伝統板・第二
ひかりの一日一言⑭~意識を高く昇らせよ - 伝統
2016/05/01 (Sun) 04:30:26
ひかりの一日一言《1日》
《1日 心に「悪」の妄想を描くなかれ》
世間、ややもすれば、この世界には不幸が満ちみちており、困難が充満しており、
余程警戒していなければ自分を害する事物が、吾々の周囲を取り巻いているかのように
思って、戦々恐々として恐怖に満たされている人が多いのであるが、
これは全く根拠のない妄想であって、一種の被害妄想に過ぎないのである。
そして心に思う通りにあらわれるという原理に従って、
その人にはいろいろの不幸や困難や被害があらわれるのであるから、
その人にとっては、その人の間違った考えがどうしても正しいと思われるのである。
併(しか)し、神の創造(つく)り給うた此の世界には悪しき事、悪しき物、
悪しき人などは一人もいないのである。
現象を見てはならない。
現象は自分の想念が鏡に対する如く映っているに過ぎないからである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P86) より
<関連Web:ひかりの一日一言⑬~幸・不幸の岐れ道
→ http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6818439 >
<感謝合掌 平成28年5月1日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《2日》 - 伝統
2016/05/02 (Mon) 04:14:15
《2日 何物も貴方を傷つける事は能(で)きぬ》
あなたは今日より断じて、外界の事物及び人々があなたを
害する可能性があるということを信じないのである。
何故ならこの世界は神によってつくられ神の愛と知恵とが満ちているからである。
今見えているところの外界の姿は、過去の自分の想念が現在のスクリーンに
姿を投映しているものであることをあなたは知ったのである。
いかなる事物も、それが真に存在する限りは神が造り給うたものである
から完全円満であって、人間を害するなどということはあり得ないのである。
もし何ものかがあなたを害し傷つけることがあるならばあなたは
過去か、また過去から現在まで続いて、あなた自身が不調和な心を
いだいて、あなたを傷つけ害する何ものかがあると考えたに違いない。
その想念が影を映したのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P87) より
<感謝合掌 平成28年5月2日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《3日》 - 伝統
2016/05/03 (Tue) 03:29:04
《3日 あなたの意識を高く昇らせよ》
あなたの意識を愈々高く昇らせよ。
釈迦牟尼世尊の高さまで昇らせよ。
みずから神の子と称したイエス・キリストの高さまで昇らせよ。
其処にあなたの内に「神」を「仏性(ほとけ)」を見出すであろう。
あなたが仮令(たとい)、如何に病気に悩まされているかの如く見えようとも、
如何に貧苦のどん底にあるが如く見えようとも、
それはただ円月にかかっている雲の形のようなものである。
雲の形が如何に暗澹として見えようとも、
円月それ自身は未だ曇ったことがないのである。
その如く、如何にあなたの外見が暗澹として見えようとも、
あなたの実の相(すがた)は円満完全であって病気でも貧乏でもないのである。
神があなたのうちにあるのだ。
尽十方に満ちわたる無礙光の資源の出口があなたの内にあるのだ。
これを悟れ。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P87) より
<感謝合掌 平成28年5月3日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《4日》 - 伝統
2016/05/04 (Wed) 03:41:07
《4日 貴方の内在の資源に振り向きなさい》
あなたは既に、神が遍在でありたもうことを知ったのである。
神が遍在であり給うならば、あなたの内にも神はいますのである。
神は光でありあなたを内より導き給う。
偏在であるから外からも導き給う。
内からの直感、外からの自然の摂理としてあなたの周囲に
あらわれるもの悉くよきものである。
あなたをやがて高め上げるものである。
あなたは神の護りより逃げ出そうと思っても、
逃げ出すことは出来ないのである。
あなたが病気のように見えるときでも、
あなたの「内在の健康の源泉」として神はましますのである。
あなたが貧苦に悩むと見えるときにも、
あなたの内に「供給の源泉」として神はいますのである。
あなたが、この内在の「健康の源泉」に振り向きさえすれば健康は忽ち得られ、
あなたがこの内在の「供給の源泉」に振り向きさえするならば、
忽ち無限の供給は得られるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P88~89) より
<感謝合掌 平成28年5月4日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《5日》 - 伝統
2016/05/05 (Thu) 04:09:20
《5日 今此処にいて如来と一体である》
「世間虚仮・如来常住」という言葉が仏教にあります。
「世間」というのは現象界のことであります。
如来というのは、尽十方に満つる神さまのことであります。
神のみが常にありて、不滅だということであります。
これを親鸞聖人は「火宅無常の世界はよろずのこと、みなもて、そらことたはこと、
真(まこと)あることなきに、たゞ念仏のみぞまことにおわします」と
歎異抄の中で教えていられるのであります。
念仏と云うのは親鸞においては「南無阿弥陀仏」即ち「阿弥陀仏に帰命する」
換言すれば、「阿弥陀仏と一体」ということのみ「まこと」すなわち真実である、
実相であるといわれたのであります。
「南無阿弥陀仏」を死んでから極楽浄土へ行かせて貰う座席券を買う語だなどと
考えると、如来の力を人間の迷いで限ることになるのであります。
今此処にいて阿弥陀仏と一体なのであります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P89) より
<感謝合掌 平成28年5月5日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《6日》 - 伝統
2016/05/06 (Fri) 04:29:28
《6日 人間不運の原因》
「与えれば与えられる」が人間の運命を支配するための法則である。
だからその人が良き運命を与えられず、不成功に終わり、不運を嘆き、此の世を呪ったり
しているのは、その人が社会又は隣人又は人類に対して与えることがなかったことを
あらわしているのである。
併し彼らが与えることが少なかったのは、神から受ける方法を知らなかったから、
与えようにも自分が持たなかったからだとも云い得るのである。
神から十分の愛を受け取り得なかった人は、自分の内に「神の愛」が満ちていないから、
自己から神の愛を放散することが出来ない。
自己から神の愛を放散出来ない者は、人から見たら冷たい人だと見られるのである。
従って人から好意を持たれず、不運に終わると云うことになるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P89~90) より
<感謝合掌 平成28年5月6日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《7日》 - 伝統
2016/05/07 (Sat) 03:16:02
《7日 神から愛を受け取るには》
神から十分の愛を受け取れないのは、
神がその人に不十分の愛を与えているという意味ではないのである。
神の愛は、ラジオの放送の波のようにわれわれの身辺に常に充ち満ちているのである。
ただわれらがその方に精神を集注せず、謂わば、波長を合わさないような精神状態で
いるが故に、神からの愛はありながらそれを受け取ることが出来ないのである。
そこで、暇さえあれば、「私は神の愛に包まれています」と念ずる必要があるのである。
多くの真宗の妙好人といわれた人が、常に暇さえあれば「南無阿弥陀仏」ととなえて、
阿弥陀仏との一体感を深めたのも、故あるかなである。
真宗の人は「南無阿弥陀仏」ととなえて仏との一体感を深めればよいし、
キリスト教や神道の人は「われ神とともに在り」と唱えて神との一体感を深めればよい。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P90~91) より
<感謝合掌 平成28年5月7日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《8日》 - 伝統
2016/05/08 (Sun) 04:35:29
《8日 何故(なぜ)神との一体感が得られないのか》
神との一体感が得られない人々のうちには、あまりに利己主義的に
自分のことばかりに心を捉えられてしまっている人がある。
あまり自分のことばかりに心が捉われていたのでは、神を憶(おも)うひまがないから、
神の方へ自分の心の焦点が合わないので、自分に神の愛が実現しないのである。
また誰かが何をしたとか、何を云ったとかいって、そのことばかりを
気にしている人も神との一体感を得ることは難しいのである。
すべてそんな事柄は、「善悪総じてもて存知せざるなり」と親鸞の言った態度に
ならって、心から放てきしてしまって、「念仏は無碍の一道なり」というふうに、
ただ「神のみの世界」「善のみの世界」を念じておれば、
神との一体感は得られ、実相の無限によき状態のみがあらわれて来るのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P91) より
<感謝合掌 平成28年5月8日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《9日》 - 伝統
2016/05/09 (Mon) 04:39:16
《9日 幸福は与えられたものの中にある》
幸福になりたい。
幸福になれるならば、自分の全財産を放棄してもいとわない
と云うような人もあります。
別に財産がある訳でもないのに、
その日、その日を愉快に楽しく幸福にくらしている人もあります。
それは何故でしょうか。
これは幸福というものは「外」にあるものだと思って追い廻しても
逃げるばかりだからであります。
幸福と云うものは、神から既に与えられているのです。
空気が与えられていることも幸福の一つであります。
水を与えられていることも幸福の一つであります。
住居(すまい)や衣類が兎も角も与えられていることも幸福の一つです。
そのほか吾々は無数の善きものを与えられているのに、
