伝統板・第二

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人間の尊厳 - 伝統

2016/04/23 (Sat) 04:32:33

人間の尊厳

        *「光明法語」(4月23日の法語)より

人間は神の自己実現中、最高完全なる表現である。
従って人間のうちにはそれ以下の段階である凡ゆる階級の生物の状態をも
自己の内に包容している。

無論、「動物的状態」をも自己の内に包容している。
しかし人間は其の「動物的状態」を内に包容しつつ而もそれを超えたる存在であるのである。

「心」を象徴する頭部は、すべての動物に於いては、地球の牽引力(物質の表現)に
引きつけられて俯向(うつむ)いて歩み遊(およ)ぎ飛ぶのであるが、
人間のみ敢然と頭部を地球の牽引力の反対の方向に持ち上げた。

此処に人間の尊厳がある。

・・・

<関連Web:光明掲示板・第一「人間は美しきものなのである (6682)」 
 → http://bbs5.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou&mode=res&log=1260   >

        <感謝合掌 平成28年4月23日 頓首再拝>

人間の尊厳と自由 - 伝統

2016/04/25 (Mon) 03:38:46


《自由とは濫用ではない》

         *「光明法語」(4月24日の法語)より

人間の尊厳は、物質を自己の内に包容しながら物質の奴隷とならず、
物質を超えつつ物質を支配し得る所にある。

物質の法則の中にありながら、物質の法則を知ることにより、
物質を超えて之を支配し得る所にある。

彼が物質の奴隷となり、肉の奴隷となる程度に従って
彼は「動物」的低位の存在にまで退歩する。

「動物」は本能によって機械的に動く。
彼の性的生活も本能によって一定の交尾期のみに働く。

人間は一定の交尾期がなく完全に自由選択にまかせられている。
自由の特長は濫用と云うことではなく自己統制にある。


              ・・・

《人間は完全なる自由》

         *「光明法語」(4月25日の法語)より

本能によって他動的に支配さるるものは機械であり動物である。

蚕が食物の選択を本能によって完全に行い、
桑の葉のみを食して食中毒をするなどと云うことのないのに、

人間が食物を本能によって選択せず、
自由心の選択にまかせられていて時々食中毒をするのは

人間は完全なる自由を与えられていて、
「善」にさえも強制せられるものではないことをあらわしている。

食慾をも、性慾をも自己統制し得て、過不及なく錯誤なく
これらを最も健全に支配する処に人間の尊厳がある。

        <感謝合掌 平成28年4月25日 頓首再拝>

人間の尊厳は、動物的存在面を超克し得た程度に従ってそれは増す - 伝統

2016/04/27 (Wed) 04:03:40


《霊的生活の基礎としてのみ物質は存在意義あり》

         *「光明法語」(4月27日の法語)より

神の生命の最高完全の自己実現として出生した人間は、動物的段階を内に含み乍ら、
それ以上に発達し、それを超えた存在であるから、
動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す。

動物的な肉慾や食慾を征服克服して
霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である。
キリストや釈迦やソクラテスが尊敬せられるのはその為である。

肉慾や食慾は人間なる生命の段階に於いては
霊的生活の基礎として必要な存在であるに過ぎない。

地球なる鉱物の固結体が植物や動物や更に人間発生の基礎である様にである。

        <感謝合掌 平成28年4月27日 頓首再拝>

【至上者の自覚の神示】 - 伝統

2016/05/06 (Fri) 04:40:01


人即ち神であると言う真理を知らぬものが多いのは気の毒である。

生長の家が此の世に出現したのはすべての人々に此の至上の真理を知らさんが為である。

自己が神だと悟ったら人間が傲慢になるように誤解したり、
自己の本性が神だと悟ったものを謙遜が足りぬと思う者は大変な思い違いである。
 
斯くの如き想像する者は自己が神だと言う真理をまだ一度も悟って見たことがないからである。
自己が神だと悟れたら人間は本当に謙遜になれるのである。
キリストが弟子の足を洗うことが出来たのも、自己が神だと悟っていたからである。

本当の謙遜は「神の自覚」から来る。
神を自己の本性(うち)に自覚しないものは、いくら謙遜らしく見えても、それは卑屈にすぎない。
卑屈と謙遜とを思い誤るな。

本当の謙遜とは「自己は神より出でた神の子である。
従って神そのもののほか何者でもない」と言う真理を
何らの抗(さか)らいもなしに承認することである。

此の真理を承認するものを謙遜と言い柔和と言う。
此の真理に逆う者を傲慢と言うのである。

すべての傲慢と意地張りとは「吾れ神なり」の真理を承認しないところの
根本傲慢より分化し来るのである。
 
観点の違う者には解りようがない。
人間の偉大な仕事を皆憑霊の仕事のように説いて、
人間をただ憑霊の傀儡のように教えるものがあるが邪教である。
人間の本性(うち)に憑霊の示唆よりも偉大なものがあることを教えるものこそ正しき教えである。

人間は肉体でもなければ傀儡でもない、
人間は霊であり神であり自主である。

若し憑霊が「霊」であるが故に、偉大なる教を説き、偉大なる仕事が出来るならば、
人間自身も「霊」であるが故に偉大なる教を説き、
偉大なる仕事が出来ることも当然でなければならぬ。

ただその教や仕事に高下があるのは霊界の霊にも、人間にも、
自己内在の無限性の掘り下げ方に差があるからである。

釈迦は決して憑霊の傀儡ではない、基督(キリスヨ)も決して憑霊の傀儡ではない。
いずれも自己内在の無限性を掘下げて、終に仏性に達し、神性に達したから、
霊界の諸霊来たって此のニ聖に事(つか)えたのである。

釈迦の憑霊ばかりを観て釈迦が自覚したところの仏性、
イエスが自覚したところの神性を観ない者は憐れである。

憑霊が説くほどの教なら人間自身も霊であるから説き得べきであるのに、
釈迦の教を釈迦自身の教ではなく釈迦の憑霊の教であると説く
スピリチュアリズムは自己撞着に陥っているのである。

 
人間よ、人間自身の尊厳を自覚せよ、
これを自覚することは人間自身の尊厳を奪還することである。

生長の家は人間自身の尊厳を奪還せんがために出現した人生の燈台である。

   ( 昭和八年三月十六日神示 )

