伝統板・第二

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なお、当掲示板の管理人は、聖典『生命の實相』および『甘露の法雨』などの聖経以外については、
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ゆるしはすべてを変える ② - 伝統

2016/04/24 (Sun) 03:59:49


    *伝統板・第二「ゆるしはすべてを変える ①」からの継続です。
      → http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=6461367


《自己の罪を赦す道》

         *『 生長の家 』(昭和26年2月24日)の法語より

   自分の潜在意識の底に
    「 罪を犯した 」 と云う考えがある場合には、
   自己処罰として 病気や不幸がやって来る場合がある。

   「 罪を犯した 」 と云う考えが 現在意識にない場合でも
   「 何(なあ)に、これ位のこと 」 と思っている場合にでも、

   潜在意識の奥底には 良心の囁きがあって
   「 罪人 」 としての観念があって、

   「 自己浄化 」 の方法 又は、
   「 贖罪(あがない) 」 の方法として
   「 病気 」 や 「 不幸 」 を起したりし勝ちである。

   しかし 人間は真性(super consciousness)に於いては
   「 罪はない 」 のであるから、
   自己の内に宿れる 「 真性 」 を呼び出せば、一切の罪は消えるのである。

   「 自己に宿れる神性よ 輝き出でよ、
   その輝きによって自分の潜在意識の中にある罪の観念は消え去った、
   もう罪は無いのだ 」 と

   神想観中に自己暗示せよ。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/f693b4ab4fb7719249d5707d267d406e

・・・

<関連Web>

(1)「光明掲示板・第一」内スレッド「ゆるす(釈・赦・許) (6522)」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1234 

(2)「光明掲示板・第二」内スレッド「ゆるし (10842)」
       → http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2078

(3)「光明掲示板・第三」内スレッド「ゆるし」
       → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou3&mode=res&log=41

(4)光明掲示板・伝統・第一「ゆるしはすべてを変える (42)」
       → http://bbs6.sekkaku.net/bbs/?id=wonderful&mode=res&log=25

            <感謝合掌 平成28年4月24日 頓首再拝>

《如何(いか)なる暗黒に面しても自分は人を憎まない》 - 伝統

2016/05/03 (Tue) 03:23:34


          *『 生長の家 』(昭和25年4月6日の法語)より

   如何に周囲のものが辛くとも、如何に悲しみがおそいかかって来ようとも、
   吾(われ)は決して そんなことによって人を憎むことはないのである。

   そのような不完全な姿が現われて来るのは、その不完全を通してさえも
   「 完全なる本当の存在の実相 」 をみる力を
   吾(わ)が魂に養(やしな)わしめんがためであるのである。

   吾々が困難に対して自分自身が しばられなくなった時にのみ
   本当に吾々は自由を得たということができるのである。

   みせかけの不完全な状態に苦しまなくなり、
   黒雲の奥に輝いている太陽をみて感謝する心境になった時にのみ
   その人は本当に自由になったのである。


   → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/13786899.html

            <感謝合掌 平成28年5月3日 頓首再拝>

赦しの祈りは人間を解放する - 伝統

2016/05/10 (Tue) 04:13:24


        *Web:谷口雅春先生をお慕いする掲示板 其の壱 より
         (http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=137 )
             ~ 『 理想世界 』 誌 昭和五十七年四月号


(1)神の完全さを内蔵する“神の子”

   真理の吟唱~智慧と愛と赦しのための祈り

(2)【本当の赦しとは・・・】

  ①「 罪は本来存在しない 」
  ②多くの病気は、人を赦さないために現れている。
  ③「神の子」という基本人権を認め、礼拝する。

(3)【 如来のいのちを拝む 】

  ①全ての人間を如来として拝む。
  ②人を赦すというのは、罪あるのを我慢するのではなく、
   罪はナイという実相を知って、
   その実相の如来のいのちが宿っている、その実相を拝み出すこと。   

(4)【 祈り合い神想観の功徳 】 

   “ あなた様は如来様である、神の子である、完全である”という念(おもい)で
   不思議にその悩みが消えたり病気が消えたりするんです。 


(5)【 いのちを解放する道 】

  ①悪いものを観ないで、悪く見えている表面の奥に、
   如来の完全な いのちが宿っていらっしゃるというのを拝むのです。

  ②人の罪を観(み)ず、それを赦してその実相(完全な如来の姿)を拝むということは、
   凡ゆる方面に功徳があるのであります。

            <感謝合掌 平成28年5月10日 頓首再拝> 

《人を審(さば)く心を棄てるための祈り》 - 伝統

2016/05/18 (Wed) 03:37:10


        *『 生長の家 』(昭和49年4月7日の法語)より

   【 祈り 】

   【 神は“ 人を審くこと勿(なか)れ、
   人を秤(はか)りたる量目(はかり)にて
   また汝も審かれん ” と仰せられました。

   私は今後、決して人の善悪を現象の姿を見て
   判断しようとは思わないのである。

   すべての人間は “ 神の子 ” であり、
   悉く皆、神の善徳を、実相のうちに
   包蔵しているのである。

   私は常に人を観るに、その実相完全の姿のみを観て、
   感謝し礼拝し讚嘆するのである。

   それ故に、人もまた私を見るのに、実相の円満完全な姿のみを見て、
   私を賞め讚え礼拝してくれるのである。

   その結果、私には、常に一層実相の完全な相(すがた)があらわれ、
   一層よくなるほかはないのである。

   ありがとうございます。 】


   あなたが若(も)し人を見て、その欠点を見出し、
   それを批難し攻撃したい感情が起って来たならば、
   此の祈りを思い出しなさい。

   そして、“ 私は神の子 ” であるから、
   人を見るのに神の子なる実相のみを
   観ることが出来るのである。

   人の欠点を観て、それを攻撃批難しようという心が起って来たのは、
   これは私の“ 本当の心 ”(実相の心)ではない。

   それは“ ニセモノの心 ”であるから、
   そんな心の惑わしに引っかかる事なく、
   あの人の実相の完全を観る力を私は本来授けられているのである
   と思い返して

   あの法華経にある「 常不軽(じょうふきょう)菩薩 」のように、
   現象の姿を一時見ないために肉眼をとじて、
   心に相手の完全な相(すがた)を描いて
   心で礼拝し讚嘆するようにつとめなさい。

   屹度(きっと)相手たるその人の性格や行動に変化が起り、
   立派な人になって頂けます。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=125

           <感謝合掌 平成28年5月18日 頓首再拝>

《人を赦さないとき、祈っても神と波長が合わぬ》 - 伝統

2016/05/25 (Wed) 03:16:44


         *『 生長の家 』(昭和46年10月21日の法語)より

   その次にイエスの “ 主の祈り ” で教えられた祈りの言葉は、

   「 我らに負債(おいめ)ある者を 我らの免(ゆる)したる如く、
   我らの負債(おいめ)をも 免(ゆる)したまえ。
   我らを嘗試(こころみ)に遇(あ)わせず、悪より救い出したまえ 」

   という祈りである。

   そして、それを註訳してイエスは 次の如く教えているのである。

   「 汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、
   汝らの天の父も汝らを免(ゆる)し給わん。
   もし人を免(ゆる)さずば、汝らの父も
   汝らの過失(あやまち)を免(ゆる)し給わじ 」


   神は無限の愛であるから、人間の罪を免(ゆる)すとか、
   免(ゆる)さぬとかいうようなことはないのである。

   人間自身の心が “ 人の過失(あやまち) ” とか
   “ 罪 ” とかいうものに引っかかって免(ゆる)さずにいると、

   自分自身の心の波長が、
   神の “ 無限の愛 ” と波長が合わないから、
   神の国から “ 幸福番組 ” の放送を、
   自分の境遇とか運命とかに受像することができないで、

   恰(あたか)も、神が自分を免(ゆる)さないで、
   神罰を与え給うた如き結果を
   生ずることをいうのである。

   人の過失(あやまち)を免(ゆる)すことなく、
   常に憎みつづけているときには、神の恵みと波長が合わないので、

   祈るに先立って、人を憎んだり、人と争ったりしている場合には、
   先ずその人を赦す神想観をして、

   自分が “ 愛 ” と “ 赦し ” に満たされた
   心の情態になってから神に祈るのがよいのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

           <感謝合掌 平成28年5月25日 頓首再拝>

《一度憤った相手は思い出してゆるせ》 - 伝統

2016/05/27 (Fri) 03:49:38


           *「光明法語」(5月27日の法語)より

「われすべての人を赦したり」と観じても、
そう漠然と思うだけで赦していないことがある。

それは自分の家はもうすっかり不浄のものを
洗ってしまって洗濯物はないと信じていても、
押入の隅っこに「汚れ物」をつくねて忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで
洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、
一々その顔を眼瞼(まぶた)の内に思い浮かべ、
「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」と
心の中に唱えるのである。

           <感謝合掌 平成28年5月27日 頓首再拝>

《相手を赦す神想観》 - 伝統

2016/05/28 (Sat) 04:09:13


          *「光明法語」(5月28日の法語)より

憎み恨み憤りたりし相手を赦す神想観によってのみ、
過去の過ちは赦され、過去の罪は浄められる。

瞑目して相手の顔を思い浮かべ、其の名を黙誦して心の中に深く次の如く念ずる。

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。
私は貴方を愛しております。貴方も私を愛しております。
貴方と私とは神に於いて一体でございます。

私はあなたに感謝しております。貴方も私に感謝しております。
有難うございます。有難うございます。
私と貴方との間には今何らの心の蟠(わだかま)りもございません」。

           <感謝合掌 平成28年5月28日 頓首再拝>

《人を赦(ゆる)したとき自分が赦される》 - 伝統

2016/06/05 (Sun) 04:36:32


         *『 生長の家 』(昭和25年2月20日の法語)より

   人々の欠点や不完全さについて
   それを怒らず耐え忍ぶことは一つの美徳である。

   何故(なぜ)なら
   自分自身にも色々の欠点や不完全さがあるからである。

   他の人を赦した時にのみ 自分自身 赦(ゆる)されるのである。

   然(しか)し人の欠点や不完全さを赦すよりも
   尚(なお)尊い行き方があるのである。

   それは 自分の周囲に起ることは 自分の心の影として、
   自分自身を神に対して懺悔することである。

   そして その欠点や不完全の奥にある
   「 本当の彼 」 ( 神なる彼 ) を礼拝せよ。

   真に彼を本当に完全なる神の子と見得た時に、
   彼は 完全なる姿に変貌(へんぼう)するのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=58

           <感謝合掌 平成28年6月5日 頓首再拝>

《罪を他に転嫁すれば一層苦しくなる》 - 伝統

2016/06/15 (Wed) 04:22:29


         *『 生長の家 』(昭和26年2月25日)の法語より

   自己を呪い、また他を憎み怨むすべての意識と別れを告げよ。

   「 自己及びすべてのわが知れる人々の罪は既に消えたのである。
   自分は自分を審判(さば)かないが如く
   他の人々をも審判かないのである。」 と

   繰返し繰返し神想観中に念ぜよ。

   自分に後ろ暗い感じがあると、他を責めたくなるものである。
   自己嫌悪感が他に向けられて、他の人の罪をさばきたくなるのである。

   それは罪悪感の転嫁であるが、
   他に罪を転嫁したとて自分の罪悪感は減らないのである。

   他を責める心が二重三重の罪悪感となって
   自分に返って来るものであるから、

   その人の内心の苦(くるし)みは減らないで増す許(ばか)りである。


    → http://blog.goo.ne.jp/porarisu5gou/e/ca9c691583d9df780f02e7d536eee34e

           <感謝合掌 平成28年6月15日 頓首再拝>

《自分を害する人にさえ其(そ)の幸福を祈れ》 - 伝統

2016/06/28 (Tue) 04:23:51


         *『 生長の家 』(昭和25年5月5日の法語)より

   神はすべてを良くし給う力である。
   神の力が自分より完全にそそぎ出(い)でるためには
   まず吾らはすべての人を赦さなければならないのである。

   すべての人を赦して、而(しか)して後に
   神に対して凡ゆるよきものを願う所の祈りが
   神に対して波長が合うのである。

   十字架の中からキリストが復活した様に
   吾々も亦(また)凡ゆる苦難の中から復活することができるのである。

   キリストは自分を十字架につけた者さえも決して呪(のろ)わず、
   「 神よ彼らを赦し給え、彼らはなすことを知らざるなり 」 といって
   彼を害した人の幸福さえも祈っているのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 平成28年6月28日 頓首再拝>

憎む心を捨てよ - 伝統

2016/07/10 (Sun) 03:50:45


           *「光明法語」(7月10日)より

憎みの感情は血液内に毒素を生ずる。
それは精神の変化が脳髄に化学的変化を与え、脳髄と相互連関をもつ全肉体組織に、
敵に対して身構えするよう命ずることになるからである。

敵に対して身構えたとき、すべての生物は呼気(はくいき)より毒素を発し、
唾液の中に、敵に噛みついて殺傷するための毒素を生ずる。
これは武器が牙と爪とであった原始人時代の原始的機能を多少とも残しているのである。

それをゲーツ教授はすべての感情に於ける呼気(はくいき)の化学的実験で説明した。
副腎からはアドレナリンの分泌量の増加を起こす。

           <感謝合掌 平成28年7月10日 頓首再拝>

汝の憎みを捨てよ - 伝統

2016/07/11 (Mon) 03:06:05


           *「光明法語」(7月11日)より

人を憎んでいて健康は期待できない。
尤もデリケートな体質と、頑丈な体質とに於いては、
その精神的毒素の影響が迅速であったり緩慢(ゆるやか)であったりする。

それは一杯の盃に酔う人もあれば、一升飲んでも酔わぬ人もあるのに似ている。
だから一時的に見るならば、割合人を憎まない人が病気になったり、
大いに人を憎む人が健康でいたりするように見える。

併し時が来る。
集積した精神的毒素の総量がその人の体質に耐えられない極量程度に達した時に、
初めて大木が倒れるが如く、如何に頑丈なる体質も、病を発して倒れるのである。

           <感謝合掌 平成28年7月11日 頓首再拝>

懺悔によって赦されよ - 伝統

2016/07/14 (Thu) 04:48:30


           *「光明法語」(7月14日)より

「赦された」と云う実感は、神と自分とを隔てていた堤を取り去る事になり、
其処からして神の癒力が流れ入るのである。

キリストの「汝の罪はゆるされたり」の言葉が、
よく難治の病者をいやしたのも此の理によるのである。

悪は悪と気がついたとき、その罪は消えたのである。
何故なら、悪が悪と気がつくとき、
もう自分は上の境涯に立って過去の自分を見ているからである。

かかるとき、キリストは言った。
「汝の罪ゆるされたり、去って再び罪を犯す勿れ」。

           <感謝合掌 平成28年7月14日 頓首再拝>

「君たちに私の憎しみはあげない」 - 伝統

2016/07/21 (Thu) 03:04:37


            *Web:朝日新聞デジタル(2015年11月20日)より
              ~(パリ)テロで妻を失ったレリスさんのメッセージ和訳全文


金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。
私の最愛の人であり、息子の母親だった。

でも君たちを憎むつもりはない。
君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。
君たちは死んだ魂だ。

君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。
もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、
妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。

 
だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。
君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。
君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で見つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。

だが君たちの負けだ。
(私という)プレーヤーはまだここにいる。

今朝、ついに妻と再会した。
何日も待ち続けた末に。彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、
そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。

もちろん悲しみに打ちのめされている。
君たちの小さな勝利を認めよう。
でもそれはごくわずかな時間だけだ。

妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。
君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。

 
私と息子は2人になった。
でも世界中の軍隊よりも強い。
そして君たちのために割く時間はこれ以上ない。

昼寝から目覚めたメルビルのところに行かなければいけない。
彼は生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。
そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。

彼の憎しみを勝ち取ることもないのだから。

<関連Web:フランスのジャーナリスト、アントワーヌ・レリスさん会見メモ(2016年6月28日)
       → http://www.jnpc.or.jp/activities/news/report/2016/06/r00033514/    >

           <感謝合掌 平成28年7月21日 頓首再拝>

《復活の力は「 赦し 」から出て来る》 - 伝統

2016/08/03 (Wed) 03:49:41


          *『 生長の家 』(昭和25年5月6日の法語)より

   神の愛は永遠に変わらないが、人間の心が変わって
   神の愛に波長が合わなくなるだけである。

   キリストが十字架から復活した様に、
   凡ゆる不幸の中から復活する力が
   自分の中に宿っているのである。

   吾はすべての人々を赦す度毎(ごと)に
   吾自身が赦されるのである。

   神はすべての罪をすでに赦し給うたのである。
   自分も亦すべての人を赦したのである。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 平成28年8月3日 頓首再拝>

《赦(ゆる)してただ信ぜよ》 - 伝統

2016/08/15 (Mon) 04:55:29


          *『 生長の家 』(昭和25年5月20日の法語)より

   唯(ただ)信じさえすればいいのである。
   信ずるとは 如実に神が今此処(ここ)、自分の内に
   働いていたまうことを知ることである。

   信念は 神に対して波長を合わす。
   「 神さま、神さま、神さま、神さま・・・」 と百遍千遍
   暇があれば神に対してよびかけよ。

   神は 常にあなたにこたえ給うであろう。
   
   神は決して罰をあてる恐しい地獄の鬼ではないのである。

   神は赦しの神である。
   愛の神である。

   唯、自分が人の罪を赦していないと、
   自分には「赦し」の波長が受けられない。

   困難の時に神によびかけるだけでなく、
   平和の時に神に対してよびかけよ。

   神は汝(なんじ)の愛深き父である。


    → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=132

           <感謝合掌 平成28年8月15日 頓首再拝>

《人を赦すには斯(こ)う考えよ》 - 伝統

2016/08/27 (Sat) 04:51:13



         *『 生長の家 』(昭和26年5月28日の法語)より

   人を赦すことが出来ない人は、
   神を信じていると云っても実は信じていないのである。

   何故(なぜ)なら、神の造りたまえる世界に
   何か悪があると信じているからである。

   そして神の造りたまえる人間に悪があり、
   また神の与えたまうた幸福をその人が自分から
   奪い得ると信じているからである。

   神の造りたまえる人間に悪人はないと云うこと、
   そして神の自己に与え給うた幸福は何人も自己から
   奪い去ることが出来ないと云うことを本当にその人が信じ得るならば、
   自分に害を与えるかの如(ごと)く見える人達をも
   容易に赦すことが出来るのである。

   人を赦したとき自分に幸福の門が開かれる。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=110

           <感謝合掌 平成28年8月27日 頓首再拝>

《自分自身の欠点を許す》 - 伝統

2016/09/01 (Thu) 03:41:11


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P72<9月1日>)より

われらはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身を含んでいるのである。

自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。
神によって完全にせられたのである。
もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」

こう繰り返し繰り返し念じて、神の光明の中へ融け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を瞑想するのがよいのである。

             <感謝合掌 平成28年9月1日 頓首再拝>

《すべての不快なる人を赦(ゆる)せよ》 - 伝統

2016/09/12 (Mon) 04:23:02


          *『 生長の家 』(昭和26年6月12日の法語)より

   あなたの生命は神より来たれるものである。
   神の愛があなたの内に宿っていたまうのである。

   だからあなたは如何なる罪人をもゆるすことが出来るのである。

   神の智慧があなたの内に宿っていたまうが故に、
   如何なる事情の下(もと)に於いても
   調和ある解決を期待することが出来るのである。

   若(も)し誰かに腹の立つこと不快な思いを抱いたことがあったならば、
   今直(す)ぐに其の人に愛念をお送りなさい。

   愛は一切を調和するところの最強力の力である。

   「われ生長の家の神に於いて、汝(なんじ)をゆるし、汝に念波を送る。
   私は貴方(あなた)を愛しています」と

   強く強く繰り返し繰り返しお念じなさい。


   → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yu0529&mode=res&log=127

             <感謝合掌 平成28年9月12日 頓首再拝>

自他を心の中で赦しましょう - 伝統

2016/09/26 (Mon) 04:17:40


        *「真理9巻」(P58~59)より

罪の自覚から眠れないこともあります。
自分をさばき過ぎ、他(た)をさばき過ぎるのであります。

本当の安心を得るには人を《さばく》心を捨て、
同時に自分をも《さばく》心を捨てることであります。

「神は無限の愛をもってわがすべての罪と過ちとを許したもうたのである。
それゆえに自分もすべての人の罪と過ちとをゆるすのである」
と心の中で繰り返しながら、ゆるされた気持ちの中にとけ込むことにすると
容易に眠りに入ることができます。

我々の心は、その思う「事柄」そのものになるのであります。
心に他(た)を「ゆるす」ことをおもえば自分自身もゆるされるのであります。
憎みの心を捨てなければなりません。

悲しみも嘆きも結局、自己中心の心から起こるのであります。

「泣き面に蜂が刺す」と云う諺がありますが、
悲しみや歎きを心の中で繰り返していますと、
更に悲しいことがあらわれてまいります。

             <感謝合掌 平成28年9月26日 頓首再拝>

人を全部宥(ゆる)す日 - 伝統

2016/10/12 (Wed) 04:44:39


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月12日)より

【人を恨む心を以てしては恨み心を解くことは出来ぬ。(『生命の實相』第七巻)】

尤も仏教でも忍辱(にんにく)と云う到彼岸法(はらみたほう)をただ如何なる苦痛も、
迫害も、圧迫も、意地悪も耐え忍ぶと言う如く「怺(こら)える」程度に於てのみ
説いている訳ではない。

これは「忍辱」の第一段階であって他より害を加えられたのを耐え忍ぶところの
(一)”耐忍”である。

更に仏教では(二)”安忍”と云うのが説かれている。単に怺えるのではなく、
安んじて忍受するのである。受くべきものは受けるより道はない。逃れようとすればする程
苦しいのだと云う真理を知って安んじてうけるのである。

この境地に於ては病気が治ることさえある。
生長の家でも、病苦に喘いでいる人にこの「安忍」を説くことによって
病苦頓(とみ)に癒される実例さえある。

更に仏教ではその上の段階の「忍辱」が説かれている。
それは(三)諦忍(たいにん)と言うので、迫害する者も迫害される者も、それらは”有る”
ように見えても本来存在しないと道理を諦めることによって瞋(いかり)の心を除くように
するのである。


生長の家ではもう「忍」と言わずに(四)感謝を説くのである。

迫害者も被迫害者も本来存在しないと否定して諦(あきら)めるのではなく、斯く見えている
のは観世音菩薩が我らを済度し給う為にわが心の相(すがた)を仮りに斯くの如くあらわし
示し給うのである。

有難いと、感謝の心を積極的に起すのである。

           <感謝合掌 平成28年10月12日 頓首再拝>

誰も赦した、憎む人のない日 - 伝統

2016/10/16 (Sun) 03:21:37


    *「光明道中記(その身まったし)」(10月16日)より

【実在すなわち光明、これを不可思議光と言い、如来自在と言う。(『生命の實相』第十一巻)】

   善し悪しやにくや可愛いと思わねば世界がまるでわがもの

誰の歌か知らぬがなかなか好い歌である。
生長の家の教は「天地一切のものと和解せよ」との教えである。
さてその和解はどうしたら出来るのか、答えて曰く、総感謝であると。

そんなに和解していたら戦争は出来ぬではありませぬかと質問されたこともあった。
和解した時本当に不死身の力が出て来る。

こんな話がある。

戦争のときに敵の間諜を捕えたが、軍の掟で斬らねばならぬ。
そう云う時にその間諜が平然として微笑したり、平然として合掌していたりすると
どうしても斬ることが出来ぬ。

そこで何か侮辱を与えて間諜を怒らせる ―― 憤ると云うことは「斬る心」を起すことである。
間諜が憤って「斬る心」を起して憎らしそうな顔をした時に思い切ってバッサリ斬れる。
斬られるのは、「斬る心」を起したからである。

無心の小児は斬ることが出来ぬ。
愛憎を超え、善し悪しを超えたところに不死身を得るのである。

キリストも「此の幼児(おさなご)の如きものならずば神の国に入ること能わず」と言ったし、
白隠禅師も「是非憎愛総に拈抛(ねんほう)すれば、汝に許す生身(いきみ)の観自在」と
言ったが、愛憎に心が捉われるから地獄が現出するのである。

           <感謝合掌 平成28年10月16日 頓首再拝>

【許し合い、正し合う】 - 伝統

2016/10/29 (Sat) 03:41:46


          *メルマガ「人の心に灯をともす」(2016年09月29日)より

   (松下幸之助氏の心に響く言葉より…)

   私が家内と二人で商売を始めてしばらくしたころのことです。
   当時は商売がすこし順調に進んできたところで、
   朝から晩まではり切って一生懸命に働いておりました。

   ところが、そのうちに従業員がふえてきて、7、80人になってきましたが、
   その中に一人悪いことをする人がいたのです。

   それは非常に信頼していた店員の一人でしたが、
   ちょっと会社のものをごまかしたというわけです。

   私は生来、潔癖症というか多少神経質の点もありまして、非常に悩んだのです。

   “困ったことやな。あの男がそういうことをするとは思わなかったけれども、
   いったいこれからどうしたものだろうか”

   と、その夜は一晩寝られずに朝まで悶々(もんもん)として悩んでいました。

   “なるほど、彼は悪いことをした。
   だから当然のこととしてやめさせるのも一つの方法だ。
   しかしやめさせるにしても、そのことがよかれあしかれ周囲の者に
   いろいろな形で影響してくるだろうし、それがほんとうに会社のため、
   また本人のためになるのかどうか”と、あれこれ考えさせられたわけです。


   ところが、つづいて翌日の晩も考えているうちに、ふと心に浮かんだことがありました。

   それはこの日本にいわゆる罪人と言う人が何人いるだろうかということです。
   これは相当あるにちがいない、と考えました。

   刑が決定して監獄に服役している人も多いですし、未決で裁判中の人も相当あります。

   またそういう裁判沙汰(ざた)になっていなくても、軽犯罪的なものもあります。

   警察で説諭して釈放されるとかいうような軽犯罪もあれば、
   一方では警察につかまらないが、悪いことをしている人も大ぜいいます。


   したがって、私どもの会社に日本人が7、80人いれば、
   1人以上は悪人とまではいかないまでも、よくないことをするという人が
   出てきてもふしぎではないと気がついたのです。

   そうしてみると7、80人の人を使っているようなところに、
   一人や二人は軽犯罪をするような人も含んで使わなければいけないのではないかと、
   そいう考えが生まれてきたのです。

   そうすると、自分の心がふしぎにフーッと楽になったのです。

   肩の荷が下りた感じでした。

   それで本人にはこれからは二度とそういうことはやめさせることにして、
   訓戒だけにしてしておくことにしたわけです。

   そのことがあってから私は、非常に大胆に人を使えるようになりました。

   大胆に人を使うことは、一面にはその人たちを信頼するということに結びつきます。

   信頼された人たちは、いっそうはり切って自主的に働くようになりますから、
   それぞれの知恵もますます生きてきて、会社の経営もさらに順調にいくようになった
   というのが、私の一つの体験なのです。

   そういう場合でも、基本的にはすべての人を生かしていくのだ、
   この社会に生きる人びとをともどもに生かしていくのが
   相寄って生きる人間としてのつとめなのだという、
   豊かな心をつねに養っていることがきわめて大事だと思います。

   お互いにあやまちを許し合い、また温かく正し合うというところに、
   豊かな人間味と共同の幸せが生まれてきますし、

   また自分が人びとを許す心をもってはじめて、
   自分も人びとに許されるということになってくるのではないでしょうか。


   《人間としての成功》

           <『すべてがうまくいく』PHP研究所>

              ・・・

会社の中に罪人がいてもいい、という話ではない。

「ゆるし」の気持ちがあるのかどうか、ということだ。


ことの大小は別にして、生きている上において、あやまちを犯さなかった人はいない。

何らかの罪を日々犯しながら生きているのが人間だ。

ただし、大方の人はそれが犯罪までいくことはないのも事実。


あやまちを許せば、それが信頼に結びつく。

許し合い、正し合う姿勢が人間味をつくる。

           <感謝合掌 平成28年10月29日 頓首再拝>

人を憎んでいては、健康にはなれない - 伝統

2016/11/01 (Tue) 03:58:41


        *「生命の實相 第38巻 幸福篇下」(11月1日)より

春に出る新芽は春になって初めてできるのではない。
もう11月の頃から、あるいはもっと早くから用意されているのである。
この用意が不完全だったら、よい新芽は出ないのである。

まちがい上に本物を建てることはできない。
健康になりたい人はまずまちがいを捨てなければならない。
まちがいの上にどんな立派な建物を建ててもそれは倒れてしまう。

「まちがい」とは、それが《ある》かのように見えても本来、「当に有るべからざるもの」
すなわち「不当有(ふとうう)」であるから、不当有(ふとうう=まちがい)の上に
物を建てたものは、いずれも壊(くだ)けてしまうのである。

人を憎んでいて健康になどなれるものではない。

憎みは「不当有(あるべからざるもの)」であるから、神に対する背反である。
神は「生命(せいめい)」であるから、「憎み」のあるかぎりその人は「生命(せいめい)」
に背反しているのであるから、その人の健康が不良なのは当然である。

「憎み」を持続しながらその人の健康を維持しているように見えても、
それは表面のことであって、その人が、「神」すなわち「生命(せいめい)」に背反して
いる限り、すでにその人の健康は危殆に瀕しているのである。

           <感謝合掌 平成28年11月1日 頓首再拝>

《腹の立つ相手を赦すこと》 - 伝統

2016/11/14 (Mon) 04:22:49


        *『幸福を招く365章』第10項(P212) より

あなたの心のうちに何か腹が立つことがあったら、
それを他(た)の人の所為(せい)にして
人を憎んだり怨んだりしてはならないのである。

人を憎んだり怨んだりしている限りに於いては
貴方の不快の念は去らないのである。
先ず相手を赦すことが貴方の不快の念を除(と)り去る唯一の道である。

一切万事、我れより出でて、我(われ)に復(かえ)ると云うことを知って、
赦した次には相手を愛しなければならない。

愛は、自分の気に入る者だけを愛したのでは本当の愛ではないのである。
愛は最も愛しがたい相手を愛することによって、それが単に「好き」であるか、
「本当の愛」であるかがテストされるのである。

           <感謝合掌 平成28年11月14日 頓首再拝>

すべての者をゆるせ - 伝統

2016/11/20 (Sun) 03:09:11


       *「光明法語」(11月20日の法語)より

「ただ一人に対する憎みでさえも神の国に入(い)る扉をすべて閉じる事になる」
とグレン・クラーク教授は言っている。

「七つの燈台の点燈者の神示」には
「争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ」とある。

自己慢心、自己憐憫、自己欺瞞、嫌悪、憎み、怒り、及び恐怖心は
同じく神の霊波の入口をとざすものである。
扉をとざす諸原因を捨てるとき、吾らは「神の国」に入る事が出来る。

如何にせばこれらの諸原因を捨てる事が出来るか。
愛と赦しと平和の思念をすることである。

           <感謝合掌 平成28年11月20日 頓首再拝>

赦しと愛と平和 - 伝統

2016/11/21 (Mon) 03:41:19


       *「光明法語」(11月21日の法語)より

赦しと愛と平和とはすべての癒しに必要な要件である。

若し病める者が癒されん事を望むならば、先ず合掌して、
自己の憎める者、自己と不和なる者、自己について不平をもてる者、
自己が彼に不平をもてる者などを心に描いて、

「私はこれらの凡ての人々を赦したのである。
私はこれらの凡ての人々を神の愛を持って抱擁する。
私がこれらすべての人を神の愛をもって抱擁する如く、神もわが過ちを赦し給いて
その無限の愛をもってわれを抱擁し給うのである」 と思念せよ。

           <感謝合掌 平成28年11月21日 頓首再拝>

【心と魂のエネルギーを満タンに】 - 伝統

2016/12/07 (Wed) 03:46:29


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2016年11月30日)」より

   (中谷彰宏氏の心に響く言葉より…)

   許すのは、エネルギーを使います。

   何かしてもらって「ありがとう」は、まだいいのです。
   だまされて「ありがとう」です。
   マイナスのことをされているのに「ありがとう」です。

   マイナスからゼロ、ゼロからプラスに持っていくから、
   エネルギーが必要になるのです。

   だからこそリターンも多くなります。


   エネルギーが減っていると、「許せない」になります。
   許せないと、エネルギーがダウンします。

   格闘ゲームでいうエネルギーの少なくなった状態です。

   このエネルギーを常に補充しておくことが必要です。
   それは、魂のエネルギーです。

   おいしいモノ、体にいいモノを食べるのは、
   体にエネルギーを補充するためです。
   エネルギーのもとになる栄養が必要なのです。

   魂にも栄養を与えます。
   魂の栄養は、人それぞれです。
   何がいいということはないのです。

   自分の魂の栄養は何か、自分で気づくことです。
   それは、本や映画、恋人や師匠、いろいろです。

   自分の魂に毎日栄養を与えていないと、
   許すという、たくさんのエネルギーを必要とすることができなくなってしまうのです。

         <『チャンスは「あたりまえ」の中にある。』PHP研究所>

              ・・・

心や魂の一番の栄養は、自分が認められること。

それを「自己肯定感」とか、「自己重要感」という。

自己肯定感が低いと、人からほめられても、
謙遜したり、疑ったりして、それを否定してしまう。

つまり、人からのほめ言葉を、素直に受け取れない。


最も「自己肯定感」を強く持っている人は、
人から「ありがとう」と感謝されて生きている人。

人から感謝されている人は、まわりに何かを与えている人であり、
人が喜ぶことをしている人、いつもまわりに「ありがとう」と感謝している人。

すると、心や魂のエネルギーが満タンとなり、人を許すことができるようになる。

自己中心的で、自分の利益ばかり考えているギスギスしている人は、
人を許すことができない。


いつも、心と魂のエネルギーを満タンにしておきたい。

           <感謝合掌 平成28年12月7日 頓首再拝>

《人を赦して眠ること》 - 伝統

2016/12/15 (Thu) 04:43:41


          *「光明法語」(12月15日)より

イエスさえも審判いたならば審判(さば)かれて十字架に架かるのである。
普通の人間が人を審判いて幸福になれる筈(はず)はない。

「兄弟を憤る者はゲヘナの火に投げ入れられん」とまでイエスは激語している。

多くのなかなか治らない難病は
人を恨んでいる為に、又は人を赦(ゆる)していない為に治らない。

病める者は眠りしなに、赦していない者があればそれを思い出して

「私は貴方(あなた)を赦しました。貴方も私を赦しました。
私はあなたに感謝しています」と深く念ずる事によって治るのである。

           <感謝合掌 平成28年12月15日 頓首再拝>

汝は赦されているのである - 伝統

2016/12/22 (Thu) 04:46:05

完全解放の日

           *「光明道中記」(12月22日)より

【本当の明るさは真理と愛と智慧とから来るのみである。(『生命の實相』第八巻)】

本当の智慧は神と和解しなければ得られないのである。

神に和解するとは全き信仰を以て神の愛を信じることである。
神の完全を信じることである。
神の造りたまいし世界に悪が存在しないことを信ずることである。

不安があるのはまだ神を本当に信じているのではない。
既に癒されているのである。

「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と云うのは、
キリストが二千年前のみに言われた言葉のみではない。
常に神は吾々に対(むか)って「汝の罪赦されたり、立ちて歩め」と
仰せられているのである。

この言葉を信ずるものは幸いなるかな。

汝の罪は赦されているのである。
されば吾れもまた神が吾れを赦したまいし如く、すべての人の罪をも赦さねばならない。

一切の怒(いかり)の想い、一切の怨みの想い、一切の憎みの想いを
愛と赦しとによって書き換え、更にそれを感謝によって光を点じなければならない。
然るとき汝の病は消えるであろう。

或る日道場へ訪れた山形県の一婦人が5歳の小児が生まれてから
少しも歩むことも物言うことも出来なかったが、『生命の實相』を読み、
その教に照らされて、不仲であった母親に感謝の心を起した時、
初めてその小児は歩み出し、者を言い出したと言った。

           <感謝合掌 平成28年12月22日 頓首再拝>

すべてを赦し、感謝して眠りに入る - 伝統

2016/12/23 (Fri) 04:44:23


        *「生命の實相」幸福篇下巻(12月23日)より

わたしの『光明の生活法』の本の携帯版が気持ちのよい形で、そんなどぎつい装飾もなしに、
ととえば夜しずかに降りて万物をうるおしてくれる夜露のように質素な、
そして典雅な形で出た。

常にこの書を携帯していちいちその生活法どおり実行する者は幸いである。

この生活法を常に実行している者は常に健康であるに相異ない。
不健康とは、生活が不健康であり、思いが不健康であることの反映であるに過ぎない。
人間の実相(そのまま)は健康であるからである。

わたしは『光明の生活法』の中で就寝前の15分間の神想観の方法を説いておいたが、
それを病気の治癒に応用する場合に特に注意すべきことは、

就寝前に、その日、またはそれまでの日において呪っていた人々を釈(ゆる)し、
憤(いきどお)っていた人々を宥(ゆる)し、憎んでいた人々を恕(ゆる)し、
自分の好まない人たち、反感ある人たちとその過失とをことごとく赦して眠ることである。

眠っている間に最も多くの癒しの神力(自然療能)は進行するのである。

「私はもうあの人を憎んでいない。」

あの人があの時ああいう態度に出たことは、
かえってわたしにとって必要なことだったのである。

わたしが彼を憎んでいたのは、わたしの観察眼が狭いために、
あの人がああいう態度に出たことを、自分に害があるように思って
思いちがいしていたにすぎないのである。

本当はあの人がああしてくれたので、わたしの《ため》になったのである。

わたしはあの人に感謝する。
何某(なにがし)よ、わたしはあなたに感謝する。
本当に感謝する。

わたしはあなたに感謝し、あなたを祝福するものである。
ありがとうございます。ありがとうございます。

こう、精神を静かに調(ととの)えながら、繰り返し繰り返し念じて、
全き平和の心境に達したとき寝てしまうのである。

一日の最後の時間を赦しと感謝とで満たすこと、
それは健康に重大な関係があるのであるが、
健康に関係がなくとも、それはそのままありがたいことではないか。

寝床(ねどこ)に入(い)れば、
すぐ次のごとく念じて感謝のうちに熟睡に入(い)るべきである ――

「枕よ、ありがとう。寝床(ねどこ)よありがとう。蒲団よ、ありがとう。
寝巻よ、ありがとう。空気よ、ありがとう・・・」

となんでも周囲に見出され、思い浮かべられるすべてのものに
感謝の言葉を心のうちに唱えながら眠りに入(い)るのである。

こうすれば不眠症の人でも直ちに熟睡に入(い)ることができるものである。

            <感謝合掌 平成28年12月23日 頓首再拝>

《人を赦すには斯う考えよ》 - 伝統

2017/01/08 (Sun) 04:28:50


          *『幸福を招く365章』第11項(P238~239) より

人を赦すことが出来ない人は、
神を信じていると云っても実は信じていないのである。
何故なら、神の造りたまえる世界に何か悪があると信じているからである。

そして神の造りたまえる人間に悪があり、また神の与え給うた幸福を
その人が自分から奪い得ると信じているからである。

神の造りたまえる人間に悪人はいないと云うこと、そして神の自己へ与え給うた幸福は
何人(なんぴと)も自分から奪い去ることが出来ないと云うことを本当にその人が信じ得るならば、
自分に害を与えるかの如く見える人たちをも容易に赦すことが出来るのである。

自分を赦したとき自分に幸福の門は開かれる。

(初出~「生長の家(昭和26年5月28日)」)

           <感謝合掌 平成29年1月8日 頓首再拝>

【他人を許し、その幸せを願う】 - 伝統

2017/01/23 (Mon) 04:52:33


       *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年01月19日)」より

   (ジェームズ・スベンソン氏の心に響く言葉より…)

   どんなに豊かで、さまざまな恩恵を受けることができる国に暮らしていようとも、
   人びとの争いが絶えない原因はなんだろうか?

   職場や学校、店内、路上など、あらゆる場所でもめごとが発生し、
   訴訟が日常化しているのは決して健全なことではない。


   アメリカの著名な牧師ジェームズ・ムニハン師は、こう指摘している。

   「現代社会を蝕(むしば)んでいる最大の病弊は、人を許す能力の欠如である。
   人びとは誰かに不当な扱いを受けると、それをずっと根に持って
   復讐の機会をうかがっているのが現状だ。
   しかし、そういう姿勢は精神的な未熟さのなせるわざである」


   言いかえれば、ほとんどの場合、人を許すことができないのは、
   本当の意味で成熟していない証しなのだ。

   どんな仕事であれ、独力で成功することは絶対にできない。

   成功の秘訣の中で不可欠なのは、人とうまくやっていくことである。


   人を許さない人は、この真理をまだ学んでいないし、たいていの場合、成功していない。

   人を許すための画期的な方法を紹介しよう。


   (1)相手の幸せを願う習慣をつける。

      「私はあの人を許し、あの人の幸せを願う」と唱えよう。
      ポジティブな言葉は心に平和をもたらす。

   (2)相手の長所を見つける。

      人はみな、長所を持っている。
      相手の長所を見つけたら、それに意識を向けよう。
      敵意は自然に消える。

   (3)相手を許すことを本人に伝える。

      自分を傷つけた人を許せば、自分の寛大さに誇りを持つことができる。
      しかも、相手の尊敬を得ることができる。

         <『人生の扉をひらく50の法則』ディスカヴァー>

               ・・・

他人の不幸や失敗を願って、成功した人はいない。

脳は、発する言葉の人称を選ばないという。

つまり、人の失敗を願っているつもりが、自分のことと勘違いするのが脳の構造。


いつまでも過去にこだわり、許さない人も同じ。

自分のことを、非難したり、罵(ののし)ったり、怒ったり、馬鹿にしていることになる。

これは、人と人のみならず、国と国の関係でも同じ。


「人を許すことができないのは、本当の意味で成熟していない証し」

他人を許し、その幸せを願う人でありたい。

           <感謝合掌 平成29年1月23日 頓首再拝>

《人を赦さないとき、祈っても神と波長が合わぬ》 - 伝統

2017/02/07 (Tue) 05:01:49


          *『 生長の家 』(昭和46年10月21日の法語)より

   その次にイエスの “ 主の祈り ” で教えられた祈りの言葉は、

   「 我らに負債(おいめ)ある者を 我らの免(ゆる)したる如く、
   我らの負債(おいめ)をも 免(ゆる)したまえ。
   我らを嘗試(こころみ)に遇(あ)わせず、悪より救い出したまえ 」

   という祈りである。

   そして、それを註訳してイエスは 次の如く教えているのである。

   「 汝等もし人の過失(あやまち)を免(ゆる)さば、
   汝らの天の父も汝らを免(ゆる)し給わん。
   もし人を免(ゆる)さずば、汝らの父も
   汝らの過失(あやまち)を免(ゆる)し給わじ 」


   神は無限の愛であるから、人間の罪を免(ゆる)すとか、
   免(ゆる)さぬとかいうようなことはないのである。

   人間自身の心が “ 人の過失(あやまち) ” とか
   “ 罪 ” とかいうものに引っかかって免(ゆる)さずにいると、

   自分自身の心の波長が、
   神の “ 無限の愛 ” と波長が合わないから、
   神の国から “ 幸福番組 ” の放送を、
   自分の境遇とか運命とかに受像することができないで、

   恰(あたか)も、神が自分を免(ゆる)さないで、
   神罰を与え給うた如き結果を
   生ずることをいうのである。

   人の過失(あやまち)を免(ゆる)すことなく、
   常に憎みつづけているときには、神の恵みと波長が合わないので、

   祈るに先立って、人を憎んだり、人と争ったりしている場合には、
   先ずその人を赦す神想観をして、

   自分が “ 愛 ” と “ 赦し ” に満たされた
   心の情態になってから神に祈るのがよいのである。


   http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=yuyu6&mode=res&log=32

           <感謝合掌 平成29年2月7日 頓首再拝>

家族互いに赦す日 - 伝統

2017/02/08 (Wed) 03:43:25


           *「光明道中記」(2月8日)より

【地獄の家庭では、主人が「怒っても好い権利」を捨てぬし、
細君は河豚(ふぐ)のように「ふくれても好い権利」を主張する。(『生命の實相』第四巻)】


審判(さば)く人、閻魔の庁の御役人のような人、青鬼のようなヒステリックな人、
赤鬼のように興奮した人、こんな人たちが住んでいる世界が地獄であり、
そんな家族の住んでいる家庭が「地獄の家庭」である。

誰の家庭でも此の地獄的分子の多い少ないによって、
その地獄的性質に多少の色合が変化するのである。

赦すこと、すべての家族を赦すこと。
赦さないから、筋肉が突張るものを。
赦さないから、肩が凝るものを。

外部的治療は一時的効果しかない。
癌と心の中に「品」物を「山」のように積んでいるのは愚かなことである。
あなたの癌を治すためには心の中の癌を取り除くことが必要である。

「富める者の天国に入るの難きこと駱駝が針の孔を通るが如し」とキリストは言っている。
心の中に色々の品物を貯え置くのは愚かである。
心は常に空虚が好い。

妻たるものは優しくあれ。
良人に物を言われて、立った儘返事をするようなことでは、その家庭は屹度面白くないであろう。
柔らかい女性の天性はどこまでも柔らかくなければならぬ。

