて失われはしない。
すべての悪く見えるものは すぎ行く。
そしてよきものが顕現する過程である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《神の愛を 「 自己 」 を通して表現せよ》
周囲の人々が自分に対して悪意を抱いているように見えるときには、
自分の方が周囲の人々に好意をもっていないか、冷淡であるか、
敵意をもっているか、恐怖心をもっているかが、
相手に映って、そう現れるのである。
あなた自身が、 「 自己の内に神の愛が流れ入りて、
私と云うパイプを通して神が彼等を愛し給うのである 」
と念じて、
自由に神の愛の言葉を、そして行為をあなたを通して
周囲に注ぎかけるならば、そのような敵意も恐怖も消えて
周囲全体が調和ある状態に変化するのである。
どんな困難な事態でも、
真に神の愛が貴方(あなた)を通して実現するならば、
調和が現れるほかはないのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《執着なき「其の儘の心」に本当の智慧が湧きます》
ゴム・ホースの寓話は何を語るものでしょうか。
水道の水は「神の無限供給」の喩(たと)えです。
柔らかいゴム・ホースは、
其の儘素直な柔(やわら)かな「受け入れる心」です。
そのまま受ける柔(やわらか)い心である限りは
自然法爾に供給が無限にやってくるのです。
それに「自分の心」の執着の重荷がかかりますと、
それが知らず識(し)らず人間的なハカライになって、
無限供給のゴム・ホースの通路をふさいでしまうのです。
「傍目八目(おかめはちもく)」と云う諺(ことわざ)があります。
碁を打っている本人には「勝とう」と云う「執着の重荷」が
「神の智慧の無限供給」のホースを時々踏み押(おさ)えてしまうから、
神の智慧の流通を妨(さまた)げて、却(かえ)って
ヘマな所へ石を打ったりするのですが、
第三者たる観戦者は、自分が「勝とう」と云う執着の重荷がないから
神の智慧が其の儘素直に流れ入(い)って来て、当事者その人よりも
傍目(おかめ)で見ている人の方が良き智慧が湧いて来ると云う意味です。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P296>)
<感謝合掌 平成28年5月12日 頓首再拝>
【十三日の法語(5月13日)】 - 伝統
2016/05/13 (Fri) 04:32:43
(1)《汝(なんじ)の舌にて善き言葉のみを語れ》
汝の舌によって憎みの言葉を語るな。
悪しきことを語るな。
人を呪(のろ)う言葉を語るな。
汝の心に悪を思うな。
怒る勿(なか)れ。
憎む勿れ。
そして唯 実相のみを見よ。
これ汝らが神によって救われんがためである。
神は無限の愛であるから
何ものをも憎み給うことなく、
怒り給うことなく、
永遠に吾々を祝福し給うているのである。
常に神にふりむけ、
そして愛の言葉のみを語れ。
人のよきことのみを語れ。
かくれたる所にて
凡ゆる人々をほめよ。
それが自己に於いて
神を現わす所の
最善の智慧である。
誰かが自分の心を傷つけようとも、
それは かつて自分が誰かを傷つけたことがあるからである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《如何なる時にも相手の内に 「 愛 」 の心を見よ》
真に幸福なる生活を送ろうと思うならば、
周囲の人々に対して絶対調和した心持で
いなければならないのである。
周囲の人々に怒りや憎みや恐怖の感情をもっている限りは、
物質的に幾ら豊かな生活を送っていても
其人(そのひと)は幸福だと云うことは出来ないのである。
誰でも愛されたいのに、その相手がこちらを憎んでいるのは、
こちらが相手を愛してあげようが足りないからである。
憎みの言葉を相手がこちらに投げかけても、実はその人は
「 私はあなたに愛されたいのに、愛してくれないから、
私は止むを得ず、やけくそに貴方に意地悪をするのよ 」
と心の中では言っているのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《冷淡すぎるものは執着よりも尚悪い》
「執着がないその儘の心」と云うのは、
「なげやりの無関心の心」とはちがいます。
人が碁を打っている時、傍から非常な興味をもって
それに注視しているのが「傍目八目の心」です。
それは欠点も見、長所も見、すべての細目を見のがさない心です。
しかし「自分が勝ちたい」と云うような執着はないのです。
ところが「なげやりの無関心の心」と云うのは、
碁の場合に喩えて見れば、別に囲碁の盤面に興味をもたず、
煙草でもふかしながらヨソ見をしているような心です。
執着はないが、同時に愛情も興味も誠実もないのです。
そんな執着のない心では駄目であります。
愛は一歩あやまれば執着となり、
正しくそれが行なわれれば誠実となります。
「愛が全然ない」位ならば「執着の愛」でも、
無いよりもある方がよろしい。
其処から愛が発展し浄化されれば、執着が浄まって誠実となります。
煩悩そのままに菩提(さとり)となるのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P297>)
<感謝合掌 平成28年5月13日 頓首再拝>
【十四日の法語(5月14日)】 - 伝統
2016/05/14 (Sat) 05:00:01
(1)《吾が真実の自分は 「 神の子 」 である》
吾に宿り給う 「 神 」 が本当の自分である。
神は遠い所に ますますのではなくして
今ここに自分の内に
凡ゆる善を与えんがために すでに い給うのである。
全能の神が自分の内に宿っていて、
もし自分がそれに振り向きさえするならば、
いつでも神は吾がために働き給うのである。
常に神は働き給うているのであるのに
気づかずして、神からはなれて 自分の我で
物事をしようとするから失敗が現われて来るのである。
神は吾にその生命を
投げ入れ給うたのである。
それ故に吾も神に吾が生命を
投げ入れるべきである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《如何なる場合にも相手の仏性を見よ》
人の表面の言葉や、行いで、其の人の愛を疑ってはならない。
現象を見て人を審判(さば)いてはならないのである。
どんな人にも仏性が宿っており、キリストが宿っているのである。
たとい誰かがあなたの感情を害することを云おうとも、また行おうとも、
相手に対して憤りの感情を起すよりも、
「 あの人が幸福になりますように 」 とか、
「 あの人の“ 神の子 ”さんがあらわれますように 」 とか
祈ってやる気持になる方が、
自分の心に平和と幸福とが訪れて来るのである。
そして終(つい)には相手を感化して、
真に相手を深切な人に化することが出来るのである。
特に自分に病気のある場合は人を憎んではならないのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《神から与えられた「生命(せいめい)」はその絞りようでどんな形にも変化する》
私たちの一挙手一投足が、神の智慧の流入を受け、神の智慧に導かれ、
自分自身が神の指定したまえる軌道の上におのずから載っているとき、
私たちは幸福感に満たされるのです。
しかし其の様な状態になるためには如何にすべきでありましょうか?