        <感謝合掌 平成28年5月6日 頓首再拝>

人間(自分も他人も)は素晴らしい - 伝統

2016/06/23 (Thu) 03:24:04

          *『生命の實相』第28巻久遠仏性篇下(P44)より
            
「自分自身を愛する」とはどういうことであるか、
と申しますと自分というものを最も尊敬すること、
自分の実の相(すがた)を本当に知って尊敬することであります。

自分の実の相(すがた)が神の子である、あるいは仏の子であるということを
根本的に知ることこそ、自分を本当に愛するということになるのであります。


普通世間の人は「自分を愛する」といえば、自分が金儲けするとか、
あるいは地位や名誉を得るとか、そういう利己なことで得をすることを「自分を愛する」
ことだと思っていますけれども、それは本当に自分を愛するものではないのであります。

自分自身を愛するということは、自分自身を最も大きく観るということであります。 
この自分自身を最も大きく観ることができる人にして、
はじめて他の人をも最も大き観ることができるのです。

        <感謝合掌 平成28年6月23日 頓首再拝>

人を観るには常に絶対価値を以てせよ - 伝統

2016/06/28 (Tue) 04:18:35


          「光明道中記」 (6月28日)より

自己を高く見せる為に他を鋭くさばくものは禍(わざわい)なるかな。
高く上らんとする者は低くせられ、
謙(へりくだ)りて栄えを神に帰する者は高くあげられん。

世の禍の因(もと)の80%は嫉妬心なり。
嫉妬心は比較の心なり、相対心なり。相対的価値は、見る立場によって変化す。
相対的価値によって高く挙げられたるものは、相対的事情の変化によって低く
貶(おと)されん。

されば人を相対的価値によって論議する勿れ。

人を観るには常に絶対価値を以てせよ。
人の絶対価値は彼が「神の子」なることなり。
彼が生きてあること、そこに絶対価値が既にあるなり。

彼が愛の心を起すとき既に其処に彼の絶対価値の顕れを見る。
彼は愛なればなり。

彼の成績の如何を問う勿れ。
ソロモンの栄華いずこにありや。
イエス生きてありしときイエスの教を真に知りたる者幾人ありや。

その生涯中の伝道の相対的成績は実に微々たるものなりき。
十二人の弟子のうち一人は耶蘇を売りき。
残れる弟子共もイエス死する迄、その復活の意義を知らざりき。

されど、イエスは絶対価値なり。

        <感謝合掌 平成28年6月28日 頓首再拝>

人間の荘厳と尊厳 - 伝統

2016/09/08 (Thu) 04:32:48


        *「光明法語」(9月8日)より

人間のみが意識をもち、自由意志によって自己の美と荘厳と全と完全さを
自分の選択によって表現することが出来る。

爰(ここ)に人間は初めて神の最高完全たる顕現たるを得るのである。

人間の自由とは、
善なるを得ると同時に悪(善の否定)なるをも得る自由だとも言い得る。

一方的に「善しか出来ない」と定められていたならばそれは一種の機械である。

かくて人間は、悪(不健康等)をさえ表現し得る。

併し、吾らは何もかかる否定的なものを選択する必要はないのである。

           <感謝合掌 平成28年9月8日 頓首再拝>

介護を受ける人も尊厳ある存在~老いたる人間の魂の訴え - 伝統

2016/10/08 (Sat) 03:15:52

         *Web より

《施設で亡くなった「変わり者」と呼ばれていたおじいさん。
 看護師さんが見つけた手紙に、はっとさせられる》


様々な理由から施設に入れられた高齢者達は家族を恋しがって、
面会を首を長くして待っています。

しかし、悲しいことに、その願いは叶わぬまま亡くなっていくのです。

マック・フィルサーさんも孤独な余生を過ごす老人の一人でした。

「風変わりな老人」と呼ばれていた彼が老人施設で亡くなり、
一人の看護婦さんが彼の部屋の整理している時、遺品の中にある手紙を見つけました。

慢性的な介護職不足や身体的にも精神的にも過酷な介護の現場の実情から
施設に勤める職員たちは、その手紙の内容にはっとさせられたたといいます。


《手紙の内容》

  看護婦さん、何が見えますか?
  私を見る時、あなたは何を考えていますか?

  風変わりで愚かな老人。
  遠い目で食べ物をこぼし何も答えもしない
  大声で「自分でしたら?」というあなた。

  でも、私は気づいていない様子。


  靴下や靴がいつもなくなる?
  私はいつも抵抗し、あなたの意に沿わない。
  食事もお風呂も長い時間がかかってしまいます。

  何を考えます?
  何が見えますか?

  目を開けて見て下さい。
  あなたは私をきちんと見てないでしょう。

  あなたの指示を聞き、食べさせられながら。
  私はここにじっと座っています。

  あなたに私が誰なのかを伝えるために。


  私が10歳の小さな子どもの時、
  父と母、兄弟と姉妹と共に愛されて育ちました。

  私が16歳の少年の時、
  足に翼が生え、将来出会う恋人を夢見ています。

  新郎になる20歳の頃、
  心が踊り、結婚の誓いを必死に覚えています。

  25歳で子どもが生まれ、教えることを学び、楽しい家庭を守ることを誓います。

  私が30歳の時、
  子どもはすくすく成長し、夫婦の絆が固くなり、
  それは永遠に続くいと思っていました。

  40歳で若い息子はなくなりました。
  しかし、私の最愛の妻がそばにいてくれました。
  だから淋しくなんかありませんでした。

  私が50歳の時、今度は孫が私の膝のまわりに纏わりつきました。
  でも、妻と私は子どもを育てることに慣れているから大丈夫。


  暗黒の日が訪れ、最愛の妻がなくなりました。
  将来を考えて恐怖に怯えました。
  私は過ぎた年月と愛について考えてきました。


  今の私はただの老人です。

  自然とは残酷なものです。
  老いていくことは自然なこと。

  意地悪なことに老いたものを愚かに見せる。
  体は砕け、優雅さと活力を失い、かつて心臓があった場所に石があります。


  でも、この老いた体の中には青年の心が宿ります。
  そして時々、私のボロボロの心臓が膨れ上がります。

  私は喜び、痛みを覚えています。
  愛することと生きることを再び体験します。

  私は人生を振り返ると、あまりに早くて短くて、、、
  永遠が無いという厳しい事実を受け入れなければなりません。


  だから、あなたたちは目を見開いて見てください!

  風変わりな老人ではない。
  私という一人の人間を。

      (http://heaaart.com/post/152687


           <感謝合掌 平成28年10月8日 頓首再拝>

人間の実相を、「今」自覚し、自分を最も高き価値まで昻め揚げること - 伝統

2016/10/20 (Thu) 04:57:08


          *『生命の實相』第28巻久遠仏性篇下(P44~53)より

自分を愛する程度に従って本当に他をも愛することができるのです。
人間なんてつまらないものだと考えて自分を軽蔑している人は、
その同じ人間であるところの他人をも軽蔑る人であります。


われわれはよく、お客さんが来られますと、
煙草の好きな人にはさっそく煙草盆を出します。
それから甘いものの好きな人には甘いお菓子を出します。

わたしの例をとってみますならばわたしは今は食欲が正しくなって甘いものを
あまり好まなくなりましたが、前には甘いものが大変好きでありましたから、

煙草の好きな人が来られても煙草盆を出すことには気がつかないで、
「お菓子を持っておいで……」と命令してお菓子を出させたものであります。

そうすると、お客さんの方から、
「ちょっと済みませんが、煙草盆か灰皿かを貸して下さいませんか」
と請求される。

そうして「ああこの人は煙草が好きなんだ」と思って気がついて灰皿を出す
という始末です。

ところが私自身は煙草の煙は大嫌いなんです。
嫌いなものだから、嫌いなものを人に与えては済まないというような気持がする
ものですから、甘い美味しいお菓子をあげようというつもりで、
甘いお菓子を出すのですけれども、

その相手の人が甘いものが嫌いで、煙草が好きだというような場合には、
こちらのせっかくの好意が無駄になるというようなことが往々にしてあるので
あります。


ある時わたしが大阪にいる中学時代の友人のところへ久し振りに訪ねて行った
ことがありましたが、中学を出てから10年以上も逢わないでおりまして、
突然そこの家へ行きましたら、その友達が大変喜んでくれまして、
大きな湯呑に茶を入れてわたしの前へ置いてくれたのであります。

わたしは茶を飲むのが大好きで、それも煎茶茶碗の底にひっついているようなのは
嫌いで、大きな湯呑にたっぷり入っているのを、なみなみと呑むのが好きですから、
「この友達、さすがに古くからの友達で気がきいている」と思いまして湯呑を
取って飲んでみると、茶であるかと思いのほかそれは酒だったのであります。

この友達は学校卒業後たいへん酒が好きになって、近頃で茶の代わりに
酒を飲んでいる ―― そういうふうな人であるのでありますから、
その人にとっては自分は酒が大好きであるから、酒を饗応することは、
最も隣人を愛する所以であるとこういう具合に思うておられたのであります。

こんな具合でわれわれは自分を大酒飲みだと思ったら
他人をも大酒飲みのように愛する。
自分を甘党だと思ったら、甘党のように愛する。

そして自分が神の子だと思ったら神の子のように愛する。

なんでも自分が基準になるのでありますから、われわれが本当に隣人を愛しよう、
兄弟を愛しようと思うには、自分自身が本当に高くなり、自分自身をいかに
愛するかということを知らなければならない。

そうでなければ、愛しているつもりで
相手を突き落としていることがあるのであります。
                 

先日ある誌友が来ておられまして、女の方でありましたが、
「自分の子供がどうも利己主義であって人には良いものを寄越さないで
自分が一番いいものを取ろうとする、これをどういうふうにして直したら
いいものでしょうか」というふうな質問をされたのであります。

それでわたしは「それはあんた自身の心が映っているのでありませんか、
あんたはこれは自分に一等良い、一番良いと思うものを、本当に取りたく
ありませんか」と言いましたら、

その御婦人は腑に落ちぬような表情で、
どこが自分が利己主義なんだろうかというような表情で、
ちょっと考えておられたのであります。

それでわたしは、「もしあんたの坊ちゃんが今度中学等学校へ入学試験を受ける、
そういう時には自分は一番良いものを取りたくないのだから、できるだけ下の
点数を取って落第する、こう言われたらあんたはどうせられますか」
とお尋ねしたのであります。

それにはその婦人お困りなった。
やはり自分の子供は一番良い点数で入学させたい、自分の子が一人入学すれば、
他の一人は落第するのだけれど、それは仕方がたがないと思っていられる。

それにかかわらず、自分の子は利己主義で困るといわれる。
その人にとっては道徳の標準というものが本当には決まっていないのであります。

ある場合には、自分の子供が一番良いものを取ることは利己主義で困ると
思うているが、そうかと思うと学校入学の席順は他を突き落としても
自分の息子は一番良いのを取ってくれなければ困る、とこう思うておられる。

こんなことでは本当に人を愛するということはできないのであります。

ところがこの本当に自分を愛する、あるいは人を本当に愛するということは、
そういう一つ一つの行為について、一番良いものを取るからいけないの、
一番わるいものを取ろうと心掛けないのがいけないのだというふうなものでは
ないのでありまして、

根本にわれわれは自分自身を本当に愛するということから出発して行く時に、
はじめて隣人をいかに愛するべきかということがわかるのであります。

自分自身をいかに愛するかといえば、
自分を神の子と感じ、自分を仏の子であると感ずる、
これが本当に自分を愛することなのであります。

自分を本当に神の子だと感じ、自分の子供も神の子だと感じ、他人の子供も
神の子だと感ずるようになりますと、受験にだって自分の子供が正々堂々と
一番良いものを取ってもいいことがわかる。

みだりに他(ひと)にセンチメンタルな愛情によって、実力が出ないうちに、
試験にお情及第させてもらうような卑怯なことを、相手の神の子にさせようとは
思わなくなる。
みんな一番良いものを取ってよいということがわかるのであります。

自分の子も神の子、他人(ひと)の子も神の子ということになれば、
少しも依怙贔屓のない道徳が確立するのであります。


ある人が、自分を豚の子のように思って軽蔑し、そうして自分の子供をも豚の子の
ように軽蔑していい罵っておったら、その子供が豚の子のように蒲団の上で寝小便
するようになって、親の心が一変するまでは、それがどうしても治らなかった。

それが人の子を「神の子」だと考えていないで豚の児(こ)のように考えていた。
その考えが治らなかったからです。

その点を生長の家の講師が指摘して、

「あんたは自分の子供を豚の子のように思っているから、
それで寝床に寝小便するのですよ。
そんな豚の子のように人間の子供を軽蔑してはいけない、

自分の子供は「神の子」であるということを本当に思いなさい」

と言って諭されたら、その晩から豚の子が本当の「人の子」になって
寝床に小便ををしなくなったという実話がありますが、結局(つまり)、
この自覚が大切であります。

われわれは自分自身が神の子であるということを、ともすれば忘れがちであります。
自分自身が「神の子」であるということを忘れるがために、相手もまた神の子である
ということを忘れてしまうのであります。


自分自身が仏であるということを忘れてしまうから、
相手もまた仏であるとうことを忘れてしまうのです。

そういうことでは本当に自分を愛することもできなければ、
他(ひと)をも愛することができない。

それでは「己(おのれ)を愛するがごとくに隣人を愛せよ」
あるいは「己を愛するがごとく神を愛せよ」という教えを
守ることができないことになるのであります。


それでですから、本当に自分を愛するというのは、
自分自身を最も価値あるものにすること、自分自身を最も高き価値まで
昻(たか)め揚(あ)げるということにほかならないのであります。

では、自分を最も高き価値まで昻め揚げるとは、いったいどうすることであるかと
申しますと、必ずしも学校で1番の成績をとるということではないのです。
自分が「神の子」になり、「仏」になるということである。

すでに「神の子」であり「仏」であるところの人間の実相(ほんとのすがた)を、
「今」自覚すること ―― これがいっさいの信仰の、いっさいの道徳の中心になり、
出発点になるのであります。

キリストは聖書の中で「神の子」というところを「人の子」といって
両語を混雑して使っていますが、これは、本当に「人の子」は「神の子」である
という自覚からくるのです。

自分が神の子であり仏であるということを知らなければ、
すべての道徳は中心を失い、柱を失ってしまって、
どうしてよいかわからなくなるのであります。


では、仏とは何であるかと申しますと、これは解(ほど)けることである。
いっさいの縛(しば)りとなるもの、いっさいの凝(こ)りというものから
解(ほど)けてしまって、解脱した状態になってしまう
―― その解脱(ほど)けた状態、これが仏であります。

この自分自身が解脱した状態になって、自由自在な窮地になって、
その自由自在な境地を愛することができて、
はじめて他(た)の人々の人格の自由を完全に生かす愛ができてくるのであります。


ですから、われわれはまず自分自身をはっきりと把(つか)まなければ
ならないのであります。

自分自身が神の子であり、仏であるということをはっきり把んでしまって、
何ものにも執(とら)われない、自由自在な相(すがた)というものを自覚して、
そうして自分は神の子であると自分自身を愛し礼(らい)し、

己を愛し礼するごとく、そのごとく他(ひと)に対して、神の子として、仏として
尊敬し、敬(うやま)い、人の内に宿っているところの実相 ―― 神性という
ものを生かしてゆくようにする、これが本当に自己を愛するごとく他をも愛する
ということなのであります。


ですから、自己を愛するかのごとく人を愛するということは、
要するに自分と他とが一つであるという根本実相(ひとのほんとのすがた)
から来るのであります。

自分と他(た)とが一つである。
自分と他とが一つでなければこの愛ということは成り立たないのであります。

自分と他(た)とが全然別のものであったならば、
自分の喜びが他人(ひと)の喜びであるというはずがない、
他人(ひと)の悲しみが自分の悲しみであるというはずがないのであります。


ですから、われわれがじぶんの好むところを他(ひと)に与え、
他(ひと)の欲せざるところを他(ひと)に転嫁しまいと思うのは、
要するに自分というものと他人(ひと)というものが、本来同じものである。

同じものであるから同じように感ずるものであるという
根本的な直観的認識から来るのであります。

この「自他一体」の直感認識がなければ道徳的価値評価というものは
成り立たないでいっさいの行為はバラバラで道徳的にはなんらの価値もない
ということになるのであります。

このように道徳とは自他一体の直感認識から始まって、自分の喜ぶ状態に
他(た)をもしてあげたいという願いに始まるのですから、

自分の実相が仏であること、そしてこの仏の相(すがた)とは何ものにも
縛られない自由自在なものであるということを自分自身に自覚した人のみ、
本当に人々にもその人の実相すなわち仏を自覚せしめて、

いかなる外(ほか)のものにも縛られない自由自在なる状態を、
その人に施(ほどこ)してあげることができるのであります。

この自由自在な無畏の状態を施してあげることが仏教では無畏施といって
施しの中でも最も尊いものとなされているのであります。


さっき申しましたように、甘いものの好きな人は甘いものを他に与え、
煙草の好きな人は煙草を他に与える。

そして自分自身の自由自在な実相の好きな人は
実相を他(ひと)に与えるのであります。


ところが誰でも、本来自由自在なのが実相(ほんとのすがた)なのであります
から、自由自在の境地を求めない人はない。

煙草の好きな人も本当は煙草そのものが好きなのでない、
なんとなくギコチなく淋しく自由自在な感じが失われている、
その感じをごまかすために煙草を喫み酒を飲むのです。

金の欲しい人でも、金のそのものが欲しいのではない、
金があると自由自在になんでもふるまえると思うから金をほしがるのです。
ところが金を持っても酒煙草を喫んでも、
それに執(とら)われたらかえって自由自在が失われる。

金に執すれば金に縛られ、酒煙草に執すれば、酒煙草の奴隷にせられてしまう。
これでは、もともと自由自在を求めたのが何にもならない。
自由自在を求めてかえって不自由不自在を得たことになるのです。

ですから自分が真に自由自在に解脱した喜びというものに得たならば、
われわれは全人類の得(え)んとして目指しているこの喜びを人々に
与えなければならぬのです。これが自他一体の真理なのです。

そうしてここに自分が仏の実相を鳴り出せば、
かたわらにいる人々の内にある仏が鳴り出すということになるのであります。

これは釣鐘の共鳴のようなものであって、二つの釣鐘を並べて置いて
こちらの釣鐘をゴーンと撞くとその隣の釣鐘もゴーンとまた共鳴して
鳴り出すのです。

それは、一人の人の実相の響きが鳴り出す時は、「一切衆生仏性あり」で、
他の人々の中に宿っているところの仏性が鳴り出して表面に顕われて
顕在的になるのであります。

だから人を悟らすには、まず「自分は神の子だ、仏の子だ」と気づいた人が、
そうであるということを言葉に出してガ―ンと鳴り出すということが
必要なのであります。

そうするとその隣の鐘 ―― 否、その付近にいる人たちもやはり自分のうちに
ある尊き仏性がガ―ンと鳴り出して顕在となり、またその響きがさらに共鳴を
起こして、すべて人々、到るところに仏が現われて来るということになるので
あります。

そしてすべての人々悉く仏性が顕われ、これが本当に隣人を愛する
ということになるのであります。

           <感謝合掌 平成28年10月20日 頓首再拝>

人間の尊厳 - 伝統

2018/04/23 (Mon) 03:17:45


        *「光明法語」(4月23日の法語)より

人間は神の自己実現中、最高完全なる表現である。
従って人間のうちにはそれ以下の段階である凡ゆる階級の生物の状態をも
自己の内に包容している。

無論、「動物的状態」をも自己の内に包容している。
しかし人間は其の「動物的状態」を内に包容しつつ
而もそれを超えたる存在であるのである。

「心」を象徴する頭部は、すべての動物に於いては、
地球の牽引力(物質の表現)に引きつけられて俯向(うつむ)いて歩み
遊(およ)ぎ飛ぶのであるが、

人間のみ敢然と頭部を地球の牽引力の反対の方向に持ち上げた。

此処に人間の尊厳がある。

           <感謝合掌 平成30年4月23日 頓首再拝>

欲を自己統制し、健全に支配する処に人間の尊厳がある - 伝統

2018/04/25 (Wed) 03:12:39


        *「光明法語」(4月24日~25日の法語)より

《自由とは濫用ではない》

人間の尊厳は、物質を自己の内に包容しながら物質の奴隷とならず、
物質を超えつつ物質を支配し得る所にある。

物質の法則の中にありながら、物質の法則を知ることにより、
物質を超えて之を支配し得る所にある。

彼が物質の奴隷となり、肉の奴隷となる程度に従って
彼は「動物」的低位の存在にまで退歩する。

「動物」は本能によって機械的に動く。
彼の性的生活も本能によって一定の交尾期のみに働く。

人間は一定の交尾期がなく完全に自由選択にまかせられている。
自由の特長は濫用と云うことではなく自己統制にある。

・・・

《人間は完全なる自由》

本能によって他動的に支配さるるものは機械であり動物である。

蚕が食物の選択を本能によって完全に行い、
桑の葉のみを食して食中毒をするなどと云うことのないのに、

人間が食物を本能によって選択せず、
自由心の選択にまかせられていて時々食中毒をするのは

人間は完全なる自由を与えられていて、
「善」にさえも強制せられるものではないことをあらわしている。

食慾をも、性慾をも自己統制し得て、過不及なく錯誤なく
これらを最も健全に支配する処に人間の尊厳がある。

           <感謝合掌 平成30年4月25日 頓首再拝>

動物的存在面を超克し得た程度に従って人間の尊厳は増す - 伝統

2018/04/27 (Fri) 03:33:21


        *「光明法語」(4月27日)より

《霊的生活の基礎としてのみ物質は存在意義あり》

神の生命の最高完全の自己実現として出生した人間は、動物的段階を内に含み乍ら、
それ以上に発達し、それを超えた存在であるから、
動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す。

動物的な肉慾や食慾を征服克服して
霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である。
キリストや釈迦やソクラテスが尊敬せられるのはその為である。

肉慾や食慾は人間なる生命の段階に於いては
霊的生活の基礎として必要な存在であるに過ぎない。

地球なる鉱物の固結体が植物や動物や更に人間発生の基礎である様にである。

           <感謝合掌 平成30年4月27日 頓首再拝>

人間の尊厳 - 伝統

2019/04/23 (Tue) 03:47:20


        *「光明法語」(4月23日の法語)より

人間は神の自己実現中、最高完全なる表現である。
従って人間のうちにはそれ以下の段階である凡ゆる階級の生物の状態をも
自己の内に包容している。

無論、「動物的状態」をも自己の内に包容している。
しかし人間は其の「動物的状態」を内に包容しつつ
而もそれを超えたる存在であるのである。

「心」を象徴する頭部は、すべての動物に於いては、
地球の牽引力(物質の表現)に引きつけられて俯向(うつむ)いて歩み
遊(およ)ぎ飛ぶのであるが、

人間のみ敢然と頭部を地球の牽引力の反対の方向に持ち上げた。

此処に人間の尊厳がある。

           <感謝合掌 平成31年4月23日 頓首再拝>

人間の尊厳は、物質を超えて之を支配し得る所にある - 伝統

2019/04/24 (Wed) 03:50:39


         *「光明法語」(4月24日)より 

《自由とは濫用ではない》

人間の尊厳は、物質を自己の内に包容しながら物質の奴隷とならず、
物質を超えつつ物質を支配し得る所にある。

物質の法則の中にありながら、物質の法則を知ることにより、
物質を超えて之を支配し得る所にある。

彼が物質の奴隷となり、肉の奴隷となる程度に従って
彼は「動物」的低位の存在にまで退歩する。

「動物」は本能によって機械的に動く。
彼の性的生活も本能によって一定の交尾期のみに働く。

人間は一定の交尾期がなく完全に自由選択にまかせられている。
自由の特長は濫用と云うことではなく自己統制にある。

           <感謝合掌 平成31年4月24日 頓首再拝>

霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である - 伝統

2019/04/27 (Sat) 03:37:18


         *「光明法語」(4月27日)より 
          ~《霊的生活の基礎としてのみ物質は存在意義あり》

神の生命の最高完全の自己実現として出生した人間は、
動物的段階を内に含み乍ら、
それ以上に発達し、それを超えた存在であるから、
動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す。

動物的な肉慾や食慾を征服克服して
霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である。
キリストや釈迦やソクラテスが尊敬せられるのはその為である。

肉慾や食慾は人間なる生命の段階に於いては
霊的生活の基礎として必要な存在であるに過ぎない。

地球なる鉱物の固結体が植物や動物や更に人間発生の基礎である様にである。

           <感謝合掌 平成31年4月27日 頓首再拝>

人間の荘厳と尊厳 - 伝統

2019/09/08 (Sun) 04:40:53

    *「光明法語」(9月8日)より

人間のみが意識をもち、自由意志によって自己の美と荘厳と全と完全さを
自分の選択によって表現することが出来る。
爰(ここ)に人間は初めて神の最高完全たる顕現たるを得るのである。

人間の自由とは、善なるを得ると同時に
悪(善の否定)なるをも得る自由だとも言い得る。

一方的に「善しか出来ない」と定められていたならばそれは一種の機械である。
かくて人間は、悪(不健康等)をさえ表現し得る。

併し、吾らは何もかかる否定的なものを選択する必要はないのである。

           <感謝合掌 令和元年9月8日 頓首再拝>

欲を自己統制し支配する処に人間の尊厳がある - 伝統

2020/04/25 (Sat) 04:52:08


       *「光明法語」(4月25日《人間は完全なる自由》)より

本能によって他動的に支配さるるものは機械であり動物である。

蚕が食物の選択を本能によって完全に行い、
桑の葉のみを食して食中毒をするなどと云うことのないのに、

人間が食物を本能によって選択せず、
自由心の選択にまかせられていて時々食中毒をするのは

人間は完全なる自由を与えられていて、
「善」にさえも強制せられるものではないことをあらわしている。

食慾をも、性慾をも自己統制し得て、過不及なく錯誤なく
これらを最も健全に支配する処に人間の尊厳がある。

            <感謝合掌 令和2年4月25日 頓首再拝>

動物的存在面を超克し得た程度に従って人間の尊厳は増す - 伝統

2020/04/27 (Mon) 04:02:52


       *「光明法語」(4月27日)より

《霊的生活の基礎としてのみ物質は存在意義あり》

神の生命の最高完全の自己実現として出生した人間は、動物的段階を内に含み乍ら、
それ以上に発達し、それを超えた存在であるから、
動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す。

動物的な肉慾や食慾を征服克服して
霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である。
キリストや釈迦やソクラテスが尊敬せられるのはその為である。

肉慾や食慾は人間なる生命の段階に於いては
霊的生活の基礎として必要な存在であるに過ぎない。

地球なる鉱物の固結体が植物や動物や更に人間発生の基礎である様にである。

            <感謝合掌 令和2年4月27日 頓首再拝>

【人間の高貴さについて考えよう】 - 伝統

2020/07/04 (Sat) 04:55:34


        *「理想世界」(昭和43年6月1日の法語)より

人間は、人間たる“高貴さ”を失ってしまったら、
それは獣類とあまり変らない。

人間は力の強さでは象や獅子に劣っている。
毛並みの美しさではラッコやミンクに劣っており、
空を空襲で飛ぶ事には鳥類に劣っており、
徒歩で走る速さでは虎や猫にも劣っている。

海を裸で泳ぐならば魚類や鯨に劣るのである。

人間が他の動物より優れているのは、
そんな肉体の力にあるのではないのである。

肉体よりも貴いものが人間にあることを知らねばならぬ。

http://dentou.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7735767

            <感謝合掌 令和2年7月4日 頓首再拝>

人間の荘厳と尊厳 - 伝統

2020/09/08 (Tue) 03:29:54


    *「光明法語」(9月8日)より

人間のみが意識をもち、自由意志によって自己の美と荘厳と全と完全さを
自分の選択によって表現することが出来る。
爰(ここ)に人間は初めて神の最高完全たる顕現たるを得るのである。

人間の自由とは、善なるを得ると同時に
悪(善の否定)なるをも得る自由だとも言い得る。

一方的に「善しか出来ない」と定められていたならばそれは一種の機械である。
かくて人間は、悪(不健康等)をさえ表現し得る。

併し、吾らは何もかかる否定的なものを選択する必要はないのである。

           <感謝合掌 令和2年9月8日 頓首再拝>

《“神らしくなる” こと》 - 伝統

2021/04/13 (Tue) 02:19:02


         *『白鳩』(昭和40年4月号)より抜粋

   人間が “神らしくなる” ということは、
   物質的なもの、時間空間的なものに支配されなくなり、

   必要に応じて超時空的能力を発揮し得るということであり、

   罪の観念に縛られて自己を自縄自縛しなくなることであり、

   自己処罰しなくなることである。

   その人は物質的なものに縛られなくなるために、
   経済的の変動で、一時、株が暴落するようなことがあっても、
   必ずそれは反騰するものであることを知って心が動揺しないことであり、

   また大いに儲かっても、
   それは神の愛の実現であるとして私的使用に浪費することなく、
   公けなることに悦んで献げ得る心境であるということであり、

   時間に束縛せられないから、愈々多忙にして疲れることなく、不平なく、
   忙中なお閑を蔵して悠々神想観をなし、愛行を重ね得ることである。

   自己処罰をしなくなるということは、
   自然に災害の起るところに近寄らなくなり、
   みずから不幸をもとめて自虐状態に立ち到らなくなることである。


   “神らしくなる” ということの一つは、自己に “絶対価値” を求め、
   他と比較して自己を劣等であると考えないことである。

   たとえば自分の眼の形や鼻の形が、他の人々と比較して、大きすぎるとか、小さ過ぎるとか、
   高すぎる低すぎるとかいうことによって価値づけをしなくなるということである。

        http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/19195431.html (消滅)

           <感謝合掌 令和3年4月13日 頓首再拝>

《人間の尊厳》 - 伝統

2021/04/23 (Fri) 04:41:45


        *「光明法語」(4月23日)より

人間は神の自己実現中、最高完全なる表現である。

従って人間のうちにはそれ以下の段階である凡ゆる階級の生物の状態をも
自己の内に包容している。

無論、「動物的状態」をも自己の内に包容している。
しかし人間は其の「動物的状態」を内に包容しつつ而も
それを超えたる存在であるのである。

「心」を象徴する頭部は、すべての動物に於いては、地球の牽引力(物質の表現)に
引きつけられて俯向(うつむ)いて歩み遊(およ)ぎ飛ぶのであるが、
人間のみ敢然と頭部を地球の牽引力の反対の方向に持ち上げた。

此処に人間の尊厳がある。


           <感謝合掌 令和3年4月23日 頓首再拝>

欲を自己統制し、健全に支配する処に人間の尊厳がある - 伝統

2021/04/25 (Sun) 04:41:02


        *「光明法語」(4月24日~25日の法語)より

《自由とは濫用ではない》

人間の尊厳は、物質を自己の内に包容しながら物質の奴隷とならず、
物質を超えつつ物質を支配し得る所にある。

物質の法則の中にありながら、物質の法則を知ることにより、
物質を超えて之を支配し得る所にある。

彼が物質の奴隷となり、肉の奴隷となる程度に従って
彼は「動物」的低位の存在にまで退歩する。

「動物」は本能によって機械的に動く。
彼の性的生活も本能によって一定の交尾期のみに働く。

人間は一定の交尾期がなく完全に自由選択にまかせられている。
自由の特長は濫用と云うことではなく自己統制にある。

・・・

《人間は完全なる自由》

本能によって他動的に支配さるるものは機械であり動物である。

蚕が食物の選択を本能によって完全に行い、
桑の葉のみを食して食中毒をするなどと云うことのないのに、

人間が食物を本能によって選択せず、
自由心の選択にまかせられていて時々食中毒をするのは

人間は完全なる自由を与えられていて、
「善」にさえも強制せられるものではないことをあらわしている。

食慾をも、性慾をも自己統制し得て、過不及なく錯誤なく
これらを最も健全に支配する処に人間の尊厳がある。

           <感謝合掌 令和3年4月25日 頓首再拝>

《霊的生活の基礎としてのみ物質は存在意義あり》 - 伝統

2021/04/27 (Tue) 04:43:55


        *「光明法語」(4月27)より

神の生命の最高完全の自己実現として出生した人間は、動物的段階を内に含み乍ら、
それ以上に発達し、それを超えた存在であるから、
動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す。

動物的な肉慾や食慾を征服克服して
霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である。
キリストや釈迦やソクラテスが尊敬せられるのはその為である。

肉慾や食慾は人間なる生命の段階に於いては
霊的生活の基礎として必要な存在であるに過ぎない。

地球なる鉱物の固結体が植物や動物や更に人間発生の基礎である様にである。

           <感謝合掌 令和3年4月27日 頓首再拝>

人間が有する自由選択にこそ人間の尊厳が存在するのである。 - 伝統

2021/05/16 (Sun) 04:42:25


      *「生命の實相」第37巻幸福篇上(5月16日)」より抜粋

宇宙にあるあらゆる理念のうち全包容的最高理念が人間である。
だから人間は万物を従わせ、万物を生かし、
万物をその使命のところに配置する権能を有するのである。

人間が人間としての価値と存在の意義は、
自己選択をなしうるということにあるのである。

万物を従わせるとは、自己選択をなしうることである。
曰く、想念の自由、感情の自由、意志の自由、
言葉の自由、行動の自由ということである。

毎日、毎時、毎分、毎秒、毎瞬、
われわれは何を想うか、いかなる感情を起こすか、
何を意志するか、何を言論するか、
何を行動するかの自由を持っているのである。

その自由のゆえにこそ人間の尊厳が存在するのである。

かくのごとき自由は機械にはもちろん、
単なる動物にすら存在しないところのものである

           <感謝合掌 令和3年5月16日 頓首再拝>

人間の特殊性は自覚せる神(かみ)仏(ほとけ)であると云うこと - 伝統

2021/05/21 (Fri) 04:54:24


       *「女性の理想」(P33~34)より

人間の特殊性と、その最勝性とは何処にあるかと云うと、
山川草木国土も皆成れる仏であり、有情も非情も皆成れる神でありますが、
それらは仏でありながら、仏であると自覚していず、
神でありながら神であることを自覚していないのであります。

それに対して人間はみずからが神であり、みずからが仏であることを
自覚している ―― そこに人間の特殊性と最勝性とがあるのであります。

もっとも、人間でも、みずからが神であり、仏であることを自覚して
いない人はたくさんあります。

(中略)

(これらの人は)自覚しない間は、山川草木国土と同じ程度に
無自覚なる仏であります。

無自覚なる間は、人間も虫けらも、虎やライオンとも
そう大した変わりがありません。

人間が人間としての最(いと)勝(すぐ)れたる特殊性と
云うものが未(いま)だあらわれておりません。


この無自覚状態から解脱したのが、所謂(いわゆる)覚(さと)れる者
 ―― 覚者であり、仏陀であります。

凡夫は眠って愚かな夢を見ている仏でありますが、
仏とは、その夢みていた妄想からホドケて(解脱して)
自由自在になった者であります。

・・・

<参照~「女性の理想」目次>
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001092609-00

           <感謝合掌 令和3年5月21日 頓首再拝>

人間の価値 - 伝統

2021/09/15 (Wed) 04:50:11


       *Web:かんながら(2021年09月13日)より

昨日、何気にT Vをつけたら大阪西成地区で古紙回収の仕事をしている
中高年の男性たちの共同生活が紹介されていました。

元々はホームレスだったり行き場をなくした人たちで、
長期の人は廃屋のような家での共同生活を40年以上続けています。


一生懸命に生きても、そのような生活に流されていく。

これは一つの現実であり、
「自己責任」などという言葉で決めつけられるものではありません。


そして彼らを敗者として見る風潮。

ましてや彼らは汚いから死んでもいいというような考えは、
人間の価値が行為やその成果によって決まるという誤解から来ています。

これは完全に幻想の中を生きている人たちの考え方です。


人間の価値とは行為によって測られるものではなく、
存在自体に初めから無条件に備わっているものです。

そんな話を昨日の瞑想会のトークでさせてもらいました。
  (ご関心のある方は → https://www.youtube.com/watch?v=mXTFQiMzoIQ )

行為は人間の周辺的な現れに過ぎません。

人は行為や思考を総計したより、もっとずっと偉大なものなのです。

それをダイレクトに感じるためには、あらゆる行為を止めて、
さらには精神的行為である思考も止めて、
それらの背後にある実存に出会うことしかありません。


そこにとてつもない価値が潜んでいるのですが、
これは例外なく全ての人に言える事です


あらゆる命への共感。

この感覚が見失われてしまったことが、
歪な社会を作り出したと感じています。

まずはあるがままの命に落ち着くこと。

するとそこから展開するものがあります。

何をするにも幸福感が影のように寄り添ってくれるでしょう。

これが生きる極意だと思います。

https://abetoshiro.ti-da.net/e12032445.html

           <感謝合掌 令和3年9月15日 頓首再拝>

人間の尊厳 - 伝統

2022/04/23 (Sat) 07:32:31


        *「光明法語」(4月23日の法語)より

人間は神の自己実現中、最高完全なる表現である。
従って人間のうちにはそれ以下の段階である凡ゆる階級の生物の状態をも
自己の内に包容している。

無論、「動物的状態」をも自己の内に包容している。
しかし人間は其の「動物的状態」を内に包容しつつ
而もそれを超えたる存在であるのである。

「心」を象徴する頭部は、すべての動物に於いては、地球の牽引力(物質の表現)に
引きつけられて俯向(うつむ)いて歩み遊(およ)ぎ飛ぶのであるが、
人間のみ敢然と頭部を地球の牽引力の反対の方向に持ち上げた。

此処に人間の尊厳がある。

           <感謝合掌 令和4年4月23日 頓首再拝>

人間の尊厳は、物質にとらわれず、物質を超えつつ物質を支配し得る所にある - 伝統

2022/04/24 (Sun) 07:41:31


        *「光明法語」(4月24日《自由とは濫用ではない》)より

人間の尊厳は、物質を自己の内に包容しながら物質の奴隷とならず、
物質を超えつつ物質を支配し得る所にある。

物質の法則の中にありながら、物質の法則を知ることにより、
物質を超えて之を支配し得る所にある。

彼が物質の奴隷となり、肉の奴隷となる程度に従って
彼は「動物」的低位の存在にまで退歩する。

「動物」は本能によって機械的に動く。
彼の性的生活も本能によって一定の交尾期のみに働く。

人間は一定の交尾期がなく完全に自由選択にまかせられている。
自由の特長は濫用と云うことではなく自己統制にある。

           <感謝合掌 令和4年4月24日 頓首再拝>

動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す - 伝統

2022/04/27 (Wed) 07:49:10


       *「光明法語」(4月27日)より
        ~霊的生活の基礎としてのみ物質は存在意義あり  

神の生命の最高完全の自己実現として出生した人間は、動物的段階を内に含み乍ら、
それ以上に発達し、それを超えた存在であるから、
動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す。

動物的な肉慾や食慾を征服克服して
霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である。
キリストや釈迦やソクラテスが尊敬せられるのはその為である。

肉慾や食慾は人間なる生命の段階に於いては
霊的生活の基礎として必要な存在であるに過ぎない。

地球なる鉱物の固結体が植物や動物や更に人間発生の基礎である様にである。

           <感謝合掌 令和4年4月27日 頓首再拝>

《人間の尊厳》 - 伝統

2023/04/23 (Sun) 03:44:51


        *「光明法語」(4月23日)より

人間は神の自己実現中、最高完全なる表現である。

従って人間のうちにはそれ以下の段階である凡ゆる階級の生物の状態をも
自己の内に包容している。

無論、「動物的状態」をも自己の内に包容している。
しかし人間は其の「動物的状態」を内に包容しつつ而も
それを超えたる存在であるのである。

「心」を象徴する頭部は、すべての動物に於いては、
地球の牽引力(物質の表現)に引きつけられて俯向(うつむ)いて
歩み遊(およ)ぎ飛ぶのであるが、

人間のみ敢然と頭部を地球の牽引力の反対の方向に持ち上げた。

此処に人間の尊厳がある。

           <感謝合掌 令和5年4月23日 頓首再拝>

与えられた自由を最も健全に支配する処に人間の尊厳がある - 伝統

2023/04/25 (Tue) 05:06:42


       *「光明法語」(4月25日 《人間は完全なる自由》)より

本能によって他動的に支配さるるものは機械であり動物である。

蚕が食物の選択を本能によって完全に行い、
桑の葉のみを食して食中毒をするなどと云うことのないのに、

人間が食物を本能によって選択せず、
自由心の選択にまかせられていて時々食中毒をするのは

人間は完全なる自由を与えられていて、
「善」にさえも強制せられるものではないことをあらわしている。

食慾をも、性慾をも自己統制し得て、過不及なく錯誤なく
これらを最も健全に支配する処に人間の尊厳がある。

           <感謝合掌 令和5年4月25日 頓首再拝>

《霊的生活の基礎としてのみ物質は存在意義あり》 - 伝統

2023/04/27 (Thu) 05:00:44


       *「光明法語」(4月27日 》)より

神の生命の最高完全の自己実現として出生した人間は、
動物的段階を内に含み乍ら、
それ以上に発達し、それを超えた存在であるから、
動物的存在面を超克し得た程度に従ってその尊厳は増す。

動物的な肉慾や食慾を征服克服して
霊的に精神的に高揚せる程度に随って其の人は一層崇高である。
キリストや釈迦やソクラテスが尊敬せられるのはその為である。

肉慾や食慾は人間なる生命の段階に於いては
霊的生活の基礎として必要な存在であるに過ぎない。

地球なる鉱物の固結体が植物や動物や更に人間発生の基礎である様にである。

           <感謝合掌 令和5年4月27日 頓首再拝>

《人間の尊厳》 - 伝統

2024/04/23 (Tue) 11:03:38


        *「光明法語」(4月23日)より

人間は神の自己実現中、最高完全なる表現である。

従って人間のうちにはそれ以下の段階である凡ゆる階級の生物の状態をも
自己の内に包容している。

無論、「動物的状態」をも自己の内に包容している。
しかし人間は其の「動物的状態」を内に包容しつつ而も
それを超えたる存在であるのである。

「心」を象徴する頭部は、すべての動物に於いては、
地球の牽引力(物質の表現)に引きつけられて俯向(うつむ)いて
歩み遊(およ)ぎ飛ぶのであるが、

人間のみ敢然と頭部を地球の牽引力の反対の方向に持ち上げた。

此処に人間の尊厳がある。

           <感謝合掌 令和6年4月23日 頓首再拝>

人間の尊厳は、物質にとらわれず、物質を超えつつ物質を支配し得る所にある - 伝統

2024/04/24 (Wed) 10:22:24


        *「光明法語」(4月24日《自由とは濫用ではない》)より

人間の尊厳は、物質を自己の内に包容しながら物質の奴隷とならず、
物質を超えつつ物質を支配し得る所にある。

物質の法則の中にありながら、物質の法則を知ることにより、
物質を超えて之を支配し得る所にある。

彼が物質の奴隷となり、肉の奴隷となる程度に従って
彼は「動物」的低位の存在にまで退歩する。

「動物」は本能によって機械的に動く。
彼の性的生活も本能によって一定の交尾期のみに働く。

人間は一定の交尾期がなく完全に自由選択にまかせられている。
自由の特長は濫用と云うことではなく自己統制にある。

           <感謝合掌 令和6年4月24日 頓首再拝>

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