           <感謝合掌 平成29年2月8日 頓首再拝>

許せない自分もまるごと許してあげよう - 伝統

2017/02/23 (Thu) 04:27:25


       *「こうすれば、夢はあっさりかないます!」はせくら みゆき・著
         (P103~105)より

  ①人を強引に許そうとすると、自分の心にさらなるストレスを
   かけることになります。また無意識に自分が許せるような状態に
   なれるよう、期待と不安、そして執着心も増すのです。

   これではたぶん、永遠に許せません。

  ②そこで相手を許そうとするのをやめる。
   許すのは自分に対してです。

   許せない自分を許してあげる。
   許せない自分を認めてあげるのです。

  ③真の自分は いのち であることを知っていると、
   「許せない」という自分の心を客観的に見られます。

   「あぁ。いまの私の心は、まだゆるせないんだな」って。

   そのときの心の状況に、ただそっと寄り添うのです。

  ④こうして自分の心を客観的に見つめていくと、
   あるときふと気づけるんですね。

   《ああ、許すというのは相手ではなく、自分の心の問題だったんだと》。

   もっといえば「許せない」という思いは感情の領域で、
   「許さなくては」というのは思考の働きであって、
   つまり自分の本質ではないなと気づけるのです。

           <感謝合掌 平成29年2月23日 頓首再拝>

赦しは最強のヒーリング - 伝統

2017/03/12 (Sun) 04:23:49


       *「なぜ、あの人にばかり奇跡が起きるのか? 」
         ジョー・ヴィターレ(著) (P140~161) より

(1)「許す」という言葉は「不公平だと感じた過去の出来事について報復しようとせず、
   恨みを持たないようにすること」と定義できるでしょう。

(2)自分を許す

  ①自分を許すことは、すなわち自分を採点しないようにすることでもあります。

  ②どんな理由であろうと、過去にどんな経験をしていようと、
   自分を許し、怒りや恨みを捨てることはとても重要です。
   これができれば、前へすすむことができます。

  ③あなたの心の中に住んでいる批評家程、あなたを傷つける人はいません。

  ④赦しの対象は、あなた自身や周りの人の心に傷を残した言動だけです。

  ⑤自分を許すことは、再び傷つかないように
   自分を守るバリアーをつくる役割もあります。

  ⑥感情は物事を強力に引き寄せます。
   そのため、記憶から感情を引き離すことができれば、
   もう怒りや自責の念を引き寄せなくなちます。

   重要なのは感情を手放すことです。

  ⑦「許し」は心のリセットボタンのようなもので、このボタンを押すことで
   私たちはその経験から学び、ネゲティブな感情を引きずらずに前へ進む
   ことができます。

(3)過去に傷つけられた相手を許す

  ①他人を許すことも重要です。
   他人を許すのは相手のためと思われるかもしれませんが、
   実は最も利益を得るのはあなた自身なのです。

  ②許すことで、私たちは過去から解放され、現在と未来にもっと意識を集中できる
   ようになります。その結果、自分の人生を取り戻すことができるのです。

  ③心から許すことができれば、魔法のような変化が訪れます。

   かっては重荷を背負い、その重荷のことばかり考えて取りつかれたようになって
   いたとしても、許すことができれば新しい自分を手に入れ、自由になり、
   やる気がでてくるのです。

  ④憎しみや怒りを解消できないままでいると、心臓疾患やストレス、
   燃え尽き症候群を引き起こす可能性があることも確認されているのです。

  ⑤心の傷をなくすことは旅のようなもので、単に傷に結びついた感情を手放す
   だけでなく、人間として成長することもできます。
   傷を取り去るとポジティブな経験をする余裕ができるからです。

  ⑥誰にも過去をコントロルして変えることなどできません。
   また、他人をコントロールすることもできません。
   コントロールできるのは自分自身だけです。

   過去にしがみついたままでいるか、過去を手放して前に進むか、
   選択できるのも自分だけなのです。

  ⑦許すとは、過去を忘れることとか、過去を否定することではないのです。
   心に傷を残すような出来事も、現在に人格を形成する一つの要素となっています。

  ⑧自分で変えられるのは、既存の状況に対する解釈の仕方だけです。
   多くの場合、解釈の仕方は物事を整理して考えるだけでかえることができます。

   人生を変え、本当の自分を明らかにするには、
   まず考え方を変える必要があるのです。

           <感謝合掌 平成29年3月12日 頓首再拝>

許しと和解 - 伝統

2017/03/29 (Wed) 03:47:13


          *「わが信仰の旅路」小林春江・著(P45~50)より

山新田は竹の子の名所です。
小出さんの家の前は竹藪でした。

小出さんは竹の子が沢山出来て、竹の子でうんとお金がもうかった時に生まれたので、
タケという名前がついたのです。

小出さんはこの家の前の竹藪のところに坐って、一所懸命に『甘露の法雨』を読みました。
それから今度は家の仏壇の前に行き、自分の母親の霊に呼びかけました。

「《かか》、生長の家の先生に聞いたらの、おまえ財産も要らない、何も要らない、
休む時は休んで、人なみにゆっくりしたいといつも言うとったろう。
だからの、そういう思いで、今、財産は皆のうなったんだ。

しかし、家の中を不幸にすると全部が不幸になるということだから、
おれはどうしてもあの後添えの《ばあ》を許さねばならないのだ。
だから、おまえ、おれと一緒に行って、《ばあ》を許す力を貸して下さい」


小出さんは、お仏壇をお参りしてから、『甘露の法雨』をしっかりと手に握り、
3年間も通らなかった廊下を通って、《おばば》の寝ている部屋の戸をサッと開けた。

そして「《ばあ》」と声をかけたのです。

その時、部屋で寝ていた後添えの母親は、小出さんが自分を殺しにでも来たのかと、
びっくりした顔をして、きかない体でね、「ああー、ああー」と言っておびえています。

その姿を見た時、小出さんは、それだけ自分を恐怖している相手がいたんだと思ったら、
自分が浅ましく思われました。

小出さんは、《おばば》に、「《ばあ》、おれはおまえと仲良うしに来たんだ」と言うたら、
その言葉に、《おばば》 ―― 後添えの母親は我にかえったのでした。

そして、《おばば》は、「勘弁してくらっしゃい、勘弁してくらっしゃい。
《おら》は何もこの世に願いはない。最初の亭主には子供2人をおいて死なれ、
その子供もみな先立ってしもた。

《おら》は、この家にどの面さげて帰れるものでもないが、
行くところものうて来たけれど、おまえから、一ぺん許したと言うてもろうてから、
この世を終わりにしたいと、そればかり思うてたんだ。

だから、《かか》、勘弁してくらっしゃいのお~。
わしが、ここに居なかったばっかりに、《おじじ》は、山全部売ったんだから、
勘弁してくらっしゃいのお~」って言ったんです。

毎日、毎日、私の所に来て生長の家の話を聞いていた小出さんには、
やっぱり生長の家の教えが入っていました。

「《ばあ》、そんなことはもうない。たった今から前のことは全部過去なんだ。
過去はもう過ぎてしまったんだ。だから、過去の事で過ぎてしまった事のために、
みんなが不幸せになるなんて、馬鹿なことをしないようにしよう。

《おら》は全部忘れた。財産というものは、無理して貯めたものでなければ、
決して消えるものではないと教えられたから、家中が仲良うなれば、
必要なものはおのずからあたえられる。

それが財産だと教えてもろて来たから、《おら》は、おまえを許しに来たんだ。
おれと別れて十八年も十九年も経って、又戻ってきた。

それは、おれを生んだ親だけが親ではなくて、親という座に坐った人が、
全部親であると思う行(ぎょう)のために、おまえが与えられたんだと教えられた。

何にも気兼ねしないで、おまえがおれに頼みたいことがあれば言ってくれ、
出来ることであれば、何でもしてやるでなあ、《ばあ》」

小出さんがそう言ったというんですよ。
そうしたら、《おばば》は「《かか》、ありがとう、ありがとう」って言った。

「《ばあ》、病気なんかねえんだよ。痛みは全部心の痛みや。
おれとおまえと本当に話し合うた今、どこに痛みがあるか。
痛みがあるとすれば、おまえがまだ、おれから許されない気になっているんだ。

おまえが一人で痛みを握っているんだよ。
《おら》はおまえをきれいに許した。きれいに許したんだよ、《ばあ》。


考えて見れば、心臓だって、肺だっておれは動かした覚えものうても、
ひとりで如来様のお蔭で動いてる。

そうだというのに、そういう如来様の子供達がみんなで住んでいながらも、
如来様の心に背いて、恨んだり憎んだりしたんでは申し訳がないんだ。

おれはおまえをなでてくれるで、そうするとおまえはもう全部、心の痛みは消えるからの」


そう言いって、小出さんは、
「《ばあ》は、神の子でございます。ありがとうございます」と唱えながら、
リューマチでうずくまっている母親をさすったのです。

その時、小出さんの何年かの悔しい思いが、全部涙となって溶けて行ったのでした。

小出さんは涙を流しながら
「神様のお蔭です。ありがとうございます。
ばあも神の子、おれも神の子、ありがとうございます」と唱えながら、

おばばの体をなでていると、《おばば》が、
「ああ、楽になった。楽になった。ありがたかったで、《かか》ありがたかったで」
って言うんです。

その時、小出さんは、「《ばあ》、おまえ、何か願いはないか」って言ったら、
《おばば》が、「おれ、卵雑炊が食いてえ」って言う。

「ああ、卵雑炊ぐらい、いと易いことだ。毎日でも作ってやるで」って、
小出さんが言ったら、《おばば》は、「おれ、卵雑炊を台所へ行って食べてえ」
って言ったんです。

いつも、うす暗い部屋で、何年もふとんをあげたことのない所でね、
くすぶって寝ている所で食べていたんですから、台所へ行って食べたいと言う。

そしたら、「ああ、よしよし、台所へ行って食べたかったら、おれがおめえのこと、
抱いて行ってくれるから」って言うて、
小出さんはやせてちっぽけな母親を抱きあげました。

そうしたら、今まで年がら年中、閻魔様に蜂がさしたようにして怒っていた父親が、
自分の妻が、娘に抱かれている姿を見て、タッタッタッタッと側に飛んで来て、

「《ばあ》、ありがてえな。タケに抱いてもろうているんだで。
タケに抱いてもろて、《ばあ》、ありがてえなあ」と、言うて喜ぶのでした。

この時、小出さんは魂の底から神様に感謝したのでした。

「生長の家の神様、ありがとうござます。ありがとうございます。
お蔭さまで、私は親孝行、親を喜ばせることが、
どんなに嬉しいものであるかを知りました」

小出さんは、長い間の憎しみの地獄から、今、感謝する世界に入ったわけです。
そして、感謝というものがどんなに大きな力を持つもんだかと言うことを、
小出さんは、わかったんですね。

そうしたら、それっきり、3年も痛んでいた《おばば》のリュウマチは、
影も形もなく消えてたわけです。

           <感謝合掌 平成29年3月29日 頓首再拝>

【人間は70%で最高、完ぺきは無理】 - 伝統

2017/04/17 (Mon) 04:29:31


         *メルマガ「人の心に灯をともす(2017年03月28日)」より

   (斎藤一人さんの心に響く言葉より…)

   外国で、神さまというと、ただ一つの絶対的なる存在なんです。
   オールマイティ、なんでもできる、万能なんです。
   そういう完璧な存在を「神さま」としてあがめます。

   それと比べると、日本の神さまというのは非常にユニークですね。
   日本の神さまには、得手不得手があるんです。

   「そんな、自分たちと変わらないようでは、神じゃない」

   そう思った人もいるかもしれませんが、そこが実は違うんです。

   日本の神さまは得手不得手があるからこそ、自分に苦手なことは

   「あの人に頼むといいですよ、あちらへどうぞ」と言うんです。

   もしくは、一つの神社のなかに、
   もう一つ、別の神さまがまつられているんです。

   だから神さまは自分の苦手なことについては
   「私は苦手だから、この人がいいよ」って。


   日本の神さまのなかでは、ちゃんと役割分担が決まっていて、
   神さまたちはどっちがエライか、白黒はっきりさせたりしないんです。

   そういう神さまだから、日本では宗教戦争とか、なかなか起こりづらいのです。

   「ウチが正しい」「いや、ウチが正しいんだ」という言い争いに
   なってしまうのは、お互い、自分たちの神さまがただ一つの絶対的なる存在だ
   と思っているからじゃないかなと思います。


   スサノオさんも、「スサノオは周りじゅうをぶっ壊すじゃないか」って
   言われちゃうけど、嵐を起こして“気”を混ぜて戻してくれるでしょ。

   スサノオさんはスサノオさんで“いいもの”を持っているのです。

   雷は「いなづま」ともいいます。
   稲の妻と書いて「稲妻」なんですけど、読んで字のごとく、
   「雷がどんどん鳴ると稲の育ちがいい」とか、
   「雷の落ちたところはキノコがたくさん生える」とか、
   昔の人はよく言っていたのです。


   最近、そういうことが科学的にも証明されてきて、
   人工的に雷(高圧電流)をピッピピッピってすると、
   シイタケとか、カイワレ大根とかの収穫量が増えることが
   わかってきたそうですよ。

   昔の人は、科学は知らないけれど、自然とともに生きてるなかで
   自分たちが雷の恩恵にあずかっていることをちゃんと理解していたんですね。


   日本人はね、昔から、雷とか、嵐、火山とか、
   自然のもの、一つひとつを崇拝するんです。

   山の神さま、風の神さま、海の神さま、神羅万象に神を見るんです。


   このような見方を、人に対してもできるといいよね。
   目の前に出てくる人、出てくる人、みんな神さまだっていう見方を。

   とくに自分自身に対して、そいう見方ができると、すごくいいと思うのね。

   いいところもあって、悪いところもある“自分”という存在が
   神さまぐらい、素晴らしいと思えたら、こんなに幸せなことはないよ。

   こんな悪いところがある、あんな悪いところがある、
   そんなことばっかり自分自身に言っていると、
   自分のことが好きになれなくて、苦しくなってきちゃうからね。


   みんなね、「自分はこれとこれが苦手で」とか、
   「できなくて」とかって言うんだけど。

   苦しんでる人はね、みんな、自分の欠点がゆるせないの。

   ゆるせないのは「完ぺきじゃなきゃいけない」と
   思わされて育ってきちゃったからなんです。


   人間は70%で最高、完ぺきは無理なんです。

   「完ぺきなフリ」をする人がいるだけなの。

   それと、あなたの周りにも完ぺき主義者っていますよね。
   完ぺき主義者は嫌われるんです。

   なぜ、嫌われるかというと、
   失敗、間違いを全部、他人のせいにするからなんです。

   それをする以外、完ぺきはありえないから。

   だから、周りの人が迷惑する。
   だから、嫌がられるのです。

   それでね、とくにいろんな才能のある人にはね、いろんな欠点があるの。

   自分の周りをよーく見てごらんなさい。
   ホントにそういうもんですよ。


   地球と同じでね。
   ある場所がうんと出っぱっている人はね、それの反対側が凹んでいて、
   でこぼこをすべてならすと、全員、総面積は同じなんです。

   何かが図抜けてできる人は、何かが図抜けてできない。

   逆に、とくにこれといって取り柄(え)のない人というのは、
   まんべんなくできて、ちゃんと食べていける。

   ホント、そうなんです。


   毎日、会社に行って、雨が降っても、風が吹いても、
   ちゃんと会社へ行って、ちゃんと仕事をして、サラリーマン生活を
   何十年と続けていて、っていう、それが取り柄なの。

   この「図抜けたところがない」ところが、その人の取り柄なんです。

   そうやって、この世の中はうまくバランスがとれているし、
   各自、人生ってうまくできているんです。

     <『斎藤一人 悩みはなくせる』(斎藤一人&舛岡はなゑ)PHP>

               ・・・

斎藤一人さんは、こう語る(本書より)

「スサノオのきょうだいでアマテラスさんという神さまがいますね。
アマテラスさんは太陽、地上をあまねく照らすのが仕事で、
その恩恵を我々はいただいているんです。

でも、もし、太陽に照らされっぱなしだとしたら、地球はどうなっちゃうの?
っていう話なんですよ。

そう、地球は干上がっちゃってダメになっちゃう。
また、嵐も来ないと、地球の温度はどんどん上昇して私たちは生きていられない。

それと同時に太陽も必要なんです。

太陽が照っていないと暗くて寒くて、命が絶えてしまいます」


日本の神々には、長所だけでなく、欠点もあるという。

しかし、それがあるからこそ絶対神が存在せず、日本には古来より、
「祓(はら)え」「清(きよ)め」「幸(さきわ)う」といった、
寛容や、ゆるしを大事にし、多様性を認める国民性がある。

そして同時に、神話には笑いや怒りといった喜怒哀楽もあり、成功も失敗もある。


神々が完ぺきでないのなら、人間が完ぺきであろうはずがない。

「人間は70%で最高、完ぺきは無理」

「ゆるし」がないとギスギスする。

「ゆるし」を多くし、もっと、おおらかに生きてみたい。

           <感謝合掌 平成29年4月17日 頓首再拝>

《赦さなければ自分がつらい》 - 伝統

2017/05/03 (Wed) 03:48:05


         *『 生長の家 』(昭和25年11月27日の法語)より

   何人(なんぴと)の過ちをも吾等(われら)は
   是非(ぜひ)とも赦さなければならない。
   赦さなければ、罰せられる者は自分自身であるからである。

   赦さなければ自分が苦しい。
   赦さなければ他に対する「害念」は無数の「害念」の
   波動を引き寄せ、自分自身を害することになる。

   赦さなければ 怒りの念は 自分自身の血管内に毒素を生じ、
   血管及び全身の筋肉及び神経細胞を硬化せしめ、
   肉体の硬直や、関節炎や、神経痛や、胸の病気や、心臓病や、
   あらゆる病気の原因を生ずることになるのである。

   赦しは最大の美徳である。

   人が過ちを犯したとき直ちに赦して、
   更に彼を愛する者は 天国に入ることが出来るのである。

           <感謝合掌 平成29年5月3日 頓首再拝>

《人を赦すことの美徳》 - 伝統

2017/05/17 (Wed) 03:44:12


         *『 生長の家 』(昭和25年12月3日の法語)より

   「 汝ら審判(さば)くことなかれ、汝らも審判かれざらんためなり 」
   とイエスは教え、

   「 我に負債(おいめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、
   我らの負債をも免したまえ 」と祈れと教えているのである。


   神の恵み(実相完全なる相(すがた))を
   現象界へ流入せしめるためには、
   まずそのパイプを掃除しなければならないという意味である。

   誰かを非難している想念 又は感情のある限りに於いて、
   神の無限に博大なる恩寵(おんちょう)の霊波とは
   波長が合わないのである。

   ほんの一寸(ちょっと)の良人に対する不満、
   ほんの一寸の妻に対する不満、
   或(ある)いは子に対する、親に対する感謝の念の欠乏さえも、

   あなたの祈りが実現しない原因であることがある。

    → http://blogs.yahoo.co.jp/meikyou123/12273676.html

           <感謝合掌 平成29年5月17日 頓首再拝>

《一度憤った相手は思い出してゆるせ》 - 伝統

2017/05/27 (Sat) 04:13:09


          *「光明法語」(5月27日)より

「われすべての人を赦したり」と観じても、
そう漠然と思うだけで赦していないことがある。

それは自分の家はもうすっかり不浄のものを洗ってしまって
洗濯物はないと信じていても、押入の隅っこに「汚れ物」をつくねて
忘れていることがあるのと同じである。

その「汚れ物」を発見し、それに清らかなる水を灑(そそ)いで
洗い浄める事が必要なのである。

過去より今まで嘗て憎み恨み憤りたりし相手を思い起こし、
一々その顔を眼瞼(まぶた)の内に思い浮かべ、

「私は貴方を赦しました。貴方も私を赦しました・・・」と

心の中に唱えるのである。

           <感謝合掌 平成29年5月27日 頓首再拝>

《赦し、相手の幸福を祈ること》 - 伝統

2017/05/29 (Mon) 04:05:15


        *「光明法語」(5月29日)より

次に相手の幸福を祈れ。
真に相手の幸福のために祈り得るような心境になり得てこそ、
真に相手を自分が赦しているのである。

そうでなしに、相手のことを思い出すのは不快であるから、
忘れてしまいたいと思っているようなことでは真に赦していないのである。

キリストが「汝の敵のために祈れ」と教えたのもこの意味である。
彼の幸福を祈り得るような心境に達したときにのみ、敵が敵でなくなるのである。

人間の真の勝利は、自己内部の敵を征服することにある。
自己の内にある「敵」の観念を克服せよ。

           <感謝合掌 平成29年5月29日 頓首再拝>

外見で人を審(さば)いてはならない - 伝統

2017/06/14 (Wed) 04:21:41


           *『真理』第九巻「生活篇」(P367)より

他(ひと)を赦しなさい。
赦さない心は縛る心です。

相手を縛る前に、そのあなたの心はあなたの中にあるのですから、
先ず自分自身を縛ってしまうことになる。

その結果、あなたの生理作用は縛られ、病気が起こってきます。
関節の不自由や、身体(からだ)の或る部分の硬直などは
其の縛る心によって起こって来るのです。

また赦さない心は相手を刺し又は打ち、痛めたい心ですから、何かと
衝突する出来事を起こしたり、痛みを伴う病気などを起こします。

他(ひと)を赦せば自分が赦されるのです。
腹が立って仕方がない時には、相手の立場になって考えてあげなさい。

また、五官で見える外見をその人の本当の相(すがた)だと考えることを止めて、
外見の奥にある実相は「神の子」で完全だと云うことを心の眼で見てあげなさい。

外見の悪い相(すがた)は汚れた風呂敷のようなものです。
風呂敷の中に立派な「神の子」と云う実相があるのです。

           <感謝合掌 平成29年6月14日 頓首再拝>

神様は、いつも許してくださっています。 - 伝統

2017/07/05 (Wed) 04:41:06

         *「『ありがとう』で運は開ける」中井俊巳・著(P144~145)より

   いつでも許してもらえる

   あなたはこれまで たくさん許されてきた



だれからも許してもらえない人は、
自分が悪かったと認めていない人だけです。

自分が悪かったことを心から認めて謝れば、
人間はいつも許され、やり直しができます。

どんなにひどいことをしても、
多くの人に迷惑をかけても、
神様だけは寛大に許してくれます。

生まれてきてから、今まで、
あなたはずっと許されてきました。

大丈夫です。

あなたは、いつも許されているのです。

           <感謝合掌 平成29年7月5日 頓首再拝>

神に赦されたという実感を獲(う)る - 伝統

2017/07/13 (Thu) 04:16:33


          *「光明法語」(7月13日)より)

吾らの生命の本源は神は神である。
神は無限の活力の源泉であり給う。
神より無限の活力が生まれる。

先ず自分が神から悦ばれていると云う自覚を呼び起す事が治病の根本になる。
神に憎まれていると思う者は自己処罰の潜在意識よりして自己を苦しめる。
その一面の現れが病気なのである。

されば神に憎まれていると思う者は神と和解する事が必要である。
神と和解するには、先ず祈りのうちに懺悔し神に徹底的にあやまり切るのである。
そして、赦されたと云う実感を獲(う)るのである。

           <感謝合掌 平成29年7月13日 頓首再拝>

「無限の赦し」である神愛と波長を合わす - 伝統

2017/07/27 (Thu) 04:30:01


          *「あなたは自分で治せる」(P100~102) より抜粋

和解は祈りを成就する根本条件である

人を責め、又は審判(さば)き、非難する心を捨てて、
「無限の赦し」であられるところの神愛と波長を合わすことが必要なのであります。

これは祈りを成就する上に是非なければならないところの条件でありまして、
キリストも其の山上の垂訓の中で、

祭壇にて祈る前に、不和な者、怨まれている者がある場合には、
それと根本的に和解しなければならないことを教えているのであります。

『生命の實相』第四巻(頭注版第七巻)の生活篇には、憎んでいる人と
和解する道を次の如く教えているのであって、その通り実行して
父子(おやこ)、姑嫁(しゅうとよめ)、不和の友人などと完全に
和解し得たと言って喜んで来られた人が多いのであります。

「若し現在あなたの憎んでいる人があるならば、毎朝、毎晩、静坐して
『神想観』を行ない、精神が『神と我とが一体である』との感じに
統一して来たとき自分の心に対して次の如く黙念するか、
耳にかすかにきこえる程の声で自己暗示するが好いのである。


   自分は神の子である。
   自分の心には愛が充ち満ちている。

   自分は彼を憎まない。
   自分は彼を愛している。

   愛は愛を招(よ)ぶ。
   だから、彼も亦自分を愛せざるを得なくなるのである。

   自分は彼に宿る神性を
   こうして毎日拝むのである。


こう密室において言葉で心に明瞭に語りながら実際に合掌して、
憎んでいる相手を実際に愛していると直(じか)に強く想像し、
実際に愛し得るようになるまで此の行持を続けよ・・・」

このすべて不和なる者と調和することが
真に実際に成就する祈りの一条件なのであります。

           <感謝合掌 平成29年7月27日 頓首再拝>

他への憎しみは、自分を傷つける - 伝統

2017/08/16 (Wed) 04:21:23


          *「あなたは自分で治せる」(P116~117)より

他(た)を憎めば、その憎しみが自分に帰って来て、自分を傷つけるのであります。

「憎しみが自分に帰って来て」と形容しますが、実は向こうに行ったものが帰って
来るのではなく、「憎しみ」が自己の本性と調和しないものですから
自己処罰するのであります。

こう云う右手を切り落とす様な自己処罰でなくても、多くの病人は、実は、
自分が誰かを憎んでいるためにその代償として自分に危害を加えて
自己処罰しているのであります。

だからキリストは

「他を審判(さば)くこと勿れ、またみずからも審判(さば)かれん」と教え、

「兄弟を怒る者は審判(さばき)にあうべし」
「この故に汝もし供え物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まれる事あるを
思い出(いだ)さば、供え物を祭壇のまえに遺しおき、先ず往きて、
その兄弟と和睦し然(しか)るのち来りて供え物をささげよ」

などと教えているのであります。

           <感謝合掌 平成29年8月16日 頓首再拝>

すべての人を赦(ゆる)すとき、心は必ず朗(ほがら)かになる - 伝統

2017/08/31 (Thu) 03:52:00

          *谷口清超先生(著)『純粋に生きよう』より

人を赦すということは、実にすばらしい。

過去にどんなことがあっても、
それに引っかかり、相手を恨んだり憎んだりしていると、
絶対に幸福になれない。

一切のものを赦し、愛し、感謝する心になると、最高の幸せを得る。

人を赦した時、損をするものは、誰一人いないのである。

           <感謝合掌 平成29年8月31日 頓首再拝>

《自分自身の欠点を許す》 - 伝統

2017/09/01 (Fri) 04:54:50


      *『生命の實相』第38巻幸福篇下(P72<9月1日>)より

われらはすべての人を赦さなければならないのである。
すべての人の中には、自分自身を含んでいるのである。

自分自身の欠点を赦さなければならないのである。
あなたの欠点に向かって、心の中で次のように唱えて
その欠点を赦すのが一つの良き方法であるのである。

「自分はすでに赦されたり。
神によって完全にせられたのである。
もはや、欠点もなく浄(きよ)められたのである。」

こう繰り返し繰り返し念じて、神の光明の中へ融け込んで、
完全に雪のごとく清浄にせられたる自分を瞑想するのがよいのである。

             <感謝合掌 平成29年9月1日 頓首再拝>

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