再び「水道の水」とゴム・ホースの喩えをもって話すことに致しましょうか。
ゴム・ホースから噴出する水は、ホースの先に色々の形の孔(あな)のあいた
金具をつけて、水の出方を絞ることによりまして、水は太い噴水のようにも、
細い噴水のようにも、霧のようになっても出ます。
そのホースの向け方によって、火事を消す働きにもなりますし、
家中水浸しにしたり、自分の顔にまともに水を浴びることにもなります。
その水は建設的にも破壊的にも使えるのです。
私たちは神から与えられたる「生命(せいめい)の水」を
破壊的に使うことを止めて、建設的に使うようにしなければなりません。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P298>)
<感謝合掌 平成28年5月14日 頓首再拝>
【十五日の法語(5月15日)】 - 伝統
2016/05/15 (Sun) 04:33:31
(1)《敵はないのに敵と見るな》
何人(なんびと)かが あなたから幸福を取り去り得ると
あなたはお考えになりますか。
すべて不幸な境遇は、自分の外(ほか)にある物が
自分から幸福を奪い去る力があると思う所から生ずるのである。
然(しか)し乍(なが)らあなたの幸福は本来あなたのものであって、
外にある何ものによっても奪われるということは
決してあり得ないのである。
あなたの幸福が誰から奪われるかも知れないとあなたが恐怖する。
そしてあなたが相手を敵と認める。敵はないのに敵を認める。
想像の敵が具体化して遂にあなたを不幸に陥れることになるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《人を審判(さば)く心なかれ》
外見にあらわれている悪(病気、悪意、不調和等)を
存在すると思ってはならないのである。
それは実在するのではなく、「あらわれ」ているに過ぎないのである。
「あらわれ」と云うものは相対的関係で、
そう見えるに過ぎないのである。
こちらの心が変われば「あらわれ」は変化して見えるのである。
あらゆる病気、不調和、悪意などは、神が創造らないのであるから、
真に存在するものではないのである。
現象(あらわれ)を見て心がひっかかってはならない。
人を審判く心は、痛みや、狭窄(きょうさく)や、胃潰瘍や、
出血性の病気や、高血圧病の原因である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《生命(せいめい)の輸送管をふさぐ汚物》
私たちが、破壊的なことを思ったり語ったりするとき、
事物の暗黒面を語ったり思ったりするとき、
また私たちが利己主義の心を起こしたり、高慢な心を起こしたり、
恐怖したり、不平の念を起こしたり、自己憐愍の感情に捉えられたり、
人を憎んだり、恨んだり、悪しざまに批評して鬱憤をはらしたり、
無駄な持越苦労や取越苦労に自分の生命力を浪費したりするとき、
私たちは神から与えられた「生命(せいめい)の水」を破壊的に使う
ことによって浪費しているのです。
これらの破壊的な想念感情は、此の世界を美しい花園にするための
「生命(せいめい)の水」を流通させるゴム・ホースに、汚物をもって
栓をすることになるのです。
其処から精神的にも肉体的にも経済的にも色々の故障が起こって来るのです。
私たちは此のような心の塵をもって生命(せいめい)の輸送管を
つまらせないようにしましょう。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P299>)
<感謝合掌 平成28年5月15日 頓首再拝>
【十六日の法語(5月16日)】 - 伝統
2016/05/16 (Mon) 04:28:08
(1)《神の子たる貴方(あなた)の幸福は 自身以外の誰も奪うことは出来ぬ》
この世界は神の造り給うた世界であるから
何事も恐るべきものは真に存在することはできないのである。
他の人が何と云おうと、何をなそうと、
彼らが吾々自身の幸福を奪うことはできないのである。
人間は神の子であるから、
神の子には幸福がつきものであるのである。
神は全能であるから
神が神の子に与えた所の幸福を
他(ほか)から奪うことはできないのである。
吾は常に神とともに生き、
神とともに働きつつあるのである。
すべての幸福は
自分のものであるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《先ず神の智慧に導きを願えよ》
一日の仕事を始むる前に、
神に導きを求めてその仕事を行うようにすることは、
よき仕事を行う上に是非とも必要なことであるのである。
「 神の智慧 流れ入りて わが仕事を運ぶ道を導き給う 」 と
時々瞑目して心に念じ、神の智慧に常に接触しながら
仕事を運ぶようにすると失敗はないのである。
神の智慧に接触するには、決して複雑、多言の祈りの言葉を
要するものではないのである。
神の智慧に振り向いて、
「神よ」又は「父よ」と称えて心が平和に本当に落着いて、
神の心と波長が合えばよいのである。
又、時々「日々読誦三十章経」をひらいて、
その思念の言葉を念ずるも好い。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《暗黒から光明に転向すること》
神から来る智慧と能力と生命力と、あらゆる善きものとの
供給を、少しも絞らずに豊かにそれらを受けよと思うならば、
自己中心・利己主義の心を止(や)め、愛他的の心を起こし、
心を寛大にして他(た)を赦すと共に、
すべての人々に調和と善意の心を持ち、
自己をも”罪”の観念に依って縛らないようにしなければなりません。
「罪」は「包み」であり「隠覆(いんぷく)」であり、
「光」に向かわず、「光」に背を向けている状態に過ぎません。
「悔い改め」と云うのは「ああ、今まで私は光に背を向けていた、
間違っていた、済まなかった」と気がついて、
クルリと向きをかえて光に面することを言うのです。
暗黒から転向して光に向かうことが完了しなければ、
本当に「悔い改め」が完了したのではありません。
いつまでも暗い方を向いて「自分は悪かった、悪かった」と
自己責罰の感情に捉われているのは「悔い改め」ではありません。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P299~300>)
<感謝合掌 平成28年5月16日 頓首再拝>
【十七日の法語(5月17日)】 - 伝統
2016/05/17 (Tue) 03:35:13
(1)《難問題の解決は神にゆだねよ》
右すべきか左すべきか決定することの
できないような難問題に面した時には、
直ちに神にふりむく事が必要である。
神の智慧は曲れるを直くし、
くだけたるを完全ならしめ、
傷つきたるを癒やすべき道を知り給うのである。
かかる際には
「 わが魂の底の底なる神よ 無限の力湧き出でよ 」
と念ずることが必要である。
この言葉を数回念じて 心を平静にしていると
自然に適当な智慧が 自分の中(うち)に湧き出て来て、
如何なる難問題も解決されることになるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《心を明るく持てよ》
心の明るさと云うことが第一に必要である。
神に祈って効果がない場合、概(おおむ)ねその人に