それに感謝しないで、与えられているもののうちに幸福を見ないで、
与えられていないものばかりを追求するから決して幸福が得られないのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P91~92) より
<感謝合掌 平成28年5月9日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《10日》 - 伝統
2016/05/10 (Tue) 04:10:16
《10日 常に主人の心持になれ》
幸福が得られない人は、自分を此の世界に招かれたお客さまだと考えている人が多いようです。
お客さまだから、人からもっと待遇されても好い筈だと思ったりするのです。
そして予想した通りの待遇が与えられなかったら不快に思うのです。
幸福になりたければ、このような「人から与えられたい」ばかりの
生活態度を改めねばなりません。
自分から与えないで、
与えられたいばかりの心は「奪う」心ですから幸福になど決してなれません。
幸福になるためには「与える」心にならねばなりません。
お客様ではなく、自分が主人公の心になって、
人の悦ぶものを与え差上げましょうという心になれば、
ひとも悦び、ひとの悦ぶのを見て自分も悦ぶことが出来るのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P92~93) より
<感謝合掌 平成28年5月10日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《11日》 - 伝統
2016/05/11 (Wed) 04:51:31
《11日 幸福は放つことによって得られる》
幸福は「握る」ことによって得られるのではなく、
「放つ」ことによって得られるのである。
こんなお伽話がある。
ある国の王様が幸福になりたいと思った。財産は沢山あり、家来も沢山あるけれども
色々な面倒な問題ばかり起って来てどうしても幸福になれないのである。
そこで国中の賢者をあつめて幸福になる方法を御諮問になったけれども、どの家来も皆、
立派な衣装があったら幸福になるとか、立派な道具があったら幸福になれるとか、
美しい舞姫にとりまかれてお酒を飲んだら幸福になるとか云うのだけれども
それらは既に王様が今までして来たことであって、
一事はそれで幸福になれるかと思ったが結局幸福にはなれなかったものであった。
すると一人の預言者が進み出て云った。
「幸福になるには一番幸福な人のシャツを着れば宜しい」
そしてその教えられた一番幸福者を探してあてると、
彼はシャツを着ていないで裸であった。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P93) より
<感謝合掌 平成28年5月11日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《12日》 - 伝統
2016/05/12 (Thu) 04:48:02
《12日 未来はあなたの掌中にある》
過去の不幸を心の中で繰り返すな。
過去は既に過ぎ去ったのであり、未来は自分の心の中にあるのである。
朝々が新生である。
新たなる人生があなたを訪れるのである。
未来はあなたの掌中にある。
夜の帳(とばり)はあなたの過去のすべての嘆きを拭い去ったのである。
この朝、あなたは新生したのである。
新しき機会があなたを訪れる。これこそ真理である。
昨日までの一切の不幸を嘆くな。
一切の病弱を、一切の貧苦を。
それは過去のあなたの想念の影に過ぎなかったのである。
過去は、あなたが心でそれを捉えない限りはあなたを最早や苦しめることは出来ないのである。
過去を捨て、現在に生きることが光明(こうみょう)生活の極意である。
今ここにあなたが、人々の幸福のために何物かを与えれば、
未来にあなたの幸福が実って来る。
あなた自身が未来を造りつつあるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P94) より
<感謝合掌 平成28年5月12日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《13日》 - 伝統
2016/05/13 (Fri) 04:27:21
《13日 悪逆無道の人にも仏性は宿る》
板敷山に親鸞聖人を要撃して亡きものにしようとして待ち伏せていた
山伏の弁円がいくら待ち伏せていても弁円の剣気と、念仏申される親鸞聖人の
和気(わき)とは波長が合わないので、ついに相遇うことが出来なかった。
そこで弁円はついにその行き違いて相会うことの出来ない不思議さにうたれ、
親鸞聖人の居所を訪れて謁見申し上げたところ害心忽(たちま)ちにして消え、
後悔の涙、滂茫として禁じ得ずついに聖人の弟子となって
明法房という名をさずけられたのである。
親鸞は弁円も如来に救われている「み仏」の一人であるところの実相を見たのである。
すると弁円のような者にも宿っている実相の「み仏」があらわれて
聖人の前にひれ伏したのである。
これに就いて聖人みずからが書いておられる消息は次の如くである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P94~95) より
<感謝合掌 平成28年5月13日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《14日》 - 伝統
2016/05/14 (Sat) 04:51:57
《14日 仏性の現れるのは仏性自らの発現》
「何事よりも明法(みょうほう)の御房(ぼぼう)の往生の本意(ほい)遂げて
おわしまし候こそ、常陸国うちの、これに志ざしおわします人々の御為に、
めでたきことにて候え。
往生はともかくも凡夫のはからいにてすべきことにても候わず、
めでたき智者もはからうべきことにも候わず、大小の聖人だにも、
ともかくも、はからわで、ただ願力にまかせてこそおわしますことにて候え」
この親鸞聖人の御消息で見ると、往生という言葉が、仏性があらわれることに
使われていることであって、死んでから極楽往生することではないのである。
即ち仏性があらわれるのは、仏生そのものの力によるのであって、
その仏生とは如来の本願そのものが宿っているのであるから、凡夫のはからいは
無論駄目であるが、知者のはからいでも得られるものではないというのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P95~96) より
<感謝合掌 平成28年5月14日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《15日》 - 伝統
2016/05/15 (Sun) 04:28:14
《15日 今に忠実な者は新しき機会をつかむ》
あなたは何らかの使命を神から与えられ、何らかを神から尽すべく
命じられてこの世に生れて来たのです。自分の使命が何であるか、
あなたはまだハッキリおわかりにならないかも知れません。
しかしあなたが今いられる其処にあなたが全力を尽すと云うことが、
今のあなたの使命なのです。それは、もっと大なるあなたの使命に比べたら、
唯(ただ)の踏台にしかならないような小さな使命であるかもしれません。
併しあなたはその踏台である使命を通過することによって、
更に一層大なる使命の座につくことが出来るのであります。
と云って、現在の状態に甘んぜよというのではありません。
現在を忠実に尽す者のみ、次の昇進の機会があたえられ、また機会が来たときに、
その機会を掴む能力が練成されていることになるのであります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P96) より
<感謝合掌 平成28年5月15日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《16日》 - 伝統
2016/05/16 (Mon) 04:20:51
《16日 内部からの催しに忠実であれ》
あなたは神が招き給うた饗宴に出席しているのです。
その饗宴にはちゃんと貴方の座席があります。
その与えられた座席につながるまでは、あなたは尻こそばゆく、
何となく落ちつくことが出来ないのです。
そしてなんとなき魂の渇きとでもいうものを貴方は感ずるにちがいないでしょう。
貴方は現在の仕事にそして現在の位置に忠実であると共に、
あなたの魂が飢え渇くように求める使命感の満足する方面にも
研究や勉強を怠ってはなりません。
それは、あなたの使命とするものがやってきたときに早速
それを精巧になしとげる準備となるものだからであります。
この使命感 ―― 内部から押し出して来る催し ―― に
忠実であることもやはり必要であります。
今を生かしつつ使命実現の機会を待つがよろしい。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P96~97) より
<感謝合掌 平成28年5月16日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《17日》 - 伝統
2016/05/17 (Tue) 03:30:24
《17日 すべての人と物と事とに感謝せよ》
若しあなたを訪ねて来る人に、そしてあなたの周囲にあらわれて来る出来事に
あなたが不快を感ずるならば、それは、あなた個人の「好き嫌い」が関係して起こる
感情でありまして、自然があなたに捧げようとしている最善の贈り物を
拒むことになるかもしれないのです。
すべて幸福になるためには
そのような個人感情を取去らなければならないのです。
すべてあなたを訪れる人と物と事とに感謝し礼拝し、
出来るだけそれらの人と物と事とを
丁寧に取扱うようにしなければならないのです。
若しあなたが、誰かを憎む心や、嫌う心がありましたならば、
それは結局あなたに還って来て、あなたを傷つけることになるでしょう。
自己より発したものは自己に還ることになっているからです。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P97) より
<感謝合掌 平成28年5月17日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《18日》 - 伝統
2016/05/18 (Wed) 03:34:13
《18日 神に時期を委ねよ》
あなたに求むることがありましたならば、
「汝ら祈りて何事にても求むるとき
既にそれを受けたりと信ぜよ、さらば汝はそれを得ん」と
イエスが教え給いしように、あなたは祈って既に受けたと信じたら好いのです。
その受けたものが何時(いつ)、何処(どこ)で、いかなる経路であらわれてくるか
と云うことは、神のみこころに委(まか)せておいたら好いのです。
あまりに早く富が来すぎたために、ある人には禍(わざわい)となることがあります。
吾々が真に求めている事物は、事物そのものも、あなたを求めているのです。
これは互いに精神感応の問題でありまして間違いはありません。
しかし時期が大切であります。
早産児は、既に与えられているにしても、それは育ちが悪いのです。
神に時期をお委せなさい。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P98) より
<感謝合掌 平成28年5月18日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《19日》 - 伝統
2016/05/19 (Thu) 04:56:21
《19日 種を蒔いたら発芽は神に委ねよ》
神に一度おまかせしたならば、神からそれを再び取り戻してはならない。
若しあなたが人に「これをやる」と云って何かを与え、
その翌日それを取り戻すようなことをしたならば、
そして又その翌々日それを又相手に与えるとしたならばどうでしょう。
その人は喜んでその贈り物を受け取るでしょうか。
それと同じように、一度神に委ねながら、又自力で解決しようと思って
その問題を自分に取り戻し、それが自力で旨く行かぬと云って
又神に頼むとしたならばどうでしょうか。
一度、神におまかせしたならば、神は必ずよき解決をしてくださると信じて、
その解決の時期を神に委ねなければなりません。
一度大地に種を蒔いたら、
その発芽の時期は自然にまかせなければならないのと同じであります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P98~99) より
<感謝合掌 平成28年5月19日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《20日》 - 伝統
2016/05/20 (Fri) 03:39:31
《20日 神を愛するなら神の掟を守れ》
神に与うべきものに二つあります。
「汝、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、力を尽くして主たる神を愛せよ」
―― 即ち先ず、愛を神に与うべきであります。
神を愛しないで、神に問題だけを与えてその解決だけをお願いしても、
それを解決して貰えるかどうかは問題であります。
では神を愛するとは如何にすべきかは、
「汝ら吾を愛せば、わが戒めを守るなり」と
イエスは云っているのであります。
愛する人の言う事は何でも従いたくなるのが愛の証拠であります。
男を愛する女は、男の言うことに従って自分の最も大切な貞操さえも委ねるのです。
そしたらあなたが神を真に愛するならば、神の言いつけをどんな事でも従える
のではないでしょうか。
正しい事をせよと云う神の言いつけ位に従えないで神を愛してると云えましょうか。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P99) より
<感謝合掌 平成28年5月20日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《21日》 - 伝統
2016/05/21 (Sat) 03:24:19
《21日 神にあなたの子供を委せた場合》
あなたの子供の問題について困ったことが起こったならば、その子供を神に委ねなさい。
その子供に付随した一切の心配も恐怖も悉く神に委ねればよいのです。
そして神がこれを如何に解決するかを、信頼と興味を以てご覧になっておれば好いのです。
「細工は流々、仕上げを御覧じろ」と云う諺があります。
神は神の流儀に従ってその問題を解決してくださるのです。
細工の途中でどんな有様を呈しようとも、そんなことを恐れてはなりません。
仕上げを待っていれば好いのであります。
もう一遍この問題を神から取り戻したいなどと思ってはなりません。
そんな誘惑を全然退けねばなりません。
神に任せたが、さてどうなるか――と云うような心配を全然してはなりません。
必ず良くなるこの信念が必要です。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P100) より
<感謝合掌 平成28年5月21日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《22日》 - 伝統
2016/05/22 (Sun) 03:33:16
《22日 「重荷を負える者よ吾れに来たれ!」》
神にまかせるのは無条件全托である。
完全に神にその処置権を譲り渡すのでなければなりません。
何一つ、自分のところへ止め置くと云うものがあってならないのです。
魚釣りの餌のように、
神に与えたものに釣糸をつけて置くと云うようなことをしてならないのです。
人間は神に任せた程度に従って、自分の肩の重荷がおりるのです。
神の自動車にのせて頂きながら、
自分の荷物を自動車の中に肩にかけているようなことをしてはなりません。
「重荷を負える者よ、吾れに来たれ、吾れ汝らを休ましめん。」
神はこう云い給うているのです。
あなたが重荷を負う位なら、神は貴方を救う必要がないのです。
神は貴方を完全に重荷から解放するために生長の家をお創(はじ)めになったのです。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P100) より
<感謝合掌 平成28年5月22日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《23日》 - 伝統
2016/05/23 (Mon) 03:48:03
《23日 人間の本質は健康である》
神の子は、その本質に於て神と同質であり、
神の美と健康と一切の宜しさとを表現せるものであるのである。
神の自己表現であるところの自分が不完全であったり、
不健康であったりする筈はないのである。
神の完全さはその無限の力をもって、視えざる世界から絶えず間断なく見える世界へと
表現すべく押し迫って来ているのであるから人間がその力にまかせ切るとき
不健全などになりようはないのである。
若し神の完全さがあらわれないならば、
それは、神に委せ切らず、神の生命の流れ入るのに素直にならず、
我(が)の働きが神の波長に合わなかった結果にほかならないのであります。
我(が)によって「癒ろう、癒ろう」と力むことは
却って神の癒す力の流通路を妨げることになるのである。
自分を捨てよ
「ままよと云う心にならねばお陰は得られぬ」と金光教祖も云っている。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P101) より
<感謝合掌 平成28年5月23日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《24日》 - 伝統
2016/05/24 (Tue) 03:57:02
《24日 他の人の不幸を来す物を求めるな》
あなたが神にお祈りになるときに、
「此の問題は神が欲したまうものでないかも知れぬ」と思ってはなりません。
そう云う考えがありますと、自分の心で自分の獲得を
制限することになるのであります。
神は無限のものを持ち給うのでありまして、
神の子たる吾らに無限に善きものを与えたまう
と云うのが神意(みこころ)なのであります。
ただ吾々は自分だけ利益を得て、他の人は損になる云うことや、
自分のみが快楽を得て、他の人の苦痛や不快を得るようなことを
望んではならないのであります。
神はすべての人類を「吾が児(こ)」として生み給うたのでありますから、
他の犠牲において自己のみが幸福を得るようなことに賛成なさらないのであります。
その他のことなら幾ら豊富に求めても求め過ぎるという事はないのであります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P102) より
<感謝合掌 平成28年5月24日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《25日》 - 伝統
2016/05/25 (Wed) 03:12:16
《25日 最も有効なる祈りの仕方》
あなたが祈るときには、「既にそれを受けたり」と念じなければなりません。
「私は不健康ですから、どうぞ健康にして下さい」と云うような祈りが時として
無効に終るのは、「私は不健康ですから」と云う言葉のうちに「不健康を既に受けたり」
という観念が働いているからであります。
そして「どうぞ健康にして下さい」と云う言葉のうちに
「既に健康を受けたり」と云う観念がないからであります。
「既に健康を受けたり」と信じたならば、
「健康にして下さい」と祈ることもないでしょう。
「常に私を健康にして下さいまして有りがとうございます」
これが本当の祈りでなければならないのであります。
イエスはラザロを復活せしめ給うた時の祈りには
「神よ、あなたは常にわが祈りにききたもうことを知る。有りがとうございます」
と感謝しているのです。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P102~103) より
<感謝合掌 平成28年5月25日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《26日》 - 伝統
2016/05/26 (Thu) 04:48:41
《26日 希望は既に成就せりと信ぜよ》
多くの人たちは、自分の祈りが成就しないのが当たり前であると云うような
前提的観念のもとに祈っているのではないでしょうか。
だから此等(これら)の人たちは、祈りが成就したならば、
それを驚くべき奇蹟であるかのように驚くのであります。
有り得べからざることがあったので、「有りがたい事」だなどと云うのであります。
こんなことでは可けません。
自分の祈りが成就するなどと云うことは有り難いことだと考えずに、
かかる希望を私に起せたまうのは既にそれが当然成就すべきものであるがゆえに、
かかる希望を起さしめ給うたのであるとこそ考うべきであります。
更に進んでは、その事は実相に於いては既に成就しておればこそ、
その投影としてかかる希望を抱かしめ給うたのだと信ずべきであります。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P103) より
<感謝合掌 平成28年5月26日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《27日》 - 伝統
2016/05/27 (Fri) 03:44:53
《27日 あなたが幸福になろうと思ったら》
「神よ、私はあなたに対して今日約束を致します」
皆さん、こう云って神様に約束の祈りをして下さい。
「今日(きょう)より私は、あなたのお力を得て、
私の心よりすべての暗黒なるものを、憎しみや、怒りや、悲しみや、嫉妬や、
人の不幸を喜ぶ心などを綺麗に洗い流して、
再びそのような感情を私の心の中に起こすことなきように誓います。
この誓いが実行出来るようお力をお添え下さい。
私はあなたの許しを得て、私の意志と感情と想念とを
あなたの中(なか)に投げ込みます。
あなたの尊き高き浄(きよ)らかなる意志と想念と感情とを
我に流れ入らしめ給え。
わたしの心は既に私のものではありません。
あなた様から与えられ、あなた様に捧げられたるものであります。
私は力を尽してこの私の心があなた様に捧げられたる目的にかないますよう
聖(きよ)らかなるよう努力いたします。」
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P104) より
<感謝合掌 平成28年5月27日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《28日》 - 伝統
2016/05/28 (Sat) 04:17:37
《28日 自分の天分能力を遠慮するな》
あなたは神の子であることを信じなさい。
神の子は無限の力が自己の内に蔵されているのですから、
それを打出の小槌を掉(ふ)るように、掉(ふ)り出しさえしたら
無限の力があらわれて来るものだということを信じなさい。
あなたに無限の力があらわれて出ないのは、
あなたが、迷いによって自分の力を悟ることを抑えているか、
それを掘り出すのに努力しないからであります。
神の子は「自由」でありますから、あなたが自分でその無限の力を
認めようとしない限り、その無限の力を認めさすように強制さす力は
他(た)にないのであります。
その代わりまた、あなたが無限の力をあらわそうと欲せられる限り、
それを抑えたり、止(と)めたりする者は何者もないのであります。
あなたに許されている無限の力をふんだんに自由におつかい下さい。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P104~105) より
<感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《29日》 - 伝統
2016/05/29 (Sun) 03:35:12
《29日 仮相の身を以っては実相は悟れない》
「煩悩具足の身をもて、すでにさとりをひらくということ、
この條もてのほかのことにさふらう」と歎異抄の第15條にかかれている。
これを、「人間」そのものを煩悩具足の身として、人間が悟りをひらく
ことは以ってのほかで難中の難であると云う風に解釈している人もあるが、
私の解釈はちがうのである。
「煩悩具足の身」と云うのは、「人間」の実相ではなく、人間の仮相である。
仮相をもってしてはどうしても実相を悟ると云うことは出来ない。
すなわち、迷いの自分をもって悟ることは出来ない。
ただ仏のみ、仏を悟ると云うのであって。
智慧の樹の実を以ってしては悟りはひらけない。
ただ仏なる実相を出して来てこそ悟りをひらくことが出来ると云う
意味だと解したいのである。
親鸞はこの仏なる実相を呼び出して来るのに唯「念仏」を選んだのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P105~106) より
<感謝合掌 平成28年5月29日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《30日》 - 伝統
2016/05/30 (Mon) 04:42:41
《30日 自然の叡智は最も完全に解決する》
大自然の解決法は最も簡単で有効に行われるのである。
これが絶対他力への乗托(まかせきり)と云うものである。
死んでから極楽行だけをまかせるのであって、
生きている間は我の力で万事をやりぬこうとしているようなことで、
いざ死ぬと云う時になって後生だけを他力にまかせ得るかどうか云うことは
誠に疑問だと云わなければならないのである。
現実界に於いて、他力にまかせ切ると云うことは、
外界の力に自分を屈従させ忍従させると云うことではないのであって、
自己の内にやどる叡智にそれをまかせると云うことである。
真に自己の内に宿る神の力にまかせ切ることが出来れば、
内からなる催しは何事も最も完全に解決してくれるし、
病気ならば自然の催しが最も完全に治癒してくれるのである。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P106) より
<感謝合掌 平成28年5月30日 頓首再拝>
ひかりの一日一言《31日》 - 伝統
2016/05/31 (Tue) 03:39:22
《31日 すべて人々を礼拝合掌する》
今日(こんにち)、あなたは神の愛に満たされているのである。
だからすべての人間と事件とを愛の眼光(まなざし)をもって観るのである。
だからあなたは人を決して悪しく見ることもなく、
人を憎むことも、そしることも、疑うことも不安に見ることもないのである。
あなたは、何が善、何が悪の標準をもっては人々を批判することをしないのである。
ただ全ての人々に神が宿っていることを観て常に合掌礼拝するのである。
凡(あら)ゆる人はそれぞれ自由であって完全であるから、
合掌礼拝するときその完全さがあらわれる。
谷口雅春著『幸福を招く365章』第5項(P107) より
<感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝>