伝統板・第二

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なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
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恐怖心を追放するには ② - 伝統

2016/04/29 (Fri) 04:49:21

     *伝統板・第二「恐怖心を追放するには①」からの継続です。
       → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6462215
  

《恐怖心を捨てること》

             *「光明法語」(4月29日の法語)より

信ずるとは知ることである。
生命をもって直接に知ることである。

自己の生命は神より出でたるものであるから、
自己の生命は実相に於いては既に神を知っているのである。
だから危急のときに人間は神を呼ぶのである。

思わずとは「無意識」にと云うことである。
「無意識」とは意識がないと云う意味ではない。
「気がつかぬ意識」と云うことである。

自分の気がつかない心の奥底に神を信ずる心があるのである。

しかし神を呼んでも感応がないのは恐怖心や狭い心があるからである。


・・・

<関連Web>

(1)光明掲示板・第一「恐怖心を追放するのが「生長の家」の念願の一つ (2064)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=436      

(2)光明掲示板・第二「恐怖心の追放 (87)」
   → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=41 

(3)光明掲示板・第三「恐怖心を追放する道 (51)」
   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=29

(4)光明掲示板・伝統・第一「恐怖心を追放するには (70)」
   → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=43

           <感謝合掌 平成28年4月29日 頓首再拝>

恐怖に屈服してはいけない、 - 伝統

2016/05/08 (Sun) 04:28:13


          *「天使になった男」ジョー・タイ(著)(P38~41)より抜粋

(1)恐怖に屈服してはいけない。
   一歩でも下がれば、あとは落ちていくだけだ。

(2)恐怖は、きみから行動する自由を奪っている。
   成功したいという欲求や、危険を冒そうという意志や、
   そして何かを大切に思う気持ちさえも奪っている。

(3)恐怖それ自体はは、人を傷つけることはできない。
   なぜなら、実在するものでさえないからだ。

   恐怖には武器が必要だ。
   そして恐怖がもっともよく使う武器は、パニックだ。

   多くの場合、パニックを起こすと、
   まさに恐れていたことが現実になってしまうのだ。

(4)恐怖は泥棒で人殺しだ。
   人間は暴力で相手を傷つけるが、恐怖は、ただ相手の反応を利用するだけで、
   暴力と同じように危害を加えることができる。

   でも、恐怖は臆病者でもあることを忘れてはいけない。
   臆病者だから、暗いところで動くのが好きだ。
   泥棒や人殺しと同じで、光を当てたらすぐに萎縮する。

           <感謝合掌 平成28年5月8日 頓首再拝>

恐怖は弱い心だけを攻撃する - 伝統

2016/05/14 (Sat) 04:41:00


          *「天使になった男」ジョー・タイ(著)(P28~32)より抜粋

(1)恐怖は弱い心だけを攻撃する。
   立ち向かえば必ず勝てる。

(2)恐怖は臆病者だ。
   恐怖は、きみがおびえ、混乱したときに攻撃してくる。
   けれど、ほとんどの臆病者と同じで、恐怖は簡単に萎縮する。

   強い心を持って、物事をきちんと考えれば、
   恐怖はすぐに逃げていく。

(3)恐怖は、まず最初に、疑問を送りつけてきみを弱らせる。
   するときみは、自分が物事を正しく行なっているのか自信が持てなくなる。
   その次に、そもそも正しいことをしているのかわからなくなる。

   疑問が十分にたまってしまうと、
   そして自分に自信が持てなくなってしまうと、
   恐怖はそれを悟ってつけ込んでくる。

   その臆病さこそが、恐怖が油断のならない敵であるいちばんの原因なんだよ。

(4)恐怖は嘘つきでもある。
   恐怖は、一つひとつは事実であっても、その事実をいろいろ集め寄せて、
   ひとつのまったく間違った絵を描き上げるのだよ。

   恐怖は決して本当のことを教えてはくれない。
   きみが弱っていたほうがいいんだ。
   なぜなら、そうでないと自分が強くなれないからだ。

   恐怖は強い相手を征服することができない。
   恐怖が描いた、絶望的な未来の絵を受け入れてしまうと、
   きみも、嘘の世界の仲間入りをしてしまう。
   きみもまた犠牲者になるような、嘘の世界だ。

(5)この臆病な嘘つきを退治するには、強い心と決意をもって
   立ち向かわなければならない。

   この嘘つきは、事実と希望を、絶望という霧に包んで
   きみの目から隠したがっている。

   恐怖に耳を貸してはいけない。
   恐怖に立ち向かうんだ。

           <感謝合掌 平成28年5月14日 頓首再拝>  

《吾れ神と共にあり、何を恐れんや》 - 伝統

2016/05/22 (Sun) 03:35:33


          *『 生長の家 』(昭和25年5月4日の法語)より

   まず吾々は今 眼の前にある状態を
   祝福しようではないか。

   それが自分を害するものだという考えを
   捨てようではないか。

   今 眼の前にあるものは
   過去の想念の影であるのである。

   それはある様に見えているが
   過去のものにすぎないのである。

   それはすでに ないのである。
   ないものに心を捉えられるな。

   そこから新しいものが
   生まれて来ようとしているのである。

   新しきものは 自分の掌中にあるのである。
   自分の手に於いて 神が働き給うのである。

   神は今日ここにましますのである、自分の中に。
   されば吾は何を恐れんや。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 平成28年5月22日 頓首再拝>  

恐怖という牢獄から逃れる方法は、行動あるのみ - 伝統

2016/05/29 (Sun) 03:30:07

          *「天使になった男」ジョー・タイ(著)(P33~37)より抜粋

(1)恐怖は牢獄だ。

   万里の長城がモンゴルの侵略を防げなかったように、恐怖もまた、
   恐ろしい物事が人生に入ってくるのを防ぐことはできない。
   むしろ、行動する自由をとても巧妙に奪ってしまう。

   その結果、恐れていることを未然に防ぐためにできることも、
   できなくなってしまうのだ。


(2)優しい刑事と厳しい刑事

  ①優しい刑事と厳しい刑事の役割分担を、きみも知っているだろう?
   厳しい刑事が容疑者をさんざん責め立てると、そこに別の刑事が登場して、
   容疑者に優しくして自白させる。

  ②恐怖というのは、いわば厳しい刑事だ。
   不安や破滅できみをおびえさせる。

   でも恐怖には優しい刑事も必要だ。
   怖がらせるばかりでは、そこから逃れるために、きみが何か建設的なことを
   してしまうかもしれないからね。

  ③だから恐怖は、きみに気休めの考えにふける時間も与えるんだ。
   「もしかしたら問題がなくなってしまうことが起こるかもしれない」と
   きみは考える。

   しかし、気がついたときにはもう遅い。
   恐れていたことは起こってしまい、恐怖が勝利を収める。


   *ポジティブ・シンキングと気休めの違い
    ポジティブ・シンキングとは、何かが実現すると信じ、建設的に働きかけること。
    気休めの考えとは、実現するのを期待するだけで、何もせずただ待っていること。


(3)恐怖の牢獄から逃れる唯一の方法は、行動だ。
   ただ待っているだけでは、道は開けない。
   自分から行動を起こさなければダメだ。

   恐怖の牢獄から逃れるたびに、きみは強くなり、自信がつく。
   恐怖は常にそこにいて、きみを閉じこめようとしている。

   でも最後には、きみもその壁を踏み越えられるくらい強くなれるんだ。

           <感謝合掌 平成28年5月29日 頓首再拝> 

《精神の安静は得るには》 - 伝統

2016/05/31 (Tue) 03:37:29


         *「光明法語」(5月31日の法語)より

精神科学は結核患者をみちびくのに、
決して形の上から「絶対安静」を破れと云うのではない。

先ず「恐怖心」を捨てよと教えるのである。
「恐怖心を捨てた」其の結果が、自然に絶対安静の必要がなくなるのである。

まだ恐怖しながら、戦々恐々「動いて見よう」位では危険なことこの上ない。
しかも、周囲の人々が、「動いたら危ないぞ」と恐怖心をそそる言葉で包囲攻撃する場合、
患者は恐怖心を起こさずにいることはむずかしい。

まず環境を変える必要がある。
また家庭の不調和から来る患者は家族互いに感謝させねば精神の安静は得られない。

           <感謝合掌 平成28年5月31日 頓首再拝> 

恐怖に名前をつければ、ただの問題になる - 伝統

2016/06/10 (Fri) 04:32:43


          *「天使になった男」ジョー・タイ(著)(P45)より

   恐怖を克服することは難しいかもしれないけれど、
   問題ならいつでも解決することができる。

   恐怖に名前をつけたら、それはもう恐怖じゃない。
   解決できる、ただの問題になるのだ。

           <感謝合掌 平成28年6月10日 頓首再拝> 

今すぐ行う - 伝統

2016/06/12 (Sun) 04:03:37


          *「光明道中記」(6月12日)より

【恐怖心は神の全能の愛を信じない為に起る。(『生命の實相』第ニ巻)】

すべてを神のみこころに委(まか)せること。
併しこれだけでは恐怖心は絶滅されるものではないのである。

神のみこころの中には不幸は無いと云うことを知らなければ、
人は神を恐怖するに到るであろう。

神に委せるとは、一番高き幸福の源泉に委せることなのである。
《此処に》《今》幸福があることを知ることである。

幸福か不幸かわからないけれども、兎も角神に委せようと云うことではない。
神はわが憩いの家であり、愛の家であり、わが砦であることを知ることである。

単に「思い煩うな」と言って、問題を次へ次へと延ばして行く者は、
恐怖を先に延長しているようなものであって、
本当は「思い煩っている」のである。

吾々は事物に面することを次へ延ばすことなく、「今」受けるが好いのである。
「今」恐れなく受けるのである。
「今」目の前に《ある》ものが決して自分を害するものでないと知ることである。

避けるのではない。捉えるのである。

幽霊の正体見たり枯尾花。
正体を捉えて見たら、恐怖すべきものは一つもないのである。

           <感謝合掌 平成28年6月12日 頓首再拝> 

決して心に「悪」を予想することなかれ - 伝統

2016/06/13 (Mon) 03:43:48


          *「光明道中記」(6月13日)より

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】

恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。

念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。

体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、外界境遇貧富等は外的環境である。

内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。

「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。

されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。

「悪」は存在しないのである。

ただ予想したときそれが形にあらわれて、あるかの如く視(み)えるに過ぎない。

静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。

           <感謝合掌 平成28年6月13日 頓首再拝> 

恐怖は、敵をつくる - 伝統

2016/06/23 (Thu) 03:07:51


          *「天使になった男」ジョー・タイ(著)(P51~52)より

恐怖は、自分と違う人を嫌う。

いっしょにいて少しでも居心地が悪いと感じる人、
自分の考え方や意見に疑問をはさむような人を、
退けようとするんだ。

そして、きみの恐怖がそういう人たちを退けると同時に、
彼らの恐怖もまたきみを退ける。
するとあっという間に、ただ違う人というだけじゃなく、
嫌いな人になってしまう。

それはお互い同じことだ。

嫌いな人が悪い人になるまでには、そんなに時間はかからない。
悪い人が敵になるのも簡単なことだ。


恐怖は人を避け、敵をつくる。

自分の周りの壁を壊して、自分とは違う人たちに手を差し伸べるには、
とてつもない勇気が必要なんだ。

しかし、もっと広い視野から眺めることができれば、そうではないことが分かる。

           <感謝合掌 平成28年6月23日 頓首再拝> 

《敵はないのに敵と見るな》 - 伝統

2016/07/03 (Sun) 04:29:03


          *『 生長の家 』(昭和25年5月15日)の法語より

   何人(なんびと)かが あなたから幸福を取り去り得ると
   あなたはお考えになりますか。

   すべて不幸な境遇は、自分の外(ほか)にある物が
   自分から幸福を奪い去る力があると思う所から生ずるのである。

   然(しか)し乍(なが)らあなたの幸福は本来あなたのものであって、
   外にある何ものによっても奪われるということは
   決してあり得ないのである。

   あなたの幸福が誰から奪われるかも知れないとあなたが恐怖する。
   そしてあなたが相手を敵と認める。敵はないのに敵を認める。

   想像の敵が具体化して遂にあなたを不幸に陥れることになるのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 平成28年7月3日 頓首再拝> 

恐怖と勇気 - 伝統

2016/07/19 (Tue) 03:34:28


          *「天使になった男」ジョー・タイ(著)(P58~72)より

(1)恐怖とは、たくさんの明日を心配すること。
   勇気とは、ひとつの今日に集中すること。

  ①恐怖とは、たくさんの恐ろしい明日の中で生きることだ。
   まるでその明日が絶対にやってくるかのように考えている。

  ②勇気を持つとは、すべての明日を締め出し、自分の気持ちとエネルギーを、
   すべて今日というこの日だけに注ぎ込むことだ。
   絶対に確実なものは、それしかないから。

(2)恐怖は反応で、勇気は決断だ、

  ①恐怖に反応するのではなく、問題と正面から向き合う心構えが大切だ。

  ②臆病も勇気も恐怖から生まれる。
   きみはどちらの子どもを育てることを選ぶだろう?

  ③恐怖は批判を拒絶する。
   大人としての分別を持って理性的に問題と向き合うよりも、
   怒りや罪悪感か自己憐憫の方向へ持っていこうとする。

   すべきことをしていないという批判の声を聞きたがらない。
   むしろ、自分の苦境を他の人のせいいにしようとする。

  ④恐怖を克服するためのもっとも有効な方法は、
   自分の人生に責任を持ち、自分の問題や失敗を他人のせいにしないことだ。

(3)人生に意味があると信じるとき、恐怖は味方になる。

   信じる心があれば、恐れるものはなにもない。
   人生には意味があると信じ、そして自分の生きる目的を信じる。
   すると、恐怖はただの警告になる。

   まだ挑戦する準備ができていないと教えてくれるんだ。
   恐怖を支配すれば、それはきみの味方になる。

           <感謝合掌 平成28年7月19日 頓首再拝> 

《神のみが実在である》 - 伝統

2016/08/03 (Wed) 03:47:31


           *『 生長の家 』(昭和25年5月24日の法語)より

   吾々を動きのとれなくするのは恐怖心である。
   他物でもなく他人でもないのである。

   蛙(かえる)は 蛇にみつめられると、
   自由自在に逃げる力はありながら、
   恐怖心によって自分自身を縛ってしまい、
   蛇の餌食(えじき)となる。

   多くの病人は自己の内部に、
   生きる力、回復する力をもちながら、
   恐怖心のために生活力を縛ってしまい、
   病気の餌食となってしまう。

   吾々は色々の意味に於いて自分を縛る恐怖心を
   多少とも もっているものであるが、
   それは まだ全身全霊が 「 神のみが実在である 」 という真理を
   深く自覚していないからである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 平成28年8月3日 頓首再拝> 

《信仰を深め、恐怖心をなくするには》 - 伝統

2016/08/15 (Mon) 04:48:16


        *『 生長の家 』(昭和26年6月17日の法語)より

   吾々の心を明るくするものは
   神の愛が自分を取り巻いていると云う想いである。

   神はわが砦(とりで)であり、防壁であり、
   愛深き父であり、母である。

   神 われを護(まも)りたまうと云う想念のあるところ
   恐怖心は起っては来ないのである。

   「 神の愛 常にわれを取り巻きて護りたまい、
   神の智慧 常にわれを導きたまいて
   栄えの道に進ましめ給う」と

   一日のうち数回静かに目を瞑(つぶ)って十数分念ずることは
   信仰を深め、神との一体感を増大して恐怖心を去り、
   よき智慧を招き寄せる力となるのである。

   信仰は力であり、
   信仰は絶えざる言葉の力によって増大して来るのである。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

           <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝> 

恐怖心が生じたら、心を神に振り向けよ! - 伝統

2016/08/28 (Sun) 04:07:09


問題は解決される為にある

      *「生活と人間の再建」第13章恐怖心を除くには(P169~170)より

もし我々が解決しなければならない難問題に直面したときには、
その問題に対して平静な判断を下し得たならば
半ば解決し得たといってもいいのである。

それが問題である限りに於いて、すでに解決が予想されているのである。

《解決のない問題はないのである》

ただ解決を困難にするのは我々の恐怖心であって、
恐怖心のために自分の心が混乱して解決の道を阻害してしまうのである。

我々の前に横たわるどんな問題でも、自分の心の中にある
暗黒な観念感情程(ほど)には強敵ではないのである。

「汝の強敵は汝の中(うち)にある」のである。
自己の中(うち)にあるのである。

自己の中(うち)にある所の暗黒な想念を克服しさえするならば、
その反映である所の病気や欠乏や悲哀は自ずから姿を消してしまうのである。

もし恐怖の感情が起こるならば、
心を回転して神に対して振り向くための練習をするよき機会であると思って、
外界を克服しようとあせる代わりに《まず心を神に振り向けよ》。

恐怖心に向かってかく言え。

「サタンよ去れ。人は外界によって生きるに非ず。
神の生命(せいめい)と愛と智慧とによって生かされているのである。
我は断じて神の方に振り向くのである。」

と。

かく念じて暗黒なる恐怖の観念を一転して神の方に振り向くならば、
神の完全なる智慧はあなたを導いていと安けき世界へ連れ出してくれるのである。

           <感謝合掌 平成28年8月28日 頓首再拝> 

《神は決して心配しない》 - 伝統

2016/09/09 (Fri) 03:54:44


         *『生長の家』(昭和25年8月11日の法語)より

   何が失敗しようとも、
   私は決して神が失敗しないことを知っているのである。

   若し悪い事が起るならば、
   それは神が悪いのではない。

   それは神から流入する力を
   自分が‘せばめ’縮めたに過ぎないのである。

   神から流れ入る力を自分の恐怖心や疑い心で、
   縮小してはならないのである。

   自分は今あらゆる恐怖心から超越することが出来たのである。

   なぜなら自分は現象にあらわれている不完全な相(すがた)を見ず、
   ただ神のつくり給うた完全な世界と、完全なすべての人と、
   完全な自分とのみを見るからである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

           <感謝合掌 平成28年9月9日 頓首再拝> 

《恐怖心を除く道》 - 伝統

2016/09/21 (Wed) 03:49:52


          *『生長の家』(昭和25年8月16日の法語)より

   神を自己の内に、今、自覚するならば、
   今人間は幸福になれるのである。

   神を自己の内に、今、自覚するならば、
   人間は健康になるのである。

   神が汝に与えた実相であるところの 「 幸福 」 と 「 健康 」 とを
   自分の迷い心で覆い隠すな。

   迷いの帳(とばり)を去れ。

   神は汝に罰を与えるどころか、
   常に汝を護りていたまうのである。

   「 神はわが護り、われ何をか恐れんや 」 と、
   一日のうち数回、眼をとじて十分間位ずつ思念するようにするならば、
   恐怖心はのぞかれ、人間は おのずから心が落ち着いて健康になり、
   良い考えが湧(わ)き出て来て 幸福になり何事にも成功するのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=16

           <感謝合掌 平成28年9月21日 頓首再拝> 

《事物の真相を知れば恐怖はない》 - 伝統

2016/10/05 (Wed) 03:35:02


         *『 生長の家 』(昭和25年9月6日の法語)より

   人生の問題は若(も)しその因って起るところの
   原因が明瞭になるならば、
   それは容易に解決することが出来るのである。

   問題を未解決にし、取越苦労や恐怖心にみたされるのは
   真相がわからないからである。

   真相がわかれば恐怖すべきものは何物も存在しないのである。

   第一に吾等が知らなければならない真相は、
   吾々の想念と云うものが自分自身の心の快不快を
   変化すると同時に、

   自分を取りまいている環境、人間、供給、境遇、位置などを
   変化すると云うことである。これが真相である。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=100

           <感謝合掌 平成28年10月5日 頓首再拝> 

恐怖すること勿(なか)れ - 伝統

2016/10/09 (Sun) 03:25:02


           *「光明法語(10月9日)」より

何事に対しても恐怖すること勿れ。
神の子であり、神が常に汝を護っている事を知るならば吾らは何事も恐怖する事はない。

恐怖するのは神を信じていないからである。
恐怖すれば血管は収縮し血液中の過度のアドレナリンを生じ、血圧は昂(たか)まり、
全身の細胞は萎縮して活力を失うのである。

肉体の各器官は神の諸々(もろもろ)の霊的属性の表現である。
神の諸々の属性を完全に表現すればする程、肉体の各器官は一層健康となる。

心臓は愛の表現である。
愛が乱れれば心臓が乱れる。

またそれは心膽(しんたん)である。
気を大きくすれば心臓病は治る。

            <感謝合掌 平成28年10月9日 頓首再拝>

《病人を訪問した時には》 - 伝統

2016/10/21 (Fri) 04:40:10


        *『幸福を招く365章』第10項(P209~210) より

病人を訪問したときには先ず「思ったより元気そうなので安心しました。
私は非常にあなたのことを心配していましたのですよ。
しかし来てみれば、顔色もよいし、そんなに痩せてもいないし」と

先ず病人自身の恐怖を取り去り、安心の境地に導くことが大切であります。

その次には

「人間の内部には無限の快復力が宿っている。この内部生命の快復力こそ、神の力であって、
下痢するのも、咳するのも、痰が出るのも、熱があるのも、これは内部生命の自然治療の
働きである。死骸が下痢したり咳をしたりすることは無い。
これは死の働きでなく、生命の働きだ」

と云うことを諄々と説いて病気の症状に捉われて恐怖しないように、
相手を導くことが本当の深切である。

            <感謝合掌 平成28年10月21日 頓首再拝>

「心の平和」 - 伝統

2016/11/03 (Thu) 03:41:58


           *『生命の實相』第7巻(P110~111)より

「心の平和」が生命を生かす力は、
大ナボレオンの軍隊が東部戦線にあったときにも、現われている。

悪疫がその戦線一帯にわたって猖獗(しょうけつ)して大ナポレオンの
軍隊もそれに襲われた。

戦いには敗けない彼の部下の将卒も、悪疫にはかなわないで、
続々それに感染して、野戦病院は病人で一ぱいになり、とても収容しきれないで、
テントの外の地上にまで罹病者(りびょうしゃ)を横たえなければならぬような始末となった。

全軍はただ恐怖にとらわれて生きたる心地もないのである。

毎日そのために斃(たお)れる将卒は数を知らない。

ところがさすがに「自分の辞書には不可能はない」と言った大ナポレオンである。
雇従の将官たちが「そんな悪疫患者に近づいたら危険です」と言って切に押しとどめる
にもかかわらず、彼は野戦病院をみずから見舞うと言ってきかなかった。

ところが見よ、大ナポレオンの落ち着いた動じない温顔が皆の病人の前に挨拶して、
この偉大な皇帝の手が病人の額に触れたり、
平和な恐怖のない語調で慰め深い言葉が発せられたとき、

野戦病院に寝ていた病人の顔色が急に晴々(はればれ)しくなって、
あちらからもこちらからも「皇帝万歳! 」の声が雨のように降り注いだ。 

病床から這い出し起ち上がって歓呼して踊る兵士さえできた。

その瞬間から悪疫の進行はパツタリ止んで、誰一人新たにその悪疫に罹(かか)る者なく、
今まで罹(かか)っていた病人もたちまち回復してしまったと西洋史は記している。


諸君よ、この大ナポレオンのように絶対に恐れない、
絶対に自分の幸運を信じきっている人となれ。

どんな場合にも自分の心の平和を乱さない偉人が一家のうちに一人でもあるということは、
実にその家にとって幸福なことであるのである。その人の心の平和、歓喜、自信、健康、
の雰囲気は、全体の家族、全体の人員の心に放送(ふきこ)まれて、

全体の人間がみんな平和、歓喜、自信、健康等の善き心の音楽を奏でるラジオの受信機の
ラッパとなるのである。

            <感謝合掌 平成28年11月3日 頓首再拝>

恐怖の感情を取り除くには - 伝統

2016/11/16 (Wed) 03:48:00


           *『生命の實相』第7巻(P113~114)より

自分の存在がおびやかされることを恐れるから、われわれは腹がたつのである。
負けるかもしれぬと恐れるから、われわれは嫉妬するのである。
彼が自分に害を加えるであろうことを恐れるから憎むのである。

だからこの恐怖の感情を一つとり去ってしまえば、いっさいの悪感情は
指揮者のない雑兵のように木端微塵に散ってしまうのである。

ところがこの恐怖の感情は自分と神と一体である、
自分は大宇宙とともに生きている、たとい外見はいかに見えようとも、
あらゆる事物が渾然として自分自身の生長のためのみに運行しているという
根本観念が心の奥底に植えつけられさえすれば
自然に消滅してしまうべき性質のものであるのだ。


ゲーツ教授は毎日1時間ないし1時間半を費やして、
心の最も楽しく幸福な愛他的な感情を喚起してこれを持続する勤行(ごんぎょう)を
つづけよと言った。

「生長の家」では就寝前10分間、時間がゆるせば30分でも1時間でも、
合掌静坐瞑目(がっしょうせいざめいもく)して、この合掌をアンテナとして
大生命がわれに流れ入り、われがそれと一体なると観ずる修行をするのである。

この神想観によってわれらが最も深い境地に入るときは、
われらはこの世界の支配者(神)との無限の一致に到達するのである。

かくしてわれらが神との無限の一致に到達するときはたとい外見がどう見えようとも、
万事万物が自己を中心として、自己を育ててくれるために運行しているという霊的実感が
たましいの底の深いところから湧きあがってくるのである。

この神秘な霊的実感に触れるとき、われらはわれらに触れるすべてを、
それが一見どんなに不幸な事実であろうとも、ただそこに自分をいっそう偉大に
育てようとしてのみ作用(はたら)いている摂理の慈手を感じて、
唯ありがたく拝ましていただくことができるようになるのである。

たとい人が自分に侮蔑(ぶべつ)や危害を加えようとも、
それが自分のたましいの花をひらかす温かい神の息(いぶ)きと感じられ、
おのずから合掌されるようになるのである。

この境地に達するとき、われらより恐怖の根本感情は除かれる。
われらはもはや怒りや嫉妬や憎悪の激情を抑えたり、怺えたりする
克己的修養(こっきてきしゅうよう)を超越してしまうのである。

われらは完全にそれらの悪感情から解脱する。
そしてあらゆるものがただありがたい、あらゆるものが感謝される。

「生長の家」の生き方はかくのごとくして、
あらゆる不幸も苦痛も追害もただ一つの「聖悦(せいえつ)の坩堝(るつぼ)」の中で
熔かしてこれを自己のたましいの生長の養分にかえてしまうのである。

            <感謝合掌 平成28年11月16日 頓首再拝>

恐怖心は信仰の欠乏 - 伝統

2016/12/04 (Sun) 04:34:22


          *Web:「時空の旅人」より

(1)現象は如何に移り易っても、その奥に愛深き神の摂理が、
   結局必ず一層幸福の世界に吾々を導いて下さるのだと云う
   根本的な信頼をもたない限り不安は去らないのである。
             (新版「幸福を招く365章」・165)

(2)すべての恐怖は自己の金剛不壊の“神性”に十全の信頼をおくことなく、
   “神の子”に敵対する何らかの“悪”がこの世に存在すると考える
   迷妄から生ずるのである。(女は愛の太陽だ・50)

(3)世の中で最も不必要なものは恐怖心なのである。
   恐怖心は不信仰から来る。(新版「生活と人間の再建」・213)

(4)恐怖・不安・取越苦労の汚物を清掃除去するのが「信仰」なのである。
   (希望を叶える365章・17)

(5)元来恐怖心は信仰の欠乏から生ずるのであって、
   過去のことを思いわずらう持越苦労、未来のことを思いわずらう取越苦労
   及び現在の事に不満足なる感謝欠乏の心によって成り立っているのである。
           (新版「生活と人間の再建」・215)

(6)不安、恐怖、曖昧の念を汝の心の世界より取り除くべし。
   其処に汝の幸福来らん。(新版「叡智の断片」・54)

(7)自己が既に完全なるものだという自覚の欠乏から
   すべての不安、恐怖、心配等が起って来るのである。
    (新版「栄える生活365章」・148)

(8)あなたは内部に宿る「神性」の権威をもって如何なる災厄も拒否することができ、
   一切の恐怖を超えて、心を平和に保つことができるのである。
   あなたの「内部の神性」の自覚が昂まるとき一切の恐怖は消え去るのである。
   (新版「栄える生活365章」・235)

(9)あなたの神性の自覚が深まれば,そこには恐怖なく、災厄なく、失敗なく、
   行く処として可ならざる無き状態に到達し得るのである。
   (新版「栄える生活365章」・236)

            <感謝合掌 平成28年12月4日 頓首再拝>

恐怖は誤解の上に成り立つ - 伝統

2016/12/18 (Sun) 04:45:52


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月18日)より

およそいっさいのものには存在の意義がある。
その人にとって不必要なものは存在しないのである。
いわんや困難に意義がないなどというはずはない。

与えられたものをその存在の意義をそのままに受け取ろうとしないとき、
そこに苦痛は起こり、悲哀が感じられるのである。

わたしはある日、鳩が板の上に卵を生んで抱卵に困っているありさまを見て、
その卵を巣皿の中に入れてやったら、慣れない鳩はその巣皿を怪しいものと思い、
「不幸」が見舞ったと思い、その卵の抱卵の期を失ってしまったことがある。

板の上に卵を生んだ鳩にとっては、そこへ巣皿が現れたということは、かえって救いの手であった
のだが、彼はそれを誤解し、恐怖し、与えられたものを素直に受けようとせず、苦痛を感じ、
呪詛を感じ、そして自己と自己の子孫の運命を腐敗せしめてしまったのであった。

困難を恐れる人間も、この鳩のごときものである。
すべて恐怖は誤解の上に成り立つのである。

静かに受けて、与えられた意義を見出せば、その人にとってそれは
あるいは運命向上の、あるいは人格向上の、あるいはいっそう健康となるための
素材であるはずのものがどんなにか多いことであろう。

            <感謝合掌 平成28年12月18日 頓首再拝>

《「 ままよ 」 と云う心 「 治る 」 心》 - 伝統

2017/01/04 (Wed) 04:55:33


         *『 生長の家 』(昭和25年11月12日の法語)より

   恐怖心から治癒力がにぶっている病人は、
   恐怖心を唯(ただ)とり去るだけでも治ることがある。

   「 治りたい 」 と云う考えに執着している場合には、
   その反対観念たる 「 治らなかったら恐ろしい 」
   と云う考えがつきまといがちであり、

   この恐怖が病人の活力を萎縮せしめて、
   治癒をおくらせていることがある。

   そこで 「 死のうとままよ 」 とか、
   「 治らないなら治らないで可(よ)いではないか、
   生きている間は人のために働こう 」 などと

   生死超越の気持になって働き出したときに、
   治癒力が昂進して治るのである。


   高野山の教修会で京都の井上喜代さんは

   重症の腎臓炎が 「 治らないなら治らないで可い 」 と働きかけた翌日、
   尿蛋白が消失したと発表された。


            <感謝合掌 平成29年1月4日 頓首再拝>

《惰性的安定感に堕ちてはならぬ》 - 伝統

2017/01/16 (Mon) 04:54:42


         *「光明法語」(1月16日)より

新しい想念を入れることが出来ず、変化すべき時に変化に抵抗し、
新しき経験が自分の生涯に入(い)り来(きた)ることを拒む人間には
進歩はない。

この種の抵抗は前途に対する不安恐怖の念から来る。
今までやってきたことが一番安全だという
愚かしき固定概念に支配されているからである。

もしすべての人類がかくの如き固定概念に支配されていたとしたならば
この世界にも人間にもどんな進歩も発達も得られなかったのである。

現在の状態の崩壊することは悲しいことのように見えるけれども
それは却(かえ)って進歩と幸福への契機である。

            <感謝合掌 平成29年1月16日 頓首再拝>

《恐怖は神から離れた時に起る》 - 伝統

2017/01/18 (Wed) 04:43:35


         *「光明法語」(1月18日)より

神の霊、自己の内に宿り給う。
自己の中には無限の智慧と力の源が埋蔵されているのである。

自分は何事が出て来ようとも決して恐れはしないのである。
神と共にある者の心は常に平和である。

もはや吾が行く所の道に横たわる如何なる危険も困難も自分は恐れない。
困難よ消え失せよと吾念ずれば困難は消え失せるのである。
危険よ消え失せよと念ずれば危険は直ちに消え失せるのである。

波を叱咤すれば波は消え、山を叱咤すれば山は去るであろう。

吾これをなさんと決意すれば何事でも必ずなすことが出来るのである。

            <感謝合掌 平成29年1月18日 頓首再拝>

心配事・不安の96%は起こらないことが判明―アメリカの調査 - 伝統

2017/02/03 (Fri) 04:45:40


     *Web:MAG2NEWS(2016.02.01 )より


心配の8割は起こらない

さて、本日は意外に低い確率のお話。
寒くなってくるとやって来るのが受験のシーズンですね。
センター試験も終わったし、大学入試はこれからが本番ですね。
中学受験だとほんとに直前期だし、高校受験だと私立と公立のテストがすべて終わるまで、
もう少し時間がかかるかな。まさにシーズンまっただ中ですね。

こういうときに、つい心配になりますよね。

・電車が遅れて試験会場に着かなかったら
・いつもよりケアレスミスが多かったら
・これからインフルエンザにかかったら
・受験票を忘れたら
・テストの最中にオナカが痛くなったら

まあ、考え始めればキリがないわけで、いろいろぐずぐずめそめそ(?)
思い悩んでしまいますよね。

でも、大丈夫。その心配の8割は起こらない (^▽^)/ んだそうです。
しかも、残り20%のうち、16%は準備をしていれば避けられるもので、

結局のところ起こりうるのは4%のみ。

アメリカでの調査なんですが、どちらかといえば心配性の日本人ならもっと
「心配事が起らない割合」が高くなるかもしれませんね。

この結果からすると、96%の心配&不安は取り越し苦労 (^3^) ってコトです。
なんだか気が楽になりませんか。自分の人生だけを振り返っても、
実感としてもそのくらいの割合だなと感じます。
あ、こう見えてちょっとは心配したりしているんですよ。

しかも、4%は「準備のしようがない」たぐいのものです。
つまり神ならぬ人間の身では、この出来事のためにやれることはなにもナイんですよ。
それなら心配しても仕方ないですよね?

準備のしようがないような出来事って、たとえば

・飛行機が自宅に墜落してきた
・史上最強の寒波が来てすべての交通機関が止まった
・お父さんとお母さんとお姉ちゃんとお兄ちゃんが順番に急死した
・公用語がアラビア語に変わって問題文が読めなくなった

……こんなカンジでしょうか。

どれも試験日1週間前に起こったら(フツー起らないと思うけど)
か~なりタイヘンなものばかりですよね。

もし起ったら、そんな不幸もたまにはあるさと受け止めるしかないようなモノなんですよ。

こうやってみると、心配事のほとんどが実は悩み損なものなんです

    (http://www.mag2.com/p/news/143272

            <感謝合掌 平成29年2月3日 頓首再拝>

恐るるな《神が此処にいる》 - 伝統

2017/02/08 (Wed) 03:41:06


           *「光明法語」(2月8日)より

神が此処にいる。
そしてそれは全能であり、吾々の父であり、永遠に吾々の味方である。

この事を銘記せよ。

人間に能わぬことも神は成し給うのである。
太陽を創造し、星を彼方にちりばめ、無数の空の鳥を飢えることなく養いたもう
神が此処にい給うのである。

何も恐るることはない。
神を思い出さなかったことを恐れよ。

神を思い出すことは神が流れ入り給う通路を作ることになるのである。
衆生、ほとけを憶念すれば、佛、衆生を憶念したまう。

神は吾らを忘れ給わないが、こちらが波長を合わす事が必要である。

            <感謝合掌 平成29年2月8日 頓首再拝>

《天地一切と和解せば恐怖が滅する》 - 伝統

2017/02/21 (Tue) 03:35:07


          *『幸福を招く365章』第1項(P21~22) より

恐怖の心配とは、「不幸」を呼び寄せる接待係のようなものである。
恐怖したものは顕れ、心配したものは実現する。
こんな接待係は一日も早く追放しなければならない。

恐怖心に満たされた蛙(かえる)は、みずから恐れている蛇の口の方へ
引き摺られるように歩いて行くのである。

恐怖心に満たされた人は逃げる自由を失って自動車に轢かれる。
恐怖しなければ犬も咬(か)みつかないが、恐怖すれば犬も馬鹿にして咬みつくのである。

毅然として「われ神と供にあるが故に、恐るべきもの絶対になし」と信ぜよ。
天地一切のものが悉く、神より出でたる物であると知るならば、
吾らと等しくすべての者は自分と兄弟であるから恐るることが無くなるのである。

これが天地一切のものと和解することである。

            <感謝合掌 平成29年2月21日 頓首再拝>

《心を明るくせよ》 - 伝統

2017/03/07 (Tue) 04:25:27


       *「幸福を招く365章」第12項(P254~256)より
        ~初出は『生長の家』(昭和25年10月26日の法語)

   心に希望をもち、勇気をもち、心を常に愉快に保つ者は
   速かに癒えるのである。 

   肉体を構成する一切の細胞は物質ではないのであって、
   心の具象化せるものである。

   だから、その指揮者である本人の心の状態に
   非常に鋭敏に感ずるのである。

   先ず本人の心が恐怖心を滅しなければならない。

   「病気が自分を殺すかも知れぬ」と云うような
   恐怖を捨てなければならない。

   病気が客観的存在であって自分を傷つけると思うのは
   迷信であるのである。


   病気は自分の心が作ったものであり、
   幽霊の正体見たり枯尾花である。

   自分の心が変れば、対象が変化するのである。

   ( 別著 『 神癒への道 』(新選谷口雅春選集第三巻) 参照 )



   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85


            <感謝合掌 平成29年3月7日 頓首再拝>

死の恐怖から自由になる - 伝統

2017/03/23 (Thu) 03:18:40


        *「あの世のひみつ」美鈴・著(P222~223)より

死に対して恐怖感をいだいてしまうのは、
死がすべての終わりだと誤解しているからです。

人は死んで無になるわけではありません。
失うのは肉体だけです。

此の世に別れを告げたとしても、魂は不滅なのです。

現実社会にしっかり適応して、社会的成功を手にしている男性は、
死によってすべてを失うことを恐れることが多いようです。

「死ぬのがこわい」という相談を寄せられると、私はこう答えます。

「死を恐れるのは、生きる意欲が人一倍強い証拠ですよ」

そして、死におびえるよりも、生きることに集中するようにアドバイスします。

死は、誰に対しても平等に訪れます。
この世に生まれ、毎日を精一杯生きて寿命をまっとうすれば、
安らかにあの世に行けるようになっています。

それはあたかも、なつかしい故郷に「ただいま」と帰っていくようなものです。

苦痛を伴う病や怪我を宿命として選んだ場合を別にすると、
それまでの人生のマイナスのカルマの集積によって、苦しんで死ぬという
ケースもあります。

ですから、安らかな死を迎えたいのなら、毎日の行動や考え方を見直して、
少しでもマイナスのカルマを解消するように心がけながら
今を必死に生きてほしいものですね。

死後の世界がどうなっているかを知ることによって、死の恐怖は消えていきます。

・・・

<参考>

死後の世界については、次のWebにてご確認ください。

(1)谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の弐
   「何故『人間死んでも死なぬ』を書いたか」
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=71

(2)伝統板・第二「あの世とは?~あの世からの現地報告より」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6941482

(3)伝統板・第二「人間は死なない①」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6760169 

(4)伝統板・第二「人間は死なない②」
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7189960

(5)伝統板・第二「臨死体験」(親記事内の関連Webを含む)
    → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7044663

            <感謝合掌 平成29年3月23日 頓首再拝>

《人間は肉体に非ず》 - 伝統

2017/04/08 (Sat) 04:18:50


          *『 生長の家 』(昭和25年10月27日の法語)より

   病気は恐怖を去ればその80%は治ったと云ってもよいが、
   しかし恐怖心を恐怖することも止(や)めなければならない。

   人間の実相は 「 神の子 」 であるから病気によっても、
   恐怖心によっても滅ぼされるようなものではないのである。


   肺臓が何だ、心臓が何だ、脳髄が何だ、血液が何だ、
   人間は肺臓に非ず心臓に非ず、脳髄にあらず、筋肉にあらず、
   それらすべてを結合したるものにも非ずだ。

   人間は霊なり、神の子なり、実相なり。
   人間を動かすものは 「 神の生命 」 である。
   それ以外のものの増減に捉(とら)われてはならないのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

            <感謝合掌 平成29年4月8日 頓首再拝>

《神は神罰を当てぬ》 - 伝統

2017/04/27 (Thu) 05:04:20


   「 往(ゆ)きて福音を宣(の)べ伝えよ 」 と云うのが
   イエスの教えであった。

   祈りが成就しない原因のなかには、この福音を宣べ伝えないことが
   原因になっていることもあるのである。

   東京渋谷区にセブンス・デェイ・バプチストの
   基督(キリスト)教会が出来たが講話をききに来てくれと
   私の宅まで挨拶(あいさつ)に来た二十歳位の娘さんが
   あったのである。

   その勇敢な伝道ぶりには感じさせられたと私の家内が云っていた。

   何とか云う新興宗教は、
    「 一人で百人を信者に勧誘しないと、この病気は治らぬ 」 と
   言っておどして信者拡大をする方便としている。

   この種の恐怖宗教は決して少くなくないのである。

   ××教では 「 人を救えば我が身たすかる 」 と云って、
   自分の業が解消し、因縁を切り病気が治るためには、
   他の人をその宗教に引込まねばならぬと教える。

   自分が助かりたいために血まなこになって病人を探して
   伝道している××教信者はそれである。

   生長の家のみ神は神罰をあてぬと云う。
   本当の正しい宗教は人に安心を与えるのである。

   恐怖を与える教えは宗教の仮面をかぶった説教強盗
   みたいなものである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=85

            <感謝合掌 平成29年4月27日 頓首再拝>

《恐怖心を捨てること》 - 伝統

2017/04/29 (Sat) 04:48:32


          *「光明法語」(4月29日)より

信ずるとは知ることである。
生命をもって直接に知ることである。

自己の生命は神より出でたるものであるから、
自己の生命は実相に於いては既に神を知っているのである。
だから危急のときに人間は神を呼ぶのである。

思わずとは「無意識」にと云うことである。
「無意識」とは意識がないと云う意味ではない。
「気がつかぬ意識」と云うことである。

自分の気がつかない心の奥底に神を信ずる心があるのである。

しかし神を呼んでも感応がないのは恐怖心や狭い心があるからである。

            <感謝合掌 平成29年4月29日 頓首再拝>

「 ままよ 」 と云う心 が恐怖心を取り除き、病をいやす - 伝統

2017/05/13 (Sat) 03:22:04


《「 ままよ 」 と云う心 「 治る 」 心》

         *『生長の家』(昭和25年11月12日の法語)より

   恐怖心から治癒力がにぶっている病人は、
   恐怖心を唯(ただ)とり去るだけでも治ることがある。

   「 治りたい 」 と云う考えに執着している場合には、
   その反対観念たる 「 治らなかったら恐ろしい 」
   と云う考えがつきまといがちであり、

   この恐怖が病人の活力を萎縮せしめて、
   治癒をおくらせていることがある。

   そこで 「 死のうとままよ 」 とか、
   「 治らないなら治らないで可(よ)いではないか、
   生きている間は人のために働こう 」 などと

   生死超越の気持になって働き出したときに、
   治癒力が昂進して治るのである。


   高野山の教修会で京都の井上喜代さんは

   重症の腎臓炎が 「 治らないなら治らないで可い 」 と働きかけた翌日、
   尿蛋白が消失したと発表された。

            <感謝合掌 平成29年5月13日 頓首再拝>

《難局に屈したとき「全智者」に振り向け》 - 伝統

2017/05/26 (Fri) 03:53:21


          *「生活と人間の再建」第13章恐怖心を除くには(P172)より

もしあなたが人生の解決し難き難問題に直面して未来の恐怖におそわれるならば、
自分でその問題を解決しようとする事なしにあなたの心を神の方へふり向けよ。
神と直通せよ。

神はあらゆる智慧をもっていられるのである。
神は凡(あら)ゆる解決法をもっていられるのである。
神に任せよ。

その全托の心境になった時、ぽっかりとあなたの頭に解決の途(みち)が浮かぶか、
誰かの深切な導きが起ってくるのである。


恐怖心が起っている限り、恐怖は不信の感情の現れであるから、
神の救いの波長が合わないのである。
だから真の解決は平和な心境になって神に任せることによって得られるのである。

神の子として、神の自己実現として神の完全さを表現しているのが人間であるから、
人間が真にそのままの状態になる時、不幸も災難も病気も問題もありえようがないのである。

恐怖心をすてよ。
そのままになれ。

「我れ神の子」と宣言せよ。
「我れ神の自己実現なり」と宣言せよ。

「神の名に於いて我れこのことを実現する」と
断々乎として自己の欲するものを強調せよ。

           <感謝合掌 平成29年5月26日 頓首再拝>

《環境の精神的影響》 - 伝統

2017/05/31 (Wed) 04:46:59


         *「光明法語」(5月31日)より

精神科学は結核患者をみちびくのに、
決して形の上から「絶対安静」を破れと云うのではない。

先ず「恐怖心」を捨てよと教えるのである。
「恐怖心を捨てた」其の結果が、自然に絶対安静の必要がなくなるのである。

まだ恐怖しながら、戦々恐々「動いて見よう」位では危険なことこの上ない。
しかも、周囲の人々が、「動いたら危ないぞ」と恐怖心をそそる言葉で包囲攻撃する場合、
患者は恐怖心を起こさずにいることはむずかしい。

まず環境を変える必要がある。
また家庭の不調和から来る患者は家族互いに感謝させねば精神の安静は得られない。

           <感謝合掌 平成29年5月31日 頓首再拝>

今すぐ行う日 - 伝統

2017/06/12 (Mon) 04:21:35


            *「光明道中記」(6月12日)より

【恐怖心は神の全能の愛を信じない為に起る。(『生命の實相』第ニ巻)】

すべてを神のみこころに委(まか)せること。
併しこれだけでは恐怖心は絶滅されるものではないのである。

神のみこころの中には不幸は無いと云うことを知らなければ、
人は神を恐怖するに到るであろう。

神に委せるとは、一番高き幸福の源泉に委せることなのである。
《此処に》《今》幸福があることを知ることである。

幸福か不幸かわからないけれども、兎も角神に委せようと云うことではない。
神はわが憩いの家であり、愛の家であり、わが砦であることを知ることである。

単に「思い煩うな」と言って、問題を次へ次へと延ばして行く者は、
恐怖を先に延長しているようなものであって、
本当は「思い煩っている」のである。

吾々は事物に面することを次へ延ばすことなく、「今」受けるが好いのである。
「今」恐れなく受けるのである。
「今」目の前に《ある》ものが決して自分を害するものでないと知ることである。

避けるのではない。捉えるのである。

幽霊の正体見たり枯尾花。
正体を捉えて見たら、恐怖すべきものは一つもないのである。

           <感謝合掌 平成29年6月12日 頓首再拝>

悪は存在しない、心に「悪」を予想することなかれ - 伝統

2017/06/13 (Tue) 03:48:40


          *「光明道中記」(6月13日)より 

【言葉の力によって認めるものだけが存在に入る。(『生命の實相』第ニ巻)】

恐怖の正体は「悪」の存在を予想する念である。

念は吾々の「生命」より発する波動であって「生命」そのものと融合して、
体内と、外界とに、自分の「生命」に一連関せる環境を作り上げる。

体内の環境を内的環境と呼び、外界の環境を外的環境と言う。
血流、消化状態、内分泌の状態などは内的環境であり、外界境遇貧富等は外的環境である。

内的環境も外的環境も共に自己生命の「念」の延長であり、
客観化(かたちにか)したのであるから、
自分の「念」によって支配されるのである。

「念」に悪を予想するところの恐怖心が、
肉体に悪影響を与え、外界に悪環境をつくるのは当然である。

されば、決して心に「悪」を予想することなかれ。

「悪」は存在しないのである。

ただ予想したときそれが形にあらわれて、あるかの如く視(み)えるに過ぎない。

静かに、「自分に近づきつつある物」を幸福の使者として微笑をもって迎えよ。
自分に近づきつつある物は、結局「幸福の使者」と変ずるであろう。
立対(たちむか)う者は自分の心の反影(かげ)である。

           <感謝合掌 平成29年6月13日 頓首再拝>

《無限なる者より『生命の泉』を求めよ》 - 伝統

2017/06/30 (Fri) 02:59:58


          *「生活と人間の再建」第13章恐怖心を除くには(P173)より

もしあなたがただ善のみの存在を信じ、善のみが存在の力をもち、善以外のものは
何ものをも自分に近づくことができないということを真に知り念ずるならば、
たちどころに恐怖心は去るのである。

恐怖心がなくなれば、そのままの姿が現れ、実相の完全さが実現する外はないのである。


ただ残念なことは、もっとも神の必要な時に、恐怖の影にかくれて神を見失ってしまう
人が多いということである。恐怖は扉の彼方に神をかくしてしまい、希望を失わしめ、
凡ゆる不幸と災いの暗黒なる鬼共を創造せしめるのである。

そしてヨブの云ったように「我が恐れたるものすべて我におそいかかれり」と
いうが如き苦難の状態を現出するのである。


どんな時にも我々は神の王座からすべりおりて恐怖心や心配にその王座をひきわたしては
ならないのである。恐怖や心配はただ幻の侏儒(こびと)共であるから、我らが毅然として
自己の王座を守るならば、何(いず)れもしばらく中(うち)に退散してしまうのである。

神の永遠の生命(せいめい)の泉に常に活力の源泉を求めよ。
神の無限の智慧の泉に常にあなたの生活の導きを求めよ。
自己の中(うち)に 神は宿っているのである。 

呼べば常にこたえたまう所に神はいたまうのである。 

『わが魂の底の底の底なる神よ、無限の力湧き出でよ』 
この言葉を数回唱えることによって、試験場に於いて恐怖心を克服して、 
忘れていた解答を想いだした学生もあるのである。 

その同じ言葉を数回唱えることによって、
ある工場の工員は重大な発明を完成したこともあるのである。

自分の中に無限の力が宿っているのである。神が宿っているのである。 
遠い所に求めることはいらないのである。 

自分の神性によびかけよ。 
『自己に宿るキリスト』によびかけよ。 
自己に宿る仏性によびかけよ。 

肉体を見るな。 
実相を見よ。 

今ここに大いなる神の生命(せいめい)が流れているのである。 
神の力が流れているのである。 
凡(あら)ゆる智慧と方法とは与えられているのである。 

ただその事実に目覚める時一切の恐怖は克服されるのである。

           <感謝合掌 平成29年6月30日 頓首再拝>

不眠は、不眠恐怖症に過ぎない - 伝統

2017/07/11 (Tue) 04:41:23


          *「光明道中記」(7月11日)より

【実相と云うものは「其儘(そのまま)美しい」のであります。
(『生命の實相』第十五巻)】


四祖の道信は「祖風を継いでより心を摂(せつ)して寝(い)ぬることなし」とあるから、
衣鉢(いはつ)を伝えられて以来眠ることがなかったらしい。それでも別に神経衰弱で
夭死(わかじに)したのではない。彼は七十二歳で示寂(しじゃく)したのである。


私が不眠症の人に示して必ず治る秘訣がある。

それは不眠の人に、ロンドンで四十数年間1時間の睡眠もとらないで
健康状態で続いて来、最近七十四歳の長命で亡くなったと云う実話である。

この話が或る新聞に報ぜられると、ウィーンでは
「私は二十何年間一睡もしないで活動を続ている。眠る必要がなくなったので、
仕事をしないと退屈で仕方がないので1日24時間としての時間割を
作って仕事をしている」と言って発表した人があったと云うことである。


それから文士の倉田百三氏が約1年間不眠が継続していて、
その揚句の果に廓然(からり)と悟ると十数年間の全身結核がケロリと治って、
夏は水泳までも自由に出来るようになったと云う実話である。

こんな話をしているうちに「人間必ずしも眠る必要はない」と云う観念を得、
不眠に対する恐怖が消える、するとその晩から大抵その人はグウグウ眠る
ようになるのである。

不眠症 ―― 実は不眠恐怖症に過ぎなかったからである。

            <感謝合掌 平成29年7月11日 頓首再拝>

《恐怖心のある所に不幸は来る》 - 伝統

2017/07/25 (Tue) 04:23:52


         *『生長の家』(昭和41年12月12日の法語)より

   或る人の説によると、恐怖心を起すと、
   その人から恐怖の雰囲気が発散される。

   その恐怖の雰囲気は或る種の獣類には一種の匂いとして感じられ、
   その匂いを嗅ぐとその獣類はその雰囲気を発する人に
   咬みつきたい衝動が起るのである。

   しかし信仰深く心気泰然としている人からは
   恐怖の雰囲気の匂いを発しないので
   獣類は咬みつこうとはしないのだというのである。

   旧約聖書の中では、ダニエルはライオンの檻の中に入れられたが、
   そのライオンはダニエルに猫のように狎れついて
   咬みつかなかったということである。

   日本でも沢庵禅師に同じようなことが起ったということが
   伝えられているのである。

   獣類だけでなく、全ての 〃不幸〃 は
   恐れる人の処へやって来て咬みつくのである。 

   日本の諺に言う「泣き面に蜂」 とはこの事である。 


   〈谷口清超氏訳・マン女史原著
    『恐れなき生活』 四五○圓 〒70円参照〉
 
    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=783

            <感謝合掌 平成29年7月25日 頓首再拝>

恐怖心を取去って「健康」の相(すがた)を心に描けよ - 伝統

2017/08/10 (Thu) 03:25:36


          *「眞理」第四巻青年篇(P311)より

従って吾等は恐れることなく(恐怖心は信仰とは逆の波動である)既に健康であると念じて
「健康」の相(すがた)を心に描くことが必要なのであります。

物質(特に細胞)は生きており意識を持っているものでありますから、
それは吾々の主宰意識の心に描いた通りの命令に従いまして、
心に描かれた「健康」の模型通りにその栄養分を、その破損部分に配達して、
組織を新生せしめることになるのであります。

換言すれば肉体組織が如何なる形をとるかは、
吾々の心に描いた想念の形そのままをとると言わなければならぬのであります。

だから吾々は常に自分を不完全な肉体と思わないで、
円満完全神の子そのままだと観ずるようにしなければなららないのであります。

            <感謝合掌 平成29年8月10日 頓首再拝>

【人と違うことをすることを恐れない】 - 伝統

2017/08/25 (Fri) 03:37:17


        *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年08月09日)」より

   (心臓血管外科医、天野篤氏の心に響く言葉より…)

   天皇陛下の心臓手術は東京大学と順天堂大学の合同チームにより行われた、
   「異例のケース」といわれた。

   その手術を執刀して以来、
   私の生い立ちや、これまでの歩みをたくさんの記事にしていただいた。

   過分なおほめの言葉も頂戴し、テレビでも、「天野篤」というひとりの医師が、
   どのようにして陛下の手術に携わるようになったのかを幾度も紹介していただいた。

   そこでの「人となり」を数行に要約すると、
   天野篤という人間はだいたい次のようなことになる。

   「落ちこぼれだった高校生が、心臓病で父親を助けようと医師を志し、
   三浪して日大の医学部に入った。
   やがて心臓外科医になるが、自分も立ち会った3度目の手術で父親を失う。

   自分にもっと力があればと、一念発起し、
   ひたすら腕を磨いていき、6000例を超える心臓手術を行うまでになった」


   3浪という不名誉なことも含めて、たしかに事実はそのとおりだ。

   今は順天堂大学医学部の心臓血管外科教授というポジションに
   押し上げていただいたが、もともとは出身大学の医局にも属さずに、
   一匹狼ともいえるような道のりを歩いてきたノンエリートだ。

   ここに私の原点がある。

   生来、人と同じことをするのが嫌いな反骨精神もある。

   だが、30年医者をやってきて、本音でいいたい思いもある。


   たとえば、受験難関校から旧帝大医学部に合格した秀才だけが
   医師になって本当によいのだろうか?

   手術するのは学者ではない。
   組織で偉くなる人でもない。

   今後の医療現場では、かつての医師と現代の医師とでは
   求められる力が違うということもある。

   最先端の医療現場では、
   医師が「ダヴィンチ」という手術支援ロボットを操作して、
   出血の少ない外科手術を行う時代にもなった。

   つまり、小さい頃からコンピーターゲームの得意だった子が、
   優秀な外科医になりうる時代になっている。


   私のように、小さい頃、プラモデル作りが得意だった子どもが
   患者さんのために役立つような時代だ。

   プラモデルでは、部品のはがし方だって相当に集中してやった。
   ひとつひとつの部品は、ニッパーできれいにはがさないとうまく仕上がらない。
   1個部品を壊すだけで台無しになり、後戻りしなければならない。

   そういうことが、熱中してきたことを通じてわかる。

   だから、若い人のいろいろな経験を否定しないことが大切だ。

   お母さんが我が子に、「ゲームばっかりして」と怒ることもあるだろうが、
   私は否定してはいけないと思う。

   「ダヴィンチ」以上の手術支援機器が登場してくると、
   その技術的な進歩が、これまでの不可能を可能にするきっかけになったりする。


   実際、医学部で教授という立場で、意思を育てるという側に立つと、
   弾力性ある若い力を、そのまましなやかに伸ばすには、どうしたらいいのかと、
   日々考えさせられる。

   次世代のそれぞれの「思い」をどのように磨いていき、
   未来を切り拓(ひら)いていくのか…これからサポートしたいことでもある。

         <『熱く生きる』セブン&アイ出版>

              ・・・

「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄(なわ)の如(ごと)し」ということわざがある。

災いと幸福はまるで、より合わせた縄のように、かわるがわるやってくる、という意味。

失敗だと思っていたことが、成功する原因になったり、
子どものころの無駄だと思っていた経験が、
大人になって役に立つ、というようなことは多い。


これからの世の中はすさまじい勢いで変化する。

今までの技術が一瞬にして役に立たなくなるような、新技術も登場するだろう。

大事なことは、これからは、暗記したり、それを再生するというような
デジカメ的能力はまちがいなく必要なくなってくるということだ。

つまりたとえば、受験勉強で必要な記憶再生能力のようなこと。

現在は、それがスマホ一つでこと足りるからだ。


みんながやるから、自分もやる、というような生き方では、確実に取り残される。

人と違うことをすることを恐れない人でありたい。

            <感謝合掌 平成29年8月25日 頓首再拝>

《天地一切と和解せば恐怖が滅する》 - 伝統

2017/09/08 (Fri) 05:02:51


       *『幸福を招く365章』第1項(P21~22) より

恐怖の心配とは、「不幸」を呼び寄せる接待係のようなものである。
恐怖したものは顕れ、心配したものは実現する。
こんな接待係は一日も早く追放しなければならない。

恐怖心に満たされた蛙(かえる)は、みずから恐れている蛇の口の方へ
引き摺られるように歩いて行くのである。

恐怖心に満たされた人は逃げる自由を失って自動車に轢かれる。
恐怖しなければ犬も咬(か)みつかないが、恐怖すれば犬も馬鹿にして咬みつくのである。

毅然として「われ神と供にあるが故に、恐るべきもの絶対になし」と信ぜよ。
天地一切のものが悉く、神より出でたる物であると知るならば、
吾らと等しくすべての者は自分と兄弟であるから恐るることが無くなるのである。

これが天地一切のものと和解することである。

            <感謝合掌 平成29年9月8日 頓首再拝>

人間は恐怖に脅えると間抜けになる - 伝統

2017/09/30 (Sat) 04:36:08

      *「思考のすごい力」ブルース・リプトン(著)(P243~249)より

大病のほとんどは慢性ストレスが原因

人間は恐怖に脅えると間抜けになる、というのが真実だ。
「テストになるとできなくなる」生徒にはよくある話だ。

試験というストレスで無力になり、手は震え、間違った答えをマークしてしまう。
学期のあいだじゅう、せっかく努力してきたというのに、
パニック状態で脳内に蓄えられた情報にアクセスできなくなっている。

(中略)

アドレナリンなどのストレスホルモンが出続けると、
どういう副作用が現われるだろうか?

陸上競技の短距離走を例にして説明しよう。
きわめてよく訓練を積んだ健康な走者の一群が、スタートラインにつく。
「位置について!」という合図で、手と膝を地面につき、
足をスターティングブロックに合わせる。

続く「用意!」という合図を耳にして、走者の筋肉はぐっと収縮し、
指先と爪先に力をこめて前にのりだす。

この「用意!」の状態になったとき、
体内では逃走反応を引き起こすアドレナリンなどが放出され、
筋肉はこれから行う大変な作業に対して準備する。

「ドン!」が聞こえるのを待つあいだ、
走者の肉体はきたるべき仕事に備え、緊張状態にある。

通常のレースでは、この緊張はせいぜい、1、2秒ですみ、
すぐに「ドン!」の合図がある。

だが、わたしたちは、いわば「ドン!」の合図がいつまでたっても聞こえない
という状況におかれている。

(中略)

そこでは常に緊張が強いられる。
近年、過剰な覚醒状態が続く生活により、わたしたちの健康が
ひどく損なわれているという研究結果が増えている。

(中略)

ここで一つ提案したい。
恐怖とそれに続いて起こる防衛行動とが、
どれほど暮らしに影響を及ぼしているのか、
あなたもよく考えてみることをおすすめする。


  いかなる恐怖が成長・増殖を妨げているだろうか?

  その恐怖はいったいどこから来ているのだろうか?

  その恐怖は避けがたいものなのだろうか?

  本当に存在するのだろうか?

  生活全般に影響を及ぼすものだろうか?

(中略)

もし恐怖をコントロールできたならば、
生活を、人生を再び自分の手に取り返すことができる。

フランクリン・D・ルーズベルト大統領は、
恐怖の破壊的な性質について、よく心得ていた。

大恐慌や迫り来る世界大戦の脅威のさなか、ルーズベルトは慎重に言葉を選びながら、
「なにも恐れることはありません。恐れるべきは、恐怖それ自体なのです」と
米国民に語りかけた。

まず、恐怖を捨て去ろう。
それが満ち足りた人生を創り出す第一歩なのだから。

            <感謝合掌 平成29年9月30日 頓首再拝>

恐怖すること勿(なか)れ - 伝統

2017/10/09 (Mon) 03:39:23


        *「光明法語(10月9日)」より

何事に対しても恐怖すること勿れ。
神の子であり、神が常に汝を護っている事を知るならば
吾らは何事も恐怖する事はない。

恐怖するのは神を信じていないからである。
恐怖すれば血管は収縮し血液中の過度のアドレナリンを生じ、
血圧は昂(たか)まり、全身の細胞は萎縮して活力を失うのである。

肉体の各器官は神の諸々(もろもろ)の霊的属性の表現である。
神の諸々の属性を完全に表現すればする程、
肉体の各器官は一層健康となる。

心臓は愛の表現である。
愛が乱れれば心臓が乱れる。

またそれは心膽(しんたん)である。
気を大きくすれば心臓病は治る。

            <感謝合掌 平成29年10月9日 頓首再拝>

恐怖すべき事物から逃れる方法 - 伝統

2017/10/25 (Wed) 03:28:19


        *「苦難と恐怖の克服法」( 人間救いの原理 第8章)より

すべての人生経験を神から与えられたものとして素直に受け取ることと、
その困難と取り組んでそれを克服すると云うこととの間には
何等矛盾することはないのであります。

すべての人生経験(困難と見えるものをも含む)を神から与えられた過程として
素直に受取る者は、その過程から決して逃げ出そうとはしないのであります。

それは自分に課せられたる過程ですから、それが、どんなに困難に見えましょうとも、
それと取り組んでそれを解決しょうとします。

しかもその困難と見ゆるものは、自分が課せられたる「魂向上の糧」でありますから、
究極に於いて吾らに決して害を与えるものではないと知るが故に、
決して「恐怖」を伴わないのであります。

「恐怖」とは畢竟「禍が来る」と云う暗示に感応したことであります。

若し吾々が、何ら抵抗するところなく、「恐怖」の暗示に感応しますならば、
吾らは「恐怖」の虜となり、奴隷となり、その恐れていた災禍の犠牲に
なってしまうのであります。

坊間八卦見や、街の占者や、姓名判断者や、家相占者が、
何か災厄の起こることを予言する場合、一見それは深切な助言の様に見えようとも、
往々それは恐怖の暗示の感応として現れることがあり、
恐れなかったならば実現しないような事件が、恐れたために実現する事になり、
いたずらにその予言者に名をなさしめるようになっていることが多い
のでありますから注意しなければなりませぬ。

例えば何の不安もなしに谷川にかかっている橋を渡っている時に
「落ちるから危ないぞ」と言われ、驚いて橋から下を見ると、下は千仞の谷である。

「落ちたら死ぬ」と思うと急に恐怖心が起って足がガタガタ慄え出して
墜落すると云うような実例も随分多いのであって、
「恐怖心を唆(そそ)る深切な勧告」はかくの如く、人々を導いて
恐怖すべき事実を現実化せしめるに到るのであります。

だから恐怖すべき事物から逃れるべき方法は、
恐るべき事物を、恐れて逃げてわざと自分の念頭から放擲することではなく、
その事物と勇敢に取組みながら、しかも無恐怖の状態になって
悠々自分の成すべきことを滞りなく遂行することであります。


(谷口雅春先生に帰りましょう・第二
「(人間救いの原理)⑧日時:2017年10月02日名前:平賀玄米」
 →http://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1785 より転写しました)

            <感謝合掌 平成29年10月25日 頓首再拝>

”恐れからくる決断 vs 勇気からくる決断” - 伝統

2017/11/10 (Fri) 04:27:42


          *Web:「社長仕事術(2017.6.25)」より

恐れから下されたすべての経営判断、経済的、個人的な決断は、悪い結果をもたらします。
そして、もともと恐れていたことよりも、予定外や不意打ち、想定外からおこる出来事は、
さらに悪い結果を招くものです。

(戦略計画の手段として、良い意味で「重度の心配性」になるのはいいですよ。
私がお話しているのは、恐れについてですからね。)

もちろん勇気の決断が、すべて良い結果になるわけではありません。
そんなに単純なものではないですよ!

しかし、好結果をもたらす決断をリスト化すれば、
「恐れ」よりも「勇気」のほうが、はるかに長いリストになるでしょうね。

もし、あなたが賭け事をするのが好きならば、勇気を出して堂々と行動することですね。

恐れや勇気から下される小さな決断も積み重なれば、
蝶番(ちょうつがい)が大きなドアを開閉するように、
多大な影響力を持つことになります。

たとえば、価格設定や契約条件などはどうでしょう。
ビジネスを改善するために、厄介な、または利益が出ない取引や顧客、
クライアントを切ってしまうか、存続させるか、従業員を解雇するか。

これらはタイミングが特に重要なので、勇気を持って決断することが大切なのですよ。

スーパーボウル(アメリカンフットボールの優勝決定戦)で、
パント(攻撃権を放棄して守備陣側にボールを蹴り込み、陣地を守ること)を
使って勝利を収めたチームはいませんね。

しかし、ゲームのあいだにずっと
フォースダウン・ギャンブル(失敗すると相手に攻撃権が渡ってしまう)を仕掛けても、
勝てるわけではありません。

オフェンスだけではなく、ディフェンスも重要ですからね。
そして、そこにはいつもターニングポイントがあり、そこで度胸が試され、
勇気ある決断が必要とされるのです。

それはビジネスでも同じですからね。

あなたは無謀にも、臆病にもなってはいけませんよ。

有名な成功談で、伝説にもなっている、勇気ある行動がありますよね。

無一文で何としてもお金が必要だったスタローンは、
それでも「ロッキー」の台本を売りませんでした。
主演が彼ではないと言われたからです。

最初に売らなかったことが、彼にとっては良い結果につながりましたね。

また、切羽詰まった状況から生まれる、勇気ある行動もあります。
それで思い出すのは、フレッド・スミスですね。
彼はラスベガスのカジノでクラップスに大金を賭け、瀕死のFedExを救いました。

困難な状況を乗り越えて英雄となったジョン・F・ケネディも、
「ボートが沈められたおかげで、英雄にならざるを得なかったんだ。」と言ってましたね。

もしニクソンが疑惑を断固否定し、国家機密を理由にホワイトハウスの芝生の上で
録音テープを燃やしていたら…そして、弾劾に反対する勇気を持っていたら
(のちにクリントンがしたようにね)世界は変わっていただろうと、
多くの歴史学者が推測しています。

ディズニーは、いくつもの勇気ある決断をして成功しましたね。
ウォルトは、テーマパーク産業の専門家を一切受け入れませんでしたし、

アメリカ同時多発テロ直後のマイケル・アイズナーは、役員会の反対を押し切り、
ディズニー・パークを全て閉鎖しました。


大きな成功を収めているビジネスが、
恐れから決断を下す経営者によって破壊されていくのを、私は何度も見てきました。

しかし勇気によって台無しになるビジネスは、まだ見たことがありませんよ。

さて、これはとても重要な質問ですから、あなたも自問してくださいね。

私は何に基づいて決断を下しているのだろう、恐れ? それとも勇気?

-ダン・ケネディ

  (http://www.theresponse.jp/blog/president/70824/?ts=mag_dann_170625

            <感謝合掌 平成29年11月10日 頓首再拝>

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