心の明るさが欠乏している場合が多いのである。
神は光であるから、
神の波長に合うためには先(ま)ず明るい心が必要である。
すべての恐怖や心配や取越苦労などを“かなぐり”捨てて、
神に全的にまか切ることが必要である。
「 私は朗らかである。私は神の子であるから、
親様なる神が 私のすべての事を見戍(みまも)り給うから、
私は神にすべてをまかせて、心平和である。
すべての事は必ずよく成就するのである。」
と時々、眼を瞑(つぶ)って念ずるようにし、
心の平和と朗らかさとを回復するがよいのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《「罪」より転向するとは?》
「光」に向きかわるには
「神」の方へ完全に向き変わらなければなりません。
「過去の悪」や「過去の罪」の方へ向いて、
グジグジ思いわずらってはなりません。
神は貴方を常に赦していられるのに、
貴方自身が貴方をゆるさないような事では、
貴方自身が神に背いていることになります。
光に面したとき、すでに暗黒(やみ)は存在し得ないように、
あなたが神の方へ完全に向き返ったとき、
最早「罪」も「悪」も存在しないのです。
しかし本当に「光」の方へ振向くのにはそうずればよいのでしょうか。
一方に於いて破壊的な暗黒的な想念感情を起こさないようにする
と同時に、他方に於いて神に祈ることです。神想観を行ずることです。
神以外の何かをもとめる祈りは、本当の祈りではありません。
神以外の何かを目的とする神想観は本当の神想観ではありません。
「神よ、み国を来(きた)らしめ給え、み心の天に成るが如く、
地にも成らしめ給え。」
これこそ純粋なる祈りであります。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P300~301>)
<感謝合掌 平成28年5月17日 頓首再拝>
【十八日の法語(5月18日)】 - 伝統
2016/05/18 (Wed) 03:45:27
(1)《すべての事物は結局は最善の結果へ向かう》
もし吾々がここが神の世界であり、
凡ゆるものが自分を祝福するために
共同作用を営みつつあるものだということがわかるならば、
吾々は 現在目の前に進行している出来事が
どんな不幸の様に見えても
それについて思い煩う必要はないのである。
もし吾が心の平安が害(そこな)われるということがあるならば、
その瞬間ふりかえりて光明面に心を転じさえすればいいのである。
それには
「 すべてのものは 共同作用を営みつつ 吾が善を成就しつつあるのである 」
と繰り返し繰り返し心に念ずるがいいのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《何が神の導きかの判断について》
心に催して来ることが神の導きか、
我の導きかどちらかであるかと云うことを
決定する標準と云うものがあろうかと問われることがある。
何でも自分の心に催して来ることが神の導きだと
思えば大変な間違いを演ずるかも知れない。
神の導きは、神の利己主義ではないから、
自他一体の幸福になるような願いは神の導きなのである。
自分の願いは
利己主義でないか、
愛にかなうか、
他に迷惑を及ぼさないか、
自己欺瞞(ぎまん)ではないか、
向上の道にかなうか、
反動的感情にかられていないか、
冷静な判断に因(もとづ)くものか ―
若(も)しこれらの反省によって正しいと考えられるものは
神の導きと考えて好(よ)い。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《短時間の祈りを度々繰り返すこと》
神想観は普通1回30分間朝晩行なうのでありますが、30分間と、
まとまった時間が得られない人にとってはもっと短い時間の祈りを
1日10回乃至20回行なうがよいと思います。
神想観は観法ですから一定時間の持続を必要としますけれども、
祈りはもっと短い時間で事足りるのであります。
祈りが純粋であるためには、
「幼な児」の心、完全なる謙抑(へりくだり)の心、
無我の心にならなければなりません。
「神よ、み国を来たらしめ給え。み心の天に成るが如く地にも成らせたまえ。
わが欲することを求むるに非ず。み心を・・・み心を・・・み心を・・・」
こう念じて、自己を思わず、何事をも何物をも求めず、心をひたすら、
「自己臍下丹田の神」にふり向け、御心のかすかなる響きをも、素直に
聴き漏らすまじと熱心に傾聴する気持ちをもちつづけること1回3分間
――― これを毎日10回乃至20回繰り返すのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P301~302>)
<感謝合掌 平成28年5月18日 頓首再拝>
【十九日の法語(5月19日)】 - 伝統
2016/05/19 (Thu) 05:01:27
(1)《神を憶(おも)えば、神は人を憶う》
如何なる現象の困難に面しようとも、
それについて思い煩わないものは幸いなるかな。
彼は神に祝福されたるものである。
神を思い出せば
神の光を受けるのである。
すでに光は与えられているけれども
思い出さないのは
神に対して波長を合わさないのと同じことである。
神が常に吾と共にあり、
吾が内に宿って い給うこと
ラジオの波が到(いた)る処(ところ)に存在するのと
同じことである。
然(しか)し波長を合わさなければ
放送は きこえない。
それと同じく神が常に内にとりまいているけれども、
吾々が神を思いださない限りは
その恵みを完全には受け取ることはできないのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《祈りは内在の神を展開する》
祈りの効果と云うものは、神を説得によって感動せしめるのではなく、
祈りの深まることによって、神われと共にあり、神われに来りたまいて、
われを通して働き給うていると言う自覚が深まると云うことである。
この自覚の深まるに従って、内在無限の神性が展開し出(い)で
何事も順調に行われるようになり、身体に於いては内在無限の
自然療能力が発現して、病気も速やかに癒(い)えるのである。
自分を圧倒するような困難、迚(とて)も助からぬと云うような病気
― こんな時には、暫(しばら)く人間的思慮を止(や)め、
神の前に跪(ひざまづ)いて神のはからいの前に
全自己を投げ出すべきだ。
其(そ)の時、「我(が)」の障礙(しょうげ)が消え、
神の力が発現するのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《自己臍下丹田の神》
自己臍下丹田の神と謂っても、別に形の臍の下のところに
神がましますと云うのではない。それは「種子(たね)」
の中にある「花」の形のようなものである。
種子(たね)を植えねばその植物が伸びて花を咲かせることは
不可能であるから、種子(たね)に《於いて》花の「理念」は
在るのであるが、
では種子(たね)の何処(どこ)にその花の「理念」(精神的原型)
があるかと顕微鏡で探し求めてみても、物質の種子(たね)そのもの
の中にはついに「花の理念」はみつからないのです。
花の理念は種子(たね)に《内在し》ながら、
その「物質的形態」の《中にはない》のです。
それと同じく人間に「内在する神」も
形の臍下丹田に居給うのではない。
而(しか)も矢張り「自己」に《於いて在る》のである。
先ず天地遍満の神を観じ、
その神が静呼吸の吸う息と共に自己に流れ入って、
自己臍下に《於いて》「内在する神」を観じ、
その御心にひたすら心を集中して、
そのみ心のみ、声のみ、ひたすら聴かん事を願いて
一点集中するのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P302~303>)
<感謝合掌 平成28年5月19日 頓首再拝>
【二十日の法語(5月20日)】 - 伝統
2016/05/20 (Fri) 03:46:36
(1)《赦(ゆる)してただ信ぜよ》
唯(ただ)信じさえすればいいのである。
信ずるとは 如実に神が今此処(ここ)、自分の内に
働いていたまうことを知ることである。
信念は 神に対して波長を合わす。
「 神さま、神さま、神さま、神さま・・・」 と百遍千遍
暇があれば神に対してよびかけよ。
神は 常にあなたにこたえ給うであろう。
神は決して罰をあてる恐しい地獄の鬼ではないのである。
神は赦しの神である。
愛の神である。
唯、自分が人の罪を赦していないと、
自分には「赦し」の波長が受けられない。
困難の時に神によびかけるだけでなく、
平和の時に神に対してよびかけよ。
神は汝(なんじ)の愛深き父である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《周囲の人々を完全にするには》
あなたの家族や周囲の者が
不愉快な習慣や癖(くせ)をもっているからと言って、
それを直せと云って忠告することが却って
反抗心を唆(そそ)って直すのに邪魔になる場合がある。
そう云う場合には神にそれを委ねる方が好いのである。
神は全能であり、神の支配下に全然それが委(ゆだ)ねられる時、
人間の我が偏りによってあらわれていた一切の悪習慣が消えるのである。
相手を、審判(さば)く心や、批難(ひなん)する心で眺めることを止め、
相手が如何(いか)に肉眼に見えようとも、
悪しき姿は自分の妄想の描いた虚像であるとして否定し、
「 既に彼は神の子で、神の支配下にあるのであるから、
神の像(すがた)そのままに完全円満である 」
として心の底深く礼拝するのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《魂の浄化期間を設けるがよい》
塵も積もれば山となり、点滴、よく石を穿つ。
1回3分間の祈りでもそれが1日20回も繰り返され、
しかもそれが純粋なる願いに裏付けされるときには、
それはついに偉大なる力となり、神の声なき御声を聴くことが
できるようになります。
更に速やかに魂の浄化を遂げようと思えば、10日間を限って、
全然利己的損得勘定の思いを起こさず、人を憎まず、争わず、腹立てず、
嘆かず、不平の心を起こさず、何事にも其の儘素直にハイと受けて行じ、
暗い心を捨て、明るい心を持ちつづけ、一切のものに対して感謝の念を
起こすようにつとめることです。
10日間だけどと限って行なうのは、1ヶ月も、1年もつづけてやれと
云われたのでは、「到底不可能である」と思って後退する人も
あろうけれども、10日間と思えば出来ぬことはないのです。
併し自宅では、これまでの生活習慣で出来にくいかも知れない。
そんなときには、生長の家の飛田給練成道場や宇治習練道場や
長崎練成道場で、世間から離れて一時練成を受けるのも一つの方法です。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P303~304>)
<感謝合掌 平成28年5月20日 頓首再拝>
【二十一日の法語(5月21日)】 - 伝統
2016/05/21 (Sat) 03:29:19
(1)《神は吾が重荷を軽からしめ給う》
あなたにとってどんなに難しくそれが見える時にも、
神にとって難しいものは一つもないのである。
どんな病気も神なら治すことができるし、
どんな借金も神なら払うことができるのである。
自分の体を 神の体だと思え。
自分の仕事を 神の仕事だと思え。
神は 弱き体をも 力士の如(ごと)く 強くならしめ、
貧しきものを ソロモンの如く 富ましめることができるのである。
今日、一日を神の仕事の番頭であると思いて業務を励め。
重荷を自分で負うな。
重荷は神に委(ゆだ)ねよ。
然して平安であれ、心安かれ。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《みずから神を拒むな》
神は幸福の源泉であり、
人間に幸福を与うることを悦び給うのであって、
決して人間に不幸や貧乏や病気を与え給うのではないのである。
不幸や貧乏や病気は、吾々が勝手に神を拒んだ結果に過ぎないのである。
神は幸福の源泉であるけれども、
人間に完全なる自由を与え給うていられるのであるから、
それを拒む場合には幸福を強制し給うことはないから、
自己選択によって不幸や病気や貧乏があらわれて来るのである。
それは写真師が焼付の時間を選択することによって、
呆(ぼ)けた調子の写真でも、ドギツイ調子の写真でも、
完全な写真でも造り出し得るようなものである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《想念感情は現実の状態の原因である》
私たちの肉体の状態、そして環境、境遇等ことごとく想念感情の具象化です。
それは何らかの機会に自分の潜在意識に飛び込んだ想念感情のこともあるし、
過去からの物の考え方の習慣性であることもあります。
この潜在意識に蓄えられている「考え方の習慣性」を変化しない限りは、
自分の肉体の状態も、家庭生活の状態も、勤務先の環境も、
決して変化するものではないのです。
私たちが過去の「考え方」の習慣性に支配されている限りは私たちは過去の
「考え方」の奴隷であって、新しい「自己支配」と云うことは出来ないのです。
想念(即ち潜在意識中に、どう考えているかと云うこと)が
私たちの人生を動かしている主要な設計構図であり、
動力の回転の仕方を変化するものであるのです。
私たちの想念感情が一変すれば、私たちの境遇も運命も一変するのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P304~305>)
<感謝合掌 平成28年5月21日 頓首再拝>
【二十二日の法語(5月22日)】 - 伝統
2016/05/22 (Sun) 03:40:37
(1)《汝を害する物は自分自身以外にない》
何ものも何ものもあなたを害するものはないのである。
自分が心の中に 「 害するもの 」 を認めさえしなければ
この世界にあなたを害するものは一つもない。
「 知らずして害された 」 という人があるかも知れないけれども、
本当は人間には、その潜在意識に於いて 「 知らないもの 」 はない。
知り乍(なが)ら自然と害を受ける様な所へ
自分の位置を持って行くのである。
それは自己処罰の考えからも出て来るし、
自己犠牲の心からも出て来る。
他が害するのではなく
自分自身の 「 受難の心 」 が自分を害するのである。
※ 何ものも何ものも・・・「 何者も何物も 」の意。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《想念の波動で世界を平和に》
世界の現状は、個人的肉体人間の姿を現していて、
雑誌や講演で説教しているだけでは
どうにもならないような行き詰りの状態をあらわしている。
肉の殻を脱してもっと自由自在の状態になり、
霊界から強力な精神波動を送ることによって、
全人類の想念感情を正しき方向に向けかえない限り、
全人類は、平和と幸福とを希望しながら、却(かえ)って
不幸と擾乱(じょうらん)の方へ巻き込まれそうである。
「 生命の實相 」 第五巻霊界篇には、欧州大戦に於いて
白色高級霊(ホワイトスピリット)が強力な平和の霊波を送って、
人類の不幸を押し返したと云うことが書かれている。
押し返すときに押し返さなければ
人類の不幸は益々(ますます)加わるばかりである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《神と偕にあれば災難は自然にのがれる》
「生長の家」の誌友の中には、最初の計画を愈々(いよいよ)
その日になって已むを得ず変更しなければならぬようになり、
その変更がなかったら非常な災難に遭う筈だったが
救われたと云うような実例が度々あります。
木星号の飛行機が三原山に激突墜落した時にも、
その飛行機に乗る筈であったのに乗らないで助かった
山上新太郎氏のような実例であります。
ノモハンの日ソが衝突してその日本部隊が全滅したとき、
生長の家の一人の誌友は恰度その時、肋膜炎に罹ってノモハン進駐の
予定の行動を止む得ず変更して入院していました。
生長の家の信者なのに病気に罹るなんて妙だし、
恥ずかしい事だと考えていたところが、やがて彼は病院にて、
自分の部隊が全滅したことを知ったのです。
若し入院していなかったら、戦線に出ていて
全滅の仲間入りをするところだったのです。
これなどは「内に宿り給う神」の聖なる導きによって、
故意に運命が修正せられ、
病気になって病院に逃避せしめられたのであったのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P305~306>)
<感謝合掌 平成28年5月22日 頓首再拝>
【二十三日の法語(5月23日)】 - 伝統
2016/05/23 (Mon) 03:57:40
(1)《神は犠牲を要求し給わぬ》
犠牲が必要であると思い、受難が必要であると思うのは、
神が造り給うたこの世界に何か足りない所があって
自分の犠牲や受難によって
それを補うてやらねばならないのだというような、
神の創造の完全さを信じない増上慢の心から生ずるのである。
神の造り給うた此の世界は、
人間の犠牲によって補わなければならないという様な
そんな不完全なものでは決してないのである。
犠牲も要らず受難も要らず、
唯 神の完全なる生活を営ましめんと欲し給うのが
神の み心であるのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《人類互に拝み合え》
何故(なぜ)、人類が幸福と平和とを望みながら、
不幸と擾乱とに巻き込まれて行くかと云うと、
互いに人間が神の子であることを本当に信じないからである。
互いが相手を悪意に満ちているのであり、
こちらを害するに違いないと疑うがゆえに、
その疑う想念の具象化として相手は益々悪しき状態にあらわれ、
ついに重大なる結果を来すのである。
現象を見て分析し、此処(ここ)に相手の悪があると
みとめて対応策を考えているような事では駄目である。
彼を悪であるとしてこちらが憎めば、
相手もこちらを悪であるとして対抗して来るのである。
人類全体が人間を神の子として互いに拝むようにならなければならぬ。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《全身心、全存在の革命を目指して》
「真理」の全貌を全身心をもって捉えるとはどうするのでしょうか。
あなたの全想念全感情が、神の全想念全感情と直通し、
あらゆる場合に於いて、あらゆる行動をとる場合に、
神をそのままに思考し、神をそのままに計画し、
神をそのままに感情を動かし得ると云う状態になることであります。
これは中々重大なあなたの全存在の革命です。
この全存在の革命が成し遂げられていなければ、
あなたは本当に救われているとは云えないのです。
これはあなたの「存在」の春季大掃除どころではないのであります。
それは、あなたの「全存在」と建造物の建替です。
今までの「内についたる欲望(のぞみ)」
「物質についたる願望(ねがい)」の
一切を捨ててしまわなければならないのです。
「病気を治してほしい」「金を儲けさせて欲しい」
「自分の子供を入学させてほしい」と云うような一切の利己的ねがいを
断ち切ることから出発するのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P306~307>)
<感謝合掌 平成28年5月23日 頓首再拝>
【二十四日の法語(5月24日)】 - 伝統
2016/05/24 (Tue) 04:05:16
(1)《神のみが実在である》
吾々を動きのとれなくするのは恐怖心である。
他物でもなく他人でもないのである。
蛙(かえる)は 蛇にみつめられると、
自由自在に逃げる力はありながら、
恐怖心によって自分自身を縛ってしまい、
蛇の餌食(えじき)となる。
多くの病人は自己の内部に、
生きる力、回復する力をもちながら、
恐怖心のために生活力を縛ってしまい、
病気の餌食となってしまう。
吾々は色々の意味に於いて自分を縛る恐怖心を
多少とも もっているものであるが、
それは まだ全身全霊が 「 神のみが実在である 」 という真理を
深く自覚していないからである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《相手と調和するには》
人間は根本的に「愛されたい」「認められたい」
「理解されたい」のである。
愛されたいのに愛して貰(もら)えず、
認められたいのに認めて貰えず、
理解されたいのに理解されない。
そのもどかしさから、その反動から憎みが生ずるのである。
相手と調和したいと思うならば、相手をみとめてあげ、
理解してあげ、而(しか)して愛してあげることによって
相手と調和することが出来るのである。
愛されたい、認められたいのは、人間は決して「個人」ではなく、
全体一つの生命であるからである。
理解されたいのはすべての人には「善」なる神性が宿っておることを
自覚しているのでそれを理解してほしいのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《人生は心で支配せよ》
人間は生まれながらにして其の「実相」は神の子であり、
神のもち給えるあらゆる「善きもの」を持って生まれて来たのです。
その「善きもの」の中でも最も素晴らしいのは人間には
「想念の力」と云う”魔法の杖”が与えられていることです。
この”魔法の杖”によれば、私たちは、如何なるものでも
「想念の力」を駆使して創造することができるのであります。
この「想念の力」を駆使する方法を知っている限りは、
人間は、たとい現在が「形ある何物」をも持っていなくとも、
すでに富める者と云うことができるのです。
若しあなたが今御自分の生活を豊かに富める幸福たる生活たらしめようと
欲せられるならば、その「想念お力」を駆使して、
自己の欲する事物以外は「想念」しないようにすればよいのです。
自分の「心」を支配するのです。
『人生を心で支配せよ』の本をお読みなさい。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P307~308>)
<感謝合掌 平成28年5月24日 頓首再拝>
【二十五日の法語(5月25日)】 - 伝統
2016/05/25 (Wed) 03:21:39
(1)《祝福は祝福をよぶ》
腹が立つのは自分が悪いとわからずに
人が自分に害を与えたと思うからである。
「 親和 」 の原理によって
自分と親和力のないものは
一つとして自分に近づいて来る事はできない。
されば他を呪(のろ)う前に
自分自身を省みることが必要である。
自分が人を呪うならば
「 類を以(もっ)て集まる 」 親和の原則によって、
自分を呪い害するもののみが
尚(なお)一層多く集まって来る。
腹が立つ時程
人を呪ってはならない。
敵を見るな。
見ゆるもののために
祝福をなげかけよ。
祝福は祝福をよび、
よきもののみが あなたの周囲にあつまって来る。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《心の幸福が本当の幸福》
この事さえ成就すれば私は屹度(きっと)幸福になれると思っている人が、
それが成就した後で幸福になれない実例は沢山ある。
胃病の人は胃が治れば幸福になれると思うが、
胃が治ったあとは又別なことを悩み出すのである。
あの女と結婚すれば幸福になれると思っていた人が
結婚した後(のち)に毎日夫婦喧嘩(げんか)をして
決して幸福でない実例もある。
これだけ富が出来たら屹度幸福だと思っていた人が、
それだけ富が出来たときに、社会的な色々複雑な問題が紛糾して
幸福になれない人もある。
考えて見れば、幸福とは個々の事物にあるのではなく、
其の人の心の状態にあるのである。
心の幸福な人は常に幸福な人である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《最初の10日間の心の訓練》
自分の「心」を支配することは結局、
自分の「人生」を支配することになります。
「心」は「意馬心猿」などと云って
最初は中々扱いにくい奔馬のようなものであります。
併し、それも、つとめて自分の想う「想い」を吟味し、
悪しき事、暗き事を思わぬような習慣附けを致しますと、
よく訓練された馬のように自由自在に
それを支配することができるようになるのです。
もっともこれは意志の問題であります。
最初の数日又は10日間は思うように「心」を支配し、
「想念」を吟味し選択することができないでも、
意志を以って、
「我れ断じて暗黒なこと、不安なこと、悪しき事を思わず」
と大決心をもって、
明るきこと、快きこと、善きことのみを思うように努力しますと、
ついには心に習慣性がついて明るきこと、快きこと、善きことのみを
思うようになれて来ます。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P308~309>)
<感謝合掌 平成28年5月25日 頓首再拝>
【二十六日の法語(5月26日)】 - 伝統
2016/05/26 (Thu) 04:53:21
(1)《他を自分の思い通りにならせてはならない》
心が焦々(いらいら)して来る時には、
他(ほか)に対して働きかけるな。
手紙を書くな。
自分の心が平和でない時に
人に対して何事かをしかければ、
その行いにも 手紙にも 言葉にも
すべて不調和の雰囲気がつきまとうから
必ず悪しき結果が 相手から反響して来るのである。
そんな時には静かなる所に退いて
何故(なぜ)自分がいらいらしているのか
内省して見よ。
必ずや、あなたは誰(だれ)か他の者が
自分の思う通りにならない結果であることがわかるだろう。
かかる時に 「 自分の思うようにならせたい 」 という
我の心を捨てることが必要である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《外界の事物は素材に過ぎぬ》
外界の事物は吾々の幸福の素材になるに過ぎないので、
その素材に対する心構えが間違っておれば
却(かえ)って不幸を来すのである。
素材を如何(いか)に取扱うかの心構えが大切である。
富めること必ずしも幸福ならず、
富めるために却って悩み多き人もある。
然りと雖(いえど)も生長の家は「貧しさ」をまた
礼讃するものでもないのである。
「貧しさ」が生じて来たのも、
自己の心の反映であるから心を変化すれば、
富が生ずると云うのである。
ただ富の求めようが、「富が得られたら幸福になる」と
「富」そのものを求めては幸福は得られないのであって、
先(ま)ず幸福な心持になり、富める心になって
他に奉仕するとき幸福も富も得らると説くのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《想念感情の採点遊戯》
自己の思う想念感情の選択 ―― それを「つらい修行」だと思ってやるならば、
それは実際「つらい修行」になるかも知れません。
併し、それを一つのゲームだと思ってやれば快い遊戯に変って来るのです。
スターデーリーはそれを遊戯として獄中で実践し、ついに、極悪の囚人から
霊的勝利者として聖者とまで尊敬される人になったのです。
デーリーは小さな手帳を携帯していて、暗黒なこと、不快な事、善からざる事を
考えた時には、手帳に黒で○を書きます。
明るい事、快き事、善なる事(慈愛等を含む)を考えたときには
赤鉛筆で○を書きます。
黒丸が多くなるか赤丸が多くなるか、自分の心の中でゲームをするのです。
その採点が手帳の上に表記されるのです。
此の方法によって、スター・デーリーがどれほど高く魂が高まったかは
デーリーの著書『愛は刑より強し』『人類への福音』にあらわれている。
彼はついに極悪の囚人から一転して聖者として
到る処で講演を希望されるようになったのである。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P309~310>)
<感謝合掌 平成28年5月26日 頓首再拝>
【二十七日の法語(5月27日)】 - 伝統
2016/05/27 (Fri) 03:56:38
(1)《彼らをあるが儘(まま)ならしめよ》
この世界は神が支配しているのである。
神のみが支配者である。
神がすべての人に自由を与えたのであって、
我意のままに周囲の人を支配する様には
造られていないのである。
腹が立つのは己が思う様に人をしたいからである。
他の人をして他の人自身たらしめ、
彼をして彼自身たらしめ、
自分の考えを以て他を強制しようという考えを
捨てた時に始めてこの世の中は、
神が定めた通りに万物が自然に調和して行われるのである。
なるがままにすべてのものを祝福せよ。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《与えられたる仕事を拒(こば)むな》
何事でも自己に与えられたる仕事が、
誰かにとって益を与うるものであるならば決して拒むな。
それが自己に不適当なる仕事であると思っても決して拒むな。
神は決して貴方(あなた)に
不適当なる仕事を強制し給うことはないのである。
与えられたる仕事を神が自分に課せられたる
人類の奉仕の仕事であると信じて感謝してそれを為(な)すならば、
自分に不適当なる仕事にもそれを完成し得る力が
湧(わ)き出てくるのである。
容易なる仕事ばかりをしているのでは
内在無限の力は湧き出ては来ないのである。
困難なる仕事に努力することによって力は増強せられる。
努力は魂を向上せしむる道である。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《短期間に魂を進歩さすには》
併し、職場や自宅で此の「想念の遊戯」をやっていても、
外界の出来事、刺激が複雑であって、その出来事、刺激に対する
自分の心の反応も非常に複雑となり、或る境遇の人では
其の採点も手帳に中々書き切れない状態になるかも知れません。
こんな場合には、麻薬の中毒を解消するのに隔離療法が最も効果が
あるように、俗世間から隔離して僧堂などで修行する方法も
効果が多いのであります。
そのために、生長の家では東京都では飛田給に、京都府には宇治市に、
長崎県には長崎市に練成道場が設けられていて、
俗世の刺激や雑音を避けて、人間の存在価値に冠する色々の講義を
聴きながら、明るき想念、快き想念、善き想念のみを起こすことを
一期10日間練習することになっています。
薬が切れてくると苦しくてたまらぬヒロポンの中毒患者さえも
心が一変すれば、少しも苦痛なしにヒロポンの注射を止めて
再び欲しなくなる実例が随分あるのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P310~311>)
<感謝合掌 平成28年5月27日 頓首再拝>
【二十八日の法語(5月28日)】 - 伝統
2016/05/28 (Sat) 04:25:31
(1)《困難の時には凡(あら)ゆる物に感謝合掌せよ》
四面楚歌(そか)の行きづまった状態を
解放する唯一の方法は
神に振り向くということである。
周囲が如何にふさがっているにしても、
上方は必ず空いているのである。
神に向かう道が
ふさがるということは
あり得ないのである。
神に振り向くとは、神に感謝することであり、
神の造り給うたあらゆるものに
感謝と合掌とを送ることである。
疑わずそれを行ってみよ。
神は如何なる困難の金城鉄壁をも打破して
調和と幸福と豊かさと健康とを恵み給うのである。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
・・・
(2)《人を赦すには斯(こ)う考えよ》
人を赦すことが出来ない人は、
神を信じていると云っても実は信じていないのである。
何故(なぜ)なら、神の造りたまえる世界に
何か悪があると信じているからである。
そして神の造りたまえる人間に悪があり、
また神の与えたまうた幸福をその人が自分から
奪い得ると信じているからである。
神の造りたまえる人間に悪人はないと云うこと、
そして神の自己に与え給うた幸福は何人も自己から
奪い去ることが出来ないと云うことを本当にその人が信じ得るならば、
自分に害を与えるかの如(ごと)く見える人達をも
容易に赦すことが出来るのである。
人を赦したとき自分に幸福の門が開かれる。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
・・・
(3)《自己が自己の運命の創造者である》
あなたの現在の境遇は、あなたの今までの想念感情の集積の具象化です。
あなた自身の現状はあなたの今までの想念感情の集積の具象化です。
あなた自身が如何に《ある》かは
あなたの想念感情が今如何に《ある》かと云うことです。
あなたが《今ある》ところに、あなた自身は今立っているのです。
そしてそれを境遇だとか運命だとか名づけて、
恰も自分の「外部の出来事」が「自分」を強制してあるかの如く
錯覚しているに過ぎません。
たとえば、
「病気はバイキンが侵入して来たので自分は運が悪いのだ」と
考えます。併しバイキンは到る処に存在するのです。
しかもそれに冒される人と冒されない人とがあるのは
その人自身に誘因があるからです。
その誘因とは自己の持つ想念感情です。
最近、発達して来た「精神身体医学」によれば想念感情の変化によって
脳下垂体 → 副腎皮質 → 系統のホルモンの性質や量が変わり、
それによって細菌に対する抵抗力が変化することが
生理学的に明瞭になって来たのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <311~312>)
<感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>
【二十九日の法語(5月29日)】 - 伝統
2016/05/29 (Sun) 03:41:49
(1)《神に対して汝(なんじ)の心を投げかけよ》
凡ゆる瞬間 凡ゆる所に於いて神がましますということは、
凡ゆる時と場所とに於いて
神が吾らを守って い給うということである。
あなたの心を神に対して投げかけよ。
神はあなたに与え給うであろう。
常に神の助けのない世界はないのである。
どこから如何にして
神が吾々を助け給うかはわからないにしても、
神の 目に見えぬ智慧の手が
凡ゆるものの自然なる運行を導き給うて
あなたを本当の幸福に導き給うのである。
神は一切のものを
調和と繁栄と幸福とに導き給う所の
中心的統一者である。
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(2)《自然療能力を呼び出すには》
吾々の肉体の内には無限の自然療能力が宿っているのである。
その自然療能力こそ、心臓も肺臓も胃袋もなき一個の卵細胞から
この無限に複雑なる内臓諸機関を作り出したところの
不可思議力なのである。
この不可思議力の活動を喚(よ)び覚ますことに成功するならば、
如何なる病いも癒(い)えないと云うことはないのである。
想念は不可思議力を自分の欲する形にまで誘導するところの力である。
この不可思議力を「療能力」として想念し、
その方へ想念を集中するならば、その不可思議力は
癒やす力として直(ただ)ちに働き来(きた)るのである。
病気の時には、却って病気を思わず、
「 神の生命流れ入りて今、癒やし給(たま)いつつある 」
と思念すべきである。
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(3)《真に救われるとは》
人間が「真に救われる」と言うことは、
一時的に病気が治るとか、経済的に楽になるとか、
家庭が調和するとか、云うようなことではありません。
「病気が治る」「経済的に楽になる」「家庭が調和する」のは
何故であるか、
それらの現象を支配する「根本」をつかむことなのです。
その「根本」を掴まなくて、唯々「心の法則」の心理学的応用位で、
もう「われ悟れり」などと考えていますと、
一時的に救われたようになっていても、
それが単に一時(じ)の現象であって、
結局は元の木阿弥になってしまうのです。
「心の法則」は「真理」の一端ではあります。
しかしそれは「真理」の全貌ではありません。
群盲が象の耳を捉えて「象は風呂敷のようなものだ」と
言っているのと同じです。
わたし達は「真理」のい全貌を全身心をもって捉えなければ
本当に救われたとは言い得ないのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P312>)
<感謝合掌 平成28年5月29日 頓首再拝>
【三十日の法語(5月30日)】 - 伝統
2016/05/30 (Mon) 04:50:49
(1)《いくら忙しくとも一つ一つ片付けよ》
人生に処して余りに多忙な生活を送っている場合には、
凡ゆる方面の仕事が一時に殺到して来て、
すべてのものを一時に成就せしめなければならない様な
多忙な状態にかりたてられ、
ともすると“いらいら”した気分になりがちである。
こんな時ほど吾々は心を平和にしなければならない。
千手観世音菩薩の千本の手があっても、
心が一つのものにでも ひっかかると
後の九百九十九本は役に立たなくなるのである。
凡ゆる仕事に一時にとりかかるな。
唯(ただ)一つの仕事と思いて一つ終って
次に取りかかればいいのである。
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(2)《現象は結果に過ぎない》
人は想念する(考える)ところのものとなるのである。
神は想念することによって宇宙を創造した。
創造されたる宇宙は結果であって原因ではない。
しかし結果を目的として想念したのではないのであって、
想念されたるものを「 観(み)る心 」が
「 認識の形式 」を通して「 物質宇宙 」として観るのである。
人もまた想念するところのものを肉体にあらわすが、
それは肉体にあらわそうと故意(ことさら)に想念しないでも、
ただ、何の気なしに想念していたことが肉体にあらわれて
病気となったりするのである。
病気を治すのはその逆を行けばよいのである。
病気を治そうと思わないでも善き想念を描いておれば病気は消える。
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(3)《心の波長を「実相」に合わせましょう》
私達が色々の災禍から自然に避けるには、
災禍と波長が合わない心の波を常に維持しなければなりません。
そのためには私達は毎朝の生活を正しき「祈り」又は
「神想観」によって始めるようにするが宜しい。
その根本原理は、神に波長を合わすことなのです。
又、従ってそれは各人の「内なる神」に波長を合わすことです。
各人の実相は「神」であり、それに波長を合わせる事によって、
各人の実相の「善さ」があらわれて来て、互いにその
「善さ」と「善さ」とで調和した世界がひらかれて来るのです。
各人の仮(か)りの姿に過ぎないところの「悪」に
波長を合わしている限り、悪は尽きることなく、
明るい世界、善なる世界はあらわれて来ません。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P313>)
<感謝合掌 平成28年5月30日 頓首再拝>
【三十一日の法語(5月31日)】 - 伝統
2016/05/31 (Tue) 03:45:47
(1)《神は最善の道を知り給う》
忙しい時程
心が落ち着かなければならない。
自分がその仕事をするのだと思ってはならない。
「 わが内に宿る神がこれをなさしめ給う 」 と
心の中に数回唱える様にしてから
仕事をするがよいのである。
わが仕事は吾(わ)が仕事ではないのであって
神がなさしめ給うのであると知る時
それが たとい思う様に行かなくとも
神が今日これを完了せしめ給わないことが
神の み心であると悟ることによって、
仕事が完成しないでも落ちつく事ができるのである。
汽車にのりおくれたために
危害から救われた人もある。
品物を売りそこねたために、
あとから儲(もう)かる人もある。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132
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(2)《光のみの世界を観るには》
神の愛は吾等を取り巻いてい給うのである。
何事が起って来ようとも、それは現象であり、
心のスクリーン上に映った映画の一断面に
過ぎないのである。
映画の一断片にどんな不幸なことが顕れていようとも、
そんな事に心とらわれてはならないのである。
吾々は常に光源に振り向くことによって、
光ばかりの世界を見ることが出来るのである。
若(も)し吾々が光ばかりの世界を見ることが出来ないならば、
それは途中の妄念のフィルムに下らないことが描かれていて、
その光の照り渡ることを妨(さまた)げているのである。
汝(なんじ)の妄念を取り去れ。
憤りを去れ。
憎みを去れ、
不平を去れ、
悲しみを去れ、
唯、感謝せよ、唯、光のみの世界を見るであろう。
→ http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110
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(3)《完全に自己が救われたとき》
「わが全存在を神にゆだねる」これがあなたの全存在の革命です。
今まで物質的な欲望をもった肉体的なニセモノが
あなたの全存在を占領していたのが、神にまで無条件降伏して、
その全存在を「肉体的ならざるもの」「神なるもの」
「真(しん)に無我の愛なるもの」に明け渡すのです。
「神よ、わが城に入り給え」 と
無条件に 「わが存在」 という城を明け渡すのです。
その時あなたの肉体の外観は元のままであるかも知れないけれども、
その肉体の中に生きている主人公が一変(いっぺん)したのです。
今迄の主人公は肉体に属する色々の因襲や、業因や、習慣を
背負っていた欲望であるけれども、
過去の主人公が降伏してそれを明け渡したとき、
もう肉体と云う城に住む主人公は 「神」 御自身となったのです。
その人は新たに生れ更(かわ)ったのです。
さればあなたは 神そのままに 完全に世界を観、
神そのままに完全なる人間を観、
神そのままに 完全なる悦びを感じ、
神そのままに 立所(たちどころ)に病いを消し、
神そのままに 罪人を清浄(しょうじょう)ならしめ、
その行くところに、平和と豊かさとを来らしめ、
神がなし得る凡(あら)ゆる神聖にして
偉大なる御業(みわざ)を成すことを得るのです。
(『 真理 』第9巻 生活篇第11章 <P313~314>)
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<参考:5月の谷口雅春先生の言葉>
(1)陽めぐりいず~「生命の實相」第37巻幸福篇上
→ (光明掲示板・第二)
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1570
(2)神に全托する~光明法語<道の巻>
→ (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=85
(3)聖泉(いずみ)湧き出ず~光明道中記
→ (谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐)
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=86
<感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝>